日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆ Jugoslavija / Југославија★Yugoslavia Modern History/L'histoire moderne de la Yougoslavie・Nobuhiro Shiba/ユーゴスラヴィア現代史・柴宜弘⑤

3 擬制の「国民国家」の成立
統一国家の形成
これまで南スラヴ統一運動の中心として、セルビア政府とハプスブルク帝国の外で活動するユーゴスラヴィア委員会に焦点を当ててきたが、帝国内の諸政党や民衆が、南スラヴの統一国家についてどのような考えを持っていたのかにも注意を払うべきであろう。例えば、ダルマチア出身のクロアチア人政治家が多いユーゴスラヴィア委員会の、帝国内の南スラヴ族の統一という考えは、帝国内のハンガリー支配下にあるクロアチア地域においてさえ一般的ではなかったようである。クロアチア議会の議員の多くにとって、クロアチア固有の領土と見なされるダルマチアの統合こそが緊急の課題であり、帝国内の南スラヴ族の統合は具体的な政治日程に上っていなかった。まして、セルビア王国やモンテネグロ王国との統一など考えてもいなかったのである。
こうした状況に変化が生じるのは、17年に入ってからのことである。5月には、ウィーンの帝国議会に議席を持つ南スラヴ族の議員からなる「Југославенски клубユーゴスラヴィア・クラブJugoslavenski klub」が、帝国内の南スラヴ地域を一つの政治単位として、帝国のそれまでの二重制から三重制にする旨の「5月宣言」を出した。もっとも彼らはこの時点でも、帝国の存続を前提にしていた。しかし、中央同盟の軍事的敗北がはっきりする18年夏以後、帝国の枠を打破して南スラヴ地域を統一しようとする動きが加速された。
*The May Declaration (Slovene:Majniška deklaracija, Croatian:Svibanjska deklaracija,Serbian:Majska deklaracija/Мајска декларација) was a manifesto of political demands for unification of South Slav-inhabited territories within Austria-Hungary put forward to the Imperial Council in Vienna on 30 May 1917. 

*中央同盟国Централне силе(ちゅうおうどうめいこく、ドイツ語: Mittelmächte、トルコ語: İttifak Devletleri または Bağlaşma Devletleri、ハンガリー語: Központi hatalmak、ブルガリア語: Централни силиCentralne sileは、第一次世界大戦時に連合国(協商国)と戦った諸国を指す名称。日本では単に同盟国と呼ばれることも多い。三国同盟を結んでいたドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国(もう1か国のイタリア王国は連合国に転じる)およびオスマン帝国、ブルガリア王国の4か国を指す。
8月には、帝国内スラヴ族の政治指導者が集まり、南スラヴ族として自決権を行使するため、南スラヴの地域を一つの政治単位として組織化する仕事に着手し始めた。10月6日には、帝国内南スラヴ地域の政党代表者会議で南スラヴの統一を目的として、ザグレブで「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人民族会議(以下「民族会議」と略記する)が創設された。同月29日には、スロヴェニア人コロシェツを議長とし、クロアチア人パヴェリッチ(のちに登場するウスタシャUstašeの指導者と同姓同名だが、別人物)とセルビア人プリビチェヴィッチを副議長とするこの民族会議を新たな権力機関として、帝国内のすべての南スラヴ地域からなる、スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人国家の創設が宣言された。

*Slovenščinaスロヴェニア語⇒Anton Korošec, slovenski politik in teolog, * 12. maj 1872, Biserjane pri Vidmu ob Ščavnici (zdaj Sveti Jurij ob Ščavnici, Slovenija (tedaj Avstro-Ogrska), † 14. december 1940, Beograd, Srbija (tedaj Kraljevina Jugoslavija).

*Hrvatskiクロアチア語⇒Ante Pavelić (Gospić, 19. svibnja 1869. – Zagreb, 11. veljače 1938.), bio je hrvatski političar, po zanimanju zubar. Kako bi se razlikovao od kasnijeg poglavnika NDH istog imena i prezimena, ponekad ga u literaturi navode kao Ante Pavelić (zubar).

*Српски / srpskiセルビア語⇒Светозар Прибићевић (Костајница, 26. октобар 1875 — Праг, 15. септембар 1936) је био српски политичар, министар унутрашњих послова и министар просвете Краљевине Срба, Хрвата и Словенаца. Од заговорника јаке централне власти постао њен противник.
興味深いのはこの際、クロアチア議長がダルマチア選出のクロアチア人議員を加えて、クロアチア人にとって中世クロアチア王国以来の長年の夢であった、クロアチアとスラヴォニアにダルマチアを加えた「三位一体王国」の創設を宣言したあとで、スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人国家の宣言を出していることである。
この時点で、南スラヴの側にはセルビア政府、モンテネグロ政府、そしてハプスブルク帝国内の「民族会議」とロンドンのユーゴスラヴィア委員会の四政治組織が存在することになった。しかし、国際的承認を受けていたのはセルビア政府とモンテネグロ政府だけであり、セルビア政府が政治的・軍事的に最大の力を持っていた。先に述べたロンドン秘密条約の存在のため、国際的承認を取りつけられなかった「民族会議」の呼びかけにより、18年の11月6-9日、ジュネーヴにセルビア王国首相パシッチ、セルビア王国野党勢力代表3名、「民族会議」代表3名、ユーゴスラヴィア委員会代表9名が参集した。モンテネグロ王国の代表は出席しなかった。この会議でまとめられた「ジュネーヴ宣言」は、制憲議会により統一国家の国家形態を決定するまで、セルビア政府と「民族会議」とが並存して統治に当るという連邦的色彩の強いものであり、セルビアの王朝のもとに立憲君主国を形成する内容のコルフ宣言とは大きく相違していた。パシッチはこの会議で主導権を握ることができず、セルビアのカラジョルジェヴィチ王朝を中心とする統一国家の形成を確保できなかったのである。
*Женевска декларацијаThe Geneva Declaration, Geneva Agreement, or Geneva PactŽenevska deklaracija (1918.)
ジュネーヴ会議後、パシッチはセルビア政府がこの宣言の受け入れに強く反発したため、摂政アレクサンダル公に辞職を申し出るが受け入れられず、結局、野党勢力を取り込んだ内閣改造に着手するに止まった。このように、セルビアでは「ジュネーヴ宣言」に沿って事態が順調に進んだわけではなかった。
一方、ハプスブルク帝国が崩壊した南スラヴ地域では社会的混乱が続き、加えて、イタリアがロンドン条約に基づいてダルマチア海岸を占領するに至った。こうした状況において、ダルマチアの民族会議は11月14日にいち早く、ザグレブの「民族会議」ができるだけ速やかにセルビア政府と国家統一に関する交渉を行なうように要請している。19日にはボスニア・ヘルツェゴヴィナで結成された民族会議も同様の要請を出した。また25日にはヴォイヴォディナ議会がセルビアとの統一を宣言した。26日には、セルビア王国との統一か、モンテネグロ王朝の保持かで二分していたモンテネグロ議会もセルビアとの統一を採択した。
「民族会議」内では、ラディチ率いるHrvatska seljačka strankaクロアチア農民党Croatian Peasant Partyやクロアチア民族主義グループ「フランク族」などが、クロアチアの自治や領域の保持を求めて最後まで反対したが、最終的には27日に「民族会議」の代表が「ジュネーヴ」宣言ではなく、「コルフ宣言」に沿ってセルビア王国との統一を求めるとの方針をもってベオグラードへ出発した。

*スティエパン・ラディッチ(Stjepan Radić、1871年6月11日 - 1928年8月8日)は、クロアチア人の政治家。クロアチア共和農民党(のちクロアチア農民党)を組織した。
*Hrvatskiクロアチア語⇒Hrvatska seljačka stranka je hrvatska politička stranka osnovana 1904. godine pod imenom Hrvatska pučka seljačka stranka. 1920. godine mijenja ime u Hrvatska republikanska seljačka stranka, a 1925. godine u današnje. Osnovali su je braća Stjepan i Antun Radić.
Croatian Peasant Party

この結果、12月1日、すべての白紙委任されたセルビア王国の摂政アレクサンダル公は、セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国(29年にはユーゴスラヴィア王国と改称される)の成立を宣言した。様々な問題を抱えながらも、「第一のユーゴ」と称される、ブルガリアを除く南スラヴの統一国家が、初めて建国されたのである。

*スロベニア人Država Slovencev, Hrvatov in Srbov・クロアチア人Država Slovenaca, Hrvata i Srba・セルビア人Држава Словенаца, Хрвата и Срба国は、第一次世界大戦終戦時のオーストリア=ハンガリー帝国解体後、旧オーストリア=ハンガリー帝国の南端部に、セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人によって樹立された短命な国家である。
*民族自決СамоопредељењеSamoopredjeljenjeみんぞくじけつPravo na samoodređenje、self-determinationSelbstbestimmungsrecht der Völker Право на самоопределениеとは、個々の民族集団が自らの意志に基づいて、その帰属や政治組織、政治的運命を決定(自決)し、他民族もしくは他国家などからの干渉を認めないとする集団的権利。民族自決権ともいう。
民族自決の主体
「第一のユーゴ」は、歴史的文化的に異なる、さまざまな地域から構成されていた。ハプスブルク帝国が崩壊した結果、その支配下に置かれていた、厳密にはオーストリア支配下のスロヴェニア(クラインと、シュタイアーマルク、キュステンラントそれぞれの一部)とダルマチア、ハンガリーの支配下にあったクロアチア・スラヴォニアとヴォイヴォディナ、オーストリアとハンガリーの共同統治(軍事占領)下のボスニア・ヘルツェゴヴィナ、そしてセルビア王国とモンテネグロ王国からなり、セルビア王国のアレクサンダル公を国王とする人口1200万人の王国であった(地図5参照)。これまで見てきたように、「第一のユーゴ」はきわめて困難な国際環境のもとで、セルビアの政治エリートを中心として統一されたことは事実だが、重要なのは、外からの圧力で人為的に建国されたのでも、ロシアが征服により領土を拡大したように、セルビア王国が他の南スラヴ地域を征服することによって建国されたのでもなかったことである。

*アレクサンダル1世(Aleksandar I Karađorđević, Александар I Карађорђевић, 1888年12月16日 - 1934年10月9日)は、カラジョルジェヴィッチ家のセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国国王(在位:1921年 - 1929年)、のちユーゴスラビア王(在位:1929年 - 1934年)。
しかし、その後にわたって問題を残すことになるのは、この多民族からなる統一国家が、南スラヴという「単一民族」に民族自決権が承認されて築かれた「国民国家」とされたことである。
第一次世界大戦後のチェコ人地域とスロヴァキア人地域とが統一されて形成されたチェコスロヴァキアでは、実際には多民族国家だったにもかかわらず、「チェコスロヴァキア」という「単一民族」の民族自決権が承認されたのと同様であった。チェコスロヴァキアの場合は、総人口1300万人のうち300万人を超えるドイツ人少数者が国内にいたので、チェコ人からもスロヴァキア人からも国家統合の主体として「チェコスロヴァキア人」という民族区分が便宜的にせよ、受け入れられる土壌があった。
*多民族国家Вишенационална држава/Višenarodna državaVielvölkerstaatたみんぞくこっかMultinational stateМногонациональное государствоとは、複数の民族から構成される国家のことである。対義語は単一民族国家である。
Једна нација/Jedna nacija単一民族国家Моноэтническое государствоSingle nation stateたんいつみんぞくこっかEinzelne NationМоноетнічна державаとは単一の民族からなる国家のことである。言い換えると少数民族をもたない国家という事である。対義語は多民族国家である。ただし他民族が存在していても単一の民族の文化や言語や価値観を前提として国の執政がとられる場合も単一民族国家であると捉えることができる。
これに対して「第一のユーゴ」の場合、南スラヴという民族区分は、歴史的経験や宗教や言語を異にするセルビア人、クロアチア人、スロヴァキア人にとって容易に受け入れられる概念ではなかった。戦間期に二度実施された国勢調査では、民族別調査は行なわずに宗教別、母語別の調査が行なわれたにすぎない。21年の国勢調査によると、正教徒が全人口の47%、カトリック教徒が39%、ムスリムが11%であった。アメリカのユーゴスラヴィア研究者バーナッツは国勢調査に基づき、セルビア人39%、クロアチア人24%、スロヴェニア人9%、ボスニアのムスリム人6%、マケドニア人とブルガリア人5%、ドイツ人4%、ハンガリー人4%、アルバニア人4%、ルーマニア人とヴラフ人(アルーマニア人が自称名、ルーマニア語系の言語をもち、近代においては山岳地での数字や商業活動に従事する)2%、南スラヴ以外のスラヴ人1%と推定している。
*ヴラフ人Vlahi(英語: Vlach [ˈvlɑːk, ˈvlæk])Власи (Романи)Vlasiは、中央ヨーロッパ、東ヨーロッパ、南東ヨーロッパにおいて、複数のラテン系の人々を指し示して使われる民族呼称である。ヴラヒ人、ワラキア人などと書かれることもある。ヴラフ人と呼ばれる人々には、現代のルーマニア人(ダコ=ルーマニア人)、アルーマニア人、モルラク人(Morlachs)、メグレノ=ルーマニア人(Megleno-Romanians)、イストロ=ルーマニア人(Istro-Romanians)などが含まれる。中でも、自民族の国としてルーマニアを持つルーマニア人を除いた人々を指すことが多い。
このように、本章冒頭で紹介したアダミックの「祖国」である南スラヴの統一国家は、様々な歴史的体験や異なる文化を持つ地域や民族からなる多様な国家であったため、国民統合が思うように進まなかった。南スラヴという「単一民族」はほとんど実体が伴わず、民族自決の主体のいない、擬制の「国民国家」であった。
20年11月には憲法制定議会の選挙が実施された。この機会に結成された多くの政党は、こうした「第一のユーゴ」の特色を見事に反映している。地域や民族を越えた横断的な性格を持つ共産党を除くと、すべては地域政党か民族政党であり支持基盤が限定されていた。21年6月には、採択された日の聖人ヴィトゥスにちなみ「ヴィドヴダン憲法」と呼ばれる初の憲法が制定された。この憲法は立憲君主制と中央集権制を特色とし、民主的な議会、西欧型の市民的自由などを想定するものであったが、「国民国家」の体裁を整えるため、これも実体とはかけ離れた単一の「セルビア・クロアチア・スロヴェニア語」を公用語と規定している。新国家は、国王をシンボルとして国民統合を進めようとしたが、前途多難であった。

*ルカニアの聖ヴィトゥス Sveti VidСвети Видラテン語:Vitus、イタリア語:San Vito di Lucania、チェコ語:Svatý Vít、290年頃 - 303年)は、キリスト教の聖人・殉教者(致命者)。カトリック教会と正教会の聖人。ローマ皇帝ディオクレティアヌスとマクシミアヌスの共同統治時代の303年、迫害にあって殉教したとされる。祝日は6月15日。

*ヴィドヴダン憲法Видовдански устав(ヴィドヴダンけんぽうVidovdanska ustava、セルビア・クロアチア語: Vidovdanski ustav)は、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(のちユーゴスラヴィア王国)における最初の憲法である。

「クロアチア問題」
1991年6月にクロアチア共和国とスロヴェニア共和国の独立宣言が出されて、ユーゴ連邦は解体の道を歩むことになる。両共和国とも即座に、「第二のユーゴ」といわれる戦後の社会主義体制を否定したが、それだけに止まらず、問題は「第二のユーゴ」の建国の是非にまでさかのぼらざるを得なかった。これはクロアチアの場合、とくに顕著であった。あとでもくわしく述べたいが、独立後の最近の初等学校や中等学校の歴史教科書の叙述は興味深い。クロアチアの歴史教科書が、統一国家の建国によってクロアチアの「国家性」を奪われたとしているのは特徴的である。
クロアチアには、ハプスブルク帝国が崩壊するなかで18年10月に、クロアチア固有の領域からなる念願のクロアチア・スラヴォニア・ダルマチア「三位一体王国」の創設を宣言しながら、同時にスロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人国家の建国を認め、さらに当時の国際情勢からして、不本意ながらセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国の建国へ向かわざるを得なかったという歴史解釈が色濃く残されている。クロアチア人にとって、長い異民族支配のもとで保持してきたとする「国家性」はなににも代えがたい存在だったようである。そのため、「第一のユーゴ」において、セルビアのカラジョルジェヴィチ王朝による「国民国家」の形成は困難をきわめたのである。「国家性」を求める「クロアチア問題」が継続することになるのである。
「クロアチア問題」は南スラヴの統一国家の中に、長年にわたり異なる歴史的経緯をたどってきたセルビア王国の領域とクロアチアの領域とが結びつけられることによって、必然的に引き起こされたといえる。一貫して統一国家の建国に反対していたクロアチア農民党は、18年12月に統一国家の建国が宣言された直後、治安維持のためにザグレブに入場していたセルビア王国軍に反対するデモを組織して、市街でこの軍隊と衝突した。その後も、クロアチア農民党党首のラディチはクロアチアの独立を要求して活動を展開した。こうした状況において、国王とセルビア人を首相とする統一国家の政府は懸命に上から国民統合を図ろうとした。そのため、22年4月に「行政機構区分法」が制定され、「第一のユーゴ」は中央集権を前提として、セルビアやクロアチアやスロヴェニアといった民族名でもある地域名は使用せずに、全土が主要都市、例えばベオグラード、ザグレブ、リュブリャナといった名を付した33の県(オブラスト)に区分された。
「国民国家」を形成しようとするあまり、統一国家の「多民族性」の認識は乏しく、したがって「クロアチア問題」は未解決のまま残された。外交官としてイスタンブルに勤務し、バルカンの情勢に多大な関心を持っていた芦田均は、1939年に書いた著書の中で、この統一国家について「ユーゴスラヴィアは、建国以来20年の歳月を閲して、今なほ漠然たる一民族国家と考へることは、事実を無視する謗りを免れない」(芦田均『バルカン』)と記している。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Hitoshi Ashida (芦田 均 Ashida Hitoshi(京都府出身), 15. novembar 1887 – 20. jun 1959) bio je japanski političar koji je 1948. nakratko služio kao premijer Japana.
Садржај ове књиге: Пре него што је постао политичар, Хитоши Ашида је био стациониран у Турској као дипломата 1925-29. На основу тог искуства, ова књига сликовито описује природу, етничку припадност, политику, економију итд. шест балканских земаља, а то су Турска, Румунија, Грчка, Бугарска, Југославија и Албанија. Sadržaj ove knjige: Prije nego što je postao političar, Hitoshi Ashida je bio stacioniran u Turskoj kao diplomat 1925-29. Na temelju tog iskustva, ova knjiga zorno prikazuje prirodu, etničku pripadnost, politiku, ekonomiju itd. šest balkanskih zemalja, a to su Turska, Rumunjska, Grčka, Bugarska, Jugoslavija i Albanija. 

4 進まぬ統合と「多民族性」の承認
「第一のユーゴ」は基本的にセルビア王国の統治機構を引き継ぐものであった。権力はベオグラードに集中し、セルビアの政治エリートが政府の中枢を占めた。戦間期のユーゴスラヴィア政治は安定性を欠いていたため、39回も内閣の改造が行われた。首相はこれほど頻繁に変わったわけではないが、セルビア人以外で首相に就任したのはスロヴェニア人民党のコロシェツだけである。大臣についても、クロアチア人のトルムビッチが外務大臣に、コロシェツが内務大臣に就任したにすぎない。軍事大臣はすべてセルビア人であり、将軍の数もセルビア人が圧倒的に多かった。このため、反セルビア、反中央集権を明確に掲げたクロアチアの動きが突出し、「クロアチア問題」がグローズアップされることになった。
*Slovenščinaスロヴェニア語⇒Slovenska ljudska strankaスロヴェニア人民党 (kratica SLS) je bila slovenska politična stranka 19. in 20. stoletja.
これに対し、スロヴェニア、ボスニア、ヘルツェゴヴィナのムスリム、モンテネグロ、マケドニア、そしてアルバニア人の政党や政治グループは、セルビア中心の政治体制になんらかの不満を感じていたにせよ、表立った反対運動を展開したわけではなかった。
例えば、スロヴェニア人政治家は統一国家の政府と結びつくことによって自らの利益を実現しようとした。ハプスブルク帝国のもとでいくつかの例に分散して住んでいた彼らにとって、統一国家はその垣根を取り払ってくれたのである。初等教育から大学教育までスロヴェニア語で行うことができるようになったし、なによりも統一国家のもとで、イタリアに残された50万のスロヴェニア人少数民族の問題を解決することが政治目標であった。スロヴェニア語とセルビア・クロアチア語は同じスラヴ系の言語ながら、2,3割程度しか相互の意思疎通ができなかったため、セルビア人が行政官として派遣されることはなく、スロヴェニア人は一定の自治を享受することができたのである。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナのムスリムの場合も、統一国家の政府と結びつく傾向が強かった。ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、ハプスブルク帝国の統治下でもオスマン帝国時代の土地保有関係が持ち越されていたため、地主の90%以上がムスリムであった。統一国家にとって、土地改革は社会・経済的な緊急の課題であったが、この地方では同時に民族・政治的な側面を多分に持っていた。ムスリム地主は経済的な利害や宗教・文化上の特権を守ろうとして、政治に協力したのである。そのため政府の土地改革は不十分なものにならざるを得なかった。
一方、統一国家のなかで自らの王朝を廃したモンテネグロでは、セルビアと同一視される傾向が強まったため、これに反対してモンテネグロの自治を唱えるグループが大きな勢力となっていく。「南セルビア」と考えられていたマケドニアでも、セルビア化政策への反発がКомунистичка партија Југославијеユーゴスラヴィア共産党Komunistička partija Jugoslavije(1919年に創設、階級闘争を唱えたことはもちろんだが、ユーゴを一つの地域と考え、民族色を排した唯一の政党)支持へ向かわせると同時に、ブルガリアの強い影響下にあったVMRO(内部マケドニア革命組織)が勢力をのばすことになる。セルビア人にとって「揺藍の地」とされるコソヴォでも、セルビア化政策が進められたため、住民の多数を占めるアルバニア人の反発を強めた。しかし、19年に協商国側とオーストリアとの間に締結されたサンジェルマン条約により、少数民族の権利が保護され、公的には少数民族であるドイツ人、ハンガリー人、アルバニア人、ルーマニア人が、それぞれの言語で社会的サービスや教育を受けられるようになった。

*ユーゴスラビア共産主義者同盟Савез комуниста Југославије(ユーゴスラビアきょうさんしゅぎしゃどうめい、略称:SKJ)Savez komunista Jugoslavijeは、社会主義政権時代のユーゴスラビアにおける一党独裁政党。共産主義政党。

国王による独裁
こうした状況において、政府は懸命に国民統合を進めようとした。先にふれたように、制度的には22年の「行政機構区分法」による、全土が80万の人口を上限とする33の県に区分され、国王の任命による県知事が置かれた。また少数民族の権利が一応保障され、各県の村レベルで地方自治が認められたが、重要事項の決定権は内務大臣の管轄下にある県知事に付与されており、制限つきの地方自治にすぎなかったといえる。この時期の最大の問題はやはりセルビア中心の集県主義勢力とクロアチアを中心とする連邦主義勢力との確執、いわゆる「クロアチア問題」であった。

こうした「クロアチア問題」の主役はクロアチア農民党である。クロアチア農民党は、1904年にアントン・ラディチとスチェバン・ラディチの兄弟によって創設された。弟のスチェバン・ラディチを党首として、クロアチアの「国家性」の実現を主要な政治目的として掲げていた。ハプスブルク帝国のもとでは、帝国をドナウ連邦に再編することによって、自らの目的を達成しようとした。セルビア王国を中心とする南スラヴの統一国家建国については一貫して反対の立場を採り、広範な南スラヴ連邦内でのクロアチア共和国の創設を唱えた。
*Hrvatskiクロアチア語⇒Antun Radić ↓1 (Desno Trebarjevo kod Siska, 11. lipnja 1868. – Zagreb, 10. veljače 1919.), bio je hrvatski znanstvenik, književnik, prevoditelj, publicist, sociolog, etnograf i političar. Utemeljitelj hrvatske etnografije.
「第一のユーゴ」建国後、20年の憲法制定議会選挙でクロアチア人の大多数の支持を受けて第四党に進出すると、議会がボイコット戦術を採用して、独立したクロアチア共和国の形成さえ主張した。しかし、21年に民主主義体裁を整えた「ヴィドヴダン憲法」が制定されると、戦術を転換して、議会に出席して、野党勢力として統一国家内でのクロアチアの主権を要求した。スチェパン・ラディチは目的を実現するため、イギリスやフランスやソ連を訪問して援助を要請したが、思うような成果を上げることはできなかった。
加えて、彼は24年にクロアチア農民党を共産主義者インターナショナル(コミンテルン)と関係する農民インターナショナル(クレスティンテルン)に加盟させたことにより、反政府活動の容疑で逮捕され、21年に共産党の活動を非合法化した国家保護法(オプズナーナOpsnana)がクロアチア農民党にも適用されるにおよんだ。このため、ラディチは従来の政治方針の見直しを余儀なくされた。クロアチア農民党は野党連合から手を引き、25年の議会選挙では第二党を保持したにもかかわらず、新たな党綱領を制定して政策の転換を図った。もはや連邦主義を前面に掲げることはせず、憲法の修正によってクロアチアの自治を求めることになる。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Коминтерна/Kominternaコミンテルン je kratica koja se ustalila kao naziv za Komunističku internacionalu i to Treću internacionalu, osnovanu u Moskvi 1919. godine, koja je radila do 1943 kad je službeno raspuštena.

*Hrvatskiクロアチア語⇒Seljačka internacionala (općenito zvana prema ruskom izvorniku Krestinternクレスティンテルン, od Крестьянский интернационал, Крестинтерн) je bila međunarodna seljačka organizacija koju je formirala Kominterna u listopadu 1923.
この後、ラディチはパシッチ率いる政府与党のセルビア急進党と協力したり、クロアチアのセルビア人を支持基盤とするセルビア独立民主党と連合したり、28年6月、議会の議事録にラテン文字を使うかキリル文字を使用するかで議論が白熱するなか、セルビア急進党議員ラチッチが国会内で発砲する事件が起き、ラディチはこの事件の犠牲となって8月に命を落とした。ラディチの政治姿勢は状況に応じて急変したため、彼の評価は大きく異なるものとなっている。確かなのは、セルビア急進党がセルビア人農民の多くを政治に引き込み、民族運動を組織化したのと同様に、クロアチア農民党はクロアチア人農民を政治に巻き込みクロアチアの民族運動を組織化したことであろう。

*Српски / srpskiセルビア語⇒Народна радикална странкаセルビア急進党 је прва политичка странка у Србији, основана 8. јануара 1881.

*Српски / srpskiセルビア語⇒Пуниша Рачић (12. јула 1886. године, Слатина[1] - октобар 1944. године, Београд)Puniša Račić је био српски политичар из Црне Горе, који је као народни посланик у скупштини Краљевине Срба, Хрвата и Словенаца 20. јуна 1928.

こうした混乱した事態のなかで、国王アレクサンダルは29年1月に宣言を発し、時限的ながら独裁制を樹立して、議会の解散と「ヴィドヴダン憲法」の停止を命じた。30年代のバルカン諸国に共通して見られる国王による独裁政治は、それまでまがりなりにも機能してきた議会制民主主義の終焉を意味していた。国王独裁は議会制のもとで解決できなかった「クロアチア問題」に終止符を打つことを最大の目的として、強引に国民統合を図ろうとした。

29年10月には、ユーゴスラヴィア意識を強化し、中央集権を徹底させるために従来の行政機構を再編する法律が出され、セルビアやクロアチアといった歴史的な境界線ではなく、川などの自然地理的区分による九つの大きな州(パノヴィナ)とベオグラード府に区分され、国名がユーゴスラヴィア王国と改称された(地図6参照)。パノヴィナという行政区分はクロアチアで古くから使われていた名称であり、明らかにクロアチア人への配慮が感じられる。ちなみに現在のクロアチア共和国の行政区分としても、パノヴィナが使われている。

ラディチの後継者となったクロアチア農民党党首マチェクは当初、こうした国王による独裁制に好意を示した。しかし、全体としてはすぐに、個々の民族性が損なわれることを理由としてクロアチア人などの反発を招いただけでなく、立憲制が廃止されたことに反対するセルビア人の間からも反発が生じた。結局、国王は31年9月に新憲法を発布し、二院制の議会を復活して市民的自由を明記した。しかし、これらの自由は制限つきであり、独裁制のもとで制定された法律が依然として効力をもっていた。ユーゴスラヴィア統一主義(ユーゴスロヴェンストヴォjugoslavenskom)に基づく国王による国民統合の道は容易ではなく、「クロアチア問題」は相変わらず潜在していた。

*Hrvatskiクロアチア語⇒Vladimir Matija Adam Vladko Maček(Jastrebarsko, 20. srpnja 1879. – Washington, DC, 15. svibnja 1964.), bio je hrvatski pravnik i političar.

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Atentat u Marsejuアレクサンダル1世とルイ・バルトゥー暗殺事件na kralja Aleksandra I Karađorđevića se odigrao u utorak, 9. oktobra 1934. godine, prilikom njegove zvanične posete Francuskoj.
国王暗殺とクロアチア自治州の創設

ユーゴスラヴィア国内には、さまざまな政治的不満が表面化していた。とくに世界恐慌を契機として、農業中心のバルカン地域では、農業恐慌という形をとって31年から進行していた経済危機が、32年には頂点に達して農民の生活を直撃した。クロアチアでは、食糧を求める農民の暴動が発生した。この時期に、のちにナチス・ドイツの傀儡国家「クロアチア独立国Nezavisna Država Hrvatska」を担うことになるファシスト・グループのウスタシャが、ダルマチアのリカで初めて反乱を起こした。

*リカ=セニ郡(リカ=セニぐん、Ličko-senjska županija)は、クロアチアのイストリア地方に位置する郡。

*ウスタシャ(Ustaše)は、クロアチアに存在したファシズム政党・民族主義団体。第二次世界大戦中にドイツと同盟を結び、大量虐殺を行ったことで有名である。アンテ・パヴェリッチを指導者とし、クロアチア人による独立国民国家の樹立を目指した、農民を主体とする反資本主義を政治綱領に掲げていた。しかし、反資本主義を目指していながらも私有財産制は認められており、ローマ・カトリックの影響を強く受けているのが特徴である。

ウスタシャの創設者パヴェリッチは弁護士であり、クロアチアの国家性の実現を掲げてクロアチアの独立を主張するクロアチア権利党Hrvatska stranka prava(フランコヴァツ)の指導者であった。かれらは南スラヴの統一国家である「第一のユーゴ」建国には当初から反対していたが、当時のクロアチアの政治状況において、クロアチアの民族イデオロギーを前面に掲げるかれらの主張は、容易にクロアチア農民党に吸収されてしまい、大きな支持を得ることはできなかった。パヴェリッチは29年にイタリアに亡命してムッソリーニのもとで活動を始め、テロを含むあらゆる手段を行使してクロアチアの独立を達成する目的で、イタリアやハンガリーでクロアチア人国外居住者の組織化に着手した。

*アンテ・パヴェリッチ(クロアチア語: Ante Pavelić、1889年7月14日 - 1959年12月28日)は、クロアチアの政治家・弁護士・軍人。クロアチアの民族主義団体ウスタシャの指導者、イタリア王国及びナチス・ドイツの傀儡政権であるクロアチア独立国の国家元首であった。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Benito Amilcare Andrea Mussolini (Predappio, 29. 7. 1883. — Giulino di Mezzegra, 28. 4. 1945.), talijanski političar, državnik, fašistički vođa (Duce) i nacionalni diktator od 1925. do 1943.

ウスタシャが正式に創設されるのは32年であるから、31年のリカの反乱はこれ以前に展開されており、かれらの論理からするとクロアチア民族蜂起の先駆けをなすものと位置づけられた。この反乱は当局の厳しい弾圧を受けて失敗するが、ウスタシャは30年代後半になると、ユーゴ政府が37年3月にかれらの後ろ盾であるイタリアとのあいだに不可侵条約を結んだので、ユーゴ政府との関係を強めていき、クロアチア農民党を脅かすほどの存在に成長する。

一方、クロアチア農民党は32年11月、クロアチア地方のセルビア人を支持母体とする独立民主党による「農民=民主連合」が成立すると、セルビア中心の政治体制と国王独裁の排除、「第一のユーゴ」国家の再編成を内容とする「ザグレブ決議」を出した。この決議は、クロアチア人の多くが「クロアチア問題」を民主的な制度のもとで解決しようとすることを示していた。スロヴェニアの政党や、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのムスリム政党はこの決議に賛意を示したが、セルビアの野党勢力との合意には至らず、国家再編成に向けての広範な勢力を結集することはできなかった。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Samostalna demokratska stranka独立民主党 je politička stranka koja je djelovala u Jugoslaviji od 1924. do 1946. godine. Okupljala je uglavnom Srbe, i to tzv. prečane - odnosno Srbe koji su živjeli na području bivše Austro-Ugarske.

*Hrvatskiクロアチア語⇒Zagrebačke punktacijeザグレブ決議 su dokument, kojega su 7. studenoga 1932. potpisale Hrvatska seljačka stranka i Hrvatska Stranka Prava, u kojem se osuđuje stanje kakvo je u državi postojalo nakon Šestosiječanjske diktature te traži federalno uređenje Jugoslavije.

































 

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