日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆ Jugoslavija / Југославија★Yugoslavia Modern History/L'histoire moderne de la Yougoslavie・Nobuhiro Shiba/ユーゴスラヴィア現代史・柴宜弘④

1903年が南スラヴの諸地域にとって、画期をなす年であったことは、前章で述べたとおりである。オスマン帝国支配下のマケドニアでも「マケドニア人のためのマケドニア」を目指すVMRO(内部マケドニア革命組織)によるИлинденско востаниеイリンデン蜂起Илинданско-преображењски устанакが展開されて、一時期ながら、臨時政府を形成して共和国宣言を行っている。セルビア王国では、社会民主党を除くすべての政党が、セルビアの民族的目的を達成する観点から立憲制や議会制や個人の自由といったスローガンを唱え、「大セルビア主義」を声高に主張するようになっていたが、この年に国民議会選挙が強行され、近代的な憲法が制定されて議会制が確立した。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語→Ilindanski ustanak (takođe Ilindensko-preobraženjski ustanak) je jedan od najvećih i najznačajnijih događaja u istoriji Makedonije i istoriji Bugarske. Vođen je protiv Osmanlijskog carstva, za oslobođenje Makedonije i Istočne Trakije i za stvaranje autonomne makedonske-odrinske države. Ustanak je počeo 2. avgusta u Makedonije i 19. avgusta 1903. godine u Istočne Trakije, na pravoslavni vjerski praznik Ilindan i Preobraženje. Ustanak je organizovala Tajna makedonska-odrinska revolucionarna organizacija (kasnije Unutrašnja Makedonska Revolucionerna Organizacija, skrađeno mak. i bug. VMRO).
同じく1903年に即位したカラジョルジェヴィチ王朝のペータル国王のもとで、セルビア王国はハプスブルク帝国の経済的支配から脱出を試みるようになり、近隣のブルガリアやモンテネグロとの関係を強化した。セルビア王国の自由化傾向が強まるにつれ、しだいにハプスブルクとの関係が悪化し、1906年にはハプスブルク帝国との間で関税戦争(「豚戦争」)が開始されるに至った。

*豚戦争(ぶたせんそう、ドイツ語: Schweinekrieg / セルビア語: Царински рат)は、1906年以降、セルビア(セルビア王国)とオーストリア=ハンガリー帝国の間で発生した貿易摩擦(関税戦争)である。この対立を通じてセルビアはオーストリア=ハンガリーからの経済的自立を達成し、オーストリア=ハンガリー帝国にとっては外交上・通商上の失点となった。ハプスブルク帝国はセルビア王国の軍需品は自国に限定すべしとの要求が受け入れられないと、セルビアの主たる輸出品である豚の輸入を禁止するに至った。セルビアはこれに対する報復措置として、ハプスブルク帝国からの輸入を拒否し、代わってヨーロッパ諸国に市場を求め、ギリシャのテッサロニキ港経由で交易することにしたのである。
1908年、ハプスブルク帝国がボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合を宣言すると、両国の関係はいっきに緊張した。「大セルビア主義」に基づき海への出口を求めて、セルビア人が多数居住するボスニア・へルツェゴヴィナへの進出を狙っていたセルビアは、モンテネグロとともにこの併合には強く反対した。バルカンに多大な関心を示すロシアも反対の意志を表明した。セルビアでは、ハプスブルク帝国に宣戦布告すべしとの気運が高まったが、時期尚早とのロシアの助言があり、戦争に突入するには至らなかった。併合事件を契機として、ヨーロッパ列強はセルビア王国をバルカンにおける中心的な存在として認識することになる。南スラヴ解放の旗手セルビアのイメージが作り上げられていった。
1912年に入ると、ロシアの仲介でセルビア、ブルガリア、ギリシャ、モンテネグロ間に二国間同盟条約が次々と締結されていき、バルカン諸国の同盟体制(バルカン連盟League of Prizren)が形成された。この時期、オスマン帝国はイタリアとの戦争に煩わされていた。一方、まだオスマン帝国支配下に置かれていたアルバニアやマケドニアでは民族運動が展開されていた。この年の10月、バルカン連盟諸国のモンテネグロ、セルビア、ギリシャが相次いでオスマン帝国に宣戦布告することにより、第一次バルカン戦争が開始された。戦争はバルカン連盟側の勝利に終り、オスマン帝国はバルカン半島の領土をすべて放棄した。

*プリズレン連盟Prizrenska liga(プリズレンれんめい、アルバニア語: Lidhja e PrizrenitПризренска лигаは 1878年6月10日アルバニア人の政治的機関としてオスマン帝国コソボ州のプリズレンで結成した。その目的は、バルカン半島のアルバニア人居住地をスラヴ国家による併合から守り、オスマン帝国の下での自治権を獲得することであった。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語→Prvi balkanski rat (listopad 1912. - svibanj 1913.)Први балкански рат je vođen između Srbije, Bugarske, Grčke i Crne Gore na jednoj strani i Turske na drugoj strani.
オスマン帝国がバルカン半島から撤退すると、民族解放が遅れ真空状態となったマケドニアに対する、バルカン連盟諸国の領土要求が衝突して、バルカン諸国の間で第二次バルカン戦争が始められた(1913年6月)。セルビアはこの戦争でも勝利を収めた。

*Српски / srpskiセルビア語→Други балкански рат је вођен од 29. јуна до 10. августа 1913. године између Бугарске са једне и Србије, Црне Горе, Грчке, Румуније и Турске са друге стране. Исход рата је учинио Србију, савезницу Русије, важном регионалном силом, узбунивши Аустроугарску и на тај начин индиректно дао важан повод за Први светски рат.
ところで、バルカン戦争当時、ドイツ軍の隊付勤務をしていた日本の一軍人は荒涼としたバルカンの印象を、のちに次のように記している。「・・・ソフィアからトラキヤ、マセドニア地方へ旅行に出発しましたが、此旅行で私は二度びっくりして自分の認識不足を感じた事があり、ます。私はバルカン地方も欧州の一角でありますから西欧旅行と同様に考えて其様な準備で出掛けました所、実際に当りますと何の欧州どころか満蒙を旅行するのと同様なので驚きました。元来、此地方はオリエントエキスプレスの沿道だけが開発されて居まして夫以外の所は全く荒廃して居ります。何も地味な瘠痩なのではなく、全く永年の苛政の為に産業衰へ、其上民族間の絶えざる争闘の為満目荒涼として丸で満蒙の地を見るような気がしました・・・」(溝口直亮『バルカンの帯び出』(第6巻9号、1935年)。
*オリエント急行Оријент експрес(オリエントきゅうこう、Orient Express、初期には Express d'Orient[1])は、ヨーロッパを走行する長距離夜行列車、およびこれにちなんで名付けられた列車である。
このバルカン戦争で多大な犠牲を払ったものの、勝利者となったセルビア王国は、自国だけではなくハプスブルク帝国内の南スラヴの間でも、熱狂的な歓迎を受けた。セルビア王国は南スラヴ解放の旗手としての地位を不動のもとしたのである。数多くの義勇兵がセルビア王国軍に参画するようになり、寄付が集められ、医療班が派遣され、首都ベオグラードへの訪問が相次いだ。とくに、若い世代の熱狂ぶりが際立った。

セルビアの国家機構
南スラヴ解放の旗手と見なされていくセルビア王国にとって、今世紀初頭の国家構想の選択肢は「大セルビア主義」、南スラヴ統一、バルカン連邦の三つであった。

このうち、バルカン連邦構想は1860年代からさまざまなグループによって提出されてきた。例えば、ハプスブルク帝国の辺境地ヴォイヴォディナ(現在、セルビア共和国の一自治州)のセルビア人知識人ミハイロ・ボリト・デサンチッチは、70年代にヨーロッパ列強が国際政治の客体と見なす「東方」、すなわちバルカンの問題を分析し、「東方問題」の解決策としてバルカン連邦構想を提起した。彼はハプスブルク帝国を念頭に置きつつ、民族原理に基づいてオスマン帝国を解体し、バルカン半島を小国の連合により「中立地域」にするという「バルカン連合」構想を初めて理論化した。また、セルビア社会主義の先駆者であるマルコヴィチもバルカン連邦を構想した。マルコヴィチは1872年に出版された代表作『東方におけるセルビアSrbija na Istoku』の中で、セルビア人も含めたオスマン帝国支配下のバルカン諸民族の完全な解放のためには社会変革を行い、連邦主義に基づく民主的なバルカン半島の統一が必要であると主張した。こうした考えは社会主義者に受け継がれ、第一次世界大戦期まで継続するが、広範な支持を受けた政治運動に発展したわけではなく、一部知識人たちの机上の構想の域を出ることはなかったといえよう。

*Српски / srpskiセルビア語→Светозар Марковић (Зајечар, 21. септембар 1846 — Трст, 10. март 1875) Svetozar Marković био је српски публициста, социјалиста, књижевни критичар, филозоф и политички активиста из друге половине XIX века.

これに対して、先に述べたセルビア王国を含むバルカン連盟は、国家間の同盟体制として築かれた。オスマン帝国に対する第一次バルカン戦争が展開され、オスマン帝国が敗北してバルカンから撤退するなかで、”上からの”バルカン連邦は現実味を増していった。しかし、第二次バルカン戦争では、バルカン諸国が利害対立からセルビア、ギリシャ、モンテネグロ対ブルガリアに分れて戦い、ブルガリアが敗北したため、ブルガリアを含めたバルカン連邦構想の実現は困難になってしまうのである。
そもそも、セルビア王国の政治家や知識人は、バルカン連邦の実現を第一義的に考えていたわけではなかった。しかし、もう一つの選択肢である南スラヴの統一に多大な関心を持っていたのでもなかった。彼らはハプスブルク帝国の崩壊を前提とするような南スラヴの統一を打ち出す危険をあえて冒す気はなく、もっぱら関心を示したのはセルビア王国の外に居住するセルビア人の運命についてであった。
南スラヴの統一構想が意味を持ったのは、ハプスブルク帝国内の南スラヴ、すなわちクロアチア人、スロヴェニア人、セルビア人の政治家や知識人たちにとってである。かれらはオーストリアとハンガリーによる二重制をしくハプスブルク帝国内で、南スラヴの自治を確かなものにするため、南スラヴ地域を一つの政治単位として、チェコ人やスロヴァキア人が求めるような帝国の三重制への再編を要求した。ここで注目すべきは、ハプスブルク帝国の枠組を壊して、独立した南スラヴの統一国家を形成しようとしたのではなかったことである。独立への方向が明確に出されるのは、第一次世界大戦が勃発してからであった。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語→Prvi svjetski rat bio je globalni oružani sukob između dva saveza država (Antanta i Središnje sile)Први светски рат koji se odvijao na više kontinenata od 28. srpnja 1914. do 11. studenog 1918. 
セルビア王国の政治家や知識人の心を強く捕えていたのは「大セルビア」の実現であった。とりわけ、1908年にボスニア・ヘルツェゴヴィナがハプスブルク帝国によって併合された後、彼らの関心は、セルビア人が多く居住する南部の地方で、まだオスマン帝国支配下に置かれていたコソヴォやサンジャク(ボスニアとコソヴォを結ぶ山岳地帯)やマケドニアに向けられた。これらの地域はいずれも二度にわたるバルカン戦争によって領土的帰属が決定された。コソヴォとマケドニアはセルビア王国に帰属することになり、サンジャク地方はセルビア王国とモンテネグロ王国とに分割された。この結果、分割されたサンジャクを境界地として、セルビア王国とモンテネグロ王国とは領域を接することになり、両王国では、以後いっそう密接な関係が続いた。
要するにバルカン戦争を契機として、セルビア王国は南スラヴ解放の旗手と見なされるようになるが、この時期のセルビアの国家構想は実際には、ハプスブルク帝国内のセルビア人地域を棚上げした上での「大セルビア」の実現にあったといえる。

*コソボ共和国Република Косово(コソボきょうわこく、アルバニア語:Republika e Kosovës
Republika Kosovoは、バルカン半島中部の内陸部に位置する国家。北東をセルビア、南東を北マケドニア、南西をアルバニア、北西をモンテネグロに囲まれている。ユーゴスラビア解体の過程でコソボ紛争を経て独立したが、コソボを自国領土の一部とみなすセルビアおよびその友好国からは独立を承認されていない。
*アルバニア人Албанци(アルバニアじん、[ælˈbɛɪniənz]; アルバニア語: Shqiptarët[ʃcipˈtaɾət], 英語: Albanians)
Albanciは、主にアルバニア共和国とコソボを中心としたバルカン半島に住む民族。
*アルバニア語(アルバニアご、Shqip、[ʃcip]Албански језикAlbanski jezikは、インド・ヨーロッパ語族アルバニア語派に属する言語の総称であり、また一般的にはアルバニア語派に属する言語のうち数か国の公用語として用いられる標準アルバニア語を指す。ルーマニア語やブルガリア語と共通の特徴をもつバルカン言語連合をなす。

*コソボ地位問題Procesi i Pavarësisë së Kosovës(又はコソボ地位プロセス)Political status of Kosovoとは、セルビアの領土から国際連合による暫定統治に委ねられたコソボの最終的な国際法上の地位を確定する問題である。
2007年末にコソボの地位をめぐる交渉は合意に達することができず、また2007年11月のコソボ議会選挙の結果を受けて2008年2月にコソボが一方的に独立を宣言したため、事実上、コソボ地位プロセスは実を結ぶことなく終了した。

*プリシュティナ(アルバニア語: Prishtina / Prishtinë、セルビア語:Приштина/Priština、英語: Pristina)は、コソボの首都および基礎自治体。2008年にセルビアからの独立を宣言したコソボ共和国の首都と定められているが、セルビアはコソボ共和国の独立を認めておらず、コソボ・メトヒヤ自治州の州都としている。
2 第一次世界大戦と南スラヴ統一運動
サラエヴォ事件
中世セルビア王国がオスマン軍に敗北を喫した「屈辱的な」コソヴォの戦い(1389年)と月日を同じくする1914年の6月28日(旧暦15日)、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの州都サラエヴォで銃声が響いた。この地方に駐留していたハプスブルク帝国軍の演習を観閲するため訪れていた、帝位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻の暗殺を企て、訪問を歓迎する群衆に紛れて待ち構えていた刺客がピストルを発射し、2人に命中した。2人とも即死に近かった。
*Bosanskiボスニア語→Srbi su jedan od tri konstitutivna naroda u Bosni i Hercegovini i čine 30,78% njenog stanovništva po podacima iz 2013.
ところで、ウィーンにある軍事史博物館には、この時大公夫妻が乗っていた馬車や血に塗れた軍服が展示されており、現在でも人目を引いている。一方、サラエヴォには、暗殺の「犯人」Гаврило ПринципプリンツィプGavrilo Principがピストルを撃った現場にその足跡が刻まれ、彼を「英雄」として称える一文を記したプレートが飾られて、観光地となっている。もっとも、1992年に始まるボスニア内戦の過程で、この足跡もプレートも取り除かれてしまった。プリンツィプを「犯人」と見るか「英雄」と見るかは、サラエヴォ事件をどのような視点から理解するかに関わっていた。ボスニア内戦が激化する中で、ボスニア社会が民族・宗教に分断され、プリンツィプもボスニア・ヘルツェゴヴィナ解放の「英雄」と捉える共通の評価はなくなってしまったようである。

*Српски / srpskiセルビア語→Гаврило Принцип (Обљај, код Босанског Грахова, 25. јул 1894 — Терезин, 28. април 1918)Gavrilo Principбио је члан Младе Босне који се залагао за окончање аустроугарске владавине у Босни и Херцеговини. У 19. години живота, извршио је атентат на аустријског надвојводу Франца Фердинанда и његову супругу Софију у Сарајеву 28. јуна 1914. године. Принцип и саучесници у атентату ухапшени су и представљени као националистичко тајно друштво, које је покренуло Јулску кризу, а која је допринијела избијању Првог свјетског рата.

大公夫妻を射殺したプリンツィプは、ハプスブルク帝国からのボスニア・ヘルツェゴヴィナの解放と南スラヴの統一を目指す、「青年ボスニア」に属するボスニア出身のセルビア人であった。サラエヴォ市街には、プリンツィプのほかにイリイッチDanilo Ilić、チャブリノヴィチNedeljko Čabrinović、メフトドバシッチMuhamed Mehmedbašić
、ゲラべシュTrifko Grabež、チュブリロヴィチVeljko Čubrilović、ポポヴィッチCvjetko Popovićの6人が武器を構えて待機していた。
彼らの名から判断できるのだが、7人の若い刺客はセルビア人だけでなく、ムスリムもクロアチア人もいたのである。第一次世界大戦直前のボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、宗教を基礎としてセルビア人やクロアチア人が民族意識を鮮明にし、相互の相違を明白にしていた。一方、こうした相違を超える形で、ボスニア・ヘルツェゴヴィナとの一体性を保持し、共和制に基づく南スラヴの統一を目指す青年たちの運動も展開されていたのである。
ハプスブルク帝国政府はサラエヴォ事件の背後で糸を引くのがセルビア王国だと非難して、最後通牒を突きつけた。この最後通牒によると、ハプスブルク帝国によるボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合後の1908年末にセルビアで組織された「民族防衛団」(Народна одбранаナロードナ・オドブラナNarodna odbrana)がその背後組織だとされた。しかし、実際にはプリンツィプらに軍事訓練を行ったり武器を供与したのは、1911年に結成された「大セルビア」の実現を目指す秘密組織で、セルビア王国の軍人アビスを指導者とする「Црна рука黒手組Crna rukaУједињење или смрт統一か死かUjedinjenje ili smrt)」であった。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語→Narodna odbrana je bila srpska paravojna formacija osnovana 1908. godine (u vreme Aneksione krize) u cilju pripajanja Bosne i Hercegovine Srbiji. Ova organizacija je iz Kraljevine Srbije u Bosnu slala četničke odrede, radi borbe protiv Austrije.[1] Za vreme Balkanskih ratova preko ove organizacije su regrutovani dobrovoljci za borbu u Makedoniji.

*黒手組(くろてぐみ、セルビア語表記:Црна рукаツルナ・ルカ)Crna rukaは、セルビアの民族主義者により1911年に結成された秘密組織・テロ組織。日本語では「黒い手」「ブラックハンド」とも訳す。組織の正式名称は「統一か死か(Уједињење или смртウイェディニェニェ・イリ・スムルト)」。
「青年ボスニア」は強力な指導者のもとに形成された確固たる組織ではなく、ハプスブルク帝国による軍事占領というボスニアの特殊な条件の中で生まれた、学生や生徒たちを中心とする多様な運動体にすぎなかった。これに対して、「黒手組」は反ハプスブルク帝国を前面に掲げる軍人中心の組織であった。両者は反ハプスブルク帝国という点では一致していたが、「大セルビア」の実現で一致していただけではない。「青年ボスニア」運動参加者の一部が、南スラヴ解放の旗手としてのセルビアの組織に軍事的に依存したにすぎなかった。
「青年ボスニア」の多様性は第一次世界大戦以後、そのメンバーがたどった軌跡を見れば明らかである。民族主義者に回帰する者、共産主義者となる者、ユーゴ唯一のノーベル文学賞作家のアンドリッチのように文学者となる者、チュブリロヴィチのように歴史学者としてベオグラード大学で教鞭をとる者など、様々であった。
ともかく、彼らにとって人生の一大転機となるサラエヴォ事件は、「黒手組」の指導者АписアピスApisや彼ら自身の楽観的な見込みとは異なり、当時の緊迫した国際環境の中で第一次世界大戦を引き起こすことになったのである。

*ドラグーティン・ディミトリイェヴィチ(セルビア語表記:Драгутин ДимитријевићDragutin Dimitrijević Apis
1876年8月17日 - 1917年6月27日)はセルビア王国の軍人で民族主義者、テロリスト。秘密組織黒手組の指導者である。暗号名「アピス」(Апис)で知られている。
南スラヴ統一運動の展開
第一次世界大戦の勃発とともに、ハプスブルク帝国崩壊の可能性が生じると、南スラヴの統一国家を形成しようとする運動は、従来の多分に理念的な形態から、具体性を帯びた積極的な政治運動に変化した。南スラヴ統一運動の担い手となるのはパシッチを首相とするセルビア政府と、ハプスブルク帝国内の南スラヴ地域から西欧に亡命した政治家や知識人のグループであった。これら統一運動の指導者は厳しい現実に直面することになる。すなわち、ハプスブルク帝国の存続か解体をめぐって、英仏などの協商国側と統一運動指導者との戦争目的が異なっていたし、協商国側に立って参戦したイタリアがダルマチア海岸地域の領有をめぐって、南スラヴの統一にとって大きな障害となったのである。加えて、統一運動指導者の見解も一様ではなかったからである。

*Никола П. Пашић (Зајечар, 6/18. децембар 1845 — Београд, 10. децембар 1926)Nikola Pašićбио је српски и југословенски политичар, дугогодишњи председник владе Краљевине Србије и Краљевине Срба, Хрвата и Словенаца, оснивач и вођа Народне радикалне странке.
セルビア政府と摂政アレクサンダルは第一次世界大戦が始まると「大セルビア」の実現から、ハプスブルク帝国の解体を前提とした南スラヴの統一へと姿勢を転換していった。こうした姿勢は当然、ハプスブルク帝国の南スラヴ地域を棚上げにした「大セルビア」構想に押しとどめようとする、協商国側と摩擦を起こすことになった。あくまで「大セルビア」の実現にこだわったのは、セルビア王国軍の軍人たちであった。
14年12月、パシッチを首相兼外相とするセルビア政府は、セルビア南部の都市ニシュでセルビアの戦争目的が、セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人すべての解放と統一であるとの「ニシュ宣言」を発表して、その姿勢を公的に示した。一方、ハプスブルク帝国の南スラヴ地域、とくにオーストリアの支配下に置かれ、クロアチア人とセルビア人との居住地域であるダルマチアからの亡命政治家や知識人のグループは、帝国内南スラヴの統一と帝国の解体を目的として活動していた。この動きを察知したセルビア政府は、ハプスブルク帝国の解体という点では完全に一致していたため、グループの中心人物でダルマチア出身のクロアチア人政治家トルムビッチと接触し、彼らに帝国内南スラヴを代表する組織結成の働きかけを行い、資金援助を申し出た。

*Hrvatskiクロアチア語⇒Ante Trumbić (Split, 15. svibnja 1864. - Zagreb, 17. studenoga 1938.), bio je hrvatski političar i pravnik. Bio je pravaš pa jugoslavenski orijentiran političar koji se kasnije vratio ideji hrvatske državnosti.
15年4月、協商国側の要請に答えてイタリアがロンドン秘密条約を結んで参戦した。この条約は協商国側が戦争に勝利を収めた際、参戦の見返りとしてイタリアに、65万のクロアチア人とスロヴェニア人が居住するダルマチア海岸地域、イストリア半島、Mar Adriaticoアドリア海Jadransko moreの島嶼部の領有を認めるものであった。帝国内の南スラヴ族にとって、死活に関わる内容といえる。

*ロンドン条約Patto di Londra(ロンドンじょうやくЛондонски споразум (1915)、英:Treaty of London)Londonski ugovorは、1915年4月26日にイタリア王国と三国協商の間で結ばれた秘密協定。
*三国協商Trojna Antanta(さんごくきょうしょう、英語:Triple Entente、フランス語:Triple-Entente、ロシア語:Антанта)は、19世紀末から20世紀初頭においてイギリス・フランス・ロシア帝国の各国の間で締結された、露仏同盟・英露協商・英仏協商によって作られた三国の協調関係を指した言葉。英仏露協商ともいい、独墺伊同盟と対立し、第一次世界大戦の主要な交戦国となった。
秘密条約であったが、この締結を聞きつけたトルムビッチは、帝国内南スラヴ族の問題を協商国側に訴える組織を早急に結成する必要にかられ、ロンドン条約締結直後にセルビア政府の資金援助を受けて、パリで17人からなる「ユーゴスラヴィア(南スラヴ)委員会」を結成した。以後、ユーゴスラヴィア委員会はロンドンに拠点を移して、協商国側に南スラヴの統一問題を訴えかけていく。セルビア政府は南スラヴ統一のためにユーゴスラヴィア委員会を利用しようと考えていたが、帝国内の南スラヴをセルビア王国やモンテネグロ王国と統一するのか否か、将来の南スラヴ統一国家をどのような政治形態にするのかという問題をめぐっては、必ずしも見解が一致していたわけではなかった。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Jugoslovenski odbor Југословенски одборje bio političko interesno telo, formirano od strane južnoslovenskih političara iz Austro-Ugarske. Cilj ovog tela je bilo ujedinjavanja svih južnoslovenskih naroda u jednu, nezavisnu državu.

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Krfska deklaracija Corfu Declaration Крфска декларација prvi je zajednički politički akt srbijanske vlade i Jugoslavenskog odbora, objavljen 20. srpnja 1917. godine na Krfu u kojem se prvi puta navodi utemeljenje jedne nove zajedničke države nakon Prvog svjetskog rata.
コルフ宣言
1915年10月、ブルガリアがドイツ、オーストリアなどの中央同盟側に加わって参戦することにより、セルビアは緒戦以上の苦戦を強いられた。セルビア政府は14年末の時点で、ベオグラードからニシュへと南への移動を余儀なくされていたが、さらにセルビア軍は15年から16年の冬には「受難の地」といわれるアルバニアやモンテネグロの山道を、決死の行軍を行なってアドリア海へ撤退した。さらにここから、アドリア海に浮かぶギリシャ領のコルフ島Κέρκυραにようやく拠点を移すことができた。
セルビアが第一次世界大戦で払った犠牲は計り知れない。後にふれる第二次世界大戦期のパルチザン戦争における旧ユーゴスラヴィアの死者の数は170万人とされるが、驚くべきことに、第一次世界大戦期の南スラヴ地域の死者は190万人と推定されている。このうちの約66%、125万人がセルビア王国の死者の数である。死者の内訳は一般市民が85万、軍人が40万人である。セルビア王国の人口は290万人であったから、じつにその43%が死んでいったことになる。セルビア軍と行動を共にしたモンテネグロやボスニア・ヘルツェゴヴィナでも多大な犠牲がでた。モンテネグロ王国の死者の数は人口の四分の一にあたる6万、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは人口の五分の一にあたる36万の死者を数えている。
このような困難な状況の中で、セルビア政府は南スラヴの統一に関心を向ける余裕はなかった。しかし、パシッチ首相らはコルフ島で一息つくことができたことに加えて、17年にはセルビア王国の保護者を任じていたロシアで
Февральская революция2月革命Februarska revolucijaが生じ、Российская империяロシア帝国Ruska Imperija
が崩壊するという大きな情勢の変化が見られた。
協商国内で孤立化することを恐れたセルビア政府は17年7月、活発な活動を展開していたユーゴスラヴィア委員会に呼びかけ、コルフ島で両者の会談が開催された。ここでパシッチとトルムビッチの署名による14条の「コルフ宣言」が発表された。「コルフ宣言」には、セルビア王国のカラジョルヴィチ王朝のもとに将来、セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人がまとまって居住するすべての領域からなる立憲君主国を建国することが述べられているが、将来の国家が連邦制を採るか集権制を採るかについてはふれられていない。しかし、この宣言が南スラヴ統一国家の基礎に捉えられたことは確かである。
*立憲君主制Уставна монархијаKonstitutionelle MonarchieりっけんくんしゅせいКонституционная монархия、英:constitutional monarchyUstavna monarhijaとは、君主の権力が憲法によって規制されている政体である。

*国民国家Национална држава(こくみんこっかНациональное государство、英:Nation-state、仏:État-nation、独:NationalstaatNacionalna državaとは、国家内部の全住民をひとつのまとまった構成員(=「国民」)として統合することによって成り立つ国家。領域内の住民を国民単位に統合した国家そのものだけではなく、それを主権国家として成立する国家概念やそれを成り立たせるイデオロギーをも指している。

Hrvatskiクロアチア語→Apr 29, 2014 —Kada je i tko napravio "seksualnog roba"? Ima li budućnosti za izjave Murayama i Kona? 63.Jugoslavija "Etničko čišćenje" i "Vezivanje" Utjeha žena? Yoshinori Kobayashi Užasno je čuti, ali nevjerojatno , Totsuka je pokrenuo to pitanje pred Komisijom UN-a za ljudska prava povezujući "žene za utjehu" s ovim"grupnim silovanjem" u Bosni i Hercegovini !!које представља Јапан日本を代表するkojepredstavlja Japan
Интелектуалац知識人Intelektualac《Биг Инфлуенцер/Велики утицај大影响家Big Influencer/Veliki utjecaj》Шта год-схоп何でも屋Štogod-trgovina《аутор бестселераベストセラー作家autorica bestselera》
Ljudski stupanj民度 (kvaliteta) je prosječna intelektualna razina i obrazovanje skupine ljudi koji žive u određenoj regiji/državi, odnosno skupine korisnika (korisnika), sudionika, ljubitelja određenih sadržaja/usluga Odnosi se na stupanj zrelosti kao što su standardi, kulturni standardi, maniri i obrasci ponašanja. Kaže se da što je veća popularnost, to bolje
「ユーゴは内戦を経て解体してしまった。ユーゴ研究者として、73年間で歴史の幕を閉じてしまったユーゴはいったい、どのような国だったのかを現時点から検討し直してみなければならない必要性を痛感していた
Yugo a été démantelé après la guerre civile. En tant que chercheur Yugo, j'étais parfaitement conscient de la nécessité de reconsidérer quel type de pays était Yugo, qui avait fermé son histoire en 73 ans・・・ユーゴの紛争をたんに「決定論」の観点から描くのではなく、それを歴史のなかでとらえ直し、そこから何を学びとるのかといった視角からユーゴ現代史を叙述してみるAu lieu de simplement dessiner le conflit du point de vue du "déterminisme", je vais le reconsidérer dans l'histoire et décrire l'histoire moderne de Yugo du point de vue de ce qu'il faut en apprendre」(故柴宜弘教授「あとがき」から)
*Српски / srpskiセルビア語→Јошинори Кобајаши小林よしのり(Кобаиасхи Иосхинори)босански/Bosanskiボスニア語→Yoshinori Kobayashi(Kobayashi Yoshinori, pravo ime本名:小林善範, 1953 31 avg-), u Japanu od karikaturista日本の漫画家 - kritičar評論家. Predsjednik 「Yoshirin Planningよしりん企画」社長, predsjedništva 「Go Mission Hallゴー宣道場」主宰者, i počasni predsjednik 「Daitoa Youth School大東亜青年塾」名誉塾長. Diplomirao na Odsjeku za francuski jezik Fakulteta humanističkih nauka Univerziteta Fukuoka福岡大学人文学部フランス語学科卒業↓).


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