日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆Europa Wschodnia/Europa de Est★『東欧 再生への模索』小川和男/Search for Eastern Europe regeneration Kazuo Ogawa/Recherche de la régénération de l'Europe de l'Est/ Suche nach Osteuropa-Regeneration⑤

第一次大戦に際して、オーストリア=ハンガリー二重帝国はロシアと戦ったが、帝国内のスラブ諸民族はロシアとの戦争に非協力の態度を示し、前線ではチェコ人、スロバキア人、セルビア人(ボスニア・ヘルツェゴビナ出身)兵士の脱走が相次ぎ、ロシア軍に投降したのであった。
セルビアの首都ベオグラード(旧ユーゴスラビアの首都でもあった)の最中心部の繁華街にあるテラジエ広場に面して、特徴のある外観の「モスクワ」ホテルが建っている。1908年に開業した古いホテルで、格式が別段に高いわけでもなく、設備は最近の新しいホテルに比べてお世辞にも良いとはいえない。だが、わたくしにとって天井の非常に高い部屋は居心地が好く、窓をあけると、残り数メートルでドナウ川に合流するサワ川にかかる鉄橋が遠く見え、1990年に訪れた折にも川から6月の爽やかな微風がわたってきた。テレジエの街路をおおうプラタナスの大樹の下の席で濃いトルコ・コーヒーを楽しんでいると、流血の内戦がとても信じられないような心持ちであった。
*テラジイェ(セルビア語:Теразије / Terazije)、あるいはテラジエは、セルビア共和国の首都・ベオグラードの中心をなす広場である。

Hotel Moskva (Serbian Cyrillic: Хотел Москва, pronounced [xɔ̌tɛl mɔ̂skʋa]; English: Hotel Moscow) is a four star hotel in Belgrade, one of the oldest currently operating in Serbia.
「モスクワ」ホテルが1908年に開業ということは、ロシア革命とも社会主義とも関係がないということである。20世紀初頭におけるロシアとセルビアとの連帯、スラブの大国ロシアに対するセルビアの思い入れが、ホテルの命名に影響したといえよう。しかも、第二次大戦後のユーゴスラビアは、偉大なカリスマ性を備えたチトー大統領の指導のもとで、ソ連と決定的に対立したわけであるが、その時代にも、ホテル名は変えられたりはしなかった。


*Српски / srpskiセルビア語⇒Јосип Броз Тито (Кумровец, 7. мај 1892 — Љубљана, 4. мај 1980) Josip Broz Tito био је југословенски комунистички револуционар и државник, који је обављао разне државничке функције од 1943. до своје смрти 1980.
Руска револуцијаロシア革命Ruska revolucija後、ソビエト政府は汎スラブ主義を否定した。しかし、ナチス・ドイツとの戦争の危機が迫ると、スターリンはこれを鼓吹し、大戦後の1946年末にベオグラードで開催された汎スラブ会議によってロシアの地位は確立したようにみえた。だが、その2年後にユーゴスラビアが離反し、それ以後、汎スラブ主義は衰退したのである。
東欧のスラブ諸民族は、利害関係が錯綜し、協調よりは対立が際立っている。しかし、それにもかかわらず、民族の存亡にかかわる重大事が発生したような場合には、時として汎スラブ主義が甦ることがあることを見逃してはならないと思う。

第II章 東欧諸国の経済特徴 
1 東欧経済の基本的条件
実体経済を研究する重要性
東欧の諸問題を考察する場合、第I章でも述べた通り、国別に多様性をみることが基本的で重要であり、このことは経済についても、もちろん例外ではない。
実際にも、工業化水準、原燃料基盤、労働力の需給、農業基盤と食糧問題、勤労者の生産意欲、国民性等々、東欧経済の基本的諸条件は、国ごとに著しく異なっている。
東欧諸国は、第二次世界大戦後ソ連の強力な指導によって成立した社会主義政権のもとで、きわめて中央集権的な計画化経済システムを採択し、後進的な農業国から脱皮して先進的な西欧諸国や米国に追い付くために、近代化・工業化をはかってきた。だが、1990年代中葉の今、計画化経済システムの破綻は全く明らかとなって、東欧ッ各国とも、このシステムを放棄し、市場経済システムへの転換をめざして苦闘している。つまり、「社会主義」から「資本主義」への体制転換をはかっている、とみることができる。
第二次大戦後におけるこうした歴史的経緯と現代的課題があることから、東欧経済について欧米諸国や日本で出される解説書や新聞・雑誌報道の大多数は、中央計画化経済と市場経済の優劣を論じたり、市場経済への転換の速度やその成否を問題にすることを偏向し、東欧各国の基本的経済諸条件には言及してない。いわば「経済システム論」の視点からのアプローチが一般的であるわけであるが、それでは東欧各国の現実の経済事情、人々の生身の日常生活は到底みえてこない。
このような「経済システム論」からのアプローチは、ソ連・東欧諸国で中央計画化経済がまだ健在であった時代において主要な方法であったが、それが崩壊してしまった現在でもいまだに一般的なのである。
ソ連の政治の舞台にゴルバチョフ氏が登場しグラスノスチを大々的に推進するまでのソ連・東欧諸国では、実に多くのことが国家機密のヴェールに覆われていた。このため、各国の実体経済を窮めることは文字通り不可能であった。
経済調査・研究にかかわるこの困難を考慮に入れれば、『システム論』的アプローチは安易な選択であり、欧米諸国や日本の多数の学者や研究者たちがこの方向に走ったのは、仕方がないことであったといえるかもしれない。
だが、困難な条件下でも、ソ連・東欧諸国の基本的経済条件について地道な調査・研究を続け、実体経済について堅実な分析・評価を公表してきた機関や人々がいたのもまた事実である。
一例をあげれば、米国のCIA(中央情報局)Central Intelligence Agency (CIA) と議会図書館調査局Library of Congressがそれである。
CIAは、米国政府が自ら巨額の賃金と人材を投入し、米国に対峙する超大国ソ連の実体経済研究をシステマティックに行い、多くの客観的で優れた報告書や資料を公表してきた。往時は、ソ連分析部だけで300人近くのスタッフを擁しているといわれていた。
議会図
書館調査局では、J・ハートHarold J. Hart氏が長年にわたって重責を果たし、そのソ連・東欧経済に関する高い学識と温厚な人柄によって、米国におけるソ連・東欧経済研究の取りまとめ役として人望がある。同氏が企画・編集から作成にいたる全過程について責任をもつソ連・東欧および中国各国の経済に関する『議会報告書』(米国議会上下両院合同経済委員会より公刊)は、米国におけるこれら三つの地域の多面的な経済研究の成果を集大成した膨大かつい質的に高い報告書として、国際的に非常に高い評価が定まっている。
一方、日本におけるソ連・東欧経済研究では、今も述べた通り、『システム論』からのアプローチが圧倒的に優勢である。そうした環境のなかで、わたくしが勤務するロシア東欧貿易会(旧ソ連東欧貿易会)調査部(現在、ロシア東欧経済研究所)は、ほとんど唯一の例外で、小規模ではあるが、長年にわたって地道に実体経済の調査・研究に取り組んできた。
それは、きわめて現実的な必要から出発している。つまり、ロシア東欧貿易会の存在意義は、日本と旧ソ連・東欧諸国との経済・貿易関係拡大に寄与することにあり、そのためには、各国の経済・貿易の実態を知悉することが必要不可欠であるからである。わたくしが毎年東欧諸国訪問を繰り返してきたのも、もちろんそのためで、そのことは今後も変わらないであろう。

東欧諸国の工業化水準と問題点
東欧諸国は第二次大戦後、どの国も工業化を最優先経済課題とし、国民経済への投資の非常に大きな割合を工業化に集中してきた。その結果、1970年代になると、旧東ドイツと旧チェコスロバキアは先進的な工業国に発展し、その他の諸国も大戦前の後進的な農業国から転じてかなり進んだ工業国へと変容した。
今、各国の工業化水準を尺度にしてみると、東欧諸国は、
(1)先進諸国(2)中進諸国(3)後発諸国
の三つのグループに大別することができ、「北高南低」の特徴が顕著である。
先進諸国には旧東ドイツと旧チェコスロバキアを入れることができ、両国の工業化水準は1970年代前半にはすでに、西欧先進諸国の水準に比肩するほど高かった。とりわけ旧東ドイツは、当時から世界のなかで十指に入る先進工業国に数えられ、その工業生産力は1980年代になると英国のそれを凌ぐようになった。これは、世界銀行のような国際機関の評価であり、ロンドン『エコノミスト』誌も東独の工業生産力には高い得点を与えていた。このように旧東ドイツと旧チェコスロバキア両国では、高度の工業生産力が構築され、産業構造や工業部門構造は先進工業国の特徴をよく示していたのである。
とはいえ、問題も多かった。工業生産についてみれば、欧米の先進諸国に比べた多くの分野における生産技術の劣位がまず指摘され、生産設備の老朽化と陳腐化も目立ち、改善が急務となっていた。そしてこの緊急課題は、旧東ドイツと旧チェコスロバキアの両国だけに限られるわけではなく、他の東欧諸国にとって、よりさし迫った課題であり、各国が市場経済への転換をめざしている今日、その重要性はますます高まっているのである。
1990年10月、ドイツ民族の宿願であった東西ドイツ統一が実現した一方、東欧最強の工業国であった旧東ドイツが消滅した。国家が消滅しただけではない。必要な対策を欠いたまま敢行された性急な経済統合によって一挙に市場経済のもとに放り出された旧東ドイツ企業は、壊滅的な打撃をうけ、1年後には国営企業の80%以上が倒産に追い込まれた。
結果論として、旧東ドイツ企業の技術水準や経営能力の低さ、生産設備の老朽化・陳腐化が指摘され、さらには、旧東ドイツ経済の実態が統一前に考えられていたところよりはるかに劣悪であったという評価も出されている。また、政治的配慮が優先され、統一前の旧西ドイツ・マルクと旧東ドイツ・マルクとの交換比率を実勢から大きく乖離した1対1とし、旧東ドイツ・マルクを著しく過大評価し、しかも、旧西ドイツの高い賃金水準をめざした急激な賃上げを実施したことから、旧東ドイツ企業の競争力は著しく低下したことも指摘されている。
*ドイツマルク(独: Deutsche Mark, DM, DEM Deutsche Mark)は、1948年6月20日から1998年12月31日までのドイツ連邦共和国(1990年のドイツ再統一までは西ドイツ、それ以降はドイツ)の法定通貨。単にマルクとも呼ばれる。
*マルク(ドイツ語: Mark)は、ドイツなどの通貨。ただし、ドイツでは2001年以降ユーロ導入により廃止されており、2021年現在で使われているのはボスニア・ヘルツェゴビナのみ。
だが、そうした指摘や評価の全てを考慮に入れたとしても、旧東ドイツが高度に発展した工業国であった事実にはなんら変りがない。いずれにしても、西欧最高の経済力と技術力を誇る旧西ドイツ企業との競争では、全く勝負にならなかったわけである。

ポーランドとハンガリーは、工業化の点で中進的特徴を備え、農業が両国経済のなかで今も重要な地歩を占めている。工業の部門構造をみても、非常に先進的な部門と後進的な部門が併存しており、アンバランスが目立っている。
とはいえ、国際的基準でみれば、ポーランドもハンガリーも歴然たる先進工業国である。中央計画化経済の崩壊をみて、欧米諸国や日本では、東欧の工業生産力を非常に低く評価する傾向が強いが、それは正しくない。先進資本主義諸国は、通常は発展途上諸国が供与対象のODA(政府開発援助)をポーランドとハンガリーに対しても供与している。市場経済への転換をめざして苦しんでいる東欧諸国を支援するのが目的であるが、ポーランドとハンガリーに対するODA供与は、わたくしには理解できないところである。

東欧にとって重要な農業
残る4カ国、つまりルーマニア、ブルガリア、旧ユーゴスラビアおよびアルバニアは、後発諸国とみることができる。しかし、ルーマニア、ブルガリアおよび旧ユーゴスラビアにおいては、冶金工業や石油化学工業、一部の機械工業などがかなり顕著な発展を遂げ、産業構造に占める工業のシェアが発展を遂げ、産業構造に占める工業のシェアが非常に大きくなっている。たとえば1985年についてみると、ルーマニアで62・7%、ブルガリアで61・2%に達していた。
とはいえ、これら後発諸国の工業化水準を旧東ドイツや旧チェコスロバキアの水準と同列で対比することはできなかったし、今でもそれはできない。後発諸国では工業化の水準が大きく遅れているのが実状で、しかも食品工業や素材産業が全産業のなかでもっとも重要な地歩を占めており、農業生産の動向が各国経済の成否を左右する大きな要素になっているのである。
一方、農業は、東欧の人たちが認識している以上に東欧各国の経済にとって重要な意味をもっていると考えられる。社会主義時代のハンガリーは、そのかなりの農業重視策の成功もあって、東欧最強の農業国の地位を誇り、国内市場への潤沢な食料品供給は市民生活に活気とゆとりを与えていた。ハンガリーでは、全人口(約1100万人)の約20%が首都ブダペストに集中し、首都を少し離れると国全体に田園的特徴が濃い。トウモロコシ畑が果てしなくひろがり、特産のパブリカや赤や黄や緑が美しく、農家の周辺はぶどう畑である。また、畑の土は黒々としていて、地味の肥沃を示しているのである。
しかし、以上のような田園的風景は、なにもハンガリーだけにみられる特徴ではない。東欧のどの国でもその風景はよく似ている。ルーマニア、ブルガリア、セルビア、クロアチア、スロベニア、そしてポーランドでも、都市を一歩離れると広々とした畑地がひろがり、そうした情景は先進工業国のチェコと旧東ドイツでも例外ではない。東欧諸国は農業をおろそかにするわけにはいかないのである。

弱い国内原燃料基盤と高い貿易依存度
東欧の基本的経済条件の一つは、原燃料基盤が貧弱なことである。東欧諸国は概して天然資源に恵まれていない。
東欧でとくに取り上げるべき鉱物資源としては、各国に豊富な褐炭埋蔵量があるものの、ポーランドの原料炭、非鉄金属および硫黄、ルーマニアの石油とガス、ユーゴスラビアおよびブルガリアの非鉄金属、ハンガリーのボーキサイトなどがあるだけである。
エネルギー資源の需給では石灰に頼るところが非常に大きく、一次エネルギーの消費構造に占める石灰の割合は東欧全体で60%を上回るほどである。先進工業国の旧東ドイツとチェコの国内エネルギー基盤はとくに弱く、輸入に大きく依存している。

電力生産燃料としての石灰の役割はとりわけ大きく、そのことは東欧諸国工業の後進性の一端を示すと同時に、大気汚染の深刻化という難題を引き起こしている。なかでも旧東ドイツでは、年間3億トンを上回る褐炭を生産(世界最大)し、国内で利用していた。それによる大気汚染が深刻であったのは当然で、被害はもちろん周辺諸国に及んでいた。
一方、ポーランドとルーマニアのエネルギー基盤はかなり強力で、ポーランドは1970年代においてはアメリカにつぐ世界第二の石灰輸出国であった。しかし、そのポーランドも石油と天然ガスはほとんど全量を輸入に依存している。

ルーマニアは、かつてヨーロッパ最大の産油国であった。しかし、産油量は1970年代中葉における年間1500万トン前後をピークにして減少の一途をたどり、近年では850万トン程度とほとんど半減している。このため、1980年代になってからは原油の純輸入国に転じた。
東欧諸国は、社会主義時代において、高度な工業国であったが、急速な工業化をめざす国々であった。各国で市場化が進められている今日も同じである。だが、国内の原燃料基盤が今述べた通り弱いことから、東欧各国とも外国から原燃料を輸入し、工業製品および農畜産品を輸出しなければならず、このため、当然ながら国際分業の利益を狙い、必然的に各国経済に占める貿易依存度は高くなっている。
現在のポーランド、スロバキアおよびルーマニアは、かなり強力な製鉄業をもっている。しかし、鉄鉱石自給率は非常に低く、その輸入が不可欠である。木材や綿花についても事情は同じで、輸入が必要不可欠となっているのである。
さらにいえば、旧東ドイツ、チェコ、ポーランド、ブルガリアの諸国は穀物を自給できず、毎年多量の穀物輸入を余儀なくされている。
必要なロシアとの経済関係の再構築
東欧諸国の原燃料需給における対外依存度が非常に高いのは以上の通りで、各国の需要の非常に大きな部分は長年にわたって旧ソ連からの輸入によって満たされてきた。旧ソ連から東欧諸国に向けて石油や天然ガスを運ぶ太いパイプ・ラインが通じ、それが東欧諸国を支える大動脈として動いてきたことは、国際的によく知られている通りである。
旧ソ連は、1970年代を通じて、東欧諸国に対して安定した石油・ガス供給を続け、東欧全体の石油・ガス需要の70%以上を満たしていた。鉄鉱石、非鉄金属、木材、綿花についても、旧ソ連の供給が決定的役割を担ってきたのである。
東欧諸国も旧ソ連も、体制転換という大事業に挑戦している現在、計画化経済システムの下で東欧諸国と旧ソ連との間でかつて形成されていた有機的関係は崩壊し、そのことが東欧諸国と旧ソ連の両方に多大の困難をもたらしている。
ロシアの工業生産は劇的に減少、1991~93年の3年間にほとんど半減した。石油と石灰の生産は大幅に落ち込み、鉄鉱石や木材の生産も著しく減った。当然ながら、ロシアの原燃料輸出余力は激減し、東欧諸国向け輸出は現実に著しく減少したのである。
東欧諸国としては、必要不可欠な原燃料の安定した供給源を失ったわけであり、供給先の早急な転換を迫られている。だが実際には、市場化の試練に直面して、東欧各国とも1990年代初頭の数年間にマイナス経済成長か著しい低成長を経験した。それに見合って、原燃料需要も減少するか、伸びなかったため、この問題はあまり表面化しなかったのである。
しかし、1990年代半ばを迎えて、東欧北部の先進諸国経済には回復のきざしがみえている。そうなると、今後、これまで抑えられていた石油をはじめとする原燃料需要が拡大するとみるのが当然である。東欧各国としてはどのように対処するのであろうか。市場化の行方とともに、見逃すことのできない問題である。
東欧諸国は、輸出においても旧ソ連を最大の市場とし、各国の輸出全体に占める対ソ輸出のシェアは低い国でも三分の一、高い国では70%を超えていた。ロシアをはじめとする旧ソ連諸国の著しい経済不振、とくに工業生産の激減は、東欧諸国にとってはとりもなおさず巨大な輸出市場が大幅に縮小したことを意味した。実際にも、東欧諸国の対ソ輸出はわずか3年間で四分の一まで縮小したのである。

平坦ではないEU加盟の道
しかし東欧諸国のなかには、ポーランド、チェコ、ハンガリーのようにドイツを中心とするEU諸国との貿易拡大を実施して、重かった対ソ依存から脱却し、市場を転換させることにすでにかなり成功した国がある。また全ての東欧諸国がこの方向をめざしているともいえるであろう。そしてEUの拡大方針が東欧諸国の早期加盟を実現させ、東欧諸国経済の活路になるというシナリオがえがかれている。
しかし、わたくしはこの道は平坦ではないと思う。EUの対東欧通商政策には、建て前と実際とに大きなギャップがあり、東欧諸国に対してきわめて厳しいといわざるをえないからである。EUにおける東欧諸国からの農畜産品輸入に対する規制は決して緩和されていない。東欧諸国からEUへの輸出は近年大幅に増大したが、それ以上にEU製品が東欧市場に流入した事実を見逃すわけにはいかないのである。
東欧諸国としては、今後EU加盟に努力する一方で、ロシアをはじめとする旧ソ連諸国との経済関係の再構築にも力を注ぎ、同時に東欧諸国相互間の経済関係のよりいっそうの強化をはかる必要があるのではないかと考える。

*Soviet-type economic planning (STP) is the specific model of centralized planning employed by Marxist–Leninist socialist states modeled on the economy of the Soviet Union (USSR). Although there was significant variation among these economies, Soviet-type planning and Soviet-type economies refers to the major structural characteristics common to these economies.
2 ソ連型計画化経済と東欧の限界
ソ連型計画化経済の誕生
東欧諸国は、第二次大戦後、ソ連の強力な指導の下に社会主義の道を歩み始め、計画化経済システムを採択したわけであるが、そのシステムは1920年代末期から1930年代前半に確立され、スターリン型のきわめて中央集権的な計画化経済システムであった。
ソ連は、当時の国際環境の下では、必然的に一国社会主義の道とアウタルキーАвтаркия(自給自足)経済をめざさざるをえなかったし、迫りくるナチス・ドイツとの戦争に早急に備える必要があったのである。

*閉鎖経済(へいさけいざい、英: Closed Economy、ドイツ語: Autarkie)とは、マクロ経済学の用語で外国との金融・貿易取引をしていない経済のこと。
*自給自足Self-sustainability(じきゅうじそくSelbstversorgung)Autosuffisanceとは自分自身に供給し自分自身を満足させること。
しかもソ連にはアウタルキーを実現するための経済的条件があり、中長期経済計画にもとづいて経済建設を行うことは、合目的的でもあった。すなわち、広大な国土のあちこにちにほとんど無尽蔵とみられた潤沢な天然資源の埋蔵量があることを基礎に、強い権限をもつ中央政府機関が中長期経済計画を策定し、人的・物的能力を総動員して、まず急速な資源開発を進め、電力生産、燃料採掘工業、鉄鋼業、化学工業、重機械工業の一部など基幹的重工業部門と輸送インフラを建設し、しだいに高度加工工業を育成し、最終的に民需品生産部門を構築する、という理論と実際がソ連で成立しえたのである。この理論と実際は、現在のロシアにおいても基本的には成立しうるとわたくしは考えている。
しかし、そのために必要な外国からの投資が期待できなかったため、当時必要な当初資本は農業部門の収穫に頼らざるをえず、国民生活の向上は後まわしにせざるをえなかった。こうして、苛酷な農業集団化が敢行され、国民生活が多大の犠牲を強いられたのは、よく知られている通りである。
東欧諸国への計画化経済導入の困難
東欧諸国がソ連から導入した以上のようなスターリン型システムは、基本的な経済諸条件がソ連とは異なる東欧諸国において、それをそのままの型で運用することには当初から無理があり、早くからその限界が明らかになって改革が必要となっていた。
東欧諸国の経済は、すでに述べた通り、各国とも小国であるため、まず経済規模が小さく、国内の原燃料基盤は非常に弱体であり、貿易依存度が高い等々、ソ連とは対照的な特徴を備えている。したがってアウタルキー経済の形成は不可能であり、国際分業に積極的に参入し、貿易を発展させるのが得策なのである。とりわけ、チェコスロバキア、旧東ドイツ、ポーランドにおいては、程度の差はあったものの、大戦前からの工業生産基盤があり、戦後の復興期においてはその活用こそ先決問題であった。
以上のような東欧諸国経済が、国際経済の動向から影響を受けやすいのは明らかである。東欧諸国の経済学者や現実に経済運営に当っていた官僚たち、あるいは企業経営者たちの間から、どうしても硬直的になりがちな計画化経済システムよりは、外部経済の変化に柔軟に対応しやすい市場経済システムを選択したい、少なくともスターリン型計画化システムを改革したい、という気運が出てきたのは、きわめて当然なことであった。
したがって、東欧における「経済改革」という場合、それは一般的には、中央集権的な計画化システムを緩和する方向の改革を意味し、市場原理の導入、下部経済機構や企業の自主裁量権の拡大、地方への分権化、対外貿易の自由化などが主な内容となる。すなわち計画化システムそのものの放棄が問題にされたわけではなく、この点が今日の「市場化」とは異なっている。
また、以上のような「経済改革」に対峙する言葉として「正常化」があり、改革が失敗するか、失敗させられた後、混乱した国内経済を建て直すため、中央計画化システムを再強化する方向の行政的改革を実施することを意味していた。「正常化」は、東欧諸国の当時の体制側が使った用語であり、欧米諸国では改革の「逆行」の意味に使われるのが一般的である。

3 政治改革と経済改革の試行錯誤
東欧諸国の経済改革の変遷
東欧諸国のソ連計画化システムにもとづく経済発展路線は、1950年代末期から1960年代初期にかけて行き詰り傾向をみせ、各国とも程度の差はあれ経済困難を経験し、経済成長率は鈍化した。
東欧各国では、この難局を克服する手段として、1960年代前半から中葉にかけて、新しい経済管理システムの導入をめざす議論が活発化し、実際にも各国で「経済改革」が着手されたのである。
ユーゴスラビアでは、スターリンのソ連との対決という状況があって、早くから過度に中央集権的な計画化システムに対する批判が強く、1950年には人民議会で「自主管理」が採択され、労働者自主管理の方向が決定された。そして経済計画の役割の縮小、企業の自主性の拡大。地方分業が基本方針となった。1965年に実施された経済改革によって「市場」が全面的に導入されて以来のユーゴスラビアでは、「市場社会主義」の呼称にふさわしい経済システムが機能し、他の東欧諸国とは一線を画す体制の国となったのである。

*自主管理社会主義Радничко самоуправљање(じしゅかんりしゃかいしゅぎ、セルビア・クロアチア語: radničko samoupravljanje, スロベニア語: delavsko samoupravljanje, マケドニア語: работничко самоуправување)は、第二次世界大戦後、社会主義化されたユーゴスラビア社会主義連邦共和国で導入された経済政策。
ポーランドでは、非スターリン化(スターリンは1953年3月に死去、フルシチョフが1956年2月のソ連共産党第20回大会で詳細にスターリンを批判)の過程で経済改革の気運が顕在化し、世界的に高名なオスカー・ランゲ教授の主導のもとに1957年、政府機関「経済評議会」が利潤動機の導入や企業の独立採算性を盛り込んだ経済改革案を発表した。しかし、同案は当時としてはあまりにも急進的とされ、政府に受け入れられなかった。1964~65年に、一定の範囲で企業の自主性を認める経済改革が実施されたが、中央政府が投資に関して強い決定権を留保し、改革の効果は小さかった。

*オスカル・リシャルト・ランゲ(Oskar Lange,Oscar Lange, Oskar Ryszard Lange、オスカール・ランゲとも、1904年7月27日 - 1965年10月2日)は、ポーランドの経済学者、外交官。ミーゼス、ハイエクらと経済計算論争を行ったことで有名。
東ドイツでは、1963年に「新経済制度」が導入され、1968年初めまで中央集権的計画化システムを緩和する方向の経済実験が試みられた。しかし「プラハの春」の崩壊があり、1969年以降は、中央計画化を重視する方向への復帰が決定的となった。


チェコスロバキアは、1960年代初頭に深刻な経済不振に陥った。1961年に開始された第三次五ヵ年計画は、1962年に中途放棄されてしまった。この危機を打開するため、市場原理の導入を支柱とする経済改革が提唱され、1964年9月には有力な経済学者オタ・シク教授を中心とするグループが発表した改革方針が党および政府の支持するところとなった。この基本方針にもとづいて、詳細な実行計画が作成され、1966年から実施されたのである。

*Češtinaチェコ語⇒Ota Šik, též Otto Schick[1] (11. září 1919 Plzeň – 22. srpna 2004 Sankt Gallen, Švýcarsko) byl český ekonom a politik pražského jara, člen ÚV KSČ. Ve známost vešel jako tvůrce hospodářských reforem, později často označovaných jako třetí cesta.
そして、市場原理の導入と企業活動の自由化は、経済を活性化させると同時に、政治・社会の改革運動を刺激し、「プラハの春」と呼ばれた全面的自由化につらなった。しかし、この改革は体制側の党官僚の地位を危くするものであり、また、体制の受益者であった多数の労働者にも失業やインフレの不安を抱かせることになった。このため、改革派と保守派の間で激しい衝突が生じ、国内は混乱したのである。
そしてソ連と他の東欧諸国は、チェコスロバキアでの自由化の進行に対する警戒をしだいに強め、最終的には1968年8月、ソ連をはじめとするワルシャワ条約機構五カ国軍が社会主義体制からの逸脱を理由にチェコスロバキアに侵攻、ここに「プラハの春」は崩壊したのである。その後ソ連の強圧のもとに「正常化」が実施され、中央計画化経済システムが再び強化された。そして、その時以来20年以上にわたって、チェコスロバキアで市場原理導入の線に沿う経済改革が日の目をみることはなかったのである。

*Magyarマジャール語⇒Az új gazdasági mechanizmus The New Economic Mechanism (NEM) a szocialista Magyarország gazdasági irányításának és tervezésének átfogó reformja volt, amelyet az 1960-as évek közepén készítettek elő, és 1968.
現実主義とバランス感覚が働いたハンガリーの改革
ハンガリーでは、ソ連の武力介入を招いた「ハンガリー事件」(1956年)の後、カーダル氏指揮下の新体制が対外関係ではソ連の意向に配慮しつつ、国内では現実主義感覚に支えられた上からの改革を実施し、しだいに国民の信頼を獲得していった。
カーダル氏が1961年12月に行なった「われわれの敵でないものは、われわれの味方である」という演説は有名である。1968年から導入された「新経済機構」では、中央の経済計画を総合指標の提示のみに限定し、市場原理を大幅に取り入れ、企業に大幅な自由裁量権を付与した。経済政策では、民生重視策を貫き、農業と商業・サービスの発展にもかなりの努力を払い、政治面でも部分的とはいえ自由化政策をとった。
そして、ハンガリーは、以上のような改革路線が成功して、1970年初頭以降、ユーゴスラビアを別にすれば、東欧諸国のなかでもっとも自由な雰囲気がある国に変容したのである。しかし、ハンガリーの経済改革が、その後も順調に進んだわけではない。市場原理の導入と対外経済開放は、インフレ、失業、所得格差の拡大などのマイナス現象を生み出したし、1970年中葉の国際石油危機からも大きな痛手を蒙った。
そしてそうした事態は、いつも改革批判勢力を強め、保守派対改革派の抗争を引き起こし、改革を停滞させた。だが、ハンガリーでは、最終的には現実主義とバランス感覚がよく働き、市場原理導入方向の経済改革が完全に中断されたことはなかった。試行錯誤が重ねられ、かなりの成果が現われたのはようやく1980年代後半になってからのことである。とはいえ、ハンガリーに対しては東欧における経済改革の先駆国という名誉ある国際的評価が与えられている。

維持された計画化経済システム
このように、スターリンの死去とフルシチョフによるスターリン批判が東欧に与えた衝撃はまことに大きかったわけであり、それは東欧における民主化運動の引き金となり、いま述べてきたようなさまざまな経済改革を呼び起こしたのである。
だが、1950年代と1960年代に東欧各国で試みられた大小の民主化・自由化運動は、社会主義のイデオロギーとソ連の支配力が絶大であり、東西対立が厳しかった当時の状況下では、結局は武力で制圧されるという結果になってしまった。経済改革も、チェコスロバキアの改革で実証された通り、それが進捗すると必然的に政治・社会改革、つまり民主化・自由化改革を呼び起こし、共産党の一党独裁体制を揺がす危険が強く、結局は中途半端で終ってしまった。
しかし、それは同時に、「正常化」を進めた各国政府が、国民生活重視の経済政策を実施して民心の宥和に努め、それがかなり奏功した事実も見逃すことはできない。ハンガリーもこの点では例外ではない。さらにいえば、1970年代前半は「米ソ・デタントの時代」として記憶され、東西双方が共に相手の存在を認め合い、共存に努めた時代であった。東西間の経済交流が著しく発展したのもこの時である。
こうして東欧諸国では、「東欧革命」の日を迎えるまで、計画化経済システムが維持されたのである。

繰り返される改革の試行錯誤
現在から見れば、「東欧革命」の意義があまりに大きいことから、東欧各国で大戦後の40年間に繰り返された経済改革の試みの意味が軽視されがちである。だが、今述べたところからも明らかな通り、それらの試みこそ今日の市場化につながっているのであり、それらが東欧経済の基本的条件から出発している点を見逃すべきではない。
また、政治改革と経済改革の試行錯誤は、現在の民主化・自由化改革と市場化改革においても繰り返されている点に注目する必要がある。換言すれば、どんな改革も一直線に短期間では実現されないということである。
「東欧革命」の後、各国は市場化をめざしてさまざまな具体的改革を実施した。しかしながら、チェコの経済パフォーマンスが比較的良好なだけで、その他の諸国ではおしなべて生産の激しい減少、失業者の著しい増加、大型国有企業の民営化の難航、対外債務問題の先鋭化、所得格差の著しい拡大、社会的アパシィと各種犯罪の激増等々、解決の難しい問題が明らかになっているのである。

Nouveau riche (French: [nuvo ʁiʃ]; French for 'new rich') Нувориш is a term used, usually in a derogatory way, to describe those whose wealth has been acquired within their own generation, rather than by familial inheritance. The equivalent English term is the "new rich" or "new money" (in contrast with "old money"; fr. vieux riche).
市場化の進捗に積極的に対応した人たちのなかから「ニュー・リッチ」と呼ばれる富裕層が早くも誕生し、ニュービジネスの繁栄がプラハやブダペストやワルシャワの都市生活を活気づけているのは確かである。しかしその反面では、低所得層がさらに貧困化し、明日への希望を見出せないでいるという現実を見逃すわけにはいかない。たとえば東欧で一番豊かなチェコで、今ホームレスの人たちが増えている。社会主義時代には、労働者の多くは企業が用意した住宅で生活していた。したがって市場化の嵐で失業した場合、かれらは職と住居を同時に失ってしまうわけであり、新しい住居を得るのは難しく、ホームレスに転落していくのである。

*Magyarマジャール語⇒A hajléktalanságホームレス egy életkörülmény, amelyben emberek nem rendelkeznek állandó, megfelelő minőségű és biztonságos lakhellyel.

Polskiポーランド語⇒Bezdomność – w ujęciu socjologicznym problem społeczny (zjawisko społeczne), charakteryzujący się brakiem miejsca zamieszkania (brakiem domu).

Češtinaチェコ語⇒Bezdomovec či bezdomovkyně[2] je někdo, kdo nemá domov či možnost dlouhodobě využívat nějaké přístřeší.
そして、急激な市場化が引き起こしたマイナスの現象に対して、各国国民の不満が高まったのは、当然である。1993年から1994年を通じて実施された各国の総選挙では、そうした不満票を集めた旧共産党系の政党が相次いで大勝し、政権への復帰を果たした。すなわち、ポーランドでは1993年の総選挙で旧統一労働者党系の「左翼民主同盟」が第一党に、旧体制下では翼賛政党であった農民党が第二党にそれぞれ躍進し、左翼連立政権が誕生した。
その後、ハンガリー(1994年5月)、スロバキア(同年9月)、ブルガリア(同年12月)でも旧共産党系が総選挙で勝利して、政権に復帰している。また、ルーマニアでは、チェウシェスク後も旧共産党系がそのまま政権の中枢を握っている。
ただし、これらの諸国で旧共産党系とはいっても、かれらは政治改革と経済改革に反対しているわけではない。急激な改革が引き起こした弊害を批判し、その是正をはかった国民の不満を和らげるため、漸進的に改革を進めようとしているのである。
試行錯誤は今後も繰り返されよう。

*Deutschドイツ語⇒Die deutsche Wiedervereinigung oder deutsche Vereinigungドイツ再統一(in der Gesetzessprache Herstellung der Einheit Deutschlands[2]) war der durch die friedliche Revolution in der DDR angestoßene Prozess der Jahre 1989 und 1990, der zum Beitritt der Deutschen Demokratischen Republik zur Bundesrepublik Deutschland am 3. Oktober 1990 führte.

*Deutschドイツ語⇒Die Deutsche Demokratische Republik (DDR)ドイツ民主共和国(東ドイツ) war ein Staat, der von 1949 bis zur Herstellung der Einheit Deutschlands im Jahr 1990 bestand.
4 中欧諸国の政治・経済の諸様相 
ドイツ統一と旧東ドイツの苦悩 1990年10月、ドイツ民族の悲願とされてきた東西ドイツ統一が実現し、東ドイツ(ドイツ民主共和国)は40年にわたったその国家としての歴史の幕を閉じた。
東ドイツは、中央計画化システムのもとで堅実な経済運営を実現し、東欧最高の工業国の地位と最高の生活水準を誇ってきた。だが、「ベルリンの壁」崩壊後の政変のなかで、政府が大規模な財政赤字や200億ドルを越える対外政務の存在を報告し、東ドイツ経済が苦況下にあることが明らかになった。

政変後には、一様の政治的・経済的真空状態が発生し、経済が破局傾向を強めるもとで、東ドイツは西ドイツに編入された。当初、東ドイツ経済が西ドイツ経済に急速に同化し、キャッチアップできるという予想と期待が大きかったが、第II章のなかでも述べた事由によって、東ドイツの国有企業は壊滅的な打撃を受け、倒産に追い込まれることとなった。自立した経済圏としての東ドイツ経済は完全に消滅し、不況が支配する灰色の一地域に転落したのである。旧東ドイツ地域における失業者が急増し、1994年の失業率は15~16%の高水準で推移した。
連邦政府の旧東ドイツ地区への財政支出負担は、当初の予想をはるかに上回って重く、旧西ドイツ経済全体にマイナスの影響を及ぼしている。ドイツ経済は、1993年に第二次大戦後初めて1・3%のマイナス成長を記録、戦後最大の不況に陥った。

統一のコストはまことに重かったわけである。だが、より深刻な難題は、東西ドイツ市民が統一のアイデンティティーを容易にもてないことである。40年以上にわたった相互に対立する体制下での生活が、同一民族に思考様式やライフスタイルを基本的に変化させてしまったとは考えられないのだが、旧西ドイツ市民の旧東ドイツ市民に対する優越感は抜きがたく、東ドイツ市民のコンプレックスは深まるばかりである。統一達成時の幸福感は早くもさめ、今では幻滅感がひろがっている。

若年層を中心に高まった不満は、ネオ・ナチNeonazismus(台頭著しい極右勢力の総称)による外国人居住者襲撃などの社会病理現象を生み出している。そして、そうした現象が旧東ドイツ地域で顕著にみられることは、旧東ドイツ地域の苦況を示している象徴であるとはいえないだろうか。

*Polskiポーランド語⇒Niezależny Samorządny Związek Zawodowy „Solidarność” – ogólnopolski związek zawodowy powstały w 1980 dla obrony praw pracowniczych, do 1989 również jeden z głównych ośrodków opozycji przeciw rządowi Polskiej Rzeczypospolitej Ludowej i komunizmowi.
ポーランド、色あせた連帯と高まる国民の不安
ポーランド語「ソリダリノスチSolidarność(連帯)」は1980年前半の一時、東欧における民主化・自由化運動のシンボルとして輝き、その人口における膾炙(かいしゃ)は1980年代後半におけるロシア語「ペレストロイカ」を凌ぐほどであった。
レフ・ワレサ議長率いる自主管理労働組合「連帯」は、1989年6月の第1回完全自由選挙で圧勝、同年8月には「連帯」主導の連立政権が誕生した。これによって、第二次大戦後40年以上にわたったポーランド統一労働者党(共産党)の権力独占に終止符が打たれ、東欧で最初の非共産党主導政権が誕生したわけで、その後における東欧の政治改革にはかり知れない影響を与えたのである。
ワレサ氏は1990年末に行われたポーランド最初の直接選挙に勝利を収めて、大統領に就任した。しかしながら「連帯」はその後、経済改革の方向をめぐって内部の対立が激化し、四分五裂してしまった。今日ではかつての面影はなく、その体質も変化してしまったといわれ、大統領自身も、その権威主義的言動を痛烈に非難されている。
ポーランド経済は1981~85年に実質ゼロ成長と不振をきわめ、1980年代後半にも著しい回復はみられなかった。そしてこの間に、対西側債務が膨張し続け、1950年末の債務残高は400億ドルを超えるまでになってしまった。
「連帯」政権は、成立後早々、経済立て直しの重い課題に立ち向かわざるをえなかったわけである。そして、「連帯」政権の下でこの課題に取り組み、急進的な市場化改革を推進したのが、レシェク・バルツェロビッチ副首相兼蔵相(当時)で、同氏が中心となって作成した改革プログラム「バルツェロビッチ・プログラムPlan Balcerowicza」は、いわゆる「ショック療法」の典型とされた。それは、金融・財政の健全化を目標とする安定化政策と市場化政策、つまりシステム転換政策の二本柱からなり、具体的には、計画化経済時代の行政的な経済管理機構の解体、価格の自由化、貿易の自由化、競争原理の導入、国有企業の民営化、私企業の育成などの諸政策を内容としていた。

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