日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆Europa Wschodnia/Europa de Est★『東欧 再生への模索』小川和男/Search for Eastern Europe regeneration Kazuo Ogawa/Recherche de la régénération de l'Europe de l'Est/ Suche nach Osteuropa-Regeneration⑦

トドル・ジフコフ氏は、その柔軟な内外政策によって、機を見るに敏なバルカン政治家の典型ともみなされ、ペレストロイカにもさっそく追従する姿勢を示した。しかし、78歳の高齢に達していたジフコフ氏の体質は、その言葉とは裏腹にあまりに旧態依然で、ペレストロイカの革新性とは本質的に相容れなかった。結局は、1989年に退任を余儀なくされたのである。
1990年代になってからのブルガリアの政局は、旧共産党が改名した「社会党Българска социалистическа партия」と反対勢力が結集した「民主勢力同盟Съюз на демократичните сили」の力が拮抗して、二転三転と揺れ動いている。1994年12月に実際の総選挙では、社会党が圧勝した。

*Българскиブルガリア語⇒Съюзът на демократичните сили (СДС)民主勢力同盟 е българска дясна политическа партия, наследник на едноименна политическа коалиция.

*Българскиブルガリア語⇒Българската социалистическа партияブルガリア社会党 (съкратено БСП) е лявоцентристка социалдемократическа[2] политическа партия в България.
苦難に満ちる市場化の試練
ところで、ブルガリアは「民主勢力同盟」政権の下で、価格の自由化、公共料金の改訂、貿易の自由化など市場化政策が進められたのであるが、GDPは1989~93年と5年連続して減少を記録、ハイレベルのインフレ(1994年は年率100%)と失業率(15~17%)が併存する難況が続いた。あるブルガリアの資料は、国民の約80%が貧困ライン以下の生活に苦しんでいると窮状をなげいている。

このように市場化の試練は、ブルガリアにとって苦痛に満ちたものになっているわけであるが、とりわけ農業における土地改革の難航は、GNPの約30%を農業生産と農業産物加工業が占めていた農業国ブルガリアに大打撃を与えている。社会主義時代のブルガリアでは、全農地の80%以上が「集団化」されていた。土地私有化の方向に沿って、1992年に集団農場の徹底した解体が敢行されたのであるが、その一方で旧所有者の確認の難しさや旧所有者側における消極的対応などが重なり、1994年初めまでに返還された農地は予定の45%程度であった。
このことはつまり、多数の零細農民が生れた一方、耕作されない所有者の定まらない農地や不在地主の大規模な農地が創出されたことを意味し、ブルガリアの農業生産は大幅に落ち込んだのである。
ソ連の経済支援が無くなったのも、ブルガリア経済にとって痛手であった。旧ソ連諸国との貿易、とくにブルガリアからの輸出は激減した。国民の不満が高じたのは当然で、1994年12月の総選挙における社会党の大勝は、そうした民意の反映であるといえよう。社会党は漸進的改革への軌道修正を主張している。しかし、難局打開のための名案があるわけではなく、ブルガリア経済の前途は茨の道である。

旧ユーゴスラビア 長引く紛争の影
旧ユーゴスラビアでは、激しい民族紛争がいつ果てるとも知れず、この地域の問題は全てが民族問題にかかわる政治・外交問題となってしまっているといってよい。経済問題は紛争の影に追いやられており、現実にも、正常な経済活動は停止している。
旧ユーゴスラビア経済は、前にも述べた通り、1960年代の早い時期から市場メカニズムをかなり大幅に導入した独自のシステムで運営されてきた。しかし、その実績はかんばしいものではなかった。
1980年代を通じて、四けた台の超インフレ、二けた台の失業率、減少の兆しもなかった200億ドルを超える対外債務の三重苦が続き、そのまま1990年代を迎えたのである。国内での北高南低の経済格差にも、少しの縮小もみられなかった。
激しいインフレは労働意欲を著しく減退させ、人々の精神までも損ない、社会的アパシィを生み出した。つまり、市場化の試練に今直面している東欧各国で大なり小なりみられている現象が、旧ユーゴスラビアでは早くから発生していたのである。
そして旧ユーゴスラビアでの経済混乱は、近隣諸国の経済にも大きな打撃を与えている。また、国連がСавезна Република Југославија/Savezna Republika Jugoslavija新ユーゴスラビアFederal Republic of Yugoslavia(セルビアとモンテネグロ)に対して経済制裁を決議していることは、新ユーゴスラビアにとって痛手であると同時に、近隣諸国の輸出入機会を奪っているのである。たとえば、ブルガリアは、国連の対新ユーゴスラビア禁輸措置によって30億ドル相当の損害を蒙った、としている。

*セルビア・モンテネグロ(セルビア語:Државна Заједница Србија и Црна Гора (СЦГ) /Državna Zajednica Srbija i Crna Gora (SCG)) は、東南ヨーロッパに存在した連邦国家(国家連合)State Union of Serbia and Montenegro。ユーゴスラビア国家の事実上の最後の体制であり、2003年にユーゴスラビア連邦共和国から改組・改称して発足した。2006年にモンテネグロ側が独立を宣言したことに伴い、セルビア側も独立宣言と継承国宣言をしたことで消滅した。

民族紛争が終息または下火になれば、北部の二つの先進国、つまり、スロベニアおよびクロアチアの経済回復はかなり早いとみられる。いずれにしても、現在のところ新ユーゴスラビアについては、経済制裁解除が何よりも待たれているといえよう。

*Shqipアルバニア語⇒Enver Hoxha (16 tetor 1908 – 11 prill 1985) ka qenë politikan komunist shqiptar që drejtoi shtetin shqiptar nga viti 1944 deri në vdekjen e tij në vitin 1985 dhe që konsiderohej një kriminel lufte dhe një kriminel i popullit.
アルバニア ヨーロッパ最後の社会主義国の崩壊
バルカンの小国アルバニア(人口約300万人、旧ユーゴスラビア解体までは東欧の最小国)は、第二次大戦中から40年以上の長きにわたって独裁者として君臨したエンベル・ホッジャ労働党第一書記(1985年4月に死去)のもとで純粋社会主義を標榜し、国際的孤立の道を進んできた。
*アルバニア労働党(アルバニアろうどうとう、アルバニア語:Partia e Punës e Shqipërisë)は、かつてアルバニアで一党独裁制を敷いた共産主義政党。1991年6月13日に解散した。
アルバニアは、第二次大戦後、隣接する大国ユーゴスラビア(アルバニアの人口の八倍強、国土の広さで約九倍)から大きな経済援助を受け、緊密な関係を形成しながら、1948年にチトーがスターリンのコミンフォルムから破門されると、ユーゴスラビアに激しい「修正主義」の非難を浴びせた。

1960年代初めには、フルシチョフを修正主義者と真っ向から糾弾してソ連と訣別し、1962年には「コメコン」から脱退した。その後1970年代半ばまで親中国路線がとられ、アルバニアにとって中国は唯一の友邦国であった。中国の経済援助がアルバニアにとって重要な役割を果たした一方、中国の国連復帰(1971年)はアルバニア案によって実現している。

しかし、中国と米国が国交を回復(1972年)した後、アルバニアと中国には亀裂が生じ、毛沢東死後(1976年)の中国の変化に対して、アルバニアは当然ながら修正主義のレッテルを貼った。これに対し中国は、1976年にはアルバニアに対する借款供与を停止し、技術者の総引揚げを敢行した。ソ連が1960年代初めに中国に対して行ったひどい仕打ちは後々まで批判されたが、中国がアルバニアに対してとった行為は全く同じものであったのである。アルバニアでは、多くの工業建設プロジェクトが未完工のまま放置された。

わたくしは1981年秋に初めてアルバニアを訪問し、自然の美しさと人々の貧しさに胸を打たれた。その時の旅行の印象と経済事情については、拙著『最近ソ連・東欧事情』(ダイヤモンド社、1983年)のなかで詳しく書いた。

Recently "Soviet Union / Eastern Europe" circumstances Kazuo Ogawa
/Недавно "Советский Союз/Восточная Европа" обстоятельства Кадзуо Огава
ところでアルバニアが長年にわたって国を閉鎖できたのは、まずその地理上の位置にある。ヨーロッパの果てのバルカン半島南端部の片すみにあって、北部と東部は旧ユーゴスラビア、南部はギリシャと国境を接しているが、それぞれが険しい山岳地帯であり、交通は容易ではない。西方だけがアドリア海に向かって開けている。鎖国主義をとったこのようなアルバニアに対して、ヨーロッパ諸国が払った関心は概して小さかった。
次に、アルバニアは、食生活は貧しかったものの、何とか食糧を自給できた。そのためには、農業は徹底的に集団化し、人力によって山間の乏しい平地をよく潅漑して、食糧生産を確保していたのである。また、小国ではあるが、石油、天然アスファルト、クロム燃料、鋼鉱石、ニッケル鉱石などの鉱物資源に恵まれ、豊かな水力資源もある。国内の電力需要は水力発電でまかなえ、小量ではあるがギリシャとユーゴスラビアに輸出されていた。石油についても、輸出余力があったのである。
アルバニア国内の工業の実力は、1980年代初めにようやく国産第一号のトラクターを製造できた程度であった。したがって、どうしても必要なものは、鉱物資源を輸出して獲得した外貨で買い入れられていたわけである。
アルバニアは、ホッジャ死後、ペレストロイカが追い風になって東欧各国で民主化・自由化気運が盛り上がり、東西冷戦が終結に向かう国際環境のもとで、門戸解放を模索し始めた。1988年2月に旧ユーゴスラビアの首都ベオグラードで開催された六カ国(旧ユーゴスラビア、ギリシャ、トルコ、ブルガリア、ルーマニア、アルバニア)外相会議に参加したのも、門戸解放策の一環であった。
アルバニアは、「東欧革命」の嵐が吹き寄せたときには、東欧で最後に体制転換を試みた国となった。だが、過去の「純粋社会主義」と完全孤立路線が制約となって、自由化と市場化に対する免疫が全くないままの転換は、非常に重い苦痛をともなったものになっている。
労働党政権が1990年5月に海外旅行の自由化を決定すると、たちまち同年6月には市民の大量亡命事件が発生した。その後、アドリア海を渡ってイタリアの海港に上陸しようとする多数のアルバニア人たちが入国を拒否される光景が世界中にテレビ放映される事件もあった。

また、国内生産が激減したのは、いうまでもない。人海戦術で維持されていた潅漑施設がたちまち壊れ、食糧確保は難しくなった。インフレが高進したのは当然である。
労働党は、民主化・自由化方針を打ち出し、自己変革に努めた。1991年には新憲法が採択され、正式国名は「アルバニア共和国」となって、「社会主義」が削除された。労働党の党名も、1991年6月、社会党に変更された。
*アルバニア社会党(アルバニアしゃかいとう、アルバニア語:Partia Socialiste e Shqipërisë)は、アルバニアの中道左派・社会民主主義政党。アルバニア民主党とともに同国の二大政党制を為す。
だが、そうした自己変革努力も、急激な改革を求める時流にはあがらえず、1990~91年と国内混乱が続いた後、1992年3月の総選挙で社会党(労働党)は敗退し、かわって民主党が政権についた。
*アルバニア民主党(アルバニアみんしゅとう、アルバニア語:Partia Demokratike e Shqipërisë)は、アルバニアの保守政党。アルバニア社会党とともに同国の二大政党制を成す。
アルバニア経済は、市場化促進をめざす民主化政権の下で、1993年のGDPがプラスに転じるといくぶんの回復傾向をみせている。国際機関と先進諸国政府の経済支援が開始されて成果を上げているが、今後も支援をいっそう拡大してゆくことが必要であろう。

第III章 難航する民営化と繁栄する外資系企業
1 民営化への圧力と困難な国有大企業の転換
市場化への長い道程
市場化、つまり計画化経済から市場経済へのシステム転換を実現するためには、計画化経済時代の中央当局による物財の配分、価格の決定、外国貿易の管理等々の行政的管理機構を解体し、価格の自由化、競争の育成、国有企業の民営化、私営企業の振興、新しい銀行制度の確立、貿易の自由化等々、多くの難しい改革課題を達成しなければならない。市場化は、したがって、必然的に長期的過程とならざるをえない。
1990年代初頭に東欧諸国で体制転換が本格化してから中葉の今までに、価格の自由化や貿易の自由化は、それが国民に甚大なコスト負担を強いながらも、比較的短期間に実現された。
それに比べて民営化は、市場化の進捗をはかるもっとも重要な尺度の一つとして重視され、各国でそれぞれ独自のプログラムが考察され、タイム・スケジュールがたてられながら、かけ声先行の観があり、円滑には進んでいない。

困難な大企業の民営化
欧州復興開発銀行(EBRD)が1994年10月に公表した『市場経済移行報告』は、旧ソ連・東欧の25カ国を対象に市場化の進捗状況を調査・分析した初めての報告書である。この報告によると、中欧諸国やバルト三国では、GDPに占める民営部門のシェアが、1994年半ばにはすでに、50~65%に達し、一見すると、民営化がかなり進んでいるようにみえる(表III1参照)。
だが、この報告でも指摘されているが、概して民営化が進んでいるのは、商業・サービス部門を中心とする中小企業においてである。また、GDPに占める民営部門のシェアの高さは、既存企業の民営化の成果もあるのだが、多くは新しく誕生した中小規模の私営企業の貢献によるところが大きい。そしてそうした新生企業の多くは、欧米企業の支援を受けたベンチャー企業であり、欧米からの直接投資の対象にもなっているのである。
これに対して大型国有企業の民営化は、ようやく着手されようとしているところで、今後の課題となっている。東欧諸国の市場化プログラム作成に関しては、IMFや世界銀行が強い発言力をもってかかわり、大型企業支援の条件として、ラディカルな市場化を要請し、とりわけ急速な民営化の推進を強く要請している。そして欧米諸国政府や日本政府もIMFや世界銀行に同調している。したがって、東欧諸国の施政者たちが受けている民営化促進への圧力は、きわめて大きいといえよう。
それにもかかわらず、大規模企業の民営化は難しく、なかなか着手できないでいるのである。東欧における大規模国有企業は、どの国でも鉄鋼、非鉄、石油化学、造船、兵器など重厚長大大型基幹産業に集中しており、社会主義時代には国の手厚い保護を受けていた。そしてこれら大企業の主力は、従業員数万人が普通の文字通りの大企業である。
貿易が自由化され、経済の対外開放が進み、国際競争の要素が重要な意味をもつようになった状況の下で、十分な準備もなく、大規模企業の民営化を一挙に実施した場合どうなるか。旧東ドイツ企業の約80%が旧西ドイツ企業との競争に敗れて倒産に追い込まれた事実を見るまでもなく、結果はあまりにも明らかなのである。
したがって、東欧各国政府としては、民営化推進のかけ声とは裏腹に、大規模国有企業の民営化については、漸進的に進めざるをえない。国有企業の経営者たちにおいても、急激な民営化には消極的で、強い抵抗を示す経営者も出ている。民営化した場合の経営悪化が明らかに予想され、失業の増大につながるという不安は、東欧のどの国でも非常に強く、深刻な政治・社会問題に容易に転化することがあるのである。

深刻化する失業問題
急進的な市場化の試みは、現実にすでに東欧各国で失業者を著しく増加させている。たとえばポーランドの失業者数は1994年6月末に300万人近くに達し、失業率は16・6%という高水準となった。これは、まことに困難な事態である(表III2参照)。
敬虔なカトリック信者が国民全体の90%以上を占めるポーランドでは、もともと東欧諸国のなかで人口増加率が高い。そして中欧四カ国のなかでは、もちろんずば抜けて高い増加率を示す。というのもカトリックの教義では、今も基本的には避妊を許していないことがその大きな理由なのである。このためポーランドでは、毎年社会に巣立つ若年の新規労働者が1980年代前半には約30万人を数え、社会主義時代の政府はかれらを吸収していくのに苦労し、経済政策においてはかなり高目の成長を見込まざるをえなかった。
一方、旧東ドイツ、旧チェコスロバキアおよびハンガリー三国の出生率は世界最低のそれであり、これらの国では恒常的な労働力不足に苦しみ、労働生産性の向上が必須の課題であった。三国にとって、原燃料と労働力の制約を考慮に入れた安定成長こそめざすべき方向であったのである。中欧諸国の失業問題を検討する場合は、まずはじめに以上のような基本的状況を考慮する必要があろう。
バルツェロビッチ教授(元ポーランド副首相兼蔵相)は、1993年2月に来日した際の記者会見で、「失業問題の発生は市場経済への移行期には避けられず、経済成長で吸収するしかない。成長がこのまま続けば雇用機会が増え、ポーランドの失業率は93年後半から徐々に低下するだろう」と述べている(『日本経済新聞』1993年2月13日付)。
バルツェロビッチ教授の「失業は経済成長で吸収する」という主張が正しいことはもちろんであるが、教授はこの時、成長率については言及しなかった。現実はどうかというと、ポーランド経済は1992~94年と三年連続のプラス成長率を確かに遂げたのであるが、失業者数はかえって増加する傾向を示した。ポーランドにおいて、年率2~3%の経済成長で、失業問題を改善することは、そもそも不可能なのである。

今後の経営体制のあり方
そして国民の間で高まった不安と不満は、結局、ポーランド、ハンガリー、スロバキアおよびブルガリアにおける旧共産党の政権復帰の要因の一つになった。
しかし、民営化したといっても、実際は、国有企業から株式会社に衣替えした企業の株式を民間部門に売却または譲渡しただけのことで、きわめて形式的なものである場合が多い。
また民営化の主要目標の一つである経営体制の刷新とはほど遠いケースがきわめて多く、旧国有企業時代の経営陣が旧態依然としてそのまま居座り、労働者も意識改革を行なっていない場合が大多数なのである。
社会主義は所得分配の平等を少なくとも建前とし、今日いわゆる「悪の平等」を表面上は実現していた。大多数の労働者はそのぬるま湯にどっぷりとつかり、少なくとも失業の心配はなく、食べる心配もなく、老後の安寧が保証されていた。わたくしは、ウィーン駐在の日本商社マンの何人かから、「若い時は西側の暮しが好ましいが、老後は東欧のどこかで暮らしたい」という言葉をきいたのをよく覚えている。東欧の労働者たちが厳しい競争社会に早急に適応できるとは、とても考えられない。
市場化が経済再建の「万能薬」とみられた時期は短かった。国連貿易開発会議(UNCTAD)は、早くもその1993年版『貿易開発報告』(1993年9月公表)のなかで、旧ソ連・東欧諸国の結果を急ぐショック療法は効果を期待できない、と指摘し、市場化の速度を緩め、アジアの新興工業諸国の成功にならって、政府が民間企業を支援し、民間資本の蓄積を促進する必要がある、と提言している。
市場化とは10~15年の長期的過程であり、その過程においては大規模国有企業の存続は必然的であって、その円滑な運営をはかって具体的対策を講じる必要があるのである。そしてこのことについて、東欧各国政府の当事者たちとIMFや世界銀行のアドバイザーたちの双方に十分の認識がなかったことが、市場化後の現存の混乱の要因となり、国民の不満を高めたのだともいえよう。

2 ニュー・ビジネスマンの誕生と所得格差の拡大
市場化の光と影
東欧諸国における市場化の試みは、これまでに述べたところであるが、生産の大幅な減少、財政赤字の拡大、インフレの激しい高進、失業者の急増、国民の間における所得格差の著しい拡大、生活水準の明らかな低下などなど、重大なマイナス成果をもたらし、国民に多大の犠牲を強いてきた。
だが、プラスの成果があったのも、もちろんである。何よりもまず、人々が万事お金で動く市場経済のシステムに慣れた。また計画化経済時代の市民に苦難を強いてきた「物不足」が解消された。加えて民主化・自由化の進展もあって、市民の日常生活が明るくなったということもある。
貿易が自由化され、西欧製や日本製の高級消費財も自由に輸入されるようになり、お金さえ出せば何でも入手できるようになった。これはわれわれ日本人にとっては、ごく当り前のことである。しかし、計画化経済時代の東欧では、お金があっても買うことができない品物がありすぎるほどあり、市民たちのフラストレーションは非常に高かった。それが解消されたわけである。
しかし、国民の生活が楽になったわけではない。かえって、苦しくなった人々の方が多い。高級品が商店やデパートのショー・ウィンドーを贅沢に飾っていても、簡単に手が出せるわけではないのである。それどころか、毎日の食料品や日用品の買物さえ、財布のひもを緊めているのが実状であるといえよう。最近数年間のようなインフレが続けば、今までの生活水準を維持できなくなるという不安が次第に人々の間でひろがっているのである。

ニュー・リッチの誕生
それにもかかわらず、わたくしは市民生活が明るくなったことに異論をとなえる人は少ないと思う。市場化の波に積極的に、あるいは巧みに乗って、新しい境地を切りひらき、ビジネス界で成功をおさめる人たちも輩出しているのである。過去にはこだわらない若い年齢層からそうした人たちが多く誕生しているのは、言うまでもない。
ニュー・ビジネスマンとかニュー・リッチとか呼ばれている人たちがかれらの典型である。ニュー・ビジネスマンたちは、比較的少ない元手で参入することができる商業・流通・サービス・レストランなどの諸分野で活躍し、ビジネスの範囲を日ごとにひろげている。外国企業と組む場合も多く、コンピューター・ソフト関連のベンチャー企業も生れている。
これらのなかには莫大な利益をあげる企業がいくつもあり、そうした企業の経営者たち一族がニュー・リッチ層を形成し、各国首都の高級品店やレストランを繁盛させているのである。また弁護士や医師も、市場経済のもとで、収入を著しく増やしている層に入る。
かれらのライフ・スタイルや消費行動は、もちろん個人によって差があるが、概して派手で、立派な別荘で余暇を楽しみ、メルセデスやボルボの高級車を乗りまわしたり、ヘリコプターまでもチャーターしたりするような人たちもいる。ニュー・リッチの数は各国ですでに数万人とみられ、ポーランドでは4万人といわれている(ジェルジー・バチンスキー「蔓延する市場経済への幻滅」、『東洋経済』1994年7月9日号、なお、バチンスキ氏はワルシャワの有力週刊誌『ポリティカ』編集長)が、一族を加えれば、かれらの生活ぶりは相当に目立つ存在であることは間違いない。

打撃を受ける国有企業労働者と農民たち

のように国民の間における所得格差が大きくひろがる状況のもとで、低所得層の人々のニュー・リッチに対する反感が著しく強まっているのは、当然である。
また、民主化・自由化運動の原動力であった「連帯」の労働者が、国有企業の民営化にともなって実施された合理化によって失業し、個人農が安い輸入品の流入で苦しみ、公務員も緊縮予算の堅持という政府の基本方針のもとで生活苦に喘いでいるという損失もある。かれらにとって、ニュー・リッチはまことに、目ざわりな存在であるといえよう。
経済構造は、首都と地方との間でも著しく拡大している。首都では、ブダペストでも、プラハでも、ワルシャワでも、ニュー・ビジネスが次々と生れ、金融機関の活動が活発化し、華やかな消費ブームが起こっている。一方で、地方では、反対の現象がみられている。軍需産業や重厚長大型の重工業企業が市場化に適応できず、大幅減産に追い込まれた地方都市では、深刻な事態が起こっているのである。
というのも、そういった小都市では、いわば「企業城下町」であり、雇用の大半は、中核となる大規模国有企業とその関連企業に依存していたわけであるし、医療、学校、厚生施設、デパートまでが企業によって経営されてきたため、その苦境はより一層厳しいものとなっているのである。
また貿易の自由化は、東欧諸国の西欧諸国向け農畜産品輸出よりは、むしろ西欧諸国からの加工食品輸入に寄与し、西欧産食料品が東欧諸国の国内市場を席捲するという事態になった。したがって、農村は大きな打撃を蒙ったわけである。
弱者を視野に入れた政策の必要性
東欧諸国政府は、以上のような事態に早急かつ真剣に対処する必要に迫られている。市場化の基本方針は堅持しながら、弱者の立場に配慮した社会福祉の充実にも努力を傾けるという難しい政策の舵取りが必要となっているわけである。
東欧諸国の国民の多くは、富の配分の点で社会的公平を今も重視し、公平の確保を条件に政府がある程度経営管理に積極的な役割を果たすことを許容しているともいえよう。東欧諸国の現政府によって立つもっとも重要な基盤は、この点にこそあるとわたくしは考える。
なお、各国政府にとって、貿易の自由化をめぐって、高い輸入障壁を固守するEUとの困難な交渉を辛抱強く続けてゆくことも、今後へのきわめて大切な課題であろう。

*オートクチュール(フランス語: haute couture)とは、パリ・クチュール組合(La Chambre Syndicale de la Couture Parisienne、ラ・シャンブル・サンディカル・ド・ラ・クチュール・パリジェンヌ、通称サンディカ)加盟店で注文により縫製されるオーダーメイド一点物の高級服やその店のこと。
*Magyarマジャール語⇒Pierre Cardinピエール・カルダン, eredeti nevén Pietro Cardini (San Biagio di Callalta, Olaszország, 1922. július 2. – Párizs, 2020. december 29.) francia divattervező és divatháztulajdonos.
3 ハンガリー製のピエール・カルダンー外資系企業の繁栄
伸びる西欧からの投資
ニュー・ビジネスマンたちが活躍している業界が主として商業サービス業、流通業やレストラン産業などであることは、先にも述べた。そして、これらの諸分野に加えた中小規模の加工工業が、欧米企業の活発な投資対象、つまり、外国資本の進出先となっているのである。
とはいえ、ドイツの「フォルクス・ワーゲン」社がチェコの自動車産業に投資したのをはじめ、近年では大規模な投資も目立つようになった。日本の「スズキ」もハンガリーでの乗用車生産に大型投資を行なった。
国連欧州経済委員会の資料によると、表IIIー5に示す通り、東欧諸国における外国投資件数は1994年6月末現在8万件を超え、しかも、1993年初めに比べた急増ぶりが際立っている。
国別の投資件数をみると、ルーマニアへの投資が3万件を超えて一番多い。しかし、このうち大多数は外国に住むルーマニア人が設立した零細なジョイント・ベンチャーであり、一件当りの投資額はハンガリーの六分の一にすぎない(ロシア東欧経済研究所『東欧経済・産業アトラス』1994年)。
それに対して、ハンガリーでは外資系企業が国民経済のなかですでに重要な地歩を占め、1992年のハンガリーのGDPの9%余、輸出の約16%を占めた。ポーランドでもチェコでも、外資系企業が台頭してきている。
東欧諸国への外国資本投下額については、資料によってデータがまちまちであるが、英国のシンクタンク「E・E・U」(「エコノミスト・インテリジェンス・ユニットEconomist Intelligence Unit」)の週報『ビジネス・イースタン・ヨーロープBusiness Eastern Europe 』から拾い上げてみると、1994年秋現在の累積投資額は、ハンガリーが最大で60億ドルを超える数字となる。次位はポーランドで40億ドルであり、1993~94年に著しく増加した。欧米諸国企業がポーランドに約束した投資額は約85億ドルにのぼっている。
チェコへの外資進出も急速に増え、累積額は25億ドルを上回った。以下、ルーマニアが約10億ドル、スロバキアが約5億ドル、ブルガリアが3・6億ドルとなっている。
欧米企業の直接投資の対象国として、市場経済の習熟度や制度、首都のブダペストが醸し出す安楽な雰囲気などから一番評価が高く、現実にも投資額が最大であったのは、ハンガリーであった。しかし、チェコやポーランドが市場化と対外開放化を積極的に進めるようになって、ハンガリーの優位は低下し始めている。
欧米企業の東欧諸国への進出、とくに直接投資の誘因は、もちろんさまざまである。東欧の安価で質の高い労働力を求めての進出、東欧における下請け加工基地の創建と維持、潜在的に大きい東欧市場の将来性を見込んでの進出、短期的な投資収益を狙っての進出等々、いろいろな誘因に導かれているのである。

ハンガリーへのさかんな企業進出
一方、東欧諸国にとっては、国内に資本の累積が少ないことから、外資流入の拡大は、経済発展のカギとなるきわめて重要なキィ・ファクターの一つである。かつて1970年代から1980年代初頭にかけて東欧諸国は、欧米諸国から受け取った工業完成品や工業生産設備に対する支払いとして、東欧側からの部品引き渡しをもって行なうという内容の相互供給契約を多く結んだ時期があり、それらを請け負った企業が、後年になって、東欧企業が下請け生産を行う合弁企業へと発展した。
欧米企業が、東欧諸国のなかで企業進出の対象国として最初に重視したのは、旧ユーゴスラビアは別にして、ハンガリーであった。ハンガリーは、第II章「東欧諸国の経済の特徴」においても述べた通り、1968年以来市場原理導入方向の経済改革で試行錯誤を重ね、対外経済開放に努力を傾けた国である。
また、東欧各国が概して機械工業の近代化や石油化学工業の建設を重視していた環境下において、ハンガリーだけは軽・食品工業の近代化に熱心に取り組んでいた。
西欧企業、とりわけドイツやオーストリアの企業はそうしたハンガリーに注目し、1970年代後半に盛んになった「東西産業協力」の一環として、当時ハンガリー企業との間で細々とした内容の共同生産契約や下請け生産契約を結ぶようになった。そして1980年代初めになると、ハンガリー企業が西欧企業との間で結んだそうした生産協力協定は、大小400件を超えるにいたったのである。
首都ブダペストでは、商店のショーウィンドーに有名な西欧ブランドの軽工業品が数多く陳列されるようになったが、それはハンガリーの工場で下請け生産された製品であった。すなわち、契約にもとづいて作られた製品は、大部分が西欧企業に納入された後、残りはハンガリー国内で売られたわけである。
わたくしは1980年代半ば頃、下町ペスト地区の繁華街パーツィ通りにあるブティック風の小店で「ピエール・カルダン」のハンドバッグとネクタイを大変安い値段で買ったことがある。もちろん、今述べたようにして作られた製品であった。東京では親類の女性たちが大変好いおみやげ、といって喜んでくれたものである。
近年では、東欧諸国全体では毎年1万件をはるかに超える直接投資が登録されているわけであるから、外資系企業が人々の日常生活のなかにさまざまな形で入り込んでいる。
ジェトロ(日本貿易振興会)のブダペスト事務所からの報告は、ハンガリーにおける最近の様子を生き生きと伝えている。少し長いが引用してみよう。
「朝食には、ラーマのマーガリン、ネッスルのココア、リプトンの紅茶、ヤコブのコーヒー、通勤の車はオペルからスズキ、仕事の後はスーパーへ行き、子供たちにはマグナムのアイスクリーム、母親にはロレアルの化粧品、父親にはマルボロのタバコを買い、家に帰ると、テレビはフィリップス、夕食はイグロ・フィッシェの冷凍魚食品。そして深夜番組をシーメンスのビデオで録画し、イケアのベッドで眠りにつく・・・。実際には、日常接するこうした商品の大半がハンガリーで生産されているのである。
製造部門だけではなく、流通部門における外資の流入も盛んである。例えば、オーストラリアの有力食品スーパー、エリウス・マインルや、同じくオーストリアの紳士・婦人・子供服の製造・販売チェーンであるクライダー・バウアーはじめ、最近ではスイスのメトロの進出が話題になっている。また通信販売ではオーストリア最大の通販会社クレル社が外資系企業などに勤める高学歴で比較的所得の高い女性をターゲットに進出している。」(「ブランドにこだわるハンガリーの消費者」、ジェトロ『VITA NOVA/WINTER-1994』)。
*Deutschドイツ語⇒JETRO steht für Japan External Trade Organization (jap. 日本貿易振興機構 nihon bōeki shinkō kikō, Japanische Außenhandelsorganisation).
過剰な広告とブランド信仰
チェコやポーランドでも、プラハやワルシャワをはじめとする都市生活において、ハンガリーにおけるのと同じような現象がみられている。テレビをはじめとするさまざまなメディアによる広告が急増し、長年の間広告のない日常生活に慣れきった東欧の人たちに強いインパクトを与え、広告にのせられたブランド信仰が蔓延していたのである。
外国からの直接投資は、資本、技術、機械・設備はもちろん、経営ノウハウの移転をともなっている。したがって、東欧諸国の市場化の進捗に関連して、欧米系企業が果たす役割はきまめて大きく、今後における東欧経済発展の鍵の一つを握っているといえよう。それだけに、外資系企業にも重い社会的責任があるといえるのである。

4 深刻な環境破壊
ハベル大統領の演説

バツラフ・ハベル氏(現チェコ大統領)は「ビロード革命」で中心的役割を果たした「市民フォーラム」代表として市民の間で非常に高い人気を博し、1989年12月29日、旧チェコスロバキア連邦議会(国会)で大統領に選出された。第二次大戦後の東欧で初めての、共産党出身でない国家元首の誕生である。
ハベル氏は、高名な劇作家でもあり、飾らない人柄で知られる。ラフな服装で公衆の面前に現われることもしばしばで、アメリカのロック・スター、フランク・ザッパFrank Vincent Zappaとうちとけて歓談したり、大統領就任直後には1000年の歴史が重いプラハ城(旧王宮・現大統領官邸)が広すぎるといって、部屋から部屋へスクーターで走り回って移動したりした。
プラハの高級レストランで会食中、派手な化粧とイブニングドレスの女優3人に囲まれて談笑するハベル大統領を見たわたくしの友人(日本人)は、大統領の印象を「まるで上品な中年ヒッピーだといって笑っていた。
だが、文人大統領は、インテレチェアルな演説が爽かであり、就任直後に行なった新年の国民向け挨拶(1990年1月1日)ではチェコスロバキアを「病める国家」と形容し、国民の心を打った。
大統領のその挨拶のなかには、以下のようなくだりがある。
「・・・わが国は繁栄しておりません。国民の創造的・精神的潜在性は有益に利用されていません。全工業部門が、なんの関心も存在しないような製品を生産している一方、国民が必要とするものは一切手に入らないのです。労働者国家を自称する国家が、労働者を抑圧し、搾取しているのです。旧式の経済は国民に十分行き渡っていないエネルギーを浪費しています。われわれは大地と河川と森林を破壊してしまいました。わが国の環境は今日、欧州で最悪なのです」(前掲、『東欧革命』岩波新書)。
ハベル大統領のこの発言の前半は、オーバーな表現である、とわたくしは思う。旧チェコスロバキア国民は、東欧のなかで最高の生活水準とゆとりを享受してきたのであるから。しかし後半は、社会主義時代に軽視されていた問題点を鋭くついているといえよう。体制転換が開始されて以降、東欧諸国では、どこでも深刻な環境破壊がにわかにグローズアップされているのである。

旧東独・チェコ国境地域の環境汚染
わたくしは1980年2月、ベルリンでこわされた壁の残骸を見た後、東ベルリン側のシェーネフェルト空港Flughafen Berlin-Schönefeldからプラハへ飛んだことがある。機は途中から、エルベ渓谷Dresdner Elbtalに沿って飛行するが、渓谷一帯の大気汚染は上空から見ても明らかなほどであった。チェコ国内を北流するラーべ川Die ElbeLabe)は、プラハ市内を貫流するブラタワ川Vltava(モルダワ川MoldauBedřich SmetanaスメタナFriedrich Smetanaの交響詩《モルダワ》で有名)と合流し、ドイツ国内に入ってエルベ川とその名を変える。つまり、大気汚染はチェコ国内に入っても続いていたのである。
翌1991年6月には、雨中を古都ドレスデンからプラハまでバスで旅行した。ドイツとチェコの国境地帯は山間である。ドイツからの出国手続きも、チェコスロバキア(当時)への入国手続きも、バスに乗ったままで済み、つい数年前まではチェコスロバキアの出入国管理が厳重をきわめたことを思い出し、わたくしとしては大変感慨が深かった。ところが、国境地帯の樹木は主として針葉樹であるが、ほとんどが赤茶けて元気がなく、それは明らかに大気汚染の影響によるものとみてとれた。
深刻な情況と欧米各国の対応
ポーランドにおける電化化学工業の一大中心地であるシレジア工業地帯の大気汚染も厳しく、ヨーロッパ中央部の汚染の発生源のように言われ、悪名が高い。住民、とくに子供たちの健康にも、深刻な影響を及ぼしている。
旧東ドイツが世界最大の褐炭生産国であり、発電用燃料の70%以上をこの褐炭に依存し、そのことが深刻な公害問題を引き起こしていたことは、前にも述べた。そして旧東ドイツほどではなくても、東欧諸国では概して旧式の火力発電設備を稼動させ、燃料として大量の石炭を利用しているのである。
これらに対して早急な改善策が必要であることは、東欧各国でもよく認識されている。しかし、具体的対策もなく、すべてが資金の問題となり、簡単には実行できない。天然ガスへの転換や原子力発電の利用となると、さらに難題である。ともかく、以下のところは国際協調や先進諸国による国際支援の枠組みを早急に作り上げることが必要なのである。
さらに化学・石油化学工業が元凶である河川や湖沼の汚染、土壌汚染も深刻である。社会主義時代の環境対策がきわめて不備なものであり、規制があっても曖昧でほとんど無意味、あるいは厳しい基準が定められていても大工場が無視していた等々の事態が、今日になって国内外から厳しく糾弾されるようになっている。
世界銀行とOECEが1992年に実施した北米および西欧の大企業約1000社を対象とする調査では、多くの企業が東欧への進出に消極的であり、500社以上は、少なくとも工場立地の環境の悪さを理由に進出を拒否したと伝えられている(英誌『エコノミスト』1993年9月18日号)。
県境保全の問題はこうして、今や東欧諸国が一刻も早く真剣に取り組むべき課題となっているのである。

5 ポーランドとアメリカの関係
ー米国在住ポーランド系市民の圧力
多数のポーランド系アメリカ人
ポーランドとアメリカの関係は、いろいろな点できわめてユニークである。それは何よりもまず、19世紀初め以来の長い移民の歴史があって、アメリカ国内に約600万人ものポーランド系市民が在住していることと関係があり、そのことが両国関係を決定する圧力として働くことがあるのである。
シカゴは約50万人のポーランド系市民を抱え、ポーランド人人口の大きさでは本国の首都ワルシャワに次ぐといわれるほどである。本国でも、シカゴを第二の首都と呼んでいる。わたくしが初めてアメリカを訪問したのは1978年、つまり、アメリカ独立200年祭の年であったが、シカゴの中心街ではポーランドへの団体ツアーを募集する立看板が目立った。また、200年祭を記念してニューヨーク港で行なわれた国際帆船競技では、遠来の優美なポーランド船「ダル・ボモルザ」号が優勝して、大変な人気であった。
*Polskiポーランド語→Chicago  – miasto w Stanach Zjednoczonych, położone nad jeziorem Michigan w stanie Illinois.
米国の各界で活躍するポーランド系の人たちも多い、政界、実業界、学界、芸術界、プロスポーツ等々、どの分野でも傑出したポーランド系のアメリカ人がいる。なかでもかの有名な国際政治学者ブレジンスキ教授や名画『チャイナタウン』のロマン・ボランスキ監督がポーランド系であることは、よく知られている。

*ズビグネフ・カジミエシュ・ブレジンスキー(Zbigniew Kazimierz Brzezinski または Brzeziński [ˈzbɪɡnjɛv brəˈʒɪnski], 1928年3月28日 - 2017年5月26日[2])は、アメリカ在住の政治学者。

*ロマン・ポランスキー(Roman Polanski、1933年8月18日 - )は、ポーランド出身の映画監督。
わたくしは後年、たった一度だけ、ボストンで大リーグ戦、「レッドソックス」対クリーブランド「インディアンズ」の試合を観たことがあった。それはたまたま、「レッドソックス」で長年四番バッターとして活躍したヤストレムスキ選手の引退試合であった。このポーランド系大選手が最後のヒットを放った時に球場を揺がした大歓声は今も耳に残っている。

*カール・マイケル・ヤストレムスキー(Carl Michael Yastrzemski, 1939年8月22日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州サウサンプトン出身の元プロ野球選手。
アメリカとポーランドの深いきずな
ポーランド人にとってアメリカは身近かな国であり、リッチな国である。カトリックで民族愛が強いポーランド人たちは、アメリカで少しでも成功すれば、必ずといってよいほど里帰りを果たし、かれらが持ち込むドルは東西冷戦たけなわの頃から、第二の通貨としてポーランド本国で流通してきた。
一方、アメリカもポーランドに対して特別に配慮をしてきた。第二次大戦後の早い時期から、ポーランドが東側の一国になっても、貿易における最恵国待遇を与えてきたのである。1989年6月の自由選挙で「連帯」が圧勝すると、7月には早くもブッシュ大統領(当時)がポーランドを公式訪問し、米国の民主化支援を明言した。ブッシュ大統領はこの時、アメリカ首脳として初めてポーランド国会で演説し、ポーランドの経済改革を先進諸国が協調して支援する内容の「行動計画」を発表している。

*Polskiポーランド語⇒George H.W. Bush, właśc. George Herbert Walker Bush, również George Bush sr. (ur. 12 czerwca 1924 w Milton, zm. 30 listopada 2018 w Houston) – amerykański przedsiębiorca naftowy i polityk.
また、アメリカのポーランドに対する特別な配慮は、両国間の旧い歴史関係にも由来していると考えられよう。アメリカが独立戦争で苦戦した時、ポーランドのコシチューンコ将軍Tadeusz Kościuszkoやプアスキ将軍Kazimierz Pułaskiが米国のために働き、武勲をたてたことはよく知られている。
建国の父ワシントン総司令官の副官であったコシチューンコ将軍は、サラトガの会戦Battle of Saratogaで英国軍に勝利した英雄として名高い。フランクリンに乞われて活躍したプアスキ将軍も独立戦争で戦死した。両将軍とも、独立戦争時の功績をたたえられて、記念像が首都ワシントンの目抜きの場所に建てられている。
ポーランド人も、アメリカ人も、少年少女時代に受ける歴史教育のなかで、両国に共通の国家的英雄について学ぶのである。

ポーランド系アメリカ人たちの圧力
一方、アメリカ政府が、ポーランド系市民600万人の圧力を背景に、厳しい対ポーランド外交を展開する時もある。ヤルゼルスキ将軍が「連帯」運動による国内混乱の収拾をはかって施行した戒厳令(1981年12月)に対して、レーガン政権(当時)は、西欧諸国や日本に対ポーランド経済制裁を呼びかけるとともに、自らが厳しい経済制裁措置をもった。
この、米国の経済制裁は、きわめて有効に働いた。ポーランド政府によれば、この時に蒙った損害は100億ドルを上回り、ポーランド経済への痛打となったのである。
だが、両国関係が、大使の交戦停止にまで及んで、歴史上最悪の状態に陥ると、アメリカ国内では経済制裁に対する批判が高まり、ポーランド系市民の圧力も両国関係の改善を求める方向へと変化した。1987年3月、アメリカ政府は対ポーランド経済制裁を全面的に解除、同年9月には当時のブッシュ副大統領がワルシャワを訪問し、両国関係は正常化したのである。
アメリカの対ポーランド援助
アメリカ政府は、体制転換を進めるポーランドに対する先進諸国の経済支援において先頭に立ち、主導権を握っている。先進諸国のポーランドに対する具体的援助額もかなりの規模になり、ポーランド経済の活性化に一定の効果をあげた。
しかしながら、1980年代末期に480億ドル近くに達したポーランドの対外債務は一向に減らず、年間の利子支払いだけで50億ドル近くが必要という重圧であった。このため、ワレサ・ポーランド大統領は、先進諸国に対して、機会あるごとに多額の新規融資と対外債務削減を懇願していた。
アメリカ政府はこの対外債務削減問題でもイニチアチヴをとり、1991年4月のパリ・クラブ会議においてポーランドの公的債務の50%を削減することで合意が成立したことは、第II章「東欧諸国の経済の特徴」で述べた通りである。
一方、東欧の他の国とアメリカの関係には、ポーランドとアメリカとの間にあるような特別な関係はみられないようである。アメリカ映画『フラッシュ・ダンス』で日本でもかなり知られたるようになったピッツバーグは、ハンガリー系市民が多数居住する鉄鋼の町であるが、ハンガリーの人たちは、ピッツバーグについて、ポーランド人たちがシカゴに抱いているような思い入れはもっていないように思う。

























































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