日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

«Je me souviens/I remember»『🍁カナダ―二十一世紀の国家/Le Canada—La nation du 21e siècle/Canada: A Nation in the 21st Century』馬場 伸也Nobuya Bamba〔2022/10/10Ричмонд-Хилл (Онтарио)☭☆Antid Oto〕①


①カナダ加拿大(英・仏: Canada、英語発音: /ˈkænədə、フランス語発音: /kanada/ カナダ)は、北アメリカ大陸北部に位置し、10の州と3の準州からなる連邦立憲君主制国家。首都はCity of OttawaオタワVille d’Ottawa。アメリカ合衆国United States of Americaと国境を接する。国土面積はロシアРоссияに次いで世界で2番目に広い。イギリス連邦Commonwealth of Nations加盟国で、英連邦王国の一つである②Le Canada캐나다 (prononcé /kanadɔ/5 Écouter ou /kanada/6 Écouter ; en anglais /ˈkænədə/7 Écouter) est un pays d'Amérique septentrionale③CanadaКанада is a country in North America. Its ten provinces and three territories extend from the Atlantic Ocean to the Pacific Ocean and northward into the Arctic Ocean, covering over 9.98 million square kilometres (3.85 million square miles), making it the world's second-largest country by total area.

カナダ―二十一世紀の国家/Le Canada—La nation du 21e siècle/Canada: A Nation in the 21st Century(1989)
西側陣営に属しながらも機能主義外交を追求することによって自国のアイデンティティを確立し、二言語・多文化主義を樹立して国内の多民族間の共存を図っている国。本書は“軍事小国”を貫くカナダの歴史、政治機構、外交路線、社会体制、日加関係等を豊富な資料で紹介し、「パックス・ディプロマティカ」時代に向けての日本の選択に示唆を与える。

Un pays qui a établi sa propre identité en poursuivant une diplomatie fonctionnaliste, même s'il appartient au camp occidental, et s'efforce de faire coexister plusieurs groupes ethniques à l'intérieur du pays en établissant le bilinguisme et le multiculturalisme. Ce livre présente l'histoire, l'organisation politique, la ligne diplomatique, le système social, les relations Japon-Canada, etc. du Canada en tant que « petit pays militaire » avec une documentation abondante, et suggère les choix du Japon pour l'ère de la « Pax Diplomatica ».
A country that has established its own identity by pursuing functionalist diplomacy, even though it belongs to the Western camp, and has established bilingual and multiculturalism to promote coexistence among multiple ethnic groups within the country. This book introduces Canada's history, political organization, diplomatic line, social system, Japan-Canada relationship, etc. as a "military small country" with abundant materials, and suggests Japan's choices for the "Pax Diplomatica" era. give.
①馬場 伸也(ばんば のぶや、1937年3月25日京都府出身 - 1989年10月6日)は、日本の政治学者、元大阪大学法学部教授。専門は、国際政治学、カナダ研究、平和学、国際社会学②Nobuya Bamba (25 mars 1937[1] - 6 octobre 1989) était un politologue japonais et ancien professeur de droit à l'université d'Osaka. Spécialisé en politique internationale, études canadiennes, études sur la paix et sociologie internationale③Nobuya Bamba (March 25, 1937[1] – October 6, 1989) was a Japanese political scientist and former professor of law at Osaka University. His specialties are international politics, Canadian studies, peace studies, and international sociology.
まえがき
カナダは、ソ連СССРに次いで世界第二に大きな国家で、その領土は997万6040平方キロメートルである。これは日本の国土面積の26・4倍。世界の陸地面積の15分の1にあたる。いたって豊富な天然資源を有するが、人口は稀薄である。なにしろその広大な領土に、2500万人(東京の人口の約二倍)しか住んでいないのだから。したがって未開拓のフロンティアが随所に広がっている。しかも高度に近代化され、「The Group of Seven (G7)主要先進国首脳会議Groupe des sept (G7)(サミット)」のメンバーでもある。そこで、アメリカ合衆国にあるハドソン・インスティチュートHudson Instituteの所長であったハーマン・カーンは、かつて、「21世紀にもっとも飛躍的な発展を遂げる国家はカナダと日本だろう」と、予言したことがあった。
*ハーマン・カーン(Herman Kahn(ユダヤ系)、1922年2月15日 - 1983年7月7日[1])Герман Канは、アメリカ合衆国の未来学者、軍事理論家。一般システム理論の論客として知られる。シンクタンクのハドソン研究所創設者。京都産業大学学事顧問。
しかし、小著の問題を『21世紀の国家』としたのは、そうした未来に大いなる発展性を秘めている国という含意をもたせたかっただけではない。カナダは「21世紀の国家」と名づけるにふさわしい社会体制、政治機構、外交路線を具備している、と感じたからである。
現在過半数の国家はその内部で、多様な言語的・文化的アイデンティティをめぐって葛藤している。この傾向は、将来もっと深刻になりこそすれ、緩和されることはなかろう。ところがカナダは、「二言語主義Official Bilingualism・多文化主義Multiculturalisme」を樹立することによって、多民族間の”Coexistence pacifique平和共存Peaceful coexistence”を上手に図っている。さらには、”ミニ・アメリカ”と間違えられないように、この「二言語主義・多文化主義」を新しい独自の国家的アイデンティティとしているのである。
多くの国々に分離・独立運動があり、血なまぐさい内乱やテロ・ゲリラ活動が見られるのも現状である。カナダも1960-70年代、ケベックの激しい分離・独立運動に悩まされた。だが多極共存型連邦制を導入することにより、その危機を平和裡にほとんど乗りきった。この政治機構改革はまだ”実験中”ではあるが、分割化された地域主義が跋扈する国々にとっては、その解決策としての一つの指標となろう。またこの「実験」は、政治学的見地からも大いに興味をそそられるものである。
*ケベック独立運動(ケベックどくりつうんどう、フランス語:Mouvement souverainiste du Québec、英語:Quebec sovereignty movementДвижение за суверенитет Квебекаは、カナダにおけるフランス語圏であるケベック州が英語圏からの分離独立を目指す政治運動であり、イデオロギーである。
膨大な軍事力を背景に秩序形成を図ろうとした「パックス・アメリカーナ」や「Pax Sovieticaパックス・ソビエティカПакс Советика」は崩壊した。それらに代って、「パックス・ディプロマティカ」(外交による世界秩序形成)の時代が到来しようとしている。そうした世界情勢にあって、これから問われるのは外交の”質”である。
*パクス・アメリカーナ(羅: Pax Americana(パークス・アメリカーナ)Американский мир)とは、「アメリカによる平和Peace by America」という意味であり、超大国アメリカ合衆国の覇権が形成する「平和」である[1]。ローマ帝国Imperium Romanumの全盛期を指すパクス・ロマーナPax Romana(ローマによる平和)に由来する。「パクスПакс」は、ローマ神話Roman mythologyに登場する平和と秩序の女神である。
カナダは軍事小国でありながら、機能主義外交を追求することによって、世界史における自国の”存在証明”を確立すると共に、世界平和に貢献すること大である。向後、「福祉Welfare国際社会International community」の構築を目指して、すべての国家はカナダのように機能ベースで、それぞれ独自の機能と役割を果たしていくべきであろう。
幾つかのアンケート調査が示しているように、「一度行ってみたい国」として、カナダはスイスと並んで、常に上位にランクされている。けれどもほとんどの場合、われわれはカナダに対して、ただ「森と湖におおわれた美しい国」というイメージしか抱いていないのではないだろうか。カナダはわれわれが学ぶべき沢山のものを提供してくれる。それに太平洋によって隔てられてはいるが、日本の隣国である。この国は日本の近・現代史に、少なからず影響も及ぼしてきた。
これから日本は、カナダのような平和国家ともっと緊密に相提携し、国際政治における緊張緩和や途上諸国の開発に、一層積極的に協力し合っては如何か。読者の忌憚のないご批評を仰ぎたい。

オー・カナダГимн Канады(英語: O Canada、フランス語: Ô Canada、イヌクティトゥット語: ᐆ ᑲᓇᑕ!)は、カナダの国歌캐나다의 국가Гімн Канади啊(噢!),加拿大。1880年6月24日、ケベックの建国記念日の式典に向け愛国歌としてカリサ・ラヴァレーCalixa Lavallée(ケベック州の作曲家)が作曲、アドルフ=バジル・ルーチエ卿Adolphe-Basile Routhier(ケベック州の判事)がフランス語で作詞、式典で初めて歌われた。英語の訳詞は1906年までは無く、2年後の1908年に現行の歌詞の元となるものがロバート・スタンリー・ウィアRobert Stanley Weir(ケベック州の法律家)によって書かれた。

第1章 カナダの歴史ー漸進的国家形成への道ー
1 カナダ史を読む
個人が社会化過程を通じてその人の個性を形成してゆくように、国家もその歴史の歩みにより国民性を構築していく。本章の「ねらい」は、歴史的出来事を年代順に詳述することではなく、カナダという国家の生い立ちやカナダ人気質、そしてそれらをつくり出した歴史の特色を把握することにある。そこでまず、その特色のいくつかをここに列挙しておこう。

カナダは長い間、フランスの植民地Nouvelle-Franceであり、次いでイギリスの植民地Province of Canadaであった。そこには「メイフラワー条約Mayflower Compact」も「独立戦争American War of Independence」も「独立宣言United States Declaration of Independence」もなかった。しかも独立戦争に反対した大量の「国王派Royalist」が、13植民地から、大西洋沿岸のノバスコシアや現在のオンタリオ州南部に逃亡してきた。そして現在のカナダと呼ばれる地域に住む人びとは、合衆国に加わらないかとの再三の誘いにもかかわらず、それを頑なに拒みつづけてきたのである。
①ノバスコシア州(英: Nova Scotia、英語発音: [ˈnouvə ˈskouʃə] ノウヴァ・スコウシャ。仏: Nouvelle-Écosse、フランス語発音: [nuvɛlekɔs] ヌヴェレコッス)Нова Шотландія чи Нова Скотіяは、カナダ東部の大西洋に面する州。州名はラテン語で「新たなるスコットランド人の国(New Scotland)」を意味する②オンタリオ州(英: Ontario 英語発音: [ɒnˈtɛərioʊ]、仏: OntarioАнтарыа (правінцыя)は、カナダの州の1つ。カナダの州の中では最も人口が多く、国全体の約3分の1がこの州に集まっており、カナダの政治・経済の中心となっている。
そんなわけで、カナダの歴史Histoire du Canadaはフランス人Françaisが入植してから19世紀の中頃までの約三世紀にわたって、いわば他律的に動いてきたといえるだろう。人びとの間には、新しい歴史を切り開いていくのだという自意識もあまりなかった。ちなみにカナダの初代首相ジョン・A・マクドナルドは、「わたしは英国国民として生れた。死ぬときもわたしは英国国民だ。カナダの最上の利益は、すべて、わが母国(イギリスのこと)とその忠誠にして愛する植民地(カナダのこと)とのつながりにある」と演説している。
*ジョン・アレグザンダー・マクドナルド(John Alexander Macdonald, 1815年1月11日[1] - 1891年6月6日)Джон Алекса́ндр Макдо́нальдは、カナダの初代および第3代首相。
しかしこの”植民地的メンタリティ”を強調しすぎては、カナダの国民性を誤解することになろう。1867年のコンフェデレーション形成へ向けての胎動の中に、すでに自律の芽生えも察知することができる。それ以後のカナダ史は、他律性と自律性との葛藤に彩られてきた。
ただ、カナダがアメリカ合衆国よりはるかに「保守的」なのは確かである。その証左に、カナダはいまだに立憲君主制を堅持しているのだから。そのかわり、カナダ人にはアメリカ人のような”征服Conquest”意欲はない。アメリカ人は自然を征服し、 American IndiansインディアンIndigenous peoples of the Americasを圧迫し、黒人Africans and African Americans奴隷Slavery in the United Statesを酷使して建国の緒についた。それに1840年代には、「マニフェスト・デスティニイ」という信仰体系のようなものもあった。こうした歴史が「パックス・アメリカーナ(アメリカ主導による世界秩序形成)」という野望を生みだす淵源ともなっている。
①立憲君主制(りっけんくんしゅせいMonarchie constitutionnelle、英: constitutional monarchyКонституцио́нная, парла́ментская или демократи́ческая монархияとは、君主の権力が憲法によって規制されている政体である②マニフェスト・デスティニー(英語: Manifest DestinyDestinée manifesteとは、元々はアメリカ合衆国の西部開拓を正当化する標語であった。「明白なる使命Clear mission」や「明白なる運命Clear destiny」、「明白な天命」、「明白なる大命」などと訳出される。Явне призначення (доктрина)
これに対してカナダ人にとっては、半年近い厳寒の冬をいかにして「生き残るか」が占有意識であった。それに、大国として急速に発展していく南からの強大な外圧に抵抗していかに「生き残る」かも、彼らのプリオキュペーションPreoccupationだった(この意識はいまもカナダ人に内在している)。「生存」ないしは「残存」はカナダ史全般を通じてのモチーフMotifである。
この姿勢は、早くからカナダの対外態度にも表れているー長年、英・米間の「輪止め(リンチピンLinchpin)」として、第一次世界大戦の頃からは、列強が熾烈なパワー・ポリティックスを展開する中で、自国の”存在”を知らしめ、同時にそれら諸国間の軋轢に対する一種の緩和剤として。カナダ外交の特質である「機能主義」(第4章参照)は、そうした自然・地勢・歴史環境によって育まれてきたのである。
ヌーベル・フランス(フランスの植民地)時代、人びとの経済活動の中心は毛皮交易であった。18世紀前半には、毛皮はヌーベルフランスの総輸出額の70%にも達したという。その毛皮交易に不可欠だったのが、先住民のインディアンAmerindianであった。したがって、土地を求めたニューイングランドの「独立自営農民」と違って、フランス人はインディアン(イロクワ族Iroquois Indiansを除く)と平和な友好関係を保った。
*毛皮貿易(けがわぼうえきTraite des fourrures、英: Fur tradeПушной промыселは、動物の毛皮を獲得し販売する世界的な産業である。毛皮が暖を採りやすい素材として衣類に使われたことで、16世紀のシベリアから産業として成長し、探検が進んだ北アメリカで発展した。19世紀前半に動物の乱獲のために絶滅が危惧される種が増えたこと、また衣類に対する嗜好の変化のために、今日、産業としては衰退している。
またカナダには、H・B・ストウ著『アンクル・トムの小屋』にも描かれているように、アメリカ南部の黒人奴隷にとって、あこがれの逃亡先でもあった。カナダには、逃亡奴隷に、隠れ場所から、お金、食べ物、衣類まで供与する「地下鉄道」と呼ばれる組織もあったのである。

①『アンクル・トムの小屋』(Uncle Tom's CabinLa Case de l'oncle TomХатина дядька Томаは、アメリカ合衆国のストウ夫人(ハリエット・ビーチャー・ストウHarriet Elizabeth Beecher Stowe)の小説②地下鉄道(英: Underground RailroadChemin de fer clandestinПодземная железная дорогаは、19世紀アメリカの黒人奴隷たちが、奴隷制が認められていた南部諸州から、奴隷制の廃止されていた北部諸州、ときにはカナダまで亡命することを手助けした奴隷制廃止論者や北部諸州の市民たちの組織。
要するにカナダの歴史には、アメリカのそれらに見られるほどインディアンや黒人を抑圧した痕跡はなく、むしろ彼らに対する「寛容の精神」が浮き彫りにされている。しかもフランスやイギリスの植民地であった頃の住民は、それら宗主国からの被抑圧者でもあった。カナダが平和国家であるゆえんは、このあたりにあるのではなかろうか。カナダは国連平和維持軍の支柱であり、いろいろな軍縮会議でも主導力を発揮している。

ヌーベルフランスがイギリスの植民地になった(1763年)後も、「フランス的事実」-約6万のフランス人、フランス語、Église catholiqueカトリックEcclesia Catholica信仰、フランス風文化と生活様式などが、カナダに、アメリカ合衆国とは異なった文化的伝統を培っただけではない。現代カナダのアイデンティティである二言語・多文化・多民族主義の礎石となったからである。
カナダはアメリカと同様、移民の国である。だが後者が人びとを一元的な価値や信条に収斂・統合し、いわゆる「るつぼ」社会をつくったのに対し、前者は世界各地から集まってきたそれぞれの民族のアイデンティティを認め、「モザイク」社会を形成した。そこでは人びとは互いに価値の多様性を是認し、相対的存在として、「妥協と協調」の精神で一つの国家を営んでいる。したがってカナダ人はアメリカ人のように絶対性を主張しない。カナダがよく列強間の紛争や対立の”調停役”にまわるのも、その国自体が相対的だからである。ただし、フランス系(現在全人口の26・7%)とイギリス系(40・2%)は、二つの異なった歴史観を持っており、前者はもっぱらケベックのみの歴史を書きつづけている(最近は若干の例外もある)。このことは、カナダの歴史を読むうえで、特に注意すべきことであろう。
①人種のるつぼ(英: melting potПлавильный котёлとは、多種多様な民族が混在して暮らしている都市、またはその状態を表す言葉②モザイクmosaic国家(mosaïqueМозаїкаとは、モザイクのように様々な人種・民族または宗教を持つ集団が入り交じって融け合わない状態の国家のことを指す。
アメリカ合衆国は革命的発展の歴史を遂げてきたが、カナダの歴史はいかにものろのろと漸進的である。なにしろカナダが完全な主権国家Sovereign stateとなったのは、1982年Constitution Act, 1982のことなのだから。このときやっと、カナダ憲法の基本法である「英領北アメリカ法British North America Acts」の改正権が、イギリス議会からカナダへ「返還」されたのである。

カナダ人が独自の市民権を獲得したのは1947年(それまでは英国臣民)、ニューファンドランドがカナダ連邦に加入して現代カナダの版図が最終的に決定したのが1949年、カナダ人がはじめて自国の総督になったのが1952年(それまではイギリス人)、国旗は1965年、ようやく正式の英語の国歌が決定したのは1960年のことである。お隣のアメリカ合衆国と比べて、なんと悠長な国であることよ。あるいは忍耐強いというべきか。
①ニューファンドランド・ラブラドール州(英: Newfoundland and Labrador [nʲuːfən(d)ˈlænd ænd 'læbrədɔr]、仏: Terre-Neuve-et-LabradorНьюфа́ундленд и Лабрадо́рは、カナダの州の一つ②ニューファンドランド島(英語: Newfoundland、フランス語: Terre-NeuveНьюфаундлендは、カナダの東海岸に位置する島。
このようにカナダは、イギリスとは一度も矛を交えず、「交渉と妥協」によって辛抱強く主権独立国家への道を築いてきた。あたかも、腰まで埋まる雪深い道程を、目的地に向って一歩一歩あゆんでいくように、この「交渉と妥協」の態度は、独自性の強い各州間や連邦政府・州政府間の関係を律するモットーである。それが、アメリカのフェデレーションFederationではなく、カナダのコンフェデレーションのユニークさを表徴している。そしてその態度がそのまま、外国と付き合うカナダのスタイルともなっているのである。

*Françaisフランス語→La Confédération(国家連合) canadienne ou Confédération du Canada est le processus par lequel trois colonies de l'Amérique du Nord britannique (Canada-Uni, Nouveau-Brunswick et Nouvelle-Écosse) se sont unifiées en une fédération sous le nom de Dominion du Canada.

①ファースト・ネーションPremières Nations(カナダ英語: First NationsКорінні народи Канади/Індіанці (рідше американські індіанці) は、カナダに住んでいる先住民のうち、イヌイットもしくはメティMétis以外の民族のことである。現在、カナダには50を超える民族に50種の固有言語を有する、630を超えるファースト・ネーションの共同体が存在②イヌイット ᐃᓄᐃᑦ− (Inuit) Инуитыは、カナダ北部などの氷雪地帯に住む先住民族のエスキモー Eskimo系諸民族の1つで、人種的にはモンゴロイドMongoloidである。

③ヌーベルフランス(フランス語: Nouvelle-France、英語: New FranceНовая Францияは、1534年にジャック・カルティエがFleuve Saint-Laurentセントローレンス川Lawrence Riverを探検した時期から、1763年のパリ条約により、スペイン帝国とグレートブリテン王国にヌーベルフランスを移譲した時まで、フランス王国が北アメリカに植民を行った地域である。
2 植民地時代
(1)ヌーベルフランス
カナダの先住民はインディアンとイヌイット(エスキモー)である。イヌイットはさておくとして、ヨーロッパ人と最初に出会ったインディアンの人口は約22万人と推定されている。彼らは言語的には12のグループに分れ、ほとんどの種族はまだ狩猟の生活の要とする石器時代に属していた。ただし、五大湖の南方に集住するイロクワ族だけは、すでにかなり農業に依存していた。
①五大湖(ごだいこGrands Lacs (Amérique du Nord)、グレート・レイクス、英: Great LakesВеликие озёраは、アメリカ合衆国及びカナダの国境付近に連なる5つの湖の総称。そのうち4つの湖上を両国の国境線が通る。水系は接続しており、上流から順にスペリオル湖Lake Superior、ミシガン湖Lake Michigan、ヒューロン湖Lake Huron、エリー湖Lake Erie、オンタリオ湖Lake Ontarioの5つの湖からなる②イロコイ連邦(イロコイれんぽうІракезы、英: Iroquois Confederacy)またはホデノショニ連邦(英: Haudenosaunee ConfederacyLes Iroquois, dont l'endonyme est Haudenosauneeは、北アメリカのアメリカ合衆国ニューヨーク州オンタリオ湖南岸とカナダにまたがった保留地を持つ、6つのインディアン部族により構成される部族国家集団をいう。今日ではシックス・ネーションズ(英: Six Nations)の別名で呼ばれることもある。

もっぱら毛皮交易を目的としてカナダにやってきたフランス人にとって、インディアン(とくにアルゴンキン族など)は道案内人として、また冬を生き残る生活の知恵を教えてくれる先住者として、とりわけ交易相手として、大切な存在であった。竹中豊は、「交易商人は積極的に先住民のなかに入っていき、彼らといわば一心同体的な協力関係をも築いていた。つまりヌーベルフランスの毛皮交易は、先住民とフランス人との強固な相互依存関係によってなりたっていた」と述べている(『概説カナダ史』)。「カナダ」という名前も、イロクワ語の「村落」という言葉からとったもので、元来、現在のケベック州地域を指した。

*アルゴンキン族Peuples algonquiensAlgonquian peoplesАлгонкины (группа народов)またはアルゴンキアン族は北アメリカに居住するアルゴンキン諸語を母語とする民族の総称である。北アメリカの先住民族では最も人口が多いグループである。かつては数十万人の人口を数えたが、現在の人口は数千人である。

北アメリカ史の開幕は、ルネサンスRenaissance期の冒険熱ー経済的要求、宗教的動機、東洋へのあこがれ、航海術の発達ーによってもたらされた。カナダを最初に本格的に探検したのは、1534年にフランス国王フランソワ一世の命を受けたブルターニュの一水夫ジャック・カルチエであった。彼は三度もカナダを訪れたが、それが直ちに植民活動につながったのではなかった。フランスでのあの血なまぐさいユグノー戦争(1562-98年)があったためである。
*フランソワ1世(仏:François Ier、1494年9月12日 - 1547年3月31日)Франци́ск Iは、ヴァロワ朝第9代のフランス王。

①ジャック・カルティエ(Jacques Cartier、1491年12月31日 - 1557年9月1日[1][2])Жак Картьє́は、フランス・ブルターニュ地方サン・マロ出身のブルトン人探検家・北米への侵略者。セントローレンス湾とセントローレンス川岸にヨーロッパ出身者として初めて到達し、イロコイ族の言葉からその周辺の土地を「カナダ」と名付け記述したことで知られる②ユグノー戦争(ユグノーせんそうFrench Wars of Religion、フランス語:Guerres de religion, 1562年 - 1598年)Релігійні війни у Франціїは、フランスのカトリックとプロテスタントが休戦を挟んで8回40年近くにわたり戦った内戦である。
フランスがヨーロッパ列強の植民地争奪戦に加わったのは、アンリ四世が即位し(1589年)、ブルボン朝を開いてからであった。その頃、毛皮交易は発展期にあり、アンリ四世は1602年にルアンの資本家グループに毛皮交易独占特許状を下付し、翌年には有能な航海家サミュエル・ド・シャンプレーンをカナダへ派遣した。
*アンリ4世(フランス語: Henri IV、1553年12月13日 - 1610年5月14日)Генрих IV (король Франции)は、ブルボン朝初代のフランス国王。

*サミュエル・ド・シャンプラン(Samuel de Champlain, 1567年または1570年 - 1635年12月25日)Самюэ́ль де Шампле́нは17世紀フランスの地理学者、探検家および地図製作者。フランス王アンリ4世の意向に従い、ケベック植民地の基礎を築いた。「ヌーヴェル・フランスの父」と呼ばれる。
彼は1605年にポール・ロワイヤルPort-Royal(現ノバスコシア州のアナポリス・ロイヤルAnnapolis Royal)に基地を、1608年にケベックに要塞を建設し、フランス植民地の基礎を築いた。しかし人びとは投機的な毛皮交易に夢中になり、また30年戦争(1618-48年)の混乱やイロクワ族の襲撃があったりして、植民地経営ははかばしくなかった。
*三十年戦争(さんじゅうねんせんそうGuerre de Trente Ans、独: Dreißigjähriger Krieg, 英: Thirty Years' WarТридцатилетняя войнаは、主にドイツ(神聖ローマ帝国)を舞台として1618年から1648年にかけて戦われた宗教的・政治的諸戦争の総称[1]である。
そんなヌーベルフランスが転期を迎えたのは、1663年に王領地となってからである。太陽王ルイ14世は重臣ジャン・バティスト・コルベールの支持を得て、フランス帝国構想の実現に乗り出し、ヌーベルフランスの構築はその重要な部分を占めるに至った。
①ルイ14世(仏: Louis XIV、1638年9月5日 - 1715年9月1日)Людо́вик XIV де Бурбо́нは、ブルボン朝第3代のフランス王国国王(在位:1643年5月14日 - 1715年9月1日)である②ジャン=バティスト・コルベール(Jean-Baptiste Colbert, 1619年8月29日 - 1683年9月6日[1])Жан-Бати́ст Кольбе́рは、17世紀のブルボン朝フランスの政治家。
そこでルイ14世は、まず、強力な軍隊を同地域に派遣し、イロクワ族を撃退した。同時に、フランスの地方政体を模倣した最高評議会を設け、その支柱である総督、司教、地方長官の三権力者を統治の任にあたらせた。こうしてヌーベルフランスの植民地経営は軌道に乗り、タロン地方長官(在1665-68年、69-72年)、フロンティナック総督(在1672-82年、89-98年)、ラバール司教(在1665-68年、69-88年)らの活躍もあって大いに発展し、やがてその版図はラブラドルからLouisianaルイジアナLa Louisianeに至るまで拡大された。定住者も1663年当時の約3000人から1688年には四倍近くに増加した。
①Françaisフランス語→Jean Talon, né en janvier 1626 (baptisé le 8 janvier 1626 à Châlons, actuelle Châlons-en-Champagne, paroisse Notre-Dame-en-Vaux) (France) et mort le 23 novembre 1694 à Paris (paroisse Saint-Sulpice) (France)Жан Талон граф Д’Орсенвиль, est connu principalement comme étant le premier intendant de la Nouvelle-France②Deutschドイツ語→Louis de Buade, comte de Frontenac et de Palluau (* 12. Mai 1622 in Saint-Germain-en-Laye; † 28. November 1698 in Québec) Луи де Бюад, граф Фронтенак и Паллюоwar Gouverneur der französischen Kolonie Neufrankreich in Nordamerika③Francis-Xavier de Montmorency-Laval, commonly referred to as François de Laval (30 April 1623 – 6 May 1708)Святий Франсуа́ де Лава́ль , was a French prelate of the Catholic Church.
この人口増加に関して注目すべきは、タロン地方長官が奨励した早婚・多産政策である。これがフランス人の間で慣習となり、後にケベック州がイギリス系で包囲されたとき、人口の自然増加によって「残存」し得た要因だからである。
もう一つ、後世のカナダあるいはケベックを理解するうえで重要なのは、人びとの生活の底深くまでカトリックの信仰が浸透したことである。1627年以降、フランスはヌーベルフランスの入植者をカトリック教徒に限定していた。
ところで、フランスが北米においてヌーベルフランスの領域を拡張していくにつれ、イギリスの植民地との摩擦も激化していった。それは単に英・仏間の植民地をめぐる権力闘争だけではなかった。J・M・S・ケアレスが指摘しているように、両植民地間のカトリックとプロテスタントProtestantの宗教的反目や、毛皮交易を求めてますます内陸部に進出していくフランス系の人たちと定住地の拡大をめざすイギリス系植民者との衝突もあった(『カナダの歴史』)。

①Canadian History: Land, People and Nation Tankobon Hardcover – April 1, 1978 by James Maurice Stockford (Author), Hiroshi Shimizu (Author)②James Maurice Stockford Careless OC OOnt FRSC (February 17, 1919 – April 6, 2009)[1] was a Canadian historian.
大西洋の前哨基地と目されるポール・ロワイヤルのあるAcadiaアカディアAcadie地方は、すでに17世紀初頭から、イギリスとフランスが何度も分捕り合戦を繰り返していた(「アカディア人」英語では「アケイディアン(Acadians)」、フランス語では「アカディアン(Acadien)」と呼ばれる)。そして植民地問題は本国の勢力圏抗争と直結しているので、ヨーロッパでの戦争はそのまま北アメリカへ飛び火した。

この構図が明らかになったのはWar of the Grand Allianceアウクスブルク同盟戦争Guerre de la Grande Alliance(1688-97年)のときで、北アメリカではKing William's Warウィリアム王戦争Première guerre intercoloniale(1689-97年)があった。次いでGuerra de Sucesión Españolaスペイン継承戦争War of the Spanish Succession(1701-13年)はQueen Anne's Warアン女王戦争Deuxième guerre intercoloniale(1702-13年)を、Österreichischer Erbfolgekriegオーストリア継承戦争Guerre de Succession d'Autriche(1704-48年)はKing George's Warジョージ王戦争Troisième guerre intercoloniale(1744-48)を伴い、ついにSeven Years' War7年戦争Siebenjähriger Krieg(1756-63年)のときは北アメリカではFrench and Indian Warフレンチ・アンド・インディアン戦争Guerre de la Conquête(1754-63年)が勃発し、フランス側はイギリス側の軍勢に惨敗した。そして、1763年の「パリ条約」で、フランスは北米大陸の全領土を失い、ヌーベルフランスはイギリスの支配下に置かれることになったのである。

*パリ条約(パリじょうやく、英語: Treaty of Paris、フランス語: Traité de Paris)は、ヨーロッパの七年戦争と北アメリカ大陸のフレンチ・インディアン戦争[1]とインドのカーナティック戦争などの講和条約。1763年2月10日にグレートブリテン王国、フランス王国、スペイン帝国の間で締結され、欧州外での覇権は(西欧諸国の中では)グレートブリテン王国(大英帝国)が握る時代の幕開けとなった[2]。

①ジュ・ム・スヴィアン(仏:Je me souviens)は、「私は忘れない」という意味のフランス語で、カナダのケベック州の公式モットーである②« Je me souviens » est la devise du Québec. Gravée dans la pierre lors de la construction de l'hôtel du Parlement du Québec, cette courte phrase est sujette à plusieurs interprétations quant à son sens exact, sachant qu'elle a trait à l'histoire du peuple québécoisJe me souviens (French pronunciation: ​[ʒə mə suvjɛ̃]) is the official motto of Quebec, and translated literally into English means: "I remember." The exact meaning of this short sentence is subject to several interpretations, though all relate to the history of the Quebec people.
(2)英領北アメリカ
国敗れて山河あり、というけれど、ニューフランスには山河のみならず、「フランス的事実」が残存した。というよりも、フランス系カナダ人は自分たちが”被征服民族”に陥れられたことを「Je me souviens私は覚えているジュ・ム・スヴィアン」を標語に、その地に、フランス系民族と文化の孤塁を守りぬくことを決意した。
その結果、1763年10月の国王宣言による同化政策は結局失敗し、代って1774年には「ケベック法」が制定された。同法は荘園制度の保証、カトリック信仰の許可、フランス民事法、財産法の施行等、ケベックの伝統的な政体、法秩序、文化をおおむね認めることによって、フランス系カナダ人のイギリス国王への忠誠を確保しようとするものであった。
*ケベック法Acte de QuébecQuebec ActАкт о Квебе́ке 1774 годаは1774年にイギリス議会において可決され、翌75年5月1日より発効したイギリス領北アメリカのケベック植民地の統治に関する法律である。
1774年といえばアメリカ独立戦争の前年であり、同法がケベックを13植民地の不穏な動きから”隔離”することを意図していたことは言うまでもない。しかし、イギリスの「権威主義」的態度は、13植民地の人たちを刺激し、かえって火に油をそそぐことになった。カナダ史においてさらに重要なのは、このイギリスの措置が、ケベックをますます特殊地域にしてしまったことである。
American Independence Revolution独立革命Révolution américaine(1775-83年)はアメリカ合衆国を誕生させたばかりでなく、後にカナダという国家を形成する基盤をも築いた。まず、ケベックのフランス系は”ヤンキー”に併合されるよりも、次善の策として、「フランス的事実」を認めるのに寛大なイギリスの植民地として留まる道を選んだ。
*ヤンキー(英: Yankee、英語発音: [ˈjæŋki](ヤンキ))양키Янкіは、アメリカ合衆国北東部に住む白人に対する俗称である。アメリカ国外においては南部を含むアメリカ人全体に対する俗称、または蔑称。中南米のスペイン語圏では "Yanqui" と綴る。

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