日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

«Je me souviens/I remember»『🍁カナダ―二十一世紀の国家/Le Canada—La nation du 21e siècle/Canada: A Nation in the 21st Century』馬場 伸也Nobuya Bamba〔2022/10/10Ричмонд-Хилл (Онтарио)☭☆Antid Oto〕②


次に、ノバスコシア(もとのアカディア)には、三万人もの「国王派」が一挙に逃亡して来て、そこに新しい社会をつくった。そして、ケベックの西部地域(現オンタリオ)にも、大量の「国王派」が流入しつづけた。
なにしろ、13植民地人口の約三分の一は「国王派」だったといわれている(そのうち約五万人はイギリス本国に帰るか、英領西インド諸島へ移住したが)。彼らもそこに、”イギリス風”社会を形成した。こうして、反革命・保守的カナダ風土ができ上がっていったのである。

*西インド諸島(にしインドしょとうВест-Индия、せいインドしょとう[1][2]、英語: West Indies、スペイン語: Indias Occidentales、フランス語: Antilles (Indes occidentales)、オランダ語: West-Indië)は、南北アメリカ大陸に挟まれたカリブ海域にある群島である。
イギリスはケベック地域で相反するフランス系とイギリス系を切り離し、同時に植民政策の特徴である分割統治をいかして、1791年に「立憲条例」(一名「カナダ法」)を制定した。それによってケベックは、オタワ河を境界線にフランス系住民の多い東をロワーカナダ、イギリス系の多い西をアッパーカナダの二つの植民地に分けられることになった。前者は現在のケベック州、後者はオンタリオ州である。ここに、フランス系とイギリス系の二つのカナダが分立することになった。この二つの植民地に加えて、当時の北アメリカには四つの植民地ーニューファンドランド、プリンス・エドワード島、ノバスコシア、ニューブランズウィックーがあった。
①植民地統治法 (1791年) (Constitutional Act 1791)L'Acte constitutionnel de 1791聖職者養老法1791として知られる1896年から、ジョージ3世George IIIの31年目にウェストミンスターWestminsterで可決され、第31章として項目化された制定法は、一般に植民地統治法1791として知られていました。これは英国議会法でした②ケベック州(ケベックしゅう魁北克省퀘벡주、仏: Québec [kebɛk] ケベク、英: Quebec [kwɨˈbɛk] 、[kɨˈbɛk] クェベック、ケベック)Квебекは、カナダ東部の州の1つである。当州の公用語はフランス語だけであり、明白なフランス語圏である。

①ローワー・カナダBas-Canada(英:Lower CanadaНижня Канадаは、現在のカナダ、ケベック州にあったイギリスの植民地である。公式には1791年から1841年まで存在し、領域は大まかに現在のケベック州南部とニューファンドランド・ラブラドール州のラブラドール地方を合わせたものだった②アッパー・カナダHaut-Canada(英: Upper CanadaВерхняя Канадаは、現在のカナダのオンタリオ州に存在していたイギリスの植民地である。公式には1791年から1842年まで存在し、領域は大まかに現在の南オンタリオに一致した。

①プリンス・エドワード島(Prince Edward Island、略称PEI)は、カナダの東海岸、セントローレンス湾に浮かぶ島で、カナダの州(Province)の1つ( l'Île-du-Prince-Édouard, Î.-P.-É.プリンスエドワードアイランド州Остров Принца Эдуарда)でもある②ニューブランズウィック州(ニューブランズウィックしゅうНью-Брансуик、英: New Brunswick [njuː ˈbɹʌnz.wɪk]、仏: Nouveau-Brunswick [nu.vo.bʁœn.swik], ケベック・フランス語: [nu.vo.bʁɔn.zwɪk] )は、カナダ東部の大西洋に面する州。 フランス語での名称はヌーヴォーブランズウィック州。
これら四つの植民地もまた、それぞれ個性的であった。すなわち、ニューファンドランドは漁業、プリンス・エドワード島は農業、ノバスコシアは商業、ニューブランズウィックは製材業に依存していた。多極共存型のゆるやかな連邦制(第3章参照)の素地は、こうして育まれていったのである。
さてそれでは紙幅の関係で、コンフェデレーション(自治領の形成)への道程を駆け足で進むことにしよう。これには大きく二つの流れがある。一つは分裂割拠していた諸植民地が結束するようになったこと。もう一つは諸植民地の自治への胎動である。
前者の要因の一つは、アメリカ合衆国からの外圧である。1812年の英・米戦争は、アメリカがカナダとフロリダFloridaの併合をねらって仕掛けたもので、その主戦場はカナダであった。このアメリカの挑戦で対立していた両カナダは団結し、イギリス軍の奮戦により、アメリカ軍の侵入を撃退した。ときに英領カナダの人口50万、アメリカは825万を擁していた。

*米英戦争War of 1812(べいえいせんそうGuerre anglo-américaine de 1812Англо-американська війна (1812—1815)は、1812年6月から1815年2月までの期間にイギリス、その植民地であるカナダ及びイギリスと同盟を結んだインディアン諸部族とアメリカ合衆国との間で行われた戦争。
この戦争は二年間で終息したが、両カナダに共通の反米感情(被我意識)とナショナリズムが芽生えたことは意味深い。 (American) Civil War南北戦争Guerre de Sécession ou guerre civile américaine(1861-65年)の際も、イギリスが南部に味方したために、カナダはイギリスの代替として北軍の脅威にさらされ、実際フェニアン(北部の復員軍人でアイルランド独立を擁護する人たち)の頻繁な襲撃があったりし、1812年戦争のときと同様な状況が醸成された。さらに英領北アメリカの領土は、すでに1846年の「Oregon Treatyオレゴン協定
Traité de l'Oregon」で、北緯49度線以北と定められていた。

*フェニアンФенииFenianFénienは、19世紀から20世紀にかけてアイルランドの独立と共和国樹立に傾注した友愛団体である。
しかし、1867年のコンフェデレーションは、こうした他律的な力だけによってもたらされたのではない。英領北アメリカの経済発展に伴い、基幹道路の整備、運河建設、鉄道の敷設(1862年までに302キロ)が地域間の交易を盛んにした。それに英領北アメリカの諸植民地はアメリカ貿易に大きく依存するようになっていたので、対アメリカ関税問題等をめぐって、共通の利害関心も高まっていた。そして、1854年には、米・加互恵通商条約が締結された。
これで、外圧に対する共通意識、コミュニケーションの発達、共通の利害関心という国家形成に必要な三拍子が揃ったわけである。それで自治要求の方はどうであったか。
英領北アメリカの経済的・社会的発展は、植民地人の政治的意識覚醒を促した。各植民地はロンドンにある植民地省の管轄下に、イギリス人総督、任命評議会、政府役人によって統治され、議会は存したが、その意向は無視されがちであった。こうした寡頭政治に対する改革運動が、1820-30年代に諸植民地で勃興した。
ロワーカナダではイギリス系支配層とフランス系農民の被支配層との人種的・階級的対立が導火線となり、「カナダ党Le Parti canadienパルティ・カナデイアン」の指導者L・J・パピノーに扇動された農民がモントリオールの周辺のあちこちで暴動を起した。1837年のことである。これに呼応して、アッパーカナダでもW・L・マッケンジーを指導者とする急進派が叛乱を起した。穏健なカナダでのこうした事件はセンセーションを巻き起こしたが、両騒動とも、実際は小規模なものであった。一方、沿海諸州での改革運動は漸進的に運ばれた。

①Louis-Joseph Papineauルイ・ジョセフ・パピノー, né le 7 octobre 1786 à Montréal et mort le 23 septembre 1871 à Montebello, est un homme politique et avocat canadien-français. Seigneur de La Petite-Nation1,2, il est le fils de Joseph Papineau, le beau-père de Napoléon Bourassa et le grand-père du journaliste Henri Bourassa②Le Parti canadienカナダ党, qui devient en 1826 le Parti patriote, est un parti politique fondé au début du xixe siècle dans la province britannique du Bas-Canada③モントリオール(フランス語: Montréal, [mɔ̃ʁeal] )、モンレアル(英語: Montreal, [ˌmɒntrɪˈɔːl] 몬트리올Монреальは、カナダで2番目に人口の多い都市で、カナダのケベック州で最も人口の多い都市である。

④Les rébellions de 1837 et 1838 au CanadaRebellionen von 1837 est une période d'insurrection contre le pouvoir impérial dans les colonies canadiennes de l'Amérique du Nord britannique. Elles regroupent deux soulèvements armés distincts s'étant déroulés dans les provinces britanniques du Bas-Canada et du Haut-Canada en 1837 et 1838.

①William Lyon Mackenzieウィリアム・リオン・マッケンジー (March 12, 1795 – August 28, 1861) was a Scottish-born Canadian-American journalist and politician. He founded newspapers critical of the Family Compact, a term used to identify elite members of Upper Canada. He represented York County in the Legislative Assembly of Upper Canada and aligned with Reformers. He led the rebels in the Upper Canada Rebellion; after its defeat, he unsuccessfully rallied American support for an invasion of Upper Canada as part of the Patriot War.

②The Rebellions of 1837–1838 (French: Les rébellions de 1837)Восстания 1837 года, were two armed uprisings that took place in Lower and Upper Canada in 1837 and 1838. Both rebellions were motivated by frustrations with lack of political reform. A key shared goal was responsible government, which was eventually achieved in the incidents' aftermath③トロント(英語: Toronto、標準音:[təˈɹɒntoʊ]、現地音:[ˈtɹɒnoʊ, təˈɹɒnoʊ]、漢字表記「多倫多토론토Торонтоは、カナダのオンタリオ州の州都であり、同国最大の都市。
いずれにしてもこうした自治拡大要求は、質・量ともに、決してアメリカの第二独立革命ではなかったことをわきまえておくことは肝要であろう。それに改革派の攻撃の鉾先は、イギリスに対してよりもむしろ各植民地内の寡頭体制に向けられていたのである。
両カナダの叛乱に驚いたイギリス政府は、1838年5月、自由主義者のダラム卿J・G・ラムトンを現地に派遣した。ダラムは五ヶ月間の滞在中に精力的に実情を調査し、翌年『ダラム報告』を刊行した。

①初代ダラム伯爵ジョン・ラムトン(英: John Lambton, 1st Earl of Durham, GCB, PC、1792年4月12日 - 1840年7月28日)Джон Ламбтон, 1-й граф Даремаは、イギリスの政治家、軍人、貴族②The Report on the Affairs of British North America,[1] (1839) commonly known as the Durham Report or Lord Durham's Report, is an important document in the history of Quebec, Ontario, Canada and the British Empire.
その骨子は、責任政府(Responsible governmentリスポンシブル・ガバメント)の樹立、両カナダの統合、植民地行政の本国管轄からの分離を勧告したものであった。責任政府とは、植民地の任命評議会を改革し、立法議会で過半数を占めた政党が内閣を構成し、内閣は議会に対して責任を負うとともに、実質的行政を司る(後の議院内閣制)、というものである。

*Responsible government(Gouvernement responsable)Ответственное правительство is a conception of a system of government that embodies the principle of parliamentary accountability, the foundation of the Westminster system of parliamentary democracy.
両カナダの統合は、1840年の「連合法」の制定により成立した。これにより、ロワーカナダはカナダ・イーストCanada East、アッパーカナダはカナダ・ウエストCanada Westと呼称され、両地域から選出する同数の代議員から成る一つの立法議会が設けられた。その意図は、ロワーカナダの叛乱の根源はフランス系とイギリス系の民族対立にあるから、両カナダを政治的に統合(連合)すれば、進取の気性を持つイギリス系がやがてフランス系を凌駕・吸収するであろう、と期待したところにあった。
ところがこの意図を看破したフランス系は激怒し、かえってこの方策は彼らのナショナリズムをかきたて、自意識を高めることになった。しかし同時に、両カナダの統合は、コンフェデレーション形成へ向けての第一歩を踏み出すことにもなった。
他方、責任政府の構想は、1848年2月に、ノバスコシアで、次いで連合カナダで実現した。1855年までに、ニューブランズウィック、プリンス・エドワード島、ニューファンドランドにも責任政府が樹立された。こうして寡頭政治は廃棄され、総督の権限も”名誉ある影響”を及ぼすだけに限定されるようになった。英領北アメリカの植民地は、大幅な自治の拡大を獲得するに至ったのである。
この変革は、イギリス政府の恩恵によって、一方的にもたらされたのではない。各植民地の改革派(ロバート・ボールドウィン等)が英本土にねばり強く請願したのが効を奏したことも見逃してはならない。

*Robert Baldwin (May 12, 1804 – December 9, 1858) was an Upper Canadian lawyer and politician who with his political partner Louis-Hippolyte Lafontaine of Lower Canada, led the first responsible government ministry in the Province of Canada. "Responsible Government" marked the province's democratic self-government, without a revolution, although not without violence.
以下概観したように、コンフェデレーションと自治領の形成は同時進行してきた。そうした気運の盛り上がるなかで、1864年9月にプリンス・エドワード島のシャーロットタウンで、10月にはケベックで、英領北アメリカ全域の連合を相談するための各植民地代表者会議が開催された。後者の会議でコンフェデレーションの基礎となし72ヶ条の決議が採択され、この「ケベック決議」は五植民地議会でそれぞれ検討された。ニューファンドランドとプリンス・エドワード島はコンフェデレーションに参加することを拒んだ。

①シャーロットタウン(英:Charlottetown)Шарлоттаунは、カナダのプリンスエドワードアイランド州の州都である②1864年のケベック会議(英Quebec Conference, 1864Conférence de Québec 1864)Квебекская конференция (1864)は、カナダの各植民地の代表者により、連邦化が決定された会議である。
そこで三植民地代表は、1866年、ロンドンへ赴き、英本国政府と協議し、「ケベック決議」は147ヶ条の「英領北アメリカ法」としてイギリス議会を通過した。これがカナダ憲法の基本法となるのだが、二つの重要な問題があった。
①英領北アメリカ法(えいりょうきたアメリカほうActes de l'Amérique du Nord britannique (AANB) 、英:British North America ActsА́кты о Брита́нской Се́верной Аме́рике (АБСА) は、北アメリカ大陸にあったイギリスの植民地のうちの3つ(カナダ植民地、ニューブランズウィック植民地、ノバスコシア植民地)を併せて、連邦制をとる1つの自治領Dominion of Canada(ドミニオン)とすることを定めたイギリスの法律である②The Constitution Act, 1867憲法法 (French: Loi constitutionnelle de 1867),Конституционный акт 1867 года originally enacted as the British North America Act, 1867, and referred to as the BNA Act or the Act, is a major part of the Constitution of Canada.
一つはこのカナダの憲法がイギリス議会立法として成立したこと。もう一つは、連邦政府と州政府に権限を分割し、後者に大きな自治権を認めたことである。そのため、爾来、連邦政府・州政府の管轄をめぐる争いが絶え間なく続き、それが第3章でみるように、カナダの政治の中心課題となった。しかしそれがまた、カナダのゆるやかな連邦制度=コンフェデレーションの特色ともなるのである。
ともあれ、「英領北アメリカ法」は1867年7月1日(カナダの建国記念日となる)に発効し、ノバスコシア、ニューブランズウィック、連合カナダが再度分離されたケベックとオンタリオの四州から成るコンフェデレーション自治領が誕生した。こうして、日本のMeiji Restoration明治維新Restauration de Meijiより約一年先がけて、近代国家カナダは成立したのである。

①カナダの日(かなだのひ캐나다의 날加拿大日、英語:Canada Day、フランス語:Fête du CanadaДень Канады
День Канадиはカナダの建国記念日。カナダで毎年7月1日に制定されており、国民の祝日となっている。

②Sir John Alexander Macdonald[a] GCB PC QC (January 10 or 11, 1815[b] – June 6, 1891) was the first prime minister of Canada, serving from 1867 to 1873 and from 1878 to 1891.
3 近代国家カナダの発展
(1)カナダ自治領の展開
1867年9月、最初の連邦議会選挙が実施され、コンフェデレーション形成の立役者である保守党党首のジョン・A・マクドナルドが初代首相となった。
だが自治領とは、完全な独立主権国家を意味するものではない。自治領は、「他の国の領土でありながら広範な自治権を持つ国家形態」と定義されている(ジョン・セイウェル『カナダの政治と憲法』)。自治領の長は依然としてイギリス国王であり、総督が国王の公式的な役割を代行した。いわばカナダは、まだ、イギリスと「へその緒」が繋がったままの胎児のようであった。

*John Tupper (Jack) Saywellジョン・セイウェル(April 3, 1929 – 20 April 2011) was a Canadian historian specializing in the fields of politics and constitutionは、政治と憲法の分野を専門とするカナダの歴史家でした。
総督の下に二院制の連邦議会があり、上院は任命制、下院は選挙制と定められた(現在も同じ)。責任政府の原理により、下院で過半数を占めた政党の党首が組閣し、首相と内相が下院の支持の下でカナダを統治した(現在も同じ)。
しかし「ドミニオン」という言葉は野心も包含していた。それは『詩篇』第72篇第八節の「彼は海から海まで治め・・・」にちなんだもので、新国家カナダは大西洋から太平洋までをその版図に入れることを目標としていた。実際、1870年にマニトバ州が、71年にブリティッシュ・コロンビア州が、そして73年にはプリンス・エドワード島州がカナダ自治領に加わり、その目標は素早く達成された。
*『詩篇』または『詩編』(しへんLivre des Psaumes、ヘブライ語: תְּהִלִּים‎ Təhillīm, 英語: Psalms)は、旧約聖書Ветхий Заветに収められた150篇の神(יהוהヤハウェYahweh)への賛美の詩。
マクドナルド内閣(1867-73年)には、国家的統合、対米関係の調整、自律的国民経済の達成、大陸横断鉄道の敷設等の諸問題が山積していた。
*VIA鉄道(VIA Rail Canada, 略称VIA RailまたはVIA:発音「ヴィア」)は、カナダ国内の都市間旅客鉄道サービスを提供する国営企業である。
幸いマクドナルドには、コンフェデレーションの維持・発展という大義名分があり、彼自身が包容力のある人物であったので、各州から多くの自由党の票も獲得し、いわば超党派(あるいは連立)内閣を構成しえた。おまけにイギリス系の経済界とフランス系のカトリック教徒の妥協の上に立つこともできた。対米関係は、1871年の「ワシントン条約」で解決し、「防備なき国境」も確立した(第4章参照)。
①カナダ自由党(カナダじゆうとう、英語:Liberal Party of Canada、フランス語:Parti libéral du CanadaЛіберальна партія Канадиは、カナダの中道左派の自由主義政党②The Treaty of WashingtonTraité de Washington (1871) was a treaty signed and ratified by the United Kingdom and the United States in 1871 during the first premiership of William Gladstone and the presidency of Ulysses S. Grant.Вашингтонский договор (1871)
大陸横断鉄道の建設は、経済的繁栄と国家統合を目指したもので、「政府が鉄道を走らせるのか、鉄道が政府を走らせるのか」と評されるほど、マクドナルド内閣はこの国家的事業に熱を入れたが、スキャンダルをひきおこし、1873年に、自由党党首のアレキサンダー・マッケンジーが第二代首相(1873-79年)となった(世界経済調査会編『カナダの研究』)。

*アレキサンダー・マッケンジー(英語: Alexander Mackenzie、1822年1月28日 - 1892年4月17日)Алекса́ндр Макке́нзиは、カナダの第2代首相、建築請負人、作家。カナダ自由党から選出された初の首相である。
マッケンジーは、オンタリオ半島先端にあるサーニア(サーニア(英:SarniaСарнія (Антарыа)は、カナダオンタリオ州南西部の都市)の石工あがりで、勤勉・実直な人であった。彼は保守党の放漫財政を嫌い、緊縮政策を実行した。これは彼の性格もさることながら、当時カナダは世界的大不況に巻き込まれ、政府の財政状態が逼迫していたからである。
*カナダ保守党(カナダほしゅとう、英語:Conservative Party of Canada、フランス語:Parti conservateur du CanadaКонсервативная партия Канадыは、カナダの中道右派の保守政党。
マッケンジー首相はカナダの自治の一層の拡大を図るため、1876年にカナダ最高裁判所を創設し、ロンドンの柩密院への依存を減少した。彼はまた総督の権力を弱体化し、単に名目上の政府の長とし、行政の実権は内閣が握るようにした。
*カナダ最高裁判所(カナダさいこうさいばんしょ、英語:Supreme Court of Canada、フランス語:Cour suprême du CanadaВерховный суд Канадыは、カナダにおける民法、刑法、行政法などの司法権を担当するカナダの司法における最高機関[1]・最高裁判所である。
このようにマッケンジーは、英本国との絆を少しずつゆるめるように努力したが、その背景には若いインテリゲンチャが推進する「カナダ第一」というナショナリスティックな社会運動があった。その他、彼は選挙法を改正し、連邦議会選挙をカナダ全土で同日に実施し、無記名秘密投票方式も導入した。
しかし、不況による民衆の不満は高まり、その打開策として合衆国に求めた互恵通商条約の更新はアメリカ上院で否決され、ブリティッシュ・コロンビア州が連邦加入の条件としていた鉄道の敷設も遅々として進まなかった。そのため同州では、連邦を脱退する気配すら認められるようになった。
*互恵通商協定法(ごけいつうしょうきょうていほう互惠稅則法、英語: Reciprocal Tariff Act)は、アメリカ合衆国の法律。
折しも保守党のマクドナルドは、センセーショナルな「ナショナル・ポリシー」をかかげて政治の舞台に再登場し、1878年の選挙で圧勝した。以後、保守党は18年間も政権を担当することになる。
*The National Policy(Politique nationale) was a Canadian economic program introduced by John A. Macdonald's Conservative Party in 1876. After Macdonald led the Conservatives to victory in the 1878 Canadian federal election, he began implementing his policy in 1879. The protective policy had shown positive responses in the economy with new industries flourishing Canada's economy in the 1880s.
ところで、「ナショナル・ポリシー」とは何であったのか、歴史家の間で論争を巻き起こしているが、要するにそれは保護関税、大陸横断鉄道建設、西部開発のための移民奨励策を中心とした新国家構想と解してよいだろう。
*保護関税Protective tariffとは、国が定める関税のうち、国内産業の保護を目的として輸入品に課する関税である。
保護関税は早速実施され、その目的はカナダ国内産業の育成と政府歳入を増加させることであった。当然物価は上昇するので、農民や労働者にとっては不利であったが、カナダの自立経済の発展のためには不可欠な方策であるとして説得された。大陸横断鉄道は、混血(メティス)のルイ・リエルや先住民の叛乱を鎮圧して、1885年に完成した。

①メティス(仏: Métis [metis])Канадские метисы梅蒂斯人메티스 (민족)は、クリー、オジブワ、アルゴンキン等のカナダインディアン(ファーストネーション)とヨーロッパ人の間の混血子孫であり、イヌイット、インディアンと並びカナダの先住民族の一つである。

②ルイ・リエル(Louis "David" Riel, 1844年10月22日 - 1885年11月16日)루이 리엘路易·大衛·里尔Луи́ Риэ́льは、カナダの政治家で、プレーリー地区のメティのリーダーである。リエルはカナダ政府に対しノースウェスト準州に基盤を置くメティの権利、文化保護を求め二つの反乱を主導したが、この反乱は次第にカナダ全土に勢力を拡大していった。

③Françaisフランス語→La rébellion de la rivière RougeRed River Rebellionレッドリヴァー反乱Восстание на Ред-Ривере, également connue sous le nom de résistance de la rivière Rouge, soulèvement de la rivière Rouge ou première rébellion de Riel, est le terme générique pour décrire le gouvernement provisoire constitué entre 1869 et 1870, par les Métis et leur chef Louis Riel dans la colonie de la rivière Rouge, située dans l'actuelle province du Manitoba, au Canada.
鉄道はその他の地域にも積極的に建設され、3767キロから2万6195キロに延長された。これらの鉄道はカナダ国内の市場間や農村と工業地帯の物資の交流を活発化した。しかし開拓農民を鉄道で運ぶという計画は失敗した。なにしろ、その頃、カナダには約400万の人口しかいなかったのだから、そのため鉄道はまったく繁昌せず、政府に大きな財政負担がのしかかってきた。
マクドナルドの新国家構想は半ば成功を収めたといえようが、保守党が衰退していく過程で、1891年、マクドナルドは他界した。以後、マクドナルドの後継者として、保守党からはJ・アボット、D・トンプソン、M・ボウエル、C・タッパーが交代で首相の任にあたったが、1896年の総選挙でウィルフリッド・ローリエ率いる自由党が22年ぶりに勝利をおさめた。
①Sir John Joseph Caldwell Abbott PC QC KCMG (March 12, 1821 – October 30, 1893)Джон Джо́зеф Ко́лдуэлл Э́ббот was a Canadian lawyer and politician who served as the third prime minister of Canada from 1891 to 1892②Françaisフランス語→Sir John Sparrow David Thompson PC KCMG QC (November 10, 1845 – December 12, 1894)Сер Джон Спа́ро Давид То́мпсон was a Canadian lawyer, judge, and politician who served as the fourth prime minister of Canada, in office from 1892 until his death③Sir Mackenzie Bowell PC KCMG (/ˈboʊ.əl/; December 27, 1823 – December 10, 1917)Маке́нзи Бо́уэлл was a Canadian newspaper publisher and politician, who served as the fifth prime minister of Canada, in office from 1894 to 1896④Deutschドイツ語→Sir Charles Tupper, GCMG, CB, PC, (* 2. Juli 1821 in Amherst, Nova Scotia; † 30. Oktober 1915 in Bexleyheath, England)Сер Чарлз То́пер war der sechste Premierminister Kanadas.

⑤サー・ウィルフリッド・ローリエ(Sir Wilfrid Laurier、1841年11月20日 - 1919年2月17日)Сэр Анри́-Шарль-Вильфри́д Лорье́ GCMG PC KCは、カナダの第8代連邦首相。所属政党は自由党、首相在任期間は1896年7月11日 - 1911年10月5日。ケベック州サン・ランSaint-Lin-de-Lachenaie(現サン・ラン・ローレンティドSaint-Lin–Laurentides)生まれ。
ローリエが自治領カナダ初のフランス系首相であったのは、特筆にあたいする。そのことは、少数、被抑圧民族であるフランス系カナダ人に大いなる勇気と希望を与え、彼らはカナダに留まった意義を再確認した。そればかりではない。二大民族の「妥協と協調」によってこそ成立するコンフェデレーションという制度に、しっかりした礎を築くことにもなった。
それにしても、なぜローリエは首相になれたのだろう。保守党の「ナショナル・ポリシー」は当然のことながら中央集権的に推進され、それゆえに辺境の西部や沿海諸州は強い疎外感を抱いていた。ケベック州やオンタリオ州も連邦政府が諸州に君臨していることをいまいましく思っていた。そこで、連邦政府の権力を牽制するための州際会議が1887年10月に持たれたが、その会議に集まった諸州は、マニトバを除いて、すべて自由党政府の下にあった。ローリエはその自由党の党首であり、勿論州権論者であった。この第二「ケベック会議」は、カナダ政府の特色である連邦政府対州政府ゲームの嗤矢となった(第3章参照)。
第二の理由として、ローリエが端麗な知識人で、「こと慣例に関しては、議会で彼の右にでる者はなかった」といわれ、そのうえ英・仏両語に堪能で、抜群の雄弁家であったことが挙げられる(K・マクノート『カナダの歴史』)

*William Kirkpatrick McNaught CMG (September 6, 1845 – February 2, 1919) was an Ontario manufacturer and political figure.

第三に、二民族の対立抗争も考慮すべきであろう。ルイ・リエルはイギリス系プロテスタントだけで構成された陪審判決で「反逆者」として処刑された(1885年)が、フランス系とインディアンの混血であり、フランス語を母語としカトリックの信者であった彼は、フランス系の人たちからは「殉教者」=英雄視された。
その五年後、フランス系をまたも憤慨させる事件がマニトバで起った。同州政府は1890年8月、「マニトバ学校法」を制定し、公立学校でフランス語で教えカトリック教育を施す分離学校制度を廃止したのである。

*Françaisフランス語→La question des écoles du Manitoba(Manitoba Schools Question)Языковой вопрос в Манитобе était une crise politique au Manitoba, et partout au Canada, vers la fin du xixe siècle concernant les écoles séparées, et la question plus fondamentale de savoir si le français pouvait survivre en tant que langue (officielle et de culture) dans l'Ouest canadien.
これらあい重なる事件でフランス系社会に険悪なムードが漂い、イギリス系との間に深い溝を醸成した。そのような状況にあって、ローリエは大の「カナダ主義者」であった。つまり彼は、フランス系カナダ人は連邦内に留まってのみ生存が可能であり、カナダ連邦の発展は両民族の協力にかかっていると信じていた。そんな彼は、イギリス系からも人望を得ていたのである(そのために彼は、1960年代のケベック分離主義者からは”売国奴”ときめつけられた)。
*売国奴(ばいこくどBaikokudo매국노(賣國奴)traîtreとは、売国行為を行う者に対する侮蔑語であるis a derogatory term for those who betray their country。국적(國敵) bandits,national enemy비국민(非國民)non-national

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