日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

American black historyアメリカ黒人の歴史История негра в Америке/Sozo Honda本田 創造Создано Хондой☆African-Americanアフリカ系アメリカ人Афроамерика́нцы☭2022/12/11/CANADA🍁Антид Ото⑦


戦争と黒人
奴隷解放令が北部にとって最大の政治的武器となったように、この戦争で黒人の果した役割は目覚しかった。それは、北部の軍事的勝利を最終的なものにみちびいた原動力の中でも、きわだって重要なもののひとつだった。
内戦勃発と同時に、南部の黒人奴隷のあいだには奴隷暴動の気運が高まり、またプランテーションから逃亡する奴隷も急速にその数を増していった。戦争を通じて、約50万人すなわち当時の黒人奴隷の八分の一にものぼる多数の奴隷が逃亡したといわれる。こうして、かれらは、食糧生産をはじめ南部の生産力を減退させ、かれらを監視するために軍隊の一部をさかせることによって南軍の軍事力を削減させたばかりでなく、奴隷制寡頭権力を内部から大きな精神的動揺に巻き込んだ。なんといっても、黒人の役割が最も鮮かに発揮されたのは、直接的な戦いの場である戦場においてであった。かれらは、ほとんどの白人たちと異なり、この戦争を決して「白人の戦争」とは考えていなかったからである。
奴隷解放令の公布のときにあらわれたのと同じリンカン政府の弱さが、黒人の軍隊参加を妨げていた。サムター要塞の陥落直後、早くも、ワシントンでは300人もの自由黒人が北軍への軍役を申し出た。しかし、軍首脳部は、ただちにこの申し出を拒絶した。その後、ミシガン州のバトルクリークBattle Creekや、その他の州でも同様の動きがみられたが、やはり認められなかった。
こうした中で、ニューヨークの黒人たちは、北軍に参加して戦うために自分たちで軍事組織をつくり軍事訓練に励んだが、これも警察によって禁止された。黒人の軍隊参加を願う強い気持は、ボストンの自由黒人の集会で採択された次の訴えの中に、はっきりと示されていた。「私たちは、すでに用意ができています。白人の防衛者と同様に、私たちは、私たちの生命と財産と聖なる名誉をかけて、自由のためによき市民として、私たちの政府を守る覚悟ができています。私たちは、同胞のみなさんに、このことを訴えたいのです。そして、私たちが軍籍に身をおくことができるように、みなさんの法律を改めていただくようお願いしたいのです。私たち黒人の胸の中に燃えあがっている愛国的感情を思う存分に発揮できますようにWe are already ready. Like the white defenders, we are determined to defend our government as good citizens for liberty, with our lives, property, and sacred honor. We would like to appeal this to all our compatriots. And I ask you to change your laws so that we can enlist in the military. May the patriotism that burns in our hearts as black people be unleashed
リンカン政府が黒人の軍隊編入をためらっていたあいだも、戦場では現実の事態がかれらの参加を必要としていた。自由黒人の中には、白人に身をやつして軍務についた者もあったが、バトラーSmedley Darlington Butler将軍、シャーマンWilliam Tecumseh Sherman将軍、フレモントJohn Charles Frémont将軍、そしてハンターDavid Hunter将軍のもとへは、政府の干渉をはねのけて多くの黒人奴隷が馳せ参じ、戦争遂行上のあらゆる軍務に挺身した。ようやく1862年7月になって、政府が反乱者財産没収法にもとづいて黒人の軍隊編入を承認したのは、こうした黒人の積極的な行動が大きな力になっていたからである。
黒人は軍籍に身をおいても給料は白人兵士の半分そこそこで(一ヶ月当り白人13ドルにたいして黒人7ドル、ただしこの差別はのちになって撤廃された)、その他さまざまな差別を受けた。それでも、この戦争を通じて18万4000人もの黒人兵士が正式に北軍の陸軍に参加して南軍と戦った。そのうち、13万4000人が奴隷諸州の出であった。さらに3万人の黒人が海軍に勤務したが、このほか労働者として随時軍務についた黒人の数は少なくとも25万人にのぼるといわれた。南軍に捕えられれば殺される運命にあった黒人兵士は、それだけに戦場では白人兵士にはみられないほど果敢な働きをした。サウスカロライナ州のワグナー要塞Fort Wagnerを攻撃した第54マサチューセッツ黒人連隊の中には、フレデリック・ダグラスの二人の息子も含まれていた。黒人は、またスパイや案内人としても北軍を助けた。そうした仕事で、かつての地下鉄道の「女性総司令官」ハリエット・タブマンが示した活躍ぶりは目覚しかった。黒人兵士が参加して戦った戦闘は200を数え、戦死者も四万人におよんだ。そして、黒人兵士の死亡率は白人兵士のそれより35%も高かった。
奴隷解放令と黒人軍隊編入に集中的に示されたリンカン政府の革命的諸政策は、やがて戦場における北軍の軍事的勝利を確実にした。1863年7月のゲッティスバーグBattle of GettysburgとヴィックスバーグSiege of Vicksburgのおける戦闘における北軍の勝利が、転機になった。リンカン大統領が「人民の、人民による、人民のための政府 government of the people, by the people, for the people」をこの地上から亡びさせぬようshall not perish from the earth、戦死者の霊に誓った有名なゲッティスバーグ演説をしたのは、それから数ヵ月後の11月19日のことである。

*ゲティスバーグ演説(ゲティスバーグえんぜつ、英: Gettysburg AddressГеттисбергская речь или Геттисбергское посланиеは、南北戦争の最中の1863年11月19日、ペンシルベニア州ゲティスバーグにある国立戦没者墓地の奉献式において、アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンが行った演説。アメリカの歴史において、最も有名な演説の一つとされる。
翌年に行なわれた大統領選挙は、北部を戦時最大の政治的危機に追い込んだが、リンカンは民主党候補のジョージ・B・マックレランGeorge Brinton McClellanをおさえて再選を勝ち取り、北部はようやくこの危機を乗りきることができた。リンカンの大統領再選と、その後まもなく開始されたシャーマン将軍のアトランタAtlantaからサヴァナSavannahに向かうジョージア進撃作戦Battle of Atlantaの成功によって、北部の勝利は最終的に確立した。1865年4月2日に南部連合の首都リッチモンドが北軍の手に帰して一週間後の4月9日、南軍のリーRobert Edward Lee将軍はアポマトックスBattle of Appomattox Courthouseにおいて北軍のグラントUlysses S. Grant将軍に降伏し、ここ四年にわたる内戦はついに終りを告げた。

6 南部の再建と黒人差別制度
リコンストラクション
北部の軍事的勝利は、アメリカ合衆国の歴史に偉大な一頁を切り開いた。だが、これとともに南北戦争の歴史的課題が十分に解決されてしまったわけでは、もちろんない。そもそも、南北戦争は、戦争勃発の直接的経緯にてらしてみれば、南部の奴隷制寡頭権力が準備し、その先制攻撃による反革命として開始されたのだったが、じつは北部の産業資本と南部のプランテーション奴隷制度との矛盾=対立を基軸とし、これら二つの「地域」抗争として戦われた国内戦争であって、前者が後者を打ち倒すことによってこの国の前資本制関係を廃棄し、統一的な国内市場を基盤としてアメリカ資本主義の全面的制覇をなさしめた点は、その経済的意味があった。連邦の統一護持というリンカンの聖なる政治的標語は、北部の産業資本家にとっては、こうしたものと受けとめられた。
その点にかんするかぎり、南北戦争の歴史的課題は、戦争の終熄とともにその大半が達成された。その意味で、南北戦争は、さきの独立革命を「第一次アメリカ革命First American Revolution」と呼ぶのにたいして、それが「第二次アメリカ革命Second American Revolution」とも呼ばれているように、まさにこの国で第二のブルジョア民主主義革命となった。しかし、南北戦争が真に第二次アメリカ革命の名に価するためには、それは、この時点から、いっそう前進しなければならなかった。あの巨大な戦争をとおして剣によって打ち倒したものを、今度は法によって拒絶し、黒人や貧しい白人たちを含む民衆のための民主主義を全南部に確立し、戦火の荒廃の中から新しい南部社会の建て直しをしなければならなかった。これが、いわゆる「リコンストラクションReconstruction」の課題である。そして、この重責を双肩に背負って、これからその具体化に着手しなければならなかった。まさにそのとき、栄光の絶頂にあったリンカン大統領は、凶漢ブースの手に倒れ、56歳の輝かしい生涯を閉じた。1865年4月15日、未明のことである。

①リンカーン大統領暗殺事件Assassination of Abraham Lincoln(リンカーンだいとうりょうあんさつじけん)Убийство Авраама Линкольнаは、南北戦争の最末期、1865年4月14日金曜日(聖金曜日)午後10時頃にワシントンD.C.で起きた暗殺事件で、最初のアメリカ大統領暗殺だった②ジョン・ウィルクス・ブース(John Wilkes Booth, 1838年5月10日 – 1865年4月26日)Джон Вілкс Бут は、アメリカ合衆国の俳優(シェークスピア役者)。エイブラハム・リンカーンの暗殺者として有名。南北戦争の結果に不満を持つ南部連合の支持者であった。
リンカンの不慮の死によって、当時副大統領だったアンドルー・ジョンソン(アンドリュー・ジョンソン(英語: Andrew Johnson, 1808年12月29日 - 1875年7月31日)Э́ндрю Джо́нсонは、アメリカ合衆国の政治家)が、ただちに大統領の職につき、こうして南部再建の課題はジョンソン大統領に引き継がれることになった。テネシー州の農民の出の民主党員で、南部人でありながら南部諸州の分離に反対し、奴隷制度にかんし、ときにはリンカンより急進的と目されたこともあったジョンソンだが、みずから大統領の地位についたときには、その立場は以前とはうって変ったものになっていた。
早くも戦時中からその大綱が明らかにされ、ごく部分的には実施まで試みられていたリンカンのきわめて穏健で寛大な反乱諸州の連邦復帰政策は、ジョンソン大統領のもとで発展的に採用される代りに、彼の反動的な再建政策をおし進めるための武器として用いられた。ウェンデル・フィリップスによって、かつての南部連合の大統領だったジェファソン・デーヴィスの名前にちなんで「ジェファソン・デーヴィス・ジョンソンJefferson Davis Johnson」とあだ名されたジョンソンは、12月に国会が開かれるまでの時期を、いわゆる「反動の休日Reactionary holiday」として利用した。大統領の「大赦の宣言Proclamation of Amnesty」が公布された5月29日以後、それにもとづいて南部諸州ではつぎつぎに仮政府を組織するための具体策が実行に移されていった。
このとき、どこででもみられた現象は、旧奴隷所有者による政権復帰への動きー実質的な奴隷制復活の企てだった。奴隷制廃止を規定した憲法修正第13条は政治的方策として認められはしたが、たとえば州民の意志を全く無視して開かれたサウスカロライナ州の憲法制定会議では、ジョンソン大統領が勝手に知事に任命したベンジャミン・ペリーBenjamin Franklin Perryが、「これは白人の政府であり、白人だけを目的としたものである。最高裁判所は、黒人はアメリカ市民ではないとの決定を下しているThis is a white government, intended only for white people. Supreme Court rules blacks aren't American citizens」と開会演説で公然と述べたし、フロリダ州のある旧奴隷所有者の口からは、「解放令によって黒人奴隷は自由の身になったと宣言されても、黒ん坊(ニガー)はどっちみち奴隷みたいなものだEven though the emancipation decrees proclaimed black slaves free, black boys(niggers) are like slaves anyway」という言葉が自然に飛び出してくる有様だった。こうした中で、それまでの奴隷法Slave codesに代るものとして、悪名高い黒人法Black Codesがつくられていった。この黒人法は、黒人にたいする多くの制限条項を骨子とし、経済的には黒人を土地に緊縛して強制労働や不払労働に服させると同時に、政治的には黒人の民主化闘争を阻止するためのものだった。

*The Black CodesЧёрные кодексы, sometimes called the Black Laws, were laws which governed the conduct of African Americans (free and freed blacks).
旧奴隷所有者の権力が、ジョンソン大統領の反動政策に支持され励まされて、南部で歴史の歯車をひとつひとつ逆に押し戻そうと必死の努力をかたむけていたとき、これとの闘いの先頭に立ったのは、ほかならぬ黒人自身だった。奴隷身分から解放されたとはいえ、黒人は同時に一切の生活手段からも解放された。市民的自由も、政治的諸権利も、まだ自分たちのものにはなっていなかった。共和党急進派や、かつての奴隷制廃止主義者を中心にした北部の民主勢力が、かれら黒人の闘いを全面的に援助した。1865年の夏から秋にかけて、南部各地ではジョンソン大統領の政策に反対し、黒人に自由と権利を獲得するための大規模な大衆集会が広範に展開された。貧しい南部の白人たちも、率先してこれに参加した。
たとえば、ヴァーニジア州のノーフォークNorfolkの黒人たちは、早くも4月には肌の色や生まれにかかわりなく、ひとしく黒人にも白人にも同等の選挙資格や市民的諸権利を与えるよう国会に働きかける大衆組織を結成していたが、この組織を中心にして5月11日、黒人バプティスト教会Black baptist churchで開かれた大衆集会は満場一致で九項目の決議を採択し、「ヴァーニジア州の連邦復帰にさいしては黒人市民の権利と利害得失が他のいかなる階級の市民のそれよりも直接的かつ深甚な影響を受けるIn the reunification of Virginia, the rights and interests of black citizens are affected more directly and profoundly than those of any other class of citizen」ものであるから、「われわれは、この州の再建問題にかんして独自の要求をもつWe have our own demands on the question of rebuilding this state」こと「すべての忠誠な人びとに、黒人と白人の別なく対等の政治的、市民的諸権利が与えられなければならないAll loyal people, black and white, must be accorded equal political and civil rights」こと、また、この「市民としてのわれわれの条件や状態をもとの反逆者たちに勝手に決めさせてはならないWe must not let the original rebels dictate our conditions and status as citizens」ことを強く訴えている。
この大衆集会の精神は、さらに白人も参加して5月23日に市公会堂で開かれた「生まれや肌の色にかかわりないRegardless of birth or skin color」2000人を超える大集会に受け継がれたが、その後、6月5日にカザリン街のバプティスト教会で開かれた大衆集会で採択された『ヴァージニア州ノーフォーク黒人市民から合衆国国民への訴えAppeal from Negro Citizens of Norfolk, Virginia to the People of the United States』は、当時の黒人の現状について、次のように述べている。「アメリカは、ただ白人だけが所有すべき国ではない。黒人も、またここで働き、ここで闘ってきたのだ。にもかかわらず、現状は黙視し得ないほどひどい。最近、リッチモンドではかつての分離派の市長が800人の黒人を牢獄にほうりこんだ。プランターはどこでも黒人に僅かの賃金さえ支払うまいとやっきになっている。そして、そのような強制労働に反抗したからといって黒人は鞭打たれ、ある者は殺されているのだAmerica is not a country that should only be owned by white people. Black people have also worked here and fought here. Nevertheless, the current situation is too terrible to ignore. Recently in Richmond, a former separatist mayor threw 800 blacks into jail. Planters everywhere are determined not to pay blacks even a pittance. And blacks are being whipped and some killed for resisting such forced labor
ノーフォークの黒人のあいだにみられたこれらの闘いは、ナッシュヴィルNashvilleでも、チャールストンCharlestonでも、オーガスタAugusta(Georgia)でも、広く南部各地で展開されていた。そうした黒人たちの行動は、そのまま12月に国会が開かれると、やがて共和党急進派の議会活動としてあらわれた。
かれらは国会内で指導権を握ると、ウィリアム・P・フェッセンデン(ウィリアム・ピット・フェッセンデン(英語: William Pitt Fessenden, 1806年10月16日 - 1869年9月8日)Уильям Питт Фессенденは、アメリカ合衆国の政治家)を委員長とする上下両院議員15人よりなる再建合同調査委員会を組織し、ジョンソン大統領と対決しながら、自分たちの政策を強力に推進していった。1868年4月、かれらは大統領の拒否を乗り越えて黒人にも白人と平等の市民的権利を保障するための公民権法を成立させたが、ついで6月に国会で可決された憲法修正第14条はこの公民権法を憲法によって裏打ちするとともに、これの承認が分離諸州の連邦復帰のための必須条件とされた。さらに7月には、再び大統領の拒否を排除して、すでに戦争末期の65年3月に成立していた、いわゆる解放民局Freedmen's Bureau(正式名称は「難民、解放民および放棄地対策局Bureau of Refugees, Freedmen, and Abandoned Lands in the War Department」)の期限延長と権限拡大を勝ち取ることに成功した。そして、この年の秋に行なわれた中間選挙が共和党急進派の勝利に終り、やがて新しい年を迎えると、かれらは、1867年3月、ジョンソン大統領の再建案とは真っ向から対立したきわめて急進的な再建法を成立させ、また上院の承認なしに政府の要人を大統領が勝手に罷免することを禁じた官職保有法を制定した。
*The Civil Rights Act of 1866 (14 Stat. 27–30, enacted April 9, 1866, reenacted 1870) was the first United States federal law to define citizenship and affirm that all citizens are equally protected by the law.
この再建法は、その後三次にわたって補充された三つの捕捉的な再建法とあわせて、南部の民主的再建を具体的におし進めるための票となったが、それらはいずれも大統領の拒否を乗り越えて成立したものである。こうして、テネシー州を除く旧南部連合諸州は連邦軍の支配下に五つの軍管区に分けられ、産業ブルジョアジーの軍事的独裁のもとに、かつて反乱を指導した一部白人を除いて黒人を含む普通選挙にもとづいた民主的な憲法制定会議を組織し、こうして樹立された州政府が憲法修正第14条を批准することによって連邦への復帰が認められることになった。そうした手続きを経て、1870年までにこれらの南部諸州はすべて連邦復帰を完了し、合衆国は10年ぶりに再びもとの統一連邦に立ち返った。1870年3月、黒人にも選挙権を与えることが憲法によって認められた(憲法修正第15条)、さらに黒人の公民権侵害にたいする処罰法ともいうべき強制法Jus cogens (from Latin: compelling law; from English: peremptory norm) refers to certain fundamental, overriding principles of international law)が制定された。
こうした数年間は、アメリカ黒人の歴史において画期的な一時期となった。このとき、大部分の黒人は、初めてこの国で選挙権を行使することができた。州議会に選ばれて黒人が自分の生活について自分の口でものを言ったのも、このときが初めてである。いくつかの州では、州議会の下院議員の半数近くが黒人議員によって占められた。また、州政府の各種機関に多数の黒人が進出したが、サウスカロライナ、ルイジアナ州、ミシシッピ州では黒人の副知事まで誕生した。そればかりか、国の政治にも直接関与し、1869年から1876年の時期に、14人の黒人下院議員と二人の黒人上院議員がワシントンの国会に送られた。
そうした中で、黒人たちは、北部からやってきた、また南部内部の民主勢力(そのうち北部からの人びとは「カーペットバガーズCarpetbaggers」、土着の南部人は「スキャラワッグズScalawags」と反対派から蔑称された)に支えられて、市民的自由の拡大のほかに、女性の権利獲得、税制改革、鉄道建設や産業の育成など南部の近代化に必要な諸問題の解決にも着手し始めた。

①CarpetbaggerСаквояжник: In the history of the United States, carpetbagger is a largely historical term used by Southerners to describe opportunistic Northerners who came to the Southern states after the American Civil War, who were perceived to be exploiting the local populace for their own financial, political, and/or social gain
②ScalawagСкалаваг: In United States history, the term scalawag (sometimes spelled scallawag or scallywag) referred to white Southerners who supported Reconstruction policies and efforts after the conclusion of the American Civil War.
とりわけ、かれらが重視したのは黒人を啓発するための教育問題で、公教育制度を実施するとともに、黒人の高等教育機関も設立した。フィスク大学Fisk University、ハワード大学Howard University、アトランタ大学Clark Atlanta Universityなど現在の著名な黒人大学の多くが、このとき設立された。その結果、黒人の文盲率は大幅に減少した。そして、これらの運動をおし進めるうえで先導的役割を果たしたのが解放民局と、戦時中から共和党急進派によって北部の諸都市で連邦擁護の政治結社としてつくられていたユニオン・リーグUnion Leaguesだった。この組織は南部の再建運動の開始とともに南部諸州に深く根を下ろし、最盛時の加盟員数は50万人にもおよんだが、その多くが黒人だった。
*The Union Leagues were quasi-secretive men’s clubs established separately, starting in 1862, and continuing throughout the Civil War (1861–1865).

転換と挫折
北部産業ブルジョアジーの軍事的独裁のもとに、黒人を先頭に展開されてきた南部の再建運動は、以上のような政治的、社会的成果をおさめたが、そこにはひとつの重大な弱点があった。すなわち、一言でいえば、それは南部の経済問題とりわけ土地問題を革命的に処理できなかったのである。黒人たちが、いかに政治的諸権利や市民的自由を欲していたにしても、投票用紙を食べて生きていくことはできなかった。「40エーカーの土地と一頭のラバ!40 acres of land and a mule!」これが黒人たちのもうひとつの切実な要求だった。
すでに戦争末期の1865年には、シャーマン将軍は第15特別野戦命令を発してシーアイランドSea Island地方で米作プランターが見捨てた土地を黒人に分与する先例をつくり、また再建期に入るとスティーヴンスがプランターの大土地を没収してこれを黒人や貧しい白人に無償分配することを主張していたが、共和党急進派の支配下にあった連邦議会も再建政府もついにこれを実行することができなかった。そこには、早くも産業資本家の党としての共和党のブルジョア的限界が示されていた。そればかりでなく、南部における黒人と貧しい白人との同盟による民主的改革が着々と実現され、北部では労働運動の波が高まり労働者が団結して自己の権利を主張し始めるのを目のあたりにすると、戦時ブームに乗って飛躍的な成長をとげた産業資本家は南部の再建運動がそれ以上に進むのをおそれるようになった。
かつての奴隷制度が廃止され、国内市場として南部が開放されると、徹底的な土地革命を運行するよりはプランターと手を結んで南部を北部資本の収奪の場に変えていくほうが得策ではないか。こうした産業資本家の思惑が共和党内部に浸透していった。1870年頃までに、全体として共和党の変質は、ほぼ完了していた。
これと歩調をあわせるかのように、旧奴隷所有者たちの再建運動反対活動が強力に開始された。攻撃の先頭に立ったのは、「白つばき騎士団」(The Knights of the White Camelia was an American political terrorist organization that operated in the Southern United States in the late 19th century)とか「白ばら騎士団Knights of the White Rose」とか「黒十字騎士団Knights of the Black Cross」とか呼ばれた暴力的な秘密結社だった。なかでも「クー・クラックス・クランKu Klux Klan」(KKK)は有名だが、この秘密結社は1865年にテネシー州のプラスキーPulaskiで少数の旧南軍士官を中心に黒人抑圧を目的にして組織されたのが始まりである。その後、この組織はたちまち南部各地に広がり、「大魔法王Great Sorcerer」を総帥に、州には「大竜Great dragon」、郡には「大巨人Great giant」、地区には「片目の巨人One-Eyed Giant」という無気味な名称の各級指揮官を擁したピラミッド形の「見えない帝国Invisible Empire」を打ち建てた。頭からすっぽり三角形の帽子のついた覆面で顔をおおい、幽霊のようなガウンを全身にまとって、深夜、馬にまたがり町や野原を疾走するかれらの白い姿は、迷信的な黒人を威圧するために考案された奇妙な装束で、その効果は大きかった。

①クー・クラックス・クラン(英:Ku Klux Klan、略称:KKKКу-клукс-кланは、アメリカの秘密結社、白人至上主義団体である②White supremacy白人至上主義Превосхо́дство бе́лых, бе́лый супремаси́зм is the belief that white people are superior to those of other races and thus should dominate them③Françaisフランス語→La « race nordique北方人種 »Нордична раса était un concept anthropologique qui a marqué le xixe siècle et la première moitié du xxe siècle.

かれらは黒人の家を襲い、解放民局やユニオン・リーグの仕事を妨害し、黒人の投票を暴力的に阻止したばかりか、投票しようとする黒人や、かれらを支持した白人の命さえ平気で奪った。黒人が自己解放のために教育に力を注げば注ぐほど、学校や教師がクランの攻撃目標になった。かれらの暴挙は1870年頃、頂点に達した。
南部でこのようなテロリズムが横行し、共和党内部に旧奴隷所有者=プランターとの妥協気分が醸成されたとき、再建政府の基礎は瓦解し始めた。黒人と貧しい白人との同盟は、新たに鼓吹され再び台頭してきた白人優越=黒人蔑視の人権主義に耐え抜くことができなかった。1872年5月に議会を通過した「大赦法Amnesty Act」は、ごく少数の者を除いて、旧南部の支配階級に属していた人びとの政治的諸権利を全面的に復活した。いわゆる追放解除である。
*The Amnesty Act of 1872 is a United States federal law passed on May 22, 1872, which removed most of the penalties imposed on former Confederates by the Fourteenth Amendment, adopted on July 9, 1868.
それとともに、解放民局も活動を停止した。さらに、この年の大統領選挙では、共和党内部の分裂が表面化し、その一部が民主党と手を結んで黒人の期待を完全に裏切り、事態の悪化を決定的なものにした。選挙の結果、大統領にはひきつづいて共和党のユリシーズ・グラントが当選した。こうして、彼の大統領在任第二期が南部の民主的再建の挫折過程となったが、このグラントが南軍のリー将軍をアポマトックスに降伏させて南北戦争に終止符を打ったかつての北軍の将軍だったことをおもうと、そこに共和党の変質過程(その結果、共和党は北部でも南部でも分裂した)が、いみじくも象徴されているようにおもわれる。
グラント大統領治世のこの時期は、またマーク・トウェーン(マーク・トウェイン(Mark TwainМарк Твен本名:サミュエル・ラングホーン・クレメンズ(Samuel Langhorne ClemensСем'юел Ленггорн Клеменс、1835年11月30日 - 1910年4月21日)は、アメリカ合衆国の著作家、小説家。ミズーリ州出身。『トム・ソーヤーの冒険The Adventures of Tom Sawyer』の著者)によって「金ぴか時代Gilded Age」と諷刺された時代の最盛期で、腐敗と汚職が風靡し、アメリカ政治が最も堕落した時期である。腐敗は共和党にかぎらず、民主党も同様であった。民主党の政治機関だったタマニー・ホールTammany Hallは、今なおその悪名をとどめているが、それはともかく1874年の中間選挙で共和党は国会の下院で多数の議席を失った。民主党は南北戦争直前に共和党に敗れて以来、久方ぶりに下院で多数を制することができたのである。共和党のこの敗北は、南部の民主的再建運動の終焉と旧南部政治勢力の復権過程の完成を予告した。そして、つづいてやってきた1876年11月の大統領選挙が、これを実現したのである。

*Gilded Age金ぴか時代Позолоченный век:In United States history, the Gilded Age was an era extending roughly from 1877 to 1896, which was sandwiched between the Reconstruction era and the Progressive Era.
このとき、共和党はラザフォード・B・ヘイズRutherford Birchard Hayesを、民主党はサミュエル・J・ティルデンSamuel Jones Tildenを大統領候補に立て選挙に臨んだが、ここに面倒なことが起こった。開票の結果、民主党のティルデンが一般投票で勝利をおさめたが、共和党はサウスカロライナ州、フロリダ州、ルイジアナ州、オレゴン州で投票に不正があったと主張し、ティルデンの当選を認めなかった。紛争のすえ翌年の2月下旬に両党間に驚くべき政治的取引が成立した。この取引で、共和党は当時まだサウスカロライナとルイジアナの両州に駐屯していた連邦軍を撤退させることを条件に、ヘイズの大統領当選を掌中にした。こうして共和党は、南部を民主党の支配下にゆだね黒人の期待を完全に裏切ることによって、数年間つづいてきた南部の再建運動を挫折させてしまった。いわゆるヘイズ・ティルデンの妥協である。ここから、民主党の一党制支配としての新しい南部ー「堅固な南部Solid South」誕生への扉が開かれる。
*1877年の妥協(1877ねんのだきょう、英: Compromise of 1877 also known as the Wormley Agreement or the Bargain of 1877Компромисс 1877 годаは、激しい論争になった1876年アメリカ合衆国大統領選挙を決着させた、非公式で文書化されていない「取引」とされるものである。この妥協の結果、南部州の政治に影響を与えていたアメリカ軍を引き上げさせ、リコンストラクション時代が終わった。

黒人差別法の成立
19世紀後半の合衆国の歴史的発展は、多彩に色どられたこの国の資本主義のめざましい躍進を基調としている。たとえば、製造工業の分野では、1860年から1900年までのあいだに、生産高は19億ドルから130億ドルへと約七倍に、賃金労働者は131万人から530万人へと約四倍に、投下資本額は10億ドルから98億ドルへと約10倍に、それぞれ増加した。工業内部においても各種産業部門の順位が変化し、1860年には首位四部門がいずれも農業生産に直接依存したものだったが、1914年には鉄鋼が第二位、機械工業が第四位を占めるにいたった。また国際比較においても、アメリカの工業は1860年にはイギリス、フランスについで第三位、1870年にはイギリスについで第二位だったのが、1880年にはついにイギリスを凌駕して第一位になった。
それとともに、1880年代を境に、この国は農業国から工業国に転換した。西漸運動によって絶えず西へ西へと移動してきた開拓線が、ついに太平洋岸に達したのもこの頃で、1890年の第11回国勢調査でその消滅が公式に表明された。合衆国のこうした経済発展において、南北戦争後のさまざまな諸要因、たとえば拡大された国内市場、高率の保護関税、移民の増大による労働力の供給、外国資本の導入などとともに、とくに鉄道建設の進展が大きな役割を果した。その鉄道は、1860年の鉄道網三万マイルにたいし、80年には9万3000マイル、1900年には19万3000マイルになった。セントラル・パシフィックCentral Pacific Railroad=ユニオン・パシフィックUnion Pacific Railroadによる最初の大陸横断鉄道Transcontinental Railroadが完成したのは1869年のことである。
こうして、アメリカ産業資本は、この時期に確立した。だが、それとともにこの国の経済は、早くも独占化への強い傾斜を示し始めていた。1873年の経済恐慌は資本の集積・集中を促進し、その結果、1879年のスタンダード石油トラストStandard Oil trustの成立につづいて巨大な大トラストが多数形成され、アメリカ資本主義はすでに独占資本主義の段階にさしかかった。シャーマン反トラスト法Sherman Antitrust Actが制定されたのは1890年であるが、このようなアメリカ資本主義の構造変化が、1898年のSpanish–American War米西戦争Guerra hispano-estadounidenseを皮切りに、世紀転換期頃から、この国に帝国主義的対外政策を開始させることになる。
*シャーマン法(シャーマンほう、英: Sherman Antitrust ActАкт Шерманаとは、1890年に制定された米国の連邦法で、反トラスト法の中心的な法律のひとつである。「シャーマン法」という法律名は、本法の成立に主導的役割を果たした上院議員ジョン・シャーマンにちなむ。本法の主要な規定は、不当な取引制限を禁ずる第1条と、不当な独占を禁ずる第2条である。
1877年のヘイズ=ティルデンの妥協をこうした時代的背景の中においてみると、南部の民主的再建を挫折にみちびいた根源が何であったか、およその見当がつくであろう。印象的なことは、この妥協の直後、1877年の夏からアメリカ最初の全面的な鉄道大ストライキが大規模に展開されたが、このとき南部から連邦軍を完全に撤退させ南部の黒人を裏切ることによって政権の座についた共和党のヘイズ大統領が、その同じ連邦軍を今度はただちに労働者のストライキ弾圧のためにさし向けたという事実である。つまり、彼は引いて黒人を切った刀で、つづいて労働者に切りつけさせたのである。民主的再建の挫折後に黒人が直面しなければならなかった情勢は、このように厳しいものだった。今や、黒人にとっての壁は北部の独占資本家と南部のプランターとの連合支配によって、いっそう強靭さを増した。
民主的再建が土地問題を革命的に処理することができず、そのため、その挫折過程で南部には旧奴隷所有階級による新しい事態に即応した黒人搾取の基本的条件として、かつてのプランテーション奴隷制度に代る刈分小作制度Sharecropping systemが出現した。この制度は近年の研究の進展によって、その本質理解には異なった立場があるが、プランターの大土地所有を解体する代りにそれを温存し、その一部を黒人や貧しい白人に借地させ、かれらを昔ながらの状態に押しとどめておくことを目的にした前近代的な制度だった。
*分益小作(ぶんえきこさく、Sharecropping、metayerСкі́пщина або здо́льщинаとは、地主が小作人に対して土地と農業経営に必要な家畜や農具類を支給する一方、小作人は労務を提供し、農業生産による収穫物を実物で地主と小作人との間で分割する小作制度[1][2]。刈分小作ともいう[3]。
南部のプランターと手を握った北部の独占資本家は、こうした搾取制度を最大限に利用することの中に南部支配の新しい道を見出した。同時に、南部において黒人をそのような状態にしておくことが、また、かれらにとっては、北部において低廉な黒人労働力を確保する道であり、さらに白人労働者の労働条件改善闘争を押しとどめる道でもあったのである。この点で、北部の独占資本家と南部のプランターとの利益は一致したばかりでなく、北部の独占資本じたいが、いろいろなかたちで、直接に南部の黒人搾取に乗り出し、北部の資本家の中から同時に南部の土地所有者になる者もあらわれた。
しかし、黒人は、そうした事態を黙って見ていたのではなかった。南部の黒人のあいだには、かつてのユニオン・リーグの中に示された戦闘精神が再びよみがえった。それは、1870年代から80年代初めにかけて澎湃と湧き起こっていたグレンジャー運動Granger movementや緑背紙弊運動Greenback movementのあとを受けて、いわゆる人民党運動The Movement for a People's Party (MPP)が全国的な規模で展開されるにおよんで、その運動の重要な一環として具体化された。
この運動は、そもそも1880年代に中西部や南部の農民を主体にした反独占の農民闘争として闘われたが、それはやがて北部の労働運動とも結びついてひとつの政治運動として発展し、1891年にはその中から共和党や民主党に対抗するものとして、かれら自身の政党である人民党(ポピュリスト・パーティーあるいはピープルズ・パーティ)が結成された。1892年、94年、96年の選挙では、かれらは独自の候補者を立てて州議会はもとより国会にもその代表を送りだしたほどで、このように人民党運動は民衆による最も大規模な反独占運動であり、同時に「大実業Big Business」の党である共和、民主両党にたいする第三党運動として革新主義Progressivismの先駆をなすものだった。人民党運動には北部農民同盟、南部農民同盟、労働騎士団、統一炭鉱夫労働組合その他さまざまな組織が参加したが、ゴンバースSamuel Gompers派のAFLは別であった。

①進歩主義(しんぽしゅぎПрогрессивизм、英: Progressivism)、または革新主義(かくしんしゅぎ)は、現在の不合理を次第に改善し、新しく、より優れたものを追求する思想。社会改革を支持する政治思想Political philosophyであり、科学技術の進歩や経済発展が人間の条件 (社会哲学)Human conditionの改善につながるという進歩思想にもとづいている②アメリカ労働総同盟(アメリカろうどうそうどうめいFédération américaine du travail、英語:American Federation of LaborАмериканська федерація праціは、1886年に結成された、アメリカ合衆国の労働組合。略称の「AFL」もよく用いられる。

①The GrangeГрейнджеры, officially named The National Grange of the Order of Patrons of Husbandry, is a social organization in the United States that encourages families to band together to promote the economic and political well-being of the community and agriculture②The Greenback PartyПартия гринбекеров (США)was an American political party with an anti-monopoly ideology which was active between 1874 and 1889③The Movement for a People's Party (MPP), also known simply as the People's Party, is a progressive political organization in the United States aimed at "forming a major new political party free of corporate money and influence".
人民党運動は北部では北部農民同盟Northern Farmers' Union、南部では南部農民同盟Southern Farmers Leagueを中心に、闘いがおし進められた。多くの黒人が南部農民同盟を支持し、全国黒人農民同盟National Black Farmers Association (NBFA) =協同組合同盟Strategic Alliancesを組織して、みずから人民党運動の隊列に参加した。この黒人組織は1886年12月にテキサス州のヒューストンHoustonで結成されたが、たちまち全南部に広がり、最盛時には125万の黒人がこれに加盟した。名称には農民の文字が用いられてはいるものの、この組織は農民のほかに労働者も参加した当時の黒人の統一組織だった。こうした闘争を通じて、そこにみられた顕著な特徴のひとつは、民主的再建の挫折過程に黒人と白人とのあいだに生じた亀裂が回復してきたことである。黒人と貧しい白人は、共通の圧迫者を目の前にして再び手を結び始めた。
現実の闘いが、人種的障壁を打ち破ったのである。南部の人民党運動の指導者として知られるトマス・ワトソンThomas John Watson, Sr.は、のちの彼の思想と行動からは考え難いことだが、白人と黒人の提携の必要性を強く訴えて、こう言った。「黒人の小作人は白人の小作人と、黒人の労働者は白人の労働者と、同じ舟に乗っている。肌の色が偶然ちがっているからといって、それが農民や労働者の利害損失の相違を生みだすものではないBlack sharecroppers are in the same boat as white sharecroppers, and black workers with white workers. Just because the skin color is different by chance, it does not create a difference in the interests and losses of farmers and workers」また、当時のイギリスの一新聞は、こうもつたえている。「南部の人民党は、黒人たちに、かつてかれらの救済者であった共和党さえ与えることができなかったほどの政治同盟を与えたのであるThe Populist Party of the South gave blacks a political alliance that even their former savior, the Republican Party, could not
しかし、こうした情勢は、逆に独占資本家とプランターの連合勢力に、人民党運動の真の力の根源がどこにあるかを教えるとともに、これを取り除くために全精力を傾けさせることになった。黒人をなんとしても白人民衆から切り離して、黒人を白人よりも一段と低い地位に押しとどめることー独占資本家とプランターの連合勢力は、たんに人民党運動を押し潰すという当面の目的のためだけでなく、そうすることがかれらの支配力を強固にし、同時に黒人からはいっそう多くの超過利潤を搾出できる確かな道であることを身をもって学びとったのである。
1890年から20世紀初頭にかけて、ミシシッピ州を皮切りに南部諸州を席巻した黒人選挙権の剥奪は、こうして起こった。そのミシシッピ州では、憲法修正第15条に抵触しないように、黒人選挙権の剥奪は、州憲法の中に「人頭税Poll tax」や「読み書き試験Literacy test」を取り入れることによって行なわれた。すなわち、有権者登録をする者は誰でも選挙係官に人頭税納入の受取りを見せ、また指示された州憲法や州法などの一節を読解しなければならなかった。これは「ミシシッピ・プランMississippi Plan」と呼ばれるものであるが、その他の南部諸州も、これに類似した方法で黒人選挙権の剥奪を行なった。人頭税や読み書き試験は黒人だけを対象にしたものではないが、当時の黒人の状態を考えれば、それが巧妙な黒人選挙権の剥奪方法であることはすぐわかる。もちろん、白人の中にもこれによって登録できない者もいたが、そこは係官の裁量でどうにでもなった。また、こうした白人を合法的に救う方法として、たとえばルイジアナ州では別に「祖父条項Grandfather clause」なるものを採用した。この条項は、1867年1月1日より前に投票したことがある者、ならびにその時期に法律の認める選挙資格者であった者の子や孫は読み書き試験を受けなくてもよいという規定であるが、この条件に適う黒人はまずいないから、これは、黒人だけがこの試験を受けなければならないということにすぎない。こうして憲法修正第15条は現実に踏みにじられ、それを要として黒人の政治的諸権利は大幅に削減されて、政治的差別が広範に行なわれるようになった。
①Poll taxes in the United Statesアメリカにおける人頭税: A poll tax is a tax of a fixed sum on every liable individual (typically every adult), without reference to income or resources②A literacy test assesses a person's literacy skills: their ability to read and write have been administered by various governments, particularly to immigrants. In the United States, between the 1850s and 1960s, literacy tests were administered to prospective voters, and this had the effect of disenfranchising African Americans and others with diminished access to education③The Mississippi Plan of 1875 was developed by white Southern Democrats as part of the white insurgency during the Reconstruction Era in the Southern United States④A grandfather clause既得権条項Дедушкина оговорка, also known as grandfather policy, grandfathering, or grandfathered in, is a provision in which an old rule continues to apply to some existing situations while a new rule will apply to all future cases.

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