日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

American black historyアメリカ黒人の歴史История негра в Америке/Sozo Honda本田 創造Создано Хондой☆African-Americanアフリカ系アメリカ人Афроамерика́нцы☭2022/12/11/CANADA🍁Антид Ото④


イギリスは最初から植民地側の最大の弱点が奴隷制度にあることを知って、ときあらばこれを自己に有利に利用しようと考えていた。ヴァージニアの総督ジョン・マーリーすなわちダンモア卿(第4代ダンモア伯ジョン・マーレイ(英: John Murray, 4th Earl of Dunmore、1732年 - 1809年2月25日)Джон Мюррей, 4-й граф Данморは、イギリスの貴族(スコットランド貴族Peerage of Scotlandであり、植民地総督である)が、1775年11月にイギリス軍に味方して革命軍と戦う奴隷には「国王軍に参加した時点ですべて解放するpromising freedom to slaves belonging to Patriot owners if they served in the British military」旨の布告Dunmore's Proclamationを発したのは、このためである。過去長年にわたって黒人奴隷貿易を掌中におさめ、げんに西インド諸島に多くの奴隷を擁していたばかりでなく、王党派Loyalistに多くの大プランターがいた事情などを考えれば、ダンモアの布告の欺瞞性はもとより明らかだったが、それにもかかわらず、黒人奴隷の多くがそこに解放の機会を求めて、ぞくぞくとプランテーションから脱出した。これらの黒人たちの行動を指して、かれらの無知と意識の低さを非難するのは容易だが、それは皮相な見方である。何故なら、かれらは、イギリス軍に味方することがそもそもの目的ではなかった。かれらがひたすら願っていたものは、自由の獲得!それだけだった。したがって、黒人の潜在的エネルギーが歴史の進歩に向かって発揮できず、この場合のように、逆に反対方向にあらわれたとしても、それは、かれらの罪ではなくて、むしろ独立革命の弱さであった。
①Black LoyalistsЧёрные лоялисты were people of African descent who sided with the Loyalists during the American Revolutionary War.[1] In particular, the term refers to men who escaped enslavement by Patriot masters and served on the Loyalist side because of the Crown's guarantee of freedom


②In the American Revolution, gaining freedom was the strongest motive for Black enslaved people who joined the Patriot or British armies. It is estimated that 20,000 African Americans joined the British cause, which promised freedom to enslaved people, as Black Loyalists. Around 9,000 African Americans became Black Patriots.
事実、黒人は、進んで革命のもとに馳せ参じたばかりでなく、アメリカの同盟軍にも参加した。そればかりではない。南部のプランターが、その銃口を自分たちに向けられるのではないかと懸念し、また奴隷という財産の喪失をおそれて、極力、黒人が革命軍に参加するのを妨げたにもかかわらず、かれらは率先してイギリス軍と戦うことを切望し、革命の指導者たちの協力を得て、ついに1776年1月には自由黒人の軍隊参加を認めさせたのである。

 *In January 1776, Congress concurred with Washington’s proposal to allow the reenlistment of “free negroes who had served faithfully in the army at Cambridge,” but explicitly prohibited the recruitment of enslaved men into the Continental Army.
じっさいには、それ以前にも、さまざまなかたちで軍隊に参加していた黒人は少なくなく、その中には奴隷も含まれていたが、こうして、かれらは「大きな戦闘で黒人が参加していない戦闘はひとつもなかったThere was not a single major battle in which blacks were not involved」ほどの活躍をした。コンコードBattles of Lexington and Concord、バンカーヒルBattle of Bunker Hill、タイコンデロガBattle of Ticonderoga、ブーンズボロSiege of Boonesborough、サラトガBattle of Saratoga、ヨークタウンBattle of Yorktown・・・等々の戦闘で、黒人兵士は白人兵士もおよばぬほど勇敢に戦った。また、斥候としてもすぐれた能力を発揮し、艦隊勤務にも服し、パルチザン部隊にも参加した。ピーター・セーラムPeter Salem、セーラムSalem、ジェームズ・アーミステッド、オースティン・ダブニAustin Dabniなどの勇名はあまねく知られているが、デボラ・ガネットは男装に身をやつした黒人娘だった。独立革命の歴史は、このほかにもアメリカの自由のために戦った多くの黒人兵士の名前をとどめている。

①ジェームズ・アーミステッド・ラファイエットJames Armistead Lafayette(1748年 - 1830年[1]または1760年 - 1832年[2])Джеймс Армистед Лафайет は、奴隷の子に生まれ、アメリカ独立戦争で大陸軍に参加してラファイエット侯爵に仕え、諜報活動で活躍したアフリカ系アメリカ人である[1][3]。英国軍部隊に二重スパイとして潜入し、英国側には偽りの情報を与える一方、ベネディクト・アーノルドやチャールズ・コーンウォリスの動きを含む正確かつ詳細な情報をアメリカ側に伝え続け、ヨークタウンの戦いにおけるアメリカ軍の勝利に貢献した。

②Deborah Sampson Gannett, also known as Deborah Samson or Deborah Sampson,[1] was born on December 17, 1760 in Plympton, Massachusetts.[2] She disguised herself as a man, and served in the Continental Army under the name Robert Shirtliff – sometimes spelled Shurtleff[2] or Shirtleff[3] – and fought in the American Revolutionary War.
戦争を通じて、正式にアメリカの軍隊に参加して戦った黒人兵士の数は、アメリカ陸海軍将兵30万人のうち少なくとも5000人、同盟軍だったフランスの軍隊に参加したもの700人と推定されているが、ほかにスパイ、案内人、コック、御者などとして沢山の黒人が直接、革命軍のために働いた。

奴隷制度廃止への動き
憲法によって奴隷制度が容認されたという事実は、南部のプランター寡頭権力のいちおうの勝利だったが、しかし、それは、新しく誕生したアメリカ合衆国という共和国のすべての州、とりわけその後新たに連邦に加入した諸州においても、ことごとく奴隷制度が認められたということではない。
すでにみた黒人を含む広範な民衆の革命的気運の高まりの中で、当時はまだ連邦の一州になっていなかったが、ヴァーモントVermontが早くも1777年に奴隷制度を廃止したのを皮切りに、北部諸州においては戦争中から戦後にかけて、奴隷貿易の禁止もしくは奴隷制度の漸進的廃止の措置があいついでなされ、次第に奴隷制廃止の方向がおし進められていった*。それとともに、南部でも、この時期には個人的な奴隷解放が広く行なわれた。さらに、1787年の北西部領地革命によって、いわゆる北西部(のちにオハイオOhio、インディアナIndiana、イリノイIllinois、ミシガンMichigan、ウィスコンシンWisconsinなどの諸州ができた)では、そもそも、初めから奴隷制度は禁止され**、やがて1807年になると奴隷貿易禁止の法律が議会を通過した。
*これらの措置がなされた諸州を年代順に示すと、ペンシルヴェニアでは1780年、マサチューセッツでは1783年、コネチカットとロードアイランドでは1784年、ニューヨークでは1799年、ニュージャージーでは1804年。

**1783年のパリ条約(パリ条約(1783年)(パリじょうやく、英: Treaty of Paris 仏: Traité de Paris )は、1783年にアメリカ独立戦争を終結させた講和条約の1つ。アメリカ合衆国とイギリスの間で結ばれた)の結果、アメリカの領土は、いちやく二倍以上に増加した。すなわち、独立革命当時、Appalachian Mountainsアパラチア山脈Appalaches以東、大西洋岸一帯の約40万平方マイルだったこの国の領土は、この条約によって、北はカナダ、南はフロリダを境に、西はミシシッピ川にいたる全域を新たに付加され、88万8800平方マイル以上になった。この新たに付加された領土は、結局、合衆国の「公有地」になったが、これにかんして、当時、二つの有名な土地法が制定された。1785年の「公有地条令」と1787年の「北西部領地条令」である。前者は公有地の測量ならびに土地分配法を規定したものであり、後者は北西部地方の統治組織もしくは政治形態を規定したものであった。北西部における奴隷制度は、この北西部領地条令の第六条によって禁止された。
北部ならびに北西部における奴隷制廃止は、ひとつにはこれらの地域が種々の自然的制約のために、そもそも奴隷労働に適していなかったという事情もあるが、同時に独立革命の民主主義的伝統、とりわけ自由を求める黒人の強力なエネルギーがその支えになっていたことは確かである。
アメリカ各地の奴隷制度反対協会はひきつづき活発な活動を展開し、クェーカー教徒は奴隷制廃止の説得に熱心だった。自由黒人は黒人のための独立の教会をつくったり、黒人のための学校を建てたりした。それは、かれらにとっては、人種的偏見に満ちた白人が主張する白人優越=黒人蔑視にたいする闘いだったのである。
奴隷制度のくびきに押さえつけられていた南部の黒人奴隷も、この戦列に加わった。かれらの抵抗には種々の形態があるが、その最高形態は奴隷暴動だった。ハーバート・アプシカー(Herbert Aptheker (July 31, 1915 – March 17, 2003) Ге́рберт А́птекер was an American Marxist historian and political activist)は、1791年から1810年までの間に、南部で40以上にのぼる奴隷暴動もしくは暴動計画、放火その他の反抗記録を示している。なかでも最も大規模だったのは、それが実行に移されるまえに鎮圧されてしまったとはいえ、1800年8月にヴァージニア州のリッチモンドRichmond付近で起こったゲイブリエル・ブロッサーGabriel Blosserの蜂起だった。この蜂起には、1000人とも1万人ともいわれる武装反乱奴隷が参加していたという。それから10年後の1811年にルイジアナ州State of LouisianaのニューオーリンズNew Orleans付近で起こった蜂起も、これまた初期に鎮圧されてしまったが、数百人の奴隷が参加していた。
以上にみてきたような奴隷反対のさまざまな動きは、当時の国際情勢の変化によっても大いに促進され、ヨーロッパではフランス革命の風が吹きまくり、アメリカとは目と鼻の先のハイチで奴隷革命が成功して、1803年には、ついに黒人共和国が誕生した。このハイチにおける革命の成功は、その後ラテン・アメリカ諸国を席巻した植民地解放闘争の突破口になったが、ここで注意しておきたいのは、じつは、これらの国際情勢の変化にアメリカの独立革命が直接間接に刺戟を与えていたということで、当時の奴隷制反対の動きは相互に国際的な関連をもっていたということである。

①ハイチ革命(ハイチかくめいHaitian Revolution、仏:Révolution haïtienne, 1791年 - 1804年)Гаїтянська революціяは、西半球で起こったアフリカ人奴隷の反乱の中でも最も成功した革命。これにより、自由黒人の共和国としてハイチが建国された。革命が起こった時、ハイチはサン=ドマングSaint-Domingueと呼ばれるフランスの植民地であった。この革命によって、アフリカ人とアフリカ人を先祖に持つ人々がフランスの植民地統治から解放されただけでなく、奴隷状態からも解放された。奴隷が世界中で使われていた時代に多くの奴隷の反乱が起こったが、サン=ドマングの反乱だけが成功し、全土を恒久的に解放できた。

②ハイチ(ハイチ語: Ayiti [ajiti]; フランス語: Haïti [a.iti]; 英語: Haiti [ˈheɪti])公式には ハイチ共和国(ハイチきょうわこく、ハイチ語: Repiblik d Ayiti、フランス語: République d'Haïti、英語: Republic of HaitiРеспублика Гаитиは、カリブ海地域にある共和制国家。首都はPòtoprensポルトープランスPort-au-Prince

南部の綿花王国
プランテーションの奴隷制度
アメリカ合衆国が奴隷貿易を禁止した1808年には、イギリスもまた同じ措置をとった。デンマークはすでに1802年にその領土内で奴隷貿易を禁止し(①Danskデンマーク語⇒Dansk slavehandelデンマークの奴隷貿易 foregik fra ca. 1670 til 1802. Tæt ved 100.000 slaver blev transporteret over Atlanterhavet på danske skibe②The Danish-Norwegian slave trade commenced in 1733 and ended in 1807 when the abolition of slaves was announced)やがて1819年にはフランスもこれにならったIn 1818, the slave trade was banned in France。ここには、明らかに奴隷貿易禁止の国際的風潮が認められる。

①The Slave Trade Act 1807, officially An Act for the Abolition of the Slave Trade,[1] was an Act of the Parliament of the United Kingdom prohibiting the slave trade in the British Empire. Although it did not abolish the practice of slavery, it did encourage British action to press other nation states to abolish their own slave trades②The Slavery Abolition Act 1833 (3 & 4 Will. IV c. 73) was an Act of the Parliament of the United Kingdom which provided for the gradual abolition of slavery in most parts of the British Empire.
だが、独立宣言の作成過程で奴隷貿易禁止にあれほど反対したアメリカ南部のプランターや北部の奴隷貿易商人が、このときその禁止を求めたのは、それなりの理由があった。一般的に言えば、独立革命という歴史的大変革がこの国にもたらした新しい事態の中で、南部のプランテーション奴隷制度が重大な危機に直面していたからである。植民地時代の主要商品作物は、いずれも往時の「有利さ」を失いつつあったばかりでなく、藍などは完全に衰微し、そのうえ奴隷人口も過剰になって、奴隷価格は下落していた。事実、すでに過剰の奴隷を擁していた南部諸州は、1796年までに実質的に奴隷の輸入を禁止していた。
ジェファソンが自分の奴隷の殆どを解放し、ワシントンもそう書き残したことについてはすでに述べたが、そこにはこうした事情も作用していたのである。「革命の父祖」の中に、奴隷制度はやがて自然にこの国から消滅するだろうと真面目に期待していた者がいたとしても不思議ではない。かれらばかりではない。やがて、奴隷制度の熱烈な擁護者となったヴァージニア州のプランター政治家ジョン・ランドルフ(John Randolph (June 2, 1773 – May 24, 1833)Джон Рэндолф, commonly known as John Randolph of RoanokeДжон Рэндолф из Роанока, was an American planter, and a politician from Virginia, serving in the House of Representatives at various times between 1799 and 1833, and the Senate from 1825 to 1827)さえ、当時は「奴隷制度はこの世の堕落である
Slavery is the corruption of the world」と言っていたほどである(”I give and bequeath to all my slaves their freedom, heartily regretting that I have ever been the owner of one”)。それにもかかわらず、そのランドルフが舌の根も乾かぬうちに、掌を返すように「今や時代は変ったNow times have changed」と前言をひるがえし、「革命の父祖」の期待がはかない夢と化し、黒人奴隷制度を「積極的な善Positive good」とする奴隷哲学Slavery philosophyに守られて、嗜好品であったかつての煙草に代って工業用原料の綿花を主たる生産的素材にした「綿花王国Cotton Kingdom」を中心に、プランテーション奴隷制度がやがて全南部に以前とは比較にならないほどの規模で再生、発展したのは、如何なる理由にもとづくのか。それには社会的、技術的なさまざまな要因が作用していたが、その根源は、なんといっても独立革命が、黒人を動産とする奴隷制度に立脚した南部の大土地所有を廃止できなかったことにある。
それならば、そのようなアメリカ南部のプランテーションとは、経済史的にみて、どのようなものだったか。プランテーションという語は、語源的にはそもそも西インド諸島や北アメリカにおけるイギリスの植民活動と結びついており、最初は漠然と植民地=開拓地というほどの意味に用いられていた。たとえば、あの「巡礼始祖」によって創設されたニューイングランド地方の一植民地は、プリマス・プランテーションPlymouth Plantationと呼ばれていた。しかし、やがてそれはヴァージニアをはじめとする南部植民地の発展過程で、農業生産におけるひとつの型として発展し、そうなることによって南部の基本的な社会、経済制度として固定してしまった。

*プランテーション(plantationПлантація«саджати»とは、熱帯、亜熱帯地域の広大な農地に大量の資本を投入し、国際的に取引価値の高い単一作物を大量に栽培する(モノカルチャーMonoculture)大規模農園またはその手法をさす。植民地主義によって推進され、歴史的には先住民や黒人奴隷などの熱帯地域に耐えうる安価な労働力が使われてきた・・・人道上にある問題:この「安価な労働力」は、かつては植民地の原住民あるいは奴隷であり、現在は発展途上国の農民であり、労働者の人権が問題とされることがある。また開発されてきた土地は、先住民族の居住区または利用してきた土地・森林を多く含む。
農業生産におけるひとつの型としてのプランテーションの特徴は、奴隷労働という不自由労働を基礎にし、「利潤」獲得を目的に海外市場向けの主要商品作物を生産する、「資本」によって経営される大規模な商業的農業企業という点にある。その形態をみれば、表面的には近代的=資本主義的な様相を多分に帯びてはいるが、じつは、それは本源的蓄積期のイギリス商業資本が植民地収奪のために生みだした前近代的な搾取制度で、それじたいが近代的=資本主義的な性格をもつものではなかった。たとえば、「資本」といっても、それは近代資本主義に独自な産業資本とは区別された、いわゆる「画期的資本」であり、なによりも、そこでの生産的労働は、奴隷労働という不自由労働であって、労働力の商品化という事実はみうけられない。つまり、剰余価値の実現は端的に経済的強制によって行なわれ、商品交換の経済法則は生産の内部にまでは侵透していないのである。
プランテーションは、このように前近代的性格をもつものであるが、その場合、それは、そこで生産される商品作物の種類とは本質的になんの関係もない。その作物がどれだけ市場有効性をもつかということが、問題なのである。独立革命直後の時期は、植民地時代の商品作物が種々の事情から、かつてもっていた市場有効性を失いつつあり、その意味で奴隷制度が衰微の傾向を示していた。だから、植民地時代の商品作物に代って、新たな歴史環境に適応した市場有効性をもつ別の商品作物が登場してくれば、これを生産的素材にして再び奴隷制度が再生、発展するのは、むしろ当然のなりゆきだった。その新しい商品作物、それこそが綿花だった。ここにおいて、合衆国憲法による奴隷制度容認という事実の中にあらわれた独立革命の歴史的限界が決定的な役割を果たすことになる。

①A plantation complex in the Southern United States is the built environment (or complex) that was common on agricultural plantations in the American South from the 17th into the 20th century. The complex included everything from the main residence down to the pens for livestock. Until the abolition of slavery, such plantations were generally self-sufficient settlements that relied on the forced labor of enslaved people.
綿花は王者
19世紀の始まりとともに、イギリスでは産業革命が飛躍的に進展し、アメリカ綿花にたいする需要は急激に増大していた。また、アメリカ国内でも、独立革命によるイギリスからの綿布輸入が途絶したことを契機に、テンチ・コックス(Tench Coxe (May 22, 1755 – July 17, 1824) Тенч Кокс was an American political economist and a delegate for Pennsylvania to the Continental Congress in 1788–1789)などが綿花栽培を奨励し、さらにニューイングランド地方を中心にようやく発展途上にあった木綿工業が、イギリスに比較すれば量こそ少なかったが、やはり綿花を必要とし始めていた。こうした社会的要請にこたえるために、新品種の導入や技術上の革新も、すでになされていた。
②産業革命(さんぎょうかくめい、英: industrial revolutionПромы́шленная револю́ция (промы́шленный переворо́т, Вели́кая индустриа́льная револю́ция или Пе́рвая промы́шленная револю́ция)は、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった一連の産業の変革と石炭利用によるエネルギー革命、それにともなう社会構造の変革のことである。
すなわち、この頃には従来の長繊維の海島綿(Gossypium barbadense)Sea-island cotton に代って、緑色の種子をもった新品種の短繊維の陸地綿Upland cottonが導入され、また新しい綿花を効果的に処理できる綿繰機も1793年にイーライ・ホイットニー(イーライ・ホイットニー(Eli Whitney,1765年12月8日 - 1825年1月8日)Елі (Ілай) Вітніは、アメリカの発明家)によって発明されていた。このホイットニーの綿繰機Cotton ginは、針金歯をとりつけたローラーからなう簡単な機具であった。それでも、これを用いる従来1日がかりで陸地綿なら1ポンド程度しか綿繰りできなかったのが、いちはやく150ポンド、水力を使用すれば1000ポンドもの綿を処理できるようになった。また、新たに導入された短繊維の陸地綿は、従来の長繊維の海島綿にはなかった工業用原料としての多くの利点をもっていた。その主な点は、栽培技術が容易で、単位面積当りの生産量も多く、なにより重要なことは栽培適地がはるかに広範囲だったことである。
こうして、やがて嵐のような勢いで開始された西漸運動の進行とともに、19世紀前半を通じて、その後新たに開発された諸州を含む南部のほぼ全域が陸地綿の栽培に開放された。綿花は、かつてのサウスカロライナ州やジョージア州の海岸沿いの狭小地域から、ピードモントPiedmont高地を越えてテネシー、アラバマAlabama、ミシシッピ、さらにアーカンソーArkansas、ルイジアナ、テキサスTexasの諸州にまで達する広大な領域に一大王国を実現した。いわゆる「綿花王国」である。
1790年には僅か3000ベールだった綿花生産量は1800年には7万3000ベール、1810年には17万8000ベール、20年には33万4000ベール、30年には73万1000ベール、40年には134万6000ベール、50年には213万4000ベール、そして1860年には383万7000ベールと、著しく増大した。それとともに、この国の綿花輸出(その殆どがイギリス向け)も急速に増加し、1840年と50年にはアメリカの総輸出額の二分の一、1860年には58%も占めるにいたった。今や、綿花は南部のみならず、当時のアメリカ経済全体に支配的な影響をおよぼすことになった。
こうした事情を反映して、サウスカロライナ州のジェームズ・ハモンド(James Henry Hammond (November 15, 1807 – November 13, 1864) was an attorney, politician, and planter from South Carolina)は、1858年3月4日、合衆国議会の上院で、さも誇らしげに、こう言い切った。「もしも三年間、少しの綿花も供給されないとしたら、いったい、どのような事態が起るだろうか。・・・イギリスは完全に倒壊し、他の文明世界もすべてその巻き添えにしてしまうだろう。だが、南部だけは別である。綿花にたいして戦争をしかけられる者が、はたしているだろうか。いや、誰もいないのだ。いかなる権力も綿花と戦争することなどできない。綿花は王者であるYou dare not make war on cotton — no power on earth dares make war upon it. Cotton is king
しかし、このような綿花生産の増大は、南部のすべての州で綿花栽培が均等に発展したために起ったのではない。このことは、1810年頃にはこの国の綿花総生産量の僅か16分の1しか産していなかったアラバマ、テネシー以西の諸州が、東部の綿花諸州における生産量の絶対的増大にもかかわらず、1820年にはその三分の一、30年には二分の一、40年にはその三分の二、そして1860年にはじつにその四分の三の生産量をあげるにいたった経緯の中に、はっきりと示されていた。1850年における綿花生産の上位五州はアラバマ、ジョージア、ミシシッピ、サウスカロライナ、テネシーの順だったが、1860年にはこれがミシシッピ、アラバマ、ルイジアナ、ジョージア、テキサスの順になった。そして、これらの諸州が、綿花王国の心臓部を形成したのである。そこには肥沃な黒土におおわれた黒土地帯が広々と横たわっていたが、それは、また、黒人が住民の過半数を占める黒人地帯になった。いわゆるブラック・ベルトである。
*The Black BeltЧёрный пояс (регион) in the American South refers to the social history, especially concerning slavery and black workers, of the geological region known as the Black Belt. The geology emphasizes the highly fertile black soil. Historically, the black belt economy was based on cotton plantations – along with some tobacco plantation areas along the Virginia-North Carolina border.
綿花生産量の増大と軌を一にして、黒人奴隷数も増加した。1800年には89万4000人だった黒人奴隷は、1810年には119万1000人、20年には153万8000人、30年には200万9000人、40年には248万7000人、50年には320万4000人、そして1860年には395万4000人を数えるにいたった。この場合も、綿花生産におけると同様、低南部(The Deep South or the Lower SouthГлибокий або Далекий Південь is a cultural and geographic subregion of the Southern United States)とりわけ南西部諸州の増加が著しかった。たとえば、メリーランド州やデラウェア州では、この時期に黒人奴隷は全体として減少しつづけ、ヴァージニア州では絶対数は増加し、依然として最大の奴隷州の地位を保ってはいたが、その増加率は1830年から1860年にかけて僅かに4%程度だった。ノースカロライナ州ではこの期間に35%の増加率を示したが、これも年率になおすと殆どとるに足りない。
これにひきかえ、新たに開発された諸州、たとえばアラバマ、ミシシッピ、ルイジアナ、アーカンソーなど南西部諸州における黒人奴隷の増加は、きわだっている。1810年と1860年の両年を比較してみると、メリーランド、ヴァージニア、ノースカロライナの三州の奴隷数の総和はこの期間に1・34倍増加したにすぎなかったが、アラバマ、ミシシッピ、ルイジアナ、アーカンソーの四州のそれは、1810年の数がいかに少なかったとはいえ、じつに25倍余であった。
表4は、1860年における南部15奴隷州の黒人奴隷人口、自由黒人人口および白人人口を各州別に示したものである。それに示されているとおり、当時においてもヴァージニア州が最大の奴隷州だったが、黒人奴隷の過半数は低南部の諸州によって占められていた。さらに、州の総人口にたいする黒人奴隷の割合をみるならば、サウスカロライナ州が最大で57%、つづいてミシシッピ州の55%、ルイジアナ州の47%、アラバマ州の45%、フロリダ州、ジョージア州の44%、ノースカロライナ州の33%、ヴァージニア州の31%、テキサス州の30%、アーカンソー州の26%、テネシー州の25%、ケンタッキー州の20%、メリーランド州の13%、ミズーリ州の10%、デラウェア州の2%ということになる。

二つの南部
「綿花は王者」だったが、当時、南部が綿花生産だけに専念していたわけではない。また、黒人奴隷のすべてが綿花生産に従事していたわけでもない。
1850年には南部のプランテーションは全部で10万1335を数えたが、その内訳は、綿花が7万4031、煙草が1万5745、砂糖が2681、麻が8327、そして米が551であった。また、黒人奴隷については、この年の奴隷数320万4000余人のうち約250万人が農業に従事し、さらにこの250万人は、綿花が181万5000人、煙草が35万人、砂糖が15万人、麻が6万人、米が25万5000人という割合で、それぞれの作物の生産にたずさわっていた。これらのことからもわかるように、当時、南部の主要商品作物は、綿花のほかにも煙草、砂糖、麻、米などがあった。そして、これらの作物はその栽培適地にしたがって、それぞれ南部の各地域に、次のように主要商品作物地帯を形成した。
綿花地帯ーノースカロライナ州南部からテキサス州東部にかけてひろがる広大な地域。幅は南北カロライナ州、テキサス州では200マイル、ミシシッピ州付近では700マイルにおよび、長さは1000マイル以上に達する。
煙草地帯ーメリーランド州State of Maryland南部、ブルー・リッジBlue Ridge東部のヴァージニア州、ノースカロライナ州北部、ケンタッキー州Commonwealth of Kentucky西部、テネシー州西部、ミズーリ州State of Missouri中部などの境界諸州の地域。
米(水稲)地帯ーサウスカロライナ州、ジョージア州の海岸沿いの細長い地域、およびノースカロライナ州の東南部の突出した地域。
砂糖地帯ー大部分はレッド川Red River of the South以南のルイジアナ州、およびガルヴェストンGalveston付近を中心にしたGolfo de Méxicoメキシコ湾Gulf of Mexicoに面したテキサス州の小地域。
麻地帯ーケンタッキー州各地とミズーリ州中部の地域。
この場合、砂糖や米のプランテーションは一般に巨大プランテーションが支配的で、小プランテーションや、ちょっとした程度の農民が介入する余地は全くなかったが、その他の作物の生産にはかれらも多数従事していた。なお、これらのプランテーションに混じって、主として自給自足農業を営む独立自営農民の小農場も多数存在したが、それらはとりわけ境界諸州やピードモント高地に多く、低南部の諸州には巨大プランテーションが集中していた。
こうした事情は、さきに述べた黒人奴隷の地域的分布、とくに奴隷人口密度の地域的偏差にもあらわれているが、それは同時に土地の集中・独占的所有にみうけられる地域的差異にも照応している。すなわち、一般的に言えば、多数の黒人奴隷と広大な土地と所有する大プランテーションになればなるほど低南部に多く、これにひきかえ小プランターや独立自営農民は境界諸州に多いということである。そして、これらのごく限られた小数の巨大プランターが、大部分の黒人奴隷と厖大な土地を所有していた。
こうして綿花王国といわれた南北戦争American Civil War前の南部=アンティ・べラム南部は、綿花生産を基軸にしながら、その他の主要商品作物を含む生産物、また黒人奴隷、プランター、独立自営農民などの人的要素、さらには土地所有などの存在形態にかんして、サウスカロライナ、ジョージア、フロリダ、ミシシッピ、アーカンソー、ルイジアナ、テキサスの諸州からなる低南部と、デラウェア、メリーランド、ヴァージニア、ノースカロライナ、ケンタッキー、テネシー、ミズーリの諸州からなる高南部(境界諸州The Upland South and Upper South are two overlapping cultural and geographic subregions in the inland part of the Southern and lower Midwestern United States)とに地域的に大別できる。そして、この低南部こそが、この時期の黒人奴隷制度の牙城だったのである。

In the history of the Southern United States, the Antebellum Period (from Latin: ante bellum, lit. 'before the war') [анте беллюм]«до війни» spanned the end of the War of 1812 to the start of the American Civil War in 1861. The Antebellum South was characterized by the use of slavery and the culture it fostered.

①フレデリック・ダグラス(Frederick Douglass、1818年[2] - 1895年2月20日[3])Фредерік Дугласは、アメリカ合衆国メリーランド州出身の元奴隷、奴隷制度廃止運動家、新聞社主宰、政治家。Frederick Augustus Washington BaileyФредерік Ауґустус Вашингтон Бейлі
夜明けから日没まで
「奴隷所有者とは、同じ人間である者にたいして所有権を主張し、行使する者のことであるA slaveholder is someone who claims and exercises ownership over another fellow human being・・・黒人奴隷とは、いっさいの権利を剥奪され、獣の水準に引き下げられて、法律上はたんなる動産にすぎず、人類の同胞関係の圏外におかれ、人間族から切りはなされた人間存在であるA negro slave is a human being stripped of all rights, reduced to the level of beasts, legally mere chattel, outside the sphere of brotherhood of mankind, cut off from the human race。かれら黒人奴隷には、これが自分のものだと言えるものは、なにひとつない。かれらは、他人の果実を取り入れるために骨折って働き、自分以外の人間が遊んで暮せるように汗水を流すのだThey black slaves have nothing that they can call their own. They work hard to take in the fruit of others, and sweat so that others can play and live。」逃亡して自由の身となり、やがて奴隷制廃止運動の最もすぐれた指導者の一人になったフレデリック・ダグラスは、かつての自分の奴隷生活を振り返って、こう述懐している。
②Letter to his former owner(1848)元(奴隷)所有者(主)宛の手紙: Oh! sir, a slaveholder never appears to me so completely an agent of hell, as when I think of and look upon my dear children. It is then that my feelings rise above my control. … The grim horrors of slavery rise in all their ghastly terror before me, the wails of millions pierce my heart, and chill my blood. I remember the chain, the gag, the bloody whip, the deathlike gloom overshadowing the broken spirit of the fettered bondman, the appalling liability of his being torn away from wife and children, and sold like a beast in the mar.
かれら奴隷所有者の一日は、昼は狩猟、夜は舞踏会と忙しい。折々の寄合いでは、奴隷を何年で使い果たしてしまえば一番得かということが、綿花の値段や子供のしつけの話と一緒に真剣に論じられる。他方、黒人奴隷は、自分が辛うじて生きる程度の生活物資させ容易に与えられず、牛や馬と同じように、一日中働きつづける。腹が減ったからといって自分の労働によって作った果実を食べれば盗みの笞で鞭打たれ、離ればなれの妻や子供に黙って会いに行けば逃亡をたくらんだと焼印を押される。たまりかねて逃亡すれば獰猛な犬どもが後を追い、もし捕まれば耳をそがれたり、殺されても仕方がない。ハリエット・ビーチャー・ストウの『アンクル・トムの小屋』をはじめ、さまざまな作品にも描かれ、この野蛮な搾取制度ーこれこそが綿花王国を支えていた19世紀前半のアメリカ南部の黒人奴隷制度だった。

①Harriet Elisabeth Beecher Stowe (/stoʊ/; June 14, 1811 – July 1, 1896) Га́рриет Элизабет Би́чер-Сто́у was an American author and abolitionist②Uncle Tom's Cabin«Хатина дядька Тома»; or, Life Among the Lowly is an anti-slavery novel by American author Harriet Beecher Stowe.

大プランターのある者は、自分が住んでいた大邸宅の大農園(ホーム・プランテーションHome Plantation)以外にも、いくつもの大農園をどこか別の場所にもっていた。また、ある者は、ふだんは農園に居住せず、家族とともに町にいて政治家や弁護士や土地投機業者などとして生活していた。こんなとき、かれらは、スチュワードStewardと呼ばれる管理責任者を雇って農園の運営にあたらせた。だが、スチュワードを雇うほどのプランターでなくても、農園の日常の指図は、たいてい、オーヴァーシーアー(Overseer (plural overseers) One who oversees or supervises. (historical) The manager of a plantation of slaves)と呼ばれる白人の奴隷監督が受け持った。小プランターの中には奴隷監督を雇うことをしないで、直接に自分が日常の指図をした者もいたが、この奴隷監督は、いつでも奴隷にたいする監視の目を光らせ、あらゆる手段を用いて少しでも多く奴隷を酷使することを本来の務めとした。奴隷監督の下に、黒人奴隷の中から選ばれたドライヴァーDriverと呼ばれる黒人班長がおかれることがある。彼は奴隷でありながら同じ仲間の奴隷を監視する立場にたつ奴隷の「エリート」で、白人の奴隷監督のいわば助手である。
*A plantation house is the main house of a plantation, often a substantial farmhouse, which often serves as a symbol for the plantation as a whole. Plantation houses in the Southern United States and in other areas are known as quite grand and expensive architectural works today, though most were more utilitarian, working farmhouses.
大多数の奴隷は、こうした厳しい統制のもとで畑に出て働いたが、その労働形態には大別して二つの型があった。すなわち、タスク・システムと呼ばれる「割当制度」と、ギャング・システムと呼ばれる「組制度」である。割当制度の場合は、奴隷がその日にしなければならない一日の仕事の分業がそれぞれ前もって指示され、それを完遂するまでその日の労働から解放されることはなかったが、早く仕事をすませばそれだけ早く自分の家に帰ることもできた。この制度は、主として米の栽培において採用された。
①The task system is a system of labor under slavery characteristic in the Americas. It is usually regarded as less brutal than other forms of slave labor. The other form, known as the gang system, was harsher. Under this system, each slave is assigned a specific task to complete for the day. After that task is finished, the slave is then free to do as he or she wishes with the remaining time. The gang systems forced the slaves to work until the owner said they were finished and allowed them almost no freedom②The gang system is a system of division of labor within slavery on a plantation. It is the more brutal of two main types of labor systems. The other form, known as the task system, was less harsh and allowed the slaves more self-governance than the gang system did. The gang system allowed continuous work at the same pace throughout the day. The first gang, or "great gang," was given the hardest work, for the fittest slaves. The second gang was for less able slaves (teenagers, old people, or the unwell slaves) and this gang was given lighter work. The third gang was given the easiest work.
これにひきかえ、組制度は文字通り鞭と監視によるもので、奴隷たちはいく人ずつの「組」に編成され、全奴隷が一団となって働かされた。組制度は一般に割当制度よりも広く用いられ、綿花や煙草や砂糖の栽培では、たいていこの制度が採用された。しかし、じっさいには、これら二つの労働形態は適当に織り混ぜられて、奴隷労働を最も効果的にするようつねに工夫がこらされていた。
また、奴隷労働をいっそう効果的にするために、プランターは奴隷をその労働能力(年齢)に応じて、いくつかの段階に格付けした。それによれば、奴隷はまず「四分の一人前」から始まり、次第に大きくなって「半人前」になり、さらに成長して「四分の三人前」から「一人前」になる。「一人前」として働いたあとは年齢を重ねるにつれ、今度はこの段階を逆に下っていく。この基準にてらしていえば、乳幼児をもった母親奴隷は「半人前」ということであるが、こうして奴隷は、五、六歳になるまでの「無用者」を除いて、男も女も、大人も子供も年寄も、「夜明けから日没まで」力のかぎり働かなければならなかったのである。

*本章で取り扱った諸問題について、さらに立ち入ったことは、拙著『アメリカ南部奴隷制社会の経済構造The economic structure of slavery societies in the American South』(岩波書店、1964年)を参照されたい。なお、第八、九章で述べる公民権運動に触発されて、1970年代に入ると、黒人奴隷制度の制度史的研究よりは、むしろそのもとにおける黒人奴隷の日常生活、家族形態、文化や価値観などを取り扱った奴隷社会(Slave community)の社会・文化史研究、いわゆる新しい社会史の研究が盛んに行われるようになったが、ここでは、それらについて論評することはできなかった。

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