日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

American black historyアメリカ黒人の歴史История негра в Америке/Sozo Honda本田 創造Создано Хондой☆African-Americanアフリカ系アメリカ人Афроамерика́нцы☭2022/12/11/CANADA🍁Антид Ото⑨


*The civil rights movement非裔美國人民權運動아프리카계 미국인 민권 운동(African-American Civil Rights Movement)Рух за громадянські права афроамериканців у США was a nonviolent social movement and campaign from 1954 to 1968 in the United States to abolish legalized racial segregation, discrimination, and disenfranchisement throughout the United States.
8 公民権闘争の開幕
大統領令8802号と州の公式費用実施法
黒人を白人から隔離しても、施設などが平等であれば憲法違反ではないと裁定した1896年の連邦最高裁判所の判決(プレッシー対ファーガソン判決)は、その後、半世紀にわたって、両人種のみならず、この国の人種関係全般を支える法的原理になっていた。
だが、ヨーロッパで第二次世界大戦が本格化するにつれて、合衆国でも臨戦体勢づくりに国民を総動員する必要が生じてきた。そのためには、アメリカ人どうしの不和や対立を避け、なによりも黒人をはじめとする有色人マイノリティMinorities of colorと白人とのあいだの人種関係を早急に改善しなければならなかった。ひとくちにAmericansアメリカ人Американцы СШАといっても、English Americansイギリス系잉글랜드계 미국인英格蘭裔美國人French Americansフランス系Franco-Américainsの連合国側の出身者やその子孫もいれば、German Americansドイツ系DeutschamerikanerItalian Americansイタリア系Italoamericani、さらにはJapanese Americans日系人일본계 미국인日本系美國人といった同盟国側の出身者やその子孫もいた。そもそもが移民の国だった合衆国では、白人もさまざま、有色人もさまざまである。宗教や信条も、また同種であった。こうした多種多様な人種・民族構成からなるアメリカ人を、堅固な国民的合意と民主主義擁護の共通の大義のもとに結束させるのは、容易なことではなかった。

フランクリン・D・ローズヴェルトFranklin Delano Rooseveltが、A・フィリップ・ランドルフAsa Philip Randolphらによって提唱されていた首都ワシントンへの示威行進を含む黒人側の強い圧力を受けて、1941年6月、大統領行政命令8802号を発し、その中で「防衛産業や政府機関において労働者を雇う場合、人種、信条、肌の色、出身国のちがいによって差別してはならない。全労働者をこれらの産業に完全に参加させることは、雇用者および労働組合の義務である」と述べ、この命令に違反することがないよう監視し調査するための公正雇用実施委員会を設けたのは、このような時局の要請によるものだった。もとより、これによって、これらの分野でただちに人種差別がなくなったわけではないが、非常事態への対応策として講じられたこの措置が、戦後の人種関係の改善に重要な先駆的役割を果たしたことは確かである。事実、ローズヴェルトの死後(45年4月)、そのあとを継いだハリー・S・トルーマンHarry S. Trumanは、大戦終了後の1946年12月、人種差別撤廃をめざす公民権委員会を発足させ、さらに48年7月には大統領行政命令第9991号を出して、軍隊内部の人種差別を禁止した。こうして、Korean War朝鮮戦争6.25 전쟁六二五戰爭には、アメリカ史上、初めて「隔離なき統合された軍隊」が動員されることになった。

①Asa Philip Randolph (April 15, 1889 – May 16, 1979)Аса Филип Рэндольф was an American labor unionist and civil rights activist. In 1925, he organized and led the Brotherhood of Sleeping Car Porters, the first successful African-American led labor union.

②フェア・ディール(Fair Deal페어딜 정책:「公正な扱い」の意)は、ハリー・S・トルーマン米国大統領が1949年1月の一般教書にてアメリカ合衆国議会に示した、一連の提案に与えられた名称である。しかしこの語は、1945年から1953年まで米国を統治したトルーマン政権の国内改革課題を説明する際にも用いられた。
大統領行政命令による連邦レベルのこうした状況の推移のもとで、南部以外のいくつかの州では、一般の雇用においても人種差別を廃止する方向に沿った制度改革が行なわれ始めた。ニュージャージー州とニューヨーク州は、早くも1945年に、雇用における人種差別を禁止する法令を州法によって制定した。反差別法と呼ばれるこれらの法令は、人種、信条、肌の色、出身国を理由に就業機会を妨たげたり差別してはならない旨が明記されているが、注目すべきことは49年に改正されたニュージャージー州の法令と、やはり同じ年に制定されるコネティカット州の法令では、たんに雇用のみならず、州内の各種公共施設にかんしても、すべての州民が「市民的権利」として「十分かつ平等」にこれを利用できるようにすべきことであるとの規定がとり入れられていることである。
一般の公共施設の利用にまでたち入ったこのような州法の規定は、この時期にあっては例外といえるが、雇用にかんしては1950年代に入ると、その正式名称には多少の相違がみられるものん、通常、公正雇用実施法と称される法令が、マサチューセッツ州(50年)、ロードアイランド州(52年)、ミネソタ州(55年)、ミシガン州(同年)、ペンシルヴェニア州(同年)、オハイオ州(59年)、カリフォルニア州(同年)などで、あいついで制定されていった。しかし、これらの州法の制定が地域的にも拡大し、合衆国全土で成果をあげ始めるまでには、連邦の法律として1964年の公民権法の成立と、これを勝ちとるための黒人を先頭にした広範な民衆の絶えざる闘いが必要だったのである。

①Smith v. Allwright, 321 U.S. 649 (1944)史密斯訴奧爾賴特案, was a landmark decision of the United States Supreme Court with regard to voting rights and, by extension, racial desegregation. It overturned the Texas state law that authorized parties to set their internal rules, including the use of white primaries. The court ruled that it was unconstitutional for the state to delegate its authority over elections to parties in order to allow discrimination to be practiced. This ruling affected all other states where the party used the white primary rule.
スミス対オールライト判決からブラウン対教育委員会判決へ
1940年、テキサス州において、連邦両院議員、州知事その他の公職候補者を選ぶ民主党の予備選挙が行なわれた。そのとき、ハリス郡に住む黒人のロニー・スミスLonnie E. Smithは、「合衆国憲法で保障されている投票権を奪われたdeprived of the right to vote guaranteed by the United States Constitution」と、S・E・オールライトらの選挙管理委員を相手に5000ドルの損害賠償を求める訴訟を起こした。この訴えにたいして、テキサス州最高裁判所Supreme Court of Texas は、政党が予備選挙で黒人を排除しても、それは政党の「私的行為private act」であって州としての公的行為public actではないから、「黒人は民主党のいかなる予備選挙においても投票権を有するものではないBlacks do not have the right to vote in any Democratic primary」とした1923年の人種差別の州法をそのまま踏襲する判決を下した。
予備選挙を政党の私的行為とみなしたこの判決にたいし、連邦最高裁判所は、44年4月、「予備選挙での投票権は一般の選挙と同じ投票権であり、それは合衆国憲法によって保障されたものである。修正第15条は、いかなる州も人権を理由にその権利を奪うことはできないと定めている」との見解を示し、したがって予備選挙から黒人を除外することは明白に憲法に違反するとの裁定を下して、さきのテキサス州最高裁判所の判決を否定した。
予備選挙での人種差別が違憲判決を受けてから七年が経過した1951年2月、カンザス州に住むリンダ・ブラウンLinda Brownという黒人少女の父親オリヴァー・ブラウンOliver Brownは、近所の白人の公立学校へ転学したいという娘の希望を、州法の規定にもとづいて拒否したトぺカTopeka市の教育委員会を相手に訴訟を起こした。当時、南部を中心に20州以上の州が、人種のちがいを理由に黒人と白人とをそれぞれ隔離した別々の学校で教育することを法律によって定めていた。この裁判は、最終的には、白人の公立学校への登校を認められずに係争事件になっていた他の三件(サウスカロライナ州、ヴァージニア州、デラウェア州での裁判)と一緒に、連邦最高裁判所が一括して審理することになったが、これが「ブラウン対教育委員会事件」である。

②Board of Education. With the words "separate educational facilities are inherently unequal," the Supreme Court reversed legalized segregation. With the words "separate educational facilities are inherently unequal," the U.S. Supreme Court reversed more than a half century of legalized segregation.
連邦最高裁判所Supreme Court of the United Statesは、1954年5月17日、「公立学校において白人と黒人の子どもを隔離しておくことは黒人の子どもに有害な影響を与える。それが法の強制によるものであれば、影響はもっと大きい。したがって、法の強制による隔離は、黒人の子どもの教育的、知的発達を阻害し、人種共学の学校制度のもとで受けたであろう利益の一部を、かれらから奪う傾向をもつSegregating white and black children in public schools has a detrimental effect on black children. If it is by law enforcement, the impact is even greater. Thus, legally enforced segregation tends to impede the educational and intellectual development of black children and deprive them of some of the benefits they would have received under a co-educational school system」ことを指摘し、「公教育の分野においては、《隔離しても平等》の原理を受け入れる余地はない。隔離された教育施設は本質的に不平等であるIn the field of public education there is no room for the principle of "Separate but equal". Segregated educational facilities are inherently unequal」との判断にもとづいて、公立学校における黒人と白人との隔離は憲法に違反するとの画期的な裁定を下した。これによって、半世紀にわたって人種差別を支えてきた「プレッシー対ファーガソン判決」の「隔離しても平等Separate but equal」という原理に代って、「隔離したら不平等Inequality in isolation」という人種差別撤廃への新しい原理が打ちだされることになった。
しかし、別学制度のもとで法の平等を奪われた黒人を、どのように救済するのかという問題が残った。この点を明らかにするために、最高裁判所は、ふたたび当事者に口頭弁論を命じ、一年後に「ブラウンII判決」を下した。これは学区の教育委員会に隔離教育を解消するための計画を策定させ、「可及的速やかに」、あるいは「慎重な速度で」その実現を命じ、さらにこの実施状況の監督を連邦地方裁判所にゆだねることを決めたもので、前年の画期的な裁定とあわせて、これがいわゆる「ブラウン判決」と呼ばれているものの概要である。
このような動きにたいして、とりわけ南部白人の憤懣と抵抗は激しかった。だが、黒人たちの反応はこれとは正反対だった。有名な黒人新聞『シカゴ・ディフェンダーChicago Defender』はこの判決を「第二の奴隷解放宣言Second Emancipation Proclamation」と呼んだが、全国の黒人とりわけ人種差別の法的規制を厳しく強いられていた南部の黒人たちは、それが人種差別を全面的に廃止しみずからの公民権を完全に獲得するための新しい時代の幕開きだと感じとっていた。いや、かれらは、すでにこの闘いの先陣に立って行動を開始していたのである。

①The Chicago Defender is a Chicago-based online African-American newspaper. It was founded in 1905 by Robert S. Abbott and was once considered the "most important" newspaper of its kind. Abbott's newspaper reported and campaigned against Jim Crow-era violence and urged black people in the American South to settle in the north in what became the Great Migration②Robert Sengstacke Abbott로버트 셍스태크 애벗(December 24, 1870 – February 29, 1940) was an American lawyer, newspaper publisher and editor.

バス・ボイコット運動
南部各地では、依然として「ジム・クロウJim Crow laws」が横行していた。駅の待合室や便所、また水飲場や公園などの公共施設には、どこに行っても「白人専用Caucasian Only」とか「黒人専用For Blacks Only」とか記載された表示板が掲げられていた。バスの座席は、後部が黒人用、南部が白人用の二つに分けられていた。黒人は「黒人席Black Seat」が満席になり、「白人席White Seat」に空席がいくら残っていても、後方に立っていなければならなかった。
このようなバスの人種隔離に反対する運動は、早くも1953年にState of Louisianaルイジアナ州État de Louisianeの州都Baton RougeバトンルージュBâton-Rougeで始まっていた。その年、この都市の黒人指導者は、誰でも空いている席には自由に坐ってもよいという市条例の制定を強く求める請願書を市議会に提出していたが、制定された市条例第222号は「黒人は後部座席から、白人は前部座席から席を占めるBlacks occupy the back seats, whites occupy the front seats」ことを規定するのが精一杯だった。
これにたいし、それを不満とした黒人たちは、この条例が施行された3月11日、バスの前方の席から坐り始めることによって、かれらの意思を示したのである。ところが、黒人たちのこうした行動を目のあたりにした全員白人からなるバスの運転手が、今度はこれに抗議して、市条例第222号はルイジアナ州の人種隔離法に抵触すると主張したストライキに突入した。四日間にわたるストライキのなりゆきを注意深く見守っていた州司法長官は、白人運転手の立場を擁護して、新しく制定された市条例は州法違反であるとの判断を示した。
このような状況のもとで、6月、全国黒人地位向上協会(NAACP)の会長もつとめたT・J・ジェミソン牧師を中心とするバトンルージュの黒人たちは、「人種隔離と不正はもううんざりだTired of racism and injustice」と、従来の常套手段だった法廷闘争ではなく、バス乗車拒否という大衆的直接行動による抵抗運動を開始した。ボイコットが六日目に入った頃、黒人側と市当局とのあいだで事態の収拾策が模索された。その結果、「バスの前部座席二列は白人用とするThe front two rows of seats on the bus are reserved for whites」という妥協案が成立した。連日連夜、集会を開いてきた約8000人の黒人たちは、やむなくこの妥協案を了承し、ボイコットは6月25日に終熄した。このボイコットによる会社側の損失は、一日につき1600ドルと見積られた。バトンルージュでのこの経験は、バスの人種隔離を廃止するにはいたらなかったが、しかしそれは二年後の1955年、今度はアラバマ州の州都モントゴメリーで見事に成功し、大きな歴史的成果を勝ちとることになる。

*Theodore Judson Jemison (August 1, 1918 – November 15, 2013), better known as T. J. Jemison, was the president of the National Baptist Convention, USA, Inc. from 1982 to 1994. It is the largest African-American religious organization. 

①モンゴメリー・バス・ボイコット事件(Montgomery Bus BoycottАвтобусний бойкот у Монтгомеріは、1955年にアメリカ合衆国アラバマ州モンゴメリーで始まった人種差別への抗議運動である。事件の原因は、モンゴメリーの公共交通機関での人種隔離政策にあり、公民権運動のきっかけの一つとなった。②ローザ・パークス(Rosa "Lee" Louise McCauley Parks, 1913年2月4日 - 2005年10月24日)Роза Луиза Парксは、アメリカ合衆国の公民権運動活動家。
この都市で、人種隔離の厚い壁に敢然と挑戦したのは、ダウンタウンの一流デパートに裁縫工として勤めていた42歳の魅力的な黒人女性で、かつてNAACPのモントゴメリー支部の書記をしたこともあるローザ・パークスであった。その年もおしつまった12月1日、仕事を終えて家路についた彼女は、クリーヴランド街でバスに乗った。長時間、立ったままで働きつづけて疲れきっていたパークスは、白人用にとってある前部座席のすぐ後ろの席に腰を下ろした。ところが、彼女が席について間もなくバスの運転手が、あとから乗り込んできた白人乗客を坐らせるために、ほかの三人の黒人乗客と一緒に席を譲るよう命令した。ほかの三人の黒人乗客はすぐ運転手の要求に応じたが、パークスは静かに、しかし、はっきりと「ノー」と答えてこれを拒絶した。そのため、彼女は逮捕された。これが、そもそもの発端であった。
ローザ・パークスのこの行動は、一人の黒人女性が長年にわたって抱きつづけてきた人間の尊厳と自由にたいする熱望が、このとき一挙に噴出したものだったが、パークス逮捕のニュースはたちまちモントゴメリーの黒人社会全体の問題として黒人たちのあいだに知れわたってしまった。すでにこの都市には、働く黒人女性たちーかれらの多くは婦人政治会議のメンバーだったーを中心にした人種差別撤廃組織が存在していた。これにこの地の有力な牧師らの黒人指導者が参加して、きゅうきょ、この事件に対処すべき具体策をめぐって真剣な討論が重ねられた。その結果、全市の黒人をあげてバス乗車拒否運動を推進しようということで、みんなの意見が一致した。
当時、モントゴメリーの人口は、白人が7万5000人だったのにたいして黒人は4万5000程だったが、バスの利用者の三分の二は黒人だった。したがって、この運動が成功すれば、それは会社側に決定的な経済的打撃を与えることは間違いなかった。しかし、そのためには大多数の黒人住民の全面的な協力がどうしても必要だった。これが並大抵のことでないのは、誰の目にも明らかだった。そこで、この難事を遂行するための中心的指導者になるよう要請されたのが、当時はまだ殆ど無名だった弱冠26歳のマーティン・ルーサー・キング牧師であった。最初は戸惑い逡巡したが、結局、彼は非暴力的抵抗に徹して運動を展開するということで、この責任ある仕事を引き受けた。その日の大集会でラルフ・アバナシー牧師のあとを受けて壇上に立ったキング牧師は、興奮した面持ちのうちにも、しっかりとした口調で、「もしも、われわれが間違っていると言うのなら、それは最高裁判所が間違っている。合衆国憲法も間違っているIf you say we are wrong, then the Supreme Court is wrong. The U.S. Constitution is Wrong」と、はっきりと言いきった。

*Ralph David Abernathy Sr. (March 11, 1926 – April 17, 1990) was an American civil rights activist and Baptist minister. He was ordained in the Baptist tradition in 1948. As a leader of the civil rights movement, he was a close friend and mentor of Martin Luther King Jr.
こうして、12月5日から、モントゴメリーの黒人社会全体を巻き込んだバス乗車拒否運動が開始されたのである。その日の模様について、キング自身は感慨ぶかげに次のように回想している。
いよいよ月曜日(12月5日)の朝、妻とぼくとは、いつもより早く目を覚した。抗議の日は、すでに到来したのだ。ぼくたちは、ここにその幕を切っておとそうとしているドラマの第一幕を、自分の目でみつめようと心に決めた。ぼくは、いまだに、もしも60パーセントの協力が得られれば、この計画は成功と言っていいだろうと思っていたFinally, on Monday morning (December 5th), my wife and I woke up earlier than usual. The day of protest has already arrived. We decided to see with our own eyes the first act of the drama that was about to end here. I still thought that if we could get 60% cooperation, we could call this project a success.
幸運にも、バスの停車場は、ぼくたちの家からわずか五フィートのところにあった。つまり、ぼくたちは正面玄関の窓から、開幕の舞台を見ることができるのだ。・・・ぼくが台所でコーヒーを飲んでいたら、「マーティン、マーティン、早くいらっしゃい」と大声で呼ぶ妻のコレッタの声が聞えた。ぼくはコーヒー茶碗をおいて居間に駆けつけた。正面玄関の窓に近づくと、コレッタが嬉しそうに、ゆっくりとやってくる始発バスを指さして言った。「あなた、空っぽよ!」この始発バスは、いつも仕事に出かける黒人労働者で満員であることを、ぼくは知っていた。ぼくは、この目で見たものを殆ど信じることができなかったLuckily, the bus stop was just five feet from our house. In other words, we can see the opening stage from the window of the front entrance. …I was in the kitchen drinking coffee when I heard my wife, Coretta, yelling, “Martin, Martin, hurry up!” I put down my coffee bowl and rushed into the living room. As we approached the window of the front door, Coretta happily pointed to the first bus coming slowly and said, "Honey, it is empty!" I knew this first bus was always packed with black workers on their way to work. I could hardly believe what I saw.
こうして始まった黒人のバス乗車拒否にたいし、白人側はその頃すでに南部の諸都市で組織化されていた白人市民会議や、またもや各地に台頭してきたクー・クラックス・クラン(KKK)などを中心に、あらゆる妨害と暴力を加えて、この黒人民衆の抵抗運動を鎮圧しようと躍起になった。白人市民会議は政治家、銀行家、実業家、判事らのクランよりはるかに高い社会的、経済的な階層からその会員を集めていたが、この組織もクランと同様、いかなる手段に訴えても人種隔離を維持することを決意していた反黒人団体だった。かれらは警察権を発動させて運動の指導者100人余りを報復的に告訴し、その多くを留置所に送り込んだ。また、KKKは「白人と黒人とを混ぜあわせて雑種人間をつくるというのか、それこそ破滅だMixing whites and blacks to create hybrids is a disaster」と叫んで、黒人たちに暴行を働いた。これらの過激な人種主義者は、いくつかの黒人教会を爆破したり、キング牧師の家に爆弾を投げ込んだりした。
しかし、黒人たちは耐えた。自家用車の相乗り組織をつくったり、遠い道程を歩いて職場に通ったり買物に出かけたりしながら、キング牧師の指導のもとで、一年間も、非暴力による抵抗を貫きとおした。良心的な白人の中には、数こそ少なかったが、黒人たちのこの運動を陰ながら援助した者もいた。バス会社は、ついに倒産寸前に追い込まれた。
こうした中で、1956年11月13日、連邦最高裁判所は「バスの人種隔離は違憲であるBus segregation is unconstitutional」との判決を下し、その命令が12月20日にモントゴメリー市当局に通達されて、この抵抗運動は黒人側の全面勝利をもってその幕を閉じた。運動の成果について、キング牧師が「それは黒人だけの勝利ではない。正義と良心の勝利であるIt's not just a black man's victory. A triumph of justice and conscience」と語っているように、このバス乗車拒否運動を闘いぬいた黒人民衆は、白人がそれを人権の問題としてとらえていたのにたいして、あくまでも人間の尊厳の問題ーこの国の憲法の理念にもとづいて、すべてのアメリカ人が当然、享受すべき自由、平等、正義のための市民的権利の問題として受けとめていたのである。この闘争が、まさに公民権運動と呼ばれる所以である。
モントゴメリーのバス乗車拒否運動は、黒人民衆自身が歴史を動かす力をすでに身につけていたことを、国の内外にはっきりと示した。同時に、それはキング牧師の非暴力的抵抗による民衆の直接行動が、その後の公民権運動において有効な武器であることを広く知れわたらせることになった。そして、こうした中から、新たな黒人解放組織としてキング牧師の思想にもとづいた南部キリスト教指導者会議(Southern Christian Leadership Conference. SCLCと略記)が、彼を議長に選出して翌年の1957年早々に結成された。
*The Southern Christian Leadership Conference (SCLC)Конференция южного христианского руководства или Конференция христианских лидеров ЮгаConférence du leadership chrétien du Sud남부기독교지도회의 is an African-American civil rights organization based in Atlanta, Georgia. SCLC is closely associated with its first president, Martin Luther King Jr.

人種共存をめぐる進歩と反動
これを出発点にして、公民権運動は、その領域と力量を急速に伸長していくことになるが、南部の白人権力は一般の白人群衆を巻き込みながら、前進するこの歴史の歯車を逆に押し戻そうと必死になった。
モントゴメリーでのバス乗車拒否運動が開始されてから三ヶ月程のち、ヴァージニア州選出の上院議員ハリー・F・バードHarry Flood Byrd Sr.らは、黒人と白人の共学に激しく反対する「大規模な抵抗large resistance」を呼びかけ、これに呼応した南部選出の国会議員101人(上院議員19人、下院議員82人)が、1956年3月12日、さきの最高裁判所の「ブラウン判決」に抗議して、「憲法上の諸原則にかんする宣言Declaration of Constitutional Principles」いわゆる「南部宣言Southern Declaration」に署名した。かれらは、最高裁判所の判決は、「外部の煽動者outside agitator」に利用された「司法権の明白な乱用Obvious Abuse of Judicial Power」であり、「合衆国憲法に違反するViolate the United States Constitution」と決めつけ、全南部をあげて人種統合に抵抗することを誓い合った。また、この頃、白人市民会議の会員はその数およそ30万人に達し、かれらは、とりわけアラバマ州、ルイジアナ州、ミシシッピ州などで、KKKと取り合って盛んに反黒人の人種差別活動を展開した。
折しも「南部宣言」が出された一ヵ月程前、この共学問題に最初の大きな一石を投じ、その波紋が全米の耳目を引きつける出来事が、アラバマ州のタスカルーサTuscaloosaにあるアラバマ大学で起こった。オーザリン・ルーシー事件である。ルーシーはNAACPなどの後援を得て、2月3日、すでに三年間にわたる法廷闘争によって、この大学への入学許可を勝ち取っていた黒人女子学生だったが、彼女が実際に校門をくぐるにおよんで、大学は俄かに騒然たる空気につつまれた。それでも、最初の日の昼間は何とか事無きを得た。しかし、夜に入ると沢山の学生たちが「黒ん坊(ニガー)を大学から追放せよBanish nigger from college」と騒ぎたて、KKKはあの異様な白装束に身を固め十字架に火をつけて夜空に燃やした。翌日、騒ぎはもっと大きくなり町には暴徒の群れが満ちあふれた。三日目になると、ルーシーの登校をあくまで阻止しようと集まってきた500人の学生、それに一般の暴徒も加わって、警官の護衛つきで教室から脱出し、やっと乗り込んだ彼女の車の窓ガラスが、たちまち、かれらの投石や棍棒で目茶目茶に割られて、ルーシー自身は命からがら難を逃れるという最悪の事態にたちいった。紛れもない人種暴動であった。

*Autherine Juanita Lucy (October 5, 1929 – March 2, 2022) was an American activist who was the first African-American student to attend the University of Alabama, in 1956. Her expulsion from the institution later that year led to the university's President Oliver Carmichael's resignation.
こうした状況下で、ルーシーが登校できたのは、僅かにこの三日間にすぎなかった。それというのも、大学当局は、彼女の通学を保障する断固とした手段を講じる代りに、「ルーシーの身の安全を守るためTo keep Lucy safe」に、反対に彼女にたいして休学を命じたからである。この不当な処置を不満としたルーシーは、アラバマ州連邦裁判所に復学を求める訴えを起こし、裁判所は彼女の主張を全面的に認める判決を下した。ところが、大学当局は、彼女が「虚偽の暴言を吐いて大学を非難したdenounced the university by spouting false rants」との理由でルーシーを退学処分にしてしまったのである。
このような事態にたいし、秋の大統領選挙で再選を狙っていたドワイト・D・アイゼンハワーDwight David Eisenhower大統領は、ただ拱手傍観してこの重大問題を解決するために必要な措置を積極的にとろうとしなかったばかりか、このような「国民感情にかかわる問題では法の実施にあせりは禁物で性急に事を運べばかえって禍を招くWhen it comes to issues related to public sentiment, rushing to implement the law is prohibited, and rushing things will only invite disaster」と、逆に人種主義者の高度を弁護する発言さえ行なった。それだけに、オーザリン・ルーシーの『三日学生three day student』は、モントゴメリーのバス乗車拒否運動の成功とともに、全米の黒人を勇気づけただけでなく、多くの白人の良心を目覚めさせ、とりわけ大学生を中心とする若い世代に強い影響を与えることになった。
そんな中で、再選を果したアイゼンハワー大統領に、いつまでも「傍観的態度」をとることを許さない異常事態が、翌年、今度はアーカンソー州のリトルロックLittle Rockで発生した。ワシントンの国会では、1957年8月29日、再建期以来、最初の投票権にかんする公民権法が下院を通過しているが、南部の人種共存は遅々として進展していなかった。当時、すでにバスの人種隔離を廃止していたリトルロックでは、市教育委員会が裁判所の命令にしたがって地域住民の理解を得ながら、秋の新学期から委員会が選考した学業優秀な9人の黒人生徒(男子三人、女子6人)を、それまで2000人の白人生徒だけが通っていたリトルロック・セントラル高校(以下、リトルロック高校)に入学させることを決め、その準備を進めていた。
折しも、過去50年間のこの州で前例のなかった三選をめざして苦慮していたオーヴァル・E・フォーバスOrval E. Forbath知事は、この問題を選挙民に大きくアピールして翌年の知事選挙を有利にみちびこうと、新学期が始まる前日の9月2日、「もしも、明日、人種共存が強制的に実施されるなら、私はこの地域の平和と秩序を維持することはできないIf racial coexistence is enforced tomorrow, I will not be able to maintain peace and order in this region」との声明を発表し、突然、250人からなる武装した州兵をリトルロック高校に動員して学校を包囲させるという強硬手段に打ってでた。これらの州兵に与えられた任務は、実際は地域の平和と秩序の維持ではなく、黒人生徒の登校を武力によって阻止することだった。
明けて9月3日、両親や牧師たちにつき添われて学校にやってきた8人の黒人生徒を待ち受けていたのは、武装した州兵だけでなく、フォーバス知事のこの措置に刺戟されて各地から集まってきていた大勢の白人群衆だった。かれらの罵倒と暴力的威嚇のまえに、8人の黒人学生はやむなくその日の登校を諦め退去せざるを得なかった。だが、これらの黒人学生と連絡がとれずに、ただ一人で登校してきた15歳のエリザベス・エックフォードElizabeth Eckfordは、たちまち群衆に取り囲まれ「黒ん坊を殺せKill the nigger」などと叫ぶ怒号を浴びながら、じっと身の危険に耐えていたが、幸運にも白人婦人が素早く彼女をバスまで連れて行って難を逃れさせたという一幕もあった。

*Elizabeth Ann Eckford (born October 4, 1941)Элизабет Экфор is one of the Little Rock Nine, a group of African-American students who, in 1957, were the first black students ever to attend classes at the previously all-white Little Rock Central High School in Little Rock, Arkansas.
黒人生徒は、依然として登校することができなかった。憲法で保障された国民の権利や裁判所の命令をこのようにして踏みにじったフォーバス知事の仕打ちに、さすがのアイゼンハワー大統領も、なんらかの対策を講じないわけにはいかなくなった。9月中旬、やっと重い腰をあげて知事と会談した大統領は、彼が自分の真意を理解し、早急に事態の収拾を図るものと思い込んだ。しかし、フォーバス知事は巧妙に大統領を裏切ったのだ。彼は大学から州兵を撤退させ、その代り白人群衆がそれまで以上に勝手気儘に黒人生徒の入学を阻止できる無政府状態をつくりだすことに成功した。今にもはち切れそうな緊張の中を登校してきた9人の黒人生徒が、正門をさけて脇から校舎に入ったことを知ったとき、群衆は暴徒と化して構内になだれ込み、学校全体に人権暴動が荒れ狂った。暴徒たちは口々に「黒ん坊を学校から追放してジャングルへ追い返せBanish the nigger from school and send him back to the jungle」などと叫びながら、黒人生徒につき添ってきた親や関係者に危害を加えたばかりか、三人いた黒人報道記者の一人の頭を煉瓦で強打して路上に押し倒した。
こうした暴動の模様がマスコミをとおして国の内外に報道されるようになると、アイゼンハワー大統領もやっと重い腰をあげて、決然たる処置をとることに踏みきらざるを得なくなった。9月24日、大統領はアーカンソー州の州兵を連邦軍に編入するとともに、きゅうきょ連邦軍の第101空艇師団に出動を命じ、「リトルロックへの派兵は国民に保障された権利を擁護するためで、裁判所の決定が守られれば連邦軍は撤退するThe troop dispatch to Little Rock is to protect the rights guaranteed to the people, and if the court's decision is followed, the federal forces will withdraw」と国民に訴えた。これにたいし、フォーバス知事は、「州民のみなさん、今、われわれの土地が外部の者たちに占領されています。われらが敬う神よ、われらが尊ぶ自由よ、われらが悲しむ礼節よ、アメリカはどうなるのかMy fellow citizens, now our lands are occupied by outsiders. God we adore, liberty we adore, civility we mourn, what will become of America?」と怒りに身を震わせたが、翌日の25日、1000人の連邦軍に見守られながら、9人の黒人生徒はついに校門をくぐってリトルロック高校への入学を果すことができた。当時を振り返って、最初の卒業生となったアーネスト・グリーンは、「ぼくたちは一段ずつ高校の階段を上った。銃を構えた連邦軍に守られてWe climbed the high school stairs one step at a time. Protected by federal troops with gun・・・。夢じゃないんだIt's not a dream. とうとう学校に行けるんだと思いました。階段を踏みしめながら、それまでにない最高の気分を味わっていましたI thought I could finally go to school. I was feeling the best I've ever felt while stepping on the stairs」と述懐している。
共学問題をめぐるこのような進歩と反動の闘いは、その後ともルイジアナ州のニューオーリンズその他で展開され、黒人たちは、この熾烈な闘いをとおして、一歩一歩、勝利を掌中におさめていったが、1962年9月30日にミシシッピ州のオックスフォードOxfordにあるミシシッピ大学で、かつての朝鮮戦争の戦士ジェームズ・H・メレディスの入学をめぐって発生し、死者二人のほかに大勢の重軽傷者をだした大規模な人種暴動は、リトルロック高校事件以上の衝撃を国の内外に与えた。

*ジェームズ・メレディス(英語: James Meredith、1933年6月25日 - )は、アメリカ合衆国ミシシッピ州オックスフォードにあるミシシッピ大学(University of Mississippi、愛称: オールミスOle Miss)に入学した初めてのアフリカ系アメリカ人である。
人種差別廃止に積極的な姿勢を示して大統領の座に就いていたジョン・F・ケネディにとって、この事件は大きな試練となった。そのときの暴動の激しさは内戦さながらの様相を呈し、ときの司法次官補をして「南北戦争最後の残り火」と言わしめたほどのものであった。結局、この闘いにおいても、根っからの白人優越主義者のロス・R・バーネット知事の頑迷このうえない執拗な抵抗と沢山の人種主義者の妨害があったにもかかわらず、メレディスは入学を勝ち取り、翌年の63年8月にミシシッピ大学を見事に卒業した。その後、メレディスは公民権運動の熱心な活動家になる。

*The Greensboro sit-ins were a series of nonviolent protests in February to July 1960, primarily in the Woolworth store—now the International Civil Rights Center and Museum—in Greensboro, North Carolina,[1] which led to the F. W. Woolworth Company department store chain removing its policy of racial segregation in the Southern United States.
9 黒人革命
ランチ・カウンターへの坐り込み運動
1960年1月31日、ノースカロライナ州のグリーンズボロで、従来とはちがった新しいかたちの人種差別撤廃闘争が、四人の黒人の若者によって始められようとしていた。白人の若者も巻き込んだ学生層を中心にして、その後たちまち全南部に波及したこの運動の起爆剤となったこれらの黒人の若者は、この町にあるノースカロライナ農工大学の学生だった。
昼間、町のバス・ターミナルの軽食堂で例によって「Whites Only黒人の注文お断りReject orders from black people」の扱いを受けて、とうとう堪忍袋の緒を切らしたジョセフ・マックネイル(Joseph Alfred McNeil (born March 25, 1942) is a retired major general in the United States Air Force who is best known for being a member of the Greensboro Four)は、その日の夜、学生寮の一室で日頃から人種差別に強く反発していた仲間のエゼル・ブレア(Jibreel Khazan (born Ezell Alexander Blair Jr.; October 18, 1941) is a civil rights activist who is best known as a member of the Greensboro Four)、フランクリン・マックケイン(Franklin Eugene McCain (January 3, 1941 – January 9, 2014) was an American civil rights activist and member of the Greensboro Four)、デイヴィッド・リッチモンド(David Leinail Richmond (April 20, 1941 – December 7, 1990) was a civil rights activist for most of his life, but he was best known for being one of the Greensboro Four)らと、この問題について真剣に話し合った。
深夜におよぶ長時間の討議のすえ、かれらは、あるひとつの結論に到達した。それは、全米各地に支店をもつ大手雑貨チェーン・ストアのウルワースの店内にある白人専用のランチ・カウンターに自分たちが出かけて飲食物を注文し、要求がいれられるまでそこに坐り込みをつづける計画を実行しようというものだった。そして、一夜明けた2月1日、かれらは、ただちにこの計画を実行したのである。午後四時半頃、店内に入ったこれら四人の黒人学生は、練り歯磨きその他の日用品を買うと、すぐに「黒人禁制」のカウンターの席に腰を下ろして堂々とコーヒーとドーナッツを注文した。
いうまでもなく、かれらが要求したのは、コーヒーとドーナッツそのものではない。それは、南部の伝統的価値観にたいする真っ向からの挑戦であり、市民的不服従の実践だった。それだけに、この行為は重大な決意と勇気を要したのである。案の定、予期していたとおりの反応が、たちまち起こった。ウェイトレスから事情を聞いて駆けつけてきた店長と四人の学生とが会話のやりとりをしているあいだに、あたりは黒山のような人だかりに囲まれてしまった。かれらはじっとそれに耐え、閉店までそこの坐り込みをつづけ、終始、非暴力による抵抗を貫きとおした。翌日の2月2日には、かれらのほかに農工大学の仲間の学生三人とベネット大学Bennett Universityの女子学生四人が加わって、同じ抗議行動を繰り返した。
その翌日も、さらにその翌日もと、他大学からの白人学生も参加したこの抗議運動の輪は日を追って急速に増大し、また坐り込みの場所もウルワースだけでなくクレスなどの他の店のランチ・カウンターでも行なわれた。この間、これらの学生たちは、誰ひとりとしてカウンターで、一杯のコーヒーのサーヴィスも受けることはできなかったが、かれらは、ただひたすら坐りつづけた。そして、2月7日の夜に開かれた抗議集会には1600人もの大勢の学生が参集したのである。こうして、グリーンズボロの「コーヒー・パーティ事件」は、1960年代の「黒人革命」の前哨戦として、それより200年近くまえに独立革命期のボストンで起こったあの「ティー・パーティ事件」にも比すべき歴史的役割を果すことになった。
シット・イン・デモンストレーションと呼ばれるこの坐り込み運動は、2月10日にはグリーンズボロから程遠からぬ州都のローリーに飛び火し、すでに43人の逮捕者を出していたが、それでも学生たちはますます意気盛んに活動をつづけ、たちまち燎原の火のように南部全域に広がっていった。2月25日には、アラバマ州のモントゴメリーにあるアラバマ州立大学Alabama State Universityの学生が裁判所の中の食堂で坐り込みを始め、さらに27日になるとテネシー州の州都のナッシュヴィルNashvilleで、ウルワースはじめ五つの店のランチ・カウンターに坐り込みをしていたフィクス大学Fisk Universityはじめ四つの黒人大学、さらに、ヴィンダービルト大学Vanderbilt Universityなどの白人学生を含む大勢の学生たちを、暴徒と化した白人群衆が襲撃するという事態にまで発展した。このとき、警官はかれらの暴行を制止するどころか、ほとんどが黒人からなる100人近い学生を逮捕し投獄した。こうして、4月までに南部の80近い都市がこの運動の嵐に巻き込まれ、2000人の学生が逮捕された。
そんな中で、南部キリスト教指導者会議(SCLC)の支援とりわけ、エラ・ベーカーの熱心な肝いりで、4月15日からノースカロライナ州のローリーにあるショウ大学に50校を超す大学(北部の大学や若干の高校を含む)からの代表200人近くが集まって開かれた会議で、学生非暴力調整委員会(Student Nonviolent Coordinating Committee. 一般にSNCCと略記し、スニックと呼ぶ)が結成された。SNCCは、その名称からもうかがえるように、非暴力による大衆的直接行動をとおして人種差別撤廃闘争に従事していた大学生の各種グループの包括組織である。

①Ella Josephine Baker (December 13, 1903 – December 13, 1986) was an African-American civil rights and human rights activist.

②The Student Nonviolent Coordinating Committee (SNCC, often pronounced /snɪk/ SNIK) was the principal channel of student commitment in the United States to the civil rights movement during the 1960s.
こうして、今世紀初頭に結成された伝統的な黒人解放団体であるNAACP(154ページ参照)とNUL(157ページ参照)、さらに第二次世界大戦中の1942年に早くも非暴力的抵抗を掲げて、人種差別に反対する黒人と白人によって結成された人種平等会議(Congress of Racial Equality. 一般にCOREと略記し、コアと呼ぶ)、それからバス・ボイコット運動の中から誕生したSCLC(180ページ参照)とあわせて、ここに60年代の公民権運動を代表する五大解放組織が出揃った。

③The Congress of Racial Equality (CORE) is an African-American civil rights organization in the United States that played a pivotal role for African Americans in the civil rights movement.
以後、SNCCは、SCLCはじめこれらの諸組織と連携しながら、ますます激しさを増す人種差別撤廃闘争、とりわけ学生層を中心にした若者たちの運動において指導的役割を果すことになる。SNCCの活動家たちは、ランチ・カウンターへの坐り込みだけでなく、人種差別をしているさまざまな場所への「入り込み」運動―たとえばウェイド・インWade-ins (海水浴場への入り込み)、スタンド・インStand ins(映画館への入り込み)、プレイ・インPlay ins(公園への入り込み)、リード・インRead ins(図書館への入り込み)、二―ル・インNeal ins(教会への入り込み)、ジェイル・インJail ins(監獄への入り込み)などーを展開した。
ランチ・カウンターへの坐り込みに話をもどせば、1961年9月までに3600人の逮捕者を出しながらも、少なくとも七万人の黒人学生と白人学生がこれに参加し、また学生の親たちも不買運動を展開してかれらを支援した。このため多くの店のランチ・カウンターが閉鎖されて、自由と正義のための闘いは企業利益にも大きな損害を与えた。その結果、各地のランチ・カウンターで、漸次、人種差別が廃止されていった。同時に、学生たちが始めたこの坐り込み運動は、NAACP、
NUL、COREなどの古い組織に新しい活力を取り戻させるうえで、大きな影響を与えた。

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