日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

★怨念★日本鬼子残酷★Merciless Killers★구메지마 수비대 주민 학살 사건恐懼之王(King of Terrors)『嗚呼、之れが皇軍か』L'armée de l'empereur s'avance『知らぬ存ぜぬは許しませんI don't allow ignorance』《저승사자(監齋使者)》久米島守備隊住民虐殺事件(無責任体系厳存)Kumejima Residents Massacre Case

久米島守備隊住民虐殺事件(くめじましゅびたいじゅうみんぎゃくさつじけん)は、太平洋戦争(大東亜戦争)時における沖縄戦の最中から終戦後に発生した、日本海軍守備隊による同島民の虐殺事件。久米島事件とも呼ばれる。
 事件の背景
日本海軍の久米島守備隊が、アメリカ軍に拉致され渡された「投降勧告状」を持って部隊を訪れた住民を「敵に寝返ったスパイ」として処刑したことに始まる事件である。
この非戦闘員の処刑は現在の価値観に照らし合わせて人道上の問題があるだけでなく、当時の国内法や軍法、軍規からも逸脱する行為であった。まず海軍刑法・陸軍刑法をはじめ、国内法にスパイ容疑で裁判を経ずに処刑する法規が存在していない。たとえ明らかなスパイを犯罪者として現場で処罰する場合であっても、将校らによる軍法会議が最低限必要である。一介の准士官が主観的な判断のみで処刑を実行することはできず、超法規的措置ないし違法行為の疑いがある。当時の責任者だった日本海軍通信隊の守備隊のトップであった鹿山正海軍兵曹長(事件当時32歳)は、戦後の1972年にサンデー毎日のインタビューに応じ、処刑の事実を認める一方で、日本軍人として正当な行為であったと自らの正当性を主張した。
事件の概要
沖縄戦も終盤にさしかかった1945年6月に、アメリカ軍がそれまで放置していた久米島を攻略するため、上陸作戦の2週間前に工作部隊が上陸し情報収集のため住民の16歳の少年も含む男性2名(資料によっては3名とされており、途中で1名は自殺したとされる)を拉致した。この男性らの情報から、島にはわずか27名の日本海軍が久米島に設置した電探(レーダ)を管理運営する通信兵などの守備隊しか駐留していないことを知ったアメリカ合衆国海兵隊は、上陸部隊の兵員を966人に減らしたという。久米島守備隊は武器弾薬に乏しく実戦部隊でなかったため、ほとんど組織的抵抗もできないまま山中に撤退し、久米島は占領された。
 久米島派遣軍を率いるE・L・ウッド・ウイルソン少佐はただちに、占領業務のため久米島米軍政府を設置し、住民から島の村長と区長をあらたに指名するなど軍政府長官として久米島の行政を掌握した。また6月22日には、沖縄戦を指揮していた日本側の沖縄守備軍司令官であった牛島満中将と、参謀長の長勇中将が摩文仁司令部で自決した。これによって沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅し、6月25日には大本営が沖縄における組織的な戦闘の終了を発表した。現在では6月23日を「沖縄慰霊の日」として沖縄戦における戦没者の慰霊の日とされている。
しかし、牛島中将の最後の命令が「最後の一兵まで戦え」として降伏を許さないものであった事に加え、沖縄戦に参加していた日本軍の指揮系統が崩壊していたため、組織的戦闘が終結した事実や、既に内地の大本営からも事実上見放されたことが正確に伝わらず、この後も残存兵力による散発的な戦闘が沖縄本島各地で続いていた。沖縄本島と同様に久米島に残された少数の守備隊も疑心暗鬼のなか勝算なきゲリラ活動を続け、そのなかで住民虐殺が発生した。
 拉致された住民は6月26日、アメリカ軍の上陸時に一緒に解放されたが、守備隊の鹿山兵曹長は拉致被害者に対し、アメリカに寝返ったのではないかという疑問を抱き、まず6月27日のアメリカ軍上陸時に、自宅から避難壕へ逃げる際に拉致され、山中の兵曹長の分遣隊へ降伏勧告状をもっていくように命令され、部隊にやってきた久米島郵便局の電信保守係(郵便局長という説もあり)であった安里を銃殺刑に処し、6月29日には工作部隊によって拉致(治安悪化を理由にしたとも)されていた区長の小橋川と区警防団長の糸数盛保の2家族9人を処刑し、その遺体を家屋ごと焼いた。
また兵曹長による刑罰はその後も続き、アメリカの上陸部隊によって部下の兵士と義勇兵を「斬込隊」としてアメリカ軍に特攻させて、生きて帰ってきた部下を「処刑」した。ほか、アメリカ軍からの投降を呼びかけるビラを持っていたり、投降しようとした者についてもスパイもしくは利敵行為(戦前の刑法では罪となった)であるとして処刑を行った。兵曹長は守備隊の最高司令官として徹底抗戦の構えをみせ、山にこもって戦うように住民に指示し、従わないものは処刑すると警告した。また8月20日の処刑には地区の住民も命令に従い協力したという。住民の中には鹿山と共に山に立てこもった者も少なくなかったが、戦況はアメリカ軍有利であることが明白であり、またアメリカ軍は「(山から出て)帰宅しないと山を掃討する」と伝達[2]されていたうえ、実際に久米島の実務はアメリカ軍政府が掌握しており、住民の多くはその命令に従わなかったという。なお、当時の島には3000戸の住宅と7073名の労働人口があったという。
 守備隊は8月18日には一家4名を処刑したほか、さらには兵曹長が若い女性を連れて(人質にしたという説もある)行軍していた一方で、物資を奪う目的で具志川村字上江洲に住むくず鉄集めで生計を立てていた朝鮮人谷川昇一家(朝鮮名は不明)を住民と部下に命令して8月20日に子供も含めて惨殺したという証言もあり、現在ではその事実を示す慰霊碑があるという。この行為は日本が降伏した8月15日以降の出来事であった。そのため、海軍刑法が禁ずる停戦命令後の私的戦闘の疑いもある。
 9月になるころには、昭和天皇による玉音放送で『終戦詔書』が伝達されている事実をしらされたこともあり、守備隊も最後は全面的に降伏した。最終的に守備隊が処刑した5件で住民は22人(一説では29人)であり、そのため住民は侵攻してくるアメリカ軍だけでなく日本軍によって生命を奪われたわけである。また守備隊の中にも命令に服従しなかったとして3人が処刑された。そのなかには前述のように突撃命令で特攻し、生還した兵士もいた。
戦後
守備隊は山にこもって玉砕することなく、9月4日に沖縄本島から来た旧日本海軍の上官の説得に応じアメリカ軍に投降し、沖縄本島からの脱出者なども含め41人が沖縄本島に移送された。連合国側住民に対する虐殺ではなかったため、連合国軍は鹿山兵曹長の行為を「戦争犯罪」としては扱わず、そのまま他の軍人とともに復員させている。
 地元でも事件の遺族や当時を知る住民は「もう思い出したくない」と沈黙していた。一部の住民が告訴したが、鹿山の消息が不明であり、戦後沖縄がアメリカ軍の統治下に入ったこともあり責任追及が行われることはなかった。1969年6月22日の沖縄タイムスによると、谷川一家は釜山出身の朝鮮人で遺骨の引き取る親族を探している記事もある。
 復員した鹿山は事件から27年後の59歳当時は徳島県に在住していたが、沖縄本土復帰を控えた1972年4月2日号の『サンデー毎日』に掲載されたインタビュー記事の中で事件について概ね事実であったと認めたが、動機については
 スパイ行為に対して厳然たる措置をとらなければ、アメリカ軍にやられるより先きに、島民にやられてしまうということだったんだ。なにしろ、ワシの部下は三十何人、島民は一万人もおりましたからね、島民が向こうがわに行ってしまっては、ひとたまりもない。だから、島民の日本に対する忠誠心をゆるぎないものにするためにも、断固たる処置が必要だった。島民を掌握するために、ワシはやったのです。
として、処刑は住民ではなく部隊を守る行動であったとして正当な業務行為であったことを主張した。
また8月18日には仲村渠一家4名虐殺については「アメリカ軍から食料品を受け取った」として、谷川一家(釜山出身)7名虐殺についても同様であったが「『朝鮮系』で家族は二人だったか、三人だったか。命令して部下にやらせたのです」と事実であると認めた。また事件を振り返って、
 少しも弁明はしません。私は日本軍人として、最高指揮官として、当時の処置に間違いがあったとは、ぜんぜん思っていないからです。それが現在になって、法的に、人道的に悪いといわれても、それは時代の流れとして仕方がない。いまは、戦争も罪悪視する平和時代だから、あれも犯罪と思われるかもしらんが、ワシは悪いことをしたと考えていないから、良心の呵責もない。ワシは日本軍人としての誇りを持っていますよ。
と堂々と自己の正当性を訴えた。
なお大島幸夫著の『沖縄の日本軍』(新泉社刊)によれば、谷川一家を子供も含めて殺害した理由について鹿山は、朝鮮人一般の反日的傾向から「こやつも将来日本を売ることになる」と危惧し、その旨を住民に説明したという。いずれにしても朝鮮人および久米島島民に対して深い疑心暗鬼の感情を現在も抱いている一連の発言に対して、当時の久米島にあった2つの村議会は鹿山個人に対する弾劾決議を採択したという。また虐殺された島民の遺族からも強い不快感が示された。
 正当性
海軍刑法(明治四十一年法律第四十八号)の第1条は「本法ハ海軍軍人ニシテ罪ヲ犯シタル者ニ之ヲ適用ス」としており、一般日本人には適用されないと明記されている。また処刑するにしても軍法会議を経たうえで第16条は「海軍ニ於テ死刑ヲ執行スルトキハ海軍法衙ヲ管轄スル長官ノ定ムル場所ニ於テ銃殺ス」としており、一定の法的手続きを要求している。また日本国内でスパイとして処刑されたリヒャルト・ゾルゲは治安維持法等違反で処刑されたが、一般の刑事裁判で裁かれており、外地の戦場における占領地住民と同じように、内地であった沖縄県で部隊長の判断で処刑する権限があったのか疑問を呈する者もいる。元兵曹長は軍法会議で処刑を決めず「住民からの情報」から判断して処刑したことについて、「われわれの部隊は少人数で大部隊のように軍法会議を開いてそういう細ごまとした配慮をするヒマはなかった」と語っている。実際に、軍法会議は大戦末期には戦場で孤立化した部隊が続出したことから法務官不在でも開廷できたほか、少尉以上の士官が3人集まれば軍法会議をすぐ開催することができたうえに、戦時においては民間人にも特定の犯罪に関しては処断できるとされていた。そのため一般人にも適用された可能性もある。また、海軍刑法22条の3で「軍事上ノ機密ヲ敵国ニ漏泄スルコト」(スパイ)と22条4では「敵国ノ為ニ嚮導ヲ為シ又ハ地理ヲ指示スルコト」は「罪」と規定されており、それに対する刑罰は20条で「首魁(首謀者)ハ死刑」と規定されているほか、そのほか謀議に入ったものも「死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ」とするなど重罰が規定されていた。そのため大部隊のように少尉以上の士官が3人(それよりも少なくても即決で処刑が決められた場合も否定はできないが)集まれば軍法会議をすぐ開催することができたため、住民に対するスパイ容疑での処刑があった可能性がある。しかし久米島においては守備隊長の最高位が兵曹長であり尉官より下の「准士官」であった。そのため久米島では軍法会議の開催は事実上不可能であったといえるため、兵曹長に住民を処刑する権限はなかった可能性もある。そのため、守備隊が住民を「合法的」に処刑することは、人道上の問題だけでなく、軍規にすら違反する行為であった疑いが高いとの指摘もある。
 一方で、当時の日本がおかれていた絶対的不利の状況から国体を守らなければいけないため、このような過酷な命令も「必要悪」だったという意見もある。また時代的背景として部隊そのものが精神的極限状態に陥っており、一種の心神耗弱状態に陥っていて正常な判断(兵曹長が戦闘指揮官としての教育を受けていなかった可能性もある)ができなかった事情も考慮すべきかもしれない。実際に鹿山が朝日新聞に語ったインタビューにこの時の心情が垣間見える。また7月までには陸軍がくるはずと認識していることが伺えるため、彼はすでに6月23日に沖縄戦が終結したことを知らなかった可能性もある。
 海軍の久米島電探知機の見張所で約30人の部下を指揮していた。陸軍の守備隊がくる予定だったが、その前の6月27日、米軍が上陸・投降勧告状を久米島郵便局の安重正次郎さんが持ってきた。味方のはずの人間が敵側に回ったのか、ということで一層にくしみがわいてきて殺害した。ほかにも直接、間接のスパイ容疑で島民16人ぐらいを殺した。自己批判せよというのならするが、戦争中のことで、軍人としては日本の盛衰をかけてやったことだった。なお、これら一連の虐殺事件は、終戦直後の混乱と日本政府からの管轄権分離という非常事態もあり、一切の刑事訴追を受けていない。そのため、事実上のクーデター未遂事件である宮城事件と同様に誰も罰せられることはなかった。
 備考
1945年6月23日に義勇兵役法が成立していたため、沖縄の住民も兵士と同様の扱いを受ける可能性もあった。また沖縄戦では一般人も事実上兵士として戦闘に参加していたが、久米島のようにスパイ容疑で処刑された住民がいたかは不明である。
 久米島を占領したアメリカ軍であるが、島内の家屋の3分の1弱しか焼失しておらず生活基盤が破壊されたわけではないとして、沖縄本島の避難民キャンプとは違い、援助物資をアメリカ軍の労務に対して支払われた賃金と引き換えに住民に渡したという。その時の賃金として支払われた代用紙幣が謄写版(いわゆるガリ版刷り)で印刷された久米島紙幣といわれる引換券であった。そのため生きていくために住民はアメリカ軍に協力せざるを得なかったといえる。また鹿内の部隊とともに山篭りした場合には一緒に掃討するとも脅かされていた。
 久米島守備隊の任務は一部書籍によると住民を守るためとの記述もあるが、前述のように大日本海軍が設置した電探(レーダ)設備を守るための部隊であった。武装も小銃や機関銃しかなく訓練された戦闘部隊とはいい難かったため、上陸部隊に打撃をあたえるような抵抗することもなかった。
 事件の知名度が低いためか、久米島の事件を住民の集団自決または石垣島におけるアメリカ兵殺害事件であるとの誤った認識も少なからずある。また沖縄戦をめぐる教科書の記述で削除された「スパイとして日本軍に殺害された住民もいた」とは、この事件のことをさし示すものされる。
 日本テレビ製作の『NNNドキュメント』で、2004年8月8日に『逃亡兵の遺言』で久米島に沖縄本島から逃れてきた元日本兵であった渡辺憲央(日刊工業新聞カメラマン)の証言が放送された。これによると守備隊は「疑心暗鬼にかられ島民に凶刃を振り下ろす殺戮部隊」であったと指摘していた。
 昭和20年地獄の沖縄戦線を伝える「逃げる兵ー高射砲は見ていたー」の著者、渡辺憲央さんにお会いして!
2002年11月23日、大阪、天神橋のご自宅を午後、訪問致しました。満88歳になられるとは全く思えず、かくしゃくとしておられました。3階のお部屋へ案内していただいたのですが、少し急ですからと、先に階段を上っていかれました。やがて3時間近くになる間、当時のこと、その後のこと、現在の思いなど、いろいろ聞かせていただきました。最後に、記念写真をお願いしますと、お孫さんをお呼びになり、立つ位置とか、向かい合うポーズで顔をカメラに向けるなどとか、さすがに今なお現役のカメラマンのご様子でした。ご健勝をお祈りし、帰路につきました。(山本武夫)
  ちょうど、その後、田浦勝彦先生も、渡辺さんを訪問されました。その手記も披露します
【お会いしたきっかけ】
そもそも、渡辺憲央さんの名前を知ったのは、今年の3月です。ちょうど、沖縄県久米島の具志川村で「久米島水道水フッ化物応用シンポジウム」(日F会議報告集、新聞記事、写真集を参照)が開催されて、帰ってきた直後です。空と海の美しい島・久米島に行ってきた話をすると、知人の医師から、「戦時中、その久米島で日本兵の島民虐殺があった話を知っているか。」と言われ、自身の蔵書の中から探して見せてもらったのが、昭和54年(1979年)発刊の「逃げる兵ーサンゴ礁の碑ー」(初版本)でした。私自身も、手元に置いておきたくて、ブックセンターなどに問い合わせましたが、絶版となっており、改定版で「逃げる兵ー高射砲は見ていたー」が2000年に出版されており、在庫が1冊あり、急いで注文しました。本の内容は、後述しますが、そこには、渡辺さんら召集兵が、むかった沖縄戦線の悲惨さ、また、やむなく逃亡兵とならざるを得ない想像を絶する極限の状況下で、クリ船での脱出と久米島への漂着、そして、久米島守備隊の日本海軍兵の虐殺や米軍への投降が、ありのままに克明に書いてありました。それからやがて60年近く経ちます。久米島のフロリデーション(水道水フッ化物濃度適正化)の進展がやや鈍くなった原因として様々な要素がありますが、島の事情がもし過去のこんなことにも起因しているとしたら、まずこの歴史を理解してみることも大事ではないかと自分なりに考えました。一度、著者の渡辺さんにお会いしたいと、本の住所にあるご自宅に電話をかけ、ご健在であることをご家族に確認し、渡辺さん自身とも電話でお話をお伺いしました。それで、電話だけではと思い、この日が開いておられることをお聞きして、小生が大阪に出向いて面会が実現しました。
 【渡辺さんにお話し頂いた内容】(テープより原稿おこす)
はじめに、小生の自己紹介と渡辺さんへのお願い。歯科医で、フッ化物によるむし歯予防に情熱を注ぐものです。渡辺さんの真実を著すという、人間としての原点に感銘しました。日本ではまだまだ情報公開が足りないフッ化物応用の正しい知識の普及と共通点がある(くさいものに蓋をする)と感じ、お会いして頑張るきっかけになればと思いました。 私自身については、父が3歳で亡くなったので、父の戦争体験を全く聞いたことがなかったのですが、久米島、「逃げる兵」に関連して、最近、父の所属していた「松本連隊の最後」という本を誇りまみれの中から取り出して読み、戦時中のトラック島での悲惨な状況を再認識したところです。もし、よかったら「逃げる兵」のこと、あるいは、その後のことなど、お聞きしたいものです。また、久米島具志川村でのフロリデーションについて、一部の反対派の扇動や、具志川村議会の硬直、町村合併後の新町長選挙、旧仲里村長の新町長のフロリデーション棚上げ発言の流れが、戦争時の体験などの久米島島民の複雑な心境から来るものではないか、渡辺さんの感じたところを聞かせていただきたいです。
 久米島について
沖縄の人たちは、本当に純真です。久米島住民虐殺事件は沖縄の縮図みたいなものです。ですから、沖縄の人たちは戦争に対する不信感をずっと持っています。沖縄からこの不信感が完全に消えるのはあと50年かかるでしょう。
 久米島に実際起こったこと
沖縄はいろんなことがありました。特に久米島では、私も渦中に入っていました。久米島の人たちは、大変純朴です。それがゆえに久米島の事件は複雑です。事件とは海軍のK兵曹長が二十数名の人を虐殺したことです。その中に、私がお世話になったAさんや、捕虜になる時に手引きをしてくれたNさんが含まれています。Nさんは(久米島フッ化物応用シンポジウムのあった3月2日に筆者が泊まったという)日航久米島ホテルのあるイーフの浜から200mほど先の浜から少し入った畑の小屋の中で、奥さんと生まれたばかりの赤ちゃんまで一緒に道ずれに殺され、1カ月ぐらい、島の人たちも亡骸に手がつけられなかったそうです。K兵曹長からの米軍に加担した見せしめだという命令があったからです。それに対する、島民のK兵曹長に対する不信感は相当なものです。しかし、問題は複雑で、あの当時、K隊(K兵曹長率いる海軍通信隊)に手を貸す島民もいたのも事実です。なぜかというと、それがお国のためだと考えたからです。
(筆者の持参した久米島の地図を見ながら)くり舟で沖縄本島から脱出して、着いたのが大田の浜です。ここの民家で一宿一飯の世話になり、翌日山頂に電波探知機にある通信隊(K隊)本部に連行されました。そこで、「逃亡兵だ」と、さんざん殴られたのです。【その後、渡辺さんらは、久米島に不時着していた特攻隊の陸軍のグループに合流し、行動をともにされました。(筆者追加)】
 その後、久米島には、アメリカ軍が500名ぐらい上陸して銭田(イーフ)の浜にキャンプを張りました。私と戦友高橋君は島のあちこち山の中を隠れ周り、最後に大岳のこのあたり(地図を示して)まで行ったあげく、あちこち逃げ回ったあげくにとうとう山城(やまぐすく)で投降する決心をして、Nさんの手引きでイーフの浜で捕虜になりました。浜では、鉄条網のある小さな柵の中に入れられました。先に沖縄で捕虜になり、出身地の久米島で悲惨なことが起こらぬように、投降を呼びかける宣撫に来ていたNさんも、奥さん・子供とともに、アメリカ軍に保護を求めてキャンプに来ていましたが、アメリカという国もそこまでは面倒は見ませんでした。私だったら、無理に頼んででも幕舎(キャンプ)の近くにおかしてもらうでしょう。ところが、Nさんは沖縄の人ですから、人がよくて、言われたとおりにして、少し離れたサトウキビ畑の掘っ立て小屋にかくれてました。そこへK隊が襲ってきて、全部殺してしまったのです。ですから、久米島に人たちの日本人に対する不信感は、並大抵のものじゃないはずです。ですから、あそこは難しいですよ。(地図をみながら)私は戦争中は島の北のほうへ行かなかったが、K隊は北のほうにいて島の人たちから徴用といってはいろんなものを供出させていました。言わば、山賊と同じです。軍の権威をかさに、なんでも手に入れていました。アメリカ軍が上陸した後は、8月15日過ぎても山に潜伏し、村の人に「二十何人分のおにぎりをここにおいて置け」など、強要していました。村の人たちは、(AさんやNさんのことがあり)背いたら怖いから、ご無理ごもっともで従わざるを得ませんでした。
これが戦争なのだ
立場を変えれば、K兵曹長にしてみれば、もし簡単に投降して戦後日本が勝っていたなら、処罰されます。私なんかは、もちろん銃殺刑です。だから、K兵曹長は国の要求することをやっただけです。戦争に負けて、鬼みたいに言われているけど、考えてみれば、あの人も戦争の被害者なのです。海軍通信隊は、S兵曹長がK兵曹長の前任者でしたが、交替し引継ぎした後で、戦渦がひどく、沖縄に戻れずそのまま残っていました。この、S兵曹長は、35-6歳か40歳前でしたが、この人が責任者なら年がいってるだけ理性も少しは働き、こんなことは起きなかったかもしれません。何しろ、K兵曹長は血気盛んな24-5歳で、軍人勅語の言われた通りをやっていました。「わが国の軍隊は、天皇の・・・・」の軍人勅語の通り、天皇中心の神の国であるから、お上に服従しなければならないという考えで動いていました。
この事件の発掘は(1)
この久米島事件は、毎日新聞の大島記者が、取材して発掘されました。きっかけは、沖縄の捕虜収容所で一緒だったタイガース(現阪神タイガース)の監督をした松木謙次郎さんと私は、戦前「ベースボールマガジン社」のカメラマンをしていた関係で親しかったのですが、戦後大島記者が野球の取材中、沖縄戦を経験した人の話がでての、私に久米島を知っているかと尋ねてきました。(当時、大島さんは既に久米島に関していろいろ取材活動をしていましたが、)もちろん私も当事者なので、詳しく話すことになりました。(続きは後述)
収容所生活
 久米島での捕虜生活は2週間ぐらいで、その後、沖縄本島の屋嘉(嘉手納湾あたり)の収容所に送られました。その当時、沖縄の日本軍は壊滅していましたが、日本兵は捕虜になると殺されるなどと、なかなか簡単には投降してきませんでした。ちょうど、小野田少尉や横井庄一さんのようにです。最初は、隠れた日本兵を呼び出すための作業をしていました。アメリカ軍は重宝がって、一緒に探し出す知恵を貸してくれといいました。わたしも何とか隠れている日本兵を助けなければならないと思って、こうしたほうがいい、ああしたほうがいいとアドバイスしました。その後、前職のカメラマンの腕を買われて、捕虜の撮影と現像の仕事をしました。そこで一緒に仕事をしたのが、アメリカ軍では、日本語もできるジョーとジミーという2世のエリート曹長でした。一生懸命仕事をしたので、信頼されました。収容所には、沖縄の人、日本兵、強制連行された朝鮮人【当時の言葉でお許し下さい(筆者:山本)】がいました。沖縄の人は、別の沖縄内の収容所に、私たちがいた屋嘉の収容所らせたのは、朝鮮人の幕舎(収容キャンプ)でした。日本人より先にです。そうしたら、朝鮮人が一斉にドラム缶をガンガンたたいてワーと歓声をあげて踊りくるって喜んだのをいまだにわすれません。私たち日本人は、捕虜になっていても、負けるのがわかっていても、日本が負けたというのは複雑な気持ちで受け止めるざるを得ませんでしたので、みんなしょぼんとなっていました。 そんな中、久米島の上江洲にいた海軍K隊が、投降しました。9月の何日かに、陸海軍合同の投降式をして、二十数名が沖縄本島の収容所に送られてきました。K兵曹長の行いに対して快くは思っていない兵隊が何人もいましたので、収容されたK兵曹長はその晩に兵隊たちに殴られたのです。収容所内は無警察状態ですので、感情が高ぶると何が起こるかわからないです。
  戦争時の人々の心、それは猜疑心の固まり
兵隊たちでさえK兵曹長のことを良く思っていない人が多いので、まして沖縄の人たちは、快くは思っていないでしょう。久米島の人たちのことを余程考えていかねばなりません。まだまだ、怨念は残っていますよ。沖縄では、日本人同士の争いでもどのくらいの人が亡くなったかわかりません。人間は戦争の最後になったら、人間じゃなくなるのですよ。沖縄の人たちの過去に対する自分たちの行った行為に対する怯えは何から来るか、それは全くの猜疑心であることを身をもって感じました。私は、マスコミのカメラマンをしていましたから、ものを客観的に見ることができました。沖縄戦最後の摩文仁の海岸では、日本人同士でさえ危ないのです。日本人同士で死に掛けている兵士を殺しているのです。それは、ガタルカナル島(ニューギニア)でもありました。私の家内の弟も、そこで戦死しましたが、死人の肉を食わないと生きていけない状態でしたから、同じことがありました。人間は極限状態になったら、どんなこともします。沖縄の人たちをそこまで追い込んだことを知っていないといけないし、その沖縄の人たちの怨念は忘れてはいけないと思います。それを分かって踏まえてかかっていかないといけません。みんな、それをひた隠しにするが、それはいけないと思います。あきらかに、申し訳なかったと人間でなくなるのが戦争です、と率直に言ったほうがいいと思います。悪いことは全部隠してしまいますからね。
日本の悪い点 

 (筆者)うちの町でも、今頃になって、80歳過ぎた人が「シベリア抑留を語る会」というのをはじめられました。つらかった思い出など、もっと早く真実を語ればいいのにと思いました。そんな中に、今は著名な富山出身のS氏(元日本軍参謀)などが、いろいろなことをしてうまく逃れたという話も聞きました。そうそう、日本というのは、おかしいのですよ。そんな具体的な例を挙げればきりがないですよ。たとえば、ビルマ戦線で、某参謀が行方不明になったという事件がありましたが、あれもやられているのは、間違いないですね。だから、日本人はなぜ、ありのままを言って、率直に謝らないのかと、思います。変にごまかして隠すからおかしいのです。ですから、沖縄の人たちが怨念を持っているのは当然です。私は真実を語らねばと思い、沖縄戦のことを、あの程度までなら許されるだろうと本に書きました。久米島で交渉されるのでしたら、いろんな予備知識を持っていかれたほうがいいです。
 久米島事件を発掘したのは(2)
この久米島事件の日本軍というのを書いたのは、毎日新聞の大島さんという、後に編集委員になった偉い方です。徹底的に久米島事件を掘り下げて書きまして、国会の場まで行ったのです。だけど、国会の場で、もみ消されてしまって、ついに表に出なかったのです。今日でもみられるように、くさいものに蓋をするという扱いを受けたのです。ですから沖縄の人の憤懣というのはあって当たり前です。なかったらおかしいのですよ。それを理解して沖縄へ行かないといけないですよ。私は、ほんとにおかしいと思うのは、なぜ過去の悪かったことは悪かったと何で率直に将校が部下に謝らないのか、ということです。
 (筆者)これは、HPからの資料ですが、浄土真宗本願寺派のあるサイトもので、戦争中の反省として、真宗の戦争協力や侵略の事実、犠牲の事実などのページがあって、この中のひとつに、渡辺さんの「逃げる兵」のことが載っていました。
 当時の教育
 久米島のことは、沖縄戦の縮図で、久米島事件でも、K隊に協力するのは当たり前だという人もいたのです。(その反面、それに対して怒りをもっていた人もいましたが・・・。)そのくらい、当時は日本の皇民化教育は徹底していたのです。あの当時はご承知のように、初年兵で入った時は「天皇陛下のご恩は山よりも高く、海よりも深い。その広大無辺のご恩から比ぶれば、お前たちの一命はコウモリよりも軽い。鳥の羽よりも軽いのだ。だから、天皇陛下のために命を捧げるのは当然のことだ」というふうに、教育されたのです。ですから、実際、沖縄で死んだ兵隊たちはそうでした。
 Aさんの処刑されるときのこと
久米島でお世話になったAさんがK兵曹長に処刑される時でも、K兵曹長が「お前は日本人としてこんなものを持ってくるからには、覚悟ができているだろう」と言っているのです。それは、アメリカ軍から託された「もう日本軍は負けだから、投降しなさい」という投降勧告文です。Aさんは、それを強制的に持って行かされたわけです。あのときの状況を知っている私だったら、絶対にもって行きません。ところが、Aさんは(アメリカ軍から)そう言われたら、それが人間愛だと思って行ったのです。ところが、それが裏目に出て、日本に背を向ける非国民ということになったのです。だから、K兵曹長を鬼みたいに言いますが、その鬼にしたのは日本のそのときの教育です。Aさんが、K兵曹長から、引導を渡された時に、「有難うございました」と深々と頭を下げたと、その場に立ち会った兵隊(くり舟で一緒に逃げた)から私が(収容所で)直接聞きました。その時、その20歳ぐらいの若い兵隊(韓国からの召集兵)が、「Aさんは、殺されるのにどうして頭をさげたのでしょうね。」と、私に聞きました。手を掛けた兵隊から聞きましたが、Aさんの処刑は後ろ指に縛られて、左右から海軍の儀式にのっとって、銃剣で構えて、くくられて逃げ場がないようにされて、部落の人たちの前で、見せしめにして行われました。Aさんはそうなって、「有難うございました」と謝辞を述べたと、K兵曹長も得意顔に言ったそうです。その兵隊に言いましたが、Aさんがそういったのは、一生懸命に自分の気持ちに「自分は悪いことをしたんだ。殺されるのは当然だ」と、言い聞かせながら、処刑されたのです。
 死に直面した境地とは・・・それは『安楽死』
 そのほかにも、例を挙げると、本にも書きましたが、沖縄戦で大度の海岸で、本部壕に迷い込んできた女学生を刺して殺している事件がありました。あまり離れていない米須の患者壕で手当てをしていたひめゆり部隊がやられて、逃れてきた一人でしたが、本部の大隊長以下この壕に50名あまりが隠れていました。もし、この女学生を外に出して、アメリカ軍につかまって、「あそこにいます」としゃべられたら、この壕がわかって全滅するかもしれないということで、しょうがないから殺せということになりました。そのときに、女学生が銃剣を突きつけられて、「兵隊さん、東の方向を教えてください」と、聞き、「東の方向を聞いてどうするのじゃ」というと、「宮城を拝んで死にます」と、東の方向を向いて手を合わせました。これも、Aさんの時と同じです。Aさんが処刑されるときも、その理由がないのです。だから、「ああ、私はお国のために死ぬんだ、無駄ではないんだ」というふうに、一生懸命に自分の気持ちに言い聞かせながら死んでいるのです。私の友人だったタイガースの監督をしていた松木さんは、通称”いし”部隊で京都の師団でした。あの人は一番早い時期に捕虜になりましたが、最初のほうの戦線で、第1線にいて、弾がいっぱい飛んでくる中を突撃するのを体験したそうです。兵隊は、「”いし”部隊ばんざーい」と絶叫して走るのと、「天皇陛下、ばんざーい」と走っていくのと、どちらかで、とにかく絶叫して前線を抜けて行ったそうです。その後、松木さんと話しましたが、「死ぬことを恐れる、そんな気持ちを整理せんと、命賭けの突撃はできんやろね」ということでした。何百人という兵士が、第一線のアメリカ軍の銃砲火の中を”さだ”渓谷に抜けて行ったそうです。それから、摩文仁の海岸に某隊の碑というのができています。当時そのあたりに、一人の将校が当番兵と一緒にずっとうずくまっていたそうです。その当番兵は律儀な人で、一生懸命面倒を見ていました。その将校は負傷していて、少し弱っていたけど、最後は、当番兵も見捨てていなくなって、将校一人になってしまったそうです。あの将校いつ死ぬかと、ほかの兵隊が見ていたが、それから二日か三日後に、夜明け前、「天皇陛下、ばんざーい」という絶叫が聞こえたそうです。と、同時にピストルの発射音がしたそうです。そして、いってみるとその将校は耳に銃を当てて死んでいたそうです。これらはみんな一緒です。最後はみんな、いわば『安楽死』なのです。若い兵はみな「お母さーん」、沖縄では初年兵が「アンマー(お母さん)、デージー(大変だよ)。アンマー、デージー。」と死にました。やっぱりへその緒でつながっている強さです。「お父さーん」といって死んだ人は誰もいません。病気で死ぬ人は別ですが、非業の死を待つ人はみんな一緒です。Aさんや女学生、その将校はみんな「天皇陛下、ばんざーい」でした。軍隊の強さなどというけど、あれでないと戦争できないわけです。人間の殺しあいですから。
  (筆者)【自分の身近の話や日本の歯科界の話や久米島の話を少し余談でしました。】(渡辺さんに一服してもらいました) 
 捕虜収容所から復員
 沖縄の収容所から、復員しましたが、家は全部焼け野が原で何も残っていませんでした。復員する時、働いた分を日数計算して給料を出してくれるのです。アメリカという国はそういう点ははっきりしています。翌年の3月10日に復員することになり、その前に、アメリカ軍の収容所の一番偉い人が、私を呼んで、通訳を連れて、「長いことご苦労様でした。給料を渡します」と、アメリカの軍票でくれました。「渡辺さんは、大変尽くしてくれました」と、褒められました。褒められた意味は、私は『一人でも多くの捕虜を助けたい』という努力と、『日本人は盗人だという観念をなくさせる』ために努力したことに対してです。とにかく当時、日本人、あるいは軍隊といったらいいかもしれませんがには、日本兵が約1500人、朝鮮人が約500人いました。朝鮮の人たちのいろいろな話を収容所では聞きましたが、大変かわいそうな状態でした。そういうこともあってか、8月15日、一番最初に終戦をアメリカ軍が知、軍隊は盗むのが専門で、どんなまじめそうな兵隊でも盗む世界です。それで、沖縄の人も苦労していました。私は、とにかく、アメリカ軍がこの後日本に進駐してくるから、『日本人がみんな盗人だと思われては困る』、だから、仕事をやる以上は精一杯やろうじゃないかと、私が主になって働きました。(大抵ほかの兵隊たちは、何か1つ小さいことでもアメリカ軍に損害を与えるのがお国のためだと、考えていました。)そういうわけで、収容所を出るとき、アメリカ軍は信用して、収容した日本軍の軍用金を持っていけといわれました。そんなもの持ってて見つかったら困るというと、ズボンを新しいのをやるから、重ねてはいて、中にまいていけと言われました。出るとき検査をして見つかったら処罰されると言うと、そのアメリカ軍将校は、検査は自分がするから大丈夫と言いました。それから、大きな袋に10円札を押し込んでくれて、その上からチョコレートやたばこや安全カミソリやら石鹸やら日本にないものをいっぱいアメリカの兵隊が詰め込んでくれ、もって帰りました。そうして浦賀に上陸したら、厚生省の検査があり、全部出せということで出しました。そしたら、10円札は全部新円に切り替わっていました。軍票は一部が換金できましたが、あまりに多いので税関に預り証を貰い預けましたが、後に、税関にごまかされ全部パーになりました。
 収容所でアメリカ軍から学んだこと
アメリカと言う国は、そんな点では(いいものはいいと味方にする)合理的なはっきりした国です。捕虜でいた時、アメリカの「ライフ」と言う雑誌に、イタリアのムッソリーニ一家7人がが後ろ手に縛られて、射殺されている写真が載っていました。グラフが大きいし、カメラのフィルムも大きいので撮っていますから、顔のしわまで写っていました。あれをアメリカ兵に見せられた時はびっくりしました。イタリアは市民が怒ってリンチされているのです。家族、女房・子供まで含めてです。あれを見て、肉を食う人種は違うなあと思いました。日本人のお茶や生け花をする人種と違うと、ドキッとしました。そして、ドイツのヒットラーはどうなったのですかと、アメリカ兵に聞くと、「ヒットラーは、愛人と一緒に自殺したまではわかっているが、その遺体は見つかっていない」と、通訳を通じて教えてもらったのです。それから、天皇の処遇について聞いてみましたら、あの当時、アメリカ兵は天皇のことをゴッドと呼んでいましたが、「日本人にとって、ゴッドは神様みたいなものだから、これはうまく利用しない手はない。」と言ってました。肉を針金を刺して巻いて焼いて食べる人間と、お茶とか生け花とする人間を比べると、(戦争の)相手にならないなあと思いました。持ち合わせる図太い根性も違います。また、思い出に残っているのは「日本人は、部落と言うのがあり、”エタ”というでしょう。アメリカにはありません。どこの国でもありません。日本だけです。だから、日本の皮革工がダメなのです。それは差別制度があるからです。いいのはドイツの皮革工です。少々の小銃でも弾が通らないのですが、日本の物は差別している部落民(エタ)に造らせているから弱い皮革しかできてこないのです。」といわれた事です。アメリカ軍から6ヶ月の間にいろんなことを教えてもらいました。捕虜収容所にいて、ほんとに役に立ちました。その後、屋嘉の収容所にいたことのあるアメリカ領事館の人がうちに会いに来ました。そのうち沖縄にいたことを本にするのだということで、資料を渡しました。57年経っても、そんなことがありました。
(筆者余談)(HPから印刷した久米島の広報をお見せし)この中に議員さんや高齢者の方の名前がいくつかありますが、ご存知の方おられますか。
 久米島の知人
 知った人はいませんね。私が久米島で一番仲良くしていたのは、上江洲トシさんで、沖縄県議会議員をしていましたが、今はもう辞めてしまわれました。沖縄の女子師範をでた人で、ひめゆり部隊のトップでした。
  (筆者)本の中に出ておられる高橋さん(常に渡辺さんと行動をともにした方)は、お元気なんですか。
 相棒の高橋氏
 彼は、復員しまして、北九州市の税務課長になりましたが、8年ほど前になくなりました。彼はずっと私の相棒でした。私が久米島の捕虜第1号、彼が第2号です。
(筆者)クリ舟で上司の畑中班長以下7名と沖縄を脱出しようとして、それを盗まれて、新たなクリ舟では一旦別れることになったのは何かわけがあったのですか。
 沖縄本島脱出直前の離脱について
それは、後から見つけてきたクリ舟が小さすぎて、5名が限界で、7名ではとても持たないと思ったのです。そうしたほうがどっちも助かると思ったのです。班長以下5名は、でたその朝、米軍につかまったのです。摩文仁で収容されました。その中の一人がG兵長で、沖縄で市議会議員をしていましたが、この人も亡くなりました。このときの仲間で残っているのは、自分ひとりです。
 久米島の人たちの心
 (私に)また、久米島に行かれますか。久米島の人たちは、ほんとに仏様みたいな人ばかりです。私は最初、久米島には盗人などいないと思いました。なぜなら、久米島の墓には、生前警察の厄介になったひとは入れてもらえないのです。それくらい厳しいおきてがあります。ですから、私たちが久米島に行った時は、警察などは要らないくらいだったのです。日本の兵隊が行ってから堕落させました。久米島の人たちは、”ヤマトンチュー”(日本人)が一生懸命に我々のために、助けに来てくれたと思っていました。それが戦争が始まった途端に、暴力はする、気にいらなかったら殺すという具合でした。これに対する恨み辛みは50年や100年では消えませんよ。このことをよく考えていかないといけません。むしろ内地の人より進め方は難しいかもしれません。裏切られたという気持ちは強いです。日本から守りに来てくれたということで、一生懸命やったのが全部裏目に出たわけですから・・・。
 生死の極限
 だけど、日本の兵隊を全部責めるわけにはいかないのです。生きるか死ぬかということになったら、平気で他人のものまで盗って食べるのです。沖縄戦終盤の摩文仁の海岸で、日本兵同士でも負傷していたら、力のないものは盗られました。私は、摩文仁にいなかったのですが、屋嘉の収容所でいろんな兵隊から聞きました。相手が日本の兵隊でさえ気にせず盗る、負傷して物を持っていたら負けでした。そんな極限状態に遭って来ています。本に書くのもはばかるのをいっぱい聞きましたが、「逃げる兵」で、あれが精一杯でした。(筆者)最初に、「逃げる兵ーサンゴ礁の碑ー」(初版)を出されて、続いて「逃げる兵ー高射砲は見ていたー」(2版)を出されましたが、2冊とも読んでみました。 少し文章の表現や、内容(2版では割愛されている部分がみられた)が違っていましたが、どちらからか指摘されたのですか。
 第2版の出版
 初版の、沖縄の慰安婦の件については、ある方面から言われました。それで、はずしました。それから、「部落」という文字は使ってくれるなと、出版社に言われました。差別用語と指摘され「集落」としました。「屠殺」という言葉も変えました。トラブルがあるといけないから、出版社の言う通りにしました。あれで精一杯です。
 K兵曹長のこと
話は戻りますが、沖縄ではK兵曹長は鬼だということで呼ばれていますが、もし日本が勝っていたら、あの人は金鵄勲章をもらっているでしょう。Aさんが、あのように投降するように行ったのですが、あれは完全に日本にとっては利敵行為です。当然、掟としてはあれが当たり前なのです。当たり前のことをしてK兵曹長は、鬼のように言われています。 K兵曹長は、事件が表に出てから、娘さんも大変な目にあったそうです。みんな言わば、戦争の犠牲者です。加害者も被害者もみんなです。誰も好んで人を殺すものがいますか・・・。そんなことをみんなに知っていただきたくて本にしたのです。
 本を書いた理由
 お前は物好きだと友人に言われました。私が命拾いしたのは、国の掟を破って逃亡したからですが、私自身、逃亡したことについては、恥ずかしいことと思ってはいません。というのは、国が戦争責任をはっきりしていないですし、みんな御身大事で避けてとおっています。おかしいですよ。フィリッピンでは、一番かわいそうなのは兵隊です。モンテンルパの収容所で、ずっと兵隊並べて、住民にどいつが殺したのだ聞いて、指差された兵隊はその場で銃殺されました。日本の軍隊は、よく言われるはずがないです。いろんな怨念がありますから・・・。フィリッピン人にしてみれば,日本人はみな同じに見えますから、あいつやあいつやということになったのでしょう。それを聞いて愕然としました。まだ、沖縄がその点、ましでした。そんな兵隊たちの恨み辛みがいっぱいあります。ほんとに、戦争を通じてのそんな恨み辛みが残っているなら、今の日本がよくなるはずがないです。どうして、日本という国は、戦争責任をはっきりして、申し訳ないところは申し訳ないと有体に謝罪して、諸外国のようにしないのかと思います。しかし、それを言うと国体が崩壊しますが・・・。迂闊には言えませんが・・・。難しい問題です。これが忘れられるのはあと50年かかるのではないですか。とにかく、戦争はこんなものだ、こういう事実があったのだということを知ってもらいたいのです。(筆者)今の北朝鮮の問題も、複雑ですね。教育も民主主義もどこかおかしいが・・・私もそうおもいます。戦後、民主化と言うことで、アメリカナイズされたが、中途半端です。多数決の原則や、公務員の公僕度、公共の福祉等、どれも、中途半端です。   (しばらく雑談)
 (筆者)長い時間有難うございました。最後に、本にサインをいただきたいのですが、よろしくお願いいたします。
 会談を終えて、雑談からまた話が・・・
久米島事件の直接当時者の言葉
この本には、うそは1つもありませんよ。久米島事件を発掘した、毎日新聞の大島さんが新聞に書いていますが、関係者のT兵曹長を取材をした時、彼は「自分はどうして、あんなことをしたのだろう。夜中にがばっと目が覚めて、眠れない晩が何度もあった。殺せという命令は天皇の命令だから、兵隊の恨めしさをつくづく思います。」と、言いました。T兵曹長は二十何人、手をかけながら、悔恨の思いを持って生きてきたというのは、これはみな、戦争の犠牲者だからです。かわいそうなものです。ほんとに、「罪を憎んで、人を憎まず」と言うとおり、そういうふうに持っていった国がまず反省してしなければならないと思います。Tさんが話している記録を見て、ほろっとしました。Tさんは、奄美大島の出身で、屋嘉の収容所でKaさんと一緒でした。(Kaさんはいま神戸に住んでいます。復員して、関大の夜間部に行って、英語を勉強して自衛隊に入りました。自衛隊学校の英語の教官になりました。そして、何年か前に定年退職して、悠々自適の生活をしています。)Kaさんと、Tさんは屋嘉の幕舎(収容所キャンプ)で、枕を並べていました。Tさんが「どうして、俺はあんなことをしたのだろう。」と、Kaさんに述懐していたと言ってました。みんな戦争では、残虐行為をした人を悪というけれど、人の性は、中にはほんとの性悪もいるけど、全部が全部、悪ではないのです。教育したのが国だから、「自分はお国のためだ」と言って、女子供まで殺してしまうのです。だから、戦争の表側ばかりじゃなく、裏側も知っていただいたらいいのです。人間がいる限り、戦争は亡くならないでしょう。その点、アメリカはスマートな戦争をしてました。6ヶ月間、収容所のアメリカの情報部の人たちと生活して、いい勉強になりました。(筆者)私の父は、3歳で亡くなったため、父の戦争体験を聞けませんでした。父の後、7年後に亡くなった祖父も、父のことは話しませんでした。 そうでしょうねえ  でも、私は、何とかして、書いておかないと死んだ人がかわいそうだと思いました。私も「自分は逃亡兵だ」と言いたくないけど、書く以上はうそは書けません。ですから、最初から逃亡兵ということで書きました。私には、銃殺刑と言う命令が出ていました。見つけたら理由のいかんに関わらず、撃ち殺せと言うことでした。日本が負けたお陰で助かりました。(自分の沖縄で撮ったお祭りの写真をお見せになって)私は、今、こんな写真を撮っているのです。戦後の写真を撮っています。いいでしょう。(筆者)カメラマンをしておられて、応召されて、戦争中は、写真を撮る機会はありましたか。兵隊でいってましたから、そんな仕事は一切できません。高射砲の訓練ばかりでした。私はロボットと同じでした。
 小学校で学んだことの思い出
 こんな思い出ですが、小学校の時、進学組に入っていて、先生から世界の国旗の説明がありました。当時5大強国(日、米、英、仏、独)とか、3大強国(日、米、英)とかいってましたが、その先生が国旗の中で、一番いいのは、フランスということでした。3色国旗で、(縦に左から)青、白、赤で、自由、平等,博愛を表すと聞いて、いいなあと思いました。そのときは日本の国旗は日の丸で、真ん中の赤だけでつまらないと思いました。そうして、軍隊に入って、殴られて殴られて、日本には、とても自由、平等、博愛なんてないなあと思っていました。ところが、沖縄で、湾内にアメリカはじめ連合艦隊が入ってきた時に、アメリカの星条旗、イギリスのユニオンジャック、フランスの3色旗を、見つけました。見た瞬間、小学校の先生に言われたその3色旗の意味を思い出し、フランスはいいなあと思いました。日本には、自由も平等も博愛もないので、あんな国にならなければと感じました。と、ちょうどそのとき、(後で渡辺さんらに逃亡の計画を打ち明けた)直属の上官の通信班の畑中班長(軍曹:アメリカの大学を卒業)が、「戦争に負けたら、日本はアメリカ合衆国日本州になるか、フランスのような共和国になる」というのです。私はそれを聞いて、日本の軍隊のひどさから、それをほんとに憧れました。殴って殴って、陛下に尽くせでしょう。私は殴られてほとんど言われたとおりの兵隊になりましたが、逆に、誰が言われたとおりの兵隊になるか、という気持ちもありました。だから、今でも小学校の先生の話を思い出し、同級会でも、話題にしました。ですから、子供のときの教育と言うのは大事ですね。沖縄の高射砲の大地から見た、3色旗が、目に浮かびます。
高射砲団の鶴岡中隊長
当時、こちらからは1発の弾も撃てないのに、向こうからばかり銃砲が飛んでくるのです。攻撃は特攻機だけです。本土の知覧と鹿屋の基地から、飛び立ってくるのです。通信班ですからわかります。「今暁、知覧の基地から60機出すから、間違って攻撃しないように。」と無電が入るのです。私たちは、もう来るかもう来るかと、待っていましたが、大概くるのは、2機か3機でした。明け方か、払暁で、日中は絶対来ません。そのときの知覧の高射砲団の隊長をしていたのが南海ホークスの鶴岡さんです。だから、私と鶴岡さんは、死ぬまで仲が良かったのです。あの時、知覧の高射砲団の中隊長で、毎日特攻機が出るのを見ていたそうです。日本の高射砲がいかに当たらないか、後で話した時、鶴岡さんも知覧でグラマンを高射砲で撃ったけど、当たらなかったと言ってました。
 私はカメラマン
ちょうど10日ほど前に、死んだ杉浦の一周忌がありまして、古い親友と懐かしく話してきました。私は、野球殿堂に第1号で入った沢村栄治を写した唯一のカメラマンです。(筆者のあの足を高く上げた写真ですかの問いに)そうそう、あれです。あの当時、カメラはアングルと言う機械で、35ミリではないのです。だから、沢村に、「すまんけど、ちょっと止まっといて」といいました。そのときに、その沢村を一生懸命に打ち崩そうと研究したのが、松木謙治郎でした。彼が四番で、それから景浦がいました。その時から、私は写真を写してました。カメラマンだったのがいろいろ後で役に立ったのです。タイガースの投手に若林と言うのがいました。彼はハワイの出身です。彼は私が兵隊に行く前に「なべさん、絶対に死ぬなよ。鬼畜米英というのは、あれはうそや。アメリカはそんな国やないやで。」と、いろんなことを教えてくれました。ほかに、「give and take という言葉があるが、与えるから当然報酬を貰えるのだ」という考えなど聞きました。若林とは非常に仲が良かったです。それもこれも、沖縄で敵前逃亡して、捕虜になったのも、下地があったわけです。だから、戦争から帰った時、若林に「あんたのお陰で助かったのだ」と感謝しました。それで、終戦直後のタイガースの全選手のブロマイドを私が写しました。監督が若林でしたから監督の部屋を私の事務所にして使わしてくれました。そういうつながりがありました。だから人間というのは広い視野をもたないといけないですね。戦前、スタルヒンなども撮りました。(筆者から、戦前の日米野球の選手なども撮られましたかの問いに)その後ですから、とっていません。でも、松木謙治郎などは遠征でアメリカに何度も行っているから、簡単に捕虜になれたのです。だから、相手の事情を知っていたほうが抵抗がなかったのです。日本は島国だからわからないことが多いです。広い視野をもつことが大事ですね。
(最後に、記念写真をお願いしました。お孫さんに撮影をしていただきました。ポーズは渡辺さんの指示によるもので、さすがに今までとった自分の写真で一番格好が様になっています。
おそらく、戦後世代のほぼ「90%」。戦中世代ですらいわれてみて「ああ、あれか」と思い出すのが「30~40%」にみたないくらいか(そもそも「自ら」が「関係」どころか「加害者側」に属するひとり。などとは発想すら浮かぶ余地もあるまい(だって自分たちこそ戦争の「被害者」なんだから).こうしたお粗末な「わがまま甘ったれ」。それでいて「弱き」にはご主人ズラして傲慢、居丈高、蔑視さらに「準植民地」快適な「観光地」と押しかけ「旅の恥かきすて」をやっておきながら・・・「親分」アメリカはじめ「西側欧米」に怒られると狼狽。たちまち卑屈と欺瞞。ごまかし弁解屋とおおあわてで豹変する 。そういうのを「国民」(70%くらい)の人たち。ちょっと下の参照を読んで考えてみてください。お願いします。
私の信念はお国の為であった』 (『サンデー毎日』続報「沖縄ソンミ事件」 1972・4・23号)
                                         鹿山兵曹長の独占手記   鹿山元兵曹長
『サンデー毎日』四月二日号でとりあげた 「これが特ダネだ! 沖縄のソンミ事件」は、全日本人に、 とりわけ 沖縄の人たちに、 いいようのない怒りと衝撃を与えた。 われわれ本誌取材班が追及したものは、 必ずしも一指揮官の責任だけでない。むしろ、 人間が閉鎖集団の中に息づくときの特異な精神状態についてである。 だから、あえて隊長の名前をイニシャル「K」だけにした。ところが、その「K」元兵曹長が、 東京ー沖縄のテレビ二元放送に出て、 久米島虐殺関係者と"対面"した。反響はまた大きかった。「もういいではないかIsn't that enough?」(本土Mainland)に対し「やつざきにしてやりたいI want to tear him apart」(沖縄Okinawa)。この落差は何か。
「K」鹿山正氏はテレビ出演後 「あれではいい尽くせなかった」と、本誌に特別手記を寄せた。そこにあるものは、教育の恐ろしさである。
 許せぬ!裁判を!といわれ
鹿山・元兵曹長=徳島市在住・農協役員=テレビ出演のきっかけは、本誌が出たあと、沖縄現地の新聞はじめ中央、地方各紙が、大々的に報道したためである。三月二十五日付の『琉球新報』朝刊社会面はトップ記事で、「虐殺の張本人は生きていたのか 反省の色も見せない発言は断じて許せない」の見出しで「沖縄のアイヒマンと呼ばれる男ー鹿山」が『サンデー毎日』によってみつかった旨、報じた。以後、連日のように、社会面トップ、一面トップ。さらに社説でもとりあげ、連載企画まではじめた。そして投書欄を埋めるものは「鹿山を糾弾する」ものばかり
「私たちは鹿山の裁判を県民と犠牲者の名で国に要求しよう。それはあの大戦を生残ったもののつとめだ」「日本のアイヒマン・鹿山の文字どおり人を食った"島民虐殺の弁明"をきいて、指揮官のもつ、ありそうな属性以上のものをみ、激しい怒りがもえあがるのをどうしようもない」「殺人犯罪者個人の罪悪追求と、国家に対する補償要求の二つの面から、問題をとりあげ告発すべきである。ねむるな沖縄の良心――」「殺人鬼・鹿山も人の子であり、親であれば、人間の血(動物でない)が流れていたら、久米島の住民殺害に即刻謝罪と謹慎をすすめる。記事を読んで思わず涙ぐみ、一瞬怒りと変わり、筆をとったものである」
「住民が敵に回るとか植民地呼ばわりする彼の考え方が、二十七年後のいまも変わっていない」
 「自衛隊は簡単にはいってこようとしているが、この問題をどう考えるのか」
 「そうだ、桑江一佐(沖縄移駐自衛隊指揮官に内定している沖縄出身自衛官)に聞こうじゃないか」

沖縄の皆さん 特に久米島の皆さん
三月に発表されましたサンデー毎日の記事を皮切りに
日本全国に報道されました沖縄同胞大量逆殺事件の大罪人鹿山正であります。全国の皆さんから沢山の攻撃 おしかりや忠告の手紙を戴いて居ります
手紙を出して戴かなかった方々も同じ気持であることを私は心から有難くくみとることが出来ます
紙上に報道されましたことの内容につきましては何等申しひらきするところはございませんが ただ私の真意を聞いていただくために東京放送に四月四日朝出していただきましたが 限られた時間の上に話すことの表現のまずさで何とも心残りに存じましたので筆をとりましたがこれは又話す以上にむずかしいことです。
私の思ってゐること考えていることを出来るだけそのままに真意をお伝えできたらと 心配しながら書きました文章えの努力のあとをおくみとりくださらば幸甚に存じます語りましても筆にしましてもこまかいところだけでなくあらゆる部分にいいあらわせない点 表現のしかたなどにどうにもならないところがございますそれはだだ誠意あるのみだと思っております。だがこの誠意でさえもその態度等よっては受取り方が随分遼うということをつくづくかんじさせられます。私は大正元年生れでありますが軍国主義の中に生れ その思想の中に育ち小学校の教育もまさにその通りだったでせう 海軍に徴兵として入団軍隊教育を受け 久米島に赴任する迄は海上勤務が主でありました このように軍隊の中にいて 満州事変支那事変 引続いて世界戦争と経歴したのであります
その上に私自身の個性が負けずぎらいでありよこしまなことがきらいで一本気で短気で 単純であります
 このような私の個性や性質習慣は私の態度や言葉やその他のあらゆる面にあらわれていると思います
此のように長い間個性の上につみかさねられた教育と軍隊の中での想想風調にしみついたものは
多少のためなおしは出来るでせうが壮年になってからではなかなかむつかしいのではないでせうか
私自身敗戦後その心構えや態度を反省し懸命の努力を致して参りましたが いまだに出来て居りません。
接する人達からだいぶ違うて来たが とお世辞にかもしれまぜんが云われる程度です 教育の大切さと おそろしさをつくづく感じさせられます。これらのことをあえて書きました
この度の紙上の報道や テレビの中での言動 直接お会ひしました 又お会ひします方々にこのことをふんまえて私を見ていただきたい 知っていただきたいためであります
 軍人が責任をとると云ふ言葉の中にはその責任をとると云ふ そのことに対して一さいのことが網羅されてゐるものと私は考えて居ります。軍人として最大なるものは死と云ふことになって居ります。この死に対して悠然として死につくことを教育され 又そう信じて居ります
国家に忠誠を誓って悠然として死を恐れない精神 態度それが軍人の本領であると云うこと 一般の人がいう責任をとる とは大変違ったものであると云ふことです
 これがこの度の報道関係の方々に接した時の私の態度や言動となって居ります
 
私の信念は お国の為に であった
現在から見れば かなしい宿命でせうかだがこの度の問題に他意はありません 全責任をとると平然と云ひはなった言葉も態度もかかるところから出たものにほかなりません 私が本当に心からあやまっていることが伝わってゐないからです
戦争は人命のうばい合ひであります
平和とは反対力向にあります
人命尊重と云ふことについては 申すまでもありません
おさない子供までも処刑した私の行為については何も申上げることが出来ません只只 この方々の冥福を深くお祈り申上げますと共に 久米島の皆さん沖縄の皆さん全国の皆さんに深くおわびを申上げます。
玉砕となってゐる久米島日本軍。その指揮官として おめおめ生きている私。
それも至上命令に従順に服じて生きた亡霊として現在にいたって居ります
復員以来自分の上に背負わされてゐる世の中からのあらゆるもの以上に自分自身に対する反省の中に云ひ知れない 云ひあらわせない 心の痛みの中に生きつづけております これも軍人であった 指揮官であったものの宿命と思い その苦衷にたえてこそ元軍人であり 男であり 自分一人でなすべき罪のつぐないであれば人に云ふべきすじあいのものではないと考えて居ります。
だが 現在の平和の中でのかかる考え方が 軍国主義云々と云はれますのもまさにその通りかも知れません
 このたびのことで私は指揮下にありました方々にも御詫びの申上げようもございません つまらない指揮官の下にいたふしあわせと そういうめぐりあわせであったと御寛容たまわりたいと存じます
             昭和四十七年四月五日   鹿山正(原文のまま)
幼児殺しは残皓であります 行政機関も黙っておれなくなる。久米島具志川村議会が、
「住民の戦争意識をかり立てるために"鬼畜米英"を教えた鹿山隊長は、いつか目分が鬼畜に変わりはて、その本領を、最悪の手段で発揮した。鹿山隊長が"日本軍人として当然のことをした"といまなお豪語する態度は獣じみており、断じて許せない」との抗議文をつくり、日本政府に犠牲者の名誉回復と遺族への授護を要及する決灘を採択した。 また沖縄中央教育委員会はわざわざ、このための臨時会議を開き、「教育上も見のがせない問題であり、琉球政府の責任において事実究明を日本政府に迫る」などの方針を決めた。
こうした沖縄の声は国会にも届いた。沖蝿出身の喜屋武真栄(二院ク)議員らが、この事件をとりあげ、政府は事実調査を約束せざるをえなくなる。 ついに四日朝、"怨念のテレビ対決"が、沖縄のRBCを含むTBS全国二十六局のネットワークを結んで行なわれた。『モーニングジャンボ』の番組である。
髪を七三に分け、端正な背広姿でテレビカメラの前にすわった鹿山元兵曹長は『ザンデー毎日』四月二日号「沖縄のソンミ専件」や『琉球新報』紙上の"犯罪記録"を司会者に聞かれ
、「ハイッ、間違いありません」と全面背定する。。
鹿山 スパイ容疑でやりました。軍人として当然だったと思います。
司会者 殺された二歳の子供までスパイということですか。
 鹿山 いえ、そういうことはありません
 司会者 少し残酷だと恐いませんか。
 鹿山 そのとおりであります。
司会者 どういう心境なんですか
鹿山 ……全国民、軍人、徒手空拳うって一丸となって国を守るんだという、こういう精神で戦争をやりまして、そのためには国民全部銃を持たないでも兵隊と同じである。そういう信念のもとに敵に好意をよせる者、そういう者には断固たる処置をとったということです
怒声にびっくりして(ここで画面はRBCスタジオにスイッチ。二十七年ぶりの対面ならぬ対決にくちびるをかみしめる沖縄の関係者が二元放送で写し出される。――父を殺された宮城栄夫さん、弟を殺された中村明倫さん、教え子を殺され自分もスパイのいいがかりで危うく殺されるところだった上江洲トシさん、虐殺記録をまとめた仲間智秀さん)
上江洲 なんであんな谷川さん(終戦後の昭和二十年八月二十日、妻と子供五人と一緒に殺された朝鮮人、谷川昇さん)の小さい子供のようなこわいよう助けてくださいと泣ぎ叫ぶ子供まで犠牲にしたのでしょうか谷川さんは私の教え子で級長をしている大変いい子供でした。あの一家はスパイどころか軍の協力者でありました。殺し方もですね、とっても残酷で、いま考えても身の毛もよだつ思います私もあと二日で殺される予定だったと聞いてですね……生き証人として、あんたを糾弾していきたいと思いまして、こうしてスタジオに来たわけでございます。
中村 鹿山君!私、いまそこにいれば、あんたをやつざきにしてやりたいよっ、そう思いませんか!(鹿山元隊長は中村さんの怒声にびっくりしたように「そう思います」(と小声でボツリ)二歳になる乳のみ子まで殺して、それで海軍といえるか! そう思わないか!報道でおまえが生きていることを知り、反省してないことを知って私は夜も授つかれない。おまえの久米島でやったことはなんだ! あれが人間のやることか!そう思わないか!(激しい口調に鹿山元隊長はますますうなだれる)うちの明勇(仲村渠明勇さん)が殺されたときは、もう戦争終わっておる明勇さん一家三人が刺殺焼打ちされたのも、谷川さん一家同様に終戦後で八月十八日)戦争終わっとって、どうしてあんな処刑なんぞしたんだ。殺して火をつけて火葬なんてもってのほかだ。一般が疎開して兵隊が戦うのが日本の陸海軍であるはずじゃなかったか。……キミみたいなのが軍隊におったから、沖縄に自衛隊が来たら、またああいうことせんか思って自衛隊に反対してるんだ。(鹿山元隊長は終始無言……)
 仲間 食糧を供出したり、いろいろな協力を久米島の人たちがやっていたことはキミもわかっているだろう。
 (画面は押びTBSスタジオヘ)
あとの世代の"反面教師"に
司会者 沖縄の人たちの声を聞いて、あなたの信念はなお変わりあります
鹿山 それは……か、変わりません。
司会者 二十七年もたった時点で、あなたにとって、久米島事件はどんな意味がありましたか。
鹿山 それは悲しい事件であります……。軍人としての信念は変わりませんが、一個人としては沖縄のみなさんの冥福を祈ってやみません……。
テレビ対決の放送中、視聴者からは意見が相次いで寄せられ、係りの電話は鳴り放し。放送後も含めると、TBS本局に百三十四本、RBCに三十数本。ところが、その声は本土と沖縄ではまったく対照的。本土の視聴者は七割以上の意見が「戦争の犠牲は沖縄だけではない、沖縄を甘やかすな」「鹿山元隊長の家族の迷惑も考えろ。本人だってかわいそうじゃないか」といった内容であるのに、沖縄は「責任追及の姿勢が弱い」「もっと突込んだ企画であってほしかった」と、"物足りなさ"を語るケースが圧倒的だった。戦時中とはいえ、乳幼児を含む20人もの民間人を処刑した元日本軍人を、7割の大和人が庇うということは異常という以外になんと言うのか。同様に、渡嘉敷の赤松隊における10数名の民間人処刑についても、赤松本人が居直り、曽野綾子が「ある神話の背景」で擁護に乗り出したことも、大和人の沖縄人に対する「エゴイスティックなナショナリズム」の存在を計算に入れての事だったのではなかろうか。
 最後に『琉球新報』の社説の結びを紹介しよう。
 「われわれは戦後二十七年たった今日、戦争とはなんであるか、軍隊とはどのような性格を持った集団であるのかを、あらためて考えてみたい。戦時中、久米島にいたあの下士官の発言は、このことを教えてくれる"反面教師"であるのかもしれない。われわれは戦争のみじめさを、忘れたいけれど、忘れずに、あとの世代に伝えて、あのようなことのないよう努力したい」

PS:あらためて7割以上の日本人が「甘やかすな」だの「家族の迷惑」や「本人だってかわいそうじゃないか」(仮に逆の立場だったら?と再び考えてしまう)というようなことを言い放つ(そしてまたいつもの「匿名」(集団中のひとり)「正体不明」なんでしょう)。衝撃を受けました(ここ数ヶ月、頭から離れない)。さらにこれが1970年代前半→現在もまったくおなじ、何も変っていないOnce again, more than 70% of Japanese say, "Don't overindulge," "It's a nuisance to his family," and "I feel sorry for him(What if it were the other way around? I think again) " (and again the usual "anonymous" (one of the group) "unidentified"). It shocked me (has stuck in my head for the last few months). Furthermore, this is the early 1970s → It is still the same today, nothing has changed = 2019年7月25日
◇沖縄のソンミ事件とは◇
久米島は沖縄本島から西へ約百㌔の離島。沖縄戦当時、鹿山正(かやま・ただし)兵曹長(当時32歳)指揮下の日本海軍守備隊四十人近くが駐屯していた。昭和二十年六月二十六日、米軍上陸後、鹿山隊は山岳地帯にたてこもったが、住民が米軍に通じることを恐れ、米軍上陸の翌二十七日、仲里村山城の郵便局員が米軍から投降文書を強制的に持ってこさせられたのをスパイ容疑で銃殺したのを皮切りに、具志川村北原区長ら四家族九人を集めて刺殺焼打ちするなど連続的に民間人を"処刑"。終戦後も朝鮮人の谷川昇さん一家七人や久米島を艦砲射撃から救い戦争犠牲を防止したといわれる仲村渠明勇さん一家三人を殺すなど、二十人を直接殺害、自殺や餓死を含めれば七十人近い民間人を犠牲にした。
日本軍」なんてこんなもの。「普通の人たち」なんか守ってやくれません(アメリカ軍どうよう)。
「現地妻が告白する『沖縄の怨』」 (『サンデー毎日』 1972・6・4号)
 鹿山隊長の"現地妻"は生きていた。沖縄本島から西へ約百キロの久米島で、終戦をはさんで演じられた虐殺の指揮をとった鹿山正・元兵曹長に"徴発"された少女は、いま四十三歳になり、那覇市の近くのバー街で、小さい料理店のおかみさんになっていた。   虐殺事件から本土復帰までの長い歳月、S子さんの身の上には、なにか、虐殺の呪いのようなものさえ感じられた。おびえが走った アゲハチョウが、店先に舞っていた。那覇市に近いバー街である。S子さんが営む小料理店は、そのはずれにあった。琉球カワラでふいた小さい家。しもたやにしか見えないその店を、ようやくたずねあてることができたのは、まだ宵の口だった。 バー街は閑散としていた。ネオンにも灯がはいっていない。そこらじゅうに張られた新「沖縄県」の県議選ポスターだけが、やたらに目についた。
小料理店の勝手口からはいると、青いワンピース姿のおかみさんが出てきた。それが鹿山の現地妻だったS子さんであった。髪を短くして、シャキッとした顔立ち。小柄な美人であった。 来訪者がジャーナリストと知って、S子さんの目におびえが走った。彼女にとって「戦後」とは、消そうとしても消えない過去を背負って、転々と居を変えた生活である。しかも久米島での虐殺事件が明るみに出てからというもの「鹿山許すまじ」の声が、沖縄でははげしく、盛上がっている。そんなとき鹿山との関係を知られたら……彼女がたつきにしている小料理店は、まして客相手の商売だ。しかし……。
「でも……、でもよ。私にも、言いたいことはあるわけさあ」 やがて…さんは、住所と実名を明らかにしないことを条件にして、過去を語ることに同意した。
 16歳の島乙女
「久米島の具志川にある女学校を出てから、看護婦になろうと思って、那覇の日赤病院で見習いしていたさ。それが昭和十九年十月十日の大空襲にあって、久米島に帰ったわけさ」 米軍の上陸が迫っていた。女学生は看護婦として軍を助けるよう要請されたし、また、そういわれなくても看護婦を志した当時の彼女たちだった。「私の家は、具志川村鳥島から山に上る道のそばにあってさ、山にいた日本兵が村に上り下りするときに、私という"島の娘"を見つけたんじやないかね。二十年の四月か五月ごろでしたよ。
 鹿山の部下が三人連れでやって来て、『
指揮官付で働いてもらうから山に上れ』というわけさ。当時は家で手伝いしているだけだったけど、なんかしら山に上るのはいやだったね。行かないでいたら、数日してまた呼びに来たさね。どうにも仕方なくて、行くほかなかったわけさ。なんにも知らずによ」 このとき、S子さんは十六歳だった。兵隊がよく通る道のそばに、たまたま住んでいたのだ。"徴発"された理由はそれだけである。あえてつけ加えるなら、幸か不幸か人目をひく少女だったということ
  もし彼女が那覇空襲後に久米島に帰らなかったら、どうなっていただろうか? 沖縄本島に残った看護婦見習いの同級生たちは、ほとんどが沖縄戦に巻込まれて戦死した。去るも地獄、残るも地獄だったわけである。どっちにしてもS子さんの未来は閉ざされていた。なかば強制的に久米島の山中に連れ込まれたとき、彼女の青春もまた破滅への旅立ちをしたのである。
米軍上陸の夜
「山で、初めて鹿山に会ったわけさ。はじめは話をかわすこともなく、身のまわりの世話だけだったた。洗濯をしたり、足を洗わせられたり。しばらくして月給くれたさ。三円だったかね、札を三枚もらったの覚えているさあ。報酬もらっのは、あとにも先にもこれだけよ。米軍が上陸する前は、鹿山は、私になんも悪いことしなかったさ。村の料亭に遊びに行ったり、料亭から玄人の女を連れて釆たりしていたようよ。
  悪いことされたのは、米軍が久米島に上陸した晩だったね。隣に、玄人の女性がいたことも覚えているさあ
  日本軍がそれまでいた小屋にガソリンかけて、山のずっと奥に逃げたのは、米軍上陸から三日ぐらいたってからだったかね。逃げるとき、男ばかりの中で女は私一人だったさあ。こわくなかったかって? 自分の耳をかすめて
米軍の弾がビュウビュウ飛んでいて、もう、夢中だったさ。こわいというより、玉砕してお国のためになるならと、いまにして思えば、きれいな気持だったね。着のみ着のままで、しょっちゅう、起きていたみたいよ」
子供ができた
米軍の久米島上陸は六月二十六日である。沖縄本島を守っていた日本軍の司令官、牛島中将が、摩文仁丘で自決(六月二十三日)し、本島では組織的な戦闘が終わったあとだった。仲里村銭田海岸へ、米兵千人は無血上陸をした。四十人ほどの鹿山隊は「なんの抵抗もできなかった。翌二十七日、第一号の犠牲者が島民のなかから出た。久米島郵便局員の安里正次郎さんだ。害者は、米軍ではない。鹿山隊長みずから、スパイの容疑があるといって安里さんを射殺したのだ。S子さんが現地妻にさせられた翌日のことである。「三回ぐらい家に帰されたことあったね。でも、すぐに呼戻しに来たさ。いまぐらいなものの考え方だったら、私も抵抗しただろうけど、年も年だったしね。なんもわからんさあ。
  
島で起きたこと(鹿山兵曹長の指揮による連続虐殺)は、まるで知らされなかったさ。日本軍より一足先に私は山を降りたけど、日本軍が降伏し、全員が"アメリカ ー"に連れて行かれるまで、母も心配して私になんもいわなかったさあ、あとで事件を知らされて、私は自分自身を責め始めたわけよ」 鹿山隊の降伏は、昭和二十年九月一日だった。それまでに、終戦後というのに、八月十八日には、久米島を米軍の艦砲射撃から救ったといわれる仲村渠(なかんだかり)明勇さん一家三人を、一日おいて八月二十日には朝鮮人の谷川昇さん一家七一人を虐殺するなど、鹿山隊は直接虐殺だけで二十人の島民を死に追いやっていた。
「(兵隊が)みんな引揚げてから、子供ができたこと、気がついたわけさあ。そりゃあね、相手は私を行きずりの女としてみたにすぎなかったんでしょう。だけどね、本当にものを知る人間であれぱね、安否を問う手紙くらいあってもいいでしょ。 子供できたの相手は知ってんのかねえ、知らないのかねえと思いながら、私のほうは自分を責めていたんさあ。よその人に姿見られるの恥ずかしくて、外にも出なかった。台所で炊事していたときに、よその人が来たりすると、すっと奥に隠れて、一人で泣いていたさ。両親は、私が自殺しやしないか心配して、家族みんな暗い気持でいたさあ。私自身はすっかり孤独になって……」
 結婚にも破れ
 
十一年三月、女児を生んだ。S子さんは十七歳の母親になった。家は貧しい島の農家である。人目を避けながら、なれない育児にせいいっぱいの毎日だった。 二十二年、親のすすめで結婚した。夫は長兄の戦友で、同じ久米島の人だった。もちろん、鹿山とのことは知ってのうえのことである。この夫とのあいだには二男一女が生まれた。昭和三十一年、だが、夫は急性肺炎で死んだ。鹿山隊長との私生児一人を含めて四人の子供を抱えたS子さんに、再び生活苦が襲った。それは同時に偏見の中で孤独とたたかう日々でもあった。久米島の人々は、彼女とあの鹿山隊長との仲を知っている。ふるさとは針のムシロだった。
鹿山とのことで自分がイヤになって、ほんとうは結婚する気なんて全然なかったのよ。結婚してからも、相手に悪いと思ったさ。過去が過去なのでシュウトメともうまくいかなかったし、私もいいヨメではなかったんじゃないかね。鹿山との子が小学校にあがるようになってから、また自分を責めたさ。 本島の糸満に姉さんをたよって行って、スクラップ業をやったこともあったさ。そのうち、夫も死んでしまって……実家は貧乏していたし、だれにもたよれず、那覇のある人の二号さんになったわけさあ」
  糸満から久米島に引揚げたS子さんは、仲里村で小さな旅館を開業する。長女はいつのまにか鹿山隊長の子であることを、近所の人から知らされていたらしい。「さいわい、ひねくれもせず育ってくれてね。気の強いいい娘になったさ。それが旅館によくくる人と結婚するといい出したわけよ。心配だったけど、本人同士みんな知合ってのことだと思ったさ。してからに結婚して、予供もできたさ。けど、やっぱり鹿山のことで、うまくいかなかったわけよ。 こんなことあったさね。娘と私の前で、ムコが孫をはたいたさ。私が注意したら、そいつがいったよ。自分の過去をタナに上げて文句いえるガラかって。結局、娘も離婚してしまったさあ。私たち母娘は、人並みの結婚は、やはりできなかったわけよ」
故郷に住めず
 一家は過去に追われるように仲里村を捨て、那覇市に移り住んだ。離婚した娘は、借金してサロンを開いた。S子さんは再び小さな旅館業。まもなくS子さんは末の娘だけを連れて現在地に移った。旅館はやめて、こんどは小料理店にした。「一度、偶然に久米島の人が客できて、おおぜいの客がいる前で
『あんた、鹿山のあんときの女じゃなかったかね』って聞かれたさ。びっくりして『いや、私みたいな顔の人、たくさんいるさあ。ひと違いじゃないかね』って急場をしのいだわけさ。胸の中じゃ、なんて心ないことをいう人だと煮えくりかえる思いだったけど、無理して笑っていたさ。恥かかされながら顔で笑ってさ
三月末いらい「久米島事件」に向けて爆発した沖縄の世論。事件を思い出したくなかったS子さんも考え込んでしまったという。
連続虐殺の事実を突きつけられても、鹿山兵曹長は「良心の呵責はない。日本軍人としての誇りを持っている」という。S子さん、この開き直りには人一倍ショックを受けた。「あんな大げさなことよく言えるねと思ってさ。私たちばかりやるせない気持で、生きることに懸命になってるのに。 自分がみじめに思えて、私は毎日泣いていたさ。それを末の娘が見て心配して、ねえねえに電話したらしいさ。末の娘は、長女のこと、ねえねえって呼んでいたわけさ。私も覚悟を決めたさ。末の娘と二人きりのとき、思い切っていったのさ。『新聞に出ている鹿山は、ねえねえの父さんよ』。せつなかったさあ。けれど末の娘は、逆に私を励ましてくれたさ。過去は過去じゃないのって」
末の娘はいま十八歳になる。事故で半身不随だということである。その上の兄弟二人は、すでに独立した。弟のほうは、集団就職で東京へ行っている。 S子さんは、長いあいだ自分の子供たちにも、自分とねえねえの過去を明かすことができないでいたのだ。「ねえねえはねえねえで、自分の子供、私にとって孫にあたる子の心配をしているわけさ。鹿山の孫だっでいうんで、私たち母子みたいにさびしい思いするんじゃないかねって。私の苦しみはねへ私から娘、娘から孫へと代々続いていくわけさあ」
 日本人は勝手さ
 S子さんの店は、いま二百万円近い借金をかかえている。ねえねえも、その日の生活に追われる苦しい暮らしである。「
鹿山が反省してもしなくても、私たちの苦労は変わらないさ。そう思って、いまこそ鹿山から慰謝料取ろうと、徳島県の住所に一筆書いたさ。ねえねえも、末の娘も、おおいにやんなさいっていうしね。女学校時代の恩師も手紙書いてくれたけど、その先生のところにも、私のところにも、返事ひとつないわけよ久米島で鹿山隊に虐殺された人たちの遺族は、いま遺族会をつくって、政府への慰謝料要求と新日本軍(自衛隊)の沖縄入り反対の運動を始めている。しかし、このような遺族会の声に、責任ある回答はまだなにもない。
「沖縄で勝手なことしといて、いまになって、あれは、戦争中のことだといわれたって、私たちには通じないさ。沖縄人と日本人は、やっぱり人間が違うんじゃないかね。日本人も日本政府も、ウソがうまいと思うさあ。そんなところへ沖縄がなんで復帰するのかねと考えるさ」  五月十五日。沖縄復帰。S子さんやねえねえ、久米島事件の遺族たちの痛みをよそに、盛大な祝典では高らかな万歳が三唱されていた。
「日本人」として生まれた一人(しかも虐殺者がのうのうと余生を送ったところは我ゆかりの地)。沖縄の方々朝鮮やアジアそして人類に申し訳ない気持ちでいっぱいです、ともかく、読んでくださってありがとうございました☆打倒「ゴーマニズム」!日米全面撤退・沖縄自治確立・鬼畜残酷鬼子裁断必需!! Sammy 2016/9

×

非ログインユーザーとして返信する