日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

『知られざる戦争犯罪Hidden Horrors』Japanese War Crimes in World War II/Abuse of prisoners「日本軍はオーストラリア人に何をしたか」《The Chichijima(Ogasawara)incident - Cannibalism》『Unbroken: A World War II Story of Survival, Resilience, and Redemption』

私が尊敬する豪州メルボルン在住の歴史学者田中利幸教授(映画『アンブロークン』の原本執筆者が、先生の著作を情報源として引用した)による、日本軍の「人肉食い」についての詳しい背景説明。加えて以前出した自身のルポを添えて改訂版にしました。あと、私は今まで少なからずの方々(特に日本人から)「なぜ、そういう悪い面や過去の暗い話ばかり調べたり考えたりするのか」あるいは「もっと楽しいことに着目し、発展的な未来に目をむけるべきなのではないか」と問われたことがありました。ただ自身の生い立ちや経験もまじり「楽しい」「発展的な未来」のためにこそ「過去」特に「負の歴史」について考えるべきだ。こういう持論と信念のもとに生きていることは現在も変わりありません。ワイツゼッカー元ドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)大統領の言葉「過去に目を閉ざすものは結局現在へも盲目になる」まさにそのとおりだと思っています。以下、参照しました。2016/9
映画「アンブロークン」と日本軍の戦争犯罪について:田中利幸教授
http://yjtanaka.blogspot.ca/2015/09/ru.html
アンジェリーナ・ジョリー監督製作映画と人肉食問題: 戦争の「狂気」と民主主義を考える 一昨日の東京をはじめ全国250ヶ所ほどの場所での安保法案抗議と安倍退陣要求デモには感動します。1年前には考えられなかったような全国民的広がりでの問題意識の高揚、とりわけ若者たちの熱心な参加に嬉しい驚きを感じます。この勢いで、ぜひとも安倍内閣を打倒したいものです。ただ、根本的な問題は、本来ならば、安倍のような低劣な政治家が首相には絶対になれないような、もっとしっかりした民主主義を日本社会にこれまで我々が築いてこなかったことです。したがって、こうした活動が一過性に終わらず、これを機会に、若者たちが、地道で堅固な「民主主義構築」活動を続けていくことを期待します。「民主主義構築」のためには、いまさら改めて言うまでもないと思いますが、私たち自身が、過去から深く学んだ重厚な歴史認識を持つことが必須条 件です。そうした堅固な歴史認識を持たない人間は、現在の問題に対する分析力の点でも、自分たちのあるべき未来像を描く点でも、極めて貧困にならざるをえないことは、安倍晋三という人間の言動を見てみれば一目瞭然です。歴史認識と言えば、日本人の中のいわゆるネトウヨと呼ばれる連中の深く歪んだ、劣悪な歴史感覚については、もう議論するまでもないのですが、ある問題で、私への個人攻撃が今年の前半にかなり激しくネトウヨから出されたようですので、ここでそれに対する応答を簡単に述べておきます。実は、攻撃内容があまりにも 低劣きわまりないので、こんなバカバカしいことに反論するためにエネルギーと時間を無駄にはしたくないと思い、今まで無視してきました。しかし、ネトウヨの連中を信じる若者もいるかと思い、今回一度だけ、反論しておきます。と同時に、それに関連した戦争の「狂気」についての持論を述べておきます。時間が もったいないので、二度と繰り返しはしませんが。その問題とは、実は、かの有名なアンジェリーナ・ジョリーが初監督・製作した映画『アンブロークン』と密接に関連しています。2014年11月にオーストラリアで世界初封切りとなったこの映画は、2010年に出版された、ローラ・ヒレンブランド著の、ノンフィクション『Unbroken: A World War II Story of Survival, Resilience, and Redemption』という本に基づいて製作されました。本の内容は、第2次世界大戦中に日本軍の捕虜となった米軍爆撃機搭乗員のルイス・ゼンペリーニの捕虜体験記『Devil at My Heels』と、彼からの聴取り調査をもとにしており、映画では日本軍による捕虜虐待の実態がまざまざと描写されています。ゼンペリーニは、1936年ベルリン・オリンピックのアメリカ代表の中距離ランナーとしてかなり名を知られた人でした。
下記サイトは映画の紹介です:
 https://www.youtube.com/watch?v=HgZjvg7Ygg4
ゼンペリーニは、日本軍による捕虜収容所での様々な虐待にもかかわらず、戦後は日本人に対する深い憎悪心を克服して、その後、数回日本を訪問して多くの友人を作っています。1998年の長野冬季オリンピックでは聖火ランナーとして、自分が収容された直江津捕虜収容所のあった上越市内を走っています。残念ながら、映画が封切られる前の2014年7月2日に97歳 で彼は亡くなっています。下記は彼の生涯に関するドキュメンタリー・フイルムです。説明は英語ですが、このフィルムの最後に、彼が聖火ランナーとして走っている映像が含まれています。この映像は、映画『アンブロークン』の最後でも使われています。私はオリンピック反対論者ですが、このシーンには感動します。
https://www.youtube.com/watch?v=aEGL-wyz1yk
(ちなみに私のオリンピック反対論については下記サイトをご笑覧ください。
 http://www.the-journal.jp/contents/newsspiral/2010/08/post_613.html )
 なお、この映画についてはすでにいくつもレヴューが書かれていますが、私の友人、乗松聡子さんも『週刊金曜日』(2015年1月23日号)に書いています。
 http://peacephilosophy.blogspot.ca/2015/02/from-shukan-kinyobi-filmbook-unbroken.html
問題はこの映画ではなく、映画の原本となった本の執筆者であるヒレンブランドが、私の英語の本『Hidden Horrors :Japanese War Crimes in World War II』を情報源として、以下のような文章を書いていることから起きています。
「Thousands of other POWs were beaten, burned, stabbed, or clubbed to death, shot, beheaded, killed during medical experiments, or eaten alive in ritual act of cannibalism. 他の何千人もの捕虜が、叩かれ、焼かれ、刺され、こん棒で死ぬまで殴られ、撃たれ、斬首され、医学実験で殺され、人肉食の儀式として生きたまま食われた。」
ネトウヨたちは、捕虜が「叩かれ、焼かれ、刺され、こん棒で死ぬまで殴られ、撃たれ、斬首され、医学実験で 殺された」ことについては、あまり問題にしていない、というよりは、こうした捕虜虐待の史実については多くの資料や出版物もあって、すでに一般的な知識と なっているため、問題にできないようです。ところが「人肉食の儀式として生きたまま食われた」という表現に注目して、その言葉をあたかも私がそのまま述べ たかのように受け取り、私を「大嘘つき」と批判しているわけです。日本兵が人肉食をやったなどという証拠は全くなく、ましてや「儀式」としてやったなどという大嘘をつく「アカ脳歴史学者」の田中は許せないというわけです。ネトウヨの中には、ここからもっと妄想が拡大して、「田中は、日本軍兵が慰安婦を殺害 して、その肉を食べたとまで主張している」などという、メチャクチャなデマ攻撃をしている者まで現れました。
映画の中には「人肉食」の話は一切出てきませんが、この文章だけを大問題にして、したがって、この本を元に製作された映画そのものが大嘘であり、反日プロパガンダ以外の何ものでもないし、アンジェリーナ・ジョリーも反日イデオロギーに染まったけしからぬアメリカ人、という短絡な論理をネトウヨたちは展開したわけです。実際に映画を観てみればお分かりだと思いますが、内容は全く反日などではなく、残虐行為を受けた人物 が、いかに困難を乗り越え、最終的には敵に対する憎悪をも克服したかという、戦争に駆り出された若者の勇気ある体験を描き出したものです。にもかかわらず、実際には映画を観てもいないネトウヨたちがデマ攻撃をやり、これを週刊文春や産経新聞がさらに煽ったため、この映画は、日本では、公開見送りにまでなりました。
とにかく、「人肉食の儀式として生きたまま食われた」という表現が、なぜ私の本を元に出てくるのか、そのことについて説明します。ここには3つの問題があります。
 1)日本軍は人肉食を行ったのか?
 2)人肉食を「儀式」として行ったのか?
 3)捕虜を生きたまま人肉食の対象としたのか?
1)まず第1の問題ですが、これについては私があらためて学術的論文を書くまでもなく、実際にニューギニアやフィリッピンの戦場に送りこまれ、飢餓と熱帯病と闘いながら なんとか生き延びた生存者が、戦後著した多くの体験記の中で触れています。例えば、もうとっくに亡くなられましたが、ニューギニアで生き延びた兵の一人、 尾川正二さんの著書『極限のなかの人間:「死の島」ニューギニア』、『東部ニューギニア戦線:棄てられた部隊』には、おぞましい人肉食の実態があからさま に書かれています。また、小説という形はとっていますが、ほとんど自分の実際の体験記である、大岡昇平の『野火』の中では、兵隊が「猿の肉」をとるために 仲間の兵を殺害するという形で、人肉食が暗示されています。さらに、これまたニューギニア戦線の生残り兵である奥崎謙三という稀有な人物に焦点を当てたドキュメンタリー映画『行き行きて神軍』の中でも、昔の同僚兵たちが、人肉食が頻繁に行われていたことをはっきりと告白しています。
 ただ、こうした事実が広く知られていたにもかかわらず、この事実を公式な軍書類として裏付けるような資料は、私がオーストラリア国立公文書館ならびに戦争博 物館所蔵の大量の関連資料を見つけるまでは、ほとんどその存在が知られていなかったのです。「発見した」という表現は、実は正確ではありません。「偶然に 資料に出会った」と言ったほうが適切でしょう。実は、1991〜92年頃、私は日本軍が犯した様々な戦争犯罪に関する豪州軍作成書類について調査しており、公文書館と戦争博物館に足しげく通っていました。そのとき、偶然「日本軍戦争犯罪関連秘密文書:公開禁止」という書類に出会ったのです。そこで、この書類の秘密を解除して読めるようにしてくれるよう、申請を公文書館に提出 しました。そのことをすっかり忘れていた半年ほど後に、公文書館から「秘密文書を公開する」という連絡を受けたので、早速公文書に出かけて書類を読んでみ て、本当に驚きました。これが、ニューギニアにおける日本軍の人肉食の、あるケースに関する詳細な報告書だったのです。驚いた私は、同じような書類がもっとあるはずだから、関連書類を公開してくれるよう申請したところ、公文書館も戦争博物館も次々と非公開の関連資料の秘密を解除したのです。おそらくは、1990年代に入って、「もうこの類の書類は公開してもよい」という豪州政府側の決断によったのではないかと想像します。おかげで、私は大量の関連報告資料(ほとんどがニューギニアでのケース)を入手した最初の研究者になったというわけです。これらの資料を分析した結果を、1993年に出版した日本語の著作『知られざる戦争犯罪:日本軍はオーストラリア人に何をしたか』の第4章「ウエッブ裁判長と日本陸軍の人肉食罪:『人肉食』に関する豪州軍資料を中心に」で発表しました。1994年には米国の国立公文書館で、フィリッピンでの日本軍人肉食に関する米軍の調査報告書を数多く見つけ(米国の
場合はこの関連の書類は秘密扱いにはなっていませんでした)、豪州軍と米軍の両方の資料を使って書いた論考を、1996年に出版した上記の英文拙著Hidden Horrors の中の1章として入れました。ニューギニアに関する豪州軍資料では、その被害者の多くが豪州軍兵士ですが、地元住民や捕虜が被害者となったケースの報告もあります。フィリッピンでの米軍調査報告書の場合は、被害者は主として米軍兵でした。
2)次は「儀式」として行ったのか、という問題です。豪州軍報告資料が公開になるまでは、元日本兵の告白や自伝からの限られた情報しかなかったため、私たち研究者が推測していたのは、人肉食は飢餓状態という極限状況に追いやられた兵隊たちの中に、場当たり的、突発的に、殺害した敵兵の肉を削いで料理したり、仲間の兵を犠牲者にして人肉食を行った者が出たのではなかろうか、ということでした。ところが、大量の豪州軍報告資料を分析してみて明らかになったことは、日本軍の兵隊たちが(小隊、中隊といった)グループで、組織的に、 殺害した敵兵の身体を自分たちの陣地に運び込んで、解体し、料理して、食しているということが分かりました。当然、こうしたグループ行動に参加しなかった 兵たちがいたわけですが、こうした兵たちは、仲間外れにされただけではなく、殺害されたケースが多々あったように思われます。例えば、『行き行きて神軍』 のフィルムでは、「敵前逃亡」の罪で2人の兵士が射殺されたことを戦後になって知った奥崎が、処刑した上官5人を訪ね歩き、彼らをとことんまで追求し、当時の生々しい状況を聞き出していくわけです。結局は、射殺された2人は「人肉食」に参加しなかった者たちであったことが、このフィルムでは暗示されています。その上、敵軍兵士の人肉をグループで食すことで、グループの結束を強めると同時に、「敵への支配力」を相互確認しあうという心理的作用も働いていたのではないか、というのが私の推測でした。こうした「組織的行動」と「グループ心理」に関する私の分析を、ヒレンブランドが「儀式」という言葉で言い換えたわけで、ここに誤解が生じたのです。「儀式」という言葉が、あたかもなにか特別なセレモニーでもやりながら人肉食を日本兵がやったかのような印象を与えてしまっています。ひじょうに不適切な表現だと思いますし、原著者の私としては、そのように私の分析を言い換えたことに強い不満を感じます。この点、誤解がないようにしていただくには、私の著書『知られざる戦争犯罪』を実際に読んでいただくのが最も理想的です。 残念ながらこの著書は絶版になっていますが、図書館にはありますので、ご興味のある方はぜひご一読くだい。また、全く私の知らない人が、自分のブログで、 私のこの著書の内容を紹介しており、この紹介文でも第4章の「人肉食」をとりあげて、私の分析について、ほぼ正しく、簡潔に説明しています。下記がそのサイト・アドレスです。
 http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20061107/p2
3)「生きたまま人肉食の対象とした」という問題。この問題については、まず、拙著『知られざる戦争犯罪』の229〜30ページから書き出した下記の証言を読んでください。この証言は、日本軍にニューギニアに連行されましたが、殺される寸前に逃亡してオーストラリア軍に救助された、パキスタン人捕虜ハタム・アリ上等兵がニューギニアでの体験を証言したものです。
「われわれはここから300マイルほど離れた場所に連れていかれ、毎日12時間という重労働に従事させられましたが、食糧はごくわずかしか与えられませんでした。医薬品もまったくもらえず、病気で倒れる捕虜はみんな即座に日本兵に殺されました。その後、連合軍の攻撃活動が激しくなったため、日本兵たちの食糧も底がついてしまいました。われわれ捕虜は草や葉っぱを食べさせられ、あまりのひもじさから蛇やカエル、そのほか虫さえ食べました。このころから、日本兵たちが捕虜の中から毎日一名を選んで連れ出し、殺害して食べることを始めました。私自身、これが行なわれるのを目にしました。この場所では100名ほどの捕虜が日本兵によって食べられてしまいました。残りの捕虜はそこから15マイルほど離れた場所に連れていかれ、ここで10名の捕虜が病気でなくなりました。 この場所でも日本兵は捕虜を選んで食べ始めました。選ばれた捕虜は小屋の中に連れていかれ、生きたまま身体から肉が切り取られました。そして、生きたまま地面に掘ったくぼみに投げ込まれ、そこで死んでいきました。肉がそぎ取られるとき、選ばれた捕虜は恐ろしい泣き声と金切り声の悲鳴をあげ、投げ込まれたくぼみの中からも同じような声が聞こえてきました。その泣き声はその不幸な捕虜が死んでいくにしたがいしだいに弱々しい声に変わっていきました。われわれ捕虜は、このくぼみに近寄ることを許されませんでした。しかし身体に土がかけられなかったため、ひどい悪臭が漂ってきました。」
私はこの証言について「この恐るべき証言がはたしてどこまで真実であるかは、今となっては確認のしようがない」と書きました。しかし、もしこれが真実だとすれば、「捕虜を殺さずになるべく長く生きながらえさせれば、それだけ長く『食糧』が腐敗しないで『自然保存』できる」という、「食糧保存のための段階的殺戮」であったのではないか、とも書きました。
再度述べておきますが、この証言が真実であるかどうか、私には確信が持てないのです。しかし、ニューギニアやその近辺の島々に、多くのインド人捕虜や朝鮮人 労務者が、飛行場建設やそのほかの日本軍施設の建設現場での強制労働のために連行されていき、彼らの多くもまた、飢餓と熱帯病で死んでいったことは、豪州軍の戦争直後の詳しい調査報告書から明らかなところですし、インド人捕虜が日本軍の人肉食の犠牲になったケースについては他にも豪州軍の報告があります。 オーストラリア戦争博物館には、当時、豪州軍に保護された、痩せてガリガリになったインド人捕虜たちの姿が映されている写真やフィルムの映像もたくさん所 蔵されています。しかし、問題は、たとえ真実
であったとしても、この例外的とも言える人肉食ケースが、あたかも一般的であったかのようにヒレンブランドが表現していることが問題です。私が豪州軍、米軍の関連報告資料を分析した数多くの「人肉食」ケースで、「生きたまま」のケースは、これ1件で、他には例がありません。
 以上が、私の「人肉食の儀式として生きたまま食われた」という点に関するコメントで、同時にネトウヨの批判に対する応答です。ネトウヨの連中は、実際に映画も観ていないし、私の著書も読まずに、「反日、反日」と騒いでいるわけです。
結局のところ、結論として私が言いたいことは以下のような点です。
 1)日本軍将兵は、とりわけ食糧や医薬品、兵器弾薬も十分与えらないままに熱帯のジャングルという戦場に送り込まれた将兵たちは、飢餓と熱帯病でバタバタと死んでいきました。東部ニューギニア戦線に送られた日本人将兵の数は15万8千人弱でしたが、その94パーセントが亡くなっており、そうした死亡者のほとんどが餓死または病死です。この人たちは文字通り、天皇裕仁と日本政府に棄てられた「棄民」であり、「犬死」させられた人たちです。
2)飢餓で死んでいくことを避けるための極限的な手段として、彼らは、往々にして「人肉食」を行いました。そして、その「人肉食」を部隊で組織的に行うところまで彼らは追い詰められていったのです。私はこれを、「極限状況で強いられた集団狂気的行動」 と表現したいと思います。「集団狂気的行動」に参加できなかった、かろうじて「正気」を保っていた兵は、しばしば「狂気集団」によって抹殺されました。こうした集団のメンバーにとっては、自分たちが「正気」であり、「正気」をなんとか保っていた人たちが「狂気」だという「妄想」に捉われました。これが、戦争が産み出す「狂気」のなんとも恐ろしい、おぞましい実態なのです。「戦争」という問題を考えるとき、私たちは、戦争が産み出すこの厳然たる非情な狂気=現実を直視することを忘れてはなりません。
3)その上でもう一つ忘れてはならないことは、このような「狂気」を産み出した責任は誰にあるのか、という「日本の戦争責任問題」です。奥崎謙三は、1969年の一般参賀で、15メートルという近距離から裕仁に向けてパチンコ玉3発を発射しました。さらにもう1発を、「ヤマザキ、天皇をピストルで撃て!」と叫びながら発射。1発も当たりませんでした。(当時はバルコニーに防弾ガラスが入っていなかったのですが、この事件以降から入れるようになりました。)天皇であれ誰に対してであれ、パチンコ玉を狙い射つことに私は断固反対しますが、奥崎の気持ちは十分理解できます。奥崎の行動は、奥崎と彼の殺された仲間達にとっての「戦争=狂気」を産み出した張本人に対する「狂気的行動」であったと言えるのではないでしょうか。「狂気」に対して本気で立ち向かうことは、往々にして自分が「狂気」に陥らざるをえないという危険性が伴うことを私たちは自覚しておく必要があります。
4)しかし、こうした「狂気」は、戦争期だけに発生するものではありません。実は、戦争で起きる様々なおぞましい事件は、そのほとんどが、平和時の我々の日常 生活のなかに隠れている人間行動現象であって、それが戦争という集団暴力蔓延状況の中で、モロに本質を露呈するわけです。例えば、現在の安倍政権にもその 現象が見られます。明らかに憲法違反である安保法制案=戦争法案を、欺瞞で塗りたくって国会を通過させようとする行動を、安倍自身はもとより閣僚や安倍を とりまく連中は「欺瞞」とすら考えていません。これは、ある種の「狂気」、しかも安倍をとりまくグループの「集団狂気」と称してよいと私は思います。したがって、私たちは、常日頃から、日常生活のなかに隠れている「狂気現象」を、具体的な「狂気行動」にまで発展させないという「民主主義運動」が必要です。 これを許せば、最終的には、私たち自身が戦争という「狂気行動」の極限状況にまで駆りやられてしまうわけです。「人肉食」問題は、「戦争の狂気」を考える 上での、ひじょうに貴重な歴史教材だと私は考えています。日本軍の人肉食については、他にも情報がありますので、参照してください。


[戦争犯罪]田中利幸、『知られざる戦争犯罪 日本軍はオーストラリア人に何をしたか』、大月書店CommentsAdd Starzeroset
連合国のうち欧
米諸国の捕虜に対する虐待・残虐行為としては泰緬鉄道建設のための強制労働、バターン死の行進、九大医学部生体解剖事件など広く知られているものもある一方、関係者以外にはほとんど知られずに終わっているものもある。本書が扱っているのは後者に属する、ボルネオ島サンダカン捕虜収容所に収容されたオーストラリア軍、イギリス軍将兵の体験である。このようなブログを運営していると大抵のことには驚かないようになるのだが、本書で扱われている事例は想像を絶する。1943年9月の時点で約2500名いた捕虜のうち、戦後まで生き延びたのがわずか6名だったというのである。あまりにも生存者が少なく、かつあまりにも過酷な体験であったため、かえって知られることがなかったと言うわけである。上のエントリでとりあげた『現代歴史学と戦争責任』で吉田裕が紹介している(98-9頁)ことであるが、ドイツ軍の捕虜となった英米軍将兵の死亡率が4%であるのに対して、日本軍の捕虜となった両軍捕虜の死亡率は27%にも達しており、この数字はシベリア抑留の犠牲者に関するソ連側の公式発表(死亡率8.4%)をはるかに上回るのははもとより、研究者によるより大きな死亡率推定に匹敵する数字である。ところが、サンダカン収容所の場合には生存率が1%にも満たないわけで、これはもはや捕虜収容所とは呼べまい。「絶滅収容所」ということばが脳裏に浮かぶ。このエントリも後ほど追記。
8日追記書きかけのエントリであるにもかかわらずすでにいくつもブクマしていただいてますが、やはり生存率0.24%というのは衝撃的ですよね。本書では泰緬鉄道建設に従事した連合軍捕虜の生存率が80%であったことが紹介されています。死亡者1万2千という絶対数ではこちらが大きく上回るものの、それとは別種の衝撃を0.24%という数字には感じます。オーストラリアが最後まで天皇の戦犯としての訴追にこだわったのも納得というものです(もっとも、各国が行なったB級戦犯裁判を比較するとオーストラリアの判決は意外に寛容で、死刑判決のうちの半数以上が上位機関の審査で減刑されているのですが…)。
さて、本書の第1章、第2章が上で紹介したサンダカン捕虜収容所事件を扱っており、第3章では豪州軍従軍看護婦虐殺事件、慰安婦強要(未遂)事件など戦場における性暴力が、第4章では人肉食事件が扱われている。ところで、本書の特徴として、これらの事例をその「特殊性」と「普遍性」の両方からながめること、言い換えれば特殊性から普遍性を導き出す作業の重要性が強調されていること、をあげることが出来る。一つには、旧日本軍の戦争犯罪に対する告発が「日本特殊論」に回収されてしまうことへの危惧がある*1。もう一つ、「特殊性」からきちんと「普遍性」を導出する作業をしておかねば、旧日本軍免罪のための相対化論、「似非普遍論」に対抗できない、というのである。これは非常に重要な視点であろう。本書は現在新品では入手不可能なようで、Amazonの「マーケットプレイス」ではなんと9,450円という価格がついているので、少々詳しく内容を紹介したい。本書によれば、サンダカン収容所の、あるいはボルネオ島の各収容所における捕虜の扱いは、当初はかなり人道的だったようである。労働に対して賃金が支払われ、売店の運営も許され、監視も緩やかだったという。これには、当時まだ日本にとって戦況が逼迫していなかったこととともに、ボルネオ捕虜収容所の最高責任者、菅辰次大佐(敗戦後自殺)のパーソナリティーが影響しているようである。事態が大きく変わった直接のきっかけは、捕虜の逃亡事件、および現地協力者と連絡をとり連合軍の上陸時に呼応して反乱を起こす計画が露見したこと(サンダカン事件)であった。そのような出来事があれば捕虜への監視が厳しくなることは当然といえようが、日本と連合国との間での捕虜観の違いが事態をより悪化させた。日本軍は軍用飛行場の建設に捕虜を従事させるなど、当初からジュネーヴ条約に違反する収容所運営をしていたわけだが、逃亡を試みるのを捕虜の義務とするオーストラリア軍将兵の考えを、「生きて虜囚の辱めを受けず」の日本軍が理解できるはずもない。
第二に、サンダカン収容所の監視員が台湾から徴用された軍属だったという点。収容所員の間でも明確に差別されていた(食事の量も違っていたという)監視員たちの鬱積する不満が捕虜に向けて晴らされる、という「虐待の乗数効果」が指摘されている。著者の分析にはないが、日本人軍人からみれば「汚れ仕事」を台湾人軍属に押し付けることができたこともまた、虐待を苛烈なものとする要因になったのではないだろうか。
第三に戦況の悪化。食事の量や医薬品の供与も極端に減らされるようになるが、必ずしも物資が逼迫していたわけではなく、連合国の上陸に備えて出し惜しみしていた、ということのようである。また著者は、ある段階から虐待の露見を恐れて証拠ともども捕虜を抹殺してしまおうという計画が出来上がっていたのではないか、と推理している。興味深いのは、戦況が悪化し不安や無力感を抱く日本軍将兵が、一時的に「自己の敵に対する明確な支配力」を確認するために拷問や虐待を行なったのではないか、という分析。客観的な戦況が悪くなればなるほど、虐待が激しくなる理由としては納得のいくものである。後にオーストラリア軍がヴェトナムで展開した残虐行為についても同様の分析が可能であることが指摘されている。連合軍の反攻に伴い、収容所から島の反対側へと移送されることになった捕虜たちは、飢えや病気のため、また行進から落伍すると銃殺されるなどして次々に死亡していった。この行進がどれほど苛烈であったかは、雨季が終わる前に出発した最初のグループ470名の移送の際には、監視に当たった日本兵の間にも大量の死者が出ていることが示している。結局、ジャングルに逃げ込んで運良く連合国軍に救助された6名だけが生き延びることができた。6名の生存者の1人は、監視員から「捕虜全員処分の計画があるためできるだけ早く逃亡するように」という忠告を受け、逃亡を実行している。このエピソードも、台湾人監視員が置かれていた微妙な立場を物語っていると言えよう。監視員の1人は、「薪採取班」の監視員として、上官の目の届かないところで捕虜と接触を持つことができ、しかも英語がかなり堪能であった。そのため、捕虜にはたっぷりと休憩時間を与え、自費で買い求めた食糧を捕虜に振舞っている。後に捕虜の銃殺に加わったため戦後の戦犯裁判で懲役12年の刑を受けたが、生存者の嘆願により2年に減刑されたという。この監視員のパーソナリティーについてこれ以上知る手がかりはないが、上官を気にせずにコミュニケーションをとれたという事情が大きく関わっているであろうことは確実である。逆に言えば、「上官の命令は絶対」とする日本軍の体質が、生来残虐というわけではない人々に残虐行為を行なわせたことがわかる。
もっとも、程度の差
はあれ、上官への服従が要求されるのはどの軍隊でも同じである(程度の差は時として無視できない問題になるのは当然として)。これに関連して興味深いのは、日本軍が捕虜に対して行なったジュネーヴ条約違反の軍律裁判を、戦後の戦犯裁判が不問に付しているという事実である。それだけでなく、敗戦後に日本軍が捕虜収容所で行なった不当な軍律裁判を容認し、処刑のために銃器まで貸し出しているという。第二次世界大戦後の戦犯裁判は、理念としては「上官命令抗弁」を否定し個人の責任を強く問うたわけだが、連合軍自身もその論理を貫徹することはできなかった、ということである。
第3章のテーマは「女性にとって戦争がもっている「普遍的な本質」とは何かを探る」ことである、とされる。事例としてまずとりあげられるのはインドネシア・バンカ島での豪従軍看護婦虐殺や、慰安婦強要(未遂)事件、および他地域での慰安所であるが、ドイツ軍や連合国軍による性暴力の事例も多く紹介され、「男性支配文化」そのものを問題にする視点が強調されている。上官には支配される立場でありながら敵に対しては支配力を発揮しなければならない、という矛盾した立場に置かれた下級兵士にとって、強姦は敵への支配力を自己確認するうってつけの手段であり、輪姦は仲間に対して自らの支配力を誇示する手段であるがゆえに、戦争において強姦は(どれほど慰安所を設置しようと)避けることができない。と同時に、戦場に現われる女性は「男の組織」に濫入した「いてはならないはずの存在」であるというイデオロギーと、女性が(従軍看護婦として、また戦場となった土地の住民として)兵士の目の前に現われてくることは避けられないという現実との矛盾。この矛盾を解決するために女性を抹殺するという行動が発生するのではないか、と著者は分析している*2。興味深かったのは、41年12月25日に、香港に侵攻した日本軍がイギリス人看護婦を強姦したという報道がほぼリアルタイムで、後に虐殺の犠牲者となる看護婦たちが当時いたシンガポールにも伝わっていた、ということである。第二次世界大戦で、日本やドイツのみならず連合国側にも多大な残虐行為が見られたことについては、ジョン・ダワーが指摘する「人種偏見」という要因を無視することはできない(そして「民族」「人種」を戦争の賭金として宣伝したのが日本とドイツだったことも…)。しかしもう一方で、メディアやプロパガンダ技術の発達というのも重要な要因ではないかと思われる。『戦争における「人殺し」の心理学』においてグロスマンが指摘しているのは、兵士といえども殺人に対しては極めて大きな抵抗を抱いている、という事実である。にもかかわらず、同じ兵士たちが、ためらわずに、時には嬉々として残虐行為に加わるためには敵を「非人間化」することが必要となるが、その「非人間化」には戦時プロパガンダが大きく関わっているからである。自軍兵士が敵軍兵士を殺すことを心理的に容易にするために憎悪を煽ることで残虐行為を生み、それが相手のプロパガンダに利用されて相手側にも残虐行為を生み、それがまた自軍兵士の憎悪をかきたてさらなる残虐行為を生む…というスパイラル。
第4章は人肉食事件に関してオーストラリア軍が記録した数多くの資料を紹介し、(オーストラリア人ウェッブが裁判長をつとめる)東京裁判でなぜこれらが問題にされなかったか? が問われる。地域はニューギニア、犠牲になったのはオーストラリア軍将兵、日本軍が労務者として連れてきていたアジア人捕虜、現地住民、そして日本軍兵士である(もちろん、最も詳しく調査されているのは最初の類型)。資料から著者が結論づけているのは、人肉食が兵士個人の突発的な行動というより、部隊単位での組織的な行動だった、ということである。また、元資料こそ確認されていないものの、豪州軍が捕獲して英文に翻訳された命令書は人肉食がたびたびの注意にもかかわらず蔓延していることを指摘し、人肉(敵のそれは除外する)を人肉として知りつつ食したる者」は死刑にせよ、と命じている(強調は原文では傍点)。しかし著者も指摘するように、やはり責任を負うべきは地理や風土についてのろくな情報もないまま作戦を立て、部隊をジャングルに置き去りにした軍中央であろう。なにしろ東部ニューギニア作戦に投入された日本軍15万以上の敗戦時の生存者はわずか6%にすぎなかった、というのであるから。この問題が東京裁判でとりあげられなかった理由については、犠牲者のプライバシーや近親者への配慮という、ちょっと肩透かしを食らったような印象を受ける分析がなされている。しかしそれ以上に興味深いのは、帰還兵の経験談を通じて日本軍の人肉食という事実だけが伝えられ、その背景にある軍中央の無責任さは知られることがなかったため、日本人に対する偏見を強めてしまったのではないか? という指摘である。もう一つは、日本軍指導者が日本国民に対して犯した犯罪を明らかにする機会が奪われてしまった、という指摘である。特に後者は、日本人が東京裁判をどう受容すべきかという問題にも関わる、重要な論点であろう。なお本題からはややそれるものの興味深かった逸話として、オーストラリア政府が人肉食事件に関する情報公開

を(新兵の士気低下を恐れて)ためらっているのに対して、オーストラリア軍は自軍兵士の士気に自信をもっており、検閲に反対していること。反対するもう一つの理由として、新聞報道ではなく口コミで伝わった場合「多分に誇張される傾向」があることを指摘している。軍としては、敵愾心が亢進しすぎて豪州軍将兵の残虐行為がいっそう悪化してしまうことに懸念を持っていたと解釈することができる。*
1:私がこのブログで「本質主義」批判として述べてきたことと重なりあうところが多いと思われる*2:強姦が「他の動物には見られない、人間だけに見られる特殊な行為」であるとする主張(203頁)はジェンダー論や社会生物学において、あるいはジェンダー論と社会生物学との間で、激しく議論の対象となっている問題である。しかしこの点についても著者が戦争犯罪に対してとっている立場、すなわち「特殊性」と「普遍性」の二つの視点を意識しておくことが重要であると思われる。「人間以外の動物におけるレイプ」といったメタファーの有効性は厳しく吟味されねばならないが、他方で安易な「人間特殊論」に陥ってしまうと生物学から学べるものも学べなくなってしまう。
私が調べた人肉喰いに関するルポ:大岡昇平氏などの著作から:

Registre des prisonniers de guerre:Furyoki est une série de romans publiés par Shohei Ooka , publié par Sogensha en 1948.
「俘虜記」から:
・・・私の上官である。私が彼等を見て駆け寄ると、黒川という軍曹は横を向いて「大岡、この戦争は負けだな」といった(「俺が俘虜になるくらいだから」という意味らしい)(中略)・・・太平洋の敗兵が誰でも経験した所謂木の実を喰べ、草の根をかじっての難行軍で、幾度か食物を求めて海岸地方に出ては、比島人に追われて山中に逃げ込み、遂にカバラン背後の山中にかかった頃(無論地図も磁石も持たない一行はどの辺か知らなかった)、黒川軍曹が、今度比島人を見つけ次第殺して食おう、といい出した。最初冗談かと思って聞き流していたが、しつこく繰り返すので、顔を見ると眼の色が変わっているのでぞっとした。と亘はいっている・・・(中略)、この人肉喰いの提唱の事実を知って以来、私は彼を見るのがいやになった。人肉喰いは人類創造以来、人肉と共に人間の精気を摂取するという信仰に基づく未開人のカー二バリズムから(現代の日本でも田舎で焼場の設備がなく、村人が墓場に蒔を積んで死体を焼く場合、焼け残りの肉を万病の薬と称して食べるところがある)漂流船上における最後の必要から来るそれに到るまで、幾多の要する飽食した我々には、何もいう権利のない実例を現している。
しかし私が黒川軍曹に嫌悪を感じたのは、他に冗談だと思う者がいたほど切迫していなかった事態において、彼だけがそれをいい出したことにある。メデュース号の筏上の悲劇は非難し得ないが、俘虜の肉を会食した日本の将校は非難されねばならぬ。単に俘虜取扱に関する国際協定に反するばかりでなく、贅沢から人肉を食うという行為が非人間的だからである。それは彼等が陣中美食の習慣と陰惨な対敵意識に発した狂行である。
同様にわが黒川軍曹が同じ条件の下に飢えていた部下より先に、比島人を食うという観念を得たのは、明らかに彼が日華事変中に得た「手段を選ばず」流の暴兵の論理と、占領地の人民を人間と思わない圧政者の習慣の結束であった」(『俘虜記』大岡昇平、1952年・中公文庫、pp193-194)


« Leyte Senki » est une œuvre littéraire de guerre écrite par Shohei Ooka . Qualifiée de "Tennozan" de la guerre du Pacifique, la bataille meurtrière de morts (contre 15 000 victimes américaines), estsoldats japonais sontl'île de Leyte Il a été sérialisé dans le magazine " Chuokoron " de 1967 à 1969. En 1971, les trois volumes ont été publiés par Chuokoronsha . Cette œuvre a remporté le Mainichi Art Award en 1972.
「レイテ戦記」から
・・・レイテ戦末期で最も怖ろしい人肉喰いのうわさが発生するのは、この辺からである。米軍やフィリピン人には殆ど会わないのだから、日本人同士喰い合うほかはない。徒党を組んで輜重兵の負荷をうかがう追剥ぎが、ブラウエン作戦の段階から出ていたが、作戦終了と共にそんな獲物もなくなった。
その時孤立した兵士を殺し、人間自体を喰ったと信じられている(中略)・・・多くの者が「あぶない」と思わせる人相の悪い兵士の一団に会った記憶を持っている。必ず二、三人連れ立って歩き、行き会った時は「こっちにはまだ力があるぞ」ということを示すために、「おう」と声をかけてすれ違ったという。夜の一人歩きは絶対に禁物であった。同じようなことがルソン、ミンダナオ島でも語られている。
ある十六師団の兵士が同年兵にめぐり会った。ほかの中隊の下士官がいっしょだった。猿の肉と称する干し肉をすすめられたが、気味が悪くやめた。その夜同年兵から秘密を打ち明けられた。下士官を殺して食糧を作り、米軍の陣地を捜して投降しようと誘われたが、気味が悪くなって逃げ出した。
これは筆者が「野火」という小説にした挿話である。この十六師団の兵士は生還している。しかしこの場合も彼の行為はすべて「未遂」であり、実際に行われたことについては伝聞しかない。
しかし終戦間際のルソン島北部の山中では、中隊単位で報復的に喰い合った話が伝えられる。「指がついた」人間の腕をかじる病兵を目撃した兵士の証言がある。フィリピンの女の解体された死体を見たという。しかしこの微妙な問題については、また後で触れなければならない(『レイテ戦記』大岡昇平、1974年・中公文庫、「下」巻、pp209-210)。
・・・人肉喰いの話はこの地区にも伝わっている。三月上旬渡航した軍通信隊の村川中尉もそのうわさを聞いていた。みな伝聞によることは、脊梁山脈中と同じである。兵隊は腹が減ると大抵食い物の話ばかりするものである。人肉喰いは中でも最も刺激的な話題なので好んで語られるのである。
ビリヤバの町のフィリピン人の間に、カンギポット北方の谷間にあった若い兵士の死体に、臀と股の肉がなかったという記憶が残っている。この時期に捉えられた兵士が、黒焦げの人間の腕を持っていた。といううわさがパロの俘虜収容所で語られた。これも伝聞であるが、ルソン島北部の生還者には、解体されたフィリピン人の女の死体を目撃している者がいる。ミンダナオ島で臀肉のない将校の死体が目撃され、報復と信じられている。しかし餓兵のすべてが、この種の行為に出たわけではない。道徳的制約を越えるについては個人差があって、同じ状況にあっても、人肉喰いをする者と、しない者がいるのである。喰った者の顔には、なんともいえない不気味な艶があってすぐわかったといわれる。しかしこれは人肉という神秘的な食物を摂ったために現れる特殊な現象ではない。含水化物ばかり摂取していた人間が、不意に蛋白質を摂るから皮膚に艶が出るのである。人肉喰いは太平洋戦争でわれわれが残した最も忌むべき行為の一つである。ニューギニアの敗兵は原住民から怖れられた。レイテ島においても警戒されたので、それもこの地区から生き残った者の少ない理由に入るかもしれない(「下」巻、pp285-286)
中国戦線での犯行:
*中国戦線での人肉喰いについて、もう一つ撫順戦犯管理所での元戦犯の証言も添えました(『戦争と罪責』野田正彰、1998年、岩波書店)。
「私は二日前から一八歳ぐらいの中国の娘を連行させていた。自分の慰みものにしていたのだが、いずれは何とか処置しなければならぬことは分っていた。このまま殺してはつまらない。私は一つ考えを思いつき、それを実行した。私は娘を裸にして強姦し、その後、包丁で刺し殺し、手早く肉を全部切りとった。それを動物の肉のように見せかけて盛り上げ、指揮班を通じて全員に配給したのである。兵隊たちは人間の肉とも知らずに、久しぶりの肉の配給を喜び、携行していた油で各小隊ごとに、揚げたり焼いたりして食べた」(『戦争と罪責』野田正彰、1998年、岩波書店、p112)。
*第十三章:「良識」に出てくる元軍曹の証言です。彼は一人残虐行為にも強姦にも加わらず、中国戦線からフィリピン(ルソン島のバターン半島、コレヒドール(マニラ湾口に浮かぶ小島)攻略そしてネグロス島と転戦し、1945年南部仏印進駐後のベトナムでもフランス人俘虜に暴力の代わりに「たばこ」や「食糧」を与えてどこでも喜ばれた。まさに「良識」を失わなかった少ない兵士でした。敗戦となりべトミンに釈放され帰国した兵士で「戦犯」ではありませんでした(ちなみに「軍人恩給」を死ぬまで拒否し、公安を筆頭に大新聞、官民一体の嫌がらせにも屈せず2010年、逝去しました)。それでも1度、ネグロスで上官の命令に逆らえずフィリピン人の俘虜を一人射殺し、ビサヤ語で彼が「死にたくない」といった言葉が生涯耳から離れなかったと「戦争犯罪」を背負って生涯をまっとうした人でした。
私の一年先輩の一等兵が寝床をつくろうと思って、麦がらを探しに、ある中国人の家に行きました。家の入口に麦がらが積んである。これはいいと思って、そのまま抱えて持ってこようとすると、中に重いものがある。何だろうと中をみてみると、六十年輩の女の人が殺されていたというんです。初めは単純に婦女子に対する暴行か、と思ったんですが、見たら、頭がパカンとはぐれている。中がない。その兵はびっくりして、そのまま埋け込んできた。付近にサツマイモ畑があり、私たちは芋を焼いては食べておりました。先ほどの先輩が芋を食べようと灰の中をほったところ何か紙にくるんだ物がでてきて、破れたところからなんか息のたつようなものがみえる。それをみた、火の近くに寝そべっていたひとりの兵隊が起きあがって、ものすごい権幕でその人をどなりつけた。「なにするんだ。それは俺のだ」と。後日わかったんですけども、梅毒にかかった兵隊が、地方にはそんな言い伝えがあるんでしょうか。脳みそを焼いて食えば治るという迷信をあてにして、中国農民を殺して、そういうことをしていたのです」(pp、285-285)。
終わりに:
「事実」「史実」に反する’憶測’や’願望’でものをいってる「ネトウヨ」の類は、本当の対決。つまり「1対1」。「朝まで生テレビ」だとかの大人数でやるのはだめ(しょせん「視聴率」つまり’営利業’が先にたってる見世物)。代表者同士が「1対1」で事実をもとに徹底的に問題を議論する。そうすれば彼らは必ず敗北する(本多記者言との混合)Sammy でしたPeace☆平和(^_-☆2016年9月


The Chichijima incident (父島事件=also known as the Ogasawara incident=同じく小笠原事件としても知られる) occurred in late 1944(1944年末に発生), when Japanese soldiers killed and consumed five American airmen on Chichi Jima, in the Bonin Islands(日本軍兵士たちが小笠原諸島の父島において、5人のアメリカ軍兵士を殺害及び食した).Incident(事件) Nine airmen escaped from their planes after being shot down during bombing raids on Chichi Jima(父島空襲中に撃墜された飛行機から9人が逃れた), a tiny island 700 miles (1,100 km) south of Tokyo, in September 1944(1944年9月、東京から南に1100キロ離れた小島). Eight were captured(8人がつかまった). The ninth(9人目), the only one to evade capture(ひとりだけ補足から逃れた), was future US President George H. W. Bush, then a 20-year-old pilot(20歳の操縦手は未来のアメリカ大統領ジョージ・ブッシュだった).[1]After the war(戦後), it was discovered that the captured airmen had been beaten and tortured before being executed(捕虜となった兵士たちは処刑される前に、殴打さらに拷問されたことが発見された). The airmen were beheaded on the orders of Lt Gen. Yoshio Tachibana (立花芳夫中将の命令によって、飛行士たちは斬首された). American authorities claimed that Japanese officers then ate parts of the bodies of four of the men(アメリカ当局は、日本将兵はそれから4人の遺体の一部を食したと主張). Trials(裁判(法廷) Tachibana(立花), alongside 11 other Japanese personnel(他11人の日本人), was tried in August 1946 in relation to the execution of U.S. Navy airmen, and the cannibalism of at least one of them, during August 1944(1946年8月に1944年8月、アメリカ海軍兵士を処刑し、最低でもその中の1人を食らったことにより裁かれた). Because military and international law did not specifically deal with cannibalism(なぜなら軍及び国際法は人肉喰いについて明確に規定していなかった), they were tried for murder and "prevention of honorable burial"(彼等は殺人と”名誉埋葬の防止?”により裁かれた). This case was investigated in 1947 in a war crimes trial(この事件は1947年の戦争犯罪裁判で調査された), and(加えて) of 30 Japanese soldiers prosecuted(30人の日本人兵士が告発され), five (5人=Maj. Matoba(的場少佐), Gen. Tachibana(立花大将), Adm. Mori(森海軍大将), Capt. Yoshii(吉井大尉), and(そして) Dr. Teraki(寺木医師) were found guilty(が有罪判決).[2] Tachibana was sentenced to death, and hanged(立花に死刑判決。絞首刑にされた).[3]

小笠原事件(おがさわらじけん)は、1945年(昭和20年)に小笠原諸島父島において日本の陸海軍高級幹部が、アメリカ軍航空部隊の搭乗員である捕虜8名を処刑し、そのうち5名の人肉を嗜食したとされる事件[1]。父島事件とも[2]。事件 1945年2月、まずは末吉実郎海軍大尉が、独立歩兵第308大隊長の的場陸軍少佐を経由して入手した捕虜を、海軍において処刑し、独歩308大隊において、その遺体を大隊附軍医に解剖させて、摘出した肝臓等を嗜食したという。同月、新しく捕虜となった2名の内、1名は陸軍にて立花旅団長の旅団命令によって処刑・嗜食したとされ、もう1名は海軍にて処刑され、父島方面特別根拠地隊通信隊司令吉井静雄海軍大佐らが特根通信隊において肝臓等を嗜食したという。また、23日には1名を立花陸軍少将の依頼により海軍において処刑・嗜食したとされる。後の証言によれば、立花は米兵の手足の肉や内臓を食べると、「これは美味い。お代わりだ!」と喜んだという。第109師団参謀として司令部のある硫黄島から父島に派遣されていた堀江芳孝陸軍少佐は、立花らの素行にかねてから不安を感じており、捕虜の将校を自分の英語教師として身近に置くことで守っていたが、3月26日、外出後に戻るとすでに処刑され森海軍少将・的場陸軍少佐らによって喰われた後であったとされる。的場陸軍少佐の部下の供述調書によると、犠牲者の一人であるウォーレン・アール・ボーン(Warren Earl Vaughn)中尉の処刑・嗜食時に的場は以下のような命令を発したという。 一、大隊は米人飛行家ボーン中尉の肉を食したし 二、冠中尉は此の肉の配給を取り計らうべし 三、坂部軍医は処刑に立会い、肝臓、胆嚢を取り除くべし昭和20年3月9日 午前9時 大隊長 陸軍少佐的場末勇発令方法…冠中尉並に坂部を面前に呼び口頭命令、報告は立花旅団長へ、通告は堀江参謀へ 戦後 日本の敗戦後、9月2日に父島に上陸した米軍は捕虜の行方の調査を行い、的場大隊および関係者を拘束して事情聴取し、1946年2月に立花陸軍中将・的場陸軍少佐・森海軍中将・吉井海軍大佐、また酒宴に参加するなどしたとされる27名(29名説あり)をBC級戦犯としてグアム軍事法廷にて起訴した。なお米軍は「人肉嗜食」ではなくあくまで「捕虜殺害」「死体損壊」として審理を行っている。その結果、立花・的場・吉井ら5名が死刑、森(別途、蘭印作戦後第23特別根拠地隊司令官当時の捕虜虐待事件によりオランダ軍による裁判で死刑)ら5名が終身刑、15名が有期刑となった。立花らは処刑されるまでの間、米兵たちの憎悪の対象となり激しく虐待され続けた。

Cannibalism(人肉食) Many written reports(たくさんが報告(記録)を書き) and(及び) testimonies collected by the Australian War Crimes Section of the Tokyo tribunal(東京裁判での豪州戦争犯罪部局によって収集された証言), and (加えて)investigated by prosecutor William Webb (ウイリアム・ウェッブ検察官による調査(分析)the future Judge-in-Chief(未来の裁判長), indicate that Japanese personnel in many parts of Asia and the Pacific committed acts of cannibalism against Allied prisoners of war(は多数のアジア及び太平洋において日本兵士は連合軍捕虜に対して人肉食を行ったと指摘(示唆). In many cases this was inspired by ever-increasing Allied attacks on Japanese supply lines(多数の事件は、激しさを増す日本軍の補給兵站線に対する連合軍の攻勢に鼓舞), and the death(加えて死亡) and illness of Japanese personnel as a result of hunger(さらに飢餓による日本兵の病気). According to historian Yuki Tanaka(歴史家田中利幸氏によると): "cannibalism was often a systematic activity conducted by whole squads(”人肉食はしばしば部隊全体による組織的に行われた活動だった) and(加えて) under the command of officers(将校による司令の下”)".[133] This frequently involved murder for the purpose of securing bodies(まま殺人は肉体を保存する目的). For example(例えば), an Indian POW(インド人戦争捕虜), Havildar Changdi Ram, testified tha(ラム氏は証言→)t: "[on November 12, 1944(1944月11月12日)] the Kempeitai beheaded [an Allied] pilot(憲兵隊が連合軍操縦士を斬首した). I saw this from behind a tree(木陰から見た) and watched some of the Japanese cut flesh from his arms, legs, hips, buttocks and carry it off to their quarters ... They cut it(さらに一部の日本兵は腕、脚(足)、臀部(尻)から人肉を切り取り。4分の1を切った)[into] small pieces and fried it(小さな破片にして揚げた”)."[134] In some cases(幾つかの場合は), flesh was cut from living people(生きた人間から人肉は切り取られた(生体食): another Indian POW(もうひとりのインド兵捕虜), Lance Naik Hatam Ali (アリ氏=later a citizen of Pakistan(後にパキスタン国民), testified in New Guinea and stated(ニューギニアで証言し語った→):... the Japanese started selecting prisoners and every day one prisoner was taken out and killed and eaten by the soldiers(日本軍は捕虜を選び始めた。毎日1人が連れ出され殺害。兵隊に食べられた). I personally saw this happen and about 100 prisoners were eaten at this place by the Japanese(私は個人的に目撃。そしてここでは、約100人が日本人に食われた). The remainder of us were taken to another spot 50 miles [80 km] away(残ったアメリカ軍兵士は80キロ遠方に連れて行かれ) where 10 prisoners died of sickness(10人が病死). At this place(この場所), the Japanese again started selecting prisoners to eat(では日本軍は再び捕虜を選び食した). Those selected were taken to a hut where their flesh was cut from their (これら選ばれたものは彼らの肉が切り取られる粗末な小屋に連れ去られた)bodies while they were alive(その間、彼等は生きていた) and they were thrown into a ditch where they later died(後に死ぬ溝に投げこまれた).[135]According to another account by Jemadar Abdul Latif of 4/9 Jat Regiment of the Indian Army (もうひとりインド軍4/9連隊のアブドル氏によると)who was rescued by the Australian army at the Sepik Bay in 1945(1945年にセピク湾から豪州軍により救助された): "At the village of Suaid(”?村では), a Japanese medical officer periodically visited the Indian compound and selected each time the healthiest men(日本の軍医将校が定期的にインド人工場(住宅)?を訪れ、一番健康なものを選んだ). These men were taken away ostensibly for carrying out duties, but they never reappeared(これらの男たちが連れ去られると表面的に任務遂行。しかし彼等は2度と現れなかった”),"[136] Perhaps the most senior officer convicted of cannibalism was Lt Gen. Yoshio Tachibana (たぶん人肉食いにより告発された最年長の将官は、立花芳夫中将だった,Tachibana Yoshio), who with 11 other Japanese personnel was tried in August 1946 (1946年に裁かれたほかの11人)in relation to the execution of U.S. Navy airmen, and the cannibalism of at least one of them, during August 1944, on Chichi Jima(1944年の小笠原諸島の父島において、アメリカ海軍兵士最低1人を食った関連), in the Bonin Islands

第二次的資料→1、『メデューズ号の筏』(メデューズごうのいかだ、フランス語: Le Radeau de la Méduse)は1818年〜1819年、フランスロマン主義派の画家・版画家テオドール・ジェリコーによる油彩画で、フランスパリのルーブル美術館に所蔵されている。ジェリコーが27歳の時の作品であり、フランス・ロマン主義の象徴となった。本作は、大きさ 491 cm × 716 cm [1]、実物大の絵画で、フランス海軍のフリゲート艦メデューズ号が難破した際に起きた事件を表している。メデューズ号は、1816年7月5日、今日のモーリタニア沖で座礁した。少なくとも147人の人々が、急ごしらえの筏で漂流しなければならなかった。そのほとんどが救出までの13日間で死亡し、生き残った15人も、飢餓、脱水、食人、狂気にさらされることになった。事件は国際的スキャンダルとなり、フランス復古王政の当局指揮下にあったフランス軍指揮官の、無能が遠因になったとされた+フランス語→Le Radeau de La Méduse est une peinture à l'huile sur toile, réalisée entre 1818 et 1819 par le peintre et lithographe romantique français Théodore Géricault (1791-1824). Son titre initial, donné par Géricault lors de sa première présentation, est Scène d'un naufrage. Ce tableau, de très grande dimension (491 cm de hauteur et 716 cm de largeur), représente un épisode tragique de l'histoire de la marine française : le naufrage de la frégate Méduse, qui s'échoue sur un banc de sable au large des côtes de l'actuelle Mauritanie, le 2 juillet 1816. Au moins 147 personnes se maintiennent à la surface de l'eau sur un radeau de fortune et seuls quinze embarquent le 17 juillet à bord de L’Argus, un bateau venu les secourir. Cinq personnes meurent peu après leur arrivée à Saint-Louis du Sénégal, après avoir enduré la faim, la déshydratation, la folie et même le cannibalisme. L’événement devient un scandale d'ampleur internationale, en partie car un capitaine français servant la monarchie restaurée depuis peu est jugé responsable du désastre, en raison de son incompétence.

①ひかりごけ事件(ひかりごけじけん)は、1944年5月に、現在の北海道目梨郡羅臼町で発覚した死体損壊事件。日本陸軍の徴用船が難破し、真冬の知床岬に食料もない極限状態に置かれた船長が、仲間の船員の遺体を食べて生き延びたという事件である。食人が公に明らかになった事件は歴史上たびたびみられるが、この事件はそれにより刑を科せられた初めての事件とされている。一般には「唯一裁判で裁かれた食人事件」といわれるが、日本の刑法には食人に関する規定がないため、釧路地裁にて死体損壊事件として処理された。名称は、この事件を題材とした武田泰淳の小説『ひかりごけ』に由来する。なお、武田は食人を行った船長と接触したことはなく、小説は本事件をモチーフとした作品である②" Hikarigoke " is a short story by Taijun Takeda . It was published in the magazine " Shincho " in March 1954 (Showa 29) , and was recorded in "Beauty Believers" in July of the same year [1] . A lese drama based on an actual cannibal incident ( Hikarigoke Incident ) .

The Hikari Goke Jikenひかりごけ事件 is a corpse damage incident discovered in Rausu-cho , Menashi-gun , Hokkaido in May 1944 . The Japanese Army 's recruitment ship was wrecked, and the captain, who was in crisis at Cape Shiretoko in the middle of winter, survived by using the sailor's body as food.  
In history, cannibalism has occurred many times, but it is said to be "the first case of being sentenced by a cannibal." Since there is no provision regarding cannibalism in the Japanese criminal law , it was treated as a corpse damage case by the Kushiro District Court .  The name is derived from Taijun Takeda 's novel " Hikari Goke ", which is based on this matter [Note 1] .












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