日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

《Véspera de Natal/Jesuo Kristo/Рождество Христово/Kristnasko》2018/12(CANADA)【한국의 권투 선수 목록】Boks, pięściarstwo《기미가요君が代Kimigayo》Akihito (n. 1933) esas nuna imperiestro di Japonia『朕はタラフク食ってるぞJe mange beaucoup』≪Insignia Imperatoris≫




(1)、1992年3月15日 WBA世界バンタム級タイトルマッチ 王者イスラエル・コントレラス(ベネズエラ+36勝(30KO)2敗1分→38勝(32KO)3敗1分)VS挑戦者エディ・クック(元アマ王者+16勝(14KO)1敗→19勝(16KO)3敗) ネバタ州ラスベガス
ーサウスポー「クックの豪打が爆発」(ボクシングマガジン)5回KOで新王者に就く。一発の破壊力なら負けないコントレラスをロープに詰めて、一気に連打でしとめた快勝(セコンドのバークレーやアマ時代の同僚アル・コール、ビンス・フィリップスなどなどがリングに上がり、歓喜の声をあげていた)。クックの試合をはじめてみたのはモントリオール。当時デビュー以来12連続KO勝ち中だった。倒せなかったけど(初の判定勝利)、とにかく沈着冷静。下がりながらも、まとまったスタイルから着実にパンチを打ち込んでいた(特に威力満点のボディーブローが印象的だった)。伏兵に1敗(TKO負け)を喫し、頓挫しながらも見事な戴冠ぶり(コントレラスはエスピノサをダウン応酬の末、5回KOで破って就いた王座の初防衛に失敗)。
(2)、1992年10月9日 WBA世界バンタム級タイトルマッチ 王者エディ・クック(17勝(15KO)1敗)VS挑戦者ホルへ・エリエセール・フリオ(ソウル五輪コロンビア代表銅メダル+23連勝(22KO)無敗→44勝(32KO)5敗)コロンビア
ーフリオが判定でクックを破りタイトル奪取。12回を通じて壮絶な流血打撃戦(両者とも試合後、病院行きになった激闘)。内容は競っており、同時に両者とも元トップアマ選手らしい高度な技術が駆使された名勝負である。フリオはソウル五輪準々決勝で日本代表サウスポーの松島勝之(バンタム級・世界選手権(89年モスクワ大会及び91年シドニー大会)代表。従兄弟はバルセロナ五輪代表長島浩(サウスポー(ライト・ミドル級)同じく世界選手権(89年モスクワ大会及び91年シドニー大会)代表+ソウル五輪国内予選決勝で高橋良秋に敗れた)。弟二郎(「かなりの大御所」氏開催「ボクシング予備校(素人ボクシング)」で後の世界王者飯田覚士(プロで雪辱)に勝った)は(元日本バンタム級王者)プロ選手)を破った。
①Katsuyuki Matsushima松島 勝之 (born 11 October 1966) is a Japanese boxer. He competed in the men's bantamweight event at the 1988 Summer Olympics②Hiroshi Nagashima (長島 浩, Nagashima Hiroshi) (born March 15, 1966 in Kanagawa) is a retired boxer from Japan, who competed for his native country at the 1992 Summer Olympics in Barcelona, Spain③Jiro Matsushima松島 二郎 (February 24 , 1971- ) is a former Japanese professional boxer
(3)、1993年10月23日 WBA世界バンタム級タイトルマッチ 王者ホルへ・エリエセール・フリオ(26連勝(22KO)無敗)VS挑戦者ジュニア・ジョーンズ(30連勝(23KO)無敗→50勝(28KO)6敗)ニュージャージー州アトランティックシティー
ー無敗対決。ダウン応酬の末、ジョーンズがフリオを判定で下し新王者に戴冠。ジョーンズは最終回に再びダウンを奪い、熾烈な戦いに決着をつけた。しかし、接戦であったのを物語るように笑顔はなく、疲労困憊していたといえる。

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2018年12月23日(暗い日曜日?)Dimanche(Sunday)
みなさん、おはようございます☆ クリスマス「4連休」の2日目・・・昨日は無性に疲れて早々と寝てしまったので。真夜中に起きてしまいました。物音ひとつしない静寂。毎年おんなじ(今年は雪がない)。けど、夜から少し降るらしい。また「冷蔵庫」は空っぽ。なのでしばらくしたらむなしい買い物に出向くことにします(苦笑)。どんより曇った中途半端な寒さ=ものさびしい朝(涙)。風邪を引いてから疲労も手伝い、精神的に不安定な状態が続いています。「我が国」はどうでしょうか?「歳末」そんなことより「一億総国民」の一大事?→「天皇陛下万歳~!!」「お誕生日」バカ騒ぎどうこう一色なんでしょうね(嘲笑+嘆息)正直、何が「ありがたい」のかわからんし実感としても全くわかない(記事を調べる気
もおきません)。また「海外」からの「電話」はすべて=誉れの?「ご祝辞?」能書きに直結すんのかな?(~__-; ともあれ、また後で付け加えますのでよろしく☆ サム リッチモンド・ヒル 
①プラカード事件は、1946年(昭和21年)5月19日の食糧メーデー(米よこせメーデー、正式には「飯米獲得人民大会」)の際、参加者の一人である日本共産党員の田中精機工業社員・松島松太郎が掲げたL'incident de la pancarte a eu lieu le 19 mai 1946, lorsque Tanaka Seiki Kogyo, membre du Parti communiste japonais, était l'un des participants au Food May Day (Give Me the Rice May Day, officiellement connu sous le nom d'Assemblée du peuple pour la Acquisition de riz et de riz). Employé, Matsutaro Matsushima élevé「ヒロヒト 詔書Hirohito edict曰クaccording to國体はゴジされたぞThe national polity was protected朕はタラフク食ってるぞI'm eating a lotナンジ人民 飢えて死ねNanji(thou) people starve to death ギョメイギョジ(御名御璽Gyomeigyoji)name sealかな?
②ベラルーシ語→Хірахіта (яп.: 裕仁), імператар Сёва (яп. 昭和天皇, Сё:ва Тэнно:), (29 красавіка 1901 — 7 студзеня 1989)③ロシア語→Оскорбление величества (лат. crimen laesae majestatis불경죄(不敬罪)Majestätsbeleidigung, фр. lèse majesté大不敬、冒犯國王罪或冒犯君主罪, французский термин использовался также в англосаксонской традиции, см. французский законный язык) — преступление, заключающееся в неуважительном высказывании по отношению к монарху или к его отдельным действиям

①ラテン語→Akihitus (明仁 23 Decembris 1933–hodie, r. 1989–hodie) . imperator praesens Heisei Iaponicus, filius imperatoris Hirohiti et imperatricis Nagaconis est. Imperatori, uxor imperatrix Mitzico, filium princeps Naruhito, filium Fumihito, filia principissa Sayako sunt. Insignia Imperatoris Infante, titulus erat Tsugu no miya (継宮; Princeps Tsugu). In occupatione Americae post bellum secundum mundis, doctus erat per Elizabeth Gray Viningel in Anglice. Peritus Ichthyologia estシシリー語→Akihito (明仁 Akihito?) (Tochiu, 23 dicèmmiru 1933) eni lu 'mpiraturi dô Giappuni, lu nnummuru 125 dâ storia giappunisa②セルビア語→"Kimi Ga Yo" („1000 година владавине да ти буду срећне”) (јап. 君が代) је национална химна Јапана③アルバニア語→Hinomaru (日の丸 Disku i Zjarrtë) është flamuri i Japonisë. I njohur edhe me emrin Nisshōki (日章旗 "Flamuri i diellit")


1、1984年 ロス五輪バンタム級3回戦
文成吉(世界選手権(86年リノ大会)優勝金メダル・ワールドカップ(85年ソウル大会)優勝金メダル・アジア大会2連覇(219勝(164KO)22敗)WBA(2度防衛(2KO)・WBC(9度防衛(7KO)世界スーパーフライ(J・バンタム級)級王者→20勝(15KO)2敗)VSロバート・シャノン(モスクワ五輪米代表(124勝27敗)⇒18勝(8KO)6敗2分)
ー文がアメリカ代表(優勝候補)サウスポーのシャノンを3回、豪快にノックアウトした。準々決勝で敗退。日本選手は誰も敵わず=プロ→故小林智明(TKO負け)と松村謙二(負傷判定負け)が挑戦し敗れた。

문성길(文成吉, 1963년 7월 20일 - )은 전라남도 영암에서 태어난 대한민국의 전 프로 복싱 선수이다. 1986년 11월 미국 리노에서 열린 제4회 세계복싱선수권대회 밴텀급에서 대한민국 선수로는 처음으로 금메달을 땄다. 별명은 `돌주먹'이었다. 아마추어 권투 국가대표 선발전 당시 허영모와 라이벌 관계로 유명했다. 은퇴 후 공군사관학교 지도자를 역임했다. 서울시 강동구 성내동에 그의 이름을 딴 `문성길 복싱클럽'(관장 조영섭)을 운영중이며, 1998년부터 철판볶음밥 체인점을 운영하고 있다. 2007년 세계 복싱 명예의 전당(WBHF) 후보에 한국 출신 복서로는 처음으로 장정구와 함께 올랐지만, 장정구는 18표, 문성길은 2표를 획득하는 데 그쳐 탈락했다ドイツ語→Moon Sung-kil (* 20. Juli 1963 in Yeongam County, Jeollanam-do, Südkorea) ist ein ehemaliger südkoreanischer Boxer im Bantam- und Superfliegengewicht und Weltmeister der Verbände WBC und WBA sowie Amateurweltmeister
2、1984年 ロス五輪ライト級準決勝
パーネル・ウィテカー(優勝金メダル・世界選手権(82年ミュンヘン大会)銀メダル(201勝13敗)⇒40勝(17KO)4敗1分1NC)VS全七星(銅メダル・ワールドカップ(83年ローマ大会)銀メダル(100勝6敗)⇒18勝(12KO)2敗)
ーサウスポーのウィテカーが勇敢な全に苦戦しながらも、判定勝ち。全はプロ入り後(「ウィテカーも恐れた強打者」(無敗連勝中当時のワールドボクシング、新人紹介欄)晩年の安里義光に4回TKO勝ち)、我?アメリカ「メイン州ポートランド」(市民会館(この間、中に入ったばっかり(笑)=何度となく足を運びました)の敵地に乗り込み。地元出身のガマチェと空位の王座決定戦。前半は優位に試合を進めながらも8回TKO負け(全のラストファイト)。ガマチェはトニー・ロペス(米)に11回KO負けで王座転落。
Chun Chil-sung (Hangul: 전칠성, Hanja: 全七星; born July 7, 1961 in Sinan, Jeollanam-do, South Korea) is a retired South Korean boxer+ポーランド語⇒Chun Chil-sung (ur. 7 lipca 1961) – były południowokoreański bokser kategorii lekkiej, brązowy medalista letnich igrzysk olimpijskich w Los Angeles. 
2018年12月23日(暗い日曜日)
みなさん、こんにちは★ 買い物をすませてきました。小雪がちらついている。ホンマ、静かで平和。休みはたんたんと時間が過ぎてしまう。なあ~んか「ジャップ」「東洋鬼」関連は無情で残酷過ぎる(涙)。「カナダ人」だとはいえ、自分にも同じ「日本鬼子」(無責任+不誠実)の血が流れている宿命は動かせないながら。実に重たく、気が滅入るばかり。↑「アウェーの壁」どころじゃない韓国選手たちの逞しさ力強さに、少しだけど元気を頂けたかもしれません。また後ほど ★謝謝★ ☆一路平安☆ サム カナダ
スペイン語→クリスマス・イヴ=La Nochebuena es la celebración cristiana de la noche en que nació Jesús, la noche del 24 de diciembre,1​ víspera del día de Navidad (25 de diciembre). Aunque las costumbres varían de unos países a otros, es bastante común una reunión familiar para cenar e intercambiarse regalos 
ロシア語→クリスマス・イヴ=Соче́льник (сочевник, укр. Святвечір, польск. Wigilia, чеш. Štědrý den, болг. Бъдни вечер, хорв. Badnjak, Badnji dan, серб. Бадњак, Бадњи дан) — канун (на́вечерие) праздника Рождества Христова. Приходится на 24 декабря (6 января)
2018年12月24日(月) クリスマス・イヴ
みなさん おはようございます。本当に「休み」はあっというまに終わってしまう(4連休も明日が最後)。また水曜日からがんばります☆ うっすらと雪化粧(ボタボタの「みぞれ」ながら)。静寂及び無人・・・ひとっこひとり歩いていない(みんな「家族」や「友人」で集まり或いは「旅行」とかでしょう)。なんとなく冴えない調子は続いていて。↓↑はじめてみてももうひとつ、活力がわきません(涙)。もしかしたら友人から「晩餐会」のお誘いがかかるかもしれず(でも去年とおなじく、丁重にご辞退すると思います)。また後ほど☆ サム メリー・クリスマス

(1)、1983年5月19日 J・ミドル級(現スーパーウェルター級)ノンタイトル10回戦 世界ランカー対決 1位東洋王者白仁鉄(26連勝(26KO)無敗)VSショーン・マニオン(26勝(9KO)5敗1分→42勝(13KO)14敗1分) ニュージャージー州アトランティックシティー
ーマニオンが10回判定勝ち。白の連勝連続KOストップ、初黒星。この試合は往年の関東地区だけ映る「UHF」チャンネル。今だに正体が定かでないボクシング放送番組でみました。懐かしいかぎり(当時はこれも実に貴重だった)。白は迫力ある攻撃で終始前へ出た。しかし、サウスポーのマニオンが手数と有効打では勝っていた展開。
(2)、1985年10月27日 J・ミドル級ノンタイトル10回戦 世界ランカー対決 1位白仁鉄(34勝(34KO)1敗)VSフレッド・ハッチングス(29勝(18KO)2敗⇔31勝(19KO)7敗)韓国釜山
ー白が9回に2度ダウンを奪いハッチングス(ハーンズに挑戦し3回TKO負け)をノックアウト。痛烈なKO劇だった。



(1)、1987年11月21日 WBA世界J・ミドル級王座決定戦 1位白仁鉄(41勝(37KO)1敗)VS2位ジュリアン・ジャクソン(29連勝(27KO)無敗=31勝(29KO)1敗(マッカラムに挑戦し2回TKO負け)→55勝(49KO)6敗) ネバタ州ラスベガス
ージャクソンが3回に白をストップし、新王者に就く。2回に1度倒し。3回、再び痛烈なダウンを奪う圧勝だった。一度延期になりながら、当初の日程で強行された試合。白は減量と調整に失敗し、調子は悪かった。ジャクソンは初回から白の強打を警戒して旋回。サウスポーにスイッチしたりと珍しく、「アウトボクシング」に徹していた。ジャクソンの受身スタイルは後にも先にもこの一戦だけだった気がする。試合後ジャクソンは意外にも「きつい試合だった」と語っていた。アメリカにいました。けどメイン州には「放送」なし(ニュースで結果を知った)。この頃は白(アジア最強)があまりに強すぎたので「アンチ」だった。一方、ジャクソンは贔屓だったので、結果に大喜びしたのを覚えている。
백인철(白仁鉄) 1961년 12월 20일 ~ )은 대한민국 전라남도 고흥군 출신의 프로 권투 선수로 전 세계복싱협회(WBA) 슈퍼미들급 세계챔피언이었다. 데뷔 이후 첫 패배할 때까지 모두 KO승으로 이겼다. (26전 26승 26KO). 이는 아시아, 오세아니아 기록이다. 프로 통산 전적 50전47승(43KO)3패.
(2)、1990年3月30日 WBA世界スーパー・ミドル級タイトルマッチ 王者白仁鉄(47勝(43KO)2敗)VS挑戦者クリストファー・ティオーゾ(仏+ロス五輪フランス代表銅メダル(85勝6敗)⇒25連勝(17KO)無敗→33勝(23KO)2敗) フランス
ーティオーゾが6回に白をストップ(白のラストファイト)。初回からティオーゾの長くて速いジャブが白の突進を完封。次弟のファブリスは元WBA・WBC世界L・ヘビー級王者。末弟フランクはヘビー級の元世界ランカー。

ドイツ語→Baek In-chul (* 20. Dezember 1961 in Seoul, Südkorea) ist ein ehemaliger Boxer imSupermittelgewicht und Weltmeister des Verbandes WBA.+ロシア語→Пэк Ин Чхоль (кор. 백인철; род. 20 декабря 1961, Чхонан) — южнокорейский боксёр, представитель средних весовых категорий. 
PS:「鍼療法」についてー「体験史」
私がはじめて受けたのは「群発頭痛」の周期中、93年モントリオール。中国人(大陸出身=母語は北京語+英仏、広東語にも堪能)のお医者さん(西洋医学の医師免許も所持)からでした(患者さんはほとんど「仏系」白人ばっかり)。むろん「東洋医学」「鍼療法」が中心ながら、「薬」も処方(to prescribe=prescription)できるし「診断」(to diagnose=diagnosis)もゆるされる(正規の医師)。むかし千葉大で勤務していたらしく「日本語」も話せた。残念ながら鎮痛剤「カフェルゴット」を処方してもらうばかりで。肝心の「鍼療法」(さまざまな方法、電気を用いたり針を変えたりとがんばってくれました)は効果がなかった(合計30回は通った)。最終的には病院の急患に赴く羽目に陥った。また思い出したら付け加えます。
①カフェイン/エルゴタミン配合剤(カフェインエルゴタミンはいごうざい、英: Caffeine/ergotamine、製品名:カフェルゴット〔英: Cafergot〕)Кофетаминは、酒石酸エルゴタミンとカフェインからなる合剤[1]。この組み合せは血管性頭痛、 片頭痛 などの治療に用いられる(欧米は座薬suppositoryもある=錠剤は(量にもよりますが)胃に負担がかかり、副作用もきついTablets (depending on the amount) put a strain on the stomach and have severe side effects)頭痛の治療にも用いられるし、頭痛の増悪を防止する。進行の終えた完成した頭痛では効果は薄い。この薬は頭痛の予兆がみられた時点で投与する(血管を収縮させるいわゆる「予防薬」ですので、’兆候’がみられた時点ですぐに飲まないと無効ですIt is a so-called "preventive medicine" that constricts blood vessels, so it is ineffective if you do not take it as soon as you see the "signs".)②スマトリプタン(英語・ドイツ語:Sumatriptan、商品名はイミトレックスImitrex、イミグラン、イミグラン・リカバリーImigran Recovery)Суматриптанは、スルホンアミド基を含むトリプタン製剤であり、片頭痛・群発頭痛の治療に用いられる(欧米は注射injectionもある)。


(1)、1981年11月7日 ミドル級ノンタイトル10回戦 世界ランカー対決 フリー・オベル(フルヘンシオ・オベルメヒアス=30連勝(28KO)無敗→34勝(30KO)1敗→52勝(41KO)5敗)VS東洋王者朴鐘ハ(22勝(21KO)1敗1分→46勝(39KO)5敗1分) ベネズエラ首都カラカス
ーオベル(ハグラーに2度挑戦(1,8回TKO負け2,5回KO負け))が東洋無敵の朴を相手にせず、一方的な8回KOで快勝(朴は東洋タイトル決定戦(引退した柳済斗が返上)で元王者サウスポーのカシアス・内藤に2回KO勝ち(無敗の新鋭羅慶民に7回KO負けし(12連勝(11KO)「東洋でハグラー打倒を口にできるのはこの男だけだ」という特集記事がなつかしい)一度は王座を失うが再戦では4回KO勝ちで奪回)15度の防衛に成功した)。また約7年後、オベルはWBA世界スーパーミドル級王者となった朴(IBF王座を8度防衛)に挑戦。2度ダウンを与え、判定で王座を奪取した(朴は雪辱ならず+そしてこのタイトルを、オベルから11回KOで奪ったのが↑の白だった)。朴とオベルメヒアスは実力差もさることながら、相性が悪かったと思う。なお、白は朴とのノンタイトル戦でも7回TKO勝ちした。
박종팔(朴鍾八, 1958년 8월 11일~)은 대한민국의 권투 선수이다. 슈퍼 미들급 챔피언이었다. 본관은 무안이고, 전남 무안군 출신이다ロシア語→Пак Чон Пхаль (кор. 박종팔; род. 11 августа 1958, Муан) — южнокорейский боксёр, представитель средних весовых категорий. Выступал на профессиональном уровне в период 1977—1988 годов, владел титулами чемпиона мира по версиям IBF и WBA.
(2)、1988年5月7日 WBA世界J・ウェルター(スーパーライト)級タイトルマッチ 王者ファン・マルチン・コッジ(アルゼンチン+33勝(21KO)1敗2分→75勝(44KO)5敗2分)VS挑戦者東洋王者李相鎬(31連勝(26KO)無敗→47勝(39KO)1敗)イタリア
ーサウスポー’ラティゴ’(鞭)の異名を持つコッジ(イタリア系移民)が圧倒的な強さを発揮。2回、痛烈に李をノックアウトした(李のラストファイト)。無敗(48連勝(20KO))だった前王者オリバ(イタリア=モスクワ五輪金(93勝3敗)→57勝(20KO)2敗)に3
回KO勝ちで強奪したタイトルの初防衛に成功。李は伏兵フィリピンのアラン・アレグリアに3回KO負け(連勝ストップ=再戦で失格勝ちながら雪辱)。以来16連勝(13KO)中で国内トップ対決においても、アマ出身の新鋭安京徳(4連勝(1KO)無敗+アレグリア(37勝(24KO)14敗3分)に判定勝ち→チャべスに挑戦=3回KO負け)からダウンを奪い判定勝ち。しかしコッジには歯が立たず、完敗だった。アメリカにいましたけど、むろん放送はなかった。李(東洋無敵)も同じく「アンチ」だった(日本選手はまったく敵わず)。だけどコッジはそれほど好みでなかったので、その豪快さに驚いたのを鮮明に記憶している。


(1)、1984年6月12日 WBA世界J・ライト(スーパーフェザー)級タイトルマッチ 王者故ロッキー・ロックリッジ(33勝(28KO)3敗→44勝(36KO)9敗)VS挑戦者東洋王者文泰鎮(23勝(11KO)1敗1分→27勝(15KO)4敗1分)アラスカ州アンカレッジ
ーロックリッジがサウスポーの文を圧倒。打ちまくり11回TKO勝ち。ロックリッジの全盛期だった。文も同じく東洋無敵だった。挑戦者決定戦で、世界1位安里義光(国内無敵→ランカー対決、友成光に6回KO勝ち)に12回判定勝ちで東洋タイトルを防衛したばかり。
(2)、1990年12月8日 WBC・IBF世界J・ウェルター(スーパーライト)級タイトルマッチ 王者フリオ・セサール・チャべス(72連勝(63KO)無敗→107勝(85KO)6敗2分)VS挑戦者安京徳(29勝(12KO)1敗) ニュージャージー州アトランティックシティー
ーチャべスが強敵安を問題にせず3回にノックアウト(安のラストファイト)。確かモントリオール、スーパーファイトのセミ。「大スクリーン」で見たはず。


(1)、1982年6月3日 WBC世界バンタム級タイトルマッチ 王者ルペ・ピントール(47勝(37KO)5敗1分→56勝(42KO)14敗2分)VS挑戦者李承勲(21勝(7KO)3敗→45勝(25KO)6敗1分)カリフォルニア州ロサンゼルス
ーピントールが11回TKOで李を下す。ピントールは8度目の防衛に成功した(この試合を最後にバンタム級タイトルを返上)。減量苦のためJ・フェザー級に転向する。次戦では元WBA王者のホルヘ・ルハンからダウンを奪い、10回判定勝ち(そしてゴメスに挑戦し14回TKO負け)。
ロシア語→Ли Сын Хун (кор. 이승훈; род. 26 июля 1960, Чхонвон) — южнокорейский боксёр, представитель легчайших и наилегчайших весовых категорий.フランス語→Seung Hoon Lee est un boxeur sud-coréen né le 26 juillet 1960 à Séoul.
(2)、1985年2月2日 WBA世界J・フェザー(スーパーバンタム)級タイトルマッチ 王者ビクトル・カジェハス(21勝(19KO)1敗→27勝(22KO)3敗)VS挑戦者李承勲(33勝(17KO)4敗) プエルトリコ サンファン
ー強打のカジェハスが、李の果敢な攻撃に大苦戦しながら(顔面の腫れもひどかった)辛くも2-1の判定でロリス・ステッカ(イタリア)から奪ったタイトル(9回KO勝ち)の初防衛に成功した。とはいえ「地元判定」として大いに議論を呼んだ一戦。私見として(大昔に1回見ただけ)李が勝っていたように見えた。カジェハスは2度目の防衛戦では敵地に飛び、前王者ステッカを6回、豪快にノックアウトする(ロリスの弟マウリツィオはロス五輪及びワールドカップ(83年ローマ大会)金メダリストだった)。李は後にIBF王者(当時はまだ主要2団体(WBA・WBC)より劣った)となるも運に恵まれなかった選手だと思う。合計4度の挑戦(オロノ(WBC世界J・バンタム級王者決定戦→判定負け)・ピントール・カジェハス・サラゴサ(WBC王者=引き分け)が実らず。そしてカジェハスはジェフ・フェネックに10回KO負けで王座を失った(フェネックは三階級制覇)。


(1)、1984年2月26日 WBA世界J・ライト級タイトルマッチ 王者ロジャー・メイウェザー(アマ64勝4敗+17勝(11KO)無敗→59勝(35KO)13敗)VS挑戦者ロッキー・ロックリッジ(32勝(27KO)3敗)カリフォルニア州ボモント
ーフェザー級から一階級あげたロックリッジが初回、右ストレート一発で無敗のメイウェザーを深々と沈めた。メイウェザーの連勝ストップ。ロックリッジは転級初戦となった前戦では、元WBC王者のボザ・エドワーズに判定勝ち(意気あがっていた)。
(2)、1987年11月12日 WBC世界J・ウェルター(スーパーライト)級タイトルマッチ 王者レネ・アルレドンド(40勝(34KO)3敗→46勝(40KO)12敗)VS挑戦者前WBA世界J・ライト級王者ロジャー・メイウェザー(28勝(16KO)5敗)カリフォルニア州ロスアンゼルス
ーメイウェザーが6回にアルレドンドから3度のダウンを奪いノックアウト。2階級制覇成功、新王者に就く。アルレドンドはまったくいいところがなく(試合前は、チャンピオンベルトを巻いた威風堂々とした姿だったが→「余裕の笑みではなかった(ワールドボクシング誌)」)日本で浜田から奪回したタイトルの初防衛に失敗(以降、噛ませ的選手に落ちぶれたのは残念だった)。実況「放送」はまたメイン州にはなかった(苦笑)。前王者浜田は、メイウェザーへの挑戦が決まっていたが、膝の故障が悪化。限界に達しており、再起戦(バスター・アラカヤ(比)一千万円のファイトマネーが保証)をキャンセルして引退を発表した(記者会見(お客さん、ファンを尊重)、本当に立派で感動しました)。



(1)、1983年2月27日 世界ライト級ノンタイトル10回戦 ハワード・デービス・ジュニア(アマ125勝5敗(世界選手権(74年ハバナ大会)金メダル+モントリオール五輪米代表優勝金メダル)+21勝(7KO)1敗→36勝(14KO)6敗1分VSト二ー・バルタザー(23連勝(19KO)無敗1分→39勝(30KO)7敗1分)ニュージャージー州アトランティックシティー
ーデービスが2度ダウンを喫しながら強打のバルタザーに判定勝ち。バルタザーの連勝ストップ、初黒星。初の世界挑戦にてワットに判定負けしたデービスは着実に地歩を固め(二戦後には、再びホープだったグレッグ・コバーソン(米(黒人)30勝(19KO)1敗=故カマチョに10回判定負け)に8回TKO勝ち)二度目の世界挑戦となるWBC王者故ロサリオ戦(12回判定負け)へ駒を進めた。
(2)、1984年7月8日 世界J・ライト級ノンタイトル10回戦 前WBA王者ロジャー・メイウェザー(17勝(11KO)1敗)VSト二ー・バルタザー(25勝(20KO)2敗1分)カリフォルニア州リセダ
ーバルタザーが10回判定でメイウェザーを破る殊勲。メイウェザーはロックリッジに初回KO負けでタイトル喪失した再起戦に敗北。トニーの兄フランキーも世界ランカーだった(兄弟ボクサー)。バルタザーは正念場となるホープ対決で無敗のロビン・ブレーク(米(白人)サウスポー)に大激戦の末、9回ノックアウト負け(以後は、地味な存在に甘んずることになる)。晩年(90年)はカマチョにも12回判定負け→①「カマチョ、お決まりの大差判定勝ち(ボクシングマガジン)」(すっかり「安全運転」が定着。実に「4年間」、’KO勝ち’はなかった)②「カマチョのボクシングはもう、かわそうかわそう、いなそういなそう、それだけですね。いいパンチ当てて倒そうとか、そういうのじゃないんですね(小泉氏)」(すでに対ロサリオ戦(86年)の時点で、
この顛末だった)。
2018年12月29日(土曜日=Samdi(Saturday))
みなさん、こんばんは☆ 昨日は朝から雨、気温もあがりまた雪もとけました。今日は再び冬模様に戻った(さっき外に出て一服したら、各種星がきれいでした)。 ユダヤ教「安息日」の夜もふけてきました。明日は苦手な「暗い日曜日」。買い物に行かなくてはなりません(こればっかり(苦笑))。でも月曜日行けば「元旦」は休みです。それを過ぎればもう「平常」「新年」のはじまり。「正月」に関する独語頁が上がってきてましたが。今年も例年と変わらず「おせち料理」どころか「餅」「お雑煮」「おしるこ?」(これらも最後はいつだか覚えていない)辺りも無縁に終わりそうです(みな無二の好物でした)。なんかおかしな調子は続き、もうひとつ元気がでません(涙)。さて、「鉄人49歳」今宵も早々とくたばることにします。おやすみなさい☆ 再見 謝謝 一路平安 サム リッチモンド・ヒル


Rick "Rocky" Lockridge (January 10, 1959 – February 7, 2019) was an American professional boxer.[2] He is perhaps best known for having handed Roger Mayweather his first defeat—a first-round knockout in just 98 seconds—earning him the WBA and lineal super featherweight titles.[3] He later won the IBF super featherweight title. He is also known from his 2010 appearance on the A&E television series Intervention
.引退後=現役時代に始めたコカインとアルコールが断ち切れず、離婚と破産を経験。1994年に時給8ドルの仕事を得るが、ほどなくして強盗で逮捕され執行猶予5年の判決を受ける。しかし3年後、再び強盗で逮捕され、1999年7月まで27ヶ月の間刑務所に服役する。出所後は、物乞いをするホームレスまで落ちぶれ、さらには脳卒中を患い、杖無しでは歩行が困難になる[2]。2013年5月、ショッピングセンターの店先で絡んできた若者を右ストレートでノックアウトする動画が、インターネット上にアップロードされる。2019年2月7日、家族が死去を公表した。


(1)、1987年8月9日 IBF世界J・ライト(スーパーフェザー)級タイトルマッチ 王者バリー・マイケル(豪州+48勝(15KO)8敗3分)VS元WBC王者挑戦者ロッキー・ロックリッジ(40勝(34KO)5敗)豪州・ウィンザー
ーロックリッジが敵地で、地元の王者マイケルに15回判定勝ち。新王者に就く。ゴメスに敗れ失った世界王者に復帰。マイケルはこの試合を最後に引退した。アメリカにいました(台湾人おばさんの地下部屋住まい)。ESPNでの別の試合テレビ放送、途中に組み込まれてる「月間速報」=「リングサイド」において結果を知った。
(2)、1988年4月2日 IBF世界J・ライト級タイトルマッチ 王者ロッキー・ロックリッジ(42勝(35KO)5敗)VS挑戦者ハロルド・ナイト(19連勝(15KO)無敗)ニュージャージー州アトランティック・シティー(19歳のとき行きました=でも「未成年」カジノには入れなかった(苦笑))
ーロックリッジが’シャドー’(影)の異名を持つ無敗の新鋭ナイト(入場時のBGMは故マイケル・ジャクソン氏の「バッド」)を15回判定で下し、2度目の防衛に成功。ナイトのラストファイト。前半はナイトが前に出てプレッシャーをかけ、得意の左フックを振う。中盤から逆の展開となり、ロックリッジがナイトを圧倒。追いまくった。同じ場所、地下部屋で観賞。


Wilfred o Wilfredo Benítez (nacido en 12 de septiembre de 1958) es un puertorriqueño que fue campeón mundial de boxeo en tres distintas divisiones. A Benítez también se le conoce como Wilfredo. Sus apodos sobre el cuadrilátero eran El Radar y La Biblia del Boxeo.ウィルフレド・ベニテス(Wilfred Benitez、男性、1958年9月12日 - )は、プエルトリコの元プロボクサー。アメリカ合衆国ニューヨーク州生まれ。史上最年少(17歳6か月)で世界王座を獲得した、早熟の天才として知られる。スーパーライト級(セルバンテスに15回判定勝ち)、ウェルター級(パロミノに15回判定勝ち)、スーパーウェルター級(ホープに12回KO勝ち)で3階級制覇を成し遂げた。1990年9月29日、スコット・パパサドラとの試合を最後に引退した。幼少期に父から厳しい練習を課された反動からプロ入りの時点ではすっかり練習嫌いとなったことでも知られ、1979年のレナード戦は試合前1週間の練習だけで調整したという。それが祟り被弾しKO負けすることが多くなったキャリア晩年に差し掛かってから重度のパンチドランカーの症状に悩まされた。引退した今でも時折メディアに姿を現すものの廃人同然の彼は一人でまともに生活できないどころか自分を認識できない心神喪失状態にあり、姉の介護を受けながら静かに仲良く暮らす姿が伝えられている。


(1)、1982年1月30日 WBC世界J・ミドル(スーパーウェルター)級タイトルマッチ 王者ウイルフレド・ベニテス(プエルトリコ+43勝(26KO)1敗1分=53勝(31KO)8敗1分)VS挑戦者前2階級王者ロベルト・デュラン(パナマ+74勝(55KO)2敗=103勝(70KO)13敗)ネバダ州ラスベガス
―ベニテスがデュランを完封。15回判定勝ちで2度目の防衛に成功。ベストファイトのひとつといえる。デュランはすでに全盛期は過ぎていたかも(しかしこの後、さらに2階級を制覇する=1、ムーアに8回KO勝ち2、バークレーからダウンを奪い12回判定勝ち)。+ベニテスの現在↑の有様をみれば、悲しくさびしいの一言(号泣)。「練習嫌い」もさることながら、一流の強豪たちと連戦していれば、ときにこうなります(防御勘抜群だったアリなども顕著な例)。
(2)、1984年7月14日 元世界王者対決ノンタイトル10回戦 前WBA王者故デビー・ムーア(13勝(10KO)1敗=18勝(14KO)5敗)VS前WBC王者ウイルフレド・ベニテス(46勝(26KO)3敗1分)モンテカルロ
―ムーアが初回にダウンを奪い、2回TKO勝ち。ベニテス(ハーンズに15回判定負けで王座転落)は右のカウンターを食い(むかしはこういうパンチは食わなかった)ダウンした際に、右足首を捻挫。しかし’ディフェンシブ・マスター’(防御の家元)の異名とおり、見事な防御を披露。ムーアの連打をほとんど空振りに終わらせる
。ながら2回に入っても、痛みは治まらず試合放棄した。この敗北以降、どんどん坂道を転げ落ちていく。加えてこの試合もトランクスがまったく同じで見づらい(特に両選手同等体型の黒人選手=2人とも赤に白の線)。


(1)、1983年4月2日 WBA世界J・ウェルター級タイトルマッチ 王者故アーロン・プライヤー(モントリオール五輪米代表(204勝16敗)ナショナル・ゴールデングローブ決勝でハーンズに勝った)+32連勝(30KO)無敗⇒39勝(35KO)1敗)VS挑戦者前WBC王者金相賢(41勝(24KO)3敗3分)ニュージャージー州アトランティック・シティー
ープライヤーが3回にサウスポーの東洋王者金をストップ。全盛期だった(8連続KO防衛達成+ベストファイトのひとつ)。金(タイの故センサクに13回TKO勝ちでタイトル奪取(初防衛戦は来日し、強打の用階政弘を11回にノックアウト)ソウル・マンビーに14回KO負け=転落)のラストファイト。

김상현(金相賢, Sang-Hyun Kim, 1955년 1월 18일 ~ )은 대한민국의 전 권투 선수이다. 전 세계복싱평의회(WBC) 슈퍼라이트급 챔피언이다.ドイツ語→Kim Sang-hyun (* 18. Januar 1955 in Busan, Südkorea) ist ein ehemaliger südkoreanischer Boxer im Halbweltergewicht. Im Jahr 1978 nahm er dem Thailänder Saensak Muangsurin mit einem technischen K.-o.-Sieg in Runde 13 den Weltmeistertitel des World Boxing Council ab.
(2)、1989年5月28日 WBA世界スーパーミドル級タイトルマッチ 王者フルヘンシオ・オベルメヒアス(49勝(39KO)4敗)VS挑戦者白仁鉄(44勝(41KO)2敗) 韓国
ー白が11回にオベルをノックアウト。念願の王者に就いた。最後、白の連打を浴びたオベルは仰向けに倒れた。白の強打と巧さが遺憾なく発揮されたベストファイト。



(1)、1983年8月7日 WBC世界J・ライト級タイトルマッチ 王者ラファエル・リモン(メキシコ+50勝(35KO)12敗2分→53勝(38KO)23敗2分)VS挑戦者へクター・カマチョ(アマ・ニューヨークゴールデングローブ優勝金メダル(96勝4敗)21連勝(11KO)無敗→79勝(38KO)6敗3分) プエルトリコ・サンファン
ーカマチョが5回にリモンをノックアウトし、颯爽と新王者に輝いた。生まれ故郷、祖国への凱旋となった若きカマチョは元気溌剌。新旧サウスポー対決だったが、スピードの差は桁違い(リモンがやたらと’鈍重’にみえた)。最後はロープに詰め閃光、嵐のような連打を浴びせリング外にたたき出すほど。「マッチョ超特急、突っ走る」(よく専門誌の見出しになっていた代名詞)この当時を回想すれば(アマ時代からクリンチは多く、倒れた相手を後ろからポカポカこづいたりといった、’ずる賢さ’(いわば将来への’伏線’)はむかしから現れていたが)まさか後年「根性なし」「チキン」とかブーイングと罵声を浴びせられ、いわば’憎まれ役’へ転身することになろうとは想像もつかなかった。
(2)、1990年8月11日 WBO世界J・ウェルター級タイトルマッチ 王者へクター・カマチョ(38連勝(16KO)無敗)VS挑戦者トニー・バルタザー(35勝(28KO)3敗1分) ネバダ州ラスベガス
ーカマチョが強打のバルタザーを寄せつけず、ワンサイドの12回判定勝ち。2度目の防衛に成功した(初防衛戦は元IBFライト級王者のパチエンザに判定勝ち)。往年のスターであるカムバックした元WBAライト級王者マンシーニとの決定戦に判定勝ちし、獲得したタイトル(三階級制覇)。しかし、危なげはないにせよ(依然として’無敗”の’連勝’中)この頃のカマチョの試合はダウンシーンやスリルといった点とは無縁であり、主要な「最前線」からは遠く離れてしまっていた。すっかりこの奇抜な一枚(ふんどし)トランクスも板につき(’先駆者’となり一時期、ブーム的な’悪影響’?を及ぼしたといえる)実態を象徴していたかもしれない。そして上で触れたよう、すでに「過去の選手」であるバルタザーも単なる「安全パイ」として選ばれたに過ぎなかった。追加情報としては、カマチョもボクシング一家です。弟のフェリックス(’ショータイム’(IBFJ・フェザー級王者のブヤニ・ブング(南ア)に挑戦し、判定負け)兄ほどの才能はなかった)とヘクター・ジュニア(ともにサウスポー+兄&オヤジゆずりの’一枚トランクス’笑)。

1992年 バルセロナ五輪フライ級二回戦 崔鉄洙(北朝鮮(優勝金メダル)世界選手権(91年シドニー大会)優勝金メダル・アジア選手権(92年バンコク大会)銅メダル(200勝10敗)→3連勝(3KO)無敗)VSポール・イングル(イギリス(アマ戦績不明)23勝(16KO)2敗)
ー崔の判定勝ち。崔は決勝で歴戦の名選手であるキューバ代表、強敵ラウル・ゴンザレス・サンチェスRaúl González Sánchez(銀メダル・世界選手権(95年ベルリン大会)銀メダル)に判定勝ち。周知のとおり(アントニオ・猪木氏の仲介により、協栄ジムから)日本でプロデビューした(3回終了TKO勝ち=日本ではこの一戦のみ)。『ボクシングマガジン』の特集記事では、合計3人で(他2人の北朝鮮選手とともに)来日したが、空気がとてもきれいだという平壌に比べ、東京の大気汚染のひどさに閉口していたのを覚えている。イングルはプロ入り後、IBF世界フェザー級王者となった(ハメドのWBOタイトルに挑戦し、11回KO負けするが、(マイナータイトル)IBO王者だった晩年のジュニア・ジョーンズを11回にノックアウトした)。
최철수(崔鐵洙, Chol-Su Choi, 1969년 12월 1일 ~ )는 조선민주주의인민공화국의 전 권투 선수이다. 1992년 바르셀로나 올림픽 플라이급에서 금메달을 땄다.ウクライナ語→Чхве Чхоль Су (кор. 최철수; нар. 1 грудня 1969, Північна Корея) — північнокорейський боксер-любитель, що виступав у найлегшій ваговій категорії. Олімпійський чемпіон 1992 року, призер чемпіонату світу.

Reserved ChristmasAKB48(일본어: エーケービー・フォーティーエイト 에케비 훠티에이토[*], 한국어: 에이케이비 포티에이트/에이케이비 포티에잇)은 아키모토 야스시의 프로듀스에 의해 2005년에 결성된 일본의 여성 아이돌 그룹이다AKB48 er en kvindelig japansk idolgruppe produceret af Yasushi Akimoto.

①레드벨벳(영어: Red Velvet)은 SM 엔터테인먼트 소속의 대한민국 5인조 걸 그룹이다. 팀명은 강렬하고 매혹적인 컬러 Red와 부드러운 느낌의 Velvet에서 연상되는 감각적인 이미지처럼, 색깔 있고 세련된 음악과 퍼포먼스로 선보이겠다는 포부를 담고 있다Red Velvet (hangeul : 레드벨벳) est un girl group sud-coréen, originaire de Séoul. Formé par SM Entertainment en 2014, le groupe est à l'origine composé de quatre membres : Irene, Seulgi, Wendy et Joy ②aespa(에스파)는 SM 엔터테인먼트 소속의 대한민국 4인조 다국적 걸그룹이다. SMCU[주 1] 프로젝트의 첫 주자로 나서게 되며, 프로젝트 내에서 독립적인 세계관으로 이야기를 펼치고 있다aespa (koreanisch 에스파; stilisiert æspa) ist eine südkoreanische Girlgroup, die 2020 vom Label SM Entertainment gegründet wurde.

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