日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆「Tokijska Róża」 Iva Ikuko Toguri D’Aquino ☆神々の黄昏?Final Days of? =Solicitation(Yoshirin Kikaku社長式?⇔冒’瀆’停止懇願)返信:あ (トロント) Reply: Ah (Toronto) Réponse : Ah (Toronto) Hate motivated crime「東京ローズ」の亡霊日系人’インチキ’遺言記録?

「米兵の皆さん、ガダルカナル島へようこそ。でも期待してる増援はこないわ。お仲間さんたちの船は全て太平洋の藻屑になってしまったの。可哀想に、貴方たちは完全に孤立して、太平洋の孤児になっちゃったのよWelcome to Guadalcanal Island, US soldiers. But I'm not expecting any reinforcements. All of your friends' ships have turned into Pacific algae. Unfortunately, you are completely isolated in the Pacific Ocean」「可哀想な坊やたち。貴方たちが狐の穴より居心地の悪い塹壕で眠っている間に、貴方たちの奥さんや恋人は他の男とあたたかいベッドで眠っているわPoor little boys. Your wife and lover are sleeping in a warm bed with another man while you are sleeping in a trench that is more uncomfortable than a fox hole." "Wow」「アメリカのスーパーマン、気をつけなさい。世界で自分一人がスーパーマンだと思ってるらしいけど、有名な日本の科学者はお前の競争相手を作ってる。まったく本物の血の通った日本製をねAmerican Superman, be careful. You think you're the only Superman in the world , but the famous Japanese scientists are making your competitors. Totally genuine bloody Japan. "Made」「第509航空部隊の爆撃機は、尻に「R」の記号がはっきりついているから、日本軍の高射砲部隊はすぐ見分けられるわよThe bomber of the 509th Air Corps has an" R "mark clearly on the bottom, so you can be easily identied by the Japanese anti-aircraft gun unit」*こうした放送が太平洋上に散在する連合軍将兵向けに流され、1941年~1942年初頭コレヒドール島にいたダグラス・マッカーサーが放送を聞いたことを回想記に書き残している。「初めに私がまだコレヒドールにいた頃。夜ごと、敵は誘惑的な東京ローズを使ってアメリカの援軍は他に向けられており、フィリピンの運命は敗北と死だと、生傷をこするように繰り返した」
ー1943年6月、海兵隊だったジャック・ホーグが1943年6月ごろ、ガダルカナル島へ向かう船で東京ローズの放送を聴いている。その放送のなかで、極秘であるはずのガダルカナル攻撃を何故かローズが知っており、それを放送で触れた。海兵隊員は「なぜローズは知っているんだ?」と気味悪く思った。スウェーデン語→Iva Ikuko Toguri (戸栗郁子 アィバ), född 4 juli1916 (1916年7月4日ロサンゼルス生まれ)i Los Angeles, död 26 september 2006(2006年9月26日死去) var känd som radioprofilen Tokyo Rose som sände propaganda från Radio Tokyo (東京ローズはラジオ東京のプロパガンダ(宣伝)放送)riktad till de allierade soldaterna (連合軍将兵向け)i stillahavskriget under andra världskriget. Efter Japans kapitulation (日本の降伏後)dömdes Iva för förräderi. 1976 bevisade undersökande journalister (76年アメリカの記者に)att nyckelvittnen i rättegången hade tvingats att ljuga och 1977 (77年にフォード大統領恩赦で釈放)benådades hon av president Gerald Ford.
ーハリウッド映画「父親たちの星条旗」(2006年)に米軍兵士たちが短波ラジオに熱中するシーンが登場する。米兵たちが聞いていたのは、敵の戦意を喪失させるため、日本軍が流した対敵宣伝放送。意外にも美しい声で語りかける女性ディスクジョッキーは米兵たちに熱狂的に支持され、いつしか「東京ローズ」と呼ばれるようになる。終戦後、「東京ローズ」の正体探しを始める外国人記者達。そこで浮上したのがロサンゼルス生まれの日系2世・アイバ戸栗郁子(とぐりいくこ)29歳だった。アメリカ人であるアイバは、1941年、叔母を見舞うため、両親の祖国である日本に初めて渡ってきた。しかしその直後、太平洋戦争が勃発。帰国の機会を失い、滞在費捻出のため職を得たラジオ東京(現NHK)で、ディスクジョッキーに抜擢されていた。報道によって、アイバは一躍時の人に。しかしそれは悲劇の始まりだった。アメリカ人でありながら、敵国・日本に加担したとして、アイバは逮捕され、サンフランシスコで「東京ローズ裁判」にかけられる。アイバは「自分は米兵の戦意喪失を図るような放送はしていない」と主張したものの、結局、女性としては史上初となる「国家反逆罪」で禁固10年・アメリカ国籍剥奪の有罪判決を受け、刑務所に服役することとなる。しかし・・・・・番組は、500ページに渡る当時のFBIの極秘ファイルを入手。これにより 「アイバの有罪はアメリカ政府の捏造によって仕組まれたものだったのではないか」そして 「本当の東京ローズは6人いたのではないか」と疑念を抱く。 なぜアメリカ政府はアイバ戸栗を陥れたのか?日米両国で徹底取材。黒幕の正体と驚くべき理由にたどり着く!
*さらに「東京ローズ」放送を担当していたひとりバンクーバー出身の日系カナダ人須山・ジューン・芳枝さん(49年、29歳の若さで非業の事故死をとげた)。このような詩を残していること。戦後、横浜で酔っ払い運転のアメリカ占領軍兵士の車に跳ねられたという。やりきれないような最後の模様にまでめぐりあった。
「人類史上、最悪なこの戦争が始まってから初めての月曜日を迎えました。私には理解できます。息子の死に直面した母の気持ちを。若妻が夫を失った苦しみを。日本にも愛しい人を送り出した女性が沢山います。そして私たち日本女性は男たちがこの国を守るために戦い 死んでゆくことを知っているのです」
*晩年をシカゴでお過ごしなされたアイバさんについても、ポーランド語→東京ローズの全容(活動・政策=概要)Początki[edytuj]Pierwsza Tokijska Róża miała pseudonim Ann (仮名東京ローズ)skrót od pierwszych liter announcer – prezenter radiowy(ラジオ放送担当). Ann występowała później przed mikrofonem jako Sierotka Ann(孤児アン) – twój ulubiony wróg.Japońscy propagandyści(宣伝) korzystali zwykle z informacji(情報) pochodzących z nasłuchu amerykańskich(アメリカ軍) rozgłośni komercyjnych. Program amerykańskich stacji był uważnie studiowany pod kątem wyłapywania wiadomości o katastrofach(大惨劇・大災害・大異変) które wykorzystywano potem w audycjach propagandowych. Wplatano je w koncerty muzyki rozrywkowej lub poważnej. Spikerów tych programów z biegiem czasu zaczęto określać jako Tokijskie Róże. Programy prowadzone przez nich podawały, na ogół przesadzone, informacje o stratach alianckich, wymieniając czasem konkretne jednostki amerykańskie(日系アメリカ人). Przekazywano również opowieści o niewierności pozostających w Stanach Zjednoczonych żon i narzeczonych żołnierzy amerykańskich(アメリカ将兵?) oraz profetyczne doniesienia o zbliżających się operacjach(作戦・軍事行動?) wojennych.
       「東京ローズ」ゆかりの店に幕=人柄しのび、惜しむ声も-米
第2次大戦中に対米宣伝放送に携わり、「東京ローズ」と呼ばれた故アイバ・戸栗・ダキノさんが、米シカゴで切り盛りしていた日本雑貨店「戸栗商事社」が1月に閉店することが関係者の話で分かった。アイバさんは日米のはざまで波瀾(はらん)万丈の生涯を送り、2006年に他界。そのゆかりの場所だけに、生前に交流があった人からは惜しむ声が上がっている。
日系2世のアイバさんは1941年、親類を見舞うために来日。開戦を理由に帰国できず、ラジオのアナウンサーとして対米宣伝放送に従事した。戦時中には日本政府からの国籍取得要請を拒み、米国への忠誠心を持ち続けた。戦後、米国に戻ったが、国家反逆罪で6年以上服役し、長年にわたり「反逆者」扱いを受けた。
関係者によると、閉店する戸栗商事社はアイバさんが父から事業を引き継ぎ、現在親族が経営している(12年12月28日配信『時事通信』)。

*さまざまいろいろな見解なり検証が入り乱れています。必ずしも一定な内容ではありません。私はあくまで「学徒」あるいは「記者」(おなじ日系人として)としての「ルポ」まとめを中心に。「第三者」(孔子・儒教の「中庸」(公正)を基幹に)の客観視を心がけています。*大先輩である彼女たちの生涯について。私がゴチャゴチャ解説を加えるより(私自身、本日あらたにしったことも少なからずでとてもそんな芸当も不可能なのが本音)さまざま記録されているものを参照していくことにする。
映画「父親たちの星条旗」(監督:クリント・イーストウッド)で、海兵隊員たちがラジオを聴いているシーンがある。途中、女性DJのセリフに違和感を感じる。謀略放送ーー。それが「東京ローズ」だった。ドラマ「Gift」(フジテレビ・1997年)のオープニングテーマ「TOKYO JOE」(歌:ブライアン・フェリー)が甦ってきた。歌詞に出てくる「トーキョー・ローズ」が、ずっと、どこかにひっかかっていたのだが、実在した人物のこととは思わなかった。そう思っていたら、不思議なことに、東京ローズを扱ったテレビ番組を見た。そして、「ザ・スクープ SP」The SCOOP SPECIAL ~終戦65年目のスクープ~幻の東京ローズを追え!(テレビ朝日 8月15日放送)を見たことで、より詳しく知ることができた。第二次世界大戦中、日本の短波放送で女性DJが、アメリカの極秘作戦を言いあてた。そのDJは、とても魅惑的な声で、「妻や恋人は、いま他の人と一緒にベッドにいるわよ」などの毒舌をはくことで、戦地のアメリカ兵の注目を集めていた。初めて日本に飛来したB29の機体にはTOKYO ROSEの名前と魔女のイラストが描かれ、ハリウッド映画「TOKYO ROSE」も制作された。映画「Voice of Truth」の中にも登場する。ちなみに、女性DJは東京ローズと名乗っていたわけではなく、アメリカ兵たちが付けた愛称だった。自らを「東京ローズ」と告白した、アイバ 戸栗 郁子さんは、奇しくも、アメリカ独立記念日の7月4日、ロサンゼルスで生まれた(1916年)。両親は日本人。1941年7月に、おばを見舞うために初めて日本に訪れるが、戦争が始まり、帰国できなくなってしまう。戦時中、日系人は、日本国籍にするようにいわれ、ほとんどがそうする中で、アイバ 戸栗さんは簡単に変えるわけにはいかないと、アメリカ国籍のままで通していた。その頃、アメリカでは、第32代大統領フランクリン・D・ルーズベルトの「大統領令」(1942年)により、西海岸の12万人の日系人が敵性外国人として集められ、強制収容所に入れられていた。アイバ 戸栗さんの両親も同様だった。アメリカで日系人がどのような状態に置かれているかを知らないまま、アイバ 戸栗さんは日本で結婚し、英文タイピストとしてラジオ東京(当時のNHKの海外放送部門)に勤め始める。日本軍は、アメリカ映画から、「ファイティング・スピリット」や生活、風俗などを学び、「伝単」(宣伝ビラ)として、アメリカ兵に戦意を喪失させるための心理作戦に使用した。陸軍参謀本部 第2部 第8課に管轄されていたラジオ東京も、プロパガンダとして利用された。そこで、捕虜となっていた、シドニーでラジオ局のアナウンサーだったチャールズ・カズンズ少佐に目を付ける。新番組「ゼロアワー」は、いままで通りのニュースの他に、アメリカ兵に聴いてもらうため、カズンズ少佐が台本を書いた音楽コーナーがつくられた。カズンズ少佐は、英文タイピストをしていたアメリカ国籍を持つアイバ 戸栗さんに目をつけて、「孤児のアン」として、臨時アナウンサーに起用。アイバ 戸栗さんを起用した理由は、日本語なまりが強く、アメリカ兵にあまり好まれるとは思えなかったので、プロパガンダにならないと考えたため。ひそかに、連合国軍側への応援を潜り込ませようともしていた。アメリカ国籍を持つアイバ 戸栗さんも、アメリカを陥れようとは思っていなかった。GHQ最高司令官のダグラス・マッカサーは、「マッカーサー回想記」で、1942年初頭、フィリピンのコレヒドール島にいた頃に、ラジオで東京ローズがフィリピンの敗北について話していたことを書いている。しかし、アイバ 戸栗さんがラジオで話し始めた「ゼロアワー」は、1943年の11月に始まったもの。東京ローズの正体を暴くために来日したアメリカの記者たちが見つけたアイバ 戸栗さんは、自ら「東京ローズ」と名乗った。それが悲劇の始まりとなる。戦後、ようやくアメリカへ帰国したアイバ 戸栗さんだったが、1945年9月、アメリカ国籍でありながら、アメリカ兵を翻弄するような放送をしたことによる「国家反逆罪」で逮捕される。終戦から4年後、サンフランシスコ連邦裁判所で、アメリカ政府は莫大な税金をつぎ込み、日本からも証人を呼んで、「東京ローズ裁判」、20世紀の魔女狩りともいわれた裁判が3カ月にわたって行なわれた。結果は、禁固10年、罰金1万ドルの有罪判決で、アメリカ国籍も剥奪。1956年、アルダーソン婦人刑務所を6年2カ月で仮出所。1977年1月、フォード大統領の特赦でアメリカ国籍を取り戻し、2006年9月、90歳で生涯を終える。1976年、シカゴ・トリビューン紙の特派員として日本に住んだこともあるロナルド・イェーツ氏が、「東京ローズ裁判の証人はアメリカ政府に偽証を強いられていた」という記事を書いた。裁判での決め手は、ラジオ東京でアイバ 戸栗の上司であり、証人となった日系2世(戦時中、日本国籍となる)たちの証言だったが、FBIから「日系2世の君たちも反逆罪に問うことができる」というプレッシャーを与えられたと取材に答えた。陪審員も同様に、いいしれぬプレッシャーを感じていたと話していた。番組では、1948年の大統領選でトルーマンが勝つために、「東京ローズ」は、愛国心をアピールすることに利用されたのではないかとしていた。しかし、マッカーサーや他のアメリカ兵が聴いたという、東京ローズは誰だったのか。番組では、アメリカが録音していた東京ローズの声から声紋鑑定をし、アイバ 戸栗さんや、女性アナウンサーと思われる他の数名と比較。NHK 英語アナウンサーで、戦時中は学生アルバイトとして英語のニュースを担当していた水庭進さんは、東京ローズは須山芳枝さんという日本人初の女性英語アナウンサーに違いないと明言。須山芳枝さんの美声は”南京の鶯”ともいわれるほどの「とても真似できない声」で、「局を訪れた外国人が呆然と立ちつくすほど、一瞬で虜になる声」「金の鈴を転がしたような声」と形容されていた。須山(ジューン須山)さんは、1920年2月11日、横浜に生まれ、1924年から15年間、家族でカナダのバンクーバーに移住しており、英国式の品のよい英語だったとか。1949年7月18日、29歳のとき、友人と映画を見た帰りに、酔った米兵の車で交通事故に遭い、不慮の死を遂げている。湾岸戦争の際、クウェート人少女ナイーラがアメリカ議会の公聴会で、涙ながらにイラク兵の残虐さを訴えたことが、イラク攻撃に慎重だったアメリカの世論を大きく変えた。しかし、その少女は、アメリカ在住のクウェート大使の娘で、アメリカ大手広告代理店のつくった"やらせ"だった。その他、戦争に利用された「東京ローズ」の例をあげて、番組は最後に、戦争の犠牲の1つは「真実」である、と締めくくっていた。
*小さい頃、本棚から出して読んだ大岡氏の各著作(当時は半解以下だったながら)。そのなかでこの「東京ローズ」(とくに「ハルゼーを生け捕りにして収容するため、モンキーハウスに巨大な檻を作りましたWe made a huge cage in the monkey house to capture and house Halsey alive」といったくだりもふくめ)はずっと頭に残り。さる切っ掛けから10年前のルポにいった次第であります。興味のあるお方はYoutubeで「Tokyo Rose」なり「Zero Hour」で検索すれば幾らでも関連が出てきますので是非、聞いてみてください(わたしもiPod内に収録してあり、今日久しぶりに聴いていた。わかりやすい方もいらっしゃれば(男性も数人)声質や発音など(私の力不足もむろん手伝い)により半分も理解できない放送もありさまざま。さらに目をとおしてみてください。
*ウィリアム・フレデリック・ハルゼー・ジュニア[注 1](William Frederick Halsey, Jr.〔発音〕、1882年10月30日 - 1959年8月16日)[4]は、アメリカ合衆国の海軍軍人。1945年元帥(最終階級)となり、1947年退役。
PS:ハルゼーは↑「東京ローズ」放送及び「大本営発表」を自ら聞いた→「1944年(昭和19年)10月の台湾沖航空戦に関する大本営の発表は「我部隊は10月13日以降、連日連夜台湾及びルソン島東方海面の敵機動部隊を猛攻し、その過半の兵力を壊滅して、これを遁走せしめたり。我方の収めたる戦果総合次の如し。轟轟沈: 敵空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、巡洋艦若くは駆逐艦1隻 撃破:空母8隻、戦艦2隻、巡洋艦4隻、巡洋艦若くは駆逐艦1隻、艦種不詳13隻 その他火焔火柱を認めたるもの12を下らず。撃墜 112機(基地における撃墜を含まず)もしこれが事実とすれば、世界海戦史上最大の戦果で、アメリカが開戦以来進めてきた空母大量建造は、基地空軍の攻撃の前に一度で壊滅したことになる・・・大本営発表はサイパン島陥落以来、戦の前途に不安を抱きはじめていた国民を狂喜させた。聯合艦隊は勅語を賜わり、東京、大阪で国民大会が開かれた。小磯首相(陸軍大将(山形県出身)A級戦犯=終身刑)は「勝利は今やわが頭上にあり」と叫んだ」米機動部隊を壊滅させる大勝利に、昭和天皇からは戦果を賞する勅語が出された。だが、実際には米空母や戦艦は1隻も沈んでおらず、日本の惨敗だった」また大本営のいつもの誇大発表だと思っていたが、あまりしつこく繰り返すので日本人が本当に勝ったと信じているではないかと疑いはじめたという。事実は巡洋艦2隻が大破、空母1隻が小破しただけだった(我方の損害:飛行機未帰還機「312機」(日本側発表)「350機」(アメリカ側発表)(大岡昇平「レイテ戦記(上巻)」中公文庫)。
東京ローズ(とうきょう - )とは太平洋戦争中に、日本から米兵向けのゼロアワーというラジオ放送(謀略放送)をしていた謎の女性ディスクジョッキーの通称である。http://www.diana.dti.ne.jp/~som-e/main125.html
概要
一人の女性DJが東京ローズと呼ばれていたわけではない。ゼロアワーには複数の女性DJがおり、その女性DJたちが東京ローズと呼ばれていたのである。
ゼロアワーでは、アメリカの音楽を流したり、アメリカにおけるスポーツの試合の結果を伝えるなどして米兵の気を引いておいて「日本を爆撃しに来たら撃ち落す」「奥さんは今頃、浮気している」などと言って米兵を不安な気持ちにさせていた。
東京ローズの声は、アメリカ兵が聴くとイギリス女性の声に聞こえ、イギリス兵が聴くとアメリカ女性の声に聞こえるという不思議な声であった。
反米放送ではあったのだが、可愛らしい女性の声で英語の放送が聴けるので、ゼロアワーはアメリカ兵にとって貴重な娯楽の一つだったという。
戦後の東京ローズ捜し
戦後「自分が東京ローズの一人だ」と白状したのは、アイバ戸栗郁子という日系アメリカ人女性一人だけであった。しかし、アイバ戸栗郁子はゼロアワーの中でレコードを掛けることなどを担当していたに過ぎず、その声は東京ローズの可愛らしい声とは全く違うものであったという。
戦後NHKには須山芳江という、アメリカ人さえ仰天するほど美しい英語を話す日系カナダ人の女性職員がおり、その須山芳江が東京ローズの中心的人物だったのではないかと言われている。日系カナダ人の須山芳江が東京ローズであれば、アメリカ兵にはイギリス人女性の声に聞こえ、イギリス兵にはアメリカ人女性の声に聞こえたという謎にも説明が付く。須山芳江は横浜の映画館からの帰りに、酔っ払った米兵が運転する車に轢かれて死亡した。

                  李香蘭と東京ローズ
ミュージカル李香蘭がロングランして、幾度も再公演を続けていますから、李香蘭の名前は若い人たちの間でもかなりの周知となっているようです。しかし、東京ローズといったらどうでしょうか。年配者はたぶん目を細めて「懐かしいネ!」というでしょうし、何でも知っていいるような顔をして「コロンビアローズじゃないの!」と口をとがらせたら半可通です。若者たちは「ロックバンドか何かかなあ!」というかもしれません。 東京ローズの本名は戸栗郁子(とぐりいくこ)と言い、ロサンゼルス生まれの日系二世です。今次大戦中に米軍向けの謀略放送ゼロ・アワーでDJを担当し、将兵たちから東京ローズの通称で慕われましたが、戦後になって反逆罪で逮捕されました。米国人として裁かれて有罪になったのは、中国人として裁かれた金璧輝・川島芳子の場合と一緒です。中国人であるはずが日本人であると証明され、無罪となって銃殺刑を免れた李香蘭・山口淑子はまれな例のようです。 二つの祖国をもつ戸栗郁子は両国の関係に、当然ながら無関心ではいられなかったのでしょう。南カリフォルニア大学大学院を卒業して同盟通信に入社し、ジャーナリストの道を歩みだしたところで日米開戦となりました。軍からNHK海外局勤務を命ぜられ、選択の余地はなく謀略の一端を担いました。DJではアンと名乗っていましたが、東京ローズと呼ばれて有名になってしまったことから、人生が狂ってしまったのです。李香蘭・山口淑子と東京ローズ・戸栗郁子に共通しているのは、卓越した能力で幾百万を越す人たちを魅了したことです。手懐づける宣撫工作と戦意を喪失させる懐柔工作には、二人はまさに好都合だったのでしょう。戸栗郁子は禁固刑判決を受けてから、大統領特赦になるまで10年も獄中にいましたが、その時期には山口淑子はハリウッド女優として近くにいました。二人が出会う機会があったならばどんな言葉を交わしたでしょう。戦争で誰もが苦難を強いられ多くのものを失いましたが、慰労や償いの対象となった人たちはごく限られた人たちのみです。そのために内外の数多くの人たちが今も、せめて詫びるようにと求めていることはご存じの通りです。
数奇な運命に弄ばれた二人の口からは、その人たちがたとえ僅かでも償いを受けて慰められるよう強く望む言葉が幾度も出たに違いありません。戦争が終わって半世紀が過ぎて、理想的すぎる平和憲法を与えて悔やんでいるアメリカとそれをもらって持て余し気味の日本は、微妙に解釈を変えようとしています。しかし過去の不幸を忘れないように、大きな犠牲を払って得た日本の「理想的な平和」を世界の平和の指標となるよう灯し続けていかなければならないと思います。

*李香蘭こと故山口淑子女史(佐賀県出身。戦後、参議院議員)についてもいずれ詳しく(「日本人」であったことが判決前。証明されあやうく免罪され日本に帰国を許される。一方「川島芳子」(本名=愛新覺羅顯㺭(清朝の皇族)漢名=金璧輝)+映画「ラストエンペラー」(1987年・などでなじみがある方もいらっしゃるかも=個人的批評欧米式いいかげん極まりない「ひどい」映画としかいいようなし)は「漢奸」として無残な銃殺刑に処された)
                 東京ローズ
           ~対米謀略放送花形アナウンサーの数奇な運命~ 
                * 恐怖のカミカゼ攻撃 * 
     
    http://www.cosmos.zaq.jp/t_rex/fusigi_4/works/works_3_e.html 
1945年2月、硫黄島の攻略を開始して以来数日間が経過していた。その間、アメリカは日本軍の頑強な抵抗に恐ろしいほどの出血を強いられていた。進攻作戦はいっこうにはかどる気配すらなく、うなぎ上りの損害に軍首脳部は頭を痛めていた。それに拍車を駆けるのが、連日の特攻機による捨て身の体当たり攻撃である。この体当たり攻撃はアメリカ軍からカミカゼと呼ばれて恐れられている死の攻撃であった。特攻機はレーダーに察知されない海面ぎりぎりをはうようにいつの間にか忍び寄って来る。そして虫一匹入り込めぬほどの濃密な対空砲火を物ともせずに突入して来るのである。彼らは死ぬことをなんとも感じないのか、撃ち落としても撃ち落としても、後から後から湧き出て来る亡者の群れのようにも見えた。それはアメリカ人から見れば、自分たちの常識を越えた身の毛もよだつ異常な行為なのであった。多くのアメリカ兵は、この理解出来ない自殺攻撃に身の毛もよだつ恐怖心を抱いてノイローゼに陥った。中には、特攻機が艦橋に激突し粉々になった機体の破片とともに、乗っていたパイロットの血まみれになった。片がバラバラと降り注ぐのを見て発狂した者すらいた。このような狂気の沙汰としか思えない悲惨な状態が続くと、人間の心理は極限にまで張り詰めてしまう。つまり狂気と正気のはざまというべき領域に入ってしまうのだ。つまり死という概念そものがもうどうでもよくなって来る。これが戦争の狂気というものかもしれない。だが、戦争はもう一つの神経戦という形でも行われていた。すなわち、相手の心の中に入り込み、頑な心理をゆるがせ、士気そのものを摘み取ろうとしていたのである。     
 火を吹きながらも猛然と突入してくる特攻機、アメリカ兵は死のダイブと呼んで恐れた。  
               * セクシーなささやき *       
その日の午後、硫黄島の沖合いに停泊している第7艦隊空母キティホークの乗組員は、食堂で遅すぎる昼食を取っていた。船内のマイクからはある放送が始ろうとしていた。まもなくジャズ風の音楽に乗って女性アナウンサーの声が響いて来る。その声はハスキーでちょっぴりセクシーな響きを帯びているようでもあった。明日もどうなるか知れぬ身で沈欝で鬱陶しい限りの彼らにとって、彼女の悩まし気な声は深刻な気分を和らげてくれるようでもあった。だが、彼女のしゃべる内容はちっとも彼らにとって救いのある内容などではなかった。「ジス・イズ・ゼロアワー・・・フローム・トウキョウ。親愛なるアメリカ軍の皆様、硫黄島攻略ははかどっていますか? 今日はいいお天気なのに、何人の水兵さんが命を落とすことになるのでしょうね。島にはたくさんの日本兵があなたたちを殺そうと待ち構えているのですよ 」。それは彼らの心を絶望の淵に突き落とすような内容であった。だがおかしなことに、彼女のハスキーで悩殺的な声を聞いていると、心をくすぐられるような奇妙な快感を感じるのも事実なのである。それは若い男だけがひしめく戦場心理が作用し、女性を必要以上に美化していたためなのかもしれないが、それだけに彼らの気持ちはよりいっそう複雑であった。なにしろ、黙々と食事を取りながらも、始終、彼らの頭の中を怪し気な魅力を帯びた女性アナウンスの声がひっかき回すのであるから。  
「・・・アメリカ海兵隊の皆さん、大きなお船の中はさぞかし快適でしょうね。でも、もうすぐ海の底に沈んでしまうと思えば可哀想な気もするわ。今も特殊潜航艇があなた方の船のすぐ下に忍び寄っていますよ。それに体当たりの飛行機も数え切れないくらい用意されているわ。アメリカの水兵の皆さん、こんなムダな戦争で命を落としてはいけないわ。みなしごになるより、今すぐママのお国に帰った方がお利口さんじゃないかしら」   
この魅惑的なハスキーボイスは、海兵たちの日常のことをよく知り尽くしているようなしゃべりっぷりで、末端の兵士の個人情報まで及ぶこともあった。「第25海兵師団のスミス兵曹さん、明日はあなたの23回目の誕生日よね。少し早いけどお祝いの言葉をプレゼントします。一日でも多く長生きしてね。それと・・・ビンセント伍長さん、あなたの田舎のスプリングフィールドでは、雪が積もって男手が足りないみたい。それにお父さんの牧場ではまた子馬が産まれたそうよ。無事に帰れてかわいい子馬が見れることを祈ってるわ」。またある時など、攻撃を予告するような放送があった。「ウルシーのみなさま、ごきげんよう。そこは穏やかで快適なところですね。今夜は面白いプレゼントを用意しています。もうしばらくお待ちくださいね 。米兵たちは最初、ヒット曲か何かが流れるものと期待していた。しかし彼らの期待は見事に裏切られた。それからきっかり15分後のことだった。海面すれすれに飛んで来た特攻機が停泊中の空母に突っ込んだのである。空母は大音響とともにものすごい火炎を吹き上げた。この攻撃では米兵140名が死傷した。こういうことが度重なると、魔法の水晶の玉かなんかで、自分たちの行動をすべて見透かされているように思えて来るのも確かで、海兵たちの多くは得体の知れぬ怖さを抱くようになっていた。だがその一方、彼女の下町を思わせるハスキーボイスからにじみ出る雰囲気に、何とも言えない一種独特の親しみを感ずる者もたくさんいたのも事実であった。このハスキーボイスの持ち主は、ことあるごとに自分を孤児のアンと名乗っていたが、いつの間にかアメリカ兵たちから東京ローズの愛称で呼ばれるようになる。この放送は「ゼロ・アワー」と呼ばれ、太平洋戦争下に日本軍が行った連合国向けの対外宣伝を目的としたNHKの謀略放送であった。最初、この放送は「日の丸アワー」と呼ばれ、連合軍の捕虜などに軍部が用意した原稿を読ませるというものであった。しかし、日の丸アワーという響き自体が挑発的で、逆に敵がい心を高めかねないとして、後に名称が変えられることになったのである。いずれにせよ、その目的は戦争に対する無意味さを相手の兵士の心に植え込み、戦意を弱めることであった。最初の放送は、1943年の12月2日、午後1時(日本時間)から30分放送されたが、以後、終戦直前まで放送されることになる。この頃、アメリカ兵の中では、日本に行ったら俺がまっ先に東京ローズとデートするんだぜという冗談が流行っていたらしい。それほど、東京ローズはアメリカ兵の間では人気があった。まさに東京ローズは彼らからしてみると、カリスマ的アイドルと何ら変わることのない存在なのであった。男であれば、例え敵側の謀略放送であったとしても、またその内容がどうであれ、女性アナウンサーの声に一種のロマンを感じてしまうのも自然の人情というものであったろう。アメリカ兵の多くは、東京ローズを一目見たいがために誰もが日本一番乗りを夢見ていたのである。これでは敵の戦意を削ぐどころか逆に士気を高めているようなものであったが、当の大本営では知る由もないことであった。     
                * 東京ローズを探せ *        
 戦後、日本を占領したアメリカ軍は、ゼロ・アワーの関係者を捕らえるべく血眼になって探しはじめた。しかし東京ローズを始めスタッフの多くは戦後の混乱の中に姿を消してしまっていた。そこである通信社は一計を案じて罠をかけることにした。元、ゼロ・アワーのアナウンサー、東京ローズが取材に応じてくれたら、5千ドルを与えるという条件を出したのである。5千ドルは当時としては破格の金額で、今のお金では贅沢な世界一週旅行が出来るほどの大金である。東京ローズの独占インタビューに成功したともなれば、天皇のインタビューにもまさるほどの大金星となるからだ。するとまもなく、これに釣られて、自分が東京ローズだと称する一人の日系人女性があらわれた。小柄でやや伏し目がちで内気な感じ、やや角張った顔の輪郭、声はしゃがれ声でとてもプロのアナウンサーの声とも思えない。果たしてこれが問題の東京ローズなのかと誰もが疑いの目を向けたのも事実である。あまりのイメージと実像とのずれに狼狽を隠しようがないという感じである。彼女の名はアイバ・戸栗と言い、1916年カリフォルニア生まれの日系二世であった。以下が彼女のおいたちである。アイバは、カリフォルニア大学を卒業すると、1941年7月、祖父の故郷だった長野を訪れるべく日本に来日する。病気のおばを見舞うためである。しばらく滞在するうちに運悪く日米開戦となったのであった。止むなく、日本に残ることとなった彼女は、得意の英語を生かせて軍関係で働き始めることになる。しかし、彼女の国籍はアメリカ国籍のままであった。       
               アイバ・戸栗郁子(とぐりいくこ)
1916年7月4日~2006年9月28日、対米謀略放送の花として活躍する。戦意を低める目的だったが、皮肉にも戦いで疲れたアメリカ兵の心を癒し絶大な人気を博した。この時から、アイバは絶えず警察から日本国籍に変えるように強請され続ける。だが、彼女は頑としてアメリカ国籍を放棄することを拒んでいた。しかしそのため、敵性外国人あつかいされ、警察から何かと圧力をかけられたのは事実だ。恐らく、7月4日というアメリカ独立記念日に生まれたアイバは、自分の誕生日を心底誇りにしており、心まで日本に同化したくなかったのであろう。だが、もしこの時、日本国籍を取得していれば終戦後、アメリカで裁判にかけられることはなかったのである。皮肉なことに揺るぎない彼女の愛国心が、将来、裏目に出ようとはさすがに彼女自身想像だにしなかったに違いない。最初、アイバは日本語の原稿を英語に訳す作業をしていたが、そのうちアナウンサーとして起用され、連合軍兵士相手に原稿を読むようになる。 兵士の多くが男であることから、女性としてのアピール性が期待されたのであろう。やはり、連合軍兵士の心の中に厭戦気分を生じさせ戦意を喪失させるためには、悩殺的な甘い声を持つ女性アナウンサーがうってつけだと軍部が考えたのである。その内容は、今して思えば、音楽とお喋りをミックスしたデスクジョッキーと言うべき構成であった。彼女の読む原稿の題材は書物や映画などから幅広く取られた。例えば、アメリカの歴史は従来モンロー主義に基づき他国には不干渉主義を貫いているはずなのに、どうして関係のないアジアの国々の問題にくちばしを突っ込むの? これは矛盾してはいないかしら?というふうにイデオロギー的に迫ってみたり、反戦小説を脚色してラジオドラマ調に迫ることもあった。 また、リアル感を持たせるために、日本各地にある収容所の生の捕虜の声を取材し、それらをネタに原稿がつくられたりした。開始前にポーズをとる東京ローズことアイバ・戸栗。当時のスタジオは神田の駿河台にあった。こういうわけで、彼女のしゃべる内容が個人しか知りえぬプライベートなものに仕上がることもあり、聞く者に心理的恐怖を与えることになったのであろう。元々、東京ローズはアイバ一人ではなく複数いたという説もある。このことを裏付けるように、兵士たちが証言した東京ローズの声質はアイバのそれとは一致しないのが実情であった。ある兵士は甘味を帯びたハスキーボイスであったと言い、またある者は、低音で落ち着いた大人の女性の感じだったと主張する。そうかと思えば、聞くだけで悩殺的、ゾクゾクするほどセクシーボイスだった言い張る者さえいた。しかし、どう考えてもアイバの声はこれらの特徴とは当てはまらないのだ。彼女の声はどうひいき目に見てもセクシーとは言い難い。ハスキーというより、むしろガラガラ声の悪声に近いのである。では本当にアイバが東京ローズであったのだろうか? また、彼女の他にも該当する女性がいたのであろうか? 資料によると、ゼロ・アワーのスタッフにはアイバの他に13人の女性アナウンサーがいたらしい。しかし、正式にはアイバがほとんどパーソナリティの役割をこなし、他の女性はラジオドラマなどで別の女の声が必要な時とか、彼女の都合の悪い時だけの補欠扱いだったようである。するとやはりアイバが東京ローズであったと考えるのが妥当であろう。恐らく、電波に乗った彼女の声は、聞く者の脳裡にさまざまなイメージを掻き立て、それが増幅されて独自な魅力に発展していったのかもしれない。終戦の4か月前、当時の中立国、日系ポルトガル人の通信社員フィリップ・ダキノと結婚する。ポルトガル人と言っても、ポルトガル語も全く話すことが出来ない日本生まれのハーフである。アイバは世田谷の池尻の下宿で、以後逮捕されるまでの短い期間、ささやかながらも楽しい新婚生活を送ったということである。       
                * かたくなに心を閉ざすローズ *         
 こうしてせっかく名乗り出たアイバであったが、時の人とばかりマスコミに踊らされただけで、結局、約束の5千ドルは支払われず、逆に反逆罪で逮捕されてしまった。当時の新聞(昭和23年頃)のトップ記事には「東京ローズ」とか「東京のバラ」とか言う見出しでいつも紙面をにぎわせていたから、世間がいかに彼女に関心を向けていたのかがわかる。その後1年ばかりの取り調べを受け、巣鴨の拘置所で過ごす。だが運よく証拠不十分で釈放される。しかし、批難の声が本国のアメリカの方でも高まり、再び2年後に反逆罪で逮捕されてしまうのである。またこの頃、妊娠していたアイバは男児を出産するが、戦後の医療器具不足が災いして出産直後に死亡。。かくして我が子の不慮の死に失望も消え失せぬ最中、彼女は逮捕されアメリカに強制送還されてしまう。そしてこの時以来、夫とも別れ別れになってしまうのである。GIたちに囲まれる東京ローズ。まもなく喧騒の中に放りこまれ、渦中の人となる運命にあった。裁判は人種的偏見に満ちたものであり、陪審員にも問題があった。この裁判でアイバは有罪を宣告され、国家反逆罪としての汚名を着せられ、禁錮10年と罰金1万ドルを言い渡された。それに加えてアメリカの市民権さえ剥奪されてしまうのである。母国のアメリカを愛するあまり、頑として日本に帰化しなかったのにひどい仕打ちである。しかしこの時、戦後のアメリカ国内は、反日感情が最悪の状態で、旧敵国の血を引くアイバは人々の見せしめにされたというのが正しい見解であろう。アイバはアメリカの土を踏むなり、夫や息子を戦争で失った母親たちから猛烈な罵声を浴びせられたという。こうして、彼女はウエストバージニアの女子刑務所で過ごすことになった。しかし、1956年に模範囚として6年余りで釈放される。罰金の1万ドルは、借金をしたり財産をはたいてかろうじて済ませたものの、市民権は回復されぬままであった。そのため無国籍のアイバは、パスポートが下りず、日本にいる夫のフィリップも入国を拒否されるわで、以後二人は二度と顔を合わせることは出来なかった。しかも、夫のカトリックに改宗していたアイバは、掟により離婚すら認められず戸籍上夫婦のままでいるしかない状態であった。アイバはこの頃から、かたくなに心を閉ざし始める。それは常軌を逸したと言ってもいいほどで、あらゆる人間に異常な警戒心を抱き、近寄って来るどんな人間にも本心を語ろうとはせず沈黙を守り通す。何度も騙され、失意や失望を味わわされて来たのだから当然と言えば当然である。しかし、その後、裁判の不当性が指摘されるとともに、彼女の特赦を要求する運動が起こり始めていた。そのうち、全米の日系人たちや州知事、カリフォルニアの議員なども彼女を弁護して動き出す。そして、1977年、当時のフォード大統領は世論に動かされて、ついに彼女に特赦を出した。 つまり、アイバは30年以上もかかって市民権を回復することが出来たのであった。晴れて自由の身となったアイバは、その後、シカゴに引っ越しをし、父が創業した輸入雑貨店を営んで晩年まで働いていたという。そして、2006年9月28日、脳卒中で90歳で死去したのである。   
終わりに:自分の帰属意識(identity・アイデンティティー・自己同一化)の変移について
ー「10年」ぶりに今回の題材に接していてあらためて実感したことがある。その当時はまだ私は自らを「日本人」(永住者)とした立場から眺めていた。「カナダ人」だと明確に意識し、そう口にするようになったのはここ5~6年に過ぎない。
ーそして現在は彼女たちはわたしの「同胞・北米日系人」大先輩として仰ぎ、「日本」はもはや「心のふるさと」でしかないのを実感している。
ーどちらがいいわるい善悪正邪など無関係に、私はもはや「カナダ人」(アメリカや英連邦も同胞のようなもの)なんだと貴重な探索ができた気がする。さてまたまた「丑の刻」が迫ってきました。寝ることにします。
ここまで読んで下さった方々はどのような印象を持っているかな、などと考えながら失礼させて下さいませ。ありがとうございました。ほんとうにいつも感謝しております。
2016年10月 Sammy from Canada おやすみなさい☆ドイツ語→戸栗女史の生涯(背景)Der Name „Tokyo Rose“ (名称東京ローズ→戸栗郁子)wird hauptsächlich mit Iva Ikuko Toguri D’Aquino in Verbindung gebracht, einer in Los Angeles geborenen Japanerin, die 1941 (41年、ロサンゼルスから来日(入国)nach Japan ging, um einen kranken Verwandten zu besuchen. Nach dem überraschenden Kriegsausbruch verweigerte man ihr die Rückreise in die USA, da sie keinen Reisepass hatte. Um sich ihren Lebensunterhalt zu verdienen, arbeitete sie in Japan zunächst als Klavierlehrerin, dann bei einerNachrichtenagentur und auch bei dem japanischen Sender Radio Tokyo(43年からラジオ東京で勤務). Ende 1943 begann sie als eine von 20 Moderatorinnen der Sendung (20人ほどで番組「ゼロアワー」設置)“The Zero Hour” (deutsch: „ドイツ語表記→Die Stunde Null“), die schon bald Bestandteil der japanischen Propaganda(日本の宣伝放送) wurde. Ihr Pseudonym in der Sendung war Orphan Ann. Es gibt allerdings keinen Beweis dafür, dass Iva Toguri jemals den Namen Tokyo Rose in einer ihrer Sendungen erwähnt hat.(東京ローズという名前はアメリカの間で広まった)Der Ursprung des Namens(名称) scheint in der amerikanischen Marine(アメリカ海兵隊) oder Armee (陸軍)zu liegen, wo er Anfang 1944 (1944年に)erstmals auftauchte. Andere bekannte Sprecherinnen waren Foumy Saisho, deren Pseudonym Madame Tojo war(仮名→「マダム東条」フミ宰相?, Myrtle Lipton mit dem Pseudonym Little Margie(マートル・リプトン=仮名「小さなマギー」) oder auch Manila Rose (「マニラの薔薇」)sowie Ruth Hayakawa unter dem Namen Nightingale of Nanking(ルース・早川(戦後(写真あり)行方不明)は「南京のナイチンゲール」の名称)
              東京ローズ残酷物語(7)「ゼロ・アワー」 
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-10631658319.html
2010-08-28 00:48:04 日本の敵対放送の主力要員は誰か。五島勉の本によれば、すでに潜り込んで日本側の信頼を受けていた、同盟国のドイツ人、シュミット夫妻。それに、捕虜になった将校たちと、ヒルデによって集められた混血や日系人たちである。準備が整ったのは、年明けて1943年はじめ。それから日本放送協会の対連合国向けプロパガンダ放送番組「ゼロ・アワー」がはじまった。「東京ローズ」を名のりはじめたのは11月頃といわれている。ドイツ軍歌の一つだった「リリー・マルレーン」は、電波に乗ったらたちまち人気が出て、各国語に翻訳され聞かれた。音楽という特性から敵軍にも同様、味方の兵士にも良くも悪くも作用する。同じような言語圏ならなおさらだ。かし、「ゼロ・アワー」は、対象となる相手が米国と決まっている。しかも英語である。 一般日本人が聴いたってわかるはずがない。だから郁子は、ヒルデ・シュミットや捕虜将校たちと協力して、ひそかに日本内部の秘密情報を暗号で米軍に知らせていたと、少なくとも郁子はそう思っていたようだ。 「というのは、ちょうどあたしたちが放送をやりだしたころから、太平洋の米軍はじりじり日本軍を圧迫しはじめたからです。一部の戦闘ではまだ日本軍が勝ってましたけど、全体として、米軍がイニシアチブをにぎったことがよくわかりました。日本の大本営の公式発表でさえ、ガダルカナル、クエゼリン、ルオット、サイパン……と、大切な拠点がつぎつぎに米軍に奪われていくのをかくしきれませんでした。この米軍の逆転は、もちろん米軍自身の力によるものだったと思います。でもたぶんその何%かは、あたしたちの流す秘密情報のおかげもあったに違いない、とあたくしは信じています。実際、珊瑚海海戦やミッドウェー海戦の勝利にしても、山本司令長官機の撃墜なんかでも、日本の内部からの情報がなければ―そしてそれがスピーディに電波で伝えられなければ、ああいうタイミングをつかむことはむずかしかったでしょう。あたしたちはそのための極秘の連絡任務を果たしているのだ、とあたくしはチャールズ(カズンズ)少佐に教えられました。ガダルカナル戦から沖縄戦まで、あたしたちの送った情報が役立ったことは数知れないと少佐はいいました。あたくしも―ほかの女性アナウンサーたちも、この少佐の言葉を信じてつらい放送をつづけてきたのです。ですから、あたくしが米国側から裁かれる理由はこれっぽっちもありません。それさえわかっていただければ、あとはくどくど申し上げることもありませんわ……」(『東京ローズ残酷物語』、145~146頁)五島勉による本の登場人物は、偽名が多いので、実際誰が誰と一致するのかわからなくなることもあるが、この対米放送のリーダー格であったチャールズ・カズンズ少佐は、トーキョー・ローズを引き合いに出せばどこにでも共通して登場するくらいなくてはならない人であった。カズンズ少佐とは、オーストラリア人で、元シドニー放送の解説委員を務めていた人だが、シンガポールで捕虜となり、結果的に我が国の対米謀略の支柱を担った人である。東京ローズを生んだ情報局管轄のゼロ・アワーはもとよりのこと、軍直属のいわゆる捕虜放送でも不本意ながらリーダーの位置につかざるを得なかったのは、とりもなおさず氏が有能だった証拠であろう。 戦時中、氏は我が国の諜報宣伝基地ともいうべき駿河台技術研究所(現お茶の水・文化学院)で過ごし、戦後オーストラリアに帰国してから在日時代のポジション故に反逆罪の嫌疑を受けたが、最終的には不起訴となった。(『特赦』、上坂冬子著、文藝春秋、1978年、110~111頁) 駿河台技術研究所? 元参謀本部宣伝主任恒石重嗣(つねいし しげつぐ)中佐のことばを借りれば、 「謀略放送といえば、東京ローズのゼロ・アワーが真先に引き合いに出されますが、実はあれはいわゆる謀略放送のほんの一部にしかすぎません。主流は何といっても駿河台技術研究所(捕虜の間では通称文化キャンプ)の捕虜たちの行った放送ですよ」(『特赦』、200頁)旧陸軍参謀本部駿河台分室は、西村伊作によって設立された専修学校文化学院を、1943年(昭和18年)、校長西村伊作を拘禁し、校舎は軍部が接収し、連合軍捕虜収容所となったいきさつがあった。そこで、「日の丸アワー」(1943年12月~1945年8月14日)といわれるアメリカ軍捕虜による大本営発表やラジオ劇が放送された。恒石中佐(最終肩書)は、ゼロ・アワーの責任者でもある。ということは、五島勉の著作で「管理職」立石少佐というのと同一人物か? 駿河台技術研究所は参謀本部八課の管轄であった。八課というのは第二部に属し、宣伝、謀略、特殊情報、防諜に関する業務を行なうところである(第二部は、他に五課=独、伊、ソ、六課=米、英、七課=満、支、そして国内宣伝のための報道部の四つの部署があった)その八課の人々が戦後から今日まで「駿河台会」という名の親睦会を持っており、ほぼ毎年一回の割で集りをつづけて、すでに三十回を越えている。…中略…一九七七年(昭和52)年版の駿河台会の案内状は次のような文面で始まっていた。「……早戦後三十二年となり、さきごろ東京ローズも合衆国大統領の特赦を受けました」そこでこれを機に久しぶりに集ろうではないかとつづき、「今回は恒石さんも出席されるとのことで範囲を拡げて参集し、若かりし日の思い出話を」語ろうとある。…中略…「今回は恒石さんも…」と殊更に記してあるのは、氏が宣伝主任として関係した放送などの中から不本意にもNHKゼロアワーの東京ローズのような犠牲者を出したことを配慮してか、これまで殆ど公の場に顔をみせたことがなかったからであろう。(『特赦』205~206頁) 恒石重嗣中佐の弁が正しければ、米国は真先に主流であるはずの「駿河台技術研究所」をやり玉に挙げてもよかったはずである。 終戦後の8月19日、捕虜を収容するには手薄で危険になった駿河台文化キャンプから大森捕虜収容所に、捕虜たちに同情的だった日系二世によって深夜移動されている。大森収容所にはすでにアメリカ海軍がきており、監視されていた。また、恒石中佐が東京ローズの証人として何回も渡米したことはあっても何事もなかったかのように戦後を送っている。恒石中佐は何も知らなかったか、保身のため黙殺しているのか。 第一「駿河台技術研究所」が何をしていたという報告も聞いていない。かろうじて、『特赦』(上坂冬子著、文藝春秋、1978年)の最後に「第六章 文化キャンプの外人捕虜」(199~257頁)というタイトルで当時のことを紹介していた。ほのぼのと書かれていて調子が狂ってしまうが、前線でもなく戦場でもないのであんがいそんなこともあったかもしれない。もちろん、「東京ローズ」の真相が解明されているわけでもない。『東京ローズ』ドウス昌代著には、郁子とゼロ・アワーでアナウンスしたという文化キャンプ所属のアメリカ軍人の捕虜インスが弁護側証人としてでてくるが、終戦後トグリ・イクコと決して同等の立場では扱われていなかった様子が描かれてある。インス(三十七歳)……。立派な体格を軍服に包み、口髭をたくわえ、胸に数々の勲章を飾って、証人席についた。彼は終戦後、少佐に昇格、サンフランシスコのプレシディオ軍用地に住んでいた。同じアメリカ人として対米宣伝放送に従事したにもかかわらず、民間人であったアイバが反逆罪で起訴され、一般民間人とはずいぶん立場が違う彼が、起訴どころか反対に昇格していたこの矛盾に疑問をいだいたものは少なくなかった。(『東京ローズ』、ドウス昌代著、273頁)どこまでも、あからさまに差をみせつけられる。「東京ローズ」トグリ・イクコは、運の悪い単なる犠牲者というよりも、生贄として選ばれていたのではないだろうか。

*Obasan is a novel by the Japanese-Canadian author Joy Kogawa. First published by Lester and Orpen Dennys in 1981, it chronicles Canada's internment and persecution of its citizens of Japanese descent during the Second World War from the perspective of a young child. In 2005, it was the One Book, One Vancouver selection.
*Joy Nozomi Kogawa CM OBC (born June 6, 1935) is a Canadian poet and novelist of Japanese descent.[1]


デンマーク語→戸栗女史の晩年at den skulle virke mod sin hensigt, og i stedet anspore lytterne til øget kampvilje(強制収容所?キャンプ(おそらく刑務所(投獄). Det klarede hun, men en af omkostningerne var, at hun selv blev en nok så forhadt skikkelse i USA. Hun blev identificeret som Tokyo Rose (東京ローズと確認)som hun både var, og ikke var – Tokyo Rose var et tilnavn som blev givet til enhver kvindelig engelsktalende propagandastemme fra Radio Tokyo.(宣伝放送)Dette førte hende i fængsel for landsforræderi, da hun endelig kom hjem; at hun havde vidner på, at hun havde arbejdet for den amerikanske side(アメリカ側), gjorde ikke tilstrækkeligt indtryk.Hun blev først rehabiliteret i 1977(77年に名誉回復).インドネシア語→東京ローズTokyo Rose adalah nama (名前)yang diberikan tentara sekutu selama Perang Dunia II untuk seorang penyiar propaganda wanita Inggris yang diperkirakan berumur 20 tahun.Amelia Earhart (20人?関係者(担当者?)yang hilang saat penerbangan keliling dunia tahun 1937(37年の日中全面戦争突入からかな?) dikatakan bahwa ia dipaksa untuk membuat siaran propaganda radio(ラジオ宣伝放送東京ローズ) sebagai Tokyo Rose.Axis Sally was the generic nickname given to female radio personalities who broadcast English-language propaganda for the European Axis Powers during World War II(枢軸サリーとは戦争中、枢軸国(ナチスドイツ)が行った対連合軍向け英語放送の正式総称である). These included:Mildred Gillars, German-American who broadcast for Germany(ドイツのために放送を行ったドイツ系アメリカ人ミルドレッド・ギラーズ) Rita Zucca, Italian-American who broadcast for Italy(イタリアのために放送を行ったイタリア系アメリカ人リタ・ズッカ)フランス語→Mildred Gillars (29 novembre 1900-25 juin 1988) est une Américaine originaire de Portland (ギラーズは1900年11月29日生まれ、メイン州ポートランド出身。1988年6月25日死去)dont la carrière d'actrice a tourné court et qui s'installe en Allemagne(ドイツ) dans les années 1930. (1930年に訪独・滞在)Devenue présentatrice à Radio Berlin en 1940(ラジオベルリンで40年から45年五月6日まで働く), elle anime jusqu'au 6 mai 1945 une émission à destination(到達・目的地) des populations et troupes anglo-saxonnes (アングロサクソン(英米?)人口へ向け放送された?)et destinée à leur saper le moral en évoquant par exemple l'infidélité fréquente des épouses et fiancées de soldats(東京ローズといっしょ→連合軍将兵の戦意を挫き厭戦気分蔓延狙い). Ce qui lui vaut d'être surnommée Axis Sally(誰が枢軸サリー?). Outre de la musique américaine ou anglaise(アメリカの英語((歌謡曲?)音楽が放送された), son émission, Home Sweet Home(ホームスイートホーム(名称)), diffuse un discours antisémite(反ユダヤ) et hostile au président Roosevelt(ルーズベルト大統領に敵対). Capturée à la fin de la guerre(終戦間際に逮捕、拘束), elle est jugée en 1949 pour trahison et condamnée à une peine de prison de 10 ans minimum et pouvant aller jusqu'à 30 ans(1949年、反逆罪で起訴され有罪、最低懲役10年~最高30年の禁固刑). Elle est libérée sur parole en 1961 (61年に仮釈放)et s'installe dans une institution catholique de Colombus (Ohio)オハイオ州のコロンバス神学校?で英独を教えた?(翻訳?未熟), où elle enseigne l'anglais et l'allemand.

返信:あ (トロント) 2017-12-02 16:09ここで褒められない韓国、朝鮮戦争で灰になって、国が分断されて、最貧国の仲間入り、何年でもうすぐ先進国、中進国の最先端になった。アフリカ人にはやる気がない。韓国でもできたんだよ。韓国でも。あの韓国でも←堕落(退廃)☆怒羅権☆Dragon Osama(嘆息)

Reply: Ah (Toronto) 2017-12-02 16:09 South Korea, which cannot be praised here, became ash in the Korean War, the country was divided, and it became one of the poorest countries. Soon became the cutting edge of developed country, semi‐developed country in the world.  Africans have no motivation. Could do it by Korea. Even by Korea. Even by that Korea←Decadence☆Dragon Osama (sigh)Réponse : Ah (Toronto) 2017-12-02 16:09 La Corée du Sud, qui ne peut être louée ici, est devenue cendre pendant la guerre de Corée, le pays a été divisé, et il est devenu l'un des pays les plus pauvres. Bientôt est devenu la pointe de la pays développée, pays semi-développé dans le monde.  Les Africains n'ont aucune motivation. Pourrais le faire par Corée. Même par Corée. Même par cette Corée ←Décadence ☆Dragon Osama(soupir) http://www.torontopolice.on.ca/crimeprevention/hatecrime.php

川島芳子(1907年5月23日-1948年3月25日)爱新觉罗氏,原名顯玗,漢名金璧輝,滿洲鑲白旗人,清朝皇族,第十代和碩肅親王善耆第十四女。與蒙古丈夫一同參與滿蒙獨立運動,二戰結束後,1947年10月22日在中華民國北平市被河北高等法院以漢奸罪判死刑。

李香蘭(1920年2月12日-2014年9月7日),出生名山口淑子(日语:山口 淑子/やまぐち よしこ Yamaguchi Yoshiko),第二次結婚後戶籍名大鷹淑子(日语:大鷹 淑子/おおたか よしこ Ōtaka Yoshiko),日本人,祖籍日本佐贺县杵岛郡北方村(現為佐贺县武雄市北方町),生于中華民國奉天省奉天市北煙台(今遼寧省燈塔市),李香蘭是其義父為之取的中文名,沿用為藝名,也是華人較為熟知的名字。李香蘭受過正式西洋聲樂教育,是抒情女高音,擅長美聲唱法,是当时極為知名的歌手、電影演員,后擔任日本參議院參議員。2014年9月7日,因心臟衰竭在家中去世,享年94歲[1][2]。

















    

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