日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

【Spy Sorge/Supai Zoruge (2003)】「ゾルゲ事件Sorge incident」Рихард Зорге и Екатерина Максимова/Интервью с Ханако Исии『わが異端の昭和史(石堂清倫)』《Ex-JCP Member Ito Returns Home from China after 29 Yrs》(CANADA)2016

ゾルゲ事件・体験史:

伊藤律(1913年6月27日広島県生まれ岐阜県出身—1989年8月7日),日本政治运动家、共产主义者,曾担任日本共产党政治局委员。


Richard Sorge (russisch Рихард Густавович Зорге, Richard Gustawowitsch Sorge; * 22. Septemberjul. / 4. Oktober 1895greg. in Sabuntschi bei Baku, Russland; † 7. November 1944 in Toshima, Tokio) war ein deutscher Kommunist, Staatswissenschaftler und für den sowjetischen Militärgeheimdienst tätiger Agent und Spion. Er war vor und während des Zweiten Weltkriegs als Journalist und in geheimer Mission für die sowjetische GRU in China und Japan tätig. Sein Pseudonym lautete unter anderem R. Sonter, sein GRU-Deckname für den Japaneinsatz „Ramsay“ (russ. Рамза́й).

Er beschaffte im Juni 1941 die Information über den genauen Termin des Angriffs Deutschlands auf die Sowjetunion und im September 1941 die Information, dass Japan trotz des Dreimächtepakts mit dem nationalsozialistischen Deutschland keinen Angriff auf die Sowjetunion beabsichtigte.
ーゾルゲについては「事件」そのものより、なぜか日本の自称「左翼」たち(大学教授や「おしゃべり屋」連中が取り巻いていた)がゴチャゴチャやっていた記憶が新しい。
ーこの方は尊敬しておりますが、90歳以上の長寿だった「新人会」(東大「新人会」、知識人たちの組織)の故石堂清倫氏(戦前は「治安維持法」で検挙・転向)が「ゾルゲ事件・50周年」の式典で講演していたのが勉強になった。その後に続いた尾崎秀実の異母弟故秀樹氏(著作『ゾルゲ事件』中公新書)より全然興味深くすばらしい内容だった。

Kiyotomo Ishido石堂 清倫(Kiyotomo Ishido,1904 April 5th石川県出身 - September 1 2001) is social thought, social activist, critics of Japan.

Hotsuki Ozaki (japanisch 尾崎 秀樹, Ozaki Hotsuki; * 29. November 1928 in Taipeh台湾台北市生まれ; † 21. September 1999) war ein japanischer Autor und Literaturkritiker.
ーそして日本共産党政治局員だった長らく「スパイ」のレッテルで迫害されてきた故伊藤律氏(マッカーサーとGHQのレッドパージ(共産党の非合法化・解散命令と『赤旗』発行禁止)開始後、徳田球一(53年に北京で病死)や野坂参三などとともに中国に亡命(というより「文革」中、ずっと「拘禁」され拷問により右目を痛め失明状態・毛沢東の死と文革終了後、80年に帰国。車椅子だった)をどこへ行っても「こきおろす」ばかりだったのが印象的だった(その後の調査で伊藤氏は「潔白」「無実」が証明されたといえる)。伊藤氏は帰国後のインタビューで「あなたはスパイだといわれているが、本当ですかと(笑)・・・本当かどうかは歴史がやがて明らかにするでしょう」(氏は89年に死去)。まさにその後、「歴史」が明らかにしました。
ーともあれ、そうした「へんな連中」(内部の陰惨さたるや(しょっちゅう悪口をいいあったり、イジイジともめている)思い出すだけで吐気がする)がとりまいていたので「ゾルゲ事件」やゾルゲ、尾崎たちそのものにはうさんくさい雰囲気が漂ってしまっていたのが本音です(まだ私も20代で若気の至り。こういう「高学歴」(いわゆる「学校秀才」)人間たちに嫌悪感ただならずでした。今もたいして変わらず)。
ーだから私は日本における「左翼」あるいは「革新派」などとのたもうてやまない人間たちに「右翼」や「国粋勢力」より不信感といかがわしさを感じています。影響力もまったくなく(別に’大衆’に訴えようとしているとは思えなかった)少数の(趣味的)’同人会’(誰も読まないような’機関紙’などを発行)みたいな印象を受けた(実態はソ連や中国はじめ「社会主義諸国」及び自分たちは何でも正しい。日本共産党(をこれまたどこへ行っても嘲笑い、ぶったたいていた)には全部反対。これに過ぎない)。個人的な感想とはいえ(みんなとはいいませんが、とりわけ「活動家」を気取っている人は)傲慢であり(自己満足の世界)一般の「労働者」や「普通の市民」を見下しており(自己批判の要素もなかった)偏見を持っている人が少なくない(「言ってること」と「やってること」が全然違う)。

Spy Sorge (スパイ・ゾルゲ) is a Japanese film directed by Masahiro Shinoda in 2003, about the Soviet spy Richard Sorge. Shinoda intended the film, a long and lavish production that had only modest critical and commercial success, as his final feature.

Шпион Зорге (スパイ・ゾルゲ) — это Японский фильм режиссера Масахиро Шиноды в 2003 о советском a> Шинода задумал этот фильм, долгую и щедрую постановку, имевшую лишь скромный критический и коммерческий успех, как свой последний полнометражный фильм.Рихард Зоргешпион
映画『スパイ・ゾルゲ』:主演・モックン氏(尾崎役)・助演小雪女史(ヴェケリッチBranko Vukelić/Бранко Вукелић(日本名武家利一・クロアチア人Srbi u Hrvatskoj/Срби у Хрватској)の愛人役):
この映画はびっくりしました。モックン氏は「シブガキ隊」の印象が強すぎて’なめて’いました。名演技感動しました。アイドル時代にちょっと「ヤックン氏」も含め(「トミカ」のおもちゃシリーズCMでひさしぶりに拝み、驚きました)むかし、さるところで(ゴロツキ中学生のひとり)ご迷惑かけてすみませんでした(反省)。
ーそれはともかく、これほど史実に沿った名作は今だにないと考えます。また「背景」や「現場」などの「映像」もすばらしかった。戦後すぐの黒澤明氏の『わが青春に悔いなし』(原節子主演)よりすばらしかった。
ーほかの役者の方々も天晴れものだと思います。ゾルゲの愛人・石井花子氏(上の講演にもいらしてました)役葉月里緒奈女史もいい演技していました(この方は「帰国子女」で、ちょっと間接的にいろいろ知っておりました)。小雪女史は海外で知名度が高い女優さんの一人です(『ラスト・サムライThe Last Samurai』トム・クルーズ氏主演=『サムライカウボーイSAMURAI COWBOY ワイルドハート~遥かなる荒野へ』(郷ひろみ氏主演)と同次元「欧米式」いいかげん設定にしかみえない→「個人の意見」⇔「問題提起」に過ぎず)。
*Hanako Ishii(石井花子,1911 13 maja岡山県出身 - 2000 1 lipca) to20 Kobieta w Japonia stulecia. Związek Radzieckiszpieg, Ona pozostawała w związku z Richardem Sorge jako jego kochanką,
ーゾルゲの情報により中共(31年、瑞金に中華ソビエト共和国臨時政府を樹立(主席毛沢東、中央委総書記博古(秦邦憲)、張聞天)。34年、蔣介石の追討軍により放棄(消滅)。「長征」に入る)は国民党軍の包囲網を5回も突破できたといわれる。
ーまた独ソ戦勃発後の「御前会議」によって日本は「南進」を決定。当面は対ソ戦(シベリア侵攻)は行わないとする情報(映画の中でも見事に再現されている)をモスクワに伝え、おかげでスターリンはモスクワ攻防戦に勝利したといわれます(これについては諸説あり)。ともあれ、例によっておかしな方向へのずれが混じり、気抜けしてしまいました。また後で再開☆ サム

「ゾルゲ事件」概要http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/what_kyosantosoritu_zorugegiken_gaiyo.htm
ゾルゲ事件とは、世界史的な衝撃事件であったロシア革命によるソビエト連邦の創出、続くコミンテルン活動の「紅い正義」が信じられていた時代の、それに殉じて身も心も捧げようとした革命家達による第二次世界大戦前夜の「在日赤色諜報団事件」のことを云う。その最高指導者がドイツのナチス党員その実ソビエト赤軍諜報員のゾルゲであり、その最高協力者が近衛内閣の有能なブレーンとして縦横な活動をしていた尾崎秀実(ほつみ)であった。この事件に関係したとして検挙された者は総計34名とされている。ゾルゲ事件は「20世紀最大のスパイ事件」と形容されており、「ゾルゲ事件・総合研究のページ」は次のように評している。 「太平洋戦争前夜の日本を揺るがせた国際スパイ事件であり、歴史上数多いスパイ事件の中でも、その影響力の大きさは空前絶後であり、世界の歴史を変えたスパイ事件であるとの評価は現在でも不動のものである」。 主役ゾルゲは、1930年代より赤軍のスパイとして諜報活動を展開し、1933.9月、ドイツのフランクフルター・ツァイトゥング紙などの記者として来日、ナチス党員として駐日ドイツ大使館(駐日大使オットー陸軍武官)の私設情報担当となって活躍し、日本の政治、外交、軍部の動向、軍事に関する情報の入手、通報に努めた。当時のヨーロッパ情勢はナチス・ドイツがソ連へ侵略を開始し、独ソ戦に突入していた。ドイツ軍は首都モスクワに迫りつつあった。スターリン率いるソ連は、三国同盟を結び強固な関係にあった枢軸国ドイツと日本に、東西から挟み撃ちされる危機に陥っていた。当時日本の軍部内では、太平洋戦争の方針を巡って激論が続いていた。陸軍は主敵をソ連に据えて「北方守備論」を唱え、海軍は主敵をアメリカに据えて「南方進出論」を唱えており、その他戦略戦術を廻って決着が着かなかった。この問題に決断を下すため、政府は御前会議を開催し、最終的に南方進出の道を選んだ。ゾルゲは、この情報を満鉄(南満州鉄道)調査部嘱託にして時の近衛文麿首相のブレーンであった尾崎秀実(おざき・ほつみ)から入手した。
「日本は南方進出を最終決定。日本にソ連攻撃の意図なし」と打電したゾルゲの情報が如何に価値をもっていたか。「日本の南進政策決定を事前にキャッチしてモスクワに打電している点で史上の功がある」。但し、史実を精査すれば、この報告に対してスターリン指導部はその価値を見出し得なかったとも云われている。そうであるとすると、ゾルゲの悲劇は計り知れない。このことを、ソビエト史専門東大助教授・菊池昌典氏は次のように述べている。 「ゾルゲの悲劇性というのは、失敗したスパイというよりも、成功したスパイであるにも関わらず、その成果が祖国ソ連でほとんど生かされなかった、という悲劇性だと思うんですよ」。 この辺りの微妙なところは不明であるが、いずれにせよスターリンはゾルゲからの電報の功もあり、日本の侵略に備えて極東に配置していた兵力を後顧の憂い無くウラル
戦線に移動させることになる。遂にソ連は、1942年冬の訪れとともにウラル山脈の麓・スターリングラードでの激戦の末ドイツ軍を敗走させる。これが転機となり、独ソ戦の戦局は一気にソ連に傾き、第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの敗北を決定づけたとされている。 
【ゾルゲが上海へ、尾崎と交流する】
1930年1月、リヒャルト・ゾルゲがドイツの社会学雑誌の記者ジョンソンという触れ込みで上海へやって来た。この当時中国のコミンテルン組織は1927年の蒋介石の上海クーデター及び武漢政府の弾圧などのため破壊されており、その再建の為にやってきたという背景があった。身分はコミンテルンから赤軍参謀本部第4局に移されていた。
【尾崎が上海より帰国】
1933.9月(時期未確認)、尾崎秀実は日本に戻り、大阪朝日新聞社の外報部に職を得た。
【ゾルゲの来日】
1933.2.11日、フランス共産党員ブランコ・ド・ヴーケリッチはコミンテルンの密命を受け、横浜に上陸。フランスの写真雑誌ラ・ヴュウ及びユーゴスラビアの日刊紙ポリチイカの東京特派員という職名を持っていた。1933.5月、ゾルゲはモスクワからベルリンへ向かい、フランクフルト・ツァイツング紙の日本特派員の資格を取り、ナチス党員となった。アメリカに渡り、組織との連絡を取った上、カナダのバンクーバー経由で日本に向かった。1933.9.6日、ゾルゲが、ナチス党員でフランクフルト・ツァイツング紙の東京特派員という名目で、横浜に上陸した。東京麻布区永坂町30番地に居所を構え、日本における工作の第一歩を踏み出した。
【ゾルゲグループが連絡体制構築】
 10月初旬、アメリカ共産党員、画家の宮城与徳がロスアンゼルスから横浜に着いた。12月下旬、ヴーケリッチの仲立ちでゾルゲと宮城与徳が会談し、連絡体制を構築した。
 1934.2.11日、天津から大阪に戻った川合貞吉が、尾崎秀実と連絡を取り、至急組織の連絡体制の構築を要請。2月、ゾルゲと尾崎秀実が奈良の若草山で再会。本拠を日本に移したゾルゲと再会し、親密な関係に入った。次のように記されている。「ゾルゲ諜報団は、各国から送り込まれたコミンテルン・メンバーに加え、国際共産主義運動の実現に燃える日本人活動家たちによって構成された。中でもゾルゲが絶大の信頼を寄せた人物、当時朝日新聞記者であった尾崎秀実(ほつみ)は、近衛文麿首相の側近として日本政府の中枢まで潜り込み、決死の覚悟で次々と国家機密をゾルゲに通報していった。その中には日独防共協定、第2次上海事変、ノモンハン事件、そして、最高国家機密である御前会議の内容までが含まれていた。ゾルゲは、こうした情報に独自の分析を加えたものを、無線やソビエト大使館員を通じてモスクワのスターリンへ送り続け、やがて、日本の対ソ参戦回避と南方進出の提唱を謀るべく世界情勢を大きく塗り替えていく」。 
 【尾崎の政府中枢入り】
その後、尾崎は、転勤工作で東京朝日新聞本社詰記者となる。東亜問題研究会の新設で東京本社に呼ばれ、中国題の評論家として頭角を現わす。1936年末に突発した西安事件の本質をいち早くとらえたことで有名となる。この頃、尾崎は当時すでにすぐれたジャーナリストであり、中国問題の専門家として言論界に重きをなしていた。1937.4月、昭和研究会に加わり、風見章の知遇を得、翌年7月、朝日新聞社を退社、第1次近衛内閣の嘱託となり、近衛内閣の有能なブレーンとして首相官邸内にデスクをもち、秘書官室や書記官長室に自由に出入りしえたし、政界上層部の動向に直接ふれることのできる地位にあった。
1939.1月、尾崎は朝日を止めて満鉄東京支社の調査室へ勤務するようになる。 
1940.7月の第2次近衛内閣の成立前後には、風見の依頼で国民再組織案を練るなど、国策に参与する機会をつかみ、36年以来本格化した諜報活動のなかで、高度の情報と正確な情報分析を提供して、ゾルゲらの日ソ間の戦争回避とソ連防衛のための活動を助けた。中国社会の全体的・動態的把握を試みて、中国の民族解放運動=抗日民族統一戦線の意義を解明した尾崎は、日本自体の再編成を必要と考え、東亜共同体論提起したが、ねらいは帝国主義戦争の停止と日中ソ提携の実現にあった。その前提として、戦争の不拡大が当面の目標とされたのである。
【軍部の動向に対する懸命な諜報活動】
1939年、ドイツ軍のポーランド侵攻を契機に第2次世界大戦が勃発すると、ゾルゲはモスクワ発緊急指令として、独ソ戦に関する日本軍の動向を探る命を下される。重大指令を粛然と受け止めたゾルゲと尾崎は、あらゆるルートを駆使して日本の対ソ戦回避を画策する。その成果として、ヒットラーのソ連侵攻や日本の南進政策決定を事前にキャッチしてモスクワに打電している。この情報価値は次のことにあった。当時ナチス・ドイツは、イギリスを除く全ヨーロッパを支配下に収め、その余勢を駆ってソ連へも侵略を開始していた。独ソ戦はドイツの優勢のままに推移し、ソ連はウラル山脈西部のほとんどの地域を失い、首都モスクワを脅かされつつあった。ドイツと日本はイタリアを含めた三国同盟を結び新参枢軸国として世界を席捲しつつあった。こうして、ソ連は、西でドイツ、東で日本との闘いに挟撃されることになった。ソ連指導部は、対ドイツ・日本との二正面作戦を避け、対ドイツ戦に的を絞る必要があった。元朝日新聞記者の白井久也氏の「未完のゾルゲ事件」(1994年)には次のように書かれている。「独ソ開戦で、ドイツの同盟国である日本は、どう動くか? モスクワから改めて日本の対ソ参戦決意を探れという指令が届いた。ゾルゲは、謀報団のメンバー全員に命令を発し、日本の最終意志決定の方向を全力をあげて探らせた。在京の各国大使館や海外から派遣された外国人のジャーナリストも、対ソ戦に引き込もうとするドイツの働きかけに対して、日本はどう反応するのか、必死の謀報活動を展開した」 この戦略に当時の日本の陸海軍内部の対立が大きく関係していた。太平洋戦争の方針を巡って陸軍は「北方進出論」、海軍は「南方進出論」を主張していたが、これがどう決着するのか喉から手が出るほど知りたい情報であった。「北方進出論」とは、共産主義国ソ連との闘いを最優先せねばならないとする理論であり、「南方進出論」とは、資源小国の日本は多種多様な資源の供給路を確保するために南洋諸島へ進出すべしとする理論であったが、この問題に決断を下すため政府は御前会議を数次開催し、最終的に南方進出を決定した。「日本は南方進出を最終決定。日本にソ連攻撃の意図なし」。ゾルゲはこの情報を尾崎秀実から入手し、モスクワに向けて打電した。それは、超一級の情報だった。ウラル山脈に舞台を移した独ソ戦で、当時絶望的な戦いを強いられていたソ連はこの情報により、日本の侵略に備えて極東に配置していた兵力をウラル戦線に移動させることができた。やがて1942年、冬の訪れとともにソ連はウラル山脈の麓、スターリングラードでの激戦の末ドイツ軍を敗走させる。これが転機となり、独ソ戦の戦局は一気にソ連に傾き、第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの敗北を決定づけたとされている。ところで、スターリンのこの時のゾルゲ情報の活用については異説がある。「当面日本がソ連に進撃しないという報告」は1941.6.22日に始まったドイツの侵略への対抗策としてこれは戦略上最高級の情報であったが、この報告に対してスターリン指導部はその価値を見出し得なかった、とも云われている。「スターリンは日本の南進を知り、シベリア狙撃兵軍団を東送しモスクワ前面でヒトラーを阻止したとされるが不確かである。スターリンは実際には極東に大戦中40個師団を継続して配置していた。これは関東軍のいずれの時期をも上回る」と云う指摘もある。つまり、ゾルゲの情報は生かされなかったということになり、悲劇は計り知れない。迎えた1941.9月、御前会議において日本軍の南進策が決定し、任務の完遂に安堵するゾルゲと尾崎。そして、ようやく任を解かれようとした矢先の10月、期せずして二人は治安維持法違反ほかの罪で逮捕される。開戦前夜ゆえに「国民の士気に影響する」との理由で逮捕の情報は秘匿され、数年経ってからようやく発表されるという秘密裏の事件となった。
 【ゾルゲの対モスクワ打電の様子】
検察側の調査によれば、本機関は、ソ連擁護のためにコミンテルンの手により日本国内に設置され、ソ連共産党中央委員会および赤軍第四本営に直属して日本の政治、外交、軍事、経済等の機密を探知し、これをソ連共産党最高指導部すなわちソ連政府最高指導部に提報していた秘密諜報集団であり、その主要な任務は、日本の対ソ攻撃からのソ連の防衛ないし日本の対ソ攻撃の阻止に役立つ諜報の探知蒐集であり、その中には、1933年末ゾルゲの渡日前にソ連首脳から与えられた一般的任務、35年ゾルゲが報告のため約20日間モスクワに滞在した際に上部から与えられた具体的任務、随時無電によって与えられた指令、および対日諜報機関設置後日本国内に発生した重要事件にもとづいて本機関みずから課した任務があった。蒐集した情報を無選択にモスクワに通報したものではなく、豊富適確な資料を集め、これを総合判断して一定の結論を出しそれに意見を付して報告していた。蒐集した主要な情報は34.7月から41.10月まで100項以上(約400件)にわたり、これを無電または伝書使による写真フィルムの手交によっておこなっていたという。無電による発信回数(および語数)は39年50回(約2万3千語)、40年60回(約2万9千語)、41年21回(約1万3千語)にのぼったが、東京の上空をとびかうこれら暗号文の電報は検挙にいたるまで日本の官憲はついに本体をつきとめることができなかった。日本における活動期間は1933年から41年まで約8年にわたっているが、グループが強力な組織となって機能が発揮できるようになったのは36年の秋ごろからであった。組織のメンバーはすべてどこの国の共産党員でもなく、また諜報活動以外、政治的性質をもった宣伝や組織機能に従事することは固く禁じられており、どんな個人や団体にもけっして政治的な働きかけをしないという方針は忠実に守られたが、ただ一つの例外は、近衛グループの中で対ソ平和政策をとらせるように努力した尾崎の積極的な行動であった。検察側が事実に反してゾルゲらをコミンテルン本部の指令にもとづく諜略組織ときめつけたのは、赤軍やソ連を治安維持法にいう結社とすることができないためであったといわれる。事件後、オットーは42年にドイツ大使の地位を失い、北京に去った。  
【特高によるゾルゲ一派逮捕】
関係者の検挙は1941.9.28日、警視庁特高一課と外事課の共同による和歌山県下での北林トモ夫妻の検挙にはじまり(伊藤律によるといわれる密告であったと云われているが、謀略の可能性が高い)、10.10日、宮城、10.13日、秋山幸治と九津見房子、10.15日、尾崎、10.17日、水野成、10.18日、ゾルゲとヴーケリッチ、10.22日、川合貞吉が検挙されている。引き続き1942.4.28日までに合計35名(うち外国人4名、女性は6名)が検挙投獄された。この中には、犬飼健、西園寺公一などの知名の士も含まれていた。この時、ゾルゲは、同盟国ドイツの駐日大使オットー(陸軍武官)の私設秘書で、尾崎秀実は、時の近衛文麿首相のブレーンであった。
内務省警保局によれば、このうち「諜報機関員」17名、「情を知らざる者」18名であった。ゾルゲの訊問調書によれば、彼の直接の協力者は尾崎・宮城・ヴケリッチ、しばらくのあいだギュンター・シュタイン(積極的同調者)、技師としてクラウゼンだけであったという。「諜報機関員」17名の氏名、年令、職業、検挙年月日は左の通りである。
年令 職  業
検挙年月日 
北林 とも      57 洋裁業  41.9.28 
宮城 与徳 40 洋画家   41.10.10 
秋山 幸治 53 無職 41.10.13 
九津見房子 53 会社員 41.10.13  
尾崎 秀実  42 満鉄調査部嘱託 41.10.15 
水野  成 33 坂本記念会支那百科辞典編集員 41.10.17 
リヒアルト・ゾルゲ  48  フランクフルター・ツアイトング日本特派員 41.10.18 
マックス・クラウゼン 44 通信技師・螢光複写機製造業  41.10.18 
ブランコ・ド・ヴケリッチ 38 フランスの通信社「アヴァス通信社」の通信補助員 41.10.18 
川合 貞吉  42 中共党員、会社員(大日本再生製紙) 41.10.22 
田口右源太 40 ロープ原料商   41.10.29 
アンナ・クラウゼン 43 無職(マックス・クラウゼンの妻) 41.11.19 
山名 正美 41 会社員(東亜澱粉) 41.12.15 
船越 寿雄  41 支那問題研究所長 42.1.4 
河村 好雄 33 満州日日新聞上海支局長 42.3.31 
小代 好信  34 会社員(博道社洋紙店)  42.4.11 
安田徳太郎 45 開業医、医学博士 42.6.8 
なおこの事件に関連して、1942.6月、上海において「中国共産党諜報団事件」として中西功、西里竜夫ら10名(うち中国人3名)が検挙された。但し、事件は開戦前夜ゆえに「国民の士気に影響する」との理由で逮捕の情報は秘匿され、数年経ってからようやく発表されることになる。


Richard Sorge(October 4, 1895 – November 7, 1944) was a Soviet military intelligence officer, active before and during the Second World War, working as an undercover German journalist in both Nazi Germany and the Empire of Japan. His codename was "Ramsay" (Russian: Рамза́й).Sorge is most famous for his service in Japan in 1940 and 1941, when he provided information about Adolf Hitler's plan to attack the Soviet Union, although he did not succeed in finding out the exact date of the attack.In mid-September 1941, he informed the Soviet command that Japan was not going to attack the Soviet Union in the near future, which allowed the command to transfer 18 divisions, 1,700 tanks, and over 1,500 aircraft from Siberia and the Far East to the Western Front against Nazi Germany during the most critical months of the Battle for Moscow; one of the turning points of World War II.A month later Sorge was arrested in Japan on the counts of espionage. The German Abwehr legitimately denied he was an agent; USSR repudiated him and refused three offers to spare him through a prisoner exchange. He was tortured, forced to confess, tried, and then hanged in November 1944. Two decades passed before he was posthumously awarded the title of Hero of the Soviet Union in 1964.Soviet military intelligence agent[edit]
Sorge was recruited as an agent for Soviet intelligence. With the cover of a journalist, he was sent to various
European countries to assess the possibility of communist revolutions.
From 1920 to 1922, Sorge lived in Solingen, in present-day North Rhine-Westphalia, Germany. He was joined there by Christiane Gerlach, ex-wife of Dr Kurt Albert Gerlach, a wealthy communist and professor of political science in Kiel, who had taught Sorge. Sorge and Christiane married in May 1921. In 1922, he was relocated to Frankfurt, where he gathered intelligence about the business community. In the summer of 1923, he took part in the Erste Marxistische Arbeitswoche ("First Marxist Work Week" conference) in Ilmenau. Sorge continued his work as a journalist, and also helped organized the library of the Institute for Social Research, a new Marxist think-tank in Frankfurt.In 1924, he and Christiane moved to Moscow, where he officially joined the International Liaison Department of the Comintern, which was also an OGPU intelligence-gathering body. Apparently, Sorge's dedication to duty led to his divorce. In 1929, Sorge became part of the Red Army's Fourth Department (the later GRU, or military intelligence).[7] He remained with the Department for the rest of his life.
In 1929 Sorge went to the United Kingdom to study the labor movement there, the status of the Communist Party of Great Britain, and the country's political and economic conditions. He was instructed to remain undercover and stay out of politics.In November 1929, Sorge was sent to Germany. He was instructed to join the Nazi Party and not associate with any left-wing activists. As cover, he got a job with the agricultural newspaper Deutsche Getreide-Zeitung.[8]
China 1930[edit]
In 1930, Sorge was sent to Shanghai. For cover he worked as the editor of a German news service and for the Frankfurter Zeitung. He contacted another agent, Max Clausen (de). Sorge also met the German Soviet agent Ursula Kuczynski[9] and American journalist Agnes Smedley. Smedley, a well-known left-wing journalist, also worked for the Frankfurter Zeitung. She introduced Sorge to Hotsumi Ozaki of the Japanese newspaper Asahi Shimbun (a future Sorge recruit), and to Hanako Ishii, with whom he would become romantically involved.[10]
As a journalist, Sorge established himself as an expert on Chinese agriculture. In this role, he travelled around the country, contacting members of the Chinese Communist Party. In January 1932, Sorge reported on fighting between Chinese and Japanese troops in the streets of Shanghai. In December he was recalled to Moscow.
Moscow 1933[edit]
Sorge returned to Moscow, where he wrote a book about Chinese agriculture. He also married Yekaterina Maximova ("Katya"), a woman he had met in China and brought back with him to Russia.
Japan 1933[edit]
GDR postage stamp commemorating Richard Sorge
In May 1933, the GRU decided to have Sorge organize an intelligence network in Japan. He was given the code name "Ramsay" ("Рамзай" (Ramzai, Ramzay). He first went to Berlin, to renew contacts in Germany, and obtain a new newspaper assignment in Japan as cover.In Berlin, he insinuated himself into the Nazi Party and read Nazi propaganda, in particular Adolf Hitler's Mein Kampf. Sorge attended so many beer halls with his new acquaintances that he gave up drinking so as not to say anything inappropriate. His abstinence from drinking did not make his Nazi companions suspicious. It was an example of his devotion to and absorption in his mission, as he was a heavy drinker. He later explained to Hede Massing, "That was the bravest thing I ever did. Never will I be able to drink enough to make up for this time."[11] Later, his drinking came to undermine his work.While in Nazi Germany, he received commissions from two newspapers, the Berliner Börsen Zeitung and the Tägliche Rundschau, to report from Japan; also the Nazi theoretical journal Geopolitik. Later he was able to obtain work from the Frankfurter Zeitung. He went to Japan via the United States, passing through New York in August 1933.[12]Sorge arrived in Yokohama on September 6, 1933. He was warned by his commanders not to have contact with the underground Japanese Communist Party or with the Soviet Embassy in Tokyo. His intelligence network in Japan included Red Army officer and radio operator Max Clausen,[13] Hotsumi Ozaki, and two other Comintern agents, Branko Vukelić, a journalist working for the French magazine, Vu and a Japanese journalist, Miyagi Yotoku, who was employed by the English-language newspaper, the Japan Advertiser. Max Clausen's wife Anna acted as ring courier from time to time. From summer 1937, Clausen operated under cover of his business, M Clausen Shokai, suppliers of blueprint machinery and reproduction services. The business had been set up with Soviet funds but in time became a commercial success.Between 1933 and 1934 Sorge formed a network of informants. His agents had contacts with senior politicians and picked up information on Japanese foreign policy. His agent Ozaki developed a close contact with the prime minister Fumimaro Konoe. Ozaki copied secret documents for Sorge.As he appeared to be an ardent Nazi, Sorge was welcome at the German Embassy. Ironically, Sorge may have been much safer spying for the Soviets in Japan during the late 1930s than if he had been in Moscow. Claiming too many pressing responsibilities, he disobeyed Stalin's orders to return to the Soviet Union in 1937 during the Great Purge, as he realized the risk of arrest and execution, given Stalin's general paranoia (especially towards the intelligence community) and Sorge's German ancestry. In fact, two of Sorge's earliest GRU handlers, Yan Karlovich Berzin and his successor, Artur Khristianovich Artuzov, were shot during the purges.[14]
Arrests and trials[edit]
As the war progressed, Sorge was in increasing danger, but he continued his service. His radio messages were enciphered with unbreakable one-time pads (always used by the Soviet intelligence agencies), and appeared as gibberish. However, due to the increasing number of these mystery messages, the Japanese began to suspect that an intelligence ring was operating. Sorge was also coming under increasing suspicion in Berlin. By 1941 the Nazis had instructed Josef Albert Meisinger, the Gestapo resident at the German Embassy in Tokyo, to begin monitoring Sorge and his activities. The Kempeitai (Japanese secret police) intercepted many messages and began to close in. Ozaki was arrested on October 14, 1941 and immediately interrogated.
Sorge was arrested shortly thereafter on October 18, 1941, in Tokyo. The next day, a brief memo notified German ambassador Eugen Ott that Sorge had been arrested "on suspicion of espionage" together with Max Clausen. Ott was both surprised and outraged, and assumed it was a case of "Japanese espionage hysteria". He thought that Sorge had been discovered passing secret information on the Japan-US negotiations to the German embassy, and also that the arrest could be due to anti-German elements in the Japanese government. Nonetheless, he immediately sided with Japanese authorities to "investigate the incident fully". It was not until a few months later that Japanese authorities announced that Sorge had in fact been indicted as a Soviet agent.
He was incarcerated in Sugamo Prison. Initially, the Japanese believed that, due to his Nazi Party membership and German ties, Sorge was an Abwehr agent. However, the Abwehr denied that he was one of their agents. Under torture, Sorge confessed, but the Soviet Union denied he was a Soviet agent. The Japanese made three overtures to the Soviet Union, offering to trade Sorge for one of their own spies. However, the Soviet Union declined all the offers, maintaining that Sorge was unknown to them.
Execution[edit]
Richard Sorge was hanged on November 7, 1944, at 10:20 a.m. Tokyo time in Sugamo Prison; Hotsumi Ozaki was hanged earlier in the same day. The Soviet Union did not officially acknowledge Sorge until 1964. It was argued that Sorge's biggest coup led to his undoing, because Stalin could not afford to let it become known that he had rejected Sorge's warning about the German attack in June 1941. However, nations seldom officially recognize their own undercover agents.Sorge was survived by his mother, then living in Germany, and he left his estate to Anna Clausen, the wife of his radio operator. He was buried in the Sugamo Prison (Zhogaya) graveyard, but his remains were later relocated to Tama Cemetery in Fuchū, Tokyo
上海でスパイ活動開始[編集]
1930年にドイツの有力新聞『フランクフルター・ツァイトゥング』の記者という隠れ蓑を与えられ、日本やイギリス、フランスなどの大国の租界が存在し、多くのスパイが動いていたといわれる中華民国の上海にソ連の諜報網を強化と指導を目的として派遣される。なおこの頃より「ラムゼイ」というコードネームを与えられている。
半年程度で現地の指導的立場となり、中華民国全土に情報網を持つに至った。活動は漢口、南京、広東、北京、そして1932年に満州国として独立することとなる満州地方などを中心にして行われている。ゾルゲ自身も各地を巡り、中華民国および日本の政治、歴史、文化に関する書物を読み、両国の言葉も学習し、アジア問題に通じるようになった。上海におけるゾルゲ諜報団の日本人は、尾崎秀実、鬼頭銀一、川合貞吉、水野成、山上正義、船越寿雄であった[1]。上海では、仕事を通じて当時中国共産党の毛沢東に同行取材するなど活躍していたアメリカ人左翼ジャーナリストのアグネス・スメドレーと知り合う。スメドレーはゾルゲが中華民国を去るまで彼のスパイ組織の一人として活動し、朝日新聞記者だった尾崎秀実とゾルゲの橋渡しをしている。実際に二人の出会いに重要な役割を演じたのは、アメリカ共産党から派遣された鬼頭銀一である。また、水野成をゾルゲに紹介したのも、尾崎ではなく鬼頭である[1]。ゾルゲは、ドイツの軍事顧問団長のハンス・フォン・ゼークトや蒋介石から軍事情報を入手し、蒋介石軍の飛行機を爆破し、武器を略取するなど、中国共産党を支援した[1]。ゾルゲは1932年1月には日中両軍が衝突した第一次上海事変を報道した。同年12月にモスクワに戻る。上海共同租界の工部局イギリス警察は1932年1月頃から、ゾルゲをソ連のスパイではないかと疑い始め、その後捜査を進めた結果、1933年5月にゾルゲをソ連のスパイとほぼ断定した[1]。


日本でのスパイ活動
.1933年9月6日に、日本やドイツの動きを探るために『フランクフルター・ツァイトゥング』の東京特派員かつナチス党員というカバーで日本に赴き、横浜に居を構える。
当時日本におけるドイツ人社会で、日本通かつナチス党員として知られるようになっていたゾルゲは、駐日ドイツ大使館付陸軍武官補から駐日ドイツ特命全権大使に出世したオイゲン・オットの信頼を勝ち取り、第二次世界大戦の開戦前には最終的に大使の私的顧問の地位を得た。彼は来日前にオットの戦友である『テークリッヒェ・ルントシャウ』紙論説委員であるツェラーの紹介状を入手していた上、政治的逃避のため日本に派遣されることになった当時のオット中佐は日本に関する知識をほとんど持っておらず、そのため日本の政治などに関して豊富な知識とコネクションを持ったゾルゲとの出会いを喜んだ。
1936年の二・二六事件の際にはドイツ大使館内にいたことが、大使館と戒厳司令部の連絡将校として館内に出入りしていた馬奈木敬信によって戦後証言されている[2]。ゾルゲはこの事件を日本の対外政策と内部構成を理解する好機ととらえた。オットや当時のディルクセン大使にも協力を求めて情報収集に努め、事件を分析した報告書をドイツ外務省や所属先である赤軍第四本部、ドイツの雑誌に送っている(ドイツ外務省と雑誌では匿名)。これを契機に大使館側のゾルゲに対する信頼は向上した。なおドイツの雑誌に掲載された論文は、カール・ラデックがゾルゲの筆とは知らずに評価してソ連の新聞に転載した。ゾルゲはこれに抗議し、以後はこうした事態は避けられた。
日本人共産党員とは接触を避け、ロシア語は口にしないなど行動に注意を払いつつ待っていたゾルゲは、駐日ドイツ大使館付ドイツ軍武官やゲシュタポ将校のヨーゼフ・マイジンガーの信頼も得ることになり、やがてオットが駐日ドイツ大使となると、ゾルゲも1939年頃には公文書を自由に見ることが出来る立場となっていた。ヨーロッパで戦争が始まるとオットはゾルゲを大使館情報官に任命し、ゾルゲはドイツ大使館の公的な立場を手に入れた。ゾルゲはドイツ大使館と彼の諜報網の両方から日本の戦争継続能力、軍事計画などを入手できる立場となり、1940年9月27日の日独伊三国軍事同盟後にはより多くの情報が得られるようになった。
ゾルゲは、その肩書ゆえに諜報入手に大切な当時の日本の支配階級との接触の機会を持てず、スパイとしては物足りなかったアメリカ共産党員の洋画家宮城与徳に代えて、支配階級との接触の機会を持つ男を必要とした。そこでゾルゲが選んだのが上海時代に知り合い近衛内閣のブレーントラストのひとりとなっていた尾崎秀実である。尾崎を仲間にして日本政府に関する情報が入手できるようになった。こうしてアヴァス通信社のユーゴスラビア人特派員のブランコ・ド・ヴーケリッチ、宮城、ドイツ人無線技士のマックス・クラウゼンとその妻アンナらを中心メンバーとするスパイ網を日本国内に構築し、スパイ活動を進めた。ゾルゲが報告した日本の情報は武器弾薬、航空機、輸送船などのための工場設備や生産量、鉄鋼の生産量、石油の備蓄量などに関する最新の正確な数字であった。
独ソ戦への貢献[編集]
ゾルゲは大使の私的顧問として大使親展の機密情報に近づきやすい立場を利用して、ドイツのソ連侵攻作戦の正確な開始日時を事前にモスクワに報告した。他のスパイの情報やイギリスからの通報も、これを補強するものであったが、ヨシフ・スターリンは、ゾルゲ情報を無視した[注釈 1]。結果ソ連は緒戦で大敗し、モスクワまで数十キロに迫られるという苦境に陥った。
近衛内閣のブレーンで政権中枢や軍内部に情報網を持つ尾崎は、日本軍の矛先が同盟国のドイツが求める対ソ参戦に向かうのか、イギリス領マラヤやオランダ領東インド、アメリカ領フィリピンなどの南方へ向かうのかを探った。日本軍部は、独ソ戦開戦に先立つ1941年4月30日に日ソ中立条約が締結されていた上、南方資源確保の意味もあってソ連への侵攻には消極的であった。1941年9月6日の御前会議でイギリスやオランダ、アメリカが支配する南方へ向かう「帝国国策遂行要領」を決定した。
この情報を尾崎を介して入手することができたゾルゲは、それを10月4日にソ連本国へ打電した。その結果、ソ連は日本軍の攻撃に対処するためにソ満国境に配備した冬季装備の充実した精鋭部隊をヨーロッパ方面へ移動させ、モスクワ前面の攻防戦でドイツ軍を押し返すことに成功し、イギリスやアメリカによる西部戦線における攻勢にも助けられ最終的に1945年5月に独ソ戦に勝利する。
情報はクーリエを使って秘密裏にソ連へ運ばれただけではなく、クラウゼン自身で部品調達して組み立てた短波送信機と市販のラジオ受信機を改造した短波受信機を使いウラジオストクと交信していた。特別高等警察(特高)は早いうちから怪しい無線電波が東京市内からソ連や中国大陸方面に向けて送信されていることを把握していたが、ゾルゲは送信地点を特定されることを避けるために、携帯式の簡易な無線装置と室内に設置したアンテナを使用して住宅密集地にある複数の拠点を転々としながら送信しており、また特高側もクラウゼンにより生成された暗号を解読できなかったため、一味が逮捕されるまで発信源を特定できなかった。
ゾルゲ事件[編集]
特高はアメリカ共産党員である宮城やその周辺に内偵をかけていた。宮城や、同じアメリカ共産党員で1939年に帰国した北林トモなどがその対象であった。満州の憲兵隊からソ連が押収してロシア国内で保管されていた内務省警保局の『特高捜査員褒賞上申書』には、ゾルゲ事件の捜査開始は「1940年6月27日」であったと記されている[1]。なおこれを知ったドイツ大使館付国家保安本部の将校で、ゾルゲと親しく特高との関係も深かったヨーゼフ・マイジンガーは、ゾルゲに対する捜査を止めるように特高に依頼している。
1941年9月27日[注釈 2]の北林を皮切りに事件関係者が順次拘束・逮捕された[注釈 3]。その後、尾崎が10月14日に、ゾルゲら外国人は10月18日に、
スパイ容疑で警視庁特高一課と同外事課によって相次いで逮捕された(ゾルゲ事件)。
一味の逮捕後、尾崎の友人で衆議院議員かつ南京国民政府の顧問も務める犬養健、同じく友人で近衛内閣の嘱託であった西園寺公一(西園寺公望の孫)、ゾルゲの記者仲間でヴーケリッチのアヴァス通信社の同僚であったフランス人特派員のロベール・ギランなど、数百人の関係者も参考人として取調べを受けた。これに対し、ゾルゲをナチス党員の記者だと信じ込んでいたオット大使やマイジンガーなどが外務省に対して正式に抗議を行ったほか、国家社会主義ドイツ労働者党東京支部、在日ドイツ人特派員一同もゾルゲの逮捕容疑が不当なものであると抗議する声明文を出した[3]。さらにマイジンガーは、ゾルゲの逮捕後にベルリンの国家保安本部に対して「日本当局によるゾルゲに対する嫌疑は、全く信用するに値しない」と報告している[4]。
なお当初ゾルゲは否認を続けていたものの、数々の証拠を突きつけられるとスパイであることを認め、面会に訪れたオットに対しても別れの言葉を口にすることで自らの罪を認めることとなった。
その後ゾルゲら20名は1942年に国防保安法、治安維持法違反などにより起訴され、一審によって刑が確定し、それぞれに1年半、執行猶予2年(西園寺)から死刑(ゾルゲ、尾崎)までの判決が言い渡された。ゾルゲや尾崎らは巣鴨拘置所に拘留され、日独両国の敗色が濃厚となってきた1944年11月7日のロシア革命記念日に巣鴨拘置所にて死刑が執行された。ゾルゲの最後の言葉は、日本語で「これは私の最後の言葉です。ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」であった。ゾルゲの死刑執行に立ち会った市島成一東京拘置所所長は、「ゾルゲは死刑執行の前に、『世界の共産党万歳』と一言、そういって刑に服した。従容としておりました」と証言している[5]。
ソ連邦英雄[編集]
ゾルゲは日本の警察や駐日ドイツ大使に対してソ連のスパイであることを自供したものの、当時日本との間で日ソ不可侵条約を結んでいたソ連政府は、日本との関係の悪化を恐れてかたくなにゾルゲが自国のスパイであることを否定し、戦後もソ連の諜報史からゾルゲの存在は消し去られていた。しかし1964年11月5日に、ゾルゲに対して「ソ連邦英雄勲章」が授与された。このタイミングは、スターリンの死後にその大粛清などを批判した指導者ニキータ・フルシチョフ首相が失脚した直後に当たる。以後、ゾルゲは「ソ連と日独の戦争を防ぐために尽くした英雄」として尊敬され、ソ連の駐日特命全権大使が日本へ赴任した際には東京都郊外の多磨霊園にあるゾルゲの墓に参るのが慣行となっていた。ソ連崩壊後もロシア駐日大使がこれを踏襲している。またドイツ民主共和国(東ドイツ)国家人民軍地上軍(陸軍)の第1捜索大隊(偵察部隊)は、部隊称号としてリヒャルト・ゾルゲの名を冠していた(Aufklärungsbatallion 1 "Dr. Richard Sorge")。また東ドイツの国家保安省(MfS)は功労章として、「リヒャルト・ゾルゲ・メダル(Dr.-Richard-Sorge-Medaille)」を制定していた。
人物[編集]
ゾルゲの功績を称えて発行された東ドイツの切手。左下には「ソ連邦英雄」の称号が書かれている。
スローガンは「ロシアと中国の革命を擁護せよ。帝国主義戦争を内乱へ転換せしめよ」であった。東京・銀座のドイツ料理店「ケテルス」でウェイトレスをしていた石井花子と知り合い、同居するなど深い関係をもったものの、正式な結婚はしなかった。しかし死後石井によって建てられ、現在石井とゾルゲが眠る多磨霊園の墓には「妻石井花子」と彫られている[6]。オットやマイジンガーなどのドイツ大使館上層部や、日本の通信社や新聞記者、ギランなどの他国の特派員とも良好な関係を保ち続け、逮捕までその素性を疑う者は皆無であった。





Останній самурай (англ. The Last Samurai) — американська історична драма Едварда Цвіка за романом Джона Логана про пригоди американського офіцера в Японії часів реставрації Мейдзі. Фільм має 4 номінації «Оскар», а також 15 нагород і 39 номінацій інших премій.

«Ковбой-самурай» (англ. Samurai Cowboy) 1993— фильм режиссёра Михаэля Койша.Samurai Cowboy is a film shot in conjunction with the Alberta Motion Picture Development Corporation, and Monarch Home video. The film was shot in 1993 at Waterton Lakes National Park, Alberta. The film was directed by Canadian director Michael Keusch. . . . The screenplay was written by Dave Hunsaker and Rick Pont, and was created with a budget of 2 million Canadian.[1] The film stars main character Hiromi Go as the Japanese business man turned cowboy. Also starring in the film were Robert Conrad, Matt McCoy, Catherine Mary Stewart and Conchata Ferrell.

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