日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

『追放された予言者/トロツキー』The Prophet Outcast: Trotsky 1929-1940《居場所のない「世界」へ - 最も孤独な旅》アイザック・ドイッチャー/Isaac Deutscher

みなさん こんばんは、私の「専攻」分野の文が人気記事にあがってきているのが何よりもうれしい。いつもありがとうございます。

序章・(出生名Birth name)Лев Давидович Бронштейнレフ・ダヴィドヴィッチ・ブロンシュテインLev Davidovich Bronstein(ウクライナ・オデッサ近郊のユダヤ系地主の次男)
そして「ロシア革命」の第一元勲であり「ソ連邦」建国の父。さらに「内戦」を勝利に導いた「赤軍の創設者」(ソ連軍の前身)最高司令官、革命軍事会議議長(国防大臣)陸海軍人民委員そして政治局員・・・。スターリンにより、そのすべてをはぎとられ「トロツキー」=「反ソ・反革命」にでっちあげられてしまった。
ー今もってして、その「本当の」姿はほとんど伝わっておりません(これは旧ソ連人の間でも大差なし。「党にそむいた反逆者」として烙印をおされている)。さらにソ連崩壊後は、そんな話は一部の「専門家」以外どうでもいいことになってしまった。

ーまた日本においても「共産党」の無知愚昧(ろくに「ソ連史」など知らない)や他の自称「左翼」組織や過激派などが「極左暴力革命・テロリスト」のごとく。ちゃらんぽらんでいいかげんな「妄想」にとらわれている(どうにもならんやからたちです)。
ートロツキーは40年に、メキシコでスターリンの放った刺客により暗殺された。先妻アレクサンドラ(2人の娘の母)は35年に逮捕され38年、強制収容所で死亡したとみられる(35年にヨッフェ(27年自殺)未亡人が同じ収容所内で見たのが最後)。彼の子ども(長女ジーナ(33年・ベルリンで自殺)次女二ーナ(28年・シベリアで病死)長男リョーヴァ(38年・パリで毒殺)次男セルゲイ(37年・刑務所内にて銃殺)。義理の父となった娘たちの夫もみな殺された。生き残ったのは後妻ナターリャ(息子二人の母・トロツキーの死後20年、同じ家で暮す。晩年、フランスに亡命。62年、パリでひっそり息を引きとった)。そして現在もメキシコに住む長女ジーナの遺児だけ。
ー世界でトロツキーの亡命を受け入れる国は一つもなかった(32年、正式に家族一党ことごとくソ連国籍剥奪)。スターリンを恐れたのと「革命」を煽るかもしれない懸念との組み合わせといえる。
ー私自身、まだトロツキーはおろか「ロシア革命」「ソ連邦史」など単なる’コッパ学徒’に過ぎないのは何度も語ったとおりです。トロント大学でも、90年代はやせ細った「ソビエト・ロシア史」関連が2000年頃から課目が増え始め、現在はかなりの数になっている(できるなら大学に戻ってまた勉強したいんですが・・・(苦笑)。ともあれそんな感じからはじめてみますのでよろしくおねがいします。
2016年10月 カナダ オンタリオ州リッチモンド・ヒル市にて

最後のモスクワから:1928年
ー取引がまだ続けられていた1月3日ゲ・ぺ・ウ(GPU秘密警察・KGBの前身)はトロツキーの出頭を要求した。トロツキーはこの出頭要求を無視した。そこで、この茶番劇は終わった。それから9日後の12日、ゲ・ぺ・ウは刑法58条により、つまり反革命活動の罪によって、中国との国境に近い、カザフスタンのアルマ・アタAlma-Ata(現在は「アルマトイAlmaty」)に追放することを、トロツキーに通告した。追放の期日は1月16日とされた。
ー追放囚と彼の家族たちは、みんな一台の警察の自動車におしこめられた。車は白昼、モスクワの街を疾走しながら、十月革命の指導者であり、赤軍の勝利者である彼を、だれにも気づかれずに運び去った。カザンの停車場でー護衛隊は彼をこの停車場に運んだのであるー彼は列車まであるいていくことを拒否した。武装兵たちは、操車場ではぽつんと一台彼をまっている車輌まで、彼をひきづっていった。停車場は警官が警戒線を張って交通を遮断し、旅客の姿はひとつも見えなかった。ただ少数の鉄道従業員が動きまわっているだけだった。護衛隊のあとから、追放囚の家族がついてきた。彼の次男セルゲイはゲ・ぺ・ウとなぐりあいをし、長男リョーヴァは鉄道作業員を奮起させようとして叫んだ。「同志諸君、見ろ、やつらは同志トロツキーをあんなふうにしてつれていくぞ」。従業員たちは乾いた目でじっとみていたーだが、彼らからは、抗議の叫び声ひとつおこらず、つぶやき声さえおこらなかった。
ー若いトロツキーがはじめてモスクワの塔と城壁を見たときから、30年近くたっていた。そのとき、彼は、オデッサの監獄からシベリアの流刑地へ追放されるところだった。彼は囚人護送馬車の鉄窓の中から、この「ツアーたちの村」将来の「共産主義インターナショナルの首都」を、はじめてちらっとかいま見たのである。いま彼がモスクワを最後にみるのもまた、そのような鉄窓の陰からであった。なぜなら、彼はこの彼の勝利と敗北の都市へは、ついにかえってこないからである。彼は迫害された革命家としてこの都市にはいった。そしてまた、迫害された革命家としてこの都市を去ったのである。

トルコへの追放・ソ連国籍剥奪:
ートロツキーがロシアから追放された事情には、彼の前途によこたわる年月が、どんなものかを予測させるものがあった。追放のやり口は、いかにも気まぐれで、残忍だった。スターリンは、何週間も追放を引きのばした。その間、トロツキーは、この決定は不法であるといって、非難の抗議を政治局にたたきつけていた。スターリンはまだ最後の決心がついていないか、それとも引きつづき政治局の意向をただしているようにみえた。それから突然、猫と鼠のゲームは終わった。
ー1929年2月10日の夜、トロツキーとトロツキーの妻と長男は、大急ぎでオデッサ港におくられ、イリイチ号(レーニンの父称(本名ウラジミール・イリイチ・ウリヤーノフ)から)に乗船させられた。イリイチ号は、ただちに出港した。トロツキーの護衛係とオデッサ港官憲は、深更で、強風が吹きすさび、海は凍結していたにもかかわらず、ただちに実行しなければならない厳命をうけていた。いまやスターリンは、一時の猶予もゆるさなかった。イリイチ号(そして、イリイチ号を先導する砕氷船)は、このための特別任務をあたえられていた。トロツキーとかれらの家族、それから2名のゲ・ぺ・ウの役人のほかには、ひとりの乗客もいなければ、貨物ひとつのせていなかった。スターリンはついに政治局に既成事実をつきつけていたのである。
ーこうしてかれは、いっさいを断ち切って、かれが追放をみとめるようにはじめて政治局に要求し、ブハーリン(38年に処刑)がそれに抗議し、両手をにぎりしめて政治局の席上で泣き入り、ルイコフ(38年に処刑)やトムスキー(38年に自殺)といっしょに反対投票したときのような場面が、またくりかえされるのをさまたげた。
ー追放は、極秘のうちにおこなわれた。追放の決定は、この決定がすっかり実行されてしまってから、はじめて公表された。スターリンはまだ混乱を恐れていた。港に集結された軍隊は、一年前、トロツキーがモスクワから暴力的につれ去られる前に、反対派が組織したような抗議デモあ集団的な見送りをさまたげるために、動員されたのだった。
ー今度は、ひとりの証人も、目撃者の話も、いっさいあってはならなかった。トロツキーは、乗客の群れといっしょに航海することは許されなかった。かれは、それらの乗客の環視のまえで、消極的抵抗の手を使うかもしれないからである。乗組員たちでさえ、自分たちの部署にとどまっていて、唯一の船客であるかれらとの接触はいっさいさけるように、警告されていた。航海は、神経質な秘密のとばりにつつまれていた。スターリンはまだ全責任を自分ひとりでしょいこみたくなかった。
ー彼は外国の共産主義者の興論が衝撃をうけるかどうか、黙ってみていた。今後の発展いかんによっては、自分の敵を呼びかえさなくてはならない羽目に立たされるかもわからなかった。で、この追放を、必要の場合にはなんとでも言い訳できることができ、または完全に否定することさえできるように、非常にあいまいな形で実行するように気をつかったーその後数日の間、外国共産党の新聞はトロツキーはある公式、ないし半公式の使命をおびて、トルコへいったとか、自分からすすんで、大勢の随員をつれてトルコへ出かけたとか、とほのめかしていた。
ーこうして、トロツキーは、とつぜん、わびしい、ほとんど人影ひとつ見えない船にのり、烈風をついて、虚ろな水平線にむかってつき進んだのである。アルマ・アタで一年を過してきたいまでさえ、かれをとりまく真空ー二名のゲ・ぺ・ウの役人がうろついている姿のため、いっそう不吉なものになっているこの真空は、かれを困惑させずにはいなかった。いったいこれはどういう意味か?なんの予兆だろうか?かれの側には、ナターリャとリョーヴァしかいなかった。ふたりの目にも、おなじような疑惑が読みとれた。烈風と虚ろをのがれるため、かれらは自分たちの船室へおりていき、航海中、ずっとそこへ閉じこもっていた。空虚は彼らのあとから忍びこんでくるようにおもえた。これはいったい何を意味するのか?この旅の終わりは、どうなるのか?
ートロツキーは最悪の場合のために用意していた。スターリンがよろこんでい自分を黒海のかなたの岸に上陸させ、自由に放免するとはかんがえられなかった。スターリンと独裁的なトルコ大統領ケマル・パシャとは、自分に対して陰謀をはかっていて、ケマルの警察は船中の自分を逮捕し、コンスタンチノープル(現イスタンブール)に集まっている白系ロシア人の亡命者たちの復讐の手に、こっそり引き渡すかもしれない、と疑った。ゲ・ぺ・ウがかれを欺着したことが、かれのこの不安を強めた。
ーこれより先、トロツキーはゲ・ぺ・ウにむかって、かれのふたりの献身的な秘書であり、護衛であるセルムスクとボズナンスキー(後年極北の流刑地で死亡)を監獄から釈放し、かれに同行して国外に出ることをゆるすように、くりかえし要求した。ゲ・ぺ・ウはそうしようと、くりかえし約束していたが、その約束を破ったのだった。かれらは明らかに彼を、護衛する友人ひとりつけずに上陸させることに決定したのである。途中で、護送の役人たちは、セルムスクとボズナンスキーは、コンスタンチノープルであなたといっしょになるだろう。そのあいだ、あなたの安全はゲ・ぺ・ウが責任を負う、といって、かれを安心させようとした。かれは「きみたちを一度ぼくをだましている。だから、こんどもまたぼくを欺すのだ」と答えた。

コンスタンチノープルのソ連大使館へ・秘密警察の「保護」下:
ー困惑と苦悩のうちに、かれは妻や息子と、このまえかれらがいっしょにした船の旅のことを思いおこしたーそれは1917年3月、彼らがカナダのイギリス捕虜収容所(ノバスコシア州の港街ハリファックスにある。92年に訪れました。今も脳裏に浮かびます)から解放されて、ノルウェーの汽船でロシアに向けて出航したときのことだった。「わたしたち家族の顔ぶれは、いまとおなじだったが、しかし、わたしたちは12年若かった」と、トロツキーはかれの自伝のなかで回想している(1917年にかれらといっしょだった末の息子セルゲイは、イリイチ号には乗っていなかったが)。
ーこの年齢の相違よりも、もっと本質的な相違は、境遇ががらっとかわったことだった。しかし、かれは、それについてはなにもいっていない。1917年には、きたるべき偉大な戦いのために、革命がかれをロシアに呼びかえしたのだ。いまは、かれは、革命の名において支配する政府によって、ロシアから追い出されたのである。1917年に、イギリス捕虜収容所ですごした1カ月間、かれは連日、鉄条網越しに戦争捕虜のドイツ水兵の群れにむかって演説し、カール・リープクネヒトが帝国議会や、監獄で、カイザーと帝国主義戦争にたいしてとった反対の立場についてかたり、かれらのうちに社会主義への情熱を燃えあがらせてたのだった。
ーかれが釈放されると、ドイツ水兵たちは、かれを肩にのせて、ずっと収容所の門まではこび、トロツキー万歳を叫び、「インターナショナル」を歌った。いまはただ虚ろと吠えたける烈風がかれをとりかこむだけだった。スパルタクス団の敗北とリープクネヒトの暗殺から、すでに10年たっていた。トロツキーは、自分もまた「リープクネヒトの最期」とおなじ最期をとげる運命にあるのではないだろうかと、なんどもかんがえた。小さな出来事が、かつてと打って変わったこの旅に、グロテスクな色をおびさせた。
ーイリイチ号がポスポラス海峡にさしかかったとき、ゲ・ペ・ウの役人のひとりがかれに、1500ドルの金をわたした。それは、ソビエト政府がかれらの前国防人民委員にたいして、「外国で落ち着くことができるために」あたえた仕度金であった。スターリンがにたりと嘲笑をうかべているのが、トロツキーには目にみえるようだった。だが、懐中無一文のかれは、この侮辱をのみこんで、金を受けとった。これはかれが創立の父となった国家からうけとる最後の賃金であった。
ーもしもかれがこんな憂鬱な出来事に思い沈んだとしたなら、それこそトロツキーではなかっただろう。たとえ未来がどうなろうとも、かれは毅然としてこれをむかえ、戦う決意をしていた。真空のなかで自分を雲散霧消させることをゆるさなかった。この真空のかなたには、闘争と希望の、まだ探られていない地平線ー現在まで生きるべき過去と、過去と現在が生きつづけるべき未来があった。
ー自己の「過去における使命」をいったん達成してしまえば、消耗して、「うつろな殻のように落ちてしまう」と、ヘーゲルがいっている歴史的人物と共通なものを、かれらはなにひとつ感じなかった。かれはスターリンと事態がかれをとりかこんでいるこの真空を突き破って、抜けだすために闘争するだろう。だが、さしあたってはただ、国外追放に対する最後の抗議を記録することしかできなかった。
ー航海がいよいよおわるまえに、かれは党中央委員会とソビエト中央執行委員会にあてたメッセージを、護送の役人にわたした。そのなかでかれは、スターリンとゲ・ぺ・ウがケマル・パシャやケマル・パシャの「民族ファシスト的」警察ととりむすんだ「陰謀」を糾弾し、自分の迫害者たちにむかって、かれらがこの「裏切り的な、破廉恥きわまる行為」にたいしてこたえなければならぬ日が、やがてやってくるだろう、と警告した。
ーそれから、イリイチ号が錨をおろし、トルコの国境警備隊があらわれると、ケマルにあてた正式の抗議文をかれらにわたした。かれの自分を抑制した、いかにも公式的な調子には、怒りと皮肉がほとばしっていた。「大統領閣下、コンスタンチノープルの入口において」と、かれは書いている。「わたくしは、わたくしがトルコ国境にたっしたのは、わたくし自身の自由意志によるものでないことを、貴下におつたえすることを光栄にするものでありますーわたくしはただ暴力に服せざるえないがゆえに、トルコ国境を通過するのであります。願わくばわたくしの心情をよろしくみとめられんことを」。
ーかれは、ケマルがこの抗議に反応をしめすとは、ほとんど考えていなかった。またモスクワにある自分の迫害者たちが、いつかはかれらの所業の証をたてなければならないだろうと考えて、ちゅうちょしたりなどしないということを、よく知っていた。だが、たとえいまの歴史の正義をもとめても無益だともえるにしても、かれはそうする以外、どうすることもできなかった。かれは自分が、ただ自分自身だけのために戦っているのではなく、投獄されたり、追放されたりして、沈黙している自分の友人たちや支持者たちのためにたたかっているのだということ、いま自分が犠牲になっている暴力は、ボルシェビキ党全体と革命そのものにくわえられたものであることを確信していた。
ー自分の個人的運命はどうなろうと、自分とスターリンの論争はいつまでもつづけられ、世紀をつうじて反響することを知っていた。スターリンが、抗議し、証言するかもしれないいっさいの人間を、ことごとく弾圧してしまう決意をしていたとすれば、トロツキーは、げんに自分が亡命に追いやられていたいま、すすんで抗議し、証言しようとしていたのである。
ー上陸した後は、まるで茶番劇といってもいいくらいだった。トロツキーとかれの家族は、桟橋からまっすぐ、コンスタンチノープルのソビエト領事館へつれていかれた。かれは政治犯であり、反革命家であるという烙印を押されていたが、しかし、十月革命の指揮者と赤軍の創建者にふさわしい名誉をもってむかえいれられた。領事館の建物の一翼が、かれらのために用意されていた。領事館員たちのうちには、かれの指揮下で内乱に従事したものも何人かいて、かれを気楽な気持ちにさせたいと、熱心にねがっているらしかった。
ーゲ・ぺ・ウの役人たちは、かれの生命を保護するという約束を、本気でまもるつもりでいるようにふるまった。かれらは、かれの希望になんでも応じた。かれの使い走りもした。またかれが領事館にとどまっているあいだに、ナターリャとリョーヴァの伴をして、市内を見てまわった。かれらはかれがアルマ・アタからもってきた、膨大な文書を、内容を調べてみようともせずに、陸揚げして、運んだーこれらの文書と記録を、やがてかれは、スターリン攻撃の政治的弾薬としてつかうのである。
ーモスクワは、まだ追放をカムフラージュし、共産党の興論にたいする衝撃をやわらげようとしているようにみえた。かつてブハーリンが、スターリンは、一歩一歩、ゆっくりすすむ才能と、タイミングを見る天才をもっているといったのも、理由がないわけではなかった。スターリンが、急がず、あせらず、一寸きざみに、ゆっくり、自分の目的をすすめていく特殊な才能は、こうしたこまかなことにさえ、はっきりあらわれた。
ーそれはまた、かれがケマル・パシャの協力を確保したやり口にもあらわれた。トロツキーが到着してまもなく、トルコ政府はかれに、政府はかれが追放になっているということは聞いていない、ソビエト政府からは、ただかれに「健康上の理由」で入国の許可をあたえてほしいと要求されただけである。北方の隣国との友好関係を尊重するわれわれは、この要請の動機をせんさくすることはできないで、査証をあたえなくてはならない、と次げた。それでも、こうして自分がスターリンの共犯者にされたことに不安を感じたケマル・パシャは、急いでトロツキーに、
「貴下がトルコの国土で抑留されるとか、暴力にさらされるとかいうことは、ありえないことである。貴下はいつでも好きなときに、この国を去ることもできれば、いつまでも好きなだけとどまることもできる。もし貴下がこの国にとどまられるなら、トルコ政府はあらゆる歓待をし、貴下の安全を保証するだろう」と確言した。
ーこんなに丁重に同情をひれきされたにも関わらず、トロツキーは、ケマルがスターリンと親しく手を握りあっていることを信じてうたがわなかった。いずれにせよ、スターリンがさらに新しい要求をつきつけたら、ケマルはどんな態度をとるだろうか。一政治亡命者のために、絶大な「北方の隣国」との紛争にまきこまれる危険を、はたしておかすかどうか、わからなかった。

退去命令と旧流刑地の孤島プリンキポ:
ートロツキーがソビエト領事館内に住むことになったため生まれた、不明瞭な状態は、長くはつづかなかった。スターリンは、ただそれを終わらせる口実をまっているだけだった。この状態はまた、トロツキーにとっても、たえられなかった。ゲ・ぺ・ウに「保護」されているかれは、事実上かれらの捕虜であって、領事館の外の白系ロシア人亡命者たちと、領事館内にある自分の護衛者たちと、どちらを余計に恐れなくてはならないか、わからなかった。
ーかれは、亡命生活が政治的闘士にあたえる唯一の利点ー行動と言論の自由をうばわれていた。自己の主張をのべ、追放されるまでにいたった事態を明らかにし、各国の支持者たちと連絡をつけ、これからの行動の計画をたてたいとあせった。領事館からでは、こうしたことはなにひとつ安全にやることができなかった。その上、かれも、かれの妻も病気だった。
ーかれは生活の資をかせがなくてはならなかったが、それはものを書いて得るしかなかった。どこかに落ち着いて、出版社や新聞と連絡をつけ、仕事をはじめなくてはならなかった(中略)トロツキーは西欧の新聞と連絡をつけた。そして、まだコンスタンチノープルにあるあいだに、いくつかの論文を書いた。これは2月の後半に『ニューヨーク・タイムズ』、『デーリー・エキスプレス』その他の新聞に発表された。
ーこの一連の論文は、過去数年とここ数ヶ月にわたる党内闘争について、かれがはじめて公表した説明であった。それは、簡潔で、強烈で、攻撃的であった。かれは新旧いずれを問わず、いやしくも自分の敵や反対論者は、ひとりも容赦しなかった。ましてスターリンをは、断じてゆるさず、まえに政治局にむかってやったように、いまは全世界にむかって、かれを「革命の墓掘り人」として告発した。
ーこれらの論文がまだ発表されないうちから、早くもかれと主人たちのあいだには悶着がおきていた。主人たちはかれに、領事館から領事館の雇員たちが住んでいる屋敷へ移るように、しきりにすすめはじめた。そこだと、かれはゲ・ぺ・ウの「保護」のもとに生活することになるからである。かれは移ることを拒否した。それで問題は棚上げされがた、論文が発表されたため、ついに危機に追い込まれた。いまやスターリンは追放を公然化するために必要な口実をつかんだ。
ーソビエトの各新聞は「世界のブルジョアジーに身売りをして、ソ連にたいして陰謀をたくらんでいる」と書きたてた。新聞の漫画家たちは、ミスター・トロツキーが25000どるの金袋をかかえている姿を描いた。ゲ・ぺ・ウは、われわれはもはやトロツキーの生命の安全を保護する責任は負わないと宣言して、かれを領事館から追い出そうとしていた。
ーナターリャとリョーヴァは、いまでもゲ・ぺ・ウ員たちにしつこくつきまとわれながら、多少とも安全で、静かな住居をもとめて、コンスタンチノープルの郊外や町端れを、息を切らして探しまわった。ついに家がみつかった。だが、それはコンスタンチノープルの市内でも、市の近くでもなくて、マルマラ海沖のプリンキポ諸島だったーコンスタンチノープルからこの島までは、汽船で一時間半かかった。大急ぎでここを住居にえらんだのは、ちょっと皮肉だった。
ープリンキポ、つまりプリンスの島々には、かつてビザンチン帝国の皇帝たちが、皇族のライバルや反逆者を幽閉したした流刑島だったからである。トロツキーは、3月7日、または8日に、ここに着いた。プリンキポ第一の村ビュユク・アダの海岸に上陸したとき、自分は一羽の渡り鳥としてここに降りたのだったと想像した。だが、それは長い、多種多様な四年の歳月のあいだ、かれの住家となるのである。

生涯三度目の亡命・孤独の世界へ:
トロツキーは、かれの生涯のこの時期を、よく自分の「三度目の亡命」といった。この用語は、完全に正確なわけではないが、プリンキポへきたときのかれの気持ちを多少ともあらわしている。事実かれがロシア政府によって追放されて、国外へ住むのは、これが三度目であった。しかし1902年と1907年には、シベリアまたは極北地帯へ追放され、そこから脱走して、西欧に亡命したのだった。
ーあの頃はどこへいっても、革命的亡命ロシアという、あの大きな、活発で、ダイナミックな共同社会のひとりになった。こんどは、自分からのぞんで亡命家になったわけではなかった。国外には、かれを自分たちの仲間のひとりとしてむかえいれ、さらに新しい政治活動の環境をかれに提供してくれる、ロシア人亡命家たちの共同社会はひとつもなかった。政治亡命者たちの新しいコロニーは、たくさんあった。しかし、これらのコロニーは、反革命的亡命ロシアを形成していた。かれとかれらのあいだには、内戦の血が流されていた。あの戦争で、かれに味方して戦ったもので、いまかれと手をつなごうとするものはひとりもいなかった。
ーだから、かれの三度目の亡命は、まえの二度の亡命とはちがった種類のものであった。それはまた、どんな前例とむすびつけることができなかった。なぜなら、政治亡命の長い、数多い歴史をつうじて、これほど孤独な世界に追放された人間は、かつていちどもいなかったといっていいからである(ナポレオンは例外だが、しかしかれは戦争捕虜だった)。
ートロツキーは、いわば無意識的に、自分の現在の追放を、革命前の自分の経験とむすびつけては、その厳しさを、自分にも、家族にたいしても、やわらげようとつとめた。革命前の思い出は、いまでは心の慰めとなってくれた。かれの亡命一期は、3年たらずつづいたーそして、1905年のannus mirabilis「天変地異の事件の年」によって中断された。第二期は、それよりずっと長く、十年間つづいた。そして、1917年の最後の勝利がそれにつづいた。そのたびごとに、歴史はこの革命家の、国外での落ち着かぬ待望生活にゆたかに報いた。
ーこんどもまた歴史はそうするだろうと期待するのは、無理だろうか?かれは、こんどは見通しはそれより不利かもしれず、自分は二度とロシアに帰れないかもしれない、ということに気づいていた。だが、この自覚よりも、明確な、勇気をふるいたたせる展望を必要とするかれの気持ちのほうが、もっと強かった。闘士がみずから敗北をまねき、または絶望的な戦いをつづけているときでさえ、かれの楽観主義は、いぜんとして勝利を期待するのである。
ーさらにもうひとつの点で、かれの立場は、革命前のそれとちがっていた。革命前には、かれは世界に知られていなかった。もしくは、ただその方面のひとたちだけに、ロシアの革命家として知られていただけだった。いまはかれの立場は、そうではなかった。こんどは、地下運動の暗がりからふたたびあらわれたのではなかった。全世界がかれを、十月反乱の指導者、赤軍の創建者、その勝利の建設者、共産主義インターナショナルの鼓吹者としてみていた。
ーかれはそこから降りることのできない高みにのぼってたのだった。かれは世界の檜舞台で、歴史の照明をあびながら、かれの役を演じたのであって、身を引くことはできなかった、かれの過去がかれの現在を支配していた。革命前の亡命生活の、保護的な無名の存在に、ふたたび埋もれることはできなかった。かれの行為は世界を震撼させた。かれも、世界も、そうしたかれの行動をわすれることはできなかった。
ーかれはまた、かれのロシアの問題だけに没頭していることはできなかった。かれは自分の「インターナショナルにたいする義務」を意識していた。最近数年の闘争の多くは、ドイツ、中国、イギリスにおける共産主義の戦略と戦術に関する問題や、モスクワが便宜主義音ため、インターナショナルを骨抜きにしたやり口を中心に戦われた。かれがこの闘争をつづけてはならないということは、かんがえられなかった。表面的には、かれは追放されたことによって、そうすることがいっそう容易になったはずである。
ーもしもかれが国際主義のチャンピオンとし、スター二スト的、ブハーリ二スト的な「民族的偏狭」の批判者として、ロシアで不評を買ったとしたら、ロシア以外の共産主義者たちの、熱心な反応を期待する理由があった。なぜなら、かれが一国社会主義に国際的見地の優位を対抗させて、それを促進させようとしたのは、ほかならぬかれらの最も重大な利益であったからである。かれはモスクワやアルマ・アタから、外国共産党員に呼びかけることができなかった。
ースターリンはトロツキーの主張をかれらに全然知らさないでおくか、またはその恐ろしくゆがめられた観念しか得られないようにしていたのである。いまやかれは国外生活をよぎなくされたことによって、ついに自分の立場をかれらのまえに提起するこができるようになったのである。

王侯の島にて:
ー1930年ごろのプリンキポは、おそらくビザンチン帝国の皇帝たちの、不興をうけた兄弟たちや従兄弟たちが、その余生を生きながらえていた昔とおなじように、いまも荒涼としていた。
ー到着した瞬間から、トロツキーは、自分の隔離された環境に満足せず、ゲ・ぺ・ウと白系亡命者たちの手が容易にとどくところにいることに、不安を感じた。かれの家の門の外には、トルコ人の警官が二名配置されていたが、しかし、かれは生命の安全をこの二名の警官にたくして、安心していることはできなかった。ここへ着くいなや、さっそくかれは、自分の自伝の最後の数ページに一部のべている、査証探しをはじめた。
ーオデッサから追放されるまえに、すでに、かれは、自分のためドイツの入国許可証をえてほしいと、政治局に要請した。その返事は、ドイツ政府ーヘルマン・ミュラーを首班とする社会民主党政府ーが拒否した、ということだった。トロツキーは、スターリンがかれを欺いているのだ、と確信した。だから、社会主義者の国会議員パウル・シーべが、ドイツはトロツキーに亡命を許可するだろうと断言すると、さっそく査証を申請した。
ー「革命的独裁の鼓吹雪が民主主義国の隠れ家をもとめざるをえなかったという事実を、新聞がそれみたことかといわんばかりに、得々と書きたて」ても、それでひるみはしなかった。トロツキーはこの教訓からよろしく「民主主義制度の真髄をみとめることを」学ぶがよからおう、とかれらはいった。しかし、その教訓は、ほとんどなにひとつ啓発してはくれなかった。ドイツ政府は最初かれにむかって、移動の自由にたいする制限に服すかどうか、とたずねた。
ートロツキーはそれにこたえて、自分は公けの活動はいっさい差し控え、できるならどこかベルリンの近くで、「完全に隔絶」して生活し、文筆活動に専念したい、といった。ついでまた、医療をうけるために、短期間訪独するだけでは不十分だろうか、とたずねられた。かれは、ほかに仕方がないのだから、それでけっこうだとこたえると、こんどは、政府の見解では、かれは特別治療を必要とするほどひどい病気ではないと考える、という返事であった。
ー「レーべはわたしに、亡命の権利をあたえるといったのか、とわたしはたずねた・・・ほんの数週間のうちに、亡命の民主的権利は三度切りつめられた、ついで治療をうける権利に切りつめられ、最後に埋葬される権利に切りつめられた。こうしてわたしは、民主主義の完全な利益を、ただ骸骨としてしかみとめることができなかったのである」。
ーイギリス下院は、すでに1929年2月に、トロツキーの入国許可を討議した。政府はかれの入国を許可しないことを明らかにした。6月はじめ、トロツキーはコンスタンチノープルのイギリス領事館に査証を申請し、マクドナルドにあてて、正式に査証を申請する電報を打った。いっさいは徒労だった。しかし、かれの入国に反対したのは、自由党ではなかった。反対に、自由党の労働党大臣たちの態度に抗議した。ケマル・パシャがとった態度を、マクドナルドの態度と対照させて、「トルコ政府がイギリス政府のためにしてくれた寛容の手本をのみこむに」つらい思いをした。
ー他のヨーロッパ諸国の政府もまた同様に、「かれを閉じこめた檻の鍵を、すすんでにぎろう」とはおもわなかった。フランス政府は、1916年にトロツキーにたいして発した追放命令を掘りだして、これはまだ効力をもっているといった。チェコ政府は、最初はかれをよろこんで歓迎しようとした。マサリックの社会主義政府の大臣、ルドウィッヒ・チェク博士は「最も尊敬すべき同志」として、かれに呼びかけ、ベネシュと合意で査証が発行されたことを、かれに通知した。
ーだがこの通信は、けっきょく「同志」が「氏」となり、なんの説明もない拒否となって、冷たく終わった。オランダ政府は、カイザー・ウィルヘルムには保護をあたえておきながら、トロツキーにはあたえようとしなかった。トロツキーは、マグレーヌ、パズにあてた手紙で、自分はオランダ語を知っていないので、オランダ政府は自分がオランダの国内問題にけっして干渉しないことを、安心して信じることができる、自分はどんな辺鄙な片田舎にでも、変名で住むつもりである、と皮肉な調子で書いた。
ーオーストリア政府もまた、他国の政府に「寛容の手本」をしめしてやる気はなかった。ノルウェー政府は、われわれはかれの安全を保証することができないから、かれに入国を許可するわけにはいかない、と言明した。トロツキーの友人たちは、ルクセンブルグ公国の支配者たちにさえ、当たってみた。かれはこうして「ヨーロッパは査証がない」ことを知った。。
ーアメリカに当てってみることは、かんがてもみなかった。この「世界最強の国はまた、世界で最も怯えている国である」からであった。「査証なきヨーロッパとアメリカ」、そして「この二つの大陸は、他の三つの大陸を所有している。だから、査証なき地球ということになる」と、かれは結論した。
「多くの方面で、わたしはいままで、民主主義にたいするわたしの不信は、わたしの最大の罪である、といわれてきた・・・ところが、わたしが民主主義の実物教育をちょっと見せてもらいたいといっても、だれもすすんで見せてくれるものはいない」。
ートロツキーは、亡命していてさえ、恐怖心をかきたてた、というのが真相である。各国の政府と支配政党は、偉大な革命を指導し、いっさいの既得権力を無視し、神聖な財産権に挑戦するものは、だれでも無事ではすまぬということを、かれに思い知らせたのである。ブルジョア。ヨーロッパは、ナポレオンの没落以来絶えてみたことのないこの光景を、驚嘆し、小躍りしながらみつめたーナポレオンの没落以来、こんなに多くの政府が、たったひとりの人間を追放したことはなかったし、たたひとりの人間が、こんなに広汎な憎しみと恐慌をまきおこしたこともなかった。
ー保守主義者は、「14カ国反ボルシェビキ十字軍」を打破したさいに、かれが演じた役割をゆるしてはいなかった。この十字軍の鼓吹者ウィンストン・チャーチルの、「ヨーロッパの食人鬼」と題する、勝ち誇った、嘲笑的なエッセイほど、かれらの感情をよく表現したものはない。「ちょっと眉をしかめただけで、何千の人間の生命をうばったトロツキーは、いま黒海の海岸にのりあげて、古いぼろっ切れの束みたいに、尾羽打ち枯らしてすわっている」。
ーまもなくチャーチルはかんがえなおした。このエッセイを「偉大な現代人たち」のなかに収録したときには「古いぼろっ切れの束」という文句を、トロツキー「人間の皮をかぶった悪意の権化」という言葉に書きなおした。トロツキーが「黒海の海岸で」最初におこなった政治的声明は、かれが既成秩序の敵として、穀然として微動だもしていないこと、かつて赤軍をひきいて、第三インターナショナルの壇上から全世界に呼びかけたころとおなじように、いまもなお挑戦的で、自信に満ちあふれていることを明らかにした。いな、これは「古いぼろっ切れの束」ではないーこれは「人間の皮をかぶった悪意の権化である」。

デンマーク・コペンハーゲン・最後の「講演」(演説):
ー秋のはじめに、デンマーク社会民主党の学生たちが、かれに、コペンハーゲンへきて、十月革命十五周年記念日に講演するよう招聘した。かれはこれまでにも、そのような招聘をかなりうけていた。しかし、かれがヨーロッパのどこかにあらわれることをゆるされるチャンスはいちどもなかった。かれは、デンマーク社会民主党の政府がはたして自分に査証をあたえるかどうか疑ったが、しかし、こんどは招聘をうけいれた。査証がおりるいなや、すぐさま旅行の準備をした。
ーかれは用心深くトルコへ再入国許可はとったが、しかし心の奥では、二度とここへかえってくる必要がないかもしれないという、漠然とした希望を抱いていた。かれとナターリャはまた、ぜーヴァをコペンハーゲンにつれていき、そこからジーナのもとへおくりとどけることができるだろうとおもった。だが、かれらは、子供の旅行許可をえることができなかった。それで秘書のひとりに托して、プリンキポにのこしていかねばならなかった。
ー11月14日、トロツキーはナターリャと、三人の秘書にともなわれて、コンスンタンチノープルを出航した。かれは無国籍旅行者ミスタ・セドフと記名した。だが、この変名も一般の好奇心からかれを守ってくれることはできなくて、ただかれをとりかこむ秘密と騒ぎの空気を深めるだけであった。「プラウダ」はバーナード・ショーの言葉をもじって、「逃げ出した獅子」とあざけった。この嘲笑は、各国の政府や警察本部、新聞が、神経をとがらせてながら、かれの航路を追っていたようすを、多少ともつたえている。
ーたとえかれが真実の、強力な陰謀の首領としてヨーロッパを旅行し、無数の支持者がかれを歓呼したとしても、いまかれが一追放者として、どの国の政府も保護も拒否され、初老の病弱なひとりの婦人と、ほんの数名の年若い、熱烈な献身者につきそわれただけで、ただいっぺんの講演をするというだけの目的で、旅したときよりも、大きな騒動をまきおこすことはできなかったろう。
ー気ちがいじみた流言が、かれらの行く先々を、先回りした。新聞は、かれの旅行の真の目的はなにか、としきりに憶測した。講演はただの口実にすぎないということを、かれらはちっとも疑わなかった。なかには、トロツキーはヨーロッパのどこかで、スターリンの使者と秘密に会合することになっている、と報ずるものがあった。あるものはまた、トロツキーはスターリンにたいして最後の陰謀を上演しようとしている、と報じた。
ーかれの乗船が寄港するギリシャとイタリアの港では、新聞記者たちがかれを包囲した。アテネを訪れることはゆるされなかった。ナポリでは、下船して、警察の護衛をもとにボンベイの廃墟をたずねた。フランスの警察は、沖の海上で小さなモーターボートにのりうつるように命令した。かれはそのボードでマルセーユ港外の、廃物となった小さな突堤にはこばれて、そこで上陸した。
ーパリにはたった一時間とまっただけで、自動車と汽車でフランスを突っ走らされた。そのため、マルセーユからずっとかれのあとを追いかけた新聞記者たちは、やっとダンケルクでかれに追いつくことができた。かれはそこからデンマーク行きの船にのった。フランスを走りぬけているあいだ中、かれは右翼の全新聞の呪においかけられどおした。

かつて、日本を含め国際的にはこの町はアルマ・アタ(Алма-Ата)という名称で呼ばれていた。これは、カザフ語ではなくロシア語での呼称で、ソ連時代に事実上の公式名称となっていたものである。アルマ・アタ(英:Alma-Ata)は、カザフ語でアルマ(алма)は「リンゴ」、アタ(ата)は「父」を意味するため、「リンゴの父[9][10]」を意味していた。

アルマトイ(Алматы, 発音 [ɑlmɑtə] アルマトゥ、英: Almaty)は、カザフスタン南東部にある都市。人口153万人で同国最大の都市である。同国における経済・教育・文化の中心地であり、「南の首都」とも呼ばれる[2]。


ムスタファ・ケマル・アタテュルク[注釈 1][注釈 2](Mustafa Kemal Atatürk、1881年5月19日[注釈 3] - 1938年11月10日)は、オスマン帝国軍の将軍、トルコ共和国の元帥、初代大統領(在任1923年10月29日 - 1938年11月10日)。第一次世界大戦で敗れたオスマン帝国において、トルコ独立戦争とトルコ革命を僚友たちとともに指導してトルコ共和国を樹立。宗教(イスラム教)と政治を分離しなければトルコ共和国の発展はないと考え、新国家の根幹原理として政教分離(世俗主義)を断行。憲法からイスラム教を国教とする条文を削除し、トルコ語表記をアラビア文字からラテンアルファベットへ変更、一夫多妻禁止や女性参政権導入[2][3]、スルタン制を廃止などトルコの近代化を推進し、トルコ大国民議会から「父なるトルコ人」を意味する「アタテュルク」の称号を贈られた。現代トルコの国父[4](建国の父)とも呼ばれる。

コンスタンティノープル(英: Constantinople、ラテン語: Constantinopolis、古代ギリシア語: Κωνσταντινούπολις / Kōnstantinoúpolis、現代ギリシア語: Κωνσταντινούπολη / Konstantinoúpoli)は、東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンティノープル総主教庁が置かれている。

プリンスィズ諸島(英語: Princes' Islands、トルコ語: Prens Adaları、ギリシア語: Πριγκηπόννησα)は、トルコ北西部、マルマラ海の北東に浮かぶ9つの島々からなる島嶼群。イスタンブール市街地の南東約20kmの海域にあり、群島全体でイスタンブール県アダラル郡(諸島郡、区[1]とも訳す)を構成する。トルコでは単にアダラル(Adalar;「諸島」)、もしくはイスタンブール諸島(İstanbul Adaları)やクズル諸島(Kızıl Adalar)などとも呼ばれる。ヨーロッパ世界で一般的な「王子の島々」の呼称はギリシャ語名に由来し、ビザンツ帝国時代に島々が王族の流刑地だったことにちなむ。




1918年3月8日、内戦中のペトログラード。赤軍部隊に演説するトロツキー(ロシア語+バスク語字幕)。

↑1932年、コペンハーゲン(デンマーク)講演でのトロツキー演説(ドイツ語)+録画放映用の英語演説

↑録画放映用のフランス語演説(ギリシャ語字幕=コペンハーゲン)

1938年、モスクワ裁判に関する演説(英語)メキシコ


1938年、第四インターナショナル創立宣言(英語)。

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