日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Ленин,Влади́мир Ильи́ч Улья́нов=The Bolshevik Revolution Lenin・レーニンの想い出とクレムリン宮殿(Большой Кремлёвский дворец)・ロシア革命(Революция 1917 года в России)とマルクス主義(Марксизм)

レーニンはなぜ革命家になったのか?:(歴史読本「ロシア革命の謎」・倉持俊一(法政大教授)・91年)
ソ連のレーニン:
ーふつうレーニンは生まれながらの革命家であり終始一貫マルクス主義に立つ理論家であったと考えられている。往来、ソ連で刊行されてきたレーニンの伝記や歴史記述が、そう主張してきた結果でもあろう。レーニンの53年の生涯の中で、私が最も興味を持つものは、レーニンが自ら革命家にならざるをえないと考えるようになった20歳ぐらいまでの時期である。菊地昌典氏もかつて「私の非公認レーニン像」の中で、「レーニン像のポイントは、この(17歳以後の)数年間をどう把握するか、どう描くかにかかっている」と書いている。
ーところが従来のレーニン伝、特にソ連で出版された伝記では、この部分はきわめて簡単に扱われている。手元にある標準的なものを例にとれば、711ページのうち、23歳までの時期については、わずかに24ページが割かれているに過ぎない。その内容のごく簡単な要約は次のとおりである。
「レーニンには姉、兄、妹2人がいたが、みな秀才で家庭は平和で教養ある雰囲気に包まれていた。父はシンビリスク県の初等学校の視学官を監督する立場の教育者で、当時としては進んだ教育観をもっていた。使命感に燃えて初等教育の充実に打ち込んで成果をあげ(功により世襲貴族となる)、家庭でも子供の訓育に熱心であった。レーニンの兄弟姉妹が立派に成人したのは、誠実で労働を愛する人間に育てようという両親の教育方針でもあった。
レーニンは陽気で頭がよく、5歳から本を読み、4歳年長の兄アレクサンドルと仲がよく(それほど良くなかった・サム)、その影響を受けて早くから社会や政治の問題に関心を強めていた(兄の刑死後の話)。アレクサンドルも大変な秀才で首都ペテルスブルグの大学に進み、将来は一流の学者と 望されていたが、革命運動にも加わっていた。レーニンはこの兄からマルクス主義文献について教えられる(これも事実ではない)。しかし幸福だったレーニン一家も相ついで不幸に見舞われることになる。1886年1月、父が54歳で急死し、翌年春にはアレクサンドルの属するグループの皇帝暗殺計画が発覚し、アレクサンドルが5月に処刑されたのである。17歳のレーニンは、このとき兄の志をついで革命運動に身を投じる決心をしたが、兄たちの考えているテロというナロードニキ的闘争方法には反対であった。
ーレーニンは人民解放の別の道を求めて、社会科学を研究するためカザン大学の法学部に進んだ。つまり彼は大学入学前から革命運動に加わろうとしていたのであり、87年秋に入学するとすぐ進歩的な学生の非合法サークルに入り、12月はじめ、政府の文教政策に抗議する学生集会が開かれたとき、積極的役割を演じ、大学から放校処分を受けた」。
ところでこの要約の中で傍線を付けた部分は正しい記述とはいえないのである(その他の部分にも問題がある。また前項で述べたように、レーニンの家系についても、書かれるべきことで書かれていないこともあるが)。以下そのことについて書いてみよう。
社会・政治問題への無関心:
ーまず、レーニンは大学入学まで、真面目できわめて優秀な学生ではあったが、兄や姉と違って社会や政治の問題には関心がなかったということである。姉のアンナと兄は政治的に早熟で、性格的にも似ており、容姿の点でも美人の母親似であった。レーニンは父イリヤに似て、短足でずんぐりした体型で額は禿げ上がり、風格はあるが美男子というタイプではなかった。学生時代に異性の関心の対象となることもなかったといわれている。遺伝的体質も似ていたのであろう。2人はほぼ同年齢、同病(イリヤは54歳、レーニンは53歳、脳溢血)で亡くなっている。その他にも、2人が人間的に似ている点は多い。ところで1886年の秋、アンナがアレクサンドルに「あなたはヴォロージャ(レーニンの幼名)についてどう思うの」と聞いたところ、彼は「彼が非常に有能であることは確かだ。しかしわれわれはあまりうまくいかない」と答えたという。
ー社会や政治の問題への関心という点に戻ろう。1886年の夏、母の実家で、レーニンは兄や姉と休暇を過した。これが一家にとって最後の平和な夏休みとなったわけだが、アレクサンドルは「資本論」や「ロシア=マルクス主義の父」といわれたプレハーノフ(亡命組の巨匠・メンシェヴィキが担いだ・10月革命にも武装蜂起にも反対・18年、フィンランドで病死)の著作に読みふけっていた。ところが、兄と同じ部屋で暮していたレーニンは兄の書棚には目もくれず、ツルゲーネフの「ルージン」「貴族の巣」「その前夜」などを、繰り返し読んでいた。アンナは政治や経済の本ではなくて文学にこれほど夢中になっていられる弟に、「レーニンは当時いかなる明確な政治的見解を持っていなかった」と書き残している。
ーこのアンナの文章は1927年、つまりレーニンの死後で、レーニン崇拝のキャンペーンが進行していたときのものだけに、返って信用できよう。このアンナの証言の他にも、レーニンの社会・政治問題への無関心さはギムナージャ在学中の学科の好みにもあらわれていると思う。ギムナージャは修業年限8年で、進級・卒業の判定は厳しく、卒業できれば当時9校に増えていた帝国大学に無試験で入学できた。入学年齢は9-12歳であったが、レーニンは9歳で入試に合格し、シンビリスクのギムナージャに最年少で入学した。彼の父はアストラハン(ヴォルガ河口の重要な戦略拠点・スターリングラード(ボルゴグラード)はその上流)のギムナージャを首席で卒業し、金メダルを与えられている。
ーしかし理学部に進学した兄とレーニンでは得意な科目が違い、レーニンは古典語(ギリシャ語・ラテン語)に抜群の成績を残しているのである。ギムナージャは正式にはクラッシーチェスカヤ(英語のクラシカル・古典)という形容詞が付いているように、古典語は重要な科目であったが、レーニンが入学した頃には、一段と重視され時間数が増やされるようになっていた。そのことは、1881年3月にアレクサンドル2世がテロリストに暗殺されて、アレクサンドル3世が即位したことと関係がある。アレクサンドル2世は農奴解放など一連の「大改革」を行い「解放皇帝」といわれたが、3世は父の自由主義的諸改革に反対で、多くの分野で「反改革」を強行するようになった。
ー学生の左傾化を恐れた文部省も、先生の関心を、社会や政治の問題、さらに唯物論を育てると考えられていた自然科学から引き離すために、関連する科目を減らして古典語と神学の時間数を増やし、ロシア文学の授業内容も主として教会作家のものに限定するようにしたのである。このように学生に対する思想対策の手段と考えられていた古典語やロシア文学の学習に打ち込んで、良い成績をあげていたことは、在学中の彼の思想傾向を暗示しているといえるのではあるまいか。レーニンが1887年6月、ギムナージャを卒業したときの成績が、一科目を除いてオール5であったことは、ソ連では有名な事実である。科目は神学、ロシア語及びロシア文学、論理学、ラテン語、ギリシャ語、数学、歴史、地理、物理及び数理地理学、ドイツ語、フランス語など11である。
ーレーニンと卒業生全員の成績表が残されているが、卒業する同級生は27名である。レーニンの成績は論理学が4点であるほかは、すべて5点で、総点は54となる。2番のナウモフという学生は5点が4科目、4点が6科目、3点が1科目で総点は47、レーニン以外の26人の平均点は34・5である。文字どおり抜群であることがわかる。レーニンが4点となった論理学で5点をとった学生はなく、この科目の担当者は4点以上はつけない方針だったという。そしてロシア語、ラテン語、ギリシャ語の3科目で5点をとっているのはレーニンただひとりで、4点さえ、それぞれ5人、7人、1人しかいない。また当時の学校の記録では「授業に関する興味」という欄に、「すべての学科とくに古典語に熱意を持っている」と記されており、校長のケレンスキーは将来彼が優れた古典学者になると確信していたという(ちなみにこの校長の息子が1917年にレーニンに打倒された臨時政府の首相である)。
レーニンのナロードニキ時代:
ーソ連各地の40以上の主要都市にはレーニン博物館がある。その展示物のうち、どこへ行っても例外なしに飾られているのが、このギムナージャ卒業時の成績表のコピーである。そしてもうひとつ必ず飾られていたのがビュロウソフの画いた「われわれは別の道を進む」という絵である。これは1887年5月、シンビリスクの自宅で、兄アレクサンドルの処刑の報を受けたときの情景を画したとされるもので、泣きくずれる老母の肩を抱きかかえるようにして、決然たる面持で立つ少年レーニンが画かれている。絵の題の意味は、冒頭の要約のとおり、革命家になるが、兄たちのようなナロードニキ的闘争方法はとらない、とそのとき宣言したということである。
ー1880年半ば以後、ロシアの革命運動の中ではナロードニキ
とロシア・マルクス主義者が対立競合を繰り返してきた。その主導権の争いは、1917年の革命後半年ぐらいのうちに、後者ボルシェヴィキ(共産党)の勝利に終わる。いうまでもなく、そのときレーニンは政府の首班でありマルクス主義の最高の理論家とされていた。そのレーニンがそもそも革命家を志したときから、マルクス主義の立場で一貫してナロードニキを批判していたということを誇示したいということであろう。ところで、この絵の主張の唯一の根拠は、レーニンの8歳下の妹マリアの発言なのである。レーニンの死の2週間後の1924年2月に行われた追悼会の席で発言されたこの内容は、ソ連当局者の思惑と合致したため、たちまちのうちに流布していった。
ーしかし何人もの歴史家が指摘しているように、この発言の内容は信じがたい。兄の処刑のとき、まだ9歳だったマリアが、レーニンの「われわれは・・・」の意味を理解してたのか、理解したとすれば、なぜ40年近くも、そのことについて沈黙を守ってきたかということが疑問として残るからである。そしてそれよりも、この87年以後数年間のレーニンの実際の行動が「われわれは・・・」と矛盾しているからである。ソ連の伝記類が主張するように87年秋に大学入学後、学生の秘密サークルに加わるが、それはナロードニキ系のボゴラスの指導するもので、冒頭の要約の進歩的な学生のサークルではない。そして加入したのもレーニンの自発的意志によるのではなくて、強く勧誘された結果と思われる。アレクサンドルの事件は、全国の活動家学生の関心を集めており、特にアレクサンドルは学生の間で熱烈に偶像視されていた。
ーレーニンが入学時に政治的に白紙の状態であったとしても、彼は’例のアレクサンドル’の弟として学生たちから注目される運命にあったのである。また同年12月4日の学生集会でも、単なる一参加者であったというのが真相のようである。処分学生の中でもレーニンが放校という最も重い処分を受けたのは、彼が入学前からアレクサンドルの弟として、特別扱いをうけ警戒されていた結果と考えられる。レーニンが多少とも自覚的に非合法活動に接近するのは88年以後と考えられるが、そのとき、彼はカザンでナロードニキのチェーヴェルゴーヴァが指導するサークルに加わり、89年にサマラ(現クイヴィシェフ=41年の夏、ヒトラーの軍隊がモスクワに迫る中。ソ連政府が避難した後方の小都市)に移ってからも、ドルゴフ、ヤースネヴァ、ロマノーヴァなどの古くからのナロードニキと交際し、スクリャレンコのサークルにも加わった。
ーこのサークルもナロードニキ系であったが、レーニンは他のメンバーとともに次第にマルクス主義に傾斜していったようである。以上の他にレーニンの夫人クルプスカヤの「レーニンの思い出」の中に印象的な一節がある。レーニンの「何をなすべきか」の中で、マルクス主義者の多くの者も「若い頃にはテロルの英雄を熱烈に崇拝していた」と書いているのに対し、彼女はこの部分はレーニン自身の「伝記の1部である」と述べているのである。つまりレーニンは文頭に書いた「終始一貫マルクス主義に立つ」とは言い難いのであり、マルクス主義者になったといえるのは1893年頃からだ、というのが妥当であろう。
革命家レーニンの誕生:
ーところで、なぜ革命家になったのか、という問題である。以上のとおり、ギムナージャ卒業まで、レーニンは政治に無関心な秀才だった。しかしその直前の兄の逮捕、そして処刑は、それまで経験したことのない大きなショックだった。兄が死を賭した理想が何であったのか、法廷における兄の発言・態度はどうだったのか、レーニンは兄の旧友などに熱心に聞いてまわったという(ちなみにアレクサンドルの態度は、捕われた革命家の模範ともいうべきもので多くの歴史家が感動的に描いている)。そこでレーニンが何を知り、何を感じたかは明らかではない。彼はおよそ自己を語りたがらぬ人物で、伝記的情報をほとんど残していない。1893年(23歳)まで、彼が書いたものとして残っているのは、後で述べる嘆願書とか証明書、電報など20数点だけである。
ーレーニンの心の動きを追うのは、困難であるが、この頃レーニンに会った従兄弟のヴェレテン二コフは、急に無口になり、滅多に笑わぬ「一人前の真面目くさった人間」になったと述べている。しかしここでレーニンが直ちに革命家の道に一歩踏み込んだとは思えない。今や彼は、父と兄を相次いで失い、一家の最年長の男子として、残された母、妹、弟の生活を考えねばならぬ立場に置かれた。世襲貴族といっても先祖から伝えられた財産があるわけではなく、母に支給される遺族年金に頼れるだけであった。彼が進学にあたって得意科目に関連する文学部でなく法学部に進んだのも、テロリストの弟として就きうる職は弁護士、と考えたからといわれている。ところが入学数ヶ月で大学を追われてしまう。
ーそれも、例のボゴラスとの関係は当時まだ官憲に知られておらず、ただアレクサンドルの弟というだけの理由であった。ともかく、レーニンとしては一家の生計をたてるために、是非とも大学を卒業しなければならなかった。そのため数ヶ月にわたって、レーニン自身のも母も、復学のためのーそれが駄目なら転学の、さらに外国の大学に入るための出国のー嘆願書を出すこと自体、レーニンにとって屈辱的なことであったろう。これらの嘆願書には、当時のレーニンの追いつめられた心境が滲み出ているし、母の嘆願書のひとつには、このままでは息子に自殺の恐れがある、とさえ書かれているのである。
ーこのようにレーニンは放校されて2,3年、勉学の目標も希望も持てぬ状態に追い込まれていた。そしてのちにレーニンが自ら「このときが私の全生涯で最も集中的に読書した時期だったと思う」と書いたように、はじめて社会問題、政治、経済の分野の本に読みふけり、社会や政治の問題に開眼したといえるのではないかと思う。以上、レーニンがある時期まで「革命家」とは縁遠い存在だったこと、ナロードニキに傾倒した時期があったことを書いた。しかしこのことでレーニンの弱点をついたと考えているわけではない。幼少の頃から迷いも悩みもなく、一直線につき進んだ超人的革命家というよりも、ノンポリの青年が苦悩、模索、逡巡を重ねた末の革命家と考える方が、人間レーニンの正しい理解だと信ずるからである。
ーアレクサンドルの事件がなければ、レーニンはギムナージャの校長が期待したように古典学者として大成したのではなかったか。また、西ヨーロッパでも有名だった碩学コヴァレフスキーは、レーニンの「ロシアにおける資本主義の発達」(1899年)を読み、彼に大歴史家の才能を認めたといわれている。啄木の研究家として知られた吉田孤羊氏は短歌でソ連旅行記をつづられた(「啄木とロシア」1973年)が、ラズリフ湖畔のレーニン潜伏中の藁小屋を見て、次の歌を残されている。その兄が殺されざりせば レーニンも 革命家とはならざりにけん
レーニンのクレムリン:(木村明生「クレムリン権力のドラマ」92年)
ーこれまで、庶民のレクリエーションの場としてのクレムリンと、ロシア千年の歴史を刻んだ壮大な記念物としてのクレムリンの顔をみてきた。しかし、なんといってもクレムリンの現代的意義は、それが米国と並ぶ大国ソ連の政治権力の中枢たるところにある。ソ連は、いわゆる’社会主義共同体’、とりわけワルシャワ条約機構、経済相互援助会議(コメコン)の中核であり、第三世界の反帝・民族解放闘争の強力な支援基地でもある。そのソ連の政策決定の中枢が、ここクレムリンに集中している。クレムリンはいま、世界史の動向をも決定する国際政治の’核’であるといっても過言ではない。それはロンドンのダウニング街10番地(首相官邸)を中心としたホワイトルーム(官庁街)やパリのエリゼ宮(フランス大統領官邸)はもちろん、ワシントンのホワイトハウスに勝るとも劣らぬ国際政治上の重みを持っている。クレムリンがソ連の政治の中心としてよみがえったのは、さきに述べたよう1918年3月、ソ連の首都がペトログラードからモスクワに移り、レーニンを首班とするソビエト政府がクレムリン内に本拠を定めてからである。モスクワに移ったレーニンはまず、クレムリン内の小さな付属建物を選んで、クルプスカヤ夫人とともに住んだ。トロイツカヤ塔の下の門をくぐって入ると、すぐ右側に狭い通路ーコム二スト通りーがある。この通りに面して(大会宮殿とクレムリン大宮殿とに向い合って)、昔からクレムリン勤労者の住む3階建ての細長い’長屋’が建っているが、その奥まったところ、クレムリン大宮殿にちかい1階の小さな2間のフラットで、レーニン夫妻は1918年の3月と4月を過した。レーニンは、かつての宮殿や貴族の館を利用するとき、豪華な母屋を避けて、気の置けない離れを使うのが好みだったようだ。晩年に病を癒したモスクワ郊外のレーニンスキエ・ゴルキの旧モスクワ警察長官の邸までも、まず付属建物に入り、しかもクルプスカヤ夫人のよりも小さな部屋を使っていた。レーニンが議長を務める人民委員会議のオフィスは、クレムリンの東北隅の旧ロシア帝国の元老院(最高裁判所に相当)の建物の2階に、連続して6室を占めた。この建物は、赤の広場のレーニン廟の前に立って、クレムリンを眺めたとき、赤茶けた城壁の上に青銅のドームをみせ、その頂上に赤いソ連国旗をはためかせている。この建物はいまソ連の閣僚会議のビルになっている。この旧元老院は、1776-88年にマトヴェイ・カザコフの設計で、ロシア・クラシック様式によって建てられた。設計者の名をとってカザコフ館と呼ばれることもある。クレムリン大宮殿をはじめとする構内の多くの建物や、外の赤の広場ともうまく調和のとれた3階建て、ほぼ三角形のどっしりした建物である。
レーニン家のフラット:
ー1918年4月の終わりに、レーニンとその家族(クルプスカヤ夫人と、レーニンの妹マリア・ウリャノーワ)は、カザコフ館の3階に引っ越してきた。レーニン家のフラットは4室から成っていた。レーニン自身の部屋は、家庭での書斎と寝室を兼ねた小さな一室(その向かいがトロツキー夫妻だった。27年に退去。サム)。窓際にカシの木の書き物机があり、壁にそって鉄製のベッドが置かれ、格子縞の毛布で覆われている。レーニンの母マリア・アレクサンドロブチが、1910年にスイスで最後に彼に会ったときに贈ったもので、レーニンはとても大切に使っていたという。クルプスカヤ夫人(1869-1939・レーニン死後、レーニン崇拝の動きを批判(レーニン廟建立にも反対した)。スターリンの恐怖政治により沈黙を強いられた)やマリア・ウリャーノワ(1878-1937・同じく)の部屋も極めて質素なものである。2人は1924年にレーニンが死去した後もここに住んでいたわけだが、筆者が見学したとき、マリア・ウリャーノワのささやかな書棚に、スターリンの「レーニン主義の基礎について」(理解しやすいけど、荒唐無稽な内容)その他の著作が置いてあったことを思い出す。スターリン自身、クレムリン内に住み(後述)、レーニンの遺族にはそれ相応の処遇をしていたのであろうし、マリア・ウリャーノワもそれなりに新しい’独裁者’を理解しようとしていたのだろうか。台所や食堂の調度は、1国の指導者のものとは思えぬ簡素なもので、コーヒー茶碗もセットになっておらず、次々に買い足した不揃いなものである。レーニンは若いときからの習慣で、台所でよく昼食や夕食をとったり、お茶を飲んだりした。彼は台所(廊下や浴室ではよく。くつろいだレーニンがトロツキーの2人男の子たちと遊ぶ声が聞こえた)でお茶を飲みながら、女中のオリムビアーダ・二カロノブナ・ジュラヴリョーワと話すのが好きだった。彼女はウラルの製鉄工場の女工出身で、レーニンは、彼女に強い「プロレタリア的本能」を感じていたという。
レーニンの執務室:
ー机の上にはインクスタンドや鉛筆立て、バーバーナイフやハサミ、カレンダーなど、文房具一式が置かれている。「ロシア社会主義連邦ソビエト共和国人民委員会議長、モスクワ・クレムリン」と印刷した封筒もある。机の右手の書類入れいんは、ロシア共産党(ボルシェヴィキ)綱領や鉄道時刻表が入れてあり、さらにグリーンのシェードをつけたスタンドと電話が2台置かれている。机の左手には、クレムリン内の内線電話と党、政府要人の電話番号、それにレーニンがたびたび寄稿した党機関紙「プラウダ」の電話番号リストが備えつけられている。机の前には4本のローソクをセットしたローソク立てがある。当時のロシアはしばしば停電に見舞われ、クレムリンも例外ではなかったのだ。
ーデスクの両側に、レーニンが「まわり棚」と呼んでいた回転書棚がある。そのひとつには、党大会や党協議会(コンフェレンツィア、党大会と党大会の間に、主として国内の重要問題を審議するために開かれていた)の資料、「労農政府法令集」、辞書、統計年鑑などが載っており、もう一方には、日常の活動に必要な書籍や記録の紙ばさみがあり、レーニンが読みたいと思った本なども、これに載っている。レーニンのデスクと文房具一式は、質素ではあるが、当時としては極めて機能的な、モダンなものだったと思われる。レーニンはまた専用車にロールス・ロイスを使っていたが、これを車としての性能のよさを買ってのことであろう。’科学的共産主義’の信奉者としてレーニンは、なかなかハイカラな人だったようだ。
ー「共産主義とはソビエト権力プラス全国の電化である」というレーニンのスローガンは有名だが、その弟子のスターリンも「ロシア的革命精神とアメリカ的事務能率」を呼びかけている。古いロシア帝国の元老院のなかの1室にありながら、レーニンのデスクの周辺には、若々しい革命の雰囲気がいまも感じられる。デスクの前に、レーブルクロスに被われた来客用のテーブルがくっつけてあり、深々とした革張りのイスが四脚備えてある。レーニンは来訪客を、この応接セットで迎えたのである。作家のマキシム・ゴーリキーがよく訪ねてきた。彼が革命後のペトログラードの学者たちの窮状をレーニンに訴えたおかげで、著名な生理学者で科学アカデミー会員のイワン・パブロフの研究条件が大きく改善され、研究論文も公刊されることになったという。
ー1921年2月には、農民のイワン・チェクーノフがやってきた。会話の中でチェクーノフは、メガネをなくして困っていると話した。当時メガネは大変な貴重品である。レーニンはすぐにデスクの右側の電話をとって、保健人民委員二コライ・セマチュコを呼び出した。「いま同志チュクーノフと話している。共産主義を彼なりに実践している、とても興味ある農民だ。彼がメガネをなくして、1万5千ルーブルも棒に振ったんだ。もし君に助けてもられるならとてもありがたいんだが・・・。もし彼に新しいメガネをあてがってやれたら、私に知らせるよう秘書にいってくれたまえ」。レーニンのイニシアティブによって、第8回ソビエト大会で全国電化計画(ゴエルロ)が採択されたとき、その計画のとてつもない大きさが世界を驚かした。
ー共産主義の敵だけでなく、その同情者すら、この計画が実現するとは思わなかった。
ー英国の著名な作家H・G・ウェルズは、若いソビエト・ロシアの友だったが、この計画の可能性を疑っていた。1920年、彼はこの部屋にやってきた。ゴエルロについてレーニンはウェルズと英語で討論した。このあとウェルズは、レーニンを’クレムリンの夢想者’(dreamer in the Kremlin)と呼んだのだった。このときの訪ソのあとウェルズが書いた「影のなかのロシア」(Russia in the Shadows)の初版本が、レーニンのデスクの後ろの書棚に収まっている。余白にレーニンの書き込みとアンダーラインが残っている。たとえば、第一次大戦の原因と、その火付け人に関するところで、「この巨大で、病んだ、破産した帝国を、6年間にわたる苛酷な戦争に投げこんだのは、共産主義ではなく、欧州の帝国主義である」という文章には、4重のアンダーラインがあり、’NB’(注意)のマークが付いている。ウェルズが、ロシアに可能な唯一の政府はボルシェヴィキ政権だと述べているところなどにも、同じマークがある。
ーウェルズは後年、もう一度ソ連を訪れて、ゴエルロが現実のものになったことを、その目で確認したのだった。「影のなかのロシア」が収めてある書棚が、レーニンのデスクの後ろ側の壁をおおっている。党の身上調査書の職業欄に、レーニンは「ジャーナリスト」と書いているだけあって、彼は何かの政策を打ち出すとき、まず書き物をしたようだ。それは「プラウダ」への論文であり、演説の草稿であり、パンフレットであり、時には大冊の書物すらあった。党の政策実現の主要な手段として「宣伝」と「扇動」による大衆の「説得」を重視した彼にしてみれば、当然のことであろう。書棚に並んでいる書物は約2千冊。レーニンがこれらの著作を書くために使った参考書と定期刊行物の一部である。
ーこれらの書棚のつくりは、いま風にいえばユニット式である。ここにもレーニンのハイカラさがあらわれている。書棚に占められている以外の空いた壁面には、びっしり地図が張られている。レーニンはこれら地図を眺めて、外国干渉軍や白衛軍に対する赤軍の戦闘を指導しながら、ゴエルロをはじめとする国内の社会主義建設の構想をも練ったのである。
人民委員会の会議室:
ーレーニンの執務室の隣が、当時のソビエト・ロシアの政府である人民委員会議の会議室である。日本風にいえば閣議室だ。もっとも人民委員会議だけでなく、党の政治局の会議にも使われたし、レーニンに面会する来訪者の待合室ともなった。人民委員会議の当直の秘書もこの部屋にデスクを持っていた。細長い部屋の形に合わせた長方形の大きな机の端、執務室のドアを開けて出たところに、質素な藤の椅子がある。レーニンが人民委員会議と政治局の会議を主宰したのがこの椅子である。
ー1967年の夏、筆者が初めてこの部屋を見学したとき、案内の上品な婦人が面白いエピソードを教えてくれた。人民委員会議を主宰するに当ってレーニンは、司法人民委員のD・I・クルスキーに覚書を送って「報告書は10分以内、意見の表明は1同日か5分以内。2回目は3分以内、3回以上の発言は認めない」というルールを示し、次の人民委員会議で採択させた。「簡潔に、明確に」というのが、人民委員たちに対するレーニンの要求だった。ある日の会議で、ひとりの委員が、他の委員の意見に反論しようとして、まずその委員の意見を述べることから始めた。そのうちに制限時間がきてしまった。「時間だよ」とレーニン。「しかし、私はまだ自分の意見は述べておりません」。レーニンは答えた。「それは関係ない」。
ーちょうど、長広舌が好きなフルシチョフが失脚して、その’作風’が批判されているときだったので、このエピソードは印象的だった。アパートに帰って、お手伝いさんである中年のロシア婦人にこの話をしたら、彼女もフルシチョフのおしゃべりにはうんざりしていたそうで、往々にして「プラウダ」の4ページ(当時は4ページ建て)全部を埋め尽くした彼の演説は「見ただけでゲップが出た」といって笑った。そして古いロシアのことわざを教えてくれたー「骨がないから舌はよく動く」。
レーニンのライブラリー・およそ9ヶ国語につうじていた:
ー人民委員会議の会議室のさらに隣の部屋が、レーニンの個人的ライブラリーになっていて、約5千冊の書物が保管されている。レーニンの利用した書物はもっと多かったが、彼の意思で個人的蔵書の1部は、マルクス・レーニン主義研究所への2千冊をはじめ、ゴルキ国営農場その他の図書館に寄贈された。これらの本のうち、余白に書き込みがある本が500冊以上ある。このライブラリーの書物も、モダンなユニット式の書架に収まっているが、これらの書物はレーニンの驚くべき関心の広さを物語っている。ロシア語の書物の他に、英、独、仏、伊、スペイン、ポーランド、ブルガリアの各国語を含めて、全部で20カ国の書物が並んでいる。レーニンは、9ヶ国語に通じていたという。
ードイツ語、英語、フランス語を流暢に話し、ポーランド語とイタリア語を十分に読みこなし、翻訳できたほか、スウェーデン語とチェコ語を理解した。加えて学校時代に学んだラテン語とギリシャ語を知っていたのである。コミンテルンの何度かの大会で、レーニンは外国語で演説している(残念ながらトロツキーと違い、「外国語」の肉声は残っておりません)。例えばコミンテルン第4回大会では「ロシア革命5年と世界革命の展望」と題した報告をドイツ語で行っている。
ーレーニンは控え目な人物だったので、自分の外国語の知識をひけらかすことは決してなかった。例えば党の身上調査で、職業を「ジャーナリスト」と書いたことは前に述べたが、彼は「外国語の知識」の欄には「ドイツ語を少し」と書き込んだだけで、イタリア語を書き入れたことはなかった。だが、イタリアの共産党員たちを家でもてなしたとき、レーニンはよどみのないイタリア語で歓談した、とジョヴァン二・ジェルマネットはは回想している。またハンガリー共産党のラズロ・ルダスの追憶によると、コミンテルン第1回大会のとき彼はレーニンと会話を交わした。話を始める前、レーニンはドイツ語でも、英語でも、フランス語でも結構だが、そんなによくはできない、といった。ルダスはドイツ語を希望した(ハンガリーは、オーストリアと共通のハプスブルグ王朝を載いていたので、ドイツ語は第2外国語であった)。
ーところが、いざ話してみると、レーニンのドイツ語は全て流れるようであるばかりか、ルダスよりもはるかに豊かな語彙に裏づけられていたという・・・。読書家としてレーニンは、非常な早読みの名人であり、しかも書物の細部までを素早く覚え込む驚くべき能力を備えていたようである。ともかくもこのレーニンのライブラリーを眺めると、ヨーロッパの辺境の遅れた国の人民の先頭に立ったこの革命家が、途方もなくすぐれた知識人だったことを、ひしひしと実感させられる。・・・
ー「レーニンは、国家の第一人者になっても、彼と家族が住むのに必要な部屋数があるだけの、ささやかなフラットで満足していた。しかも、家族は、それぞれ責任のある社会的な仕事を大いにやっていた人たちである。インテリアについていえば、ドアを開けてみさえすれば、ここが、つつましやかな、しかし真に教養のある人たちの住まいであることがわかるだろう。すべての家具はシンプルで、清潔で、きちんと整頓されている。きらびやかな物やものものしい物は見当たらない。それぞれに家具があるべきところに納まっており、ぜいたくなおmのや何に使うかわからぬようなものはひとつもない。その反面、知的関心の強い勤勉な家人に必要なすべての物が揃っている」。
ーたしかに、大国ソ連の指導者だったレーニンが、フラットにはたったひと部屋の寝室兼書斎しか持っていなかったことは特筆してよいであろう(トロツキー夫妻・家族もおなじだった)。レーニンの人柄について、ソ連の文献はよく「スクーロームヌイ」と書いている。「控えめの」「謙遜な」「質素な」といった意味である。当っているというべきだろう。丁寧な婦人ガイドの室内で、ひとりゆっくりとレーニンのフラットを見終えて、ふと「思いは高く、暮らしは低く」というワーズワースの言葉を思い出した。
レーニンからスターリンへ・レーニン最後の闘争:
ー1922年の春、若い社会主義国家ソ連の指導者、レーニンはひどく衰弱していた。しばしば激しい頭痛が彼を襲った。革命直後の1918年にペトログラード(現在サンクト・ぺテルブルグ・旧レニングラード)で、反革命分子に狙撃されたときの弾丸が体内に残っていたことが、その原因と考えられた。レーニンはもはや政治に積極的な役割を果たすことはできそうもなかった。残っている反革命分子が勢いを盛り返さないうちに、強力な人物が彼にとって代わる必要があった。同年4月、共産党第11回大会が選出した中央委員会は、イオシフ・スターリンを党書記長に選んだ。レーニンはこれを聞いて「あの料理人はカラシのきき過ぎた料理しか作らないんだが・・・」といったという。
ーこの年の5月末、レーニンは初めて脳溢血の発作に倒れ、右手足がマヒ状態になった。しかし、レーニン重体のしらせはスターリンが反対勢力の拾頭を恐れたために、しばらく公表されなかった。レーニンはモスクワ近郊の美しい森に囲まれた保養地ゴルキに移って、療養に専念することになった。その後、レーニンは小康を取り戻して、1922年10月にクレムリンに帰り、人民委員会議や党中央委員会を主宰した。レーニンは医師の忠告にもかかわらず、仕事熱心のあまり過労に陥り、その年の12月16日には2度目の発作に襲われ、クレムリン内で病床についた。レーニンは覚書や電話でしか、党と政府に連絡がとれなくなった。
レーニンの懸念:
ーすでにレーニンの後継者たろうと野心を燃やしていたスターリンは、このような情勢を利用しようとし、党書記局に集中していた情報の大部分をレーニンに隠した。レーニンにもっとも近い人々に対しては隔離措置がとられた。「ベッドに縛りつけられ、外界から隔離されていたレーニンは、警戒心と怒りで燃えあがらんばかりであった。彼の懸念の主要な源泉はスターリンであった。書記長の振る舞いは、レーニンの健康についての医師たちの報告が、思わしいものではなくなってゆくにつれて、ますます大胆になっていった」-スターリンの最大の政敵だったトロツキーはその回想録でこう書いている。ある日スターリンは、レーニン夫人クルプスカヤの筆跡で書かれ、彼女の署名入りの手紙で、何かの情報を求めたられたとき、即座にクルプスカヤを電話口に呼び出し、秘書のいる前で怒鳴りつけた。「ナジェージダ・コンスタンチンノヴナ!2度とこんな手紙はよこさないで頂きたい。これはウラジミール・イリイッチの書いたものじゃない。あなたの手紙じゃないですか。あなたから指示されるいわれはないはずです!」。彼はガチャンと電話を切った。レーニンが重病の床にある限り、スターリンはやりたいことができると感じつつあったのだ。このとき、クルプスカヤが、スターリンの非礼に対して、当時の政治局の長、カーメネフに訴えた手紙が残っている。後年フルシチョフが、痛烈なスターリン批判を行った第20回党大会の秘密報告(1956年2月25日夜)で読みあげたものである(この秘密報告は同年6月、米国務省が某国共産党筋から全文入手して公表した)。「レフ・ボリソビッチ(カーメネフ)!医師の許しを得てウラジミール・イリイッチが私に口述して書き取らせた1通の短い手紙がもとで、スターリンはきのう、私に向ってただならぬ乱暴な言葉を爆発させました。私はきのうやきょう党に入ったばかりというわけではありません。この30年間というのも、私は同志のだれからも無礼な言葉は一言も聞いたことはありません。党の仕事やイリイッチの仕事は、私にとってもスターリンに劣らず大切です。・・・イリイッチと話し合うことができること、できないこと、私はどんな医者よりもよく知っています。スターリンより私の方がよく知っているのです。私はV・I(レーニンの頭文字)にとってスターリン以上に親しい同志としての貴下とグレゴリー(ジノヴィエフ)を頼りにしています。どうか私の私生活に対する乱暴な干渉、卑劣な毒舌や脅迫から私を守って下さるようお願いします」。スターリンは、妻の訴えを聞いた病人がふるえる手でしたためた書簡を受け取った。
「親愛なる同志スターリン 貴下は私の妻を電話に呼びつけ、乱暴に叱りつけた由。彼女はいわれたことを忘れることに同意すると貴下に話したそうだが私は自分に対して向けられていることをそう簡単に忘れるつもりはない。妻に対して向けられたことは、すべて私に直接向けられたと同じことだということをあえて加えるまでもないだろう。私は、貴下が前言を取り消して陳謝するか、それともわれわれの2人の交際をたつ方を選ぶか、慎重に考慮されるようお願いする。敬具 1923年3月5日 レーニン」。これより先、レーニンは1922年12月の2度目の発作が起って間もない12月24日、党に対する遺言状を書いた。いわゆる「党大会への手紙」である。そのなかでレーニンは、「同志スターリンは党書記長になってから広大な権力をその手に集中したが、彼が常に十分慎重にこの権力を行使できるかどうか、私には確信がない」と述べた。1923年1月4日付で、この手紙に追記をつけ加えて「スターリンは粗暴すぎる・・・だからスターリンをこの地位からほかに移して、ただひとつの長所によって同志スターリンに勝っている別の人物、すなわち、もっと忍耐強く、もっと忠実で、もっと丁重で、同志に対してもっと思いやりがやり、彼ほど気まぐれでない、等々の人物を、この地位に任命するという方法をよく考えてみるよう、同志諸君に提案する」と書いている。レーニンはすでに、その死後に起るであろうスターリンの独裁を憂慮していたのである。
レーニンの遺言書簡・各指導者たちに関する推察と検証:
1、「同志トロツキーは傑出した能力を持っているばかりでなく、個人的に見た場合彼は確かに現在の中央委員会中で最も有能な人物である。しかし、彼は余りにも自信を有し、事物の純行政的方面をあまりにも重視する傾向をもっている。現在の中央委員会のこの二人の最も有能なる指導者が、かくの如く相異なる性質を持っている以上、どんな些細なことで分裂が起るとも限らぬ。もし我が党がこれを防止する手段を講じないならば、分裂は何時起るか分からない」2、「中央委員会の他のメンバーについては、彼等の個人的な性質を立ち入って論ずる暇はない。ただ注意しておきたいことは、十月革命当時のジノヴィエフ及びカーメネフの行動(注・十月革命時の武装蜂起に反対した)は、勿論偶然ではなかったということである。しかし、トロツキーの『非ボリシェヴィズム』と同様に、これをもって彼等を非難することは差し控えるべきである。とはいえ、ジノヴィエフとカーメノフには、これまでの経緯から判断して明らかに革命を指導する能力に欠けている」3、「 ブハーリンは、党の最も貴重な理論家であり党内で人気もあるが、その論は完全にマルクス主義的であるという訳ではない。幾分スコラ学的であり弁証法の勉強も理解も足りない。ピアタコフは、有能な行政家としての大なる熱意と能力を持っているが、政治的能力が不足している。この有能にして忠実なる働き手である二人(ブハーリンとピアタコフ)はそれぞれ34歳、32歳で、共に将来彼等の知識を補いその一面性を訂正するのに充分な時を持っている。一人前になろうとすればなれないことはない」4、最も有能なのはトロツキーだ。が、その欠点は、自信の過剰にある。スターリンは粗野で、不実であり、党機関が彼に与える権力を乱用するかも知れない。党の分裂を避けるためには、スターリンを除く必要がある」。 ・・・「分裂を防止する見地から云って、且つ右に述べたスターリンとトロツキーとの関係から云って、これは決して些事ではない。もしくは将来決定的意義有するかも知れぬ些事である」5、「親愛なる同志トロツキー! 私は、君が党中央委員会でグルジア問題の擁護を引き受けてくれるよう、ぜひお願いしたい。この問題は、今スターリンとジェルジンスキーの『告発』の対象となっており、私には彼らの公平さが信じられない。否、むしろその逆である。もし君がこの問題の弁護を引き受けることに同意してくれるなら、私は安心できる。もし何らかの理由で、君が承諾してくれないのなら、一件の書類を全部送り返してくれ給え。それで君が同意しなかったということが私にも分かるだろう。最善の同志的挨拶をもって。レーニン」。
スターリンの’毒薬’:レーニンはその後、1923年3月にまたまた発作を起して、言語障害をきたした。十分な療養のために、再びゴルキに移らねばならなかった。ゴルキの新鮮な空気とゆき届いた看護のお陰で、容体は一時快方に向くかにみえ、少しなら歩くこともできるようになった。彼は政治に対する関心を持ち続けていた。このころ、書記長スターリンはクレムリンの病室やゴルキに、しばしばレーニンを見舞った。短い時間なら、レーニンと2人きりで話すこともできた。ある日、見舞いから帰ったスターリンは党の政治局員たちを招集して言った。
「オヤジはこれ以上苦痛にたえるのを望んでいないようだ。オヤジは、永遠に苦痛から解放されるための毒薬をくれと私にいったよ。苦痛ががまんできないようになったら使う気でいるらしい」。
ートロツキーは後年、このときのことを回想して「生きてゆく意志のかたまりのようにみえたレーニンが、自殺用の毒薬を求めているという意外な暴露に、私は直面したのだ。そのときのスターリンの顔付がいかにも異様で、謎めき、その場にそぐわないものにみえたことを私は想いおこす。かれがわれわれに取りついだ要請は悲劇的なものであった。それなのに、胸の悪くなるような微笑がかれの顔付、というよりかれの仮面にきざみこまれていた。・・・この恐ろしさを一層高めたのは、スターリンがレーニンの要請について自分の意見を一切言わなかったことである。・・・「当然のことだが、われわれはかれの要請を実行することを考慮することもできない!」と私は叫んだ・・・正式の会議ではなかったので投票は行われなかった。だがわれわれは、レーニンに毒薬を送ることは考えることさえできないという暗黙の了解に達して散会したのだった」。
ーその後、レーニンの侍医がスターリンを訪ねて、スターリンにこういったのを、当時のスターリンの秘書カンネルが聞いている。「同志レーニンは「よい薬をありがとうと、あなたに伝えてくれ」と申されました」。
レーニンの死:
ーその翌日ー1924年1月21日の夕方、致命的な発作がレーニンを襲った。レーニンにつききりで看病していたクルプスカヤ夫人が、電話をかけようとして、わずかのあいだ部屋を離れた。夫人が戻ってきたとき、すでにレーニンは死んでいた。ベッドの側の小さなテーブルの上に、アンプルが数個ころがっていた。アンプルは空だった。レーニンはなぜ、人もあろうにスターリンに毒薬を求めたのだろうか。「遺書」であれほどはっきりと批判したスターリンにー。「答えは簡単である。レーニンは、かれの悲劇的な要求をかなえてくれる人物を、スターリンにだけ見出したのである。なぜならスターリンはそうすることに直接の利益を感じていたから。レーニンは、誤たない本能をもって、クレムリンの内部とその壁の外側で起っていたことを見抜き、スターリンがかれについてどう感じているかを知っていた。
ーかれにこの「好意」を与えてくれる同志はスターリンしかいないことを確信するには、レーニンはあらためて近しい同志たちの名簿を検討する必要はなかったのである」とトロツキーは書いている。レーニンの死が発見された直後の7時15分、スターリンの部屋の電話が鳴り、レーニンの死を知らせた。スターリンは指導者の死を極力利用することにした。彼はソ連の全放送局に、こう連続放送するよう指令を発した。「レーニンは死んだ。しかし、レーニン主義は生きている!」。
スターリンの勝利:
ーレーニンが死んだとき、革命の元老であり党随一の理論家であり、軍事人民委員(国防大臣)でもあったトロツキーは、休養(トロツキーも病気だった)のために黒海沿岸のスフミに旅行中だった。彼はすぐ、スターリンに葬儀について問い合わせの電報を打った。だがスターリンの返電には、「葬儀は明日執行されるので、貴下は帰京しても葬儀に間に合わない。貴下の健康状態を考慮して、貴下は旅を続けるべきものと考える」とあった。これはウソであった。葬儀はまだ執行されないことになっていたからである。スターリンがトロツキーをあざむいたのは、トロツキーが葬儀に出席すれば、きっと演説をし、みんなの注目の的になるだろうと、考えたからである。トロツキーは党内きっての雄弁家だった。
ーきびしい寒さにもかかわらず、亡き指導者に別れを告げようと、全国からモスクワへ集まった人々の数は、約300万人にもおよんでいた。スターリンは、どんな犠牲を払っても、トロツキーが脚光を浴びることを避けなければならなかった。トロツキー自身はあとになって、次のように述壊している。「スターリンは、私がレーニンの死を、毒薬についての前年の会話と結びつけるかもしれない。そして医師たちに毒薬の使用があったかどうかを尋ね、解剖を要求するかもしれないと考えたのかもしれない。だから死体がミイラにされ、内蔵が火葬され、右のような嫌疑からする死体解剖が不可能になるまで私を遠ざけておくことが、あらゆる意味で安全だったのである」。
ートロツキーはまた、彼が育て上げた陸軍に強い地盤を持っていた。彼がただひとこと命令を下しさえすれば、数時間でロシア全土を支配する可能性があった。スターリンは大急ぎでトロツキーの勢力、とくに軍隊内の勢力を奪わねばならなかった。
トロツキーの追放:
ー黒海沿岸での休養を終えてモスクワに帰ったトロツキーを待ち受けていたのは、彼に対するスターリン一派の激しい非難であった。その非難は、理論的にはトロツキーの社会主義革命論や農業問題に関する考え方に向けられたものであったが、個人的非難ー「同志トロツキーは落ち着きのない人間で、常に何かしら新しいものを見つけ出し、その気性でわれわれをわずらわす」という方が、大衆にはよりわかりやすかった。しかも、スターリンが党の機関紙や会議を通じて毎日のようにトロツキーに攻撃をかけていたのに、トロツキーはモスクワに帰ってから再び健康を損ねて病床についていた。
ー1924年11月24日、スターリンは全ソ連労働組合中央評議会の大会で徹底的な反トロツキー演説を行った。「トロツキーはレーニンを憎んでいた。彼はレーニンをけなし、レーニンの敵であった」と、トロツキーの古い手紙を暴露しながら断定した。同時に党の政策に対する批判をやめなければ党から除名すると、厳しくトロツキーに警告した。彼は電気産業に関する特許委員会の委員長という名目的なポストを与えられて、革命以来7年間にわたって指導的役割を果たしてきた軍事人民委員部から去って行った。彼のソ連での政治的生命はこのとき終わったといってもよい。1929年には国外追放になり、1940年には亡命先のメキシコでスターリンの放った’殺し屋’によって殺害されたのである。
レーニン最後の闘争とは?(歴史読本「ロシア革命の謎」石井規衛(神戸大学助教授)92年):
ーレーニンが最初の発作をおこしたのが1922年5月、その際は、9月には職務に復帰した。しかし同年12月中旬の2度目の発作で、再び職務を離れた。そして23年3月の3度目の発作のときから24年1月21日に死亡するまでの10ヶ月は、レーニンは政治家としては死人も同然であった。この2度目の発作から、翌3月の3度目の発作までのわずかな期間のレーニンの行動は、レヴィンの「レーニン最後の闘争」によって、わが国でもよく知られている。当時の党の指導部の激しい対立、スターリンに対する厳しい評価、スターリンとトロツキーとの対立の予言、民族問題への憂慮、さらには「殿、御乱心」とも印象を受ける激しい「官僚主義」批判、などである。
ーペレストロイカの下のソ連でも、レーニンの「最後の闘争」の局面に関心が向けられている。当初は、「悪しきスターリン対良きレーニン」という構図の下で取り上げられていた。しかし「ソ連型社会主義」の在り方を再検討されるようになるや、1923年の彼の口述論文「協同組合について」における「社会主義に対するわれわれの全観点の、根本的変更」という語句が、着目されるようになる。それはそこに、新しい「社会主義」観の提唱者の始祖としての晩年レーニンの思想を読み直そうとする動機からである。いままでは、とりわけレーニンとスターリンの関係が、人の関心を引きつけてきた・・・。
「官僚主義」への取り組み:
ーここでは、晩年のレーニンの「官僚主義」の問題への取り組みを、当時の具体的な文献の中で取り上げてみよう。一見すると「官僚主義」とは、とり立てて取り上げるに値しないような現象であるかに見える。「官僚主義」の弊害は、革命後一貫して党指導部が指摘してきた現象だったからである。しかし、晩年にレーニンが取組んだ「官僚主義」とは、常に統治機構にまといつく「官僚主義」一般ではなかった。それは、レーニンにとっては、ロシア革命の運命に関るような大問題であったのである。ところで晩年のレーニンをもっとも悩ませる問題のひとつに、グルジア民族問題があったことはよく知られている。この問題は、抑圧民族である大ロシア民族と被抑圧民族であるグルジア民族の相互関係の在り方、といったソ連の内部の「民族問題」に留まらず、同じ被抑圧民族である。
ー「アジアの民衆」との連帯の在り方、「アジアの革命」とロシア革命との連帯の在り方、つまり「国際主義」への理解に関る問題としてレーニンによって理解された。いやそればかりか、帝国主義時代におけるロシア革命の運命にも関るほどの重要な「原則的」な問題としても、取り上げられたのである。レーニンはそうした「国際主義」を曇らせる「大ロシア主義」の源を、幼児から植え付けられる偏見と並べて、当地機関の問題を取り上げていることを、われわれは見逃してはならない。例えば、「少数民族の機構とロシア人の機構との合同機構がないためにわが国の国家が損害をこうむる場合はありうるけれども、その損害はインターナショナル全体が、また、近い将来にわれわれに続いて歴史の前景に登場しようとしているアジアの幾億人にのぼる諸民族がこうむる損害に比べれば、はかりしれないほど、限りなく小さい」。
ーここでは彼は、共産党員集団が「国際主義」という「原則」から遺脱する背景として、彼らが国家機構の整合性の論理にとりつかれてしまっている事情を、指摘しているのである。統治機構と共産主義者の「原則」の文脈で発生したレーニンと党指導部の対立のもうひとつの事例として、「外国貿易の国家独占」の問題を、取り上げることが出来よう。22年12月13日のレーニンからトロツキーへの書簡で、「この問題で動揺することはわれわれに前代未聞の害をこうむらせることになるのだが、独占に反対する論拠はまったく、機構が不完全だという非難に帰着する。しかしわれわれの機構は至るところで不完全なのだから、機構が不完全だという理由で拒否するのは、たらいの水と一緒に赤ん坊まで捨ててしまうようなものである」と語った。
ーつまりレーニンは、国家機構が柔軟でないからといって、政策上の「原則」を放棄してはならないと語っているのである。このように、レーニンは晩年に、共産党員集団が堅持すべき「原則」を蝕み、ロシア革命の運命をも脅かしかねない驚異的な存在として、統治機構からの圧力を真正面から取り上げ始めたのである。彼の最後の論文「量は少なくとも質のよいものを」(23年3月2日)では、ロシア革命の運命に関る一切が、その国家機構の「官僚主義」との闘争に集約されてしまている観すらある。
「ネップ」(新経済政策)のもたらしたもの:
ーでは、そうした「官僚主義」とは、一体どこから出てくるのだろうか。レーニンは、革命前から受けついだ国家機構の影響を指摘している。だが、その判断をそのまま受けとれない。私は、レーニンの「官僚主義」とは、「ネップ」の下での経済運営の激変と関連して発生した事態であったと、いまのところ考えている。1921年という年は、「戦時共産主義」から「ネップ」への移行の時期である。それは、共産党員の置かれた環境が激変した時期であった。とりわけ夏以降、国家経済機構が改組され、また、人員の大幅な異動と削減とが伴った。その際に、コム二ストの国家経済機構での既得権の剣幕も伴った。共産党員にとって、まことに受難の時期であった。
ーそればかりかその時期に生じた環境の変化は、彼らの内面を目覚しく傷つけた。1921年3月の「割当徴発制度」から「現物税制度」への転換は、当時の共産党員集団のメンタリティーを深く傷つけるものであった。バクー(アゼルバイジャン共和国首都)やグロズヌイ(ロシア連邦・チェチェン共和国首都)というロシアの大油田地帯を利権に供与するとの2月1日の政府決定は、現物税の導入よりもさらに強い反発を、党員集団の間に引き起こしたのである(レーニンは「新経済政策の実践的な目的は、利権事業を手に入れることであった」とすら述べた)。秋までには、国有化工業企業が全国的に市場経済に巻き込まれた。そして「商業を学ぼう」が党員集団のスローガンとされた時の彼らの狼狽ぶりは推して知るべしだろう。
ーしかも、経営の運営に、革命以前の経営者などが広く抜擢されるようになってくると、共産党員集団の間に深刻なアイデンティティーの危機が生じる。これあ、ロシア革命直後に、旧軍将校を指揮官として赤軍に多数採用した際の、共産党員集団の狼狽や反発を想起させる。あるいは、文化水準の低い党員集団は、革命以前からの官僚や専門家の言をたんに鵜呑みにしたりする場合も生じた。こうして、権力を独占する閉鎖的な共産党員集団は、「市場経済」に基づく経済運営に十分対応できないもままに惰性化した。まさにここから、レーニンに「官僚主義」を映ずる現象が生じてくることになったのである。ちなみに、レーニンは「官僚主義的な共産主義者」について語り出すのが1921年秋以降であった。
ー「共産党員の高慢・・・これが敵だ。悪賢く利口ぶるな。共産主義をもったいぶるな。怠慢、無為、オブローモフ主義、立ち遅れを大げさな言葉によって隠蔽するな」(10月17日直前)。「第1の敵ー共産党員の高慢」(10月17日直前)、「労働組合的および共産主義的無頼漢」(12月23日)、「共産主義者の高慢」、「酒類はいっさい口にしないかわりにちょっと調子が合わない共産主義者」(22年1月17日)、「旧習墨守の共産主義者」(1月21日)「われわれ自身が「官僚主義とたたかいながらも」・・・自分たちの鼻先で、破廉恥きわまる、愚劣きわまる官僚主義をはびこらせることになる」、「この共産主義の大事業が、愚鈍な官僚主義によって、めちゃくちゃにされているのだ」、「われわれは、官僚主義の玩具をもてあそび、・・・」(2月14日)、「権力をもちながらそれを利用するすべを知らない共産主義者的なばか者をばかにする制度」(3月18日)、「「共産主義的な」ぐうたら」、「役立たずの共産主義者」、「共産主義的おしゃべり」、「共産主義的に愚鈍な」(2月20日)、「われわれのろくでもない事務渋滞と愚鈍さの見本をお送りする」(2月27日)、「共産主義的官吏のあまったるい駄法螺」(2月28日)、「法令ごっこをやめることである」(3月3日)、「共産主義的なオプローモフ流」(3月6日)。
ーレーニンは、国家・経済機構の癒着し惰性化した共産党集団に対して、「戦時共産主義」的方法で「揺すり振り」をかけてまでして、彼らを「市場経済」に対応させようとしたことは興味深い。例えば、レーニンは、22年5月18日にルイコフ(首相・38年処刑)に宛てた書簡で次のように語った。「明らかに、わが外国貿易人民委員部には、ひどい混乱がある。ところがわれわれはこの混乱に対する現実の闘争のかわりに、それを見透しているのだ。ほんとうに君は「チュソ」時代にこんな仕方で活動していたのだろうか?当時の「チュソ」と同じ仕方で活動しないで、いったい大混乱を克服できるのだろうか」と、ちなみに「チュソ」とは、内戦期に赤軍のために軍需物資の生産や調達にあたった非常機関であり、議長ルイコフは独裁的な非常大権が与えられていた。
ーこうして機構を「揺す振ろう」とするレーニンの姿は、1920年の「労働組合論争」の時のトロツキーの姿を彷彿させる。「官僚主義」は、「ネップ」の下での「市場経済」への不適応に由来する共産党委員集団の惰性化から発生するものとするならば、それへの対策は、一般的な反「官僚主義」では意味をなさない。というのは、「官僚主義」を生み出しているのが共産党員集団自身であり、しかも、それを克服する主体も、実は、同じ共産党員集団以外にはありえなかったからである。共産党員集団が、「自覚的」な集団という理念を前提とするならば、まず、「ネップ」という新しい事態のもとで、ロシア革命の展開を明示すること、また、反「官僚主義」のもつ意義を、ロシア革命の展望の中で明らかにすること、の2つを通じて、彼らを「覚醒させる」という課題が提起された。
ーレーニンの晩年の一連の口述論文とは、そうした課題への回答だったのである。
メンシェヴィキの幻想:
ーレーニンがロシア革命の世界史的位置をのべるさいに、元メンシェヴィキのスハーノフの著書を取り上げたのは偶然ではなかった。というのは「ネップ」の導入の後に共産党集団を悩ませ、意気消沈させ続けたのは、執拗にせまりくるメンシェヴィズムの幻影であって、それにとりつかれた結果湧き起こってくる、1917年10月の行為の正当性への懐疑であったからである。レーニンは、メンシェヴィキのマルクス主義の理解を「スコラ的な理解」として一蹴する。そして、まず権力をとり、次いで文明に近づくという方法もありえるのだと断定して、1917年10月のボルシェヴィキの行為を正当化した。しかしそうした方法は、「覚醒しつつあるアジア」の革命運動にとってのモデルとなりうるというわけである。
ーその「アジアの革命」と連帯しつつ、ヨーロッパに社会主義革命が勃発するまでもちこたえること、これがレーニンのロシア革命の世界史的な展望なのであった。そして、そのためにこそ、被抑圧民族や農民の信頼を勝ち得るような体制を堅持しなければならないという判断も、引き出されるのである。ではロシア国内でなすべきことはなにか。レーニンは、「1時代をなす2つの主要な任務」として、以下の2つを指摘する。それが、第1に「まるきり何の役にもたたない、われわれが前の時代からそのまま受け継いだわれわれの機構を、つくりかえるという任務」であった。第2の任務とは、「農民にたいする文化活動」であった。これまで、「政治権力をめぐっての闘争が主要な任務であったが、いまや平和的に、文化的な活動に目を向けねばならないという意味で、「社会主義へのわれわれの見地の根本的転換」が起った。
ーそして、彼は「いまやわが国が完全に社会主義的な国となるためには、われわれにとっては、この文化革命で十分である」とさえ断言した。レーニンは、農民に対する文化活動を「教育、啓蒙活動」と、「経済的目標として」の「協同組合化」との2つに分け、それぞれを「日記の数ページ」と「協同組合について」の2つの論文で評論した。第2の「国家機構をつくりかえる」という任務、言い換えれば、国家・経済機構を節約(「揺す振り」)することは、その農村で文化革命(教育・啓蒙活動と「協同組合化」)にできるだけ資金を振り向けるためにこそしなければならないと、主張した。節約には、国有化工業企業の徹底した生産合理化政策も含まれるだろう。「これは農民的偏狭さの支配ということになりはしないだろうか」といった。
ー機構と一体となっている党員の素朴な疑問に応えて、「いな。もしわれわれが、農民に対する指導を労働者階級に保障してやるならば、われわれは、わが国内の経済をこのうえなく節約するという代価をはらって、われわれの機械性大工業を発展させるため・・・、たとえどんなにわずかであろうとも、あらゆる貯蓄をするようにととめる可能性も得るであろう。ここに、そして、ここだけ、われわれの望みの綱があるであろう」と展望を示した。
「量より質のよいものを」:
ーだが問題は、だれが、そしていかにして、レジームの「官僚主義」と「闘うのか」であった。党、国家機構の「つくりかえ」や「揺す振り」に対しては、国家統治機構や国家経済機構と癒着した共産党集団の側から強い抵抗が必ずや伴うだろう。そこで、党中央委員会というもっとも権威ある機構が、彼らの既得権の「簒奪者」の使命を負うものとされた。この場合に問題を複雑にしていたのが、「もっとも傑出した人物」であるトロツキーが、彼なりの流儀で機構を「揺す振ろう」としていたことであった。だがかれは、「労働組合論争」以来、彼の党指導部メンバーから警戒の念をもって見られていた。当時の党中央委員会自身が、その論争のさいに「反トロツキー派=レーニン派」にまわったものが多数派を占めていた。その意味で、レーニンが危惧したような党中央委員会の分裂の可能性はあったのである。
ーレーニンが具体的に想起したのは、「労農監督部」の改組と、党中央委員会メンバーの増員であった。労働者出身者を新たに党中央統制委員会に選出し、彼らと、相対的に少人数の専門家集団からなる「労農監督部」とを統合すること、それによって、党中央委員会と同じ建機をもつ集団が、レジーム全体を、専門的立場から、しかも「下から」チェックを行うという構想であった」(「労農監督部をいかに改組するのか」)。もうひとつの措置が、ゴスプラン(国家計画委員会)に一定の立法権を与えることである。つまり、ゴスプランに結集する学者集団の発言権を増すことによって、えてして不合理な政策決定を行う「惰性化」した党員集団を、政策立案のレベルでチェックすることであった。
ー要するにレーニンの構想とは、高度な知的プロフェッショナリズムと現場の斬新な感性とによる、「惰性化」し、「官僚主義」化しつつある党と国家との癒着構造を挟撃すること、といえようか。なお党中央委員会の増員は、個々の「権威ある人物」から引き起こされる分裂を回避する効果も意図されていたということも、付け加えておこう。こうした考え抜かれた構想も、結局はレーニンといったカリスマ的人物が存在していなければ、実現に向けて着手することすらもが不可能なものであった。共産党員集団の既得権を擁護する総元帥が、実は党中央委員会自身でもあったのである。その意味で、この構想は、いっさいの表現能力を失う1週間前に口述し終えた論文「量は少なくとも質のよいものを」の最後の言葉通りに、レーニンの「夢想」でしかなかったのである。
ーすでにレーニンの2度目の発作の後に、革命体制は創始者の「意志」の呪縛から解き放たれて、「事物の論理」に導かれながら自己運動を展開し始めていたのであった。
トロツキーの謎・なぜレーニンと手を握ったのか?:(藤本和貴夫・大阪大学教授)
ロシア革命後のボルシェヴィキ独裁=スターリ二ズムを1904年において予見したレーニンの組織論への徹底的な批判者だったトロツキーは、なぜ2月革命から10月革命へと進展する期間にレーニン率いるボルシェヴィキに入党したのか?
社会民主労働党(ソ連共産党の前身)の対立・ボルシェヴィキとメンシェヴィキ:
ーロシアにおけるマルクス主義政党の実質上の創設大会となるロシア民主労働党の第2回大会は、1903年夏、最初はブリュッセルで、その後は官憲の目を逃れてロンドンで開かれた。1898年にミンスクで開催された第1回大会は、大会直後の活動家の一斉逮捕によって実質的な活動は行えず、大会が採択した「宣言」と「大会決定」のみを残すこととなっていたからである。従って、第2回大会が事実上の結党大会となるはずであった。当時23歳であったトロツキーもこの大会に参加している。彼は南ロシアのニコラーエフで南ロシア労働同盟を組織したため逮捕され、シベリアに流されたが、1902年に流刑地から脱走し、パリで活動を続けていた。流刑中に関係をもっていたシベリア同盟の代議員として彼はこの大会に参加した。
ーしかし、よく知られているようにこの大会はひとつの党ではなくなる2つの党を作り出すこととなった。ボルシェヴィキ(多数派)とメンシェヴィキ(少数派)である。この大会で議論が分かれたのは党組織における民族運動の位置づけ、つまりユダヤ人ブント(東欧のユダヤ系労働者組織)が主張したように党を諸民族の連合組織とするべきか、それとも民族にかかわりなく中央集権的な組織にするべきかという問題と、党規約第1条の党員の資格問題におけるレーニン案とマルトフ案の対立であった。第1の党組織における民族組織の位置については、ユダヤ人ブントが加入しないことで決着をみたが、第2の党員資格問題が党内を2分することになった。
ーレーニン案は党員の資格を「党の網領を承認し(この部分はマルトフも同じ)、物質的手段によっても、また党組織のひとつに自ら参加することによっても、党を支持するものはすべて党員とみなされる」としていたのに対し、マルトフ案は「党の綱領を承認し、物質的手段によって党を支持し、党の1組織の指導のもとに、党に規則的な個人的協力を行うものは、すべてロシア社会民主労働党の党員とみなされる)とするものであった。しかしこのふたつの案の違いは当初それほど重大には考えられてはいなかった。残された議事録をみる限り、大御所ともいうべきプレハーノフは「レーニンの話を聞くとレーニンが正しいように思えるし、マルトフの話を聞くとマルトフが正しいように思われる」と冗談をさえ飛ばしている。
ーレーニン案はつきつめれば職業的革命家の組織=党であるのに対し、マルトフ案は職業的革命家に援助・同調する者も党員として認めようとするものである(レーニンはインテリゲンチャ・知識人たちを軽蔑し「彼らは無能でありおしゃべりであり・・・革命のなんたるかを理解せずにめめしくためらう」とこきおろしていた。「党をおしゃべり屋の組織にしては絶対にならない」そんなこんなです)。現在のわれわれからみればレーニン案は簡単に理解できる。他方、マルトフ案の方は、当時のドイツ社会民主党やユダヤ人ブントの組織原則を適用したものであるが、さらにも非合法組織として党を組織するならば党は陰謀家の集団となり、結局は労働者階級から遊離するというナロードニキ運動の反省があったことも認めるべきであろう。
ートロツキーはこの論争でマルトフを支持してレーニンと対立、メンシェヴィキの立場にたった。彼はのちに自伝「わが生涯」のなかで、その理由が当初は「マルトフらの個人的なつながりや、レーニンがザスーリチとアクセリロート(後にトロツキーと決裂)という古くからの同志を政治的に時代遅れになったという理由から排除しようとすることに対する道義的反発からであったこと」を認めている。そしてその後、これは急速に理論的・政治的対立へと拡大し、1917年の革命までトロツキーはレーニンに対する最も厳しい批判者のひとりとなるのである。
ー特に彼は1904年8月、「われわれの政治的任務」と題したパンフレットを書き、レーニンの「なにをなすべきか」と「1歩前進2歩後退」における党組織論を批判した。彼はレーニンの組織論を労働者階級を代行する「代行主義」と規定、党内の政治においては、こういった方法は「党の組織が党そのものを「代行」し、中央委員会が党の組織を代行し、最後には「独裁者」が中央委員会を代行するということに帰着する」と激しく論難した。しかしその直後、自由主義者の評価をめぐり、彼はメンシェヴィキとも絶縁する。そして、以後両者のいずれにも属さない独立派として自らの全存在をかけた行動に立ち上がることになる。
-1905年2月、革命の開始されたロシアにいちはやく帰国したトロツキーは、このような立場でボルシェヴィキ、メンシェヴィキの戦闘的な部分と協力、ペテルスブルグ・ソビエトの活動に積極的に参加し、その雄弁さにおいても傑出した指導者のひとりと大衆に認められるようになり、やがて事実上ペテルブルグ・ソビエトの議長を務めた。ソビエトの出す宣言や決議文のほとんどは彼の手になるものであった。ソビエトが大衆の自立的な行動機関であると共に革命諸派の統一戦線の場であったことが、トロツキーの活動を最大限保障することにもなったのである。当時、マルトフをはじめとして、メンシェヴィキは、ロシアにおける当面の課題はブルジョア革命にあり、プロレタリア革命は当分先のことと考えていた。従って、革命によって権力はブルジョアジーの手に掌握されるべきであった。
ープロレタリアートの党である社会民主労働党は権力の奪取に向うべきでなく、プロレタリアートの革命的自治機関を組織し、政府に対する急進的反対派にとどまるべきであるとされた。プレハーノフはロシアにおいてはブルジョア革命とプロレタリア革命の間には長いブルジョア的発展の期間が必要であるという、「非連続二段階革命論」を主張し、これがメンシェヴィキに受け入れられていたのである。他方、レーニンは「プロレタリアートと農民の革命的民主主義独裁」のスローガンを掲げ、この両者による臨時革命政府の成立を主張した。彼はこれを革命のブルジョア民主主義段階とみており、第2段階としてプロレタリアートと貧農の同盟によるプロレタリア独裁が想定されていた。
ーそしてレーニンはこの両者の間に長い時間はなく、臨時革命政府はただちにブルジョア民主主義革命を社会主義革命に転下しなければならないと説いた。彼の主張は「連続的二段階革命論」と呼ばれる。
トロツキーとレーニンの決定的対立:
ーこれに対し、パルヴス(ユダヤ系亡命組・理論家・後に決裂・ドイツの資産家、革命後、ソ連政府に協力を申し出たが断られた)と共に「永続革命論」を形成しつつあったトロツキーは、「農民に依拠したプロレタリアートの独裁」を主張した。彼はロシア革命はブルジョア的目標に直面しているが、それにとどまることはできないという。そしてこのブルジョア的課題を解決するためには、プロレタリアートを権力につけずにはおかない。一方、権力についたプロレタリアートは、封建的な所有だけでなく、ブルジョア的な所有にも徹底的に介入することになる。かくして当初は彼らを支援したブルジョア集団のみならず、土地を手にいれた農民とも対立するようになりうる。
ーこのような矛盾の解決は国際的な規模での革命以外にないというのである。彼はロシアでこのようなブルジョア革命を最後まで徹底的に遂行できるのはプロレタリアート以外にないという点をも強調した。トロツキーとレーニンの対立は、さしあたり1905年の段階では理論上の相違にとどまった。この段階で農民運動はプロレタリアートの運動と結合することはなかったからである。1905年革命の敗北後の逮捕・裁判・流刑・逃亡を経て、トロツキーは1907年に再び国外に脱出した。彼は、ボルシェヴィキとメンシェヴィキが統一して開催にこぎつけたロンドンでの社会民主労働党第5回大会に参加するが、いずれの派閥にも属さず、両派の統一を説き続けた。
ーしかし、結局この試みは失敗した。1910-14年、トロツキーとレーニンの関係は最悪となり、両者は厳しい批判の言葉を投げあった。レーニンは1912年、レーニン派のみを集めたプラハ協議会を開催し、明確にボルシェヴィキのみで党の結成に踏み切った。他方、これに対抗して反・非レーニン派も同年8月、ウィーンで非レーニン派の会議を開くが、トロツキーはレーニンを分裂主義者と非難、他方レーニンもトロツキーらの「8月ブロック」を徹底的に批判した。こうして将来さまざまな形で統一の試みがなされてきたロシア社会民主労働党の組織的分裂は動かし難いものとなったようにみえた。しかし、1914年の第1次世界大戦の開始は再び運動に流動的な状況を生み出し、運動の組織的再編が始まった。
ーまず大戦の開始と共に、ヨーロッパの多くの国は社会主義者の中に国際主義を捨てて祖国防衛主義へ転換する大きな流れが生み出されたのである。戦争が始まるまで、ドイツの社会民主党幹部は戦争に反対していたが、戦争が現実のものとなった以上、問題は戦争か平和かではなく、祖国の勝利か敗北かであると祖国防衛主義を明確にした。ツァーリズム・ロシアの脅威がその転換を支えるひとつの理由となった。フランスの場合も事情はさほど変わらない。社会党の指導者ジョレスが暗殺されると、残った指導者たちは、ここでも戦争が始まってしまったうえは、祖国防衛以外のすべてを断念するとした。フランス社会主義者にとっては、専制的ユンカー(土地貴族)帝国としてのドイツ絶対主義に対する共和制の擁護がそのスローガンとなりえたのである。
ーロシアで祖国擁護をもっとも明確に主張したのはロシア・マルクス主義の父プレハーノフである。彼はドイツのフランスへの侵入を非難し、フランス革命の伝統の擁護を訴える。また、もしロシアがこの戦争で敗北を被ければ、ロシアの経済発展は挫折し、資本主義の発展は遅れる。このことは当然ロシア・プロレタリアートの成長をおしとどめ、その後にきたるべきロシアのプロレタリア革命を遅らせることになると、理解し難いところまで前者に同調したが「革命的敗戦主義」には賛成せず、戦争が「勝者もなく、敗者もなく」終結することは社会主義の利益であると主張した。
ー彼は、君主も、常備軍も、秘密外交もない「ヨーロッパ合衆国」を平和のスローガンとして対置していた。いずれにせよ、戦争は祖国防衛派と反戦国際主義者をわけた。意見の相違は依然としてあったが、反戦国際主義者は徐々に結集を始めた。1915年9月のツィンマーヴァルト会議やキーンタール会議が彼らの国際的な結集の場となった。戦前の意見の対立は戦争に対する態度という最大の問題の前に徐々に薄められつつあったといえるであろう。
十月革命前夜の握手:
ー1917年、ロシアで2月革命が起るとレーニンは亡命地のスイスからドイツ軍占領地帯を封印列車(ジノヴィエフもいっしょ)で通り、4月初めに帰国し、ただちに「4月テーゼ」を発表した。そのなかで彼は、2月革命が起ったにもかかわらず、この戦争は依然として帝国主義戦争であることを指摘、戦争を続行している臨時政府との対決を主張したのである。レーニンは2月革命後に権力がブルジョアジーの手に渡ったのは、「プロレタリアートと農民の自覚と組織性が不足していた」ためであると指摘、「労働者・兵士ソビエトこそただひとつ可能な革命政府の形態」であり、第2段階としての「プロレタリアートと貧農の権力」としてのソビエト権力の樹立を訴えた。2月革命時、ロシア国内のボルシェヴィキは以前の方針にしたがってプロレタリアートと農民の臨時革命政府の樹立の主張をしたため、大衆のソビエトへの結集に乗り遅れた。
ーそしてその後レーニンの帰国までスターリン、モロトフらの指導のもとにエスエル(社会革命党)、メンシェヴィキ同様今度は臨時政府を支持していた。従ってスターリンらのボルシェヴィキ指導部はレーニンの「4月テーゼ」に抵抗したが、最後はレーニン路線の支持に移った党の下部組織の圧力に屈した。トロツキーが首都のペトログラード(1914年改称)に到着したのは、レーニンの帰国よりほぼ1カ月遅れた5月4日であった。彼は亡命先のニューヨークからの帰国の途上でイギリスの海軍に監禁され、ペトログラード・ソビエトの抗議と圧力のためようやく釈放されたのである。
ー彼は翌日、夜8時から開かれたペトログラード・ソビエト総会で演説した。これはソビエトの代表を臨時政府に入閣させ、自由主義者との連立政府=第1次連立政府をつくることの可否をめぐる総会であった。トロツキーは帰国後最初の演説で、「ロシア革命は世界革命のプロローグである」と述べ、今ソビエトがめざしている臨時政府への入閣の危険性を指摘した。彼は1、ブルジョアジーを信頼しないこと2、自分たちの指導者を統制すること3、自分たちの革命の力を信頼すること、という3戒を守るよう聴衆に求め、「次の1歩は労兵ソビエトへの権力の全面的な引渡しであろう」と演説した。
ーこのようにロシア革命の評価・戦略でレーニンとトロツキーの間に意見の相違はまったくなかった。トロツキーは帰国すると以前から協力関係にあったメジライオンツィ(ペトログラード市地区間連合)に入った。これはレーニンがプラハ協議会でレーニン派の党をつくったとき、これに反発したボルシェヴィキの一部が中心となって組織されたもので、大戦開始後はボルシェヴィキとほぼ同一の路線をとっていた。党員20万を称するボルシェヴィキと比べればペトログラードに3千、軍隊内に千と組織員は少なかったが、ウリツキー、リャザノフ、ヨッフェなど多数の優秀な活動家を擁していた。7月、トロツキーはこの組織と共にボルシェヴィキに加入する。
ートロツキーの側から見れば、レーニンの方が「4月テーゼ」で永続革命論を受け入れたように考えられたであろうし、実際上のボルシェヴィキ党の組織のありかたは、かつてレーニンが展開した中央主権的な鉄の規律の党とはかけ離れていることを認識していた。トロツキーの入党により活動の基盤の拡大がはかられる。こうして10月革命を前にトロツキーはレーニンと手を握ることになったのである。
ロシア革命前史・ナロードニキ運動とテロ(人民の意志党):(和田あき子・早稲田大学博士号)
皇帝を暗殺したのはなぜか?
ー1881年3月1日、ロシアで未曾有の事件が勃発した。首都ペテルスブルグの路上で皇帝アレクサンドル2世が暗殺されたのである。皇帝は日曜日にはかならず練兵場での観閲に出かけていた。その帰り道のことである。皇帝の一行が冬宮にほど近いエカチェリーナ運河沿いの道にさしかかったとき突然、後方の馬車で爆発が起り、轟音が響きわたった。すでに何度も暗殺未遂事件が起っており、この日も警戒して道順を変更していたのだったし、何かあったら疾走して冬宮に帰るようにと、御者は皇后から言われていた。ところが、皇帝は馬車を止めて降りてきた。「やれやれ、私は助かった」といいながら、取り押さえられていた犯人に直接名前を訊いたあと、自分の馬車に戻ろうとして歩き始めた。
ーそのときであった。運河の柵にもたれていた男が近づいてきて、白い包みを道路に投げつけたのである。両足を砕かれた瀕死の皇帝は冬宮に運ばれ、1時間後の午後3時35分息を引きとった。1855年に即位した後、農奴解放を行った「解放皇帝」アレクサンドル2世の最期であった。暗殺現場には事件直後に建てられた礼拝堂「血の上の救世主教会」がいまも残っている。皇帝を暗殺したのは「人民の意志」党のメンバーたちであった。最初の爆弾を投げつけたのは19歳の学生ルイサコフ。2番目に投げたのは25歳のポーランド人グリネヴィツオーであった。彼は瀕死の重傷を負った。その場にはまだ2人の投弾予定者がおり、運河をはさんだ反対側には、暗殺を指揮した27歳の女性ソフィア・ベロフスカヤが立っていた
ー彼女は前日逮捕された党の指導者アンドレイ・ジョリャーポフに代わって、この日指揮をとったのであった。6度の暗殺計画失敗後、彼らは党のほかのメンバーたちとともに半年がかりで、いつも日曜日に皇帝が通るマーラヤ・サドーヴァヤ通りの角に借りたチーズ店から地下道を掘り、地下からの地雷と地上での投弾によって皇帝を暗殺する準備を整えていた。しかしこの日皇帝の一行がその道を通らないことが分かると、投弾部隊の4人がベロフスカヤの指示で移動し、ここで待機していたのであった。もし皇帝が馬車から降りてこなかったら、この暗殺はなかったし、ベロフスカヤが皇帝の帰り道を察知しなかった場合もそうであったと考えると思いは複雑であるが、ともあれこの皇帝暗殺は1870年代のナロードニキ運動がのぼりつめた最後の行動であった。
ナロードニキの誕生:
ー「人民の意志」党のメンバーの多くは、1870年代のナロードニキ運動に最初から参加してきた。彼らは農奴解放から10年たち、それが果たして農民を解放するものであったかが問われ始めていた60年代末から70年代初めに青春を迎えた青年たちであった。彼らはこの時期に鋭く提起された問題を真摯に受けとめて、革命家になった。最初の問いかけはベルビ=フレロフスキーの「ロシアにおける労働階級の状態」による農民の惨状の暴露であり、ピョートル・ラヴロフが「歴史書間」で行った告発であった。ラブロフは、インテリがいま享受している知識や文明は、「無数の人々の血、苦しみ、あるいは労働によってあがなわれたもの」であり、「批判的に考えることのできる」インテリゲンツィヤはこの「未払いの債務」をナロード(民衆)に返済しなければならないという主張を青年たちにつきつけたのである。
ー皇帝暗殺が成功した瞬間、ヴェーラ・フィグネルが「重い荷はわれわれの肩からおりた」と感じたのは象徴的である。青年たちは民衆への奉仕、禁欲主義、厳格主義、自己犠牲を終生の美徳とし、主義への裏切りに厳しかった。彼らはまた、当時審理が行われていたネチャーエフ事件裁判から、ネチャーエフ流のマキャベリズムを排し、陰謀による権力奪取と中央集権的な組織原理を批判し、人民の中での宣伝活動によって民衆を立ち上がらせる方向をとることをその出発点とした。彼らの最初の大きな行動は、人夫や行商人などになり、農民の衣服をまとって農村に入る形を形をとった。
ー「狂った夏」と呼ばれた1874年には数千の青年が参加する「人民のなかへ」(ヴ・ナロード)現象がおこった。さらに彼らは、民衆の革命性について大きな幻想を抱いていた。これも時代の産物であった。「ヴ・ナロード」運動の理論的提唱者のひとりであるバクーニンは、「わが民衆は明らかに援助を必要としている。彼らはあまりにも絶望的な状態にあるので、どの村でも1村を立ち上がらせるのは何でもない」と述べて、農民は革命を行う力を持ち、社会革命の条件は整っている。だから、ばらばらに分断されている共同体を反乱の絆で結べばいいんだ、と主張しており、彼らはそれを受け入れていたのである。
ーこの幻想は行動のばねになった。「ヴ・ナロード」に参加した青年たちが見た農村の惨状は眼をおおうばかりであった。ところが、元来ロシア農民は革命的であるどころか、政治の話などひとことも切り出せないうちに、農民同士の密告で逮捕される羽目になることも少なくなかった。「ヴ・ナロード」参加者の多くが逮捕され、シベリヤに送られた。政治的自由のないことが自分たちの活動を継続していくのにどれほど困難な条件であるかを思い知らされたにもかかわらず、農民救済の道を捨てなかった。逮捕を免れたジェリャーポフ、無罪になったベロフスカヤ、流刑地や監獄から帰ったナタンソン、チホミーロフ、ザスーリチ、新しい運動に加わったフィグネルやプレハーノフらが結集して、76年秋につくった政治結社「土地と自由」はより本格的な運動であった。
ー彼らは、自らの理論的理想と共感を民衆の切実な要求に服従させるとして、はじめて自分たちを目的意識的に「ナロードニキ」(人民主義者)と称した人たちであり、「土地と自由」という名称は、すべての土地を農民の手に渡し、平等に分配することと共同体の完全な自治、ロシア帝国の解体こそ民衆の要求であるという考えを表していた。この「土地と自由」は、ミール共同体で生活している農民はきわめて社会主義的であるという前提に立って、依然としてロシア農村に残っている共同体に依拠しつつ、資本主義を飛び越えて、農民社会主義を実現するべきだし、できると考えていた。これはまったく新しい思想というわけではなく、西欧文明の悪弊を目のあたりにしたゲルツェン以来、ロシアで展開されてきた伝統的な社会主義思想に立ったものであったが、彼らの特徴は、その実現をできるだけ早い時期に行うべきであるとした点にあった。
ーロシア政府の庇護と努力によって資本主義が発展し、ブルジョア文明の種々の毒害が人民の生活に浸透し、共同体を破壊してしまえば、めざす救いの道は閉ざされてしまうからである。このグループはそのための主な活動を、定住による農村での宣伝活動においていた。ツルゲーネフの「処女地」はこの時期のナロードニキたちの姿を描いている。この方法は前回よりは成果があったけれども、それは相対的なものであった。民衆は動かず、弾圧はますます厳しくなっていた。とくに1878年1月に起ったヴェーラ・ザスーリチのぺテルスブルグ特別市長官トレポフ狙撃事件以後、ナロードニキ運動はテロリズムへ傾斜した。権力者へのテロル、逮捕の際の武力抵抗が続発し、多くの同志たちが権力に命を奪われたり、投獄されたりした。79年から81年1月の間に起訴されたものは245人、死刑は14件にのぼった。
「今か、さもなければ永遠にだめか」:
ー犠牲は大きく、状況はいっこうによくならないなか、1870年代末には「土地と自由」は大きな転換を迎えていた。そうしたなかで従来の農村での宣伝活動に見切りをつけて、ひとりの意志、つまり「皇帝の意志」を「人民の意志」と置き換えるために、最高権力に対するテロルを含む政治闘争を選択したのが「人民の意志」党員たちであった。プレハーノフらを中心とする一方のグループよりも彼らは性急であったが、その背景には政治的自由のない現体制では民衆を動かすことは不可能であるというあきらめ、同志たちへの弾圧の報復、があったが、さらにはロシアにおける資本主義の急激な発展に対する危機感があった。いま全力でこの流れを食い止めなければ、共同体は破壊されてしまい、ロシアにおける社会主義の道は絶たれてしまう、と彼らは感じたのである。「今か、さもなければ永遠にだめか」という悲観主義である。79年8月、結党と同時に「人民の意志」党はアレクサンドル2世に対する死刑宣言を採択した。皇帝という一点を突破すれば、事態は開ける。だから彼らは、アレクサンドル2世が、もしも自分がロシアに対していかにおそるべき悪をなしているか、その抑圧がいかに不正義であり、犯罪的であるかを悟るならば、そして権力を放棄し、普通選挙によって自由に選ばれた全人民憲法設定会議に権力を引き渡すならば、アレクサンドル2世の平穏をおびやかすことなく、そのすべての犯罪を許すであろうとも書いていた。「人民の意志」党執行委員会メンバーには39人が加わった。ちなみにこのなかにはベロフスカヤ、フィグネル、ヤキーモアら10人の女性革命家が含まれていた。ナロードニキ運動ほど女性活動家の多い運動は珍しく、「ヴ・ナロード」以来、人数的に、絶えずほぼ2割をしめていただけでなく、彼女たちは男性と対等に活動する志を強く持っていた。これは60年代にロシアで拡がったフェミ二ズム運動の結果であったが、女性たちは個人的意志を捨てるという党の要求に忠実であった。しばらくためらったのち「人民の意志」に加わった彼女たちは皇帝暗殺工作に献身し、夫婦を装って同居することも辞さなかった。ベロフスカヤはガルドマン、サブリンと同居して工作に従事したことがあったし、最後の時期にはジェリーポフと同居していた。妊娠していたために処刑を延長されたゲイシャ・ゲリツマンのような例もあった。そうした活動の末に、ついに彼らは目的を遂げたのであった。その波及効果への期待は大きかった。暗殺成功の報せを聞いた時の気持ちをヴェーラ・フィグネルは後年回想の中で書いている。「10年にわたってロシアの青年を圧迫し続けてきた悪夢が断ち切られた。牢獄と流刑の恐怖、私と主義を同じくする数百人数千人の人々に対して加えられた暴行と無慈悲な措置、われわれの受難者たちの血潮ーこれらすべては、この瞬間われわれが流させたツァーリの血によってつぐなわれた。重い荷はわれわれの肩からおりた。反動はおわり、ロシアの再生に場所をゆずるにちがいなかった。この勝利の瞬間、われわれは祖国のよりよい未来を考えるのみであった」これはまったくの幻想に過ぎなかったが、そのとき彼女たちは本当に「ロシアの再生」と「祖国のよりよい未来」を信じていたのである。そのことは事件直後の彼らの行動に表れている。彼らは、事件の衝撃によって農民が立ち上がることを期待した。犯行声明のなかで、自分たちを苦しめてきた父の罪を償わせるために、ミールをあげて新帝に総代を送り、土地の追加、減税、ミールへの不干渉、全人民会議の招集を要求するよう訴えた。然し、伝統的にツァーリを崇拝していた農民たちは立ち上がるどころか、暗殺者たちを憎んだ。ジェリャーポフやミハイロフが農民身分であることを信じようとはせず、農奴制を廃止した皇帝アレクサンドル2世を殺害したのは、農奴制復帰をめざす地主貴族の陰謀だという噂を信じたり、皇帝暗殺の参加者の1人であったゲリフマンがユダヤ人であったこともあって、これはユダヤ人の仕業だという噂が流れた。
ーあちこちの村や町でユダヤ人に対するポグロム(集団的な掠奪、虐殺、破壊行為)が起った。さらに悲劇的なことに、このポグロムを民衆運動だと解して、それに加担したナロードニキたちもいたのだった。
専制権力の強化:
ーいまひとつ、彼らは新帝に期待をかけた。すでに声明文のなかでも新帝に対して、人民の意志を侵す人民の敵がどのような復讐をうけるか、と警告して、人民の要求に沿うよう迫っていた。さらに彼らは3月10日、「アレクサンドル3世への執行委員会の手紙」を新帝に郵送した。それは説得調の文章で書かれており、「祖国の利益のために、最高権力が民衆の意識と良心の要求のみを実現する決心」を促したうえで、もし新帝がそうしてくれるならば、「執行委員会はみずからの活動を停止し、そのまわりに組織された勢力は解散し、おのが人民の幸福のために文化的工作にみずからを捧げるでありましょう」とまで書いていたのだった。
ー彼らは具体的には、
1、すべての政治犯の大赦、政治活動は罪でなく、市民的義務の遂行であるから、
2、国家及び社会生活の根本的形態の再検討と、その改革のための人民代表会議の招集、
3、その代表の自由な選出のために出版・言論・集会・選挙網領の完全な自由、を掲げていた。
ー「人民の意志」党員たちは知るよしもなかったが、実は彼らが行ったモスクワやオデッサでの列車爆破計画や冬宮に入り込んだハルトウーリンによる食堂爆破事件など、たび重なる暗殺計画に皇帝は心理的に追いつめられていた。一方では革命派の取り締まりも強化しつつ、皇帝はリベラルなロリス=ノリコフを内相に登用して、緩和策をとった。また1880年夏以降ツァーリ政府内部では、ゼムストヴォ(農奴解放後発足した地方自治機関)と市議会の代表を加えた行政改革と財政改革のための委員会の設置案が検討されていたこれは立憲制へのだ一歩となるものであったとされる。この改革案について長く速っていた皇帝は、まさに暗殺当日の朝、外出する前にロリス・メリコフと会い、委員会設置に同意を与えたところであった。立憲制を恐れており、この改革案が「憲法にいたる道であることをよく承知している」といいながら、彼はそう決断せざるを得なかったのである。たしかに、暗殺が実行された直後、政府は「人民の意志」党の実力を把握しておらず、皇帝の暗殺につづいて人民の反乱が起るのではないかと恐れていた。しかし、逮捕されたルイサコフの自白によって、関係者を次々に逮捕することができ、「人民の意志」党の呼びかけに呼応して民衆が立ち上がることはないことがわかった。事情がわかると、新帝は、4月29日、専制権力の確立と強化こそ自分の使命であるという詔書を発表した。ジェリャーポフ、ベロフスカヤらはすでに4月3日、公開処刑に処されていた。
ー「人民の意志」党のテロルは、それが決行されない間は皇帝を追いつめることができたのに、ひとたび暗殺を実行してしまったら、その衝撃力を失ってしまったことになる。皇帝暗殺が「祖国のよりよい未来」をもたらさなかったどころか、それは、なまぬるいものであったとはいえ、帝政ロシアの政治システムの改革の現実的可能性をもっていたロリス=メリコフの改革案をつぶすことになった。いまから110年も前のロシアの、20代の青年たちが行った皇帝暗殺について、今日ではいろいろな見方ができる。「革命のため」ということで他人の命を奪い、罪の意識をもたなかったら彼らの倫理を問題にすることもできる。ロシアの資本主義の発達は、ナロードニキたちが予想したように共同体を破壊しなかった。だから、長期にわたる農村工作に可能性があった、という仮説も成り立つかもしれない。ロリス=メリコフの改革案をつぶした責任を論ずることもできる。「人民の意志」は皇帝暗殺によって、皇帝を暗殺しても政治は変わらないことを示したのだという評価もあるだろう。ともあれ、「人民の意志」党のメンバーがロシア社会の最良の青年たちであったことは事実であり、市民的権利や自覚の発展がまったく存在していなかったなか、命をかけて専制と闘った精神は次世代の革命家たちに受け継がれていったのである。
ソビエト権力の真の目的は何か?:(石井規衛・神戸大学教授・91)
ソ連史の出発点となった1917年10月の武装蜂起は、「ヨーロッパ社会主義革命」の端緒でもあった。そのなかで、。「ソビエト権力」の樹立とは、どうのような意味を持っていたのだろうか。レーニンの思想に即して研究してみよう。
「10月革命」の見直し:1917年10月にボルシェヴィキ党が武装蜂起を起して「ソビエト権力」の樹立を宣言した事件は、「10月革命」と呼ばれ、それは、ソ連史の出発点になった事件であった。その10月革命が、現在のソ連で、根本的な再評価の素材として取り上げられている。たしかに一般的には、それまでの自国の歴史を見直す際に、自国の原点である「10月革命」も特権的地位に安住することなく、見直しの対象に含められたとしても、そこにとくに自然さがあるわけではない。しかし、ソ連史の原点である「10月革命」は、その見直しのさいに問題を紛糾させる独特な性格を持っていた。「10月革命」が大多数の民衆の明示的な行為の所産であって、ボルシェヴィキ党がその事態をたんに追認しただけであったならば、なにも「10月革命」の時のボルシェヴィキ党やレーニンの責任などが、ことさらに再検討の俎上に乗せられる必要はないのである。しかし、厄介なことに、「10月革命」とは、ボルシェヴィキ党指導部の決意がなければあり得なかったという事件であった。それは、レーニンの「意思や意志」と分かち難く結びついていた事件だったのである。まさにその点に、「10月革命」の意義を見直す際に、レーニンの「決断」や「意志」の見直しがソ連の人々にとって切実になる理由があったのである。ところで、「10月革命」とは、いうまでもなく「ロシア」革命であった。
ー他方において、ボルシェヴィキが当時、「ヨーロッパ社会主義革命」の勃発に熱心に賭けていたということも、1918年のドイツなど交戦国とのブレスト・リトフスクでの講和交渉をめぐるボルシェヴィキ指導部内の論戦からも、あるいはその交渉の際に、自分の権力の崩壊の危険をもあえて辞せず、という態度を彼らが取ったという一事からもうかがえよう。かれらにとっては、10月の武装蜂起とは、何よりもまず、世界社会主義革命の端緒でもあったからなのである(講和交渉には外相トロツキーが全権代表として出向いた。レーニンは強く「講和」を望み、「崩壊の危険」をあえて辞せず戦うべき。としたのはブハーリン率いる「左派」であった。トロツキーは妥協案として「講和もせず戦争もしない」結論にたどりついた。しかし、ドイツ軍の大攻勢開始により失敗に終わる)。ソビエト運動それ自体が、何もヨーロッパ社会主義革命を目指した運動であったわけではない以上、次のような疑問は、必ずやおこってくるだろう。つまり「ソビエト権力」の樹立とは、あるいはもっとひろく言って、ソビエト運動とは、レーニンにとっては世界社会主義革命を引きおこすために、一種のショックとして利用する単なる手段的な存在だったのだろうか、と。いったいヨーロッパ社会主義革命への「賭け」と、「ソビエト権力」を樹立せんとする彼らの意志とは、どのような関係にあったのであろうか。この点を、レーニンの思想に即して、検討してみよう。
帝国主義的世界認識と国家論:
ー早くからレーニンは、1917年10月の武装蜂起を導くような構想を抱いていた。たとえば彼は、亡命地のスイスから、有名な「遠方からの手紙」をロシア国内の同志に書き送ったが、すぐにそこには、10月の武装蜂起の見通しが萌芽的でありながら述べられていた。同じく有名な「4月テーゼ」でも、臨時政府を信用しないこと、「ソビエト権力」論、第3インターナショナルなどが想起されていた。これはたしかに、驚くべきことである。こうみると、彼の権力構想は、はやばやと1917年春の段階に形成されていたかにみえよう。レーニンにとってあとに残されたことは、あたかも権力を奪取するためのたんなるタイミングの問題でしかなかったかのようである。

PS:どの映像でも同じ。ときどきレーニンの周りにいる女性は妻クルプスカヤ(Надежда Константиновна Крупская/Nadezhda Konstantinovna Krupskaya、1869年2月26日- 1939年2月27日)と妹マリアです(姉アンナは写真(ほとんど郊外ゴーキリーの静養地)では写っているけど映像では確認できない)。

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