日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

新年(2017)『はじめの一歩Первый шаг』?★堕ちた拳豪Fallen Warrior☆【フライ級三羽烏Fly Weight Class Three Crows】の1人 ≪Megaton Punchメガトンパンチ≫Katsutoshi Aoki青木勝利《BOXING》🍁Канада

こんばんは。
ひさしぶりにボクシングの同人誌ブログをのぞいてみたら。相変わらずこの記事の人気が高いので、興味のある方はどうぞ☆2017/01
青木勝利(メガトンパンチ・元東洋王者・52勝(29KO)14敗4分)と戦後まずしかった「白黒」時代の東京とボクシングの思い出


悲運と宿命のボクサーたち:2016/09/11 20:09
若い世代のファンの方々にはあまりなじみがない題名だと思います。古強世代となれば「なつかしい」と思い出す人も少なからずでしょう。
青木勝利(現在は八丈島(菜園を営んでいるお兄さんと一緒に生活=しかしずいぶん前の情報です)でひっそりと余生を送っているらしい)かつて往年の「フライ級三羽烏」とよばれた一人。故海老原博幸選手、ファイティング原田選手とこの豪腕天才サウスポー強打者だった青木。とかく「練習嫌い」と「素行の悪さ」ばかりの標語を貼られてしまっているボクサー(海老原の「カミソリ」(新人時代にサウスポー対決・2回KO負け)に対して青木はナタの切れ味「メガトンパンチ」と異名された)ながら近年。Youtubeに以前紹介したジョフレ戦も断片だけながらあらわれて久しい。私はどうしても「悲運」あるいは「悲劇的」な選手に感情移入してしまう傾向いがめず。これは今までで十分以上に伝わったと察します「苦笑)。
ーむろん「リアルタイム」では知りません。小さい頃から『日本名ボクサー100人』はじめあらゆるボクシング専門誌で読んだ記事からイメージを作り何度も頭のなかで組み立てていた。その一人が青木でした。
ー世界戦、立ち上がりからよく攻めた。ワンツーを再三叩き込み(ブロックされていながら)得意の左フック、アッパーから右フックを繋げてがんばっていました。3回、ジョフレは左アッパーでサウスポー(「肝臓」が前に出ている)の青木のボディーへ軽く当てた。青木の表情に嫌悪感が走った。そこへ今度は強烈な同じパンチ。青木はダウン。立ち上がったところへもう一発(ボディはほとんど鍛えておらず。試合前1~2週間の付け焼き刃コンディションだったといわれる)。青木はキャンバス上で悶絶。辛くも2度目のダウンから立ち上がりながらストップ。ノックアウト負け。王者見事な「レバーブロー」で6度目の防衛(連続KO)に成功(ジョフレの初来日)。
ー続いてフィリピンのアグイリーに9回KO負けで東洋タイトルも失う。以後4連勝(3KO)。再戦で10回KO勝ちでタイトル奪回(4連続KO勝ち)。そして1分けをはさみ、8連勝(4KO)。ファイティング・原田(海老原にも新人王戦で、6回判定勝ち)との正念場を迎える「無二の宿敵ファイティング原田との一戦に敗れた青木は、奈落への道を転がり落ちる」これも紹介しましたが、無音声ながらゴングと同時に「ラッシングパワー」(原田の連打は一発一発威力があるパンチをまとめたもの)で猛攻。ロープに詰められた青木は左フックの相打ちで応戦。カウンターとなり原田はつんのめる形でロープに半身を出してしまうほどの強打。
ーしかしこの試合に関しては気迫と根性、練習量と取り組み方に差がでたとみます。青木はその後も左右フックを返して、単発のパンチはヒットさせながらも手数が違う。初回後半に
ダウンを奪われ、一方的。3回KOで完敗(4敗目、以後負けが込んでくる)。「あの試合ははじめから・・・彼は天才で練習しないでも勝てる。俺はボクシングというのはそんなに甘いものじゃないと」(原田言)
ー引退後さまざま特集が組まれ当時の「三鷹ジム」故川野久利会長の言葉(中村敦夫氏の取材でした)、
「気は~あんまり~強い方じゃないかもしれんね、う~ん。いつも今度は負けるんじゃないか、負けるんじゃないか、と考えていたみたい・・・」といったことでした。
ー弟さま(「会うだけだからね。話はできないからね・・・でも、マイクつけられると困っちゃいますよっ。いろいろ事情があるんです」(兄勝利について)「やっぱり、かけがいがないですよね」)に連れられて坊主頭の老いた青木が現れた(歩くのも辛そうで、廃人のようだった)。引退後社会面をにぎわせた「無銭飲食」などについて話していたのが忘れられない(「・・・私がやったわけじゃないんですよ。飲んでるうちにみんな帰っちゃうんですよ」(青木)「だから青木さん、人が良すぎるのよ」(中村氏)青木は苦笑していた「青木さん、頑張ってよ。なにしろ青木さんは僕らの世代のスターであり、英雄だったんだから。これからの人生、僕らの夢を裏切らないでよ」)。最後にカメラに向かって手をふっていたあたりに往年華やかだったスターの片鱗を見た気がした。現役時代、「ビリヤード」に興じる背広姿在りし日の青木。『日本名ボクサー100人』には、「天才にはよくありがちで、青木は遊びが好きで、しかも、巧かった」とあった。「十年に1人といわれるメガトンパンチをもっと鍛え上げていればと惜しまれる」さらに友人だった俳優の故田宮二郎さん(満面の笑顔、78年自殺=享年43歳)とスパーリングする青木。つづいて写真でポーズをとり「引退後、キックブームにのってキック転向を宣言」といったのもよみがえる。当時の新聞記事にも「青木勝利が求めた再起の道」「死ぬ気で転向・練習嫌いをどう克服するか」つづいて「キック界は意外に冷たい目」とあった。「こんなアピールもしたがいつの間にか、鳴かず飛ばずで終わってしまう」「数回の暴力沙汰でついに落ちぶれて行った」(「名ボクサー100人」から)。「新宿あたりでチンピラに喧嘩を売られれば、相手の仲間を皆呼ばせ、10人からに周囲を取り巻かせ、それから殴り合いを始めたといいます。そして数分後には全員地べたに気絶させ悠然と立ち去った、などというのも有名な話です」(思い出の名ボクサー:青木勝利)。

ー故寺内大吉氏が引退1試合前(ラストファイトは韓国の徐守康に10回判定負け)期待の新鋭ホープ柴田国明との一戦前の思い出について、
「・・・もうあれは青木の最後の試合になったんじゃないかな。大吉さん、今度の青木はみてみてください。違いますよ、って聞いたんだよ。そうかねっ、て見てたら、青木がでてきた。何か赤い顔して足がフラフラしてやがるんだよ。はじまって二三回打ち合ったらあっというまに倒されて終わっちまったんだ。あとで聞いたら、試合前までほんとうに真面目に練習して減量もがんばって。でも、計量が終わったとたん、ガーっと酒飲んでどっかいっちまったらしいんだ(笑)これ聞いてねえ私はもう・・・」(おかしそうに語ってた笑顔がなつかしい故氏の毒舌だった)。
古きよき時代。青木の試合を「銭湯」「電気屋」のテレビに群がってみた。そういう経験を持つ父や叔父たちの話を目を輝かせながら聞いていた(青木だけではなく海津、権藤、矢尾板(ノンタイトル戦ながらジョフレに10回KO負け))「坊主頭」の小学生時代を懐かしく思い出します。私がしらない、戦後「白黒時代」の日本ボクシング界について。ふんわりよみがってくる記憶は当時まだ貧しかった少年の頃。目黒や渋谷のオンボロアパートでむろん「白黒」。メシはいつも「白菜の漬物」「アジのひらき」そんなんがおかずだった。ときどき誰の試合かあんまり覚えていないがボクシングをみていた。そういったあたりを、2016年の「カナダ」から「ネット」上で語るなんともいいがたい不思議な感覚を伝え今回はこの辺で。ありがとうございました☆若い世代の方々には何かの参考までに。アヤラ

Katsutoshi Aoki ( 青木勝利 , November 28, 1942- ?) Is a former professional boxer from Japan . Born in Suginami-ku , Tokyo . Belongs to Mitaka Gym . Oriental bantamweight champion.
Overview:With a bang called " Megaton Punch " and an outstanding sense, he was called " Three Crows " along with Fighting Harada and Hiroyuki Ebihara . He achieved KO wins in seven consecutive games, which was the record for Japan at that time, and became an oriental champion at the age of 19. On the other hand, he has been known for his love of drinking and hating practice since he was active, and he was the only one among the above three who did not reach the world title. After retiring from active duty, he repeated criminal cases such as theft and dine and dash many times and made a noise.
青木 勝利(あおき かつとし、1942年11月28日 - ?)は、日本の元プロボクサー。東京都杉並区出身。三鷹ジム所属。東洋バンタム級王者。
概要:「メガトン・パンチ」と称された強打と抜群のセンスで、ファイティング原田(
2階級制覇(1、WBA/WBCフライ級王者ポーン・キングピッチ(タイ)を11回KOで破り戴冠。再戦は判定負けしタイトル喪失2、無敗の世界バンタム級王者ジョフレに初黒星を与え奪取(再戦でも判定勝ち+4度防衛=55勝(22KO)7敗1分)、海老原博幸と並び「三羽烏」と呼ばれた。当時の日本記録である7連続KO勝ちを達成し、19歳で東洋王者になるなどの活躍を見せた。一方で、現役時代から酒好きと練習嫌いで知られており、上記3人の中で唯一世界王座に届かなかった。現役引退後、窃盗や無銭飲食などの刑事事件を何度も繰り返して世間を騒がせた。
生涯:プロデビューから東洋王座戴冠まで:少年時代は、家出を繰り返すなどの虞犯少年で、16歳で少年院に入れられた[1]。入院中にテレビ中継でボクシングに出会い、退院直後の1960年4月に三鷹ジムの住み込みの練習生となる[2]。それから2ヶ月後の6月6日にフライ級でプロデビューを果たし、連勝を重ねた。11月7日に斎藤清作(元日本王者(異名「河童の清ちゃん」・宮城県出身)=後のたこ八郎)と対戦した際は、引き分けに終わっている。1961年4月5日、海老原博幸(フライ級で2度戴冠=1、WBA/WBC王者ポーン・キングピッチ(初回KO勝ち+再戦は敵地タイ・バンコクで判定負け。王座喪失2、空位の(引退したオラシオ・アカバロ(3度防衛)が返上)WBA/WBCタイトル決定戦でホセ・セベリーノ(ブラジル)に15回判定勝ち(両拳を骨折しながらも5年ぶりにタイトル奪回(その間、アカバロに敵地アルゼンチンで2度挑戦(判定負け))+初防衛戦(サウスポー対決)でフィリピンのバーナベ・ビラカンポ(ベルクレック(タイ)に判定負け(王座転落)=故大場政夫(5度防衛)が13回KO勝ちでタイトル奪取+晩年、日本で後のWBC世界J・フライ級王者中島成雄(韓国の故金性俊(タイのネトルノイに3回KO勝ちで奪取・中島に敗れた後、来日し大熊正二に挑戦するが判定負けで2階級制覇はならなかかった+89年にビルから飛び降り自殺(パンチドランカー症状及び貧困による生活苦のため)=享年35歳)に15回判定勝ちで奪取)に3回KO勝ち)に判定負けで王座転落(海老原のラストファイト(「さびついたカミソリは2度と戻ってこなかった」(名ボクサー100人)=とにかく拳の負傷に泣いた+65勝(35KO)5敗1分)と対戦した際に2回KO負けを喫し、キャリア18戦目での初黒星となった。
海老原戦後はバンタム級に転向し、再び連勝街道を進む。1962年10月29日、後楽園ジムにて東洋バンタム級タイトルマッチを行う。王者米倉健志(米倉(福岡県出身)のラストファイト=メルボルン五輪代表(3回戦敗退)+東洋王座5度防衛&世界に2度(ペレス(アルゼンチン)及びべセラ(メキシコ)=判定負け)挑戦(13勝(1KO)10敗1分を判定で破り、19歳11ヶ月で王座を獲得した。
世界王座挑戦、東洋王座陥落と奪還:1963年4月4日、蔵前国技館にて世界バンタム級タイトルマッチを行い、王者エデル・ジョフレ(ブラジル=エデル・ジョフレ(Eder Jofre、1936年3月26日 - )は、ブラジルの元プロボクサー。世界バンタム級チャンピオン、WBC世界フェザー級チャンピオン。二階級制覇者。「ガロ・デ・オーロ(黄金のバンタム)」の異名を奉られ、巧みな防御と軽量級離れした強打で、当時の軽量級としては極めて高いKOアベレージを記録、バンタム級史上最強に推す専門家も多い+72勝(50KO)2敗4分(デビュー以来、3分けをはさんで46連勝(33KO))に挑戦する。1回・2回は優勢に進めるも、3回にボディへの左フックにより2度ダウンし、KO負けとなる。9月5日、後楽園ジムにて東洋王座初防衛を戦行うが、カーリー・アグイリー(フィリピン=29勝(22KO)24敗2分)に9回KOで敗れて王座から陥落する。1964年3月25日、東洋王座に再挑戦し、後楽園ジムにて催されたアグイリーとのリターンマッチを10回TKOで制して王座を奪還した。9月12日には後楽園ジムにて防衛戦を行い、アル・パターソン(フィリピン)を判定で破っている。
原田戦から引退まで:10月29日、蔵前国技館にてファイティング原田とのノンタイトル10回戦を行う。ノンタイトル戦でありながら、世界ランキング1位と東洋王者との対決として、また世界戦への挑戦権を賭けた一戦として注目を集めていた。試合開始からほとんど原田にラッシュで圧倒され、3回に右フックを顎に受けてKO負けとなる。
1965年7月1日の東洋王座戦では、金鉉(韓国=強打のファイター。元東洋王者+53勝(15KO)33敗 13分)を判定で破った。1966年1月27日、ノンタイトル10回戦で小林弘(元世界J・ライト級王者(6度防衛)+61勝(9KO)10敗4分)と対戦し、10回判定負け。4月28日、3度目の東洋王座防衛戦にて、李元錫(韓国=桜井が判定でタイトル奪取+22勝(10KO)14敗6分)に11回KOで敗れて再び陥落する。10月6日、ノンタイトル10回戦で桜井孝雄(=東京五輪優勝金メダル(サウスポー)+30勝(4KO)2敗)と対戦し、10回判定負け。7月5日、ノンタイトル10回戦で柴田国明(2階級制覇(通算6度防衛)=47勝(22KO)6敗3分(デビュー以来21連勝(14KO)=世界7位のホーキンス(米)に7回KO負けで初黒星)と対戦し、初回KO負け。8月15日、ノンタイトル10回戦で、徐守康(韓国)に10回判定で敗れ、現役を引退した。最終戦績52勝29KO14敗4分。
現役引退後:引退後は、日雇い業務や飲食店の手伝いなどで暮らしていた。その一方、頻繁に刑事事件を起こして報道された。一時期は稲城長沼でトンカツ屋を経営していたが、そこでも傷害事件を起こして続けられなくなった。1973年1月13日、小平市にある実家で包丁で首を切って自殺を図ったが、未遂に終わった[6]。1981年の時点で、暴行・窃盗・器物損壊・詐欺(無銭飲食や無賃乗車)・覚醒剤所持で前科7犯、逮捕歴20回に及び、一時期は府中刑務所で服役していた。
1984年2月、かつて青木が福岡県の個人的な後援者の世話になっていた時、およびその数ヶ月後に東京でアルコール依存症の治療のために入院していた時に、山際淳司によって行われた取材の様子が週刊文春に掲載された[9]。1986年8月21日放送のテレビ番組「中村敦夫の地球発22時」の特集「ロッキーになれなかった男たち」において、伊豆大島在住の青木の弟、及びその弟の仲介により善福寺公園で青木本人へ中村敦夫が取材した様子が放映された。その際、青木は「無銭飲食の件は、食事に誘われたのに、いつの間にか誰もいなくなっただけ」と主張している。
その後の消息は不明である。1996年、マガジンハウス書籍編集部は青木の行方を追ったが、ついに見つからなかった。渡嘉敷ボクシングジムは2006年の時点でブログに「故・青木勝利氏」と書いている。
逸話:現役中から練習嫌いで有名であり、ロードワークでは深大寺の公園にある池の水を体にかけて、汗に見せかけてそのままジムに帰ることがあった。また、相手が見つからないこともあり、ほとんどスパーリングも行わなかった。
恐怖を紛らわすために、試合当日の明け方まで酒を飲み、アルコールの臭いを帯びた状態でリングに上がることがあった。原田戦でも、試合当日の朝まで酒を飲んでおり、それでも勝てると思っていたと証言している。
試合前夜は、睡眠薬を2回分飲んでも2時間しか眠れず、試合直前に眠気に襲われることもあった。
試合1週間前に雲隠れすることが度々あり、その度にジム関係者が捜索した。
太りやすい体質で、減量にも苦労していた。ジョフレ戦では試合直前の3日間はガムだけを噛み、更に浣腸を3本打って、辛うじて計量までに間に合わせた。
海老原戦での敗因について、試合前に母親が虫垂炎で入院したために面倒を見たこと、更に酒を飲みすぎて減量がうまくいかず、体調管理に失敗したためと青木は語っている。
ジョフレ戦の前には右手の甲を骨折しており、試合中止を求めたものの強引に出場させられ、痛み止めを3本打った。
19歳で結婚し、原田戦の3ヶ月前に娘が生まれた。現役引退後に離婚したが、親権を巡って妻は自殺未遂を起こし、結局は妻が娘を引き取った。
ジョフレ戦の報酬は手取り2百万円、現役時代の総額は3千万円だったが、放蕩の末に一銭も残らなかった。
1969年6月、キックボクシングへの転向を発表したものの、プロデビューには至らなかった。
現役引退後、小平の実家に泊まっていた時、特攻服を着た集団が壁の向こうから襲い掛かろうとする幻覚を見たと語っている。
自身がボクシングで成功しなかったのは、酒のせいではなく運がなかったからと振り返っている。一方で、ジョフレ戦に勝ったらその後どうなったかという問いには、何も変わらなかっただろうと述べている。
三鷹ジムの後輩にあたる佐藤稔
は、一時期「2代目青木勝利」を名乗っていた。
桜井孝雄
は、青木の人柄について「あの人は気前が良すぎるからいけない」と語っていた。
世界王座を2階級制覇した柴田国明は、青木に憧れてボクサーとなった。
エデル・ジョフレの伝記「黄金のバンタム」(原題: O GALO DE OURO / 初版: 1962年)が1979年にブラジルで再版された際、ジョフレ戦で青木がダウンする瞬間の写真が表紙として使われた。
2010年、青木が同じ三鷹ジムから日本フライ級王者となったばかりの飯田健一(
故たこ八郎の元ライバル=2連勝)と1964年に公開スパーリングを行った際に使用された、青木の直筆サイン入りのグローブが日本ボクシングコミッションに提供された。




番外追加編(2020年10月25日):明確に記憶しているのはアリ(+「コング・斉藤」(子供心に強烈な印象だった→ミドル級の長岡俊彦に2連続KO負けし消えた)アリといまにもやるかのように宣伝していた(笑)+「あれなら俺、戦っても勝てるよ」(具志堅氏言(観戦後の談話)・斉藤の日本デビュー戦(2回KO勝ち)、ストニー・ランド(米黒人(カリフォルニア州王者の肩書き)=贅肉に覆われた(当たったかわからんような(ミッキー・ローク氏’伝説’の「猫ちゃん」パンチ次元→「いや、鶴太郎さん(プロテスト合格・サウスポー)、驚きましたこれは」「驚きましたね、あのパンチは。2,3日立てないんじゃないですか」)、1発で倒された)、ボテボテの大肥り選手)。以後、日本コミッションが認めた相手以外不許可。との厳しいお達しが下される有様)、日本では「小熊正二」(おそらく対カント、ゴンザレス)サウスポーのきれいなボクシング(特に、良く利いた膝のバネに驚いた)なんだな(この頃は「カラー」+まだ「マニア」になる前のこと)あとは「大場政夫」(ラストファイトと自動車事故死のニュースは、中野の公団住宅時代。忘れられません(葬儀の日(死顔も忘れられない)、棺を前に涙を流す小林弘さん(「なにかと気を使ってくれ、あんないいやつはいなかったのに」)そして輪島さんの写真も脳裏に刻まれています(号泣))「柴田国明」(一番思い出が多い+大ファンでした)「輪島功一」(ドラマ「7人の刑事」毎週楽しみにみてました☆+↓の特集「炎の男」ビデオ(私自身、多くを学び(苦しいときほど)励みにしています☆)、カナダで年配の日系人たちに紹介したら、非常に受けがよかった=みなさん、何度もみたと聞いて嬉しかったです)、そしてやはり「具志堅用高」(伏兵フローレス(メキシコ・相性が悪かった。初防衛戦で韓国の金煥珍(ノンタイトルで中島成雄に10回判定勝ち+後輩の渡嘉敷勝男が判定で王座奪取(再戦も返り討ち))に13回TKO負けであえなく転落)との再戦(14度目の防衛戦、初戦判定勝ち)に敗れたとき(12回TKO負け(序盤は圧倒していた)=眠れなかった)のショックはいまだに新しい(12度目の防衛戦。強打のバルガス(チリ(ミュンヘン五輪代表)原住民系(1日に「コーラ」を’30本’飲む+2度世界フライ級タイトルに挑戦(WBCカント(15回判定負け)とWBAゴンザレス(12回KO負け))後に具志堅が7回KO勝ちで王座を奪ったグスマンに初回KO勝ち)を相手にせず、完璧な8回ノックアウトに破ったときは「負ける」というのは想像すらできなかったです)「この小さいのよく走るな」(林一道氏)「具志堅は世界王者になってからもよく走ったそうだ」(ジョー・小泉氏)代々木の義理叔父も、走っているのをよく見たといっていました)→信じられなかった。日がたつにつれ、ようやく実感できたほどの衝撃(あの同門の先輩上原康恒さんが戴冠(デトロイトでセラノ(プエルトリコ)を6回にノックアウト「夢のような30歳」「天国のオヤジ、見てくれ」デイリースポーツ)した後の沖縄「凱旋パレード」(歓喜の笑顔だった民衆たち)の写真と記事は忘れられません)ですね☆







*この試合は、小学生のとき。京都の温泉旅館で見たのを鮮明に覚えています(例の「甲子園」野球関連の旅行だった記憶)。ボラノスの無残に腫れあがった顔が痛々しかった。でも白熱した大激戦。いい試合でした。2回に先制のダウンを奪った柴田に、あれだけ打たれながらも最後まで倒れなかった(タフネスと頑張りはすごかったです)。いつ柴田が倒すかな、そればっかり集中してたら。中盤から俄然攻勢に出てきてホンマ、しぶとかったのにびっくりした(最終15回に連打を浴び、ストップされたときも猛然と抗議していた)。柴田のベストファイトのひとつ。ラミロの弟ネルソン(32連勝(22KO)無敗3分+兄と同じく’南米(エクアドル)の怪物’といわれていた)は、世界ランカー対決で後の王者パチエンザに6回TKO負けしました。

「天才パンチャー柴田、遅ればせながら引退」「スピードある二段打ちはもう見られない」(引退式の記事)故エドウィン・バレロEdwin ValeroVS嶋田雄大(バレロの7回TKO勝ち)戦で久しぶりにみました。お元気そうでなりよりです。

















↑元世界J・ウェルター級王者「ハンマーパンチ」藤猛(Paul・Takeshi(ミドルネーム*)・Fujii(ポール・タケシ・藤井→34-3-1 (29KOs)ハワイ出身の日系3世)もリアルタイムでは知らないながら。忘れられない1人です(小学生の頃、古本屋で仕入れた「白黒」の『月刊ゴング』雑誌→特集「天国へ送るパンチ」(ー写真で振りかえる藤猛KOの歴史ーとくに強敵ロベルト・クルス(比・パーキンス(米・黒人)との決定戦で15回判定負け)に2回KO勝ちした写真(ローチェに負ける一試合前のノンタイトル)が脳裏によみがえる)何度も何度も読み返した+「大吉さん、それはねえ~」(対談時))1、ロポポロ(伊・ローマ五輪銀)に2回KO勝ち(輪島に対するボッシ(伊・ローマ五輪銀+強打のリトル(米黒人・来日、東洋王者の南久雄(ムサシ・中野に判定勝ち。さらに龍反町、韓国初の世界王者故金基洙(サウスポー・ローマ五輪代表)と1勝1敗+世界王者になる前の輪島(地元北海道(札幌)で東京五輪銅のベルチーニ(伊)の挑戦も12回TKOで退けた)に7回KO負け)を2回右一発でノックアウト)に判定勝ちでタイトル奪取(以前の、ノンタイトル戦ではリトルに3回KO負け)同様(「俺を馬鹿にしたような顔つきだった」(輪島言)判定負け、転落)、完全に藤をなめていた(「持参したスーツ何着、シャツ何枚、靴何足・・・イタリアの伊達男」)タイトル奪取(豪快な右のカウンターで奪った最初のダウンはすごかった(それまでロポポロはうまく戦っていた。(左ジャブもスピードがあり)特に藤の出鼻に叩き込んだ右アッパーのカウンターは強烈だった)。あとはハンマーパンチが荒れ狂う)ロポポロの日本での思い出は、ホテルの部屋に来た「行商」から日本製ラジオを買ったことだという+それを懐かしそうに「記念品」として見せていたロポポロの記事写真を思い出す)2、クアルトーア(西ドイツ・サウスポー)に4回、右ストレート一発でノックアウト防衛3、ローチェ(アルゼンチン・ロポポロに判定勝ち・セルバンテスと1勝1敗(9回KO負け)藤は、ブランクと腰痛。加えてリング外の「カネ」関連のごたごた(藤は「アメリカ人」(欧米的考え)です。しかも日本人の「血」とはいえ「3世」(日本語はほとんどできない)「オカヤマのおバアちゃん、見てる?」「勝ってもかぶってもオシメよ」(「勝っても兜の緒を締めよ」)「雪ある、いつもKOね」「降ってないけど、あるからいいよ」)が気の毒だった。もうひとつ元気がなかった(ここでも無慈悲、汚い野次(大声)が試合を通じて最後まで飛んでいたのが悲しかったです)。「藤のパンチは強烈だったんだろうが、あまり食わなかったからわからない」(ローチェ言=ことごとく、見切っていた)ただ、マンガ『あしたのジョー』(故梶原氏)に描かれていたような「ヒット・アンド・アウェー(打っては離れ)」(少年院対抗試合、ジョーVS青山戦⇔白木葉子言)ではなく、ローチェは足を止めて真正面から速くて鋭いジャブそしてストレートを突き、フック、アッパーをつなげる(ほとんど、左1本であしらった。藤が攻勢に転じ距離をちじめると逆に前へ出てかわし、ガードしながらくっついてクリンチ(Los intocables(イントカブレ⇔アンタッチャブル)の異名=ロポポロは下がり、のけぞるスウェーバックでよけようとして失敗)。おまけに相性も悪かった「ローチェが相手じゃ再戦しても勝てないな」(小泉氏言、同感です)2020年10月25日。*2、3世は「ミドルネーム (英語: middle name) は、名字と個人名の中間に存在する名前。中間名ともいう」が日本名の人が多い。
Takeshi Fuji (藤猛, born Paul Takeshi Fuji on July 6, 1940) is a Hawaiian-born Japanese former professional boxer.He is a former Lineal, WBA and WBC super lightweight (light welterweight) champion.
引退した7年後に再び来日。初戦は東拳司に初回KO勝ち(4度のダウンを奪った→ブランクと錆び付きを吹っ飛ばすような、痛烈な左フックのスウィング。カウンター1発ではじめのダウンを奪う)だったが、新格闘術(目白ジム)黒崎道場(キック(元日本空手道極真会 ・大山道場(極真会館の前身)師範代の(通称”鬼の黒埼”)黒崎健時氏が主宰→藤原敏男(引退後、キックに転向した元WBA世界フェザー級王者(5度防衛)西城正三に3回TKO勝ち)や島三雄(国際式に転向(日本ランカーたち(石嶺昇・伊藤健一(無敗の7連勝(6KO)中だった期待の全日本新人王(同期の赤井英和(デビュー以来12連続KO勝ちの快挙)を差し置いて最優秀選手)山本智春を豪快にノックアウト。引退に追い込んだ)安藤文治(後の日本王者「安藤、無欲の王座奪取」前王者岩本弘行との再戦(判定負け)はじめての後楽園ホール(懐かしい限り)ライブ観戦☆)・佐野勝治)を連破)=4勝(2KO)2敗(後の世界2位ラルフ・アビレス(米・ハワイ・デビュー戦だった)と韓国の強打者李鐘洙(村田英次郎に8回KO負け=東洋タイトル戦+村田以外の日本選手は全(KO)敗だった(古口哲(栃木県出身(作新学院=江川卓(福島県出身)と同校)アマ61連勝の記録保持(大ファンでした(あのデビュー前に起ってしまった思いもよらぬ契約上のトラブル(モスクワ五輪代表選考を蹴ってまでプロ入り)そしてブランクさえなければ「気持ちばかり焦り、負けるはずのない相手に負けてしまう」)日本タイトル戦、ジャッカル・丸山(後の世界王者小林光二戦(サウスポー・ダウンを奪いながらも引き分け)ライブ観戦☆)に5回KO負けたしたとき(+糸数勤②(サウスポー(沖縄県久米島出身)丸山と1勝2敗)判定負け=初戦は3回KO勝ち)も同じく)の悔しさ(+手強いサウスポードラゴン・早川を初回、左フックのカウンター一発でノックアウト=嬉しかったです☆)は未だに新鮮です笑☆)世界選手権(78年ベオグラード大会)代表)小林裕幸(元日本王者(対フレージャー・金城戦(安藤VS岩本のセミ「5連続KO勝ち,まぐれですよ(10勝(10KO)1敗=小林光二に2回KO負け)」)初回KO勝ち)ライブ観戦☆)古口に6回KO勝ち)大橋等(日本ランカー・古口にKO負け「公約通り、5回でKOした古口」)など)にKO負け)と同門)の大手稔と(パンチだけの対戦)10回引き分け(激しい打ち合いだったながら(藤のパンチもかなり当たっていた)、やはり衰えは隠せず)。しかし↑同様、故梶原氏(ボクシングを格闘技「最下位」に設定したがる帰来→私見)のマンガ『四角いジャングル』のように「滅多打ちにされた」ってことではない(苦笑)。それがラストファイトとなった(ハワイに帰国)。なお梶原一騎氏(本名、高森朝樹)の実弟で同じく漫画原作者・小説家だった故真樹日佐夫氏(本名、高森真土)は空手家で元極真会館本部道場師範代。ど迫力の「100人組手」が忘れられません。
★追悼★古口哲さん①Nov 17, 2021 — 休会中だった古口ジムの古口哲会長が死去。東日本理事会で報告されたもの。63歳Satoshi Koguchi, chairman of Koguchi Gym, who was adjourned, died. Reported by the East Japan Board of Directors. 63 years oldSatoshi Koguchi (Koguchi Satoshi, homme, 28 novembre 1957 - novembre 2021 (ou fin octobre) est un ancien boxeur professionnel et entraîneur au Japon . Président du Koguchi Kyoei Boxing Gym. Né dans la ville d'Imaichi , préfecture de Tochigi

↑サウスポーの強打者だった高山勝義(新日本木村ジム(千葉県出身)45勝(12KO)12敗6分+デビュー戦で負けて以来32連勝)も忘れられない1人です。むかし木村七郎会長(宮城県出身・アマ関東大会優勝・元東洋フライ級2位)が、高山が働いている店の前で車をふかしていたら「うるさいぞっ!この野郎っ!」と小さい男が出てきた。それが高山だったそうだ(スカウトされた『ボクシングマガジン』)。(サルバドーレ・ブルニ(伊)が剥奪された(海老原との対戦に応じなかったため)WBA/WBCタイトル)アカバロとの空位の王座決定戦に判定負けしてから6連勝。そして敵地メキシコ市に遠征。後の世界ランカーオクタビオ・ゴメス(来日して、薬師寺保栄に挑戦し判定負けしたクアテモクのオヤジ)に8回TKO負け。ながらも再び3連勝。スピーディー・早瀬の日本タイトルに挑戦するが判定負け。この敗北以降は精彩と覇気を欠き(ビラカンポ(故梶原氏によれば「殺人パンチャー」笑)6回KO負け)金沢和良(後の東洋王者(ノンタイトル戦で世界ランカーピメンテル(メキシコ)に9回TKO勝ち・元世界王者のベルクレックを4回にノックアウト+オリバレス(メキシコ)に挑戦し14回TKO負け)判定負け)橋本久三(無敗の17連勝(5分)中(さらに1勝した後、豪打のゲレロ(メキシコ+後の世界ランカー)に3回TKO負け=初黒星)判定負け)に3連敗)「ビールを引っかけてからリングに上がったこともあった。それでも結構勝った」。アカバロ戦の前に、ノンタイトルで世界王者ブルニ(ポーン・キングピッチに判定勝ちで王座奪取+アカバロには2連敗(判定負け))からダウンを奪い、10回判定で破る金星(世界ランカーのロロナ(比)にも9回KO勝ち。さらに斉藤清作(たこ八郎)にも判定勝ちしている。高山の全盛期だった)。引退後、キックに転向(8勝(4KO)2敗)「蹴りが飛んできたのでびっくりしたよ(笑)」倒したのは全部「パンチ」だという(『日本名ボクサー100人』)。















コング斉藤(本名:斉藤 明(さいとう あきら)、1954年12月3日 - )は、の元プロボクサー。千葉県柏市出身。ヘビー級ボクサーとして米国を拠点に活動し、日本ではリキジムに所属した。来歴=学生時代はバレーボールの選手だった。米国に渡り溝口宗男(マック溝口)の下でトレーニングを重ね、1975年4月10日、ハワイでデビューするが2戦連続KO負け。1977年4月19日、3戦目を1RKOで初勝利。以降KOを重ねる。ヘビー級ボクサーとしてオクラホマシティを拠点に5戦連続KO勝利を上げると、朝日新聞、読売新聞は特派員を送り、一部には「(モハメド・)アリ、斉藤と防衛戦へ 来年3月」と報じられるなど日本でも話題となった。そんな中、9月4日に日本デビューとして後楽園ホールでストーニー・ランドと対戦。この試合はTBSのゴールデンタイムで中継が組まれ、試合前にワイドショーの取材も来たほどであった。試合は2RKO勝利を上げるもランドの無気力ボクシングで一気に非難の的となった。その後、米国に戻り2戦をKO勝利した後の1978年6月19日、名誉挽回を懸けて日本での2戦目をミドル級の長岡俊彦と戦うも2RKO負け。10月10日、同じヘビー級のビッグ丸山に1RKO勝ち。11月4日に長岡と再戦をするも3RKO負け(しかし、斉藤はこの試合では痛烈なダウンを奪いノックアウト寸前に長岡(「素手の相手だったら、殴られようが蹴られようがまず大丈夫(笑)」(ワールドボクシング=引退後の記事)を追い込んだ=試合後、控え室でタオルをかぶりうなだれ、溝口氏に慰められていた斉藤の写真も忘れられない)。この試合を最後に引退した


↑(89年3月の)日本タイトル戦(対山本義広(無敗の全日本新人王(秋田県出身・ヨネクラジム)後の日本王者)=10回判定勝ち+KOこそ逃したにせよ、パワーは圧巻。迫力ありました)ライブ観戦(セミが大橋秀行(会場内にひびきわたる一発一発のパンチ力が、さすが。すごかったです)ジョエル・レビリャ(比) Joel Revilla(比)に2回KO勝ち)。アメリカから帰国したばかり(当時20歳=このときはひとり)。

↑同年10月の試合ボーイ・キッド・エミリア(比)戦も2回KO勝ちながら別の試合です(参照までに)。ところで久しぶりだったのも手伝い「後楽園ホール」の’変貌’ぶりに驚嘆(「バブル(アブク)」全盛期(お客さんも若いカップルが少なからず)トレンディー時代)。例えば↓の往年(薄暗く、雰囲気もどんより。柄が悪かった頃笑)などに比べると’入場整理’担当(かつてはパンチパーマ「本職」一歩手前、おっかないあんちゃんたちばっかり)も、お洒落な帽子をかぶった「ミニスカ」かわいこちゃん’ギャル’?たちになっとった再笑。

↑懐かしいかぎりながらWhile nostalgic、中学2年生(当時13歳)の私がどこか(後ろのほうback=幼馴染(中野区時代)の友人と一緒With a childhood friend (during Nakano Ward))にいますI'm in my second year of junior high school (13 years old at the time), somewhere(再びインターネット時代の不思議)。会場は「判官びいき」式(注目の新鋭だった小林は(後援者たちに取巻かれ)華々しく登場)、中盤から「丸山」への応援一色(敵地における2度の世界戦(①グスタボ・バリャスGustavo Ballas(アルゼンチン)との決定戦準決勝で11回TKO負け(決勝でバリャスは韓国の襄錫哲に8回TKO勝ちで戴冠)来日し(ペドロサ(パナマ・具志堅、渡辺に判定負け)に判定負けで転落)新王者渡辺二郎に挑戦したが9回終了TKO負け)②김철호金喆鎬Chul-Ho Kim(韓国)に挑戦し、9回TKO負け+金は日本選手キラーだったといえる。地元にて渡辺に15回判定勝ち(初防衛戦)、石井幸喜に8回KO勝ち)も実らず、すでに下り坂とみられていた)。ダウンを奪ったときはすさまじい喧騒ぶり。とくに最終2回は歓声がとどろき、わいていました。

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