日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

★Deutsch-Sowjetischer Krieg=Великая Отечественная война★Крым/Крим/Qırım/ Crimea☆Битва за Севастополя=Die Schlacht um Sewastopol☆クリミア半島(CANADA🍁2019)Schlacht bei Charkow=Битва за Харьков ウクライナ・ハリコフ&La batalo de Berlino

クリミア半島(クリミアはんとう)、または単にクリミア(英語: Crimea, ロシア語: Крым, ウクライナ語: Крим, クリミア・タタール語: Qırım)は、黒海の北岸にある半島。面積は2万6844km、2014年1月1日時点の人口は235万3100人。1991年の独立以来ウクライナに属していたが、2014年のクリミア危機でロシアへの編入の是非を問う住民投票が行われて以降、帰属についてロシアとウクライナの間で係争状態にある。ロシアは自国に編入したと主張し、実効支配しているが、ウクライナではクリミア編入はウクライナ憲法に違反しているとして現在もウクライナの領土の一部であると主張し、日本を含め国際社会の多くが支持している+Русскийロシア語→Крым (укр. Крим, крымско-тат. Qırım, Къырым; также — Кры́мский полуо́стров, укр. Кримський півострів, крымско-тат. Qırım yarımadası, Къырым ярымадасы, ранее — Таврида (греч. Ταυρίδα)) — полуостров в северной части Чёрного моря, с северо-востока омывается Азовским морем. Бо́льшая часть полуострова является объектом территориальных разногласий между Россией, контролирующей её с марта 2014 года, и Украиной. Большинство государств — членов ООН продолжают рассматривать весь Крым как часть Украины.Українськаウクライナ語→Крим, Кри́мський піво́стрів, раніше Таврія (крим. Qırım yarımadası, Qırım, Къырым ярымадасы, рос. Крымский полуостров, Крым) — півострів на північному узбережжі Чорного моря, з північного сходу омивається Азовським морем. Розташований на півдні України та охоплює Автономну Республіку Крим, Севастополь та частково південь Херсонської області (північ Арабатської стрілки); більша частина півострова (АР Крим та Севастополь) з кінця лютого 2014 року захоплена і окупована російськими регулярними військовими частинами, а пізніше тимчасово анексована Російською Федерацією.


セヴァストポリの戦い(セヴァストポリのたたかい、ロシア語: Битва за Севастополя)は、1941年9月から1942年7月にかけての、クリミア半島とセヴァストポリ要塞をめぐる枢軸国軍とソ連軍の戦闘である。背景⇒クリミア半島は黒海に面し、東方のケルチ半島が黒海とアゾフ海を分かつ、戦略上の要衝である。ソ連黒海艦隊の根拠地であるセヴァストポリを抱え、クリミアから飛来するソ連軍爆撃機が、ドイツにとって死活的に重要なプロエシュチ油田を爆撃可能であったので、この制圧は、ドイツ軍にとって重要であった。しかし、クリミアへの陸路の侵攻ルートは、狭隘なペレコープ地峡を経るしかなく、セヴァストポリ要塞の防衛は、当時の世界レベルでトップクラスの堅度であり、更に、黒海の枢軸側海軍は弱体で、制海権はソ連黒海艦隊に握られていたので、その攻略は難航した。ソ連軍による奪回(1944年)⇒クルスクの戦いに続いて始まったソ連軍の攻勢により、1943年11月にはクリミアへの鉄道による補給路は断たれてしまい、第17軍の補給は海路に頼るのみとなった。アントネスク(ルーマニア王国首相兼軍最高司令官)、マンシュタイン(南方軍集団司令官)、クライスト(A軍集団司令官)、イェーネッケ上級大将(第17軍司令官)、ツァイツラー上級大将(陸軍参謀総長)のいずれもが、クリミアの放棄を求めたが、ヒトラーはトルコへの政治的影響とルーマニアの油田地帯防衛を理由として死守を命じた。3月30日には、クライストとマンシュタインは休養を命じられ、A軍集団あらため南ウクライナ軍集団の司令官には、シェルナー歩兵大将が起用された。ソ連第4ウクライナ方面軍(トルブーヒン大将)は、4月8日にペレコープ地峡を攻撃し、防衛軍は初日はなんとかもちこたえたが、二日目にはルーマニア軍が崩壊し始めた。その日の夜、イェーネッケはヒトラーの承認無しに、クリミアにある全軍のグナイゼナウ線への撤退命令を出した。第17軍はグナイゼナウ線でも持ちこたえれず、4月末にはセヴァストポリへ押し込まれてしまった。4月29日に総統大本営でヒトラーに状況報告したイェーネッケはクリミアの放棄と第17軍のOKHへの直属を強く主張したため、ヒトラーに解任されて後に軍法会議へ送られた。後任の第17軍司令官には、増援兵力をもらえればセヴァストポリを維持できるとした第5軍団アルメンディンガー歩兵大将が起用された。しかし1942年の攻囲戦で破壊された要塞設備の修復は不十分で、両軍の戦力差は圧倒的であり、さらに第17軍の補給路はソ連軍の海空からの攻撃に常時晒されている状況のもとで、ソ連軍の重囲を持ちこたえるのは荷が重すぎた。5月6日にソ連軍は要塞に対して総攻撃を開始し、5月7日には要塞全域を一望できる要地のセパン高地を占領した。5月8日には、第17軍の損害は大きく要塞の保持は不可能であるのは明らかだったので、その夜ヒトラーは撤退を許可した。5月9日~12日まで海路によるコンスタンツァへの撤収作戦が行われたが、5月第1週目にセヴァストポリにいた兵員64,700名のうち、約4割にあたる26,700名は撤収できず海岸に置き去りにされ、5月13日にセヴァストポリは陥落した。アルメンディンガーも、セヴァストポリ失陥の責任を問われて軍法会議へと送られた+Deutschドイツ語→Die Schlacht um Sewastopol (russisch Севастопольская оборона) war eine Schlacht, die vom 30. Oktober 1941 bis zum 4. Juli 1942 an der deutsch-sowjetischen Front im Zweiten Weltkrieg um den befestigten Seehafen Sewastopol stattfand+Françaisフランス語→Le siège de Sébastopol (du nom de code opération Störfang) est une bataille de la Seconde Guerre mondiale qui se déroula entre le 30 octobre 1941 et le 4 juillet 1942 entre les forces allemandes et soviétiques. L'enjeu était le port de Sébastopol qui était la principale base navale de la flotte de la mer Noire. Il résulte en une victoire allemande et la prise de la ville portuaire mais au prix de pertes importantes et d'une mobilisation de troupes pendant plusieurs mois qui feront défaut pour les autres offensives allemandes du sud du front de l'Est.
追加資料:青木茂『第二次世界大戦全戦線ガイド』(新紀元社)モスクワと真珠湾(1941年10月ー12月)
ー日本がアメリカを攻撃し、戦争は完全に世界規模に拡大した。イギリスはアフリカでロンメルを守勢に立たせていたが、アジアで戦艦2隻を喪失するという痛手をおった。ソ連は日本が南方へ進むことを確認してシベリア師団をヨーロッパに投入し、モスクワ前面でドイツ軍不敗の神話を撃ち崩したー
<ヨーロッパ東部戦線>●モスクワ攻略「タイフーン作戦」(ドイツ語:Unternehmen Taifun, 英語:Operation Typhoon)
10月2日、9月末に攻撃を開始していたグデーリアンの第2機甲集団に続き、ドイツ軍の全作戦参加部隊がモスクワにとどめを刺すための攻撃に出発した。第2機甲集団の目標は、モスクワ攻撃を側面から脅かすブリヤンスクである。そこに集結するのはイェレメンコ将軍麾下の精鋭部隊であったが、ドイツ軍はこれを一蹴し、わずか10日間でオリョル、ブリヤンスクを占領しつつソ連軍3個軍を撃滅あるいは包囲した。モスクワ正面に展開していたドイツ軍第3、第4機甲軍集団の先鋒は10月14日、モスクワ街道をボロジノに迫った。ボロジノの守りは堅かったが、砲兵の集中運用でこれを突破した。10月10日からジューコフ将軍がモスクワ防衛の指揮をとっていたが、16日にはモスクワでパニックが広がり始めた。しかし19日、スターリンはモスクワに残ることを言明し、ソ連軍は闘志を取り戻し防衛陣地の工事が急ピッチで進められた。ドイツ軍の進撃は10月末頃から泥のために停滞した。モスクワ戦区にシベリア師団が到着し始める。11月12日、ドイツ軍はモスクワ攻略を継続することを決定した。19日、ドイツ軍は攻撃を再開する。第2機甲集団が南から、第3,4機甲集団が北から攻撃した。開始直後はソ連軍の後退戦術のためにかなり前進できたドイツ軍であったが、モスクワの直前でシベリア師団など精鋭部隊の抵抗を受けるようになり、また寒気によって戦闘能力が低下したため進撃ができなくなった。一部の部隊がモスクワ市街まであと8kmの地点にまで迫る中、攻撃は12月5日に中止された。支援に当っていた第2航空艦隊(地上支援専門の第8航空軍団を除く)には地中海への移動命令が出された。ソ連軍は、ドイツ軍の攻撃が息切れするのを待っていた。そして12月6日、モスクワ周辺のソ連軍は一斉に反撃を開始した。北のクリン、南のツーラを中心にソ連軍の攻勢は進み、モスクワの正面に展開していたドイツ第4軍が包囲される可能性がでてきた。ヒトラーは中央軍集団司令官のボック将軍や陸軍総司令官のブラウヒッチュ将軍を解任した。ボック将軍の後任にはクルーゲ将軍を、そしてブラウヒッチュ将軍の後任には自らが着いた。そしてヒトラーはモスクワ前面のドイツ軍部隊の後退を禁じた。
●クリミア半島の攻防
10月18日、ドイツ軍のクリミア半島制圧の戦いが開始された。狭いペレコプ地峡を力押しで進むしかなく、相当な損害を出しながら、ドイツ軍がそこを突破できたのは10月28日であった。基本的に歩兵部隊による攻撃であったため、突破しても戦果を急速に拡大できる機甲部隊がドイツにはなかった。そこでマンシュタインは偵察部隊など機械化された部隊をまとめて臨時の機動部隊をつくり、この部隊で「セヴァストポリ要塞」に逃げ込もうとしていたソ連軍部隊の補足に成功した。東はケルチから南はヤルタまで半島の主要な都市を押さえると、ドイツ軍は「セヴァストポリ要塞」の攻略準備にかかった。攻撃は12月17日に開始されたが、ほどなくケルチとフェオドシアにソ連軍が上陸し、半島の東にいるドイツ第46歩兵師団に危険が迫った。マンシュタイン将軍はこの部隊にソ連軍の反撃を支えさせ、さらに「セヴァストポリ要塞」の攻略を進展させたいところであった。ところが、同歩兵師団が後退を始めてしまったために、その意図を放棄せざるを得なくなった。「セヴァストポリ要塞」攻略戦は翌年に持ち越された。
●レニングラード包囲戦(ロシア語:Блокада Ленинграда ブラカーダ・リニングラーダ・ドイツ語:Leningrader Blockade・1941年9月8日 - 1944年1月27日)
ドイツ軍は、レニングラードの包囲をより完全にするため、ラドガ湖ルートの遮断を計画した。11月8日にはそのための最初の目標であるティフヴィンに入った。しかしここでソ連軍はシベリア師団を投入して反撃し、ドイツ軍は後退した。
●セヴァストポリ攻略(42年4月ー6月)
クリミア半島でも、ソ連軍の攻勢は4月下旬までに挫折していた。ドイツ軍はこの夏の攻勢の前提条件として、クリミア半島の制圧をマンシュタイン将軍に求めた。同将軍の第11軍は5月8日から制圧作戦に着手した。まずケルチ方面を5月16日までに制圧、続いて6月から最大の拠点である「セヴァストポリ要塞」の攻略に取りかかった。重臼砲「カール」や列車砲「グスタフ」まで投入した1週間に及ぶ準備砲火の後、6月7日、戦闘工兵が突入。ドイツ軍は大きな損害を出しながらも6月中にはほぼ攻略の目途を立てることができた。攻撃開始から約1ヵ月後の7月3日、「セヴァストポリ要塞を陥落」させることができた。海路脱出しようとするソ連軍に対しては、ドイツ黒海艦隊のSボートも攻撃を行なった。この部隊は河川と陸路を使って北ドイツの港から運ばれ、この戦いにかろうじて間にあった部隊であった。
(1943年10月ー12月)ウクライナの攻防ードイツは資源地帯のウクライナを失い、南部では東ヨーロッパに追い込まれていたー
<ヨーロッパ東部戦線>●クリミア半島封鎖

ソ連軍の勢いは止まるところを知らなかった。ウクライナはドイツに食料と鉱物資源の多くを供給する重要な地域となっていた。特にザポロジェやニコポリのマンガン、銅、ニッケル鉱山などはドイツが必要とする量の3分の1をまかなっていた。ウクライナがドイツの手にある限り、ドイツは戦争を遂行する力を失わないといってもよかった。スターリンはドイツ軍がウクライナの守り、すなわちドニエプル河の守りを固める前にそこを突破しなくてはならなかった。ソ連軍はスターリンの期待に応えた。10月中旬にはドニエプル河下流のクレメンチュークで渡河に成功し、同じ頃ザポロジェも占領した。その間にあるドニエプロペトロフスクも25日に、メリトポリも23日に占領していた。拠点は次々とソ連軍の手に落ち、ヒトラーの死守命令によってクリミア半島にいたドイツ第17軍は陸の連絡を失ってしまった。12月9日、ソ連軍はキロヴォグラードにまで進出してウクライナに深い根を打ち込んでいた。
●キエフの攻防Battle of Kiev (1943)Битва за Київ (1943)
11月6日、ついにキエフがソ連軍に奪回された。ソ連軍は13日にはその西のジトミールに迫っていた。ドイツ軍は雪崩のような戦線の崩壊を食い止めようと第48機甲軍団を中心に反撃の戦力を集結させていた。打ち続く敗け戦に慎重になったドイツ軍は、反撃の目標を拡大せず、ジトミールの確保にとどめることとした。11月17日からドイツ機甲部隊の反撃は開始された。ジトミールを奪回し、26日までにソ連軍の反撃を一部捕捉撃滅したが、充分な戦果は上げられなかった。キエフへ進出する機会も見えたが、泥濘の到来によって攻撃は中断された。ジトミールを巡る戦闘は12月末までもつれこんだ。ソ連軍は12月24日からジューコフ、ヴァシレフスキー両将軍に指揮された5個戦線正面軍による攻勢を開始し、年来、ソ連軍はこの年最後の猛攻撃でジトミールを再占領した。
<ヨーロッパ東部戦線>(1944年1月ー3月) ●レニングラードの解放
東部戦線の北部で、レニングラード戦線正面軍とウォルホフ戦線正面軍により攻勢が1月14日から開始された。1月19日、この攻勢でレニングラードのドイツ軍による包囲が解かれ、27日までに封鎖は完全に解除された。レニングラードは900日にも及んだ包囲戦に勝利したのである。1月21日から第2バルト戦線正面軍も加わって、ソ連軍はドイツ北方集団を一気に駆逐した。ヒトラーは北方軍集団の司令官をキュヒラーからモーデルにかえたが、事態は改善されなかった。ドイツ軍は3月1日はナウル河、プスコフ、プストーシカの線まで押し戻され、ソ連軍の攻勢はひと段落した。ソ連空軍は2月にヘルシンキ、オウル、コトウカに夜間爆撃を加え、フィンランドへの圧力を強めた。ドイツ空軍は東部戦線全体で1700機しか保有しておらず、1万機に迫るソ連空軍は5倍の優勢であった。とりわけドイツ戦闘機はロシアの広大な戦線にわずか500機程度しかなかったが、敢闘し、地上部隊の一挙崩壊をしばしば食い止めていた。


セヴァストポリ(ウクライナ語: Севастополь (セヴァストーポリ)、ロシア語: Севастополь (シヴァストーパリ)、ラテン文字転写の例:Sevastopol、クリミア・タタール語: Акъяр, Aqyar)は、黒海に面したクリミア半島南西部に位置する都市である。首都のキエフとともに、ウクライナの特別市であったが、2014年3月17日にクリミア自治共和国とともに主権宣言した上で、翌3月18日にロシア連邦と条約を締結し、ロシア連邦の構成主体となったとしている。一方でクリミアの独立とロシアへの編入を認めないウクライナおよび国際連合(総会決議68/262)との間で論争が続いている状態である。広義・行政区画上のセヴァストポリ(特別市 / 連邦市)は864km2、416,263人(2016年)。4つの行政区で構成され、インケルマンInkermanやカチャKachaなどの集落を含む。狭義・都市としてのセヴァストポリは57.45km2、370,750人(2016年)+Esperantoエスペラント語→Sebastopolo[1] (ruse Севастополь, ukraine Севастополь, krime-tatare Aqyar) estas la urbo kaj marhaveno en Krimeo, ĉe la Nigra Maro, urbo-heroo. Malgraŭ la geografia aparteno al Krimeo, administre la urbo (kaj la ĉirkaŭa teritorio) ne apartenas al Respubliko Krimeo, sed estas aparta administra unuo de Rusio. Sevastopol (/ˌsɛvəˈstoʊpəl, -ˈstɒpəl, səˈvæstəpɒl, -pəl/; Ukrainian: Севастополь; Russian: Севастополь; Crimean Tatar: Aqyar, Акъяр) is the largest city on the Crimean Peninsula and a major Black Sea port. Since annexing Crimea in 2014, the Russian Federation has administered Sevastopol as a federal city. Nevertheless, Ukraine and most of the UN member countries continue to regard Sevastopol as a city with special status within Ukraine. The population is made up of mostly Russians with small numbers of Ukrainians and Tatars.
(1944年4月ー6月)<ヨーロッパ東部戦線>●ドイツ軍クリミア半島喪失
4月8日、南部におけるソ連軍の攻勢はクリミア半島に向けられた。3倍を超える兵力、十分な火力と航空戦力の支援を受けるソ連軍の攻撃の前に、ドイツ軍は「セヴァストポリ要塞」まで退いた。ソ連空軍はこの要塞に対する航空攻撃の他、4月にはルーマニアのコンスタンツァ、ガラツをも空襲する余裕を見せている。5月5日、ソ連軍はこの要塞に対して総攻撃を開始し、わずか1週間で陥落させた。クリミア半島のドイツ軍とルーマニア軍が撤退の準備を進めていたが、ここでもヒトラーの死守命令による遅れのため、海と空との懸命な救出作戦にもかかわらず半数以上の兵力が失われてしまった。黒海における枢軸側の活動は小型Uボート6隻による妨害作戦以外はクリミア半島やオデッサからの撤収作戦に集中された。イギリス軍はドナウ河に空中から機雷を投下し、東ヨーロッパ周辺の交通を妨害した。ウクライナのソ連軍も4月17日まで攻勢を続け、カルパチア山脈の麓からドニエストル河まで進出することに成功した。
クリミア・タタール人(クリミア・タタール語: qırımtatarlar、qırımlılar、ウクライナ語: кримські татари、ロシア語: крымские татары)は、クリミア半島に起源もつテュルク系民族である。 クリミア・タタール語を母語とし、スンニ派ムスリムが大半を占める。克里米亞韃靼人(克里米亞韃靼語:Къырымтартарлар,羅馬化:Qırımtatarlar)是最早定居於克里米亞半島的突厥民族,其民族形成於13-17世紀之間,由先前居於半島上属于突厥语系的庫曼人(也叫钦察人)[9]與希臘移民、熱那亞威尼斯意大利移民及哥特人等民族融合演變而成。14世纪改信伊斯兰教。크림 타타르인(크림 타타르어: qırımtatarlar, 우크라이나어: кримськi татари, 러시아어: крымские татары, 영어: Crimean Tatars)은 크림 반도에 뿌리를 둔 튀르크계 민족이다.
クリミア・タタール語(クリミア・タタール語:Qırımtatar tili, Qırımtatarca)は、クリミア共和国を中心に居住するクリミア・タタール人によって話されるテュルク系言語の1つ。クリミア語(Qırım tili, Qırımca)とも言われる。クリミア・タタール人の民族離散の結果、ウズベキスタン等の中央アジア諸国、トルコ、ルーマニア、ブルガリアにも話者が存在する。話者数は、クリミアに26万人、中央アジアに15万人と推計される。言語系統は、テュルク諸語のキプチャク語群に属し、同語群のクムク語、カラチャイ・バルカル語に近縁とされるが、オスマン帝国との歴史的な関係から、トルコ語からの影響が顕著に見られる。そのため、トルコ語が属するオグズ語群とキプチャク語群の中間として分類する場合もある。+Nederlandsオランダ語→Krim-Tataars of Krim-Turks (Kırım Tatarça of Kırım Türkçesi) is een Turkse taal die wordt gesproken door Krim-Tataren, op de Krim en sinds de 20e eeuw ook in Centraal-Azië, Roemenië, Bulgarije en Turkije, na deportaties en emigraties van de Krim-Tataren. Er zijn drie dialecten: dialect van de Noğays, dialect van Yalıboylus en dialect van de Tats+Asturianuアストゥリアス語→El tártaru de Crimea (Qırımtatar tili, Qırım tili) ye una llingua túrcica falada por mediu millón de persones tanto en Crimea (Ucraína), como n'Uzbequistán, Bulgaria y Rumanía. Escríbese con caracteres llatinos. Inda que son familia, esta llingua nun ye la mesma que'l tártaru faláu en Tatarstán o'l de Siberia

ハリコフ攻防戦(ハリコフこうぼうせん、ドイツ語:Schlacht bei Charkow)は、第二次世界大戦中の1941年から1943年に掛けて、ウクライナでは、キエフに次ぐ大都市であるハリコフの制圧をめぐって4度にわたり繰り返された、ナチス・ドイツ軍とソビエト赤軍の戦いである
Русскийロシア語→Битва за Харьков — данным термином могут быть обозначены следующие боевые действия в ходе Великой Отечественной войны в районе города Харьков Первая битва за Харьков — Сумско-Харьковская оборонительная операция 1 октября — 29 октября 1941 года Вторая битва за Харьков — Харьковская операция 12 — 30 мая 1942 года Третья битва за Харьков — боевые действия 19 февраля — 14 марта 1943 года на южном участке фронта в районе Харькова и Воронежа.+Deutschドイツ語→Als Schlacht bei Charkow werden in der Militärgeschichtsschreibung mehrere militärische Operationen an der deutsch-sowjetischen Front in den Jahren 1941–1943 bezeichnet: Schlacht bei Charkow (1941) Schlacht bei Charkow (1942) Schlacht bei Charkow (1943) Belgorod-Charkower Operation


(1)、第一次ハリコフ攻防戦
1941年のバルバロッサ作戦の際、ドイツ南方軍集団とソ連南西方面軍との間に、ハリコフで小競り合いがあった。第一次ハリコフ攻防戦 は、第二次世界大戦中、1941年10月20日に開始されたドイツ南方軍集団所属の第6軍によって行われたバルバロッサ作戦最終段階におけるハリコフを巡る戦いである。ヴィルヘルム・カイテルによって名づけられた。ソ連赤軍第38軍はハリコフ市内の工場を遥か東に移転する間、ハリコフを防衛するよう命令された。10月21日までに全ての工場設備は鉄道で運ばれたが、この日、ドイツ軍は車両基地11Km以内まで進撃していた。10月24日、赤軍第17軍が南で防衛線を構築する間、ドイツ第6軍はハリコフ北方で包囲を開始した。同日、ハリコフはドイツ軍により占領されたが、大部分の鉄道輸送設備は赤軍が持ち去った後であった。
The 1st Battle of Kharkov, so named by Wilhelm Keitel, was the 1941 battle for the city of Kharkiv (Kharkov in Russian) (Ukrainian SSR) during the final phase of Operation Barbarossa between the German 6th Army of Army Group South and the Soviet Southwestern Front. The Soviet 38th Army was ordered to defend the city while its factories were dismantled for relocation farther east. The German 6th Army needed to take the city in order to close the widening gap to the German 17th Army. By 20 October the Germans had reached the western edge of the city, it was taken by the 57th Infantry Division by 24 October. At that time, however, most of Kharkiv's industrial equipment had been evacuated or rendered useless by the Soviet authorities.
(1941年10月ー12月)<ヨーロッパ東部戦線>●南方軍集団の一進一退
南方軍集団戦区では、クリミア半島の付け根に当たる部分にソ連軍が東から圧力をかけてきた。ところがそこへキエフ戦を終えたクライスト将軍の第1機甲軍集団が現われ、その第3機甲集団が南へアゾフ海まで進出してこのソ連軍部隊、兵力にして10万名余を包囲してしまった。さらにマンシュタイン将軍のドイツ第11軍がアゾフ海沿いに前進し、10月10日までに包囲されたソ連軍の掃討を完了した。この勝利に、南方軍集団は一気に作戦目標であるロストフまで進撃できることになった。ロストフ攻略は増強された第1機甲集団が担当し、側面のクリミア半島制圧は第11軍の2個軍団、第30、第54軍団が担当した。10月16日、ドイツ軍の後方に包囲されていた黒海沿岸のオデッサから、ソ連軍が撤退した。第1機甲集団は10月17日にタガンロークに迫り、24日にはドイツ第6軍と第17軍によってハリコフが占領された(第一次ハリコフ攻防戦)。ドイツ軍の損害も大きくなり、加えて泥の季節がやってきたため、ドイツ軍の進撃はここで一時停滞する。この間、ソ連軍は新しい部隊を配置し、ドイツ軍の次の攻勢に備えていた。11月17日、ドイツ軍は反撃を再開してロストフを攻撃するが、ソ連軍は用意していた新部隊を投入して反撃を行なった。そのためドイツ軍は11月24日、ロストフから後退せざるを得なくなった。ヒトラーは後退を禁じており、これを無視した南方軍集団司令官ルントシュテットは11月30日、解任された。後任はライヘナウ将軍であった。
(2)、第二次ハリコフ攻防戦 
モスクワ前面でのドイツ軍の敗退を過大評価したスタフカは、雪解け期前にドイツ軍を国内から駆逐するため1月に全戦線で戦略的攻勢を命じたが、戦力や補給不足で、ドイツ軍を駆逐することはできず、戦線に凸凹をつけるぐらいで雪解け期を迎えた。この結果、ハリコフ南方にソ連軍の大きな突出部が出来ていた。雪解け期の間、独ソ両軍はそれぞれ夏季の戦略プランを検討したが、ソ連側は突出部を利用して南北からハリコフを奪還する計画を立案した。一方、ドイツ軍はボルガ河およびコーカサス征服を含むブラウ作戦をまとめたが、ブラウ作戦の実施の前に準備作戦としてソ連軍の突出部を南北から挟撃して切り取ってしまうフレデリクス計画も立案した。
両軍はそれぞれの攻勢計画の為に作戦準備を始めたが、実際にはソ連軍が先に準備を完了し、5月12日には攻勢を開始した。しかし、この動きは結果的にはドイツ軍の思うつぼとなり、フレデリクス計画によってソ連軍攻勢部隊は包囲されて壊滅してしまい、南部での戦車戦力の殆どを失ってしまった。この結果、この作戦前はほぼ同等レベルであった南部での独ソの戦力バランスは大きくドイツ軍に傾き、ソ連軍はドン河を目指して東方へ撤退を続けることになった
+Françaisフランス語→Bataille de Kharkov=les forces soviétiques contre-attaquent lors de la Seconde bataille de Kharkov en mai 1942 mais la VIe armée de Paulus les encercle et fait presque 200 000 prisonniers ;
コーカサスとミッドウェイ(1942年4月ー6月)-日本とドイツはそれぞれこの大戦の命運を決する大作戦を開始した。だが日本のミッドウェイ攻略作戦は大敗に終わり、ドイツの東部戦線夏季攻勢も、これまでとは勝手が違う戦いになっていた。地中海でドイツは短期決戦に賭け、日本は太平洋で際限なく戦線を広げていたー
<ヨーロッパ東部戦線>●第二次ハリコフ攻防戦
春の泥の季節になって、独ソ両軍はこの年の攻撃計画を立てた。ソ連軍の計画は南方、ハリコフの奪回であった。ドイツ軍はハリコフ方面にその南からソ連軍を挟撃する計画を立てていたが、ソ連軍が先手を打って、5月12日、ハリコフの北と南から3個軍で攻撃をかけた。ドイツ第6軍はこの攻撃を支えきれなかったが、ドイツ第1機甲軍が南からソ連軍の側面を突き破り、ハリコフに迫っていた。ソ連軍を第6軍と協同して逆包囲した。5月22日のことである。ドイツ軍は捕虜24万名を得て、この夏の攻勢に再び自信を取り戻すことができた。
●青作戦の開始 ブラウ(青)作戦(ドイツ語:Unternehmen Blau、英語:Case Blue青の場合)
ハリコフでソ連軍の逆襲を逆手にとることに成功し、クリミア半島の制圧も完了して南側面を固めたドイツ軍は、6月28日、第一目標であるヴォロネジへ向けて「青作戦」を開始した。この作戦はヒトラーにとって命運を賭けた大作戦であった。ヒトラーはソ連侵攻にあたって、もともとモスクワを重視していなかった。だから、新しい精鋭部隊でスターリングラード、ロストフ、アストラハニ、そしてコーカサスの油田地帯を奪取するこの作戦は、自らの最初のプランへの回帰でもあった。目標であるコーカサスはソ連の石油の大半を産出しているだけでなく、鉄や石炭もあった。ここが占領できればドイツに燃料・資源の心配はなくなる。そこまで成功しなくてもロストフ、マイコプ、グローズヌイ、そしてロシアのもっとも重要な動脈であるヴォルガ河の河口を押さえることができれば、間違いなくソ連の経済力を壊滅させることができた。何百万トンもの食料、機械、弾薬、燃料と、イランから来るアメリカの「武器貸与法」によるおびただしい軍需品が、ヴォルガ河づたいに全ロシアに運ばれているのであった。そのヴォルガ河口の重要な街のひとつにスターリングラードがあった。
ヒトラーにはあまり時間がなかった。アメリカに宣戦布告した今、この独ソ戦と同時に多正面戦争に入っていた。北アフリカと地中海でイギリス軍と戦い、イギリス本土を連日爆撃しながらイギリス軍の空襲を迎え討ち、アメリカ軍の空襲も早晩本格化することが予想された。連合軍の上陸に対してノルウェー沿岸やフランス沿岸に対する警戒も怠ることもできなかった。北極海でソ連への輸送船団を妨害し、太平洋でイギリスの海上輸送路を断とうとしていた。さらに占領地の支配と、数百万のユダヤ人絶滅計画を実行に移していたのである。これだけのことをいつまでも同時に並行していられるわけはなく、一刻も早く決定的な勝利をおさめる必要があった。そしてその場所はロシアでなくてはならなかった。攻撃を行なう南方軍集団は第1、第4機甲軍と、第2、第17軍、有名な精鋭第6軍で構成されていた。第6軍は開戦以来連戦連勝してきた常勝軍であり、その指揮官はパウルス将軍であった。目標はドン河前面の敵掃討、ついでコーカサスの油田および交通網の奪取であった。また4月にはイタリア、ルーマニア、ハンガリーなどから同盟国師団51個を動員していた。これらの部隊はドイツ軍の側面を守る役割が当てられた。
ベルリンと東京の彼方で(1942年7月ー9月)ーヒトラーは再び快進撃を続ける機甲部隊を見て前途を楽観しようとしており、日本は自らの深手に気づいておらず、まだ態勢立て直しのチャンスがあるものと信じていた。連合軍は枢軸側の予想以上の力を蓄えており、ロシアでも太平洋でも戦いは思わぬ方向へと進んでいったー
<ヨーロッパ戦線>●ドイツ軍「青作戦」
攻撃を開始したドイツ第4機甲軍はヴォロネジ攻略に思いのほか手間取り、ソ連野戦軍の包囲殲滅に失敗していた。7月9日、ヒトラーの命令で南方軍集団はA軍集団とB軍集団に分けられた。A軍集団は第1機甲軍と第17および第11軍、B軍集団は第4機甲軍と第2および第6軍で構成された。A軍集団はロストフからコーカサスへ進み、B軍集団はドン河およびヴォルガ河一帯の征服をめざすという方針の変更が行なわれたのである。これはソ連軍の後退を全面的敗走とみなした結果、下された命令であった。同日、第17軍と第1機甲軍から成るA軍集団が南から攻撃を開始した。ソ連軍は退却したが、これまでのように易々と包囲されることなく、秩序ある撤退をしていった。17日、ヒトラーはこの分割に反対した南方軍集団司令官ボック将軍を解任した。ヒトラーはA軍集団の戦力を強化するため、第4機甲軍をB軍集団から外し、A軍集団に所属させた。このためコーカサスへの進撃は進んだが、スターリングラード方面への進撃は鈍り、ヒトラーは7月29日、再び第4機甲軍をB軍集団に戻した。この一連の決定は主力機甲部隊の時間を空費させ、あげくは主目標と異なる場所で消耗させることになった。ドイツ軍は退却する部隊に防備を固める余裕を与えず追撃する必要があったが、パルチザンの活動が活発で、補給面での苦戦が始まっていた。さらに、ヒトラーは第1軍をレニングラードに回したほか、連合軍の上陸に備えて精鋭師団をいくつかフランスへ送ってしまった。A軍集団は7月22日にはロストフに達し、さらにはクバ二河を越えて8月9日にはマイコプまで進撃していた。しかしここに至るまで、ソ連軍の大規模な包囲はまったく行なえなかった。8月中旬、第17軍を改編強化したルオフ軍集団はついにコーカサス山脈に到着した。山岳兵が先頭に立って進撃したが、兵力と補給の不足から進撃速度は鈍っていた。9月9日、業を煮やしたヒトラーはA軍集団の指揮権をリスト将軍から取り上げた。第4機甲軍を与えられてB軍集団はスターリングラードへの進撃を再開し、8月11日、ドン河畔のカラチを陥落させた。8月23日にはヴォルガ河に達し、8月末までにスターリングラードに迫っていた。9月に入ると同市をめぐって激戦が繰り返され、とりわけ16日から続いたマイエフ高地の争奪戦は壮絶だった。このような中でスターリングラード防衛司令官にチュイコフ将軍が任命され赴任した。9月24日、ドイツの参謀総長ハルダー将軍が解任され、ツァイツラー将軍が任命された。ハルダーはスターリングラードの戦闘に多くの部隊が投入され、その側面が危険であることを指摘してヒトラーと対立したのである。
(3)、第三次ハリコフ攻防戦 
1942年のスターリングラード攻防戦の結果、北方のスターリングラードに向かっていたB軍集団主力第6軍が壊滅したため、南方油田地帯を攻めていたA軍集団は背後を襲われる危機に陥ったが、ギリギリのタイミングで辛くも脱出に成功した。春の雪解け期がくる前に可能な限りの領土回復を目指す戦略をとるソ連軍は、引き続き進撃を続け、1943年2月18日ハリコフを落とし、ドイツ南方軍集団司令部も危機に瀕した。しかし、南方軍集団司令官マンシュタイン元帥はソ連軍も補給線が伸びきり、前進限界点に達していると分析。マンシュタインは脱出したA軍集団・残存B軍集団・増援のSS装甲軍団を展開して、数日後には一気に反撃に転じた。進撃続きで疲弊していたソ連軍は総崩れとなり、南部から次々と壊走し、3月14日ハリコフもドイツ軍の手中に戻った。この勝利でクルスクを中心とした突出部が出来、7月のクルスクの戦いへと繋がっていく+Esperantoエスペラント語→La Tria Batalo de Ĥarkovo estis serio de bataloj en la Orienta Fronto de la Dua Mondmilito, luktita de la Germana Armegrupa Sudo kontraŭ la Ruĝa Armeo, ĉirkaŭ Ĥarkovo (nune Ĥarkivo) inter la 19a de Februaro kaj la 15a de Marto 1943.
連合軍の反撃(1942年10月ー12月)
ードイツ軍の攻勢は、北アフリカではすでに力つき、ロシアでもピークに達していた。ヒトラーがロシアでの最後の賭けに勝ったと感じた瞬間、イギリス軍、アメリカ軍、ソ連軍は一斉に反撃に転じてきた。そのころ太平洋では日本軍がついに、初めて太平洋の一角を放棄したー

<ヨーロッパ戦線>●ドイツ第6軍逆包囲されるСталинградская битваスターリングラード攻防戦
ドイツ軍はスターリングラード市内を徐々に制圧し、10月末には市街をほぼ制圧するところまでいった。またコーカサスへの攻撃も進んでいた。他方、ドン河に沿った側面は、ルーマニア軍、ハンガリー軍など同盟国軍ばかりになっていた。しかも、戦線を直線化するために、一部の地点ではソ連軍に渡河点を明け渡していた。11月19日、ソ連軍はついに全面的な反攻に出た。ソ連軍は4個軍で枢軸同盟軍の守る側面を襲った。ルーマニア軍戦線はたちまち踏みにじられ、投入された少数のドイツ軍予備兵力も蹴散らされた。翌20日、スターリングラードの南でもソ連軍はルーマニア軍戦線に狙いを定め、2個軍で襲いかかった。ソ連軍は戦線を突破するとスターリングラードの北と南から突進し、23日、ドン河とヴォルガ河が最も接近しているカラチで合流、スターリングラードのドイツ第6軍20万名を包囲した。包囲された第6軍は行動の自由を求め、チャンスをつかんで突破脱出しようとした。しかしヒトラーは死守を命じ、第6軍に空中補給を約束した。ドイツ空軍は可能な限りの航空機を集めて空中補給を行なおうと努力したが、冬の悪天候に阻まれて思うように進まず、輸送できたのは必要量の20%程度であった。空中補給に失敗したばかりでなく、この作戦で訓練と経験を積んだ多発機パイロット多数を失うことになり、回復不能の著しい戦力低下を招くことになってしまった。11月26日、ドイツ軍は部隊の再編成を行ない、マンシュタイン将軍を司令官とするドン軍集団を新設した。マンシュタインはソ連軍の攻撃を退けながら第6軍救援の準備を進め、12月10日、第4機甲軍がスターリングラードに向かった。「冬の突風作戦(冬の嵐作戦ヴィンターゲヴィッター作戦Unternehmen Wintergewitter)」である、ソ連軍も全力でこれに立ち向かった。12月23日、決死のドイツ軍はスターリングラードまで60kmに迫り、第6軍が同市から打って出れば救出は成功するところまで進んだ。しかし第6軍のパウルス将軍は燃料不足を理由に動かず、救援部隊もそれ以上は進めなかった。
この間にソ連軍はドン河の遥か下流からドイツ軍の補給拠点となっているロストフを目標とした攻勢を開始していた。ドイツA、B軍集団すべてを脅かす重大な脅威である。マンシュタインはスターリングラード救出をあきらめ、ロストフの防衛を優先した。ロストフは危険な状況にあったが、急遽かき集められた部隊の奮戦で、圧倒的なソ連軍をなんとか食い止めることができた。コーカサス方面でもソ連軍の反攻ははじまっており、ヒトラーも撤退を認めざるを得なかった。南方に対する大攻勢と同時に、ソ連軍は中央軍集団戦区でも攻勢に出た。11月19日、モスクワ北西のデミヤンスク突出部の南西にあるヴェルキエ・ルーキに対して3個師団で包囲攻撃を加え、次いで11月28日、デミヤンスクのドイツ軍第2軍団に対し、2個軍の攻撃をかけたのである。ヴェルキエ・ルーキのドイツ軍は空中補給で持ちこたたえていたが、この圧力は翌年のドイツ軍のデミヤンスクとルジェフからの撤退につながっていく。
枢軸側の態勢立て直し(1943年1月ー3月)
-スターリングラードで、あるいはガダルカナルで、枢軸側の攻勢は挫折した。しかしまだ戦争に負けたわけではなかった。枢軸側は防衛線を引き直し、新たな戦力を結集することで、態勢を立て直すことに希望をつないだ。連合軍の反撃を粉砕するチャンスもまだあるように思われたー
<ヨーロッパ戦線>●スターリングラードの結末
1月10日、ソ連軍はスターリングラード地区のドイツ第6軍に対して総攻撃をかけた。7個軍による猛攻は疲弊しきった第6軍を着実に撃破し、3週間後の2月3日、ドイツ軍の抵抗は終わった。ドイツは前年夏からこの幕切れまでに兵員100万名以上を犠牲にしており、戦車も年間生産量に等しい3000輌を失っていた。ソ連軍が巧みに後退して損害を出さなかったことを合わせて考えれば、この敗北の大きさは一層きわだったものになる。ヒトラーは「青作戦」の失敗を、攻撃初期に自分の命令に従わずヴォロネジ攻略に固執したボック将軍の責任であると考えた。そして、もっと早く自分がすべての権限を握っておけばこんなことにはならなかったと考えた。逆に将軍たちはヒトラーの干渉が悲劇をまねいたと考えていた。これまで利害の一致と度重なる勝利によって保たれてきた両者の協調は崩れ、溝は深まるばかりであった。
●マンシュタインの反撃
ドイツ軍にとってスターリングラード戦の終結は東部戦線の危機から一段落したことを意味しなかった。スターリンはコーカサスとドン河のドイツ軍を包囲殲滅しようとロストフの南へ楔を打ち込んできたからである。ドイツ軍もこの事態を理解し、スターリングラードの第6軍が抵抗を続け、ソ連7個軍を釘付けにしている間に、コーカサスの第1、第4機甲軍を速やかにロストフまで後退させることに成功していた。ロストフはこの戦区全体の補給輸送の要でもあった。またクリミア半島との連絡路となるクバニ河の橋頭堡も、ソ連軍の上陸作戦などを退けて固めることができた。スターリンの構想はさらに膨らみ、ドニエプル下流河畔に目標を定めていた。これが成功すれば、ドイツ軍の南翼のすべてを撃滅することができる。確かにドイツ軍は弱体化して薄く広く戦線を維持しているだけであった。しかしソ連軍とはいえども無限の力があるわけではなく、すでにかなり戦力を消耗していた。それでもスターリンは前線に進撃を強要した。ドイツ軍のチャンスがここにあった。ヒトラーがはるばるザポロジェの司令部にやってきた。マンシュタイン将軍は激論の末、ヒトラーから柔軟な機動戦を行なう承認を取りつけた。2月16日、ドイツ軍のホリト支援、ケンプ支隊はド二ェツ河とハリコフを放棄して大きく後退し、ソ連軍はこれに誘い込まれるようにノヴォロシスク、ザポロジェへ進撃した。ドイツ軍はマンシュタイン将軍の指揮の下、要所を確保しつつフランスからの増援部隊を加えて反撃準備を整えていた。そして2月19日、その罠をはじいた。ドニエプル河に接近していたソ連軍のポポフ機甲兵団およびソ連軍第6軍にドイツ第4機甲軍の2個軍団で襲いかかったのである。不意をつかれたソ連軍は蹂躙された。3月4日、ドイツ軍はその北で反撃の第2段階を開始。3月15日には第3次となる攻防戦でハリコフを奪回した上、ビエルゴロドからもソ連軍を駆逐することに成功した。そして3月末にはド二ェツ河の線までソ連軍を押し戻し、ドイツ軍はようやく一息付くことができた。
(4)、第四次ハリコフ攻防戦
1943年7月のドイツ軍ツィタデレ作戦は、連合軍のシチリア上陸と、ソ連軍のオリョール湾曲部への攻勢により、7月12日には中止となり、南部でも7月末までに、攻勢開始点まで押し戻されてしまった。8月には、アゾフ海沿岸までの南部全戦線で、ソ連軍の攻勢が始まった。 8月6日にはベルゴロドが陥落し、ハリコフも次第に包囲されつつあったので、マンシュタインもハリコフからの撤退に同意していたが、ヒトラーは、8月12日には、”いかなる状況でも、ハリコフを保持せよ"、との命令を出した。状況は絶望的になりつつあったが、8月21日に、マンシュタインは、ヒトラーの同意を取らずに、第8軍司令官ブェーラーに同意して撤退命令を出し、ドイツ軍は撤収を始めた。8月23日には、街は、最終的にソ連軍の手に戻った+Polskiポーランド語⇒Operacja biełgorodzko-charkowska – w operacji tej Armia Czerwona w czwartej bitwie o Charków ostatecznie wyzwala miasto.
<ヨーロッパ戦線>●ドイツの反撃計画(1943年4月ー6月)
南翼のドイツ軍はハリコフにおける勝利のあと、そのまま勝利を拡大したいと考えていた。クルスク地区に突出するソ連軍を中央軍集団と協力して包囲撃滅する作戦である。しかし中央軍集団のクルーゲ将軍は軍集団は消耗しており、攻撃する力がないと主張し、また泥濘の季節がやってきたため、作戦は中止せざるを得なかった。攻撃の開始時期は奇襲効果が期待できソ連軍が態勢を立て直す前、マンシュタイン将軍によれば遅くとも5月でなくてはならなかった。マンシュタイン将軍は5月に攻撃ができないなら作戦は中止すべきだと考えたが、ヒトラーはこれを進めることを命じた。ヒトラーは新戦力の整備が完了する6月半ばまでに反撃を延期し、予定が遅れるとさらに7月に延期した。新戦力とはグデーリアン将軍によって再建されていた機甲兵力で、新型の「ティガー」「パンター」戦車などを含んでいた。しかしその間ソ連軍は予備兵力を75%も増強し、ドイツ軍の攻撃力を消耗させる陣地を構築していた。もはや奇襲要素はまったくなかった。たとえ戦力が充分でなくともドイツ軍が5月までにクルスクに対する攻撃を行なっていれば、東部戦線の終幕を少なくとも1年は先に延ばすことができたであろうと言われている。
連合軍の攻勢(1943年7月ー9月)
ードイツは東部戦線において最後にして最大の取り返しのつかない失策を犯し、主戦力を喪失した。イタリアの脱落は最小限の影響で収拾したものの、前途に何の希望もなかった。太平洋でも日本が防衛準備を進めようとしていたが、すでに海上交通線が脅かされていたー

<ヨーロッパ戦線>●「ツィタデル(城塞)作戦」(ドイツ語: Unternehmen Zitadelle 英語:Operation Citadel)
ドイツ軍にとってクルスク突出部は東部戦線最大の脅威であった。そこにはソ連軍の40%が集中しており、機甲兵力に至ってはその大半が集められていた。しかしそれは逆に言えば、この戦力を撃破すればソ連軍に致命的な打撃を与え得ることも意味していた。ヒトラーはここに新編成の部隊、戦車・突撃砲3000輌、航空機1800機で奇襲攻撃をかけ、東部戦線に新しい展望をもたらそうとしていた。しかしそれはまったくはかない夢だった。ドイツ軍の秘密はソ連軍に筒抜けになっており、ソ連軍は強固な縦深陣地を構築して待ちかまえていた。その兵力も前線では増加していなかったが、予備ではドイツ軍がようやく築き上げた兵力を上回っていた。7月5日、攻撃を開始しようとしたクルスク北部のドイツ第9軍に、ソ連軍の砲撃が加えられた。不吉な前兆にもめげず前進を開始したドイツ機甲部隊は、たちまち対戦車砲で固められた縦深陣地に行く手を阻まれた。200mmの装甲を誇る重突撃砲「エレファント」を先頭に砲兵と空軍の支援を受けて進撃し、翌日までに約10km前進した時点で、すでに兵員2万5000名、戦車・突撃砲200輌、航空機200機を失っていた。今にも、ソ連軍戦線を突破できるかとドイツ第9軍はさらに強襲を続けたが、ついに1週間後、攻撃を中止し守勢に回らざるを得なくなってしまった。クルスク南部でも攻撃は7月5日から開始された。クルスクへ直接向かう経路にあるオボヤンに対する攻撃はとりわけ激しかった。SS機甲3師団を中核とするドイツ軍に、さすがのソ連軍陣地も次々と蹂躙され、危険を感じたソ連軍は対戦車砲部隊と機甲3師団を投入した。7月7日から8日にかけて行なわれたオボヤンをめぐる戦いに、ドイツ軍は兵員1万7000名、戦車・突撃砲230輌を失って敗退した。
ドイツ軍は攻撃目標を東よりに変更し、ブロホロフが戦いの焦点となった。7月12日、ソ連軍も最優秀の予備を繰り出し、史上最大の戦車戦が繰り広げられた。しかしドイツ軍はついに突破に失敗し、兵員1万名、戦車・突撃砲300輌を失った。ドイツ軍の攻撃力は大打撃を受けていたが。攻撃を指揮していたマンシュタイン将軍はこのまま攻撃を継続してソ連軍の予備を撃破しておくことを主張したが、西側連合国がシシリー島へ上陸したことから、翌3日「ツィタデル作戦」は中止された。
●ドニエプル渡河作戦
連合軍のシシリー島上陸に対応するため兵力を引き抜かれたドイツ軍は、一度に崩れた。ソ連軍はまず、クルスク北部のドイツ軍を攻撃した。8月5日にはオリョルを占領されたドイツ軍はブリヤンスクまで後退し、防衛線を敷いた。クルスクの南でもソ連軍の攻撃が続き、同じ8月5日にビエルゴロドが占領された。8月14日、第4次ハリコフ攻防戦が始まった。10日間に及ぶ戦いでドイツ軍は後退せざるを得なかった。その南ではド二ェツ河、ミウス河の線が次々と破られていった。ドイツ軍はドニエプル河を防衛線にしようと懸命に後退した。ソ連軍は9月の末までにアゾフ海からスモレンスクに至る長大な戦線で大きく前進していた。ザポロジェから北はドニエプル河東圧を制圧し、キエフの北では数ヶ所で渡河に成功していた。そこから北へソジ河が戦線となり、スモレンスクは9月25日にソ連軍のものとなっていた。7月から9月にかけて、ソ連空軍も活発に活動した。ゴメリ、オリョル、クルスク突出部の北西、ケルチ、タマン、センナヤなどに戦略的爆撃を行なっている。
日本とドイツの敵(第二次世界大戦全戦線ガイド)
日本とドイツは同盟を結んでいたが、連合軍間のように戦略の調整はほとんど行なわれなかった。基本的に日本はイギリスとアメリカを主たる敵と考えており、一方のドイツはソ連を敵と考えていた。そのため互いの戦略上の食い違いは非常に大きかった。ドイツはイギリス、アメリカとの戦いにはあまり積極的ではなく、唯一の征服目標はソ連とスラヴ人であった。ヒトラーは、12世紀から15世紀に行なわれたドイツ騎士団の「東方植民」を、現代に再現しようとしていたのである。それは神聖で誇りに満ちた進軍であった。それは、あるドイツ軍の一兵卒が塹壕で向き合う西側連合軍兵士に対して「一緒に戦う日を待っている」と語りかけていたことからも伺い知ることができる。こうした事実を日本は充分に認識していなかった。それに対して日本は、独ソ不可侵条約によって止むを得ず北進をあきらめ、日ソ中立条約を結ぶと南方へ向かった。これはソ連が独ソ不可侵条約を結んだ思惑どおりであった。日本は、ドイツがイギリスを倒さないままソ連と戦端を開いたことを憂慮した。ドイツがイギリスを完全に屈服させることが自らの戦略の前提にあったからである。日本は、ドイツのイギリスへの圧力が弱まることを恐れ、ドイツにソ連との和平を勧めさえした。しかし前述のような考えをもつドイツは、これに耳を貸すはずもなかった。むしろドイツは、日本が日ソ中立条約を破棄し、ソ連の後方を襲ってくれることの方を強く期待していた。1944年8月には、ドイツを信頼していた日本も戦争に勝ち目のないことを認め、外交による終戦の方向を模索し始めていた。同年9月、日本はソ連とドイツの講和を仲介しようと申し出るが、両国から拒絶される。ドイツはこの時点でもイギリス、アメリカと手を組んでソ連と戦うことを最後の望みとしていたし、ソ連も独ソ戦の勝利が確定し、東ヨーロッパの「解放」に着手したところであり、なおかつイギリス、アメリカの態度も鮮明なこの時期に、講和しなければならない理由は何もなかった。ドイツの降伏後、日本は日ソ中立条約によってソ連と戦争状態にないことにますます希望をつなぎ、ソ連が講和の仲介を引き受けてくれることを期待した。日本がソ連を攻撃しなかったおかげで、ソ連はドイツとの戦争に勝つことができたのだから、という考えもあったのかもしれない。しかしソ連が日ソ中立条約を結んだのは、当時予想されたドイツとの戦争のため、背後を固めたかったからにすぎなかった。日本がソ連と交渉を始めようと苦心しているころ、ソ連はアメリカ・イギリスと、日本攻撃の日取りを決めていた。
①(中略omission)方法として彼らはいずれもソ連を仲介として米英との和平をはかろうとするものであってAs a method, they all used the Soviet Union as an intermediary to reach peace with the United States and Great Britain、44年7月12日、天皇より近衛にソ連に特使として行くことが命ぜられるというところまで事がはこんでいるon July 12, 1944, the emperor ordered Konoe to go to the Soviet Union as a special envoy. ソ連が受け入れなかったために実現には至らなかったけれどAlthough it did not come true because the Soviet Union did not accept it、この時期にいたってソ連の好意を期待するがごときはat this time, it seems that Japan expects the Soviet Union's favor、これまで日本がソ連に対してとってきた態度に照らすならば、あまりにも非常識といわざる得ないin light of the attitude that Japan has taken toward the Soviet Union so far, it must be said that it is too insane.(家永三郎Saburo Ienaga)。
②(1944年6月、近衛文麿元首相との面談にてIn a meeting with former Prime Minister Fumimaro Konoe)「日本政府の方向は、露国を通じて講和談をすすめたい、といふにあるThe direction of the Japanese government is to promote peace talks through Russia」と聞き、「大反対」の意を示し、その理由としてhearing that, he expressed his "strong opposition", and the reason was「これまで日本は露国にたいして、なんの誠意をしめしたかWhat kind of sincerity has Japan shown to Russia so far?、あわよくば先方の困っている間に、シベリヤでも侵略したい心持でIf possible, you would like to invade Siberia while the other party is in trouble、現に東支鉄道は、無理無体の主張のもとに、到頭まきあげてしまったではないかIn fact, the Chinese Eastern Railway ended up robbing it based on unreasonable claims. しかるにいま、自分が困るからとてBut now, even if you are in trouble、露国の好意にすがりたいとて、こころよく承諾するものと期待するがごときは、愚にあらざれば、気違ひの沙汰なりif you want to cling to Russia's kindness and expect it to agree to it, then you are either foolish or insane」(Kango Koyama小山完吾 ( May 18 , 1875長野県出身 - July 23 , 1955 ) was a Japanese journalist active in the Meiji and Taisho eras衆議院House of Representatives議員)これが良識というものであろうThis would be common sense(家永三郎Saburo Ienaga『戦争責任War responsibility』)。
③ヒトラーの日本人観Hitlers Sicht auf die Japaner:「文化的には創造性を欠いた民族である」とし、日本語の発音を鵞鳥のようだと酷評している"Kulturell fehlt es an Kreativität" und kritisiert die japanische Aussprache als Vogel ・・・日本がドイツの最終的な敵国になるとの考えもしばしば口にしており、「近い将来、我々は東洋の覇者(日本)と対決しなければならない段階が来るだろう」とシュペーアたち側近に語っていたというエピソードがある Japan ist Deutschlands ultimativer Feind. Er spricht oft davon, dass es so sein wird, und es gibt eine Episode, die er sagte seinen Helfern zu Speer und anderen: „In naher Zukunft werden wir uns dem orientalischen Meister (Japan) stellen müssen.“・・・また「我々ドイツ人は日本人に親近感など抱いてはいない。日本人は生活様式も文化もあまりにも違和感が大きすぎるからだ」とも述べている"Wir Deutschen haben kein Gefühl von Intimität mit den Japanern, weil die Japaner sich damit zu unwohl fühlen ihren Lebensstil und ihre Kultur", sagte er.

ハルキウ(ウクライナ語: Харків ハールキウ、ハルキヴ)は、ウクライナ北東部の都市である。ハルキウ州の州都。日本ではハリコフ(ロシア語: Харьков ハーリカフ)の名でも知られる。人口は約145万人。人口ではキエフに次いでウクライナで2番目に大きな都市である+Українськаウクライナ語→Ха́рків (МФА: [ˈxɑrkiu̯] ( прослухати); заст. Харьків, лат. Zacharpolis) — місто на північному сході України на Слобожанщині, науковий центр України, адміністративний центр Харківської області. Друге за кількістю мешканців місто України з населенням 1 446 107 осіб. Площа міста — 370 км².


↑Adolf Hitler's last known public appearance, 20 March 19451945年3月20日、公けで最後の姿を現わしたヒトラー。
ベルリンの戦い(ベルリンのたたかい、 英語: Battle of Berlin)は、第二次世界大戦末期、1945年4月16日の赤軍のゼーロウ高地攻撃開始から、総統地下壕におけるヒトラーの自殺、国会議事堂の陥落、5月2日のドイツ国防軍のベルリン防衛軍司令官ヘルムート・ヴァイトリングの降伏に至るまで、ベルリン周辺で展開された赤軍とドイツ軍の戦闘のことである。Esperantoエスペラント語→La batalo de Berlino estis la lasta granda batalo en Eŭropo durante la Dua Mondmilito. Ĝi komenciĝis la 16an de aprilo 1945 post la komenco de granda ofensivo fare de la Sovetunio al la ĉefurbo de la Tria Regno, kaj finis la 2an de majo 1945, kiam la germanaj defendantoj kapitulacigis la urbon al la Ruĝa Armeo.
ドイツの降伏と沖縄戦(1945年4月―6月)
―壮大なベルリン攻防戦の末にヒトラーは自殺し、ヨーロッパの戦いは終わった。太平洋では、沖縄が戦場となり、日本本土の主要都市は焼け野原と化していた。東南アジアの各地でも日本軍の掃討は着々と進み、残る問題は戦争の完全終結への途だけであったー
<ヨーロッパ東部戦線>●ベルリン攻防戦
1945年4月12日、ベルリン・フィルハーモニー演奏会が開かれ、ワーグナーの『神々の黄昏』(Götterdämmerung)が演奏された。会場には暖房もなく、聴衆は寒さにふるえながら最後になるかもしれない音楽に聞き入っていた。その日、ヒトラーに希望の光が射した。ルーズヴェルト急死の知らせが入ったのである。しかしもちろん、それはドイツをとりまく情勢に何の変化ももたらさなかった。4月16日早朝、ソ連軍はレーニン生誕75周年を期して、オーデル河の戦線でベルリンを目差した攻勢を開始した。攻勢を開始したのは第1白ロシア戦線正面軍および第1ウクライナ戦線正面軍である。第2白ロシア戦線正面軍も4月20日から攻勢を開始し、ベルリンの北区域を脅かした。第1白ロシア戦線正面軍の最初の目標は、キュストリンからベルリンへ25kmの地点にあるゼーロウ高地であった。ドイツ軍の抵抗と複雑な地形のために、ゼーロウ高地は3日間持ちこたえた。しかしドイツ軍には兵力と弾薬と燃料に欠けておりそれ以上戦い続けることができなかった。第1ウクライナ戦線正面軍は南をライプチィッヒ、ドレスデン方向へ進撃していたが、第1白ロシア戦線正面軍がゼーロウ高地で苦戦していたため、スターリンは2個戦車軍をベルリン方面へ向かわせた。これは、ベルリンへの攻撃が2方向から行なわれることを意味し、そして南東の都市のドイツ軍の多くが包囲されることを意味した。そのころ北の第2白ロシア戦線正面軍は北と西に進出し、マントイフェル将軍のドイツ第3機甲軍を包囲しようとしていた。ヒトラー56歳の誕生日である4月20日が来ると、総統地下壕の中で祝宴が開かれた。ヒトラーはベルリンを脱出するようにという周囲のすすめを断わり、シュタイナー将軍にベルリンの南から反撃を行なうよう命令した。4月21日に第1白ロシア、第1ウクライナ戦線正面軍はそれぞれ北と南からベルリン郊外に進入した。そして3日後に、ベルリンの包囲を完了した。ドイツ軍が支配している廃墟同然のベルリン市街は、今や東西に16km、南北5kmの広さしかなかった。シュタイナー将軍の部隊は動けず、ヒトラーはベルリンで死ぬことを決意した。最後の攻撃は26日に始まった。ソ連軍は突入にあたり、ベルリン市街の精巧な模型を造り作戦を練った。大混戦に見えた市街戦も、総統地下壕に向けて包囲網をせばめていく綿密な作戦に基づいていたのである。4月29日までにソ連軍が2ヶ所以上で市街を分断し、国会議事堂に迫っていた。国会議事堂では白兵戦が展開され、30日遅くにソ連軍がこれを制圧。ソ連軍は総統地下壕へ300m足らずにまで接近していた。だがヒトラーは4月30日午後3時30分、すでに自殺していた。そのときからドイツの中心はシュレスヴィッヒ・ホルスタインのフレンズベルグとなった。5月2日にベルリン防衛の司令官ヴァンドリンクは降伏し、ベルリン攻防戦は終わった。ソ連軍は10万名の兵力を失い、圧倒的に優勢な割には苦戦した。ソ連軍の略奪や暴行が、ドイツ兵に決死の戦いを覚悟させたことがその理由であった。そもそもソ連軍に降伏した後のことを考えれば、死ぬまで戦うのはドイツ兵にとって当然のことであったのかもしれない。

ベルリン(独: Berlin ドイツ語発音: [bɛɐ̯ˈliːn] 、伯林)は、ドイツ北東部、ベルリン・ブランデンブルク大都市圏地域の中心に位置する都市である。16ある連邦州のうちの一つで、市域人口は360万人とドイツでは最大の都市で、同国の首都と定められている。
柏林(德語:Berlin,德语发音:[bɛɐ̯ˈliːn]  聆聽)是德国首都,也是德国最大的城市,现有居民约340万人。柏林位于德国东北部,四面被勃兰登堡州环绕,施普雷河和哈弗尔河流经该市。柏林也是德国十六个联邦州之一,和汉堡、不来梅同为德国僅有的三個城市州。
●東ヨーロッパの終戦
4月6日、ソ連軍はウィーンに入り、4日間の激しい戦闘の後にこれを占領した。ドイツ第6SS機甲軍は背後に押さえられた形になったが、西方への脱出に成功し、アメリカ軍に降伏することができた。このとき軍司令官ゼップディートリッヒは「戦車が6輌だけあるので第6SS機甲軍と言います」とコメントしたと言う。第2ウクライナ戦線正面軍はチェコスロヴァキアのプラハを目標とし、進撃方向を北に転じていた。この動きはドイツ中央軍集団に向かうことになった。同軍集団はソ連のオーデル河に向かう攻撃で南に押しやられていたが、まだ戦力を維持していた。5月8日に、第2ウクライナ戦線正面軍は東と北から攻撃し、ドイツ中央軍集団はプラハの北東で包囲された。ソ連軍がプラハに近づいた5月5日、パルチザンが蜂起してドイツの通信を攪乱し、5月9日に都市の解放を援助した。シェールナー将軍は5月11日まで降伏することを拒否していたが、アメリカ軍がチェコスロヴァキアとウィーンに接近しているという状態では、もうどこにも行くところがなかった。シェールナー将軍のドイツ中央軍集団降伏が、ヨーロッパの戦争の最後の行為となった。
●ドイツの降伏
4月30日にヒトラーが自殺すると、ドイツ海軍総司令官であったデーニッツ提督が新総統となった。5月3日、デーニッツ総統は代理のフリーデブルク提督をハンブルグの南東にあったモンゴメリー将軍の司令部に送った。ドイツ側は条件つきの停戦を望んだが、モンゴメリーは北部ドイツの全ドイツ軍の無条件降伏を要求した。デーニッツ総統はこれを受け入れ、5月5日から北ドイツは休戦状態に入った。フリーデブルク提督は次にライムにあったアイゼンハワー司令部へ赴き、西側連合軍だけへの降伏を交渉した。ドイツのヨードル将軍も加わって説得にあたったが、アイゼンハワー将軍は政治的な考慮からソ連軍と対峙している部隊も含めて、全ドイツ軍の無条件降伏を強く要求した。降伏は5月7日に署名され、9日、真夜中1分過ぎから発効することになった。

①ライヒスタークの赤旗(Raising a flag over the Reichstag)Знамя Победы над рейхстагом/ライヒスタークの勝利の旗/Victory Banner over the Reichstagは、第二次世界大戦のベルリン攻防戦において、1945年5月2日にЄвген Анатольєвич Халдейエフゲニー・ハルデイYevgeny Ananyevich Khaldeiによって撮影された歴史的な写真であり、ソビエト赤軍兵がソビエト連邦の国旗をドイツ国会議事堂(ライヒスターク)の頂上に掲げたものである。この写真は数千の出版物に掲載され大きな人気を博し、第二次大戦の最も重要な写真の一つとして世界中に認知されるようになった②ソビエト社会主義共和国連邦国歌Государственный гимн Союз Советских Социалистических Республикソヴィエト連邦国歌 (1977年制定)Гимн Советского Союза

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