日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Төвөдийн Буддын шашин⇔チベット仏教思想=上座部佛教(梵)महायान Māhāyāna⇔小乘(梵)हीनयान Hīnayāna

ロシア語⇒Фумихиро Дзёю (яп. 上祐史浩 Дзё:ю: Фумихиро, род. 17 сентября 1962 года) выполнял функции менеджера по связям с общественностью японской религиозной группы Аум Синрикё. Является фактическим главой организации с 1999 года, ныне называющейся «Алеф»[ja].조유 후미히로(上祐 史浩, 1962년 12월 17일 ~ )는 옴진리교의 대변인이었으며, 1999년부터 2007년까지는 알레프로 개칭한 옴진리교의 사실상 지도자였다. 2007년 5월 7일에는 알레프에서 독립해 빛의 고리를 설립했다.알레프(일본어: Aleph(あれふ)は、2000年2月4日に発足した宗教団体。オウム真理教からアレフと改称して発足し、2003年2月にアーレフに改称、さらに、2008年5月にはAlephに改称した。なお日本国内では、宗教法人として認証をされていない。アレフ 아레후[*])는 일본의 신흥 종교 단체로, 잔류한 옴진리교 신도들이 주축이 되어 조유 후미히로를 중심으로 2003년 결성하였다. 옴진리교의 초대 교주였던 아사하라 쇼코의 폭력성 거부를 내세우며 1995년 도쿄 지하철 사린 사건을 일으킨 옴진리교와는 무관한 종교임을 주장하고 있으나, 일반에는 받아들여지고 있지 않다. 본부는 도쿄도 세타가야 구 미나미카라스야마의 맨션에 위치하고 있으며, 공안당국에 의해 철저한 감시가 이루어지고 있다. エストニア語⇒麻原彰晃=Shōkō Asahara (jap. 麻原 彰晃, syntyjään 松本 智津夫, s. 2. maaliskuuta 1955) on japanilaisen Korkein totuus (nykyisin Aleph) -kultin perustaja. Asahara on tuomittu kuolemaan sariinikaasuhyökkäyksestä Tokion metroon, jossa kuoli 12 ihmistä.[1]Asahara syntyi köyhään tatamimatonkutojan perheeseen Yatsushirossa Kumamoton prefektuurissa Kyūshūn-saarella Etelä-Japanissa. Synnynnäisen glaukooman vuoksi hänen toinen silmänsä on sokea ja toisessa on vain osittainen näkö. Asahara kävi sokeiden koulua, ei päässyt yliopistoon vaan alkoi opiskella kiinalaista lääketiedettä, josta siirtyi new age -filosofiaan. Vuonna 1987 hän kävi pyhiinvaelluksella Himalajalla, jonka jälkeen perusti Korkeimman totuuden. Hän väittää olevansa uudelleen syntynyt Shiva-jumala ja lupaa seuraajilleen pelastuksen tulevan harmageddonin jälkeen. Hän opetti levitaatiota ja telepatiaa, ja hänellä oli ajoittain 10 000 seuraajaa, jotka joivat hänen kylpyvettään ja vertaan. Korkein totuus saavutti maailmanlaajuista huomiota päästettyään sariinia Tokion metroon 20. maaliskuuta 1995. Tutkimuksissa selvisi, että ryhmä oli käyttänyt kaasua jo edellisenä vuonna seitsemän ihmistä tappaneessa hyökkäyksessä ja että CIA oli tutkinut sen yrityksiä hankkia ydinaseita.Asahara pidätettiin toukokuussa 1995 lahkon päämajasta Fujin läheltä. Oikeudenkäynti kesti pitkän aikaa, koska Asahara ei suostunut puhumaan joitain epäselviä lauseita lukuun ottamatta. Hänet tuomittiin kuolemaan helmikuussa 2004. Korkein oikeus hylkäsi vetoomuksen tuomion muutoksesta syyskuussa 2006. Tällä välin yhteensä 11 kultin johtohahmoa tuomittiin kuolemaan. 나카자와 신이치(일본어: 中沢新一なかざわしんいち, 1950년 5월 28일 ~ )은 일본 야마나시현 출신의 사상가, 종교학자, 인류학자이다.인물아버지는 시의회 의원이자 공산당원이며, 재야 민속학자이기도 한 나카자와 아쓰시(中沢厚)이다. 나카자와 가는 증조부인 도쿠베에(徳兵衛)가 고후(甲府) 구사카베 교회(日下部教会)를 중심으로 크리스트 교를 포교함녀서 민속 연구를 하던 야마나카 교코(山中共古)와 함께 세례를 받고, 자신도 민속 연구를 하였다. 조부 나카자와 기이치(中沢毅一)는 증조부 도쿠베에와 함께 세례를 받은 사람의 딸과 결혼하여, 마찬가지로 크리스트 교 신자로서 고후 제일고등학교(第一高等学校 (旧制)) 교수로 재직했던 생물학자이다. 숙부인 아버지 나카자와 모리토(中沢護人)은 공산당원으로 활동하는 한편 민속연구도 진행하여, 아버지 아쓰시등은 모리토의 영향으로 공산당원이 되었다.일본사학자 아마노 게이히코(網野善彦)가 고모부이며, 작가 세리자와 고지로(芹沢光治良)와도 친척 관계이다. 부인은 번역가 야마구치 게이코(川口恵子)이다. 약력 도쿄 대학 대학원 인문과학연구과정에 입학한 뒤, 네팔로 건너가 티베트 불교의 닝마 파의 수행을 경험하였다[1]. 귀국 후, 네팔에서의 경험을 토대로 1983년 《티베트와 모차르트(チベットのモーツァルト, 세리카 쇼보 (せりか書房))》를 발표하고, 티베트의 《사자의 서》를 소개하였다(《삼만년의 죽음의 가르침-티베트 사자의 서의 세계(三万年の死の教え―チベット『死者の書』の世界)》, 가쿠가와 쇼텐(角川書店)). 《티베트와 모차르트》는 같은 해 아사다 아키라(浅田彰)가 발표한 《구조와 힘-기호론을 넘어서(構造と力-記号論を超えて-)》와 함께 주목받아 뉴 아카데미즘 붐의 일익을 담당했다. 1988년, 당시 도쿄 대학 교양학부 교수로 재직하던 니시베 스스무(西部邁)에 의해, 같은 학부 사회학과 조교수에 추천받았지만 교수회의(教授会)에서 이례적으로 부결되었다. 니시베는 교수회의에 항의하며 사임. 소위 도쿄 대학 고마바 소동(東大駒場騒動, 고마바는 도쿄 대학 교양학부가 소재하고 있는 지역의 이름), 나카자와 사건 등으로 보도되어 화제가 되었다. 옴 진리교에 종교학적인 입장으로 맞붙어, 교단을 옹호하는 입장으로 발언을 했으나[2], 도쿄 지하철 사린 사건으로 발각되어 언론으로부터 비판을 받아, 이 사건에 대한 코멘트에 대해서도 비판을 받았다[3]. 시마다 히로미(島田裕巳)[4], 도마베치 히데토(苫米地英人)[5]등이 나카자와를 비판하는 저작을 발표하였다. 2006년 이래 다마 미술대학(多摩美術大学) 미술학부 예술학과(芸術学科) 교수 겸 예술인류학연구소(芸術人類学研究所) 소장으로 재임하고 있다.
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チベット仏教思想の講義ノート:火曜日5講時目「チベット仏教思想A」
吐蕃(古代チベット帝国)と仏教
6世紀半ば頃チベット全域に覇権を成立させたヤルルン王ソンツェンガムポは四川やカム地方の勢力をも併合して、7世紀には官位十二階の制度を設けてチベットの全領土をこの法律制度に組み込むことに成功した。ヤルルン王家に至る前史や吐蕃の歴史に関しては、佐藤長『古代チベット史研究』(1958)、山口瑞鳳『吐蕃王国成立史の研究』(1983)に詳しい。ニャクティツェンポからティグムツェンポまでの七代(神話時代)は権威付けの為の後代の付加である。ニャクティツェンポは初めて地上に降りた神と言われるが、地上に降りはしたが頭にdBu/ dMuの綱があったとされる。おそらくこれはこれらの王の墓が存在しないことの理由付けのための話しであろう。実際にはディグムツェンポから人間としての歴史がはじまる。ディグムツェンポ王は悪臣のロガムタジによって殺害されるが、ナナム王達が犬を使って仇をうつ。スプ家のダルラケーが遺児を探し出して王に擁立、王はスプデグンギェルと改名、ヤルルンにユンブラカン城を造営、ヤルルンに本家を構えコンポに分家を置く。隋の文帝は複数のハーンが支配している突厥の弱点を衝いて遠交近攻の戦略で突厥を分断して勢力をなくした。しかし2代目の皇帝は高句麗を屈服させることに執着しすぎて国力を疲弊させて隋を滅亡に導く。隋の末期には河北の族長たちが突厥のハーンたちに援助を求めて臣従し、混乱を増幅した。その結果突厥を再び強大化させてしまった。唐が統一を達成した後は再度突厥に内紛を誘発させて国力を削いで壊滅させた。次に先ず新羅と同盟して百済を滅ぼし(660)、高句麗を孤立させて高句麗を滅ぼす(668)。この後、吐蕃が勢力を伸ばして吐蕃と唐との間で戦争(670/ 678/ 689/ 696)が起こる。いずれも唐が大敗するが、これを見て他の隣接地域でも新羅や突厥や渤海など周辺諸国が唐の支配から脱していく。682年には再度突厥が復興し696年には契丹が唐に反乱する。698年には渤海が建国。唐は突厥と吐蕃とを何とか対立させて牽制しようとするが吐蕃のほうも外交努力をして唐に対抗する。751年には南方で南詔に、北方では契丹に、西方では大食に大敗してその結果南詔と吐蕃は極めて近い関係になる。内陸部で大きな支配を確立したソンツェンガムポ王は、大唐国に使者を送り、公主の降嫁を要請した。吐谷渾の攻防の末にようやく王子グンソングンツェン(638-643在位)の妃として有名な文成公主が迎えられた(641)。唐とはその後も攻防が続いた。マンルンマンツェン王(在位 649-676)期に第一次唐吐蕃戦争(670)。ティドウーソン王(在位 676-704戦死)期には、第二次唐吐蕃戦争(677-678)及び第三次唐吐蕃戦(687-696)があった。和平の道も探られ、その動きのなかでティデツクツェン王(在位 704-754暗殺)に新たな公主である金城公主が8世紀(710)に迎えられた。55年の安史の乱の混乱に乗じて吐蕃は首都長安を一時占領するなど徐々に勢力を伸ばしていく。北方では突厥と交代するような形でウイグルが勃興する。何度かの和睦条約を挟んで786年には敦煌周辺まで吐蕃は勢力を伸ばして占領する。その後数十年(約60年)は敦煌は吐蕃の衛星都市となる。行政上は占領した沙州(敦煌)・瓜州・粛州・甘州・涼州・蘭州などの地域をデカム bDe khams (幸福国)と名付けた。西域南道のコータンも吐蕃の支配下であった。ティデツクツェン王に嫁いだ金城公主は熱心な仏教信者であったと伝えられる。この時期に中国浄衆寺系の禅宗がチベットへ伝えられる。やがて8世紀中頃(754)に即位したティソンデツェン王の頃になると仏教を国教にする決意をした王によってインド系の仏教も移入され、ナーランダー僧院の長老シャーンタラクシタや後に古派密教の祖と仰がれるパドマサンバヴァが招かれた。8世紀の末にはサムイェー僧院が創建され、6人のチベット人が具足戒を受けてサンガ(僧団)が発足したと伝えられる。そして敦煌の陥落の後、敦煌にいた禅僧摩訶衍(まかえん)がチベット本土に招かれて一時中国系の禅の教えが広まったが、彼らの説く無念無想は一面で反世俗倫理という側面を持っていたので、王はインドから学僧カマラシーラを招き、摩訶衍の教えを論破せしめた。後代の仏教史の記述では「サムエの宗論」と名付けられるが、実際に論争が行なわれたかどうかは不明である。前述したように、敦煌は786年から848年まで約60年間チベットつまり吐蕃の支配をうけた。多くの漢人僧やチベット僧が活躍しチベット文化が栄え漢文からチベット語への翻訳事業も敦煌を舞台に進められている。チベット本土ではインドから招いたインド人学者の助けを受けながらサンスクリット語からチベット語への経典翻訳事業も行なわれ多くの仏教文献が翻訳されそれらは蓄積されていった。仏教伝来の時期は日本の場合とチベットの場合ではほぼ同時期ではあるが、伝わった経論典への態度は日本とは大きく違う。チベットでは自国語に翻訳しようとしたのである。後にサムエ僧院のリンルク(僧院長)となったバ・サンシrBa Sang shi(出家した後はペルヤンdPal dbyangs)は750年代と760年代に2回唐に留学していて、漢訳の仏典を携えて帰国している。インドに留学したバ・セルナンrBa gSal snang(出家した後はイェシェワンポYe shes dbang po、彼もサムエ僧院のリンルクになっている)は前述したシャーンタラクシタなどの碩学をインドから招聘したのもバ・セルナンである。。インドからも中国からも学僧が招聘されサンスクリットの学習や漢字仏典の学習も始められた。翻訳活動の為の専門官も養成され、翻訳が開始されたが、訳語の統一を目的としてティデソンツェン王の時に『語合』の編纂が命じられた。『語合』は仏教用語の語義解釈集である。ティツクデツェン(レルパチェン)王の時代には翻訳語を規定統一するための辞書『翻訳名義大集(マハーヴュットパッティ)』が編纂された。語彙的には『語合』の約23倍の語彙を『翻訳名義大集』は持つ。その辞書を使ってそれまでにすでに翻訳されていた仏典も訳語訂正されていった。翻訳された仏教文献の経典目録として有名なのは『デンカルマ目録』『パンタンマ目録』『チンプマ目録』などがある。大翻訳官イェシェデによって大乗経典や唯識部論典など翻訳が行なわれ、ルイゲンツェンによって戒律部と律疏部や中観部が、ペルツェクなどによって阿毘達磨部や因明部が翻訳されていった。翻訳に際しては必ずインド人のパンディタとの共訳という形を採り万全を期している。一方王政のほうは外戚関係が激しい権力闘争を生んでいく。ティソンデツェン王は795年サムイェ本堂の二階の吐蕃政府執務室で宰相のナナムラナンと国政の密議をしていた。入室を強行しようとするツェポン氏の王妃の子であるムルクツェンポが護衛をしていた宰相の子を殺害した。父王は退位、ムルクは遠地に追放される。ムネツェンポが継承したが毒殺される。ムルクが登位の為に帰国するときナナム氏によって殺され最終的に三男のムティクツェンポが王となりティデソンツェン王と称した。ティデソンツェンには3人の男子(長男ツァンマ、次男ティツクデツェン、三男タルマウイドウムテン)がいたが、王位を継いだのは次男のティツクデツェン(在位は815-841)で彼は別名レルパチェン(有髪の僧侶)とも呼ばれる。その名のようにこの王も仏教保護に努めた。オンチャンドの大僧院を建設したと伝えられるが、国家の経済は次第に衰退していったようだ。彼は武将向きの人格ではなかったようで最後は心の病で死亡したと伝えられる。次に王位を継承したダルマ王を最後としてこの吐蕃の統一国家は分裂への道を歩むことになる。すなわち同じ年に生まれたダルマ王の二人の王子ウスンとユムテンをそれぞれ独自に擁立する怨敵のツェポン氏とナナム氏の争いがこの分裂を引き起こしたのである。タルマウイドウムテン王はバー氏の人物によって暗殺される。吐蕃王国の分裂からダライラマ政権が確立されるまでの長い間、チベットには全国を統一した政権は存在しなかった。ウスン王系の勢力は10世紀には西チベットに移動してグゲ地方に小王国を築くことになる。この勢力は今日のガーリ地区全域すなわちラダックの方面にまで力を伸ばし経済的にも安定を見せた後に、再度仏教を保護した。リンチェンサンポの留学やトリン僧院の創建そしてアティーシャの招請等様々な保護政策を実施したのである。やがて戒律復興の運動や僧団の創設等の動きは西チベットのみならず中央チベットにも拡がっていった。ウスン王系の傍流は現在の青海地方に君臨して青唐王国と称して交易で栄えた。ここでも仏教信仰は継承存続していたと考えられている。11世紀末になると様々な氏族がこれらの僧団の施主となってそれに纏わる利権を得ようとした。古代においては国家を統一させるひとつの規範としての核を外来の仏教という宗教に求めていたのに対して、この頃になると地主集団が経済的な地盤の一つとして仏教教団と関係しそれを再興へと導いていったのである。このような動きの中で特定の地主集団を施主としたいわゆる宗派が成立していくことになる。
カダム bKa' gdams 派
アティーシャ Atisha (982-1054) が著した『菩提道灯論 (ラムドゥン) 』はタントラ仏教を含む全仏教を菩薩の実践という観点から纏めあげた名著である。アティーシャはベンガル出身の学僧でナーランダー僧院で修行し、チベットから招かれた時にはヴィクラマシーラ僧院の座主をつとめていたと伝えられる。『菩提道灯論 (ラムドゥン) 』を起源としてアティーシャの弟子達が教団を形成した。一般にカダム派の派祖とされるのはドムトゥン 'Brom ston (1005-1064) である。ドムトゥンはインドに帰国しようとしていたアティーシャを引き止め中央チベットへ招き、各地で講苑を開きながら翻訳など師の布教伝道活動を助けた。アティーシャの没後、彼はラデン Rwa sgreng の僧院を 1056 年に創建して、その弟子達の内から実践的タントラ行者の集団である「カダム教誡 bKa' gdams gdams ngag派」と顕教主義の「カダム教説 bKa' gdams gzhung 派」とが生じたと伝えられる。教説派には有名なポトワ Po to ba (1031-1105) やシャルワパ Shar ba pa (1070-1141) がいる。この派では「カーダム六宗典」と呼ばれる『大乗荘厳経論(Sutralamkara)』『菩薩地(Bodhisattvabhumi)』『大乗集菩薩学論(Siksasamuccaya)』『菩提行経(Bodhisattvacaryavatara)』『菩薩本生鬘論(Jatakamala)』『法集要頌経(Udanavarga)』の講説が盛んであった。シャルワパの弟子のトゥムトゥンgTum ston (1106-1166)はもともとは律師であったが師の遺命で比丘僧伽の寺ナルタン僧院を1153年に建立した。ナルタン僧院は数々の碩学を排出したがその中でもチム一切智者mChims Nam mKha’gragsやチョムデンリクレルbChom ldan Rig ralが有名である。アティーシャの直接の弟子であったゴク・レクペーシェーラプ rNgog Legs pa'i shes rab はサンプ gSang phuの僧院を 1073 年に創建して「弥勒の五法」や『量決択』を中心とした顕教学の大学問僧院を作りあげたが、その系列に属する者たちは「カダム秘訣 bKa' gdams man ngag派」と呼称される。この派にはゴク・ロデンシェーラプ rNgog Blo ldan shes rab (1059-1109)やチャパ・チューキセンゲ Phywa pa Chos kyi seng ge (1109-1169)がいる。カダム派は後に述べるゲルク派 (新カダム派とも呼ばれる) に吸収される形をとる。
カギュ bKa' brgyud 派 (カルマ派・パクモドゥ派)
カギュ派と総称される宗派には当初から二つの系統があった。一つはキュンポ Khyung po (990-1039) を祖とするシャンパ・カーギュ派と、マルパ Mar pa (1012-1097) を祖とするマルパ・カーギュ派とである。両者ともインドに留学してマイトリーパ Maitri paやナーローパ Naro paに師事して無上ヨーガのタントラの数々を学んでチベットに伝えたのである。マルパがナーローパから受けたタントラ技法は「ナーローの六法」という名前で伝わっている。六法とは(1)チャンダーリーの火 (2)幻身 (3)夢 (4)中有 (5)光明 (6)ポワである。マルパの弟子には有名なミラレパ Mi la ras pa (1040-1123) がいる。ミラレパは宗教詩人としても有名で、彼が自伝風に綴った歌謡集の『十万歌謡グルブム mGur 'bum』はチベットの代表的な文学であり、手を顔の横にかざして朗々と即興詩を歌っている彼の姿を描いた絵画はチベット人が最も好む画題でもある。ミラレパの重要な弟子にガムポパ sGam po pa (1079-1153) がいる。彼はカダム派との関係が強く、それまでのカギュ派が山中での個人的な修行を伝えていたのに対して、ガムポパ以降は僧院で弟子を要請する大きな教団となった。 ガムポパはミラレパから受け継いだタントラ仏教の行法で得た宗教体験を中観仏教の空の哲学で解説する『ラムリムタルゲン』を著して顕教と密教との合一を目指した。ガムポパには数々の弟子がいたが、その中の一人であるドゥスム・キェンパ Dus gsum mkhyen pa (1110-1193) からは支派のカルマ Karma派が成立した。カルマ派にはやがて黒帽派や赤帽派など多くの活仏系譜がある。そもそも転世系譜で継承がなされていく方式はドゥスム・キェンパの後継者のカルマパクシ(1204-1283)からである。カルマパクシが2世カルマパと看做された。カルマパクシはカルマ派中心寺院のツルプ僧院を建立した。黒帽派の祖師の中には有名な3世ランチュン・ドルジェ Rang byung rdo rje (1284-1339) 、4世ルルペー・ドルジェRol pa'i rdo rje (1340-1383)、5世テシン・シェクパ De bzhin gshegs pa (1384-1415) や、8世ミキュー・ドルジェ Mi bskyod rdo rje (1507-1554)などがいる。またガンポパの別の弟子のパクモドゥパ Phag mo gru pa (1110-1170) からはパクモドゥ派が成立した。両者とも強大な支持氏族を得て勢力をのばして、やがて大きな政治勢力にも発展した。また支派の中には後にブータンやラダックに大きな勢力を作ったドゥク派もある。
ニンマ rNying ma 派
前伝期にインドから招かれた密教行者であるパドマサムバヴァによって伝えられた、密教を主とした宗派である。前伝期に翻訳された『古タントラ全集(ニンマギューブム)』を基本的な経典としている。ニンマという言葉は「古い」という意味である。修行法として有名なのはゾクチェンと呼ばれる行法である。文字通りには「大いなる完成」という意味だが、他の宗派が中観の空の思想を哲学的な基礎としてそれを覚る手段として密教を位置づけるのとは違って、中観思想を使わずに直接さとりへ至る方法が説かれることが特徴である。師からの直接的な指導を重視している。ニンマ派では経典の伝わり方を「遠伝仏説リンギュカ―マ」と「近伝埋蔵ニェンギュテルマ」の二種あると看做す。前述の『古タントラ全集』に収録される経典類は吐蕃時代に翻訳されたと言われるが、他の宗派の学者はそれを仏説とは看做さず偽経として無視した。ニンマ派ではそれらを仏説と考え、またそれらとは別に地中に埋蔵されたものを啓示によって聖者が掘り出した埋蔵経典を信奉する。ニンマ派では仏教全体を九乗に分けて説明する。先ず共通の三乗として声聞乗・縁覚乗・菩薩乗、外の三乗としてクリア乗(所作タントラにあたる)ウパ乗(行タントラにあたる)ヨーガ乗(瑜伽タントラにあたる)、そして内の三乗(無上ヨーガタントラ)としてマハーヨーガ乗(父タントラにあたる)アヌヨーガ乗(母タントラにあたる)アティヨーガ乗(不二タントラにあたる)である。最後のアティヨーガ乗は細分され、心部(セムデ)界部(ロンデ)秘訣部(メンガクデ)に分けられる。しかし、これらの九乗を超えたたところにゾクチェンの境地があると説明する。師の導きによってハラリと覚り、自分の中に本質的に備わっている明知に目覚めると考えるのである。このような考え方には中国系の禅の影響の存在が知られている。吐蕃時代に禁教とされた無上ヨーガタントラと同じく禁教とされた中国禅は表面的には布教されなくなったが、依然として一定の人気を保ち伝承は続けられていた。その両者が結びつき独自の発展をとげたものと考えられている。ニンマ派の教義を体系化し整理したのはロンチェンラプジャムパ Klong chen rab 'byams pa (1308-1363)である。最初カダム派のサンプ僧院で修行を初め29歳で生涯の師クマーララージャに出会いゾクチェンの教えを伝授されたという。ロンチェンラプジャムパには七冊の著述があり「七蔵」と呼ばれている。
サキャ Sa skya 派
サキャ派はクン 'Khon氏のクンチョク・ギェルポ dKon mchog rgyal po (1034-1102)が在家の密教道場としてサキャ(「白い土地」という意味の地名)に創建したサキャ寺を本拠とする宗派である。彼らは妻帯して後継者を設けていた。この宗派では『ヘーヴァジラ(呼金剛)・タントラ』を所依とするが、この宗派独自の教義である「道果(lam 'bras)説」でも有名である。これはヴィルーパ流の密教がドクミ翻訳官を通じて伝えられたものを基とする。この派の祖師としては、クンガ・ニンポ Kun dga' snying po (1092-1158) 、ソナム・ツェモ bSod nams rtse mo (1142-1182)、タクパ・ギェルツェン Grags pa rgyal mtshan (1147-1216)、サキャ・パンディタ Sa skya pandita (1182-1251)、ドゴン・パクパ 'Gro mgon 'Phags pa (1235-1280)の最初の五人の祖師が特に重要視される。その中サキャ・パンディタは密教だけでなく顕教の学問でその後のチベット仏教の発展に大きな功績を残した。特に論理学の伝統ではカダム派で研究されてきた論理学と対抗して『論理の宝庫(リクテル)』を著し認識の仕組みの新たな解釈を展開した。この方面の後継者としてコラムパ Go rams pa(1429-1489)やシャーキャチョクデンShakya mchog ldan (1428-1507) そしてロウオケンチェン Glo bo mkhan chen (1456-1532) などが研究を進め、他宗の認識論学者たちと論争を繰り広げることとなる。彼ら顕教の伝統を伝承した学問僧たちを新サキャ派と呼ぶことがある。例えばレンダワ Red mda' ba (1349-1412)はプラーサンギカの中観研究に秀でた人物で後にゲルク派の派祖と仰がれるツォンカパに重大な影響を与えた。しかしツォンカパやツォンカパの弟子達と新サキャ派の論師たちとは様々な研究課題で激しく対立して論争を行なった。サキャパンディタはまた、中観派の祖ナーガルジュナの『王への手紙』の形式に憧れ、一般人の為に仏教用語を使わずに仏教思想を説いた格言集『サキャレクシェ(サキャ格言集』を著した。この書はモンゴルの王達に感銘を与え、後に述べるように、モンゴル族の仏教帰入に大きな役割を果たした。13世紀以降モンゴル系の軍事勢力が台頭してくるとサキャ派と結び付いたクン氏が重要な役目を果たすことになる。軍事的には無力であったチベットの諸氏族はサキャパンディタを交渉の代表に据えてかろうじて持ち堪えた。さらにサキャパンディタがモンゴルの地に同行させた彼の甥のパクパ 'Phags pa (1235-1280)は、後に元朝の帝師となってクビライのチベット支配を代行したのである。このサキャ派すなわちクン氏による支配は元朝が滅びる直前まで続く。
クビライと大元ウルス
サキャパンディタが接触したコデンの兄でモンゴル帝国の皇帝であったグユクの没後皇帝位はグユクの従兄弟のモンケに移る。新たな皇帝モンケに近づいたチベットの宗派はカルマカーギュ派やディクン派であった。モンケはカルマパクシ(1204-1283)を1255年に招聘している。カルマパクシは「 bla ma rgya bo ひげのラマ」と呼ばれていた。アリクブゲに近付いていたのはさらにまた別の宗派(タクルン派)であった。1253年パクパはクビライに招聘される。引き合わせたのはコデンの子のモンゲデュであったという。やがてクビライの王妃であったゼーマサンモの信仰をパクパは受けるようになる。クビライが実権を握るようになるとパクパがチべットの統治代行者に任命されチベットは公式にはサキャ派が主導することになる。パクパは国師に任命され、モンゴル帝国の公式文字を作るようにクビライに命じられパクパ文字を考案するが、やがてこの文字は使用されなくなる。モンケの後、大ハーン位は正式のクリルタイでは末子のアリクブゲに移るが、兄にあたるクビライも一方的に大ハーン即位を宣言(1260)する。従って第五代大ハーンは二人いることになる。大きな力をイラン方面に持っていたクビライの弟のフレグは1267年にはパクモドゥ派に帰依して政治的支持も約束している。
モンゴルと高麗
1231年からモンゴル軍が高麗に侵入する。当時は王朝は力がなく武家政治が行なわれていて、その軍事政権は江華島に政府を移して抵抗したが、 1258年には倒れる。この間に多数の高麗人が満州地区に連れ去られる。王朝のほうでは太子であった王典(元宗王)が派遣され北京の郊外でクビライに会い、高麗王としてモンゴル軍を受け入れることを約束する。その息子の忠烈王はクビライの皇女のクトルグ・ケルミショーと結婚して、長男のイジル・ブハ(忠宣王)が生まれる。長男のイジル・ブハはカマラ(チンキムの長男で晋王)の娘のブッダ・シュリーと結婚してクビライの側近として活躍し、満州高麗人コロニーの王としての瀋陽王になる。父の死(1308) 後イジル・ブハは一旦は名目上、高麗王を継ぐが、本国に帰国するのを嫌がり、高麗本国は次男のラトナ・シュリー(忠粛王)に継がせる。その際、後継者は甥にあたるオルジェイトに譲ることを約束していたのだが、ラトナ・シュリーは自分の長男のブッダ・シュリー(忠恵王)に継がせたい。イジル・ブハはオルジェイトに瀋王を譲ってなだめるが、オルジェイトは恨みに思う。オルジェイトはカマラ(晋王)の次男のスンシャンの娘と結婚し、その関係で影響力を持った後、イジル・ブハ(忠宣王)を逮捕してチベットのサキャに追放(1320-1323)する。イジル・ブハ(忠宣王)は華北に戻った後1325年に死ぬが、その後も混乱は続く。1343年にブッダ・シュリー(忠恵王)が湖南省で刑死すると、ブッダ・シュリー(忠恵王)の長男のパドマ・ドルジ(忠穆ちゅうぼく王)が8才で高麗王を継ぐが4年後に死にその弟のミスキャブドルジ(忠定王)が継ぐが1352年にはブッダ・シュリー(忠恵王)の弟のバヤンテムル(恭愍王)に毒殺されてしまう。バヤンテムルの時代に高麗貴族の中の奇氏が力を急激に延ばしてきた。奇氏の出身の皇女が産んだアユルシュリダラが元朝の皇太子に立てられた(1353)のである。バヤンテムルは抜き打ち的に奇氏を皆殺しにしてついでに高麗内の元の影響力排除に努力した。満州地区内の高麗コロニーと本国の高麗軍との間で戦闘が起こったが、この時の本国軍の中に青年時代の李成桂(朝鮮太祖)がいた。
元朝とチベット仏教
ナルタン写本カンギュルの確立に経済的に大きな役割をしたチムジャムペルヤンは元はカダム派ナルタン僧院の学僧であったが、第八代ハーンのブヤントゥハーンつまりアユルバルワダに請われて帝師となりチベットを離れ彼の地から支那墨及び筆記具等の贈り物を師匠のチョムデンリクレルに贈り、兄弟弟子のウパロサルに写本の蒐集を勧めてチベット大蔵経の成立に大きな力を尽したのである。チムジャムペルヤンが帝師として招聘されるのには以下のような事情があった。アユルバルワダの母ダギは図抜けた美人で先帝テムルは兄の死後彼女を娶っている。そのダギを恨んでいたテムルの筆頭皇后ブルガンの画策によって兄のカイシャンとともに苦渋を嘗めた経験をアユルバルワダは持っている。後にはクーデターによって実兄から政権を不本意にも奪わせられるが、ついには自閉症になり、やがてチベット仏教と五台山信仰に救いを求めたと言う。
ゲルク派と派祖ツォンカパ
ゲルクという名の「ルク」は流儀を意味する。「ゲdge」は文字通りには「善」という意味ではあるが、元は「ガンデンdga' ldanルク」と呼んでいた言葉が省略されてゲルクと呼ばれるようになったのである。ガンデンとは派祖ツォンカパ・ロサンタクパ Tsong kha pa Blo bzang grags pa (1357-1419)が建立したガンデン僧院に因んでいる。当初はガンデンルク、あるいはゲデンルクとこの流儀は呼称されていた。後には儀式のおりに黄色い帽子を着用するので中国では黄帽派ともよばれた。最も後発の宗派である。当初から組織的で体系的な教育システムが整備されていて哲学訓練を重視する。後述するようにダライラマ政権を基盤に強大な教団へと発展した。派祖のツォンカパはサキャ派やカダム派の教学をその修行時に習得して、哲学的には帰謬派の中観哲学を、修道体系としてはカダム派所伝のラムリム (道次第) を、そして密教修行では聖者流のグヒヤサマージャ (秘密集会) ・タントラを最高のものとする仏教の一大体系を打ち立てたのである。従って「道次第 (どうしだい) 」や「秘密集会 (ひみつじゅうえ) 」はゲルク派仏教の重要な課題となっている。ツォンカパの教学の中心となっているのは中観思想であるが、彼の中観思想には他の宗派の理解とは異なる独特のものがある。ツォンカパがまだ修行中の時にラマ・ウマパという名の人物に会い、その僧を仲介として文殊菩薩と直接交信することが出来て直接の啓示によって確信を得たのは、「ごく普通の意味での世の中の存在を空性であるからと言って虚無的に捉えてはいけない。縁起していて空性であるということと存在しているということとは同時に成立しているのだ」という中観理解である。ツォオンカパは3歳の時にカルマ派四世ルルペードルジェの下で在家戒をうけ7歳の時からトントウプリンチェンという師から本格的に仏教を学び始め、16歳の時に中央チベットに勉学に出た。カギュ派やサキャ派やカダム派に属する多くの僧院で勉学につとめ、師としてつかえたのはサキャ派の学僧レンダワ Red mda' ba gzhon nu blo gros (1349-1412)から学問の指導を受けた。前述の文殊菩薩からの直接の啓示を受けたのは1390年頃である。主著とされるには『菩提道次第論ラムリムチェンモ』と『秘密道次第論ガクリム』『了義未了義善説心髄(タンゲーレクシェニンポ)』などである。ツォンカパにはダルマ・リンチェン Dar ma rin chen (1364-1432)とケートゥプジェ mKhas grub rje (1385-1438) という二大弟子がおり、師弟三人を合わせて「三父子 (yab sras gsum ヤプセー・スム) 」と呼ばれる。前述したように、ツォンカパの教団ゲルク派は「新カダム派」とも呼ばれ、カダム派に属していた寺院の多くがゲルク派支持へと改宗したのみならず、カギュ派の一部をも巻き込んでいった。しかし同じカギュ派系でもカルマ派はこの新興のゲルク派勢力と激しく対抗した。このカルマ派との対抗(正確に言えば両派のそれぞれの支持勢力間の利権をめぐる対立)はこの後のチベット世界に大きな影響を与えることになる。
明朝とモンゴル世界
永楽帝の頃その「元朝」の末裔であるモンゴルとオイラト(カルムック)が抗争を始める。モンゴルの実力者アロタイ(グイルチ)はベンヤシリを擁して明への反攻を期するが背後のオイラトが気掛かりなので、1409年にモンゴルはオイラトを襲撃するが大敗。オイラトは永楽帝と組み 1410年には明軍がモンゴル攻撃、1412年にはベンヤシリ死亡。オイラトは調子に乗って明を軽視したので 1414年に永楽帝はオイラト遠征。この後もモンゴルとオイラトは抗争を続ける。モンゴルのアロタイをオイラトのトゴンタイシ(ベンヤシリを殺したマフムートの子)が攻撃して元の玉璽を永楽帝の孫の宣宗に献上する。トゴンは大ハーンになりたいが、家柄の関係で無理なので家柄のよいチンギス家の末裔トクトブカをタイスンハーンという名の大ハーンにして自分の娘を嫁がす。トゴンの息子のエセンは明に裏切られ(急に実数計算にされた馬市や通訳による早とちり縁組みの件)オイラトと明の関係は悪くなる。更にトクトブカはトゴンの娘の子を皇太子にしなかったので、弟つまりエセンは怒って一族を皆殺しにして自ら大ハーン位(大元天聖大可汗)についたがまもなく(1439)部下に殺害され広大な帝国は滅亡。この頃カスピ海のほうからチムール帝国が隆盛する。チムールはハーンの称号は用いなかった。明の永楽帝はチベット語の大蔵経を開版するなどしてチベット仏教との交流を盛んに持ち、カルマ派のデシンシェクパ、サキャ派のクンガータシ、ゲルク派のツォンカパの代理としてシャーキャイェシェを招待して法皇国師号を送っている。その後、明の皇帝達はチベット仏教特にタントラに傾倒しはじめる。武宗 (1505-21) にいたっては大慶法王リンチェンペルデンというチベット名を自称するほどであった。1517年にはカルマ派に勅使団を送っており、1520年にはミキュードルジェに盛んに入京を勧めている。エセンが没落した後、ハラチン部のボライがタイシ(大師)号を唱えて台頭してくる。ボライは1454年にはトクトブカの子(当時7歳)のマルコルギス(キリスト教徒?)を擁立、成長の後はボライに反抗、ボライに殺される(1455)。ボライもすぐにオンリグート部のモーリハイ(チンギスの弟カサルの後裔)に倒される。モーリハイはトクトブカの子のモーランをハーンに擁立、しかしまたもや成長の後反抗、モーリハイ自身によって倒される。1470年、ウイグル人でイスラム教徒の頭目ベケリスン(ベグアルスラン)がモンゴルに進出、タイシの称号を唱えて1474年にトクトブカの弟のマンドゴリ(当時38歳)に自分の娘を与えてハーンに擁立。1479年にベケリスンの側近であったイスマイルがクーデターでベケリスンを殺害、マンドゴリも同時期に死亡。イスマイルもタイシ号を唱えて、チンギス家の後裔とされるバトゥメンゲ(7歳)をハーンに擁立したが、またしても成長の後に対立。今回はバトゥメンゲの方がイスマイルを圧倒。モンゴル地域の実権を握る。
ダヤンハーンとアルタンハーン
バトゥメンゲ(改め)ダヤン(大元)ハーンはモンゴル復権を目指す。体制は右手(南西)にオルドス/トゥメトゥ/ユンシェブ、左手(北東)にチャハル/ウリャンハイ/最北にハルハ。競争相手のオイラトとは同盟を結んだ。ダヤンハーンは1517年頃死去、ダヤンの後はジノン(副王)であった第三子のバルスボラトが継ぐが、長男のトロボラトの長男のボティマラクは返還を要求してハーン位を取りかえす。トゥメトゥにいたバルスボラトの次男のアルタンハンがモンゴル地域全土を掌握しオイラトとも同盟を結ぶ。アルタンは1542年頃にはモンゴル最高の実力者となった。アルタンが強大になったのは明軍からの漢人投降者と白蓮教徒の力も大きい。彼等が帰化城(フへホト)で貿易の手助けをしながら元の再興をそそのかす。そんな折アルタンの孫のバハンナギ(ダイチン・エジェイ)が女を取られたといって明に投降してしまう。実のところはオルドスという人物が或る女性を娶ろうとしたが、これが大変な美人でアルタンが一目惚れをしてオルドスから横取り、怒るオルドスにバハンナギの女を与えたというのが真相である。明は彼と引き換えに漢人投降者等の一掃とアルタンとの同盟を結ぶことを要求するが、アルタンはこの機会を利用して明と交渉を重ね信頼を得て順義王に封ぜられる(1571)。件の美人はアルタンの三番目の妃となった人物で、オヤンチュ・ジョンゲン・ハトゥンと名乗る人物である。アルタンの死後家財を全てオヤンチュが引き継いだ。三人の子を生み、明との関係でいえばアルタンは順義王の位を与えられているのでその継承者と次々に結婚を迫り、第四代順義王ボショクトとの結婚の直前1612年に死去。この頃オヤンチュはどう考えても60歳くらいと思われる。
ダライラマ転生制度
アルタンはデプン僧院長ソナムギャムツォ(後のダライ三世)の評判に注目して招書を送り、1578年に二人は青海で会見する。この会見はゲルク派側からの要請と見るべきで、そこに至るまでには以下の様なチベット国内の事情がある。 十五世紀半ば頃にパクモドゥ派(本拠はヤルルン)に権力継承をめぐる争いが起こり、ツァン地方の直轄地の支配者であったリンプン氏が権力を握るようになり、ツァン全体の利益を代表する立場になる。リンプン氏は1480年ゲルク派の大施主のタクカルワを襲ってチュシュル(曲水)のルンポチェを占領した。1491年にパクモドゥ派の長のガクキワンチュク(1439-1491)が没するとリンプン氏はヤルルンの本拠を襲って占拠。1493年にはパクモドゥ派の聖俗二権の頂点にリンプン氏と仲の良かったカルマ派のチュータクイェシェがリンプン氏に推されるかたちで即位した。パクモドゥ派支持層の中で一番ゲルク派に近かったネルパ氏の内紛を口実に1498年にはラサの方面にカルマ派が大軍を動かしてこれ以後の1517年までモンラム祭はカルマ派が主宰、ゲルク派は閉め出されてしまうのである。一方ツァン地方では1512年にリンプン氏の勢力圏内にあったゲルク派タシルンポ僧院の管長にゲンドゥンギャムツォ(1475/76-1542)が就任、ゲルク派全体から強い期待を受けるようになる。1509年頃からパクモドゥ派と仲が悪化していたリンプン氏は長のトゥンユードルジェが1512年に没してから勢いが無くなり、パクモドゥ派に属するチョンギェ氏がギェルカルツェ(ギャンツェ)を占拠してリンプン氏の力はツァンでも一時弱まっていく。一連の動きの中でパクモドゥ派側についたゲンドゥンギャムツォはデプン僧院に迎えられモンラム祭もゲルク派の手に戻される。1537年にカルマ派と結びつきの深かったディクン派がカルマ派支持のコンポの兵力を使ってラサ東方にあるウルカ地方のゲルク派の18ケ寺をディクン派に改宗させてしまう。ゲルク派を代表するゲンドゥンギャムツォはカルマ派のミキュードルジェ(1507-1554)と接触し調停を始めた。他方ツァン地方ではリンプンの後を継いだガワンナムギェルがシカツェの地を奪回してカルマ派のミキュードルジェを招いて気勢を上げる。この大事な時にゲルク派の指導者ゲンドゥンギャムツォが没(1542)する。時にカルマ派のミキュードルジェは35歳。ゲルク派は考えたあげく敵方のカルマ派の活佛制度を逆に導入して、カルマ派のウー地方での本拠地トゥールン出身のソナムギャムツォ(1543-88)をデプン寺活佛として選出した。リンプン氏は家来であったシンシャク氏にシカツェの地(サムドゥプツェ)を奪われ(1565)衰退、カルマ派は今度はこの新しいシンシャク氏と組む。ゲルク派のソナムギャムツォは1569年からサキャ派カルマ派パクモドゥ派を歴訪して融和策を推進する。1575年にシンシャク氏がツァンの軍隊をキーシューに侵入させる事件もあったが結局ツァン軍は撤退。この一連の騒動の中、1571年と1577年と二度にわたってソナムギャムツォにアルタンハーンから使者が来ていたので遂に意を決して1578年に青海でアルタンハーンと会見しこの折に「ダライラマ」の称号を贈られるのである。ソナムギャムツォはさらに1582年にはアルタンハーンの求めに応じて内モンゴルに向い、1586年に帰化城に至り、1588年に帰化城にて客死する。ゲルク派はソナムギャムツォの転生者として、アルタンハーンの甥スムメタイジの子を四世ダライラマに選出した。四世ダライのユンテンギャムツォは14歳になるまで剃髪もせずにモンゴルにいたという。チベットに入ってからの生活も側近の政治家たちの中で翻弄される苦労の多い人生で、チョカンに参拝した時に「再び輪廻に於て生を受けるのであれば、この国にだけは生まれない」と語ったという。平和の為に奔走し、苦労を重ねて28歳で早逝する。
ダライラマ政権の成立とゲルク派の対清戦略
ダヤンハーンの第11子のゲレセンジェ・ジャライル・ホンタイジは外モンゴルに牧地を持ち、その七人の息子のうちの第三子ノーノホの系統からアバタイハーンが出る。アバタイハーンはジェプツンダンパ一世の曾祖父にあたる。アバタイ(ワチライハン)は帰化城でダライ三世に会い、信仰を持ち、ハルハで最初のエルデニジョウォ寺を建立(ゲル寺院)している。ジェプツンダンパとなるロプサン・テンペーギェルツェンは後にハルハ全土を支配するトゥシェトハーンの弟として1635年に生まれ1650年にチベット本国でダライ五世(パクモドゥ派チョンギェー氏出身のガワンロプサンギャムツォ)に謁見しラサに滞在、このとき五世からターラナータの転生と宣言されたとジェプツンダンパ側の史料は述べる。後の史料の多くはこの事を承認するが、ターラナータはツァンに地盤を持つチョナン派の著名な学僧なのでこの点には疑問が残る。もう一人オイラトの人々から信仰を集めた活佛でオイラト始まって以来の高僧として名を残すのはザヤパンディタ一世である。ザヤパンディタ一世はホショト部のバーバハンの第五子として1599年に生まれ、十七歳の時に出家し、1617年にチベットに留学した。ゲルク派僧院でラプジャムパの学位を取得、ちょうどジェプツンダンパ一世が生まれた年である1635年にはダライラマ五世の受戒に立ち会っている。五世のもとで奉仕して後1638年に帰国、オチルトタイジのもとで活動して多くの人の信仰を集めた。後にみるようにオチルトタイジはジュンガルにいたガルダンの兄のセンゲと同盟していたがセンゲ亡き後オチルトはガルダンに滅ぼされてしまう。
リクデンハーンとチョクトゥハン
1630年代、ゲルク派支持のオルドスやトゥメトゥのモンゴル人がチャハルのリクデンハーンに圧倒された。リクデンハーンはダヤンハーンの長子の系統である。彼はカルマ派と結びつきがあった。リクデンハーンは明と手を組み、他のモンゴル諸部からは嫌われていた。因みにリクデンハーンは「チャハルの禿」と呼ばれていたという。彼は後金(清)に討たれ青海方面に勢力を延ばし逃れようとしたが病(痘)死(1634)してしまう。青海はハルハから来たチョクトゥハンが君臨することになる。チョクトゥハンもカルマ派と近かった。漢土では、明から清の時代へと移っていく。後金(清)を興したヌルハチの子(第八子)スレハン(1626-42)はリクデンの長男のエゼイを降服させて玉璽を手に入れ大ハーンとなる。モンゴル式にはボクダセチェンハーンと名乗っている。清はあくまで元あるいはモンゴル帝国の継承国家と自らを位置付けているのである。
オイラト・モンゴルとゲルク派権力
ハルハ族は、その頃チェチェンハン/トゥシェトハン/ジャサクトハンの三国に別れていたが何れもクーロン(ウランバートル)活佛のジェプツンダンパ・フトゥクトの勢力下にあった。ハルハ族に対抗して西からはジュンガル部がしだいに勢力を持つようになる。青海にいたチョクトゥハンはカルマ派と結んでゲルク派には脅威であるのでゲルク派は自派支持を鮮明にしていたオイラトのグシハンとバートルホンタイジに頼んでハルハモンゴル出身のチョクトゥハーンを滅ぼしてもらう(1637)。バートルホンタイジはその後グシハンを青海に残して故国ジュンガルに引き上げた。この時グシハンはバートルホンタイジに自らの娘を与えたが、その娘が生んだ子が後にジュンガルを率いるセンゲとガルダンの兄弟である。当時のチベット王はツァンのカルマテンキョンワンポであったが、青海の主となったグシハンはゲルク派と結びつきツァンの支配者と結びついていたカルマ派の打倒に向い 1642年にチベット全土を支配下に治め、その軍事力の下でダライラマ政権が成立(1642)した。清朝は1648年以来ダライラマに北京訪問を呼び掛け、ついに 1652年にダライラマ五世は北京を訪問し、順治帝と会う。その間、1645~1648年、ポタラ宮改装工事が行なわれ、以後1678年までチベットとモンゴル全土の上に君臨する聖俗二権の府とするための増築改装が続けられることになる。1659年にはポタラ宮にダライラマの本拠を移す。
ジュンガル出身の武将ガルダン
ゲルク派はその後密かにグシハンの血を引くジュンガルのガルダンと結びつき、ゲルク派支持であったオチルトなどの旧知を見殺しにして対清工作を進める。ガルダンは 1666年23歳の時に帰国、27歳の時に還俗し、ジュンガルの武人となって、1678年にはジュンガルを統治するまでになっていた。ガルダンの出身はチョロス部という所でチベット留学中(パンチェン1世のロサンチューキゲンツェンに最初師事[1656年3月16日に入門?13歳?]し、パンチェン死亡の後はダライラマ五世が引き取る。)は兄のセンゲが統治していた。この兄はホショト部のオチルト・タイジと同盟していて、センゲが殺された後はオチルトが首領となっていた。ガルダンはそのオチルト・セチェンハーンを滅してジュンガル地方を統一するハーンとなったのである。ガルダン(テンジンボショクトハーン)はオイラト部を統一しさらにハルハを制圧にかかる。ハルハモンゴルの内紛(ジェプツンダンパの兄のトゥシェトハーンとジャサクトハーンの対立)の調停(1686)の席でジェプツンダンパ・フトゥクトがダライラマの使いの者と同じ高さの座席についたのを見たガルダンは師を蔑ろにする不敬の輩であると(ガルダンにしてみれば自分の前世のウェンサトゥルクの弟子にすぎない)ジェプツンダンパを非難して襲った。清に逃げ込んだジェプツンダンパ・フトゥクトを追って内モンゴルまで攻める。
モンゴル帝国の中のロシア
ジュンガル軍の主力は騎馬兵で、その騎馬兵は弓と火縄銃と槍で装備されていた。火縄銃の砲手はプーチン(砲手)と呼ばれほとんどがキルギズ人あるいはトルコ系のイスラム教徒であったという。火器はロシアから輸入していたようだ。ロシア史は愛国主義的なロシア国民学派の歴史家によって完全に書き換えられていてモンゴルとの関係を消し去っているがロシア(ルーシ)はモンゴル帝国の継承国家である。この点では清と立場を同じくする。チンギスの長男のジョチ家の政権は「黄金のオルド」と呼ばれていたがそのオルドのハーンが税金を取り立てる為に各地に代官を派遣したことがルーシを国家の形に導いたと考えられている。それまでは統一した政権は存在しなかった。その徴税請け負いで最も大きくなったのがモスクワ公国である。14世紀後半にはジョチの六男の子孫のトクタミシュが「黄金のオルド」のハーンになっている。モスクワのドンスコイ大公がモンゴルに反乱したがすぐにトクタミシュはモスクワを占領しなおしている。一時は仲の良かったティムールと仲たがいしたトクタミシュは支配していたアストラハンやブルガル、クリミアを攻められ、十五世紀にはジョチの後裔たちの各オルドは分断され「黄金のオルド」は求心力を失う。十六世紀に入ると「黄金のオルド」の最後のハーンであったアフマドの流れを汲むカシモフハーン家はモスクワにすぐ南に逃げ込んでモスクワ大公のイヴァン三世に保護される。この当時最も勢力があったのはクリミア半島のクリムハーン国であり、モスクワ公国もクリムハーンに税金を納めていたが、イヴァン三世の孫のイヴァン四世は1575年に、かくまっていたカシモフハーン家のベクブラトヴィチをハーン(ロシア語ではツァーリ)の位につけ、翌年に譲位させて自分がハーンになった。こうして白人のハーン(モンゴル語では「チャガンハーン」と呼ぶ)が誕生し、チンギスが作ったモンゴル帝国の継承者となる。その後ロマノフ朝ロシアを作るミハイルロマノフが1613にツァーリとなり、その孫のピョートル大帝によってロシア帝国へと発展する。このころからロシアはオイラトやハルハの地に使節を派遣したりカザフ(コザック)の民を開拓民としてシベリアに派遣するようになる。
ハルハ・モンゴルの内紛
ダライラマの称号を送った有名なアルタンハーンとは別に、ダヤンハーンの五男のゲレセンジェの長男家に生まれたウバシホンタイジも自らをアルタンハーン(黄金皇帝)と名乗っていた。その子のパドマは第二代アルタンハーン、孫のエリンチン(リンチェンロブサン)は第三代アルタンハーンと自称した。彼等はロシアとの交渉を持ったが、モスクワのほうではエリンチンを好戦的な人物と見抜き、彼等から利益を得る事がないと判断して1620年には近隣の知事に向けて関係を持たないようにという指示が出ている。エリンチンは実際に好戦的で、1662年には近隣のジャサクトハーンを襲って殺してしまう。エリンチンは結局、ハルハ左翼のトゥシェトハーンとジュンガルのセンゲに追われて結局は捕まるが、この混乱の中でジャサクトハーンの多数の属民がトゥシェトハーンのもとに避難した。殺されたジャサクトハーンの弟が右翼のハーンとなって属民の返還を求めたが左翼は応ぜず、左右翼の内輪もめが起こってしまう。この内紛の調停が1686年に行なわれ、これがガルダンのハルハ侵入を導いてしまうのである。トゥシェトハーンは調停会議の結論に従わず半分ほどしか属民を返さず、新しいジャサクトハーンはジュンガルのガルダンに援助をもとめようとジュンガルに向かったがそれをトゥシェトハーン軍は追跡して新ジャサクトハーンをまたもや殺し、ガルダンの弟も斬ってしまう。つまり、ガルダンがジェプツンダンパとその兄のトゥシェトハーンを襲った理由の「ダライラマに対する不敬」というのはあくまで表向きの理由であった。この時点ではまだ、清もハルハも、ダライラマ側とジュンガルとの密接な繋がりには気付いていないが、ダライラマの権威が巨大化しつつあることを感じ危惧しはじめている。
康煕帝の遠征
逃げ込んだジェプツンダンパの頼みでハルハに軍を送り、清の康煕帝はガルダンを撃破する決心をする(1690:ウランブトンの戦い)。そして1691年にドロンノールにハルハの衆を集めてダライラマからの権威を拒否すべきことを康煕帝は宣言、この時を境に外モンゴルは清に帰順した。但しガルダンは一旦は撤退はしたものの強気で、ジェプツンダンパを差出せと清に要求し続けている。中国歴代の皇帝の中でも屈指の名君にかぞえられる康煕帝は8歳の時1662年に即位してから1722年に死亡するまでの60年の治世を通じてクーロン活仏と呼ばれたハルハのジェプツンダンパ活仏を信仰し続け、自らの病気平癒の祈祷を頼んだりしている。熱河の離宮に招いて単に政策的な結びつきとは思えないほどの優遇をした。また、康煕帝には多くの皇子(35人)がいたが皇子どおしの仲が悪く、皇太子を幾度も廃太子にするなどしていた。
サンギェギャムツォの誤算
チベットのダライラマ政権には野望があった。それはダライラマ法王を頂点としたチベット仏教文化圏をユーラシア全土に拡げ軍事的にも政治的にも周辺諸国に覇権を確立しようと考えていたのである。ポタラ宮の改修や観音信仰とダライラマの転生を結びつけた歴史認識を文化政策の中心に据えていた。第一線の宮廷絵師たちがポタラ宮殿の「修復」の作業(1690-94年ころ)に召集された。つまり紅宮の絵画制作に雇われたのであるが。この時の壁画とタンカの重要なテーマが、ダライ・ラマの転生の系譜だった。当代のダライ・ラマまでの前世と、高名なダライ・ラマ五世の全伝記をあらわした壁画がそこに展開されるのである。サンギェ・ギャツォは彼独自の歴史観に基づいて赤宮殿の内部を計画し1696年に完成する。西集会殿の東にはラムリム堂(ツォンカパ)、南にはリクジン堂(パドマサンバヴァ)、西には五世の仏塔殿、北にはトゥンラプ堂(転生、観音に繋がる)があり参拝者は順にそれらを巡り、さらに上階(3階)には法王禅定洞(ソンツェンガムポ)4階には観音堂というようにサンギェ・ギャツォが作り上げたダライラマを中心にしたチベットの歴史観が展開されるのである。サンギェ・ギャツォはまた、周辺諸国の王族の中から転生を認定し師弟関係を利用しながら朝貢制度に準ずるような宗教政治的な集権を画策した。着々と構想は現実化しつつあったのである。1682年、かねての計画の途中で五世は死亡していた。摂政のサンギェギャムツォは1697年まで五世の死を秘匿した。恐らくガルダンにも告げず、前述のガルダンの要求に関して清朝に対してジェプツンダンパを預かるがら渡してはどうか、と五世の名で提案している。サンギェギャムツォはさらにガルダン出兵の隙を縫って乗っ取る形でジュンガルを支配したツェワンアラブタンにエルデニジョリクトホンタイジの称号を与えている。ガルダンを裏切ることも考えていたようだ。
ガルダンと五世との密接な繋がりや五世の死等の事実は清朝には実は事前に伝わっていて康煕帝はついに1696年にガルダン征伐に再度のりだし、ジョーンモドの戦いで妃のアヌダラハトゥン(もとは兄センゲの妃)は戦死しガルダンは逃亡する。その前後の状況は陣中から康煕帝が北京に残る皇太子に向けて出した自筆の手紙が残存しておりそれによって克明に知る事が出来る。清側の記録ではガルダンは最後は毒をあおいで死亡した (1697年4月4日)ことになっている。自殺説は康煕帝の演出であるとの解釈がある。仏教世界では五逆罪と呼ばれる許されざる大罪がありそのひとつに「師を殺す」という罪がある。ガルダンはジェプツンダンパ活仏の師匠の生まれ変わりなので、この「師を殺した」という疑いがジェプツンダンパ活仏にかけられる恐れがある。そこで康煕帝はガルダンの自殺説を流し、自殺という殺生戒をおかしたガルダンは本当は活仏の生まれ変わりなどではなかったのだ、という事実を作りたかったのだと指摘されるのである。ガルダンの遺骸は直ぐさま荼毘に付され康煕帝の追跡を逃れてジュンガルに戻っていたが康煕帝の再三の要請に抗しきれず遺骨は引き渡され北京で蒔き散らかされたという。
ダライラマ六世
ダライラマ六世は南チベットのニンマ派旧家のパドマリンパの系統から選ばれた。これには五世の死の秘匿がニンマ派の協力によって行われたことと関係があるとされる。1697年にはダライラマ六世の即位式が行われ。清朝もしぶしぶ代表を派遣してそれを認めざる得なかった。ところが六世は摂政に反逆して放蕩とも取れる行動を繰り返し、1702年、六世は勝手にタシルンポ僧院に赴いて沙弥戒をパンチェンに返して還俗してしまう。翌年にはサンギェギャムツォは形式上の責任を取り息子のガワンリンチェンを摂政に据えて院政を試みた。青海のラザンハン(グシハンの子のダライハンの子)がチベットに覇権を唱えた時もサンギェギャムツォは政界を纏めてラザンハンに青海に戻るように命じている。ところがラザンハンは引くと見せ掛けて反撃し、結局1705年、サンギェギャムツォはラザンハンに殺害される。ダライラマ六世は北京召還を命ぜられ、ラザンハンによって六世は逮捕された。北京に護送されるダライラマを群集が一時奪回したが、六世は民衆に累の及ぶのを恐れて自ら抜け出して縛につき、死因は不明だが青海湖の近くで1706年六世死亡(23歳)する。

ダライラマ7世
ガルダンの後にジュンガルの主となった(1698)ガルダンの兄センゲの子のツェワンアラブタンはジュンガルを含むオイラトに君臨。初期の一時は清と通じていたが勢力を獲得すると清と対立、清と強く結びついていた青海のラザンハンがチベットを支配していたのを不満に思いチベットを西方から襲撃した(1717)。もともとラザンハンに率いられているグシハンの長子の家系と、ツェワンテンジンやロサンテンジンという次子以下の青海ホショトの家系とは対立していた。ラザンハン、アラブタン両者と懇意であったパンチエン二世が調停したが功を奏さずラザンハンを殺してラザンハンとパンチエン二世がたてた別のダライ六世を首班から引きずり降ろした。この時点でジュンガルはラサに入城するとすぐに青海に300人の人を送ってリタンの童子を招請しようとしていた。つまりアラブタンもリタンに生まれたダライ七世を担ぎ上げたかったが、逆にいままで否定的であった清が一転して七世を公認し大義名分を作って、しかも急に寝返った青海ホショトから出兵した6千の兵士と連合を組んでチベットに乗り込んだ(1720)のである。その出兵要請の下準備と説得の為に清海ホショトの有力王侯のツェワンテンジンは清朝康煕帝に招かれ熱河で郡王の称号を授かっている。彼はその時点まで清海ホショト内でジュンガルと最も親しい関係にあった人物である。さらにロサンテンジンも康煕帝に招かれ説得されている。清の狙いは兵力を望んでのことではなくて大義なのである。あくまでダライラマ7世を錦の御旗にしてそれを助けるという形を取る必要を感じていたのである。戦争の結果はジュンガル軍の惨敗。結果としてチベットに七世を中心とした新しい政権がラサに確立された。清青海ホショト連合軍がラサに到着した時にはジュンガル軍の大半は敗走中であったという。その後、清朝軍は臨時政府を作ってジュンガル軍に協力したチベット人の裁判と処刑を行った。清としては青海ホショトの中から新しいチベット王が選出されることを望んでいたようであるが、明確な指導者はあらわれず清政府の強い指導のもとでのチベット政府が発足したのである。
ブータンその他に伝わったチベット仏教
ブータンにチベットの宗派仏教が伝わった最初の記録は、カギュ派系支派のラ派に属するギェルワ・ラナンパ(1164-1224)が12世紀末に伝道をしたのを最初とする。その後、13世紀前半にパジョ・ドゥクゴム・シクポ(1208-1274)がドゥク派を伝えた。彼は派祖のツァンパ・ギャレーに弟子入りを志願して故郷の東チベットを出たが、派祖が亡き後だったので師の予言によってブータンに布教を決意した。ティンプ谷の女性と結婚してタンゴ・パジョディン僧院というドゥク派最初の僧院を建立する。その子孫が17世紀にドゥク派のシャプドゥン・ガワンナムギェルを迎えることになる。17世紀までの間は、諸派が布教を行なう。ニンマ派のロンチェン・ラプジャムパ(1308-1363)もブムタン地方で布教をした。また、15世紀には諷狂で有名なドゥクパ・クンレー(1455-1528)がブータンで布教活動をする。また、ブムタン生まれでギェルワ・ラナンパの子孫のペーマリンパ(1450-1521)(ニンマ派)もテルトン(埋蔵文献発掘者)として高名である。シャプドゥン・ガワンナムギェル(1594-1651) はドゥク派のチベットでの大本山のラルン寺の18代座主であったが、ペーマカルポ(1527-1592)の化身と看做された。しかしこれをツァンの地方長官が認めずに、1616年には亡命しブータンに移住する。その後、ツァン軍がブータン侵略を試みるが失敗。ダライラマ5世も派兵するがこれも失敗する。  シャプドゥンは子を作るがこれが障害を持っていた。ドゥクパ・クンレーの子孫のテンジンラプギェ(1638-1696) を法主にする。このテンジンラプギェにも女の子だけしか生まれず、化身制度を取らざるを得なかった。身口意の三つの系譜がこの時からうまれる。1907年にウゲンワンチュクが国王になり王制になる。ダライラマ政権が成立した1642年に今日ではインドの領内にあるシッキムでは同地域のニンマ派に支持されたプンツォクナムギェルがシッキム国を建国して、ダライラマ政権と友好関係を結ぶ。そのころ東隣のブータン地域はそれよりも30年近く前にカギュ派系の支派であるドゥク派のガワンナムギェルがドゥク派の後継者争いでチベット本国から亡命してきて建国していたが、ダライラマ政権とは折り合いが悪くチベットとの間で小競り合いが続いていた。更にずっと西のラダック地方にも17世紀後半にはドゥク派のタクツァンレーパが布教し、ラダックはドゥク派中心の国へと変わっていく。今日ではラダックはインドカシミール州の一部となっているが、民衆のチベット仏教への信仰は揺るがず、ゲルク派やドゥク派、その他の宗派が隆盛している。このようにチベット仏教の諸宗派は15世紀から17世紀にかけてユーラシアの極めて広い地域に広がりそこで信仰され、その政治体制にも大きな影響力をもっていたのである。今日もっとも西にあるチベット仏教国はカスピ海沿岸にあるカルムク共和国である。ヨーロッパで唯一のチベット仏教国ということになる。多くのゲルク派僧院がソビエト崩壊後に復興しインドのダラムサーラやモンゴルのウランバートルへ留学した僧侶が活躍していると聞く。

大乗仏教(だいじょうぶっきょう、: महायान Māhāyāna, 英: Mahāyāna Buddhism)は、伝統的にユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教の一派。大乗仏教が発祥した背景としてはさまざまな説が唱えられているが、部派仏教への批判的見地から起こった側面があるとされている[要出典]。上座部佛教 上座部佛教(巴利語:थेरवाद,IAST:theravāda;梵語:स्थविरवाद sthaviravāda;僧伽羅文:ථෙරවාද theravāda),佛教宗派,現今流行於斯里蘭卡、緬甸、泰國、柬埔寨、寮國等地,還有一些古印度傳承殘存在孟加拉吉大港山區(以及尼泊爾和印度米佐拉姆邦,藏南地区泰人聚居區),與大乘佛教並列為現存佛教最基本的兩大派別。タガログ語→Ang Mahayana ay isa sa mga sekta ng relihiyong Budismo. Kasalukuyang namamayagpag ang sektang ito sa mga bansa sa malayong silangan, tulad ng bansang Tsina, Hapon, Korea, at iba pa. ラトビア語⇒大乗仏教=Mahājānas budisms ir viens no diviem galvenajiem budisma novirzieniem (otrs ir Teravāda). Tas ir arī termins, ar kuru klasificē budisma filozofiju un prakses. Mahājānas budisms radās Indijā, no kurienes tas izplatījās vairākās citās Āzijas valstīs: Ķīnā[1], Japānā, Vjetnamā, Korejā, Singapūrā, Taivānā, nepālā, Tibetā[2], Butānā un Mongolijā. Mahājānas budismu dēvē arī par lielajiem ratiem un parasti tālāk dala tantriskā budismā un dzenbudismā. 小乗(しょうじょう、梵: हीनयान Hīnayāna)とは仏教用語で[1]、劣った(ヒーナ)乗り物(ヤーナ)を意味する語[2]。個人の解脱を目的とする教義を、大乗側が劣った乗り物として貶めて呼んだものであり[1]、中立的な呼び名ではない[3]。大乗との差異 竹村牧男は、大乗と小乗(部派)の違いについて、小乗(部派)では人間は釈尊にはほど遠く、修行しても及ばないと考えられているのに対して、大乗では人間は釈尊と同じ仏になれると考えられているとしている[13]。また、小乗(部派)では修行の最終の地位は阿羅漢であるのに対して、大乗では最終的に仏となることを目標に掲げるとしている[13]インドネシア語⇒小乗=stilah Hinayana (Sanskerta: हीनयान) adalah istilah dalam agama Buddha yang muncul setelah Mahayana berkembang. Istilah ini sebenarnya kurang tepat dipakai. Penggunaan pasangan yang lebih baik adalah Theravada - Mahayana, dan bukannya Hinayana - Mahayana. Hinayana berarti kendaraan kecil, yang menunjukkan jumlah pengikut agama Buddha yang lebih sedikit dibandingkan aliran Mahayana (kendaraan besar). Aliran Hinayana disebut juga aliran Theravada. Hinayana merupakan aliran agama Buddha yang menekankan kemurnian dan keotentikkan ajaran agama Buddha sesuai dengan yang diajarkan Buddha Siddharta Gautama. Tidak seperti Mahayana yang menggunakan bahasa Sanskerta, Hinayana menggunakan bahasa Pali dalam peribadatan dan teks Tripitaka. Saat ini basis utama pengikut aliran Hinayana tersebar mulai dari Srilanka, Bhutan, Myanmar, Thailand, Vietnam, Kamboja, dan Laos.小乘(梵語:हीनयान,Hīnayāna)是大乘佛教所劃分的三乘教法中用來貶低声闻乘、獨覺乘的统称,包括了所有傳統部派佛教教派。也被用來貶低上座部佛教。因為“小乘”包含貶義,在學者及佛教徒間,長期存有爭議。1950年召開的世界佛教徒聯誼會達成明確共識,無論在西方或東方對南傳佛教的正确稱呼应当一律使用上座部佛教而非“小乘”[1]。マジャール(ハンガリー)語⇒小乗(仏教)=A hínajána (हीनयान) szanszkrit és páli kifejezés, amelynek szó szerinti jelentése "kis szekér", "kis kocsi", vagy "szűk ösvény". A kifejezés az i. e. 1. vagy 2. század körül keletkezett. A hínajána elnevezéssel illetik a mahájána buddhizmus hívei a korai buddhista iskolákat, amelyeket még fejletlennek, előkészítő jellegűnek tartanak. A hínajána „kis kocsit”, vagy „kis járművet” jelent, ellentétben a magukat „nagy kocsinak”, vagy „nagy járműnek” nevező mahájána buddhistákkal, akik ezt az elnevezést némileg pejoratív éllel használják a hínajána követőire. Az irányzatot théraváda buddhizmusnak („a vének tanítása”) is nevezik, de ez félrevezető, mivel a théraváda valójában a harmadik pátaliputrai zsinaton kialakult szthavira-csoport egyik iskoláját jelöli.パドマサンバヴァ(梵: पद्मसंभव Padmasaṃbhava 漢訳:蓮華生、チベット語: པདྨ་འབྱུང་གནས།、padma 'byung gnas[1]、8世紀後半頃)はチベットに密教をもたらした人物。チベットやブータンではグル・リンポチェ(gu ru rin po che)として知られる。チベット密教の開祖であり、ニンマ・パ(ニンマ派、漢訳;紅教)と呼称される宗派の創始者であるロシア語⇒Падма-самбха́ва (санскр. पद्मसंभव, IAST padmasaṃbhava, «рождённый из падмы (лотоса), лотосорождённый»; кит. 蓮華生上師, Ляньхуа шэн шан ши; тиб. Падмасамбхава.png, вайли pad ma 'byung gnas; монг. Бадамжунай) — индийский учитель буддийской тантры VIII века, внёсший значительный вклад в развитие тибетской формы буддизма. В Бутане и в Тибете он также известен как Гуру Ринпоче (Драгоценный Учитель). Буддийская школа Ньингма почитает его как второго Будду. Падмасамбхава создал линию устной передачи известную как Кама, которая переходит от учителя к ученику, а также цикл скрытых учений (терма). Большое значение в школе Ньингма имеют также две его жены — Мандарава и Еше Цогьял. По словам последней, Падмасамбхава — «Кормчий, переправляющий в Нирвану всех существ Сансары»[1]. 蓮花生(梵文:पद्मसम्भव Padmasambhava;藏文:པདྨ་འབྱུང་གནས།;藏语拼音:Bämajungnä;威利:pad+ma-'byung-gnas (EWTS),生卒年不詳),或譯蓮華生大士。八世紀印度那爛陀寺僧人及雲遊僧,後應寂護論師與藏王赤松德赞禮請入藏創立僧團,後人尊稱為蓮師。由於後世弟子的崇敬,增添了許多神奇色彩,也被稱為第二佛陀。所帶入的密法稱為前譯派,為今寧瑪派所信奉。首位將藏密傳入漢地的寧瑪派教傳三十二代祖師諾那呼圖克圖謂蓮花生大士是彌陀身、觀音口、釋迦心,合諸佛菩薩身口意之三密金剛應化身。[1]
チベット仏教(チベットぶっきょう)は、チベットを中心に発展した仏教の一派。チベット仏教は、根本説一切有部律の厳格な戒律に基づく出家制度から、大乗顕教の諸哲学や、金剛乗の密教までをも広く包含する総合仏教である。また、独自のチベット語訳の大蔵経を所依とする教義体系を持ち、漢訳経典に依拠する北伝仏教と並んで、現存する大乗仏教の二大系統をなす。ルーマニア語⇒チベット仏教=Budismul tibetan (numit impropriu și lamaism, după numele acordat gurușilor religioși ai ramurii, acela de "lama") este corpul de doctrină și instituții budiste caracteristic Tibetului și regiunii munților Himalaya. O învățătură complexă și sincretică, axată pe punerea în practică a unor metode valabile pentru fiecare din nivelurile condiției umane: Theravada, Mahayana, Vajrayana (Calea tantrică) și Ati (Dzogcen). Liderul spiritual al budiștilor tibetani este Dalai Lama . Uneori acest tip de budism mai este numit și budism ezoteric sau budism tantric , datorită diverselor ritualuri și ceremoni magice ce țin de Tantra și de alte învățături mistice .Astăzi, budismul tibetan are mulți adepți în Platoul Tibetan, Bhutan, Mongolia și Calmîchia . .藏傳佛教(藏文:བོད་བརྒྱུད་ནང་བསྟན།;威利:bod brgyud nang bstan;蒙古語:Төвөдийн Буддын шашин),或称藏语系佛教,或俗稱喇嘛教,是指傳入藏区的佛教分支。屬北傳佛教,与漢傳佛教、南傳佛教并称佛教三大地理体系,歸属于大乘佛教之中,但以密宗傳承為其主要特色。藏傳佛教並沒有南传佛教傳承,說一切有部及經量部對藏傳佛教的形成,雖有一定程度的影響,不過在佛教的修行方式與戒律上,兩者並不相同,也無直接必然的關係。スコットランド語⇒チベット仏教=Tibetan Buddhism[1] is the bouk o releegious doctrine an institutions characteristic o Buddhism in Tibet, Mongolie, Tuva, Bhutan, Kalmykie an certaint regions o the Himalayas, includin northren Nepal, an Indie (pairteecularly in Arunachal Pradesh, Ladakh, Dharamsala, Lahaul an Spiti destrict in Himachal Pradesh an Sikkim). It is the state releegion o Bhutan.[2] リトアニア語⇒ニンマ(古派)=Njingmapa (tibet. རྙིང་མ་  = rNying ma – „senoji tikyba“) – Tibeto budizmo mokykla, laikoma pačia seniausia. Pasak legendos, ją (kažkada VIII a.) įkūręs guru Padmasambhava. Njingma dar vadinama „raudonkepuriais“ (pagal aprangą) arba „senųjų vertimų mokykla“ (tibet. སྔ་འགྱུར་རྙིང་མ།  = snga 'gyur rnying ma), nes jos pasekėjai atmetė vėlyvesnius vertimus iš sanskrito.Njingmapa turi atskirą nuo kitų Tibeto budizmo mokyklų budistinį kanoną bei savitą tantrų klasifikaciją. Njingmos kanone nemažai tekstų, kurie neturi savo sanskritiškų atitikmenų bei analogų kitose Tibeto budizmo mokyklose. Nors njingma pripažįsta sielų persikūnijimą, joje nėra ko nors panašaus į dalai lamos ar karmapos asmenis. Njingmos lamos gali kurti šeimas ir turėti vaikų. Besivystydamas, šis mokymas perėmė daug senosios Tibeto religijos bon bruožų, jos apeigų ir praktikų, bei, savo ruožtu, paveikė patį bon. Njingma didelį dėmesį skiria žodinei žinijos perdavai iš mokytojo mokiniui, taip pat išplėtojusi tertonų („slaptųjų tekstų“ termų ieškotojų) institutą. Kaip ir bon, njingmapa pabrėžia dzogčeno praktikų svarbą.Njingmapos pasekėjų yra išsibarstę po visą Tibetą. Ypač daug jų Ladake ir Butane.[1]Njingma neturi didelių vienuolynų, praktikai buriasi į nedideles bendruomenes, tantros perduodamos per giminės liniją.Njingma tantras skirsto į išorines (krija-tantra, joga-tantra, ubhja arba čarja-tantra), kai išsivadavimo siekiama per tam tikras apeigas, veiksmus, ir vidines (mahajoga, anujoga ir atijoga arba dzogčenas), kurios atsietos nuo dievybių vaizdinių (idamų).












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