日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Il pleut encore《Blue Light Yokohama🍁You're My Only Shinin' Star》Jump Up! Seishun壊れたピアノ★기념일(記念日)Годовщина★L’Amérique du Nord北米人生「32周年」Pugilatio (moderna)『Will you stop being Japanese?アウェーの壁』(2019/06/02)Японские военнопленные в Советском Союзе/600’000 esclaves

Richmond Hill, ON Weather Jun 2 8:05 AM 13°C FEELS LIKE 13 Overcast 

Españolスペイン語→Yokohama (横浜市 Yokohama-shi)  es una ciudad japonesa ubicada en la región de Kantō, isla de Honshū. Es la capital de la prefectura de Kanagawa y la segunda ciudad más habitada del país por detrás de Tokio, con una población que supera los 3,7 millones de personas.
2019年6月2日(暗い日曜日=Dimanche(Sunday)
みなさん、おはようございます☆ こちらはまた苦手な「雨模様」(;__; ながら↑の写真、「32周年記念」→1987年6月2日。横浜本牧埠頭であります。翌日「メリケン」へ出発(弱冠18歳(苦笑))この当時は夜な夜な横浜にドライブ、繰り出していたもんでした。~♪遠い日のノスタルジア~♪ってところでしょうか

何度も触れたよう、このブログをはじめなければそれほど気にもとめていなかった日。しかし何があったわけでもないながら「誕生日」(私にとっては「名前」(本名)だの「毒親」「ご長男サマ」同様「呪われた日」でしかない)なぞよりよっぽど感慨が深かったのは確か⇒「康晴」(故緒方拳氏+ここ娘といっしょに笑ったのも懐かしい☆)「ちょっ、その名前やめてくれ」(本名「小林康晴」氏=溝口武弘(この人は何者なんやったっけ?)+早坂由紀夫)「親(森本レオ氏?)がつけた名前勝手に変えるもんじゃないよ」「別にあんたがつけたわけじゃねえだろ」https://www.youtube.com/watch?v=ioDpaKodF6M&t=3319sまさしく「山田修」(Changer votre nom(My government name) - Canada.ca)=☆怒羅権☆OSAMA+Sammy Yamada(+追悼・故加藤善博さん(秋田県出身・2007年に自殺(享年48歳)=ずっと大ファンでした(涙))サミー(悪童アヤラ) リッチモンド・ヒル PS:しばらくぶりに「拳闘我が命」ということで参照しました→立ちはだかった「アウェーの壁?」に跳ね返された(その’アウェー’ってのにずっといる私とかはどうなるんやろ(苦笑)) “Will you stop being Japanese?"(日本人やめますか?)=日本’国民’はとっくにやめたカナダ国籍日系人ながら(-_~;


(1)、1974年7月9日 WBA世界フェザー級王者決定戦 1位ルーベン・オリバレス(75勝(68KO)4敗1分(デビュー以来59連勝(56KO)→89勝(79KO)13敗3分)VS2位東洋王者歌川善介(25勝(6KO)4敗2分→27勝(8KO)7敗2分) ロスアンゼルス・フォーラム
ーオリバレスが7回、3度のダウンを奪い歌川をノックアウト。痛烈なKO劇で新王者に就く。全盛期は過ぎていたオリバレスとはいえ、’怪物’を相手に歌川(福島県出身)はよく戦ったと思う(イチファン見解)。この4戦後、後の世界王者故ロイヤル・小林(本名、小林和男(熊本県出身★追悼★2020年11月17日に死去=享年71歳)ミュンヘン五輪代表)と戦い、2回KO負けしたのが歌川のラストファイトとなる。オリバレスは以前来日し(71年)名古屋で東洋王者金沢和良(北海道出身)を14回にノックアウトした(バンタム級タイトル防衛(再戦)69年、メキシコに遠征した金沢を2回KOで退けている)。

*名古屋城を背景にガッツポーズのオリバレスと「試合前日、決戦地名古屋の公園でゆっくりとくつろぐ金沢」写真が忘れられません。
(2)、1977年2月12日 WBC世界ライト級タイトルマッチ 王者故エステバン・デ・へスス(48勝(27KO)3敗→57勝(32KO)5敗)VS挑戦者バズソー・山辺(26勝(18KO)6敗2分→26勝(18KO)8敗2分)プエルトリコ
ーへスス(地元プエルトリコでガッツ・石松に15回判定勝ち。王座奪取=アウェーの壁?)が初回から猛ラッシュ。山辺は懸命に打ち返したが、手数が違う。ダウンを奪われ、以後ワンサイドの展開。へススは6回、さらに2度倒し、サウスポーの(Buzzsaw=丸のこ)山辺をストップ。強かった。ハワイでデビューした強打の山辺は、3度目となった世界挑戦も実らず(日本でエスカレラ(プエルトリコ(10度防衛)+柴田国明に2回KO勝ちでタイトル奪取)に2度挑戦(6回TKO負け(ファンの大騒ぎを巻き起こした問題の一戦)・15回判定負け)。山辺(本名、山辺信二・茨城県大洗市出身)は鑑別所・少年院出の元不良少年=実在版「あしたのジョー」だった。キャリアの半分以上を海外で戦い(ガッツ石松に2度挑戦したアルツロ・ピネダ(メキシコ=初戦引き分け+再戦判定負け)を(ハワイで)8回にノックアウト)、引退時もロスアンゼルスに在住。25年ほど前、久しぶりに後楽園ホールに現われたという記事を読んだ(月刊『ワールド・ボクシング』誌)、笑顔の山辺(すっかり、やさしそうなおじさんになっていた)の写真がいっしょに添えてあった記憶が鮮明。結婚して、東京で「八百屋」を経営しているとのこと。

~♪月が波間に浮かぶと沈む夕闇に瞳わざとそらしたまま~ずっと今まで困らせてごめんね~大切なものそれはあなたよ~いつまでも側にいて~I love you~♪愛しのma cher ☆ミポリン☆へ(照+涙)ここ一週間ほど、上がってきた記事の関連で仕事中口ずさんでいました(;__;+「アウェー」にいる元同胞?畏れ多い(私にとっては令和元年ザ・ひろのみやサマご夫妻なんぞよりよっぽど)☆永遠のアイドル☆ながら思いっきり親近感(再照+涙) Bonjour Madame!! Comment ça va ?  Est-ce que vous êtes à Paris maintenant? Bonne Chance et merci beaucoup!!  Love from Canada Sammy 2019/06/02
Deutschドイツ語→Koganei (jap. 小金井市, -shi) ist eine Stadt in der Präfektur Tokio westlich von Tokio.
Françaisフランス語→Itabashi (板橋区, Itabashi-ku?) est un des 23 arrondissements spéciaux (特別区, Tokubetsu-ku?) formant l'ancienne ville de Tokyo, au Japon.


(1)、1973年12月5日 WBA世界J・ウェルター(スーパーライト)級タイトルマッチ 王者アントニオ・セルバンテス(コロンビア+65勝(31KO)9敗3分⇒91勝(47KO)12敗3分)VS挑戦者日本・東洋王者ライオン・古山(30勝(21KO)5敗2分⇒38勝(27KO)12敗4分) パナマシティ・パナマ
ーセルバンテス(通産16度防衛)が15回判定勝ちでサウスポー古山(本名、古山哲夫(宮城県出身))の挑戦を退けた。6度目の防衛に成功。「不倒王」の異名を持つ古山(キャリアを通じてダウンしたのは晩年。引退前の2試合(①クォーリー・フジ(ブルース・カリー)に5回KO負け②畠山昇にダウンを奪われ、10回判定負けで日本タイトル喪失=ラストファイト)だけ)。試合後セルバンテスは「もう彼とはやりたくない」ともらしたという。古山は物怖じせず前進。プレッシャーをかけ、よく攻めたが単発。しかしセルバンテスのベストパンチをたびたび食ったけど、微塵も揺るがず(この後に挑戦した同じく元東洋王者だった門田新一(恭明(サウスポー)愛媛県出身=ガッツ石松と1勝(KO)1敗(東洋タイトルを奪われた)+ハワイで元世界ライト級王者カルモナ(メキシコ+同国人のゴンザレス(石松が8回KO勝ちでタイトル奪取+再戦でも12回KO勝ち)に12回終了TKO負けで王座転落)を7回KOで破る殊勲)は8度のダウンを奪われ8回KO負け)。なお古山は翌年、イタリアの首都ローマにおいて空位のWBC王座をスペインのぺリコ・フェルナンデスと争い、終始優勢だったながら無念の判定負け(明らかに勝っていたといわれる=これこそ「アウェーの壁」かな?(私見)+さらに古山は試合前左拳を痛めており、ほぼ右1本で戦ったという)。そしてその2年後、サウスポー対決。日本で1度負けている(ノンタイトル(センサクの国際式2戦目)=7回傷による出血でTKO)故センサク・ムアンスリン(ぺリコ(来日し、期待のホープ元アマ日本王者+世界選手権(74年ハバナ大会)代表の大久保克弘(青森県出身・アマ時代、亀田昭雄にKO勝ち+無敗の3連続KO勝ち中)を8回にノックアウト「緊張して実力が出せなかったのが敗因」(故三迫仁志会長(元東洋フライ級王者・愛媛県出身)言★追悼★2019年9月に死去=享年85歳)に8回KO勝ちで王座を強奪(ムエタイ(キック)から転向後3戦目)+再戦でも15回判定勝ち(再びセンサク(ガッツ・石松に6回KO勝ち)の左を何発も浴びたが、ビクともしなかった)に挑戦し判定で敗れた。
(2)、1981年12月10日 WBA世界バンタム級タイトルマッチ 王者ジェフ・チャンドラー(26連勝(13KO)無敗2分→33勝(18KO)2敗2分)VS挑戦者東洋王者村田英次郎(19連勝(11KO)無敗3分→24勝(15KO)2敗3分) ニュージャージー州アトランティックシティ
ー東京での初戦は引き分けに終わった再度の無敗対決。チャンドラーが13回に村田(元高校王者)をノックアウト。初黒星。村田(滋賀県出身)は敵地で善戦したが、チャンドラーがインサイドから繰り出す鋭いパンチで沈められた(最後は右アッパー)。チャンドラーは8度目の防衛に成功。2年後、東京で行われた「ラバーマッチ」においてもチャンドラーは10回に村田をKOした(合計4度の挑戦が実らず。村田(WBC王者ピントールにも挑戦し引き分け「今日の村田にはいつものパンチの切れがなかった」(故金子繁治会長(元全日本新人王・東洋フェザー王者・新潟県出身)言★追悼★2015年2月に死去=享年84歳)東洋王座を12度防衛)は引退を表明=ラストファイト)。


(1)、1974年12月21日 WBA世界ライト級タイトルマッチ 王者ロベルト・デュラン(パナマ+46勝(39KO)1敗(ヘススに判定負け)=72勝(55KO)1敗=103勝(70KO)16敗)VS挑戦者日本王者高山将孝(東京五輪代表(136勝17敗)+21勝(8KO)5敗1分=22勝(8KO)6敗1分)コスタリカ
ーデュランが初回に3度ダウンを奪い高山(中国上海生まれ・東京都目黒区出身)をノックアウト。ライト級時代のデュラン(10連続KO防衛)はまさに「石の拳」そのもの。相手が悪過ぎたと思う(私見)。高山(早大出身=元全日本アマ王者)は↑の山辺の宿敵だった=1勝(9回KOでタイトル奪回=「ボクシングはケンカの延長線上にあるものではありません。少年院出を売り物にするなんて間違ってる」(高山言))1敗(判定負け(タイトル喪失)=「ボクシングもケンカと同じで、気合が大切だ」(山辺言))。ガッツ・石松とは10回引き分け。
(2)、1978年2月11日 WBC世界ウェルター級タイトルマッチ 王者カルロス・パロミノ(24勝(14KO)1敗3分=31勝(19KO)4敗3分)VS挑戦者東洋王者龍反町(55勝(31KO)9敗4分=57勝(31KO)12敗4分)ネバダ州ラスベガス
ーパロミノが7回KO勝ちで5度目の防衛に成功。反町(本名、反町則雄・東京都大田区出身+東洋王座を12度防衛)は3度目となった世界挑戦も実らず(①輪島功一(北海道出身)に15回判定負け②アルバラード(米原住民系+輪島と1勝1敗)に7回KO負け)。なおパロミノは30歳で引退(ベニテスに判定負けで王座転落+デュランに10回判定負けしたのがラストファイト⇒俳優に転身)した約18年後、48歳で再起=4勝(3KO=元世界王者レネ・アルレドンド(浜田剛史(沖縄県出身)と1勝1敗)に初回KO勝ちも含む)1敗(世界ランカー、ウィテカーに2度(判定負け)、デラホーヤ(8回TKO負け)にも挑戦したウイルフレド・リベラ(プエルトリコ)に善戦しながらも10回判定負け=ラストファイト)。
2019年6月30日(暗い日曜日=Dimanche(Gloomy Sunday)
みなさん、こんばんは☆今の職場もはやいもので「一周年」を迎えます。前にも触れたよう「古株」のひとりとなってしまいました(先日、イタリア系のおじさん(韓国人の奥さん)も別の場所に移ってしまった)。「我が国」はどうでしょうか?まだ「梅雨」真っ盛りかな?じとじと、じめじめと粒の大きい雨が一日中降り続く(どこへおもむいても湿気むんむん)忘れてしまいました=けど、苦手な季節だったので思い出したくもない(^_^;明日は「カナダデー」の祭日。今宵も早々とくたばることにします。今後も、よろしくお願いします。謝謝☆再見☆一路平安 サミー PS:↓愛しの女神☆りなてぃん☆お元気ですか?(涙)ここ数日、夢に出てきてくれました照+~♪きみはいま僕の太陽~♪また出てきて(笑)相変わらずよく考えてます再涙+☆妹さま☆もお元気であること祈ってます(ずっと心配)☆坊やも大きくなられたことだとします+毎日大好き!! ☆永遠幸福☆安全祈願☆破邪顕示☆

Españolスペイン語→La prefectura de Ōita (大分県 Ōita-ken) está localizada en la isla de Kyūshū en Japón. La capital es la ciudad de Ōita. Românăルーマニア語⇒Ōita (大分市 Ōita-shi) este un municipiu din Japonia, centrul administrativ al prefecturii Ōita de pe insula Kyūshū.

나카니시 리나(일본어: 愛しの中西 里菜さん☆,1988년 6월 26일- ) 또는 마구치 리코는 여성 아이돌 그룹「AKB48」의 전팀A의 멤버이다. 오이타현오이타 시 출신. 제1기 AKB48멤버 오디션에서 7024명 중에서 선택된
 24명 중 하나. BELLTECH PRODUCTION소속+Françaisフランス語→RinaNakanishi(Dearest中西里菜ちゃん☆, Nakanishi Rina?) née le 26 juin 1988 à Oita,Japon est une chanteuse et idole japonaise membre du groupe de J-pop AKB48Españolスペイン語→Rina Nakanishi( Ma cher☆中西 里 菜ちゃん☆Nakanishi Rina, nació el 26 de junio 1988 en la Prefectura de Oita, Kyushu) es unaex-actriz pornográfica japonesa AV
Idol con el nombred  y ex cantante del famoso grupo musical dej-pop femenino AKB48.


(1)、1971年10月16日 世界ライト級ノンタイトル10回戦 ロベルト・デュラン(25連勝(22KO)無敗)VS元王者小林弘(61勝(10KO)9敗4分)パナマ・パナマシティ
ーデュランが7回KO勝ち。小林のラストファイト。19歳の若武者デュランは元気溌剌。初回からラッシュをかけるが、小林(群馬県出身)はカウンターで応戦。たびたび命中させデュランの出鼻を挫き、大きくのけぞらせた。しかし湿気むんむんで異常な暑さの会場内。7回、デュランはロープに詰めワンツーを炸裂させる。小林は前のめりに倒れ、そのまま10カウント。
 (2)、1976年5月8日 WBC世界ライト級タイトルマッチ 王者ガッツ・石松(31勝(17KO)11敗6分=31勝(17KO)14敗6分)VS挑戦者エステバン・デ・へスス(46勝(27KO)3敗)プエルトリコ・バヤモン
ーへスス(デュランと1勝2敗)が15回判定勝ちで王座奪取。石松(本名、鈴木有二・栃木県出身+デュランに挑戦し10回KO負け)は6度目の防衛に失敗。へススは評判が高い石松の「幻の右」を警戒して、ヒット・アンド・アウェイ戦法、「勝ち」に徹した。随所に連打をまとめては離れ、足を使い。打ち合いを避け、決して深追いせず。石松は完全に空回りさせられた。3-0の完敗(ジャッジ3人とも150-135=フルマークの採点)。石松は減量苦からライト級では限界だったのかもしれない。なお次の試合で2階級制覇を志し、石松が↑の故センサクに挑戦した際、スパーリングパートナーを務めた古山談(センサクと2度戦った+双方サウスポー)→(親友としての立場を強調しながらも)「8-2」でセンサク有利と予想。「疲れも出てるんでしょう。世界王者だった頃は、なんともいえない巧さみたいのがあったんだけど、最近はぼくのパンチも当るようになってきている」パンチ力も「8-2」でセンサクだと語り、すべてにおいてセンサクが一枚上と結論していた(そのとおりの結果となってしまう=6回、石松は急に疲れ強烈なボディーブローにより、2度のダウンを奪われ立ち上がれなかった)。石松はこの1戦後、新井容日(元日本王者)に10回判定負けしたのがラストファイト。余談としてセンサク(ムエタイ(キック)時代は、日本の玉城良光に内臓破裂の重傷を負わせたほどの実力者=59
勝(55KO)9敗+14勝(11KO)6敗)はやはり「怪物」だった(笑)。インターバルにコーナーでガブガブ水は飲むし、試合後「今からでももう一試合できる。精力がありあまってとても眠れない」といい「トルコ」(現ソープ)に出撃(3軒も回ったらしい(再笑)「とにかく奴は人間離れしているよ」と関係者をあきれさせたそう(『世界名ボクサー100人』より)。そしてヘスス(マフィアとも関係が深かった。ヘロイン・コカインなどの麻薬常習者。80年に、交通トラブルとなった17歳の少年を射殺(コカインでラリッていた)。殺人罪で終身刑の判決。89年、恩赦を受け釈放された1ヵ月後に、末期AIDS(エイズ=麻薬の注射器回しで感染)により死去。享年37歳)もこの「暴れん坊」センサク(2009年に肝炎で死去。享年48歳)もとっくに故人となってしまった(涙)。



(1)、1982年7月2日 WBA世界J・ウェルター級タイトルマッチ 王者故アーロン・プライヤー(アマ204勝16敗(ハーンズに判定勝ち)+30連勝(28KO)無敗=39勝(35KO)1敗)VS挑戦者亀田昭雄(アマ高校選手権・全日本大学選手権制覇・75年モントリオール・プレ五輪銀メダル(78勝(47KO)7敗)+17連勝(14KO)無敗=日本王者=27勝(21KO)4敗)オハイオ州シンシナチ
ー亀田が初回に先制のダウンを奪いながらも、プライヤー(異名⇒シンシナティの荒鷹+8連続KO防衛達成)は合計5度倒し返し6回TKO勝ち。サウスポーの亀田は右フックのカウンターから左ストレートをたびたび当てたが、ブランクが響いた。亀田の全盛期だった。三原(群馬県出身(高校・大学王者(日大)↓故桜井↑輪島の後輩、大久保と同門(三迫ジム)+カルレ(ウガンダ(サウスポー)・世界選手権(74年ハバナ大会)優勝金メダル・来日、(無敗対決)王者の地元秋田において、工藤政志からタイトル奪取→4度防衛)への挑戦が流れた(東洋タイトル防衛戦(対李仲烈(韓国)12回判定勝ち)ライブ観戦しました+角海老ジムのスパーリング大会でも見たことあります笑)→レナード(モントリオール五輪優勝金メダル・カルレ(初黒星)に9回KO勝ちでタイトル奪取)が返上したタイトルをアメリカでフラット(米・白人)と争い(無敗対決)判定勝ちで戴冠。初防衛戦でムーアに6回KO負けし、転落)にしろ亀田(栃木県出身+はじめは、WBC王者マンビー*(米黒人(戴冠前、センサクに挑戦したが判定負け)初防衛戦では前王者故へススに13回TKO勝ち→5度防衛)に挑戦するはずだった)にしろ、挑戦の時期を逃がした面があり。「非常に距離の測定のうまい、いい選手だ」(プライヤー言)。解説陣も亀田の冷静さと強打、センスの良さを誉めていた。「野性的なボクシングしますね。パンチもあるし、日本人には絶対ないボクシング・・・自分がカウンターで1回倒したんですよ。でもそれが効いてないような感じで、すぐ立って来るんですよね・・・本当はうんと勝ちたかったですけどね(苦笑)」(亀田談)PS:解説で↑2人とも「東京出身」と連呼されていた(アメリカ式「いいかげん」(苦笑))。
*Dec 20, 2019 —★追悼★故ソウル・マンビーSaoul Paul Mamby (肺癌のため死去、享年72歳June 4, 1947 – December 19, 2019)王座転落(ヘイリー(米黒人+ブルース・カリーに判定負けで喪失)に判定負け)後、「日本でアカイ(赤井)とやるかもしれない」事故のことを伝えると、大変心配していたという。
(2)、1987年7月1日 IBF世界J・ウェルター(スーパーライト)級タイトルマッチ 王者テリー・マーシュ(イギリス=25連勝(10KO)無敗1分)VS挑戦者亀田昭雄(27勝(21KO)3敗)イギリス・ケンシングトン
ーマーシュが7回に亀田をストップ。マンリー(モスクワ五輪米代表=カリーや故シュラーと同僚)から奪ったタイトルの初防衛に成功。さらにこれが2人のラストファイトとなった(マーシュは「てんかん」の発作に見舞われたのが理由)。なお亀田は晩年、全盛期は過ぎていた。昔日の面影なく、ほぼワンサイド。いいところなくマーシュに打ちまくられ惨敗。亀田(ミカド(協栄)ジムから奈良池田ジムへ移籍)は峠を越した後(東洋タイトルに挑戦し2連敗した金応植戦が最後)での「IBF日本」(当時は認められておらず=業界追放(日本ボクシングコミッションからライセンス剥奪)→破門同然)参入(IBFバンタム級王者だった同僚新垣論がセコンドについていた)。試合前、マーシュへの時期挑戦者として渡英していた故カマチョを挟んでの2人、笑顔の記念写真も思い出す。ただ亀田はもはや、世界タイトルに挑戦できるレベルには残念ながらいなかった。
*2023/05/03★追悼★故亀田昭雄さんLate Mr. Akio Kameda4月16日、栃木県佐野市内の病院で死去Died April 16 at a hospital in Sano City, Tochigi Prefecture(享年65歳)。
(3)、1992年12月21日 WBA世界J・ミドル(スーパーウェルター)級王者決定戦 1位フリオ・セサール・バスケス(39勝(29KO)1敗=68勝(43KO)13敗1分)VS挑戦者2位上山仁(24勝(15KO)1敗1分=32勝(20KO)2敗1分)アルゼンチン・ブエノスアイレス
ーサウスポーのバスケスが初回、3度のダウンを奪い上山をノックアウト。新王者に就いた。サウスポーが苦手な上山(青森県出身)のスパーリングパートナーには、↑の亀田が買って出たそう。バスケスはこのタイトルをサウスポーのウィテカー(ロス五輪金)に判定で奪われるまで(3回は先制のダウンを奪った)、11度(3KO)防衛する(強敵ライトにも判定勝ち)。ウィテカーが返上したタイトルをダニエルズ(サウスポー)と争い、ずっと劣勢だったが9回起死回生の逆転KO勝ち(左ストレート一発で沈めた)で奪回=初防衛戦でフランスのブードゥア二(ソウル五輪銀)に5回KO負け。再び王座転落)。一方、上山は日本タイトルを20度防衛(宿敵一度KO負けしている吉野弘幸に7回KO勝ちも含む)。バスケスは序盤戦(出会い頭)が恐ろしく強い選手だった。中盤から後半にもつれこむと、凡戦になる試合も多かったが速攻が功を奏した場合はすさまじい破壊力を発揮。この一戦はまさしくだったといえる(上山は運がなかった)。


(1)、1985年4月26日 IBF世界バンタム級タイトルマッチ 王者新垣論(アマ25勝(17KO)3敗+8勝(6KO)1敗1分=11勝(8KO)3敗1分)VS挑戦者ジェフ・フェネック(ロス五輪代表(26勝2敗)+6連勝(6KO)無敗=25連勝(19KO)=29勝(21KO)3敗1分) 豪州・シドニー
ーフェネックが9回に新垣をストップ、タイトルを奪取した。新垣(決定戦においてフィリピンのマガラーノ(東洋王者金成南(渡嘉敷に挑戦し判定負け)を3回にノックアウトする番狂わせで浮上)に8回TKO勝ちで奪取)は2度目の防衛成らず。サウスポーの新垣は敵地でよく戦ったが、これも相手が悪過ぎたと思う(フェネックは後に3階級制覇した)。フェネック(バンタム級時代は鎧を着たような(ヘラクレスみたい)ヒットマッスル)の突進と攻撃は迫力満点。そして何よりも頑丈。さばききれなかった。新垣をはじめてみたのはむろん、ずいぶん後にビデオからながら(デビュー前から「具志堅2世」鳴り物入りのホープとして注目されていた+関東地区にはテレビ放送がなかった)。初の世界戦となったIBFJ・フライ級王者決定戦でフィリピンのドディ・ボーイ・ぺニャロサ*(サウスポー+末弟は日本で川島郭志(徳島県出身)から判定でタイトルを奪った(サウスポー対決)ジェリー・ぺニャロサ)に12回TKO負けした試合(その後、同じくIBFジャパンでデビューした郭志の兄川島志伸(韓国のサウスポー権順天(渡辺二郎(岡山県出身+サウスポー)のWBAタイトルに挑戦し13回、負傷によるTKO負け)とのIBFJ・バンタム級王者決定戦で3回KO負け)とIBF公認日本タイトルを争い(開催地北京)、5回TKO勝ちした)。元アマエリート(沖縄県糸満市出身+沖縄水産=高校王者)らしいきれいなスタイルのサウスポー。スピードもパンチもあり、すっかりファンになってしまった。
*ぺニャロサは晩年再び来日。元日本王者のピューマ・渡久地(本名渡久地隆人(沖縄県石川市(現うるま市)出身)高校選手権準優勝(興南高)決勝で↑川島郭志に判定負け(プロで雪辱(無敗対決)6回TKO勝ち=忘れられない名勝負でした☆)全日本新人王)と対戦するが、10回判定負け。
(2)、1985年8月23日 IBF世界バンタム級タイトルマッチ 王者ジェフ・フェネック(8連勝(8KO)無敗)VS挑戦者前王者新垣論(8勝(6KO)2敗1分)豪州・シドニー 
ーフェネックが4回TKOで新垣を返り討ちにした。3回終了後、新垣は瞼からの出血がひどくドクターストップ。現在から回想しても、新垣はIBF(当時はまだ新設されたばかり)に移らずあのままWBAタイトルに挑戦が実現していたらと悔やまれる。渡嘉敷(沖縄県コザ市出身)VSマデラが合計4戦(マデラの2勝1敗1分)にも及んでしまい(新垣は5戦目に世界ランカー・元東洋王者の金龍玄(具志堅(沖縄県石垣(島)市出身+興南高=高校王者)に挑戦し判定負け)と引き分けた)、止むを得ない選択だったながらイチファンとして惜しい。


(1)、1971年11月6日 ノンタイトル10回戦 WBA世界J・ライト級王者 故アルフレド・マルカノ(ベネズエラ+34勝(23KO)8敗4分=43勝(28KO)14敗5分)VS日本J・ライト級王者岩田健二(23勝(10KO)4敗1分=24勝(11KO)11敗2分)ベネズエラ首都・カラカス
ーマルカノが4回に2度倒し岩田をノックアウト。岩田(岡山県出身)は勇敢に真っ向から打ち合いを挑み。いいパンチも命中していた。マルカノは1戦前、日本で小林弘に10回KO勝ち。タイトルを奪ったばかり(次戦でハワイヤン・フィリピノのビラフロアに15回判定負け。王座転落)。マルカノいわく「小林戦よりもきつかった」。 岩田は後に、ガッツ・石松に初回KO負けしビラフロアにも初回KO負けで敗れた(岩田のラストファイト)。マルカノは2009年に死去(享年65歳)。引退後は不遇の日々を過ごし、さびしい晩年だったらしい。
(2)、1973年3月17日 ノンタイトル10回戦 ダニー・ロペス(16連勝(16KO)無敗=23連勝(22KO)→宿敵チャコン(ホープ対決)に9回KO負けで初黒星。連勝ストップ=42勝(39KO)6敗)VS遠藤健司(21勝(11KO)9敗=23勝(13KO)15敗)カリフォルニア州・ロスアンゼルス
ーすさまじい打撃戦となったが、遠藤(神奈川県出身)は何度も若き新鋭ロペスを窮地に追い込む。しかしロペスは初回に1度、2回に3度のダウンを奪い。遠藤をKOした。なおロペスは4ヵ月後、ハワイのホノルルで牛若丸原田にも3回KO勝ちしている。後に↓のオリバレスにも7回KO勝ち。


(1)、1967年10月14日 バンタム級・ノンタイトル10回戦 ルーベン・オリバレス(29連勝(28KO)無敗1分)VS牛若丸原田(17勝(7KO)2敗3分=36勝(14KO)20敗14分)メキシコ・メキシコ・シティ
ー若武者オリバレスが初回に原田(本名、原田勝広)からダウンを奪い、2回にストップ勝ち。新人時代のオリバレス。迫力は圧巻。これまた相手が悪過ぎた。ながらも、この当時のオリバレスと敵地で堂々渡り合った(全盛期のタイソンやチャベスと戦ったようなもの)日本人選手がいるというだけで感服してしまう。さらに原田は来日した、後の世界王者カスティーヨ(メキシコ+オリバレスの連勝を「59」でストップ(14回TKO勝ち、王座奪取)トータルで三度戦い=1勝2敗)と戦い、引き分けている。
(2)、1969年5月23日 世界バンタム級ランカー対決・ノンタイトル10回戦 ルーベン・オリバレス(50連勝(48KO)無敗1分)VS故桜井孝雄(東京五輪優勝金メダル(138勝13敗)+25勝(4KO)1敗=30勝(4KO)2敗)カリフォルニア州・ロスアンゼルス
ーオリバレスが6回に3度ダウンを奪い、桜井をノックアウト。破壊力満点のパンチを出しまくり、突進してくるオリバレス。桜井(千葉県出身)は巧くいなしながら善戦。しかし目的意識に混迷があったらしい(引退後の談話から)。そして、この頃がオリバレスの全盛期だった。「桜井は巧くて、素晴しい選手だった」(オリバレス言)。なお桜井は極力危険を避ける(冒険はしない)「安全運転」(故ローズ(豪州原住民⇒兄ファイティング・原田(東京都世田谷区出身)に判定勝ちでタイトル奪取(3度防衛)+オリバレスに5回KO負けで転落)への挑戦も2回に奪った先制のダウンを生かせず、判定負け)を批判されるとこう反論していた→「鼻がヒン曲がったり、耳がカリフラワーみたいになったりするような試合をすれば、確かにファンは喜ぶでしょう。でも、俺はボクサーをやめてからも、一生その顔で生きていかなければならない。そんな俺を誰が相手にしてくれますかね。手を叩いて喜んだファンだって、責任を取ってはくれないでしょう?」ということでした(桜井の口癖だったという)。


(1)、1974年7月9日 バンタム級ノンタイトル10回戦 アルフォンソ・サモラ(15連勝(15KO)無敗=29連勝(29KO)=33勝(32KO)5敗)VS内山真太郎(38勝(8KO)6敗5分=38勝(8KO)9敗5分)カリフォルニア州ロスアンゼルス
ー期待のホープ(ミュンヘン五輪銀メダル=104勝4敗)サモラがサウスポーの内山に6回KO勝ち。5回にサモラが放った左アッパーのボディーブローがカウンターとなり、レバー(肝臓)をえぐった。内山(中国北京生まれ・千葉県出身)はダウン。続く6回、サモラの右ストレートを浴びた内山は仰向けに倒れ、立ち上がれなかった。とはいえ↑のオリバレス(に限らずロペスにしろ)とおんなじ。無敗時代連続KO中のサモラと日本選手が敵地で戦った。それだけで脱帽、頭が下がる。
(2)、1973年10月17日 WBA世界J・ライト級タイトルマッチ 王者柴田国明(40勝(21KO)4敗3分=47勝(25KO)6敗3分)VS挑戦者前王者ベン・ビラフロア(50勝(28KO)5敗3分=56勝(31KO)6敗6分)ハワイ・ホノルル
ー柴田は6ヶ月前、同じ会場で豪打のサウスポー、ビラフロアを完封。15回判定勝ちでタイトルを奪った(2階級制覇)。今度はビラフロアが初回、左一発で柴田(茨城県出身)を沈めた。見事なKOで雪辱なる。タイトル奪回に成功。
(3)、1974年8月24日 WBA世界J・ライト級タイトルマッチ 王者ベン・ビラフロア(52勝(30KO)5敗4分)VS挑戦者上原康恒(アマ117勝(87KO)8敗(沖縄県那覇市出身・沖縄中央高(高校選手権優勝)・日大(全日本王者(2階級制覇))+10勝(8KO)1敗=27勝(21KO)5敗)ハワイ・ホノルル 
-ビラフロアの2回KO勝ち。初回、上原は右ストレートを何発か命中させ、積極的に攻撃した。だが、真正面での打ち合いになるとビラフロアは強い。まず、左ストレートをテンプルに叩き込みダウンを奪い。2回、さらに2度倒し上原をノックアウト。2度目の防衛に成功した。

(1)、1970年6月6日 WBA・WBC世界ライト級タイトルマッチ 王者イスマエル・ラグナ(パナマ+62勝(37KO)6敗1分=65勝(37KO)9敗1分)VS挑戦者ガッツ・石松(16勝(10KO)5敗4分)パナマ・シティー
ーラグナの9回TKO勝ち。ラグナは故マンド・ラモス(初防衛戦では日本の沼田義明をロスアンゼルスに迎え、6回、ボディーブローでノックアウトした)から奪ったタイトルの初防衛に成功。次戦でイギリスのケン・ブキャナン(若きデュランが13回KO勝ちでタイトル強奪)に判定負けし王座転落(再戦も判定で敗れた)。後に石松は、そのブキャナンの挑戦を15回判定勝ちで退けている(しかしブキャナン(華麗だったフットワークは別人のように重かった)は全盛期を過ぎていた)。
(2)、1973年9月8日 WBA世界ライト級タイトルマッチ 王者ロベルト・デュラン(37勝(33KO)1敗)VS挑戦者ガッツ・石松(25勝(13KO)10敗5分)パナマ・シティー
ーデュランが10回に石松から3度のダウンを奪いKO勝ち。↑の小林同様、異常な暑さの場内で石松はよく戦ったと思う。ながら全体的にはクリンチが多く、盛り上がりに欠ける試合だった(イチファンの感想)。噛み合わず。デュランは大振りのパンチが目立ち(的中率も悪かった)、あまり調子は良くなく、石松も消極的だった。ただいずれにせよ、「アウェー」云々無関係に相手が悪過ぎたのは他の名王者に挑戦した日本選手たちと同じ(独論)。



(1)、1969年7月28日 WBC世界フェザー級タイトルマッチ 王者ジョ二ー・ファメション(豪州+51勝(18KO)4敗6分=56勝(20KO)5敗6分)VS挑戦者元2階級王者ファイティング・原田(54勝(21KO)5敗)シドニー
ー原田は3度のダウンを奪いながらも、15回判定で敗れる。ファメションは初防衛に成功。ながら明らかな地元判定に泣いた。主審(ただひとりのジャッジ=レフェリー)は元世界王者のウイリー・ペップ(豪州人)=当時は5点方式=70対69につけた)。東京での再戦は14回KO負け(原田(本名、原田政彦)のラストファイト)
(2)、1969年10月4日 WBA・WBC世界ライト級タイトルマッチ 王者故マンド・ラモス(26勝(19KO)3敗=37勝(23KO)11敗1分)対挑戦者元WBCJ・ライト(スーパーフェザー)級王者沼田義明(37勝(11KO)5敗2分=44勝(12KO)8敗3分)カリフォルニア州ロスアンゼルス
ーラモスが合計4度のダウンを奪い、6回に沼田(北海道出身)をKO。初防衛成功。これがラモス(弱冠20歳(小林弘にも10回判定勝ち)+2008年に死去(飲酒と薬物の影響で心臓を病んでいた)=享年59歳)のベストファイト。さらに最盛期の年となってしまう。体格にも恵まれた天才がゆえの自信過剰で練習嫌い。素行が悪い(沼田戦の1ヵ月後(遊びほうけ、酒と麻薬に溺れていた)、マリファナ不法所持で逮捕)。「ラモスの素質が驚くスピードで減速して行く」そして次戦においてラグナに9回KO負けの惨敗でタイトル喪失。「努力のない人間に対し、勝利の女神はいつまでも微笑んではくれなかった」(名ボクサー100人)。後にカラスコ(スペイン)に15回判定勝ち(決定戦は9回失格負け)で王座に返り咲く(再戦でも判定勝ち)。ながらカルモナに8回KO負けであえなく転落。


(1)、1967年8月17日 WBA・WBC世界フライ級タイトルマッチ 王者オラシオ・アカバロ(アルゼンチン+74勝(34KO)2敗6分=68連勝)VS挑戦者前王者故海老原博幸(55勝(30KO)3敗1分=62勝(33KO)5敗1分)ブエノスアイレス
ー両者の再戦。サウスポー対決。初顔合わせ同様、僅差の展開だったがアカバロ(日本での王座決定戦=高山勝義(千葉県出身・サウスポー)に判定勝ちで戴冠)が海老原(東京都福生市出身)を判定で退けた。アカバロのラストファイト。そして海老原は度重なる拳の負傷(癖になってしまっていた)により、もう限界だったかもしれない。アカバロは3戦前に再び来日し、故田辺清(ローマ五輪銅(青森県出身=今度は世界戦での再戦が決まっていたが、網膜剥離で引退を強いられる)にノンタイトルながら6回TKO負けした(田辺(隣りに座る田辺に、海老原が左拳をみせ骨折した個所(中手骨⇔metacarpal bone(s))を説明していた写真も思い出す)のラストファイト)。
(2)、1972年8月18日 世界フェザー級ノンタイトル10回戦 エデル・ジョフレ(ブラジル+59勝(42KO)2敗4分=72勝(50KO)2敗4分)VSシゲ・福山(19勝(13KO)6敗2分=27勝(20KO)17敗3分) サンパウロ・ブラジル
ージョフレが福山に9回KO勝ち。ジョフレは原田に連敗したあと、13連勝(7KO)中。しかし、この時点でもう全盛期は過ぎていた。後に「リトル・クレイ」(小さなアリ)の異名を持つ、ホセ・レグラ(ラモス(来日し、関光徳に6回KO勝ちで世界フェザー級タイトル防衛成功→「ゴリラのような威圧感」(故関の談話)、ナポレス(セミで世界10位吉本武輝を初回にノックアウト+晩年(世界ウエルター級王者時代=通産13度防衛)、再び来日し龍反町と2REX=「いやあ、参った。怖くてしょうがなかったよ」(反町言))などと同様。59年のキューバ革命後、メキシコに亡命)に判定勝ちでWBCフェザー級タイトルを奪い、2階級制覇(初防衛戦は、前王者のサルディバル(ラモス(アマ時代も74連勝無敗+プロ41連勝無敗3分)に12回KO勝ちで奪取(ラモスの初黒星)+レグラに判定勝ち)を4回にノックアウト)を達成。福山(本名、福山茂文・鹿児島県出身)は数ある世界のトップボクサーたちと敵地で戦い、名が知られた選手だった。この当時の「世界王者」と日本選手の距離は、今とは比べものにならない(階級(も少ない)が重くなれば、なるほど)=「雲の上」の人。顕著な例として①東洋無敵だった故金子繁治(敬虔なカトリック教徒・フィリピンの英雄だった後の世界J・ライト級王者故エロルデに4戦全勝)もまさに全国民の期待を担い、「後楽園球場」で世界フェザー級王者故サンディ・サドラー(米・黒人(↑故ペップのライバル)もう晩年だった+引退後、フォアマン(攻撃面担当)のトレーナー)にノンタイトル戦とはいえ挑んだが敵わず、6回TKO負け②来日し同じく東洋無敵の反町を相手にせず2回ノックアウトに葬った世界ランカーアドルフ・プルート(米黒人選手)はナポレスと2度戦い2度とも惨敗した(3回KO負け・(世界戦)2回KO負け+反町快心の右ストレートをまともに浴びながら、プルートはケロリとしていた③世界挑戦を賭けたこちらも東洋無敵のムサシ・中野(世界3位(サウスポー)+12連続KO勝ち中)を3回KO(実力差は歴然、完敗だった)で退けたアーニー・ロペス(世界5位・(↑ダニーの長兄)米原住民系)もナポレスに2連敗(世界戦→15回KO負け・7回KO負け)。さらに1ドル「360円」の固定価格時代の「世界」(全地球)である。特に島国日本からの遠さは、まさに「別の惑星」なみ。海外への飛行機旅、パスポート(限られた人間だけ)・・・スマホもネットも何もない時代。「アウェー」どころの話じゃなかった。現在からは想像すら難しいと思います。


(1)、1966年8月7日 WBA・WBC世界フェザー級タイトルマッチ 王者故ビセンテ・サルディバル(30勝(24KO)1敗=37勝(26KO)3敗)VS挑戦者故関光徳(54勝(33KO)8敗1分=61勝(35KO)11敗1分)メキシコ
ーサウスポー対決。サルディバルが15回判定勝ちで4度目の防衛に成功。「名刀正宗」の異名をもつ関(東京都北区出身)。4回に左ストレートのカウンターを炸裂させ、ダウンを奪う殊勲。「悔いなき打撃戦」(スポーツ新聞)。サルディバルはラモスから奪ったタイトルを8度防衛(5KO)。一度は引退した。しかし事業に失敗しカムバック。すでに全盛期は過ぎていた。豪州のジョ二ー・ファメションに判定勝ちで王者に返り咲いたが、初防衛戦において柴田に13回TKO負けを喫し、王座転落。サルディバルは85年に癌により死去(享年45歳)。引退後はかたくなに心を閉ざし、孤独な晩年を送っていたそうである。外界との接触を一切断ち、交流を求めた元ライバルラモスからの通信にも応じなかったそうだ(ラモスは非常に残念がっていた)。
(2)、1967年1月29日 WBC世界フェザー級タイトルマッチ 王者ビセンテ・サルディバル(31勝(24KO)1敗)VS挑戦者関光徳(55勝(34KO)9敗1分)メキシコ
ーサルディバルが7回に関をストップ。雪辱ならず。


(1)、1968年1月23日 WBC世界フェザー級王者決定戦 1位ハワード・ウィンストン(59勝(26KO)5敗=61勝(27KO)6敗)VS2位関光徳(61勝(35KO)10敗1分)イギリス・ケンシングトン
ーウィンストンが9回TKO勝ちで新王者に就く。不可解な幕切れとなった1戦。ほぼ互角の展開だったながら、9回にレフェリーが関の傷をドクターに見せようと試合を中断した際、ストップと勘違いした地元ファンがリング上に雪崩込み、そのままウィンストン(この前にサルディバルに挑戦したが、2連敗(1KO負け))のTKO勝ちとなってしまった。5度目の世界挑戦(フライ級王者ポーン・キングピッチ(タイ)に挑戦し、判定負け)が実らなかった関のラストファイト。ウィンストンは初防衛戦でレグラに5回KO負けでタイトル喪失(ラストファイト+レグラは初防衛戦でファメションに判定負け=王座転落)。なお、レグラは後に日本の柴田に3回KO勝ちで王者に就いたサンチェスから13度のダウンを奪い、10回KO勝ちでタイトル奪回(初防衛戦においてジョフレに判定負け)。
(2)、1978年6月10日 世界フェザー級ノンタイトル10回戦 ショーン・オグラディ(56勝(54KO)1敗(ダニー・ロペスに4回KO負け)=81勝(70KO)5敗)VSシゲ・福山(27勝(20KO)13敗3分)アメリカ・オクラハマ
ーオグラディ(後のUSAチャンネル解説者)の5回TKO勝ち。オグラディは出血が激しかったが、福山からダウンを奪いストップした。最後に、これは何も「アウェーの壁」に限った話ではないにせよ。「日本人が勝たなきゃだめ」「負ける」(のは許せない)試合は見ない(汚い野次を飛ばしたりする)⇒ザ「我が国」式、(どの国でも一定はあるにせよ)偏狭民族(排他)的プチナショナリズムな「結果至上主義」(’相手側’及び’内容’や、背景は一切無関係)はむかしから苦手の一言だった(正直「ヘド」が出るほど嫌い=「国際」「世界」の観点から)。純粋に「スポーツ」(ボクシングだけではない)としてもさることながら、「アウェー」に住む「ガイジン」の1人が長くなればなるほどそう。つまり幼少時から(来日した王者や挑戦者の出身国そして育ち、民族または言語などに興味を持って調べたものだ)すでに「異端」であったということ(苦笑)。


①Юки Кудо (яп. 工藤 夕貴 Кудо Юки), 17 января 1971 года, Хатиодзи, округ Токио — японская киноактриса и певица②Itsumi Osawa (Japanese: 大沢 逸美, Hepburn: Ōsawa Itsumi, born March 23, 1966 in Hokkaidō, Japan) is a Japanese actress, author, and singer③Хіроко Аота青田 浩子 ( Hiroko Aota , 1 вересня 1966  -) — колишня японська актриса і талант . Те саме справжнє ім'я+아오타 노보루青田 昇Noboru Aota⇒1985年5月20日、0対5から佐野(仙好・群馬県出身)Noriyoshi Sano「なんでここで佐野くんを出すんでしょう?云々」満塁弾、真弓(明信・福岡県出身)Akinobu Mayumi「真弓くんは最近どうもバットが振れてないどうこう」2ランで阪神大逆転!「・・・(故青田氏)」笑=阪神ファンなので再笑https://www.youtube.com/watch?v=rot85s6Hnyc
①《Jump Up! Seishunジャンプアップ!青春》 (Skoči! Mladost) je kontinuirani TV 1986.26. ožujkado②Meiko Nakahara, pseudonimo di Meiko Obara (中原 めいこ; Prefettura di Chiba, 8 maggio 1959), è una compositrice e cantante giapponese di genere pop e city pop.

*Españolスペイン語→Takako Uehara (上原 多香子 Uehara Takako?), nacida en Okinawa, Japón, el 14 de enero de 1983, es una cantante de J-Pop. Es miembro del grupo musical Speed.

①シベリア抑留(シベリアよくりゅう)は、第二次世界大戦の終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜らが、ソビエト連邦(ソ連)によって主にシベリアなどへ労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する、日本側の呼称である。ソ連によって戦後に抑留された日本人は約57万5千人に上る。厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約5万5千人が死亡したРусскийロシア語→シベリア抑留После капитуляции Японии 1 070 000 японцев были взяты в плен Красной армией в Маньчжурии, Южном Сахалине и Корее и высланы в лагеря. По данным министерства здравоохранения, труда и благосостояния Японии, 730 000 из них были возвращены в Японию после стабилизации советско-японских отношений.

②Deutschドイツ語→„Ikoku no Oka“ ist ein japanisches Volkslied, das von in Sibirien internierten Soldaten gesungen wurde

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