日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☭️Государственный гимн СССР☆Товарищ!Ю́рий Влади́мирович Андро́пов「ペレストロイカの先駆者」-志し半ばで死去-ユーリ・アンドロポフ書記長🍁Tribute☭️Soviet Anthem~♪Единый, могучий Советский Союз!団結した強力なソビエト連邦万歳!~♪Funeral of Yuri Andropov★1984


ロシア語⇒ユーリ・アンドロポフ=Ю́рий Влади́мирович Андро́пов (2 июня 1914, станция Нагутская[8], Ставропольская губерния — 9 февраля 1984, Москва) — советский государственный и политический деятель, руководитель СССР в 1982—1984 годах. Генеральный секретарь ЦК КПСС (1982—1984), Депутат Верховного Совета СССР 3-го и 6-10-го созывов: Совета Национальностей от Карело-Финской ССР (3-й созыв, 1950—1954)[9], Совета Союза от Латвийской ССР (6-й созыв, 1962—1966), Эстонской ССР (7 созыв, 1966—1970) и Московской области (8-10-й созыв, 1970—1984). В Верховный Совет 9-го созыва избран от Каширского избирательного округа № 29 Московской области. Председатель Президиума Верховного Совета СССР (1983—1984). Председатель Комитета государственной безопасности СССР (1967—1982).

18年の治世・ブレジネフ時代の終焉:
ポーランドで戒厳令が施行されてまもない12月19日(1981年)、ソ連のブレジネフ書記長は75歳の誕生日を迎えた。すべての全国紙は一面にブレジネフ書記長の大きな写真と、ソ連共産党、政府、社会主義諸国首脳の祝電を掲載した。ヤルゼルスキー首相はさすがにポーランドを離れられなかったが、東欧各国首脳はモスクワに足を運び、祝賀を述べた。
クレムリンの実力ナンバー2といわれるスースロフ政治局員から5つ目のレーニン勲章を授与されたブレジネフ書記長は、すでに表情の乏しい顔に精一杯の喜びをあらわした、ちょうどこの頃がブレジネフ書記長の「最後の始まり」だった。
そして、その「最後のはじまり」を示す第一弾ともいうべきなのが、レニングラードの文芸誌『アウロラ』にのった小文だった。取るに足らぬささやかな文芸誌だが、なんとその75ページには、明らかにブレジネフ書記長をやゆしたと受け取られる小文が掲載されている。アンドロポフによる摘発第一歩の走りだった。
年が明けて1982年の1月末、スースロフ政治局員が死んだ。1964年にフルシチョフ追放の宮廷クーデターの立案実行の中心人物そしてブレジネフ政権を支えた真の功労者、クレムリンのキングメーカーの死去をきっかけに、ソ連社会はタガがはずれたかのようにさまざまな事件が続出した。いずれも、長期政権がいよいよ末期にたどりついたことを物語っていた。
スースロフ政治局員の死ぬのを待っていたように、2月になるとブレジネフ書記長と娘と息子をめぐるスキャンダルがモスクワ中に広まった。うわさの出所は突き止めようがないが、かなり’上’のソ連筋だと想像された。もちろん内容がブレジネフ書記長一族の名誉に関わるだけに、最初は外電がおずおずと、伝聞であることを強調してニュースに流したが、そのうちだれもかれもがあけすけに記事にするまでになった。
娘のガリーナさん(53歳)にまつわるうわさによると、その親しい友人のコレバトフ国立サーカス公団総裁が2月、逮捕された際、約100万ドル相当の宝石、外貨を所持していたという。ガリーナはユーリー・チェルバノフ第一内務次官というれっきとした夫がいるにもかかわらず、交遊関係が多彩で有名であった。チェルバノフ氏は45歳とかなり年下で、ガリーナにとっては三番目の夫といわれていた。
チェルバノフ氏は79年暮れ、ソ連のアフガニスタン侵攻の際、殺害されたか、自殺したと見られるバプーチン第一次官の後任に次官から昇格し、さらに81年党大会では党中央委員候補に選ばれ、その若さからして異例の出世。「ブレジネフ書記長の娘と結婚したからさ」というソ連人が多かった。
また息子のユーリー・ブレジネフ第一外国貿易次官(48歳)は、公的基金を不正に使用した容疑で査問を受けており、辞任を迫られるかもしれないと伝えられた。しかも、この査問は、国家保安委員会(KGB)のセミョン・ツビクン第一副議長によって進められていたが、ツビグン副議長は1月に64歳で死亡した。ツビグン副議長は、ブレジネフ書記長が1950年から52年までモルダビア共産党第一書記をしていたころ、モルダビア共和国の国家保安省の次官をつとめていた上、夫人同士が姉妹という親しい関係にある。このため、ツビグン副議長は、調査の網がブレジネフ書記長の親族に近づくのを防げなかった責任をとってピストル自殺したという説もあった。
そしてこうしたブレジネフ一族のスキャンダル摘発の黒幕は、ほかでもなくアンドロポフKGB議長(政治局員)だ、というのである。アンドロポフKGB議長はブレジネフ一族、およびブレジネフ書記長の贔屓で指導部に入り込んだ側近たち(キリレンコ・チェルネンコ・シチェルビツキー各政治局員)の乱脈な生活ぶりを苦々しく思っていたという。ブレジネフ書記長の追い落としまでは考えないが、いずれ来るその死去の際は、ブレジネフ書記長の意中の人物とりわけチェルネンコ氏を後継者の座につかせないことが狙いだとされた。もしこれが真実なら、アンドロポフKGB議長のきわどい作戦は見事、成功したといえよう(今井博『モスクワ特派員報告』岩波新書、1985年)。

遅すぎた就任:
アンドロポフはゴルバチョフと同郷であり、中央に抜擢した人物でした。ブレジネフ時代の停滞と腐敗、社会風紀の頽廃に歯止めをかけ、元KGB議長の人脈を生かし民衆の無気力を引きしめ「経済改革」を実施しようとした指導者。ゴルバチョフの「ペレストロイカ」の立案者ともいえる。アンドロポフは規律強化により堕落した官僚を一掃し、「経済改革」を「情報公開」「民主化」は後回しに実践しようとした。
筋金入りの「対米強硬派」でありながら、真偽は確かめようないにせよ「英語」に堪能といわれ、「ジャズ」が好みで「アメリカ映画」をみていたとも伝えられる(ただしレーニンやトロツキーとちがって’公’で「外国語」演説や会談でも「英会話」などせず、すべて「ロシア語」だった)。
レーガン大統領は83年の演説でソ連を「悪の帝国」とののしり、「こういう相手には話し合いなどできるわけもない」とケンカ腰だった。その後も「アメとムチ?」戦術、一方で脅し恫喝を用いながら他方では対話をよびかける。
アンドロポフはすでに入院中であった。声明を発し「米ソの対話には賛成だが、対話のための対話や、力の立場からの対話には応じられない」と冷徹な返答を与えた。この時点ではソ連は依然「超大国」であり、いわゆる「東側圏」(東欧はむろんのことキューバ、ベトナム、モンゴル、北朝鮮、アンゴラ、南イエメンなどなど)との通商そして経済・軍事援助も行っていた。その後の「崩壊」などかけらも見当たらない(ただ内部は「蝕まれて」おり、ソ連経済は完全に破綻していた=戦後「巨富のアメリカ」対「極貧のソ連」(ドイッチャー言)、実力不相応の大軍備を持ち、世界イチの金持ちアメリカの挑戦を受けてたち、大軍拡競争に引っぱりこまれた結果(故笹本駿二元朝日新聞(戦中のベルリン支局)特派員言(ドイツ人女性と結婚(在欧50年以上)独仏英はじめ5ヶ国語に堪能だった=98年にデュッセルドルフで死去(享年86歳))。
日本共産党がめずらしく「評価」したのもこの人。当時を知る患者さんや知り合いの老人に聞けば、ともあれわずか「1年」と少し(おまけに9ヶ月ほどで、ぷっつりと公の場から姿を消してしまう)。ただ「警察力」を動員し「規律」「風紀」を引きしめただけに過ぎない、こう酷評していたけど、やはりKGB・秘密警察の議長という暗い影がまとわっていた(事実元「秘密警察長」で「最高実力者」(書記長)になった例はない)。他のさまざまな旧ソ連出身の同僚や学友たちも大抵「アンドロポフ」といえば、即座に「КГБ(カーゲーベー)KGB」と反応していた。

対独戦はフィンランド、カレリア地方担当の政治委員。79年のアフガニスタン侵攻を実際に決め実施したのはこのアンドロポフ、ウスチノフ国防相(最も強硬に主張した)スースロフ政治局員そしてグロムイコ外相だといわれている。コスイギン首相も病状芳しくなく(翌年死亡)、ブレジネフ書記長はすでに健康を害し「名誉職」的なお飾りになっていた。
すなわちこのアンドロポフが現れなければそもそも「ペレストロイカ」なぞ起きようもなかったこと。プーチンは大分前、サンクトペテルブルク(旧レニングラード)市街地にアンドロポフの銅像を建てて批判を浴びたことがある(プーチンにしてみればまさに「大御所」崇拝する人物)。2016/10 Canada
「アンドロポフ氏は非常にソフトで温厚な感じだった。学者のように見受けられた。長い間、共産党の幹部として党の中枢で働き、また15年もああいう秘密警察(国家保安委員会=KGBを指す)の長官を務めたとの印象は受けなかった」これはブレジネフ書記長の葬儀に参列し、クレムリン内のアンドロポフ新書記長にお悔やみの言葉を述べた鈴木善幸首相の感想だった。
アンドロポフ新書記長は総じて好感をもって迎えられたが、特に、身辺が清潔で’完璧な禁欲主義者’アンドロポフ氏のイメージが非公式に広まった。それによると、アンドロポフ新書記長の私生活は他の首脳に比べて質素で、自分に許しているぜいたくといえば、自宅のビデオで米国製の映画をみたり、ジャズのレコードを聴く程度、ほかにイコン(聖像画)収集が趣味で、英語に堪能といわれた。

エスペラント語⇒ユーリ・アンドロポフ=Jurij Vladimiroviĉ ANDROPOV (naskiĝis la 2-an de junio[jul.]/ 15-an de junio 1914 en Nagutskoje, Rusio, mortis la 9-an de februaro 1984 en Moskvo) estis estro de la sovetia KGB (1967–1982), poste ĉefsekretario de la Centra Komitato de la Komunista Partio de la Sovetunio (de novembro 1982 ĝismorte). Andropov estis filo de fervoja laboristo, kiu laboris kiel telegrafisto, kineja teknikisto kaj volga matroso. Poste li studis en teĥnkia lernejo, pli poste en la Universitato de Petrozavodsk. Li estis organizanto de Komsomol en la distrikto de Jaroslavl, en 1939 aliĝis al la komunista partio. Liaj gvidantoj rekonis lian kapablon kaj nomumis lin al gvidanto de la Komsomol de la novfondita Finn–Karelia Aŭtonoma Respubliko (1940–1944). Andropov eklaboris en Moskvo en 1951, en la sekretariejo de la kompartio. Li estis ambasadoro en Hungario (julio 1954 – marto 1957) kaj havis gravan rolon en organizado, instigo de la sovetia invado de la lando. Poste Andropov resetlis en Moskvo, kie rapide altiĝis en la komunista hierarĥio kaj en 1967 iĝis gvidanto de KGB kaj efektivigis subpreman politikon. Li abdikis pri la gvidanta pozicio de KGB en 1982. 
矢継ぎ早の改革実施・68歳の新書記長:
「規律と秩序の強化」
PS:ソ連「クレムリン」の’序列’(一党独裁(共産党だけ)=(モスクワの決定が全て)中央集権国家)というものは西側では理解できないほど面倒なんですよね。たとえば「順位」がひとつ違って新聞に載った、これだけで「大問題」になる(簡単にいえば、ブレジネフ書記長の近くにいればいるほど大物=頂点「雲の上」の人たち)。誰かが革命記念日前、モスクワに掲げられる指導者肖像画から消えていた(あるいは新聞の写真で姿が削除されていた)。「失脚」もしくは単なる「ずぼらか」?この場合は長年ブレジネフの片腕で子飼いだったキリレンコ政治局員の「失脚」だったんですけど。
アンドロポフ氏についてもいいことばかりではない。80年代初頭、バルト三国で起った自治・独立運動鎮圧に辣腕をふるい自ら乗り込んで指揮したともいわれている。また作家のソルジェ二ーツィンを国外追放し、物理学者のサハロフ博士を逮捕、流刑にしたのもこのKGB議長です。
対米戦略でも、「一戦も辞さず」という構えを最後まで崩さなかった(デタント(雪解け)の表向きをとりながら、裏では軍備強化と影響力拡大の二足わらじブレジネフより一貫して厳しかった)。
1、「党・国家・労働の規律のあらゆる侵犯に対して、もっと断固とした闘争をすすめなければならない。この点でわれわれは党組織と労組組織の完全な支持、すべてのソ連の人々の支持を受けるものと確信している」と宣言。
ここで18年にわたったブレジネフの長期安定政権は、ソ連社会に底知れぬ停滞と腐敗の現象を生んだ。党官僚、政府官僚、企業管理者、ひいては中間管理職までが10年、20年と同じポストに居座って、社会のタテとヨコの関係にさまざまなコネがはびこった。なれ合いによる国家財産の流用や贈収賄による私利追求が横行した。国営工場で国家の資材を使って、私的商品を製造して売りさばく地下企業が蔓延したのをはじめとして、職場からの物品の盗み出しや横流し、二日酔いによる休日明けのずる休みから、勤務時間中の買い物や映画見物、飲酒に至るまで、ソ連経済界の乱脈ぶりは目に余るものがあった。それが経済の発展を少なからず阻害してきたことは疑いない。KGB出身らしくなによりも「規律」「風紀」の引き締めから経済の建て直しをはかった。
*これには前任者ブレジネフ「いってることとやってることがちがう」その前フルシチョフ「行き当たりばったり。竜頭蛇尾政策で失敗」なによりも「身内びいき」こうしたところとアンドロポフ氏は無縁だったことは間違いない。ただ「就任」が遅すぎた(すでに慢性腎不全、糖尿病を病んでいた)。
2、労務に応じた報酬を
まず、規律強化を経済再建のひとつのてこにしようとするアンドロポフ政権発足当初からのキャンペーンの集大成の形で、83年8月7日、党中央委、政府、全ソ労組の共同決定として「社会主義労働規律の強化のため活動強化に関する決定」が発表された、勤勉な労働者に対しては厚く報いる一方、怠け者は容赦なく罰するというアンドロポフの’アメとムチ’の政策を具体化したものである。次のような項目が注目された
*考慮すべき理由なく3時間以上職場を離れたものは無断欠勤とみなし、その日数を年次有給休暇から差し引く。
*勤務時間中に飲酒するなど、労働規律を乱したものは、3ヵ月を期限として賃金の低い職場に異動させるか、または役職を降格させる。
*優秀なる労働者、農民には住宅の優先配分や休暇の延長、保養施設の優先利用などを認める。
これらの決定は労働相互間の競争心を刺激して、個々人にやる気を起させようとするものであり「能力に応じて働き、働きに応じて報酬を受け取る」という社会主義の原点に立った措置である。かねて社会主義は機械的な平等主義ではないと説いてきたアンドロポフの考え方が反映したものである(木村明生『クレムリン権力のドラマ』朝日選書、1985年)
*ブレジネフ時代=「悪平等」働いても働かなくてもいっしょ。「親分赤旗」が面倒だけはみてくれるから(教育・医療は原則として無料)、住めて食べて「生活」(必需品は安価⇔耐久消費財などは高値)には困らない(定年退職(引退)すれば年金が出る)。それだけ(参考文献:小川和男(経済学者)『ソ連解体後ー経済の現実』岩波新書、1994年)。
網紀粛正の波:
クレムリンの主がブレジネフ氏からアンドロポフ氏に代わると、網紀粛正の波がソ連全土を覆った。本来なら一般市民に警戒心を起させるはずの引き締め策は、世論の絶大の支持をもって迎えられた。ブレジネフ政権末期の国内のみだれがいかに常軌を逸したものであったかが想像されよう。
また一般市民からみれば、網紀粛正の網にひっかかるのは、さまざまな特権を利用して私服を肥やしてきたおえら方なのだから、対岸の火事にすぎないといえた。
アンドロポフ氏は書記長に就任した直後、続々と「ブレジネフ家族」の「親しい友人」(グム百貨店のマネージャー)や「エリセーエフの店」(食料品店)支配人の逮捕を命じる。そしてブレジネフの娘の不祥事をもみ消した(ベンツの公用車数十台を親籍縁者に分け与えたとされる)とされたシチェロコフ内相を解任。後に有罪判決を恐れ自殺したとも伝えられる。
日本なら警察庁長官ともいうべき、取締りの最高責任者がこの低落だから、その下の民警の腐敗ぶりはひどかった。後任のフェドルチェク内相はプラウダ紙を通じて、一部の不心得な交通警官がドライバーから金品をせびっている事実を認め、不正追放のため断固たる処置を講じていると述べた(83年6月12日)。この一ヵ月半後に、党政治局は内務省に「政治機関」(ポリト・オルガン)の設置を決定したが、職員の規律強化が目的であることは明らかだった。
失った時間:アンドロポフの「経済演説:
「私たちは失った時間を取り戻さなければいけない」演説で語った言葉である。ソ連経済の停滞に対する危機感をあらわにしたと同時に、強烈なブレジネフ批判だった。ソ連経済建て直しのために何かしなければならない。まこそ抜本的な手を打つべきだ。というのが経済関係者の共通の認識であった。アンドロポフ政権発足とともに、かつてみられないほど経済改革を求める提案が出された。製品を入れる木箱や、細々とした道具類まで作る巨大工場を細分化し、効率のよいミニ工場を目差すべきだとの論文から、タクシーなどは個人経営でやったほうがいいとの意見まで公表された。
共産主義建設の過程でソ連よりはるかに後方にいるはずの東欧各国、とくにハンガリーを見習え、と呼びかけた学者もいた。
サハリン上空で起ったこと・大韓航空機撃墜事件:モスクワ駐在の特派員によるルポ
1983年9月1日「大韓航空機がサハリン上空で行方不明になった」つづけて「強制着陸させられたとのうわさもあるが、撃墜の線もないわけじゃない」という事件が起きた。
次の日、強制着陸させられた場合、その可能性が一番強いとみられるサハリンのユジノサハリンスク空港当局に電話し「韓国機が着陸していないか」と聞くと「南朝鮮機を含め、外国の飛行機はいっさい当空港に着陸していない」と答えたという。
結局ソ連は6日夜の政府声明で事実上’撃墜’を認め、ついで9日、オガルコフ・ソ連軍参謀総長(第一国防次官)が記者会見で、迎撃機スホイ15がミサイルで撃墜したことを公式に確認する。
それまでのソ連の対応は、反論しようのない事実を突きつけられるたびに、撃墜に至る状況を少しづつ認め、手持ちの情報を小出しに出していく態度に終始した。これがソ連に対する国際的不信感の高まった最大の原因とのべている。
参謀総長の言い分は、大韓航空機はカムチャッカの戦略核基地、サハリン南部の重要軍事施設の上空を次々通過し、さらに重要な軍港であるウラジオストック方向へ針路を取ったためやむなく撃墜したというものだが。すでに迎撃機につきまとわれている民間航空機が新たな軍事情報収集のためにウラジオストックに向かうなど考えられない。
「ソ連の迎撃機は、大韓航空機の航行灯をみていると地上に報告しているのに、同機が無灯火だったと主張するのか」との質問に対して、参謀総長は「迎撃の二番機が一番機の航行灯を目撃して報告したのだ」と答えた。しかし、迎撃機のパイロットは「目標は航行灯を点滅している」と10分間に3回も報告しており、「目標」が大韓航空機を示すことは歴然としている。
「民間機とわかれば撃墜しなかった」との弁明が、その後ソ連当局からしきりに述べられた。はたしてそうなのか。1978年4月、ムルマンスク付近のソ連領空に迷い込んだ大韓航空機は、民間機だと判明していながら、迎撃機からミサイル攻撃を受けている。ミサイルが幸い不発だったから助かったが、でなければ今回と同様、全員死亡の大惨事になっていただろう。「外見が民間機だとしても、本当に乗客がのっているのかどうかわからない」とも語っていたがそんなまどろっこしい小細工をせずはじめから「領空侵犯の不明機を撃墜した」と公表したほうがはるかに筋がとおることになったはず、
大韓航空機が所定のルートを大幅にはずれ、ソ連領空に入った原因は依然はっきりしない。「スパイ機説」もまことしやかに語られているが。いずれにせよふつうの庶民が乗っている「旅客機」を’撃墜’することは断じて許すべからざること。評判のよかったアンドロポフの短い治世に汚点を残してしまった惨劇であった。
アンドロポフ時代ー最後のはじまり:
就任当初から健康に難があるといわれていたが、アンドロポフ書記長は多忙な政治日程をこなし、精力的な仕事ぶりをみせた。ブレジネフ書記長が夏に入ると、早々と休暇をとり、一ヶ月も二ヶ月も執務を離れたのとは大違いだった。83年夏も、出ずっぱりといえるほどの忙しさで、「夏にめっぽう強いアンドロポフ」の評判さえ生まれた。しかし、八月中旬、クレムリンで訪ソ中の米上院議員団と会見したのを最後に、公の場からぷっつり姿を消した。9月末の南イエメンのアリ・ナセル・モハメド最高人民会議常任幹部会議長(元首)との会談が報じられたが、会談がどこでおこなわれたかは伏せられ、会談の写真も公表されなかった。
10月15日からの予定だったブルガリア訪問は直前になって延期された。ソフィアでは歓迎準備が進められていたので、急に訪問取りやめになったもので、改めて書記長の健康問題が関心を集めた(今井博『モスクワ特派員報告』岩波新書、1985年+以後、逝去するまで一度も公に現れなかった)
Yuri Vladimirovich Andropov
(/ænˈdroʊpɔːf, -pɒf/;[1] Russian: Ю́рий Влади́мирович Андро́пов, tr. Yuriy Vladimirovich Andropov; IPA: [ˈjʉrʲɪj vlɐˈdʲimʲɪrəvʲɪtɕ ɐnˈdropəf]; 15 June [O.S. 2 June] 1914 – 9 February 1984(1914年6月2日ー84年2月9日) was a Soviet politician(ソ連の政治家) and the General Secretary of the Communist Party (ソ連共産党書記長(共産党)of the Soviet Union from 12 November 1982 until his death fifteen months later.
ユーリ・ウラジーミロヴィチ・アンドロポフ
(ロシア語: Юрий Владимирович Андропов、ラテン文字表記:Yurii Vladimirovich Andropov、1914年6月15日 - 1984年2月9日)は、ソビエト連邦の政治家。同国の第6代最高指導者。第3代ソビエト連邦共産党中央委員会書記長、第4代ソ連国家保安委員会(KGB)議長、上級大将を歴任した。詩人としても知られる。
Yuri Andropov
http://www.coldwar.org/articles/80s/yuri_andropov.asp
Yuri Andropov was born 1914 in Nagutskoye near Stavropol in southern Russia (Mikhail Gorbachev was born in the same area(アンドロポフは1914年に中央ロシアのスタヴロポリで誕生(ゴルバチョフも同じ地域で生まれ育った=後に(先輩同地方出身の前任者(アンドロポフ)に続き)党第一書記に就任) He entered politics in the 30s (1930年代に政界入り)and(さらに) joined the Communist Party in 1939(1939年、共産党に入党). He was head of the Komsomol (コムソモール(ロシア語: Комсомол カムサモール)は、マルクス・レーニン主義党、主に共産党の青年組織である。いわゆる青年団の一種ベラルーシ(白ロシア)語⇒Камсамо́л (скарачэнне ад Камуністычны саюз моладзі), поўная назва — Усесаюзны ленінскі камуністычны саюз моладзі (УЛКСМ) — палітычная моладзевая арганізацыя ў СССР.コムソモールの地域指導者)in the Karelo-Finnish Autonomous Republic (カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国(カレロ=フィン・ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこく、フィンランド語: Karjalais-suomalainen sosialistinen neuvostotasavalta、露: Карело-Финская Советская Социалистическая Республика、Karelo-Finskaya Sovietskaya Sotsialisticheskaya Respublika)は、1940年から1956年まで存在した、ソビエト社会主義共和国連邦の構成国の一つ。1940-1944) and (さらに)worked in the local party organization until his transfer to Moscow in 1951(1951年、モスクワに召喚されるまで地方党組織で働いた). After spending a few years in the party’s Secretariat staff(書記局員として数年過した後), he was made ambassador to Hungary 1954(1954年、駐ハンガリー大使に任命される). When the Hungarian revolution began in 1956 (1956年にハンガリー革命(動乱)勃発時)and(そして) Hungary left the Warsaw pact(ハンガリーがワルシャワ条約機構から撤退), Andropov played an important role(アンドロポフは重要な役割を担った(演じた) in coordinating the Soviet invasion that violently crushed the opposition(ソ連軍による軍事介入と暴力的な反対派鎮圧). After his return to Moscow in 1957 (1957年のモスクワ帰還後)he rapidly advanced in the hierarchy(彼は急激に階層を駆け上がり(立身出世) and(加えて) was made head of the KGB 1967(1967年、KGB議長に就任). He remained head of the KGB until 1982 when he resigned(1982年に辞任するまでKGB議長をつとめた). He was elected to succeed Leonid Brezhnev as general secretary by the Communist Party Central Committee on November 12, 1982(1982年11月12日、共産党中央委員会に死去したブレジネフの後任書記長として選ばれた) In his 15 months in power he cracked down hard on dissidents(彼の15ヶ月間に及ぶ統治では反対派にたいする強硬な弾圧) and(さらに) the controls of the borders were strengthened to stop “unwanted” literate from entering the USSR(国境引締め(管理=閉鎖)を強化し、”望まざる(欲しない)”学者たちのソ連入国を阻んだ). He also began to combat the widespread corruption(彼は同じく広範な腐敗(汚職)に対する闘争を開始) and Tjurbanov, Brezhnev’s son-in-law, was arrested(ブレジネフの義理の息子が逮捕された) and(さらに) sentenced to prison(懲役刑と服役). On September 1, 1983 the Korean Air Lines Flight 007 was shot down by a Soviet SU-15 fighter when it flies off course and entered Soviet airspace(1983年9月1日、軌道を外れソ連領空に進入した大韓航空機がスホイー15ソ連戦闘機により撃墜された). 269 people are killed(269人が殺された). He became ill in August 1983 (1983年8月に彼は健康を害した(発病)and(そして) died February 1984(1984年2月に死んだ). He was succeeded by his former rival, Konstantin Chernenko(後任は元ライバル(対抗馬)のコンスタンチン・チェルネンコが相続(継いだ).

Following the death of long-time Soviet leader Leonid Brezhnev two days earlier(長らくソ連の指導者であったレオ二ード・イリイッチ・ブレジネフ書記長の死に先駆ける2日前) Yuri Andropov is selected as the new general secretary of the Communist Party in the Soviet Union(ユーリ・アンドロポフ(政治局員)がソ連共産党の新書記長に選ばれた). It was the culmination of a long(それは長年の最高到達点(努力した結果)最高潮(成果), but steady march up the Communist Party hierarchy for Andropov(ながらアンドロポフの着実な(絶え間ない)変らない(固定した)堅実な(安定した)共産党階級制度(ヒエラルキー)を進んだ歩みによる).Born in Russia in 1914, by the 1930s Andropov was an active participant in the Communist Youth League(1914年ロシアで生まれた(第一次世界大戦勃発の年=カイザーのドイツ帝国が整備され万全を期し。近代化めざましい軍事力で侵略してきた)。1930年代(スターリンの大粛清時代)は熱心活発な共産主義者青年同盟(コムソモール)の運動家(参加者)だった). During World War II, he led a group of guerilla fighters who operated behind Nazi lines〔第二次世界大戦中は(カレリア(フィンとの国境紛争地)地方のコミッサール(政治委員・軍人歴なし)として反ナチスのゲリラ部隊を組織。指導した). His work led to various positions in Moscow, and in 1954, he was named as Soviet ambassador to Hungary. During the Hungarian crisis of 1956(1956年に起こったハンガリー動乱の間), Andropov proved his reliability(アンドロポフは彼の信頼性を証明した). He lied to Hungarian Prime Minister Imre Nagy about Soviet military intentions(彼はナジ(処刑)ハンガリー首相に、ソ連軍の意図に関して嘘をついた), and(さらに) later assured Nagy that he was safe from Soviet reprisals(後にナジ首相にソ連による報復からの安全を保障した). Soviet tanks rolled into Budapest in November 1956(1956年、ソ連軍の戦車隊はブダペストを蹂躙(席巻) and(加えて) Nagy was captured and executed in 1958(ナジは1958年に逮捕され処刑された).Andropov’s work in Hungary brought him back to Moscow(ハンガリーで働いていた(任務中)のアンドロポフはモスクワに戻された), where he continued to rise through the ranks of the Communist Party(共産党内の順位を続けて上昇させた場所). In 1967(1967年には), he was named head of the KGB(国家保安省(KGB)議長に就任), Russia’s secret police force(ロシアの秘密警察). A hard-liner, he supported the 1968 invasion of Czechoslovakia(強硬派、68年のチェコスロヴァキア侵攻を支持) and(加えて) oversaw the crackdown on dissidents (異端(反対派)派弾圧を監督)such as (たとえば)Andrei Sakharov(サハロフ博士) and Aleksandr Solzhenitzyn(ソルジェ二ーツィン(小説家). In 1982, with Brezhnev deathly ill and fading fast, Andropov left the KGB and began jockeying for power. When Brezhnev died on November 10, 1982(1982年11月10日のブレジネフ書記長死去からアンドロポフは権力への競争を開始(書記長就任), Andropov was poised to assume power(アンドロポフは推定された権力にのしあがった). He was named general secretary on November 12(11月12日、彼は書記長と命名された).His rule was short-lived(彼による支配は短期間だった), but eventfu(しかし波乱に富んだ)l. At home(国内では), he tried to reinvigorate the flagging Russian economy (彼は衰えた経済活性化を試みる)and(さらに) attacked corruption(汚職(腐敗)摘発) and(そして) rising alcoholism among the Soviet people(ソ連人内で増大するアルコール依存症に対して). In his foreign policy(彼の外交政策においては), Andropov faced off against the adamantly anticommunist diplomacy of President Ronald Reagan(レーガン米大統領の頑固(不屈)の反共外交に面した). Relations between the United States and the Soviet Union were severely strained when Soviet pilots shot down a Korean airliner in September 1983(1983年9月、ソ連機による大韓航空機撃墜によって米ソ関係の緊張は一気に深まった). Later that year(同じ年の後半), Soviet diplomats broke off negotiations concerning reductions in Intermediate Range Nuclear Forces (ソ連の外交家は中距離核戦力削減交渉に乗り出す)and(そして) the Strategic Arms Reduction Talks (戦略兵器削減会談=START). Andropov had suffered from nearly debilitating illnesses since early 1983(1983年初頭より、アンドロポフはほとんど致命的な病気により衰弱していた), and (そして)died on February 9, 1984(1984年2月9日、死亡). He was succeeded by Konstantin Chernenko(チェルネンコが書記長職を受け継いだ) .
生い立ち
スタヴロポリ地方ナグツカヤに生まれる。コムソモール(共産主義青年同盟)からソ連共産党専従に移る。ソ連共産党中央委員会附属高等党学校を卒業後の1940年から、フィンランドと国境を接するカレリア自治共和国を担当する。住民にフィン人(カレリア人)を多く抱え、ソ連・フィンランド戦争(ソ芬戦争)で一時フィンランド軍の占領を受けるなど複雑な事情を抱えていた地域で指導者として政治的力量を認められた。
1951年にオットー・クーシネンの推薦でソ連共産党の国際活動・外交及び諜報部門に活動の場を移した。特に1956年のハンガリー動乱では駐ハンガリー大使(在任1954年から1957年)として鎮圧に関わった。中ソ論争では、党社会主義諸国連絡部長として対応に当たった。1957年からソ連共産党中央委員会の課主任。
KGB議長
1961年に党中央委員会の一員となり、1962年には党中央委員会書記に昇進した。その後1967年にいったん党中央委員会を離れ、国家保安委員会 (KGB) 議長に就任し、党書記長となるまで以後15年の長きにわたって同職を務めることとなる。KGB議長就任と同時に党政治局員候補となり、1973年に投票権のある正規の党政治局員となる。秘密警察の責任者が政治局に入るのはラヴレンチー・ベリヤ以来のことであった。これはベリヤ追放後にフルシチョフの発意で、軍と秘密警察を党の統制下に置くため、国防相と同じくKGB議長の政治局入りを禁止してきたのを、ブレジネフが解禁した結果であった。1973年には、国防相アンドレイ・グレチコも党政治局員となっている。
KGB議長としては外交面での緊張緩和(デタント)がソ連国内でイデオロギーを弛緩させることに関して警戒し、峻厳な治安政策をとった。アンドロポフは、アレクサンドル・ソルジェニーツィンを国外追放とし、アンドレイ・サハロフをゴーリキーに流刑にするなど反対派の弾圧に辣腕を振るった。一方で、KGB議長としてソ連内外の情報を管理・知悉する立場から、ブレジネフ政権時代の後半の「停滞の時代」にあって危機意識を強め、体制内改革を志向するようになっていった。汚職の摘発にも辣腕をふるい、ブレジネフの親族の逮捕にも大鉈を振るった。KGB議長が政治局に入ることを禁止したフルシチョフの措置を解禁させたブレジネフであったが、その措置によって強大な権力を得たアンドロポフに求心力をそがれていくという皮肉な結果になっていった。
書記長
1982年5月、ミハイル・スースロフの死去後、中央委員会書記(イデオロギー担当)に返り咲き、ブレジネフの最側近で後継者と目されたコンスタンティン・チェルネンコを追い上げていった。共産党の官僚組織を背景とするチェルネンコに対し、アンドロポフの背景には、長く議長を務めたKGBと、政治局員、国防相のドミトリー・ウスチノフを初めとする軍があった。同年11月のブレジネフの死去に伴い、葬儀委員長に就任し、大勢を決した。後継書記長を決める政治局会議ではウスチノフがアンドロポフを推薦したとされる。一方、正式の会議の前には根回しが済んでおり、会議ではチェルネンコ自らアンドロポフを推薦したとの説もある。11月12日、ソ連共産党中央委員会書記長に就任する。1983年6月からは最高会議幹部会議長も兼任した。
チェルネンコらはアンドロポフの書記長就任に当たり、前任のブレジネフの基本路線を踏襲することを求めたがアンドロポフは政権獲得後、直ちに綱紀粛正と経済再建のための労働規律強化に着手した。ウォッカの値上げによる酒類追放で労働者の生産性向上を図ろうとした。外交面では、アフガニスタン戦争で揺らいだデタントの再構築というブレジネフ末期の基本目標を継承した。同郷で若手の党活動家だったミハイル・ゴルバチョフや、ニコライ・ルイシコフ(後に首相)を登用、ペレストロイカへの道筋をつけた(ゴルバチョフの昇進には、スースロフと並んでアンドロポフの力があずかったのは事実だが、ゴルバチョフの政治局員就任はブレジネフ在世中の1980年である(1978年11月、急死したフョードル・クラコフ政治局員・書記の後任として党中央委農業担当書記に抜擢される。ゴルバチョフの書記への任命は中央委員会総会において満場一致で承認された(若き新しい同僚を迎える首脳たちの前、ブレジネフの激励を受ける⇒「何からはじめた」(ブレジネフ)「運河です」(ゴルバチョフ)「運河か(おどけたポーズをとりながら)ここでも頼むぞ」(ブレジネフ))1979年には政治局員候補として政治局入りする)。アンドロポフが登用した政治局員は、ヘイダル・アリエフ、ヴィタリー・ウォロトニコフ、書記はルイシコフとエゴール・リガチョフである)。
死去
持病の糖尿病による腎機能低下の障害は、書記長就任後から彼の政治的識見と能力発揮の阻害要因となり、最高会議幹部会議長に選出された際の受諾演説も、演壇まで歩ける状態になく、やむなく自席で行うありさまであった。これ以後、9月1日(奇しくも大韓航空機撃墜事件が発生した日である)の政治局会議を司会したのを最後にアンドロポフは公の席から姿を消し(党中央委総会もテクスト出席)、以後、死去するまで半年近くにわたって病床から政務を行うという異例の書記長でもあった。アンドロポフ自身はゴルバチョフを後継に考えていたようであるが、病身ではその実現もままならなかった。1984年2月、アンドロポフは亡くなり、後任にはコンスタンティン・チェルネンコが就任した。
その後
遺体が赤の広場、レーニン廟とクレムリンの壁に在る革命元勲墓に、スターリン、スースロフの間に埋葬されたことからも、彼の評価がいかに高いかを示している。書記長を務めたのは、その後のゴルバチョフ、特に元KGBであるウラジーミル・プーチンに与えた影響は大きく、プーチンはアンドロポフを称賛し、記念の執務室や銘板を復活させるなど他のソ連の指導者とは別格として顕彰を行ってる。
家族 
在任中は私生活は全く明らかにされず、西側メディアでは長年アンドロポフは男やもめであるとされ、葬儀の際には「夫人は9年前に死亡」と伝えられた。だが葬儀にはタチアナ夫人と子供2人が列席し、西側メディアを驚かせた。
Personal life
Andropov lived at 26 Kutuzovsky Prospekt, the same building in which Suslov and Brezhnev also lived〔アンドロポフはブレジネフとスースロフも住む、クトゥソフスキー・プロスペクト通り26番地のビル(アパートメント)で生活した)。 He was first married to Nina Ivanovna(初婚・初妻); she was born not too far away from the local farm in which Andropov was born(彼女はアンドロポフの出身地である地元農場からそう遠くないところで生まれた). In 1983 she was diagnosed with cancer(83年癌の診断(告知)を受ける) and underwent a successful operation(手術は成功し堪え回復。克服を経験した). He met his second wife(アンドロポフは2人目の妻に出会う), Tatyana Filipovna, during World War II on the Karelian Front when she was Komsomol secretary(タチアナ・フィリポヴナ女史?=第二次世界大戦中のコムソモール(共産主義青年団)書記として勤務). She had suffered a nervous breakdown during the Hungarian revolution(彼女はハンガリー動乱(革命(フルシチョフのスターリン批判とともに、東欧で起こった「反ソ」「自立」変動の一環)=56年フルシチョフが戦車師団を首都ブダペストに乱入させ。ぶっつぶした)神経症(不安崩壊)障害(衰弱)にさいなまれる). Andropov's chief guard informed Tatyana about the death of her husband(彼女はアンドロポフの警備責任者だった警護署長から夫の死を知らされる(84年). She was too grief-stricken to join in the procession and during the funeral her relatives helped her to walk(打ちしち枯れ悲惨極まりないほど弱っていた彼女は葬儀中、親族たちに支えられながら歩いた). Before the lid could be closed on Andropov's coffin(アンドロポフの棺桶を閉めるまで), she bent to kiss him(屈して接吻し). She touched his hair and then kissed him again. In 1985, a respectful 75-minute film was broadcast in which Tatyana (not even seen in public until Andropov's funeral) reads love poems written by her husband(85年、敬意を払う75分として特集され(アンドロポフの葬式まで民衆の面前に出たことない)愛の詩集を亡き夫に朗読する映像も込み). Tatyana became ill and died in November 1991(後にタチアナ女史は病み91年11月死去(ソ連解体の1ヶ月前).
フランス語→アンドロポフの晩年、死去と後継(遺産)=Décès et succession(相続(継承)[modifier | modifier le code Souffrant d'une insuffisance(不十分(不適当)rénale de longue date(長い月日(期間), Andropov passe la majorité des huit derniers(最後(去年)の夏) mois(月) de sa vie à l'hôpital(アンドロポフは病院で過した), refusant de consulter des médecins occidentaux(医師たちの診察を断った(拒否?)15. Ses visites régulières à l'hôpital restent secrètes(病院への訪問(見舞)は規制され秘密裏), bien que des fuites et rumeurs se propagent(噂が広がった) sur la dégradation de son état de santé(健康の悪化(退行)16. Lors de ses vacances annuelles en Crimée(毎年(恒例)のクリミアでの休暇), il contracte une pneumonie (肺炎を発病)qui l'oblige (義務)à revenir en urgence à Moscou (緊急事態によりモスクワに帰還)et entame un peu plus encore sa faculté de se déplacer debout17. Son dernier discours public(彼による最後の公事), entièrement consacré à la destruction du Boeing sud-coréen(大韓航空機撃墜), a été prononcé le 28 septembre 1983(1983年9月28日に発表(声明)18. Le 7 novembre 1983(1983年11月7日), il est hors d'état de se rendre à la cérémonie annuelle de la Révolution du 25 octobre 1917 (例年の1917年10月25日(旧暦)の革命記念日祝典)calendrier julien). Il tombe dans le coma en décembre 1983 (1983年12月、氏は倒れ昏睡状態に陥る)et(さらに) ne peut lire son rapport sur la politique de l'année à venir, lors d'une réunion du Comité central. Sa santé empire jour après jour, le foie et les poumons sont affectés et Andropov, nourri par intraveineuse, perd quasiment la vue19. Sa mort, dans l'après-midi du jeudi 9 février 1984(1984年2月9日木曜日の午後、氏は逝去), est annoncée aux membres du Politburo(政治局により発表された), qui décident de la garder secrète jusqu'au lendemain20.La succession d'Andropov à la tête de l'URSS débuta avant même l'annonce de sa mort(アンドロポフの後継者と同じく死が発表された?), celui-ci ayant une préférence pour le jeune Mikhail Gorbatchev(若きミハイル・ゴルバチョフを贔屓(重宝)21. Les membres du Politburo se réunissent le 10 février pour trouver le nom du nouveau secrétaire général et désignent, par prudence22,n 1, Konstantin Tchernenko, 72 ans et déjà malade(2月10日、同じくすでに72歳の病人。コンスタンチン・チェルネンコが新書記長に選ばれた). Son nom est soumis au vote le 13 février(2月13日に投票), et adopté à l'unanimité.Les funérailles nationales d'Andropov sont célébrées le lendemain sur la place Rouge(赤の広場でのアンドロポフの国葬), devant une foule importante (重要)et près de 150 délégations étrangères (150人の外国代表が出席)dont Fidel Castro (フィデル・カストロ)et George Bush(ジョージ・ブッシュ). Dans le froid, le nouveau dirigeant de l'URSS, Konstantin Tchernenko(寒い中、チェルネンコ新書記長), lit avec une grande difficulté(大きな困難) son discours funèbre(葬式で演説)23. Les membres du Politburo accompagnent ensuite le corps du défunt au pied du mur du Kremlin(政治局員たちが柩を担ぎ(連なり), où il est inhumé.

①1974年11月7日=革命記念日
首都モスクワ、赤の広場。レーニン廟の壇上にいならぶ指導者たち=左から(1)ポドゴルヌイ最高会議幹部会議長(国家元首→西側の「大統領」に相当(ながら実権のない名誉職)=77年失脚(新設第一副議長への栄転+辞任(勇退=ブレジネフに職を譲る)を渋ったため、追っぱらわれた(まず政治局員を解任された)&絵画などからも姿が削除)+83年死去)=Никола́й Ви́кторович Подго́рный/Nikolai Viktorovich Podgorny(2)グレチコ国防相(ブレジネフの戦友+76年死去)=Андрей Антонович Гречко/Andrei Antonovich Grechko(3)ブレジネフ書記長(NO.1=最高実力者+82年死去)=Леонид Ильич Брежнев/Leonid Il'ich Brezhnev(4)コスイギン首相(NO.2=ブレジネフの政敵(ライバル)+80年死去)=Алексей Николаевич Косыгин/Alexei Nikolayevich Kosygin(5)スースロフ政治局員(党きっての理論家+82年死去)=Михаил Андреевич Суслов/Mikhail Andreevich Suslov(6)キリレンコ政治局員(82年失脚(体よく隠遁に追い込まれる)+90年死去)=Андрей Павлович Кириленко/Andrei Pavlovich Kirilenko


②1979年11月7日(アフガン侵攻の年)=(1)ウスチノフ国防相(グレチコの後任+84年死去)=Дмитрий Федорович Устинов/Dmitri Fyodorovich Ustinov(2)ブレジネフ書記長(最高会議幹部会議長兼任)(3)スースロフ政治局員(4)キリレンコ政治局員(5)グロムイコ外相(85年解任+89年死去)= Андре́й Андре́евич Громы́ко/Andrei Andreevich Gromyko(6)チェルネンコ政治局員(85年死去)=Константин Устинович Черненко/Konstantin Ustinovich Chernenko(7)アンドロポフKGB議長(84年死去)=Юрий Владимирович Андропов/Yurii Vladimirovich Andropov

③1983年11月7日=(1)チェルネンコ政治局員(2)ウスチノフ国防相(3)チーホノフ首相(コスイギンの後任+85年解任+97年死去))=Николай Александрович тихонов/Nikolai Aleksandrovich Tikhonov(4)グロムイコ外相(5)グリシン政治局員(85年解任(モスクワ市党中央委第一書記)+92年死去)=Ви́ктор Васи́льевич Гри́шин/Viktor Vasilyevich Grishin (6)ゴルバチョフ政治局員(7)ロマノフ政治局員(85年解任(レニングラード州党中央委第一書記)+2008年まで存命)=ригорий Васильевич Романов/Grigory Vasilyevich Romanov

④1989年11月7日=(1)ヤコブレフ政治局員=Александр Николаевич Яковлев/Aleksandr Nikolaevich Yakovlev+ソ連崩壊後は、エリツィン政権下でロシア連邦大統領付属政治抑圧者名誉回復委員会議長に就任し、粛清による犠牲者の名誉回復の他、歴史史料編纂事業に取り組んだ(2)ゴルバチョフ書記長=Михаил Сергеевич Горбачёв/Mikhail Sergeevich Gorbachev+90年に新設「大統領」に就任→名目上ではなく「西側式」(制度導入)=実権を持った最高指導者(国家(政府)と党の分離を図った)&85年の書記長就任後、慣例に反して最高会議幹部会議長を兼任せず(代わりにグロムイコが任命された=外相(28年間)から「お飾り」に祭り上げられた(しばらくして政治局員からも解任))(3)ヤゾフ国防相=Дмитрий Тимофеевич Язов/Dmitri Timofeyevich Yazov(91年「8月政変」クーデター未遂の首謀者として逮捕)(4)ルイシコフ首相= Николай Иванович Рыжков/Nikolay Ivanovich Ryzhkov+ソ連崩壊後は、ロシア連邦議会下院国家会議議員となる(5)リガチョフ政治局員=Его́р Кузьми́ч Лигачёв/Egor Kuz'mich Ligachyov+ソ連崩壊後、ロシア連邦共産党から下院国家会議選挙に立候補し当選 *2005年に死去したヤコブレフ以外はみんな存命中。

(1)、ソビエト連邦最高会議幹部会議長(ソビエトれんぽうさいこうかいぎかんぶかいぎちょう、ロシア語: Председатель Президиума Верховного Совета СССР)は、ソビエト社会主義共和国連邦の立法府、最高会議の常設機関である最高会議幹部会(英語版、ロシア語版)の議長+ロシア語⇒Председа́тель Прези́диума Верхо́вного Сове́та СССР — высшая государственная должность в СССР с 1936 по 1989 год. Председатель Президиума избирался на совместном заседании палат Верховного Совета СССР.
(2)、ソビエト連邦共産党書記長(ソビエトれんぽうきょうさんとうしょきちょう、ロシア語: Генеральный секретарь ЦК КПСС ,ラテン文字表記:General Secretary of the Communist Party of the Soviet Union)は、ソビエト連邦共産党中央委員会の職務上の役職。正式には「ソビエト連邦共産党中央委員会書記長」と称する。ソビエト連邦共産党(以下「ソ連共産党」と表記)の事務官であり、ヨシフ・スターリンの在任中は同党およびソビエト連邦(以下「ソ連」と表記)の最高指導者という位置付けであった。これに倣い、「書記長」という肩書きは、ほかの多くの共産党の指導者に用いられた。1953年から1966年までは「第一書記」という肩書きであり、ニキータ・フルシチョフがこれを用いた+オランダ語⇒De secretaris-generaal van het Centraal Comité van de Communistische Partij van de Sovjet-Unie (Russisch: Генеральный секретарь ЦК КПСС, Generalniij sekretar TSK KPSS) was de hoogste functionaris binnen die partij en de facto leider van Sovjet-Unie. 
(3)、ソ連共産党政治局(それんきょうさんとうせいじきょく、ロシア語: Политбюро ЦК КПСС、英語: Politburo)は、ソビエト連邦共産党の主要な政策決定機関および管理機関。正式名称はソビエト連邦共産党中央委員会政治局(ソビエトれんぽうきょうさんとうちゅうおういいんかいせいじきょく)。1952年から1966年までは幹部会(かんぶかい、露: Президиум、英: Presidium)と呼ばれた+ドイツ語→Politbüro (zwischen 1952 und 1966 Präsidium) ist die verkürzte Bezeichnung für das Politische Büro des Zentralkomitees der Kommunistischen Partei der Sowjetunion.




↑1984年2月14日、首都モスクワ、赤の広場。アンドロポフ書記長の葬儀におけるソ連邦国歌吹奏。左からチーホノフ首相、チェルネンコ政治局員、グロムイコ外相と続く。

Moscow Correspondent's Report: Behind the News(1985)by Imai Hiroshi (author)
モスクワ特派員の日々は,不確かな情報とのたたかいの連続だ.一九七八年から五年余り,毎日新聞特派員だった著者が,ブレジネフ,アンドロポフ,チェルネンコ三代にわたる権力者交替劇,アフガニスタン侵攻,戒厳令下のポーランド,大韓航空機撃墜事件など,事実を求めて走りまわった取材体験を語る興味あふれるレポートThe days of the Moscow correspondent are a series of battles with uncertain information. For more than five years from 1978, the author, who was a correspondent for the Mainichi Shimbun, seeks facts about the drama of the change of power over the three generations of Brezhnev, Andropov, and Chernenko, the invasion of Afghanistan, Poland under martial law, and the downing of a Korean airliner. Interesting report that talks about the experience of running around(2011年2月26日に胃癌のため、死去なされましたDied of stomach cancer on February 26, 2011.享年71歳)

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