日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆Friday Night Special from Canada☆拳闘ᒥᖏᑎᑕᐅᑎᔪᖅ=★Boksas★ – kovinio sporto šaka, kurioje du vienodos svorio kategorijos asmenys kovoja tik kumščiais.



(1)、1990年3月18日 世界J・ウェルター(スーパーライト)級王座統一戦 WBC王者フリオ・セサール・チャべス(68連勝(57KO)無敗=107勝(85KO)6敗2分)VSIBF王者メルドリック・テーラー(ロス五輪優勝金メダル(99勝4敗)+24連勝(14KO)無敗1分=38勝(20KO)8敗1分)ネバダ州ラスベガス
ーチャべスが最終12回にダウンを奪い、テーラーをストップ。王座統一に成功。チャべスの勝負強さが遺憾なく発揮されたといえる。しかし、ストップは大いに議論を呼んだ(レフリーはリチャード・スチール)。かなり利いて、フラフラだったとはいえテーラーは立ちあがり。加えてラウンド(試合)終了わずか2秒前だった(それまでの採点はテーラーが勝っていた=あのまま再開していればすぐゴング(すなわちチャべスは連勝ストップ。初黒星))。テーラーのコーナーから、故ルー・デュバ(2017年3月8日死去(享年94歳))が躍り込み。猛然と抗議(まさに、「たけり狂って」いた)。スチールは「続行可能かの問いに反応しなかった(答えなかった)」としていたが、これは確かである。テーラー(強い王者だったマクガート(ハワード・デービスに初回KO勝ち=初防衛に成功したばかり)をスピードで圧倒。ワンサイドの12回TKO勝ちで王座奪取)の全盛期だった。異名の「TNT」といった’破壊力’(はそれほどでもない)より、とにかくスピードがあり(閃光の「超特急」そのもの)。チャべスはついていけなかった感がある(調子はもう一つで、追い足も普段より鈍かったかもしれない)。4年後の再戦は、チャべスがKO勝ち(テーラーはすでに下り坂だった)。テーラーの試合は、アメリカでよく見ました(↑のマクガート戦はむろんのこと、対強打の新鋭ミーキンス戦(KO勝ち)などなど。
Meldrick Taylor (born October 19, 1966) is an American former professional boxer who competed from 1984 to 2002. He is a two-weight world champion, having held the IBF junior welterweight title from 1988 to 1990, and the WBA welterweight title from 1991 to 1992. As an amateur, Taylor won a gold medal in the featherweight division at the 1984 Summer Olympics.
2019 Arrest(2019年、逮捕(知らなかったからショックです)=Meldrick Taylor was arrested on Tuesday, June 4, 2019 in North Philadelphia morning after he allegedly threatened a man with a gun and engaged in a 90-minute standoff with police at his residence. Taylor was charged with aggravated assault, possession of an instrument of crime and terroristic threats. He was later released on an unsecured bond.
(2)、1993年9月10日 WBC世界ウェルター級タイトルマッチ 王者故パーネル・ウィティカー(32勝(15KO)1敗(ラミレス(サウスポー対決)のWBCライト級タイトルに挑戦し、判定負け(2-1=かなり議論を呼んだ+再戦は(判定勝ち)雪辱)=40勝(17KO)4敗1分)VS挑戦者WBC世界J・ウェルター級王者フリオ・セサール・チャべス(87連勝(75KO)無敗)テキサス州サン・アントニオ
ーウィティカーが1-0の判定で引き分け防衛。しかしこの試合は明らかにウィティカーの勝ちだった。チャべスのパンチはことごとく外され(そもそもあまり打たせてもらえず)、ほとんど当らなかった。終った瞬間、「負けた」という雰囲気が漂っていた。ウィティカー(マクガート(強打の王者ブラウン(後にノリスを4回にノックアウト(再戦で判定負け=王座転落)し2階級制覇)からダウンを奪い、判定勝ち=2階級制覇)から判定でタイトル奪取(再戦も返り討ち)+同じくロス五輪優勝金=テーラーや、ホリーフィールド(銅)、ブリーランド(金)そしてビッグス(金)。みんな「同じ釜の飯」盟友たち(故ダン・デュバ(ルウ・デュバの長男=96年死去(享年45歳)傘下でデビュー(メイン・イベンツ社)=トレーナーはジョージ・ベントン+ロ二ー・シールズ(来日し、浜田剛史に挑戦(判定負け))。兄弟のように仲が良かった)は、チャべス(年齢的にも衰えは隠せず(すでに30歳)、全盛期は過ぎていた)をきりきり舞いさせ完封したといえる(事実上の初黒星)。判定が下った瞬間、ウィティカーは呆然として頭を抱え。苦笑い(信じられない+呆れ)というか。悔しさと驚きが混じった、なんともいえない表情を見せたのが忘れられない。チャべスは試合後のインタビューにおいて、しきりにウィティカーの「反則」をなじっていたが。ピークを越してしまった偉大な王者の、悲しい言い訳に聞こえた(往時のチャべスはこういう態度はとらなかった)。
PS:2020年4月5日(暗い日曜日=Dimanche(Gloomy Sunday)。ながら、はじめてみました(あんまり元気がでない(涙+苦笑)。相変わらず「復活の日」は遠そう(店はどんどん閉まるばかり)。「床屋」も当然閉まってますから、髪の毛がボサボサでうっとうしい(~__~; ともあれ時間がかかると思いますが、徐々に加えていきます。またよろしくお願いします☆ とりいそぎ サミー


(1)、1997年4月12日 WBC世界ウェルター級タイトルマッチ 王者パーネル・ウィティカー(40勝(17KO)1敗1分)VSWBC世界スーパーライト級王者オスカー・デラホーヤ(23連勝(19KO)無敗=39勝(30KO)6敗)ラスベガス
ーデラホーヤが3-0(中差=3人とも、だいたい5~6ポイントの差)の判定勝ちで新王者に就く(3階級制覇達成)。ウィティカーは顔が腫れあがっていたが、デラホーヤ(チャべスに2連勝(2KO)した)のパンチはほとんど空を切らされたといえる(まさしく「アンタッチャブル」そのもの=簡単には食わない)。一方、ウィティカーは随所に目立たないながら、当てていた感じもいがめない。ながらデラホーヤは手数で上回り、常に攻勢に出ていたのは確かだった(むろんウィティカーは判定に納得せず、例の「苦笑い」を浮かべていた)。
Españolスペイン語→Óscar de la Hoya (nacido el 4 de febrero de 1973 en Los Ángeles, California, Estados Unidos) es un exboxeador y cantante mexicano-estadounidense. De padres mexicanos, Óscar De La Hoya se crio en Montebello (California).
(2)、1999年2月20日 IBF世界ウェルター級タイトルマッチ 王者フェリックス・トリニダード(33連勝(29KO)無敗=42勝(35KO)3敗)VS前4階級王者パーネル・ウィティカー(40勝(17KO)2敗1分1NC)ニューヨーク・MSG
ートリニダードが2度ダウンを奪い、大差の判定勝ちでウィティカーを退けた(13度目(11KO)の防衛に成功)。王者時代に統一戦として実現して欲しかったカード。ウィティカーはWBA王者クォーティーとの統一戦が決まっていたが、麻薬問題と不祥事(少女への猥褻行為で逮捕されてしまう)により流れた。トリニダードは、右ストレートを多用し(倒したのもこのパンチ)サウスポー対策(右から入り、左フックが続く)を見事に実践したように思える。なおウィティカーは全盛期は過ぎていた。
Русскийロシア語→Феликс Тринидад (исп. Felix Trinidad; 10 января 1973 года, Купи-Альто, Пуэрто-Рико) — пуэрто-риканский боксёр-профессионал, выступавший в полусредней, 1-й средней и средней весовых категориях.


(1)、1996年9月16日 WBC世界J・ウェルター級タイトルマッチ 王者フリオ・セサール・チャべス(94勝(77KO)1敗1分)VS挑戦者デビッド・カマウ(ソウル五輪ケニア代表(3回戦敗退)+26連勝(20KO)無敗=30勝(22KO)4敗)ラスベガス
ー大接戦だったながら。チャべスが12回判定勝ちで防衛に成功。カマウのトレーナーは元バンタム級王者だったアルバート・ダビラ。チャべスの老獪さが、アマ出身らしいきれいなスタイルのカマウを上回った展開。カマウ(アマ時代から贔屓)を応援していたので、がっかりだった(苦笑)。なお、ソウル五輪においては、同国代表だった☆追悼☆故ロバート・ワンギラ・ナプニ(悲しい事故(享年32歳)により亡くなってしまった(リング渦=ラストファイト)165勝5敗+12連勝(8KO)無敗=22勝(16KO)5敗)が金メダルを獲得している(すべてノックアウト(決勝でも後の世界王者ブードウアニ(仏)をKOした)で優勝)。
(2)、1997年6月14日 WBC世界ウェルター級タイトルマッチ 王者オスカー・デラホーヤ(24連勝(20KO)無敗)VSデビッド・カマウ(28勝(21KO)1敗) テキサス州サン・アントニオ
ーデラホーヤが2回KO勝ち。ウィティカーから奪ったタイトルの初防衛に成功した。カマウは勇敢に戦ったが、及ばなかった。デラホーヤは故エマニュエル・スチワードをトレーナーに迎え、積極的なクロンクスタイル(ストレート攻撃主体のボクサーファイター型)で試合に臨んだ(とはいえ、これが最初で最後のコンビとなってしまう)。

David Nganga Kamau (born August 4, 1965 in Nakuru, Kenya) is a former Kenyan professional boxer in the Light Middleweight division who lost only four times in 34 fights.
ロバート・ワンギラ(Robert Wangila、1967年9月3日 - 1994年7月24日)は、ケニアの男子プロボクサー。ナイロビ出身。ソウルオリンピックウェルター級金メダリストで、現在まで陸上競技以外におけるケニア唯一のオリンピック金メダリストである。死亡=1994年7月22日、ラスベガスでのデビッド・ゴンザレス戦でレフェリーストップを受けTKO負け。試合後、控え室で昏睡状態に陥り、36時間後に死亡した[1][2]。1992年にイスラム教徒だった妻と結婚し、自身も改宗している。妻の意向もありイスラム式に埋葬された[2]。Françaisフランス語→Robert Wangila, né le 3 septembre 1967 à Nairobi et mort le 24 juillet 1994 à Las Vegas, est un boxeur kényan. Champion olympique aux Jeux olympiques d'été de 1988, il devient professionnel en poids welters. Il meurt des suites de son 28e combat professionnel quelques heures après avoir été arrêté par l'arbitre.


(1)、2000年6月16日 WBO北米ウエルター級タイトルマッチ 王者デビッド・カマウ(30勝(22KO)3敗)VS挑戦者アントニオ・マルガリート(21勝(14KO)3敗=41勝(27KO)8敗)カリフォルニア州インディオ
ー長身のマルガリートが3回TKOで快勝。新王者に就く。カマウはもう全盛期は過ぎていたかもしれない。初回からきびきびした攻防。しかし3回、マルガリートはダウンを奪い。そのまま猛連打を浴びせストップした。カマウは強い王者に挑戦し、2連敗した(本来は、王者になってもおかしくない実力者だったと思う)。運がなかったといえる。マルガリートは後に、トップクラスの強豪たちと連戦するほどの選手になるとは。この当時は考えていなかったです。
(2)、2003年2月8日 WBO世界ウエルター級タイトルマッチ 王者アントニオ・マルガリート(27勝(18KO)3敗)VS挑戦者前WBA王者故アンドリュー・ルイス(バルセロナ五輪ガイアナ代表(47勝3敗)+22勝(20KO)1敗1分=23勝(20KO)4敗1分 ラスベガス
ーマルガリートが2回KO勝ち。ルイスは初回いつも通りスピードがあり、絶好調だった(いそがしく左右にスイッチし、好打を叩き込む)。ながら2回、マルガリートはじわじわと圧力を強め。最後はロープ際で強烈なパンチを浴びせ、そのまま滅多打ちにしてグロッキーのルイスをストップした。ルイスはむかしから好みの選手。ずっと応援していたから再び残念だった。もっと活躍できるとずっと信じていたけど、世界は広い(+ボクシングの世界は本当に厳しい)。2015年5月4日交通事故死(自転車に乗っていて、車に跳ねられたそう)=まさか故人になっていたとは(享年45歳+涙)みんな早すぎる永遠の別れ。生きていて欲しい人たちがどんどん死んでしまう(不幸な最後ばかり)。現実は残酷そしてさびしいです(涙)もう1度☆追悼☆慰霊☆鎮魂☆
Italianoイタリア語→Antonio Margarito (Torrance, 18 marzo 1978) è un pugile messicano. Campione WBO, IBF e WBA dei pesi welter tra il 2002 e il 2008,[1] si distingueva per il suo stile di combattimento molto aggressivo, che gli ha valso il soprannome di "Tornado di Tijuana", e il suo mento d'acciaio che gli ha fatto subire 2 sole sconfitte prima del limite.
Deutschドイツ語→Andrew Lewis (* 14. Dezember 1970 in Georgetown, Guyana; † 4. Mai 2015) war ein guyanischer Boxer. Als Amateur gewann er im Halbweltergewicht unter anderem die Silbermedaille bei den Zentralamerika- und Karibikspielen im Jahre 1990 in Mexiko-Stadt. Bei den Profis errang er am 17. Februar 2001 den Weltmeistertitel des Verbandes WBA im Weltergewicht.



(1)、1994年12月10日 IBF世界ウェルター級タイトルマッチ 王者フェリックス・トリニダード(24連勝(20KO)無敗)VS挑戦者オバ・カー(アマ168勝8敗+32連勝(20KO)無敗=54勝(31KO)6敗1分)メキシコ
ー無敗対決はトリニダードが8回に3度ダウンを奪い。カーをノックアウト(初黒星+瞼が無惨に腫れ上がっていた)。5度目(4KO+1判定勝ちは故カマチョ(苦笑)=クリンチ戦法にさらされてしまった
⇒「クリンチしたときに、休んでますよね」(浜田氏))の防衛に成功した。リングサイドには、大先輩ハーンズが弟分カー(もうとっくに古巣クロンクを離れていたから、嬉しかったです☆)を応援している姿も見えた。カーは2回に右ストレートを命中させ、先制のダウンを奪う(この当時のトリニダードはよく倒された)。しかしその後は、ほぼワンサイド(トリニダードの豪打が荒れ狂った形)。ちなみに特にウェルター級時代のトリニダードの試合はドン・キング傘下(SHOWTIME=アメリカ当時も同じ、特殊な場所(大スクリーンもしくは酒場(バー)など)一般のテレビでは見れない=特別料金のチャンネル「TVKO」登場以来変わったけど)なのでカナダでは、ライブ放送はまずなかった(だからテレビの録画再放送で見たのばっかり)。後に、ラリー・バーンズ(カンパスに挑戦し3回KO負け)を4回にノックアウトした防衛戦だけHBOライブ放送。ボブ・アラム・トップランク社(リングアナウンサーがいつものジミー・レノン・ジュニア(SHOWTIME)じゃなくてマイケル・バッファー(はじめて)なんか違和感があった(笑))と契約(ドン・キングともめて離れた=けどまたくっついた(笑))。この時は、WBC王者ウィティカー(ダブルメインでジェイク・ロドリゲスに6回KO勝ち)との統一戦が俄然日程にあがったので(WBA王者クォーティーより先に実現しそうだった)。楽しみだった(ながら結局、双方とも流れてしまったのは残念でした=どれも「数億円」のファイトマネーが賭かる、世紀の一戦・スーパーファイト)。
(2)、1999年5月22日 WBC世界ウェルター級タイトルマッチ 王者オスカー・デラホーヤ(30連勝(24KO)無敗)VS挑戦者オバ・カー(48勝(29KO)2敗1分)ラスベガス
ーデラホーヤが大苦戦ながら、11回に左フック一発でカーをKO。7度目(5KO)の防衛に成功。カーはクォーティーに挑戦し、敗れて以来9連勝中(その前は7連勝)。元王者ランドール(判定勝ち)やカンパス(8回TKO勝ち)も退けた。カーは本当によく戦ったと思う(あのまま判定になれば、勝っていたかもしれない)。有効打では上回っていた。デラホーヤはこの試合はあまり調子が良くなかった(雑に振り回す感じで、的中率も悪かった)。故スチワードの秘蔵っ子だったカーも、運に恵まれなかった実力者の1人。最強の王者ばかりに3度挑戦(すべて善戦した)。
Oba Diallo Carr (born May 11, 1972) is a former American welterweight boxer.[1] A product of trainer Emanuel Steward's Kronk Gym in Detroit, he fought three times unsuccessfully for a welterweight world title. His professional record is 54 wins, 6 losses, and 1 draw.
Norsk bokmålノルウェー語⇒Kronk Gym er et legendarisk treningsstudio for boksere. Gymmen ligger i Detroit, USA. Den meget anerkjente boksetreneren Emanuel Steward driver stedet.


(1)、2000年3月3日 WBA世界スーパーウェルター級タイトルマッチ 王者デビッド・リード(アトランタ五輪優勝金メダル+14連勝(7KO)無敗=17勝(7KO)2敗)VS挑戦者フェリックス・トリニダード(36連勝(30KO)無敗)ラスベガス
ー無敗対決のスーパーファイト。トリニダードが大差の15回判定勝ちで、2階級制覇に成功した。2人とも絶好調(リードもスピードがあり、切れ味抜群だった)。リード(ブードウアニ(ソウル五輪銀)に判定勝ち。タイトルを奪い、2度目の防衛戦では手強い前王者ムリングスも判定で退けた)は3回、大きな右のスイングを炸裂させ。ぐらついたトリニダードの顎を、さらに右ストレートで打ち抜き。先制のダウンを奪う。リードは4回終了間際にも左フックの連発を命中させ、トリニダードをたじろがせた。ながらもトリニダードは5回から豪快なボディーブローから上に返す、コンビネーションを度々叩き込み。調子が上がってくる。7回には強烈な左フックでダウンを奪い。さらに11回3度ダウンを追加し、倒せなかったとはいえ圧勝だった。リードは初黒星(連勝ストップ)。ファイトマネーはトリニダードが約5億円。リードは約3億円だった。
Svenskaスウェーデン語→David Reid, född den 17 september 1973 i Philadelphia, USA, är en amerikansk boxare som tog OS-guld i lätt mellanviktsboxning 1996 i Atlanta. 1995 vann Reid guld i amatörboxning vid panamerikanska spelen i Mar del Plata.
(2)、2000年7月22日 WBA世界スーパーウェルター級タイトルマッチ 王者フェリックス・トリニダード(37連勝(30KO)無敗)VS挑戦者ママドウ・チャム(フランス(アフリカ旧仏領セネガル出身)33勝(30KO)1敗=49勝(46KO)11敗)フロリダ州マイアミ
ートリニダードが圧勝。初回に、痛快な左アッパーを2発命中させ(鋭利に切り裂く、鞭のようなパンチ)。チャムの右目が腫れはじめる。しかし2回、チャムは猛然とラッシュをかけトリニダードはちょっとびっくりした感じだったが。やはり全盛期のトリニダードは強かった。3回、チャムの右目は無惨に腫れあがり完全に塞がってしまう。最後は苦しげに横を向いてしまい、レフェリーがストップした。トリニダードは初防衛戦を、完璧な勝利で飾る。HBOライブ放送で見ました。自信満々、気合が入った精悍なトリニダードの入場シーンは、ときどき今でも見返すお気に入り。解説のラリー・マーチャントも話していた通り。戦績は双方見事だったけど、「対戦者」の質の違いも大きかった(トリニダードがウィティカー、デラホーヤ、リード(みんな元五輪金メダル)と戦っていたとき、チャムは地元フランスの選手たちと戦っていた)。


(1)、2001年5月12日 WBA世界ミドル級タイトルマッチ 王者ウィリアム・ジョッピー(32勝(25KO)1敗1分=40勝(30KO)7敗2分)VSWBA世界スーパーウェルター級王者フェリックス・トリニダード(39連勝(32KO)無敗)ニューヨークMSG
ー王者同士による世紀の一戦だった。トリニダードが5回にジョッピーをノックアウト。3階級制覇に成功した。初回中盤から強打を炸裂させ、猛攻。早々と壮絶なダウンを奪い。安定王者だったジョッピー(通産7度防衛(5KO))を圧倒。ジョッピーも調子はよかったが、役者が違ったといえるかもしれない。日本にも馴染みがあるジョッピーは試合前「俺は竹原のような強い王者からタイトルを取ったんだ。トリニダードは竹原(容態ずっと案じていました=多少は改善しているのを祈るのみ☆暮々もご自愛くださいませ(解説もよかったです☆)+何もできませんが、応援しております!!)みたいな大きい選手とは戦ったことがないだろう」と語っていた(FOXチャンネル解説の元王者ボビー・チェズも「カストロからタイトルを獲ったWBA王者の竹原慎二は、非常に優れた選手」と言及していました☆)。ジョッピーはこのあと、王座に返り咲いたがホプキンスとの統一戦で判定負け(次戦で新鋭テーラーに10回判定負け)。ニューヨークはプエルトリコ人たちの第二の故郷のようなもの(トリニダードはまさに英雄)。いつもながら、凄まじい喧騒と盛り上がりだった。有料TVKOチャンネルにて観賞。
(2)、2008年1月19日 ノンタイトル12回戦 元4階級王者ロイ・ジョーンズ・ジュニア(ソウル五輪銀(決勝で朴時憲(金メダル・ワールドカップ(85年ソウル大会)優勝金メダル・アジア大会2連覇)に判定負け(明らかにジョーンズの勝ちで、空前の’地元判定’(朴(が逆にかわいそうだった)につけたジャッジは永久追放の処分を受けた)となった)=121勝13敗)+51勝(41KO)4敗=66勝(47KO)9敗)VS元3階級王者フェリックス・トリニダード(42勝(35KO)2敗)ニューヨークMSG
ージョーンズが2度ダウンを奪い、12回判定勝ちでトリニダードを退けた。しかし両者ともすでに全盛期は過ぎていた(とくにジョーンズはすっかり勢いが湿り、冴えない試合が続いていたといえる)。前戦において、ライトに完敗したトリニダードのラストファイトとなる。体型はややふっくらしていたけど、トリニダードのパンチはこの階級(スーパーミドルとライトヘビーの中間くらい)でも十分通用するのに改めて驚いた記憶が新しい。この試合は両者とも調子は悪くなかったと思う(トリニダードは積極的に攻撃し、ジョーンズも真正面から迎え撃った)。噛み合い、いい試合でした。ジョーンズはミドル級、スーパーミドル級そしてL・ヘビー級タイトルを統一し、WBAヘビー級王者ジョン・ルイスに判定勝ち。史上初のライト・ヘビー級王者によるヘビー級制覇にも成功。当初は、もしトリニダードが無敗のままホプキンスを破り、ミドル級タイトルを統一していたら。次にジョーンズと戦うはずだった(個人的には、このとき実現して欲しかった)。
Polskiポーランド語⇒William Torelle Joppy (ur. 11 września 1970 w Waszyngtonie) – amerykański bokser, były, trzykrotny mistrz świata WBA w wadze średniej. 
Gaeilgeアイルランド語→Dornálaí Seapánach, a bhí ina churadh meánmheáchan, is ea Shinji Takehara a rugadh ar an 25 Eanáir, 1972 i Maoracht Hiroshima, an tSeapáin.
小罗伊·琼斯(英語:Roy Jones Jr.,1969年1月16日-),美国拳击运动员、拳击解说员、拳击教练、饶舌歌手与演员,拥有美国与俄罗斯双重国籍。他被认为是历史上最出色的拳手之一。


(1)、1995年9月9日 WBO世界ライト級タイトルマッチ 王者オスカー・デラホーヤ(18連勝(16KO)無敗)VS挑戦者WBA世界スーパーフェザー級王者故へナロ・エルナンデス(31連勝(16KO)無敗1分=38勝(17KO)2敗1分)ラスベガス
ーデラホーヤが圧勝。強敵エルナンデスをまったく相手にせず、6回終了TKO勝ち(ヘナロは鼻を痛め(出血が酷かった)、試合放棄)。デラホーヤはトレーナーにヘスス・リベロ(日本にも馴染みが深い元フライ級王者のミゲル・カント(14度防衛(4度来日=1、小熊正二(からタイトル奪取)に3勝2、触沢公男(小熊を8回KO)に判定勝ち+メキシコで高田次郎に11回TKO勝ち)の元トレーナー)を迎え、スタイルを一新。エルナンデスはパンチが当らないだけでなく、あまり打てなかった。日本でもよく知られた安定王者(タイトルを8度防衛)だったエルナンデス(2度防衛戦を行なった=1、竹田益明に判定勝ち2、渡辺雄二に6回TKO勝ち)。下馬評は、デラホーヤ危うしとみる声も高かった(私もこんなワンサイドになるとは予想していませんでした)。難敵エルナンデスに完勝し、また一段と成長したように思える。
(2)、1998年10月3日 WBC世界スーパーライト級タイトルマッチ 王者へナロ・エルナンデス(38勝(17KO)1敗1分)VS挑戦者フロイド・メイウェザー・ジュニア(アトランタ五輪銅(84勝6敗)+17連勝(13KO)無敗=50勝(27KO)無敗)ラスベガス
ー期待のホープ、メイウェザーが8回TKO勝ち。新王者に就いた。この当時はまさに童顔「プリティー・ボーイ」の異名通り、元気溌剌。強い王者だったエルナンデスを一方的に打ちまくり、絶好調だった。新旧交代劇だったといえる(ヘナロのラストファイト)。トレーナーは親父フロイド・シニア(見直したら、下の叔父ジェフもついていました☆)。エルナンデスは強打のネルソンから判定でWBCタイトルを奪取(3度防衛中)。メイウェザーはここ何戦か、あまりジャブが出ず。なんとなくギクシャクした試合が続いていたが。この試合ですっかり復活したように見えた(鋭いジャブを絶え間なく突き、若さでエルナンデスを圧倒した感じ)。
Deutschドイツ語→Genaro Hernandez (* 10. Mai 1966 in Los Angeles, Kalifornien, USA; † 7. Juni 2011) war ein US-amerikanischer Boxer mexikanischer Abstammung im Superfedergewicht. Er war Normalausleger und wurde von seinem Bruder Rudy Hernandez trainiert.
★追悼★故ヘナロ・エルナンデス(Genaro Hernandez、1966年5月10日 - 2011年6月7日)は、アメリカ合衆国のメキシコ系米国人(ヒスパニック)の元プロボクサー。カリフォルニア州ロサンゼルス出身。元WBA世界スーパーフェザー級王者。元WBC世界スーパーフェザー級王者。元帝拳プロモーションプロモート契約選手(LAボクシングクラブで普段の練習を行っていた)。元USA帝拳代表。世界ボクシング殿堂に名を連ねる一人・・・引退後は総合格闘技団体「UFC」のスペイン語放送で解説者を務めていたが[2]、発症率が極めて低いとされる癌の一種「横紋筋肉腫」に侵され闘病生活に入る。2009年暮れにいったんは快復したものの、その後再発し、2011年6月7日、カリフォルニア州の自宅で死去。45歳没[3]。



(1)、2006年4月8日 IBF世界ウェルター級タイトルマッチ 王者フロイド・メイウェザー・ジュニア(35連勝(24KO)無敗)VS挑戦者前2階級王者ザブ・ジュダー(アトランタ五輪米代表(110勝5敗)+34勝(25KO)3敗=44勝(30KO)10敗)ラスベガス
ー元五輪代表同僚対決となった1戦。メイウェザーが判定でサウスポーのジュダーを退けた。10回のゴチャゴチャ、大乱闘さえなければ。一級品同士による、すばらしい試合だったといえる。ジュダーはコリー・スピンクスに奪われたタイトル(ダウン応酬の末、判定負け)を再戦で奪回(9回KO勝ち)。しかし次にカルロス・バルドミール(アルゼンチン+2019年、娘への性的虐待で有罪。「禁固19年」の実刑判決。服役中)に判定負け。あえなく王座転落(好不調の落差=ポカと取りこぼしをしてしまう。波の激しいボクサー)。元気だった頃の、トレーナー叔父故ロジャーが懐かしい(末弟ジェフとのメイウェザー一家コンビ)。中盤までメイウェザーは、ジュダー(強敵相手だと俄然、気合が入る選手)のスピードと破壊力のあるパンチに苦しんだ展開。途中からロジャーは「プレッシャーを弛めるな。ボディーを攻撃しろ」と指示していた。パワーは8分目くらいで、コツコツとボディーに当ててから。上に返す(実に有効だった)。ジュダーは鼻血を出し、顔も腫れはじめた(倒されるのは時間の問題)。そこで10回終了間際、ジュダーのローブロー(左アッパーで深々と「ど真中」をえぐった=明らかに故意)から右フックの後頭部打ちを受けたメイウェザーは苦悶の表情を浮かべる。間髪入れず、激昂した叔父ロジャーがリングに乱入。ジュダーに抗議した。ジュダー(自ら殴り合いに加わり、よろめいたロジャーの後頭部目がけて「右フック」を打ちこんでいた(苦笑))陣営もトレーナーの親父(元キック・ボクサー)が躍り込み。ロジャーに素手で「右ストレート」を浴びせ、「ダウン」させる(両陣営入り乱れ(ノエル(親父)は、加勢したメイウェザーのセコンドに「右フック」(むろん素手)を叩き込まれた)、さんざんなドンチャン騒ぎが起こってしまった)。ジュダーはジューとのタイトル統一戦(痛烈なダウンを奪われ、2回TKO負け)時も、ストップに激怒してレフェリーの喉を締め上げた男(ケンカっぱやく、血の気が多い+兄貴分はおなじブルックリン出身のタイソン)。解説のラリー・マーチャントはジュダーの反則に憤り「業界追放」さえ示唆して、厳しく批判。レノックス・ルイスは「2発目(ラビットパンチ)はあきらかに故意」といっていた。ジュダーは試合後「俺は戦士なんだ。だから乱闘に参入した」と弁解していたけど(なんともはや)。ながらこの中断により、以降ジュダー(KO寸前に追いこまれていた)は息を吹き返した感じ(最終ラウンドのゴングをきく)。思い出すのは、故ウィティカー(ロス五輪金)がプロから五輪に出場を要請。にべもなく却下されたときのこと。弟分たち、まだ少年の雰囲気を漂わせたメイウェザーとジュダーが一緒に映っていた。
(2)、2007年5月5日 WBC世界スーパーウェルター級タイトルマッチ 王者オスカー・デラホーヤ(38勝(30KO)4敗)VS挑戦者フロイド・メイウェザー・ジュニア(37連勝(24KO)無敗)ラスベガス
ーメイウェザーが判定でデラホーヤを破った。新王者に輝く。5階級制覇達成。接戦だったとはいえ、メイウェザーはあらゆる面で一歩上回っていた(円熟味の老獪さを発揮)。デラホーヤはいつ全盛期を過ぎたのかは、結局わからないまま。ラストファイト(パッキャオ戦)を迎えたと個人的には思う。
ザブ・ジュダー(Zab Judah、1977年10月27日 - )は、アメリカ合衆国の男性プロボクサー。本名はザブディエル・ジュダー(Zabdiel Judah)。ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン出身。黒人だが敬虔なユダヤ教徒であり、ダビデの星をあしらったトランクスで試合に登場している。
플로이드 메이웨더 주니어(Floyd Mayweather, Jr., 1977년 2월 24일 ~ )는 미국의 권투 선수이다. 그의 신장은 173cm이고, 리치 183cm이며 역대 전적은 50전 50승(27KO)이다.


(1)、2008年12月6日 ノンタイトル12回戦 元6階級王者オスカー・デラホーヤ(39勝(30KO)5敗)VSWBC世界ライト級王者マ二ー・パッキャオ(47勝(36KO)3敗2分=62勝(39KO)7敗2分)ラスベガス
ーパッキャオ(この時点で4階級制覇)が8回終了TKO勝ち。デラホーヤのラストファイト。ワンサイドの展開となった。いまさらながら、かつて「フライ級」だったパッキャオ(ユーリからタイトルを奪ったチャチャイ(ソウル五輪代表)に8回逆転KO勝ちで戴冠)がデラホーヤやモズリーそして↓のコットさらにメイウェザーと戦うことになるとは。やはり予想していなかった。
(2)、2009年11月14日 WBA世界ウェルター級タイトルマッチ 王者ミゲル・コット(プエルトリコ(アマ125勝23敗)+29連勝(25KO)無敗=44勝(33KO)6敗)VS挑戦者ザブ・ジュダー(34勝(26KO)4敗)ニューヨーク
ー強打の天才コットが11回に強烈なダウンを奪い、TKO勝ち。中盤からほぼ一方的(ジュダーの衰えが目立った一戦のように思える)。特に終盤、コットがサウスポーにスイッチしてからジュダーは一層劣勢となる。連勝街道を驀進中だったコットのボクシングは攻防一体。ジュダーは瞼から出血し、顔面も腫れあがっていた。
Tagalogタガログ語→Si Emmanuel "Manny" Dapidran Pacquiao o Pacman, (isinilang noong ika-17 ng Disyembre 1978), ay isang Pilipinong propesyunal na boksingero at politiko. Siya ang kauna-unahang kampeon ng walong dibisyon, [2]nanalo ng sampung titulo at unang nakakamit ng panalo sa Lineal Championship sa limang magkakaibang dibisyon[3].
Españolスペイン語→Miguel Ángel Cotto Vázquez (29 de octubre de 1980 en Rhode Island, Estados Unidos) considerado uno de los mejores exboxeadores de su país en los últimos años1​ es un exboxeador profesional criado en Caguas, Puerto Rico.2​


(1)、2007年11月10日 WBA世界ウェルター級タイトルマッチ 王者ミゲル・コット(30連勝(26KO)無敗)VS挑戦者前3階級王者シェーン・モズリー(44勝(37KO)4敗)ニューヨークMSG
ーコットが判定でモズリーを退けた。勢い盛んなコットが、若さでモズリーの老練さを上回った展開といえる。モズリーはライトに負けた後、5連勝中(バルガスへの2勝(2KO)も含む)だった。しかし、キャリアはまだまだ続くことになる。
(2)、2008年8月26日 WBA世界ウェルター級タイトルマッチ 王者ミゲル・コット(32連勝(27KO)無敗)VS挑戦者IBF王者アントニオ・マルガリート(36勝(27KO)5敗)ラスベガス
ーマルガリートが金星。11回TKO勝ちでコットを破り、新王者に就く。年間最優秀試合に選ばれた、大激戦だった(打ちつ打たれつ)。マルガリートは11回、2度ダウンを奪い。無敗のコットをストップ(左目はほぼ塞がり(唇も腫れ上がっていた)、目下からの出血も激しく敗色濃厚)。下馬評は圧倒的に、スター街道驀進中のコット有利だった。ながら、よもやの王座転落、初黒星。
Portuguêsポルトガル語→Shane Andre Mosley (nascido em setembro 7, 1971) é um boxeador californiano. Mosley tem segurado títulos em 3 diferentes divisões. Mosley tem um cartel de 47 vitórias (39 por nocaute), 8 derrotas, 1 empate e 1 luta sem resultado.[1]



(1)、2009年5月2日 IBF世界スーパーライト級タイトルマッチ 王者リッキー・ハットン(45勝(32KO)1敗=45勝(32KO)3敗)VS挑戦者マ二ー・パッキャオ(48勝(37KO)3敗2分)ラスベガス
ーパッキャオが強打のハットンを戦慄の2回ノックアウトで下し、5階級制覇を達成。パッキャオは初回早々、2度ダウンを奪い。2回の終了間際、左ストレートを顎に炸裂させ、タフなハットンを仰向けにひっくり返した(ダメージは深く、そのまま立ち上がれず)。ハットン(メイウェザーとの統一戦(無敗対決)で10回KO負け)は地元イギリス・マンチェスターにおいて、ジューに12回TKO勝ちでタイトルを奪い(ジューのラストファイト)。さらに元王者の難敵カスティーヨ(メキシコ)を4回にノックアウト。パッキャオの強さ逞しさ。見事な勝利、この1戦は脱帽だった(東洋の選手が世界のトップボクサーたちをKOする=毎回ながら欧米諸国で暮す東洋人のひとりとして、元気をもらいました☆)。ハットン(この1戦後、麻薬問題=コカインを吸っている姿が新聞の一面を飾ってしまう(ライセンス剥奪))は、再起戦(約3年後)となった次のセンチェンコ(ウクライナ)戦(9回KO負け)がラストファイトとなる。
(2)、2009年11月14日 WBO世界ウェルター級タイトルマッチ 王者ミゲル・コット(34勝(27KO)1敗)VS挑戦者マニー・パッキャオ(49勝(38KO)3敗2分)ラスベガス
ーパッキャオが2回と3回にダウンを奪い、最終12回にコットをストップ。再び、強敵相手に完勝だった。コットは何も出来ず、ワンサイドの展開。この試合も、前代未聞の強さを発揮したパッキャオに脱帽だったです。コットに圧勝するとは・・・(涙)
(3)、2010年11月13日 WBC世界スーパーウェルター級王座決定戦 マニー・パッキャオ(51勝(39KO)3敗2分)VSアントニオ・マルガリート(38勝(27KO)6敗)テキサス州アーリントン
ーパッキャオが12回判定勝ちで新王者に輝く(6階級制覇を成し遂げた)。パッキャオの強打を浴び続けた、マルガリートの顔は無惨に腫れ上がっていた。パッキャオがマルガリートのような、大きな選手と戦って勝つなどとは。すごいとしか言いようないです(素晴しい偉業、たいしたもの☆)。
Richard John Hatton, MBE (born 6 October 1978) is a British former professional boxer who competed between 1997 and 2012, and has since worked as a boxing promoter and trainer.[6]


(1)、2011年12月3日 WBA世界スーパーウェルター級タイトルマッチ 王者ミゲル・コット(36勝(29KO)2敗)VS挑戦者アントニオ・マルガリート(38勝(27KO)7敗)ニューヨークMSG
ーコットが9回TKO勝ちで雪辱。マルガリートは9回終了と同時に、右目の腫れがひどくストップされる。コットは無敗のユーリ・フォアマン(イスラエル+28連勝(9KO))から奪ったタイトルの3度目の防衛に成功した。2人とも刺青がドンドン多くなっている気がした(特にマルガリート)。
(2)、2011年5月7日 WBO世界ウェルター級タイトルマッチ 王者マニー・パッキャオ(53勝(39KO)3敗2分)VSシェーン・モズリー(46勝(39KO)6敗1NC)ラスベガス
ーパッキャオが12回判定勝ち。パッキャオは次戦で宿敵ファン・マニュエル・マルケス(メキシコ)との3度目の対決(1勝1分)を判定で制した。マルケスもかつてはフェザー級の選手(科学の発展及び進歩といえると思います)。階級・団体も増え、多階級制覇が当たり前となった(いろいろな面で、本当に多様化)。オンス(重さ)は同じでも、メーカーが違うグローブ(色も異なる)を使ったりと(↑のメイウェザー(日本製ウイニング(白)=氏の好み(パッキャオのライバル・モラレスも同じく)⇒ナックルパートが厚く、拳を痛めにくい)VSジュダー(アメリカ製エバーラスト(黒)=非常に薄く、パンチャーのグローブ)など)。選手寿命もむかしより、格段に長くなった。もう「新しい時代」について行けない(苦笑)。「古き良き時代?」(WBA+WBCだけ+懐かしの15回戦)ばっかの私には、すっかり馴染みがない時代でした(よほどの「大試合」以外は、ほとんど見ていなかった)。まさにこのページで紹介した選手たちが、辛うじて知っている最後です(これまた、むかしでは考えられなかった)。これはボクシングに限ったことではなく、他様々も似たような状況。

(1)、2015年5月2日 WBA世界スーパーウェルター級タイトルマッチ 王者フロイド・メイウェザー・ジュニア(47連勝(26KO)無敗)VS挑戦者マニー・パッキャオ(57勝(38KO)5敗2分)ラスベガス
ー世紀の一戦となったが、メイウェザーが12回判定勝ち。実現が遅すぎた帰来がある。パッキャオは強敵たちとの連戦続き(これはメイウェザーも同じながら)。すでに全盛期は過ぎていた。無敗のティモシー・ブラッドリー(28連勝(12KO))に判定で破れ、王座転落。次戦において4度目の対決、宿敵マルケス(メイウェザーに判定負け)に6回痛烈なノックアウト負けを喫した。メイウェザーは判定でコットからタイトル奪取。この頃のメイウェザーのボクシングは、老獪さの極み。KOもめっきり減り、危なげはないながら「安全運転」といえるかもしれない。













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