日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

【Japoneses y judíos】<Japaner und Juden≪いざや、便出さん?≫Исайя Бендасан(Now, defecate)>Shichihei Yamamoto 山本七平「雑音でいじめられる側の眼」(本多勝一:自称「ユダヤ人」と真性日本人の公開討論より)①

Françaisフランス語→Isaiah Ben-Dasanいざや、便出さん?(nominal né en 1918) est le pseudonyme de Shichihei Yamamoto . Il est devenu célèbre en tant qu'auteur de «Japonais et Juifs» et pendant un certain temps, il a continué à publier de nombreux livres au nom de Ben-Dasan. Un cadre appelé Juifs nés à Yamamotodori , Chuo-ku, Kobe . Le livre a reçu le prix Soichi Oya Nonfiction et est devenu un livre à succès, avec un total de plus de 3 millions d'exemplaires dans les livres et les livres de poche.イザヤ・ベンダサン おすすめランキング (27作品)Classement recommandé par Isaiah Ben-Dasan (27 œuvres).
Deutschドイツ語→
Shichihei Yamamoto 山本七平(Yamamoto Shichihei, 1921 ( Taisho 10), 18.-1991. Dezember ( Heisei 3), 10. Dezember ) ist ein japanischer Kritiker . Yamamoto Buchhandlung Ladenbesitzer. Als Kritiker arbeitete er nach dem Pazifikkrieg hauptsächlich in konservativen Massenmedien.山本七平:稀世的天才Shichihei Yamamoto: Ein seltenes Genie.
                   <はじめに> 
以下の討論は、イザヤ=ベンダサン氏が月刊誌『諸君!』で私のルポ『中国の旅』を非難したことをきっかけとする三往復の文章である。これらを全文引用するに際して、ベンダサン氏と連絡をとるべく、本書の編集者が”訳者”としての山本七平氏(山本書店主)をたずねると、山本氏は左記の住所を示して「直接連絡をとるように」と語った。
Isaiah Ben-Dasan  c/o Prof.  John Lawler, Humanities Dept., Indiana State Univ., Terre Haute, Indiana 47809 U.S.A.
しかし、今年(1972年)7月上旬に出した第一回の航空便以来、8月10日の三通目の航空便にいたるまで、返信はついになかった。他方、ベンダサン氏の文章は、その後も『諸君!』誌10月号にいたるまで、毎月欠かさず連載されつづけた。ここに引用された文章のための原稿料は、したがって山本七平氏にその処置がまかされる。
                 <文庫本のための追記>
単行本刊行当時の出版社社長によれば、右の原稿料は小切手で山本氏に送られたが、その小切手は現金化されなかった(落ちなかった)。また今回の文庫収録に当っては、山本氏によるとベンダサン氏の住所は左記であるというので、原稿料はそこに送る。
Miss Irene Loftus Bulcamp House, Halesworth Suffolk, England   (本多勝一)
                   朝日新聞の「ゴメンナサイ」       イザヤ・ベンダサン
数年前のことですが、日本を通過したとき、ほんの数時間の滞在の間に、私は1枚のポスターを見ました。何の変哲もない映画のポスター、しかも大分以前のもので・・・しかし私はそのポスターに異常な衝撃をうけ、結局われわれは永久に日本人を理解できないのではないかと考え、しばらくそのポスターの前に茫然と立ちすくんでおりました・・・映画の題名は『真昼の暗黒』、余白におそらく後から筆書きで「八海事件の真相」と書かれ、その下に大きく「司法殺人は許されるか!」と書かれておりました。私が、日本人を永久に理解できないのではないかと考えましたのは、この「司法(による)殺人は許されるか!」という言葉だったのです・・・しかし何度見なおしても、書かれているのは「司法殺人は許されるか!」であって「偽証殺人は許されるか!」ではないのです。私はすぐ出発しましたが、機中でも、この問題が頭から離れませんでした。日本人には偽証という考えが全くないのです。驚きになるかもしれません。しかし、ないものはないと申し上げる以外にありません・・・。
訳・山本七平(原文は英語)(「『諸君!』1972年1月号掲載・本多勝一『殺す側の論理』(朝日文庫)1980年・「自称「ユダヤ人」と真性日本人の公開討論」より) 
       イザヤ=ベンダサン氏への公開状原題「イザヤ=ベンダサン氏の勇み足」) 本多勝一
ー先日、私の勤務する新聞社の友人P記者と、彼の自宅で話していたとき、いま評判のイザヤ=ベンダサン氏のことが話題になった。とくに私が『朝日新聞』に連載した『中国の旅』という記事をめぐってのベンダサン氏の考え方が焦点になったので、ベンダサン氏の文章を連載している本誌(株式会社文藝春秋刊『諸君!』)の読者のために、以下に私たちの対話を紹介することにした。
・・・
P記者: なるほど。じゃあ僕も、君とともにベンダサン氏の名解釈を楽しみに待とう。
はいま地中海かどっかの島にいることになっているそうだから、これを彼が読んで、英語で文章を書いて、さらに「訳者」の山本七平氏がそれを原稿するまでにはかなりの時間がかかるだろうね。
本多: うん。ついでに俺は、ベンダサン氏の原文の英語を読みたいなあ。というのは、あの文章には日本語でなければ表現しにくいような部分がよくあるんで、それを英語でどう書いているのか、興味があるんだ(『諸君!』2月号掲載)
                    本多勝一様への返書 
      イザヤ・ベンダサン
拝啓「新年の御慶目出度申納侯・・・其後別に恋着せる夫人も無之、いず方より艶書も参らず、先ず無事に消光?り在り侯間・・・」と来春は猫殿に一筆啓仕ろうと思っていましたところ、年末も押しつまりましたころ、『
諸君!』到着致し、小生宛の公開状なる本多様の一文に接しました。・・・ただ、小生まことに浅学非才、かつ日本語がよく読解出来ませぬため、何とも理解致しかねる点、多々ござりますれば・・・御返事は下さっても下さらなくてもけっこうです。また公開でも非公開でもかまいません。前述のように五年もたてばおのずと明らかになることですから、議論の必要はないと存じます。私としましては、御返事がいただけても、いただけなくても、それから十年後に、もう一度公開書簡を差し上げたいと存じます。その時私の考えが誤っていたことが明らかになり、本多様に心から、「あなたが正しい」といえる状態になっていない方が、本多様にとっては安穏無事と存じます。従って、本多様の御無事を心より願っております。(『諸君!』3月号掲載)

92・3  山本七平さん
卑しい感じがした。本を書くときに一流ホテルにカンズメを要求し、何人も客を呼んで飲み食いしたカネも払わせるので往生したというセコイ話を、幾人かの編集者から聞いた。これが山本七平にとっての"常識"だったのだろうI felt lowly. I have heard from several editors that when he wrote a book, he demanded to stay in a first-class hotel, and that they were frustrated because he invited guests and made them pay for their food and drinks. This must have been "common sense" for Shichihei Yamamoto
(佐高信Makoto Sataka氏の毒舌sharp tongue)。

                 雑音でいじめられる側の眼   本多勝一(『諸君!』4月号掲載)
ー私にとってもっとも啓発的であると思われる古いアフリカ人のことわざがある。それは、私の敵の敵対者は、私にとって友人であるという言葉だ。(中略)一匹のライオンが私の背後からやって来たとする。(中略)他の人間がライオンに何かを投げ続けている限り、私にとって彼らは味方であり友人である。そして事態が変わればまた別である。(マルコムX『いかなる手段をとろうとも』長田衛訳 現代書館)
A 雑音の中から選んだ一人
個人的な体験からはじめることにします。小学生のころ私の関心事のひとつは川魚や昆虫の飼育でしたが、中学生になるとこれにへビやトカゲ、野鳥の生態観察もくわわりました。そのころ、こうした関心事の分野でのある高名な博物学者に、質問の手紙をだしたことがあります。なしのツブテ、まったくこたえてはくれませんでした。それだけならともかく、私の一学友にたいしてはちゃんと返事がきているのです。理由はかんたん、彼にはいわば一種のコネがあったからでした。私はこどもごころに侮辱を感じて、かりにいつか自分があの学者のような立場になることがあったとしても、手紙にはかならず返事をだそうとおもったのです。
その後大学までずっと理科系ですごしてきましたが、少年時代の関心事だった分野での学者にはならず、かなり偶然性の高い動機によって、たまたま新聞記者になりました。しかしルポルタージュなどが本になったりするために、読者からお手紙をいただくことがよくあります。そのすべてに返信をだしているのは、あの中学生のころの侮辱された記憶が心のかたすみにあるいのも一つの理由といえましょう。ただ、お手紙が最近になるほどふえてきて、もし自分ですべてに返信を書いていると、ほんらいの仕事をする時間がなくなってしまうため、ときにはアルバイトに口述筆記をたのみ、あるいはとくに質問をしているのでない場合は印刷物の返事で失礼させざるをえなくなりました。しかしすべてに返信をだす原則は、まげておりません。
ーこの原則は、じつは公開の場、たとえば雑誌などで私に質問なり討論なり批判なりをしかけてこられた場合でも、できるだけとおしたいつもりでおりました。しかしこれは、そのような論争や批判や揚げ足とりをしあうことを主たる仕事とするひとでないと、物理的にむずかしいということを、最近になるほど感じております。たとえば『アメリカ合州国』という私のルポルタージュに関するさまざまな批判など、書評の類までふくめるとたくさんありすぎて、多忙な時間の仕事をやっているあいまには、とてもやりきれません。ベトナムでソンミ虐殺事件をおこした米軍の体質を批判したとき(注1)にも賛否両論がかなりありましたが、このときは在日アメリカ人宣教師からの批判を選んでとりあげ、公開討論(注2)をいたしました。このときこのひとを選んで応じた理由は、この公開討論の中で明らかにしてあります。
ーさて、こんど私が『朝日新聞』に連載したルポルタージュ『中国の旅』は、これまでの私の仕事のなかでは、公開の場の批判・非難または支持・賛辞の類が、もっともたくさんあった例といえましょう。そうしたなかのひとつに、イザヤ=ベンダサンさん、あなたの文章―本誌(『諸君!』)のことし(1972年)1月号「朝日新聞のゴメンナサイ」-があったのです。ほかの例をすこしあげてみますと、たとえば『情況』という月刊誌の去年12月号。私のルポは「いまこそ懺悔のとき」と歌いつづけて「週刊誌が書き立てるナウ感覚の安売り」をしているのであり、「そもそも懺悔したからって、そこから何が生まれてくるのか。もし、広島・長崎に原爆を落してわるうござんしたとニクソンが頭を下げたとしても、それが被爆者にとって何の意味があるのか」と評しております。この雑誌はうわさによると「左翼」らしいのですが、右の主張はベンダサンさん、あなたとそっくりなので、とまどっているところです。たとえばまた、『中央公論』という月刊誌のことし2月号にでている文章によりますと、私は「朝日を代表するスター記者」で、そのことは「ひとつの社会学的事実」であって、ルポ『中国の旅』も「中国ブームに埋没し、その一部として読まれてしまうことから逃れるすべを持たない」のであり、要するに「メロドラマの構造」を示すひとつにすぎないのであります。うわさによると、この筆者も「左翼」にぞくするということです。問題はこういう筆者の頭のなかにある「メロドラマ的構造」にあるのではなく、のせる編集者の見識のほうにあるのかもしれません。そのほか、いろんな月刊誌や週刊誌でもふれられております。こうした雑音に、もしあの原則をまもって、いちいち、ていねいに反応していたら、私はもうまったく、ほんらいの仕事をすすめる時間がなくなってしまうでありましょう。仕方ないので、ひとりだけ選ばせていただくことにしました。そのひとりが、ベンダサンさん、あなたです。
ーなぜベンダサンさんを選ばせていただくが、それは二つの理由によるものであります。第一は、あなたのかいたという『日本人とユダヤ人』が空前ともいえる大ベストセラーであること。先日の週刊誌によれば、120万部に達して、まだ売れているそうです。120万部という数字がどんなにたいへんなことかは、ジャーナリズムの世界にいるものであれば、だれでもよく理解できましょう。いまのところ日本で部数がいちばんおおいという『朝日新聞』が、だいたい600万部余りであります。しかし日刊紙などというものは、ごぞんじのように、それぞれが興味のある部分だけ、気の向いたときにみるだけであって、ほうっておいても配達される新聞などは、たとえ購読しているひとでも、熱心に目をとおす例はむしろ少ないのです。ナベ・カマ合戦でさそわれればほかの新聞にかえたりするぐらいですから。ところが本はちがいます。自分の意志で、すすんで書店におもむき、身ゼニをきって、ほとんどの場合全部よむつもりで買う。まいにち配達される新聞の場合とは、姿勢が根本的にちがってくる。ようするに、その影響力がいかにおおきいかということを、認識する必要があります。そのようなおおきな影響力をもったベンダサンさん、あなただから、選ばせていただきました。
ーしかし、いくら何百万部も本が出たからといって、それだけでは選ばせていただく理由になりません。ですから第二の理由は、第一と関連していてそれ以上に重要なのですが、前回のあなたの文章をよんだひとは、あるいはもう気づいているかもしれません。この文章のおわりちかくでふれるように、ベンダサンさん、これはあなたのほうで、すすんで明らかにしてくださったのですから。
B 質問に答えないのはどちらか
私が『朝日新聞』に連載した『中国の旅』というルポルタージュについて、まず解説・言及し、あれは「ゴメンナサイ」だと本誌1月号に書いてしまったのは、ベンダサンさん、あなたのほうでした。つまり私がさきにあなたの文章に(前号の「編集後記」によれば)「噛みついた」のではなく、あなたのほうがさきにやってくださったのであります。したがってこれは私の記事をめぐってのやりとりであって、あなたの著作をめぐっての話ではない。この点をはっきりしておいてください。そこで私は、次の2月号で、あなたの文章についてP記者とかわした雑談をのせ、そのなかでいくつか、あなたの名解釈をもとめる問題をだしたのです。単純なことです。
ーところが、前号(2月号)で、どこか遠い外国にいるとかいわれている自称ユダヤ人としてのあなたは、意外にも-といいたいけれど、じつは予想どおりに-まさに電光石火のはやい反応をみせてくださいました。雑誌がでてから、次の号のしめきりまでのみじかい時間と、どこか遠い外国からの郵送や翻訳やらの時間をかんがえてあわせてみますと、この長文の原稿の書きぬしはたいへんな筆力のようです。もっとも、どういうわけか、今回は「原文は英語、訳・山本七平」という注が、あなたの文章についていませんでしたけれど。とはいうものの。ベンダサンさん、あなたの「返書」のなかには、P記者と私とでおねがいした名解釈が、なにひとつなされていませんでしたね。そのおねがいしたことは、2月号からそのまま引用すれば、つぎの3点であります。
① アメリカの場合にしたって、ベトナムで米軍がソンミ虐殺をやったとき、アメリカの新聞は事件から1年以上たっていたとはいえ、ともかくまず報道した。これ、ベンダサン氏式にいうと、アメリカ人のベトナム人に対する「ゴメンナサイ」なのかね。そうじゃないんだ。事実の報道としての出発点なんだよ。そうはいってもアメリカの場合、たとえばバランアン虐殺など、ソンミ以上の虐殺については黙りこんでいるから問題はあるんだが、とにかく報道はしたよ。そのとき新聞が「責任者のジョンソンを糾弾せよ」と、報道と同時にやりはしないものな。日本の新聞じゃなくたって当たり前だよ。しかしあの事件の最高責任者は、やはりジョンソンであり、ニクソンでもある。ところがこうした大統領は、日本の天皇と同様に、ちっとも裁判になんかかけられないもんね。このあたりベンダサン氏の「名解釈」を聞きたいなあ。
②そういえばベンダサン氏は、ユダヤ人であれば天皇をどうみるかについて、深く突っ込まないんだな。だから天皇の戦争犯罪という問題も一向に出てこないんだ。このあたり、やっぱり彼も「自称ユダヤ人」なんだなあ。僕は知りたいんだが、仮に中国がユダヤ人の国で、そこで日本軍がああいうことをやったとした場合、ユダヤ人は戦後どうするんだろうね。ヒットラーは死んでしまったからユダヤ人も裁判のしようがなかったが、アイヒマンは生きていたからやった。この伝だと、まず天皇こそ、この仮定の場合のユダヤ人は裁判にかけなければならないと思う。もちろん死刑の判決じゃないかと思うんだが、このあたりも名解釈をきいてみたいよ。(これはP記者)
③もうひとつベンダサン氏の名解釈を期待しておきたい問題を出しておこう。「責任者個人」を追及して裁判にかけないのは日本的特徴だと彼は書いているが、またこれは俺自身も大賛成なのだが、それでは、アメリカ人が主体となってやった東京の極東軍事裁判は、どうして天皇を裁判にかけなかったんだろうか。これでは日本人のやり方とアメリカ人のそれと全く一致してしまうじゃないか。
ー右のように、私たちがはっきりとだしておいた設問にたいして、ベンダサンさん、あなたはちっともこたえませんでしたね。そのあなたは、前回「本多様はこの質問には余程答えたくないとみえ・・・」などとかいていますが、このようにはっきりとした設問が三つもだされているにもかかわらず、「ノー・コメント」という「回答」さえなく、「何とか体をかわそう」どころか、ひたすらに黙りこくってしまって、読者に気づかれないように、必死で逃げきろうとこころみたベンダサンさん、あなた自身はどうなるのですか。「三歳の童児」じゃあるまいし、こんなオシリまるだしの逃げかたでは、とても読者をだますことはできません。あなたによると「セム族の世界は古来「奴隷の叫びに対して」さえ神ですら、「応答」する世界であって、どんな不当な要求でもこれに答えなければ、答えないほうが不当なのです」から、従ってセム族であるハズのあなたは、あなたのことばによっていうまでもなく「不当」になりましたね。
ーそれでは大前提として、まずこのような「不当」な行為をおかしているベンダサンさん、前回のあなたの「返書」の諸項目にたいする私の「返書」を、以下に、ひとつひとつ、ぜんぶ、例外なく、徹底的にさっぱりと、「どんな不当な要求」に対しても、おこたえいたしましょう。
C ベンダサンサンの勇み足
まず「第一の不審点」とベンダサンさんがあげられた「公開状」ということばについて。おこたえするまえに、以前私にたいして猛然と「噛みついて」きた博学とされているある文化人類学者(故山口昌男氏)の例をあげておきます。私はさる小論(注3)のなかで、北米合州国(注4)の一文化人類学者が、研究対象のアメリカ先住民(注5)に徹底して密着・同化したあげく、しまいにはとうとう「研究される側」としての先住民の側にみずからの立場をおいてしまって、それまでの「研究」をいっさい「発表」しないことにしたという例をあげました。ところが、この「博学」とされている文化人類学者がどのようにして「噛みついた」かともうしますと、この私があげた例はだれなのかを、自分で勝手におくそくしたうえで「それはきっとカッシングだ」ということにしてしまいます。そしてカッシングについての自分の「博学」ぶりを、えんえんと書きつらねてゆくのです。ああ、このむなしい作業。だってカッシングなんかじゃないんですから、どだい、何十枚も「博学」ぶりをひろうしてみても、ぜんぶ、まさに砂上の楼閣を必死で建築していることでしかありません(注6)。
ーさて、ベンダサンさんの「第一の不審点」をごらんください。「元来「公開書簡」と申すものは・・・」と、自称ユダヤ人としてのベンダサンさんが、いろいろと“博学”ぶりをならべて、お教えくださっております。ところが、この「イザヤ=ベンダサン氏への公開状」というタイトルは、あにはからんや、本誌『諸君!』の編集部がつけたものでありました。私の原稿をチャンとごらんになれば、タイトルは「イザヤ=ベンダサン氏の勇み足」となっているはずです。雑誌の文章のタイトルはおおくの場合、編集者が主導権をもってつけることなど日本では常識ですよ。あなたの講釈は、そっくり編集部へさしあげましょう。むだな作業をしたものですね。この章は、ですからあのときのタイトルをそのまま使っておこうとおもったのですが、ベンダサン氏は「本多様」「本多様」というような、いんぎん無礼なやりかたがお好きなようですから、「ベンダサンサンの勇み足」と改良しておきました。(いや、ンダサンサン(前回便出さん氏は「変多様」とか書いてた(苦笑))がよかったかな?)
ーしかし、です。かりに私が「公開状」とかいたのだとしても、いったいそれが、どれだけ本質的な問題だというのでしょうか。前章であげたような問題にたいして、いっさい口をぬぐっておいてこういう作業をすることを、ごぞんじのように、「揚げ足をとる」ともうします。教科書に出してもいいような典型としての実例を、あなたはおしえてくださいました。
D カエルのつらに小便
ーでは、「第二の不審点」におこたえしましょう。ああ、ここでまたしても、またまた、ベンダサンサンは教科書にだしてもいいような実例を、いくらなんでも、まさかやらかすとはおもいませんでした。あなたは「この「ゴメンナサイ」すなわち日本人の「謝罪」の不思議を最初に取り上げたのは漱石だと記し、これを「一つの疑問として最初に取り上げたのは、私の知る限りでは有名な作家夏目漱石です」と明記した上で、漱石がこれを指摘した箇所を引用し、ついでそれを解説し・・・」と“明記”されております。そこで私は、あなたが最初に私の記事をとりあげた本誌1月号を、「ヘンダなあ」とおもいながら、
またひらいてみました。困っちゃったよ(前回便出さん氏は本多氏の「困っちゃったよ。だって全く同じことを、僕自身がベンダサン氏よりずっと前に書いてるんだから」(『諸君!』2月号に関連して困っちゃったよ。だって私は、これを漱石が指摘している、と書いてるんだから」(『諸君!』3月号)とやっていた)。いくらあちこちひっくりかえしてみても、あなたが「明記」したという文章が見あたらないじゃありませんか。いったいこれは、どうなっちゃってんのかなあ。ベンダサンサン、あなたはまたまた、ドダイないものを土台にして、あの文化人類学者のように、いわゆる"博学“ぶりをひけらかしながら、お勉強発表会をしてみせてくださいましたが、このドダイのない建築も、まるっきりむなしい作業だったわけです。
ーこんなことになってしまったのは、どうしてでしょうか。あなたが「明記」したはずのモトの文章を、私はみていないわけですから、推察するほかはないのですが、したがってこの推察はまちがっているかもしれないことを「明記」しておきますが、これはあなたが私のことを書いた『諸君!』1月号より前の号の文章か、あるいはあなたの主著らしい「日本人とユダヤ人」にでてくるのではありませんか。もしそうであれば、あなたにたいして私がかいた2月号(『諸君!』)の、あなたによれば“公開状”を、あなたはまるっきり「読まないで」あのような「返書」をくださったことになります(前回便出さん氏は「小生は一時、本多様が私の書いたものを読まずに批判されたのかと思い込みそうになりました」と書いてた)。これはまた、なんと失礼かつ高慢かつウカツなはなしでしょうか。私はあの“公開状”で、つぎのように「明記」しておきました。「・・・したがって俺の感想はこの『諸君!』1月号に出た彼の文章を読んだ限りでの話しだよ」私が買った「日本人とユダヤ人」は、他の一時不用の本とともに、まだ物置きにしまいこまれたままになっていますが、もうすこしヒマになったら拝読させていただくことにしましょう。ここでまた、しかし、です。かりにあなたが「明記」したという文章が、1月号にほんとうに「明記」されていたとしましょう。いったい、私がどこで、日本人の「謝罪」の不思議を「最初に取り上げた」のは本多勝一だと「明記」しましたか。わかりません。ベンダサンサンは「博学」で「勉強家」だという評判だけれど、そのひとがこういういいからかげんな議論をするということは、ひごろ私がいっていることー知識のあることと、正確な論理を構築することとは全く別問題だということをーまさに絵にかいたようなものですね。「三歳の童児」はどちらですか。あなたは正確な論理を展開することが不得手なようですから、蛇足だとは知りつつも、すこし説明をくわえておきます。

ー「困っちゃったよ。だって全く同じことを、僕自身がベンダサン氏よりずっと前に書いてるんだから」と私が自著『極限の民族』にふれたのは、なにも私が「最初に取り上げた」と主張するためでは、ぜんぜんありません。そうではなくて、日本人の「謝罪」の問題を、私自身よく知っている。その私にたいしてベンダサンサンが「あなたは一体知っているのか知らないのか?」と私に「噛みついて」きたことを、まとまずれな攻撃だといっているのです(それにしても、「ベンダサンよりずっと前に」と私がいえば、あなたはそれをたちまち「夏目漱石よりずっと前に」と私がいったかのようにスリかえています。この恐るべき詐術というか、無意識なら非論理というか、いずれにせよこの人、普通じゃありませんね。)だいいち、こんなことをよく知っている日本人は、いくらだっていますよ。その実例までも、2月号でP記者が「明記」しているじゃありませんか。中尾佐助・梅棹忠夫・石田英一郎・飯塚浩二などと。とくに中尾佐助氏などは、この『極限の民族』のなかでもかいているように(注7)、私がアラビア人について当時この話をしたとき、言下に「日本こそ、世界の最後の秘境かもしれないね」とこたえています。しかも中尾氏はこのことについて、たしか『文藝春秋』あたりでも書いているはずです。私がこの問題の「最初の」発見者だなどと主張するようなコッケイなことなど、私にはおもいつくことさえできません。
ー念のためもうしあげておきますが、私があなたの本誌1月号以外の場でかかれた文章)「日本人とユダヤ人」や『文藝春秋』での文章)を「読まないで」”公開状”をだしたからといって、「新聞記者の資格がない」のなんのと、勇み足にかきまくらないでくさだい。前述のように「読まない」ことは「明記」してあるだけでなく、その必要がなかっただけのことですから。それに、私の記事に「噛みつかれ」た側としての私が、その相手にこたえるとき、相手の全著作を読んでからでなければこたえられないなどというルールは、どこにもありますまい。だいいち、あなたは私の全著作など、まず確実に、読んではいないでしょうから。
ーベンダサンサン、あなたが気負って書いた「第二の不審点」での、私を小ばかにした態度の文章は
(「三歳の童児」や「例えばここに’カツイチチャン’という三歳のかわいらしいボーボがいるとします」だの「ボク、オツキチャマヲハッケンチタヨ」(原文は「英語」?)どうこう(笑))、このような悪質なイカサマだったことがバクロされてしまいましたね。いくらそのあとに「博学」ぶりをひけらかせて、「知識」をひろうしてくださっても、もうだあれも説得する力をもたないのです。私は長野県・伊那谷のふるさとによく帰省しますが、このとき話す近所の農家や床屋さんや洗濯屋さんたち、つまりごくふつうの村のひとびとと議論するときのほうが、ベンダサンサン、あなたよりもよっぽど手ごわい。かれらのほうが、あなたのようないわゆる「知識」がないことは明らかです。にもかかわらず、すごい説得力をもってせまってくる、しかも、たいへんおしえられるところが多いのです。ところがベンダサンサンは、いろいろと「知識」をならべてお教えくださいましたが、私にはほとんど教えられるところがなかったようにおもわれます。
ーそれは、あなたの「知識」などは、ほんものの知識ではないからです。私の隣の農家のおじさんと、あなたと、どちらがより知識があるかとおもいますか。たくさんの本を読んで「勉強」したらしい点では、あなたのほうが上手かもしれません。よく、あっちこっち古今東西の典籍から引用だらけにして論争する「学者」や「評論家」がおりますが、こういう引用ごっこの勝負であれば、ごく物理的に、生涯の限られた時間のなかで本をよむことにつぶす時間の多いひとほど勝ちをしめることになるでしょう。しかし、イネやムギやイモなどの農作物を、何十年間もそだてつづけてきたとなりのおじさんは、はたしてベンダサンサンよりも「知識」がない、といえるでしょうか。このおじさんは「勉強」しなかったといえるでしょうか。そうではないのです。おじさんはイネにまなび、ムギにまなび、イモにまなび、そして大地を「読んで」勉強してきました。この知識は、ほんものです。他人のかいた本からの、間接的な「知識」ではない。こういうひとびとにこそ、私はほんとうに教えられてきたし、そのことばには、こわいものがあります。ですから、ベンダサンサン、私をいくらニセモノの「知識」でおどしたって、まるっきりカエルのつらに小便、なんの効果もありませんよ。(もっとも、私は少年のころじっさいにカエルのつらに小便をかけてみたら、たいへんイヤがって逃げましたから、この「知識」もまちがっているわけですね。もとの「蛙のつらに水」の方がより正しいようです。)
E もっと「日本教」を研究しなさい
つぎは「第三の不審点」です。ベンダサンサンは「糾弾もしくは弾劾はあくまでもその本人に対して直接なされるべきことで、本人に背を向け、周囲に対して何やかやと言っても、それは糾弾でも弾劾でもありません」とお教えくださり、したがって天皇の責任追及のためには天皇そのものに責任糾弾の公開書簡(この「公開書簡」にこだわるところなんかは、C章のむなしい作業からきているのでしょうが)を送りつけることが「第一歩」だと御指導くださいました。ふしぎなことです。わかりません。私はまた、ベンダサンサンという自称ユダヤ人は、「日本教」についてたいへんくわしいものと考えていたのですが、誤解だったのかしらん?あなたは、「日本教」の頂点にチン座まします天皇陛下の周辺について、私なんかよりよっぽどくわしいのではなかったのかしら。おっしゃるとおりに、なるほどアメリカ合州国では、ニクソン大統領の責任問題があればニクソン氏あてに公開・非公開の手紙が殺到します。(ただし、殺到すれば投書者の希望が実現するかどうかは、合州国においてさえもまったく別問題であることをのちにふれます。)日本での天皇についてもおんなじだと、まさか、かんがえているわけじゃないでしょうね。しかし、もしカマトトでなしに、ほんとうにごぞんじないのでしたら、これはベンダサンサン、あなたがご自分で実験なさることです。天皇に私たち「日本教徒」が手紙をおくったところで、第一に、そんなものは本人にとどくことなど、コンリンザイ、ありませんよ。もっともユダヤ人が送ればとどくかもしれませんから、これは「絶対に」という表現をとらないでおきます。そして、かりに、万一、億一、天皇の手に手紙がとどいて、それが読まれるようなことがあったとしても、天皇裕仁個人から、それにたいするなんらかの直筆の「返書」がくるということは、もうこれは「絶対に」と表現してもよいとおもいますが、ないのです。そして私たち日本人は、みんなこのことを、よく知っております。
ーベンダサンサン、せっかく御指導くださいましたが、あなたのいうような方法では、天皇の責任追及の「第一歩」でさえも不可能なことが、よくおわかりになったとおもいます。ああ、あなたはまたしても、むなしい作業をやらかしてしまったのですね。もうすこし、「日本教」についてご勉強なさることを、おすすめします。家庭教師としてぜひおすすめしたい小説家(故三島由紀夫氏)がいたのですが、一昨年の暮れちかくにハラキリ自殺をしてしまったので、それもできないのは残念であります。
ーしかし、です。すこし似た例で私はある体験があるので、紹介しておきましょう。かつて南ベトナムの民族解放戦線を取材したことがあります。解放区で会ったゲリラたちが、日本の佐藤栄作首相にぜひつたえてほしいということばを、テープレコーダーに録音しました。これは、ニクソン氏につたえるという場合と、まあ似た次元の問題でしょう。その後、この録音がレコードになって出た(注8)ので、そのときのルポをまとめた単行本「戦場の村」とともに、佐藤栄作氏にとどけました。たしかに本人に渡したという知らせを、秘書氏からうけとっております。けれども、こんなことをしたところで、佐藤栄作氏が合州国のベトナム戦争を強く支持しつづける姿勢をかえるとは、私はちっともおもわないし、解放民族戦線だってそんな期待をしてはいないでしょう。これはまあご愛嬌のゲームみたいなものであって、かれらが私にほんとうに期待したのは、ルポにも書いたことですが、解放民族戦線の本当の姿を、私が見たままに、世界に報道(注9)することだったのです。
ーさきほどの「しかし、です」は、ここにつながります。かりに、万一、億一、天皇個人に私の「糾弾状」がとどいたとしましょう。すると、天皇はどうするとおもいますか。もともとありえない仮定のうえのことだから、どうしようと問題にはならないのですが、たぶん、「アジアのくにぐにのひとびとには、おきのどくなことをしたとかんがえる」と「御感想」をのべられて、それでおしまいになりましょう。これこそまさに、ベンダサンサン、「天皇陛下のゴメンナサイ」ですね。

ーニクソン大統領にしたところで、じつは、いくら「公開・非公開」の手紙が殺到しても、そんなことではベトナム戦争をやめさせる力になど、なりっこないのです。合州国政治の論理は、べつのところで動いています。すこし古い例をあげましょ。1920年の5月、イタリー系移民の労働者サッコと魚商人ヴァンゼッテの2人は、友人労働者が官憲に殺されたことに抗議して集会を組織したため、突然逮捕されました。ところが2人は、まもなく強盗殺人の容疑にきりかえられて起訴されたのです。これが最初からでっちあげであることは、一般のひとにもかなりよくわかりました。死刑判決にたいして、全米の世論はわきかえり、救援運動に参加する人数は一千万人をこえたそうです。抗議運動は外国にまでひろがって国際的なものになりました。そして、大統領あての助命嘆願書は、なんと数百万通もよせられたのです。けれども、ムダでした。2人の死刑は、いっさいの「公開・非公開」の手紙なんぞ無視して、執行されました。それから39年後、ほんとうの犯人が立証されます。これは映画「死刑台のメロディー」としてまもなく公開されてますから、ぜひごらんください。戦後あったローゼンバーグ事件も、これとよく似た例として有名です。当時のアイゼンハワー大統領には、サッコとヴァンゼッティのとき以上に大量の「公開・非公開」の嘆願がよせられました。けれども、だめです。これも断々乎として、死刑にされてしまいました(注10)。
ーところが、です。ソンミ事件のカリー被告の場合はどうだったでしょうか。このときも、一部で報道されたように、保守的な層からニクソン氏に数千通の手紙、数千本の電話がかかりました。たった数千通?・・・ローゼンベーグ夫妻やサッコとヴァンゼッティのときは数十万、数百万だったではありませんか。それでも大統領は死刑にしました。しかもかれらの裁判では証拠そのものがなかったのに、ソンミ事件では証拠だらけでした。それでもなんでも、カリーは釈放されてしまったのです。ニクソン氏は、わずか数千通の手紙などの「圧力」に屈したのでしょうか。とんでもない。彼はただ、これを利用したにすぎないのです。カリーを釈放したほんとうの理由は、ローゼンバーグ夫妻を殺してしまった理由と、まったく同じであります。これが合州国政府の論理なのです。ベンダサンサン、あなたのおしえてくれた「責任の糾弾」の方法が、いかにばかげた、ムダなことであるか、よくおわかりになったとおもいます。
F (見出しの不必要な点)
ーそれでは、いよいよ「第五の不審点」にかかりましょう。これは「実はこの不審点が私に、朝日新聞を取り上げさせた」「私が本多様のルポを『諸君!』で取り上げようと最終的に決心しましたのは、ここであり」と、ベンダサンサンは「明記」してますから、他の不審点などはたいしたことではなく、これこそが本命のようであります。たしかに、あなたはたいへんないきおいで、もう完ぺきなる自信をもって、私の記事をぶったたいております。アレーッと悲鳴をあげたくなるくらいに。そのぶったたきかたは、見出しで二つにわけられておりますとおり、第一は「南京で殺人競争をした2人の少尉の名を、なぜふせたか」であり、第二に「あれは伝説にすぎない」とする事実の否定であります。ベンダサンサン、だいじょうぶですか、こんないいかげんなことをして。これによって、せっかく百何十万部もの『日本人とユダヤ人』を買ったたいへんな数の読者たちの信用を、がらがらと落としてしまうことに、ならないのかしら。私にはとても、こういういいかげんな議論をするほどの勇気はありません。しかもあなたは、「今からでも遅くありません。『中国の旅』全部にわたって本多様の知っている加害者の名を明らかにし、かつ本多様が内心これは「伝説」だと思われていることをはっきり「これは伝説にすぎないことは、ほぼ明らかだが・・・」とお書き足し下さい。それが出来ないなら、私は、自分の書いたことを撤回致す必要を感じません」とまで、大ミエをきってしまいました。この勇気にもまた、アレーッと感嘆してしまいます。では、第一の点について、おこたえしましょう。
ーベンダサンサンのたいへんな勇気にもかかわらず、冷厳な事実として、私はすべての加害者個人の名を、中国側の調査でわかったかぎり、例外なく、ぜんぶ、出しました。ところが、ベンダサンサンが鬼の首をとったとキンキ雀躍下部分ーあの南京事件で百人ぎり殺人競争をやった2人の陸軍少尉の氏名が、新聞では「A」と「B」になっていたことも、また冷厳なる事実であります。ふしぎですね。まるでミステリーだ。しかし、こんなことはちっとも珍しいことではありません。なにも「日本教」でなくたって、こんなミステリーは『ニューヨーク=タイムズ』だろうが『人民日報』だろうが、あたりまえなのです。
ー2月号の私とP記者との対話(あなたのいう”公開状”)をごらんください。私の発言のなかに「俺はジャーナリストとして個人的に後者を実行しているわけだが、朝日新聞社そのものが天皇を追及するということは、まずありえないね。これはベンダサン氏と俺との共通の論理からいっても当然だ」という部分がありますね。ベンダサンは「博学」だけでなく”聡明”だから、なにもこんなことをいわなくたってわかっているのではないかとおもっていたのですが、1記者の考えがそっくりそのまま新聞社の考えなどということは、常識としてありえないにきまっています。私のこの発言は、その常識を確認している例にすぎませんが、ベンダサンサンは新聞や雑誌の編集ということについて(意外にも)あまり知らないようですから、不遜ながらちょっと解説しておきましょう。
ーたとえば新聞の場合、1記者がなにか記事をかいたとします。それが一字一句、100パーセント、いつも、かならず、そのまま紙面にでるというようなことは、まず考えられません。標準的なルートをとれば、第一関門がデスク、第二関門が部長、第三関門が整理部、第四関門が、校閲部、重要な記事だとさらに編集局次長・編集局長といった大関門がひかえています。そして、記事のなかに、その新聞の編集方針にあわない部分があれば、これらの関門は当然チェックする権利がある。これは「編集権」といわれていますが、私は経営権の一部と理解しております。『ニューヨーク=タイムズ』の例でいえば、副社長でもあるレストラン記者くらいになると、記者自体が関門なのですから、たぶんまあ100パーセントそのまま出るでしょうが、これだって「かならず」とはいえますまい、そこでどういう現象がおきるかともうしますと、こんどの中国ルポの例でいえば、つぎのような結果となってあらわれてくるわけです。
ー私のルポは、『朝日新聞』『週刊朝日』『朝日ジャーナル』『アサヒグラフ』の四者に掲載されました。そのすべての原稿に、私は個人の氏名を「明記」して出してあります。ところが、いかに同じ会社の新聞・雑誌でも、編集権の行使のしかたに多少の差(ときにはかなりの差)がでてくるのは、これまた日本にかぎらず、ちっとも珍しいことではありません。この例でいいますと、新聞がまずいちばんきびしいため、個人の氏名はあの2少尉のみならず、何ヶ所でチェックされています。ついで『週刊朝日』だと、氏名の「名」だけ削除した例があります。『朝日ジャーナル』や『アサヒグラフ』では、すべて原稿通りとなっています。そして、この私の文章が本誌に発表になるころには出版されているとおもわれる単行本『中国の旅』だと、著者個人に編集権が大きなパーセンテージでまかされてきますから、もはや全員の氏名が、原稿どおりに、ぜーんぶ噴出してしまいます(注11)。まさか、ベンダサンサンにいわれたからそうしたんだなどと、いいださないでください。原稿は1月のうちに工場に行っているのですから。
ーこのような編集権は、こんどのあなたとの討論についていえば、じつは本誌が私の文章の扱いについて私の要求を100パーセント承服しないからといってここでモノわかれになれば、この原稿はのらないことになり、本誌と私とのあいだの臨時契約関係は切れることになります。同様に、朝日新聞の編集局がその編集権によって氏名を削除した場合、私のとるべきみちは、それにしたがうか、それとも契約関係をといてダンゴ辞職するかでしょう。私にとては、たとえごく部分的な削除があっても、あの記事が出ることはたいへん有意義と判断していますから、ダンゴ辞職したりなんかしないのです。ユダヤ人というのは、契約ということについても、「日本教徒」よりはるかにキビシく理解しているはずですから、こんなことは「ヤーウェに説法」だとおもっていたのですが・・・。
ーさて、それではいったいどんな理由によって、2少尉の氏名が私も知らないうちにAとBに化けたのでしょうか。さあ、そこまでは一賃金労働者の私がおこたえする権利はありません。朝日新聞の編集局長なり社長なりに、ベンダサンサンが「糾弾状」でもおだしになることですね。天皇とちがって、これはとどくことは確実です。その結果どうなるかは、私にはよくわかりません。ことによると、ベンダサンサンの推測どおりの理由でAとBになった可能性もあるかもしれませんよ。かりにそうだとしても、それはあなたのいう「本多様」の考えでは、ぜんぜんないのです。しかし単行本ではすっかり氏名が噴出しつくす、となりますと、ベンダサンサン、「今からでも遅くありません」そうですから、自分できった大ミエの約束をまもっていただきましょうか。
ーでは第二点にうつります。ベンダサンサンは、この2少尉の百人ぎり殺人競争は伝説だとし、ルポとは「伝説を事実だと強弁する仕事ではありますまい」と、またしても御指導くださいました。たしかに、御指導されるまでもなく、そのとおりであります。自称ユダヤ人としてのあなたの目には、日本の新聞記者などはかくもいいかげんなものにみえるようですね。こういうひとにたいしては、やっぱりルポ的な手法でおこたえすることにしましょう。まず事実を列挙しますから、じっくりお読みください。
資料①『東京日日新聞』(『毎日新聞』の前身)の1937年11月30日より
(見出し)百人斬り競争!両少尉、早くも八十人 [常州にて廿九日浅海、光本、安田特派員発]
1937年(昭和12年)11月30日朝刊 <第1報>
常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある。無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ、一人は富山部隊向井敏明少尉(二六)=山口県玖珂郡神代村出身=一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)=鹿児島県肝属郡田代村出身=銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。無錫進発後向井少尉は鉄道路線廿六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せたその後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り、記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。
向井少尉 この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ
野田少尉 僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ。

資料②『東京日日新聞』1937年12月13日付けから。
(見出し)百人斬り〝超記録〟 向井 106-105 野田 両少尉さらに延長戦 [紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発]1937年(昭和12年)12月13日朝刊 <第4報> 
南京入りまで〝百人斬り競争〟といふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌(ママ)両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した 野田 「おいおれは百五だが貴様は?」  向井 「おれは百六だ!」・・・・両少尉は〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局 「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」 と忽ち意見一致して 十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた。十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が 「百人斬ドロンゲーム」 の顛末を語つてのち 知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ。十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を 「えいまゝよ」 と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだと飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。<二人が軍刀をついて立っている写真つき>【写真説明】〝百人斬り競争〟の両将校(右)野田巌(ママ)少尉(左)向井敏明少尉=常州にて佐藤(振)特派員撮影。

資料③月刊誌『丸』の1971年11月号に、このときの報道をした鈴木二郎元特派員が、「私はあの、”南京の悲劇”を目撃した」という文章を発表している。その中から一部をつぎに引用する。
(前略)わたくしたちは昭和12年12月12日に、砲弾に崩れた中山門をよじのぼって南京城内にはいるまで、上海から京滬線沿いに竜華、南市、崑山、太倉、常熱、蘇州、無錫烶と、つかずはなれず従軍したが、この間、二人の陸軍少尉の”百人斬り競争”という特電が生まれた。南京いりするまでに、どちらがさきに敵の百人を斬るか、というのである。この特電は、南京落城直前までの数回大きく報ぜられたのであるが、この記事が、(東京裁判で)告発する検事側の注目するところとなり、「虐殺」の訴因の一環として、証人指名、呼出状となったのである。南京いりして展開する「虐殺」に接する前に、「虐殺」とみられたこの”百人斬り競争”の始末をのべてみる。(中略)検事の喚問は、やはりこの”競争”を「虐殺」として、事実の有無、取材の経緯、そして両将校の”競争”の真意をするどく追及されたが、どの特派員もこの二将校がじっさいに斬り殺した現場をみたわけではなく、ただ二人がこの”競争”を計画し、その武勇伝を従軍記者に披露したのであって、その残虐性はしるよしもなく、ただ両将校が”逃げるものは斬らない”といった言葉をたよりに、べつに浅海君と打ち合わせていた(証言は別べつにとられた)わけではなかったが、期せずして、「決して逃げるものは斬らなかった。立ちむかってくる敵だけを斬った日本の武士道精神に則ったもので、一般民衆には手をだしていない。虐殺ではない」と強調した。検事にとってはきわめてたよりない証言だったにちがいない。それがあらぬか、いよいよ出廷の日、まず浅海君が証言台に立ち、右手を高くあげて、大きな声で宣誓をした瞬間「書類不備」?とかで却下となり、浅海君は気ぬけした顔で控室に帰ってきた。まもなく書記がやってきて、「もう二人ともこなくてよい」といわれた。つぎの出番と緊張していたわたしは証言台に立たずにすみ、ホッとしたものだった。しかし両将校は国府側にとらわれ、これを知ったわれわれの嘆願署名のかいもなく処刑されたと聞かされた。(後略)
資料④たしかに「逃げるものは斬らなかった」かもしれないが、「立ちむかってくる敵だけを斬った」ことをすっかり否定する証言が、月刊誌『中国』(徳間書店)の1971年12月号にある。志々目彰氏が「日中戦争の追憶ー”百人斬り競争”」と題して書いた文章から、以下に引用しよう。
(前略)ところがこの事を、私は小学生の時本人から聞いて知っていたが、それは私にとって”中国体験”のはじまりでもあった。それは小学校卒業の1年前、昭和14年の春だったにちがいない。生徒を前にA先生が「いちばん上級になった君たちに」といったのと、これで上級生がいなくなってせいせいするぞという解放感で気持が弾んでいたのを記憶している。A先生はわが校の先輩であるというバリバリの青年士官をつれてきた。陸軍士官学校を出てまだ何年もたたないというその若い将校のキビキビした動作、ピンと前の立った士官帽をはっきりと思い出す。私の出た学校は鹿児島県立師範学校附属小学校。父は県庁の下級官使で、本来この学校へこどもを出せる階級ではなかった。私も附属特有のお坊ちゃんムードが嫌いで、それに勉強も好きでなかったから、毛並みのいい級友たちとは一歩距離があった。鹿児島というところは軍人の産地で、中学で少しできる奴は身体がよければ海軍兵学校か陸軍士官学校に進む土地柄であった。私自身その3年後に陸軍幼年学校の生徒になったのだが、陸軍将校には特別の憧れや関心をいだいていなかった。それは、長兄の影響ー日夜海軍兵学校のことを言いくらし、希望をつらぬいて江田島に入り、終戦の百日前に水上偵察飛行隊の分隊長として戦死したーを強く受けて、熱烈な海軍ファンだったかもしれない。さて、小学生を前にしたN少尉は、ずいぶんくつろいでいたようだ。世間でみる軍人という堅い感じは少しもなく、また私たちが数年後に自ら体験した気負いもなかったと、今にして思う。それは戦火をくぐりぬけてきた人の落ちつきであったかもしれないが、やはり母校の小学生、身内に話しているという気軽さでもあったのだろう。たんたんと話した内輪話は、ほぼ次のようなものであった。「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ・・・実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは4,5人しかいない・・・占領した敵の塹壕にむかって「ニーライライ」とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る・・・百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆どだ・・・2人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない・・・」これを聞いて、私の頭には新聞写真で見たような敵の陣地が浮かんできた。腰を丸め手をあげてゾロゾロ出てくる中国兵・・・なぜ中国兵は逃げないのだろう?反抗しないのだろう?兵士がみんな馬鹿ということがあるだろうか。そのほかにも「中支戦線」や戦場生活の話を聞いた筈だが、忘れてしまっている。「ニーライライというと、シナ兵はバカだからぞろぞろと出てくる・・・」という言葉は今でもはっきり覚えている。「ニーライライ」というのは、お前来い来い、という意味だそうだ。それは竹内好さんや安藤産太郎さんたちのいう”兵隊シナ語”の一種でもあったのだ。その頃は私たちには、斬られた中国兵のために憤り、或いは同情する”ヒューマニズム”はなかった。その中国の兵士たちにも自分のような弟がいるかもしれないなどは、思ってもみなかった。軍人になろうとしている兄貴を慕っていた私だから、そんな類推ができない筈はなかったのに・・・。だが、白兵戦では斬らずに戦意を失って投降した敵を斬るという”勇士”の体験談は、私にはショックだった。ひどいなあ、ずるいなあ、それ以上のことは幼い自分には分からなかった。これでいいのだろうか、そんな軍と軍人で果たして”聖戦”が可能なのだろうか。陸軍幼年学校に入り、国軍の生徒としての教育をうけるようになってから、そのことをあらためて思い返すようになっていた。(中略)(PP、192-194)

ーベンダサンサン、以上4つの資料をごらんになって、なおも、ダンコとして「伝説」だと主張いたしますか。それでは最後の手段として、この2人の少尉自身に、直接証言してもらうよりほかありませんね。でも、それは物理的にできない相談です。2人は戦後、国民党蒋介石政権に逮捕され、南京で裁判にかけられました。そして野田は1947年12月8日、また向井は1948年1月28日午後1時、南京郊外で死刑に処されています。惜しいことをしました。ともうしますのは、それからまもなく1949年4月、南京は毛沢東の人民解放軍によって最終的に現政権のものとなったからです。もしこのときまで2人が生きていれば、これまでの日本人戦犯にたいする毛沢東主席のあつかいからみて、すくなくとも死刑にはならなかったにちがいありません。そうすれば、当人たちの口から、このときの様子を、くわしく、こまかく、ぜんぶ、すっかりきいて、ベンダサンサンにもおしらせできたでしょうに。
ーもちろん自称ユダヤ人としてのあなたは、ここまで自分の論理が粉砕され、轟沈してしまっても、ぜったいに日本式に「ゴメンナサイ」なんていってはいけないハズです。たとえば、アメリカ合州国が南ベトナムの解放区を無差別爆撃したり、北爆で病院でも小学校でもかたはしから爆撃しているときなどよくつかう論理ですが、このように当人たちがもう死刑になったあとでは、なんとでも憶測や詭弁をろうすることもできますよ。いくら銃刀で、いくら剣道の大達人でも、100人もの人間をきれるものかどうかと、実験してみますか、ナチスや日本軍のように人間をつかって?
ーかりに、100人は無理だが50人なら可能、とかいった「実験結果」がでたとしましょう。もうこんな愚劣な議論はヘドがでそうだけれども、それでこの話が「だから伝説」「だから本多のルポは全部信用できない」ということにでもなるのでしょうか。ついでに「だから日本軍は正しかった」と、いいたいのでなければさいわいです。合州国が北ベトナムを攻撃するときの論理は、いつもこのやりかたですね。ベンダサンサン、あなたのやり方は、この文章の冒頭で引用したマルコムXの例でいえば、はたしてライオンに味方しているのでしょうか。それともライオンに追われている人間に味方しているのでしょうか。ベンダサンサン、あなたの正体が固有名詞としてだれ(まただれだれ)であるか、といったことには、私はたいして関心をもちません。しかしこのような意味での正体には、関心をもちます。あなたは、自分の正体を、自分でだんだんはっきりさせてくださいましたね。
ーところで、この「100人斬り競争」について、私は記事のなかでそれほどくわしくふれてはおりません。なぜかといいますと、じつはこれは、さきに中国をたずねた大森実氏によって、すでに報道されたことがあったからです(注13)。また、私の記事でふれているように、このとき私に事件を語った姜さんは、これは当時日本で報道された有名な話だとことわっています。ユダヤ人の場合はどうかしりませんが、日本では、ふつうの新聞記者なら、これをきいたら記事をかく前に、当時の新聞をしらべて確認してみることなど、まあ記事をかくうえでのイロハですね。そして確認してみれば、すくなくとも、あなたが御指導くださったような「これは伝説にすぎないことはほぼ明らかだが・・・」などと書き足すような次元の問題ではないことは判断できるでしょう。ベンダサンサン、あなたの大ミエはどうしますか。「私は、自分の書いたことを撤回致す必要を感じません」と宣言したことの条件は、こなごなに粉砕されましたね。でも私としては、だからサア撤回せよ、などとは申しません。そんなことはどうだっていいんです。私があなたをお相手もうしあげた2つの理由のうち、まだかいてない第二の理由、そこに私の目的はあるのですから。撤回させて万歳で終わる次元の問題ではありません。
G 天皇陛下万歳
ー以上をもちまして。あなたの提出された五つの「不審な点」への回答を、すべて終わります。以上はベンダサンサンが、私にたいして「誤っている」と考えた部分にたいするおこたえです。これも、いちいち、ぜんぶ、おこたえしましょう。まず、私が「書くものによって、書く立場を変え、「私はあっちにはこう書いた」「いやこっちにはこう書いた」と何かあるたびに、・・・」とあなたは「糾弾」してくださいました。では、事実として、ちゃんと実例をあげていただきたい。いつ私が「書くものによって、書く立場を変え」ましたか。あっちこっちに、いつ逆の立場や、まるで違った立場の文章をだしましたか。あっちでは天皇陛下万歳、こっちでは天皇を人民裁判にかけろ、といった「立場を変え」た例が、どこにありますか。もちろん、中学生の私と、大学のころと、現在とでは、かなり私は違ってきています。まさか、そんなことをあなたがいっているのではありますまい。そんな「三歳の童児」みたいなことを。ベンダサンサン、あなたの論理のたてかたは、ちょっとケタはずれにひどい。ユダヤ人とは、このていどに非論理的なものでありましょうか。そうしておいて「口ラッパ」だの「尻ラッパ」だのと、下劣な「知識」(まったく、知識もこんなつかわれかたをしては、かわいそうですね)を、えんえんと、(例によって)ならべつづけるベンダサンサンの困った姿を、読者よ、よくごらんください。
ーつぎに、天皇制を否定する私にたいして、ベンダサンサンが展開した論理。ああ、ここでもまたあなたは、困った姿を、アラレもなくお見せになってしまいました。天皇制は未開野蛮なしろものだ、そんならセム一族の習俗である割礼だって「古くて」「ニューギニア高地人がきいたら大笑いするような習俗」だから、天皇制と同じように消えてなくならなければならんはずだ、それではナチスの論理と同じだ・・・と。あなた、バッカじゃないかしら。私は天皇制を「未開野蛮なしろもの」「世界で最もおくれた野蛮な風習」とはかきましたが、「古い」とは、ひとこともいっておりません。古いことがイカンのであれば、考古学的な文物や化石なんか、みんなイカンから消せ、ということになるに決まっているじゃありませんか。ここであなたは「三歳の童児」ていどのやりかたで問題をすりかえた。勝手に、「古いから」天皇制はイカンと私がいっているかのように、かいてしまった。あとは(例によって)、おきまりのニセモノ「知識」をドカドカならべて「学校秀才」の「お勉強発表会」方式でおどかし、それじゃあ、割礼はもっと古い、ナチスだ・・・。あーあ、こんなにも論理に弱いひとをお相手にするのは、まことにシンドイことであります。
ーベンダサンサンよ、冗談ではないのだ。いいかげんな穴だらけの詭弁術ゲームは、よしていただきたい。天皇制軍国主義がなぜ野蛮か。そんなことは、前回の私の文章を読んだひとであれば、私のいおうとした本質がもうわかっている。侵略の口実とした天皇。迷信だろうがオマジナイだろうが、私たちが何千万人もの単位で殺される力につながらないのであれば、なにも問題はない。ちっともわからない(わからろうとしない)のは、ベンダサンサンよ、あなたくらいではありませんか。つぎにあなたが書いている「日本人だけだから」だから「してはならない」という理由をもって、私が天皇制を否定しているかのようにスリかえているのも、この「古い」のスリかえと同次元ですから、これ以上解説する必要もありますまい。つづいて(例によって)えんえんと、むなしき「知識」の、むなしきラレツ、なんにもならないことをして、だいぶ原稿用紙をよごしたものですね。
ー結局あなたは、このような「三歳の童児」的スリかえまでもやって、なにをされたのでしょうか。もはや読者にはあきらかなように、自称ユダヤ人が、結果的に天皇制を、「天皇陛下万歳」と、必死で、擁護してくださったのであります。
H ベンダサンサン、ゴメンナサイ
ーいよいよ最後の問題です。ベンダサンサン、あなたによれば私は”公開状”のなかで「自分は「非日本教徒」だと自己規定しておられる」そうです。ここからあなたはまた、あのむなしきニセモノ知識の「お勉強発表会」をはじめているわけですが、またまた、あにはからんや、いつ私が自分を「非日本教徒」だと「自己規定」いたしたでしょうか。自分の書いた文章を、もういちど出してひろげてみましたが、どうしてもみつかりません。ベンダサンサン、オセーテ!ことによると、本誌以外のどこかに、そんなことでも書いたかしらと、すこしおもいをめぐらしてみたのですが、正反対に、自分は骨のズイまで日本人だ(注14)といった類のことばしか、みつからないのです’
ーしかし、このマレにみる論理性の欠如した人物としてのベンダサンサンの気持ちになってかんがえ、もういちど2月号の”公開状”をよくしらべてみますと、ことによるとここではないかとおもわれる部分が、私ではなくてP記者の発言のなかにありますね。「ベンダサン氏にいえば、君は「日本教」の異端だから「困った存在」なんだよ」ってところ。これは私の発言じゃないんですから、最初から問題外だけれども、まあP記者の身にもなって、すこしだけかわりに反論してあげておきます。あなた、「異端」ってことばを、よく知っているんじゃなかったんですか。たとえばキリスト教徒の異端というとき、それはただちに非キリスト教徒なのですが、ベンダサン式「お勉強」のモトとしての「高級」なる典籍ではなく、もっとも平凡なジビキのひとつとしての『広辞苑』によれば、宗教学用語としての「異端」とは、「正統以外の説または正統中にあって異議を称える説」だそうです。P記者が私のことを”日本教”の異端と評したとき、その”日本教”とは、「ベンダサン式」の日本教なのであって、ベンダサンサンの定義する日本教が「正統」であるのなら、P記者からみれば私は異端にみえたのでしょう。正統であろうとなかろうと、いったいどうしてこれがただちに「非日本教徒」になるのかしらん。しかも私が「自己規定」などしたことに、ドオシテなるのですか。それ以前の問題として、私はあなたのいうような「日本教」なんてものを、そのままでは認知していないからこそ、いつも「ベンダサン氏のいう」というようなカッコつきのあつかいをしてきたのであり、「ところが決して、俺はベンダサン氏と「基本的に同じ」ではない」と私が「明言」しているのも、ひとつにはこの点も考慮してのことだったのです。とんでもありませんよ、こんな非論理的なおひとと「基本的に同じ」にされては。あのとき予言しておいたとおりに、あなたはこれを「自分で明らかにしてくれ」ましたね。
ーさて、このように、またしてもドダイないものを土台にして、ベンダサンサンは(例によって)いろいろと想像したり「お勉強発表会」をしたりしているのですから、あとのことには、もうなんにもおこたえする必要がなくなってしまったわけです。でも、これでおしまいにしては、せっかくのあなたの「お勉強発表会」がもったいないみたいですから、それに、私があなたのお相手をつとめるのもこれが最後になるだろうとおもいますから、いちおう、ていねいにかたづけておきます。
ーベンダサンサンが、すくなくともここだけは1本とったと気負って、前回の文章の最後にドトウの追撃をやって、劇的に「この辺で終りとします」をいたしましたところは、私がサウジアラビアへゆくのにムスリムになっていった部分への攻撃です。まことにお見事。カブキであれば「イザ屋ーッ!」とあちこちから声がかかるにちがいありません。率直にもうしましょう。私が東京モスクで正式にムスリムになっていったことを「有効な手段」だったとかいたのは、たしかに、不注意なことばでしたね。誤解をうけやすいことばでした。ベンダサンサン、ゴメンナサイ。私のみるところ、自称ユダヤ人としてのあなたは、これまでの論争の過程からみて、じつはあなた自身こそあんがい”日本教徒”のようですから、こういえば許してくださるかしら。では、私とイスラームとの関係について、事実のいきさつを紹介しましょう。
ー話はすこしふるくなりますが、私はこれまでに、イスラームを主たる宗教としてきた国へ4回いきました。イスラームが主たる宗教だった国としてのアルバニアをくわえると5回になります。(クウェートやアラブ連合など、通過しただけの国は別とします)このうち、最初に2回(1956年・57年)が、学生時代にいった西パキスタンです。このときムスリムの教授や学生たちと親しくなり、文通はいまでもつづいています。さらに1964年にはインドネシアに行きました。おなじイスラームでも、パキスタンとのあまりの違いにおどろかされたものです。(ついでにいえば、これは国ではないけれども、たいへんな”異端”の例として、アメリカ合州国のブラック=ムスリム(黒人回教団)と接したこともあります。いくら”異端”でも、やっぱりかれらはムスリムです。)そして4回目がサウジアラビアであります。そのときに、東京モスクで正式の入信てつづきをすませていったことは、すでにかいたとおりです。私はそれまで、仏教徒でもキリスト教徒でもなんでもありませんでしたから、これは「入信」ではあっても「改宗」ではありません。入信にあたっては、法政大学のある先生で、その考えかたには私自身ふかく教えられるところのあったムスリムに相談相手になっていただき、ともにモスクへいきました。その前に私は、この”先輩”ムスリムにはっきりいってあります。イスラームについて私は学生時代からかなりなじんではいるので、その教義も一般的日本人よりは多少理解しているつもりだが、こんど入信する動機は、いわば、「あいつ信仰心にうちふるえて」といったものではけっしてなく、これからサウジアラビアにいくらからである。その意味ではこれは手段だ。研究の手段としてムスリムになっている学者や貿易の手段としての商社マンと同次元である。しかしアラビアへ行ってイスラームを裏切るような行為はけっしてしないつもりだし、ムスリムとしてのものの考えかたは、こんごも「私」をかたちづくる一部としてずっとありつづけるだろう。・・・その先生は、それでよいのだ。むしろ形骸化したムスリムよりも、ムハンマド(モハメット)の考えたもっとも根源的なところこそくみとるべきであって、戒律をまもっているばかりがムスリムじゃない、といったような話をされました。私のムスリムになったという手紙をよんだパキスタンの教授は、「イスからすべりおちて」よろこんだという迷信をくれたものです。以来、私はそのままムスリムであり、「日本ムスリム協会」のレッキとした会員であります。そのことを最近になっても公言している(注15)。いわんや、カトリック国へゆくとき、カトリックに改宗なんぞだれがするものですか。しかし決して、「あいつ信仰にうちふるえて」いるような、最良のムスリムでないことは、たしかです。あのとき酒もタバコもやめてしまいましたが、酒はもどってしまったし、1日5回の礼拝だってやってはいません。けれども、ムスリムにかぎらず、このていどの「うすい信仰」の信徒は、ちっとも珍しくはありませんね、ベンダサンサン。仏教徒であろうとキリスト教徒であろうと、とくにベンダサンサンのいう「日本教徒」の場合は、これがきわだっているとおもうし、だからこそあなたも”日本教”なんてことをおもいついたんじゃないですか。(しかも私自身は、ムハンマドの根源的理解について平均的ムスリムに劣らないと自負していますよ。)こうして私はアラビア半島のサバクにいきました。そのルポは『極限の民族』のなかに収録されていますから、興味があればどうぞごらんください。ベドウィン(とは、アラビア語の badawī (بدوي) からくる、砂漠の住人を指す一般名詞で、普通アラブの遊牧民族に対して使う)の老人たちは、同行したカメラマンがお祈りをしないばかりか、やたらと予算をとりまくることに腹をたててますが、私にたいしては「感心な男だ」という評価(?)がでてくる。
ーもちろん私は、「信仰にうちふるえて」礼拝していたわけではありませが、かといって腹の中でシタをだしながら礼拝にくわわっていたのではけっしてありません。そして、ベドウィンを私は決して好きにはなれませんでしたが、ケンカ別れもせず引き揚げました。機会があれば再訪したいことは、あの本にも書いたとおりです。ベドウィンが私をどうみたか?さあ、きいてみないとわかりませんが、ルポにも書いたとおりです。きっと「ケチな旅行者」とおもったでしょうね。不満だったとおもいますよ。置きみあげがすくなくて。しかしそれは、相手が本多だからという個人的なことでもなければ、私が(ベンダサンサンによれば)「ニセ回教徒」でかれらがほんもののムスリムだからということでは全くありますまい。かりに自称ユダヤ人のベンダサンサンがあのサバクのなかで生活したら、ベドウィンはどうみるかしらん。「返書」のなかでみせてくれたようなつたないスリかえや穴だらけの詭弁術をろうするあなたをみて、かれらはきっと「ずるい奴、信用できない者、何かをかぶって正体を隠し、そこには嘘がある」と見る「はずです」。「もちろんこれは私の想像であり」、返書の中でのベンダサンサンの「書き方からそう考えたにすぎませんが・・・おそらくあたっていると思います」。
ーさて、「何かをかぶって正体を隠し」ているベンダサンサン、最後に、あなたのつかったいやらしい”論法”を、そっくりあなたにもあてはめてみることにしましょう。私はきらいだけれども・・・。自称ユダヤ人としてのあなたは、日本人の私が「有効な手段」とかいたことにたいして「自ら畏れを感じませんか。何かの、なすべからず罪悪を行なったと感じませんか」と、血相かえた反応ぶりで追及してくださいました。これはしたり、あなたは日本人について、日本人以上に知っているのではなかったんですね。すでにD章で説明されたように、まだあなたの「日本教」研究は初歩的段階にあるようですから、仕方ないのでしょうが、これは”日本教”にたいするひどい侮辱になりますよ。だって、”日本教徒”にとっては、ほかの宗教だの神だのといったことは、まったく問題にならず、したがってあなたのいうような「畏れ」だの「罪」だのといった意識は、はじめから存在しないんですもの。まあいちばん(畏れを感じ)るのは、もちろん天皇ヘイカぐらいでしょう。そのような”日本教徒”にたいして(自称)ユダヤ人のあなたが、しかも”日本教”をよく知っているハズのあなたが「畏れ」だの「罪」だのと、まるでユダヤ教徒やキリスト教徒なんかとおんなじ論理で攻撃してくるとは、第一になんとういう非論理な、ひどい矛盾でしょうか。第二に、なんたる侮辱でしょうか。たとえばアメリカ合州国のアメリカ人が、天皇について不敬な言辞をろうしたといって、そのアメリカ人にたいして”日本教徒”が血相かえて追及したところでマンガにしかなりはしません。(自称)ユダヤ人としてのあなたが、あなたの論理にあわないからといって"日本教徒”を「傲慢で無神経、完全に蔑視し切っている」などといいだしたら、これはそれこそ、まさにナチスの論理にそっくりですね。「私の考えでは、自分の考えを最も進んだものと勝手に自己規定し、それに適合せぬものを」傲慢だの無神経だの「一方的に断定する」ベンダサン・ナチズムこそが、傲慢かつ無神経で「完全に他を蔑視し切っている」とおもいます。「だが、おそらく」ベンダサンサン「には馬耳東風でしょうから、この辺で終りに致します。何しろ」”正体不明”の男、「何かをかぶって正体を隠し」ている自称ユダヤ人がお相手ではねえ・・・。(まったく、こういう詭弁はいやらしいものですね。)

Shiheihei Yamamoto=En ce qui concerne ce qui est initialement censé être l'auteur de "Japonais et Juifs
", Yamamoto déclare que "je n'ai pas de droit d'auteur, donc je ne suis pas un auteur dans le concept d'un auteur en vertu de la Loi sur le droit d'auteur"."Je n'ai jamais nié être un éditeur ou, dans un sens, un compositeur , en japonais et en juif." 


Shiheihei Yamamoto=In Bezug auf das, was ursprünglich als Autor von "Japaner und Juden" bezeichnet wird, erklärt Yamamoto:"Ich habe kein Urheberrecht, daher bin ich kein Autor im Konzept eines Autors nach dem Urheberrechtsgesetz." "Ich habe nie geleugnet, Herausgeber oder in gewisser Weise Komponist bei Japanern und Juden zu sein."


浅見定雄(あさみ さだおСадао Асами、 1931年〈昭和6年〉10月12日 - )は、日本の宗教学者、神学博士(Th.D.)。旧約聖書学、古代イスラエル宗教史を専攻。 東北学院大学名誉教授、日本脱カルト協会顧問(元代表理事)、特定非営利活動法人「小諸いずみ会」理事(初代理事長)。

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