日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

戦争と罪責・野田正彰/전쟁과 죄책/战争与责任/Guerre et blâme・Masaaki Noda/전쟁범죄(戰爭犯罪, 영어: war crime)/②


保護のなかでの罪状告白
ともあれ、中国側は日本人捕虜に寛大政策をとった。食事も監視の中国兵以上の十分な量が出た。日本人捕虜の診療を命じられた湯浅医師には、給与まで支払われた。
集団のなかでの労働、そして罪状告白、2万5千里にわたる長征(
장정(長征)은 중국 공산당 홍군(紅軍)이 국민당군의 포위망을 뚫고 370일을 거쳐, 9600km의 거리를 걸어서 옌안으로 탈출한 사건이다. 대서천(大西遷) 또는 대장정(大長征)이라고도 한다Der Lange Marsch (chinesisch 長征 / 长征, Pinyin Chángzhēng) ist der zentrale Heldenmythos der Kommunistischen Partei Chinas)の話、悲惨な中国農民の生活。あるいは日本人の捕虜から、解放後に、敵対していた解放軍(La Popola Liberiga Armeo (ĉine: 人民解放军, tradicia ĉine: 人民解放軍, pinjino: Rénmín Jiěfàng Jūn), estis fondita de la Ĉina Komunista Partio la 1-an de aŭgusto 1927 je la tuta komenco de la civila milito, kiu oponis al Kuomintango)兵士が傷ついた彼を背負ってぬかるみを歩いてくれたことを聞く、集団での感動は個々人の情緒的な反省を引き起こした。涙を流しながら、「自分たちはこんなに苦しみ、こんなに善良に生きている中国人を殺した」と悔恨するのだった。反省と中国側への信頼があいまって、罪状告白が始まった。イソップ物語の太陽と北風の比喩を使えば、太陽による反省である。罪状告白しなければ北風が吹く、という脅しも含まれていた。
湯浅さんも生体解剖について自白した。だが、自分が行った大脳皮質の摘出と泌尿器科の医師が行った睾丸の摘出については、どうしても書けなかった。それらは命じられたと心のなかで弁明するには、あまりにも汚く、恥かしく、無邪気な行為に思えた。そんな彼が自発文は弁解だらけで反省になっていないと、突っ返された。
1952年末、朝鮮戦争が膠着するなかで、湯浅さんたち百数十人は戦犯として山西省太原の監獄に移送された。目隠しした列車で運ばれ、夜遅く到着したので、そこがどこなのか分からなかったが、後日に太原監獄であることを知った。太原監獄、そこは湯浅さんたちが中国人4人を生体解剖したところではないか。
監獄では当初3ヶ月間、十畳ほどの獄房に10人が収容され、検察員のとり調べ以外、房外に出ることは許されなかった。3月になると待遇が変わり、食事も米の飯に魚や肉が付くようになった。6月になり、湯浅さんは肺結核で倒れる。肺結核の同僚と獄房で並んで寝たための感染だった。熱も上がり、喀血。中国側はソ連圏から入手した抗生剤で手厚く治療した。湯浅さんは帰国したい、子供たちと一緒に生活したいの一心で重い病と戦った。一応、肺結核の進行は止まり、回復した。
この時点で、先に隠したことも含め、湯浅さんはすでにすべての罪状を告白していた。衛生補充兵の教育のために生体解剖した男の母親が書いた告訴の手紙を受けとったとき、ようやく自分が殺した男が単なる生体解剖の犠牲者の1人ではなく、家族と共に生きる1個の人間として浮かびあがり、苦しくてたまらなく感じるようになっていた。母親はこう書いていた。
「湯浅よ。わたしは、お前に息子を殺された母親だ。あの日の前日、息子は、潞安の憲兵隊に引っ張っていかれた。わたしは憲兵隊までいき門でずっと見張っていた。次の日、突然門があいて、息子が縛られてトラックに乗せられて、どこかに連れていかれた。わたしは自動車のあとを追いかけたが、纏足(
纏足,又称裹脚、纏小腳、裹小腳、縛跤(閩南)、紮脚(广东),古代漢族女性的一種习俗。具体始于何时何处不可考,仅知北宋已有纏足Foot binding (traditional Chinese 纏足 chánzú, simplified Chinese 缠足 id.), or footbinding, was the Chinese custom of breaking and tightly binding the feet of young girls in order to change their shape and size)の足で、追いつくわけもなく、たちまち見失ってしまった。それからあちこち息子を探したけれども、どこへいったのか、さっぱり分からなかった。翌日、知り合いのひとが来て教えてくれた。わたしは悲しくて悲しくて、涙で目がつぶれそうだった。それまで耕していた田も耕せなくなった。食事もとれなくなった。湯浅よ、いま、お前が捕らえられていると聞いた。どうぞ、厳罰をお前に与えてくれるようにと、政府におねがいしたところだ」(漢文の内容を湯浅さんが読みとったもの)
医師は、患者の社会関係や生活史にあまり関心を持たない。疾病に係わりのありそうな最小限の質問ですませてしまう。むしろ詳しく患者の生活を知ると、治療の判断が曇ると考えがちだ。こうして、生きている物体として患者を見る訓練を積んでいる。ましてや生体解剖した男、彼の顔や手を思い出さないように、抑圧が働いている。切り開いた臓器は眼前に浮んでも、無念の思いを秘めた顔貌は想起しない。ところが、母親の手紙によって、まざまざと1人の人間、家族関係をもつかけがえのない人間として現われたのであった。しかもその手紙は、理由なく男が連行され、取調べもなく翌日に湯浅軍医の手に渡されたことを告げている。彼が憲兵隊に生体解剖の材料を要求したためにのみ、逮捕されていたのだった。
薄暗い監獄のなかで、じっと1人で考えていると、忘れていた細かいことが思い出されてくる。日本に帰りたい、なんとかうまく罪状告白を書き、検察官の追及をパスしたい。そんな打算は遠のき、自分が医師としてどんなに歪んだ道を歩んできたかがはっきりしてくる。父親のように、患者と共に生きる医師になろうとしながら、まったく逆の医師になっていた。それとても自分の意志ではなく、日本からかりだされた周囲に流されてきた結果である。なんという、自分のない人間だったか。心の底から、湯浅さんはそう思うのだった。
罪として認識する能力
その後太原監獄の待遇は大きく改善した。看守たちは栗飯のままだったが、戦犯たちには米の飯が出され、魚や肉の副食が付いた。捕虜は母国の生活に近い待遇をしなければんらない、と説明された。運動場でバレーボールをすることもできた。56年春、何班かに分かれ、新生中国を観る旅行もあった。
56年6月、湯浅さんは起訴猶予で釈放となった。中国側は彼が犯した行為と命令を分け、その上で行為の責任を問うた。それでもなお起訴猶予にしたのだった。7月、舞鶴に着き、汽車で品川に帰ってきた。14年ぶりの帰郷。多数の迎えにもかかわらず、日本がこんなに復興している驚きとは別の、大きなショックを受けた。迎えの人々のなかに、もと一緒に働いた軍医や看護婦もいた。敗戦後すぐ帰国していた。ある軍医はいった。
「湯浅さん、あんたなんで戦犯なんてことに。あの戦争は正しかったなんて、言い張ったんだろう。ごまかしゃいいのに」「そうじゃないんだ。君とあれやっただろう」「え、何を?」
彼は戦後11年にして初めて、湯浅さんに言われて生体解剖を思い出したのだった。過去を見つめてきた湯浅医師と、出迎えた医師との間には大きな隔たりがあった。
これが、北支から帰国した元軍医たちすべての姿勢だった。北支那方面軍30万、そこに20以上の陸軍病院があった。病院の軍医と野戦の軍医、あわせると数千人の軍医がいたはずだ。さらに衛生兵、看護婦が何千といる。だが、誰も一言も言わなかった。もし、誰か1人でも「あんなことをしたのだから、恐ろしいぞ」と言い出す者がいれば、軍医は誰も太原に残らなかったであろう。悪業として認識していない以上、否認する必要もなかった。戦争とは悲惨なものという大雑把な弁明のもとに、記憶の一片にも残らなかった事柄は忘れ去られていたのである。
湯浅さんは、帰国後、直ちに東京赤十字病院に入院。空洞ができていた肺結核の治療を受けた。翌57年3月より、母校の慈恵会医科大学内科で専研修、58年より東京杉並の西荻窪診療所に勤務し、今に到っている。診療を通して、日本の平和運動にかかわってきた。
だが、帰国後6年間、中国での罪については話さなかった。しばらくは、生きていくのに精一杯だった。そんなことが知られると、患者が来なくなる。やがて地域の患者さんに信頼され、やっと平和運動の集会で話せるようになった。それでもなお、妻は彼が戦争犯罪について話すのを嫌っている。
「妻は中国の収容所で苦労した。すべて思い出したくないのでしょう。でも、さびしいですね」と湯浅さんはいう。湯浅さんは、中国での戦争犯罪について、吉関那津子さんに聞きとってもらって『消せない記憶』を出版した。この本は読みつがれている。出版への反応を3つ、紹介しておこう。
1人は、第一回の生体解剖で腕の切断を行ったO医師から、彼は湯浅さんに諭され、過去を思い出していたのであろう。次のような手紙を送ってきた。
「貴兄よりお話のあった回想録の出版の件ですが、小生には正直のところ甚だ脅威に感ぜられる次第です。小生のごとく小心者に、天のめぐり合せにて、悪い役回りともなり、以来思い出す毎に良心の呵責にせめられるところであります。貴兄は、私と異なり、山西軍、共産軍の中にて生活され、また相応の反省の場も経験され、いわば晴天白日でありましょうが。私は今日までビクビクの日頃であります。どうか、貴兄の温情によって荒波の立たぬ方向へお導き下されたく、伏してお願い致します」(1980年10月)
O医師の忘却は、湯浅さんの60年代から70年代にわたる長い語りかけによって、揺さぶられている。だが、どのような「良心の呵責」なのだろう。自分の行った生体実験が今日の社会で批難されるものであることは、知識としては知っている。だが、湯浅さんが獄中で行った犠牲者との等身大の幻の対話を行ってはいない。湯浅さんは孤独な積み重ねの上に、あの犠牲者の母親の手紙を読み、犠牲者を物から人へ、ひとつの時代を生き社会関係をもって生きた表情のある人間に取り戻している。それは、彼自身が物から人へ、自我を見出していく過程でもあった。晴天白日になることではなく、罪を背負って生きる日々を選び取ることだった。いつものことだが、匿名の脅しの手紙も来た。例えばひとつの葉書。
「君の生体解剖に関するレポートを見て憤慨に堪えない。今頃何を企図してこんなことを云い出したのか理解に苦しむ。売名か?軽薄も極まれりというもの。国際関係の微妙な時、こんなことを語ってその影響がどんな両国間の阻害になるかを予知できない程バカか。云っていいことと云ってはならないことを区別せよ。・・・噴飯モノである。恥じよ」
旧字体の文章は、戦争世代の男性からのものであろう。「両国関係の阻害」という言葉は、湯浅さんが求める人間の精神とはあまりに違い。人の行為をすべて打算でみるように教育された、この老人の感情の強張りが、よく表われている。もう1通の手紙、すぐ上の兄、湯浅寶さんから来たものを紹介しておこう。内科医の寶さんは、戦後、北海道で開業医としての生活を送っていた。
「ハガキが届いてから3,4日して本が送られて来た。一瞬何故か不安が心を過った。戦地に行った者の感じる共通の想いかも知れない。頁を開いて読み始めた。動天―身が引き締まる思いである。来るべきものが来た。共に肉親として苦杯を飲む覚悟をしなければならぬ。よく吐露して呉れた。血を吐く思いで述べた事であろう。私にはその勇気の一片すらもない。程度の差こそあれ、同じような苦い経験を戦地で味わされて来た。払拭出来ぬ青春時代の暗い汚い傷痕である。今でも逆上する想いをしずめる事が出来ぬ事がある。
中流の下町の両親の下、武士の躾の家庭に育てられた青年が、責任感から、上官の命令は軍、いや天皇の命令と素直に受け取って、肉親や同胞の為と盲目的に不平も云わず、理性では到底受けとめられぬ愚にもつかぬ命令を甘受させられたのであろう。胸の程を吐露するのに、キリスト教的にザンゲの形で、教会で祈りながらする習慣の処もあるであろう。述解的に本を書く人も居るであろう。勇気が無ければ出来ぬ事だ。仏教の教えの中で日本人には至難の事である。洗脳と云う中国帰来者がもち帰って来た言葉を私は大変誤解していた。申し訳ない事だが、共産主義を吹き込まれる事だけだと考えていた。(註―「もち帰って来た」ではなく、帰国者にはられたラベル)
昔、子供の時読んだイソップか何かの本で「王様の耳はロバの耳」という題で、木に吹き込まれてその木で作られたバイオリンは題名の言葉の音がしたという。気の弱い理髪屋の話がある。私はまさにそのトコ屋に似ていて、自然に向って吹き込んで気を晴らして来たし、一生吹き込み続ける事しか出来ないかもしれない。
中国でカメラを買って、レンズだけは汚したくないと、自然風物に向けられた事を想出す。今年で3回、戦後中国に出掛けたのも、荒廃させた中国の回復を願い贖罪の意味も含んで、温かい眼で見させてもらっている積もりである。北海道に私が来たのも、2度の召集で、大自然の広さや東北の気候が青春のへどを吐くのに適していると考えたからかも知れない。(中略)私はこの弟の書いた本を、娘や娘婿、長男などに早速買うように電話した。私達のバイブルにしようと、今、札幌にもっていって読ませている」
この手紙は、湯浅謙さんにとってとりわけ嬉しいものだった。年子で歳のほとんど違わない兄は、同じ時代を生きた者として、罪を背負う弟の仕事を理解してくれている。兄は自分の言葉で、自分の悲しみを込めて、弟に語りかけている。
個人として1回限りの人生
湯浅謙さんは、過去の自分の行為を自分の問題として意識し続けてきた。いつも、させられた行為、皆で行なったのだから仕方ないと弁明している限り、結局は、自分の人生も無かったことになる。それでは個人としての一生を生きたのではなく、ある集団に固定された、単なる集団のなかの1人としての人生が終っていく。自分の行為として、良いことも悪いことも引き受け、その意味を問うことによって、自分の1回限りの生を取り戻す。それが湯浅さんの戦後の日々であった。
私は北支における軍医たちの手術演習について、初めて知った。私の父も軍医の日々を送っているが、何も言わなかった。「戦争は愚劣だ」と言いながら、権威的な男性として強張った一生を終えた。私が医学部に進んだとき、中国から帰還した先輩医師たちは何も言わなかった。ある教授が、「私たちは中国で悪いこともしましたが、良いこともしました」と、ふと漏らした言葉しか憶えていない。
医学部は戦前と同じく権威的であり続け、決して専門の全領域に優れるわけではない教授を全能者として模装し、そのような医局制度のなかで医師は生きていた。大学―公的病院―開業医は結びあって学問を作り、研究の意味を問わない研究を続け、健康保険制度を巧みに利用してきた。それは社会的弱者に押しこめられた人々、精神病患者やハンセン氏病(
ハンセン病(ハンセンびょう、Hansen's disease, Leprosy)は、抗酸菌の一種であるらい菌 (Mycobacterium leprae) の皮膚のマクロファージ内寄生および末梢神経細胞内寄生によって引き起こされる感染症である+らい菌(らいきん、癩菌、学名Mycobacterium leprae)は、ハンセン病の原因となる細菌である。分類上、結核菌と同様に抗酸菌に含まれる。1873年、ノルウェーのアルマウェル・ハンセンによって発見された)患者などへの関心の乏しい、また人間の精神に無知な医学であり、臓器移植や生殖医学などの医学を先端と信じて疑わない、歪んだ医学を発展させてきた。
日本の医学が、いかに戦争中の隠された遺産の上に築かれて来たかは、96年に露呈した薬害エイズ問題によく表われている。厚生省―安倍英(帝国大学副学長)ら学者―ミドリ十字は、日本陸軍・軍医部門の悪のなかから生れた一体三面の顔であることを示した。
ミドリ十字の前身、「日本ブラッド・バンク」は朝鮮戦争勃発直後の1951年に設立されている。湯浅さんらが中国大陸で生体解剖についての罪を問われていたころ、生体解剖、人体実験の推進者であった北野政次(後の67頁を参照=北野 政次(明治27年(1894年)7月14日 – 昭和61年(1986年)5月17日)為日本陸軍軍人。陸軍軍醫中將勲三等醫學士。曾用名北野政藏。
Масадзи Китано (яп. 北野 政次(陸軍軍医中将・兵庫県出身) китано масадзи, 14 июля 1894 года, Токио, Япония — 17 мая 1986 года, там же) — доктор медицины, микробиолог и генерал-лейтенант Императорской армии Японии (Imperial Japanese Army). Он был вторым командиром Отряда 731, секретного центра по исследованию биологического и химического оружия, ответственного за некоторые из наиболее печально известных военных преступлений Японии)、二木秀雄(木 秀雄(ふたき ひでお(石川県出身)、1908年 - 1992年9月18日)は、細菌学者、医師、実業家、宗教家・・・のち大日本帝国陸軍技師となり、731部隊(関東軍防疫給水部本部)に所属[2]、第一部第十一課[4]結核班(二木班)班長・・・1950年11月、日本ブラッドバンクの設立発起人となり、重役に就任[6]。のちミドリ十字取締役。1953年4月、第3回参議院議員通常選挙に石川選挙区から無所属で立候補、3位で落選。1956年、大企業・銀行・政治家などを対象とした暴露記事による恐喝事件「政界ジープ事件」を起こし、19社から6435万円を脅し取ったとしたとして逮捕、起訴され、1969年、最高裁判所で懲役3年の刑を言い渡された[8]。1970年代初め、宗教法人日本イスラム教団を設立、患者をすべてイスラム教に入信させたとしてアラブ産油諸国から援助金を得たが、入信が偽りであったことが発覚し問題になった)などの元731部隊(関東軍防疫給水部)中枢と内藤良一(内藤 良一(ないとう りょういち(京都府出身)、1906年12月26日 - 1982年7月7日)は、日本の陸軍軍医中佐。1950年、日本ブラッドバンク(後のミドリ十字)を創業。医学博士・・・1945年(昭和20年)、内藤は731部隊が主導した細菌戦および人体実験に関する重要参考人としてGHQの尋問を受けた後、同部隊の組織図を提出し、人体実験の事実を大筋で認めた(ただし、細菌部隊に関するアイデアはすべて731部隊の部隊長であった石井四郎中将のものだったと主張している))・元陸軍軍医医学校防疫研究室教官によって作られた。彼らは、戦時中の人体実験によって得た血液の凍結乾燥の技術を使い、山谷、釜ヶ崎、寿町などのドヤ街から安い血液を買い集め、乾燥血液をアメリカ軍に売って莫大な利益を得た。医学における朝鮮特需は、戦争犯罪医学者たちを潤した。1964年、「ミドリ十字」として発展した会社は、アメリカの売血を大量に輸入し、厚生省と一体になって血液製剤(アルブミン製剤、グロブリン製剤、擬固因子製剤)の消費大国を作っていったのである。
一方、厚生省の中核研究所である国立予防衛生研究所の歴代所長や各研究部門の部長の多くは、元陸軍防疫給水部や軍医学校の医師であった。さらに「エイズの実態把握に関する研究班」の班長であった安倍英教授(Takeshi Abe安倍英(1916 May 15 - 2005 April 25 ), the Japanese doctor(海軍軍医大尉・山口県出身). Doctor of Medicine . Former Vice President of Teikyo College)は、58年、東京大学の内科医局員の時代に、ミドリ十字の内藤良一に接触し、その後、「内藤医学研究振興財団」の理事になっている。彼らにとっては、個々の患者の生命は二の次である。非加熱血液製剤の危険性を知りながら、三者の癒着は多くのエイズ感染者を生み続けてきた。
しかも、その深い反省は医学界のどの分野からも行われていない。医学生からの問い直しもない。逆に、私のまわりの医学部教授たちは、「医師を信用しなくって、どうなるのか。結局、医療への不信の付けは患者の疑心暗鬼となって払われることになるだろう」と広言して憚らない。
日本の医師は、戦後の医師の行為を忘却することによって、金ぴかの医学と医療に邁進してきた。湯浅謙さんを日本医学の証人として発見しなかった医師たちは、戦時から続く貧しい精神を、今も生きている。そして国民は、こんな医師たちが作る医療を先進医療と信じてやまないのである。


在中国旅行(朝日文库) (日文)文库– 1981/12/1 本多勝一 (作者Voyager en Chine (Asahi Bunko) (Japonais) Bunko - 1981/12/1 Katsuichi Honda (Auteur)
(追加資料)人間の細菌実験と生体解剖
(中略)調査によると、少将として731部隊に転勤になった「北野」は、まもなく中将になり、哈爾浜(ハルピン)の平房地方で細菌兵器の製造を直接指揮していた(注2)。そしてソ連の日本戦犯裁判記録では、関東軍の山田乙三司令官(
Otozō Yamada山田乙三 (Prefettura di Nagano(陸軍大将・長野県出身), 6 novembre 1881 – Giappone, 18 luglio 1965) è stato un generale giapponese)が、「北野」の犯罪について「1944年、中国の江南地方でペスト菌をつけたノミを飛行機からまいた」と証言している(68ページ)
(注2)68ページ 少将になって転勤した731部隊とは、細菌兵器部隊として評判になった「石井部隊」のことであって、「北野」はこの石井四郎部隊長(Сіра Ісіі石井四郎 (陸軍軍医中将・千葉県出身)25 чэрвеня 1892, Сібаяма — 9 кастрычніка 1959) — японскі мікрабіёлаг, генерал-лейтэнант Імператарскай арміі Японіі)の後任になったのであった。この件については、『人民中国』(1972年1月号)でも、西園寺公一氏が「中国・東北地方の旅から」と題して報告している。
なおソ連の日本戦犯裁判記録「細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタモノ日本軍人ノ事件ニ関スル公判書簡」(ナウカ社)には、北野の731部隊長就任について次のように触れられているー「1944年8月、石井ニ代ツテ、第731部隊長ノ職ニ就イタ北野中将ハ、安達駅付近ノ特別実験場ニ於ケルペスト蚤使用実験ノ結果ニ関シテ、特ニ山田(関東軍司令官山田乙三大将のこと=本多注)ニ報告シタ。
元関東軍作戦部長松村少将ノ供述ラカナル如ク、1944年末、山田ノ発意ニヨリ、戦争ノ際ニペスト蚤ヲ使用スル問題ニ関シ高級参謀作戦会議ガ関東軍司令官室ニ於テ行ハシタ。本会議ニハ、山田 関東軍参謀長笠原幸雄、同副参謀長池田少将、戦略部ノ参謀デ天皇裕仁ノ従弟竹田宮(Принц Цунэёси из линии Такэда (яп. 竹田宮恒徳王 Такэда-но-мия Цунэёси(陸軍中佐):, 4 марта 1909, Токио — 11 мая 1992) )及ビ関東軍作戦部長松村ガ参加シタ。北野中将ハ、ペスト菌ヲ以テ汚染セル細菌兵器トシテ使用スル諸方法ニ就キ詳細ナ報告ヲ行ツタ」(82-83ページ)
<追記1>のちに日本に帰国してから、ここで問題にされている「北野」氏は健在(「ミドリ十字」勤務)であることがわかったので、この中国側証言を発表する前に当人に直接電話できいてみた、その一問一答を録音のまま以下に紹介する。
本多「私、朝日新聞の本多と申しますが、ちょっとお伺いしたいことがございまして。「日本医事新報」というのがありますね。あれの、これは一昨年の12月号で、北野さんが書かれている“防疫秘話”というのがありまして、その中で発疹チフスの実験というかワクチンのことが書かれていまして、それで満州産ハタリスを使った実験のことを書いてありますが、実は私、今年(1971年)の6月に奉天に行ってきたんです。それで満州医科大学に行ったんです。それでいろいろあそこでお話を聞いたんですが、その中にですね、このワクチンを作った時に人体実験をやったといういろんな資料をみせてくれたわけです。これが一応事実であれば一連の中に入れざるを得ないのですが、どうでしょうか・・・」北野「・・・」本多「つまりこれの事実関係というのは」北野「そういうことはないんですがねえ」本多「ないというのは・・・ただ論文なんかを全部見せてくれましてね、まあかなりそれは、まああの論文が捏造であるという場合を除けば、人体実験をやったということが書いてあるわけなんですよ。北野さんご自身の論文の中に・・・」北野「・・・(約15秒間沈黙)・・・それはどこで手に入れられたですか」本多「それはむこうの満州医科大学なんです」北野「・・・」本多「その満州医科大学がそれを手に入れる過程というのは、いろいろくわしく聞きましたけれども」北野「・・・(約15秒間沈黙)・・・」本多「事実関係にですね、まちがいあるいはくいちがいがあれば、できるだけただしていきたいと思うんですが」北野「・・・」本多「あるいは北野さんご自身の釈明というか、否定といいますか、それはあとで載せるということも考えられるわけなんですが、一応連絡だけはしておきたいと思いまして」北野「はあ・・・(約15秒間沈黙)・・・」本多「何かあれでしょうか、そういう資料というか、そういうことはないというような・・・」北野「私はそういうことはありませんがねえ」本多「ええ・・・、わかりました。それでは、あらためてそんなことをくわしく出したものを送りますので、それに対してまた、何ていうか、あるいは反論なりなんありして下されば、ありがたいと思います」北野「わかりました」本多「じゃあ、お願いします」
この件については、平岡正明氏の単行本『日本人は中国で何をしたか』(潮出版社)でも追及されている。この記事が最初に発表された『週刊朝日』を北野氏に送ったが、北野氏からの反論または何らかの態度表明はついになかった(『中国の旅』(1981年・朝日新聞社)84-86ページ
Katsuichi Honda (本多 勝一, Honda Katsuichi(長野県出身), born January 28, 1932) is a Japanese journalist and author most famous for his writing on the Nanjing Massacre. During the 1970s he wrote a series of articles on the atrocities committed by Imperial Japanese soldiers during World War II called "Chūgoku no Tabi" (中国の旅, "Travels in China"). The series first appeared in the Asahi Shimbun.

Was Japaner in China gemacht haben (Tide Collection (247)) (Japanese) Collection - 1985/7/1일본인은 중국에서 무엇을했는지 (조수 문고 (247)) (일본어) 문고 - 1985/7/1 히라오카 마사아키 (의)
「本稿は、旧日本軍隊が北支で行なった燼滅作戦を、南支における対国民党正規軍戦との対比において論じ、南京大虐殺および日本列島における俘虜強制労働、虐待、虐殺そして反乱劇としてあらわれた花岡事件を、三光との対応において論じるものとする。――著者(あとがきより)
平岡 正明(ひらおか まさあき[1]、1941年(昭和16年)1月31日 - 2009年(平成21年)7月9日)は東京府出身の評論家、政治運動家。Masaaki Hiraoka [1] , 31 ianuarie 1941 ( Showa 16), 31 ianuarie 2009 ( 9 iulie 2009 ) este un critic și activist politic din Tokyo .

↑一番右にいるのが山田乙三Отодзо Ямада大将(45年8月15日、ソ連軍に降伏・懲役25年の実刑判決・56年にシベリアから復員)+ハバロフスク裁判하바롭스크 재판Kriegsverbrecherprozess von ChabarowskハバロフスクさいばんKhabarovsk War Crime Trials伯力審判とは、第二次世界大戦後の1949年12月25日から12月30日にかけてソ連のハバロフスクの士官会館で6日間行われた旧日本軍に対する軍事裁判の通称。

第4章 戦犯処理
医師は常に、「医療は中立的である。味方にとっても、敵にとっても、平和時でも、戦争時でも必要である」と釈明することができる。現実に彼らが携わっている医療はそうではないが、詰問されれば、医学のニューマニズムと医療の中立性によって防 する。それでも彼らは現実が違っていることを知っているため、あくまでもその弁明は表面的であり、彼らの内面まで降りていかない。かたい表層の釈明と内面での現実認識の二重性が、彼らをして再び医師という職業の特殊性、特権性の強調に向わしめる。戦後日本の医療は、この二重性に支えられてきた。湯浅さんや小川武満さんの発言を聞き取る力はなかったのである。
ドイツにおいては、事情はやや異なっていた。1946年12月から47年7月に賭けて、ニュルンベルグ米軍第一法廷において、強制収容所や研究所での人体実験や安楽死を実行、計画した2,3人の医師、SS将校に対する裁判が行われていたからである。この裁判をドイツ医師たちに解説するためのドキュメントが、『人間軽蔑の独裁』という題で出版されている。編集にあたったアレクサンダー・ミッチャーリヒ(精神分析医)とフレート・ミールケは、その序文に次のように書いている。
「医師たちは、かれらの攻撃的な真理追求と独裁のイデオロギーとのふたつの発展が交錯する点に立ったとき、はじめて公認の独裁者・公的に任命された拷問吏になったのである。(中略)過去の恐るべき行為がいま静かな法廷で明らかにされているが、あの過去をほんとうに克服できるのは、破局の歴史的原因をさかのぼって究明できる者だけである。それが唯一われわれにふさわしい客観性である。なぜなら、裁判官の判決がどのようなものになろうと、2、3人の被告だけを罪人としてみ、かれらを異常な性格の持ち主とみることは、まったく許されないことであろう」
「われわれ自身に許されているのは、人間は変えることができない邪悪な存在であると弁解することである。この裁判の被告たちは、弁明のために、他の国ぐにでもおこなわれた冷酷な行為、残忍行為のドキュメントを提出している。これはかれらの形式的な権利である。しかしそれは個人的な論拠にはなりえない。他人の罪を引き合いに出して自己の罪を否認することは、まじめに考えればできることではない。昔の時代に邪悪が勝利したからといって、われわれの存在の責任がなくなるわけではない。(中略)われわれの罪を小さいものにすることは、われわれの関心事ではない。なぜなら、罪を知りながら生き延びるときにのみ、われわれは同時代の人びとの尊敬を獲得することができるからである。かれらの人間の尊敬をえられるのでなければ、われわれの人生はもはや生きるに値しないのだ」(『人間の価値―1918年から1945年までのドイツの医学』(CH・ブロス、G・アリ編、林功三訳、風行社、1993年から)
ミッチャーリヒらの序文は、当時から今日に到るまで戦争犯罪を否認する人々の論点を簡潔に指摘している。
ところが西ドイツの医師集団もまた、このような指摘を聞く力はなかった。この序文はベルリン大学の教授たちによって削除せられ、ミッチャーリヒは激しい個人攻撃を浴びた。ベルリン医師会が、ナチズムのなかで医師がはたした役割を検証し、犠牲者への謝罪をこめ、「ベルリン医師会はその過去の重荷を負う。我々は悲しみと恥を感じている」と声明したのは、ようやく1988年になってからであった。だが日本医師会や各大学は、戦後50年たって今なお、侵略戦争と日本の医学を検証しようとはしていない。むしろ討論をしようという動きが起こるたびに、抑圧してきた。そして近い過去を見ようとしない医学者たちが、今なお生命倫理を語っている。

*Medizin ohne Menschlichkeit – Nazis und Menschenexperimente: Dokumente des Nürnberger Ärzteprozesses人間性なき医学 - ナチスと人体実験Medicine without humanity-Nazis and human experimentation -著者名:アレキサンダー・ミッチャーリッヒ/フレート・ミールケAuthor: Alexander Mitscherrich / Fred Mielke
*Doctors of Infamy: The Story of the Nazi Medical Crimes (1947) is a book by Alexander Mitscherlich and Fred Mielke which begins with a statement on the intention of its publication and includes a documentation of the Doctors' Trial in Nuremberg that was held from 9 December 1946 until 20 August 1947.

小山一郎さん(元59師団の下士官(軍曹)(中国帰還者連絡会の一員+帰国後、公安警察による嫌がらせもあった)=5年間のソ連抑留後、中国へ移送され、撫順戦犯管理所に収容)の言葉:
①「日本軍のいうこと聞かない奴はみんなぶっ殺っしゃえっていう考えだからね。非常に乱暴なんですよ」②「小隊長帰ってきたらね、笑うんですよ、ハハハッて。何笑ってんのかなと思ったら『いやあ~せっかく引っぱって来たのに半分いかれちゃったよ。しょうがねえな。足んなきゃまた引っぱって来るさ』ってそういう会話が聞こえたんですよ・・・牛、豚、猫、動物を扱うのと同じような感覚で人間を扱っていたと・・・しかもケラケラ笑った会話をするほど人間の命を軽んじていたなあと」③「私もねえ、もう何年も前のことだから忘れてることもあるだろうから。まず私は、隠すつもりはありませんと。思い出せばなんでも書いて、何年何月にどの部落に行ったって聞けばああ、って思い出して全部書くことができるから。なにかヒントを下さい。そしたら『ダメです』って断られちゃった(苦笑)『自分で考えなさい』」(「坦白書」作成=「認罪」の過程において:ドキュメンタリー『認罪ー中国撫順戦犯管理所の6年』より)
小島中隊長の戦争
それでは、「医学・医療の中立性」といった表層的な言い訳に逃げることのできない、一般の将兵の場合はどのような自己弁明をしていったのであろうか。さらに、時代と状況が強いた殺人という弁明を越えて、個人としての罪の自覚に到った人がいたのであろうか。もしいたのなら、いかなる経過をたどってか。
まず、小島隆男さんの話を聞くことにしよう。もうすぐ80歳になる小島さんは、数年前から、山東省で行った中国人男性の「ウサギ狩り」作戦(奴隷化)について証言している。
小島隆男さんは1917(大正6)年6月14日、東京の神田に生まれた。父親は米問屋を営んでいた。湯浅謙医師と同じ九段中学に進学した。九段中学は東京のエリート進学中学校であり、自家用車で送迎される金持ちの家庭の子供が少なくなかった。映画館に入れば特等席に当然のように座った。
昭和10年の時点で、学校の旅行に8ミリカメラを持ってくる生徒が2,3人はおり、帰ってそれを映して楽しむようなクラスだった。小島さんの同級には、陸軍・海軍の将官の息子や警視総監の息子、帝展の審査員の息子などがいた。生徒たちは成人すれば社会の上層に加わると思い込んでおり、小島さんも将来の出世に憧れた。陸軍士官学校や海軍兵学校へ進み、軍隊での出世を考える者も少なくなかった。
小島さんは九段中学を終えて、東京外国語学校(現、東京外国語大学)のロシア語科に進んだ。伯父がロシア語科を出ており、ロシア語への関心を持っていた。ただし日本軍の勇姿に血を騒がせる青年は、ロシア文学や社会主義に関心があったわけではない。共産主義の敵国・ソ連とはいずれ戦うことになるだろうから、ロシア語を習って日本国のために役立てたいと思ったのだった。
教育と時代は密接な関係を持っている。小島さんの2年前のロシア語科の学生は、赤の容疑で逮捕され、ほとんど退学になっていた。時代は急速に軍国主義に傾き、ロシア語の学習も海外膨張の手段と見なされるようになっていた。ロシア語科の卒業生は20人ほど。そこに、満鉄や陸軍省などから多数の求人があった。満鉄だけで20人の募集があったほどだ。学校は、それぞれの求人先に1人か2人を紹介していった。1939年3月、東京外語を出た小島さんは「北樺太石油会社」に入社した。樺太は日露戦争後のポーツマス条約(1905年=
ポーツマス条約(ポーツマスじょうやく、英: Treaty of Portsmouth, or Portsmouth Peace Treaty)は、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、日本とロシア帝国との間で結ばれた日露戦争の講和条約。日露講和条約とも称するПортсмутский мирный договор (яп. ポーツマス条約 по:цумасу дзё:яку) — договор между Российской империей и Японией, завершивший русско-японскую войну 1904—1905 годов)によって、北緯50度以南の南樺太が日本領になっていた。さらに、ロシア革命後の1920年、日本はニコラエフスク事件(尼崎事件Николаевский инцидент Nikoláyevskiy Intsidyén、シベリア出兵中の日本軍と居留民がパルチザンに殺された=
La incidento Nikolajevsko estis serio de eventoj dum la rusa enlanda milito en la epoko de februaro ĝis marto 1920, kiu klimaksis per masakro de pluraj centoj da japanoj en la siberia urbo Nikolajevsko-ĉe-Amuro)を理由に北サハリンを占領。25年の「日ソ基本条約」(Пекінський договір 1925 р. — радянсько-японська конвенція про основні принципи взаємовідносин)によって、北部の石油・石炭採掘に対する45年間の利権を獲得し、「北樺太石油会社」と「北樺太鉱業会社」を設立し、現地での採掘にあたっていた。小島さんは、この北樺太石油会社に入社したのだった。まさしく、日本国家の膨張のためにロシア語を役立てる就職であった。だが、すでに日ソの緊張は厳しく(この年、39年の5月にはノモンハン事件が起きている=诺门罕战役(苏联与蒙古称“哈拉哈河战役”、“哈拉欣河战役”,俄語:Бои на Халхин-Голе,日本称“诺门罕事件”,日语:ノモンハン事件)是大日本帝國及蘇維埃聯邦在遠東發生的一場戰爭)、会社のある現地オハ(樺太)に行くことはなく、12月には徴兵となった。サラリーマン生活は僅か8ヶ月で終った。
まず千葉県佐倉の第57連隊に入隊。1週間後に中国・山東省にあった北支那方面軍第12軍32師団に配属され、そこで初年兵教育を受け、幹部候補生となり、41年10月に少尉となった。42年4月には、八路軍(共産党軍)と戦うために編成された59師団に配属、機関銃中隊の中隊長(中尉)となり、敗戦間近の45年5月まで、150人の部下を指揮して山東省の全域で暴れまわったのであった。

山東省で行った非情な行為について述べる前に、小島さんのその後の経過を続けて書いておこう。45年5月には新京(現・長春)にあった関東軍司令部へ配属になり、特殊情報部隊でソ連軍の暗号解読を担当。ソ連参戦で捕虜となり、イルクーツク、ハバロフスクなどに抑留された。
1945年10月に中華人民共和国が成立。ソ連は独立なった中華人民共和国政府へ、中国における日本人戦犯の移管を決め、1950年7月18日、中ソ国境の綏芬河において969名の戦犯を引き渡した。小島隆男さんもその1人として、瀋陽の東、鉱工業都市・撫順にある撫順戦犯管理所に収容された。同年10月、朝鮮戦争激化のため、爆撃を心配した中国政府は、彼らを朝鮮国境に近い撫順から北部のハルピン監獄(佐官以下と1部の戦犯)と呼蘭(尉官以下)に移送、朝鮮戦争が膠着し始めた翌51年3月、少尉以下696名は撫順管理所に戻り、ハルピン監獄に残った中尉以下と病人は、53年10月にようやく撫順管理所へ帰った。
1956年6月から7月にかけて、瀋陽北陵において「最高人民法院特別軍事法廷」が開かれ、36人が起訴。有罪(太原組の9名を含めると、計45人が8年から20年の刑期、ただし捕虜になったときから起算)となり、先の湯浅謙さんのように太原戦犯管理所に収容されていた者も含め1017人が起訴免除され、釈放された。こうして56年9月、17年の歳月を経て、小島さんは帰国したのであった。
帰国したとき、戦時に結婚した妻はすでに再婚していた。撫順管理所に収容されて4年後の54年10月、訪日した中国紅十字会(李徳全団長)は日本人戦犯名簿を発表した。彼らの生存が判り、多くの家族が手紙や小包を中国紅十字に託したが、小島さんへの妻からの手紙はなかった。「生きて帰国し、再会したい」と、シベリア抑留中も撫順の独房でも想い続けてきた若い妻は、中国紅十字会の発表の僅か3ヶ月前に再婚していた。帰国して、彼はそれを知った。
「これも、戦争のためでしょうね」と小島さんはいう。帰国後1年間は職が見つからず、また社会適応にも苦労した。その後、「伊藤忠」関係の商社に就職し、定年までの25年間、対ソ連貿易に携わってきた。

「ウサギ狩り」作戦の実際
さて、話を戦争時に戻そう。黄河が海に流れ込む山東省の内陸部で、小島中隊は当時の日本陸軍が行った悪事のすべてにかかわっている。村落を襲い、奪い、焼き、殺し尽くした。初年兵を鍛えるため、中国農民を木に縛りつけ、銃剣で刺す訓練もさせた。1人の中国人の胸部を5,6人の兵隊に次々と刺させるのである。「ウサギ狩り」と呼んでいた中国人強制連行作戦も行っている。
42年9月から年末にかけて、中国人労工狩りが実行された。それまでにも戦争遂行のため、北支での炭鉱や鉱山、ダム工事などで中国人労働者が酷使され、多数が殺されていた。さらに日本国内での労働力不足に逼迫した日本政府は、中国人男性を捕まえて日本に運び、鉱山などで強制労働させようと考えたのである。小島中隊が属する第12軍司令部でも、壮健な中国人男性をいかに効果的に捕まえるかの研究が始まり、ウサギ狩りの方法を応用して作戦がたてられた。
1個中隊(小島中隊は150人)が4キロにわたって正面展開。日本兵1人につき警備員10人ほどを付き添わせて、追い込んでいく。中心の分隊長の所在地には日の丸の旗を立て、半径16キロの大きな包囲網を作り、さらに上空には飛行機を飛ばし各中隊の進行を調整した。山東半島の付け根では「地引き網」という作戦も行われた。横一列に部隊が並び、海岸に向かって東進、1週間かけて農民をかたっぱしから捕えていった。
小島中隊も連日、「ウサギ狩り」の演習を行った後、作戦を実施した。機関銃で威嚇射撃しながら包囲を縮めていく。農民は畑の中にうずくまっていたり、集落の1ヵ所に固まって隠れていたりする。彼らを捕まえて憲兵隊に引き渡すと、憲兵たちは働けそうな男を後ろ手に縛り、数珠つなぎにしてトラックに放り込んでいく。すこしでも抵抗する者がいれば、殺された。小島隊は山東省の西部、中央、東部で3回、ウサギ狩り作戦に加わった。
捕まえられた中国農民がどうなったか。小島さんは知らないが、彼らの1部は日本に移送され、全国135の事業所で奴隷労働に従事させられている。その数は4万人といわれる。秋田県の花岡鉱山、静岡県の仁科鉱山、大阪・安治川の築港などで酷使され、多くの中国人が死んでいった。鹿島組・花岡鉱山では、45年6月30日、虐待に耐えかねた中国人700人が反乱を起こした。彼らは全員捕えられ、約100人が虐殺された。いわゆる「花岡事件」の犠牲者は、小島さんたちが作り出したのであった。
花冈惨案,又称花冈事件或花冈暴动、花冈起义,是指1945年6月30日由被擄中国劳工在日本秋田县北秋田郡花岡町(今大館市)花冈礦山发动起义、殺了4個日本人[1]後而被殺的事件。L'Incident de Hanaokafa referència a la repressió violenta de les autoritats japoneses amb la col·laboració de la població civil de l'intent de fugida de treballadors xinesos i coreans que eren objecte d'explotació laboral en règim de pràctic esclavatge. Els fets es van saber gràcies a l'accés als arxius dels Estats Units d'Amèrica.
中國二戰勞工是指在第二次世界大戰期間被日軍強制擄往蒙古、中国东北三省、日本、南洋等地,為當地企業工作或從事軍備工作的中國勞工。其中被送往日本本土的約有四萬人,多從事礦場、土木工程和港口工作。[1]據日本方面統計,1943年至1945年間,日本一共強行綁架169批中國人到日本,在135個工地從事繁重的體力勞動。根據日本外務省在1946年的統計,這些中國勞工中一共有6830人死在日本[2]。
小島隊が行った残虐行為は、いまここで数頁で書き尽くせるものではない。だが当時の小島さんにとって、ひとつひとつの行為に特別な意味はなかった。戦争の日々の、ありふれた一連の出来事でしかなかった。それぞれに犠牲者がいるという当り前のことに気付くのには、永い時間を要した。
小島さんは敗戦後、ソ連軍の捕虜となり5年間、イルクーツクやハバロフスクに抑留された。ロシア語のできる小島さんは都市部で働かされ、ひもじい思いはしたが、酷使されることはなかった。戦犯の容疑で取り調べられてもいない。ただし、多くの将兵が帰国していくのに、彼はいつも残留組に入れられていた。50年7月初め、ハバロフスクに残っていた抑留者は1千名ほどになっていた。
彼らは、ソ連将校から「近いうちに祖国に向かって出発することになるだろう」と告げられ、そのまま偽って国境の街グロデコウに運ばれた。中国側の街は綏芬河。7月18日、969名の日本捕虜は、何度となく詰め込まれた囚人移送用の貨車から降ろされ、線路を渡って中国側の列車に収容された。そこは、今までの貨車と違い、立派な客車が待っていた。中国側は流暢に日本語の話せる軍人や、医師と看護婦を配慮し、ハルピンで買い集めた白パンとソーセージで迎えたのだった。5年間、いつもひもじい思いをしてきたシベリア抑留者にとって、この待遇の変化をどう判断すればよいか、まったく見当がつかなかった。
彼らの心は揺れ動いた。誰1人として、自分が刑法上の罪を犯したとは思っていない。ただし、自分たちが行った残虐行為を知っている中国人が少なからずいること、生存者や遺族の申し立てによって必ず報復が行われるであろうことに脅えていた。1人ひとり、堅い顔貌の下に不安、怒り、絶望、弁明が渦巻いていた。
―かつての日本軍や特務機関なら、捕まえた中国人に拷問を加えた後、結局は殺していた。立場が逆になった以上、自分たちが行ったことを彼らが行わないはずはない。いかに逃げきるか。何も言わない。それに越したことはない。公然と知られていることにのみ、同意する。だが自分の関与は断固否定する。しかし、収容者のなかには同僚、関係者が少なくない。彼らの誰かが、自分の係わりについて述べていたらどうなるだろう。もう駄目だ。
5年間もシベリアに抑留されて、酷使された。多くの人々が病死していったが、なんとか耐えてきた。これほど苦しめられてきた自分たちに、今さら戦犯として報復するとは、不公平きわまる。戦争は国家と国家との死闘であり、戦犯とは戦争を命じた者のことであり、自分たちはさせられただけだー
このように彼らの思考は堂々巡りし、疑心は感情を不安定にした。彼らの暴力的性向、人間への不信、権威主義は中国側に投影され、反転して彼ら自身を襲った。自分自身の人間観、社会観に包囲されていたのだが、969人の戦犯たちは中国共産党政権の復讐の前にいると信じて疑わなかった。
「投影された思考」に脅える者は、目の前の現実を検討する力を欠く。撫順戦犯管理所は、かつて朝鮮人収容のために日本人が建設した監獄だった。ここで彼らは強制労働をさせられることもなく、十分な米の飯と副食を与えられ、親切な医療を受けた。いかなる暴力も受けず、侮辱されることすらなかった。だが、このような処遇と彼らの投影された思考とのギャップについて、考えてみようとはしなかった。せいぜい、殺すまでは生かしておくのだとか、自分たちは国際法も何も無視したのに、国際法にもとづいて処遇しているだけだと安易に納得したり、いずれ日本政府やアメリカと取り引きする材料にするのであろうぐらいの分析ですませていた。

人は観念によって、自己と自分を取り巻く世界を固定的に捉えている。この固定の程度が硬直すると、新しい現実を柔軟に見る力を失う。あらかじめ解釈ずみの認識と眼前で生起していることの矛盾は無視される。収容された初めは、この無視は集団的無視となっていた。
一方、投影された思考は自己分析を欠くが故に、僅かな情報によって大きく騒めく。揺れる疑心を静止させるためにとる構えは、傲慢と卑屈である。他の収容者がいるところでは、獄司に対して傲岸不遜な態度をとる。それによって、収容仲間のなかでの彼のアイデンティティーは安定し、あえて獄司の反発を引き起こすことによって、彼の投影された思考は強化される。ところが、仲間の視線を失って、ひとりで中国人獄司に対面すると、しばしば卑屈になる。「こんな場面で逆らっても無意味だ」という打算的弁明が、彼の卑屈を保証する。
強者である収容所管理者は、傲慢と卑屈に大きく揺れる不安の感情を操作していくものだが、当時の中国共産党の理想主義はそのような操作的構えを採らなかったようだ。管理者たちは、軍歌を高唱し集団で不安を打ち消そうとしている戦犯たちの心身症を丹念に治療しながら、不遜でなくとも生きられることに気付くまで、じっと待ち続けた。
撫順戦犯管理所で1950年7月から9年間にわたって、看護にあたった趙 英・婦長は「改造中の医療看護」と題する文章(註にある『覚醒』のなかの1論文)において、戦犯たちが精神的緊張のためいかにしばしば頭痛・不眠・高血圧になったかを述べている。撫順戦犯管理所に移送された50年7月下旬から8月初めの身体検査では、高血圧が5割を越えていたという。
なお、中国政府は日本人戦犯の思想改造を行った上で、戦争犯罪について判決を出したいと考えていたが、それをいかにして行うか、計画があったわけではないようだ。ただし、日本人戦犯の処遇に直接あたった周恩来の理想主義が色濃く出ている。
撫順管理所の孫明斉所長、金源副所長、曲初副所長らが「覚醒」のなかの論文で述べており、またハルピンで金源さん(後に所長)に直接話をうかがったところによれば、周恩来は東北人民政府の公安部に対し、「外部に対して厳重に警備し、戦犯たちの安全を確保する。1人の逃走者も、1人の死亡者も出さず、内部は穏やかにし、殴ったり、人格を侮蔑したりしない。彼らの民族的な風俗、習慣を尊重し、思想面から彼らの教育と改造を行う」とまず指示したという。その指示にもとづき、管理所は米飯をたき、将官、佐官、それ以下の級に分けて上、中、下の3級の副食を作った。獄司は幹部も兵隊も皆、コウリャン飯と白菜のスープを食べていたのにもかかわらず、である。この間の事情については、中国から帰った戦犯たちが著した多くの出版物に詳しく出ている。
註―『私たちは中国で何をしたか』(中国帰還者連絡会編、1987年)、『中国から帰った戦犯』(島村三郎、日中出版、1975年)、『ある憲兵の記録』(朝日新聞山形支局編、朝日新聞社、1991年)『菊と日本刀』(鵜野晋太郎、谷沢書房、1985年)、『あるB・C級戦犯の戦後史』(富永正三、水曜社、1986年)、『白狼の爪跡』(永富博道、新風書房、1995年)などが書かれている。中国側からは、『覚醒-日本戦犯改造の記録』(中国帰還者連絡会訳編、新風書房、1995年)、写真集『覚醒』( 衆出版社、長城<香港>文化出版公司、1991年)が出版されている。
当初、戦犯管理所は上記の指示を守ることに精一杯であった。多くの議員は日本軍に苦しめられており、親族を虐殺された者もいた。所長、副所長による、看守、医師、看護婦、炊事職員などの教育から、戦犯の受け入れは始まったのであった。1950年7月の収容から判決の下りる56年8月まで、撫順戦犯管理所の6年間を区切ると、5期に分けることができる。もちろん、年齢、階級、職務、病気などによって個人差がある。
第I期(50年7月から2年春まで)
ショックと虚勢反抗の時期であり、戦犯という境遇を受け入れずにいた。管理所側も事故が起こらないように身構え、余裕に乏しかった。中国国家が落着き、人民の復讐感情がおさまるまで、時間が必要であると考えていた。この間、朝鮮戦争が悪化し、ハルピンや呼蘭の監獄に移送され、51年3月末に少尉以下669名が撫順管理所へ戻っている。中尉以上と病人はハルピン監獄に残ったままであった。52年春には、周恩来総理より罪行反省の教育が指示されている。
第II期(52年より53年末まで)
学者と学習の時期、日本人囚人たちは戦犯という立場を受け入れがたく思いながら、音楽班を作ったり、中国の新聞や日本文献の学習を始めたり、軽作業(瓦生産や紙箱作り)に加わっている。53年9月より、レーニンの『帝国主義論』、野呂栄太郎(
野呂 榮太郎(のろ えいたろう(北海道出身)、1900年(明治33年)4月30日[1] - 1934年(昭和9年)2月19日[1])は、日本の在野のマルクス経済学者で、戦前の非合法政党時代の日本共産党の理論的指導者の一人であるとともに、幹部(委員長)として党を指導するなど、実践活動にも関わった・・・33年11月28日、スパイの手引きで検挙され、1934年(昭和9年)2月19日に、品川警察署での拷問により病状が悪化し、北品川病院に移された後絶命した。 また、塩沢富美子(内縁の妻)はその後妊娠中逮捕され、釈放後に野呂の女児を出産するも、女児は夭逝した) Noro Eitarō (japanisch 野呂 榮太郎; geboren 30. April 1900 in Hokkaidō; gestorben 19. Februar 1934)war ein japanischer Marxist und bedeutender Theoretiker der Kommunistischen Partei Japans)の『日本資本主義発達史』などの学習が始まり、また国際法の解説も行われている。53年10月23日、ハルピン監獄に残留していた210名も撫順に戻った。
第III期(54年)
坦白(タンパン)と認罪、第 II期の終わりごろより、戦時における非人道行為の告白(中国語で坦白という)が始まっていた。54年3月より、最高人民検察院の東北検察団により個人調査が行われるようになった。中国側は、尉官以下の戦犯に対して、自白を整理し証言を集め、高級軍官、憲兵、特務、警察に対して、専門の取り調べグループを作り、調査と自白の整理を並行させていった。この時点で、重要な戦争犯罪計画者とその遂行者との区別が行われたものと考えられる。戦犯管理所は、囚人たちに軍と軍の戦闘以外のすべての残虐行為について想い起こすことを求めると共に、なぜこのような侵略戦争を行ったか、小グループで学習することを求めている。
第IV期(55年初から56年2月まで)
罪の自覚と再出発への希望。54年10月末、日本を訪れた中国紅十字<李徳全団長、廖永志副団長)は日本人戦犯の名簿を発表。翌55年2月、健在を知った家族から手紙がくるようになる。囚人たちの犯罪告白も終り、56年1月からは、自主的に残虐行為を創作や演劇にする活動が始まった。この頃には、中国政府(北京)は判決への方針を決めていたと思われる。
金源副所長によると、重大な戦争犯罪を行った佐官級以上の戦犯70名について、東北検察団と撫順戦犯管理所側は最高人民検察院と最高法院に対して、極刑に処するよう要請した。55年末、彼らが北京に報告にいったとき、中南海(中国政府と中国共産党中央の所在地、故宮の西隣)において周恩来総理は次のように言ったという。

「日本戦犯の処理については、1人の処刑もあってはならず、また1人の無期徒刑者も出してはならない。有期刑者もできるだけ少数にすべきである。起訴状は基本罪行をはっきり書かなければならない。罪行が確実でないと起訴できない。普通の罪の者は不起訴とする。これは中央からの決定である」
東北検察団と撫順管理所の責任者は撫順に帰り、指示を伝えた。だが、戦犯たちの罪状を知る両組織の幹部は納得せず、そのため東北検察団の責任者が再度、組織の考えを説明に上京した。この時も、周恩来は、
「部下が受け入れないのではなく、君たちが受け入れないのだろう。君たちが納得すれば、部下はおのずから受け入れるようになるだろう。日本戦犯に対する寛大な処理については、20年後に、君たちも中央の正しさを理解するようになるであろう」と答えたという。
第V期(56年3月から8月まで)
判決期、公判の前に、中国政府は革命後の中国社会を戦犯たちに参観させる計画をたてた。3グループにわけ、第1回は2月末より、近くの撫順炭鉱や鞍山製鉄所、第2回は4月中旬より、瀋陽、長春、ハルピン、さらに天津、北京、南京、上海、杭州、武漢などを、1ヶ月かけて団体旅行させている。歴史に例をみない、未決戦犯の社会復帰に向けての修学旅行であった。
6月には、中華人民代表大会常務委員会において、日本戦犯に対する「寛大処理」が決定された。裁判は6月から8月まで開かれ、先にも述べたように45名が有罪となり、1017名は起訴免除で釈放、帰国となった。8年から20年の刑を受けた者は、捕虜あるいは戦犯となって以降の年月を刑期と認められ、64年4月9日までに全員帰国した。
罪を意識するための時間
撫順戦犯管理所の概略を説明したので、小島隆男さんの管理所体験に戻ろう。収容された当初、小島さんも集団の力を頼み、看守を罵り、大声をあげ、『同期の桜』のような戦前の流行歌を高唱してすごした。
「1年間は、まるで無頼の徒ですよ。ソ連はもってのほかだ。日本へ帰さないで、中国へ送った。一方、中国ももってのほかだ。我々を戦犯あつかいとは。なにが戦犯だ。戦犯なんてのは、戦争を組織したお偉いさんを指して言うべきだろう。我々は天皇の命令どおり、天皇のため、国のため、親のため、もちろん自分の出世のためもありますけど、それでやったんだ。何の処罰される理由があるか。即刻帰せ。これが、我々の主張でした」
小島さんたち尉官以下の囚人は、5人から15人が1室に入れられていた。隣の部屋の声もよく聞こえる。廊下を行き来する看守に対し、共同で騒ぐことは容易だった。家を焼かれ、家族を殺されて革命軍に入った中国青年が、どれほどの怒りと侮蔑を抑えて勤務しているか、想像することもできなかった。
「農民を突き殺した、首を斬った、拷問したということが犯罪だとは、まったく思っていませんよ。何でもない捕虜を殺した、これが国際法に反するとか、戦犯として処刑される原因だとは思いもよりません。殺しても罪の意識はまったくありませんでした。しかし、いいことじゃないという意識はもっているわけです。軍隊で他国である中国へ行って、中国人を捕まえて、お前はいい中国人だ、お前は悪い中国人だと、我々の意思で勝手に色分けし、悪いのは殺したり殴ったりしているんですから、いいことではない、悪いこともやったなという考えは大半の人にあったと思います。しかし、それが罪になるということになると、また別です。罪というのは、社会常識上許されない罪、人を殺すなんていうことは、小さくたって罪は罪ですよ。しかしながら、当時我々が受けた教育からいえば、戦争なんだから」
なんと「しかし」の多い弁明だろう。それが敗戦後5年の時点での小島さんたちの論理だった。このように集団で虚勢を張っていても、内心はびくびくしていた。煙突を建てているのを見ると、あの煙突は自分たちを焼き殺すために作っているのではないかと想うのだった。いかに弁明しようと、自分たちの心性に照らし合わせると、捕まれば報復される。小島さんは、中国人を殺したとは、いかなることがあっても自白しないと決めていた。
「なぜかというと、小島隊の誰かを俺が殺したという中国人が捕まれば、私はその中国人を目の前で、言った途端に軍刀で叩き斬るか、拳銃で撃ち殺すかしましたよ。自分の部下の敵討ちです。恨みを晴らしました。同じように、私が中国人を殺したと言えば、たちどころに私は絞首刑になると思いました。自分ではやったと言わないと決めていました。私が抱いていた一番の恐怖は、それでも責任罰で処刑されるかもしれないということでした。私は中隊長でしたから、作戦中に捕虜ができますと、面倒だから、荷厄介ですから、必ず皆殺して処分してました」
管理所側からみると、小島さんはいわゆる頑固分子だった。硬い弁明の鎧をまとって蹲まる囚人たちに、中国側がとった方針は2つだった。ひとつは、日本軍が行ったことを知らせること。個々の兵隊は自分が関与した戦場しか知らない。また、自分が行った悪事を今すぐ直視することは苦しい。中国各地で何が行われ、今も戦禍がどれほど続いているか、外側から知らせる方法をとった。他のひとつは、十分な世話だった。2つとも、撫順戦犯管理所に配属された革命軍兵士たちが解放軍で学び、解放軍で受けてきた人間関係だった。さらに2つの方針を支えていたのは、「時間」である。ゆっくりと時間が熟すまで待つこと、促しながら待つことによって、戦犯たちの態度受容に備えさせようとしていた。
「中国の新聞を見ると、抗日戦争のとき、日本軍はこういうことをやったと、被害者がしばしば告発しているんです。ある婦人は、上海で街を歩いていると日本軍に捕まり、慰安所に連れていかれて、腕に焼き鏝を当てられ、慰安婦にさせられた。その鏝の跡のある腕を出して示す写真が載っている。ある街では、工場を建てるために敷地を掘ったら、多数の人骨が出てきた。これは日本軍に殺された我々同胞の遺骨だ、そういう写真が載っているのです。そうすると、我々がやったことはいいことではなかったということが、だんだん分かってくるんです」
自分の行為はさておいて、ようやく犠牲者とその家族、同胞がいたこと、今もいることに小島さんは気付かされている。これまでの「叩き斬る」といった虚勢の言葉や、「処分する」といった物あつかいの軍隊用語から、ぼんやりと悲しむ人々の群像が現われてくるのだった。他方、自分たちの取り扱いはどうもおかしい、自分たちの考えていることとは全く違う、と訝る場面に何度となく出会った。
ソ連から中国に移送されて5年ぶりに米の飯が、しかも十分に食べられるようになった。副食も3,4品つく。ある日、小島さんは食事が余ってしまった。腹がへったときに食べようと思って、ご飯を隠した。それを看守が見ていて、
「小島、お前、何を隠した。どうするんだ」と問う。「腹がへったら食べようと思って、取っておいた」「だめだ、冷えたものを食べたら体に悪い。足らなければいくらでも持ってきてやる」そういって、若い看守はご飯を取りあげた。
小島さんたちは、口から出まかせに言っているにちがいない、試してみようと、早速次に「飯が足りない」と言うと、ご飯を炊いて持ってきた。たった1杯のために、温かいご飯を炊いてきた。ある夜は、饅頭を持ってきた。「町に行って、饅頭を買ってきた。炊事の勤務員が帰ってしまって、飯が炊けない。今晩はこれで我慢してくれ。明日飯を持ってくる」(実は、戦犯のための食物と知られると、誰も売ってくれない情況での買物だったが、収容されている男たちは何も知らなかった。)
どうもおかしい。小島さんたちは、日本軍が中国人を留置した場合と対比せざるを得なくなっていた。「僕らがやったことは、水浸しになっている残飯をお椀でしゃくってきて、放って置いた。大小便は垂れ流し。拷問を加え、用が終れば憲兵隊に引き渡し、憲兵に渡された以上、必ず処分されたでしょうね」
あるいは、夜中に当直の医者がひとつひとつ扉を開けて部屋を見て回ってくる。何か違う。看護婦は「もうたまらない。戦犯を世話するために看護婦になったのではない。あの傲慢な態度。私たちの親や兄弟を殺した、こんな戦犯をなぜ面倒みなければならな。殺せばいい」と憤る。ところが婦長は、時間をかけて説得している。
「確かに、彼らは戦争犯罪者だ。でも、今は生まれ変わろうと努力している。それを援助するのは重要な仕事ではないだろうかと」と。どうもおかしい。中国人は本気なのかもしれない、「日本人は必ず帰す」というのは。小島隆男さんたちの疑惑は、戦犯管理所の高い壁のなかで少しずつ揺らいでいった。

第5章 坦白、認罪
撫順戦犯管理所に収容された日本人兵士は、中国側がここまで世話してくれるのだから、いつまでも戦前の流行歌を斉唱したり、看守に反抗していて騒いでいるのは、申しわけないという気持になってきた。
孫明斎や金源所長は、再三、「すべての戦争犯罪を自白し、侵略者としての思想を掘り下げ、新生の道を歩むように」と述べた。このメッセージは戦犯たちにとって、希望であると共に誰でもあった。「新生」とは何なのか?処罰しない、帰国させる、と約束しているわけではない。
また自白できることと、決して自白できないことがある。1人ひとりの脳裏を、自白できない罪行が掠めていった。いかに上官の命令と弁明しても逃れられない、自分の意思による罪行も浮かんでくる。強姦を上官の命令とは言えない。処罰されることは極めて稀だったが、一応、強姦は犯罪とされていた。そのため兵士たちは強姦の後で女を殺したのである。
第59師団第111大隊の下士官であった新井正代は、次のような罪行を書き残している(『私たちは中国でなにをしたか』中国帰還者連絡会議)。
「私は2日前から18歳ぐらいの中国の娘を連行させていた。自分の慰みものにしていたのだが、いずれは何とか処置しなければならぬことは分っていた。このまま殺してはつまらない。私は一つ考えを思いつき、それを実行した。私は娘を裸にして強姦し、その後、包丁で刺し殺し、手早く肉を全部切りとった。それを動物の肉のように見せかけて盛り上げ、指揮班を通じて全員に配給したのである。兵隊たちは人間の肉とも知らずに、久しぶりの肉の配給を喜び、携行していた油で各小隊ごとに、揚げたり焼いたりして食べた」
信じがたい残虐。こんな犯罪は戦友にも言えない。まして、勝者である中国人に言えない。兵士たちだけでなく、上級職の者にも、国家の責任、上司の責任、部下の責任と言ってすまされない殺人があった。満州国警務局特務処調査課長、満州における中国人弾圧の総括者であった島村三郎は、何千という中国人を拉致拷問し、数百の人々を死に追いやっておきながら、さらに「人に言えない殺人」があった(『中国から帰った戦犯』島村三郎)。
彼は満州北部・肇州県の副県鳥のとき、馬泥棒の1人が自分の犯行を自慢していたという話を聞き、「頭にきて」、すでに法院(司法機関)に送っていた者も含めて5人の馬泥棒(彼らは伝聞で自慢していたと聞いた男とは無関係)を斬り殺していた。京大経済学部を卒業し、満州国の内務官僚となった島村にとって、ビジネスとしての虐殺や処刑の命令ではなく、送検した者を奪い返してまでの斬首、すなわち、傀儡政府の法を破ってまでの激情による処刑は、官僚として「人に言えない殺人」であった。このように戦犯はそれぞれに、自尊心との距離によって測られる残虐行為があった。自尊心に遠い殺人は、場合によって告白できても、自尊心に近い殺人は「死んでも言えない」犯罪であった。その遠近は、自尊心の質とそれぞれに倫理観、社会観によって違っている。

ただし、罪の告白を求められてすぐ、上記のような犯罪を具体的に思い出したわけではなかった。後日、すべての罪行を思い出そうと努め、順々に手繰り寄せた記憶である。彼らが中国に来てから犯した行為は、全体としてひとつの固まりになっていた。漠然とした良くないことの固まりのなかに、「そこまで自白して、許してくれるはずのない殺人」が含まれていたのである。その露顕を予期して、恐怖するのだった。
小島隆男・元中尉も、尉官級以下の戦犯を担当した呉浩然・指導員から、「真理は必ず勝つ。侵略戦争の罪行はいかに隠しても、いつか現われる。今、お前は知らぬ顔をしていても、自分の口からやったことを告白する時期が必ず来る」といわれた。
帰れるかもしれない。帰りたい。しかし自分は中隊長、部下が何を言うかわからない。小島さんは「自分が殺したとは絶対言わない」と決めたまま、とりあえず告白書めいたものを書いて出すことにした。何月何日、何名を率いて何処へ行き、八路軍何名と戦闘した。敵の遺棄死体何名、戦果は小銃何丁、機関銃何丁。わが方の損害は・・・、といったことを、3つ、4つ書き出したのである。まるで戦闘報告書のようだ。
書類を出すとすぐ、呉浩然指導員に呼ばれた。談話室に入っていくと、「小島、お前は帝国主義思想だ」それで終り。他に何も説明はなく、班長を呼んで房にもどされた。こうなると、不安でたまらなくなる。帝国主義思想だと言われた。もう帰れない、いつ絞首刑になるのだろう、いつ銃殺されるのだろう。
「すぐにもやられるような気もしますし、もう夜が眠られないのです。2日、3日と眠られない。軍隊のなかでどんなに苦しいときでも、殴られてもごまかしながら生き抜いたのも、帰りたい一心です。ソ連で5年間耐えられたのも、日本へ帰る望みがあったから。よく坦白(中国語で罪行の告白)する者は日本へ帰す、頑強に抵抗するものは処罰する、と言っている。これはもうなんとか帰させてもらわなきゃと気を取り直して、また書くわけです」
報告書を出すと、すぐ呼ばれる。「お前は帝国主義思想だ」呉浩然指導員の答えはそれだけ。何が帝国主義思想なのか、いかなる説明もなかった。小島さんはますます滅入ってしまうのだった。

管理所員の葛藤
他方、「思想改造」の工作に当たっていた呉浩然はどんな思いでいたのだろうか。撫順管理所で日本人戦犯を担当したほとんどの指導員は、日本語のできる朝鮮族だった。呉浩然も吉林省敦化出身の朝鮮族。小学生のとき、日本語を学習させられている。日本軍が敗れた45年の年末、革命軍に参加している。思想改造の責任者として、仕事の意義は理解していたが、感情は複雑であった。彼は「覚醒」に書いている。
「戦犯たちの様々な評論と快気 に対して、私たち工作員は誰もが大いに立腹していた。多くの工作員は、偽満州国当時、日本侵略から迫害され虐待を受けたし、何人かの同志は家族や肉親を殺害されていた。私の父と叔父は日本植民地下の監獄の中で、ひどい虐待を受けて獄死した。
看守員の王興はもっと酷い目に会っている。彼の家は熱河省承徳の万里の長城の側で、抗日遊撃地域にあった。日本軍の第一次大掃討作戦中、彼の家族8人のうち7人が殺され、僅かに彼1人だけが血の海から生き延びることができた。王興は伯父の家で成長した後、中国人民解放軍に参加して小隊長になった。
1950年7月、組織は彼を撫順戦犯管理所の工作員に転属させた。彼はそのことを非常に喜んだ。ここで工作したら、昔のあの残虐な日本侵略者を処罰でき、国家と家族の仇が討てる。彼は管理所に来て日本戦犯が頑固で管理教育を受けようとせず、気勢を上げて管理教育の工作員を侮辱したり、罵倒する様子を見て、腹を立て、思う存分殴りつけてやろうと思った。しかし、当時上級機関から、収監中の戦犯を「殴ったり罵ってはいけない」「人格を尊重せよ」と厳重に指示されていた。王興は日本軍の大掃討のとき、全村火の海にされ、家族全員が突き刺され命を奪われた情景を思い出し、どうしても納得できないで、ベッドに伏して布団をかぶり泣き悶えた」
呉浩然はあえて王興看守について語っているが、それは幹部として怒りを表出できない自分の思いを託したものであろう。布団をかぶって泣いていたのは、呉浩然指導員その人であったかもしれない。王興看守だけでなく、家族が強姦され殺されるのを、物陰に隠れて見守っていた少年少女が何人かいた。成長して解放軍に入り、撫順管理所に配属され、そこで忘れもしない殺害者その男に会った者もいたのである。


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