日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

戦争と罪責・野田正彰/전쟁과 죄책/战争与责任/Guerre et blâme・Masaaki Noda/전쟁범죄(戰爭犯罪, 영어: war crime)/①

전쟁과 죄책戦争と罪責 중국에서 잔학 행위를 한 구 군인에 대한 철저한 청취를 통해 해명하는 우리의 마음 속에 억압의 문제. 战争与责任 在我们心目中的压迫问题,我们通过对在中国犯下暴行的老兵进行透彻的听证来阐明。Guerre et blâme戦争と罪責 La question de l'oppression dans nos esprits, que nous élucidons à travers une audition approfondie de vieux soldats qui ont commis des atrocités en Chine.

序章 罪の意識を抑圧してきた文化
亢進と衝動の時代
人々が小さな集団のなかで生活し、自然と共生して日々を送っているところでは、気分の流れは穏やかである。病気になったり、かけがえのない人を喪ったとき、私たちは反応性の悲哀に落ち込む。暖かい炎を前に親しい人々とすごすとき、感情状態は反応性に爽快となる。その時々の出来事に反応して一時的に悲哀や爽快が挟み込まれたとしても、日々の気分はゆったりと流れて止まない。
しかし国家が人々の生活を大きく左右し始めると、時代もまた反応性の気分をもつようになる。私たちは時代の気分に動かされ、生命のもつゆるやかな気分を見失う。
私が時代の気分を強く意識するようになったのは、1980年代になってからである。
80年代、日本の社会は物質的に豊かになり、敗戦と復興の緊張から抜け出し、過去の全面肯定に向いつつあった。85年春のある夜、私は地下鉄の階段から上がってきて、「日の丸」の旗と提灯を持つ人々の波のなかに投げだされた。灯火を落とした銀座の通りを、人々の旗や提灯が埋めつくし、何千人、何万人もの人々の流れが京橋から日本橋に向っていた。「昭和60年」のパレード。全国から集まった老人、なかには若い人、中年も混る人々のうねりは、「戦争もあった、敗戦後の混乱と貧困もあった。それでも総て昭和の御世は良かった」と騒めきながら、私を押し流していった。
私はその夜のことを、正確に思い出せない。自分がいつの時代に投げ込まれているのか、分からなかったからだ。少年のころ、国民体育大会か、植樹祭のパレードを見ている自分に還っていたのだろうか。それとも、暗い映画館でもったいぶったアナウンサーの声が流れる戦前のニュース映画を見ていたのだろうか。「日の丸」の赤も、提灯の明りも、熱を持たない鬼火のように脳裏に揺れていた。このように、知覚される映像は遠くにあったが、時代の気分ははっきりと感じ取られた。
時代の気分は、薄く浅い「幸せ」に色づいて流れていた。より正確に言えば「多幸症」である。内容の乏しい、空虚な爽快。現実を見るよりは、総ては「うまくいっている」と前もって受け止める構え。その裏には、自発的な減弱と衝動性の亢進があった。
人々は落ち着きなく動き回り、バブル経済で浮かれ、いつもいつも、何をしたのか、何が起こったのか、検証することなく、幻の幸せに向かって笑ってきた。政治の空洞化、金融の破綻、官僚制の肥大、アジア諸国の開発独裁への加担、目的なき情報化、子供たちの閉塞感・・・それぞれに衝動的に反応し、顔を顰め痙攣的に涙を流すことはあっても、深い悲しみはない。

「明るく前向きに生きれば、脳内モルヒネが分泌されて、すべてが可能になるIf you live a bright and positive life, morphine will be secreted in your brain and everything will become possible」といった、まさしく多幸症の本が続々と読まれている。日本の近現代とは、モルヒネ中毒への道だっただろうか。今日の「多幸の時代」の以前には、「焦燥の時代」があった。近代化を急ぎ、富国強兵に向かって攻撃性を最大限に活用しようとした社会は、基本的に不機嫌であった。人々の気分は変調しやすく、権威的で、攻撃する対象を求めて常に易刺激的であった。地位、役割、身分、性などに応じて優越感と劣等感を併せ持ち、誰に対してへりくだり、誰に対して威圧的になるか、誰に対して寛大になるか、身構えていた。優越感と劣等感、卑下と威嚇の混合は、家族、友人、近隣の関係から始まって、アジアの人々との関係にまでおよんだ。他者と対等な関係を持ち得ない人は、たえまのない精神的緊張を美徳と誤解していた。いかに激しい焦燥にかられて行動するか、それが戦前の社会の主調気分だった。焦燥の時代から多幸の時代へ、なぜ時代の気分は転換したのか。日本の社会は、この転換しか選ぶ余地がなかったのか。
何故ここまで感情は平板化し、愉快であることに強迫的になってしまったのか。喜怒哀楽の感情は、どれが好きか感情だけ取り出して大きくできるというものではない。十分に悲しめる者こそが、十分に喜ぶことができる。楽しい感情が湧いてくる前に、身体で笑う所作を覚えた人々の感情は豊かにならない。
Masaaki Noda 野田正彰(Noda Masaaki, 31. März 1944-) ist ein japanischer Psychiater , Kritiker und Sachbuchautor. Geboren in der Präfektur Kochi(高知県出身). Sein Hauptfach ist vergleichende Kulturpsychiatrie. Erforscht ein Gebiet, in dem sich Psychopathologie , Kulturanthropologie und Soziologie überschneiden.


Trauer um Trauer Von A. Michcharrich Von M. Micherrich Übersetzt von Shuichiro Hayashi Übersetzt von
Kenichi Baba Funebrata malĝojo De A. Michcharrich De M. Micherrich Tradukita de Shuichiro Hayashi
Tradukita de Kenichi Baba

私たちは何を悲しまなかったのか
私は1970年代の頃、アレクサンダー・ミッチャーリッヒ(
Alexander Harbord Mitscherlich (* 20. September 1908 in München; † 26. Juni 1982 in Frankfurt am Main) war ein deutscher Arzt, Psychoanalytiker, Hochschullehrer und Schriftsteller)と妻マーガレット(西ドイツの精神分析者)共著の『喪われた悲哀』(林峻一郎・馬場謙一訳、河出書房新社、原書は1967年)を読んだことがある。「集団行動の基礎」と副題をつけた著書で、彼らは「六百万人もの人間を、自分の攻撃的な欲求という理由からのみ殺したと自覚し、何の支えも見失ってしまった共同体が、いったいどんなことをしたらよいのだろうか?そこには、おそらく、その動機をさらに広範に否認することか、さもなければ、鬱病へ退却してしまうこと以外に道はないように見える」と問いかけ、もちろんメランコリーにならなかったドイツの「政治的社会的不毛は、過去の否認から生まれたものである。責任を負わねばならない罪責―行動の罪であれ、また忍耐の罪であれーに対する共同的な防衛は、性格のなかに痕跡をのこさずにはいない」と言い、にもかかわらず「われわれが国家社会主義に同化したのとまったく同じ根本的立場で、今度は、わが連邦共和国の商業を営んでいる」と指摘していた。
つまり、十分悲しまなかったドイツは、過去を抹殺して、経済復興に向かって突き進んでいるというのである。それでは、何を悲しまなかったのか。ナチズムという理想の喪失か。六百万のユダヤ人の死か。ここでミッチャーリッヒの分析は曖昧になっている。
私は「喪われた悲哀」を読んだとき、「過去の否認は、社会に痕跡を残す」という当り前の主張に同意しただけであった。それから10年がたち、時代の気分がますます多幸症に向かって浅薄するにしたがい、私たちは何を悲しまなかったのか、もう一度、考えるようになった。
私は太平洋戦争の末期に生まれ、少年期を戦後民主主義の昂揚のなかで育ち、次第に戦後の理念が現実主義の高唱のもとに排除されていく時代に、青年期を送り、高度経済成長の傍らで精神科医となり、知識人となった。時代に批判的であり続けようとしてきた私も中年をすぎ、自分の感情の貧しさをしばしば感じる。もっと豊かな想像力、他者への感情移入をどうして持ち得ないのか。なぜいつも出来事や知識を重視し、そこの生起する感情の流れや動機にもっと関心を持たないのか。自分の感情にしても、他者の感情にしても、感情を聴きとることは、物事の成就や帰結を知ることよりも、二次的であると思ってしまうのは何故か。生の充実は知識や意志にあるだけではなく、感情の流れにあるというのに。
それは個人的な問題であると同時に、集団の問題でもある。何故なら、文化は私たちを包み、どのように物事に処し、どのように感じればよいのか、暗黙のうちに指し示しているからである。この国の多くの中高年層の感情は強張り、他者との開かれた交流能力を欠いている。大企業の管理職、官僚、学者、ジャーナリスト、いわゆるエリートたちは、決して精神の豊かな人々ではない。共感力や想像力において、あまりにも貧しい人々が多い。同じく、この社会にひたすら適応してきた庶民一人一人。そして彼らの子供である青年層は、さらに感情が稀薄化し、人と人との交流や情報をせいぜい身体の遣り取りとしか考えられなくなっている。
私たちは事実を知ろうとせず、知る前に「我々も戦争の犠牲者だ」、「侵略戦争ではなく、生存のための戦争だった」、「自虐史観は認められない」などと強弁し、過去を否認することによって、何を失ってきたのか。否認された体験はコンプレックスを作り、抑圧された心の傷痕は感情の硬直と病める衝動の爆発をもたらす。はたして私たちは、あの侵略戦争と違う精神に生きているのだろうか。過去を否認することによって、何を接ぎ木にしてきたのだろうか。
確かに戦争は半世紀も昔の出来事となり、核兵器廃絶を願う平和運動はある。だが個人を尊重せず、集団に過剰適応しつつ競争心を抱き、上下の関係にこだわる文化はそのままだ。学歴社会があり、有名校があり、帰属組織の優劣があり、会社での肩書への執心があり、そのような価値観を疑う者を不安にさせる圧力がある。他方には学校でのいじめ、職場でのいじめがあり、私生活を貧しくする会社主義がある。残業や付きあいによって人間性を奪い、業績や昇進へと駆りたてる文化は変わらない。
その内務班で初年兵いじめ、中国人を刺殺することによって戦争の鬼に鍛え、軍隊での出世に突き動かされて、非抑圧者の苦しみに無感覚だった侵略戦争時(1931年の満州事変から終戦までの十五年戦争期)の日本人の精神と、どれだけ違っているといえるだろうか。人々を幼少時から競わせ、羨望と屈辱の関門で攻撃心を高めさせ、それを組織された力に変えるメカニズムは同じではないか。
1945年8月15日の敗戦によって、生き残った日本人は「八紘一宇」(
팔굉일우(八紘一宇, 일본어: 八紘一宇(はっこういちう) 핫코이치우)는 일본의 천황제 파시즘의 핵심 사상으로, 태평양 전쟁 시기에 접어든 일본 제국이 세계 정복을 위한 제국주의 침략 전쟁을 합리화하기 위해 내세운 구호로, "전 세계가 하나의 집"이라는 뜻을 갖고 있다. 다시말해 "세계만방이 모두 천황의 지배 하에 있다"는 이념이다. 이것은 황국사관의 근본사상이다)「王道楽土」(皇家音乐是1932年 满洲国成立的哲学)といったうわずった理想を失い、また「満蒙生命線」(1931年、松岡洋右代議士(近衛内閣外相=A級戦犯容疑者・46年、裁判中に結核の悪化で死亡=松冈洋右(1880年3月4日-1946年6月27日),日本外交官、政治家。处理过日本退出国际联盟,签定日德意三国联盟,日苏中立条约等第二次世界大战(太平洋战争)全面爆发前日本外交的多次重要事件。日本投降後,在同盟國召開的東京軍事法庭审判中病逝)の衆議院発言)といった正当化が不可能になった。敗戦直後のショック、感情麻痺、それに続く混乱がおさまった後、日本人の反応には二つの型があったと言えよう。
第一の反応は「無罰化」である。戦争の加担者も被害者もひっくるめて無罰化し、勝っても敗けても戦争は悲惨なものだからと捉え、平和を唱える動きがあった。この反応は平和運動として表現された。その平和運動にも二つの流れがあり、「一般的無罰化」の心理から絶対平和を主張するグループと、自分たちを無罰化した上で、なおも反戦勢力(社会主義圏)と好戦勢力(アメリカ)を分けて考えるべきだと主張するイデオロギー的無罰化のグループがいた。いずれにせよ、自分たちが何を行い、何を失ったのか、直視しようとしないことにおいては同じであった。
第二の反応は、「置き換え」による物質主義である。戦争による心の傷を唯物的な価値観によって覆い隠し、物量によってアメリカに負けたのだから、経済復興、工業の再建、アメリカの経済力へ追いつき追いこすことによって立ち直れると身構えたのである。そこには自らの精神の退廃も、中国文明への敗北も認めない頑さを隠していた。また、戦争中の極端な精神主義への反動形成としての物質主義、経済主義がそこにはあった。それは富国強兵の軍国主義イデオロギーを、経済成長中心の資本主義イデオロギーに移行させたにすぎず、物の豊かさがすべてだと思い込もうとしたのであった。
これは朝鮮特需(
朝鮮特需조선 특수 (조선과くじゅ)은 한국 전쟁 에 따라 재 조선 미군, 주일 미군 에서 일본 에 주문 된 물품이나 서비스를 말한다. 또한 재일 유엔군 과 외국 관계 기관에 의한 간접 특수이라는 분류도 존재한다. 한국 전쟁 발발 직후 인 8 월 25 일 에는 요코하마에 재일 병참 사령부 가 놓여져 주로 직접 조달 방식으로 대량의 물자가 매입되었다. 그 금액은 1950 년 부터 1952 년 까지 3 년간 특수로 10 억 달러, 1955 년 까지의 간접 특수로 36 억 달러로 불린다)、高度経済成長、土木・建設業を軸とする地方の補助金経済、東京集中、産業構造転換の過程でますます強化され、日本人の心性の本流になってしまっている。このように敗戦を物質的に過剰代償しようとする挽回の構えこそが、心の傷を否認する今日の日本の文化を作ってきたと思われる。
それでは、日本人に良心は無かったのか。罪の意識は皆無だったのか。周りの人々に知られることを恐れる恥の意識はあっても、他人はどうであれ自らが苦しむ罪の意識は無かったのだろうか。否、そんなことはないと思いたい。
例えば8年前、私は近江の農家で美しい老人に会った。川崎太二郎さんは老いて妻と二人、自分たちで食物のほとんどを作っていた。「百姓ほどいい生き方はない」と語る当時79歳の老人は、鶏舎に置かれた色あせた黒板に、米ヌカ10キロ、魚粉2・5キロ、カキガラ10キロ・・・、とメモした横に、歌を書き付けていた。
鶏頭の小さき花よ 上海の野に草つみしわらべ思はゆ なにするの ときけば あえかにほほゑみつ われを見あげて メシメシと言えり 肩につけし赤き布片をこれなにと 問えばひと言「女」とこたへたり 生きてあらば 歳五十か 孫だきて 戦のはなし かたりてやまぬ 赤という山茶花 君が着む 色にはあらじ よし下着にも
そして黒板の下の棚に、山茶花を一枝活けてあった。この歌は、老人が心の片隅に懐き続けてきた、戦争の加害者としての罪の意識の表出ではないのか。聞くと彼は、1931年から34年、上海事変の中国へ、次に40年から46年、太平洋戦争で南方に行かされ、ラバウルで終戦を迎えていた。
多数とは言えないが、いくらかの日本人が、彼らなりの罪の意識を持って生きてきたに違いない。だが彼らの想いは深められることも、十分に分析されることもなく、半世紀をへている。戦後の日本の反戦平和の運動は、基本的に被害者意識の上に組み立てられた。広島、長崎の半核平和運動においても、戦争体験を語り継ぐジャーナリズムの仕事においても、戦争は敵も味方も犠牲者にすると言って、せいぜい無罰化してしまった。
それでもなお、南京の虐殺を語り、満州(中国東北部)や南方での虐殺を告げ、憲兵や特務としての罪を告白し、あるいは敗走のなかで家族や同胞を置きざりにした罪を記した人はいる。しかし、彼らの声は戦後の無罰化の圧力に押し流されてしまった。
また、学徒動員された「わだつみ」の世代で生き残った者は、真に優れた人、美しい人は生きて帰らなかったという、生き残った者の罪の意識(「生き残り症候群」とよばれる)を持っていた。それらひとつひとつが聞きとられ、分析されたこともない。
いつしか私は、侵略戦争を直視せず、どのような戦争犯罪を重ねたかを検証せず、否認と忘却によって処理しようとする身構えが、いかに私たちの文化を貧しくしてきたか、考察してみたいと思うようになっていた。それも、罪の自覚と共に戦後を生きてきた少数者の精神を通して、多数者の影を浮き上がらせてみたいと考えたのである。

Ein Erbe namens Stille-Kinder des Dritten Reiches und Nachkriegsverantwortung (Japanisch) Buch - 1. März 1993 Dan Baruon  (Autor), Dan Bar On (Original), & 1 AndereA Heritage Named Silence-Children of the Third Reich and Post-War Responsibility (Japanese) Book – 1 Mar 1993
Anweisungen: Wie lebten die als Kinder der Hitler-Helfer geborenen und am jüdischen Vernichtungsplan Beteiligten in der deutschen Nachkriegsgesellschaft mit einem tabuisierten Blick auf die „Nationalsozialismus-Problematik“? Wie haben sie die Erfahrungen ihrer Eltern wahrgenommen? Ein israelischer Psychologe fragt nach den "Kindern des Dritten Reiches", die geschwiegen haben.
instructions: How did the people born as children of Hitler's aides and those involved in the Jewish extermination plan lived in postwar German society with a taboo view of the "Nazism problem"? How have they perceived their parents' experiences? An Israeli psychologist asks for the "children of the Third Reich" who have kept their silence.
自らの内面の顔
こうして私は、貴重な罪の意識を求めて、砂金洗いのような聞き取りを始めた。
そんな時、ユーラシア大陸の反対側、ドイツで、ナチの犯罪遂行者の子供たちを面接した『沈黙という名の遺産』(姫岡とし子訳、時事通信社、1993年)を読んだ。この本で、ドイツのハイデルベルグから父に連れられてイスラエルに亡命し、今は心理学者となったダン・バルオンは、第二次世界大戦の終結から40年をへて、ナチの子供たちが親の罪をどのように受け入れようとしたか、あるいは否認しているか、問うている。
1980年代の西ドイツは、ナチの犯罪について子供たちに教え、過去への反省こそが現在を築くのだと表明してきた。第三帝国を生み出したドイツ文化への深い反省の故に、ヨーロッパ諸国は、社会主義圏の解体後の東西ドイツの急激な統一を許容できた。もし、80年代の積極的な教育がなかったなら、ヨーロッパはドイツの統一に、より大きな不安を感じたであろう・
だが、その西ドイツでも70年代半ばまで、ナチについて十分に教えていなかった。ほとんどの学校は、両親の世代の過去について沈黙を強化する役割しか果たさず、歴史はビスマルク時代で停止していたのだった。
「沈黙の遺産」を尋ねてドイツへの旅を続ける心理学者に対し、親衛隊員を父にもつ中年の男女の多くは面接を拒み、少数がおずおずと名乗り出、初めて自分の精神史を語りだず。彼らの父は、中央政府、絶滅収容所や強制収容所、特殊作戦部隊、安楽死計画、ゲシュタポ、輸送システムなど、さまざまな部門で大量虐殺に関与していた。なかには保安警察長官ラインハルト・ハイドリヒ
(ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ(Reinhard Tristan Eugen Heydrich, 1904年3月7日 - 1942年6月4日)は、ドイツの政治家、軍人。最終階級は親衛隊大将(SS-Obergruppenführer)および警察大将(General der Polizei)・・・戦時中にはベーメン・メーレン保護領(チェコ)の統治にあたっていたが、大英帝国政府およびチェコスロバキア亡命政府が送りこんだチェコ人部隊により暗殺された(エンスラポイド作戦))の甥や、ナチ党官房長マルティン・ボルマン(マルティン・ルートヴィヒ・ボルマン(Martin Ludwig Bormann、1900年6月17日 - 1945年5月2日)は、ドイツの政治家・・・ヒトラーの政治的遺書によって党担当大臣として指名されたが、ベルリン陥落の混乱の中で消息を絶った。戦後長い間行方不明とされてきたが、総統地下壕脱出の際に青酸で服毒自殺していた事が近年証明された)の息子、あるいは陸軍元帥へルマン・ゲーリング(ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング(Hermann Wilhelm Göring、1893年1月12日 ‐ 1946年10月15日)は、ドイツの政治家、軍人。軍における最終階級は全ドイツ軍で最高位の国家元帥 (Reichsmarschall)・・・戦後のニュルンベルク裁判では最も主要な被告人としてヒトラーとナチ党を弁護し、検察と徹底対決して注目を集めた。死刑判決後に服毒自殺した)の娘と推測される人も含まれる。絶滅計画の遂行者でありながら、家庭と音楽を愛した父であったこと。父は本当に知っていたのだろうか。敗戦時、自殺する直前、自分をつれて歌を口ずさみながら散歩してくれたやさしい父。自分の血に残虐な遺伝子が残っているのではないかと、不安を隠し持って生きてきたこと。
例えばアウシュヴィッツで死の選別にたずさわった医師を父にもつ男は、彼の家族が当然進む知識階級層への道を拒否し、コックになる。彼は、「戦後の学校では何も教えなかったことはまずかった。ヒットラー、という単語は存在しなかった。私たちの世代は、自分自身で話を拾い集めなければならなかった。そのせいで、ある人はアウシュヴィッツを信じ、別の人は信じないということが起った」という。これら11人の沈黙の時代に生きた戦後世代の葛藤が、少しずつ語られていく。

そしてやっと、著者はかつてヒットラー・ユーゲントの一員であった男から、親衛隊員だった父がゲットーのユダヤ人を救おうとして救えず、精神錯乱になり、苦悶のなかから「キリストもユダヤ人だったんだよ。ユダヤ人を尊敬するように」言い続けた話を聞き、ほっとする。ドイツへの旅を重ねるにつれ、バルオンは第三帝国の子供たちと共に、ナチの後の第二世代としての人類への希望を探し始めている。終章は、著者の研究を討論する会議に、ためらいながら参加したナチの子供たちーすでに50歳をすぎているーが、自分たちの自我形成を語りあうための自助グループを作る動きで終っている。その後、バルオンは彼らをイスラエルに招待し、絶滅収容所で殺されたユダヤ人の子供たちと三泊四日の会合を持っている。
バルオンの研究は、私たちに戦後半世紀をへても、なお戦争の時代を生きた人間の人文科学的研究が可能なことを伝えている。残念ながら、アジアに生きる私たちは、加害者の子供として被害者およびその子供たちと深い理解に入る条件にない。中国などいくつかの国の人々は、政治的に発言が限定されている。だが、戦争にかかわった日本人の罪の意識を掘りおこし、その分析を精 に行うことによって、私たちは20世紀の意味をアジアの人々に伝えられる。今なお残された罪の意識こそは、私たちの貴重な文化であり、罪の意識を抑圧してきた日本文化のあり方を通して、私たちは自分の内面の顔を知ることができる。


战争罪是“武裝衝突時违反战争法或國際人道法的行为”包括“谋杀、虐待、或将被占领土上的平民居民驱逐至劳改营”,“谋杀或虐待战俘”,杀害人质、“肆意摧毁城镇和村庄,以及任何不具备正当军事或民事的破坏。”
전쟁범죄(戰爭犯罪, 영어: war crime)는 국제법에 따라 처벌할 수 있는 위법행위로서, 민간인, 군대, 정부 등 누구든지 전쟁법을 어기는 것을 말한다. 줄여서 전범이라고도 부른다.
A war crime is an act that constitutes a serious violation of the laws of war that gives rise to individual criminal responsibility Examples of war crimes include intentionally killing civilians or prisoners, torturing, destroying civilian property, taking hostages, performing a perfidy, raping, using child soldiers, pillaging, declaring that no quarter will be given, and seriously violating the principles of distinction, proportionality, and military necessity.
野田正彰(1944年3月31日- 野田正彰)是日本 精神病医生 , 评论家和 非小说 作家。 生于高知县 。 他的专业是比较文化精神病学。 研究精神病理学 , 文化人类学和社会学重叠的领域。

Españolスペイン語→El Escuadrón 731 fue un programa encubierto de investigación y desarrollo de armas biológicas del Ejército Imperial Japonés, que llevó a cabo letales experimentos médicos sobre humanos durante la segunda guerra sino-japonesa (1937-1945) en el marco de la Segunda Guerra Mundial. Fue responsable de algunos de los más horribles crímenes de guerra cometidos en la época moderna.
Latinaラテン語→九州大学生体解剖事件In MCMXLV, in Kyushu Universitatis biopsy resest, tum ab an American captivus de bello ante volutpat Lorem Advertising de Faculty of Medicine, Kyushu University Imperial. In Fukuoka urbe , Fucuoca Praefecturae. est Anatomiae habitabat in statu) esse potest. Licet non sit vox designativa esse Kyushu Caesareae Universitatis non involved in organizationem, non est negandum quod et medical schola et militum pars vniuersitatis ferre de conposito supplicium de B-genus belli criminibus iudicii, deinde testimoniis related partes. Quod etiam sustinetur ab eo quaestor infitias eat se recondunt, et a certa personarum adiunctis esse unethical agit. Quoque nota ut Aikawa incident
九州大学生体解剖事件(きゅうしゅうだいがくせいたいかいぼうじけん)は、1945年に福岡県福岡市の九州帝国大学(現九州大学)医学部の解剖実習室においてアメリカ軍捕虜に生体解剖(被験者が生存状態での解剖)が施術された事件。九州帝国大学が組織として関わったものではないとの主張もあるが、B級戦犯裁判ならびにその後の関係者の証言などから、同大学医学部と軍部の両方による計画的実行は否定できない事実である[1]。またそれは、関係者の反倫理的行為への意図的な隠蔽と否認という事実からも裏付けられる。相川事件ともいわれる。
第1章 第1章 集団への埋没
私は第1章のテーマを<医師と戦争>として、80歳になる湯浅謙医師の聞き取りから始めよう。
戦後の大学医学部は戦前と同じ区局講座制を強固に維持し、攻撃的な業績主義、極端な位階制、市中病院の支配を行ってきた。医師会に集まる医師は、健康保険制度のもと、医療とカネ儲けを最大関心事としてきた。このような医学と医療は、巨大な病院を建て、電子機械を操ることに成功したが病者の弱った心に寄り添うことはできなかった。それは何故だろうか。
戦後の日本の医学は、戦争時と直結している。なんらかの反省があったわけではない。例えば中国で細菌戦を展開し、人体実験を行った陸軍防疫給水部(731部隊)の関係者は、戦後、医学部の教授(京大、京都府立医大など)になり、公立病院の院長になり、あるいは行政の衛生部門に就職し、「ミドリ十字」のような血液製薬会社を作っていった。個々の人間を尊重しない伝統はエイズ・スキャンダルをおこした「ミドリ十字」(
The Japanese HIV-tainted blood scandal (薬害エイズ事件, yakugai eizu jiken), refers to an event in the 1980s when between one and two thousand haemophilia patients in Japan contracted HIV via tainted blood products. Controversy centered on the continued use of non-heat-treated blood products after the development of heat treatments that prevented the spread of infection. Some high-ranking officials in the Ministry of Health and Welfare, executives of the manufacturing company and a leading doctor in the field of haemophilia study were charged for involuntary manslaughter)の企業文化、そして厚生省、医学者の癒着に継承されている。
ただし、細菌戦部隊のみが医学による犯罪行為を行なったのではない。中国大陸で、軍医たちは中国人を生体解剖し、衛生兵の手術実習の材料にした。戦争末期医学部で行われたアメリカ人捕虜の生体解剖はよく知られているが、決してそれは稀な事件ではなかった。多くの軍医が手術演習、あるいは教育としてたずさわってきた「仕事」について、沈黙している。だが、湯浅さんは自分の行った罪を自覚し続けてきた人である。
湯浅謙さんは1916(大正5)年10月、開業医の息子として生れ、東京・京橋の越前掘に育っている。彼は9人兄弟の3番目、上に姉と兄がいた。小学校1年生のとき、関東大震災で家を焼失し、死ぬ思いをしている。父親の医院はしばらくバラック建てだったので、彼は祖母と千葉に2年半疎開した。この間、東京から来た子は「遊んでやらん」とよく苛められた。その後の戦争疎開児童と同じ目に遭っている。
戻ってきた東京の明正小学校で、4年、5年を担当してくれたのは、沖縄出身の努力家の先生だった。差別され苦学して教師となったこの先生から、「日本人は優秀な民族なんだ。支那を征服して東亜の盟主になるのだ」と盛んに言われたのを、よく覚えている。
1929(昭和4)年、東京市立1中(現、九段高校)に入学、中学校の隣りにあった靖国神社に、登校の時、下校の時、敬礼して通学した。前年(28年)には3・15事件(日本共産党大検挙)、入学時には4・16事件(同じく共産党員大検挙)があり、治安維持法下に社会が大きく軍国主義に傾いていくころである。31年に満州事変、翌32年は上海事変、そして5・15事件が起きている。ほどほどに軍事教練を受け、「肉弾三勇士」(上海事変のとき作られた偽りの美談)を信じ、「馬賊の歌」の「俺もゆくから君もゆけ、狭い日本に「住みあきた」という歌詞に酔い、「チャンコロは劣等民族だから、貧しいラーメン屋にしかなれない」と思い込む、普通の中学生だった。

1934(昭9)年、成績優秀だった湯浅青年は東京慈恵医院医学専門学校予科に合格。「真面目に勉強して、医者になれば、ひとに恥じない生活がしていける」と単純に思い、「自分が生きている時代、国家というものに、まるで自覚がなかった」(「消せない記憶」吉関那津子聞とり、日中出版)と語っている。友人のひとりに反戦活動で捕まり、第1高等学校を退学して医大に入ってきた林俊一(現、王子生協病院)がいた。彼から、「戦争が終わったら地主がなくなるよ」と聞かされたことがあったが、皆で「そうかなあ」と受け流すぐらいだった。
37年には盧溝橋事件がおき、冬には南京を攻略。もちろん、大虐殺のことなど、何も知らなかった。また、関心もなかった。
41年、医大を卒業し、駒込病院の内科医となり、伝染病棟に勤務した。いずれ戦地へ行けば、伝染病の知識が役立つと考えたからである。その年の10月、短期現役軍医を志願して、旭川の歩兵第28連隊に入隊した。6月の徴兵検査のとき、担当官に軍医志願を勧められていた。
2ヵ月の一般兵科の訓練を受け、同期の23人と共に軍医中尉になった。こうして軍医は作られたのである。人間には皇族から士族まで上位のクラスがあり、もともと違うのだと思っていた湯浅さんにとっては、医師が将校になるのは当り前のことだった。それでも出世したいという思いと、戦地に連れて行かれて死ぬのが近くなる、という思いが混りあった。湯浅さんは現実をそのまま受け入れ、真面目に取り組んでいく人である。現実から逃避する性向も、理念に走る傾向もない。記憶と経験のみを重視する医学教育のなかで育ち、批判力をまったく欠如した好青年であった。

入隊した年の12月8日、日本軍は真珠湾攻撃、太平洋戦争に突入。彼は、翌42年1月末、中国山西省太原の近く、潞安陸軍病院に赴任することになる。赴任途中、苦力(クーリー)を見て、中国人も「意外によく働くな」と思ったぐらいで、気の毒とも感じなかった。将校である自分と同じ一等車に乗っている中国人を、「なんだ、支那人のくせに」と思ったが、それを言動に表わす田舎者でもなかった。
太原は山西モンロー主義を唱え、地方軍閥中唯一の長命を保った閻錫山(1883-1960年)の居城である。37年10月、日華事変で太原は没落。閻錫山(Yan Xishan (wym. [i̯ɛ́n ɕíʂɛ̄n]; ur. 8 października 1883, zm. 22 lipca 1960) – polityk Republiki Chińskiej (Tajwan))の軍隊は日本軍とほとんど戦わず、力を温存。日本軍は西から入ってきた八路軍(中国共産党が組織する解放軍)に苦戦していた。
潞安陸軍病院は中佐の院長と8名の軍医がいた。湯浅さんはここで、伝染病棟付き、病理検査室付きの軍医として勤務することになった。伝染病院には排菌する結核患者のほか、腸チフス、パラチフス、赤痢、発疹チフス、回帰熱の患者を30人ほど収容していた。
着任して40日ほどがすぎた3月なかば、将校食堂で食べた後、雑役のおばさんを下げて、西村慶次中佐(病院長、岡山医専出身、外科医)が、「午後1時より手術演習を行う。全員、解剖室に集るように」と告げた。
湯浅さんは、「いよいよ来るものが来たな」と受け止めた。というのはすでに慈恵医大の学生のとき、軍医は生体解剖をやっていると聞いていたからである。その時は、恐いけれども、ちょっとやってみたいな、と思ったぐらいだった。
だが、直面すると抵抗は強かった。湯浅さんは、何でも仕事は進んでする。しかしこの時は、遅れて解剖室に向かった。すでに何度か、結核、赤痢、腸チフスで死亡した患者を解剖した部屋だったが、その日は足が重かった。病室の前の広場に人影はなかった。いつもは病室で働いている苦力がぶらぶらしているのに、見えない。普段と違う景色だ。解剖室の入口に、衛生兵が着剣して立唄していた。
10坪ほどのがらんとした解剖室には、潞安陸軍病院の軍医たちだけでなく、師団の軍医が集まっていた。師団の軍医部長・小竹大佐と西村病院長が談笑していた。2人に敬礼し、直接の上官である伝染病室主任の平野孝次中尉の横に並び、おもむろに部屋を見回した。
左の隅に、2人の農民が後手にしばられて立っていた。体格のよい男は、黙って立っている。もう1人、色の黒い小柄な年配の男は、「アイヤー、アイヤー」とおびえている。看護婦はメス、切断刀、骨を切る鋸などを、手術台の横のテーブルに並べていた。カチャカチャと音をたてながら、軍医と看護婦はあえて冗談を飛ばし、大声で笑っていた。「いつものこと、緊張することは何もない」と伝える。職業的演技である。
湯浅軍医は周りの将校を見ならって、平静を装った。それでも、隣りに立っていた平野中尉に聞いた。
「いったい、この人たちは、死ななければならないことをしたんですか」「パロ(八路軍)は殺すさ」「ああ、そうでしたね」湯浅軍医は軽く頷くのだった。
西村病院長は「さあ、始めようか」と合図した。衛生兵が突くと、がっしりとした男は悠々と歩いて、自らの台の上に横たわった。
湯浅さんは、「敵ながらあっぱれだ」と意外に思い、「ああ、日本軍の威光に屈したか」と納得していた。ところが、もう1人の貧相な男の方は、悲鳴をあげて前に出ない。銃剣を持った衛生兵が突き出そうとすればするほど、男は必死で後ずさる。やがて汚れた顔の男は、湯浅さんの前に立っていた。
手術演習
湯浅軍医は、これから生体解剖される人間が何を思っているのか、想像する知性を欠いていた。対象の2人は物でしかなかったが、それでも自ら手術台に上がった男の心理を「敵ながらあっぱれ、日本軍の威光に屈したか」と理解した。彼の貧しい人生経験を投映しただけだった。人はあっぱれとか、女々しい、の二つの構えぐらいで生きていると思っていた。侵略された中国人が殺されていく悔しさを、生きながら切り刻まれるという、人間として最も凄惨な死―彼が来世の存在を信じているのなら、それは死にきれない死、鬼になって迷うしかない死かもしれないーに対する恐れも、想像することはできなかった。
湯浅中尉にとって、その場での人間関係とは、同僚医師との相互関係でしかなかった。殺される中国人とは、人間としての関係を持てなかった。
もう1人の汚れた男は「アイヤー、アイヤー」と呻きながら、湯浅さんの方に後ずさりしてくるー
すでに80歳になる老医は、ここまで私に話したとき、歯をくいしばって涙を浮かべていた。「自分が情けなくってね」私はひとつの言葉が、これほども深い反省をへて、まったく別の意味で使われるのを、初めて聞いたように思う。
あの時の青年医師、湯浅さんも“情けないことはできない”と考えたのだった。
「みっともないことはできないな」「悪い所に立ったな」「解剖の軍医、勇気があるか・・・そう皆が見ている」「こんな汚い奴と取っ組みあいなんかしたら、白衣が汚れる」
そう思いながら、威嚇をもって、「前へ出ろ」と、彼は手で突き出していた。後ずさりしていた農夫は、後から突かれて力のバランスを失ったのか、そのまま前へ出て行った。手術台に押さえつけられた男は、なおも「アイヤー、アイヤー」と声を洩らしている。湯浅軍医は「取っ組みあいにならなくって、よかった」と、得意だった。
その行為にも、情けないことはできないと思ったことにも、今の湯浅さんは「情けない」と眼を閉じる。50数年前の“情けないことはできない”は、同僚軍医たちに対しての倫理であった。「自分が悲しいですね」と息を吸い込む今日の湯浅さんは、人間一般に対して、人間としての自分に対して、「情けない」と感じている。本来の倫理とはそういうものだが、当時の日本人にとっての倫理は、情況に応じて変化する倫理だった。
何度も初回の生体解剖については戻らなければならないが、話を進めよう。手術台を握って男は体を突っぱっている。看護婦は男に近付き、「睡覚(横になりなさい)」「麻薬給不痛(麻酔をするから痛くないよ)」となだめた。
男は母国語にやって恐怖を解いたのか、看護婦に引っぱられるままに、横になった。「あの看護婦、あんな嘘を言っている」とあきれる湯浅軍医を振り返り、看護婦は「どうですか」と笑いかけているように見えた。
静脈麻酔の後、二度と男は起きあがることはなかった。20人ほどの軍医たちは二班に分かれて、二つの手術台を囲んだ。木綿の粗末な服を剥ぎ取り、全裸にした。湯浅軍医は、農夫の身体に傷痕、拷問の痕がないのに気付いた。不思議だった。男は取り調べを受けていない。捕ってそのまま連れてこられた。
後日、彼も実施担当者になって分かるのだが、生体解剖の教育実習は突然行われるのではない。西村病院長がその日の昼食時に告げたとはいえ、当然、前もって準備されたものである。まず第1軍(北支那方面軍のひとつ、山西省を占領してた)から各師団、旅団、陸軍病院に実施命令が下り、病院の庶務主任が準備して行ったものである。
上級から通達だけでなく、実は陸軍病院から憲兵隊に「何日に、どれだけくれ」と言うと、必ず中国人捕虜が連れてこられた。憲兵は必要な人数を捕らえてきた。例えば中国人が密告すれば、すぐ逮捕につながった。証拠による逮捕ではないので、誣告によるものもあったかもしれない。いずれにせよ生体解剖は、一般に言われている「どうせ殺すのだから、役に立てる」といった合理化とは無縁だった。

「余ったから使うのではなく、あくまで「必要だから寄越せ」でした。それは、日本の軍人の命を救うための手術演習ですから、強制連行は、そのために捕えるんです」後日、庶務主任になり手術演習を準備するうようになった湯浅軍医はそう知るのだが、その時は、農夫の体が傷ついていないのが印象的だった(続いての解剖の経過は、吉開那津子さんが湯浅医師から聞きとりをした『消せない記憶』日中出版、をもとに、私の聞きとりで曖昧な点を補っていこう)。

《日本陆军解剖学的不可磨灭的记忆记录》 (日文)– 1996年9月1日 吉開那津子  (作者) 汤浅贤Indelible Memory-Records of Japanese Army Anatomy (Japanese) Book – September 1, 1996 Yoshikai Natsuko  (Author), Ken Yuasa
ひとりの軍医が腰椎穿刺の練習のため、男の体を側臥位に曲げ、針を刺そうとしている。湯浅さんは、「消毒は?」と聞いてしまった。平野中尉は、「どうせ殺す」とあきれた顔つきで答えた。腰椎麻酔のあと、彼らは男を上向きにして、両手両足を縛りつけた。次に、クロロエチールによる全身麻酔の練習。
マスクを鼻にあて、麻酔をかける。もがく男は抑えられているうちに、鼾をかいて眠り始めた。最初の手術は、部隊の軍医ふたりによる虫垂の剔出、俗にいう盲腸炎の手術の練習。まだ抗生剤の普及していない時代、できるだけ小さく切らなければならない。指2本腹膣に挿入できる長さで切開するのだが、炎症をおこしていない正常な虫垂は小さいので、見つけられない。2回目の切開をやり直し、それでもだめ、3回目に盲腸を全部出して、虫垂を切除、縫合した。
続いて陸軍病院のO中尉によると上腕の切断、砲弾の破片が入り四肢の挫滅創があれば、切開しかない。上腕と側胸の間に切断刀を深く入れ、ぐっと回して皮膚と筋を一気に切る。初めて切断手術を行うO中尉は、、かろうじて筋肉を切り取った。上腕骨にまで切断刀を入れて後、止血鉗子で血管を結紮。その後、周囲の筋肉を力一杯押し上げた上で、骨を切断する。骨の切断面が、できるだけ奥に入るようにするためである。大きな骨は鋸でひかれて熱し、骨粉の煙をあげる。食塩水をかけながら切断し、切断面にやすりをかけて磨く。止血帯を徐々にゆるめ、出血の有無を確かめ、筋肉、皮膚の縫合をして終り、農夫の腕はなくなっていた。
続いて、次の2人組が腸の吻合手術の練習にかかる。銃弾が腹部に入ると穿孔性腹膜炎をおこすので、傷ついた腸を切除し吻合しなければならない。2人の軍医が腹部の正中切開を行い。腸を取り出し、任意に切除した後、腸管吻合を行い、再び腹部を縫合して練習を終えた。すでに腕をなくし、腸を切除された農夫は呼吸が浅くなっていた。
次は気管切開。腹部に弾があたると、血液が気管にたまり窒息する。野戦気管切開器という鉤状の手術用具で、1人の軍医が首から喉頭部にかけて一気に切開した。泡沫を含んだまっ赤な血液がヒューヒューという呼吸音とともに吹き出す。それを鳥の羽できれいに掃う。血液は次第に減り、なおも笛を吹くような呼吸音が微かになりながら残っていた。3時間、手術演習は午後4時に終った。部隊の軍医は帰り、解剖室に残っていたのは病院の医師と衛生下士官の7,8人になっていた。看護婦もいなくなっていた。
「ベッドの上のふたりの中国人は、息も絶え絶えだが、まだ呼吸を続けていた。このまま解剖室の裏に掘ってある穴に放り込むのは気が引けた。西村病院長が、2CCの注射器で心臓に5,6回空気を注入したが、呼吸状態はまったく変化がなかった。わたしは、首を締めて、頚動脈を圧迫したが、それでもまだ呼吸は止まらない。そこでわたしはO中尉とふたりで中国人の腰紐で両方から引っ張り合って首を締めたが、それでもまだ呼吸はやまなかった。その時、あとからはいって来て部屋にいた大谷操衛生曹長が、「麻酔薬を静脈に注射すればすぐですよ」と教えてくれた。そこでわたしは、残っていたクロロエチール5CCを注射器に取り、左腕の静脈に注射した。2,3CC入れたと思ったら、中国人は5,6回軽く咳込んで、そのまま呼吸が停まった。そのあとはもちろん、衛生兵が屍体を片付けた筈だが、わたしたち軍医は、それを見ない内に部屋を出てしまった」
この夜はさすがに落着かず、彼は同僚と酒を飲みに外出した。以下が1942年3月、第36師団の野戦部隊の軍医のために行われた手術演習であった。初めての経験だったため、湯浅さんはよく覚えていた。
私は聞きながら、やはり唖然としていた。私が医学生だったとき、犬を対象に練習した全身麻酔、呼吸管理、腸管吻合、医師になり手術場で助手の経験を積んだ後に行った腰椎麻酔や虫垂炎の手術、あるいは救急外来で手伝った大腿骨の切断。これら一定の時間をかけて医師が経験することを、1人の人間を材料に3時間で行っている。これまで私が文献を通して知っていた人体実験―肝細胞を穿刺して採取した。寒冷に置いて死亡までの体温を計った。空気を血管に入れて殺したなどーとは、まったく違っている。あくまで軍医を達成するための手術材料として、人間を使っている。しかも、この若い医師は人間として傷ついていない。

時代の色調に染まった「医学」
それから敗戦までの3年間に、湯浅軍医は初回を加えて7回の生体解剖に係っている。5回は師団軍医の手術演習、1回は衛生初年兵の教育のために、1回は太原軍医部での軍医教育での関与である。これらの生体解剖で14人の中国人が虐殺された。
北支那方面軍の機密命令により、師団ごとの軍医教育のための手術演習は年2回と決められていた。第2回目は、その年の秋だった。第36師団の軍医を集め、西村病院長が教育責任者となり、いつも通り2人の中国人を手術演習に供した。この時、湯浅軍医は手術に加わり、初めての気管切断を行った。傍らでは歯科医のN中尉が顎骨骨折を予想して下顎の手術を行い、あるいは泌尿器科出身の若い安藤少尉が睾丸摘出手術を行い、「やあ、とったぞ」と喜んでいた。
湯浅さんのように、軍医は必ずしも外科出身でない。外科医であったとしても、戦闘による外傷処置がすべての部位にわたって出来るわけでもない。手術演習は手っ取り早く、最も役に立つ教育実習だった。
第3回目は42年12月、この時は、第1軍の命令により、山西省の各部隊の軍医50人ほどが太原で軍事医学の講習を受けた。2日目の午後、第1軍医部長の兵頭周吉少将の指揮のもとで、4人の中国人の腹部を拳銃で撃ち、麻酔なしで弾丸摘出の手術を行い、加えていつもの四肢切断や気管切開の手術を行った。
湯浅中尉は43年4月、庶務主任となった。病院の副官である。今度は彼が生体解剖を支度しなければならない。戦争は膠着しており、北京の北支那方面軍から、「軍医の質が落ち実戦に役立っていない、手術演習を頻回に実施せよ」と命令が届いていた。そこで年2回の手術演習を年6回、隔月で行う計画を、湯浅中尉は立てた。実際は、部隊が移動していて軍医が集められないなどの事情が重なり、3回しか行われなかった。
そのうち、11月の寒い日に行われた手術演習では、軍医の集まりが悪く、1人の生体解剖で十分だったので、西村院長の後任のS病院長が日本刀で余った1人の首を斬り落とした。別の手術演習では、S病院長に頼まれ、部隊から来た軍医たちが帰った後、衛生兵に手伝わせて開頭し、大脳皮質を摘出して渡した。S病院長は元軍医であった電信第9連隊の杉野連隊長に依頼されており、無傷の大脳は日本の制薬会社に送られると聞いていた。
その数ヶ月後、再びS病院長より大脳皮質を取るように頼まれた。そこで湯浅軍医は、新しく山梨県から来た衛生補充兵の解剖実習を生体で行おうと思いついたのだった。「解剖図 で教えるより、ちょっと変わったことをやってやろう」「度胸をつけてやろう」と思い、憲兵隊に連絡して中国人ひとりを連れてこさせた。湯浅軍医自身が生体解剖し、内臓を取り出して補充兵に見せた。その後、開頭して新鮮な大脳皮質を切り取ったのだ。
第1回の生体解剖のときから、湯浅医師の心理的抵抗は少なかった。初めての経験のために緊張したぐらいで、それは同僚たちと飲みにいって解消している。その後、いかなる疑問も、精神的葛藤も持っていない。生体解剖について、悪夢を見たことは一度もない。第1回目の手術演習を詳しく語っているが、これも戦争犯罪人として後日に追及されたから、ここまで思い出したのである。生来の生真面目さで、傷病兵の治療と同じく、実務として行っている。大脳皮質の摘出や補充兵への生体解剖教示は、手術演習とは無関係だが、その区別もつかなくなっている。

医師は多くの死に接している。医学生になってすぐの死体解剖実習から始まって、病理解剖、日常臨床、研究と、人間を身体として見ることに馴れている。そうであればこそ、「死の医学」、「身体の医学」に堕落しないために、病者がいかに生きようとしているかを知る「生の医学」をまず学ばねばならない。母と子はどのように結ばれているか、乳幼児はどのように発達成長していくのか、精神的に病むとはどういうことか、老いと共に社会関係はいかに変わっていくのか。発達と生活史をじっと見つめる「生の医学」に支えられていない限り、臓器、疫病のみ関心が限定されていく。
湯浅さんが生体解剖を行う軍医へと滑らかに適応していく過程を追うと、日本の医学が軍国主義に協和しないいかなる思想も作ってこなかったことがよく分かる。構造的に強い社会は、それぞれの分野が容易に全体の色調に染まらない思想を持ち、相互に拮抗する社会である。だが、湯浅さんの受けた医学教育には、身体への関心と医師集団への適応と出世主義しかなかった。
なお、湯浅さんは人体解剖以外に、師団の防疫給水部に患者から分離したチフス菌、赤痢菌を送っている。それが何に使われるか知らなかったが、給水部は細菌戦のため、分離したばかりの強い菌を求めていた。菌は倍養され、部隊に交付された。部隊は進攻作戦時に散布していったのである。
また、43年秋には、第1軍医部長の石井四郎少将(関東軍731部隊の創立者=
ISHII Shiro (石井四郎 Ishii Shirō, 25-an de junio 1892 en Yotsukaido, Prefektujo Chiba, mortis 9-an de oktobro 1959) estis generala leŭtenanto en la Unuo 731 de la Imperiestra Japana Armeo dum la ĉina-japana milito 1937-1945.)の査問があり、投下されたペスト菌付着の姿を消毒駆除する模擬演習に参加している。そして、石井部長から中国人を使った凍傷の人体実験の講義を受けている。あるいは45年3月、山西省南部の大隊に隊付軍医として配属されたときは、朝鮮人慰安婦の性的検査にたずさわったこともあった。
追加参考資料⇒해군 생체 해부 사건海軍生体解剖事件(해군 탓 싶은 해부 사건)은 1944 년 1 월말부터 7 월말까지 구 일본 해군 의 거점이 놓여 있었다 서쪽 태평양 의 트랙 섬 (당시 일본의 위임 통치 아래)에서 해군 소속의 병원 경비대의 군의관 들이 포로 (포로)가 된 미군 관계자를 "생체 해부 "등 후 살해 한 사건. 트럭 섬 사건이라고도한다. 1947 년에 BC 급 전범 재판 (미군 괌 재판 17 호)에 의해 시도 된.海軍生体解剖事件(かいぐんせいたいかいぼうじけん)は、1944年1月末から7月末にかけて、旧日本海軍の拠点が置かれていた西太平洋の トラック島(当時は日本の委任統治下)で、海軍所属の病院・警備隊の軍医らが、捕虜(俘虜)となったアメリカ軍関係者を「生体解剖」するなどした後に殺害した事件。トラック島事件とも呼ばれる。1947年にBC級戦争犯罪裁判で裁かれた。
自己弁明と合理化
1942年2月に山西省潞安陸軍病院に赴任して3年半後の45年8月15日、山西省太原で終戦を迎えた。太原では、「今、混乱する日本へ帰ってもどうしようもない」「残って中国のために尽そう」と議論がおこり、残留運動となった。その裏には、「中国での蓄財を失いたくない」「帰国すると、どんな目にあわされるかわからない」という大陸日本人の打算があった。例えば居留民会の会長、河本大作(河本大作(1883年1月24日-1955年8月25日),兵库县人,昭和时代日本陆军大佐,关东军参谋。刺杀张作霖的皇姑屯事件主谋)―張作霖を爆死させた関東軍参謀、その後に山西省の山西産業の社長になっていたーなどが、その最たるものである。国民党軍の徴用に応え、2700名の武装部隊、3000名の技術者とその家族が現地残留することになった。
湯浅さんは、「日本人が残るならば、医師として彼らの面倒をみよう。差し当たり、私たちを必要としているのだから」と考えた。東京は焼き尽くされている。帰っても何をしていいか分からない。中国人を診ることで償いをしようという気持ち、少しはあった。湯浅さんは日僑診療所を作り、残留日本人と中国人の診察を始めた。残留将兵は八路軍と戦闘を続け、湯浅さんも隊付軍医として出勤させられたりした。
だが、八路軍に敗北するにしたがって、47年秋、48年春と日本人の多くは帰国していった。湯浅さんは、「敗北しても、医師だから何とかなるだろう」「日本人が少しでも残っている限りは、離れられない」と思い、内科の診療を続けた。この間、47年末には結婚し、2人の子供も生れている。
49年4月、ついに太原は陥落。そのまま省立病院で働くように命じられ、診療を続けた。午前は外来、午後は病棟回診と若い中国人医師に講義をする日々であった。ところが51年1月、思いもよらなかったが、河北省永年の捕虜収容所に送られた。家族も家族隊として収容された。
湯浅さんには当時、まったく罪悪感がなかった。「憲兵とか、凍傷実験をやった石井四郎の一派と分子に対しては、中央人民政府政務院が公布する反革命処罰条例に即して鎮圧する。殺すべきはすぐに死刑に処す。監禁して改造すべきはすぐに逮捕監禁し改造する。安件を執行する時には、判決を公布し、新聞紙上でニュースを発表し(目立つところに載せる)、あるいはその他の方法で大衆のなかで広範な宣伝教育を繰り広げる。
少なからざる幹部・党委員会は、勝利におごり高ぶって敵を軽視する思想が生れたり、新環境で腐った自由主義思想の影響を受けたため、統一戦線で閉鎖主義に反対することと敵との闘争で反革命活動を断固鎮圧する問題とを混同し、反革命活動を正しく厳しく鎮圧することとむやみに殺すこととを混同し、「鎮圧と寛容を結び付ける」政策を寛容さだけと誤解している」
かくして70万人の反革命分子が処刑されたという(『原典中国現代史』第1巻・政治、毛里和子・国分良成編、岩波書店)。
また、キリスト教の宣教師に対する思想改造も、拷問を含む苛酷なものであった。アメリカの精神医学R・リフトンは『思想改造の心理』(小野泰博訳、誠信書房、原著は1961年)で、香港に追放されてきた宣教師や知識人の詳しい分析を行っている。
すべては同じ時期に、同じ中国共産党の政策として行われていたが、それは隔離された環境にあった日本人捕虜の知るところではなかった。


Françaisフランス語→Ken Yuasa (en japonais : 汤浅谦) (23 octobre 1915 – 2 novembre 2010) est un chirurgien japonais. Il exerça dans l'armée japonaise pendant la Seconde Guerre mondiale. Avec au moins mille autres médecins et infirmières il a pratiqué au cours de son service en Chine occupée des vivisections sur des prisonniers et des civils chinois et il a fourni à l'armée japonaise des bacilles de la typhoïde et de la dysenterie pour qu'ils soient utilisés dans la guerre biologique. Ce n'est que des années après la guerre qu'il a commencé à comprendre la mesure des atrocités que lui et d'autres avaient commises et il a commencé à écrire ses expériences et à en parler dans tout le Japon.

湯淺謙(日语:湯浅 謙/ゆあさ けん Yuasa Ken,1916年10月23日—2010年11月2日),是第二次世界大戰時的一名日本軍醫。出生於埼玉縣,在日本侵華時期曾對中國戰俘進行活體解剖。日本投降後被逮捕,關押在中國的戰犯管理所。在受到中國人道對待後,他深刻認識到自身所犯罪行進行深刻的反省。後來他被免於起訴並回到日本。此後,他成為中國歸還者聯絡會的會員,宣傳和平反戰和日中友好。他證實了活體解剖事件的存在,並結合自身戰爭經歷,控訴戰爭愚弄人民。








【1995年】脳内革命―脳から出るホルモンが生き方を変えるHormones released by the brain change the way we live | 春山茂雄
①本書はプラス発想こそが心身にとって最高の薬になることを、医学的・科学的に明らかにした画期的な書This is a groundbreaking book that medically and scientifically reveals that positive thinking is the best medicine for the mind and body. どんなに嫌なことがあっても、事態を前向きに肯定的にとらえると脳内には体に良いホルモンができるNo matter how unpleasant something is, if you look at the situation face forward, and positively, your brain will produce hormones that are good for your body.「人間の身体を健康体に戻す改善例には共通する秘密が一つあるThere is one secret common to all improvement cases that return the human body to a healthy state.それは人間の脳から分泌される「脳内モルヒネ」というモルヒネに似たホルモンをどんどん分泌させる事だIt involves increasing the secretion of a morphine-like hormone called "intracerebral morphine'' secreted from the human brain」②410万部(続編の『脳内革命2』と合わせると530万部)を売り上げるベストセラーとなるIt became a bestseller with sales of 4.1 million copies (5.3 million copies when combined with the sequel "Brain Revolution 2")



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