日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

戦争と罪責・野田正彰/전쟁과 죄책/战争与责任/Guerre et blâme・Masaaki Noda/전쟁범죄(戰爭犯罪, 영어: war crime)⑦


強い人間であるよりも感じる人間に
渡辺さんは2つの問いのうち、ひとつの問いには答えを見付けた。ベトナム反戦運動、あるいは「未来には必ず希望がある」と訴える新劇のなかで感じ続けた、借りものの主張から抜け出し、確かな自己の問題を見付けた。それは個人の生活史、自我の形成史と、現代史を重ねることだった。歴史の感覚に裏付けられた渡辺さんの生活史は、戦後世代に開かれた対話を呼びかけている。
ところが、他のひとつの問いにまだ拘泥したままでいる。それはまだ透明な問いに変わっていないように思われる。「戦争に反対できる強さがあるだろうか。父親と同じ立場にあって、捕虜殺しをしない人間でありえただろうか」と問う。意志の強さへのこだわりを持っている。こう問う限り、意志の弱い人間は反戦を語り得ないことになる。このような思考の遊びがあるところ、不都合な状況に立たされたり、脅されたりすると、今度は一気に他者を抑圧する人間に変わっていきやすい。
強いかどうかと聞けば、答えは強い方がいいに決まっている。質実剛健で意志を通す人間が立派な人間であるということになり、かつての日本軍人の精神主義と同じになる。そして意志の強さに平和主義をくっつけておけば、望ましい生き方になってしまう。
はたして、強さがそんなに必要なのかどうか、強い人間である前に、感じる人間でなければ、精神は硬化してしまう。どのような状況で何が起きたか、常に具体的に知ろうと努めること。十分に知った上で、当事者に感情移入し、生き生きと感じられることこそ、大切ではないだろうか。
父の世代が隠し続け、時には暴力によって捩じ曲げてきた侵略戦争の事実について、知ろうとすることは鬱陶しい。その鬱陶しさは、事実の残虐性から来るものではなく、否認しようとした父の世代の構えから生じている。だが、この鬱陶しさを清明しない限り、感情の豊かさは戻ってこない。そして感情の豊かさがない限り、傷ついた人々の話を聞き取る能力は生れてこない。「従軍慰安婦」問題についても、強制連行による虐待死についても、「聞く」ことの意味を理解できない人々によって、補償するか否か、補償額をいくらにするのかのみが議論される。被害者の感情に聞き入ることができているのかどうか、問うていない。
問い、共感できる力があれば、傷ついた人間は聞かれることによって、自分の無力な体験を整理し尊厳を取り戻していくことができる。それができないで補償金が話題になれば、被害者はさらに侮辱されたと思う。渡辺義治さんは父親の戦争を知り、父の強張りが自分の感情の流れとどのように関係しているか気付き、その分析を通して被害者の話を聞く力を豊かにしようとしてきた。強さへの拘泥は、こうして次第にやわらいでいくのであろう。

第17章 感情を取り戻す
8000分の2
千葉県市川市の国立国府台病院の前身は、国府台陸軍病院である。この病院は、日本軍の中国侵略が本格化した1937年から敗戦まで、陸軍の精神障害者を診断、研究するセンターであった。戦地で発症した兵士が、野戦病院、陸軍病院などを経て国府台陸軍病院へ移送されてきた。日中・太平洋戦争で発症した兵士の何割を占めるものか不明だが、当時のカルテ(病床目的)約8千件が残されている。
8千件のカルテのうち、頭部外傷や疑問の余地のない精神分裂病などを除き、神経症圏(神経衰弱、ヒステリーなど)と心因反応と診断されたものは約2千件あった。国粋主義の時代の陸軍病院のカルテ、外国語は一切使われず、縦書きで書かれている。2000カルテのうち、虐殺の罪のおびえる記述が残されているのは何件か。わずか2件だった。NHKの大森淳郎ディレクターが丹念に2千件の病床日誌を読み、2件のカルテを取り出して、私のところに持ってきた。
ひとつのカルテは、岡山県出身の陸軍一等兵のもの。彼は1939年9月、22歳で応召。中国北部の戦地に送られ、1年後に河北省保定の陸軍病院に入院。この時の記述には、「就寝中、突如、悪感戦慄、心悸亢進ノ訴ニテ受診、顔面蒼白、口唇チアノーゼ呈シ、脈膊微弱、全身冷汗ヲ催シ、急性心臓衰弱ノ症状。発作ヲ反復シ症状憎悪ノ兆アリ」と書かれ、脚気と診断されたが、後日、ヒステリー(当時は躁鬱病と呼ばれた)に訂正されている。北京陸軍病院を経て内地に転送され、広島、姫路、岡山の各陸軍病院を回って、40年4月、国府台陸軍病院に入院した

内地に転送された最初の記載(広島陸軍病院、11月27日の収容所所見)に、「全身痙攣の前に変な気持になる。支那において6人ばかり支那人を殺した。12歳の子供を突き殺し、かわいそうだなと思ったことがいつまでも頭にこぶりつき、痙攣の起る前に、何だかそれが出て来る様な感じがする。姿は見えることなし。その霊が痙攣を起す様に思う」と書かれている。内地に転送され、ほっとして喋ったのであろうか。岡山陸軍病院では、発作的に興奮することがあり、カルジァツォール静注による痙攣療法―患者にとっては拷問に等しい療法―が行われている。
中国人虐殺による心的外傷は広島陸軍病院収容時の所見に書かれているだけで、後は精神科医に聞かれても、「忘れたです」、「心配していない」と否定。40年11月、国府台陸軍病院を退院し、補充兵役免除となった。郷里に問い合せると、その後彼は大工として働き、精神的に不安定になることなく生涯を終えている。家族は戦争時のことは何も聞いていない。
もう1件は、中国山東省、山西省、河南省などを転戦した陸軍上等兵。彼は1937年、28歳で応召。10ヶ月後の38年6月、「粘血便を伴う激しい下痢、左下腹部の硬結、顔貌憔悴」の症状で新野戦病院に入院、石家荘兵站病院、北京兵站病院を経て、同年7月末、内地に転送された。この時の病名は「細菌性赤痢」となっているが、小川武満さんの章で述べた。いわゆる「戦争栄養失調症」であろう。
大阪陸軍病院に転送された時点で下痢は改善し、8月8日、「無言、顰眉、カタレプシー」の記述があり「精神垂離症」(精神分裂症の旧名)と診断が変わり、国府台陸軍病院へ転入となった。入院時の病床日誌には、「山東省に於て、良民6人を殺したることあり。これが夢に出て、うなされてならぬ。廊下などで殴られそうな気がして、そっとよけて歩くと云う」と書かれている。
2週間後の8月末日の日誌では、「河北省に居た時、隣接の部隊が苦戦し、自分らが応援に行った。兵が沢山死んでいた。部隊長の命で附近の住民を殺せと云われ、自分も7人殺した。銃殺した。その後、恐ろしい夢を見、自分が正規兵に捕われたり、部落民に捕われたり、また殺した良民がうらめしそうに見えたりする。頭の具合がどうも悪く、不眠となった」とある。
その後、外傷体験の記載はなく、11月になり「元気なり」とされ、永久服役免除の手続がとられている。12月の退院にあたって、「敗残兵討伐に加わり、戦闘にも度々参加したが、特に苦労し程にもあらず、昨年12月頃に、山西省で部隊長の命令で部落民を殺せしことが最も脳裏に残っている。殊に幼児をも一緒に殺せしことは、自分にも同じ様な子供があるので、厭な気がした」とまとめられている。担当医はおそらく精神垂離症でないと判断した上で、なお精神垂離症と診断して除隊させたのであろう。郷里に問い合せると、彼はその後精神的に不安定になることなく、郵便局員として定年まで働いたという。長男は除隊の経緯など、一切知らない。
傷つくことのない人間
2000人の病床日誌の内、残虐行為に傷ついた者はわずか2人。読みにくい手書きの日誌なので、1,2行の記述について見落としもあろう。だが、それを考慮しても、あまりに少ない。何故だろうか。ひとつの説明は、たとえ傷ついていたとしても、言わなかったと推測することである。日本兵は病気も「名誉の戦傷」と考えており、このような攻撃的な文化のなかでは、残虐行為への罪の意識を自覚するのは難しかったかもしれない。
他のひとつの説明は、国府台陸軍病院の精神科医たちに、症状の背後にある苦しみを聞く余裕も能力もなかったからであるとすること。当時、国府台で神経症の治療を担当した桜井図南男の『第5内科回顧録』や堀越正一の『統・第5内科回顧録』を見ると、病棟管理にふりまわされ、電気ショックなどがいかに強圧的手段として使われていたかがわかる。
例えば堀越軍医大尉は、下肢の完全麻痺したヒステリー患者2人について、「電撃療法を繰返すとおどかす事に依って練習の拍車とした。・・・某日余は試に、余自ら強制的に歩行練習を指導した。何度か壁にぶつかり、床に倒れたりしたが、それ等を全て無視して歩く事を、走る事を、跳ぶ事を要求し、出来ねば面前で腰抜けと罵倒し罪人だと侮辱した。彼等はくたくたになり、歯をくいしばり、余を白眼視するような態度を示し乍ら命じられた運動を行った。然し容易には恢復しなかった。余も汗をかき綿のようにつかれた。然し翌日余は驚ろいた。その一例は一夜のうちに症状が非常な恢復を示したからである」(『第二次大戦における精神神経学的経験―国府台陸軍病院史を中心にして』1966年)と述べている。堀越医師のひたむきな治療の試みは、暴力主義の文化において、患者を追い詰めることにしか方向を見出し得なかったのである。
以上、ふたつの説明は、いずれも十分に根拠がある。しかし、それにしてもなお、あまりに少ない。どうしてだろうか。侵略戦争の残虐性に傷ついた者はすべて、生きる意欲を失い、死んでしまったのだろうか。生き残った男たちの多くは、傷つかない惰性欠如者であったというのだろうか。戦後世代には、惰性欠如の精神病質者から生まれた子孫なのだろうか。
否、私は生物学主義、遺伝説に立ったこんな馬鹿げたことを夢想したくない。だが、いくつかの記録はいつも、日本兵が傷つくことのない人間であったことを示している。例えば、南京虐殺の事実を証言し、南京虐殺を嘘だと宣伝する人々と闘っている東史郎さんの『わが南京プラトーン』(青木書店、1987年)を開いてみよう。東さんは南京攻略戦の行軍日記を、事実を知ってもらうためにそのまま公表すると断っている。
*东史郎(1912年4月27日-2006年1月3日),日本京都府竹野郡丹後町人。아즈마 시로(일본어: 東 史郎, 1912년 4월 27일 ~ 2006년 1월 3일)는 과거 일본제국 육군 제16사단 20연대의 병사로, 난징 대학살 당시에 수많은 민간인을 학살한 인물이다. Shiro Azuma (東 史郎, Azuma Shirō, April 27, 1912 — January 3, 2006) was a Japanese soldier who openly admitted his participation in Japanese war crimes against the Chinese during the Second World War. He was one of the few former soldiers of the Empire of Japan to admit to his participation in the 1937 Nanking Massacre. After his confession, he visited China seven times to apologize and help Chinese scholars find more evidence of the Japanese soldiers' brutality. He prepared an eighth trip to Nanjing but died of cancer on January 3, 2006 in Kyoto.[1]


Mein Nanjing-Zug - Das Nanjing-Massaker, das von einem Wehrpflichtigen (Japanisch) erlebt wurde - 1. Dezember 1987 Shiro Azuma  (Autor)   Mon peloton de Nanjing - Le massacre de Nanjing vécu par un conscrit (japonais) - 1er décembre 1987 Shiro Azuma  (Auteur)
1938年5月18日、徐州攻略の日の日記。「停車場に入って、貨車に近づく。貨車の戸を開けると、敵の負傷兵がすしづめになっていた。どの顔も、哀願と恐怖と呻吟に満ちている。「殺せ」「1人も容しゃするな!」誰もが口ぐちに叫び、次つぎに刺し殺した。現在は 迫であり、闘争の時である。我々の為すべきことは、彼らの頭を粉砕し、骨の髄までめちゃくちゃにすること。もはや憎悪と復しゅうを返すのみ。どの貨車にも負傷者が満載されていた。いくつもの貨車が、阿鼻叫喚のるつぼと化した。停車場の掃蕩は終った」
これほどの虐殺をしながら、彼の次の日の日記、その後の日記に、不安も怯えも悲しみも書かれていない。想起することもない。あるいは、小野賢二、藤原彰、本多勝一編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』(大月書店、1996年)を開いてみよう。そこには、小野賢二によって集められた第13師団山田支隊の19人の将兵の陣中日誌が載っている。
記錄了南京大屠殺的帝國軍隊士兵:山田第13師士兵的 旅行 日記 (日語)精裝書-1996年3月14日小野賢二 (編輯), 藤原彰 (編輯), 本多勝一 (編輯)Солдаты Имперской армии, которые записали бойню в Нанкине: переплет 13-го дивизиона Ямада, дневник Цзинь (японский) в твердом переплете - 14 марта 1996 г. Кендзи Оно (редактор), Акира Фудзивара (редактор), и еще 1
その1人、宮本省吾少尉(帰郷後は農場に従事)の日記。
三十七年十二月十六日、南京。<午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜約三千を揚子江に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である>
十七日(小雪) 本日は一部南京入城式に参加、大部は捕虜兵の処分に任ず、小官は八時半出発南京に行軍、午后晴れの南京入城式に参加、荘厳なる史的光景を目のあたり見る事が出来た。夕方漸 く帰り直ちに捕虜兵の部分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまつた。
(十二月)十九日 昨日に引続き早朝より死体の処分に従事す、午后四時迄かかる。・・・明日は 々渡河の予定にて兵は其の準備に晩く迄かかる、牛肉の油揚迄作り、米、味噌の久しぶりの配給、明日の食料の準備をなす、風寒く揚子江畔も漸く冬らしくなる>
もう1人、近藤栄四郎伍長(復員後は地方公務員)の出征日誌。同じ12月16日の日付の頁を開いてみよう。
<午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行つた中隊の交代に行く、遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。丁度見本展の様だ、お陰で随分酩酊した。夕方二万の捕虜が火災を起し警戒に行つた中隊の兵の交代に行く、遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。月は十四日、山の端にかかり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨しさこの上なし、戦場ならざれば見ると得ざるところなり、九時半頃帰る、一生忘るる事の出来ざる光景であつた。
これらの日記を、どう読めばいいのか。啞然とする。2人とも、不眠、悪夢、苦痛をもって想い出すといった記述はない。はじめの宮本は「牛肉の油揚げ迄作り・・・」と食欲旺盛にみえる。そして異なる連隊に所属する2人が、同じように大虐殺の後の光景に酔っている。「風寒く揚子江も漸く冬らしくなる」といい、「月は十四日、山の端にかかり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く悔しさこの上なし・・・」と書く。月と死体の山を対比して詠嘆する日本的感性は、傷つかない心を装う薄絹のようだ。集団による虐殺、傷つかない心、情景への一抹の感傷、この三つは一体となってそれぞれの日本人を特徴づけている。
日記を読んで、あなたはどう思うだろうか。戦争とはそういうもの、と嫌悪しつつも一般化してしまうのなら、あなたは傍らにいるといえよう。しかし、すべての国の兵士が侵略戦争の残虐に適応するわけではない。いかに残酷であるか、残酷さをどう受けとめるかーそれも文化によって異なる。


アメリカ兵とソ連兵の戦争神経症
私は対比的に、アメリカ兵や旧ソ連兵の研究を想い浮かべる。第二次大戦でアメリカ兵の内、精神障害の発生率は1000人につき101人(P.C. Bourne,1970年)、あるいは25-250人(E. Colbach, M. Parrish, 同年)と報告されている。死の恐怖と自らの暴力に直面して、10人に1人は精神障害に陥ったのである。
その後、アメリカは1964年の「トンキン湾事件」から75年のサイゴン解放までの間、ベトナム戦争に介入した。アメリカ精神医学会はベトナム戦争帰還兵の精神障害についての研究を通して、精神的外傷後ストレス障害(PTSD)の診断基準を確立していくのだが、その発生率は最前線に行ったことのある復員者の35・8%に見られたという報告がある(メディカル・トリビューン)1990年5月15日、アメリカ心身症学会でのT. Keane 教授の発表)。およそ10%から50%まで、いくつかの発表があり、いずれも高い発生率を伝えている。
復員者たちは「ベトナム戦争後症状群」と呼ばれる精神状態、症状、社会問題をあらわした。C・R・フィグレーの編集した『ベトナム戦争神経症』(辰沼利彦監訳、岩崎学術出版、1984年)などによれば、次のように整理されている。
<戦線が不明瞭であったヴェトナム戦争での残虐行為に対する罪悪感、後方での旧来の道徳の限界をこえた非行―ヘロイン中毒、性の濫用、暴力に対する罪悪感、戦友を見捨てたという罪悪感、すぐれた者は死に自分が生き残ったという罪悪感。自分たちを戦場へ送った国家、社会、妻に裏切られたという恨み、イデオロギーへの幻滅。コントロール不可能な敵意や、誰かれの見境なく向けられる激怒、そして暴力の許容。強迫的におそってくるいまわしいシーン、悪夢、夜驚、そしてフラッシュ・バック(もとの思い出したくない体験に、突然つれ戻されること)の体験。生き生きとした感情を喪い、無関心、抑うつ状態となる。不眠、不安、知覚過敏、錯乱。人生目標の喪失。薬物中毒。失業。自殺、殺人、交通事故>
つまり、平和な市民生活に本当にはもどれず、戦場での感情がフラッシュ・バックしてくるのである。1975年の時点では、67%の帰還兵が悪夢にうなされるという報告(V. DeFazio)があったように、今なお悪夢で飛び起きるという話は絶えない。


旧ソ連においても同じであった。1979年末から89年2月まで、ソ連軍はアフガニスタンに侵攻し、イスラム系ゲリラと戦った。アフガン帰還兵も、戦争後ストレス障害におびやかされた。私は1992年3月、モスクワのロシア共和国精神医学研究センターを訪ねた。ここでアフガン帰還兵の精神障害の研究、および220の病院で実施している治療プログラムの検討が始まっていた。ベトナム侵攻と同じく、アフガン戦争でも明確なフロント(前線)がなかった。戦争の大義も曖昧だった。いつ、どこから撃たれるかわからない状況で、兵士は残虐になり、自分の行為そのものに傷ついた。復員後、暴力、自殺などが多発したのである。
いずれの侵略軍でも、戦争神経症および戦争後ストレス障害が見られる。最も近くでは、私は96年10月、チェチェン戦争から帰還した兵士を診察した。先の日本兵の記録と比較するために、1人のロシア兵について述べてみよう。

94年秋、ロシア内務省軍はチェチェンに侵攻し、95年5月、チェチェン共和国の首都グローズヌイを制圧した。ロシア軍とチェチェン軍との死闘は96年9月の停戦まで続いた。私は10月初め、チェチェンに近い南ロシアのロストフ・チ・ドヌーの軍病院で帰還兵を診察した。
イフェゲーニ・ザハロフはウラルの東、エカテリンブルクの生まれで、21歳。18歳で徴兵され、シベリアのチタで1年半兵役につき、96年4月20日、チェチェンに送られた。家系はコサックなので、軍隊に入るのは嫌ではなかった。徴兵前、コサック連隊の一員として、行進したこともあったという。
「8月7日、グローズヌイ市内で重傷を負った。乗っていた装甲車が砲弾で破壊され、8キロ先の北空港まで退却。再び市内にもどる途中で、チェチェン兵に突撃され、装甲車をバズーカ砲で撃たれた。顔が焼けるように痛いので、左手でさわろうとしたが、左手も動かなくなっていた。左手、左腕を負傷。ハッチから逃げ出そうとして、1人は半身を吹き飛ばされた。16人の内、10人が殺された。私は車外に脱出でき、4人で走った。民家の戸を破り、お婆さん(チェチェン人)に匿ってほしいと頼んだ。「負傷した、布あるか、水ほしい」と。お婆さんが馬小屋に匿ってくれたので、3日間すごし、やっと動けるようになった。お婆さんは「もうこんな戦争はやめてほしい」と何度も言った。8月6日から8日の戦闘で、連隊のうち120人が死んでいた。負傷してから、初めて考えるようになった。命の評価が変わった。あの戦闘は体験していない者には、決してわかってもらえない。兵士は命令に従うだけだが、まったく意味のない戦争をさせられている。ロシア連邦軍も、チェチェン軍も強奪を繰り返し、虐殺している。兵士にはわからないまま、誰かが利益を得ているはずだ」
私は彼を病棟の中庭で面接した。広い庭の路地を負傷兵がゆっくりと散歩している。木洩れ日の下で、彼の顔は緊張したままだった。私との面接に緊張しているのではない。戦線の顔を維持したままだった。
「悪夢で飛び起きる。砲弾で吹き飛ばされたチェチェン人の頭を手で持っている。あるいは武器なしで1人取り残され、遠くにロシア軍が見える。走っている、チェチェン兵が迫ってくる夢。寝汗をかき、身体が震え、その後は眠れない。2ヶ月たった今も、週に2夜ほどうなされている。それでも最近は、故郷の家、ステップを馬で駆けている子供のころの夢を見るようになった」
「1ヵ月ほどは、病室をノックされるとベッドの下へもぐり、銃をさがす自分がいた。自転車の騒音が聞こえても、身構えてしまう。今も消毒液の臭いがすると、不安になる」という。いわゆるフラッシュ・バックである。日中も凄惨な光景が苦痛をともなって浮かんでくる。
「ロシア兵の頭を手に取ったこともある。十字架に張り付けられたロシア兵も見た。それらが断片的に現われる」という。


日本人の「強さ」とは
半世紀前の日本兵は、こんな風に聞かれることもなかったはずだ。こんな風に語ることも許されなかった。それどころか、こんな風に怯えることも、感じることも許されなかった。
小川武満軍医が診たいわゆる「戦争栄養失調症」の兵士の多くは、耐えられる限界を越えた精神的苦痛を自覚することもできず、重篤な消化器系の心身症としてしか精神的外傷を表現できなかったのであろう。少数の兵士が神経症や心因反応として拾いあげられても、まわりの同病者に心の葛藤を否認する構えは強く、精神科医に病者を受容し葛藤を分析する能力はなかった。国府台陸軍病院のカルテに見られるように、軍医は兵士の罪の意識を軽視した。
そしてほとんどの兵士は、虐殺行為に精神的に傷ついていない。永富さん、富永さん、小島さん、湯浅さん、三尾さん・・・、その他、私が話を聞いてきたいずれの元日本将兵も深く精神的に傷ついていない。例えば若き湯浅謙医師のように、日本人集団のまなざしのなか、すすんで虐殺に順応していこうとする精神的構えが前もって形成されていた。さらに永富博道さんのように、天皇制イデオロギーが容易にサディズムに転化する通路を持っていた。

Gewöhnliche Menschen - Der Holocaust und das Buch des 101. Polizeireservebataillons (Japanisch) - 1997/12/1Christopher R. Browning (Autor), Christopher R. Browning (Originalautor ), & 1 More Ordinary People-The Holocaust and the 101st Police Reserve Battalion (Japanese) Book – 1997/12/1 Christopher R. Browning (Author), Christopher R. Browning (Original & 2 More
どの国の軍隊も残虐な行為を行っている。それでは560万のユダヤ人ほか、ポーランド人、ロシア人など無数の人々を虐殺したドイツ兵の場合はどうだったのか。例えば歴史学者C・ブラウニングの『普通の人びと』(谷喬夫訳、筑摩書房、1992年)は、ポーランド東部でユダヤ人殺戮に従事した「第101警察予備大隊」について、戦犯裁判での尋問調書や公判記録に基づいて述べている。
この本では、まず通達されたユダヤ人殺戮命令を部下に伝える大隊指揮者、トラップ少佐の昏乱ぶりを伝えている。兵士を前にして彼は泣きながら、「大隊は恐ろしく嫌な任務を果たさなければならない。それは自分の好みにあわない。しかし命令は最も高いところから下された」と語り、最後に通常では考えられない提案、「隊員のうち年配の者で、与えられた任務に耐えられそうにないものは、任務から外れてよい」と付け加えた。この時、大量虐殺に係わらないように一歩前に出た兵士は10人から12人。その後、射殺から逃げ出した兵士は10%から20%いたという。
虐殺の後、「彼らは暗濾たる気分で、なにかに腹を立て、いらいらし、心はかき乱されていた。隊員たちはほとんど何も食べなかったが、酒を浴びるように飲んだ。アルコールが気前よく提供され、警官の多くは泥酔した。トラップ少佐は隊員たちに酒を注いで廻り、彼らを慰め、元気づけ、毎度、責任は上のほうにあるんだからと言って廻った。しかし、酒もトラップの慰めも、兵舎に充満していた恥辱と嫌悪の感情を洗い流すことはできなかった。トラップは隊員たちに、もうこの事について話さないように求めたが、彼らはそうした勧告を必要としていなかった。森に留まらなかった者はもうこれ以上知りたくなかった」と締め括っている。

*Christopher Browning (Christopher Robert Browning; * 22. Mai 1944) ist ein US-amerikanischer Historiker. Er ist emeritierter Professor der University of North Carolina.Christopher Robert Browning (born May 22, 1944) is Frank Porter Graham Professor Emeritus of History at the University of North Carolina at Chapel Hill (UNC). A specialist on the Holocaust, Browning is known for his work on the Final Solution, the behavior of those implementing Nazi policies, and the use of survivor testimony.[1] He is the author of nine books, including Ordinary Men (1992) and The Origins of the Final Solution (2004).

ブラウニングの研究書が伝えるドイツ兵の状態と、南京大虐殺の日本兵の日誌とはかなり違う。これくらいの差異にほとんど意味はないかもしれない。いずれも、全体主義の社会システムにあって、途方もなく残虐であったから。それでもなお、日本兵は精神的に傷つくことがあまりにも少なかったと推測される。こうして陳述してくると、日本軍隊の強さとは、言葉通り不死身の強さと言えるかもしれない。身体は傷ついても、心は傷つかない不死、すなわち感情麻痺の強さである。またそれは先の陣中日誌に見たように、一抹の感傷によって感性を磨く者が背後に持つ、感情麻痺である。しかもこのような感情麻痺は、戦後の日本人に持続していたのではないか。
1970年代になって、中高年男性の鬱病、さらに自殺の増加が顕著になった。昭和ヒトケタ世代の死として注目されたが、その後も減っていない。続いて会社人間、過労死、過労自殺が問題になっている。これら中年になって鬱病になる人の病前性格として、「執着気質」や「メランコリー親和型性格」が想起された。
下田光造教授は戦前より、躁鬱病者には彼のいう「執着気質」が多いと述べた。執着気質では、「一度起った感情が日常人のごとく時と共に冷却することがなく、長くその強度を持続し、あるいはむしろ増強する傾向」があり、その性格標識としては、「仕事に熱心、徹底的、正直、几帳面、強い正義感や義務責任感、胡麻化しやズボラが出来ない等で、従って他から確実人として信頼され、模範青年、模範社員、模範軍人等と誉められている」(「躁うつ病について」、『米子医学雑誌』1950年3月)という。
下田の説は、当初は認められなかったが、ようやく1960年代になって知られるようになり、今日の精神医学では、とりわけ中年の単相性鬱病(鬱状態のみで躁期がなく、躁鬱病とは異なる病型)については、執着気質が見られると考えられると再評価された。というのも、下田の執着気質とよく似た病前性格を、その後、ドイツのテレンバッハが「メランコリー親和型性格(ティプス・メランコリス)」として描き出したからである(『メランコリー』木村敏訳、みすず書房、1978年)。
*フーベルトゥス・テレンバッハ(Hubertus Tellenbach、1914年3月15日 - 1994年9月4日)は、ドイツの精神医学者。メランコリー(憂鬱)の研究で知られる。また、異なる社会における父親の役割を検討した。Hubertus Tellenbach, auch Hubert Tellenbach (* 15. März 1914 in Köln; † 4. September 1994 in München) war ein deutscher Psychiater, der in einer Studie über Melancholie die psychiatrischen Begriffe der Endogenität und des Typus melancholicus entwickelte. Daneben erforschte er unter anderem die Vaterrolle in verschiedenen Gesellschaften.
下田が執着性格として述べた、感情の執着の傾向は当たっていないが、後半の性格標識は中年の鬱病者に多い。「強い正義感」の前に、「組織内で限定的に働く」と形容句を付ければ、戦前の日本軍人にも、戦後の会社人間にも当てはまる。いみじくも下田が「模範社員、模範軍人」として書いた通りである。
執着気質およびメランコリー親和型性格は、社会科学の視点を欠く精神科医の研究なので、あたかも先天性の気質であるかのように描かれているが、明らかにこのような気質は、集団への順応を強いる社会が期待したものである。社会の鋳型にはめて作った性格である。それは権威と秩序に向かって硬直しており、他者との感情交流に向かって生きていない。社会に過剰順応し、心臓や脳血管系の疾病になり、あるいは過労死、過労自殺していく中年男性は、今なお自分の精神の耐えがたいものに気付く感受性を奪われているかのようである。そして過剰適応の圧力を構成しているのは、私たちが容認する社会である。
感情を抑圧してきた社会の歪みは、若い世代にも続いている。感情交流を拒否し、他者のちょっとした言葉や態度に「傷つく」を連発する青年たち。彼らは、深い悲しみと単なる好き嫌いとを弁別する能力さえ持っていない。
オウム真理教に溺れていった青年、生死のスイッチを握ることに全能感を得ようとした神戸連続殺人事件の少年、彼らは精神の強さを求めて、何が精神の強さなのか、考えようとはしなかった。戦時から戦後へと続いた。集団主義の文化のなかでの「精神の強さ」という問いは、他者への暴力にも、自己の精神への暴力にも向かいえた。
このような精神の破壊への無感覚を、私は子供の教育を統制する文部官僚、政治家にも見る。行政が学校で「日の丸」掲揚や「君が代」斉唱を奨めることは許されるのだろうが、掲揚に当たって起立しない教師、斉唱に加わらない教師を処分することは許されない。人間の良心の踏み絵によって引き裂かれている。儀式についての対立は、永い対話によってしか解決しない。校長や先生の良心を強制によって傷つけておいて、先生たちに「心の教育」を要求する。彼らの感情の鈍さ。それは例えば、戦前、神社は宗教ではないという詭弁をもってキリスト教会の代表者に伊勢神宮参拝を強い、各教会の聖職者に神社参拝を行わせた。良心への暴力に通底している。踏み絵の暴力を強いる人々の感情麻痺は、さらに暴力にさらされた人々の感情麻痺となって広がっていく。
到るところに、精神的に傷つかない人々の仮面がある。無表情なそれ、柔和に虚しい笑みを浮かべたそれ、緊張したそれ、疲れたそれ。
感情を取り戻すために
それでは、どうすればいいのか。私たちはいかにして豊かな感情を回復するのか。さし当たって、いかにして傷つくことのできる精神を取り戻すことができるのか。一気に感情の柔らかさは回復しない。私は、まず知ることだと思う。本書で述べてきたそれぞれの人が行ったように、何をしたのか、何が起こったのか、知る努力から始まる。戦後半世紀を経たが、戦争を生きた人々は同時代人が何をしたのか、戦後世代は父母や祖父母の世代が何をしたのか、問わねばならない。
問い、知ることによって、私たちは次の段階に達する。具体的に、詳細を知ることによって、殺されていった人々に少しだけ感情移入できる。活き活きと心のなかに描くことによって、小島隆男さんが戦後十数年を経て精神的外傷を感じとったように、強張った精神に亀裂を入れることができる。殺戮に直接加担した者だけでなく、戦争を生きた世代はそれぞれに自分の感情麻痺を問いなおすことができる。戦後世代は、倉橋綾子さんや渡辺義治さんが今試みているように、侵略戦争を否認した戦後社会での自我形成の歪みを問わなければならない。
知り、語りあい、さらに感じるという2つの段階を順々に経て、私たちは傷つきうる柔らかい精神を取り戻すだろう。私たちはその作業ができる時に、ようやく来ている。
あとがき
私は旅が好きだ。異なる文化を生きている人々と、ちょっとした触れあいを通じて感情をかわす。相手のやさしさ、好意、驚きなどを感じとり、私の感謝、くつろぎ、当惑などを伝える。アジアの山里の人々、海辺の老人、畑で野菜を手入れする老婆、ニューギニア高地の誇り高い戦士、シベリアの森に生きる男女・・・。生きている喜びとは、人とかわす感情の流れに他ならないと思う。
ところが、日本の社会に上手に適応している人にはそれが感じられない。相手との間に感情の流れが起らないことがしばしばある。どこか強張って、感情が内攻している人が多い。私はそんな時、自分もまたその場にいるという現実感を失って、遠くの方から相手と自分の関係を見ているような思いに囚われる。相手の所為のためだろうか、それとも相手と私は同じ文化に生きており、同じような人間関係に連れもどされるのだろうか。
人間の精神生活について思案を続けたマックス・シェーラーは、「倫理学における形式主義と実質的価値倫理学」と題する著作において、人間の感情を4つの層に分けている。日本人の感情の強張りに直面すると、私はよく彼の感情の成層論を思い浮かべる。シェーラーは感情に、感性的感情あるいは感覚感情、(状態としての)身体感情と(機能としての)生命感情、純粋に心的な感情(純粋な自我感情)、そして精神的感情<人格感情>の4層が重なっていると述べている。
この4分類に依拠して分析すると、近代の日本人は感性的感情のみ研ぎ澄まし、決して豊かとは言えない生命感情や心的感情を上乗せし、国家が煽り立てる偽りの精神的感情で武装しているように見える。感性的感情とイデオロギーにもとづく精神的感情が肥大化し、中間の柔らかい感情はやせている。どうして、こうなったのだろう。私は、近代の歴史のなかでその原因を考察してみたいと考えるようになった。
1993年初めより関連文献を読み始め、秋から直接調査に入った。最初のインタビューは93年10月24日、埼玉県北本市に住む小島隆男さんだった。乾いた風の舞う駅で、彼と息子さんが迎えてくださったことを、昨日のように覚えている。あの日、4時間にわたってお話をうかがった小島隆男さんは、今年2月4日、脳梗塞で亡くなった。93年秋より、多くの元日本兵に会ってきた。本書に書ききれなかった方々が何人もいる。また、父親の生き方を問う戦後世代の面接も重ねた。
95年夏には、文部省の科学研究費(国際学術研究)を「戦争における罪の意識の研究」で受け、中国の哈爾浜(ハルピン)、瀋陽を旅行した、この時、撫順戦犯管理所の元所長、金源さんにお会いした。また元憲兵の三尾豊さん、元731部隊員の篠塚豊さんと哈爾浜の郊外・平房に731部隊跡を2度にわたって訪ね、共に歩きながら過去の行為について語っていただいた。その報告は「731部隊の跡を歩く」と題して、『世界』95年10月号に掲載されている。
私は面接調査を厭わないが、書くのはいたって怠惰である。『世界』の前編集長の山口昭男さん、いくつかの面接に同行していただいた山本慎一さんに厳しく激励されて、ようやく『戦争と罪責』の連載を『世界』(97年2月号より始めた。連載が遅れたのは、95年1月17日の阪神・淡路大震災の後、多忙を極めてからでもあった。98年8月号まで17回にわたった連載は、堀切和雅さんが編集してくださった。53年目の敗戦記念日を前にして、6年にわたる私の研究は一区切りを迎える。この後、中国での翻訳が進むことになっている。本書の問題提起が日本の戦後世代に届き、さらに中国、東南アジア、太平洋地域の若い世代との対話の糸口になっていってほしいと、心から願っている。 1998年6月 京都洛北にて    野田正彰


Fushun War Criminals Management Centre (traditional Chinese: 撫順戰犯管理所; simplified Chinese: 抚顺战犯管理所; pinyin: Fǔshùn Zhànfàn Guǎnlǐ Suǒ), also known as Liaodong No. 3 Prison or Liaoning No. 3 Prison, was the site of the re-education of Manchukuo, Kuomintang and Japanese prisoners of war, held by China from 1950 onwards. It was located in the Xinfu District, Fushun, Liaoning. Among the inmates were Puyi,[1] the last emperor of China and former puppet emperor of Manchukuo, his younger brother Pujie and several other important World War II figures such as Xi Qia, Zang Shiyi and Zhang Jinghui. Part of the prison site currently remains in use, but the older section has been turned into a museum depicting the history of Fushun war criminals management centre and the life of the people who worked or were interned there.
Background
The Fushun Prison was originally constructed in 1936 by the occupying Japanese. At the end of World War II, the USSR had overrun the Japanese puppet state of Manchukuo and captured many of its government members and military personnel, both Chinese and Japanese. These prisoners were held near Khabarovsk (Boli) in the Russian Far East. During 1949 and early 1950, the Chinese sent delegations to the USSR headed by Mao Zedong in which they secured the extradition of these prisoners to China. Premier Zhou Enlai instructed the Northeast Judicial Department to make preparations for handling the war criminals. Liaodong Provincial No. 3 Prison, on the northern edge of Fushun city, was selected for conversion into the War Criminals Management Centre. The first train carrying prisoners arrived in Fushun station at 15:00 on 21 July 1950. They were then transferred the short distance to the prison by bus. In this first train load there were 969 Japanese detainees and 71 prisoners from the Manchukuo puppet regime. The interns in Fushun War Criminals Management Centre were subject to intensive thought reform, which brought about some suicides. The US's Office of Strategic Services came to the centre to view the process. After political rehabilitation, former counter-revolutionaries were sent back to Japan as an advance party to foment a communist revolution in Japan.[2] Some other Japanese prisoners were transferred from other locations such as Taiyuan War Criminals Management Centre, to bring the total number of Japanese prisoners to 982. The Japanese prisoners can be divided by occupation into 667 army personnel, 116 gendarme, 155 special police and 44 administrative. Of these 35 had the rank of general, 125 were field officers and 852 were junior officers or below.[3] Alongside these prisoners from World War II were inmates from the Chinese Civil War that ended in 1949. These Kuomintang prisoners numbered 354. In 1956, trials of the Japanese prisoners were undertaken. Over the period 1956 to 1964, the Japanese prisoners were all released.[4] Between 1959 and 1975, the Manchukuo and Kuomintang prisoners received special pardons and were released in stages. In total over 1,300 prisoners had passed through the centre. The Fushun War Criminals Management Centre was converted, in 1986, to a museum and opened to the public. The War Criminals Management Centre was depicted in several scenes of the 1987 Bernardo Bertolucci film, The Last Emperor, which won 9 Oscars. The centre was listed at Major Historical and Cultural Site Protected at the National Level in 2006.



↑1956年6月、中国東北部(旧満州)瀋陽(旧奉天)で開かれた「中華人民共和国最高人民法院特別軍事法廷」において証言する被告藤田茂(第59師団長)中将。Сигэру Фудзита (藤田茂, Fujita Shigeru , 17 сентября 1889 広島県出身— 11 апреля 1980) — кадровый военный офицер и генерал-лейтенант Императорской японской армии во время Второй китайско-японской войны и Второй мировой войны .・・・1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進み第59師団長に親補され咸興で終戦を迎えた[1][2][3]。その後、シベリア抑留を受け、1950年(昭和25年)7月、撫順戦犯管理所に移され、1956年(昭和31年)6月、禁固18年の有罪判決を受けた[1]。1957年(昭和32年)9月に釈放され、1958年(昭和33年)4月、舞鶴に上陸した[1]。1960年(昭和35年)10月から死去するまで中国帰還者連絡会会長を務めた+死去するまで嫌がらせの「無記名・偽名・住所なし」葉書・手紙に悩まされたUntil his death, he was plagued by harassing postcards and letters with "anonymous name, false name, and no address.''
*中华人民共和国最高人民法院特别军事法庭,是1956年中华人民共和国最高人民法院为审判日本战犯而设立的特别军事法庭,分别在辽宁省沈阳市和山西省太原市开庭审判了45名在抗日战争中犯有罪行的日本战犯。
*中国归还者联络会(日语:中国帰還者連絡会)為以战争犯罪关押在中國战犯管理所的舊日本軍軍人於释放遣返歸國後於1957年9月24日所組成的團体。简称为中归联(中帰連/ちゅうきれん)。會員資格為「侵略中國之戰犯、而中國以寛大政策使其歸國之人」,首任會長為前侵华日军陆军中将藤田茂。“中归联”于2002年解散。



↑(1)中国側が撮影・編集した記録映画。日本の降伏から武装解除。撫順・太原戦犯管理所における日本人戦犯たちの全貌。そして裁判開始から判決まで(日本語ナレーション)(2)法廷にて証言(涙を流し、嗚咽を抑えつつ)横の被告席に座る藤田中将を弾劾する中国民間人の被害者男性(藤田中将は責任と罪を認め、謝罪した)。また別の被害者男性による訴えを受けた鈴木啓久(第117師団長)中将も、泣きながら土下座して謝罪した。

铃木启久(日语:鈴木 啓久/すずき ひらく Suzuki Hiraku,1890年9月20日—1982年),大日本帝国陆军军人,福岛縣人。最終军衔陸軍中将。参与日本侵华战争期间长期在中国作战,1945年在中国东北被苏联军队俘虏,后移交给中国审判,1963年提前释放回国。铃木启久是“中國歸還者聯絡會”成员。










*Yoshio Tsuchiya (japanisch:土屋芳雄, 1. Oktober 1911山形県出身 – 30. Oktober 2001 ) war während des Antijapanischen Krieges Mitglied der Unabhängigen Garde der japanischen Mandschurei . Später trat er der Militärpolizei bei und massakrierte viele Chinesen im Nordosten Chinas.
①「遺憾でした」「迷惑をおかけしました」といった意図して責任を曖昧にする謝罪は論外として、謝罪することは「すみませんでした」「2度としません」と単に頭を下げることではない。自分がなぜ残虐行為を行なったか分析し、それを被害者に語り、さらに罪を背負っていかに生きるているかを伝えることである。許しは、分析と語りかけと生き方のなかにしかないApologies that purposefully obscure responsibility by saying things like "I regret it'' or "I've caused you trouble'' are out of the question, but apologizing does not mean simply bowing your head and saying "I'm sorry'' or "I won't do it again.'' Analyzing why you committed the atrocity, telling the story to the victim, and then telling them how you are living with the burden of guilt. Forgiveness can only be found in analysis, speaking, and living.

2020-01-18[Book review] “The miracle of the Fushun war criminals management center” that turned a murderer into a good witness
②だが、帰ってきた日本は変わっていなかったHowever, when he returned, Japan had not changed.・・・平和になったが、日本は変わっていなかったit became peaceful, but Japan did not change. 格好だけはよくなっていたが、昔とまったく同じだったIt had improved in appearance, but it was still exactly the same as before. 変わったのは自分だけだったThe only thing that changed was himself(56年7月に帰国した土屋さんMr. Tsuchiya returned to Japan in July 1956)・・・傷つくことを許さなかった、湿った脅迫の文化は今なお続いているThe culture of insidious intimidation that did not allow anyone to be hurt continues to this day. 罪を自覚することの意味を伝えようとした者に、沈黙を強いる文化は温存されているA culture that forces silence on those who try to convey what it means to be aware of sin persists.(Masaaki Noda野田正彰)。

×

非ログインユーザーとして返信する