日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

戦争と罪責・野田正彰/전쟁과 죄책/战争与责任/Guerre et blâme・Masaaki Noda/전쟁범죄(戰爭犯罪, 영어: war crime)追加(2023/09/10)①


The bereaved family's cry for peaceキリスト者遺族の会Christian bereaved family association(平和遺族会全国連絡会Peace bereaved family association national liaison committee)/小川武満Takemitsu Ogawa/新教出版社protestant press/1983年
                   第二章 道ならぬ道
      敢えて一人で立つ
 医師はいつも、自分たちの患者のために働いており、政治や戦争とは基本的に無関係であるという倫理的安全地帯を確保している。湯浅謙さんのように、軍医として生体演習にたずさわった人ですら、敗戦後、中国人も優れた日本人医師の腕を求めていると思い、実際、中国人に診療を乞われているうちに、戦前に何をしてきたか忘れてしまっていた。ましてや、直接人を殺すことのなかった軍医は、ひたすら病める者を治療しただけだと弁明する。
 そんな医師も、自分の所属する軍隊が何をしているのか、無知ではいられない。日本軍によって殺されていく無辜の民を見れば、彼の精神は傷つく。
 意味なく死んでいく負傷兵、無念の思いで死んでいく病兵の前で、彼は強い無力感を抱く。ほとんどの軍医が見たこと、知り得たことを忘却し、戦争時に感じた無力感をさらに強ばった弁明によって防御したとき、その無力感に向きあって生きようとしたひとりの医師がいた。
*靖国神社法案(やすくにじんじゃほうあん)は、靖国神社を国家管理とすることを定めた日本の法律案The Yasukuni Shrine Bill is a Japanese law that stipulates that Yasukuni Shrine should be managed by the state.
 1969年8月15日、靖国神社の社務所のそばに「靖国法案反対Opposed to the Yasukuni Shrine Bill」と胸に書いたゼッケンをつけ、一人で「遺族だから反対する!戦争は偉業ではないI object because I am a bereaved family member! war is not a (great cause)feat」というビラをくばっている男性(当時55歳)の姿があった。1942年1月に入隊し、翌43年3月より北支軍の軍医として石家荘病院に配属され、同年10月より敗戦まで北京第一陸軍病院に勤務した小川武満さんである。彼は北京陸軍監獄の軍医を兼務し、敵前逃亡などの罪に問われて軍法会議にかけられる多くの日本兵を診察した。敗戦の混乱期には、現地除隊を願い出て北京に残り、今度は戦犯として投獄された日本人のための医療にたずさわった。
 その日、彼はあえて一人で立っていた。どんな攻撃が加えられるかわからないが、命を懸けて靖国神社の境内に立っていた。靖国法案に反対する皆と一緒ではなく、死を見届けた多くの将兵の遺志を背負って、一人で、戦没者を英霊にすりかえ、戦争を偉業とみなす総ての人々に訴えなければならないと決めていた。彼の心は二十数年の歳月をこえて、癒されることなく死んでいった兵士たちの心の傷と共鳴しあっていた。
 靖国神社は1959年と66年にB・C級戦犯刑死者・獄死者を合祀。一方、自民党は1959年に宗教法人問題特別委員会を作り、靖国神社国家保護や伊勢神宮の非宗教法人化に取り組み、69年6月30日には、初めて靖国神社法案を議員提案により国会提出(審議未了)していた。それに先立ち、小川武満さんは『キリスト者遺族の会通信』(1969年5月16日付)に次のように書いた。

①Русскийロシア語→靖国神社問題Споры вокруг храма Ясукуни связаны с выбором японцев , которым почитают этот национально значимый синтоистский храм и военный музей в центре Токио ②Françaisフランス語→Le sanctuaire d'Ise (伊勢神宮, Ise-jingū?), aussi connu comme le grand sanctuaire d'Ise (伊勢大神宮, Ise-daijingū?), est le sanctuaire shinto le plus important du Japon, considéré comme le lieu le plus sacré de cette religion.
 「戦後24年を経過した今日、キリスト者遺族の会を結成しなければならない理由は何でしょうか?直接の動機は、靖国神社国家管理法案が今国会に上程されようとしたからです。日本遺族会が1400万人の署名を集めて、圧力団体として、この法案成立のために動いている時に、遺族の中にも信仰の立場から靖国法案に反対であることを宣言する必要を痛感したからです。このように、追いつめられた受身の立場で結成されたキリスト者遺族の会は、この会の出発に当たって、歴史を支配し給う主の御前に、今日まで24年間、キリスト者遺族として、戦争責任を自らの告白の課題として積極的に取り組まなかった怠慢の罪を悔い改めねばなりません。
*The Japan War-Bereaved Families Association (日本遺族会, nippon izokukai) is an association in Japan that was set up to represent the interests of relatives of deceased war veterans in the Second World War. Its headquarters are in Kudanminami, Tokyo. The group supports visits to Yasukuni Shrine in Tokyo to pay respects to Japan's war dead.
 ・・・靖国法案では、戦死者を英霊として尊崇し、その道徳をたたえ、その偉業を永久に伝えるとして、戦死者を偶像化し、戦争を偉業として美化しています。私は二人の弟を戦争で失い、私自身も戦死を覚悟して遺書を書きました。また軍医として戦争栄養失調症でミイラのようになってしんでいく人々を見守り、敵前逃亡兵の銃殺を見、戦場を逃避するための戦争ヒステリー患者や、自殺者や発狂者を見て、戦争の現実がどんなに悲惨な非人間的なものであるかを実感しております。それゆえに『再び英霊を出すな!!Don't send out the heroic spirits again! !』『再び戦争の悲劇をくり返すな!!Don't repeat the tragedy of war again! !』と叫ばざるを得ません。(中略)
 キリスト者遺族の会の国家権力に対する政治的な闘いは、同時に『キリストの教会につかえる』ことであります。なぜなら、キリストの主権に仕える者のみが真にこの世の権威と闘う勇気と力が与えられるからです。キリストの教会は、どんな時代にも、教会の首であり、世界の主でいますキリストの主権を明確に告白するものです。『カイゼルは王である』とするローマ帝国の総督ピラト(ポンテオ・ピラト(古典ラテン語: Pontius Pilatus(ポンティウス・ピーラートゥス)폰티우스 필라투스马库斯·庞提乌斯·彼拉圖斯、生没年不詳)Понтий Пилатは、ローマ帝国の第5代ユダヤ属州総督(タキトゥスによれば皇帝属領長官、在任:26年 - 36年)。新約聖書で、イエスの処刑に関与した総督として登場することで有名)に対して、『上からたまわらなければ何の権威もない』と告げ、『わたしは王である』と宣言せられた主イエス・キリストに仕える信仰告白の闘いとして、この闘いを通して教会に仕える者です。この意味で、キリスト者遺族の会は、キリストの教会に根ざし、主にある一致を与えられ、共に進んで行きたいと祈っております」
 この文章には医師としての心の傷と、キリスト者としての反省の二つが述べられている。この二つは、戦後を生きる小川さんの変らぬ課題であり、またこの二つは中国での医師伝道を志して東京日本神学校と満州医科大学を卒業した青年・小川武満に加えられた時代の試練でもあった。

      多くの死に直面して

 小川さんは、戦争栄養失調症で死んでいく兵士を見守り、敵前逃亡兵の銃殺に立ち会い、戦争ヒステリー患者や自殺者を見てきたと書いている。彼の心は、非人間的行為に耐えられなかった兵士たちの精神的外傷を直視することによって、傷ついた。それでも医師であった小川さんは自らの心の傷から逃げるのではなく、さらに国民党政権から戦犯として処刑されていく日本人将兵の死に立ち会った。
 衆を恃まず三日間、靖国神社に立ち続けた小川さんは、現場に立ち続けていた一人の戦争体験者として一人ひとりの戦争体験者にビラを手渡したかったのである。本当の戦争体験者なら、後方にいて戦争を国際情勢の成り行きとして考えるような者でないのなら、「戦没者を英霊としてはならないWar dead should not be treated as heroic spirits」というビラの一句は、戦没者の遺志であることをわかってくれるであろう。そう思いながら、小川さんは処刑された兵士の遺書を頭のなかで読み直していた。
 北京戦犯拘留所で小川医師が支えた戦犯死刑囚、高具勝(憲兵准尉、39歳)、高橋鍼雄(華北電信電話大興県分所長、39歳)、黒沢嘉隆(憲兵曹長、31歳)の三人は連名でこう書き残した。
 「銃殺刑を前に遠く祖国の皆さんに訴う。靖国は侵略戦争を反省各国にお詫びする神社にして下さい。『英霊』『勲章』は拒否します。戦争で日本軍は大変悪いことをしました。私たちに殺された中国人遺族の皆様に申訳ない。『聖戦』ではなく侵略であります。天皇陛下も侵略を各国にお詫びして下さい。お詫びは恥ではなく、日本の良心です。日本はかつてのドイツにならぬよう、二度と武器を持たないで下さい。国民党蒋介石軍の戦犯処刑の実体を帰国者から知って下さい。岡村寧次総司令官などの戦争責任者や、石井細菌部隊Einheit 731こそ厳重に処罰して下さい。吾身をつねり、殺される立場になって、その痛さを知りました。한민족朝鮮民族Koreansの伊藤博文(Hirobumi Itó (japonsky 伊藤 博文이토 히로부미; alternativní čtení: [Itó Hakubun], 16. říjen 1841 Cukari – 26. říjen 1909 Charbin)Іто Хіробумі byl japonský politik)に対する憎しみも日本に対する怒りもわかりました。祖国日本の平和と良心は民族の反省なくしては得られません。私達は日本軍の罪を背負って銃殺されて行きます」(註ー岡村寧次大将は支那派遣軍総司令官冈村宁次(日语:岡村 寧次/おかむら やすじ Okamura Yasuji,1884年5月15日—1966年9月2日),日本陆军军人,侵华日军战犯,支那派遣军总司令官(1944年11月 - 二战结束)
 黒沢は奇蹟的に脱獄に成功したが、高具、高橋の二人は北京の南、天橋刑場で処刑され、小川さんが遺体を引き取ったのだった。

 小川さんは、戦争で死んでいった者が英霊とされることを拒否し、生き残った者が戦死者を英霊と呼ぶ乖離を問題にしている。死んでいく者には生きるための打算はなく、限界状況における生と死の意味付けに真直ぐ向っている。だが、生き残った者には戦死者の霊さえ世俗的に利用しようとする打算が隠されている。その打算が、次の戦死者を準備する思想となる。
 「あなたが本当の戦争体験者なら、靖国法案に反対してください」、そう語りかけながら、小川さんは終戦記念日の靖国神社に立ち続けた。
 小川さんのビラを受け取った人は、初め何も言わない。次第に彼の周りを取り囲み、群になってから、怒鳴り始めた。
 「なんてことを言うんだWhat are you saying?」「英霊を冒瀆するのかWill you blaspheme the heroic spirits?」
 これらの怒声に、小川さんは答え続ける。右翼もやってきて、凄む。鹿児島県出身という右翼に、小川さんは話しかけた。
 「あなたは西郷さんを知っているか。西郷さんは靖国神社に祀られているのか。僕は西郷隆盛を良いとか悪いとか言うのではない。しかし、この神社は天皇のために戦死した者を選択して、戦犯者であれ誰れもかも英霊として祀っている。そして戦争を肯定している」
*Nederlandsオランダ語→Takamori (Takanaga) Saigō (Japans: 西郷 隆盛,Saigō Takamori사이고 다카모리) (Kagoshima, 23 januari 1828 – aldaar, 24 september 1877)Сайго Такамори was een van de invloedrijkste samoerai in de geschiedenis van Japan. Hij leefde tijdens de late Edoperiode en vroege Meijiperiode. Hij is vooral bekend vanwege zijn aandeel in de Satsuma-opstand van 1877.
 「右翼なら、場合によって人を殺すだろう。僕を殺そうとしに来たかもしれない。僕は戦争で何度も遺書を書いた。いずれは死ぬんだ。しかし、死んでいった人のためにも、僕は命をかけてでも反対しなければならないと思っている。だから、ここに立っているんだ。よく考えてから、ものを言え」
 小川武満さんは、その後、靖国神社法案の提出の動きがあるたびに、デモに加わり、靖国神社での座り込みを行ってきた。1984年1月5日、中曽根康弘は現職首相として戦後初めて靖国神社に年頭参拝。翌85年8月15日、中曽根首相は「戦後政治の総決算」を主張して、内閣総理大臣の資格で初めて靖国公式参拝を行った。この時、雨のなかを進む中曽根首相一行の前に小川さんは飛び出し、両手を広げて抗議の意志を示している。1969年3月に結成された「キリスト者遺族の会」の委員長、さらに86年7月7日、盧溝橋事件の日を記念して結成された「平和遺族会連絡会」の代表世話人として、小川さんは戦没将兵英霊化に反対してきた。
 ただし、小川さんは戦後一貫して戦争のことを考えてきたわけではない。北京で処刑される日本人将兵を支援し、48年末に帰国して以降、戦争時のことを思い出すのはしばらく嫌だった。クリスチャンとして、神と国家と戦争については考え続けたが、中国侵略のあの戦争については多くを語りたくなかった。人はあまりにも凄惨な体験、倫理的に到底受け入れがたい体験を忘れようとする。だが、忘れようといかに努めても、心的外傷となった体験は、その人の人生における位置付けを求めて浮び上がってくる。中国で出来なかった医療伝道に日本の僻地で打ち込んできた小川さんだったが、靖国神社法案は彼の体験抑圧を許さなかったのである。
 小川さんは、戦争を阻止できなかった過去を過去のこととせず、過去をどう生かすか、考えなければならないと思った。靖国神社法案に反対する行為に命をかけよう、と決めたのだった。そして、満州で育ち、満州医科大学を卒業し、軍医として戦争を体験していった過去をもう一度、想起することによって、自分はその時代に生きていたからよく分かっているという思い込みが、いかに主観的で間違いの多い認識だったか、気付いていったという。
 今、83歳、軍医として戦争に精神を押しつぶされていく兵士を看取った者の心の瘢痕と、キリスト者としての戦争責任の告白を聞いていこう。

①Polskiポーランド語→Mandżukuo [mànʈʂóukwǒ] Маньчжоу-Го(chiń. 满洲国만주국, chin. trad. 滿洲國, pinyin Mănzhōuguó, W.-G. Man-chou-kuo) Manchukuo, officially the State of Manchuria «Великая Маньчжурская империя»– marionetkowe państwo utworzone w 1932 r. przez Japonię na okupowanych przez nią obszarach Mandżurii, w północno-wschodnich Chinach.

②Italianoイタリア語→L'assedio di Porth Arthur, (in giapponese 旅順攻囲戦, Ryojun Kōisen, in russo: Оборона Порт-Артура)旅順會戰여순항 포위전 1º agosto 1904-2 gennaio 1905, fu una delle più lunghe e sanguinose battaglie terrestri della guerra russo-giapponese che si concluse con la conquista della base navale russa di Port Arthur (oggi Lüshunkou) e la cattura o distruzione delle navi della Flotta russa del Pacifico in essa ancorate②Українськаウクライナ語→Порт-Арту́р (кит. 旅順 люйшу́нь) 뤼순커우구Lüshunkou DistrictЛюйшунько́у— портове місто у Китайській Народній Республіці на березі Жовтого моря. З 1950 входить до складу міста Далянь, що нараховує 5 мільйонів жителів.
   「第一線」の子
 小川武満さんは1913年11月、旅順で生れている。兄弟は兄と姉、弟二人。父は九州帝大医学部を卒業後、陸軍軍医となり、奉天(現・瀋陽)赤十字病院の院長(陸軍大佐)を長く務め、その後、宇治山田赤十字病院や大阪赤十字病院の院長(陸軍少将)になっている。そのため武満さんは、父が欧米留学の二年間、仙台の小学校に通った外、成人するまで中国・奉天に育った。武満の名のとおり、軍人の子であり、満州の子である。兄は大学を卒業して満鉄調査部に入社、戦争でビルマに送られ、敗戦後に栄養失調で死亡。上の弟は43年夏に入営、45年8月に牡丹江陸軍病院で病死。下の弟も激戦地フィリピンで45年(月日不詳)に死亡している。戦争に生き、戦争に死んだ家族であった。

①Deutschドイツ語→Die Schlacht bei Mukden (jap. 奉天会戦봉천 회전, Hōten kaisen) wurde vom 7. bis 25. Februar 1905jul. (d. h. vom 20. Februar bis 10. März 1905greg.)Мукденское сражение zwischen der Kaiserlich Japanischen Armee und der Kaiserlichen Russischen Armee in der Nähe der mandschurischen Stadt Mukden ausgetragen. Sie war eine der größten Landschlachten, die vor dem Ersten Weltkrieg stattfanden, und war die entscheidende Landschlacht im Russisch-Japanischen Krieg. Die Stadt Mukden heißt inzwischen Shenyang und ist die Hauptstadt der Provinz Liaoning in China

②Românăルーマニア語→Shenyang (沈阳Shěnyáng, în lb. chineză)瀋陽, sau Mukden (în dialectul manciurian), este capitala provinciei Liaoning, situată în nord-estul Chinei. Are o populație de 7,2 milioane de locuitori și o suprafață de 12,924 km². Este un important centru industrial și comercial. Orașul mai era cunoscut și sub numele de Shengjing (盛京), sau Fengtian (奉天).
 幼少時の思い出は、やはり軍人の子として始まる。銃剣をつけた日本兵に守られながら、赤十字病院の官舎から城外の日本人街区にあった幼稚園に通った。城門では中国兵が監視していた。
 3月10日の陸軍記念日(日露戦争の奉天会戦の後、日本軍が奉天を占領した)には、小学生も日本軍とロシア軍に分かれ、奉天会戦の模擬戦をさせられた。お手玉大の砂袋をぶつけあい、当った部位で「戦死」、「腕は使えぬ」、「足をやられた」といった判定が下される。女の子が看護婦になり、少年兵をタンカに乗せて連れていく、日本軍七万、ロシア軍九万の戦死者を出したという奉天会戦。ちょっと掘れば戦死者の骨が出てくる同じ場所で、子供たちは軍旗を奪いあう訓練を受けたのである。
 忠霊塔の前を通る時は、必ず敬礼する。学校に入ると、御真影(宮内省から各学校に下付された天皇・皇后の写真)の前で敬礼する。こうして体で天皇崇拝を覚えさせた上、校長から「教育勅語」にもとづく修身教育を叩き込まれた。
 中学生になると実弾射撃をふくむ軍事教練があった。必須科目として柔道か剣道が選ばされ、17、8歳になれば一人前の兵士としていつでも使えるように鍛えられた。内地と違い、そこは外地の第一線であった。
 1928(昭和三)年、張作霖爆殺事件が起こったとき、小川さんは中学生になっていた。窓ガラスが爆音でビリビリと響いた。外に飛び出し、鉄道現場(皇姑屯)へ駆けつけようとしたが、警戒線がはられ近付けなかった。(なお、爆殺の謀略を仕組んだ関東軍高級参謀河本大作大佐は停職処分の微罪で退役、後に太原に移って山西産業社長となり、湯浅謙さんたちを戦後の中国に引き止めた人物である。)

①Françaisフランス語→L'incident de Huanggutun (皇姑屯事件), appelé l'incident de l'assassinat de Zhang Zuolin (
張作霖爆殺事件, Chosakurin bakusatsu jiken?)Хуангутуньский инцидентpar les Japonais, est un assassinat politique provoqué par l'armée japonaise du Guandong le 4 juin 1928②Zhang Zuolin[a] (March 19, 1875 – June 4, 1928)장쭤린張作霖 was a warlord who ruled Manchuria from 1916 to 1928. He led the Fengtian clique, one of the most important factions during China's Warlord Era.

③Deutschドイツ語→Daisaku Kōmoto河本大作(24. Januar 1883 – 25. August 1955), gebürtig aus der Präfektur Hyogo兵庫県出身, war ein Oberst der japanischen Armee während der Showa-Ära und Stabsoffizier der Kwantung-Armee陸軍大佐.
 治安も悪かった。夕刻になると馬賊が現われ、両替店を襲ったりした。警察に追い詰められた馬賊が、日露戦争記念碑の建っている大広場まで逃げてくる。そこは赤十字病院の官舎の近くであり、小川少年が赤レンガの塀の陰から見ていると、撃ちあいが始まる。馬賊が一人殺され、二人殺され、次々と殺されていく。ある時は、逃げた馬賊が家の近くに潜んでいるということで、家の周囲を警察に取り囲まれたりした。

Bazoku no Uta/Horse bandit song*마적(馬賊)은 도적의 일종으로, 기병 조직의 기동성을 이용해 전투를 벌이고 무역을 행하는 집단을 가리킨다. 대표적인 것이 청조 말기 만주에서 활동하기 시작한 마적들이며, 이미 명조 이후 시점에서 말을 타고 활을 쏘며 보행자들을 약탈하는 향마(響馬)라 불리는 집단이 존재했다.
 このような情況で、在留日本人はやはり日本軍や日本の警察に守ってもらうことを求めた。派兵増強を求めるデモ行進も行われた。
 奉天の北、柳条湖で満州事変(1931年9月18日)が起きたとき、小川さんは満州医科大学予科に入学していた。反日感情も強く、軍隊は「匪賊討伐」といって市外に出ていく。それでは日本人街の守備が心配なため、学生が動員され、銃をもって警備につかされた。

*Italianoイタリア語→L'Incidente di Mukden九一八事變, o Incidente della Manciuria, noto in cinese come Incidente del 18 settembre (九・一八),Мукденський або Маньчжурський інцидентfu un evento false flag messo in scena dal personale militare giapponese come pretesto per l'invasione giapponese della Manciuria del 1931.만주사변
(滿洲事變)류탸오후 사건(柳條湖事件)
 中国人は貧しく、奉天城内の路上に行き倒れの死体がよく見られた。阿片中毒、結核、伝染病、栄養失調で死んでいった。とりわけ零下20から30度になる冬には、凍死者が続出した。そのため、盗みを行って監獄に入るほうが命を守る手段とさえ考えられた。運河の氷が氾濫したり、逆に水不足になったりしたため、奉天付近の農村はしばしば飢餓にみまわれた。口べらしのため、子供を籠に入れて城内に売りにくる農民もいた。死んだ幼児は野原に投げ捨てられ、野犬が食いちぎっていた。
 小川武満さんは優等生であり、よく先生の言うことを聞く軍国少年、愛国少年だったが、経済的にも知的にもとりわけ恵まれた家庭に育ち、正義感の強い、思い遣りの深い子供でもあった。彼は、官舎の近くの大広場にたむろする浮浪児に関心をもち、仲良しとなった。両親を失った子供たちは仲間同士助け合って生きていた。ロシア革命から遁れてきたロシア人の孤児も混っていた。彼らは各所の残飯を集め、皆で持ち寄ってドラムカンに入れ、ぐつぐつ煮て食べた。一緒に食べる小川少年は、最高のご馳走に思えた。そんな少年の成長を見守る精神的余裕が、両親にはあった。
 毎日、広場の浮浪児たちと遊ぶ小川さんは、彼らの逞しく自由な生き方と素朴な友情に引きつけられた。それは、強ばった日本人の子供にはないものだった。
 修身の時間に、大きくなったら何になりたいか、書かされたことがある。小川さんは、「蒙古の草原で、大牧場主となりたい。お嫁さんは日本人、蒙古人、中国人、ロシア人で、沢山の混血の子供たちと楽しい村を作りたい」と書いて、皆に笑われた。流行した「馬賊の歌」や浮浪児たちに学んだ自由への憧れと、聞きかじりの「五族協和」論(1912年、中華民国成立によって主張された、漢族、満州族、蒙古族、回族、チベット族の協同による「五族共和」を日本に都合よく摩り替えたスローガン)が、少年の夢に混ざりあっていた。また、張作霖は第八夫人、張宗昌(奉天系の軍閥)は第25夫人まで持っているという話を聞いていた。

①Españolスペイン語→Cinco razas bajo una unión (chino tradicional:五族共和오족공화; pinyin:wǔzú gōnghé
, «cinco razas o cinco grupos étnicos juntos en armonía»)Five Races Under One UnionСоюз пяти народов
fue uno de los grandes principios en el que se fundó originalmente la República de China en 1911

②Deutschドイツ語→„Fünf Rassen unter einer Union“ ( chinesisch :五族協和, japanisch :五族協和)П'ять народів у одному союзі (Маньчжоу-го)Concordia of Five Nationalities오족협화wurde in Mandschukuo als nationales Motto für die fünf ethnischen Gruppen der Mandschu , der Japaner , der Han-Chinesen , der Mongolen und der Koreaner verwendet .

③Русскийロシア語→Чжан Цзунчан (кит. трад.張宗昌장쭝창, упр.张宗昌, пиньинь Zhāng Zōngchāng, 1881—1932) по прозвищу Генерал Собачье Мясо — китайский милитарист из провинции Шаньдун.
 軍国少年として「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」(教育勅語)に痺れる大和魂を持ち、日本を盟主とする五族協和のイデオロギーを身につけた小川武満さんは、成長するにしたがい、奉天市街の現実と自分が生きようとする理念との隔りに気付くようになる。
 例えば、中国人の少年に「今日は俺が車夫になろう」といって、車を一日牽いたことがあった。渡り鳥の研究で野山を駆け巡っていた彼は、足に自信があった。中国人の車夫の服を着て、日本人を乗せて走る。散々乗り回した男は、一銭も払わないで車を降りる。小川少年がカネを請求すると、突然殴りかかってきた。これが「八紘一宇」、「五族協和」の実態だった。
 人さまざま、卑劣な人間もいればそうでない人間もいる。そう彼は割り切ろうとしたが、日々の現実は痛ましいものだった。満州医大予科に入学した年の夏休み、理論武装のために、宇治山田で行われた「希望社」の学徒連盟幹部講習会にも参加した。伊勢神宮に参拝し、「身を清めて天照大神の前に救国の聖学を必ず果たす」と誓った。希望社は後藤静香の指揮する皇室中心の愛国倫理運動である。当時、修養団、報徳会など右翼倫理運動団体が盛んに講習会を開いていた。
*Françaisフランス語→Shizuka Goto後藤静香 ( 19 août 1884大分県出身 - 15 mai 1969 ) était un éducateur social et activiste japonais .
 こうして心身ともに天皇制イデオロギーを習得した小川さんには、思考の上での矛盾はなかった。
「日露戦争で日本がロシアを叩かなければ、ロシアが満州をすべて支配したであろう。朝鮮も支配したであろう。それを、日本が代って阻止した。
 中国は行き倒れも多く、馬賊は横行し、社会は乱れている。威張っているのは軍閥であり、軍閥と軍閥の戦で民衆が犠牲になっている。蔣介石の北伐といっても、何もできはしない。中国人は秩序を作ることが出来ない。
 中国人や朝鮮人は民族主義を持っていても、外敵と戦う力がない。日本人の使命は秩序のないところに新しい秩序を作ることにある」

①The Warlord Era민국군벌民國軍閥군벌 할거 시대軍閥割據時期was a period in the history of the Republic of China when control of the country was divided among former military cliques of the Beiyang Army and other regional factions from 1916 to 1928②Nederlandsオランダ語→Chiang Kai-shek蔣介石장제스 (jiaxiang: Jiangsu 江苏, Yixing 宜兴) (Fenghua, 31 oktober 1887 – Taipei, 5 april 1975)Чан Кайши, ook gespeld als Tsjang Kai-Sjek (Kantonese uitspraak) of Jiang Jieshi蔣中正장중정 (Mandarijnse uitspraak), was een Chinees nationalistisch politicus

③Українськаウクライナ語→Північний похід북벌Northern Expedition北伐běi fá) NordfeldzugСеверный поход

Expédition du Nord— військова кампанія гоміньданівської Національно-революційної армії Китаю під керівництвом Чан Кайші за підтримки комуністів, що відбувалась у 1926-1927 роках. Метою походу було об'єднання країни військовим шляхом. Число військовиків, які брали участь у поході складало від 100 000 до 250 000 осіб
 こうして大陸進出を理論化しても、満州事変後の社会の緊張に同調するのは難しかった。日本人街守備のため、在郷軍人と共に学生も歩哨に立ったのだが、夜、誰かが近付くと「誰か!誰か!誰か!」と三回誰何して、答えがなければ発砲する。闇のなか、いつ襲われるかもしれないという不安。敵はまずこちらの武器を奪いにくる、まず命を取ってから中に入る。そう考えれば考えるほど、緊張してくる。こうして夜になるとあちこちで銃声が響き、通りかかった中国人が殺されていった。そのなかには、小川さんが人力車を借りた車夫もいた。
 やりきれなかった。自分は何のために歩哨に立ったのだろうか。
 警備につくとき、小川さんは両親に宛てて遺書を認めていた。
 「私は今、在満日本人のため、中国東四省の民衆のため、また東洋の平和を願い、世界の平和を愛するため、微力ながら銃を取って立つことになりました。もちろん、私はよろこんで死ぬつもりです。私の死を知ったら、どうかよろこんで下さい。決して私は無駄に死んだのではないのです」
 あの遺書は嘘を書いていた。「中国東四省の民衆のため」と言って、実は中国人を殺す側の一人になっている。「大義ヲ八紘二宣揚シ坤輿ヲ一宇タラシムル」、「各其ノ所ヲ得シメル」、つまり秩序のないところに新しい秩序を作るといっても、結局、弱い人間、慣れない人間が先に発砲し、人を殺しているだけだ。武器を持って平和を守るという理念が現実に何を引き起こすのか。小川青年ははっきりと知ったのだった。
 同じように、多くの中国人が各所で射殺されていった。満州事変で攻撃目標となった張学良の軍隊のいた北大営は、日本軍に占領された。その付近を通る農民や労働者たちは、警備兵によって射殺された。「無断で通行する者は射殺する」と日本軍の立て札が立てられた。日本兵は命令に従っただけだった。だが、中国農民にとって、そこは昨日まで歩いていた道だった。一人殺せば、百人の敵ができる。愛国学生運動の幹部であった小川さんの理論は、満州事変後の現実のなかで脆くも崩れていった。

①Русскийロシア語→Чжан Сюэля́н (кит. трад. 張學良Chang Hsueh-liang, упр. 张学良장쉐량, пиньинь Zhāng Xuéliáng, 3 июня 1901, — 14 октября 2001) 張作霖の長男— правитель Маньчжурии в 1928—1931 гг., один из ведущих деятелей гоминьдановского Китая 30-х годов XX века, сын главы фэнтяньской клики Чжан Цзолиня, «Старого маршала», в противоположность которому получил прозвище «Молодой маршал» (кит. 少帥)

②1990年にはNHKの取材を受けたがIn 1990, he was interviewed by NHK「私は一生を日本によって台無しにされましたMy whole life was ruined by Japan」、「日本ははっきりと中国に謝罪すべきだJapan should clearly apologize to China」「日本はなぜ東條のような人を靖国神社に祀っているのかWhy does Japan enshrine someone like Tojo at Yasukuni Shrine? 靖国神社に祀られる人は英雄であるThose enshrined at Yasukuni Shrine are heroes. 戦犯を祀るのは彼らを英雄と認めたからなのかDo you enshrine war criminals because you recognize them as heroes?

 あけて32年1月8日、天皇は「満州事変二関シ関東軍二賜リタル勅語」で関東軍将兵を励ました。

「満州ニ於イテ事変ノ勃発スルヤ自衛ノ必要上関東軍ノ将兵ハ果断迅速寡克ク衆ヲ制シ速二之ヲ芟討セリ爾来艱苦ヲ凌キ祁寒ニ堪ヘ各地ニ蜂起セル匪賊ヲ掃蕩シ克ク警備ノ任ヲ完ウシ・・・、勇戦力闘ヲ以テ其禍根ヲ抜キテ皇軍ノ威武ヲ中外ニ宣言セリ朕深ク忠烈ヲ嘉ス・・・」。匪賊の掃蕩とは何を意味するか、体で知った小川青年は国粋主義を捨て、この勅語にもはや眩惑されることはなかった。

     彷徨

 小川武満さんは、それからキリスト教や禅宗の門を叩いた。父親の小川勇さんは、倫理や宗教に作詣の深い人である。旧制五高のときに、ふと洗礼を受けたこともあった。日本のキリスト教会の指導者、植村正久(Deutschドイツ語→Uemura Masahisa (japanisch 植村 正久; geboren 15. Januar 1858 in Edo東京都出身; gestorben 8. Januar 1925 in Tokio) war ein japanischer Kirchenführer, Übersetzer und Herausgeber der Meiji- und Taishō-Zeit.)や海老名弾正(Ebina Danjo (海老名 弾正) (September 18, 1856福岡県出身 – May 22, 1937)[1] was a Japanese educator and philosopher, as well as a Christian missionary and pastor)に議論をしに行ったこともある。賀川豊彦(Русскийロシア語→Тоёхико Кагава (賀川 豊彦, Кагава Тоёхико , 10 июля 1888兵庫県出身 — 23 апреля 1960) — японский протестантский христианский пацифист , христианский реформатор и профсоюзный активист)が伝道で奉天に来ると、いつも小川家に泊っていた。後に、キリスト教も仏教も神道も煎じ詰めれば真理へ至る道だと力説し、神道の改革を主張する宣揚会を作ったりしている。軍医の高官であり、また一言居士だった。こんな父の影響もあったのか、小川さんは日本基督教会(奉天)の林三喜雄牧師を訪ね、「理想と現実の矛盾をどう克服すればいいのか」と問うた。

 若い林牧師は、人間の罪とキリストによる贖罪について話してくれたが、よくわからなかった。五族協和を求めてきた自分が罪人であるとは、どうしても認められなかった。それでも、「神を信じていくしかない」と決断し、32年の圣诞节降誕祭Christmasに洗礼を受けた。

 ひたむきな小川さんは、洗礼を受けた以上、理想的なクリスチャンになろうとした。林牧師の説教を総てノートにとり、朝と夕の礼拝も欠かさず出席した。だが、闇雲の没頭は一年も続かなかった。というのも、教会にほとんど出てこない信徒や長老をみると、教会への不信が募ったからである。

 神からの脱出をはかろうと試み、曹洞宗の寺で座禅を組んだこともある。老師が「天地をひっくり返してみよ」と言えば、咄嗟にごろっとひっくり返る。「手を用いないでこれを取れ」と言われれば、さっと手で取る。言葉にとらわれず、真髄をつかむ、修行三昧の日々を送り、一年ぐらいして「空の境地」の禅問答に合格した。だが、「それでいい」と老師に言われると、がっかりした。こんなのが空の境地か、と。同時に、高僧から言われた、「物にとらわれない境地をもって、仏の道に進みなさい」という教えを、我執に囚われずキリストの内に生きることに振り替えた。あの長老は教会に出てこない、あの先輩はこの点が尊敬できないといったこだわりを捨てた。

 空の境地をもって聖書の言葉に立ち返ろうと思って、教会に帰ったとき、聖餐式があった。小川さんは、その時の信仰体験を次のように語る。

 「自ら省みて、聖餐にあずかる資格がないのではないかと躊躇していると、三度拒んだペテロ(ペトロ (ヘブライ語: שִׁמְעוֹן בַּר־יוֹנָה‎、PietroSaint Peter古代ギリシア語: Πέτρος、古典ラテン語:Petrus)(生年不明 - 67年?)Апостол Пётр彼得 (使徒)베드로は、新約聖書に登場する人物で、イエス・キリストに従った使徒の一人。初代ローマ教皇とされる)にイエスが『なお、愛するか』と言われた聖書の個所が浮んできて、こんな自分のために自分の肉を裂き、血を流して下さったキリストの臨在を感じ、聖餐は実に恵みの聖典であることが実感として迫り、涙ながらに聖餐にあずかったのであった」(『地鳴り』小川武満、キリスト新聞社、1995年)。

 つまり禅の修行がキリストへの信仰を飛躍させた。神道、右翼愛国主義への失望からキリスト教へ、さらに禅宗を迂回してキリスト教へ、満州の宏漠とした大地と戦争の時代は、青年に一途な思想形成の道を用意したのであった。


Dec 30, 2003 — 平和遺族会全国連絡会代表だった小川武満氏(おがわ・たけみつ)さん(医師、牧師)が、12月14日午前2時18分、急性腎不全のため神奈川県津久井町の病院で逝去されました
Mr. Takemitsu Ogawa (physician and pastor), who was the representative of the National Liaison Committee of the Peace Bereaved Families Association, passed away at 2:18 a.m. on December 14th at a hospital in Tsukui Town, Kanagawa Prefecture due to acute renal failure.享年90歳Passed away at 90 years old.

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