日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

戦争と罪責・野田正彰/전쟁과 죄책/战争与责任/Guerre et blâme・Masaaki Noda/전쟁범죄(戰爭犯罪, 영어: war crime)/⑤


Polskiポーランド語⇒第2次中日戦争Wojna chińsko-japońska (1937–1945), zwana również drugą wojną chińsko-japońską – wojna toczona od 7 lipca 1937 do 2 września 1945[1], będąca ośmioletnim zmaganiem między Republiką Chińską i Cesarstwem Wielkiej Japonii. Rozpoczęła się przed wybuchem w Europie II wojny światowej i zakończyła się po kapitulacji Japonii w wojnie na Pacyfiku.
Azərbaycancaアゼルバイジャン語→731部隊731-ci dəstə (yap. 731部隊) — Keçən əsrin 30-40-cı illərində Yaponiya ordusu Çin ərazisində «731-ci dəstə» adı altında bioloji silah sahəsində və bakterioloji müharibə zamanına hazırlıq üzrə tədqiqatlar aparırdı.

Suomiフィンランド語⇒Kempeitai (jap. 憲兵隊, ”sotilaspoliisi”) oli Japanin keisarillisen armeijan sotilaspoliisi vuosina 1881–1945. Armeijan oman järjestyspoliisin tehtävien ohella se toimi eräänlaisena salaisena poliisina, joka kotimaassa toimi sisäministeriön alaisuudessa ja merentakaisilla alueilla vastaavasti sotaministeriön.
第11章 ”させられた”ではなく

憲兵の功名心
憲兵は一般の将兵と違って、より思想的に軍国主義に防禦されており、また中国人を直接、執拗に苦しめる立場にあった。彼らはなぜ、難関の試験を受けてまでして、憲兵になったのか。加えた拷問は、彼らの心に罪の意識として残ったのだろうか。
日本の憲兵は軍事司法警察の面よりも、強権的な公安警察としての任務を持ち、思想取締りに当っていた。1924年5月、陸軍大臣宇垣一成(宇垣一成(庆应4年阴历6月21日(1868年8月9日) - 昭和31年(1956年)4月30日)、日本的陸軍軍人、政治家(陸軍大臣)。陸軍大将)は、憲兵隊長会議において、「平時両略ヲ通シ軍ノ存在ヲ危殆ナラシムル各種ノ企画ニ対シ捜査警防ノ全キヲ期スルハ主トシテ憲兵ノ努力スヘキ所二シテ軍事警察ノ主眼実ニ此ニ在リ」と訓示している。28年には、内部に思想係を設置。日中戦争と共に、防諜や情報収集活動を強力に行っている。
とりわけ海外侵略地域においては、人々のあらゆる活動が反日的として取締りの対象になる。軍を背景に、現地の警察の上に立ち、強権を持って居住民を監視した。東条英機は満州国創設後に関東軍憲兵司令官になり、その後の入閣後も「憲兵政治」とよばれる軍国主義を強化していったことはよく知られている。この章から、2人の分析に入っていこう。
1993年から94年にわたって、全国を回覧した「731部隊展」において、胃癌の手術後の痩せた体で証言を続けていた三尾豊さん(83歳)は、満州事変を謀略で引き起こし満州を軍事支配していった関東軍の憲兵であった。
三尾さんはこれまで、憲兵として行なった拷問、虐殺を反省し、いくつかの平和集会で証言してきた。だが、人体実験で細菌兵器を作っていた731部隊ほども、自分は悪行を犯したと思い込んでいた。一度、命令で中国人を731部隊まあで護送しただけであり、それ以上ではないと思い込んでいた。ところが、逮捕者を731部隊へ運んだ証言をはじめるとすぐ、人間を実験材料として運ぶ者がいたからこそ、731部隊が機能したことに気付かざるを得なかった。
43年10月、大連憲兵隊はソ連の無電諜者を検挙し、関係者を17人逮捕した。これを憲兵隊は「大連事件」とよぶ。事件の発端は、満州86部隊(無電捜査の特別部隊)が大連市内から怪電話が発信されていることをキャッチし、大連郊外の黒石礁という所が発信源であると突きとめたことに始まる。大連憲兵隊は、発信者がその集落で写真館を営んでいる沈得竜であると確認し、写真館を包囲の上、彼を逮捕し無電機を押収した。
三尾さんはこの時、検事班の班長として10名の憲兵を指導して参加していた。
沈得竜は拷問されて、自分は朝鮮族であり、朝鮮独立軍に参加し、無電諜報員として日本軍の移動、兵器・物資の移動情報をロシアのチタに送る使命をもっていたと自白した。また、天津経由で大連に入る際、天津滞在に便宜をはかった2人の中国人がいたことも喋った。
三尾さんはこの2人の逮捕を命じられた。10日間ほど天津に滞在し、現地憲兵の強力を得て、紡積工場経営者の王輝軒と王学年という青年を逮捕し、大連に連行した。別の憲兵が、情報提供者の李忠善を瀋陽で逮捕してきていた。
それから1ヵ月、連日連夜の拷問に欺瞞懐柔工作を加え、組織の追及を行った。それでも王輝軒が沈得竜の宿泊を提供したこと、王学年は沈得竜とモスクワの人々の生活について話しあったことが分かっただけであった。その後、大連憲兵隊長は囚人の中国人を、後で述べる731部隊への「特移扱」とし、三尾さんにハルピンへの移送を命じたのである。
三尾さんはこの時、「沈得竜と李忠善はソ連の諜者であるが、王輝軒と王学年の2人は天津滞在中に便宜提供しただけだ。自分が調べたのでよく知っている。それを特移扱はひどい」と思った。だが、特移扱を出すことは憲兵隊にとって功績となる。三尾さんは2人を取り調べた者として、特移扱にする必要はないと意見を出せる立場にあったが、そのままにしてしまった。こうして大連憲兵隊長は関東憲兵隊司令官より表彰され、大佐に進級していた。ここで「特移扱」について、説明しておこう。


言うまでもなく、「731部隊」は細菌戦遂行のため日本陸軍が1933年に創設した「関東軍防疫給水部」本部の略称である。戦後は部隊長の石井四郎中将(軍医=Ο Σίρο Ίσι (石井 四郎, 25 Ιουνίου 1892 στη Σιμπαγιάμα της Ιαπωνίας - 9 Οκτωβρίου 1959 στο Τόκιο) ήταν ο διοικητής της μονάδος επτά τριάντα ένα, κατά τον Σινο-ιαπωνικό πολέμου )の名をとり、石井部隊と呼ばれることが多い。1939年に建設された本部はハルピンの南25キロの平房に、飛行機を含む大規模な人体実験施設を持っていた。大連の衛生研究所、新京(長春)の100部隊、安達の細菌戦特別実験場など9ヶ所に支部を持ち、さらに関連部隊として北京(1855部隊)、南京(1644部隊)、広州(860部隊)、シンガポール(9420部隊)と結んでいた。
本部の平房には39年より敗戦まで約3千人が送りこまれていたとされている。子供を含む中国人、ロシア人、朝鮮人、モンゴル人、少数の欧米人が実験棟に隔離され、人体実験と実験後の生体病理解剖によって殺されていった。この犠牲者となる731部隊送りを、関東軍憲兵隊は「特移扱」-特別移送扱いーと呼んだのである。軍事警察である憲兵隊は容疑者の逮捕、取り調べの後、満州国の法院(3審判)に送検されなければならない。法制上、裁判にかけずに殺害の決定はできない。にもかかわらず、必ず虐殺される731部隊送りを一片の通牒によって実行していたのである。

関東軍憲兵隊長に宛てられた「特移扱ニ関スル件通牒」の判断基準の表(『続・現代史資料 6巻 軍事警察』みすず書房、1982年)を見ると、諜者謀略員のカテゴリー内、「特移扱相当人物ノ一味」に「罪状軽シト誰モ釈放スルヲ不可トスルモノ」とある。これでは、憲兵に不利と思える者はすべて人体実験に使ってよいなとなっている。もし731部隊が日本本土にあれば、多くの思想犯や政治犯が特移扱になっていたかもしれない。
三尾豊班長が取り調べた2人も、「特移扱相当人物ノ一味」で「罪状軽シト誰モ釈放スルヲ不可トスルモノ」として、ハルピン・平房送りとなったのである。大連からハルピンへの移送を、彼ははっきり憶えている。
「私は部下4人を指揮して、4人に厳重な捕縄をかけました。私たちは取べ調べ中、彼らに「憲兵の協力者として釈放する」と約束していました。彼らは「鬼の言ったことはすべて嘘だった。どこへ連れていくのか」という怒りと不安を押し殺していました。私は自分の父親と同じ歳である王輝軒(50歳)を調べましたが、何もやっていない。当然釈放するだろうと思っていましたので、本人にもそう伝えていました。もう1人、若い王学年は、逮捕するとき、婦人と赤ちゃんがいました。列車内では憲兵が1人ひとり相向かって座り、ハルピン駅まで送っていきます。騙し続けた者と向かいあって、それはそれは長い時間でした。ハルピン駅には、731部隊付の憲兵が待ち受けていました。その憲兵は私と同じ階級で、私より若そうでしたが、異様な感じを受けました。部下の憲兵に荒っぽく指示し、4人の中国人に手錠をかけると、捕縄を解き、投げ返してよこしました。黒いワゴン車に4人を蹴り込むようにして入れ、鉄の扉を閉めました。私たちは移送の任を解かれてほっとしましたが、同じ憲兵でありながら、731部隊の憲兵の異様な雰囲気に驚いたのです」
こうして送られていった人々は、ペスト菌の毒性テストや凍傷実験など手をこえる人体実験に使われ、苛め殺されていった。いかに安易に特移扱が作られていったか、三尾さんは次のような事件を記憶している。
「大連憲兵隊に、郵便検閲班というのがありました。憲兵が郵便局員になりすまし、郵便局の密室で不穏文書の発見に当るのです。1944年のこと、たまたま北京で発行している新聞の論説に反論する役書が載っているのに、目をつけた憲兵がいました。この投稿者を探し出して逮捕し、反満抗日分子として特移扱にしたのです。1市民が、とりたてて問題にならないような意見を述べただけで、裁判にもかけられず、731部隊に送られたのです。憲兵は功績を狙って事件をでっち上げるのです。この憲兵も間もなく進級しました」
被害者に直面して
しかし三尾さんは「自分はこんなでたらめはしていない。4人の中国人の運び屋をやっただけだ。天津の2人についてはわだかまりがあるが、隊長の命令だった」と思っていた。ところが、50年を経て、731部隊について知っていることを話しているうちに、次第に苦しくなってきた。とりわけ39年7月、仙台で731部隊展の講演ではいたたまれなかった。中国から731部隊の犠牲者の妻が来日し、証言するという。三尾さんも関東軍憲兵として証言することになっていた。彼女と机を並べて話す。彼女は聴衆に向って、
「自分の夫は731部隊で殺された。どんなに残酷な殺し方をされたことか。・・・憲兵が夫を連れていった。憲兵が夫を奪わなければ、731部隊に行くはずがない。憲兵よ、私の夫を返せ」語った。聴衆に語りかけながら、明らかに彼女は横にいる三尾豊・元憲兵に怨みを伝えている。三尾さんの知らない事件の遺族だが、彼は身を堅くしていた。
三尾さんは頼まれれば満州での憲兵体験を語り、反戦平和を訴えてきた。10年前に胃癌の手術をし、62キロあった体重は44キロ、体重は回復していない。それでも、平和を求める集会には足を運んできた。ただし、本当の心の苦しみはあったのだろうか、と再度考える。
心の片隅には、「俺は戦闘部隊の将兵のような、大したことはやっていない。軍刀で首を斬るようなことはやっていない」という言い訳があった。731部隊について語ってほしいと頼まれたとき、自分は部隊本部で何が行われていたか、何も知らない、と言ってきた。だが殺される者にとって、残された遺族にとって、他の加害者との悪の比較や自分のための言い訳に、何ほどの意味があるのか。すでに80歳をすぎた。病気が悪化してもいい。死ぬまで遺族の思いを聴き、自分が何をしたのか考え続けよう。三尾さんは、仙台の証言の後、そう決めていた。
三尾さんはどうして憲兵になったのだろうか。憲兵は他の兵士よりも給与が高い。家が貧しく十分な教育をうけられなかった兵士のうち、記憶力の良い者が憲兵を目指した。三尾豊さんも、岐阜と長野の県境の山里(岐阜県恵那付知町)の貧農の家に生まれた。五反百姓の次男坊だった。尋常小学校を出てから21歳で岐阜の68連隊に徴兵されるまで、田園と養蚕の手伝いをしていた。1934年、入隊の年に、東のソ連国境に近い牡丹江に駐屯となった。
当初、牡丹江は中国人の小さな集落だった。2,3年のうちに軍都に変った。日本軍の支配が固まっておらず、連日、討伐に出た。山村の厳しい生活を送ってきた三尾青年は、軍隊生活によく適応した。
「日本に帰っても十分な生活はできないだろう。職業軍人になろうと決め、下士官候補にまでなったんです。それよりも、憲兵がいい。給与は多いし、一般部隊と違って管区居住できる。これなら、街に住む公務員と同じだと思ったんです」
しかし、憲兵の志願兵は多く、試験は厳しい。1年以上軍隊勤務した男たちがさらに身体検査で選別され、難しい考査試験を通らねばならない。三尾さんが受験したときは、約1千人が応募し150人が合格した。その後、3ヶ月間、短期集中教育が行われ、学習に耐えられた者で、且つ身元調査で親族に思想的問題がないと確認された者が憲兵に採用される。合格者は旧制高校、大学夜間部、旧制中学卒が多数おり、三尾さんは必死になって教科を暗記した。それでも第1次の採用には漏れ、いったん満期除隊になった後、1936年4月、採用となった。結局、150人の合格者のうち100人ほどが憲兵になれたのである。斉斉哈爾(チチハル)を振り出しに、次に牡丹江駐屯の第12師団の配属憲兵になり、抗日軍との戦闘で右大腿部貫通銃創の重傷を負い、配属除隊になり、再びチチハル憲兵隊に戻り、牡丹江憲兵隊をへて、最後は大連で4年間勤務の後、敗戦となった。入隊して11年、そのうち憲兵生活は9年間となる。
憲兵になって最初の勤務は留置場監視であった。チチハルの憲兵分隊は中国共産党北満省委員会の組織した人民戦線を一斉検挙(斉共事件)していた。黒竜江民報社の社長、教育庁長、教師、鉄道局員、師範学校の生徒など120人を逮捕し、確証もないまま自白強要の拷問を行っていた。いつもの業績をあせっての捏造事件である。
この時、留置場から朝連れていかれた学生が、昼には破れた皮膚から肉が赤くむきだしになり、まともに歩けない状態で戻ってくる。連れてきた憲兵は、「水を飲ませるな」と言い残した。水も食事も与えられていない学生たちは「水くれ」「水くれ」と呻く。三尾さんより3年ほど古いだけの憲兵が、なぜ「水を飲ませるな」と酷いことを言えるのだろうかと思いながら、彼は水を与えた。その後、牡丹江の配属憲兵にまわされるが、三尾さんは水を与えたりしたためではないかと思った。
憲兵として戻ってきた牡丹江では、かつての部屋の兵隊と違い、いかに配属憲兵が権力を持っているか、そのためいかに中国人に恐れられているかを実感した。憲兵は中国人と同じ服装をし、各地で情報を収集し、部隊を誘導していくのである。情報収集は暴力と一体になっていた。
例えば、部隊が山のなかで1人いた朝鮮族の女性を見付ける。おそらく共産匪(抗日軍)のスパイにちがいない。受け取った下士官から「調べろ」と命じられる。竹刀で殴りつけ、性器に竹刀を突っこむことまで行った。だが、拷問しても情報が出てくるかどうか分からない。これ以上しても出ないだろうという躊躇が、当時の彼にはまだ残っていた。
当時、憲兵は抗日軍の憎しみの的であった。3年後に三尾さんは狙撃されて、重傷を負った。再びチチハルの憲兵分隊に戻り、当直勤務の夜、同僚がロシア人を連れてきて、留置場に吊り上げたまま、帰ってしまった。朝まで放っておくと、肩関節が壊れてしまう。三尾さんは部屋のなかに入り、下に足台を置いた。いつもどおりたまたま疑った者を捕えて拷問していただけだったので、そのロシア人は結局釈放された。後日、ロシア人の家庭に招かれ、ケーキを御馳走されたことを、三尾さんは憶えている。「しかし」と彼はいう。
「この程度の仏心はまだあったんですね。ところが、その後はまったく無くなるんです。憲兵は権力を持ちます。満州国の警察や憲兵団、鉄道警備隊を指揮下におき、兵隊であれ一般人であれ、誰でも取り調べる。もう全く恐ろしいものはないわけですね。こうなると、やらなくてもいいことをやるようになるんです。与えられた任務だけでは満足しない。功績のために、いくらでもやりますよ」次に彼は牡丹江の憲兵隊に移り、下成子の支所に出たりする。ここでは査証勤務や機捜工作にあたった。
査証とはパスポートの検査である。なぜパスポートか。関東軍はソ連国境に近い北満一帯を特別軍事地域と決め、居住証明書なしにそこに住めないことにしたのである。こうして、ソ連から送り込まれてくる朝鮮人や中国人のスパイ対策を行った。スパイは多額のカネを持ち、偽造証明証を持っていたので、憲兵は人の集まる列車内、船内、駅、埠頭、旅館などに検問所を設け、身体検査と荷物検査を行った。証明証には秘密インクを押してあり、例えば列車では、鉄道警備隊に集めさせた居住証明証を憲兵が調べ、怪しいと思えば本人を捕えて憲兵隊に連行した。そこで1ヶ月ほど留置し、拷問を加えて取り調べ、何もなかったら釈放するということが、常時行われていた。

この頃はすでに三尾さんは拷問に馴れきっていた。
「或る日、華北から東北に何年も出稼ぎに来て、僅かばかりのカネを貯め、久し振りに故郷の両親のもとに帰ろうとしている労働者を捕え、みずぼらしいなりをしているのにカネを持っているというだけの理由で監禁し、毎日引き出し、裸にして竹刀を持って背中と云わず尻と云わず目茶苦茶に殴り続けました。皮はやぶれて肉がむき出して来る。今度は六尺椅子に寝かせ、手足を麻縄でしばりつけ、ローソクの火で足といわず、手といわずじりじりと焼いて行きました。このような拷問をしても何も出る筈もありません。余り早く釈放すると幹部の手前、格好が悪いのでそのまま留置場に入れ3ヶ月も放って置きました。毎日ろくに飯もやらず、とうもろこしのにぎりに水のため、病気になってしまいました。始末に困り、釈放しましたが、その人は不具同様になり、よぼよぼと憲兵隊を出て行きました。或る時は、華北から出稼ぎに来ている父親に面会に来た息子が中華民国のカネ(当時満州では中央銀行のカネが通用していた)を持っていたことを理由に、留置し、取調べ室の梁に逆さに吊り上げ、竹刀で殴りつけるうちに、肩の骨を折ってしまいました。山東省から来た純朴な農民です。何もあろう筈もありません。自分の功績に狂っていた私はその農民をまたも六尺椅子に麻縄でしばりつけ、水を飲ませたのです。その後、満州国警察に引き渡したのですが、おそらく生きてはいなかったでしょう」
こんな日々を送っても、三尾さんは気持がすさむということはなかったという。精神の荒廃を感じとる精神を持たなかったのである。
拷問マニュアル
なお、憲兵や一般将兵による拷問は単に現場で伝承されたのではない。はっきりと文章化され、組織的に行われている。例えば関東軍参謀本部の「俘虜訊問要領」には次のようにはっきりと書かれている(前出の『続・現代史資料』6巻)。
第63 拷問肉体ニ苦痛ヲ与ヘツツ真実ノ陳述以外ニ苦痛除去スルノ方法ナキ如ク之ヲ持続セシムルモノナリ
第64 拷問ハ確証ヲ有スルモ内容ニ就キ真実ヲ述べズ而モ拷問ヲ実施セバ打開ノ可能性充分ナル時 意志薄弱ニシテ拷問ニ屈スル見込十分ナル時ニ於テ実施スルヲ通常トス
第65 拷問実施ノ手段ハ実施容易ニシテ残忍悪ナク苦痛ノ持続性大ニシテ傷害ノ根跡ヲ残サザルニ着意スベシ、然レ共生命ニ対スル危険感ヲ与フルヲ要スルガ如キ場合、傷害ヲ顧ミザルコトナシトセザルベキモ持続性ヲ欠カザルヲ要ス
1 正座セシム 2 鉛筆ヲ各指ノ間ノ根元ニ近ク挟ミ指先附近ヲ糸紐革ヲ以テ縛リ、之ヲ動揺セシム 3 仰臥セシメ(足ヲ梢々高クスルヲ可トス)水ヲ鼻ト口トニ同時ニ滴下セシム 4 横臥セシメ「クロブシ」ヲ踏ム 5 身長ニ満タザル棚下等ニ立タシム
第66 拷問実施後ハ拷問ヲ受ケタル者目ヲ拷問ヲ受タルハ当然ノ処置ナルヲ肯定セシメ且ツ之ヲ名誉心 自尊心等ニヨリ爾後口外シ得ザル如ク処置スルヲ要ス、然ラザル者ハ誤リテ傷害シタル場合ニ準ズル処置ヲ要ス
第69 拷問ノ実施ハ関係者以外殊ニ他ノ俘虜ニ之ヲ知ラシムベカラズ、此ノ際音声ノ漏洩セザル如キ処置ヲ特ニ必要トス
なんという文章だろう。これを「要領」というのだろうか。「残忍感なく苦痛の持続性大にして傷害の根跡を残さざる」と卑劣な考えを述べ、「持続性を欠かざるを要す(第65)とさらに念を押し、技法を列挙している。傷害を与えた場合は、「断乎処理すべき」(第66)と命じ、さらに第68項では拷問を受けたのを感謝し、口外しないように処理せよとある。
他にも、拷問中の現象として、「湯ヲ訴へ水ヲ要求スルハ自白セントスル直前ノ苦悶時ナルコト多シ」といった細かい注意が書かれている。三尾さんが憲兵になったばかりのころ、「水をやるな」という命令はこのようなマニュアルに基づくものであった。私はまったく別の場所で日本陸軍の「俘虜訊問要領」と同じような文章の前に立ち、茫然としたことがある。

89年3月、カンプチアの首都プノンペンの「治安第21局」に入った時のこと。そこはポル・ポト派によって約2万人の人々が拷問を受け、処刑に追い込まれていった施設である。かつて高等学校だった教室は仕切られ、それぞれの部屋に鉄枠だけのベッド、鉄の足枷、電気ショックの装置が置かれ、床には等身大の広がりで血痕が黒く乾いていた。壁に架けられた黒板には、拷問要領が白墨で几帳面に書かれていた。
<尋ねられたことに答えよ。馬鹿をよそおうな、それは革命を冒瀆することになる。お前は自分の失策について語ることも、革命の本質について語ることも許されない。鞭打ち、電気ショックに声をあげるな。カンプチア・クロム(南ヴェトナムの南デルタに住んでいるクメール人の言葉)を使うな。違反する者には、10回の鞭打ちか5回の電気ショック・・・>
「S1」の本部長ドウックは、元リセの数学教師であったという。まるで子供に算数を教えるように、拷問への道程が書かれている。拷問に苦痛の声をあげた場合は、さらに拷問・・・。
ここには、まったく同一の思考が書かれている。いかなる文化も伝播するのか、それとも類似の文脈では人間は同じことを考えるのか。おそらく両方であろう。そして軍人も教師も官僚も、人間を操作管理の対象とみなすとき、要領や技術の虜になってしまうのだろうか。2つの文章はマニュアルの行きつくところを示している。
逮捕 そして帰国
特別軍事地域で、憲兵はよく機捜工作も行った。三尾さんは鉄道員に変装し、牡丹江に入ってくる物資を調べた。鋭利な鉄の棒で、突き刺していく。魚の腹のなかに無線機の部品が入っていることがあると疑い、魚の腹は開かれた。こうして中国の人々は乏しい食料
を失い、商品も破壊された。この後、三尾さんは大連憲兵隊へ転勤となり、4年後に敗戦となる。初めに述べた大連事件、そしてハルピンの731部隊への囚人の護送はその時のことである。
8月23日、ソ連軍が大連に進攻してきて、一般の将兵とは別に、憲兵を逮捕していった。憲兵隊のなかにソ連のスパイが潜っており、ソ連領事館には名簿など関連書類がすでにあった。
三尾さんは3ヶ月の取り調べの後、ソ連兵のなかの戦争犯罪者と共に貨物船に積み込まれ、ウラジオストックに移送された。近くのウォルシュロフ監獄に3ヶ月閉じ込められた後、20日間かけて中央アジアのタシケント、さらにコーカンドの近くのコルホーズへ送られ、飢餓状態で1年間働かされた。その後は再び極東のハバロフスクの収容所に移された。日本兵捕虜から起こった民主化運動で「憲兵=反動分子」として吊るし上げられ、ここでも苦しい月日を送った。
50年7月18日、彼もまた中国戦犯としてソ連から中国へ移管された。绥芬河で中国側の列車に乗った時の、必ず「殺される」という不安、反面、人間としてあつかわれて「救われた」という複雑な思いは、小島さん、富永さんたちと同じであった。その後の心理的経過、虚勢と反抗、当惑、表面的坦白によう取り引き、現実検討、内省、罪を荷なっての再生という一連の過程も、同じである。ただ三尾さんには、自分は憲兵であって、とりわけ憎悪されているという自覚と、しかし9年間の憲兵生活において、軍刀で捕虜を斬るといった第一線の部隊のような残虐行為はしていないという秘められた弁明があった。大連事件で特移扱になった中国人をハルピンに護送した罪行は、もちろん自白・謝罪したが、その場面を思い出して悩むこともなかった。
56年夏、三尾豊さんは興安丸に乗って舞鶴港に帰ってきた。ソ連での飢餓を思うと、奇跡の生還だった。だが、彼が他者の悲しみを十分に悲しむことのできる柔らかい精神を取り戻すには、なお30数年の年月が必要だった。
まず舞鶴入港の時から、日本の社会は戦争の反省に生きた人の声を聴く力を持たなかった。戦争を煽る報道を続け、それを「させられた報道」と弁明し、戦後、平和を主張してきた新聞は、帰国者について「総ざんげの戦犯達」と書きたてた。例えば『朝日新聞』(1956年8月2日付)は、
「「戦犯釈放者は口を開けば「ざんげ」一色だ。上陸したばかりの人々からこの「ざんげのなぞ」を解く言葉を聞き出すことは難しいが、その手がかりになりそうな2,3の話を拾ってみよう。日本国民はあなた達を決して戦犯とみていない。関東軍最高責任者の山田乙三氏も、既に帰国しているのに、あなた達が10年間も抑留されたことについてはどう思うか」・・・こんな質問を投げかけてもその答は「そんなことは関係ない。とにかくわれわれの行為が結果的に中国人民を苦しめ人道に反していた」というだけだ。収容所では労働がなく、1日に2,3時間の学習だけ。たっぷりうまいものを与えられ、働かずに考えさせられてはだれだっていわれるとおり“反省”してしまうのではないか・・・とある援護局の幹部はいっている」
この記者は厚生省援護局の幹部の意見に逃げながら、新聞記者の理解の程度を伝えている。それは、湯浅謙医師の帰国を出迎えた、かつて共に生体解剖をした医師たちの言葉、「あんたなんで戦犯なんてことに。あの戦争は正しかったなんて、言いはったんだろう。ごまかしゃいいのに」(36頁)と同じ認識である。この程度の感受性、この程度の想像力、この程度の新聞、私たちは今なお、戦争神経症を徹底した暴力で抑圧し、心の傷さえ意識できないようにさせてきた文化のなかに生きている。
三尾さんも、「総ざんげ」「洗脳」のラベルで苛められた。2年ほど郷里に帰ったが、生活できず、東京に出て就職先を見付けても、警察の連絡によりすぐ解雇された。その後2年、どうしても定職につけなかった。シベリア抑留時代に知りあった軍医が胃癌の早期発見の研究を行っており、彼らと共にレントゲン車で健康診断に回るサービスを始めた。仕事は時流に乗り、大きな公益法人として発展していった。だが、生活が豊かになり忙しくなるにしたがって、彼は戦争を忘れていったのではない。

個人として罪を負うことを試みる
三尾さんは、頼まれれば反戦平和の証言をひたむきに行ってきた。私の手元には、71年7月、大阪・中之島公会堂で800人の聴衆を前にして語った要旨がある。ここでも、「中国大陸でやったことは、戦争だから仕方なかった、上官の命令でやったのだからやむを得なかったと言って、戦争という、国が行った大きな暴力のなかに自己の責任をかくしてしまっています。私の暴行は、自己の劣悪なる功名心、即ち星を稼ぐために行ったのです。この責任を絶対に免れることは出来ません」と語りかけている。
三尾さんはもちろん、戦後世代に証言を聞いてほしいと思っている。ただしそれ以上に、年配の人に聞いてほしかった。証言をおえた彼のところに、「同じ地域にいたが、俺はそんな経験をしていない」と抗議しにくる人がいる。それでも聞きに来たのだから、関心は持っているはずだ。三尾さんは反発を通してでも、事実は何か、直視してほしいと願ってきた。
こうして証言を続けてきたのだが、731部隊長の証言でこれまでにない胸の痛みを感じた。とりわけ仙台の証言で、中国人の遺族から「憲兵、家の主人を返せ」と言われたとき、今までの証言は何だったのかと恥じた。あれほど実行者としての責任の自覚を訴えておきながら、731部隊の犯罪については、運び屋をやっただけだと思っていたのである。
その後しばらくして、ハルピン・平房にある731罪証陳列館の館長から、三尾さんは告発状を受けとった。訴状は、鞍山市に住む劉興家より、「祖父・劉万会(特移扱にされた沈得竜の妻の父)は大連事件で逮捕されてそのまま帰ってこない。祖母は苦しみぬき、恨みをはらすように言い残して死んでいった。祖父の最期を知りたい」と訴えていた。
思い当たることのない三尾さんは驚いた。劉万会なる人を知らない。4人を731部隊に送ったと思っていたら、ほかに人も釈放されていないという。直接関係はないが、なんとか訴えに応えたいと思い、重病後の体で調査を始めた。関東州庁の警察部長は大連衛生研究所(731部隊の支部であることは隠されていた)で人体実験が行われていたと供述している。だが、三尾さんが問い合せた元憲兵たちは何も知らなかった。
三尾さんは仙台で遺族の証言を聞いた時から、出来ることなら護送した4人の遺族に謝罪したいと考えるようになっていた。会って謝ることで、犯した罪の自覚を深めなければならない苦しいがそれをやりとげて人生を終えようと決心していた。
94年10月、彼は訪中し、4人の内、ただ1人消息の摑めた王輝軒の妻を北京に訪ねている。その時、鞍山に寄り、先の告訴状を書いた劉興家とその父に会い、調査の報告と謝罪をしている。翌95年7月、王輝軒の息子に会って謝罪しようとする三尾豊さんと共に、ハルピンへ旅した。子供の面会を前にして、痩身の三尾豊さんの顔色は青白くなっていた。旅の間、私は入眠剤で彼の睡眠を管理してきたが、前夜の緊張はひどかった。それでも私は、彼が遺族と2人だけで会うように求め、謝罪の後、何も語りかけなかった。それは85歳になる老人が、「させられた戦争」から「した戦争」を取り出し、日本民族の1人としてではなく、1人の人間として罪を荷なおうとする行為であると思ったからだ。
ハルピンで、三尾さんと篠塚豊(元731部隊・少年隊員)さんと共に、私は旧日本領事館跡を探した。満州国傀儡政権が造りあげられた後、領事館は廃止され、白樺寮という関東軍の寮になっていたという。実は、そこは731部隊の事務所であり、地下室は秘密呼称の「特移扱」で集められてきた囚人を、一時収容したところであった。
今は「花園旅社」と看板がかかり、安宿となっている。路上から地下へ、直接降りている階段を通ると、地下ホテルとなる。かつては牢はそのまま細長い客室として使われており、やっと歩ける余地を残して、粗末なベッドが4つ並んでいた。窓は天井近くに、小さく切られているだけだ。三尾さんは、「ここに20人が入れるということになる。部屋数は15なので、300人ほどを詰め込んだ日もあったのだろうか。そんなことを思っていると、薄暗い部屋のひとつから中国語が飛んできた。
「お前ら、酷いことをしていただろう」私たち3人は狭く低い階段を上って、外に出た。後ろは日本陸軍が特務機関として最初に造ったハルピン特務機関である。私たちは雑踏にまみれながら、後ろを振り返った。半世紀以上前のくすんだ建物が並んでいる。そのひとつひとつが時間の被膜を剥ぐと、日本軍国主義の硬い表情に変る。緊張し、几帳面で、ゆとりの乏しい顔貌に、その陰で、密かに此の地に生きてきた人々が殺されていた。
私は三尾豊さんをもう1度見た。彼は憲兵として訓練された几帳面さと、人情の模微に分け入るそつの無さを身につけている。それは中国人を懐柔し、情報をとり、書類を整えるために身につけた職業的性格であった。帰国後も、職業が強化した社会的性格は彼が生きていくのに役立ったであろう。しかし三尾さんは、証言という行為、直接会って謝罪するという行為によって、性格の被膜を打ち破ろうとしてきた。彼は行動することによって、罪の意識を持ち続けようとしてきた。老いた彼はこの11月、肝臓と肺に転移した癌を切除手術し、病床にある。衰弱した体に、半生をかけて取り戻した罪を感じる心が摶動している。


Eestiエストニア語→第2次中日戦争Teine Hiina-Jaapani sõda (nõukogude ajalookirjutuses Hiina rahvavabastussõda) toimus aastatel 1937–1945 Hiina ja Jaapani vahel. Alates 1939. aastast loetakse seda osaks Teisest maailmasõjast.
第12章 功名心
理想の兵士
三尾さんに続いてもう1人、ひたすら自分の戦争犯罪を問い続け、犠牲者の遺族に許しを乞うてきた憲兵・土屋芳雄さんについて書いておこう。土屋さんは、戦争犯罪を謝罪するとはどういうことか、私たちに教えている。「遺憾でした」「迷惑をおかけしました」といった意図して責任を曖昧にする謝罪は論外として、謝罪することは「すみませんでした」「2度としません」と単に頭を下げることではない。自分がなぜ残虐行為を行なったか分析し、それを被害者に語り、さらに罪を背負っていかに生きるているかを伝えることである。許しは、分析と語りかけと生き方のなかにしかない。土屋さんはそんな当り前のことを、帰国後、一途に行ってきた。
土屋芳雄さんの性格は真面目に尽きる。山形県の極貧の農家に生まれた青年は優れた頭脳と体力に恵まれて、憲兵の業務に熱中する。憲兵の試験を受けた動機は、なんとか早く昇進して両親の住める家を建ててやりたいとの思いからだった。それでも最初の拷問手ほどきに嫌悪感を抱き、「伍長になったら憲兵をやめたい」と上官に話している。だがその後、功名心に燃えて多数の中国人を逮捕拷問していくうちに、「特高の神様」といわれるほどになっていった。
土屋さんは、生物学的に極めて素質を持って生まれている。思考力、注意力、記憶力ともに優れ、健康で強靭である。そして誠実で心の温かい父母のもとで、真面目で疑うことを知らない青年に育った。持たなかったのは富であり、それも極端に貧しかった。つまり、戦前の日本国家が求めた壮健で困苦に耐える兵士の条件をすべて満たす、理想の男子であった。彼は貧しさ故に尋常小学校しか通うことができず、しかしその真面目な性格故に小学校の先生を尊敬し、先生から天皇制軍国主義と満州開拓の野心を注入されていった。
日本は狭い島国だが、それでも地方ごとに違った文化を持っている。湯浅軍医や小島隆男さんが東京の町の文化に育ち、富永正三さんや永富博通さんが九州熊本の武の文化を背負っていたように、土屋芳雄さんは東北型農村の文化が生んだ男子であった。忍耐強く従順、同じ階層にあると思われる者に対しては競争心が強く、勤勉で着実だった。
彼は生来の優れた素質に支えられて軍国主義に過剰適応し、貧しさを克服したが、その克服の到達点こそ人間性喪失であった。彼は唯一欠けていた知性は、批判精神、物事を相対化して見る力であった。だがそれは日本の教育が最も嫌った知性であり、彼がその欠如に気付く機会はなかった。
土屋さんは1969年秋より、「半生の悔悟」と題して、中国での罪悪の記録を書き始めている。それは子孫に残す遺書のつもりだった。翌年より圃場整備に反対する農民運動の先頭に立ったために、執筆は12年間中断、82年より再び執筆にかかり、農閑期ごとに机に向かい、3年間かけて6冊、400字原稿用紙950枚の手記をまとめている。元憲兵らしく、1字も崩すことなく丹念に原稿用紙を埋めている。執筆途中、この手記をもとに、長岡澄夫著『われ地獄に堕ちんー土屋芳雄憲兵少尉の自分史』(日中出版社、1985年)と朝日新聞山形支局による『聞き書き ある憲兵の記録』(朝日新聞社、1985年)の2冊が出版された。詳しくはこれらの本を読んでいただくとして、私も土屋さんへの聞き取りと「半生の悔悟」をもとに、彼の生活史と満州での弾圧事件を整理しておこう。
貧困脱出の道
土屋芳雄さんは1911(明治4)年 山形県南村山西郷村高松に生まれた。今は山形県上山市高松となっている。蔵王山の裏側に位置する農村である。長男として育ち、後に6人の弟妹が生まれている。父は鉄道の保線工夫として働き、母は4反ほどの田の小作をして暮らしていた。祖父は酒を飲んでは借金を重ねたため、家は村一番の貧乏だった。代々の土地は高利貸や地主に取りあげられ、父がやっと蓄えた金で息子のために買った畑も、「図面が間違っている」と言いがかりを付けられ、隣りの地主に奪われた。一家が住む家は倒れかかった四間八坪の小屋、床は土間で筵を敷いただけだった。この2間の小屋に囲炉裏やかまど、流しがあり、祖父母、父母、子供たちが寝起きしていた。それでも地主は、家賃として年間24円(1931年のこと、当時米1俵は7円39銭)を小作料は4分6分といわれ、小作人は4分で地主が6分取るのが普通だった。母が「旱魃で米がとれなかったから、年貢をまけてけろ」と嘆願しても、地主は決してまけてくれなかった。芳雄さんは、母が地主に納める米俵にすがりついてひとり泣いていたのを、子供心に覚えている。        

これほど貧しかったが、父母も、祖母も情感に富む人だった。父は、だらし無く繰り返される祖父の借金を怒ることなく返し続けた。保線工事で疲れはてて帰ってくるとき、安倍川を買って空弁当箱を入れ、子供へのお土産にしてくれた。何の楽しみもない毎日を送っていた祖母も、クズ米を集め石臼でひいて粉にし、「かりかり餅」を作って孫たちに食べさせてくれた。家族関係は温かったので、極貧にもかかわらず、村人がよく立ち寄った。浮浪者を泊めてやることさえあった。
170戸の集落のうち9割が、働いても働いても冬を越すのに精一杯の小作人。そのなかでも最も貧しい、しかしやさしい家族だった。そして、家族を包む村人は相互に規制しあい、また助けあって生きていた。これが土屋さんの育った環境だった。1918(大正7)年に尋常高等小学校に通うようになり、高等科2年まで、計8年間学んでいる。素直でよく出来る男の子として、ずっと級長だった。綽名は、「貧乏級長」といわれた。
小学校では天皇の御真影を拝み、「神の御末の天皇陛下、われら国民7千万は、天皇陛下を神とも仰ぎ、神とも慕ひてお仕え申す」という修身を習った。また、高等科2年のとき敬愛した若い松村先生から、満州開拓の野心を吹き込まれた。こうして、貧しく現状を変えることのできない者に侵略の夢が播かれる。
高等科卒業後、田畑を持たない土屋家の息子は、かつて父親がそうだったように地主の作男に出るしかなかった。彼は地主の作業小屋の2階に寝泊りし、旦那様に気に入られるように気を配りながら、20歳の徴兵の時まで5年間働いた。この間、3年間、青年訓練所に通い軍事訓練も受けている。
1931年7月、彼は徴兵検査を受けた。長男が働かなければ、家庭は生活できない。そのため土屋さんは「兵隊にとられたくない」と願ったが、もちろん甲種合格だった。土屋さんは機転のきく、決断の人である。兵役逃れをしたいとまで思っていたが、いったん徴兵が決まれば志願することに決めていた。しかも、満州で鉄道警備にあたる独立守備隊を、彼は「甲種合格」を告げた徴兵官に、その場で決意を伝えた。徴兵官は「よろしい、建気だ」と頷いた。
満州の独立守備隊を志願したのは、2つの理由があった。ひとつは、村の青年訓練所の1年先輩が、公主領独立守備隊に入っており、そこなら初年兵のしごきから救われるのではないか、と思ったこと。他の理由は、1年半で満期除隊した後、満州に残って働き、カネをためて郷里の家を新築したかったからである。
同年12月、土屋青年は中国吉林省長春の南西にある公主領の関東軍独立守備隊に入った。すでに9月に、この独立守備隊によって満州事変が起きている。歩兵第1大隊3中隊に所属となった。ここでは、彼が山形の歩兵連隊について聞いていたような初年兵いじめはなかった。ほっとすると同時に、彼はいかにして勤務評価を長くし、昇進できるかを熟慮し始めた。人より早く上等兵になりたい、できれば伍長勤務上等兵になりたかった。
青年にとって、軍隊は自分の才覚が立身出世につながる新しい環境だった。しかも憲兵になった後、日常の勤務に精励し、進級試験に合格すれば、憲兵上等兵から憲兵伍長に、同伍長から憲兵軍曹に上っていくことができる。彼は天皇制軍国主義のなかに立身の道を見出したのだった。1933年5月、憲兵と上等兵候補者の試験を受け、合格した。5倍強の競争率で150人が選ばれている。満州事変後の戦線拡大のため、関東憲兵隊も増員を急いでいた。合格者のうち12人は大学卒、85年が旧制中学卒、残る3分の1が尋常高等小学校卒だった。旅順の憲兵教習所で3ヶ月、彼は法律の集中学習を受けて補助憲兵となり、8ヶ月後に憲兵上等兵になった。給与は営外加俸プラス憲兵加俸がついて、一般兵科の上等兵の5倍、49円90銭になっていた。こうして、郷里への送金も可能となった。                        

拷問に一驚する
1934年4月、出征から2年4ヶ月を経て彼は関東憲兵隊チチハル憲兵分隊の憲兵となり、同年11月には配属憲兵として東部国境の街、平陽鎮に派遣された。ここで初めて拷問を実習する。彼が「この街に買い物に来た」という農民を連行し、伍長の指導で暴行を加えたのである。生木で打ちのめす、後ろ手にして吊す、さらに石の重しをつけて肩関節を痛める、焼きゴテを焼き尽す、水責め、削った三角柱で向こうずねを傷めるソロバン責め、布団針で爪の下を刺し通す拷問へと続いた。5日間の拷問の合間に伍長は「お前の本拠はどこだ。仲間は?言え!言わないか!」と怒鳴るだけだった。嫌疑らしいものは何もないままの拷問だった。
水責めでは、食物も水も与えていない男を裸にし、長椅子にあおむけに縛りつけ、大きなやかんから口と鼻に水を絶え間なく注ぎ込む。息ができず、男はあえぐたびに水を飲む。肺に水が入らないように注意しなければならない。腹が膨らむと、馬乗りになって水を吐かせる。男はすでに気絶している。気絶した男を拷問しても自白は得られないが、何回も繰り返された。伍長の技術指導に従いながらも、「この伍長は鬼か」と彼は嫌悪した。
「その時はやっぱり悪いという気持があってよ。こったらな仕事は世にないと思った。憲兵がこんなことをするとは思わなかったもんだから、水責めの拷問を教えてもらって、自分がそれを手伝わされて、あららら、酷いことをするもんだ。こたらなことをやると、碌な死にざまをしない。罰が当ると思った」
結局、男からは捕えがたい時に聞いた、「張文達、33歳、近くの農村から買い物に来た」以上のことは得られなかった。それでも、重傷を負わせた男を中国人に見せるわけにはいかない。つまり、前に述べた「俘虜訊問要領」の「大局ヨリ考察シ邦家ノタメ有利ナル如ク責任ヲ断乎処理スベキ」である。そこで満州国軍の日本人軍官である中尉が、首斬りの練習に男を連れていった。土屋憲兵は墓地で首が落とされるのを見た。
土屋さんはこの時、「辞めたい」と漏らしている。2ヵ月後、チチハル(斉斉哈爾)憲兵分隊にもどった土屋憲兵は、「伍長になったら辞める」と口にした。なおも、独立守備隊で伍長になれなかったことにこだわっていた。辞めるにしても、伍長になるまで頑張らなければならない。
憲兵分隊は庶務と警務(軍事警察)と特高(思想問題担当)に分かれていた。以後、敗戦までの10年余、彼は特高専門の憲兵として業績をあげていく。チチハルは黒竜江の省都ハルピンの北西270キロに位置する農産物の集散地であったが、当時はソ連軍に向きあう軍都になっていた。憲兵隊の庁舎は1階が憲兵分隊、2階が憲兵隊本部となっており、現地の人々からは「不帰門」と呼ばれ、恐れられていた。憲兵たちはここで毎朝、皇居を遥拝し天皇に忠誠を誓い、それから敬礼の練習をして仕事を始めるのだった。
チチハルに帰って間もなく、1935年6月、憲兵隊は斉共(チチハル共産党事件、6・15事件ともいう)を捏造した。新聞社の社長や記者、教育庁長や教師たち、鉄道局員らが人民戦術を作っていたとして120人を一斉逮捕し、拷問を加えて調書を作成し、45人を陸軍刑務所に投獄した。人民戦線とはいかなるものか、知らないまま、憲兵隊の通知で読んだ人民戦線の名称を使って事件を作りあげたのである。この間、拷問によって1人は死亡、教育庁長は自殺した。投獄された者のうち、5人は死刑、他は15年以上の懲役から無期刑にされた。前章で取り上げた三尾豊さんが、憲兵として初めて係わった事件である。
土屋憲兵はこの事件で、チチハル鉄道局列車司令の鞠という30歳くらいの男を拷問した。3日間続けて水責めを行い、死の寸前まで追いやり、2日後に他の憲兵がさらに水責めにして殺してしまった。平陽鎮の初めての拷問実習で「罰が当る」と思った彼が、この時は水責めの限界を見極めたと思うまでに変わっている。体の冷え具合、息づかい、胸や腹の膨れ具合から、死の寸前の状態が判別できるようになったわけである。拷問から残酷感が失われ、技術になっていった。             

「有能な憲兵」への変身
ここまでは土屋憲兵のオン・ザ・ジョブ・トレーニング時代である。この後は、弾圧のプロとなっていく。翌36年11月、彼は密偵を使って、張恵民、張慶国ら8人のソ連諜報員を逮捕。全員が送検されることなく厳重処分、つまり銃殺となった。彼らは中国独立を願って、ソ連へ通報していた。
この事件では、彼らしい粘りと機転で張慶国を捕え、すでに特技となった水責めの拷問で落し、その情報で兄の張恵民を逮捕した。続いてリーダーの張恵民を水責めし、それでも落ちないと分かると、妻子を使って追いつめた。処分が終った後、チチハル憲兵分隊に関東軍憲兵隊司令官・東条英機から「皇軍の防諜謀略対策に画期的貢献をした」と感謝状と金一封が贈られた。彼は念願の伍長に昇進し、特高憲兵としての自負心を抱くようになる。このようなシステムによって、日本の軍国主義は作られていったのである。
張恵民らが処刑されて3ヶ月後の37年4月、土屋憲兵は再び事件を摘発する。旅館の宿帳めくりをしていて、不審に思ったアヘン中毒者2人を、例によって容疑もないまま逮捕した。この時は分隊長・岩崎少佐に、「証拠もないのに逮捕するとは何事か。命令違反で軍法会議に送るぞ」と怒られている。それでも水責めの拷問を始めると、2人はすぐ鉄道爆破工作を白状した。彼らはアヘン中毒で職を失い、ソ連のスパイに雇われていた。アヘン中毒の彼らは信念にもとづく抗日工作員でなかったので、たやすく爆破計画の全容を話した。2人の自供からもう1人を捕え、憲兵隊司令部の命令でハルピン憲兵隊に身柄を送った。土屋さんは、731部隊の実験材料にされたに違いないと思っている。
土屋憲兵は張恵民事件に続いて、防諜謀略対策の手柄をたてたことになった。事件後、広島の憲兵隊に転勤が決まった岩崎分隊長が土屋伍長を呼び、「お前は憲兵をやめたいと言っているそうだが、本当か」と聞いた。口にしたことは本当なので、「本当です」と答えた。岩崎少佐は考課表を取り出し、「犯罪捜査に関して特別の技能を有す」と書いてあるのを読み、再考をうながした。「途端に嬉しくなっちゃったんだ。分隊長が俺の力量を認めてくれた。こんな立派な人が評価してくれたのだから、ぐらりと気持が変わっちまったのよ。悪いと思った気持がね」
すっかり自己評価を高めた土屋憲兵は、満州で一旗あげる夢も郷里に帰る意思も忘れた。それに、山形に帰っても展望がない。そのまま彼は両親へ給与から20円を送り続けた。同年7月、蘆溝橋事件が勃発、日本軍は中国本土に戦線を拡げていった。同時に抗日軍も組織されていく。北満州でも、東北人民革命軍の反満抗日軍の協力者(日本側は通匪者と呼んだ)をあぶり出そうとして、中国農民の弾圧を繰り返した。例えば39年9月の「訥河工作」では、中国農民を通匪者として172名検挙、約70名を投獄、2人を処刑した。

*東北抗日聯軍(とうほくこうにちれんぐん)は、満州に展開した中国共産党指導下の抗日パルチザン組織。それまで満州で活動していた共産党系の朝鮮人・中国人のパルチザン部隊東北人民革命軍が門戸を広げ、右派抗日武装団も受け入れて、1936年から再編成されていった。周保中や金日成など中国人や朝鮮人の有名なパルチザンが所属し、後にソ連軍第88独立狙撃旅団に組織構造ごと引き継がれ、その構成員が金日成を中心に朝鮮民主主義人民共和国の権力の中枢を占めたことで知られる(満州派)。 동북항일연군(東北抗日聯軍)은 1936년 중국공산당 지도 아래 만주에서 만들어진 항일투쟁을 주도한 군사조직으로, 중국인과 조선인 등의 민족통일전선 성격을 띠었다. 만주에서 활동하고 있는 조선인과 중국인의 유격부대를 공산당의 주도로 통합한 군사조직이다. 조선민주주의인민공화국의 주요 인사였던 김일성, 김책, 최현, 최용건 등도 이 항일연군에 참여했다. 당시 만주에 있던 수많은 항일계열 군사조직 중에 제일 큰 세력을 형성하였으며, 한국 독립운동사에서도 그 비중이 상당하다. 1939년 일본 관동군의 대대적인 공세에 의해 1942년 소멸되고, 잔존 세력은 소련으로 도피하였다. 소련으로 도피했던 조선인들은 국내에 아무 정치적 기반이 없었지만 1945년 8월 북한 지역을 점령한 소련군의 일방적 지원을 받아 조선민주주의인민공화국 권력의 핵심을 차지하였다.       
土屋憲兵は37年末、軍曹に昇進。チチハル憲兵隊の本部付となり、官舎をもらっている。39年秋には、郷里の女性と結婚。内陸の都市・チチハルの隅々を知り尽し、軍民を問わず生殺与奪の警察権を行使する憲兵隊の実力者として、目を光らせるようになっていた。憲兵隊にある通り、「形なきをば見定めて声あらざるに聞分けて、皇軍戦さ守るべき吾等が担う任重し」を日々生きていた。
40年10月、彼が中心になって、チチハルに出来つつあった共産党地下組織を壊滅させた。独立守備隊が戦闘でたまたま抗日軍の暗号文書を入手、暗号解読によって組織の指導者であるチチハル鉄道局列車区荷物員の史履 を割り出し、1ヶ月間の張り込み、尾行によって彼らの人間関係を総て調べあげた。いわゆる「偵諜培養」である。その上で、鉄道局員とハルピン工業大学生ら135名を返しを行った。この作戦名「田白工作」と名付けられた事件によって、2人が処刑され、39人が10年以上から無期の懲役を言い渡されて投獄された。
後に中国の戦犯となった土屋さんは、罪状を坦白 した後の取り調べで、検事に「土屋、お前は幼いわが党の組織を根こそぎ弾圧した。中国人民は、お前を決して許さない」と言われている。抗日軍にとって、「田白工作」を指揮した土屋憲兵は悪の首魁とされていたのである。
また、土屋の処刑を要求する数百通の告訴状のひとつに、「田白工作」の拷問で死んだ青年の母からの書面があった。「親1人子1人の息子を、日本憲兵土屋が捕らえ拷問し投獄した。息子は日本軍が敗けて後、監獄から出ることができたが、1年も経ないで、拷問の後遺症に苦しみながら死んでいった。どうか息子の恨みを晴らしてほしい」と書かれていた。
当時、すでに憲兵曹長(陸軍下士官の最上位であり、士官学校出身でない叩き上げ兵隊の最上位ともいえる)に昇進し、実務に長けて「特高の神様」とまで言われるようになっていた土屋憲兵は、人々の怨念の的になっていたのである。だが、彼は自分が憎まれているとは想像だにしなかった。中国人は従順であるべきであり、拷問も処刑さえも自分たちが決めた以上、それに対して従順であるべきと思い込んでいた。
冷酷を極める
「田白工作」に続いて、同年12月、土屋憲兵は「貞星工作」と名付けた中国国民党の組織潰しにかかった。先の共産党弾圧の過程で、別の人脈があることを聞き出した彼は、得意の拷問―自白―新たな逮捕―拷問という芋づる式検挙を行っていった。
始めはいかなる組織を弾圧しているのか、憲兵たちは分からなかった。ともかくチチハル、ハルピン、吉林、新京、牡丹江、錦州などの鉄道局員、満州国の官吏、満州国軍の幹部ら約700人を逮捕した。結局、彼らは抗日抵抗組織ではなく、満州における国民党シンパのテットワークであった。諜報活動の事実はつかめなかったが、「重慶国民党の対満報諜組織」ということにして、2百数十人を送検、20数人が死刑となった。
中国の国内で、中国の政権政党を支持する人々が各都市でひっそりと集まりを持つ、彼らは抗日武装組織を作ろうとしていたのではなく、いつの日か政治活動をするための細いつながりであった。今考えれば、それがなぜ極刑の対象になるのか、理解しがたい。しかし、疑似国家・満州国には、先の飯守重任(第10章216頁)ら法律家が日本国内の「治安維持法」をモデルに作った「暫行懲治叛徒法」があった。それぞれの第1条は、後者がより刑を重くしているが、ほとんど同文といっていい。
「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ5年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ・・・」暫行懲治叛徒法(満州)の第1条、
「国軍ヲ紊乱シ国家存立ノ基礎危殆若クハ衰退セシムル目的ヲ以テ結社ヲ組織シタル者ハ、左ノ区別ニ従ツテ之ヲ処断ス 1、首魁ハ死刑ニ、役員其ノ他ノ指導者ハ死刑、又ハ無期徒刑3、謀議ニ参与シ又ハ結社ニ加入シタル無期徒刑、又80年以上ノ有期徒刑」
他に治安警察法、暫行懲治盗匪法があり、いずれも傀儡国家が作られた1932年の9月に公布されている。このような絞り込みの曖昧な言論思想の抑圧法を作っておいて、憲兵隊が中心になり満州国の警察や憲兵、鉄道警備隊などを動かして、弾圧事件を引き起こしていったのである。目をつけて逮捕した者を送検せずに「厳重処分」にすることもできたし、辻褄あわせの調書に拇印を押させて高等検察庁に送ることもあった。土屋憲兵がこの国民党弾圧で多くの中国人知識層を送検したときも、思想係の中村検察官は「これで結構です。憲兵隊の調査は、関東軍の命令と同じです」と言って受理していた。法は侵略の飾りでしかなかった。以上、土屋憲兵が係わってきた主なる弾圧事件を表にすると左のようになる。
I 斉共事件 教育者、新聞編集者への弾圧。無実なのに共産党とデッチあげた。1935年6月、120名検挙、5名死刑、1人は拷問死、1人は自殺。45人を投獄。II ソ連報諜員検挙 張恵民ら8人を銃殺、1936年11月。III 陸軍監獄脱獄者皆殺し 104人を銃殺 1936年11月。IV ソ連の鉄道爆破工作員検挙 3名をハルピン(おそらく731部隊)送り。1937年4月。V 訥河工作 中国農民を通匪者として弾圧。3回にわたって172名を検挙、2名を死刑、70名を投獄。1939年9月。 VI 田白工作 中国共産党の北満組織を破壊。135名を検挙、死刑2名、39名を投獄。1940年10月。 VII 貞星工作 中国国民党の満州組織を破壊。検挙者700人、死刑、投獄者多数。1940年12月。
「貞星工作」のころには、土屋さんがいかに憲兵実務の鬼になっていたか、彼は後に(1956年1月)撫順戦犯管理所で「その家族まで」と題する手記を書いている。戦争犯罪を自覚した土屋さんが、かつての鬼の土屋憲兵を第3者として描写している(長文なので要約)。「貞星工作」で国民党の責任者、閻幼文の逮捕に失敗した白城子憲兵分隊は、例によって妻を連行し、拷問した。15日間にわたる拷問で妻の閻梁氏は肺に水が入り、呼吸はゼラゼラと音がしていた。そんな彼女を土屋曹長はチチハル憲兵隊に連れてきて、監房に放置していた。ある日
「曹長、大変です。閻幼文の妻は病気で、監房で苦しんでいます。監視憲兵に何度頼んでも伝えてくれないで、長いこと放っていたらしいです。早く帰してやらんと、死んでしまいます」通訳の侯慰民が土屋曹長に報告した。「あんなアマぁ、くたばってもかまわん。放っておけ」これが土屋の答えだった。「侯、ほんとか、行ってみよう」「俺も」和田倉軍曹と神戸伍長が言うと、「行く必要はない」と土屋は睨みつけたので、2人は立ちかけた腰を下ろした。土早今度は貞星チチハル憲兵隊長から賞状を受け、関東憲兵隊司令官からは時計の賞品を貰っていた。土屋は時どき極寒の監房を見廻って、彼女のげっそり痩せ衰え、真青な顔を見て、もう長くはないと知っていた。それから、4,5日たった午後、机が10個ほど並ぶ特務室で、土屋は報告書をまとめていた。バタンと扉を開けて侯通訳が入って来た。彼は土屋を見るなり、
「曹長、閻の母親が女の子を連れて面会に来ています。洮南からはるばる汽車で来たんだから、会わしてやりなさいよ。情は人のためならずと言うでしょう。手掛りになるかもしれん」と一気にいった。いつもなら、こんなことに見向きもしない土屋だが、「手掛り」という言葉にピクッと動いた。「うーん、この部屋で会わしてやれ」と命令した。
間もなく扉を開けて、6歳くらいの女の子が老婆の手を引いて入って来た。継ぎ当てをした薄い黒の綿衣を着た老婆は、歯が抜け髪は真白だった。何かを訴えるように部屋を見回すと、そこには軍刀や棍棒、麻縄、丸太が乱雑に置いてあるのを見て、眉を寄せて咳込んだ。女の子は赤紫の色の綿衣と赤い雪帽子を被って、頬を林檎のようにほてらしている。鼻汁をつんつんすすりながら、母に遭える喜びで老婆の回りを跳びはねた。そして椅子を引きずってきて、老婆に座れとせがんだ。
ガクッと扉が開いた途端、「マァー呼、マァー呼」と叫んで、女の子は母親に抱きついた。彼女の真白な顔に血の気が浮いた。ふらつく足を踏みつけ、我が子を抱きしめた。雪帽子を外して少女の髪を撫でながら、「小妹子(妹)は元気?」と聞いた。老婆は彼女の顔を見るなり、「命が危ない」と直感したかのように「お前は・・・」と声を失い、自分が腰掛けていた椅子を引寄せ、涙声で「坐下吧、坐下吧(座りなさい)」と抱く様にして座らせた。老婆は自分の頭から櫛を取ると、彼女の乱れた髪を梳き始めた。彼女は右手を老婆の左手に託し、その胸に顔を伏せた。少女は母をじっと見詰めていたが、小さな喉をごくっとさせた。
「マァー、お婆ちゃんが2日も飯を食べていないの。小妹子、毎日泣いている。早く帰ろ、一緒に帰ろ」と、母をゆさぶった。侯通訳は鼻をすすりながら、部屋を出ていった。老婆は眼をしばたかせ、歯のない口を開いて一呼吸するや、思いきって、「ヤアー、私の娘を帰して、娘を帰して・・・我们都快呀快死呀(私たちは間もなく死んでしまう)と嘆願した。
土屋は中国語が分からんと空とぼけた振りをして、聞き流していた。老婆はなおも2,3歩近づいて「看看病哪 快死呀(今なら助かるから早く帰して)」と何度も何度も哀願した。「うるさい婆ぁだ、仕事の邪魔をするな」と土屋は老婆を睨んだ。すると、3人、6つ目の火の様に睨み返した。老婆はこの機会を逃せば助からないと思い直したのだろう。その場にひざまずくと、皺だらけの額をコトンコトンと打ちつけながら、「娘は何もしていない、早く帰して」と涙を浮べて嘆願した。土屋は思う壺にはまり込んできたと、にたっと笑い、立ちあがって扉を開け、侯通訳を呼んだ。
「閻幼文の隠れ先を言え、言わねば帰さん」と睨みつけた。たまりかねたように彼女は、「お前たちは人間か。そんなこと誰も知らん」と鋭く一言浴びせかけた。機先を制せられてたじたじとなった土屋は、「何っ、このアマぁ、くたばりぞこない」、怒鳴りつけて机を叩いた。老婆は「この婆が、どうして知っているか、無理だ、無理だ」、眼をしばたかせながら、侯通訳の服を揺さぶった。
「走競走寵(行け行け!)侯、追っ払え!」女の子は母の胸に激しくしがみついて、「マァー呀、マァー呀、一緒に帰って、小妹子が待っているの。病気で来られないの」と訴える。彼女は「ええっ、病気?小妹子が・・・」肩をふるわせた。「こしゃくなこの餓鬼、帰れ」土屋は少女の髪をつかみ、母親は椅子もろとも足蹴にして倒し、素早く引離した。「わぁー、マァーマァー」「うるさい。ぶち殺すぞ」廊下に放り出して扉を閉じた。侯通訳が走り寄って来て、何か言いながら連れていった。
それから20日ばかりたった3月中旬、侯通訳が土屋に近づき、ペコンと頭を下げ、「曹長、閻のかかぁもう駄目です。だからあの時帰しておけばよかったのに」と顔をしかめた。「ほんとですよ、女の体ぁ、あんなところで冷えたら駄目なんだ。紙一枚、薬一服やっていないんだから。もう3日は持ちません」「そりゃ大変だ。留置場でくたばると後始末が厄介だ。後で報告しておくから、お前は駅まで連れて行って、警護隊に洮南まで送らせろ」「いやー息が止まりそうで、駅までも請合いかねますがね」「くたばってもかまわん。死んだら道路の横に放って来い」
10日後、侯通訳は「曹長、閻幼文の太太(妻)が4,5日前に死んだそうです。一応報告しておきます」と言って、扉を閉めて出て行った。よほど癪に障っていたのであろう。4月初め、閻幼文が捕まった。土屋は肉を千切り骨を裂く拷問を加えた後、調書を書きなぐり、拇印を押させて、高等検察庁に送った。この秋、高等法院は死刑を宣告した。彼は龍江監獄の絞首台で、36年の傷害を終えた。翌年の春になった。敗戦の色濃くなった日本軍は、中国農民から穀物を種も残さず略奪していった。愉の葉に栗だんごを作って2人の孫娘を生かしてきた老婆は、遂に倒れた。その日、侯通訳は土屋に報告した。「閻幼文の老母は鉄道自殺したそうです」
土屋さんはここまで詳しく情景を想い出すことによって、残酷な事実を単に列挙するのではなく、いかに感情が冷えきっていたかをひとつひとつ確認していたのであろう。しかし、そこに到るには自分と向きあう永い時間が必要だった。


第13章 脱洗脳
発作的な「仏心」
土屋芳雄さんは1934年4月に関東憲兵隊の憲兵になって以来12年、斉斉哈爾(チチハル)から動いていない。しかも特高一筋で、隊付少尉にまでなっている。一度も転勤のなかった憲兵は例外中の例外である。それだけ歴代の隊長が彼を頼りにし、手放そうとしなかったからであった。先の「貞星工作」で容疑者の妻を拷問死させたように、捕えた者はほとんど拷問する土屋憲兵であったが、場面が異なり、獲物を漁る憲兵という構えを一瞬外すと、憐れみの感情を出すこともあった。それはとりわけ、相手の哀しさに彼の育った農村の貧しさが投影されるとき、零れ落ちるのだった。
例えば、自分が通った遊郭の女性の窮状を見て、当時の大金、20円を渡したりしている。結婚する前、1年半ほど通った遊郭の女性の窮状を見て、当時の大金、20円を渡したりしている。結婚する前、1年半ほど通った朝鮮人女性を、巡警していた中国人労務者用の旅館で見つけたことがある。「どうしたのか」と尋ねると、「やっと年季が明けたが、帰る当てがない。人買いが孫呉(ソ連国境の日本軍基地の町)へ連れて行くというので待っている。そこで、また・・・」という。汚れて何ひとつ持たない彼女に、彼は20円を持たせている。
その後にもう1人、通った朝鮮人女性も年季明けに楼主に拘禁されて困っていた。それを知って抗議に行こうとする彼に、彼女は「自分が苛められるから止めて」と言った。この時も、「なんとか故国へ帰りなさい。汽車賃だ」と言って20円を与えている。

あるいは44年末、地方の探偵に出たとき、吹雪の舞い込む小屋に丸裸の子供がいるのを見て、母親に20円を渡している。やせて青ざめた母親に尋ねると、夫は「タンパイ」(日本軍の労工狩り)で連れ去られたまま音信普通だという。言葉を失った彼はカネを置いて退去した。日本人に穀物を奪われ、物価を吊り上げられ、男をさらわれた家では、零下30度を越す氷雪のなかで襤褸切れひとつ持たなかった。彼は自分の目を疑ったほどだが、こんな家族が北満州には無数にあった。
3つの20円に共通しているものがある。それは、憲兵の鎧の綻びを衝いて、幼い日の山形の像が立ち現れてくると、カネを置いて逃げていることだ。土屋さんは戦後、これらの行為を自責の念をもって告白している。朝鮮人女性については侵略者の男として、中国農民の子どもについては糧穀の収奪者の一員として、反省している。だがこのような反省は学習の後にくる認識であり、なぜ20円を握らせたのか、気付いていないように思える。彼は20円を握らせることによって「自分のようになれ」と幻の声を発し、体制適応者として生きる自分の生き方を肯定し、しかし相手は絶対に彼のように生きられない現実から、逃げだしたのだった。
それでも土屋さんは、少年期の体験という狭い通路を通してであれ、虐げられた者への感受性をかすかに残していた。後年、この消えかけた隘路を通って、彼は罪を自覚していく。「なぜ、あの時、自分の服を脱いで、あの子に着せなかったのか」と。馬ぞりを急がせて山形の生家よりも貧しい中国人の農家を去っていくとき、もしそんな自責があれば、彼は初心に戻って憲兵を辞めていたかもしれない。だが血のかよった反省が浮んできたのは、ずっと後のことである。拷問や虐殺だけでなく中国人を苦しめていたという認識の後に、ようやく感情を伴う自責に辿り着くのである。それについては、戦後の彼の歩みのところで詳しく分析したい。
やがて敗戦となる。土屋憲兵は、ロシア語ラジオ放送を解析する部下を通して、ソ連軍の進攻が迫っていることを刻々と知っていた。関東軍の中核はいち早く南方に移動し、8月10日には、居留日本人を放置して、残っていた軍人家族を移動させた。チチハルは避難民で混乱を極めた。8月13日夜、彼は妻と2人の子供を最後のパルピン行列車に乗せた。チチハル憲兵隊100人と共に、爆雷を握ってソ連軍戦車に突撃する覚悟を決めた。そして8月15日、降伏告知のラジオ放送。徹底抗戦はなく、呆気なく戦争は終わった。よく6日になっても、ソ連軍はチチハルに入城してこなかった。ここで土屋憲兵は奇妙な行動をとっている。あえて騎馬でチチハルの市街を巡回したのだった。時に中国人の服を着て探偵した街を、ことさらに目立つ恰好で回ったのだった。
「最後の時が来た。斉斉哈爾(チチハル)の見納めにと、憲兵の制服を着て愛馬・盛策に乗って、ひとり龍門大街から南大街の繁華街へ向かった。街は昨日とは一変してしまっている。いつ準備したのか、中国の青天白日旗が軒並みにひるがえっている。人々は喜びに湧き、自転車に乗っている人も、馬車に乗っている人も中国国旗を握っている。朝鮮人までが朝鮮の国旗を持って歩いている。
急変だ。こんなものを、いつ作っていたのか。密偵を潜りこませ、いつも眼を光らせていたはずなのに、私は心中穏かでなかった。進んでいくと、笑っていた人々が話すのを止め、背中を向けたり、横の路地に外れていく、これを見て、あれーっと思った。俺は中国人にこれほどまで憎まれていたのか。初めて、そう気付いた。あの鬼子奴、負けても何をしでかすかわからない、危ないからそばに寄るな、といっていた。それから私は、北大営付近のソ連の爆撃跡を見て帰隊した」彼は何をしていたのだろう。何を見ていたのだろう。

彼の将来は音をたてて閉ざされた。そのため、彼の意識は過去に向かった。憲兵の制服を着、登りつめた階級章を付け、騎馬で背筋を正して街を進む。彼はひとりでチチハルの街全体と向きあっているつもりだった。彼にとってチチハルはひとつの対象物であり、ひとつの生命だった。彼の把握するチチハルは生きていたが、その街に人間は生きていなかった。生きて暮らす個々の人間を、彼は知らなかった。
土屋憲兵が進むと、時間の袈が割れていく。明るく騒めく将来の時間は、土屋憲兵が支配した過去の時間の侵入を受け入れていく。受け入れて、すぐ跡を将来の時間が埋めもどしていく。土屋憲兵の軌跡には何も残らない。彼の目の前で時間は凍るのだが、彼の後ろで時間は融け、華やかに微笑している。彼は既視感のなかで馬を進めていたのだろう。日本軍が侵略してくる前の中国の都市、いつかそうなるであろうと否定しながら夢想したことのある中国のどこかの都市、その都市の祝日を彼は体験していたのであろう。その光景は初めて見るのだが、既に見た光景に感じられていたにちがいない。よく知っている街でありながら、まったく違っている。よそよそしく隔てられて、ちりじりに遠ざかっていく。それでいて、やはりよく知っている。こうして土屋芳雄憲兵のチチハルは消えていった。
8月18日、チチハルの日本軍は武装解除された。土屋ら憲兵隊たちは、自分たちが先刻までいた憲兵隊の建物でソ連軍将校から取り調べを受けた。その時、憲兵隊が使っていた留置場に入れられた。2ヵ月後に外へ移され、騎兵連隊と一緒になった。この間に土屋さんは、「拷問魔・土屋は処刑された」とか、「中国人は土屋の首に懸賞金をかけている」という噂を聞いた。彼はソ連軍に留置されていて「助かった」と思った。そして上官に頼みこみ、ロシア行きの作業大隊に紛れこんだ。1日も早く、中国を脱出したかったのである。
45ね10月中旬、土屋さんらは貨物列車で西に向い、ハイラル、満州里を通ってソ連に入り、チタの近くトーリンスカヤの山奥に運ばれた。ここで8ヶ月伐採作業をさせられた後、46年の初夏、ハバロフスクの収容所に移され、以降4年間、主として建設関係の重労働に使役された。この時の船底の錆取り、セメントや生石炭の積み降ろしのため、塵肺症になっている。それでもなお、彼は生き抜いた。
49年3月になって、ハバロフスクの取調べ所に連行され、本格的な尋問を受けた。この時も、調書の最後に「以上の行為は45年8月9日、ソ連と交戦前、平和時の行為である。独立国たる満州国内で行ったことである。法律命令に基く職務行為である」と付記させることによって切り抜けた。こうしてソ連の戦犯にされることは免れたが、50年7月、彼が最も恐れる中国へ移送された。


罪を自覚する
撫順戦犯管理所に入れられたとき、ほとんどの人は「なぜ俺が戦犯呼ばわりされるのか」と怒り狂っていた。だが土屋さんは怒る気になれなかった。
「本当に悪いことをしたことは、俺知っとったよ。チチハルに12年間おり、大きな事件はすべて俺が扱ったから。中国人の人で知らない人はいない。俺を探していることも知っとるわけだ。そこから逃れることはできない」
ここでいう「悪い」とは、倫理的な悪をさすのではなく、中国人が怒っているとの意味である。そう思いながらも、「俺は豆戦犯でしかない、師団長とか大物がいるではないか」という不公平感も払えなかった。撫順戦犯管理所での経過は、おおよそ他被収容者と同じようにすぎていった。朝鮮戦争の激化のため、50年10月から翌年3月までハルピンの道裡監獄に移され、この間、アメリカ軍の進攻によって解放されるのではないかと一喜一憂した。シベリアでの身体酷使と栄養失調の付けが表われ、多発性末梢神経炎の診断で治療を受けたりもしている。「人民日報」の日本語訳や毛沢東の著作についての学習会にも、一応つきあっている。だが、共産主義に感心することもなかった。
このような学習よりも、彼の人間観を徐々に変えていったのは中国人所員の態度であった。決して侮辱しない。罵倒しない。食事は心をこめて料理して運んでくれる。散歩も体操もさせてくれる。髪が伸びれば、散髪してくれる。病気になれば、献身的に治療看護してくれる。世話されればされるほど、次第に彼は胸苦しくなっていった。1つひとつの中国人の態度は、対応する彼の過去の行為を想い起こさせたからである。
自分は優秀な大和民族の軍人だと信じ、中国人を見下し、怒鳴りつけてきた。自分の立身出世のため、中国人を捕えては極限の拷問を重ねてきた。喋らなければ反抗的だと憎み、拷問は少しでも抵抗すればさらに激怒し、あえぐ口や鼻に汚水をそそいできた。啊啊痛苦不能耐受(ああ苦しい、耐え切れない)我要死了 救命啊(私は殺される、助けてください)我是好人什 也不知道(私は何もしていない)と叫び、頭を板の間にガンガンと打ちつけて命乞いをする男たちを、「何をこのチャンコロ、虫けらが!」と言い放ち、なおも拷問を続けた。留置場にもどしても、水も与えず、メシも与えなかった。嘆願する中国人をけとばしたこともある。一度だって、中国の人たちに入浴や散髪をさせたことがあったか。思いつきもしなかった。薬を与えたことがあってた。親子、夫婦の愛情や必死の命乞いの願いを、1回も聞き入れてやったことはなかったではないか。
土屋さんは胸が苦しくなってくるのだった。こんなにしてもらって、いいはずがない。厚遇に甘んじている自分は、どんな人間だったというのか。彼は個人として尊重される、戦犯としてして尊重される、戦犯と管理者という役割関係であってもその前に対等な人間として交流するという、初めての体験をしていた。これまでの日本人としての人間関係には、役に立つか立たないか、効率と打算の視点しかなかった。信頼も、役に立つか否かで考えられた。家族関係は愛情に満ちたものだったが、それは土屋家という、いわば自己が拡大した内部でのことであった。個人としての対等な関係ではない。
初め、こんなに米の御飯を食べさせてくれる、病気の治療をしてくれると、土屋さんは物のサービスに驚いていた。その次に、病が重いときには献身的に看護してくれる、親や妻子を殺された人もいるのに、罵りひとつ言わないという、人間関係のあり方に当惑している。それは、打算と効率で対人関係をみる日本人の理解を越えたものであった。53年8月のある日、土屋さんは散髪室に向かって歩いていた。その日、「今日は散髪だ」と言ってきたのは劉長東班長だった。劉班長はハルピンの狭い監獄に疎開している間、佐官組の部屋の掃除や倉庫の後片付けを彼にさせた。黙って几帳面に掃除をする土屋さんに、好意をもったのであろう。運動する場所のない環境では、誰しも動けることが嬉しかった。
「なぜか知らないけど、劉班長が俺を使ってくれた。憲兵のなかでも俺ほど悪い奴はいない。それを知っているか知らないか分からないが、人間扱いしてくれた。毎日、俺に掃除をさせた。本当に親切だった」その劉班長に先導されて、廊下を歩いていた。劉班長はいつもどおりにこやかだ。歩いていて罪を自覚する瞬間を、土屋さんは「われ地獄に墜ちん」で次のように書いている。
「その時、ふと、俺は一度だって中国人に散髪させたことも、風呂に入れさせたこともなかったなあ、と思った。つづけて、張恵民と妻をだまくらかして、張を処刑したことも、80歳の老母を鉄道自殺に追いやったことも頭に浮んできた。罪行がグワーッと、頭におしよせてきた。頭をコンクリートにぶちつけ、たたき割ってしまいたくなってしまった。劉班長は、ニコニコして、私たちの先頭を歩いていた。胸の堰が切れた。俺は一体どうしたらいいのだろう。いてもたってもいられなかった。涙がこみあげてきた。自分でもどうしようもなかった。目の前がボーとするようだった。私はうろたえた。力の抜けていくのがわかった。そして、ふらふらと、劉所員の前に私は立った。私は、くずれ落ち、両手をついて、土下座をした。「おい、52号、どうしたんだ」劉所員のその声は優しかった。「私は極悪人だ!中国人民にひどいことをしてしまいました。ひどいことをしてしまいました」
床に頭をなすりつけた。どっと、涙があふれ、鼻水もしたたってきた。半狂乱だった。あたりは静まりかえって、私の嗚咽だけが響いた。自分でもどうしようもなかった。長い、長い時間だった。ひとしきり泣き叫ぶと、劉所員がひざをついて、私の胸をとった。「よくわかりました。よくわかりました。どうか立ちなさい。どうか立ちなさい」劉所員は、ハンカチを取り出し、私をだきかかえるように立ちあがった」


謝れる人間
こうして土屋芳雄さんは、激しい情動を伴って劉長東さんに謝った。劉長東さんはこれまでの土屋さんの対極にある人だった。あるいは、日本人が作る人間関係の向こう側に生きている人だった。そして土屋さんにとって、劉長東さんは1人の中国人であると共に、彼が死に追い込んだ中国人全体でもあった。
劉長東さんの姿に、中国東北部に暮らす民衆の生き方を見た。こんなに善良な人を、自分は弾圧のために作られた法律に基づいて苛め抜いたのである。しかも憲兵は一般の将兵よりも、被害者との個別的な関係を持っている。兵隊による殺害の多くはまったく一方的であり、被害者の事情はほとんど知らない。だが憲兵は被害者の家庭の事情などを知っており、しかも死に追いやる過程を記憶している。
「兵隊は死んだということしか分からないけど、俺は経緯が頭のなかに入っていたから、浮んでくると、自責への心理的態勢が整ってくると、過去の行為が具体的な文脈をもって想起される。これは、小島さんや富永さんら将兵より憲兵の方が容易なのであろう。張恵民らの拷問、貞星工作での閻幼文一家を死に追いやったことなどをまざまざと想い起こす。と同時に、眼の前を歩いているあんなに親切な劉班長が、それら彼が苦しめ抜いた人々の像と置き換わる。土屋さんはこの時、これまでの罪の自白と罰の取り引きの思考を停止し、ひたすら謝罪している。敗戦からすでに8年、ようやく彼は傷つくことのできる人間になったのである。土屋さんの劉班長への謝罪のエピソードは、天皇制イデオロギーや軍国主義からの「脱洗脳」のプロセスの頂点で起きている。
まず十分な食事、休養が与えられ、戦犯たちの緊張が解かれる。次に、天皇制イデオロギーや軍国主義を別の角度から眺め、日本政府が歪め隠してきた事実を知る、学習に入る。
だが、これだけでは感情はもどってこない。学習に続き、過去に自分が行った悪行を並べ立てたとしても、それは記憶したものの単純な再生でしかない。出来事として整理され、知的に反省されるだけであって、感情はもどってこない。なぜなら、行為は当時のイデオロギーによって感じないように防衛されていたからである。記憶を呼びもどしても、多くの弁明によって、なおも傷つかないように構えている。
感情のかよった人間に変るためには、無感覚になって体験してきた行為を追想し、追想のなかで感じ直さなければならない。その導入に、劉長東さんのような感情豊かな人への信頼や、劉さんとの交流を通して、軍国主義青年になる以前の自分にもどっていくことが必要であったのだろう。このような回路を通して、土屋さんは苦しめられてきた中国人に共感し、そこまで残酷であった自分を自覚し、無感覚になっていた自分に感じる能力を呼び起こしている。自分が犯した行為によって傷つかない者は、感じ考える主体にはなれない。彼は軍国主義イデオロギーの裂け目から感情を吹き込み、情動の爆発によってイデオロギーの鎧を壊そうとしたのだった。その後の心境の変化を、土屋さんは次のように語る。
「謝って初めて重荷が軽くなった。今後は誰にでも謝れる。どんな民族だろうが、どんな人であろうが、悪いことをしたら必ず謝れる人間に生まれ変わったちゅうことだね。俺は嬉しくって、嬉しくってよ。悪いことをしたら必ず謝らんといかん、これは人の道だということを始めて知ったわけだ。それからは、何時、いかなる断罪を受けても、喜んで死ね心の準備ができたと思った」


レッテル貼り
54年3月初めより、最高人民検察院による取り調べが始まった。事件ごとの取り調べの前に、土屋さんは自分の罪過をすべて書いた。ザラ紙に200枚書きあげた。検事は調書や資料と照らし合わせ「あなたの頭脳は千人に1人。抜群の記憶力だ。名前が間違っていたのは1人だけだった」と感心していた。その後、数年の歳月をかけて調べられた分厚い告訴状を読まされた。例えばそのなかに、先に述べた田白工作の拷問で死んだ王鴻恩の母親からの告訴状もあった。土屋さんは改めて思った。1931年に中国に来てから14年間、自分が殺した人間は何人か。数えていくと、直接間接に殺した人は328人、逮捕し拷問にかけた人は1917人になった。この数字が正確かどうか、裏付けはとれない。だが記憶力に優れる土屋さんのこと、おおよそ正しいのであろう。それにしても、凄まじい数である。
罪を自白し、死刑を覚悟し、生きて帰国できないと思っていた土屋さんも、56年7月、起訴猶予で釈放。そして興安丸に乗船して舞鶴港に帰ってきた。
だが、帰ってきた日本は変っていなかった。山形上ノ山駅に着くと、4,500人ほどの人々の出迎えがあった。こっそり家に帰るものとばかり思っていた土屋さんは、林立する「祝帰還」の幟、日の丸の竹竿の交差が眩しかった。市長の代理として助役による労をねぎらう挨拶があった。行列をつくって家に帰ってきた。かつて出征した時のように、学校の生徒たちも総出で行列に加わった。土屋芳雄さんは、一言お礼の挨拶をした。「関東軍の憲兵として、中国の人々に悪いことをしてきた。心から反省している」と。ところがその後、「あんたの言うこと、分らん」と村人たちに言われた。平和になったが、日本は変っていなかった。恰好だけはよくなっていたが、昔とまったく同じだった。変わったのは自分だけだった。
帰国後、土屋さんは農地解放された郷里で百姓にもどり、また母親が開いた食料品店を手伝ってきた。かつて「特高の神様」といわれた男を、公安警察が尾行してきたこともある。土と共に生きる暮らしにもどりながら、土屋さんは反戦平和の運動を続けてきた。保守的な農村で「上山平和懇談会」に参加し、後に「上山市平和懇話会」に発展させて、戦争犯罪を語ってきた。頼まれると学校、婦人会、労働組合、市民集会など、どこでも出かけていって講演してきた。かつて憲兵の鑑であり、チチハル憲兵隊の12年を隅々まで知る彼の証言に対する嫌がらせ、抗議も激しかった。とりわけ84年8月5日、『朝日新聞』に「戦犯の実録―半生の悔悟」の手記が大きく紹介されると、元憲兵たちを主として多くの抗議文、嫌がらせの手紙が送られてきた。
例えば『東京憲友会 会報183号』(1984年9月10日)は、冒頭に会長による「憲友の或る出版物を駁す」と掲げ、次のように書いている。
「いやはや恐れ入ったものである。読むほどにこれは偽憲兵の作り話ではないかと思い、名簿を祈るように開いた。然し残念乍ら実在の人物であり、チチハル憲友会会長を務めつつあることが判った。更に同氏が所謂洗脳された日本共産党員で憲友会を対象とした、オルグの容疑十分な人物ということも判った。要するにこの件は、氏が朝日の反戦反核キャンペーンに旨く乗るというオルグらしい側面を見せているものの、結論は悉く事実無根、ウソの固まりである」
どうして日本共産党員で、オルグの容疑十分な人物と判ったというのか。その他、この号は「悔悟の記録に啞然」として「今や全国憲友会一体となって、元憲兵の正しい評価を後世に伝えるべく活躍中に、1人の不心得憲兵によって憲友会の活動を水泡に帰すようなことは絶対に許されないと存じます」といった千葉の元憲兵の文章が続いている。なお、憲友会とは元憲兵の団体である。



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