日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

戦争と罪責・野田正彰/전쟁과 죄책/战争与责任/Guerre et blâme・Masaaki Noda/전쟁범죄(戰爭犯罪, 영어: war crime)/⑥


土屋さんが共に学んだ「昭和6年徴集関東憲兵隊旅順教習所卒、同期会一同」による、長文の「祖国に反逆した憲友に対する憲兵科同期会の公開質問状」なるものも届いた。ここでも洗脳、日本共産党員という決めつけで納得しようとしている。
「君に関する朝日の記事や、君の勤務したチチハル憲兵隊同僚憲友の情報を総合すると、君は中国、ソ連に11年抑留された。その間にすっかり洗脳されてしまったという。しかもソ連抑留中はソ連側のスパイとなって戦友を売り、みんなそのため泣かされたという。そして帰国後は日本共産党に入党して、現在も続けている文筆活動は、贖罪に名を籍りた日共の反戦平和の文化活動の一環であると、確度の高い情報もある。よもや君は、元来共産主義者でありながら、偽装して憲兵隊に潜入したのではあるまい。重要な事項なので正直に答えらたい」
「本当に贖罪の気持ちがあるなら、 それに気付いた時点で潔く身を処することが古来からの武士の作法だ。若しその機会を失し今更しわ腹を切る勇気がなかったら、雲水にでもなって中国へ渡り、中国人被害者の慰霊供養の行脚でもしたらどうか」と続け、「大東亜戦争の大儀名分はアジア弱小民族を米英の桎梏から解放することにあったが、日本は遂に敗れた。しかし戦後40年、アジアが解放された事実を君はなんと見るか」と結ぶ。
この文章は、土屋さんが述べてきた憲兵たちの嫌疑、逮捕、拷問を貫く思考そのものである。自分が目をつけた者は嫌疑のある者であり、嫌疑は確証ある事実にすり変えられ、白状しないのは共産党員だからということになる。洗脳されっぱなしの者が、脱洗脳者を洗脳されたと連呼している。そう断定すれば終わりであるはずだが、なおも「腹を切れ」「位階を返上せよ」と罵らずにはいられない。相手を攻撃するためになら、それぞれ矛盾する論理を総動員する。
他にも「脳病院行きが至当」とか、「この時期に、中国国民にこのようなことを知らせることが国際的に問題があるのがわからないのか」などの叱責の手紙もある。この種の手紙の多くは偽名か、匿名である。傷つくことを許さなかった、湿った脅迫の文化は今なお続いている。罪を自覚することの意味を伝えようとした者に、沈黙を強いる文化は温存されている。
土屋さんは1990年6月、連絡のとれた張恵民(36年、ソ連諜報員検挙事件)の遺児、張秋月さんを瀋陽に訪ねた。彼女は瀋陽の中国医科大学(旧満州医科大学)の教授を務めている。彼女の一家に心から謝り、「謝ってから死にたいと思って来ました」と語りかけた。その後、チチハルに行き、張恵民ら犠牲者の墓で詫びた。帰りに撫順に寄り、35年ぶりに劉長東さんにも会っている。
土屋さんも、三尾さんも、一般の将兵と違って、死に追いやった人の姓名、経緯を知っている。遺族を探すこともできた。彼らは遺族への謝罪という対話を通して、被害者に謝り続ける道を選んだ。「殺されていく人の苦しみ、無念でなんとも言えないでしょう。何も悪いことをしていないのに、いたずらに痛めつけられ死んでいかねばならない。どんなに悲しい思いをしたか、私が理解しようとしても薄っぺらでどうしようもない」と彼は唇を噛む。しかし今の日本人には「相手の立場、遺族の立場に立って理解しようとする気持さえないんだもの。当り前だったと思っている」87歳になる土屋芳雄さんは、若いころと同じ坊主頭で若い世代に語りかけてやまない。
「国家に盲従することはねえんだ。戦争ほどの罪悪はない。これほどつまらないことはない。だから必ず逃げなさい。戦争に勝って幸せになった国はない。勝っても敗けても、数十年たてば世の中変ってしまう」
私は訥々と東北弁で語る土屋さんを見つめながら、「青年期、壮年期、思想であれ野心であれ燃えあがっても、いずれ必ず枯れて静かになる。土屋さんにおいてさえ、こんなに温かい老人になっている。人と競わないで一生を送ることの困難な社会から、いかに逃れればいいのか。私たちの答えはあるのだろうか」と考えていた。


第15章 父の戦争
敗戦から半世紀。戦争と虚栄に揺れ動いた100年の後、平和な時代が五十数年続いている。こんなに年月が経ってなお、侵略戦争への反省の欠如が繰り返し問われる。日本の政治家が侵略戦争否認の発言をしたとき、あるいは文部省が中学・高等学校の歴史教科書に戦争犯罪の事実を書かせないように検閲を強めたとき、アジアの国々から、つい昨日の許しがたい事件として強く抗議される。さらに、これまで隠されてきた問題が繰り返し繰り返し戦争責任として問われる。強制労働、毒ガス弾の放置、細菌戦の悪事、従軍慰安婦・・・。その度に、戦後世代は当惑している。
戦後世代(戦後生まれだけでなく、私のように戦中に生まれても、戦後に自我形成をした者を含む)が父母や親族から聞いてきた戦争は、戦死の通知、空襲の恐怖、疎開、戦中・戦後の食糧難などであった。このような話は、親の世代が好んで話した。困難を乗り越えてきた自己肯定の感情と共に、それは伝えられた。しかし親たちは、決して自分が行った侵略について語らなかった。こうして育ってきた戦後世代が、例えば核戦争反対を唱えたとき、異国の人から「あなたたちの側は、過去、何をしたのか」と批判され、言葉を失う。
反論、弁明はいくつかある。「責任は行為者がとるものであり、戦争にかかわらなかった自分に個人としての責任はない」という、まず一見正しい前提に立ち、その上で論理を飛躍させる。だから、「私たちの社会、私たちの国家が、いつまでも戦争責任を追及され、補償金を払わされるのはたまらない」と。あるいは、攻撃的に、「日本の非をあげつらう日本人がいるから、他国から付け込まれる」と身構える。
しかし、そう反論しながらも、一方ではわかっている。私たちが生活する日本社会は、戦時、戦後を問わず、持続していること。また戦後世代は、戦争を行った親に育てられ、彼らの文化を摂取してきたことを否定できない。個人としての戦争責任はもちろんないが、侵略戦争にのめり込んでいった社会や文化との同一性、そして国家の責任まで否定できない。
その上、戦後世代の精神には一抹の不安がある。親の世代の文化を摂取して育ったとは言え、部分的に批判もし、肯定もしてきた。しかし、戦後世代は親の本当の姿を知らないのではないだろうか?太陽に当たった夜空の月の半面を月と見ているだけで、影の半面を知らないのではないか?半面だけの父母の考え方、生き方を受け入れ、あるいは反発することによって作られてきた戦後世代の精神には、どこか虚偽があるのではないか?虚偽とまで言わなくとも、表面的な浅薄さが付きまとっていないか?私たちは豊かに感じ、深く考え、他者と交流できる自我を形成しているだろうか?
あなたの父親が、社会関係は力であり、極端にパワー・ポリティックスを強調して語る人であったとしよう。その過剰な弱肉強食の社会観は、彼のいかなる体験に由来するものか。
あるいは、あなたの父親が旧職業軍人の横暴、昭和天皇の戦争犯罪、戦前から続くいくつかの古い組織の弊害について厳しく批判しつつ、その論旨にまとまりがなく、家族との関係においては極めて家父長的であったとしよう。彼の権力への反発には、軍隊のヒエラルキーに飲み込まれた、そのなかで犯していった残虐な行為のいくつかが隠されているかもしれない。思い出したくない。認めたくない体験は、感情を反対の極に掘るものではないからである。にもかかわらず、戦後世代は父母に尋ねはしなかった。空襲の恐怖、疎開や引揚げの苦労話だけでなく、あなたは戦争時に何をしていたのか、何をしたのか、聞きはしなかった。確かに、彼らの重い沈黙があった。国を挙げてのはぐらかしがあった。「悲惨な戦争」と紋切り型に述べるだけで、侵略戦争の具体的事実を述べようとはしなかった。
例えば、戦後世代の教科書『民主主義』(文部省著作発行、1949年8月)のオレンジ色のなつかしい表紙を、今あらためて開いてみると、日本の侵略戦争についての論及がまったくないことに啞然とする。戦争について述べている「民主主義と世界平和」の節では「戦争が起これば、多数の国民は兵隊になって戦場におもむき、死の危険にさらされる。そればかりでなく、近代戦では、国内にあっても爆撃を受け、女・子供もその犠牲となる。家や財産を焼かれる。莫大な戦費を負担し、経済生活は大きな打撃をこうむる」と戦争の被害のみが強調されている。このような戦争を引き起こすのは専制主義であると続けた後、なんと驚くべきことに、日本の戦争拡大については触れず、ドイツについて述べている。第二次大戦の始まったころ、空襲警報下のベルリンの地下壕で、「戦争を始めたヒットラーを死刑にせよ」と叫ぶ声がしばしば聞かれたが、地上で言うことはできなかった、と。まるで日本の侵攻は無かったかのようである。これらの記述は、今日の日本人の戦争観とぴったり一致している。
私は、乏しい天然資源しか持たなくとも日本人の勤勉と技術は将来の繁栄をもたらす、と同じ主張を繰り返し挿入する教科書『民主主義』の頁を操りながら、戦後世代の思想形成の出発点がどこにあったか、思い知らされる。戦後民主主義と侵略戦争の否認はセットになっていたのである。
国家が侵略戦争を否認しているとき、自分の父母に侵略戦争への加担の有無を問うことは容易ではない。彼らの沈黙には、自分たちの体験を受け止めきれず曖昧にしようとする構えがあったが、子供たちがそれに気付くのは難しい。戦後世代の多くが、反戦平和の運動に加わった。だが、彼らとて自分の親や親族に戦争をいかに生きたか、聞こうとはしなかった。尋ねると、沈黙どころか攻撃してくるような親ならば、闇のままにしておくしかなかったであろう。そうでなくとも、親の沈黙と否認の前で、戦後世代の若者が十分に聞き取る能力はなかった。
それから20年、核実験反対運動やベトナム戦争反対の運動にかかわった戦後生れの世代も中年になった。日本の高度経済成長と共に生きてきた彼らも、自分の半生を振り返り、戦中世代の沈黙の部分が自分の生き方とどのような関係にあるのか、考えるようになった。ところが、戦争にかかわった父母は、多くの場合、すでにいない。今回と次回の2回、父の沈黙の部分を戦後世代がいかに受けとめようとしているのか、倉橋綾子さんと渡辺義治さんを軸に考えていこう。




父の遺した紙片から
倉橋綾子さんがしわくちゃになった紙切れを握らされたのは、食道癌で父親が亡くなる1週間前のことだった。肝硬変も進行し、点滴だけで維持されてきた体は枯枝のようだった。それでも父・大沢雄吉は、点滴の針のささっていない右手で枕の下をまさぐり、
「俺が死んだら、これを墓に彫りつけてくれ。忘れんで、頼む」といった。紙には、鉛筆で書かれた文字が震えながら並んでいた。やっとの思いで書いたのであろう。
「旧軍隊勤務十二年八ヶ月。その間十年、在中国陸軍下級幹部(元憲兵准尉)として天津、北京、山西省―臨汾、運城、旧満州―東寧などの憲兵隊に勤務。侵略戦争に参加。中国人民に対してなしたる行為は申し訳なく、ひたすらお詫び申し上げます」
あまりにも唐突だった。戦争時に何をしたのか、どこに居たのかも話さなかった父が、自分の人生を侵略戦争に加担した謝罪で締め括ろうとしている。いったい何を犯し、何を詫びようとしているのか。1ヶ月前、再入院して少し後、戦時の話をしていたが、彼女ははっきり思い出せない。何かの命令を受けて、中国人の集落に向かった。割と信用されて、丁重に扱われた、といった話だった。本当は、そこから先を話したかったのかもしれない。それ以上聞くことのできる病状ではなかった。
それからすぐ昏睡状態になり、父は亡くなった。綾子さんは東京の中学校に勤め、夫も同じく教員。2人の子供を育てながらの共働きで忙しかった。その上、母が若くして脳血栓で倒れて10年間の闘病、亡くなってすぐ父の入院。そして退院、入院の繰り返し。両親の看護のために、東京と郷里・群馬県との往復でこの十数年があわただしく過ぎていた。葬儀が終わり、遺言となった書き付けのことは気になっていたが、そのまま時間が経っていった。
それから4年、教員の仕事を続けた。学校を辞めて自分の時間ができて後、父の紙切れが次第に重くなってきた。この間、家を継いだ兄に父の遺志を伝えていたが、「これから家族の墓も並ぶ墓地に、そんなものを彫りつけて置かれるのは嫌だ」と拒まれた。
墓石に彫るか彫らないかは別として、彼女は父のことをどれだけ知っていたのか、おぼつかなく思った。父は46年に帰国し、翌年、自分が生まれている。戦後生まれの自分は、戦前の父母についてほとんど知らない。「中国人民に対してなしたる行為は申し訳なく、ひたすらお詫び申し上げます」なんて、見当もつかない。子供のとき聞いた話で、悪いことをしたというものはなかった。「中国人はとても正直で、嘘をつかない」とか、誉めていた。
こんな話を聞いたことを思い出す。中国人の少年が飯炊きに使役されていた。その子はある日、薪割り用の鉈で右手首を切り落した。母と2人暮し、母親は病気で寝ている。自分がずーっとここにいると、母は死んでしまう。逃げ出しても捕まって殺されてしまう。利き腕を失えば釈放してくれると考え、左手を切り付けたのだった。過失ではない、疑わしい。結局、隊長の命令で殺すことになった。父は殺させないために、上官に頼んでまわったと、話していた。
娘は、日本軍は残虐なことを行い、こんなかわいそうな少年がいた、でも父は少年のためにかけずり回るような兵隊だったんだと思い、嬉しかった。その子がどうなったのか、父は語らなかった。その話を聞いたのは、彼女が小学校4,5年生のとき、父は成長した娘に、少年を見たのかもしれない。しかし戦争犯罪を犯したとは1度も言わなかった。彼女は過去の記憶をひとつひとつ辿ってみた。父はどんな人だたのだろう。父と私はどんな関係だったのか。亡くなって後、初めて見た履歴の記された文書、伯父に尋ねて聞き出した引揚げの話を加えていくと、こんな人だっただろうか。
父は1915(大正4)年、群馬県の農家に3男坊として生まれている。下に妹が1人。それなりの田畑を持つ農家だったが、祖父の馬狂いのため、次第に貧しくなっていった。そのため高等小学校までしか通えず、中学校に上れなかった。学校を出てから野良仕事を手伝い、土木工事に時々たずさわり、18歳で志願兵となる。3年後の1936年、試験に合格して憲兵となっている。高等小学校しか進めなかった怜悧で勝気な青年が、職業軍人の道を選び、学歴へのこだわりを払拭していったのである。しかも、憲兵の給与が高かった。この辺の事情は、先の三尾豊さん、土屋芳雄さんと共通している。すでに長兄は近衛兵、後に次兄も2度目の招集のとき、憲兵として3年間戦争に出ている。
以来10年間、あの紙に書かれているように、華北、満州の各憲兵隊に所属。37年から天津の憲兵隊を掘り出しに、2年後に山西省臨汾憲兵隊へ移り、42年に北京へ異動。44年初めに、ウラジオストックに近いソ連国境に接する東寧の憲兵分遣隊へ移り(ここは中ソ国境の鉄道の町・绥芬河の少し南に位置する)、最後に朝鮮国境の真北、琿春でソ連軍に捕まった。歩兵を装っていたが、露顕して拘束され、逃亡。中国人大工の手伝いをしていて、再び逮捕され、また逃亡。ついに46年秋に博多に上陸したという。1年間にわたる大逃亡である。
この間に従軍看護婦であった母と結婚。2人の兄が生まれていたが、憲兵だった彼は『中央公論』を読んで敗戦を予測し、45年7月末に家族を帰国させていた。いち早く家族を帰国させたことや大逃亡は、彼のしたたかさをよく伝えている。綾子さんは、父の死後、伯父に父の半生を尋ね、帰国時の波瀾万丈を伝え聞いたのだった。
群馬に帰り、父・大沢雄吉は長兄が後を継いでいた実家の横に小屋を建て、呉服の商いを始めた。近くの町・渋川に出て、綿布を2本ほど買ってきては近隣に売り、売り尽くすと再び買いに行った。気難しく、他人にも自分にも厳しい人だったので商人になりきれなかったが、信用は篤くそれなりに店は成り立ち、後にはもう一軒店を出せるまでになった。村の商工会を作るのにも力を尽くしている。綾子さんは47年に生まれた。戦後のベビーブーム世代である。兄2人は頑強な父に反発しがちだったのに対し、娘の綾子さんは父のお気に入りだった。父と娘、母と息子の結びつきは、多くの家庭に見られる通りである。家庭の緩衝の役を荷ない。父の期待に応え、長じて父の愚痴を聞くまでになった。
父は神仏を嫌い、お盆の行事を否定し、仏壇は閉じたままだった。そして戦争を憎み、昭和天皇を激しく非難する言葉を漏らした。『中央公論』を愛読し、深沢七郎の『風流夢譚』を高く評価した。娘には『私は貝になりたい』、『人間の条件』、あるいは『楢山節考』、『キクとイサム』などの映画を奨めた。このような父の言動を通して、綾子さんは戦争や天皇に対する厳しい見方を吸収していった。そんな父親は、娘が小学生だったころ、夜中にうなされて叫び声をあげる人でもあった。横に寝ていた母は、「お父さんは苦しいことがあったんだよ」と言って、おびえる娘を安心させるのだった。さらに、軍人恩給連盟に入り、恩給増額にかけずり回り、そのために、およそ政治思想において反対の中曽根康弘(自民党の代議士)の後援会に加わったりした。しかし娘が中学生になったころ、父親は肝硬変となり、以後、何度か入退院を繰り返し、86年、71歳で亡くなった。
つまり綾子さんの父・大沢雄吉は、職業軍人(憲兵)であった過去を後悔し、「させられた戦争」を憎み、国民に侵略戦争を強いておきながら責任をとらない昭和天皇を全面否定し、一方では戦争を命じられた軍人への恩給を強く要求する人であった。彼の恩給増額要求には、戦争を強制した者が責任をとらないことに対する、させられた者の恨みの感情が隠されていたのかもしれない。
いずれにせよ彼は、自らが職業軍人として加担した戦争を「させられた戦争」として捉え、一括して否定しながら戦後を生きていた。だが、どこかに無理があった。体験したことを忘却しようとする無理があった。彼は戦後世代が持っていた父親の、決して少なくないタイプの1人であった。


軌跡を追って
では、彼はこの父親にどのように影響され、人格形成していったのだろうか。父親は憲兵として犯した行為を悔いながら、憲兵として身につけた勤勉、厳格、几帳面といった構えは大切にしていた。先に触れたように、妻や息子は反発したが、彼は父を尊敬し、父のお気に入りの娘となった。
「今考えると、いい子になりすぎました。すっぽり嵌ってしまったようです。それはいい面でもあり、悪い面でもあるようです。面倒見がいいと感謝され、親たちは真剣にやってくれると喜んでくれたのですが、人を見る目は厳しく、自分に対しても倫理感が強すぎるのです」
他方では、父に世の中のいろんな動きを教えられたので、因習的な農村にあって、考えることのできる女性になった。早稲田大学文学部に進んだころ、母が脳溢血で倒れ、郷里に帰ると母の看病をしなければならなくなり、父と話をすることは少なくなった。しかし、ベトナム反戦などの学生運動に加わっているとき、心のなかで父の考えと通じていると思っていた。
「父は侵略戦争に巻き込まれ後悔している。戦争を批判している。自分はそれを大きな面でやっているんだと思っていました」ただし、残虐なアメリカのベトナム戦争介入に反対しながら、眼の前の父が先の戦争で何をしたのか、考えたことはなかった。父は正義感が強く、真面目、反権力の人だったので、およそ残虐行為とは結びつかなかった。ほとんどの父と同じく彼の方は、娘の学生運動に反対した。すでに肝硬変になっていた父は、哀願するように「正しい主張でも、世の中は厳しいから」と彼の将来を案じた。彼女が「お父さんは、生き方と違うことを言っている」と反論すると、黙った。だが、その後も何度か反対した。
彼女は大学を卒業し、東京の中学校の社会科の教員になり、教職員組合の活動を続けた。結婚し子供が生まれ、忙しい日々が過ぎた。父はもう、組合活動にまで反対することはなくなっていた。病床にあった母や父の世話に幾度となく帰郷したが、父と戦争について話すことは無かった。戦争は遠い昔になっていた。倉橋綾子さんが、父について知っていることはこれ位だった。
退職した後、彼女は戦時の父を知る人を調べ始めた。まず伯父(父の兄)を東京に訪ねた。彼もまた3年間だけ、中国で憲兵をしていた。驚いたことに、伯父も父から紙きれを受け取っていた。彼女は末期の病床を世話していた娘にのみ手渡されたと思いこんでいた。実は、伯父と兄とで相談して墓に刻まないことにしていたのであった。
「弟は気持が優しかったから、誰か部下がしたことで詫びているのではないか。それに、こんな文章を彫りつけると、田舎の人はまるっきり悪いことをしただけだと誤解する。それは困る」天皇・皇后の写真を飾った部屋で伯父はそう言った。「自分はどうしようもない中国人の悪者を1人殺しただけだ。他には何もしていない。憲兵は悪者と思われているが、それは1部の人のこと、多くの憲兵は何もしていない」と、さらに電話で弁明してきた。父とは対極にあった。
彼女は伯父から敗戦時の父の大逃亡を聞かされたが、戦時については何も話してもらえなかった。その後、中国帰還者連絡会を知り、訪ねていった憲兵だった土屋芳雄さん(第12章)を知り、手紙を出している。防衛庁・防衛研究所の図書館を訪ね、索引カードを操ったこともあた。それでも手懸りをつかめなかった。後に、ある老婦人から全国憲友会の名簿を借りることができ、分厚い冊子を一頁、一頁調べていった。
名簿には、敗戦時3万6000人いた憲兵のうち、会員となった1万7000人の氏名、住所、最初の任地と敗戦時の部隊名が載っている。父が敗戦を迎えた満州の東寧か琿春にいた人を抜き出し、順々と電話をかけていった。すでに亡くなったり、寝たきりで電話に出られない老人が多い。その上、憲兵隊は分隊、分遣隊と枝分かれしているので、父を知る人は現われない。二十数人目でやっと、東寧憲兵隊の分遣隊で一緒だったという名古屋の人に出会った。綾子さんは、その老人にあの紙切れのことも含めて手紙を書き、父のことを知りたいと伝えた。そして訪ねていった。老夫妻は昔の部下の娘が遠路会いにきてくれたのを喜び、一緒に過ごした1年半の生活をなつかしそうに話してくれた。
―酷く寒いところだったが、5月の半ばに鈴蘭が一斉に咲く。それはきれいだった。9月から、ひと息に冬になった。宿舎で仲良く暮らした。酒保に行ったら、何でも手に入った。昭和20年の元旦は忘れられない。まだ、鯛のお頭付きの御馳走が食べられた。お屠蘇で祝い、日本の神社に一緒にお参りに行った・・・。
彼女が「何か事件や作戦はなかったのですか」と尋ねても、「あの頃は、作戦なんて起こせる状態ではなかった。ソ連から入ってくるスパイを探すぐらいのことでした」と答えて、また元の思い出話に戻ってしまう。
―引揚げで苦労した。シベリアに抑留される一歩手前で、自分はマラリアが悪化し、ソ連軍に捨てられて助かった。妻も中国人を装い、やっと帰国できた・・・。
「なぜ父はあんなことを書いたのでしょうか。何があったのでしょうか」「何もありませんよ、あの辺は国境ですから」再び彼女の問いを素通りして、自分たちの回想に戻っていく。やがて息子夫婦や孫たちが挨拶にきて、夕食になった。「もしかしたら、東寧の分遣隊では何もなかったのかもしれない。でも、もう1度聞こうか」と迷っている内に、夜になり、寝室に案内された。翌朝、見送られて帰ってきたのだった。
この元分遣隊長だった老人から、もう1人の同僚憲兵を紹介してもらった。青森に住むその人は寝たきりの状態で、奥さんが聞き出して、何を思い出したか伝えてくれた。「大沢さんは優しかった。一緒に泳いだ」としか言われなかった。ここで父の過去を訪ねる旅は終っている。倉橋綾子さんは、父が戦争で何をしたのか、もう少し知りたい。出来れば中国へ旅行し、父がいた町で調べてみたい。父の代わりに、お詫びしたい、と思う。

でも、父は墓に謝罪を彫ると言う前に、なぜ話してくれなかったのだろう。話してくれた方が、ずっとよかったのに。しかし、本当に父が行った残虐を聞いたとき、自分はその時点で何と考えるだろう。どう応えられるのだろうか。想像すると、恐い。倉橋さんは、父の遺志が引き起こした心の騒めきを、2つの短編小説に定着させている。
「小李」と題する第一の作品(同人誌『山査子』(第2号)は93年、父が亡くなって7年後に書かれた。プロットはほぼ事実通り、病床の父があの紙切れを娘に手渡すエピソードから始まり、老憲兵を訪ねて行くところまで続いている。後半になって、倉橋さんによるフィクションに、彼女の願望に、代わる。かつて父が断片的に語った、右手首を切断した少年の事件を老人は思い出す。小説では、心優しい父は八路軍のスパイの嫌疑で銃殺刑が決まった少年・小李を逃がす。翌朝、父は自分への嫌疑を払うために打って変わって悪鬼となり、使っていた中国人を拷問し、少年捜索の先頭に立ち、押し入った村に火を放つ。彼女は次のように書いている。
「父は自分の願いとは裏腹に卑怯者になってしまった。では小李を見殺しにすれば良かったのか。否、あるいは隊長の前であくまでもとぼけ通せば良かったのか。そんなことのできる人間は多くはないだろう。そうでなかったからといってどうして父を責められよう。中国の被害者から見れば、それでも英二郎(父)の保身の為に多くの命が失われたのだ、と厳しく撥ねつけられるのは当然だ。だが毬子(娘)は自分の父親をかばいたかった。
死ぬまで自分を責め続けてきた父を思うと胸が苦しくなった。その事実は消せないとしても、一緒に泣いてくれる者がいるだけで、心が和らいだのではないだろうか。せめて自分にだけは打ち明けてくれても良かったのではないか。毬子は父が恨めしく思えた」
ここでは心優しい父が、優しい者の弱さの故に殺人鬼に変わる物語になっている。そして、その罪責感を生涯胸に秘めてきた父ということになっている。弱いから戦争に巻き込まれるという、彼女の前提が先行している。それは、ほとんどの日本人が口にするドラマのようだ。残念ながら、この挿話は人間の真実を十分に表現する虚構にはなっていない。
おそらく少年名はそのまま捨てられたか、殺されたのであろう。父は何もしなかったし、罪の意識も持たなかったと考える方が自然である。だが、かわいそうな戦地の少年として、ふと思い出したのではないか。他方、ブラック・ボックスを抱える戦後世代の1人として、彼女は唐突に悪鬼に変わった父の残虐行為を羅列している。何も知らない者は、無罪と巨大な悪との間に揺れ動き、切り裂かれてしまう。
それから4年後、倉橋さんは第二作『悲しみの河』(『民主文学』1997年9月号)を書く。第二作では、末期の父を看病する娘の所へ、匿名の手紙が届く。なかには、中国人の首を斬って笑っている3人の日本軍人の写真が入っていた。中央の男は、若い日の父である。娘は苦しみぬいて、病床の父にやっと聞く。
「お父さん、本当のことを教えて。私大丈夫だから、何があっても私はあなたの娘なんだから。大勢の人を手にかけてしまったのは本当のこと?」父のまぶたから涙が一筋。だが、黙ったまま顔をそむけてしまう。ところが暫くして、帰り仕度をはじめた娘に、父は筆談で任地と殺した男女の数を伝える。絶句して、「どうしてこんなひどい事をやれたの」と聞く娘に、父は再び震える鉛筆で答える。「我々は皇軍で、これは聖戦だ。それで国中が1つにまとまっていた」
「初めは悩んだ。だが支那に勝つのだと割り切るようになった」「俺は俺でいられなかった。実に済まない事をした」娘は父の耳元でささやく。「お父さん、ありがとう。辛い思いをさせてごめんね。でも、よかった。隠さないでくれたことが。お父さんは少しはほっとしたでしょ」「私、引き受ける。お父さんのやったこと引き受けるから」
「した戦争」を背負う
父が死んでから10年、倉橋綾子さんはようやく亡き父に聞くことができた。小説のなかでだが、聞く力を持った。父は、国家が侵略戦争について謝罪しようとしないとき、1人の人間として謝罪した。71年の生涯を戦争への謝罪で締め括ることによって、「させられた戦争」から「した戦争」に変えた。それは、「させられる人間」として生まれたが、「する人間」、判断し行為の責任を引き受ける人間として死んでいく、と表明することでもあった。
私は倉橋さんに1994年に会った。私はそのとき、「お父さんは戦後も身構え、揺れ動きながら生きたであろうが、うなされ、傷つく心を持っていたことは貴重ですね」と伝えた。
どんなに酷いことをしたかと想っていた彼女は、娘として嬉しかったという。それから、倉橋さんは「悲しみの河」を書いた。そして96年、父の家を継いでいた兄が亡くなった。今、兄の息子(彼女の甥)は、父・大沢雄吉の意志を刻もうと言ってくれている。時代は少しずつ変わっている。私たち戦後世代は、尋ね聞くことができる状況にやっと到達した。聞く力をようやく持ちつつある。


A flashback, or involuntary recurrent memory, is a psychological phenomenon in which an individual has a sudden, usually powerful, re-experiencing of a past experience or elements of a past experience. These experiences can be happy, sad, exciting, or of any other emotion one can consider.[1] The term is used particularly when the memory is recalled involuntarily, and/or when it is so intense that the person "relives" the experience, unable to fully recognize it as memory and not something that is happening in "real time".[2]
フラッシュバック (flashback) とは、強いトラウマ体験(心的外傷)を受けた場合に、後になってその記憶が、突然かつ非常に鮮明に思い出されたり、同様に夢に見たりする現象。心的外傷後ストレス障害(PTSD)や急性ストレス障害の特徴的な症状のうちの1つである。
第16章 引き継がれる歪み
フラッシュ・バック
1997年秋の夕暮、私はプラハの火薬塔の南向いにある建物の屋根裏部屋で、ヘレーネ・クリモヴァさんと話し合っていた。彼女はここで、「ホロコースト後の家族」という団体に係わり、ホロコーストを生き延びたユダヤ人とその2世の集団精神療法を続けている。
私が臨床心理学者のクリモヴァさんを訪ねたのは、チェコ・ユダヤ人協会のトーマス・クラウス会長から、ホロコースト生還者が70歳、80歳代の高齢になり、身体が衰弱してくると、しばしば絶滅収容所に今なお閉じ込められているかのような恐怖の体験に引き戻されていく、という話を聞いたからだった。老衰し意識レベルが低下してくると、深い精神的外傷体験が再現される。それは十分にあり得る話だが、戦後五十数年経て今、なぜチェコにおいて問題になるのか。この時点でなお「ホロコースト後の家族」というつながりがなぜ必要なのか。
その理解のために、戦後、チェコのユダヤ人が置れた状況について触れておかねばならない。ナチス・ドイツがヨーロッパ全域のユダヤ人を虐殺した事実を、知らない人はいないであろう。だがその後、生き残ったユダヤ人がどのように生活していったかは、あまり知られてはいない。とりわけ中欧、東欧のユダヤ人はどのように復興していったのだろうか。
第二次大戦前、チェコ・スロバキアには35万人のユダヤ人が住んでいた。当時はチェコの領土は東に延び、現在のカルパティアのウクライナ領まで含んでいた。そこには8万人ものユダヤ人が住んでいたので、200万人のポーランド・ユダヤ人ほどではないにしても、相当の人口だった。ところがホロコーストによって、ほとんどが殺されてしまった。プラハの北西には中継収容所テレージェンシュタット(チェコ名はテレジン)がある。そこには、アウシュヴィッツなどの絶滅収容所へ送られる前の「地獄の控え室」だった。チェコのユダヤ人もテレジンに送られ、そこで病死あるいは餓死するか、ポーランド側に造られた絶滅収容所に送られていったのである。モラビアの都市に住んでいたユダヤ人は、すぐ北側のオシフィエンチム(ドイツ名はアウシュヴィッツ)に直接送られていったのであろう。
*テレージエンシュタットでは第二次世界大戦中にナチス・ドイツがベーメン・メーレン保護領(チェコ)北部テレージエンシュタット(チェコ名テレジーン)に置いていたユダヤ人ゲットーとゲシュタポ刑務所について記述する。テレージエンシュタットはエーガー川を挟んで「大要塞」と「小要塞」と呼ばれる二つの地区から成っており、ゲットーは大要塞、ゲシュタポ刑務所は小要塞の方に置かれていた。1941年11月24日から1945年4月20日までの間、総計14万人以上のユダヤ人がテレージエンシュタットのゲットー(大要塞)に連れてこられた。そのうち3万3000人以上がここで死亡した。8万8000人はここからさらに別の場所へ移送されている[1]。ゲットーというより通過収容所の側面が強かった。
Češtinaチェコ語→Koncentrační tábor Terezín je souhrnné označení nacistických represivních zařízení zřízených za druhé světové války za pevnostními zdmi a valy Terezína. Z formálního hlediska nešlo o koncentrační tábor, ale jednalo se o věznici gestapa (v Malé pevnosti, od června 1940) a o židovské ghetto (v Hlavní pevnosti, od listopadu 1941).
1945年5月、テレジンはソ連赤軍によって解放された後も、発疹チフスで死んでいく人が後を絶たず、その年の秋まで病人が残っていた。この時点で、ボヘミアとモラビアのユダヤ人は僅か3万人に減っていた。それもウクライナからさらに東方に逃れて生き延び、終戦後にチェコに移入してきたユダヤ人を含めての数であった。
48年2月、共産党を中核とする内閣ができ、49年より粛清が始まった。生き残ったユダヤ人にとって、西側のイスラエルへの移住は難しくなった。その後、どうなったのか。

日本では知られていないが、第二次大戦後の共産主義圏においても、ユダヤ人は抑圧された。共産党はイスラエルの建国を認めず、シオニズム(ユダヤ人国家の建設運動)を嫌った。1952年、チェコ・スロバキアでも前書記長のスラーンスキー(ユダヤ人)がシオニストその他の罪状で死刑となり、ナチス・ドイツの絶滅政策に続いて再び抑圧の時代に戻った。そのためホロコーストで生き残った数少ないユダヤ人は亡命するか、その民族名を隠して、チェコ国内で戦後半世紀を生きてきたのだった。
*イスラエル国(イスラエルこく、ヘブライ語: מְדִינַת יִשְׂרָאֵל‎ 、アラビア語: دَوْلَة إِسْرَائِيل‎ 、英語: State of Israel :[ˈɪzrɪəl, ˈɪzreɪəl])、通称イスラエルは、中東のレバントに位置する共和制国家。首都はエルサレムだが、多くの国はテルアビブを首都と見なしている。イスラエルは、シオニズム運動を経て1948年5月14日に建国された。建国の経緯に根ざす問題は多い。版図に関するものではパレスチナ問題がよく報道されるРусскийロシア語→Изра́иль (ивр. ‏יִשְׂרָאֵל‏‎, араб. إِسْرَائِيل‎), официально — Госуда́рство Изра́иль (ивр. ‏מְדִינַת יִשְׂרָאֵל‏‎ Медина́т Исраэ́ль, араб. دَوْلَة إِسْرَائِيل‎ Даула́т Исра’и́ль), — государство на Ближнем Востоке. Население на 31 декабря 2019 года — 9 136 000 человек[6]; территория — 22 072 км². Занимает 96-е место в мире по численности населения  и 148-е по территории.
*シオニズム(ヘブライ語: ציונות‎, Zionism)、シオン運動、シオン主義は、イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しよう、あるいはユダヤ教、ユダヤ・イディッシュ・イスラエル文化の復興運動(ルネサンス)を興そうとするユダヤ人の近代的運動。後者の立場を「文化シオニズム」と呼ぶことがある。「シオン」(エルサレム市街の丘の名前、英語発音ではザイオン)の地に帰るという意味である。시온주의(히브리어: ציונות, 영어: Zionism 시오니즘[*]) 또는 유대주의, 유태주의(猶太主義, 문화어: 유태복고주의(猶太復古主義))는 팔레스타인 지역에 유대인 국가 건설을 목적으로 한 민족주의 운동이다.[1]
*ルドルフ・スラーンスキー(Rudolf Slánský、1901年7月31日 - 1952年12月3日)は、チェコスロバキアの政治家。チェコスロバキア共産党の書記長。来歴・人物[編集]=プルゼニ州ネズヴェスチツェ(Nezvěstice)出身。第一次世界大戦後、プラハに移り、1921年にチェコスロバキア共産党に入党。党指導者のクレメント・ゴットワルトの側近として頭角を現し、1929年の第5回党大会で党幹部会員となった。1935年の総選挙で当選し、下院議員となる。1938年のミュンヘン会談でチェコスロバキア第一共和国が崩壊した後、ソ連に亡命。亡命中は、ラジオ放送「ロシアの声」でチェコスロバキア向けの宣伝工作に従事する一方、軍事組織を設立し、1944年のスロバキア民衆蜂起に参加した。第二次世界大戦の終結後、1946年3月の第8回党大会で書記長に選出。ゴットワルトに次ぐ権力者として、1948年2月の政権奪取やその後の社会主義化を推進した。1951年11月、スラーンスキーを含めた14人がチトー主義者として告発・逮捕された。1952年11月20日から開始された裁判で、アメリカ帝国主義に加担した「トロツキー主義者・チトー主義者・シオニスト」の罪で、死刑判決を受け、12月3日に処刑された。1968年、名誉が回復された。Esperantoエスペラント語→Rudolf Slánský (31-an de julio 1901, Nezvěstice, Aŭstrio-Hungario, nuna Ĉeĥio – 3-an de decembro 1952, Prago, Ĉeĥoslovakio) estis ĉeĥa komunista gvidanto, kiun oni kondamnis kaj ekzekutis laŭ falsaj akuzoj.
永い年月が過ぎ、やがて1989年の「ビロード革命」によりチェコ・スロバキアは共産党独裁から解放された。再生されたチェコ・ユダヤ人協会にも、少しずつ人々が集まってくるようになった。先に述べたように、戦後に生き残ったユダヤ人は3万とされている。加齢と共に減っていったであろうが、2世、3世も増えていったはずである。だが戦後の歴史を背負い、今のところチェコ・ユダヤ人協会の会員は3000人のみである。
こうして彼らは集まり、お互いにさしのべることが出来るようになった。そこで初めて、老人たちが迎える末期の精神状態の特異性に気付いたのである。彼らは戦後をどう生きてきたのだろうか。ホロコーストを体験したユダヤ人は過去を語らなかった。戦後も変わらなかった反ユダヤ時主義の社会環境で、彼らは若い日の体験を語らなかった。他人に知られることを恐れたばかりでなく、家族に対しても語ろうとしなかった。極限体験を語っても、わかってもらえはしないと思ったのだった。
彼らは普通の生活に戻って後、しばしば抑鬱的になった。それでも生存のために、ひたすら働いて生きてきた。寡黙に働き、目立たないように暮らしてきた。こんな老人が老衰してくると、不安、人間不信、絶滅収容所へのフラッシュ・バックに苦しみ、民族差別への強い恐怖を抱いたまま、苦難の人生を終えるのである。50年の歳月は、終末において、彼らの癒しの時間ではなかったことを示している。


私はクリモヴァさんの話を聞いていて、老いて亡くなったプリーモ・レーヴィ(イタリア人作家=Primo Michele Levi (Torino, 31 luglio 1919 – Torino, 11 aprile 1987) è stato uno scrittore italiano, autore di racconti, memorie, poesie, saggi e romanzi)やブルーノ・バッテルハイム(ウィーン生まれ、強制収容所に入れられた後、アメリカに亡命。精神分析者として優れた業績を残し、1990年、87歳で自殺=Bruno Bettelheim (* 28. August 1903 in Wien; † 13. März 1990 in Silver Spring, Maryland, USA) war ein US-amerikanischer Psychoanalytiker und Kinderpsychologe österreichischer Abstammung)のことを想っていた。
レーヴィはユダヤ系イタリア人であり、アウシュヴィッツからの生還者である。『これが人間か』(邦訳『アウシュヴィッツは終らない』竹山博英訳、朝日新聞社、1980年)や『今でなければ、いつ』(竹山訳、朝日新聞社、1992年)などの作品を書き、極限状態を描き続けたレーヴィは、1987年、トリーノの自宅バルコニーから飛び降り自殺した。あの作家にして、しかも68歳になっての自殺。なぜ死なねばならなかったのか。
私はチェコ・ユダヤ人の老人の精神的外傷後ストレス障害(PTSD)の話を聞きながら、あれほど強靭に見えた2人にして、なぜ同じ精神状態に連れ去れらたのか、と考えていた。
帰国後、私はイタリア文学者の大久保昭男氏が「プリーモ・レーヴィ没後10年に思う」(『朝日新聞』1997年10月16日付、夕刊)と題するエッセイを寄せ、ローマの追悼集会でレーヴィの友人が語った自殺の日の状態について、紹介しているのを読んだ。
ユダヤ教のラビでもあるトアッフ教授にレーヴィは電話をかけてきて、「母は癌を病んで苦しんでおり、その姿を見ていると、アウシュヴィッツで板寝台に横たわっている人々の顔が重なってしまう。もう、どう生きていけばよいのか分からない。こういう生にはこれ以上耐えられない」と語り、その日のうちに自殺したという。大久保氏は、この発表をもとに、「発作的・衝動的なものではなく、40年を経た後に冷静に思慮してもなお、自らの生を絶たなければならなかった」と述べているが、明らかにこれはフラッシュ・バックである。「冷静な思量」ではなく、深刻な病的症状である。彼は40年間、極限状態における外傷体験を耐えぬき、そして耐えることを止めた。プリーモ・レーヴィはアウシュヴィッツを後世に語った後、板寝台に横たわっていた人々のところに帰っていったといえよう。
クリモヴァさんの話に戻そう。彼女は、「ホロコースト後の家族」というグループができたのは、「生き残った人だけではなく、2世、さらに3世まで感情障害が見られる」からだ、という。
50人に1人という確率で生き残った第1世代のほとんどは、すべての家族を失っていた。彼らは、出来るだけ早く家族を作った。だが、生まれてきた子供たちとの感情交流は困難であり、コミュニケーションの障害を生じた。と言うのも、絶滅収容所の生存は、感情を喪失して虐殺が日常化する毎日に順応することによってのみ可能であったから。解放後も、自分が何を感じているか語らず、そもそも感じることそのものを喪失して生きてきた。経済的なこと、現実的な行為のみが意味を持った。
あえてホロコースト体験を語った親は、子供たちに理解してもらえず、深い断絶を感じた。また語らなかった多くの親も、「自分はこんなに苦しんだ、だから親を大切にしてほしい」と、子供に期待した。感情の深い交流はないのに、十分な親子関係を行動で示すことを求めた。
子供は親が絶滅収容所にいたことも、ユダヤ人であることすら知らない者もいた。彼は子供を愛していることを表現できず、そのまま感情を枯渇させて生きてきた。こんな親子関係から育った第2世代は、成人して後、精神障害や抑鬱状態になる者が多い。第2世代だけでなく、孫の世代にも同じ障害が見られる。また、平和運動に参加した人々にホロコーストを生き延びた人がかなりいた。彼らは平和運動への強い参加動機を持っていたが、決して自分の過去を語らなかった。そんな人が今、加齢と共に不安、不眠、フラッシュ・バックなどの「ホロコースト症候群」を訴えている。                                              
引き継がれる感情の歪み
戦争は今も続いている。第二次大戦という文明が到達した残虐の極限で、生き残った者は何を体験したか、調べることも、分析することも、反省することもないまま、生存がすべて、物質的豊かさこそが幸せ、経済学こそ社会科学と信じて私たちは生きてきた。被害者の子供と侵略者の子供の違いはあっても、チェコ・ユダヤ人の問題は70年代後半以降の日本人が抱える問題に通じている。戦争で何をしたか、戦争でいかに精神的に歪んだか、振り返ることなく、弱者を排除しながら、経済活動に邁進してきた。過去の負の遺産は、会社人間、中高年の抑鬱者の蔓延、自閉化する子供たちとして表われている。
いかにして感情を豊かにするか、コミュニケーションに喜びを感じられるようになるか、それは悲惨な大戦を体験した国民が共に直面する重要な問題である。被害者において最もその精神は傷ついているが、他方、加害者の心も病的に強張っている。そして、戦後のベビーブーム世代は、精神的に強張った人々の下で自我を形成し、バブル経済後の不況のなかで不機嫌になっている。この問題の前では、戦前、戦中の世代だけでなく、戦後生まれの2世、3世日本人も生き残った者に他ならない。
ユーラシア大陸をはさんで西と東、共産党独裁の崩壊後のチェコと会社主義による経済成長の歪みが極点に達した日本で、生き残った者が同時に感情障害に直面している。しかも私たちは自分の強張った感情に気付かないまま、人生とはこんなものと思い込んでいる。
父母はどう生きたか、戦争体験を隠して生きた父が作った家庭では、自分はどのように育ったのか。最後に、その分析を通して戦争半世紀後の今を捉えようとしている、渡辺義治さんとの対話に移ろう。


大学卒業後、新劇の俳優になった渡辺さんは、40歳代もなかばを過ぎて、戯曲『再会』(1993年)を書いた。舞台は、貧乏暇なしの町工場、新三(父)は中国満州からの引き揚げ者で、戦後、ひたむきに働いて機械工場を築きあげた。苦労を共にした妻は十数年前に亡くなり、今は長男・友好が経営を継いでいる。長男はコンピュータ制御の製作機械を導入し、経営の合理化をはかりたいとあせっている。
そこに、ひとりの中国残留婦人の写真が持ち込まれる。婦人は、引き揚げの混乱で死んだとばかり思っていた新三のかつての妻、治だった。過去を語っていなかった新三は、長男に罵られる。新三は治を迎えたいという。長男は治にカネを渡し、中国に帰ってほしいと主張する。長男の妻と娘は、治を受入れる。戦争世代と戦後の団塊世代、そして孫娘、それぞれが自分の戦後を語り始める。
もし、新三じいさんとこの残留婦人が中国農村で一緒に生きていくことができていれば、息子も嫁も、若い娘婿も別の人間であったかもしれない。別の表情をした。別の心を持った。それぞれ別の「私」であったかもしれない。それぞれ別の私とは、どんな私か。
満州の開拓地から敗戦末期に召集され、妻・治と生き別れとなった新三は言う。
「・・・あなた(治)に会うまで、私は善良なる平和を願う市民として、そこそこの生活を送り、少しは社会にも役に立って来た。そう自負していた。でも私は何も変わっていなかったんです。天皇陛下のため、お国のためにが、会社や家族のためにと変わっただけだったと思いました。明治に始まった富国強兵のこの赤い血が脈々と今も私の中に流れています。どうしようもない血が・・・。日本の近代化は弱い者や、アジアの人々を切り棄て、殺して築き上げられた・・・。今も同じ現実を抱えている。友好は言いました。「戦争の過去など俺には関係ない」と・・・。友好の私への不信の底には、戦争を引き起こし、あれよあれよとなだれを打って、拍手喝采して戦争に加担していった私たちの1人1人が、その後自己の責任として、加担し、加害した行動をみつめることもなく、ひたすらヤミの中におおい隠し、目をつぶって戦後を生きてきた。その罪の重さに向けられていたのではなかったか・・・。確かに私は戦後、人間のことより、自分が明日どうやって腹一杯のメシを食べるか、その不安と恐怖のとりこの中で、脇目もふらず働いてきたんです。<満蒙開拓団>の発想と同じだった・・・。そして暮しは確かに豊かになりました。しかし、その裏で、私たちはあなたたちを棄ててきたんです。そして今もこの国はそれをちゃんと見ようともしない。友好はそんな私たちの偽善を見透かしていたんです」
確かに、異なった配偶者や子供をもち、異なった父母をもつ、別の誰かであったかもしれない。ただし、運命に翻弄されたと思い込みながら、戦時の日本人と戦後の日本人の心は同じではないか。変わっていないのではないか。1人ひとりの容貌、外見は、時代が推移し、世代が代わり、変わっている。新しくなっている。しかし、「目をつぶって戦後を生きてきた」私たちの、つぶられた目の奥の心は、罪を自覚しないことで同じではないか。そう、新三は語りかけている。
渡辺さんは新三にこう語らせることによって、敗戦をうらみ、自分を見つめることなく戦後を生きた自分の父親に対し、新三のように過去を直視できる男になってほしかったと、呼びかけているようだ。『再会』は確かに彼が書いたのだが、彼にとって書いたというより、そこに待っていた作品である。彼は『再会』に出会うことによって、自分の半生を整理し、納得する人口に立った。
渡辺義治さんの父、渡辺愛治さんは1910(明治43)年、岐阜市の西隣の町、北方町に生まれている。味噌の商店を営む資産家の次男だった。中学を卒業し、東京の日本体育会体操学校(日本体育学校の前身)に進む。体操は富国強兵と結びついて発展した。その中心である体操学校の軍事教練担当教官は、陸軍皇道派の相沢三郎だった。相沢中佐は35年8月、陸軍省で執務中の軍務局長・永田鉄山を斬殺(相沢事件)、翌年の2・26事件の先駆けとなった軍人だ。このような雰囲気の中で青年期を過している。

*Saburō Aizawa (Japanese: 相沢 三郎 Aizawa Saburō(宮城県出身)) (6 September 1889 – 3 July 1936) was a Japanese military officer of the Imperial Japanese Army who assassinated Tetsuzan Nagata in the Aizawa Incid相泽事件(相沢事件)是1935年(昭和10年)8月12日倾向皇道派的军官相泽三郎陸軍中佐刺杀统制派核心人物陸軍省軍務局長永田铁山陆军少将的事件。ent in August 1935.
*나가타 데쓰잔(일본어: 永田 鉄山(長野県出身), 1884년 1월 14일 ~ 1935년 8월 12일) 은 일본제국 육군의 군인으로, 일본 군벌 통제파의 중심 인물이었다. 일본 육군성 군무 국장, 참모본부 제2부장, 보병 제1여단장 등을 지냈다.
卒業後、郷里へ帰り、役場に勤めていたが、満州国の軍人募集を知り、志願して中国に渡った。傀儡国家「満州国」の建国から3年目、溥儀が日本政府のもとで皇帝に即位した1934年のことである。以来、満軍の将校(日系軍官)として警備に従事。38年には、郷里の女性と見合い結婚、翌年、長男が生まれている。39年のノモンハン事件の後に退役し、満州国の官吏となり、戦争末期の45年3月、今度は関東軍の将校として召集され、8月9日のソ連軍侵攻を迎えた。
彼は関東軍鉄道部隊の中尉であったので、家族を乗せた列車が通過した線路や橋を爆破しながら、いち早く国境地帯を脱出した。後には、逃げる術を失った多数の居留民(奥地にいた開拓民は24万人ともいわれている)が残された。徒歩で脱出をはかった彼らは、ソ連軍の攻撃と、中国人の報復にさらされ、さらには集団自殺へ誘導され、多数が死んでいった。だが渡辺一家は、9月2日に山口県仙崎港に着いている。
渡辺家は岐阜に帰り、実家の離れで暮らすようになった。義治さんは47年に生まれた。ところが、満州で父・愛治さんが部下に命じて中国人捕虜の首を斬った写真が見付かり、父親は逮捕され戦犯となったという。引き揚げ時のこと、戦後の事情などは、近年(91年)になって兄に尋ねて知ったのであり、正確なことは分からない。どのような罪状で戦犯となったのか。何年の刑だったのか、それも知らない。母親から、父が戦犯だったことだけは少年に伝えられていた。
その後の公職追放の間、父は岐阜駅前の闇市でジュースを売って糊口をしのいだ。追放解除になると県庁に入り、定年後は民間病院の事務に勤め、1983年、73歳で胃癌で亡くなっている。渡辺さんは、父についてこれくらいの経歴しか知らない。それも母から聞いた断片の情報と、父の死後、兄から聞いたものでしかない。父から直接聞いたことはなかった。
こんな父の作った家庭は、いつも緊張していた。何かの目標に向かって緊張していたのではない。父の抱える焦燥が、家族を衝き動かし、安らぐことを許さなかったのである。10歳まで過ごした父の実家の離れでに日々を、渡辺さんは次のように思い浮かべる。
「ご飯は母家で食べるのですが、1人ひとりにお膳があり、ご飯、お味噌汁、漬物などが載っているのです。お祖父さんが上座に正座し、順番に並ぶんです。父は次男なのでお膳があり、お袋と兄と僕たちは末席でお膳がなく、畳の上で直にご飯を食べる生活だったんです。そして母は多数の親族のために、朝から晩まで働きづめでした。こんななかで、自分たちはお世話になっている、招かれていない、いつも一歩下って、という気持でした」
安心して居られないという感覚は新しい家に移り、家族の4人の暮らしになっても変わらなかった。父と母はほとんど会話せず。食事のときもお互いが黙々と食べるだけだった。父は近寄り難く、怖かった。
「引き揚げで総てを失ったのですが、それでも父は軍刀を隠し持って帰って来たんです。箪笥の奥にしまってある軍刀を、父は時どき取り出し、ひとりで正座して抜身の刀をじっと見ていました。その姿は、子供心に怖ろしいものでした。最も強烈な印象は、父が夜中に呻いて、目を爛々と輝かせて飛び起きる様に接したときです。母から父は戦犯だったと聞いていたものですから、何かあったのだろうと思っていました」
義治さんの父は、中国人のことを相変わらず、“ちゃんころ”と蔑称で呼んだ。「ちゃんころは、顔で笑って言うことをきくような顔をしているけれど、腹のなかは全く逆のことを考えている。あいつらは信用できん」と言った。
他方、母親は息子と2人だけのとき、「中国では軍の官舎に住み、中国人の使用人がいた。そういう人に対して、親同士が決めて無理やり結婚させられた。軍人が一番嫌いだったのに」とも言った。そんな夫婦が、戦後の困難な生活のもとでうまくいくはずがない。父はしばしば母の髪をつかんで引きずり廻すような凄まじい暴力をふるった。少年は、父の頑なな構えに戦争の影を見た。
「父親がたてる物音ひとつに、体がクルッと震えるような毎日だった。それは、父親が戦争中にいろいろ悪いことをしてきたのだろうなという、そんな思いに絡まっていました。そこから、僕の気持ちにもうひとつ作られたのは、僕たちの家族は決して幸せになれないのではないか、なれないというより、幸せになってはいけないという意識でした」
例えば、馬跳びや缶蹴りをして、日が暮れるまで近所の子供と遊ぶ。お母さんたちが「ご飯だよ」と呼びに来る。どの家にも灯がともり、楽しそうに喋りながら食卓についている。ところが、渡辺家には言葉がなかった。「羨ましいと思いながらも、自分の家はそうでない方がいい、そうでない方が気持が逆に安心する」と少年は感じた。
父親にとって、不機嫌に緊張していることは意味のある生き方であったのだろう。緊張は、家庭や生命を捨てて国家のために尽くしているという証だった。さらにこの単純な表情を持続させているのは、敗戦のために悪い䈅をつかまされたという忿懣であった。押し殺された父の構えには、別の世界が隠されていた。それは、軍刀を見据える姿や母への暴行に垣間見られる。だが少年は無力であり、「どうしてなの?何があったの?」と尋ねることもできなかった。
母親は体面を取り繕い、息子への躾は厳しかった。そして義治少年に、「あなたは、お祖父さんのように医者になるのよ」と求めた。少年は、このような重い箱のなかに何重にも閉じ込められていた。しかもそこから抜けだせないと感じていた。父の家にいるのだが、そこに心はなかった。逃げ出したいと思いながら、毎日そこにいるという状態だった。
闘いのはじまり
しかし十代もなかばになると、彼は父母の世界から抜け出す方向はどちらにあるのか、気付き始める。
「僕が社会的なことに関心を持つようになったきっかけは、借家に住む友達のこと。友達の母親は朝鮮の人だった。貧しく、掘っ建て小屋のような家に住み、どぶろくを作って警察の手入れを受けたりしていた。その土地は僕の祖父のものだったので、年末になると僕が地代を取りに行かされた。それが嫌でたまらなかった。一緒に遊んでいたその家の子が、中学を出ると、急に僕らの前から姿を消した。暴力団に入ったという話を後で聞いた。僕は思った。没落したといえども地主だと傲る父親、いつまでも医者の娘だと自慢する母親、共に貧しい人を表向き丁寧に扱うけれど、思っていることはすごく冷酷だ。貧しい近所の子供たちは、そんな家の子供である僕を「仲間になれない」という目で見ていた。どうすれば本当の友達になれるのか、考えるようになった」
つまり、義治少年は差別を感じる能力に目覚め、彼の中には「世の中とはそういうもの」と差別を肯定するイデオロギーに押し潰されない、精神のしなやかさが育っていた。地主の家に生まれた父親が軍人になり、中国人を殺し、その続きに彼の生活がある。幸せになってはいけないと思いながら、そこから抜け出す生き方を求めていた。
8歳上の兄は、高等学校を卒業すると、夜間大学に通いながら、郵便局に勤めた。彼は1939年にハルピンで生まれ、7歳で引き揚げており、父親への批判もはっきりしていた。勤めるようになって数年後、「中国でお前は何をしてきたのか」と父親を厳しく問い詰めている。その時に、父親は戦犯になった理由として、中国人の捕虜を部下に命じて殺したと話したという。それは強くなった息子に問い詰められて、過去の行為のひとつとして述べられたのであり、悲しみがこめられていたのではない。
兄は松川事件の裁判支援にかかわり、頭から否定する父親と激しく争った。渡辺義治さんは、兄の新しい生き方に少しずつ惹かれながら、高等学校を卒業。祖父に「大学に行くおカネを貸してほしい」と頼んで、愛知大学法経学部に進んだ。そしてベトナム反戦運動に加わる。
*松川事件(まつかわじけん)は、1949年(昭和24年)8月17日に福島県の日本国有鉄道(国鉄)東北本線で起きた列車往来妨害事件。日本の戦後最大の冤罪事件に挙げられる。Français=L'incident Matsukawa (松川事件, Matsukawa jiken?) a lieu au Japon le 17 août 1949 lorsqu'un train de passager de la ligne principale Tōhoku déraille et se renverse à 3h09 du matin entre la gare de Kanayagawa (en) et la gare de Matsukawa (en) dans la préfecture de Fukushima, tuant trois des agents à son bord. Vingt personnes furent arrêtées et dix-sept furent condamnées en 1953 (dont quatre à la peine de mort), mais elles furent toutes acquittées en appel, et l'affaire est clôturée en 1970 sans avoir abouti.

大学に入り、学生運動に没頭するようになって後、実家には稀にしか帰らなかった。名古屋から岐阜、すぐ近くだが、月に1,2回、1日か2日帰るだけだった。やっと父母の内攻する世界から脱出したのであり、近寄りたくなかった。
こうした反戦運動に駈けずり廻りながら、それでもどこか手応えがないという思いが常にあった。スローガンを叫んでいるだけで、本当に確かなものをつかんでいるのか。
もうひとつの問いは、人を殺せと命じられたとき、拒否できる強さがあるだろうかという、前章で放り上げた倉橋綾子さんと同じ、多くの青年が共通して抱いた疑問であった。父親と同じ立場であれば、抵抗できたであろうか。こう問えば問うほど、ためらった。問題のたて方は病的な穿鑿に似ている。だが彼は、父親がどんな立場にあったのか、どんな選択を積み重ねてきたのか、まったく知らなかった。問いは、歴史を欠いた思考の実験になっていた。
強さへの抽象的な問いは、自分の小さな体験を再三想い起こさせた。
「人間は弱い。加害者の側に立つことも多い。人に責められなくとも、自分の心のなかで忘れられないことがある。小学校でドッジボールをやっていたとき、知恵遅れの子に僕は力一杯ボールを投げつけたので、その子は倒れてしまった。弱い人に遠慮会釈なくボールを投げつけた自分、そのことがずーっと気になっていた」、と彼は言う。
彼は大学生活と反戦運動とアルバイトで様々な経験を持ち、二つの問いを抱いて、卒業した。たまたま演劇好きの友人に誘われて、新劇を観た。彼が生きてきた環境とは反対の極、歌ったり踊ったりして感情を表現するの世界に驚いた。サラリーマンになるのは嫌だったので、東京芸術演劇研究所の試験を受けてみると、合格になった。
こうして想像したこともなかった俳優になり、舞台にのめり込んでいった。普段の渡辺さんは感情を表出を強く抑制している。それが舞台に立つと、激しく爆発する。もともとそれにどこかで憧れていたように思えた。とても楽しかった。演劇が生活のすべてになっていた。
渡辺さんは劇団・東京芸術座の横井量子さんと恋愛し、結婚する。量子さんは明るく育った。感情の豊かなお嬢さん、幸せになってはいけないと思っていた青年は、どこかで幸せになりたいと思っていたのであろう。
郷里の両親とは表面的な接触しかなく、年月は過ぎた。母は60歳近くになって、抑鬱状態になる。82年、父親が74歳で亡くなった。母は胃癌の父を看病し、見送って後、一周忌を前にして自殺した。母親に何もしてあげたことがなかった。とりわけ父の死後、支えになろうとはしなかった。そんな自責感を残したまま、彼は演劇に打ち込んでいた。しかし、大学生時代の問いは続いていた。自分の心の奥底で確かなものに突き当っているのだろうか。
「それまで、どんな障碍があっても、未来に希望があるんだという芝居をずっとやってきた。でも、未来に希望があるとは単純に思えない。どこか大事な問題を抜かしながら、未来を欲しがっているのではないか。一番見つめないといけないことを見つめないまま、来てしまったのではないか・・・」「演劇は好きだからやる。しかし、演劇は何のためにあるのだろうか。この時代に生きる者として、考え抜いたことを演じているのだろうか」
妻の量子さんと、よく話しあった。量子さんは、彼の強さに惹かれていた。だが、その強さの奥に何があるのか、ひっかかるものがあった。

「彼はすごく強い。私も、周りの人も、いつも前へ前へ引っ張ってくれる安心感。時には付いて行けない人と激しく衝突しても、最終的には乗り越えていくんです。でも、そこで彼は落ち着くわけではない。私も落ち着かない。なんか違うんじゃないか、なんか違うんじゃないか、と」91年の秋、たまたま2人はNHKのドキュメンタリー『忘れられた女たち』を見た。長野県泰阜村から満州開拓に出た女たちが、敗戦で家族と生き別れ、彼の地に残留する。奇跡的に生還した中島さんという村の保健婦が、45年を経て残留婦人たちを訪ねるのである。渡辺さんはその番組を見て、ショックを受けた。
「中国残留婦人と言われる人々について、僕は何も知らなかった。中国に残されて、戦争を引きずっている人がいる。戦争は決して遠い過去ではない」にもかかわらず、何も知らずに生きてきたことに彼は後ろめたさを感じた。テレビの最後は、その残留婦人が泰阜村に一時帰国すると結ばれていた。渡辺さんは、彼女たちに会えば、どこかで父の戦後を再考できるのではないか、と思った。行動力のある彼は、すぐ泰阜村を訪ねていった。彼女たちは、身振り手振りを交え、張りのある声で戦火の逃避行について語ってくれた「お茶をどうぞ」、「お漬物、食べて下さい」とやさしくもてなされるうちに、彼は父親について知っていることを隠さずに伝えなければならないという気持になっていった。
「俺の親父は満州国の軍人で・・・」その後に満州国の官吏、関東軍の将校と続ける余地はなかった。中国残留婦人たちの表情が一瞬にして変わったからである。厳しい顔付きで、「満州軍のために自分たちは追われた・・・」と口走る人もいた。渡辺さんは、自分が知らないことの背後にどれだけの悲しみが積み重なっているか、思い知らされて、言葉を失ってしまった。
「もうそれ以上言わなくていいです。あなたの責任ではないですから」ひとりの婦人に言われて、彼は言葉の途絶から救われた。彼はこれまで、父親が殺した中国の人々の怨念が自分たちの戦後の生活に入り込んでいると、ぼんやり思っていた。親の因果が子供にも続くという。日本文化の解放装置に引き摺られていたのである。だが、そんな解釈以前に、なんと知らないことが多いことか。
彼は泰阜村から帰って、兄から初めて満州引き揚げの事情を聞いた。彼はもっと知りたい。少しでも知るために父母のいた満州を訪ねたいと駆り立てられた。残留婦人たちに会ってから2ヵ月後、渡辺夫妻は中国東北に向かっていた。兄も誘ったが、「お前、馬鹿でないか。どの面さげて中国に行くんだ。俺はとてもよう行かん」と拒否された。
91年9月17日、夫妻はハルピンに着いた。ホテルに入り、ほっとしてテレビをつけると、「731部隊」のドラマが浮き出てきた。翌日尋ねると、「ここでは731部隊をドラマにすると、必ずヒットする」と教えられた。彼我の差を思い知らされる旅の始まりである。9月20日、ハルピンから密山(旧・東安)に向かう夜行列車に乗った。東安は父親が日本に引き揚げる直前まで居たロシア国境の町であり、牡丹江からさらに8時間、北東に走らなければならない。翌朝、食堂車で遅い朝食をとっていると、体格のいいコックが蝿叩きで蝿を追いながら近づいてきて、いきなり夫妻に向かって喋り始めた。同行の通訳の李さんに、「何を言っているか教えてほしい」とうながし、やっと訳してもらった。
「あなた方は日本人だろう。この辺りからも沢山の人々が強制連行されて、今も行方が分からない。日本人としてどう思うか?」と彼は聞いていた。どんな旅になることか、予期していたが、やはり2人は返答に窮してしまった。「まだ、行方がわからない」とコックは言った。男は今も戦争の被害を生きていた。
何か言わなければならない。何か伝えなければならないと思うが、どう答えていいのか困惑する。何かを知っているわけでもない。知らないことに意見を言えない。だが、知らないではすまされない。義治さんは両手を握ったままだった。量子さんはやっと、「私たちがしたことではないけれど、謝って許されることでないけれど、どうか許してください」と言った。
初めてコックは硬い表情を崩し、頬笑んだ。少し緊張が解けて、量子さんが周りに視線を移すと、食堂車で働いている青年たちが彼らの遣り取りをじっと見ていた。夫妻は、「コックだけでなく、この青年たちの家族のうち、誰かが苛酷な目にあっているのだろう」と想うのだった。
それからの旅は、自分たちがしていることを中国の人々はどのように見ているのだろうか。思い遣ることができるようになった。日本人公募で手を合わせて冥福を祈った時も、案内してくれた中国の人はどんな思いでいるのだろうか、聞かなくとも彼我の隔絶を強く感じるのだった。

中国東北への旅は、渡辺義治さんを変えた。彼は今まで求めていたもの、確かな立脚点を探り当てた。それが形となって表現されたのが、先に述べた二幕五場の『再会』である。彼は台本を書きあげて、こう述べている。
「何も語らず死んでいった父と、戦後、夫を憎むことで共に人生を重ねあってきた母も、夫の死後、追うようにして自らの意志で死を迎えてしまいました。そんな2人を心のなかでいつも恨み続け、許さなかった私はここに来てはじめて、父と母の人間としての戦後の心の葛藤を理解できるようになったのです。自分の生とはいったい何であったのか。生きていながら拒絶していた自分の生を洗いざらい晒け出し、見つめてみたくなりました。父や母たちは自分たちだけが苦しんでいたと思っていたのでしょうか?あの侵略戦争は子供の人生をも確実に捕まえていたのだと、自覚できるようになりました」
『再会』において、渡辺さんは残留婦人を侵略者の罪を償い続けてきた人と捉えている。最末端の侵略者として中国人の土地を奪った開拓団の人々、彼らの多くは殺され、生き残った人は侵略者の罪を償いながら、中国の人々と誠実に生きてきた。残留婦人の生きた四十数年を鏡として、戦後世代はどう生きてきたのか、映し出してほしいと渡辺さんは求めている。劇作家・渡辺義治は戯曲のなかでそう問いながら、戦後世代のひとりである長男・友好を俳優として演じ、しばしば不機嫌に沈黙する。観客もまた絶句して考えてほしい、と語りかけている。






↑左が水島総(日本文化チャンネル桜代表取締役社長)、右が東中野修道亜細亜大学「教授」であります↑On the left is Satoru Mizushima (Japan Culture Channel Sakura Representative Director President), and on the right is Asia University "Professor" Shudo Higashinakano.



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