日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

戦争と罪責・野田正彰/전쟁과 죄책/战争与责任/Guerre et blâme・Masaaki Noda/전쟁범죄(戰爭犯罪, 영어: war crime)追加(2023/09/10)④


*Українськаウクライナ語→Воєнна місія (яп. 特務機関, とくむきかん, «Особливий інститут») — спеціальна організація в Імперській армії Японії, що займалася розвідувальною діяльністю, контр-шпіонажем, пацифікацією населення на окупованих територіях або зоні бойових дій.
     自己顕示
 永富さんは帰国してすぐ、頭山満よりもう一度「中国へ行け」と言われた。小ボスとして動き回ることを好む、彼の性格を見込んだのであろう。彼は上海特務機関に入り、日本の学生を上海に、南中国に送り込む前衛としての役割を期待されていた。上海特務機関では呉江県宣撫班に服務する。国士舘からは卒業試験を受け帰国せよと言ってきたが、彼は「そんなことはどうでもいい」と無視した。今は、天皇様のために中国平定に努めるのが男の本懐、と思っていた。卒業試験を受けなかったにもかかわらず、国士舘は彼を卒業させた。1938年7月、安慶に特務機関を開設するため派遣され、そこに二年務めた。

 ここで特務機関について説明しておこう。日本陸軍の情報機関としての特務機関は、1918年、シベリア出兵に際し、ハルビンに設けられた。満州事変(1931年)以降、各地に作られ、支部、出張所も増えていった。特務機関は作戦対象地域における作戦以外の政治・経済工作、宣伝、諜報、謀略などにあたった。謀略、暗殺を専門にやる特務機関もあった。軍の編成外にあり、各特務機関は機関長の名を冠して呼ばれていた。機関長は現役の上級将校であり、機関員は軍属として陸軍から給与をもらっていた。
 永富さんは特務機関で暗躍した後、41年2月、軍隊に入り、北支那方面軍第一軍第五独立警備隊第27大隊本部の情報室で敗戦まで働いた。いつも謀略や情報の仕事にたずさわっている。
 そこで、「つまり、あなたは特務活動が好きだったんですね」、と私は尋ねた。
 「好きということはありません。軍隊内の束縛された生活は嫌なので、営外居住で自分勝手なことができる、そういうのが私には向いていたわけです」という。問いに「否」と受けながら、結局肯定している。右翼の常として、小集団のなかで自己顕示したかったのであろう。
 彼は八路軍や国民党の情報を収集し、軍隊に報告することが、最も国のために役立つと考えていた。少ない時で五、六人、多い時で40人ほどの部下を率いて、集落から集落を歩いた。食糧、経費、情報工作隊員の給料、すべて中国人の部落から略奪した。それは当然の仕事であり、略奪という言葉さえ浮かばなかった。命じて、物を出さない者が敵だった。
 「戦争犯罪なんて、そんな考えはまったくありません。生かすも殺すも、私の自由でした。集めて殴って、こりゃいかんと思ったら、パッパッーと殺す」
 むしろ婦女子をかわいがれば、善いことをしていると思っていた。
 「仲介人から少女を100円で買って、呉江県で従軍慰安所を開いたこともあります。売られているのを買い戻してやった、苦しいところを助けてやったと思っていたくらいです」と永富さんはいう。
 北支那派遣軍第一軍(司令官・澄田𧶛四郎中将)は太原に残り、閻錫山の山西軍と秘密協定を結び、残留を続けた。南京の日本軍総司令官が復員帰還するように説得したが、澄田らはその命令を伝えなかった。このような経過によって、湯浅謙医師(第一軍)らは太原に留まることになる。湯浅医師ら多くの兵隊は、情報不足と帰国後の生活への不安から残留していくのだが、軍の上層、河本大作などの右翼ははっきりとした植民地支配の意志を持っていた。「焼土と化した日本を復興させるためには、山西省の地下資源(石炭、鉄鉱山)が役立つ。共産軍と戦って閻錫山の山西軍に恩を売り、豊富な資源を掌握し、日本の経済復興の一翼を担おう」というものであった。

*Deutschドイツ語→Sumita Raishirō (japanisch: 澄田𧶛四郎; * 2. Oktober 1890 in Nagoya, Präfektur Aichi愛知県出身(本籍愛媛県); † 2. November 1979) war ein japanischer Offizier und zuletzt Generalleutnant der Kaiserlichen Armee, der während des Zweiten Weltkrieges im Zweiten Japanisch-Chinesischen Krieg von 1944 bis 1945 Oberbefehlshaber der in der Republik China eingesetzten 1. Armee war.
 永富さんたちは帰国しようとする将兵を恫喝し、残留を煽動し、その後四年間にわたって内乱を維持した。さらに彼は、1948年に上海に飛び、日本から山西省独立のための義勇軍を募る出先を作ろうとしている。そこでは謀略を好む性向と、その単純な思考が見事に結合している。山西に残留し、八路軍と戦った武勇伝は、先述の永富さんの著書『白狼の爪跡』に詳しい。
 敗戦後四年にわたり、中国内陸で内乱を煽った日本軍があったことはあまり知られていない。永富さんの著書は貴重な記録であるが、私はその記述を必ずしも好まない。例えば、残留日本人部隊(十総隊)と八路軍の牛駝塞の攻防を次のように書いている。
 「解放軍の戦士が爆薬を背負い、銃剣を持って這い上がってくる。その爆薬に火がついたと思ったら牛駝塞の正面にあった高さ数十メートルのトーチカが一瞬にして木端微塵にふっとんでしまった。中の砲弾に火が付き天井から火柱が噴き上げ、天をも焦がす勢いである。真っ白い建物は漆黒の闇にくっきりと浮かび上がり、そこへ突撃してくる解放軍の戦士と日本軍兵士が銃剣で白兵戦を繰り返す様子が白壁に映り、まるで影絵でも見ているようであった。私は壕を行き来しながら、持ってきた陣太鼓を打ち鳴らし、『頑張れ、頑張れ』と怒声を発して兵士達を励まし続けた。私の打ち鳴らす陣太鼓と『南無妙法蓮華経』と唱える音が砲弾の静まりかえった山中に響きわたって見守っている部隊の所まで聞こえたと言う」 
 ここでは半世紀をへてなお、武勇の時代へのなつかしさがペンを走らせている。自らの内面の分析に乏しく、行動を記述することに雄弁である。当時の日本人、そして今の日本人に続く、変らない性格傾向である。
 49年4月24日、太原は落城し、永富さんたちは捕虜となった。彼らは城内の兵舎に収容された。夜食時になると、解放軍兵士は各自携行している米を出しあって、彼らのために炊いてくれた。解放軍兵士は栗を食べている。捕虜は兵舎で眠り、解放軍兵士は野外で休んだ。永富さんたちには全く想像できなかった行為だった。

                  第十章 洗脳を生きる
    失われた感情
 敗戦から四年、なおも山西省で暴れまわった日本陸軍残留者は、1949年4月24日、太原で武装解除され、多くの残留日本人は捕虜収容所に入れられ、太原の街の土木作業に従事させられたが、山西残留軍の幹部はなぜか放置されていた。永富博通さんたち10人は泳がされた後、12月になってようやく逮捕された。
 永富さんはこの間も、右翼軍国主義者としての「日本復興」を計画していた。
 「馬賊が失敗したからには、今度は海賊だ。上海には中央銀行の総裁のT、政治家のS,蒋介石の侍医だったKなどがいる。彼らを糾合し、渤海海、支那海沿岸に出て、台湾を拠点に日本と密貿易をやりながら、日本軍人を集めて再起をはかろう」、と考えた。
 そこで船の経験のある者、無線通信のできる者を探し出し、闇夜に炊事場の裏に人を集めて任務を指示したりした。謀略を考えるのは、すでに彼の習性になっていた。海賊隊が夢想に終わった後も、永富さんは中国共産党の情報を少しでも得ようとした。日本へ帰国後に役立つだろうと考えたのである。
 それでも、年末には逮捕された。河北省永年訓練所に収容され、一年後には再び太原へ護送され、以後六年間、56年6月に判決(13年の禁固刑)が下りて撫順戦犯管理所へ移送されるまで、太原戦犯管理所に収容されたのである。
 永富さんはあれだけの悪行を働いておきながら、自分が捕虜になったとき、報復されるだろうとはまったく思っていなかった。それは非常に奇妙なことである。それほどまでに傲慢であり、中国人を蔑視していたと言えるだろう。あるいは謀略を共にしたり、あるいは謀略活動の部下として中国人を使っていても、彼らが自分たちと同じように怒り悲しむ人間であるさえ忘れていた。また、日本的な甘えの心理も加わっていた。
 永年の収容所では、労働と学習と担白(罪行を書いて提出する)が課せられた。収容所内の建物の補修、道路の改修、煉瓦の掘り出しなどの重労働については、帰国に有利になるようにと考え、彼は頑張った。あいかわらず、行動がすべてだった。だが担白については、何を求められているのか、理解できなかった。
 罪行といっても、何が罪行なのか、中国人の殺害なら、数えきれないほどあった。それをいちいち思い出さないといけないことなのか。
 「それでも一応、殺害の担白を書くんですが、私はまったく罪の意識はなかった。俺は中国人をたくさん殺した。俺は国士だ、英雄だ、天皇のためにこれだけ忠誠を尽くしてきた。それはまた親孝行にもなった、と言うのは勲章までもらったから。たくさん殺して勲章をもらっているのに、どこが悪いか、こう思っているんです」
 内心そう思いながら、彼は形ばかりの担白書を書きあげる。
 管理所の指導員は質す。「何か隠していないか」「隠すはずがない。他人の戦果まで書きたいぐらいだ」
 こんな問答が繰り返された。指導員は怒ることなく、「永富、自分のしたことをよーく考えてみよ」、とだけ言い残した。だが、彼は何を求められているか、分らなかった。
 おそらく中国側職員が「よーく考えてみよ」という言葉に託したのは、思考による反省ではなく、感情をとりもどしてほしいと願ったのであろう。
 指導員との問答から四十数年経っているが、私は彼の惰性について尋ねてみた。
 -悪いと思っていなくても、何か気持に引っ掛かるということはなかったでしょうか?「そんなことは全然」-夢を見たりしなかったんですか?「いえ、夢も見ません」-今も夢はあまり見ない?「見ません」-管理所にいるときは、どうですか?「あの時もあんまり見ません」-悪いことをしていないとしても、ふと叫び声を思い出すとか、唯なんとなくある光景を思い浮かべるとか、そういうことはないでしょうか?「あまりありませんでした」-慣れきっていたということでしょうか?「そんなのは当然だという気持ちでしたね。悪いことをしたなんて思っていないんです」
 永富さんは、罪の意識の欠如を天皇制の思想、そこから導かれた民族的な蔑視観によるものと説明する。確かに、そうであろう。ただしそれは知的な認識のレベルより深く、感情の表層のレベルよりさらに深く、感情鈍麻、無感覚にまで到っている。相手に対してかわいそう、むごい、ひどいと感じることも、自分自身が辛い、苦しいと感じることもない。自他の悲痛に対して無感覚である。
 それが彼個人の性格であり、多分に生来のものであるならば、非社会性人格障害Dissocial Personality Disorder(DPD)(WHOWorld Health Organizationの国際疾病分類The International Classification of Diseases (ICD) )とか、かつてのドイツ精神医学ならば精神病質人格Psychopathic Personalityの惰性欠如者Lack of inertia(それに発揚性性格Exuberant personalityが付加されたもの)と診断してすまされるだろう。だが、感情鈍麻は当時の日本人のーおそらく今に続くー社会的性格であった。
①反社会性パーソナリティ障害は、社会の規範を破り、他人を欺いたり権利を侵害したりすることに罪悪感を持たない障害ですAntisocial personality disorder is a disorder in which people do not feel guilty about breaking society's norms and deceiving others or violating their rights②心理惯性是指一個人倾向於维持现状或選擇默認選項,除非出現动机下定決心採取强制干预的措施Psychological inertia is the tendency to maintain the status quo (or default option) unless compelled by a psychological motive to intervene or reject this.
 永富さんの感情鈍麻は、心的外傷後ストレス障害(PTSD) Posttraumatische Belastungsstörung (PTBS)を発症させない精神構造になっている。死の脅威を体験した後、多くの人が恐怖の体験を忘却しようと努めながら、忘れようとすればするほど侵入する回想に苦しむ。回想を避けるためにも、あるいは回想に振り回されて、彼は自分を閉ざし、無感覚と感情鈍麻に到る。ところが永富さんの場合は、前もって感じない構造になっている。
③心的外傷後ストレス障害(しんてきがいしょうごストレスしょうがい、post-traumatic stress disorder、PTSDПосттравматическое стрессовое расстройство (ПТСР) 創傷後壓力症외상 후 스트레스 장애(外傷後 - 障礙)、創傷後遺症、創傷後壓力症候群は、命の安全が脅かされるような出来事(戦争、天災、事故、犯罪、虐待など)によって強い精神的衝撃を受けることが原因で、著しい苦痛や、生活機能の障害をもたらしているストレス障害である。
 それは、永富博通さんが受けた躾と教育によって作られたものである。尚武の気風の強い阿蘇の旧家で、虚弱だった少年は徹底的に鍛えられる。やりとげるか死ぬか、といった暴力的修養は、少年の柔らかい感情を強張らせ、自分の内に生れる感情を抑圧していったのであろう。自分の悲しみや喜びの感情さえ気付かなくなった者が、どうして他者の感情について十分な想像力や共感を持ち得ようか。
 かくして、彼の感情は極めてイデオロギー的に秩序づけられる。名誉や恥の感情は肥大する一方で、自他の悲しみや喜びの感情は冷淡となる。他者との対等な関係は作れず、常に上下の関係に変え、例外的に自分が庇護する対象についてのみ憐憫の感情を部分的に残すようになる。それによって、彼は自分の強直した感情に息を吹き込もうとするのだが、憐憫や情愛は一方的なものにすぎない。他者に対して残忍な人で、幼児が草花に一方的に愛着を感じる者は少なくない。
 例えば永富さんは、逮捕された当初、なお太原に残っていた妻子との面会を許された時の情景を、『白狼の爪跡』に次のように書いている。
 「『済まなかったね、父ちゃんは元気だよ。お母さんとおりこうさんしていてね。また逢いに来るよ』と頬ずりしながらも目からはとめどなく涙が流れ落ちた。他の者も家族との短い対面に涙を流し、いつまでも抱き合っていた。妻は石の上に座ったまま娘たちを父親に抱合せて、自分はじーと耐えて涙を拭いている」
 ここでは、罪の意識の欠如と自分の運命への想像力の稀薄さが、幼い娘への憐憫と奇妙に共存している。彼の感情はあくまでチャンネルに添って反応する。自分の家族というチャンネルに切り替えられた時だけ、情感の針は振れるのだが、他の場面では思考(天皇制イデオロギー)が感情を凍らしてしまうのである。

①太原战犯管理所成立于1952年,原址地处太原市城北原省公安厅看守所院内。这里关押、改造的日本战犯,多数是1948—1952年间从中国各地陆续被捕The Taiyuan War Criminals Management Center was established in 1952 and was originally located in the detention center of the Provincial Public Security Department in Chengbei City, Taiyuan City. Most of the Japanese war criminals imprisoned and reformed here were arrested from all over China between 1948 and 1952②Deutschドイツ語→Taiyuan (chinesisch 太原市, Pinyin Tàiyuán Shì)Тайюань ist die Hauptstadt der Provinz Shanxi in der Volksrepublik China und liegt auf 780 m Höhe am Fluss Fen He.

     「国士」の翻心

 それでも太原収容所に入って一年ほど経つと、学習と収容されている人々の担白を開くことによって、中国側に何を求められているか、分かってきた。「隠している」と指導員に言われたのは、「殺されていく人々がどんな思いだったか、考えよ」という意味だった。動き回ることの好きな永富さんは管理所に閉じ込められ、初めて自分に向き合った。そして、やっと家族のチャンネルを通して、中国人の日本軍人に対する憎しみを理解したのだった。「妻や娘が米軍に犯されたら、決して許さないだろう」と同囚から言われ、少しずつ反省するようになった。

 「自分に殺されていった人たちは、どんなに恨んだだろう。死にたくなかっただろう。妻子もいる、両親もいる。家族のことを案じてどんなに苦しんだだろう。今まで自分は国士だ、英雄だと自惚れていたが、とんだことだったなあと、だんだん分かってきたんです」

 そう思うようになってようやく、生きて帰国できないのではないか、と不安になってきた。

 「抵抗する中国人を虫けらのように惨殺してきた。終戦後は、日本軍国主義を復活させるために多数の日本軍人を残し、さらに義勇軍を募るために上海に飛んだ。他の人は徴兵されて中国に来た人、また仕方なしに残された人だが、自分はそうではない。自ら進んでやってきて、帰国しようとする者を脅した。残留部隊を指揮して、戦争を続けた。これでは許されない」と永富さんは思うようになった。

 しかも、永富さんが使っていた密兵や工作隊の中国人が同じ戦犯管理所に収容されている。彼らは当然、永富さんに命じられて行った罪行を自白している。例えば、ある日、王振東所長に呼ばれて部屋に行くと、永富さんの部下であった工作隊長の梁喜田が待っていた。彼は、永富さんの罪行を想い起こさせるために連れて来られていた。だがいかに部下に説明されても、日常茶飯事に行われた惨殺を詳しく思い出せるものではない。困惑しながら別れた。その後、梁喜田は処刑されたと聞いた。

 さらに、太原の新聞も配られるようになった。新聞には毎日のように山西軍(閻錫山軍)の反革命分子が人民裁判にかけられ、銃殺されている。こんな新聞を見せるということは、覚悟しておけと伝えているのだ、と永富さんは確信するのだった。
 「もう殺されるに決まっている」と思うようになると、逆に生の願望が強烈になってきた。しかし、「自分の罪行は、どう考えても許されるはずがない」「それでも、外に連れ出され、大衆裁判で罵倒されて死ぬのだけは嫌だ。それだけは勘弁してもらいたい。どうせ死ぬのなら、皆のいる、皆の温もりを感じられるこの部屋で死にたい」
 永富博通さんはこう考えて、首吊り用の紐を作った。明日は死のうと決めた前夜、獄舎の窓に月光が差していた。月の光を見て、彼は「生きたい」という思いに圧倒される。
 「死ねない。なんとしても生きたい。生きて監獄の窓から見える月や太陽を見たい。この部屋から一歩も出られなくてもいいから、生きていたい。生きていることは、どんなに幸せか。妻にも、子にも、もう会えなくてもいいから、生きていたい。この部屋にいて、空気を吸いたい」
 これは感情爆発と言ってもいいだろう。軍国主義的イデオロギーによって鎧を着ていた感情が、抑制を突き破って「苦しい」と叫んでいる。「これほどの罪行を重ねてきた人が、なんという甘え」とも言えるが、永富さんの自我は死に直面してやっと自分の赤裸裸な感情の叫びを聴いたのだった。
 ところが翌朝、各部屋の鍵が開けられ、全員が中庭に集められた。何人かの自殺企図の動きに気付いたのか、王振東所長ー彼は1984年に来日したとき、「父親は永富に殺された」と初めて明かしているーは「今そういうことを言うべき時ではないが、中国政府は人道主義に立ち、日本人を一人も処刑しない」と語りかけた。つまり、中国政府は日本軍に協力した中国人は処刑し、彼らを使った、より罪の重い日本人は処刑しないという、内と外との政治的二重規準に立っていたのである。

History of Hanshuan Trial 1946-1948 New Edition 益井 康一 (著)Koichi Masui (author) 
A former correspondent depicts the history of the trials by the Chiang Kai-shek National Government and the Communist Party government against officials of the National Government of Wang Jingwei in a realistic manner.
 永富さんは、「よかった」と安堵した。王所長の訓話が一日遅れていたら、自分は死んでいたと思った。
 感情爆発のエピソードの後、彼の態度は変わった。「私がどんな状態でも生きていたいと思ったように、死に際になったら皆そう思うでしょう。この人間の本性を踏みにじり、容赦なく殺してきたんです。本当にとんでもないことをしてきた。どんな刑を受けてもいい、という気持になってきました」、と彼はいう。
 ここでも、永富さんは単純な感情移入を行っている。自分の感じたように、殺されていく中国人も感じたに違いないと。それは、自分の価値観は他人も同じように持っているはずだと思い込み、同調しない者は軟弱だとみなしてきた過去と同じである。「殺されたくない」と中国人は思ったに違いないが、侵略者に対して「どんな状態でも生きていたい」と思ったのではない。むしろ、忿怒に震えていたであろう。あるいは執拗な拷問によって、生きる意志さえ奪われて殺されていったかもしれない。それでも、この思い込みは頭山満や蓑田胸喜の弟子として、右翼の心情にひたむきに生きてきた永富さんの、最初の感情移入だった。
 1956年6月15日、永富博通さんは、これまで述べてきた湯浅さんらと異なり、起訴された。太原の特別軍事法廷において、八人の家族、親族を彼に焼き殺され、かろうじて生き残った婦人が証言するのに対し、彼は感極まって身を投げだし、頭を床に叩きつけている。法廷の記録写真には、涙を流し放心して立ちつくす永富博通さんが写っている。
 彼は最終陳述を、次のように結んでいる。
 「私が確実に犯した重大な罪行は中国人民にとって寛大に扱うことのできない罪行であり、私をばらばらに切り刻んでも私に対する憎しみを抑えることはできません。(中略)
 私は皆さんの前で次の事を誓います。私の生涯の後半は犯した罪の償いをする道しかなく、ここに私の一生を差捧げます。私は中国人民に対する人道主義的な配慮を肝に銘じ、その恩に報い、平和のために命を捧げます。最後に私は南北白石村、界元村、西清村の被害者に対し、裁判長、政府機関団体の方々、及び中国人民を代表して来られている方々に対し、再度心より謝罪致します。どうか許して下さい。あなた方の如何なる制裁も私は甘んじて受けます」

 判決は13年の禁固刑。ただし、逮捕後の日数は刑期に算入され、残す年月は七年であった。太原で起訴され、有罪となった者は九名、64年4月を最後にいずれも帰国した。国民党政権下の中国(死刑149人、無期83人)や東南アジア、東京・巣鴨でのB・C級戦犯の処刑(国民党下の処刑をふくめ総計971人、無期479人)に比べ、極めて寛大な判決であった。
 判決後に太原から撫順戦犯管理所へ移送された永富さんらは、午前中は本を読んで学習し、午後は養鶏、野菜づくり、水田開発にたずさわった。いわゆる教育刑を受けている。
 彼は、撫順管理所での生活を次のように書いている。
 「ある時、収容所の斉享隆先生が私に小鳥を飼いなさいと二羽の雛鳥を持ってきてくれた。阿蘇の田舎で小鳥を捕まえるために『ばったり』をかけたり、とりもちで目白を刺したりした少年時代を思いだし、さっそく竹で籠を作った。しかし、手を掛け過ぎたのか、二羽ともまもなく死んでしまった。死なせる度に持ってきてくださるのだが、うまく育たない。諦めかけていた時に、生まれたばかりの雛を巣ごと持ってくてくださった。今度こそ死なすまいと大切に育てた小鳥は成鳥し、自由に部屋を飛びまわった。そのかわいい姿は私たちを楽しませ、部屋の良きアイドルとなった。ラジオから音楽が流れると競うかのように美声を発するのである。釈放されるまで沢山の小鳥を世話して下さった斉先生は、私に小鳥を通して何を学べと言われたのだろうか。手のひらに乗る可憐な小鳥を見つめ、命の尊さといたわりの心を持った人間になれよと導いて下さったのだろう」
 ここには、天皇制イデオロギーに狂信し荒ぶる日々を送った永富さんはいない。質朴剛健で鍛えられながらも、なお部分的に傷つく心を持っていた少年の日に還って、小鳥を世話している。その上、斉享隆指導員が小鳥を飼うように指示した意味を汲み取っている。しかし、小さいものをかわいがることはできても、他者と対等な人間関係を作っていくのは容易でない。それは帰国後の永富さんの課題だった。

 63年9月、釈放されて26年ぶりに帰国した。就職は困難だった。公安警察による尾行、待ち伏せが続き、やっと入社した日本道路公団の職場にも電話がかかり、あるいは連行され、あまりの執拗さに耐えかねて退職せざるを得なかった。右翼永富青年が暴力をもって造ってきた日本はどのような社会なのか、思い知らされるのだった。その後、永富さんは鍼灸治療院を開業し、自営で生計を維持しながら、反戦平和と日中友好を訴え続けてきた。
 永富さんは乞われると全国どこでも、いかに小さな集まりでも出かけて行った。どっしりした構え、渋い声で、どんなに中国で残虐なことをしてきたか、語った。
 彼がいかにひたむきか、94年夏の証言の旅を見てもわかる。すでに78歳の彼は五年前、佐渡島への証言旅行中に大腿骨を骨折し、胸を打ち、歩行も困難になっていた。それでもなお、杖にすがって会場に足を運んでいる。中国帰還者連絡会編の『帰ってきた戦犯たちの後半生』(新風書房、1996年)より彼の講演を拾うと、
 8月2日 永富博通は、大牟田総合福祉センターで、自己の戦争体験を語る。参加者は48名。8月3日 福岡女性ミセス視聴覚室で証言、60名。8月4日 佐賀県勤労福祉会館で証言、70名。8月5日 小倉北中央会館で証言、参加者は三十余名。8月6日 大分コンパルセンターで証言、参加者120名。8月16日、18日、20日、自らが実行委員会を務める、東京渋谷の山手教会で開催の「平和のための戦争展」で、三日間、証言活動を行う。この展覧会への入場者は、延145人を数える。8月19日 埼玉県平方中学校で証言する。参加者は600名。8月30日「731部隊展・世田谷」で証言。
 証言活動は永富さんだけでなく、湯浅謙、小島隆男、三尾豊(第11章)、和田一夫さんたちも休む暇なく行っている。彼らは人生の晩年、若い世代に侵略戦争の事実を伝えることによって、燃え尽くそうとしているかのようである。とりわけ、動かない体を反戦平和の意志によって引き摺り、それでも出かけていく永富博通さんの姿は凄まじい。彼は56年6月、太原での誓いをひたすら実行し、殺されなかった戦犯、死ななかった戦犯として生きてきたのである。

The latter half of the lives of returned war criminals: 40 years of the China Returnee Liaison Association Author China Returnee Liaison Committee (editor)
“Blind spots” in the Japanese mental structure – “lack of awareness that they were perpetrators of the war” For 40 years, the war criminals who returned from China have continued to push forward by exposing and testifying about their own war experiences.
     軽薄さと打算
 私は永富さんの話を聞いていて、やはり日本の文化には罪を感じる力は乏しいと思った。彼は自分が行った残虐な光景を想い起こし、自我が苦しんでいるわけではない。過去の体験を反復して想起する苦しみを通して、なぜ一方的な思い込みの行動をとり続けたのか、分析を深めているわけではない。
 もちろん、彼が帰国した60年代日本の社会で、彼の行為の意味を問いかけ彼が傷ついているものは何であり、傷ついていない心とは何か、問いかけた者はいなかった。「中国帰り」、「洗脳」といった、その内実を知りもしない言葉でラベルを張り、排除しようとしただけである。
 戦時の永富さんの行為を通底する、個人としての思索のない、それ故に個人としての責任を自覚することの決してない、他者の抑圧や排除、彼はそんな抑圧と戦うだけで、精一杯だった。
 それでも反戦平和の活動を続けた永富さんは、貴重な仕事をなしとげた。侵略を反省し撫順や太原の戦犯管理所から帰国した者すべてが、彼のような強い反戦の意思に生きたのではない。1956年、中国から帰った戦犯たちは「中国帰還者連絡会」(中帰連)を結成したが、全員が会への連絡を密にしているわけではない。

*Русскийロシア語→Ассоциация репатриантов из Китая (中国帰還者連絡会, Тюгоку Киканша Ренраку Кай ) — организация, созданная 24 сентября 1957 года после репатриации в Японию солдат бывшей Императорской японской армии , интернированных как военные преступники во время Фушуньской войны в Китае. Центр управления
 永富さんとは逆に、帰国後、再び右翼思想に転じた例外の人も一人いる。飯守重任・東京地裁判事がその人であり、彼はハガチーHagerty事件裁判長として、安保反対闘争に参加した被告に弾圧処分を加え、中帰連で唯一人、除名されている。飯守判事はその後、鹿児島地裁所長になり、69年の平賀書簡問題(札幌地裁所長・平賀健太郎が長沼ナイキ基地訴訟に関し、担当裁判長福島重雄の属する部の総括裁判官平田浩に、裁判に干渉する「平賀メモ」を渡し、注意処分となった)について、自民党の外郭団体である国民協会の機関紙に「私信である平賀書簡を公表したのは反体制的裏切り行為である。裁判官が反体制的な青法協(Japan Young Lawyers Association青年法律家会に加入することこそ問題であり、最高裁判所は青法協会員裁判官に対して脱退するよう勧告すべきである」と主張した。
①Françaisフランス語→Shigeto Iimori飯守 重任 ( 13 août 1906佐賀県出身- 5 novembre 1980) était un juge japonais . Il est le frère cadet de Kotaro Tanaka田中耕太郎, qui a été juge en chef de la Cour suprême②Deutschドイツ語→Kokumin Kyōkai (japanisch 国民協会) war eine frühe konservative politische Partei in Japan, die von 1892 bis 1899 existierte③The Naganuma Nike Incident長沼ナイキ事件 was an incident in which the constitutionality of the Self-Defense Forces was questioned
 翌70年5月、飯守所長は「誤った政治的中立は国を危うくする」という論稿を発表した。彼は「体制とは、憲法体制としての民族史的天皇制度、階級協調路線上の議会制民主主義制度、修正資本主義制度の三つの制度を指し」、「天皇と資本主義に関する憲法の規定は、戦後も戦前も根本的な変化はなかった」と述べ、それに反対する「反体制勢力に対しては中立はありえない」と力説している。それ故、「私は日共党員が公務員になっていることを発見した場合は、公務員として当然失格扱いすべきものと解釈しておりますし、反体制政党として日共に近い社会党の党員も、基本的には公務員法による『官職に必要な適格性を欠く場合』として公務員としての資格を欠くことになると思います」と解雇事件裁判の指針を示している。年末には、同地域の裁判官に公開質問状を出すに到り、最高裁は彼に東京高裁転任を命じ、辞令を拒否した飯守所長を解職したのであった。裁判官を辞めた後、彼は京都産業大学教授となっている。
 飯守判事の文章は死んだ言葉を重ねているだけで、思考の潤いを感じさせない。そして階級、階級闘争、修正資本主義といったマルクス主義の用語をキーワードとして使っており、一時期、上擦ったマルクス・レーニン主義者であったことを疑わさせる。彼はどのような精神構造の人か。
 中国帰還者連絡会には、中国で収容されていた時、戦犯たちが書いた文章多数が保管されている。そのなかに「カトリック教徒たる親友に宛てた手紙」と題され、「新京高等法院、庭長審判官、簡任二等、飯守重任」と明記された長い文章(四百字原稿紙にして60枚ほど)が残っている。手紙文の形式をとった手記である。この手記の内容も極めて表層的であり、空虚なアジビラのようである。
 部分的には自分の心情、罪行にふれているが、大半は資本主義の必然的崩壊と共産主義万歳を説く内容となっている。まず経歴、罪行については、東大法学部学生のとき、カトリック教に入信し、卒業して判事となり共産党員を社会秩序の破壊者として弾圧した後、月給が多くなることに魅力を感じ、1938年、満州国奉天高等法院の判事に任官した。40年から敗戦まで、満州国中央司法部参事官として、「糧穀管理法」や「特産物専管法」などの統制経済法律の立法に参与し、中国東北農民より穀物掠奪を進めた。41年、彼の地の「治安維持法」の立法者となった(なお、満州国には議会はなかったので、容易に法律が作られた)。 
 「僕は何んど抗日愛国の中国人民を徹底的に弾圧する事が正しい処置であると考へてゐたのだ。この法律を立法する事によつて、僕は所謂熱河甫正工作に於てのみでも、中国人民解放軍に協力した愛国中国人民を、千七百名も死刑に処し、約二千六百名の愛国人民を無期懲役その他の重刑に処してゐる。僕の立法した『治安』維持法の条文は愛国中国人民の鮮血にまみれてゐる。この法律により愛国中国人民は一万数千名も逮捕された。この法律が被害者の家族、親戚、知友に及ぼした間接の破壊的影響及び、一般中国人民に及ぼした心理的圧迫は測り知れない深刻なものがある」と述べている。
 しかし、判決や立法、各地の法院検察庁への監察という仕事を通じて、中国人の生活がどのようになったのか、彼は自分の体験から分析をしようとはしていない。権力の中枢で働くだけで、個人としても、カトリック教徒としても、他者といかなる感情交流も持たなかった自己の分析を深めようとはしていない。
 後の三分の二の文章は、延々とマルクス主義の『資本論』の紹介となり、反米愛国の煽動となっている。
 「君はひよつとしたら、アメリカ人の将校や商社の役員と或る程度の接触を持つてゐるかもわからない。又カトリック教徒の関係でアメリカ人の知己を持つていないとも限らない。恐らく彼等は、君の眼には教養ある紳士であり、日本を心から援助しに来てゐる人物として写るだろう。然し彼等が、資本主義の線に沿つて日本を「援助」してゐる以上は、彼等の正体は搾取者以外の何者でもない」
 これは、彼の変らぬ社会観の投映である。
 最終頁は、「僕達は今、資本主義を宗教にも道徳にも反する制度として徹底的に否定しよう。そして共産主義を論理的に正しい経済制度、社会制度として僕たちの宗教と結合して肯定しよう。そして、日本の独立及民主化の為に徹底的に奮闘し、帝国主義の生み出す侵略戦争を防止し、世界の恒久平和を勝ちとる為に闘争しようではないか」、と絶叫している。
 彼は撫順管理所で、この手記を涙ながらに発表したという。「今、最高裁判所の長官をしてゐる田中耕太郎は自分の兄であり、帰国すれば彼と対決し、彼を民主的に変へるのが自分の任務である」とまで披瀝したという。

Nederlandsオランダ語→Kotaro Tanaka (Japans: 田中 耕太郎, Tanaka Kōtarō) (Kagoshima, 25 oktober 1890鹿児島県出身 - Tokio, 1 maart 1974) was een Japans rechtsgeleerde, politicus en rechter. Hij was van 1961 tot 1970 rechter bij het Internationale Gerechtshof.
 私は「カトリック教徒たる親友に宛てた手紙」と、十数年後に書かれた「誤った政治的中立は国を危くする」と併読し、しばらく言葉を失ってしまった。この程度の大学教育、この程度の裁判官、この程度のキリスト教理解。彼は彼の知性の水準において、彼なりの「洗脳」をイメージし、彼なりの洗脳を努めたのである。彼こそは、日本のマスコミがラベルに使った洗脳を生きた男である。
 彼の手記をまとめているとき、偽っていたのではなく、本心そう思い、興奮していたのであろう。そう思いながら、こう書けば中国側に喜ばれるという打算もあったであろう。中国に渡ったときも、満州国の育成発展への都合のよい情熱と、出世への密かな打算の微妙な配合だった。この配合に長ける限り、いつまでも集団に応じて色彩を変える自分しかいない。なぜ私はこう感じるのか、なぜ私はこう考えるのか、問う視点は生じてこない。ここには、日本の高等教育の完成品がある。
     時代ごとの洗脳
 富永正三さん(第七章)は『あるB・C級戦犯の戦後史』で、一時同室となった飯守判事の姿を次のように書いている。直接うかがった話だが、著書の方を引用しておこう。
 「それからしばらくしてIという判事がはいって来た。彼は日本カソリック教会の代表であった当時のT最高裁長官の実弟だということだったが、シベリヤや中国に来てから一しょにいた人の話では『ペンより重いものは持ったことがない。ピアノのない家には住めない・・・』等々、育ちや毛並のよさを誇る言動が多く、まわりの人々の反発を買っていた。彼のはいって来た姿は私にはきわめて異常に見えた。病室に入るときは、誰でも持物は最小限にし、普通、洗面具だけ持ってくるものだが、彼は災害時の避難民のように、背負えるだけのものを背負い、持てるだけ持つというかっこうでやって来た。それに、その持物が、デコボコのはんごうや、空缶の灰皿、うすよごれた布類など、ガラクタばかりである。自分のものは肌身はなさず持ち歩かなければ気がすまないのだろうか。あまりにも豊かに『上品に』育った彼に、シベリヤでの厳しい生活が身にしみて、その対極がこうなったのだろうか。そういえばハルビンの監獄で運動のとき、彼らのグループと一しょになったとき、彼が一人グループを離れて私たちが運動していた広場の隅のゴミ捨て場に来て、タバコの吸殻を拾っているのを見かけたことがある」
 結局、この人は自分自身と向きあうことができなかったのである。帰国後はうまく裁判官に復職し、撫順戦犯管理所で勉強したマルクス・レーニンらの資本主義分析を反転させて使った。そして自分自身を操作的に扱ったように、彼の前に現われる人を操作される対象として見つづけながら、一生を終えたのであろう。
 永富博通さんは感情の表層に降りていったが、未だ心を傷つけることを許さない文化に育った自己を見つめようとはしていない、と私は思う。しかし彼は、半生を反戦運動に尽くすという信念に生きた。永富さんの話をうかがっていると、敗戦後、戦争に直接かかわった日本人はすべて撫順戦犯管理所に入れるしか、表面的にも変る道はなかったのではないか、と思えてくる。だが、何千万という私たちの父母を教導してくれる、そんなに多くの指導員はどこにもいない。たとえ入所したとしても、過剰反応への情熱と密かな打算の配合を身につけた人に語りかけることは難しい。彼らは洗脳を求めており、時代ごと、社会ごとの洗脳に生きる人だから。そして、そのような人々
によって戦後社会は形作られていったのである。

Under the Eucalyptus Tree (Keiji Nakazawa Heiwa Manga Series 3)  – April 25, 1986 by Keiji Nakazawa (Author)
平和と生命の尊さを訴えつづける作者の、選び抜かれた珠玉の作品集A carefully selected collection of works by an author who continues to advocate peace and the sanctity of life.子どもたちの明るくたくましく生きる姿をとおして、人間の優しさと勇気、ヒューマンな心を高らかに謳う愛と感動のシリーズA series of love and emotion that loudly celebrates human kindness, courage, and the human heart through the bright and strong lives of children.
二十数年ぶりに被爆以来はじめて、広島に里帰りした父と子Father and son return home to Hiroshima for the first time since the atomic bombing after more than 20 years. 原爆の閃光にも耐えて生き続けるユーカリの木を捜しあてた父は、これまで誰にも語ったことのない、少年時代の思い出を我が子に語り聞かせるAfter finding a eucalyptus tree that survives the flash of an atomic bomb, the father tells his son about his childhood memories, which he has never told anyone about. ユーカリは、原爆から逃げ続けてきた父を勇気づけるのだったEucalyptus gives courage to his father, who has been running away from the atomic bomb.

①The logic of refusing “military pensions” (Iwanami Shoten)尾下 大造,柴田 芳見,松浦 玲Daizo Oshita, Yoshimi Shibata, Rei Matsuura②2004/08/03ー「被害者はわしではないI'm not the victim」-。軍人恩給の受給を拒み続けている元日本兵がいるThere is a former Japanese soldier who continues to refuse to receive military pension. 岐阜県飛騨市の尾下大造さん(82)だDaizo Oshita (82) from Hida City, Gifu Prefecture. 尾下さんには恩給は「口止め料」と映るMr. Oshita sees the pension as "hush money.''   https://www.jca.apc.org/~altmedka/haisen.html

               第14章    良識
 軍医、将校、特務、憲兵だった人々、それぞれの戦争体験と罪の意識を分析してきたので、軍人の最後に、戦時は昇進への道を避け、戦後は軍人恩給を拒否してきた元兵士の生き方を述べよう。この二つの選択は、彼の日本社会に対する消極的抵抗として連続している。
 飛騨高山の隣、古川町に暮らす尾下大造さん(76歳)は、志願した軍隊が強盗、追剥のたぐいでしかないと知った。
 彼は、大隊長に命令されて一人のフィリピン人捕虜を射殺した以外、虐殺にも強姦にも加わっていない。だが部落に入れば、鶏や豚を捕まえ、牛を殺して食べてきた。部隊から食糧補給がないための行為と弁明しても、強盗であることに変りない。極悪非道を止めることもできなかった。恩給受給の年数に達しているとは、それだけ悪党の一味であった期間が永いということだ。こう考えて、軍人恩給を拒否してきた。
 何故、このような正常な考えを持つ人がいるのだろうか。ほとんどの人々が異常で緊張しているとき、どうして良識を保ち得る人がいるのだろうか。
 尾下さんの語りには、常に相手の顔があり、相手の人間性が伝わってくる。それは、他の人との大きな違いである。

     「これは戦争ではない」

 尾下大造さんは1922(大正11)年、奥飛騨の盆地、古川町に生まれた。七人兄弟の次男として育っている。山国にあって、父は林業に携わっており、尋常小学校高等科を卒業後、彼も林業を手伝った。土屋さんが行った青年訓練所にも通っている。素直な山里の軍国少年だったようだ。

 四歳年長の兄はすでに近衛兵に出ており、40年12月、18歳で陸軍に志願し富山東部48部隊に入営した。当時は、「いずれ軍隊に入らなければならない。早く行けば早く帰れる」ぐらいの思いだった。中国戦線は膠着し、周りの多くの青年が召集され、林業の仕事はしづらくなっていた。

 補充要員として二ヶ月たらずの訓練を受け、41年1月末、中国の塘沽港をへて徐州に行き、中原作戦に組み込まれて山西省南部の山間部の警備についた。日本にいる時は、中原の都市を順々に陥落させ周囲は占領地になっていると思っていたが、実際は城外に一歩出ると危険であった。四人しかいない分所が全滅とか、連絡に出た三人がそのまま行方不明といった。惨憺たる状態だった。

 だが戦死者の殊勲を申請しなければ、金鵄勲章の対象にならない。そのため放置されて年月のたったトラックを、「戦利品、運行不能につき焼却」と記録していた。

 半年後の6月、尾下さんは二等兵から一等兵になったが、部隊では最下位の初年兵、伍長以下五、六名の上等兵と共に班を構成し、「討伐」に出かける日々が続いた。報酬が出るため、中国人協力者からどこそこの集落に敵が入ったといった曖昧な情報がもたらされる。出掛けていっても、敵がいるはずはない。出動した以上、そのまま帰るわけにはいかないので、部落ごとに火をつけて焼くのが常だった。 

 こんな時、敵がいないと分かった上で、個々の家を調べに入る。中国の中流以上に家は、囲いがある。もっと富裕になると高い土塀となっている。普通の家でも、門があって入口はひとつしかない。そこで初年兵で最も若い尾下さんを入口に立たせ、古参兵の二人組が家のなかに入っていく。もったいぶって「なかがどうもおかしい。俺がもういっぺん徹底的に調べる。お前は外をしっかり守っておけ」と告げて。

 「ある時、17,8と20歳ぐらいの女の子が、姉妹だったと思いますが、割合大柄な娘が出てきたんです。おばあちゃんが土下座して頼んでいるのを、横にいた兵隊がいきなり殴りつけて転がし、古参兵が二人を連れ出したんです。部屋に火を放って帰路につき、一里ほど行ったところで休み、『好きなことをしてこい』ということになった。順々に『お前、行ってこい』と言われ、女の子を隠した物陰に消えていくんです。『お前も行け』と何度も言われたけど、とんでもないと思った。

 最後に姉妹は『行け』と言われて、急いで逃げて行きました。命だけは奪わなかったわけです」

 尾下さんら擲弾筒をあつかう班は、分隊長を入れて10人。そのうち、二人の三年兵がとりわけ悪質だった。

 「ある時、その一人、富山県出身の上等兵が、12歳ほどの頭髪を束ねた丸顔の女の子を見付け、家のなかに連れていった。その後すぐ、悲鳴が聞こえた。しばらくして出てきた女の子は、なんとも言えない苦痛な顔をしてしゃがみこんでいたのを、今も憶えています」

 この二人は常習犯だった。しかも彼らは、終わった後に強姦のありさまについて自慢話をする。こんなことを何度となく目撃するうちに、「戦争とは鉄砲を持った者同士の撃ち合いのはずだった。これは戦争ではない。せめて自分だけは、そんなことはしたくない」と固く思うようになっていった。

 無差別殺人の殺人行為も見た。やはり討伐に出たとき、河のなかの草原に20人ほどの婦女子が避難しているのが見えた。富山出身の一年上の上等兵が、いきなり機関銃を撃ち込んだ。たちまち撃ち倒され、「アイヤアイヤ・・・」と叫び、地獄絵となった。
 尾下さんは後輩の一等兵、とても叱責できる立場ではなかったが、「何をするんだ」とうめいた。「ムカムカしたでや」
 これが彼の答えだった。20人の殺傷の理由が「ムカムカしたでや」。おそらく班内の人間関係の不満であろう。その男は今、故郷に帰り、平凡な老人として暮している。
 こんなこともあった。41年9月下旬、黄河の奥で、俗に鄭州作戦という戦争をしかけ、日本軍は負けて撤収してきた。尾下さんの部隊がその撤収の支援に行った時のこと。
 「私の一年先輩の一等兵が寝床をつくろうと思って、麦がらを探しに、ある中国人の家に行きました。家の入口に麦がらが積んである。これはいいと思って、そのまま抱えて持ってこようとすると、中に重いものがある。何だろうと中をみてみると、六十年輩の女の人が殺させていたというんです。初めは単純に婦女子に対する暴行か、と思ったんですが、見たら、頭がパカンとはぐれている。中がない。その兵はびっくりして、そのまま埋け込んできた。
 付近にサツマイモ畑があり、私たちは芋を焼いては食べておりました。先ほどの先輩が芋を食べようと灰の中をほったところ何か紙にくるんだ物がでてきて、破れたところから息のたつようなものがみえる。 
 それをみた、火の近くに寝そべっていたひとりの兵隊が起きあがって、ものすごい権幕でその人をどなりつけた。『なにするんだ、それは俺のだ』と。
 後日わかったんですけれども、梅毒にかかった兵隊が地方にはそんな言い伝えがあるんでしょうか、脳みそを焼いて食えば治るという迷信をあてにして、中国農民を殺して、そういうことをしていたのです」
 日本兵の食人を思い出すたびに、尾下さんは今でも、頭に血が昇り、顔が紅潮してくる。

     略奪を前提にした軍隊
 もちろん、糧秣の強奪は当り前だった。山のなかに入ると、10日間も二週間も米のない生活となった。食糧の補給なしに戦線を拡大するのは、略奪を前提にしてのこと。牛を見付けると、所有者のいることも考えずに殺して食べる。鶏は捕り放題だった。
 人間の収奪も同じように行っていた。数日の間、知能の少し遅れた大男を歩荷に使役していた。討伐が終わりに近づき、「帰れ」と言って解放しようとすると、「殺してくれ」と手を合わせる。「村へ帰ると漢奸と言われて殺される。日本軍と一緒だった者は、どんな目にあわされるか分からない」という。首を斬られると、冥界に迷うと怯えていた。
 曹長が刀を抜き、冗談に「少し切ってやる」と言うと、彼は「それは嫌だ、一気に殺してくれ」とまた頼んでくる。これまで使役してきた男、皆はいじらしく感じて、そのやりとりを見ていた。
 そこに敵が撃ってきた。すぐに追撃。この時初めて、尾下さんは中国兵の遺棄死体をひとつ見た。
 16,7歳、尾下さんよりさらに若い兵士だった。騒動が終わり、部落のなかを隈なく捜索し敵はいないということになり、元の場所に戻ってくると、その大男が倒れていた。中国兵が敏捷に身を護ることのできない男を、誤って射ったのであった。
 尾下さんは若い中国兵の死に対しては「こんな若い子が」と思っただけで、「これが戦争だ」と割り切ることができた。だが、荷物運びに使っていた善良な中国人の死については、「情けないなあ」と胸が詰まった。
 兄が近衛兵ー宮城の禁衛に当る天皇の親兵であり、出自の家族について調査の上で選ばれたーに志願するような家庭に生まれ、山里ですくすくと育った大造さんは、「戦争とは日本の軍隊と中国の軍隊が華々しく戦い、勝った方がいろいろな要求をし、自分の権益を守る確約をさせて終戦になるもの」とばかり思っていた。学校でもそう教えられ、村の大人たちもそう言い、新聞・ラジオもそう伝えていた。しかし従事した現実の戦争は、まともに食糧を持たず、部落から部落を襲って歩く強盗、火つけ、強姦集団でしかなかった。しかも、三年たっても兵長になれない上等兵たちが憂さ晴らしに殺人を行い、部落では駐屯地の慰安所と違って只で女が得られると考えるような、堕落した群れだった。
 集団の性格は強盗であったが、なかには決して悪業に染まらない人もいた。高山の隣の丹生川村から来た僧侶、荒川さんは、決して奪ったり暴行したりすることのない人だった。徴兵猶予となっていたので、遅れて26歳で入隊してきた彼は指揮班にいたが、若い尾下さんと気が合った。後日、フィリピンの戦場で頭を撃たれて死んだとき、尾下さんが埋葬したのだった。
 尾下さんは「早く軍隊に行き、早く帰ろう」と思って志願したのであり、軍隊で出世しようという気持はまったくなかった。兵長になれないから「ムカムカする」という根性から、遠くにいた。
 若い志願兵であったため、上官からは軍隊の中堅になるため入隊したのであろうと思われ、後日、下士官を志願しろと勧められた。あまり勧誘されるので、「憲兵に志願するつもりだ」と言い逃れた。すると、中隊の幹部が憲兵の枠を一人とってきてくれた。困惑した尾下さんは、憲兵を望んでいた後輩にゆずったこともある。負けん気で強健な彼は、軍隊の仕事は真面目に行った。だが、軍人になりきらないように、のらりくらりとかわしていた。

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