日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆Леонид Ильич Брежнев☭Кремль☆ブレジネフのクレムリン⇔「停滞の18年?」(ゴルバチョフ言)Collective Leadership(集団指導体制)赤い帝国と超大国ソ連Ричмонд-Хилл🍁(Онтарио)2018③

VIブレジネフの落日
健康の衰えめだつ
1968年、61歳の書記長ブレジネフの健康に疑念を抱かせる事件が突発した。この年のはじめ以来、“プラハの春”と呼ばれるチェコスロヴァキア国内の自由化・民主化運動が高揚して、そのゆきつくところ社会主義の枠を超えるのではないかとソ連は憂慮した。そこで両国は首脳会談を開いて双方の立場を調整し、団結と統一を守ろうと試みた。ソ連からブレジネフ書記長、チェコスロヴァキア側からドプチェク第一書記ら両国の党政治局員のほぼ全員が参加して白熱した討論を行った。同年7月末、ソ連との国境に近いチェコスロヴァキア領の小村、チェルナ・ナド・チソーで開かれたこの首脳会談の席上、ブレジネフが心臓発作で倒れたのだ。“プラハの春”の命運を決するこの会談はブレジネフの急病のため半日を空費したのである。このような重大な局面で、発作に襲われるようなことでは、はたしてソ連共産党書記長の重責に耐えられるかどうか、危ぶまれたのだった。
筆者は68年10月、スロヴァキアの首都ブラチスラヴァを訪れたとき、チェルナ会談に引き続いて、8月初めに開かれた東欧諸国首脳によるブラチスラヴァ会議の会場だったカソリックの旧大司教公邸を見学した。会議の成果をまとめた「ブラチスラヴァ宣言」への署名を終えた首脳たちの記念写真が、壁にかかげてあった。その真ん中に立っているブレジネフの顔は憔悴しきっていた。目の下に黒いクマができ、頭髪は乱れ“幽鬼”を思わせるものがあった。チェルナでの心臓発作が、まだありありと影を落としていた。見かけの頑健さに似ず、ブレジネフが健康に一抹の不安を持っていることが実感されたのである。

*プラハの春(プラハのはる、チェコ語:Pražské jaro〔プラジュスケー・ヤロ〕、スロバキア語:Pražská jar〔プラジュスカー・ヤル〕)は、1968年に起こったチェコスロバキアの変革運動。ソビエト連邦軍主導のワルシャワ条約機構軍による軍事介入のみを取り上げた場合はチェコ事件という。
*アレクサンデル・ドゥプチェク(Alexander Dubček, 1921年11月27日 - 1992年11月7日)は、チェコスロバキアの政治家。チェコスロバキア共産党第一書記(第2代)を歴任し、改革運動プラハの春を率いた。またビロード革命時の民主化の象徴の一人となった。
*ブラチスラヴァ(スロバキア語: Bratislava, スロバキア語発音: [ˈbratislava] ( 音声ファイル))は、スロバキアの首都で同国最大の都市である。

40歳台から心臓に不安
ブレジネフの健康上の弱点が世界の目にされされたのはこれがはじめてだったが、実はブレジネフはこれより先、壮年時代に2度も心臓発作で倒れたことがあると自ら告白している。1978年秋、ブレジネフは自伝回想記「処女地」を文芸誌『ノーヴィ・ミール』に連載して、1954年から56年(ブレジネフ48歳から50歳)にかけてカザフ共和国の党第二書記、第一書記として広大な処女地の開拓を指導したころの思い出を綴ったが、こんな1節がある。
「・・・私はあいかわらず飛びまわり、その合間をぬっては眠り、食事はその場でとった。そんな訓子であったから、あるときツェリノグラード(筆者注―開拓地の中心地、ツェリノ具ラード州の州都)で気分が悪くなった。気がついたら担架の上にいた。それまでにも1度、心臓発作を起こしてセミバラチンスク(セミバラチンスク州の州都)からアルマアタ(カザフ共和国の首都)へ送られたことがあった・・・」
これでみるとブレジネフは、早くも40歳台から心臓病の持病を抱えていたわけである。チェルナ会談のあとしばらく、ブレジネフの健康問題は忘れられていた形だったが、1974年10月、西独のシュミット首相が訪ソした際、ブレジネフは西独首相主催の昼食会への出席を取り止めた。次いで同年12月初旬、訪仏したときにも疲労の色が濃く、ジスカールデスタン大統領の昼食会をキャンセルした。そして74年12月24日のロシア共和国最高会議に出席して後、75年2月13日訪ソしたウィルソン英首相と会見するまで7週間、50日にわたって公衆の前から姿を消した。世界中に重病説が流れ、早々と後継者が取り沙汰されるに及んで、75年1月20日、サフォーノフ保健次官が記者会見で、ブレジネフが「呼吸器系統の病気」で静養中であることを認めた。西側では当時、白血病とか喉頭ガンとかいう憶測も行われた。この静養中の74年末、75年1月から予定されていたブレジネフのエジプト、シリア歴訪が突然無期延期と発表され、75年1月14日には、72年10月調印されていた米ソ通商協定の発効をソ連が凍結すると発表するなど、ソ連外交の行き詰まりを示す事件が続いていた。クレムリンでブレジネフの外交責任が追及され、同書記長は引退含みで入院しているのではないかとさえ見られたのである。

1977年4月には、バンス米国務長官が訪ソして、米ソ戦略兵器削減交渉(SALT)をめぐってブレジネフと会談した際、同氏の健康状態が悪化しているとの強い印象を受けたとイギリスの『ファイナンシャル・タイムズ』紙(4月7日付)が伝えた。同紙によると、バンス長官のこの印象はNATO関係者にもはっきり伝えられたが、「ブレジネフ書記長は聞くことも話すことも困難で、これまでと違い、用意したものを読むだけだったし、スタミナもなく、もはや1日を通して働いているようにはみえなかった」というのである。
その後ブレジネフは77年6月、最高会議幹部会議長を兼任したあと、フランスを訪問したが、このときも健康に疑念が持たれた。パリ発行の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙によると、仏ソ首脳会談でフランス側は両首脳だけによる会談を中心にした日程を組んでいたが、ソ連側は複数同士の会談としたい意向を強く示し、両首脳だけの会談は最終日のわずか15分だけに終わった。ブレジネフは突っ込んだ話し合いができるような健康状態ではなく、側近の助けなしにはきちんとした発言ができなかったためだと仏高官は推測したという。同紙はまた、ブレジネフは以前よりはるかに疲れやすくなっており、訪仏日程の最後まで、モスクワーパリ間の空の旅の疲れが抜けなかったといい、エリゼ宮で開かれた夕食会でも、スープ以外にはほとんど手をつけなかったと伝えている。
*サイラス・ロバーツ・ヴァンス(英語: Cyrus Roberts Vance, 1917年3月27日 - 2002年1月12日)は、アメリカ合衆国の政治家。ジミー・カーター大統領の下で、政権が発足した1977年から1980年まで国務長官を務めたが、1979年に発生したイランアメリカ大使館人質事件をめぐって翌年4月にカーター大統領が軍事力で人質を救出・奪還する作戦を発動すると、それに反対・抗議して国務長官を辞任した。
*北大西洋条約機構(きたたいせいようじょうやくきこう)The North Atlantic Treaty Organization (NATO)は、北大西洋条約に基づき、アメリカ合衆国を中心とした北アメリカ(=アメリカとカナダ)およびヨーロッパ諸国によって結成された軍事同盟である。30か国が加盟[1]し、非加盟のスウェーデン、フィンランド[2]や日本などとも協力関係にある[3]。

1978年11月7日 革命記念日 首都モスクワ 赤の広場 レーニン廟壇上
1、スースロフ政治局員 2、ウスチノフ国防相 3、ブレジネフ書記長(最高会議幹部会議議長兼任) 4、コスイギン首相 5、キリレンコ政治局員 6、グロムイコ外相 7、グリシン政治局員

公務の遂行に支障も
77年11月2日、クレムリンで開かれた10月革命60周年記念式典で、ブレジネフはいかにも苦しそうに演説し、「あらゆる国の核兵器製造の同時停止」という重要な呼びかけをふくむテキストのかなりな部分を読み落としてしまった。翌12月のソ連最高会議に、ブレジネフは3日間の会期中、1度も顔を見せなかった。同年6月、ポドゴルヌイを退けて自ら最高会議幹部会議長を兼ねてからはじめての最高会議だというのにー。

78年2月中旬に予定された西独訪問は「カゼのため」いったん無期延期され、5月に実現したが、シュミット西独首相と会談のあと立ち上がろうとしてよろめき、あやうくグロムイコ外相に助け起こされる場面があった。このときの写真が大々的に報道され、ブレジネフの健康状態に大きな関心が集ったのだった。
同じ年の9月、ブレジネフはバクー市を訪れてレーニン勲章を授与し、長い演説を行った。演説が終るとき、また最初から同じことをいいはじめた。しばらくざわめきが続いたあと、ブレジネフは演説をやめ、聴衆に向かってこういったー「ここのところはもう読んだな」(『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』)。
79年に入ると、3月末に決まっていたジスカールデスタン仏大統領の訪ソが、直前になってブレジネフの「流感」のために3週間延期された。4月下旬に訪ソは実現したが、歓迎夕食会でブレジネフは、やわらかい食べ物だけをスプーンで口に運んでいたという。6月のウィーンでの米ソ首脳会談では、米大統領館に入るときと、ソ連大使館でカーター大統領を見送るときによろめきをみせ、側近に腕を支えられた。このあと、うるさい西側のマスコミを意識してか、6月22日、タス通信が「夏休みのためモスクワを離れた」と公表してから休養に入り、秋からの政治活動に備えたのだった。
ところが、10月上旬に東独の建国30周年記念式典に出席して演説してから疲れが出たらしく、同月中旬にアサド・シリア大統領3が訪ソしたときには、全行事に姿を見せなかった。クレムリン当局は、同大統領の到着に先立って親書を送り、ブレジネフが「健康上の理由」で会議に出席できないことを釈明したという。この直後、10月18日には、ブレジネフの健康が急激に悪化して、ついに死亡したという憶測がニューヨーク、ロンドン、パリ、フランクフルト、東京の株式市場とマスコミを駆けめぐった。このとき米政府内では、ブレジネフの余命がいくばくもないとの見方が支配的で、「今年の冬が越せるかどうか」「来年の今ごろ健在なら驚きだ」という声が開かれたといわれる。
“死亡説”が流れた1週間後、ブレジネフは2週間ぶりに姿を現し、10月24日訪ソしたイスマエル南イエメン大統領を空港に出迎え、11月7日、革命記念日の赤の広場のパレードにも、雪の舞うなかを2時間半にわたってレーニン廟上に立ち通した。引き続いて11月27日開かれた党中央委総会でも「長大な演説」をぶった。だが、翌28日の最高会議で、政治局員席につくブレジネフの足取りは危なげだった。
*ヘルムート・ハインリヒ・ヴァルデマール・シュミット(Helmut Heinrich Waldemar Schmidt、1918年12月23日 - 2015年11月10日[1])は、西ドイツの政治家。ドイツ社会民主党 (SPD) 所属。第5代連邦首相(在任:1974年 - 1982年)。その他国防相(1969年 - 1972年)、経済財務相(1972年)、財務相(1972年 - 1974年)、外務大臣(臨時、1982年の2週間)を歴任。1983年からは『ディー・ツァイト』紙の共同編集者を務める言論人・文化人でもある。
*“ジミー”ジェームス・アール・カーター・ジュニア(James Earl "Jimmy" Carter, Jr., 1924年10月1日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。ジョージア州上院(英語版)議員、ジョージア州知事、第39代アメリカ合衆国大統領を歴任。2002年ノーベル平和賞受賞。
10以上の“病名”
ブレジネフはきわめて疲れやすく、動作がにぶく、言葉がはっきりしなくなってきた。補助器が手放せず、よろめきの心配から付き添いが欠かせなくなった。彼の健康をむしばんできたものはなにか。
西側諜報機関は、ブレジネフが西側に出たとき、その排便を採取して健康状態を分析してきたという。西独の『シュピーゲル』誌によると、ブレジネフには少なくとも2つの持病があった。1つはブレジネフ自身も回想記『処女地』(前出)で認めている心臓病で、78年はじめごろの米国製のペースメーカーを皮下に埋め込み、心臓に電気信号を送って1分間70回の脈搏を維持させることにしたという。もう1つはアゴの腫瘍で、永年これが根治せず、痛みを伴ってブレジネフを苦しめてきたといわれた。
このほか、ブレジネフが公的行事に欠席したり、外国訪問を延期したりするごとに、西側ではいろいろな病気がうわさされた。-白血病、坐骨ガン、呼吸器疾患、喉頭ガン、リューマチ、関節炎、坐骨神経痛、高血圧、筋萎縮性側索硬化症、歯槽膿漏・・・。かつてタフネスを誇った働き手ブレジネフも、10以上の“病名”をたてまつられる始末となった。
こうして79年春ごろからは「ブレジネフが仕事をしたり決断したりできるのはあと1年か1年半」(『ニューズウィーク』)などという観測が生まれた。さらに、「81年後期の予定だった第26回共産党大会を80年にくり上げて開き、そこで新書記長を選出することが、すでに政治局で合意されている」(『ロサンゼルス・タイムズ』)という気の早い報道も流れた。また80年夏のモスクワ・オリンピックを花道に、ブレジネフは円満に引退するだろうとの見方(米季刊誌『オービス』そのほか)まで現れた。


つのる名誉欲
健康の衰えから退場の時が近くないことを感じたのか、ブレジネフはしきりに名誉を求めた。すでに党と国家のまぎれもない第1人者として、最高の権力を握っていたが、老いが深まると共に、その権力を粧うものを異常なまでにほしがったのである。
理論家“文豪”の栄誉
1977年11月16日、ブレジネフはクレムリンで、アレクサンドロフ・ソ連科学アカデミー総裁から、社会科学部門における科学アカデミー最高の褒章であるカール・マルクス記念金メダルを贈られた。ブレジネフの数多くの演説や論文(それらはすでに70年から「レーニンの道に沿って」というシリーズその他さまざまの形で大量に刊行されていた)が、レーニンの教えを解明し、具体化し、社会主義共同体の団結の道を照らし出した、というのが授章理由である。ブレジネフの”理論家“としての寄与が認められたわけだ。
翌78年2月、彼は伝統のある文芸誌『ノーヴィ・ミール』と『マーラヤ・ゼムリャ』(小さな土地)と題した回想記を寄稿した。第二次大戦に政治将校として従軍し、黒海北西岸のノヴォロシースクの近郊、マーラヤ・ゼムリャ地区でドイツ軍と戦った日々の思い出を 情的なタッチで書いた中編である。ソ連の現職の党書記長が回想記をものしたのははじめてのこと。大きな反響を呼んだのは当然である。続いて同年4月には、回想記の第2部「復興」を同誌に掲載した。ブレジネフが戦後、生まれ故郷のウクライナで党活動に戻り、戦災の復興に努めたころの記録である。さらに同年11月に、第3部『処女地』を発表したことは前述の通りである。これら回想記3部作は直ちに単行本として刊行され、ベストセラーになった。そして79年4月22日、ブレジネフはこれらの労作によって文学部門のレーニン賞を授与されたのである。この日のソ連各紙は、1面に大きなブレジネフの写真を掲げ、党中央委と政府がレーニン賞選考委員会の提案にもとづき、回想記3部作と「平和のためのうむことなき闘争」に対してブレジネフにレーニン賞を贈ることを決定した、と報じた。文学・芸術・建築部門のレーニン賞選考委員会で、ソ連作家同盟第一書記のマルコフは『ブラウダ』紙上で「ファシストを打ち破ったソ連国民の精神と意思が体現され、一言一句に全人類の平和と幸福を願う息吹がうかがえる。・・・この感動的な回想記が完全に受賞に値することが満場一致で認められた」と、ブレジネフの作品をほめ上げた。もともとソ連には、物を書く人物を尊敬する伝統がある。作家や詩人の社会的評価は往々にして政治指導者よりも高い、党と国家の第1人者、社会主義理論の権威となったブレジネフは、さらに“文豪”の列にも加えられたのだ。
勲章、また勲章
この間、78年2月には赤軍創建60周年に因んで、ブレジネフ元帥は軍の最高勲章である「勝利勲章」を受けた。この勲章は第二次大戦中の1943年に制定されたもので、ブレジネフの受章は、第二次大戦での常勝将軍ジューコフ元帥と、最高総司令官スターリン大元帥につぐものである。大戦でソ連の勝利に大きな貢献をしたことと、ソ連国防力の増強に尽力したことが受章の理由だった。ブレジネフはクレムリンで、党政治局の長老スースロフ書記からこの勲章を贈られた。同年12月19日、ブレジネフの72歳の誕生日にはまたまた、66年、76年に続く3つ目の「ソ連邦英雄」金星章と、6つ目のレーニン勲章が授けられた。わずか2年前の70歳の誕生日にも、この2種類の記章と勲章が授けられていることを考えると、まさに異例のことであった。ブレジネフの胸は、文字通り勲章でいっぱいになった。

最後の光芒
ブレジネフは80年4月10日から28日まで休暇をとった。夏、冬のほか春にも休み、同月21日のレーニン生誕記念集会にも欠席したのは異例である。だが、そのあとにわかに元気を取り戻した。
奇蹟的な復調
メーデー・パレードを観閲したあとブレジネフは、ベオグラードに飛んで、チトー・ユーゴ大統領の葬儀に参列し、引き続いてワルシャワでワルシャワ条約機構首脳会議に出席し、いったん帰国したあと再びワルシャワでジスカールデスタン仏大統領と会談した。5月中にこれだけの日程をこなし、ワルシャワへは1週間のうち2回も出かけたのである。書記長がこのように変身したのは、グルジア出身の神秘的ムードを持つ女性施療師、エフゲニヤ・ダヴィタシヴィリー愛称ジューナによる“超能力療法”を受けた結果だとのうわさも出た。その後しばらく、ブレジネフは、かなり多忙なスケジュールをまず無難にこなした。


アレクセイ・ニコラエヴィチ・コスイギン(ロシア語: Алексей Николаевич Косыгин、ラテン文字表記の例:Aleksei Nikolaevich Kosygin、1904年2月21日(ユリウス暦2月8日) - 1980年12月18日)は、ソビエト連邦の政治家。1964年から1980年まで同国閣僚会議議長(首相)を務めた・・・1980年10月、病気により首相を辞任。後任には第一副首相のニコライ・チーホノフが就任した。同年12月18日死去。遺灰は慣例に従い、他のソビエト指導者と同様にクレムリンの壁に葬られた。Aleksej Nikolajeviĉ Kosigin (ruse Алексей Николаевич Косыгин; en latinliterigo, Aleksej Nikolajevič Kosygin; IPA: [ɐlʲɪˈksʲej nʲɪkɐˈlajɪvʲɪtɕ kɐˈsɨɡʲɪn]; 21a de Februaro [laŭ malnova stilo, 8a de Februaro] 1904 – 18a de Decembro 1980) estis sovet-rusa ŝtatestro dum la Malvarma Milito.

コスイギン首相の退場
ブレジネフが体力的に立ち直ったかにみえたころ、首相コスイギンの衰えがめだってきた。1979年10月、心臓発作で倒れたコスイギンは、療養を余儀なくされ、80年春に憔悴した姿でほんのわずか公務についただけで、再び公式の場から消えた。そして同年10月の最高会議で首相を解任され、2ヵ月後の12月18日に死去した。
コスイギンは1964年10月、ブレジネフが第一書記(当時)になるのと同時に首相になり、膨大な政府官僚のトップに立った。党官僚の頂点に座ったブレジネフとは経済政策などをめぐって陰微なライバル関係にあった。しかも、ブレジネフより年齢的に2歳年上であり、政治家としても先輩だった。ブレジネフが故郷のドニェプロジェルジンスク市の執行委員会副議長(助役)だった1930年代末、コスイギンはすでにレニングラードの市執行委議長(市長)だったし、政治局員になったのもコスイギン(1948年)の方がブレジネフ(1957年)に先んじていた。
ブレジネフは党内権力を確立したあと、自ら閣議に出席して演説をしたり、また最高会議幹部会議長になって首相を法的に監督する立場には立ったものの、政府部門におけるコスイギンの権威と信望はなお大きかった。しかも、コスイギンの誠実な人格は、国民的人気をも博していた。1967年のメーデー当日、夫人が重病だったにも拘らず、憂いを隠して赤の広場のレーニン廟上に立って市民のパレードを観閲し、ついに夫人の死に目に会えなかったというエピソードもあった。

コスイギンの後任には、1976年以来第一副首相を務めたチーホノフが選任された。チーホノフはドニェプロペトロフスス冶金大学を卒業し、ドニェプロぺトロフスク国民経済会議議長、ソ連国家計画委副議長などを経て、1965年から副首相だった根っからのブレジネフ人脈の1人。第一副首相として、ブレジネフのコスイギンに対する“お目付け役”ともいうべき役割を果してきた。チーホノフが首相に選ばれたことによって、ブレジネフの政府コントロールは完全なものになったとみられた。
書記長就任以来、ブレジネフは慎重に足元を固めながら、徐々にコズロフ、シェレーピン、ウォロノフ、ポドゴルヌイらの有力ライバルを政治局から排除してきた。最後まで残ったコスイギンが死んだことによって、政治局にはブレジネフのライバルと目される人物はいなくなった。
10月23日、最高会議でブレジネフは、「党中央委は10月22日、最近悪化した病気のために、休息と積極的な活動からの解放が必要である旨述べられているコスイギン首相の書簡を受け取った。彼は政治局員と首相の職務から解任を要請している」と発言し、党中央委は「コスイギン同志の要請を充たすよう」最高会議に提案すると述べて、承認を取り付けた。きわめて事務的な扱いであり、16年間にわたる首相としての功労に対するねぎらいの言葉はなかった。永年のライバル意識の現れともみられた。後継首相チーホノフの就任のあいさつにも、前任者への賞賛はなかった。かつて1965年12月9日の最高会議で満70歳を前にしたミコヤン最高会議幹部会議長(元第一副首相)の引退をブレジネフが発表したとき、「党と政府の傑出した指導者」と呼び、ソ連で初の「元老政治家」とまでたたえて、永年の功績をねぎらったのに比べて、いかにも冷たい処遇だった。ミコヤンは満場の拍手のうちに名誉ある引退が承認され、翌10日には誕生日に因んでレーニン勲章が贈られたのだったが・・・。

誠実な人柄で信望のあつかったコスイギンに対するこのような仕打ちは、政府官僚や一般市民のなかに意外の感を与えたに違いない。さすがにそのような気配を察してか、なか2日おいた25日、ブレジネフが党中央委書記長、最高会議幹部会議長として、「党中央委政治局、最高会議幹部会および閣僚会議の名において、党・政府の高いポストにおいて行った多年にわたる、大きな、実りある活動に対し、同志コスイギン・アレクセイ・ニコラエヴィチに心からの感謝を表明した」とソ連各紙で伝えられた。いささかぎこちなさを残したことは否めまい。
翌日の革命記念日の街頭飾り付けや赤の広場での祝賀パレードからも、コスイギンの肖像は消えた。首相は辞任しても、政治局員からはまだ解任されていないはずのコスイギンに対して、明らかに冷たすぎる扱いである(首相解任に先立つ党中央委総会では、政治局員解任は正式決定されていない)。ブレジネフの意思が働いたものとみられた。
コスイギン首相が死んだのは、ブレジネフの74歳の誕生日(12月19日)の前日だった。当局は、ブレジネフのお祝いの日を死亡記事でけがしたくなかったのか、死去の発表は2日後の20日になった。しかし、コスイギンに対する国民の哀悼の情は深く、モスクワ市内のソ連軍中央会館で行われた告別式には、青空の下で市民が長い行列を作った。赤の広場の葬儀では、葬儀委員会のチーホノフ首相が「党と国家の忠実な息子であるあなたの輝かしい想い出は、国民の胸のなかに永遠に残るだろう」と弔辞を読んだ。ブレジネフ、チーホノフを先頭にスースロフ、キリレンコ両政治局員らの要人が骨つぼを乗せた台を担いで、クレムリンの壁際まで運び、遺骨は壁のなかにはめ込まれた。
フルシチョフは党第一書記、首相の要職にありながら失脚し、7年間の年金生活ののち71年9月11日に死んだが、クレムリンの壁より一段ランクの低いノヴォデヴィチ修道院の墓地に葬られた。コスイギンは死の2ヶ月まで現職の首相であり、死去したときにも形式上は政治局員だったことが配慮されたのであろう。

*中ソ対立の最中の1969年、北ベトナムのホー・チ・ミンの葬儀の帰りに立ち寄った北京国際空港で中国首相の周恩来と会談するが、この会談からは前向きな結論は得られず、中ソ両国は1969年から70年にかけて軍事衝突を繰り返した。その一方で、ソビエトと中国との全面戦争だけは望んでいなかったらしく、1974年9月17日にコスイギンと面会した池田大作・創価学会会長(当時)に対して「ソ連は中国を攻撃するつもりも、孤立化させるつもりもありません」と語っている[11]。


ニコライ・アレクサンドロヴィチ・チーホノフ(ロシア語: Николай Александрович Тихонов、ラテン文字表記の例:Nikolai Aleksandrovich Tikhonov、1905年5月14日(ユリウス暦5月1日) - 1997年6月1日)は、ソビエト連邦の政治家。ソビエト連邦閣僚会議議長(首相)、ソ連共産党政治局員を歴任。니콜라이 알렉산드로비치 티호노프(Николай Александрович Тихонов, 1905년 5월 14일 ~ 1997년 6월 1일)는 소비에트 연방의 정치인이다. 1920년 예카테리나기술대학교에 입학하여 1924년 학사학위를 취득한뒤 엔지니어로 일하다가 우크라이나국립금속공학대학교에 들어가 1930년 박사학위를 취득했다. 레오니트 브레즈네프 집권 말기인 1980년부터 미하일 고르바초프가 서기장이 된 1985년까지 소비에트 연방 각료회의 의장 (총리) 을 지냈다.
4度目の党大会
1981年2月23日から3月3日まで、クレムリン大会宮殿で第26回党大会が開かれた。ブレジネフ指導の下で開かれる4度目の、そして最後の党大会だった。
冒頭、ブレジネフは「党中央委員会の活動報告と内外政策の分野における党の当面の課題」と題して、長大な演説を行った。この演説は、最初の7分間だけがテレビで実況放映され、途中はアナウンサーがテキストを代表し、最後のしめくくりの部分の3分間だけ再び実況だった。老齢の書記長に、演説中に万一のことがあってはというテレビ局の懸念からだとされた。実際には、ブレジネフ自身がずっと演説を続けたようだ。
内外政策の基本路線
この演説でブレジネフは、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻で崩れた東西デタントを再構築するべく、「1980年代の平和網領」と銘打った7項目の提案を西側に示した。東西間の軍事面での緊張緩和をいとぐちにして、全般的なデタントを修復することをねらったもので、そのためにソ連側の一定の譲歩をほのめかしている。この「平和網領」は、その後のソ連の対西側政策の基調となった。
国内政策では、まず新しい第11次5ヵ年計画(1981-85年)の主要課題は「国民経済の堅実な前進的発展、科学技術の進歩の加速化と経済の集約的発展の路線への移行、国の生産力のより合理的な利用、あらゆる資源の徹底的な節約および労働の質の改善を基礎に、ソ連国民の福祉の一層の向上を確保することにある」と規定した。経済の外延的発展よりも内包的発展を志向した路線である。その実現のためにブレジネフは、シベリアの天然ガスの増産による燃料・エネルギーの確保をはじめ、金属の増産と消費の節約、建設と運輸の分野での大幅な進展を重点項目として打ち出した。生産財や資源、労働力のより完全な、効率的利用を呼びかけた。国内経済の全部門を最先端の科学技術で装備し、新しい発明や発見を促進することを要求した。そして国民の福祉のために食料生産を増大し、日用品の生産と増加とその質の向上、日常サービスの充実を訴えた。さらに国民経済の全面的活性化のために、企業経営のメカニズムと国家の経済管理システムの改善の必要を説いた。
このような経済の基本方向は、その後、総合食糧計画(82年5月の中央委総会で採択)や、アンドロポフ政権下での「労働者集団の役割強化」の措置(83年6月から施行)、「企業の自主性拡大」の実験(84年1月から一部企業で開始)などにつながっていったのである。
引き締め政策の継続
政治・イデオロギーの面では、ブレジネフは地方民族主義がまだ十分に克服されていないと警告して、「勤労者をソビエト愛国主義の精神で教育する」ことの必要性を説いた。
前年の80年10月にエストニアの首都タリンで、ポップ・グループのコンサートが禁止されたことから、若者たちがデモ騒ぎを起こし、警察がこれを弾圧したのがきっかけで、少なからぬ一般市民を巻き込む暴動に発展したというニュースが西側マスコミで伝えられた。デモは首都のほかタルツ、ビャルスの両都市にも飛び火し、随所に「ソ連軍のエストニア占領反対」「エストニアに自由を」と大書したプラカードがみられたという。併行して、タルツ市のトラクター工場で約1000人の労働者が生産ノルマの軽減、必要物資の不足の解消などを要求してストライキを決行し、管理者側に受け入れさせたといわれた。この容易ならぬ情勢に対して10月下旬、アンドロポフ国家保安委員会(KGB)議長が自らタリンに飛び、ようやく鎮静させたとも報じられた
同年12月4日には、キルギス共和国のスルタン・イブライモフ首相が保養地で静養中に暗殺された。この事件は公表され、キルギス共産党機関紙「ソビエツカヤ・キルギジヤ」は「第26回党大会を控えての挑発を目的とした政治的殺人である」と論評した。
このほかウクライナやグルジア、ラトヴィア、リトアニアなどには古くから民族主義運動が続いており、ソ連憲法第72条(各共和国の連邦離脱を保障)の規定を盾にソ連からの分離・独立を主張する過激派から、民族語や民族の文化・歴史の尊重を要求する穏健派まで、いろいろな潮流がみられる。ブレジネフの地方民族主義批判は、このような背景を考えると理解されよう。
また文学・芸術に対してもブレジネフはきびしい態度を示した。「無思想社のあらわれ、世界観に対する無節操、歴史上のそれぞれの事件と人物に対する明確な階級的評価からの遺脱は、才能に恵まれた人びとの創造活動にも有名である。われわれの批評家、文芸雑誌、創作団体、まず第1にその党組織は、・・・偏向に陥っている人びとを矯正することができなければならない。そしていうまでもなく、われわれソビエトの現実を中傷する作品が現れる場合には、積極的に原則的な対処をするべきである。その際われわれは非妥協の態度をとらねばならない。党はわれわれの芸術の思想的偏向に無関心ではなかったし、また無関心な態度をとるわけにはいかない」と、ブレジネフは断固として述べたのである。

KGBの役割重視
ブレジネフ指導部は発足の当初から秘密警察である国家保安委員会(KGB)を重視し、機構や人員の面で強化をはかってきた(巻末補説参照)。1976年9月には、KGB議長アンドロポフが上級大将(一般兵科の元帥に相当)の軍階級を与えられて、軍内にもにらみをきかすようになった。さらに78年4月、KGBはそれまでの閣僚会議付属の国家委員会から閣僚会議を構成する国家委員会に格上げされた。このころの西側の情報によると、アンドロポフはソ連国防会議のメンバーにも入ったという(国防会議については180ページ参照)。大国ソ連の政治・軍事動向を決するこの機関にKGB議長が入ったことは、第二次大戦中、秘密警察のボス、べリヤ政治局員・内相がスターリンを議長とする戦時のソ連の最高機関・国家防衛委員会のメンバーになり、1945年、ソ連邦元帥に任ぜられたことを想起させるものだった。ブレジネフは党大会でKGBにとくに言及してこう述べた。
「国際場裡における階級闘争が激しいために、国家保安委員会の活動、チェキスト(筆者注―国家保安機関員の伝統的な呼び名)の党的鍛練、知識、活動様式に対する要求が高い、ソ連国家保安委員会は、憲法の規定、ソビエト法の基準を厳守して、迅速に、高い職業的水準で活動している。チェキストたちは、帝国主義諜報機関の策動を油断することなく、きびしく監視している。かれらは、反国家的敵対行動の道に入る者、ソビエトの人びとの権利、ソビエト社会の利益を侵害する者の活動を断固として阻止している。かれらのこの仕事は、わが全人民の深い感謝に値する。」
ブレジネフの党大会での演説では、経済指導については政府の各省、青少年の育成については共産主義青年同盟(コムソモール)、労働者の生産への動員については労働組合が、多かれ少なかれ批判されているが、KGBだけが“ベタ褒め”されたのがめだった。
このことは、党大会最終日での新中央委員選出にも反映した。KGB第一副議長S・K・ツヴィグン上級大将と同副議長のG・K・ツイネフ上級大将、V・M・チェブリコフ大将の3人が、そろって中央委員候補から正委員に昇進したのである。その背景には、アフガニスタン事件以来の“新しい冷戦”で西側との関係が緊張したことや、前にふれたような国内治安上のいろいろ問題や事件があったのである。
党網領の改定決める
ブレジネフはその演説の最終の第4章「党はソビエト人民の前衛である」で、党網領の改定の問題を持ち出した。網領とはプログラム(ロシア語ではプログラマ)である。ソ連共産党網領は、同党が何を目的とし、それをどう実現しようとしているかを広く世界に明示したものにほかならない。いわば、党の”旗“であり”公約“である。いままで高く掲げてきたその旗を下ろして、新しい旗に代えようというもので、ことは重大といわねばならない。ブレジネフ書記長は、その報告のしめくくりの部分で「党中央委は、全党的意義をもつもう1つの大きな問題を大会の討論にかけることが必要と考える」と切り出し、こう述べたのである。
「現行のソ連共産党網領は全体として社会発展の法則性を正しく反映している。しかし、その採択の時からすでに20年がたっている。この間に、ソ連における社会主義・共産主義建設の大きな試練が蓄積された。この経験は共産主義へのわれわれの歩みが、発達した社会主義の段階を経て行われていることを反論の余地なく証明している。すでに指摘されたように、これは共産主義形成における不可欠、当然の、歴史的に長期にわたる期間である。こういった結論が近年党によって下されたが、このことは当然ながら党網領に然るべき形で反映されなければならない・・・」。
ブレジネフ書記長はこう述べたあと、「現行党網領に必要な修正と補足を加えるべきだと思う。この提案が大会代議員の支持を得られたなら、新しい縞のソ連共産党網領の起草を中央委に委任することができるであろう」と提唱したのである。この書記長提案はもちろん大会によって採択され、「世界の社会的発展の諸法則性、共産主義をめざす党とソ連国民の闘争の諸目標と基本的課題を全体として正しく規定している現行党網領に、必要な補足と修正を加えて」党網領の新稿を起草し、次回第27回党大会(党規約によれば5年後に開催)に提出するよう中央委員会に委託する決定がなされた。
現行党網領は、1961年の第22回党大会で、フルシチョフ主導のもとに採択されたもので、ソ連共産党にとって3つ目の網領である。同網領の前文が、自らその“生い立ち”をつぎのように簡潔に語っている。



ユーリ・ウラジーミロヴィチ・アンドロポフ(ロシア語: Юрий Владимирович Андропов、ラテン文字表記:Yurii Vladimirovich Andropov、1914年6月15日 - 1984年2月9日)は、ソビエト連邦の政治家。同国の第6代最高指導者。Yuri Vladimirovich Andropov (15ma di junio 1914 til la 9ma di februaro 1984) esis politikisto, chefo di Sovietia de 12ma di novembro 1982 til lua morto.
第1の網領から第3の網領へ
「20世紀のはじめに、国際革命運動の中心はロシアに移った。ロシアの英雄的な労働者階級は、ウラジミール・イリイチ・レーニンを先頭とするボリシェヴィキ党の指導のもとに、この運動の前衛となった。共産党は社会主義革命の鼓舞者、指導者となり、歴史的にはじめて労働農民国家の組織者、指導者として行動した・・・。
政治闘争の舞台に進出するにあたって、レーニンの共産党は、革命的マルクス主義の旗を世界の上に高く掲げた。党は、それぞれの歴史的段階で、マルクス、エンゲルス、レーニンの学説を指針として、党の諸網領で科学的に定式化された諸任務を解決してきた。
1903年の第2回大会で最初の網領を採択したボリシェヴィキ党は、ツァーの専制政治を打倒して、プロレタリアートの独裁を確立するために闘うよう、ロシアの労働者階級とすべての勤労者に呼びかけた。1917年2月、帝制がくつがえされた。1917年10月にはプロレタリア革命によって、人民にとって憎むべき資本主義体制が廃止された。歴史上はじめて社会主義の国が生まれた。新しい世界の建設がはじまった。党の第一の網領は遂行された。
1917年の第8回党大会で第2の網領を採択した党は、社会主義社会の建設という任務を掲げた。ソビエト国民は前人未踏の道を歩み、困難と窮乏に打ち勝って、共産党の指導のもとに、レーニンが作り上げた社会主義建設の計画を実現した。社会主義はソ連邦で完全に、そして最終的に勝利した。第2の党網領もまた遂行された。
ソビエト連邦共産党は、いまここに第3の網領-共産主義社会建設の網領を採択する。新網領は、社会主義建設の実践を創造的に締括し、全世界の革命運動の経験をくみ入れ、党の集団的思想を表現して、共産主義建設は主な課題と基本的な段階を規定する。
党の最高の目的は、共産主義社会を築くことである。この社会の旗じるしには「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」と記されている。「すべての人間のために、人間の福祉のために」という党のスローガンが完全に実現されている。
プロレタリア国際主義に忠実なソビエト連邦共産党はつねに「万国のプロレタリア、団結せよ・・・」という戦闘的な呼びかけに従っている。党は、ソ連邦における共産主義建設を、社会主義世界体制全体の利益、国際プロレタリアートの利益、全人間の利益に合致するソビエト国民の偉大な国際主義的任務だと考えている」。
この前文によれば、ソ連共産党が掲げた題の網領は「社会主義革命の網領」であり、第2の網領は「社会主義建設」の網領であり、第3の網領は「共産主義社会建設の網領」ということになる。第1、第2の網領はいずれもレーニンによって策定され、第1の網領はレーニン自らの指導によって、第2の網領はレーニン、スターリンとフルシチョフによって遂行されたことになる。それについで第3網領が1961年にフルシチョフによって策定されたわけである。同網領は、高らかな調子で、こう結ばれている。
「党は、すべての共産党員、すべてのソビエト国民―男女労働者、男女コルホーズ員、知能労働に従事している人たちーに向かって、網領に予定されている歴史的任務を成功のうちに成し遂げるために努力するよう呼びかける。
共産党の試練ずみの指導のもとに、マルクス・レーニン主義の旗のもとに、ソビエト国民は社会主義を築き上げた。共産党の指導のもとに、マルクス・レーニン主義の旗のもとに、ソビエト国民は、共産主義社会を建設するだろう。共産党はおごそかに宣言するー
ソビエトのいまの世代の人びとは共産主義のもとで暮らすことになるであろう!」。このような“楽天的”な共産主義社会への展望をうたい上げた第3の党網領は、まず第1部「資本主義から共産主義への移行は人類の発展の道」で、全世界において資本主義が社会主義へ、さらに共産主義へと移行するのは歴史的必然であるとの認識を示したあと、第2部「共産主義社会の建設におけるソ連共産党の任務」で、共産主義の物質的・技術的基礎の創出と発展のための意欲的な経済計画を打ち出した。いわゆる「アメリカに追い着き、追い越す」20ヵ年計画である。

アメリカを除いて共産主義へ
「今後10年間(1961-70年)に、ソ連は共産主義の物質的・技術的基礎をつくり上げながら、人口は1人当たりの生産高で、もっとも強大で豊かな資本主義国―アメリカ合衆国―を上回るであろう。そのつぎの10年間(1971-80年)の結末として、共産主義の物質的・技術的基礎が創設され、全国民にありあまるほどの物質的・精神的財貨が保障されるだろう」と党網領はうたい上げた。この意欲的な目標を達成するために、工業では「今後10年間に生産高を約2倍半にふやし、アメリカの工業生産の水準を上回る。20年の間に生産高を少なくとも6倍にふやして、アメリカの現在の総工業生産をはるか後方に引き離す」ことを予定し、農業では「総生産高を10年間に約2倍半、20年間に3倍半に増大する。最初の10年間に、主な農産物の人口1人当たり生産高でアメリカを追い越す」ことを課題としたのである。
党網領策定の前年、1960年現在のソ連の経済力水準は米国のほぼ60%とみられていた。ソ連は以後10年間の年平均経済成長率を9・6%と見込み、米国のそれを2・0%と推定することによって、このような壮大な計画を打ち出したのである。この背景には、第二次大戦後、1950年までのソ連経済の著しい高度成長という事実があった。すなわち、戦後はじめての国民経済発展5ヵ年計画である第4次5ヵ年計画(1946-50年)における工業生産の成長率は年平均13・5%、第5次計画(1951-55年)では同じく13・1%、第6次計画(1956-60年、途中59年に7ヶ月計画に接続)では10・4%という好成績だった。

目標達成に失敗
ところが、1960年代に入るとともに情勢は変わってきた。ソ連の第6次5ヵ年計画は、中途の1959年に再編され、第7次国民経済発展7ヵ年計画として59年から65年も期間とすることになったが、この間の工業成長率は平均9・1%と、戦後はじめて10%台を割った。これ以後、ソ連経済の成長率は目にみえて下り坂に向かう。61年は9・1%、62年は9・5%、63年は8・1%、64年は7・3%に下がった。とくに62年には農業が大凶作に見舞われ、米国、カナダなどから大量の小麦輸入を余儀なくされ“共産主義の全面的建設期”(党網領)に入ったソ連のイメージを大きく傷つけ、フルシチョフ退陣の一因ともなった。
そのような経済の伸び悩みのなかで開かれたブレジネフ指導部初の党大会である1966年の第23回党大会は、1966年から70年までの第8次5ヵ年計画を想定した。最終年度の70年は、党網領によれば「人口1人当たりの生産高で米国を追い越す」はずの年である。しかし、第23回党大会でブレジネフ指導部は、そのような党網領の“公約”には一言もふれなかった。わずかにコスイギン首相が「この計画を遂行することによって、資本主義との経済競争において、より高い水準に到達する」とぼかした表現で指摘するにとどまったのである。すでにこの時点で、ソ連指導部は「米国を追い越す」ことを断念していたと解釈できよう。
そして第8次5ヵ年計画は年平均8・6%の工業成長率をもって、1970年に完結した(一方、60年代を通じて米国経済は4・1%の成長率を維持した)。第22回党大会でフルシチョフは党網領に関する報告のなかで、電力、石油、穀物、食肉そのほか重要な工業、農業産品の1970年における生産目標の数字を列挙していたが、どれ1つとして達成されなかった(表5「主要生産品目についての党網領の目標と実績」参照)。いまや“共産主義建設のプログラム”の破綻は明らかになった。60年代のはじめにモスクワをはじめ全国いたる所に掲げられていた「党網領を実現しよう」「共産主義に向かって前進しよう」というスローガンを大書したプラカードはいつの間にか姿を消した。党幹部が中央委総会やさまざまな集会で党網領に言及することはほとんどなくなった。
共産主義建設の20ヵ年計画の半ばを、このような不調のうちに通り抜けたソ連経済は、その後の第9次5ヵ年計画(1971-75年)でも年平均工業成長率は7・4%にとどまった。さらに第10次5ヵ年計画(1976-80年)では同じく4・5%まで下がった。ソ連5ヵ年計画史上、最低の成長率である。しかも年度別にみると76年4・8%、79年3・4%、80年4・8%であり、工業成長率は、はっきりと低落傾向を示している。
そして党網領が掲げていた1980年の工業、農業の主要品目の生産目標は、すべて未達成に終わった(表5参照)。1品目も党網領の目標の下限にも到達しておらず、電力、化学繊維などは下限の半分にも届いていない。食肉、油科作物種子(ヒマワリの種)がようやく下限の半分に達した程度である。
1980年をもって第10次5ヵ年計画が終了した時点で、ついに答えは出たのである。80年をゴールとした現行党網領の“バラ色の夢”は、冷たい現実によって粉々に打くだかれたといえるだろう。ブレジネフが26回の党大会で、ついに党網領の改定問題を持ち出せざるを得なかった経済的背景は明らかだった。

「発達した社会主義」概念の登場
共産主義建設の方途と段階に関する理論について、ブレジネフ指導部はすでに、事実上、現行党網領を大きく修正していた。そのことは1977年10月4日、ソ連最高会議臨時会期で採択されたソ連新憲法が、「発達した社会主義」という新しい概念を明文化したときから、まぎれもない事実だった。
この新憲法採択は、前にも述べた通り、ブレジネフによって主導されたので、“ブレジネフ憲法”ともいわれるが、ソ連にとっては4番目の憲法である。1918年、生まれたばかりの社会主義国家の性格を規定した「ロシア社会主義連邦ソビエト共和国憲法」、1924年、ソビエト連邦の結成に対応して制定された「ソビエト社会主義共和国憲法」(いわゆるレーニン憲法)、1936年、それを改定した「スターリン憲法」に続くものである。
1961年、第22回党大会でフルシチョフは、その中央委員会活動報告のなかで「われわれは新しい憲法の作成に着手しなければならない。そしてそれは、共産主義の全面的建設期におけるソビエト社会生活の新しい特徴を反映しなければならない」と述べた。さらにフルシチョフは翌62年4月のソ連最高会議で、「現行憲法が制定されて以後、ソ連に生起した諸変化の本質は、社会主義が完全に、かつ最終的に勝利し、ソ連が共産主義の全面的建設期(傍点筆者)に突入したことにある」と強調して、新憲法は「建設されつつある共産主義の憲法」でなければならない、と指摘した。22回党大会で採択された党網領から導き出される当然の立場であった。
しかし、フルシチョフを退けて登場したブレジネフは、1972年12月21日、ソ連邦結成50周年記念集会で憲法問題にふれて、つぎのように述べたのである。「社会主義経済の基盤だけでなく、われわれはいまや、都市においても農村においても、成熟し、技術的によく装備された経済制度をもっている。この制度は、すでに勝利した社会主義の諸条件のもとにおいて、すなわち1936年の憲法採択後にでき上がったものである。・・・これらの根本的な変化は、ソ連邦においては“レーニン党の指導の下、ソビエト人の自己献身的労働によって、発達した社会主義社会(傍点筆者)が建設されたとの重要な理論的および政治的結論をわが党が下すことを可能ならしめた。・・・これらすべての変化と、新しい諸条件のもとでわれわれの社会に生起した諸課題とは、ソ連邦の憲法のなかに反映されなければならないと考える」。
ここでブレジネフは、はじめて「発達した社会主義」という概念を持ち出したのである。それは、それまでいわれていた「共産主義の全面的建設期」、ないし「建設されつつある共産主義」という表現とは全く異なるものであった。そして1977年に採択された新憲法は、その前文で10月革命以来のソ連の政治的、経済的、社会・文化的な発展を跡づけ、現段階のソ連社会、ソ連国家の性格とその課題を歴史的展望のなかで規定しているが、現在のソ連社会の性格について、こう述べている。
「ソ連邦には、発達した社会主義社会が建設された」(傍点筆者)・・・。それは、強力な生産力、先進的な科学と文化が創造され、国民の福祉が絶えず増進し、個人の全面的発達によって恵まれた条件が築かれつつある社会である。
それは成熟した社会主義的社会関係の存在する社会であって、そこには、すべての階級と社会層の接近、すべての大小民族の法律的および実際的同種とそれらの兄弟的協力にもとづいて、人間の新しい歴史的共同体ソビエト国民が形成された。
・・・それは、各人の福祉に対する万人の配慮と万人の福祉に対する各人の配慮が生活のおきてとなっている社会である。
・・・それは真の民主主義の社会であって、この社会の政治制度は、社会的事業全体の効果的な管理、国家生活への勤労者のより積極的な参加、人間の実際的権利および自由と社会に対する市民の義務ならびに責任との結合を保障している。
発達した社会主義社会は、共産主義に向かう途上の合法的段階である(傍点筆者)。
この憲法の規定は、明らかに61年党網領と異なっている。党網領は、社会主義の全面的、最終的勝利→共産主義の全面的建設期への移行という図式を示していたのに対して、新憲法は社会主義の全面的、最終的勝利→発達した社会主義→共産主義という過程を定式化したのである。つまり、社会主義の全面的、最終的勝利から共産主義のまでの間に、発達した社会主義という一段階を挿入したわけである。

理論的一歩後退
これは要するに、前にみた通り、党網領が設定した経済20ヵ年計画が無残な失敗に終わり、しかも、今後とも予想し得る期間内に党網領が掲げた目標が実現できる目途がないところから、発達した社会主義という新概念を作り出して、社会主義と共産主義との間の“過渡期”として設定し、これを憲法に取り入れたものといってよい。現実と理論とが、あまりにも開きすぎたために、現実に合わせて理論を一歩後退させたのである。このことについて、英紙「ザ・タイムズ」は(1981年2月24日付)こう論評している。
「ブレジネフ報告は5年期のそれより陰鬱なものだった。国内に不満がみなぎり、輝かしい未来はこれまでになく遠い先のことに思われ、党が人心を失いつつあることに同書記長も気づいたようだ。根本問題は理論と現実のギャップがますます広がり、もはやそれは隠せないことだが。そこで、同書記長が党網領を新しい現実に合うよう改正する必要があると公式に述べたことは意義深い。もし共産主義理論を現実に結びつける機会があるとしたら、いずれは同書記長の後継者たちが行わなければならない重大修正の小さな始まりがこれだ」。
最高の政治目標を定めた党網領を改定するということは、ソ連共産党がその”公約“を捨てることを告白したものにほかならない。1961年網領は、ソ連共産党にとって3番目の網領であるとともに、実現されないままに更新される最初の網領にもなったのである。ブレジネフは、フルシチョフがそっかしく拡げてみせた”大風呂敷“のあと始末させられる破目になったともいえるだろう。
無風人事
第26回党大会は、人事面からみると、全くの現状維持に終わった。党大会に先立って15の連邦構成共和国で地方党幹部が改選されたが、そのほとんどが再選されて、党幹部の異動にきわめて慎重な、ある意味での情突人事をきわ立たせた。
大会では中央委員319人(前大会より32人増)、同候補151人(12人増)、中央監査委員75人(10人減)が選出された。中央委員会全体(中央委員、同候補、監査委員をふくむ)としての更新率は約28%(545人中152人)であり、中央委員と同候補では約24%、中央委員のみでは13%だった。全く新人の中央委員は41人にすぎず、候補からの昇格が42人、監査委員からの2階級昇進が6人あった。旧中央委員のうち231人が留任という現状維持ぶりが注目された。しかし、中央委書記、政治局員候補、政治局員というトップ層は全員留任、更新なしというソ連共産党大会史上、前例のない無風人事に終わったのだった。
一方、これまでの中央委員のうち、マズロフ前第一副首相は、ポドゴルヌイ前最高会議幹部会議長、ポリャンスキー駐日大使、パブロフスキー前地上軍総司令官、トルスチコフ前駐中国大使・オランダ大使らは再選されず、フルシチョフの息のかかったと目されていた者は、すべて退陣した。26回党大会人事は、党内のブレジネフ体制が固まり切って動きが取れなくなったことを示したといえよう。


党大会後の残照
ともかく党大会を乗り切ったブレジネフは、翌々月の4月にはプラハを訪問し、チェコスロヴァキア共産党第16回大会に出席して演説した。5月9日にはキエフに飛んで、大祖国戦争戦勝記念博物館の開館式で、また同月22日にはトビリシを訪れてグルジア共和国60周年記念集会で、それぞれ演説した。この前後に訪ソしたカダフィ・リビア国家元首や、ブラント西独社民党党首ら少なからぬ外国要人との会談もそつなくこなした。
*ムアンマル・アル=カッザーフィー(アラビア語: معمر أبو منيار القذافي‎, muʿammar ʾabū minyār al-qaḏḏāfī, 1942年6月7日[1] - 2011年10月20日)は、リビアの軍人、革命家、政治家で、大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の最高指導者。称号は「リビア最高指導者および革命指導者」(زعيم وقائد الثورة في ليبيا, zaʿīm wa-qāʾid al-ṯawrah fī lībiyā, ザイーム・ワ=カーイド・ッ=サウラ・フィー・リービヤー)、「敬愛なる指導者」(الأخ القائد, al-aḫ al-qāʾid, アル=アフ・ル=カーイド)[2]。1969年のリビア革命によって政権を獲得後、2011年に至るまで長期にわたり独裁政権を維持したが、2011年リビア内戦によって政権は崩壊、自身も反カッザーフィー派部隊によって殺害された[3]。
*ヴィリー・ブラント(Willy Brandt、1913年12月18日 - 1992年10月8日)は、ドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)の政治家。第4代連邦首相(1969年 - 1974年)。ドイツ社会民主党 (SPD) 党首(1964年 - 1987年)。リューベック出身。

7月3日から夏の休暇をもってクリミアで静養したが、静養中も恒例の夏のクリミア会談を行い、すべての東欧諸国とモンゴルの党書記長、第一書記と胸襟をひらいて話し合った。8月25日、モスクワに戻ったブレジネフは、9月はじめからインドシナ3国の党書記長のほか、フット英労働党党首、ラチラカ・マダガスカル大統領、フェッター西独労働総同盟議長、アラファト・パレスチナ解放戦線議長、ラウ・イルトライン=ウェストファーレン州(西独)首相、サレハ北イエメン大統領などと会談した。10月26日に西独「シュピーゲル」誌のインタビューに応じたあと、よく11月22日から4日間、西独を訪問してシュミット首相、カルテンス大統領のほか各政党の党首とも個別に会談するという元気のよさをみせた。
しかもこの間、最高会議の開催を前に11月16日に開かれた党中央委総会では「長大な演説」もぶった。ソ連経済の永年の低迷ぶりに警告を発し、業績不振の省の大臣を名指しで批判しつつ、資源の節約、より効果的な経済運営を求めた迫力ある内容だった。
*ヤーセル・アラファート(アラビア語: ياسر عرفات‎、Yāser ‘Arafāt、英語表記: Yasser Arafat など、1929年8月24日 - 2004年11月11日)は、パレスチナのゲリラ指導者、政治家。パレスチナ解放運動の指導者として知られた。死去=アラファートには、軟禁状態となったころから健康不安の噂があった。また多数の敵を抱える状況から、シャロン首相は「アラファートは、ハマースのアフマド・ヤースィーン師と同様(イスラエルによって)暗殺されるかもしれない」と発言していた。アラファートは2004年10月10日に体調を崩し、10月15日のラマダン(断食月)入りの金曜礼拝では気分不良のために途中で退出して客人への対応もしなかった。10月19日にはエジプトから招かれた医師団が診察した。10月27日より嘔吐を繰り返すようになり、何度か意識を消失した。アラファートは、入院中に大統領府がイスラエル軍によって破壊され戻れなくなることを恐れていた。10月29日、体調の悪化を理由に治療のためヨルダン政府によりアンマン経由でフランスに移送されたが、脳出血のため昏睡状態に陥り、11月11日午前3時30分にパリ郊外クラマールのペルシー仏軍病院で死去した[15]。アラファートは生前に遺体を東エルサレムまたはその近郊に埋葬してほしいと希望していたが、東エルサレムを自国の不可分の領土としているイスラエル政府はこれを拒否したため、遺体はカイロに運ばれて国葬された後、11月12日にラマッラーにある議長府敷地内に埋葬された。

“心霊療法”のきき目?
このような前年5月以来のブレジネフの仕事ぶりは、それまでの健康悪化説、引退必至説を吹き飛ばしたかにみえた。ブレジネフが受けたという“超能力療法”(心霊療法)のおかげだといううわさが高まった。グルジアから来た不思議な女性施療師ジューナ(前出)の名前がたちまち上層社会に広がった。
AFP電や西独『シュピーゲル』誌など西側の報道や、『コムソモリスカヤ・プラウダ』などソ連の新聞の記事を総合すると、ジューナは元ウェートレスで、長い髪をあやしく光る大きな目が魅力的な、当時30歳すぎの女性、彼女の両手の指の先から電波のような幅射線が発し、「ジューナがしおれたバラの上に両手をかざすと、みるみる花びらが開き始めた」という。彼女は患者をベッドに寝かせるか、椅子に座らせるかして、その体から10センチほどの距離をおいて、両手を開き気味にしてゆっくりと何回も上下させる。この方法で万病をなおすというのである。ソ連医学界のなかには、ジューナのこのような治療能力を“バイオエナジー(生物エナジー)”と名付けた挙者も出た。
ジューナはブレジネフのほか、多くの有名人のさまざまな病気をなおしたといわれた。党政治局員候補・書記のポノマリョフ、詩人のアフマドゥリナとジェスウェンスキー、喜劇俳優ライキンなどの名が伝えられた。レーニン賞受賞者の詩人ガムザトフは、長年の病気(病名は不明)がいえた感激で、つぎのような詩をジューナに捧げたという。
―私があなたのもとに来たとき 私は沈黙の楽器だった あなたの手が指揮棒のごとく とっくの昔忘れていた 喜びの弦を再びかき鳴らしてくれたー
このころ、ソ連の人気ポップ・グループ「ファニー・ガイズ」が、「ジューナ、おまえの魔法の手よ」という、彼女の超能力の不思議さをうたった曲を作り、そのカセット・テープが上流階級の間に出回ったという話も聞かれたのだった。これだけジューナがもてはやされたのも、1年前には重病人とみられていたブレジネフが、奇蹟的な立ち直りをみせたからにほかあるまい。

栄光の75歳
活力を取り戻したブレジネフは、75歳の誕生日を控えて、回想記の新作をまたまた『ノーヴィ・ミール』誌11月号に発表した。題して『想い出』、『工場の汽笛を聞きながら』と『祖国への想い』の2部からなる。さきにレーニン文学賞を受けた回想記3部作は、この新作を加えて4部作となった。
「工場の汽笛を聞きながら」は、ブレジネフが生まれたウクライナの製鉄の町、カーメンスコエ(現ドニェプロジェジンスク)で過ごした幼・少年時代の追憶であり、『祖国への想い』はそれに続くコムソモール活動、軍隊勤務、そして戦前のドニェプル川での小壮幹部としての党活動の想い出に当てられている。この4部作でブレジネフは、幼年時代から戦争を経て、1956年に政治局員候補・書記となって中央政界で華々しい政治的キャリアを歩みはじめるまで、ほぼ50年間の自分の足跡を誇らしい筆致で描いてみせたわけである。行面には自信と満足感とがにじみ出ていた。
こうして12月19日、ブレジネフは75歳の誕生日を迎えた。この日クレムリンでは、ソ連の党・政治指導者はもとより、わざわざモスクワまで馳せ参じたポーランドをのぞく東欧5カ国とモンゴルの首脳が顔をそろえ、ブレジネフに対する4つ目の「ソ連邦英雄」金星章と7つ目のレーニン勲章の授与式が行われた。慣例によって党の長老、スースロフ政治局員・書記が金星章と勲章を手渡し、「人生のすべてを党と人民とともに過ごした」書記長の功績をたたえた。また東欧諸国とモンゴルの首脳がこもごも立って、祝辞を述べ、それぞれの国の最高勲章を贈った。たまたま戒厳令が施行された直後のポーランドのヤルゼルスキ党第一書記は欠席したが、長文の丁重なメッセージを寄せた。
当時のソ連各紙は、「すべての大陸の数億の人々が、平和と諸国民の友好の事業の擁護者としてのあなたをよく知っている。・・・わが偉大な祖国の繁栄のため、共産主義の思想の勝利のために、あなたがやってこられたこと、そして今も毎日やり続けていることの価値は、はかり知れないほど大きい。・・・あなたの政治的英知、指導者としての豊富な経験が、今後ともわが党と国民の利益に、平和と社会進歩の事業に奉仕するであろうことを、われわれは確信している」という党中央委、最高会議幹部会、閣僚会議連名の最大級の祝辞をこぞって掲載した。すでに12月末に入ってから、ソ連の新聞、テレビは連日のようにブレジネフの75歳を祝う記事や番組を組んだほか、モスクワのレーニン図書館では、ブレジネフの演説・論文集シリーズ「レーニンの道に沿って」に因む資料の特別展示をし、レーニン博物館では内外からブレジネフに贈られたプレゼントの展示を行った。指導者へのプレゼントの展示は、スターリン以来はじめてである。ブレジネフ礼賛、ないしブレジネフ個人崇拝は行きつくところまで行ったといえるだろう。だが、これがブレジネフの最後の誕生祝いとなった。

*ヴォイチェフ・ヴィトルト・ヤルゼルスキ(Wojciech Witold Jaruzelski [ˈvɔjt͡ɕɛx ˈvitɔld̥ jaruˈzɛlskʲi],   発音[ヘルプ/ファイル]、1923年7月6日 - 2014年5月25日)は、ポーランドの軍人、政治家。軍人としての最終階級は上級大将。元ポーランド統一労働者党第一書記、首相、国家評議会議長、ポーランド大統領・・・1939年に家族とともにリトアニアに亡命。リトアニアがソ連に併合されると、1940年にはシベリア地方に抑留され、タイガでの森林伐採にまわされた。このとき雪の強い照り返しで目を傷め、以後色付きのめがねをしているとされる。なお、父はこの抑留中に命を落としている・・・晩年=政界を引退してからの彼は回想録を出版した後、ポーランド政府から年金を受け取って生活していた。しかし2007年4月17日、1981年の戒厳令布告の際の民主化弾圧の責任を問われ、ポーランド検察によって起訴された。高齢であることを考慮され、自宅から毎月裁判所に出廷することを許された。弁護側は、ヤルゼルスキが、あの時戒厳令を布告して民主化運動を取り締まらねばソ連が介入してきたはずであり、結果的にポーランドの独立を守ったと主張したが、検察側は、ソ連はポーランド内政に干渉しないという当時のソ連指導部の文書を提示し、ヤルゼルスキ側の弁論に反論した[2]。有罪ならば懲役10年程度が予想されていた。2011年より癌の治療を受けていたが、2014年5月初旬に脳卒中になり、呼吸困難や身体の麻痺などの症状を訴えて治療中だったという。2014年5月25日午後3時24分、脳梗塞によりワルシャワ市内の病院で死去。90歳没。





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