日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆Леонид Ильич Брежнев☭Кремль☆ブレジネフのクレムリン⇔「停滞の18年?」(ゴルバチョフ言)Collective Leadership(集団指導体制)赤い帝国と超大国ソ連Ричмонд-Хилл🍁(Онтарио)2018⑥


1983年5月1日 メーデー集会(パレード)首都モスクワ 赤の広場 レーニン廟壇上 1、チェルネンコ政治局員 2、ウスチノフ国防相 3、アンドロポフ書記長(翌月、最高会議幹部会議長に選出(兼任)) 4、チーホノフ首相 5、グリシン政治局員 6、グロムイコ外相 7、ゴルバチョフ政治局員 8、アリエフ政治局員
*メーデー(May Day、直訳すれば「5月の日」)は、世界各地で毎年5月1日に行われる労働者の祭典。ヨーロッパでは夏の訪れを祝う意味を持った日である一方、旧東側諸国などでは労働者が統一して権利要求と行進など活動を取り行う日としている国もある。「労働(者)の日」(Labour Day)ともいうが、いくつかの国ではその国独自の「労働者の日」を定めているため、International Labour Day との言い方も存在する。La Tago de la Laboro aŭ Tago de la Laboristoj estas festata en multaj landoj je la 1-a de majo. Ĝi estas tradicia bataltago de la laborista movado.
経済再建への模索
アンドロポフは、自己の党内権力の基礎を固めながら、懸案の経済改革の方法を模索した。アンドロポフはすでに82年11月の中央委総会で、「最近、企業合同や企業、コルホーズやソフホーズの自主性を拡大する必要があるとしきりにいわれている。この問題の解決に実務的に取り組むべき時がきたと思う」と、経済改革への意欲をみせた。その後、『プラウダ』をはじめとするソ連各紙には、経済運営の分権化、自由化の方向をめざすさまざまな提案が相ついで掲載されはじめた。『プラウダ』は「何でも屋は成り立たない」と題する論文で、ソ連の大工業が本来の仕事のほかに搬送用の木枠など細かな付属的資材をつくる部門までかかえ込んでいるのを非能率と批判し、企業活動の分化、専門化の必要を主張した。労組機関紙『トルード』には、タクシーや小規模商品などサービス部門に個人営業を導入すべきだという主張も現れた。アンドロポフは83年に入ると、つぎつぎに経済再建の具体策を打ち出した。
*コルホーズ(ロシア語: колхоз、英語: kolkhoz)とは、ソビエト連邦の集団農場のことである。全て国有だったソフホーズと違い、半官半民で協同組合に近い。ロシア語の «коллективное хозяйство»コレクティーヴノエ・ハジャイストヴァ の略で「共同経営」「集団農場」といった意味である。農業に限らず、漁業コルホーズ、林業コルホーズなどもある。国有地を無料で使用して耕作を行った。主な農機具・家畜等は共有。労働者は組合員としてコルホーズで農作業を行い賃金を得る。生産物は政府に売却する。組合組織による経営であった。各個人の住宅に付属した小規模農地で野菜の栽培、家畜の飼育が可能で、個人で生産した生産物は自由な販売を認められていたКолго́сп (від скорочення — колективне господарство; рос. колхоз (коллективное хозяйство)) — форма сільськогосподарського підприємства на території колишнього СРСР.
*ソフホーズ(ロシア語: совхо́з、英語: sovkhoz、ウクライナ語: радго)は「ソビエト式農業」(ロシア語: советское хозяйство)の略語で、ソビエト連邦時代の国家所有の農場を指し[1]、こうした国営農場はソ連だけでなく、ポーランド、東ドイツなどの社会主義国でも広く行われていた。しばしば、当時のコルホーズに対して使われる用語で、これは集団で所有していた農場である。Совхо́з (слушать (инф.) — сокращение от советское хозяйство) — государственное сельскохозяйственное предприятие в СССР. В отличие от колхозов, являвшихся кооперативными объединениями крестьян, созданными на средства самих крестьян, совхоз был государственным предприятием. Работающие в совхозах были наёмными работниками, получавшими фиксированную заработную плату в денежной форме, в то время как в колхозах до середины 1960-х использовались трудодни.
農業に集団請負制
ソ連経済の根本的な建て直しが、単なる規律強化や人事刷新だけでは達成できず、経済運営のシステムそのものを改善する必要があることはいうまでもない。
農業部門では、コルホーズ、ソフホーズの集団請負制導入の促進が決められた。1983年3月10日の党政治局会議は「ソ連のさまざまな地域で蓄積された経験は、請負方式で活動する労働集団では労働と資源的約の高い指標が確保されていることを示している。こうした集団では各働き手の利益と生産増大に関する企業の課題がうまく結合し、報酬と最終的成績とのつながりが強化され、生産フォンドと投入された資金の利用が改善されている」として、各共和国、地方・州、地区の党、ソビエト機関、省庁が「自発的な労働集団形成の原則」を厳守しつつ、請負方式導入を促進するよう指示した。続いて3月18、19両日、各共和国党中央委と地方・州の書記、各共和国と自治共和国の農相を集めて、ベルゴロドで集団請負制度導入に関する全連邦会議が開かれた。席上、ゴルバチョフ政治局員・書記が「請負方式はあらゆる農産物の生産に効果的である」と述べ、現行5ヵ年計画の期間中に、この方式をコルホーズ、ソフホーズに根付かせなければならないと強調した。

集団請負(ロシア語でボドリャード)という制度は、コルホーズやソフホーズでズベノーЗвено(班)、ブリガーダбрига́д|а(生産隊)と呼ばれる5,6人から30人ぐらいの小集団が農場の責任者と年間生産量、買い上げ条件について個別に契約を結び、生産を請け負う方式である。契約によって集団に固定された土地や機械、器具、肥料などの運営は自由で、契約生産量を上回る生産を挙げれば報酬は割り増しされる。
従来はいわゆる出来高払い制(ロシア語でズジェーリシチナ)であり、これは文字通り、なされたもの(ズジェーランノエ)に応じての支払いを意味するが、なされたものとは“投入された労働”なのか“生産された物”なのか必ずしもはっきりしなかった。個々の働き手は(労働の最終結果とは関係なく)、その労働時間、熟練度と職種によるランク付けによって機械的に報酬がはじき出されていた。これでは働き手の勤労意欲は刺激されず、農業経営は赤字になることもあり得るわけである。
働き手に労働の最終結果(つまり生産物の量とそのコスト)に対する関心を呼び起こすこの新方式は、これまでの実験によると旧方式に比べて20~30%の増産をもたらしているという。「長年にわたる出来高払い制の惰性、経営思想の保守性、教条主義的な危惧、トラクター手、コンバイン手、搾乳機オペレーターなど機械取り扱い要員の不足などによって、1983年初頭までに集団請負制に移行していたのは全コルホーズ、ソフホーズの9%にすぎない。しかし、これらの要員は続々と養成されつつある。いまや集団請負制の全面的導入の時期である」(1983年4月25日付『APNプレスニュース』)と、ソ連のマスコミはキャンペーンをはじめた。
労働者集団の役割向上
一方、工業部門では1983年4月12日のソ連各紙に「労働者集団並びにその企業、機関および組織内における役割の強化に関する法律案」が発表され、全国民討議にかけられた上、6月17日、最高会議で法律として採択された。1977年採択の現行憲法がはじめて「労働者集団」に1条(第8条)を設けて、国家的および社会的問題の討議と決定、生産と社会発展の計画立案、要員の育成と配置に参加し、また企業と施設の管理、労働条件と生活条件の改善の諸問題、資金の運用問題の討議と決定に参加するなどの権利を保障したのにもとづいて、すでに1980年に立法化が決められていたものである。
労働者集団(ロシア語でトゥルダヴォイ・コレクチーフ)とは、工場、官庁、学校、社会団体などで働く労働者の職場、部署単位の集団のことであり、前記のコルホーズ、ソフホーズにおけるズベノー、ブリガーダに相当する。労働者集団法は、これら労働者集団が、①企業の生産計画や生産性向上のための措置の決定に参加する、②企業の投職人事について意見を表明し、または自ら候補を推薦する,③賃金やボーナスが労働に見合って正当に支払われているかどうかをチェックする、④企業の福利・厚生事業に対して発言する、⑤これらの権限を行使するため、企業管理部に定期的に報告を求め、異議を表明し、あるいは別の提案をするーことなどを定めている。
この法律は、労働者集団の経営参加をすすめて、その自発性、創意工夫を刺激しようというものである。しかし、企業の所有権や経験権の所在は不変であり、ユーゴの労働者自主管理はもとより、ポーランドの自主管理労組「連帯」がめざした労働者の権利拡大にも及ばぬ、きわめて限定された労働者集団の役割強化である。「国家規律尊重の名の下にストライキが禁止されているのはもちろん、労働規律強化、生産性向上への努力、若年労働者の育成などを、この法律は義務づけている。
企業の自主性拡大
一方、1983年7月26日の『プラウダ』は「計画立案と経営活動における工業生産合同(企業)の権限の拡大と活動の結果に対するその責任の強化のため追加的措置」という党中央委・政府の共同決定を発表した。アンドロポフ政権の経済改革の試みの1つであるこの決定は、①生産計画策定の段階で企業の役割を高める、②中央が決定し、企業におろしていた各種生産指標の数を減らし、企業の自主決定に委ねる、③工場の設備更新や新技術導入のために企業に大幅な自主裁量権を与え、新設備、新技術が実用化されるまで操業できない期間を補償するクレジットも供与する、④労働者の賃金やボーナスのあめのフォンドを、各企業の業績(経営活動の最終結果)によって決定する(企業がよい業績を上げれば労働者の報酬もふえる)、⑤優れた品質の製品の開発や生産に携わる研究・設計部門の技術者に対する報償を増大する、⑥福利・厚生部門のフォンド運用に企業の自由決定権を認めるーなどを主な内容としている。
そしてこれらの改革を、連邦レベルではウクライナ食品工業者、白ロシア軽工業者、リトアニア中小企業者の管轄下の企業、企業合同について1984年1月から実験的に実施するというのである。
これは、一部市場経済を取り入れ、小規模の私企業をも認めているハンガリー型の経済自由化ではなく、また中央集権的計画経済の枠内で大幅な企業の自主活動を容認している東独型の経済改革にも程遠い。現行のソ連型経済体制の枠内での限定された手直しというべきものである。アンドロポフが1982年11月中央委総会でほのめかしたような大胆な経済改革とは到底いい難い。
スターリン死後、ソ連では1957年にフルシチョフ主導で、1966年にはコスイギン主導で、また1979年にはブレジネフ主導のもとに経済改革が行われたが、いずれも中途半端な竜頭蛇尾に終わっている。企業の自主性が強化されればされるほど、資源配分や計画立案をめぐる党・政府官僚の権限や存在意義が弱められるのは論理的必然である。アンドロポフの経済改革も、当初の予想に反して、きわめて限られた小規模なものに終わったようにみえる。その背景にはやはり、保守的、教条主義的な党・政府官僚層の有形無形の抵抗があったのであろう。


イデオロギー整風
アンドロポフがかつて党中央委員長でイデオロギー問題を担当し、KGB議長であったことや、その政権がKGB、軍、外務省、イデオロギー官僚など“国家安全保障グループ”の支持を受けて成立したことなどを反映して、同政権は発足の当時からイデオロギー引き締めにきわめて熱心だった。
党中央委イデオロギー総会
1982年11月22日、『プラウダ』は「人民のために」と題した社説を掲げ、芸術におけるイデオロギーの重要性を強調した。この社説は、芸術の分野がもっとも激しいイデオロギー闘争の場になっていると指摘し、イデオロギー的無関心や不純な世界観、階級的視点の欠如などに対し、断固たる反撃を加えねばならないと力説した。
1983年6月の党中央委総会は前述のようにイデオロギー問題を主題に取り上げ、チェルネンコ政治局員・書記が「党のイデオロギー・大衆政治活動の当面の諸問題」と題して報告した。チェルネンコは「今日の世界では、2つのイデオロギーのグローバルな闘いがすすめられている。帝国主義、とりわけ米帝国主義は、われわれの社会主義体制とマルクス・レーニン主義イデオロギーに対して、前例のない大規模な攻撃をかけてきている」との認識のもとに、ソ連国民のイデオロギー的武装の強化の必要性を強調した。またチェルネンコは、党の強力な專伝手段であるマスメディアの報道・解説の紋切り型マンネリズムをきびしく批判し、珍しく党中央委のイデオロギー担当部門である学術・教育機関部、文化部、国際情報部、宣伝部を名指しして、その活動の不備を指摘した。ソ連国内の反体制活動はいうまでもなく、文学、芸術の分野での引き締めが一層強まることを予想させるものであった。
チェルネンコ報告をめぐる討論のあと、アンドロポフが結語演説を行い、イデオロギー活動の構想となるべき新しい党網領の輪郭にふれて注目された。第22回党大会(1961年)で、フルシチョフ主導の下に採択された現行網領が、すぐに現実に適合しなくなり、改定の必要があることはさきの第26回党大会でも確認されたが、アンドロポフ指導部はいよいよその改定作業の促進に取りかかったわけである。新網領は、「共産主義の全面的建設」をうたった現行網領から一歩後退し、その前の段階である「発達した社会主義の完成」をめざすものになることをアンドロポフ演説は示した。その内容に関する部分で、アンドロポフは社会主義社会における文学と芸術の意義について、現行網領土の若干の命題を発展させる必要があると述べて、こう指摘した。
「党は、才能に対して、芸術家の創造的探究に対しては、その創作の形成や様式に干渉せずに、丁重に、尊敬をもって接している。しかし党は、芸術の思想内容に対して無関心ではいられない。党は常に人民の利益に合致する方向に芸術の発展を導いている。もちろん、これは行政的管理を意味するものではない。芸術的創造に対する主要な影響手段となるべきものは、積極的で、敏感で、注意深い批評、そして思想的になじまず手法的に不十分な作品に対する妥協のないマルクス・レーニン主義的批評である」。
アンドロポフはここで、文学・芸術作品のなかにひそむイデオロギーに対して、党はきびしい批判を加えることを明らかにしたのである。こうしたイデオロギー引き締めの空気のなかで、党にとって好ましくない作家や芸術家に対する弾圧もめだってきた。
芸術引き締め
1982年末、モスクワの有名な前衛劇場、タガンカ劇場で好評上演中だった芝居『ここにいる人を見よ』が突然公演中止になり、脚本が修正されるという出来事があった。貧しいインテリと大酒飲みの労働者を主人公にしたこの芝居は、ソ連にはもはや存在しないはずの階級間の憎しみを抱いており、“その筋”のタブーにふれたといわれる(『ニューズウィーク』誌)、1983年5月には、知識人の間で人気の高い作家レオニード・ボロジンが懲役10年、流刑5年という重刑を宣告された。キリスト教によって社会の改革をめざそうという「人民解放全露キリスト教同盟」に加わったことなどが「反ソ活動」とされたという。翌6月には、強制収容所の看守を主人公にした小説「忠実なソ連人」で知られ、国際アムネスティ・ソ連支部長だった作家ゲオルギー・ウラジーモフが西独に出国した。病気療養を理由に出していた出国申請が認められたという形をもっているが、事実上の亡命である。ウラジーモフは出国後、「いつ刑事訴追されるか分からない状態が続いた。反ソ活動をしたことを認めるよう迫られたり、他人との接触についてKGBに説明を求められたり、西側での本の出版をやめ、ソ連国家に忠誠を誓うように圧力を受けたりした。それらを拒み続ければ刑事訴追が待ち受けていた」と語っている。
*Георгий Николаевич Владимиров ゲオルギー・ウラジーモフGeorgiy Nikolaevich Vladimov=1931 -ソ連の小説家。ハリコフ生まれ。トラックの運転手の職につきながらレニングラード大学法学部を卒業、処女作は「大鉱脈」で、1961年「新世界」誌に発表。運転手を主人公に、ソ連民衆の下積みの生活と精神的荒廃の状況をえぐりだし、ソヴィエト小説に新局面を切り開く。「雪どけ」後の世代を代表する若手作家として注目。’70年代にはいり文学の自由をめぐる公開状、「Верный Руслан - История караульной собаки忠犬ルスランFaithful Ruslan - The Story of a Guard Dog」(’75年旧西ドイツで出版)の地下出版流布などで当局と対立、’83年西側出国する。
“整風”の嵐は、若い世代に人気の高いポップ・ミュージックの分野にまで及んできた。「楽しい仲間」とか「アルバム」「歌よ元気かい」といった名前の通ったポップ・グループが、1983年の夏、演奏活動を中止させられた。検閲を経て許可をされたプログラムを勝手に変えて即興演奏したり、派手な服装や大胆な演奏態度を見せつけられるのが文化省当局に嫌われ、「演奏会場の上演規則に反した」「ステージの美的行動規範に外れた」などの名目で規制を受けたようである。前述の党中央委6月総会でチェルネンコがわざわざポップ・ミュージックにふれて「嫌味な音楽グループが人気に便乗して、イデオロギー的にも美的にも害毒を流している。われわれは商売よりもまずイデオロギーを守らなければならない」と指摘していたことが想起される。
アンドロポフは、その登場の前後、英語に堪能で西欧的趣味の持ち主であり、文学や芸術に深い理解を持つリベラルな人物といううわさが国内、国外に流れた。ソ連の知識層の間には、寛大な文学・芸術政策を期待する空気があった。そのような“甘い夢”は裏切られたようである。

早過ぎた挫折
1983年12月の党中央委総会は、アンドロポフが権力をほぼ確立した総会だったが、議場に彼の姿はなかった。恒例の書記長演説はテキストの代読によって行われた。アンドロポフはその「書面演説」の冒頭で、「非常に残念なことに、一時的理由により私は総会に出席できない。しかし、私は来年度計画の基礎をなすすべての資料に注意深く目を通し、それらについて十分に考え、自分の判断を述べ、説明することに備えた。それゆえ私は、党中央委員、同候補、中央監査委員、総会出席者に書面演説を送付する」と釈明した。中央委総会に書記長が欠席したのは、1964年10月、フルシチョフが自分の解任を票決にかけられたとき以来のこと。アンドロポフの健康が深刻な状態にあることを示唆したのである。
早くから健康に不安
アンドロポフは書記長就任の当初から健康に問題があるといわれていた。かねて彼が黒メガネをよく使っていたのは、健康の不調からくる目の下のクマを隠すためともいわれた。すっぱ抜きで有名な米国のコラムニスト、ジャック・アンダーソンは、82年11月に早くも米中央情報局(CIA)の秘密報告にもとづく情報として、アンドロポフに「重大な健康上の問題がある」と指摘していた。アンドロポフは1966年に心臓発作に襲われ、70年代半ばに大手術を受け、10週間入院していたと、CIA報告が記述しているのである。
*中央情報局(ちゅうおうじょうほうきょく、英:Central Intelligence Agency、略称:CIA)は、外国での諜報を行うアメリカ合衆国の情報機関である。中央情報局長官によって統括され、アメリカ合衆国大統領直属の監督下にある。CIA [si aj ej], angle Central Intelligence Agency (proksimume "Centra Informkolekta Agentejo"[1]) estas ŝtata sekreta servo de Usono. La centra oficejo estas en Langley, Virginio.
83年1月11日、訪ソした西独社会民主党(SPD)のフォーゲル次期首相候補と会談したとき、アンドロポフが健康を害しているとの見方がひろまった。このとき書記長の顔色は青白く、足を引きずりながら会談のテーブルにつき、出席者のある者は「まるで死にかけているようにみえる」と印象を語ったという。このころのアンドロポフの写真は、前に比べてやせているのがめだった。3月には10日間、姿を消し、腎臓と心臓の障害で入院したと消息筋の情報が流れた。
6月、モスクワを訪問したコイビスト・フィンランド大統領を、アンドロポフは空港ではなくクレムリンで迎え、見送った。外交儀礼上、異例である。繁雑な形式的行事を省こうとする新しい"アンドロポフ・スタイル“ともみられたが、健康上の理由が大きいことは明らかだった。フィンランド大統領をクレムリンで見送るアンドロポフを屈強なボディー・ガードが両側から支えている写真が、西側の新聞に載った。
同月16日のソ連最高会議で、アンドロポフが幹部会議長に選任されたことは前に述べたが、彼は就任の短いあいさつを、演壇ではなく、ヒナ壇の自席に特設されたマイクを通じて述べた。前例のないことである。演壇までのわずかな距離と数段の会談を歩くことが難しかったのであろう。
7月4日、コール西独首相が訪ソしたが、アンドロポフは同日午後に予定されていた会議を「個人的事情」の理由で取り止めた。翌日の会談には、平然とした調子で出席し、「昨日は都合がつかなかなくて」と弁解したあと、コール首相と率直な議論を闘わせた。同首相は記者会見で、アンドロポフが「討論されたすべての問題に通じ、細かい所まで理解し、数字もポンポン出た」と語った。
西独誌『シュピーゲル』(7月11日号)は、アンドロポフが腎臓を病んでいるほか、おそらく糖尿病をも患い、毎週人工透析を受けているらしいと伝えた。彼が西独首相との最初の会談をすっぽかしたのは、人工透析の日に当たっていたからであり、2回目の会談をそつなくこなせたのは透析のお陰だという説も出た。

長い不在
書記長は8月に入って15日に、クレムリンで古参党員との会合に出席して、経済再建とイデオロギー活動の強化を訴えるスピーチを行い、17日には米国機械工労組代表と、18日には米民主党上院議員と会談したが、このあとぷっつりと動静が途絶えた。
9月25日から予定していたブルガリア訪問が直前になって延期された時点で、西側のクレムリン・ウォッチャーは早くも、彼の健康がかなり悪化したものと推測した。同月28日、南イエメン元首と会談したと報じられたが、どこで行われたかは明らかにされず、写真も発表されなかった。
その後、11月の革命記念日の祝典、12月の党中央委総会・最高会議にも欠席したことで、重病、重病説が真実味を増したのが、ソ連の公式筋は一貫してそれを否定し続けた。たしかにこの間、アンドロポフの名でしきりにインタビューや声明が発表され、反核・平和団体の呼びかけに対する返書も少なからず新聞に出た。
10月29日に国営タス通信が、モスクワで開かれた世界医学者会議に書記長が「カゼのため」出席できなかったと簡単に報じたが、その後11月から84年1月にかけて相ついで来日したアルバトフ・アメリカ・カナダ研究所長やトルクーノフ・イズベスチア社長、コワレンコ党中央委国際部次長らはいずれも「書記長は間もなく執務に復帰する」「党中央委総会で演説する」「姿を現すであろう」などといい張った。このころモスクワではやったというアネクドートがある。「アンドロポフがとうとうギネスブックに載ったらしい。なぜか分かるかね」「カゼの世界最長記録だよ」。84年3月に行われることになったソ連最高会議代議員の選挙に、アンドロポフはモスクワから立候補し、1月27日、プロレタリア選挙区の選挙管理委員長にメッセージを寄せた。


秘密裏の死亡
1月24日にはインド訪問を予定していたウスチーノフ政治局員・国防相が突然、訪問を延期した。アンドロポフ重態説が高まった。すかさず“ソ連筋”から「ウスチーノフ自身の急病による」との情報が流された。2月6日、ヘルシンキ訪問中のザミャーチン党中央委国際情報部長は、書記長が現在多くの仕事をこなしていると言明し、「新聞に発表された多くの書簡、インタビュー、アピールなどからもそれが分かるだろう」と明快に語った。「党・政府指導部に近いきわめて信頼できるソ連筋」も7日、書記長は「順調に健康を取り戻しており、規則正しく執務していることを、百パーセント保証する」と語ったという。
8日になると、アリエフ第一副首相が同月前半シリアを訪問すると公表された。ウスチーノフのインド訪問中止が書記長の病状と関係のないことを示唆するものとみられた。翌9日午後4時50分、アンドロポフは死んだ。
秘密警察の長官だった男らしく、彼は死の直前までその危篤状態を世界の目から隠し通したのである。隠すだけでなく、逆の情報をバラ撒き続けたのだ。KGBのいわゆるディス・インフォーメーション工作(旧日本陸軍などで行った”欺騙工作“)の手練のほどをみせたともいえるだろう。
公式発表は10日午後2時24分になされ、アンドロポフが「長い病気のすえ」死去したとし、医学的結論は、アンドロポフが「慢性腎不全によって複雑化した間貫性腎炎、腎硬化症、二次的高血圧症、糖尿病」にかかっており83年2月から人工透析によって「満足すべき体調と執務能力」を保っていたが、1月末、「内部諸器官におけるジストロフィー的変化および進行性高血圧症によって容態が悪化し、心臓・血管性不全性の現象が強まり、呼吸が停止した」と述べていた。アンドロポフの病気については、大筋において西側クレムリン・ウォッチャーの“診断”が当たっていた。
志半ばの退場
ともあれアンドロポフは、前節でみたようにブレジネフ18年の間にひろがり、しみついてしまった経済の活力喪失、汚職と不法といったさまざまな社会の澱を一掃すべく、果敢に立ち向かった。そして、経済の活性化や規律と秩序の立て直し、沈滞した人事の刷新などに初歩的な成果をあげたといってよい。しかし、書記長在任15ヶ月、そのうち6ヶ月の不在では、あまりにも短かった。せっかく党内基盤を固めて、いざこれからというときの挫折だった。志半ばにして、早すぎる退場を余儀なくされたのである。


VIII  暫定チェルネンコ政権
敗者復活
アンドロポフの死が公表されて7時間後の10日午後9時半、チェルネンコ政治局員・書記が葬儀委員会に選ばれ、14日に赤の広場でアンドロポフの葬儀が行われることが公表された。2日おいて13日午前10時から党中央委臨時総会が開かれ、旧ブレジネフ人脈に属するチーホノフ政治局員・首相の推薦を受けて、チェルネンコが「全会一致」で書記長に選出された。このときチェルネンコはすでに72歳、アンドロポフの68歳を抜いて、党史上最高齢での書記長就任である。年齢からみて、当初から暫定政権を運命づけられていた。
ナンバー2を堅持
ブレジネフ後継争いのどたん場でアンドロポフの追い上げに敗れたチェルネンコだったが、追放されることもなく、しぶとく生き残った。書記長になったアンドロポフの後を襲って、イデオロギー・国際共産主義運動を担当した。
82年11月の最高会議では、連邦会議外交委員長に選ばれた。米国の上院外交委員長にも匹敵する職であり、かつてスースロフ・アンドロポフが占めたポストである。この最高会議で、チェルネンコを名誉職の色彩の強い最高会議幹部会議長にタナ上げしようとする動きもあったといわれる。チェルネンコはそれを断って、あくまで実質ナンバー2の地位を保って後日に備えたのかも知れない。
この最高会議での正面ヒナ壇最前列には、右からアンドロポフ、チーホノフ、チェルネンコ、ウスチーノフ、スースロフ、キリレンコ、チェルネンコの順だった。スースロフが占めていた席にチェルネンコが坐ったわけである。チーホノフが首相として代表しているとすれば、チェルネンコは党内第2位の地位にあることを示したのだ。
83年4月22日のレーニン生誕113記念式典、メーデー祝賀行事にチェルネンコは姿を見せず、「軽いカゼ」との説明がなされたが、6月1日、ペリシェ政治局員・党統制委議長の告別式には2ヶ月ぶりに姿を見せた。

イデオロギー総会で主役
同月14日に開かれた党中央委イデオロギー総会でチェルネンコが「党のイデオロギー活動・大衆政治活動の当面の諸問題」という長大な報告を行ったことはすでに述べた。イデオロギー問題は若いときからチェルネンコが得意とし、経験を積んできた分野だけに、報告の内容には重厚なものがあった。この報告でチェルネンコは、5回にわたってアンドロポフの言葉を引用し、「アンドロポフ書記長の発言は国際世論に深い影響を与えている。その発言の根拠の深さ、原則性、落ち着いた確信にあふれた調子はホワイトハウスの無責任で好戦的な発言とは鋭い対照をなしている」とも述べてアンドロポフを賞賛した"恭順“の意を表したものであろう。
アンドロポフも前にふれたように短い結語演説を行ったが、この総会での主役はむしろチェルネンコで、その健在ぶりが示されたといってよい。
残存した党内基盤
すでにみた通り、アンドロポフがKGBや軍、外務省、イデオロギー官僚などを権力基盤としていたのに対して、チェルネンコは、もっぱら党組織を足場にしていた。
1965年以来、"人事のブレジネフ“といわれた元書記長の下で、総務部長、党活動担当の書記、さらに書記長代理格の政治局員として足かけ18年間も党の人事を左右してきた実績がある。その人脈は、当時1811万人にふくれ上っていた党員、510万の党機関員(アパラチキ、うち40万人は党務専従)のなかに深く根をおろしていた。
ブレジネフ=チェルネンコ体制の下で長期間、党のエリートの座を占めて特権を享受してきたアパラチキたちは、アンドロポフが急ピッチですすめた網紀粛正キャンペーンで、その身分に対する危機感を強めていたに違いない。政治局員として地域を代表しているシチェルビツキーー・ウクライナ、クナーエフ・カザフ、グリシン・モスクワ市の各党第一書記らも、その子飼いの配下たちが、アンドロポフのペースで急速に排除されてゆくことに不安感を抑え切れなかったであろう。アンドロポフによる”追放“をどうにか免れてきたアパラチキたちは、次の政変では、保身のために結束してチェルネンコ擁立を期していたに違いない。
ところが、ブレジネフは急死だった。広大なソ連各地に分かれて、党務に当たっていたこれらアパラチキが、相互に連絡を取り合い、チェルネンコの下に結集して意思表示をする時間的余裕はなかったであろう。この間にアンドロポフと気脈を通じたウスチーノフ国防相やグロムイコ外相が政治局会議で電光石火、アンドロポフ後継を決めてしまったものとみられる。ソ連全土からモスクワの党中央委臨時総会に駆けつけた多くのアパラチキは、政治局の名で突きつけられた提案を呑むほかはなかったのではないか。
しかし、チェルネンコ登場前の情勢は、大きく異なっていた。なによりもアンドロポフの死は急死ではなく、半年もかかった穏慢な死であった。前回はなすところなかったアパラチキも、今回は十分に対応策を練っていたのであろう。大胆な推測をすれば、アンドロポフの退場が避けられぬ状況になったとき、ソ連全国のアパラチキからチェルネンコに続々と支持と激励の電報、電話が届いていたのではないか。彼らは中央委員会内の最大の勢力として、チェルネンコ推戴の線で政治局に働きかけたのではないだろうか。
アンドロポフが「綱紀粛正、生産性向上」を大義名分として、他方・州レベル以下の党組織の幹部のいっせい改選キャンペーンを展開してチェルネンコの権力基盤に切り込み、地方・州第一書記の約20%を更新したことは前に述べた。キャンペーンがはじまったとき、ノーボスチ通信は、地方幹部の25-40%が改選されるとの見通しを流していたが、結果はかなり低目に終わった。旧ブレジネフ人脈がしぶとく抵抗して生き残りを策したものと思われる。またこのキャンペーンを発動するのとほとんど同時にアンドロポフが病床に伏して、自らキャンペーンの先頭に立てなかったことが、この結末をもたらす一因となったかもしれない。
いずれにせよ、ブレジネフとチェルネンコが18年かかって作り上げた膨大なアパラチキの人脈は、アンドロポフの15ヶ月をもってしては、突き崩せなかったのである。そうして、1度は権力闘争に敗れたチェルネンコが甦ったのだ。“敗者復活”は、中国では鄧小平の例があるが、ソ連ではきわめて珍しいケースである。しっかりとアパラチキを握ったものは強いということであろう。
中央委臨時総会でチェルネンコを新書記長に推す演説をした故ブレジネフの腹心、チーホノフ政治局員・首相は、特に、チェルネンコの「幹部に行動な要求を提起しながら、しかも好意的に接する態度」(傍点筆者)に言及した。アンドロポフは幹部にきびしかったが、チェルネンコは寛大だといっているわけである。チェルネンコとアパラチキとの“温かい関係”を示唆するものであろう。
きわどい決意
慣例に従えば、アンドロポフ死去の翌2月11日に中央委臨時総会が開かれ、新書記長選出の段取りになるはずだった。ところが実際に総会が開かれたのは13日だった。4日にウスチーノフが訪印を取り止めたときから、政治局はすでにアンドロポフ後継問題が浮上していたとみなさなければならない。米誌「ニューズウィーク」は、アンドロポフ死後の政治局会議では、後継問題をめぐって12人のメンバーが一時、6対6に割れ、なかなか決着がつかなかったと伝えた。政治局内で長時間チェルネンコ支持派と反対派との暗闘が続いたことは十分に察知できるのである。

不安の門出
書記長に選ばれたチェルネンコはしかし、健康の不安に悩まされていた。ブレジネフの“副官”として忙しく立ち働いていたころ、「彼は頭痛というものを知らない」(『ニューズウィーク』誌)といわれたほど頑健だったが、ボスが去り、ライバルのアンドロポフとの権力闘争に敗れたころから、健康の衰えがめだってきた。チェルネンコの門出には、不安の影がつきまとった。
肺気腫
1984年2月14日、赤の広場でアンドロポフ前書記長の葬儀が行われた。棺にフタがかぶされるとき、その前に並んだチーホノフ、グロムイコ、チェルネンコの3人がそろって挙手の礼をした。ところが、チェルネンコの右手がすぐに下がりはじめた。思い直したように再び手を挙げたが、また下がりはじめる。チェルネンコは頭をかしげて手の位置を追ったが、とうとう手をおろして敬礼を止めてしまった。弔辞のテキストを懸命に読んだが、せき込んだり、息を切らしたりで語尾が明瞭でない。きわめてぎこちない弔辞に終わった。
チェルネンコの健康の不調はすでに、だれの目にも明らかだった。葬儀に来賓として参列したオーエン英社民党首(元外相で医師でもある)は、「書記長は、肺気腫を患っていると思われる。これはたちの良い病気ではなく、心臓疾患になりやすいものだ」と語った。この"診断“が間違いでなかったことは、後で分かることになる。
華々しい演説
チェルネンコは3月2日、ソ連最高会議選挙の有権者集会で演説したが、無残な出来ばえだった。50分の演説中、30回近くいい直しをした上、重要な米ソ軍縮交渉のくだりで、原稿を何枚か一緒にめくってしまい、30秒ほどあれこれ原稿をまさぐって、演説を中断し、結局いくつかの項目を飛ばしてしまった。話しぶりは原稿の棒読みで、語尾が消える上に、息切れが激しく、水を10杯も飲んでノドを潤し、下を向きっぱなしという痛々しい有り様だった。
アンドロポフの葬儀といい、この演説といい、チェルネンコの前途多難を思わせるものがあった。このころすでに、モスクワの市中ではこんな痛烈なアネグドートがささやかれた。-死んだアンドロポフが、あの世でブレジネフに会った。
「やあ、アンドロポフ君、しばらく、ところで、わしが机の上に忘れてきたメガネを持ってきてくれたかね」「すみません、忘れました。でも、もうすぐチェルネンコが持ってきてくれますよ」


政策の継承
チェルネンコ政権の内外政策は、基本的にはブレジネフ、アンドロポフのそれの継承だった。中央委2月総会での就任演説で、チェルネンコは「ユーリー・ウラジーミロヴィチ(アンドロポフ)の指導下ではじめられた仕事を継続し、集団的努力で前進させること」を強調した。アンドロポフが始めたことといえば、まず何よりも網紀の粛正と規律の強化だが、チェルネンコもこの「引き締め」政策を踏襲することを明らかにした。
引き締めの続行
「秩序の問題は、われわれにとって重要な、原則的な問題である。これについて2つの意見はあり得ない。あらゆる種類のだらしなさ、無責任が社会に与えるのは、物質的損失だけにとどまらない。それらは重大な社会的、道徳的損失をもたらす。・・・国家規律を高め、社会主義的適法性を強化するために党がとった措置が、真に全国民的承認を得たのは全く当然である」とチェルネンコは述べた。そして「同志諸君、ここで手をゆるめることは絶対にあってはならない」といい切った。ソ連の労働者は引き続き職場規律をやかましくいわれ、企業幹部は生産計画の完遂をきびしく要求されることになった。
アンドロポフ政権下で、1983年度の国民所得は前年3・1%、工業生産は4%、農業生産は5%それぞれ増大するという数年みられなかった好成績をあげ、さらに84年1月には工業生産が前年同月比5・2%伸びた。ブレジネフ末期に低落の一途をたどっていたソ連経済の伸び率が上向きに転じたのである。これは同政権の網紀・規律引き締め政策によるところが大きいとみられた。チェルネンコが「ここで手をゆるめてはならない」というのも当然であった。ただし、党組織を権力基盤とするチェルネンコが網紀や規律の厳正化をどこまで党アパラチキに要求することができるか。現場の労働者、企業幹部、さらに政府官僚ばかりが締め上げられ、党アパラチキの責任は二の次にされるのではないかともささやかれた。果たしてアンドロポフ時代に比べて、閣僚や党幹部の更迭はめだって少なくなった。
経済改革も継続
アンドロポフ政権によってはじめられた経済管理システムの改革も、新政権が引き継いだ大きな課題だった。なかでも84年1月からはじまったばかりの企業の自主性拡大の実験のゆくえが注目された。前述した通り、全連邦レベルと共和国レベルの5つの工業省の管理下企業について、往来中央が押し付けていた経営指標の数を減らし、生産計画や利潤配分、技術革新の面で大幅に企業の自主裁量権を認めて、企業活動の効率化、活性化をはかろうというものである。チェルネンコ指導部はさらに84年7月からロシア共和国内の8つの自治共和国、地方、州の」生活サービス企業について同様の実験を開始した。
この実験についてチェルネンコは、思いのほかに大胆で積極的な姿勢を打ち出した。「経済構造の更新は責任重大なことだ。7回測って1回切れ、という昔ながらの賢明なルールを守るのも悪くはあるまい。しかし、これは変化した条件や生活の新たな要求を全然考慮に入れようとしない人を、少しも正当化するものではない」-書記長就任演説でチェルネンコはこう指摘して、「必要とあれば冒険に踏み切るべきだ」と経営幹部に激を飛ばしたのである。
党と国家機関の分離
このような経済改革を促進する前提条件の形で、チェルネンコは“党機関と国家機関の機能の分離”と“大衆の声を汲み上げ”の必要性をとくに強調した。就任演説で彼は、「党委員会の機能と国家機関、経済機関の課題を明確に区別し、そられの活動の重複を排除すること」が、政治的意義をもつ大きな問題であると述べた。
そして「ソビエト(各級権力機関)省、企業の働き手が自主性を発揮せず、彼ら自身の解決するべき問題を党組織に転嫁しているサービスがたびたびある」と指摘する一方、「党委員会が経営幹部の機能を代行するやり方は、幹部たちをしらけさせ、政治的指導機関としての党委員会の役割を弱めるおそれがある」と批判した。たしかに、専門的知識、経験をもつ国家機関や企業のテクノクラートが何事によらず党機関の政治的・イデオロギー的指導を仰いでいては、近代的な行政運営や効率的な企業管理はおぼつかない。しかも、党機関と国家機関の機能の分離は、レーニン以来、ソ連指導者がくり返し強調しながら、どうにもならなかった難しい問題である。チェルネンコがこの宿題を解けるかどうかが注目された。
大衆の声を聞く
チェルネンコはまた、就任演説で、党の政策を何よりもまず、「働く人たちの生活に根ざした」直感や判断と照らし合わせることが必要だとし、党指導者は、「社会主義建設の最先端から伝わってくる言葉」に耳を傾けなければならないと力説した。チェルネンコはかねてある種の“草の根民主主義者”と評価されており、1979年に党中央委に大衆からの手紙を受け付ける「投書部」が新設されたのは、彼のイニシアティブによるという。チェルネンコは大衆の声に依拠して「引き締め」と「改革」をすすめる意思を明らかにしたわけだ。組織の活性化へ
3月4日、ソ連最高会議選挙が行われ、第111会期の招集を控えた4月10日、党中央委総会が開かれ、チェルネンコは内政を中心にした報告を試みた。このなかでチェルネンコは、当面の最大の課題が国民の潜在的エネルギーの有効な利用にあるとし、それを妨げている組織上の問題を解決することが重要だと強調した。特に最高会議をはじめとする各級ソビエトが、経済の建設や国民生活の改善の間でその可能性を十分に利用していないと批判し、ソビエトは「形式的」に(決定や法令を)布告するだけでは不十分)で、「規則的、日常的な管理によって実践的に調整、点検を行う」ことが必要だというレーニンの考えを引用した。とりわけ各級ソビエトの常設委員会が、国民経済の要求に機を失ぜず反応し、ソビエトとその執行機関が正当な経済的決定を打ち出すのを助け、これらの決定の遂行状況を系統的に監督することを要求した。
また経済管理システムの問題にふれて、「われわれは国民経済の管理システムの全面的な改善に着手し、経済活動の新しい形態と構造を探求している。だが、新しいものは探求は必要だが、当然ながらそれは、われわれの現在もっている管理制度、なによりもまず、ソビエト諸機関のより効果的な利用を忘れたものであってはならない」と述べた。ここでは「改革」ではなく「改善」がいわれている。つまり、抜本的な経済管理制度の改革は行わず、現存する制度の活性化をめざすことが示されている。これはアンドロポフ時代に、大胆な経済改革によって、自己の経済指導権が縮小されるのではないかとおそれた党官僚層を安堵させるものでもあったろう。ソビエトの活性化を説いたチェルネンコはまた、党がソビエトを通じてその指導的役割を実現することをも指摘しているのである。その基調の上にチェルネンコは行政機関の肥大化を拝し、管理業務の組織と技術装備を不断に改良する必要を述べて、「デスクから工作機械への人員の移動」がスムーズに行われる条件を整えるよう呼びかけた。
総じて経済管理の問題に対するチェルネンコの態度には、安定第一の保守主義―ブレジネフと共通するものーがうかがわれた。


新しいイニシャチブも
チェルネンコが登場したとき、老齢のせいもあって、新味のない保守的な党官僚という評判がもっぱらだった。英紙『ザ・タイムズ』は「書記長として、人をわくわくさせるような人物ではない」と冷たく、フランスの『ル・モンド』は「改革に対して正統性を守る厳しい番人であり、昨年6月に党中央委で行った(イデオロギー問題に関する)演説は、偏狭な保守主義を示す記念碑と見られるものである」とこき下した。しかし、チェルネンコは、前任のアンドロポフには見られなかった新しい政治スタイルを、さりげなく示しはじめた。

家族関係を公開
チェルネンコが書記長に選任されてから6日後の2月19日、党機関紙『プラウダ』の最終面に「試練に耐えたレーニン主義者―M・A・サヴァリエフ生誕100周年に寄せてー」と題した顔写真付きの大きな記事が載った。歴史学博士候補A・ソロポフと哲学博士候補E・チェルネンコの共同執筆である。その要旨を伝えたタス通信は、後者をエレーナ・チェルネンコとフルネームで報じた。新書記長の身辺に の目鷹の目の西側特派員たちが、これを見逃すはずはない。たちまち活発な取材活動を展開して、エレーナ・チェルネンコが新書記長の娘であることを突き止め、全世界に報道したのである。
ロイター電によると、エレーナさんは党中央委付属マルクス・レーニン主義研究所の上級研究員として、既に10年以上勤務していることを、同研究所当局が確認したという。
エレーナさんが執筆を分担したM・サヴァリエフ(マクシミリアン・アレクサンドロヴィッチ・サヴァリエフ、1884-1939)は、歴史家兼作家であり、1930年代に党中央委付属マルクス・エンゲルス・レーニン研究所の副所員だった人物。その生涯と業績は改めて『プラウダ』紙上で紹介され、賞賛されるほどのものとは言い難い。この記事は、新書記長の娘を世間に知らせるためのものだったと思われた。掲載日が、多くの人に読まれやすい日曜日だったことや、プライベートなことについては、いつも「知らない」と突っぱねる公式筋(この場合はマルクス・レーニン主義研究所)が、確認を与えていることも、この記事が書記長PR作戦の一環だったことを示唆していた。
西側特派員たちは、さらに突っ込んで書記長の家族関係を消息筋から聞き出した。チェルネンコは1943年からモスクワの党中央委付属高級党学校に在学中、少し年下のアンナ・ドミートリエヴナさんと知り合い、1945年に卒業して結婚した。モスクワ北東のベンザ市に移ってベンザ州党委書記を務めているときに前記のエレーナさんを儲け、翌年、もう1人の娘ヴェーラさんが生まれたという(『ボルチモア・サン』紙)。また、夫人は60歳代、健康で芝居と映画を好み、ときどき他のクレムリン首脳の夫人たちのために私的な映画鑑賞の集いを催したりすることなども分かった。さらに子息がいて、名前はウラジミールと言い、年齢は30歳代後半。国営の映画製作機関「ゴスキノ」の幹部で、ピアノとバンジョーを弾き、西側のポップ・ミュージックやハードロックを好むと報じられ、さらに前夫人との間に出来た子息も1人いて、シベリアのトムスク市で宣伝部門の仕事をしていると伝えられた(『タイム』誌)。
こうした情報が、西側の取材活動に応じて流されたあと、3月4日の最高会議代議員選挙の当日、チェルネンコは投票所にアンナ夫人を伴って、報道陣にたっぷり写真を撮らせたのである。報道関係には事前に連絡があり、写真撮影の場所も定められていたという。新しいトップ・リーダーが登場して、すぐにその家族関係が、職業や趣味を含めて明らかになったわけだ。レーニンは別格として、ソ連史上初めてのケースである。アンドロポフ前書記長が永年「男やもめ」とされ、死去の際にもなお「夫人は9年前に死亡」などと伝えられながら、葬儀の日になって未亡人が姿を現したのと比べると、大きな様変わりと言わねばならない。
未公開の数字も
一方、チェルネンコは3月2日、最高会議代議員選挙を前に、モスクワ市クイブイシェフ選挙区の有権者集会で演説し、その中で昨年の穀物生産量が1億9千万トンだったことを初めて明らかにした。ソ連では毎年、1月末か2月初めに前年度の国民経済の実績が中央統計局から公表されるが、穀物不作の年には具体的な数字は伏せられる。「天候不順のため若干の収穫の減少を余儀なくされた」とか、「悪い気象条件にもかかわらず、国家調達量を達成した」とか、抽象的な文章で埋められるのが通例だった。
米農務省などの推定では、2億3千万トンの目標を大きく下回る2億トンと見積もられていた。チェルネンコは、西側の推定にも及ばない実績だったにもかかわらず、あえて穀物生産の数字を出したのである。
このような一連の動きは、公私を問わず、ありのままの事実を国民に明らかにして、そこから出発しようというチェルネンコの姿勢を示唆するものだった。ソ連国家の創建以来、とりわけスターリン以後の指導者がとかく「知らむべからず、依らしむべし」の政治スタイルを固持してきたのに対して、チェルネンコは一味違った。“開かれた政治”を目指しているように思われた。老練なこの党官僚は、案外“新しい風”をクレムリンの密室に導き入れるかもしれないという見方も1部ではなされた。

指導者の強化が課題に
その経歴から分かる通り、チェルネンコは政府や軍、KGB関係の仕事に1度も就いたことがない。わずかに1930年代の青年時代、兵役を志願してKGB系統の国境警備軍に勤務しただけである(一説によると、1930年代半ばごろKGBの前身である内務人民委員部(NKVD)に務め、ウクライナでの農業集団化の強行、富農の弾圧にすご腕を振るったともいうが、確認されない)。党が策定する路線と政策を実現するには、政府をはじめ軍やKGBの協力が欠かせない。チェルネンコには党の権威を背景にこれら3者の指導に取り組むことが課題となった。
政府に足がかり
チェルネンコにとって幸いなことに、政府の長は同じブレジネフ人脈に連なるチーホノフ首相だった。政治局員全員が一致してチェルネンコを書記長に推したという公式発表からすれば、かつてアンドロポフを支持したグロムイコ第一副首相・外相、ウスチーノフ国防相らの実力者もアンドロポフ死去の段階ではチェルネンコ支持に回ったものとみられた。アリエフ第一副首相はアンドロポフによって登用されたが、もともとはブレジネフによって見いだされた人材である。残る1人の第一副首相、アルヒポフもブレジネフ系であり、政治的野心のない経済問題のエキスパートとしてチェルネンコの補佐に当たることが期待できた。
前述のように、チェルネンコはKGBとの関係が薄い。しかし、かつて書記として国家機関全般を監督していたとき、党中央委の行政機関部を通じて人事、予算面でKGBにかかわってきたといわれる。
国防会議議長に
チェルネンコは、第二次大戦中もクラスノヤルスク地方で党活動をしたり、モスクワの党中央委付属高級党学校で勉強したりしていて、この世代の男性には珍しく従軍の経験がない。軍の階級ももっていない。しかし、チェルネンコは永年、書記として中央委の行政機関部を指導してきた。同部は前述のように、フルシチョフ時代に、党が軍とKGBを人事、予算の面から統制するために創設された機関である。いわば党の軍に対する“お目付け役”だ。1968年以来、行政機関部長を務めるニコライ・サヴィンキンはレーニン記念軍政治大学卒の政治将校で、軍内では第一国防次官、政治総本部長の次、各軍総司令官の上にランクされる地位にあり、チェルネンコは第一国防次官、政治総本部長の次、各軍種総司令官の上にランクされる地位にあり、チェルネンコはサヴィンキンの上司として、軍関係の会議や式典には必ずサヴィンキンを従えて臨席し、党の立場から軍を統制しているのが自分であることを示してきた。政治家としてのチェルネンコが、これまで軍と全くつながりがなかったとも言い切れないのが真相だった。
84年2月23日、ソ連軍建軍記念日に因む談話でオガルコフ参謀総長は、チェルネンコが早くも国防会議議長に就任していることを明らかにした。党書記長の権威においては、彼はソ連軍の軍政・軍令の最高責任者になったのである。またウスチーノフ国防相は同月24日、国防省活動家(アクチブ)集会で演説し、チェルネンコの書記長選出が「軍の党員、ソ連軍全将兵によって支持された」と述べた。
だが、何といっても、ブレジネフが第二次大戦でのベテラン政治将校であり、アンドロポフが同じくフィンランド戦線で正規軍の工兵将校だったオガルコフと提携しながらパルチザン作戦を指導した経験があるのに比べて、チェルネンコには軍との“血のつながり”がない。軍の最高のポストを兼ねたものの、膨大な職業将校団の信頼と心胆を獲得するのはなお残された課題とみられた。
国家元首を兼ねる
書記長就任後の初の党中央委総会が4月10日開かれたが、党内人事は一切なかった。チェルネンコの権力がまだ十分固まっていないことを示唆するものとみられた。しかし続く最高会議では最高会議幹部会議長に選出された。アンドロポフがこのポストに就いたのが、書記長選出7ヵ月後だったのに対して、チェルネンコはわずか2ヶ月後である。これでチェルネンコは党、軍、国家の最高ポストを一挙に握ることになった。案外早い全権掌握だった。
推薦演説は、すでに党内序列ナンバー2に上がっていたゴルバチョフ政治局員・書記が行い、「党書記長が同時に幹部会議長を兼ねることは、ソ連の対外政策の遂行にとって大きな意義をもつ。国際舞台において党書記長が最高の国家的利益を代表することは、ソ連の対外政策が党の路線と分かち難いという事実を、はっきりと反映している」と述べ、チェルネンコを「共産主義と平和の不屈の闘士、傑出した政治的、組織的手腕、豊かな人生経験をもつ老練な指導者、レーニン主義者」と賞賛した。
チェルネンコがすんなりと国家元首に納まったのは、もし他の長老政治局員、たとえば下馬評に上っていたグロムイコ外相やウスチーノフ国防相を元首に転出すれば、その後任補充の人事を行わなければならなくなり、政治局内の権力バランスが崩れるためとも解釈された。いずれにせよ、政治局、さらに書記局の人事が手詰まり状態だったことは間違いなく、このあと10月に開かれた党中央委総会でトップクラスの人事は一切なかった。ブレジネフ末期の人事の停滞を思わせるものがあった。

参謀総長の解任
チェルネンコは重要人事を断行する力に欠けると思われていたが、84年9月6日、突如としてソ連軍の制服組のトップにいた参謀総長オガルコフ元帥を解任した。オガルコフは、欧州で戦争が起こった場合の中央戦闘司令部最高司令官に任命された(英軍事誌『ディフェンス・ウイークリー』)ともいわれたが、欧州正面についてはすでに、ワルシャワ条約機構総合軍司令部(総司令部はソ連第一国防次官グリコフ元帥)が存在しているし、たとえ英誌のいうような新職務が与えられたとしても、降格であることに変わりはない。
第二次大戦の勇将であり、軍のエリートコースをまっしぐらにかけ登り、次期国防相候補ナンバーワンと目されていた。まだ66歳の働き盛りのオガルコフが、なぜ解任されたのか。背後に党と軍の対立があったと考えざるを得ない。少なからぬ状況証拠がそのことを示唆していた。
同じ年の5月9日、オガルコフは国防省機関紙『赤い星』のインタビューに答えて「戦後の軍事の進歩と変化」について談話を発表し、“核全面戦争不可能論”を唱えた。米ソ両核大国が、一方が先制攻撃しても破壊的な報復攻撃を免れないことを認識している現在、米国の中距離核ミサイル(INF)の欧州配備も、ソ連への先制攻撃のチャンスを増大させるものではないという趣旨を述べ、このような核手詰まり状態の下では、最新の通常兵器による戦争の可能性が大きく、米国はそのような兵器開発に努力していると指摘して、暗にこの分野でのソ連の立ち遅れを批判したのである。
これに対してウスチーノフ国防相は5月21日の『プラウダ』で、タス通信の質問「米国中距離核ミサイル欧州配備に基づく情勢の変化」をめぐって回答し”核戦争可能論“を主張した。欧州に第一撃用の米国核ミサイルが出現した結果、核戦争の可能性が増大したとし、「ソ連およびその同盟国に対する核攻撃は、そのミサイルが存在する国土であれ、その使用を指令した国(米国)であれ、直ちにかつ不可避の報復攻撃を招くことに疑いをもってはならない」と強調したのだ。
ウスチーノフの主張は、83年12月の欧州中距離核ミサイル制限交渉の打ち切り以後ソ連がとってきた対米強攻策―長距離核ミサイルの東独、チェコへの配備や米国近海への核潜水艦配備、巡航ミサイルの実験達成などの延長線上にあり、グロムイコ外相の度々の対米強硬発言とも重なり合うものであった。そしてそれは、米国内の世論や米欧関係に一定の影響を与え、状況をソ連に有利に展開する効果をもねらったものである。ところがオガルコフ談話は、このようなソ連指導部の高度の政治的核政策に、純軍事的な立場から異を唱えたことになる。
さらに、問題の談話ではオガルコフは、新しい通常兵器の開発の必要を指摘するとともに、それに伴って戦闘方式や国家の軍事力のあり方が根本的に変わるだろうと強調したが、これは軍事予算のあることを批判したものとも読み取れた。そうとすればオガルコフは、1976年のウスチーノフ国防相任命以来、軍に対して資金や資材、弾薬、燃料の節約を説いて止まず、核編重の軍事政策を取り続ける党指導部に対して、職業将校団の総意を代表して全面的な批判を敢えてしたといってよいのではないか。米国駐在のソ連外交筋は「オガルコフは自分の服からはみ出した(分際を越えた)のだ」と語った(『ニューヨーク・タイムズ』紙)。
オガルコフ解任は、チェルネンコ政権下での唯一の重要人事だった。チェルネンコは思いのほかの決断力で、とかく党の政策に批判がましいオガルコフを更迭して、軍に対する党の優位をみせつけた。後任にはアフロメイエフ参謀総長第一代理を昇格させたが、アフロメーエフはそれまで、その職務のゆえもあって政治的な発言は少なく、党に忠実な制服幹部とみられていた。すでに83年3月にはそのポストとしては異例のソ連邦元帥に任じられ、同6月には党中央委員候補から正委員に昇格し、84年9月にはソ連邦英雄の称号を受けるなど、アンドロポフ、チェルネンコ両政権下で、地位の向上がきわ立っていた。
オガルコフ解任のあと、チェルネンコは対米政策を大きく転換した。米国の新型中距離ミサイルの欧州への配備開始を理由に、83年末からかたくなに拒否し続けてきた米ソ軍縮交渉の再開に向けて、徐々に従来の強硬態度をやらわげていった。そして9月28日には国連総会に出席したグロムイコ外相をレーガン米大統領と会談させ、さらに85年1月の米ソ外相会談を実現して、3月12日、米ソがジュネーヴで新しい包括的軍縮交渉をはじめるまでに漕ぎつけたのである。その背景には、オガルコフ更迭で軍に対する党の指導性をみせつけたチェルネンコの政治力があったと思われる。チェルネンコはまた、ゴルバチョフ政治局員・書記ら政治局内の”ハト派“の支持を受けていたともいわれる。
84年12月20日、ウスチーノフ国防相が死去し、後任に第一国防次官のソロコフ元帥を昇格させたことも、チェルネンコの軍に対する統率力を強めたであろう。ウスチーノフは1965年以来の党中央委書記、66年以来の政治局員候補、76年からの政治局員であり、チェルネンコより古参の政治局の長老として、隠然たる勢力をもっていた。それに比べればソロコフは、戦車兵将校出身の生粋の軍人であり、68年以来の党中央委員に過ぎない。ほかの第一国防次官兼務者(参謀総長、ワルシャワ条約機構軍総司令官)と違って、67年以来、専任の第一次官としてひたすら国防相の補佐役に徹してきた地味な軍人である。マスコミに論文や談話を発表することも多くはなかった。チェルネンコにとって、国防相としてはウスチーノフよりもはるかに御し易い存在である。こうしてチェルネンコは、もともと関係の薄い軍部にも次第に影響力を伸ばし得るかにみえた。


不調と復調
84年4月の党中央委総会のあと、チェルネンコはしばらく、健康を気遣われながらも政務をこなし、夏休み後には見違えるようにエネルギッシュな仕事ぶりをみせた。
党網領改定に向けて
4月25日、党中央委新稿準備委員会の会議が開かれて、チェルネンコが網領新稿の基本的性格を明らかにする重要発言を行った。
チェルネンコはまず、現在の条件下における網領が「発達した社会主義」の改善の網領でなければならないことを明らかにした。前にふれたブレジネフの理論を継承した出発点である。チェルネンコは発達した社会主義が改善されてゆくに従って、共産主義への漸次的移行も進行すると主張する。そしてこのような立場から「われわれは、実生活が明らかにした現行網領の個々の命題と社会発展の現実の歪み、蓄積された大衆の経験との間の食い違いを取り除き、共産主義の高度の段階への移行と時期について、ある時期(傍点筆者)に幅をきかせていた安易な考え方を最終的に克服することができる」と述べた。ここで「ある時期」とはフルシチョフ主導の時期を指す。そして網領は、党がめざす展望、最終目標を明確に描き出すべきであり、そのような文書には、数字やあらゆる種類のデテールを乱用してはならないと戒めた。1961年網領とそれに関するフルシチョフ報告が、農業・工業の発展のテンポについて期限を切ったり、生産高を言及したりして、引っ込みがつかなくなった失敗にこりたものである。「発展するわれわれの社会の数量的特徴ではなく、もっとも本質的な質的特徴を明らかにすることが網領新稿の基本内容にならなければならない」とチェルネンコは述べた。
同時にチェルネンコは、問題となっているのは“新稿”(英語ではnew edition)であり、別の網領の起草ではないことを強調した。「現行網領が提起した戦略課題、共産主義建設と直接に結びついている課題は、いまのところまだ完遂されていないからだ」といい、61年網領が未達成であることを率直に認めた。「だからこそわれわれは、第3次党網領(1961年網領)の新稿といういい方をするのだ」とチェルネンコは説明した。そしてその新稿が出来上がれば、党中央委の定例総会にかけ、続いて党内での広範な審議にゆだねられるという手順を明らかにした。この委員会での発言で、チェルネンコは前年6月の党中央委イデオロギー総会での演説に続いて、理論家としての貫禄をみせた。
再び健康不安説
チェルネンコは5月28日、クレムリン大会宮殿で開かれたソ連軍コムソモール書記会議で演説したあと、またまた健康の不調をさらけ出した。6月12日にモスクワで開かれた経済相互援助会議(コメコン)の開会式で、チェルネンコは呼吸困難のため、2回にわたって演説を中止せざるを得なかったと外電は伝えた。これに関連して5月11日、スペインのカルロス国王を出迎えた際にも同様の発作に見舞われ、収まるまで2人の護衛に体を支えられていたとも、改めて報道された。
続いて6月下旬、訪ソしたミッテラン仏大統領と会談したチェルネンコは、歩くことや話をするのが苦しそうで、息をするのがやっとという印象を与えた。顔色はすっかり生気を失い、歓迎夕食会で乾杯に立ち上がることも出来ず、15分間の演説にたびたび口ごもって、ソ連人でさえ理解するのが困難だったという。ブレジネフやアンドロポフの末期に似てきたわけだ。当然、早期引退説も出た。
このようなマイナス・イメージが濃くなるなかで、チェルネンコは7月3日、訪ソしたハウ英外相と、11日には同じデクエヤル国連事務総長との会談を、ともかく済ませたあと、同月15日から夏休みに入った。

休暇後のカムバック
チェルネンコは9月4日まで、53日間休んだ。再び姿を現したチェルネンコは、少しやせてワイシャツのカラーがだぶつき、肩のあたりにやつれがうかがわれたが、顔は日焼けして赤味がさし、一見元気そうにみえた。彼は予想外に多くの仕事を片付けはじめた。
9月5日に女性宇宙飛行士サヴィツカヤさんらに勲章を授与したのを皮切りに、フィンランド首相、南、北イエメン元首、シリア大統領らとの首脳会談のほか、ギリシャ共産党書記長、グロムイコ外相への勲章授与、さらに全ソ作家同盟総会と人民統制委員全国総会での演説などをたて続けにやってのけた。その上、『ワシントン・ポスト』紙との異例のインタビューに応じて、対米軍縮交渉の再開を示唆する重要発言をし、10月17日の同紙に大きく掲載された。9月から10月にかけて新聞やテレビにチェルネンコの名前が登場する回数の多さは、フルシチョフやブレジネフの最盛期を思わせるほどのものがあった。
夏休み前からくすぶっていたチェルネンコ引退説は、10月9日に日ソ円卓会議取材の日本人記者団と会見したアファナシェフ・プラウダ編集長(党中央委員)がはっきりと否定した。「書記長の辞任はあるまい。(健康状態がとやかくいわれているが)政治家は頭脳明晣で、決断力があればよいのだ。われわれはチェルネンコ同志にはより長く働いてもらって、その経験を若い者に伝えてほしいものと思っている」と、同編集長は述べたのである。
書記長就任当初からいわれていた肺気腫や心臓病などの症状は、小康を得たかにみえた。そして健康状態の一応の安定が、書記長の政権担当への意欲をかき立てたようだった。
政治的意欲をみせる
10月23日には党中央委総会が開かれ、「食糧増産のための土地改良と土地利用の効率化に関する長期計画」を討議して採択した。チェルネンコは冒頭の演説で、「食糧問題の完全な解決のためにはまず、穀物生産量の拡大が最重要課題であり、2,3年後に需要量に見合う収穫量を挙げることが必要だ」と意欲的な穀物自給の目標を示し、西暦2000年までに潅漑と排水の設備を整えた農地を50%増加させ、穀物収穫量を1・5%倍にする長期計画を提議した。計画の詳細についてはチーホノフ首相が説明したが、総会の議論をリードしたのはチェルネンコだった。
さらに、チェルネンコが演説のなかで、第27回党大会で採択されるべき党網領改定草案の起草作業が着々とすすんでいると強調した。1961年に採択された党網領の改定問題が提起されたのは、前述のとおりブレジネフ主導下の第26回党大会(1981年)であり、それ以来、ブレジネフの側近第一号だったチェルネンコはこの問題に深くかかわってきた。もともとイデオロギー問題のベテランである上に、党の内外の全般についてブレジネフの補佐役を務めてきたチェルネンコは党網領改定には特別の熱意をもっていた。書記長就任後もことあるごとにこの問題に言及してきた。4月に党網領新稿準備委員会で演説したことは前に述べた。農業主題の10月総会で、ことさらに党網領問題にまでふれたことは、チェルネンコが次回大会で自らの手で党網領の新稿を確定することに意欲を燃やしている証左であり、体調に小康を得て、チェルネンコは遅くも86年春には開かれるはずの第27回党大会まで政権を保つことを決心したかにみえた。
勲章と称号と
9月24日の満73歳の誕生日に彼がレーニン勲章を贈られたのは意味深長だった。同勲章は60歳、65歳、70歳、75歳といった切りのいい誕生日に贈られるのが慣例であり、73歳という半端な年に贈られたのは異例である。第27回党大会開催のころ、チェルネンコは74歳の半ばであり、この大会で党網領の新稿を成立させて引退することをあり得るからこそ、75歳を待つことなく繰り上げてレーニン勲章が贈られたのではないかという見方が出た。また勲章贈呈式でウスチノフ政治局員・国防相がチェルネンコを「ソ連軍最高総司令官」の尊称で呼んだのも、老い先短い書記長の花道作りの一環かと観測された。

最後の努力
中央委10月総会のあと、年末にかけてもチェルネンコは、まずは無難に仕事を続けた。10月26日には、8月にモンゴル人民革命党書記長になったバトムンフをモスクワに迎えて会議した。11月7日には、ブレジネフ時代に長く内相を務めシチェロコフの上級大将の軍階級を剥奪する最高会議幹部会決定に署名した。
シチェロコフは、ブレジネフのウクライナ、モルダヴィア在勤時代からの腹心で、ブレジネフと同じアパートに住むほどの仲だったが、自ら汚職をしたほか、警察官一般の網紀のゆるみを招いたとして、アンドロポフ政権下で内相、党中央委員から解任されていたことは前記の通りである。軍階級の剥奪は「職権を乱用し、軍の称号を汚したため」と発表された。チェルネンコとモルダヴィア共和国党中央委の宣伝・扇動部長だったとき、シチェロコフは同共和国第一副首相だった。ともに当時の同共和国第一書記ブレジネフに仕えて“同じカマのめし”を食った仲である。にも拘らず、チェルネンコがシチェロコフの軍階級まで剥奪したのは、アンドロポフの網紀粛正の路線をあくまで継承することを示したものだった。
シチェロコフはこのあと間もなく12月13日に死亡し、モスクワ・ワガンコフスコエ修道院で、治安関係者立ち会いの上で、ひそやかに葬儀が行われた。西独の大衆紙『ビルト』によると、シチェロコフは西独の高級車メルセデスをパトカー用として購入し、うち40名を“不適格車”扱いにして親戚や友人たちに転売するなど、汚職がめだったという。チェルネンコ指導部は、彼を見せしめにするため、裁判にかける方針だったが、シチェロコフは死刑判決をおそれて猟銃自殺したとも同紙は報じた。
革命記念日の諸行事にもチェルネンコは顔をみせた。11月26日から4日間、ソ連最高会議が開かれて、1985年度の国民経済発展計画と国家予算などを採択したが、それに先立って党中央委総会は開かれなかった。きわめて異例のことである。前年末には、アンドロポフ書記長が病気療養中だったにも拘らず、総会は開かれ、書記長の「書面演説」が読み上げられている。11月に総会が開かれなかったのは、指導力がなお十分でないチェルネンコが、党政治局書記局人事、さらに経済改革をめぐる議論など、手に余る問題が持ち上がることを避けたためとみられた。
もっとも最高会議の前、11月15日に連邦構成共和国の党第一書記も参加した拡大政治局会議が開かれ、85年度の国民経済発展計画と予算案についてチーホノフ首相が報告し、チェルネンコが「長大な演説」をして、両案を「大筋において承認し」、最高会議の審議に付すことを閣僚会議に勧告している。老練なチェルネンコは、この政治局拡大会議を、中央委総会の代わりにして、面倒な問題を先送りしたようにみえる。
12月20日は、ウスチーノフ政治局員・国防相(76)が死んだ。政治局内の長老グループの有力な一員であり、アンドロポフ前政権の誕生に一役買ったとされるが、政治局内の若手グループに対しては、同じ長老組としてチェルネンコと共通の立場にあった。チェルネンコは、モスクワの労働会館で行われた同国防相の告別式には出席したが、赤の広場での葬儀には姿をみせなかった。氷点下21度という寒さのために、体調を考慮して参列を控えたのであろう。
しかも、同月28日には党中央委員・ソ連作家同盟第一書記のゲオルギー・マルコフらソ連作家への勲章授与式には出席し、スピーチを行った。こうして9月から年末まで、チェルネンコは党書記長・最高会議幹部会議長としての職務をほぼそつなく務め、政権維持に意欲を燃やしていたかにみえた。


力尽きた退場
84年秋からかなり立ち直ったかにみえたチェルネンコは、85年に入るとともに健康を悪化させ、重要な政治日程を相ついでキャンセルした。2月下旬には一時、公開の場に顔をみせたが、もはや生気がなく、3月10日に死去した。書記長就任の当初から病身を押しての仕事ぶりには、一種の悲壮感さえただよっていたが、まさに力尽きての退場であった。
ソ連圏首相会議の延期
85年1月半ばにブルガリアの首都ソフィアで開かれるはずだったソ連・東欧首脳会議(ワルシャワ条約機構政治諮問委員会)が突然、延期された。タス通信は1月15日、「相互の合意によって後日に延期された」とだけ発表したが、チェルネンコの病気のためであることは明らかだった。
チェルネンコは前年秋からハードなスケジュールをこなしてはいたが、健康の不安が消えていたわけではない。9月18日に親ソ連共産党であるギリシャ共産党のフロラキス書記長にレーニン勲章を授与したとき、同書記長のわずか3分ほどの答礼スピーチの間、チェルネンコは左手で椅子の背もたれにつかまっていた。12月中旬に訪ソした宮本顕治日本共産党中央委議長との会談でも、側近に支えられ、椅子につかまりながら席に就いて、体調が万全とはいえぬ状態だったという。
ソフィアでの首脳会談は、85年6月で有効期限の切れるワルシャワ条約の期限延長を決めるとともに、米ソの新しい包括的軍縮交渉の開始を控えて、東側の結束を固めるための重要な会議だったが、チェルネンコの健康が出席を許さなかった。

重態説流れる
1月23日には、西独社民党(SPD)スポークスマンが、2月中旬に予定されていたブラント同党党首のモスクワ訪問がソ連側の要請で無期延期になったと発表した。チェルネンコ重病説がひろがった。“ソ連筋”も書記長が病気であることを公然と認めはじめ、外務省高官は1月30日、書記長がモスクワ近郊で休養中であり、仕事は全くしていないと語った。またアファナシェフ・プラウダ編集長は、2月6日放映されたイタリア・テレビとの会見で、「私は医者ではないので、どの程度重大であるかはいえないが、チェルネンコ同志が病気だとはいえる」と言明した。
病気のカムフラージュ
一方では、チェルネンコが政治的に健在であることを示すキャンペーンも、しきりに試みられた。1月18日には、2月24日に実施されるロシア共和国最高会議選挙に、チェルネンコがモスクワ市・クイブイシェフ選挙区から立候補すると公表された。同月28日の『プラウダ』は、フランスで出版される自己の演説・論文集に寄せたチェルネンコの序文が掲載された。この前後、アサド・シリア大統領やカナダの女子学生、北欧の反戦団体、アルゼンチンの反核グループなどにあてたメッセージが相ついで発表された。
2月7日に行なわれた党政治局定例会議に関する公報は、微妙ないい回しながら、チェルネンコが会議で農業問題について発言したかのように報じた。「書記長チェルネンコ同志が政治局会議で強調したように、春の種まきをしっかり行うことは、党と全国民が第27回党大会のための準備をすすめているときだけに、今年はとりわけ重要である」という表現である。チェルネンコが7日の会談に自ら出席して発言したのかどうかは、この文面からは必ずしも明らかではない。
2月12日夜、ウクライナ共和国のドニェプロジェルジンスク市で行われた同共和国最高会議選挙の有権者集会で演説したシチェルビツキー政治局員・ウクライナ党第一書記は、「皆さんにお会いする前日、私はチェルネンコ同志と話し合った。コンスタンチン・ウスチーノヴチ(筆者注、チェルネンコの名前と父称、親愛の情をこめた呼び方)は各委の国民経済諸部門の仕事や国民の気分に関心を示し、次回党大会に向けて積極的に準備をすすめているわが共和国の勤労者の消息を聞いて満足した。・・・ドニェプロジェルジンスク市民の多幸を祈ると私に伝言した」と述べた。続いて同月15日、南ウラル・ミヤス市の選挙区でロシア共和国最高会議第議員の候補者として演説したソロメンツェフ政治局員・党統制委員会議長も、チェルネンコがミヤス市とチェリャビンスク州の市民に「熱烈なあいさつ」を託したと述べた。いずれも書記長がなお活動していることを示唆するものであった。こうした一連のキャンペーンは、アンドロポフ末期の“病気隠し”工作を想起させた。

隠しおおせぬ事実
2月12日夕刻に予定されていた訪ソ中のパパンドレウ・ギリシャ首相とチェルネンコとの会談は、その日になって取り消された。ギリシャ側のスポークスマンは、ソ連外務省がこの会談を行うことを2月10日に確認していたと述べた上で、「チェルネンコ書記長の病気のため、この会談は中止になった」と説明した。
*ゲオルギオス・アンドレアス・パパンドレウ(ギリシア語: Γεώργιος Ανδρέας Παπανδρέου [ʝeˈoɾʝios anˈðɾeas papanˈðɾeu] イェオルイオス・アンズレアス・パパンズレウ, Georgios Andreas Papandreou, 1952年6月16日 - )は、ギリシャの政治家。同国首相(2009年 - 2011年)、外務大臣(1999年 - 2004年、2009年 - 2010年)などを歴任、全ギリシャ社会主義運動(PASOK)党首(2004年 - 2012年)。社会主義インターナショナル議長(2008年 - )。
翌13日にはソ連の著名な心臓専門医でブレジネフやウスチーノフの主治医でもあったエフゲーニ・チャゾフ博士が米国滞在を中断して帰国した。2月23日、クレムリンで開かれたチェルネンコのロシア共和国最高会議代議員候補者としての選挙集会に、当の本人は欠席した。司会のグリシン・モスクワ市党第一書記が、「書記長は医師のすすめにより、この集会には出席しない」と説明し、選挙演説のテキストが代読された。“主役不在”の政治ニュースであった。ソ連国民はこの集会のテレビ放映で、はじめて公式に書記長の病気を知らされたことになる。
最後の顔みせ
その2日後、2月24日、チェルネンコはひょっこりロシア共和国最高会議選挙の投票に姿を現した。前年12月27日以来、59日ぶりの出現である。テレビによると、書記長はグリシン政治局員らと一緒に姿をみせ、選挙管理委員会の女性係員らとあいさつしたあと、床に置かれた投票箱に投票用紙を入れた。カメラに向かって手を上げるしぐさをし、女性係員から花束を受け取って、「投票日おめでとう」といい、気分はどうかと聞かれて「ハラショー(良好だ)」と答えるのが聞こえたという。しかし、顔色はすぐれず、動作も緩慢だった。投票の場所はモスクワ市内の選挙区の投票所と伝えられたが、普通は写し出される一般投票者の姿もなく、自宅または特別の部屋で投票が行われたという観測もあった。
選挙がすんで2月28日、チェルネンコは再び姿を現し、ロシア共和国最高会議代議員としての当選証書を受け取った。証書は書記長の選挙区、モスクワ市クイブインシェフ書記長補佐官らが立ち会った、グリシン・モスクワ市党第一書記、ヴィクトル・ブリプイトコフ書記長補佐官らが立ち会った。チェルネンコはこの証書伝達式で、選挙民の支持に感謝するとともに「代議員に選ばれたことは大きな栄誉であり、これに値するよう全力を尽くす」とあいさつした。この模様をテレビは約1分間だけ放映したが、チェルネンコの顔は蒼白で、立っているのがおぼつかない様子だったという。チェルネンコが公開の場に姿をみせたのは、これが最後だった。
力尽きて
その10日後、3月10日午後7時20分、チェルネンコは死んだ。73歳だった。前出のソ連保健省付属第4総務局長、ソ連科学アカデミー会員、ソ連医学アカデミー会員、E・I・チェゾフ教授をはじめとする9人の医師団の「医学的結論」は、チェルネンコが長期にわたり肺気腫を患い、それが心肺機能不全で複雑化し、さらに肝硬変によって病状が悪化したと指摘し、「肝機能と心肺機能不全の悪化により、心拍脈が停止した」と述べた。書記長就任の当初からいわれていた西側の肺気腫説は正しかったわけである。こうして政権担当わずか13ヶ月、チェルネンコは最後まで職務を遂行しようとしたが、健康が思うにまかせず、刀折れ矢尽きた形で姿を消した。


IX ゴルバチョフ時代の開幕 
スムーズな書記長選出
18年間のブレジネフ長期政権のあと、アンドロポフ、チェルネンコと高齢、病弱の書記長の下で、いずれも1年余の短命政権が続いたが、1985年3月11日、久しぶりに少壮気鋭の書記長が登場した。ミハイル・セルゲーヴィッチ・ゴルバチョフ(1931年生まれ)がっしりした体格に大きな顔の造作、鋭い眼光。若さに似ず禿げ上がった額も老成した貫禄を感じさせる。演説はよく通るバリトンで、メリハリがある。息切れがはげしくて語尾がはっきりしなかったチェルネンコとは大違いだ。クレムリンの新しい時代が幕を開けた。
素早い公表
チェルネンコ前書記長の死を受けたゴルバチョフの書記長選出はきわめてスムーズに行なわれた。3月11日午後2時(モスクワ時間)にチェルネンコの死亡が公表され、その45分後にゴルバチョフの葬儀委員会選出が決まり、さらに4時間15分後には党中央委臨時総会で書記長就任が確定した。チェルネンコのとき、それぞれ5時間、4日後だったのに比べて、驚くほどの素早さである。
フルシチョフの死をはじめ、『イブニングニュース』(ロンドン)の特派員として数々のクレムリン情報をスクープしたソ連人ジャーナリスト、ヴィクター・ルイスは、またもや公式発表に先立ってチェルネンコ死亡を打電したが、特ダネになる間もなく、公式発表が追いついてしまったという。また、チェルネンコがまだ生存中の3月9日に党中央委臨時総会の招集が決まり、中央委員を兼ねる外国駐在の大使たちは、同日午後には早くも続々と任国を離れてモスクワに向かったともいわれる。チェルネンコの病状が絶望的とみた政治局が、権力の空白を避けるために取った早手回しの措置だったのだろうか。
なされていた合意
中央委臨時総会では「政治局の委託により」グロムイコ政治局員・外相がゴルバチョフを書記長に推薦するスピーチを行った。グロムイコは「固い信念を持ち、底知れぬ聡明さに恵まれ、物事の本質を素早く的確に理解する。しかも問題を分析するだけでなく、優れた結果を導き出す」とゴルバチョフの資質を称賛し、政治局が全員一致で書記長に推挙したと述べた。これを受けて総会も、全員一致でゴルバチョフの書記長就任を承認した。
ソ連では政治局や中央委総会の決定は、つねに「全員一致」として発表される。しかし、それは最終的な形としてのそれであり、全員一致に到達するまでの過程では激論が闘わされることも当然である。チェルネンコ前書記長選出も全員一致だったが、決定までに長い時間がかかったことは、政治局内でなかなか意見がまとまらなかったことを示している。ゴルバチョフの場合は、はじめから額面通り全員一致の合意があったと思われる。決定までの時間的早さが、まずそれを物語っている。さらにグロムイコは、珍しくメモももたずに、推薦スピーチをしたと報じられた。本当に政治局内に異論がなく、全員の意思統一があったればこそ、彼は一言一句にわずらわされることなく、気楽にスピーチができたのであろう。

挫折を知らぬキャリア
ゴルバチョフは、グロムイコのほめたような持ち前の資質もさることながら、幸運にも恵まれて、順調に出世してきた人物である。書記長に登りつめるまで、彼のキャリアには挫折がない。
ブレジネフは57歳で党第一書記(当時)になったが、中央委幹部会員候補(政治局員候補)・書記を解かれて、陸海軍政治総本部第一次長に大幅格下げされるというつまずきを経験している。アンドロポフが68歳、チェルネンコが72歳で書記長に就任したことは、2人の下積み時代が長かったことを示している。ゴルバチョフの書記長選出は、彼が満54歳の誕生日を迎えて9日後だった。ソ連史上、レーニン、スターリンを除いてもっとも若い書記長就任である(スターリン死後、その首相職をついだマレンコフは51歳だったが、正式に書記長のポストには就いていない)。
ゴルバチョフは、郷里のスタヴロポリ地方で15歳のときから機械・トラクター・ステーション(MTS)の作業員として働いたが、共産主義者同盟(コムソモール)での活動が認められ、党から推薦されて国立モスクワ大学法学部に学んだ。それ以後、彼はエリート・コースをまっすぐにすすんだのである。
知的エリートとして
ゴルバチョフは1955年、モスクワ大学法学部を卒業した。しかもその後、ソ連有数の農業地帯、スタヴロポリ地方の党幹部として働いたとき、通信教育で1967年にスタヴロポリ農業大学を卒業している。文科系と理科系両方の素養を兼ね備えているのだ。
このような教養人は歴代のソ連指導者のなかでも珍しい。カザン大学に学び、弁護士の資格も取ったレーニンは別格として、スターリンはトビリシの神学校を卒業、フルシチョフはウクライナの炭坑で働きながらドネッツク工業大学労働者課程を修了し、ブレジネフはウクライナの測量専門学校と冶金大学を卒業した程度である。西側でもしきりにインテリともてはやされたアンドロポフも、ボルガ河の河船の船頭を養成する水運技術学校を了えただけで、当の中堅幹部になってからペトロザヴォーツク大学の通信教育を受けたが、卒業したかどうかはさだかでない。
チェルネンコに至っては、帝政末期、少年のころから富農に雇われて農作業をしたといわれるから小、中学校も満足には卒業していなかったかも知れない。公式の学歴は1953年、モルダヴィア共和国のキシニョフ教育大学卒になっていたが、当時すでに42歳、モルダヴィア党中央委でイデオロギー・教育部門を統括する宣伝・扇動部長だった。キシ二ョフ教育大学はいわば自分の監督下にあったわけで、おそらく名目的な通信教育で卒業資格を取り付けたのだろうと西側の研究者はみていた。
そこへゆくとゴルバチョフが、まっとうにモスクワ大学を卒業していることは、断然光っている。ゴルバチョフの前後の世代に属する政治局員たちのなかにも、ミンスク農業大学卒で経済学博士の学位をもつグロムイコを除いては、彼ほどの学歴を誇る者は見当たらない。
1984年10月、モスクワで第4回日ソ円卓会議が開かれたとき、筆者もふくめて日本のジャーナリスト・学者グループと会ったアファナシェフ・プラウダ編集長(党中央委員)は、ゴルバチョフの人物像を聞かれて、まず、彼が高い教育の持ち主であることを好意的に紹介した。アファシェフ自身、哲学博士、教授、科学アカデミー会員の称号をもつ学者だけに、クレムリン切ってのインテリ、ゴルバチョフに対する共感と思い入れがあるようにも感じられた。

順調な昇進
ゴルバチョフはモスクワ大学を卒業するとすぐ、スタヴロポリ地方でコムソモールの活動に入った。翌年はやくもコムソモールのスタヴロポリ第一書記になり、58年には同じくスタヴロポリ地方第二書記、ついで同第一書記にすすんだ。それから62年、スタヴロポリ地方コルホーズ・ソフホーズ生産管理局オルグ、さらに同地方党委党機関部長を経て、66年、党のスタヴロポリ市党第一書記。68年、スタヴロポリ地方党第二書記になり、70年に同第一書記に昇進した。
これら一連の党活動で、ゴルバチョフがもっとも力を注いだのは、農業生産の増大である。彼は積極的にいろいろな実験を試みた。たとえば、コルホーズの農作業の主体を、メンバー百人もの大きな作業隊(ブリガーダ)から十数人程度の小さな作業班(ズベノー)に移して、その耕作地を固定し、小さな農機具も作業班のものとした。作付けや収穫の分配にも作業班の自主性を認めた。それによって農民各人の努力いかんがすぐに作業班の成績に響き、収入の多少にもつながるようにしたのである。
農民に“やる気”を出させて増産をはかろうというこの方式は集団請負方式(ズベノー)と呼ばれ、こちこちの教条主義者からは従来、社会主義農業の理念からの後退ないし逸脱とされたやり方だが、ゴルバチョフは柔軟な立場からこの方式を推進して、スタヴロポリ地方の農業振興をはかったのである。1978年までゴルバチョフはここで第一書記を務めたが、在任8年間にスタヴロポリ地方の農業生産は6倍にも伸びたという。そして後にアンドロポフ政権下の83年3月、集団請負方式は普及されることになったのである。

有力な先輩の推挽
スタヴロポリ地方はコーカサス山脈のふもとにひろがり、明眉な風光と快適な気候に恵まれて、古くから多くの保養地があることで知られている。その名もキスロヴォトスク(酸素の水の町)、ミネラリヌイエ・ヴォドゥイ(鉱泉)、ピャチゴルスク(5つの山)といった保養地が有名だ。クレムリンの要人たちはしばしばこの地方の別荘で休養した。地元のボスとしてゴルバチョフは、細かく気配りし、十分なサービスを提供して、要人のだれからも気に入られた。また保養地での気のおけぬ話し合いを通じて、ゴルバチョフは要人たちと強いコネを作った。
とりわけ郷里スタヴロポリ地方出身のクレムリンの大物、スースロフやアンドロポフの知遇を得たことが、ゴルバチョフの順調な出世の大きな要因になったといわれる。ゴルバチョフは1978年、党中央委書記に抜擢され、全連邦の農政を担当することになった。スタヴロポリ地方第一書記から党中央委農業部長、書記、政治局員になったあと急死したクラコフの後任である。ゴルバチョフの中央政界へ輝かしい門出であった。
しかも翌79年には政治局員候補、翌々80年には政治局員に昇格するという異例の躍進ぶり。このようなめざましい抜擢とその後の昇進の際には、当時クレムリンの実力ナンバー2で“キングメーカー”とも呼ばれたスースロフ政治局員・書記(82年1月死去)の“ひき”があったといわれる。スースロフは戦前、戦中の1939年から44年にかけてスタヴロポリ地方の党第一書記、スタヴロポリ地方パルチザン部隊参謀長などを務め、この地方を地盤としていた。因みにゴルバチョフの前任者クラコフもスースロフによって引き立てられたといわれ、一時はブレジネフの“プリンス”と目されたことは前にふれた。
政治的立場がスースロフと近かったアンドロポフもまた、ゴルバチョフを重用した。晩年病床にあったアンドロポフと毎日面会できたのは書記長補佐官のヴィクトル・シャラポフとゴルバチョフの2人だけで、前者はアンドロポフの最高会議幹部会議長としての仕事を、後者は党書記長としての職務を代理していたという。
アンドロポフの末期、毎週木曜日の定例政治局会議では、当時ナンバー2のチェルネンコが議長を務めたが、火曜日の書記局の会議はゴルバチョフが司会したともいわれている。83年12月の最高会議をアンドロポフは欠席したが、議場のヒナ壇で、ゴルバチョフはチーホノフ首相、チェルネンコ書記、グロムイコ外相、ウスチーノフ国防相の長老4人につぐ5番目の席次を占めた。

×

非ログインユーザーとして返信する