日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

全体主義の時代経験・Expérience des temps totalitaires・Sperto pri totalismaj tempoj・전체주의의 시대 경험⇒ 这是极权主义的“安慰”方法/藤田省三・Shozo Fujita・후지타 쇼조①


20世紀は全体主義を生み、かつ生み続ける時代である。それは三つの形態をとって現れた。最初は「戦争の在り方における全体主義」として、ついで「政治支配の在り方における全体主義」として、そして今やそれは「生活様式における全体主義」として登場した。「安楽」への全体主義である。著者は、『精神史的考察』以後の80年代、人類史的問題群と20世紀における「受難」経験と現代日本社会論とを貫通する立体的構造を明らかにすることを、残された時間でなされねばならぬ思考課題と考えた。ここには、その探求の過程を示す諸篇が収録されている。著者の眼には、人類は「最後の経験」、あるいは「経験の消滅」を経験しつつある、と映じた。未知の、潜在的に脅威をもたらすような経験を回避しようとする現代日本社会の心性、「安楽への自発的隷属」はいかにして生まれるのか。高度成長、バブル崩壊後の変質あるいは変貌という以上の「断絶」を生じた日本社会を、人類史と20世紀史への深い洞察のまなざしで見据える。「断絶の場所こそわが棲み家」とする著者最後のメッセージ。
Expérience des temps totalitaires
Le 20e siècle est une ère où le totalitarisme est né et continue de naître. Il est apparu sous trois formes. Il est d'abord apparu comme «totalitarisme dans le sens de la guerre», puis «totalitarisme dans le sens de la domination politique», et maintenant il est devenu «totalitarisme dans le mode de vie». Il s'agit d'une approche totalitaire du «confort». L'auteur a eu le temps de clarifier la structure tridimensionnelle qui pénètre le groupe problématique de l'histoire humaine, l'expérience de la "passion" au 20e siècle et la théorie sociale japonaise contemporaine dans les années 80 après "Psychohistory Consideration". Je pensais que c'était une tâche de réflexion qui devait être accomplie. Ici, diverses éditions montrant le processus de recherche sont enregistrées. Les yeux de l'auteur ont reflété que l'humanité connaît une «dernière expérience» ou une «disparition d'expérience». Comment est «l'esclavage volontaire pour réconforter», l'esprit de la société japonaise moderne qui cherche à éviter des expériences inconnues et potentiellement menaçantes? Nous examinerons la société japonaise qui a causé plus de «discontinuité» que de croissance, de transformation ou de transformation élevée après l'effondrement de la bulle, avec un aperçu approfondi de l'histoire humaine et de l'histoire du XXe siècle. Le dernier message de l'auteur, disant: "Le lieu de déconnexion est ma maison."
藤田省三=1927-2003 思想史・精神史。愛媛県に生まれる。1953年、東京大学法学部政治学科卒業。以後、中断をはさんで1993年3月まで法政大学勤務。著書『天皇制国家の支配原理』(未來社1966、第2版・未來社1974、新編・影書房1996)『維新の精神』(みすず書房1967、第2版・みすず書房1974、第3版・みすず書房1975)『現代史断章』(未來社1974)『原初的条件』(未來社1975)『転向の思想史的研究――その一側面』(岩波書店1975)『精神史的考察――いくつかの断面に即して』(平凡社1982)『全体主義の時代経験』(みすず書房1995)『戦後精神の経験』(全2巻、影書房1996)など。『藤田省三著作集』(全10巻、みすず書房1997-98)『藤田省三対話集成』(全3巻、みすず書房2006-07)。
Shozo Fujita=1927-2003. Histoire de la pensée et histoire de l'esprit. Né dans la préfecture d'Ehime. Diplômé du Département de science politique de la Faculté de droit de l'Université de Tokyo en 1953. Après cela, il a travaillé à l'Université Hosei jusqu'en mars 1993 avec une pause. Livre "Rules of the Emperor State" (Mikisha 1966, 2e édition, Mikisha 1974, nouvelle édition, Kageshobo 1996) "L'esprit de la restauration Meiji" (Misuzu Shobo 1967, 2e édition, Misuzu Shobo 1974, 3e édition Misuzu Shobo 1975) "Fragment d'histoire moderne" (Mikisha 1974) "Conditions originales" (Mikisha 1975) "Une étude de l'histoire de la pensée de la conversion: son seul côté" (Iwanami Shoten 1975) Conformément à cette section »(Heibonsha 1982)« Expérience de l'ère totalitaire »(Misuzu Shobo 1995)« Expérience de l'esprit d'après-guerre »(2 volumes, Kage Shobo 1996). "Fujita Shozo Works Collection" (10 volumes, Misuzu Shobo 1997-98) "Fujita Shozo Dialogue Collection" (3 volumes, Misuzu Shobo 2006-07).
Sperto pri totalismaj tempoj
La 20a jarcento estas epoko en kiu totalitarismo estis kaj daŭre naskiĝis. Ĝi aperis en tri formoj. Ĝi unue aperis kiel "totalitarismo en la vojo de milito", poste "totalitarismo laŭ la maniero de politika superregado", kaj nun ĝi fariĝis "totalitarismo en la vivmaniero". Ĝi estas totalisma aliro al "komforto". Al la aŭtoro restis la tempo por klarigi la tridimensian strukturon, kiu trapenetras la homan historian probleman grupon, la "pasian" sperton en la 20-a jarcento, kaj la nuntempan japanan socian teorion en la 1980-aj jaroj post "Psychohistory Considideration". Mi pensis, ke temas pri pensiga tasko. Ĉi tie, diversaj eldonoj montrantaj la procezon de la serĉado estas registritaj. La okuloj de la aŭtoro reflektis, ke la homaro spertas "lastan sperton", aŭ "malaperon de sperto." Kiel estas la "libervola sklaveco por komforto", la spirito de moderna japana socio, kiu celas eviti spertojn nekonatajn kaj eble minacajn? Ni rigardos la japanan socion, kiu kaŭzis pli da "malkontinueco" ol alta kresko, transformo aŭ transformiĝo post la kolapso de la bobelo, kun profunda enrigardo al homa historio kaj historio de la 20a jarcento. La lasta mesaĝo de la aŭtoro, dirante: "La loko de malkonekto estas mia hejmo."
전체주의의 시대 경험

20 세기 전체주의를 낳고하고 낳고 계속 시대이다. 그것은 세 가지 형태를 취하고 나타났다. 처음에는 '전쟁의 본연의 자세에서 전체주의 "며 이어"정치 지배의 본연의 자세에서 전체주의'로 그리고 이제 그것은 "생활 양식의 전체주의 '로 등장했다. "안락사"에 전체주의이다.
저자는 "정신 사적 고찰 '이후 80 년대 인류 사적 문제 군과 20 세기의'수난 '경험과 현대 일본 사회론과를 관통하는 입체적인 구조를 밝힐 것을 남은 시간 로 이루어 않으면 안되는 생각 과제라고 생각했다. 여기에는 그 탐구의 과정을 나타내는 여러 편이수록되어있다. 저자의 눈에는 인류는 "마지막 경험 '혹은'경험의 소멸 '을 경험하고있다, 그리고 비친. 알 수없는 잠재적으로 위협 같은 경험을 피하려고하는 현대 일본 사회의 심성 "안락사에 대한 자발적 예속」는 어떻게 태어나는지. 고도 성장 버블 붕괴 후의 변질 또는 변모하는 이상 "단절"을 발생한 일본 사회를 인류 역사와 20 세기 역사에 대한 깊은 통찰의 눈빛으로 응시.「단절의 장소야말로 우리 거주지 집 "이라고하는 저자 마지막 메시지.

极权时代的经验
20世纪是一个极权主义已经存在并继续诞生的时代。 它以三种形式出现。 它最初以“以战争方式的极权主义”出现,然后以“以政治统治方式的极权主义”出现,现在变成了“以生活方式的极权主义”。 这是极权主义的“安慰”方法。作者仅剩下时间来澄清贯穿人类历史问题组的三维结构,20世纪的“激情”经历以及1980年代经过“心理历史考虑”的当代日本社会理论。我认为这是必须完成的思考任务。 在此,记录了显示搜索过程的各种版本。作者的眼睛反映出人类正在经历“最后的经历”或“经验的消失”。 日本现代社会的精神是“寻求舒适的自愿奴隶制”,这种精神试图避免未知的和潜在的威胁性经历? 我们将着眼于对人类历史和20世纪历史有深刻洞察力的日本社会,这种社会造成的“不连续性”多于泡沫破裂后的高速增长,转型或转型。作者的最后一封信说:“断开连接的地方是我的家。”
藤田 省三(ふじた しょうぞう、1927年9月17日 - 2003年5月28日)は、日本の政治学者(日本政治思想史)、法政大学法学部名誉教授。戦後、丸山学派を代表する左派系の思想史家。経歴=丸山眞男の弟子で、寡作ではあるが丸山学派を代表する。天皇制国家の構造分析は戦後思想史において画期的意味をもちつづける。鶴見俊輔らとともに行った『共同研究 転向』では中心的役割を果す。みすず書房から『藤田省三著作集』が刊行されている。
愛媛県出身。敗戦で陸軍予備士官学校から大三島に帰郷していた18歳の時、今治市の書店で丸山の「軍国支配者の精神形態」を読んだことが、役人養成の東大法学部ではなく、「丸山ゼミ」に入学するきっかけとなる。直腸癌と肺炎で死去、「西多摩再生の森」で自然葬された。葬送の自由をすすめる会会員。

후지타 쇼조(일본어: 藤田 省三, 1927년 9월 17일 ~ 2003년 5월 28일)는 일본의 사상사가이자 정치학자이다. 일본 전후(戰後)를 대표하는 리버럴파 지식인이다. 생애=에히메현 출신. 2차 대전 막바지이던 1945년 2월 육군예비사관학교에 입학해 훈련을 받던 중 패전을 맞아 오미시마(大三島)로 귀향했다. 1950년 도쿄 대학 법학부에 입학한 그는 마루야마 마사오의 논문 「초국가주의의 논리와 심리」(1946)와 「군국지배자의 정신형태」(1949)를 읽은 것을 계기로 ‘마루야마 세미나’에 들어가게 되었고 일찍부터 마루야마 문하의 인재로 촉망받았다. 1952년 경찰 권력에 의한 대학자치 침해사건을 계기로 일본공산당에 입당했으나 얼마 후 탈당했다. 1953년에 도쿄 대학 법학부를 졸업한 뒤부터 호세이 대학 법학부 교수로 재직했다. 1960년 안보투쟁에 참가하기도 했다. 1971년에는 호세이 대학 교수직을 사임하고 미스즈 쇼보와 헤이본샤에서 시민 세미나와 고전 세미나를 조직하는 활동에 참여하며 '낭인생활'의 시기를 보냈다. 9년 뒤 호세이 대학에 복귀, 1993년 정년 퇴직했다. 2003년 직장암과 폐렴으로 사망했다. ‘니시타마 재생의 숲’(西多摩再生の森)에 자연장으로 안장되었다.



この本に収められた文章の全ては、出版されるべく書き蓄えられたものではない。逆である。1982年に平凡社から「精神史考察」といういささか仰々しい題の本を出したとき、「自分の意志で本を出すのは、これで終わりだ」と思い、その本の内容についても、「高度成長」を経て「戦後社会」から大変化を遂げた「現代日本社会」のなかで、どういう思考法や接近法(註)が必要なのかという問題を考える上に一石を投じたつもりでいたし、これは以後現代社会が含む基本的な問題とそれに対する批判的接近法は大筋において変わらないだろうとも考えていたので、もうこれ以後は本などという公式の形のものを書く積もりはなかった。生意気に言えば現在(80年代以降に)言おうとすることは全て、その本の何処かに示唆的であれ、暗示的であれ、書き込まれている、というような「自負」めいたものさえあった。
(註)ここで言う、「現代社会」の中で必要な「思考法や接近法」というのは、いわゆる「戦後社会」の中で行われた営為との間の、一貫性と対応性、批判性と現代性、原理性と的中性、対面感覚と歴史感覚、等々の複合体を指している。そして「戦後社会」といい、「現代社会」といい、日本のいわゆる「戦後史」の中の二段階であって、言うまでもなく、両者ともに、歴史的存在としての「人類史」と同様に歴史的存在としての「日本社会」の中に属している。
―というわけで私はいよいよ制度化されますます硬化されてくる「学界」のなかに位置を占めようとは夢々思ったこともなかった(その点は初めの青年時代からそうであった。学問もないくせに世の言う「学者」の社交筋を軽蔑していたのである。特にあの「ザーマス調」の話し方に象徴されるものを)。
そのような制度化された現下日本の「学者の世界」(実際は職業的な大学教師の世界)にも、まともに考え直そうとする気運がないわけではない。しかし、彼らは第一に、彼らをその制度内に引き入れてくれた先輩たち即ち恩人の傾向に対して厳格な批評家とはなれない(特に日本の狭い人材グループの中では)第二に彼らが、その制度のなかで「学問」という名のある職業に従事しているかぎり、彼らが公刊する仕事の面で、「一介の読書人」になったり、脱「組織人的」思索者になったりすることは極めて困難である。小特殊社会における「皇祖皇宗の生きた遺訓」がある以上、なるべく逆らわない形でつまり持って回った形で、その「まともに考え直そうとする気運」は発揮・実現される。
象徴天皇制社会下(註)の理解や批判はそのような現世的配慮の下で「常識」的遠慮を通して発揮される。思想構造的に見るならば、それは要するに、過去の仕事に対する「尊敬に満ちた内在的理解」とその仕事に対する「今日的必要からする厳格な批判的検討」の区別を定かにできず、そのため両者を両立させたり結合させたりすることができないのだ。そしてその両者の両者と結合こそが、流行や思惑に決して左右されないほんとうの理解なのだ。
「戦前・戦後社会」から遺伝子を引きずりながらも根底的な大変化を遂げた(その変化の大きさ・深さは、第二次大戦の敗戦および直接の変化よりも大きいものに違いない)「現代社会」の中から行われる、前の時代の中で行われた「仕事」に対する態度の裡で必要不可欠のものは、前時代のものの理解と批判、尊敬と厳しさの区別・両立・結合なのである。
(註)「天皇制国家」とは区別して、国家を構成する人間とは全く違った普通の庶民が編成されて「天皇制社会」が作られ、その集合的権威の条件の下でのみ、初めて「異質体制」(日本型全体主義)ができたのだという経過の詳細はかつて、論じようと思って準備していながら、遂に怠惰のため果たせなかった。その意図だけの痕跡が「天皇制国家の支配原理」の中にホンのちょっと残っている。要するに、「天皇制国家」と「天皇制社会」は違うものであり、国家を担う者の方が、しばしば公正で寛容な判断を示したものだったーつまり熱狂主義から遠かったーということは覚えておいても損はない。責任というものがもたらす平衝感覚や判断の公正さがそこに現われるからである。日本の場合、成り上がり国家人であるから十分にそれが働いているとは言えないが、それでも窮まりなくハネ上がり続ける大衆的熱狂よりは、それらの点でマシである。ただし他面で特権意識その他の権力感が並み以上に現われるけれども、そして実は今は言わないが、これらの間に相互関連がある。
いわゆる「学問社会」に話を戻そう。制度化された「学界内」では「まともな関心」もそのような歪みを受けざるをえないながら、大量販売を狙う著述家として抜きん出ようとすれば、意識的に「学者世界」からはずれて、言ってみれば「芸能的センス」に近い態度で「学者世界」に入り込む傾向が現われる。これについては論評の限りでない。
これらの態度が現代日本のいわゆる「知識人」の在り方の主要なものである。そして私は、それのどれに加えられることをお断りする。私は一介の一書生であり、感じ且つ考える者の1人ではあっても「学者」とも「芸能センス」とも全く関係したくない。
しかも当面私は、老夫妻がともに病いを得て、私の「最晩年」は「最悪」になった。さあ、これに対して「シジフォス」で行くか、「逃亡策」で行くか、その二つの両極一致方策を考え出すか、何れにしても、「受容(アクセプタンス)の哲学」が私に今最も必要である。私に必要なのは波のように絶えず揺れ動きながら、その動きが多様であるような精神、モンテーニュの言う「オンドワイヨン・エ・ディヴェール(ondoyant et divers)」なのである。そこにある「生きて動いている平衝感覚と相互的関心と関係」こそが現代全体主義に対しても最大の異物である筈である・
実はこの本は、私の直腸ガンが見つかって、入院前に「手直し」を入れて本にする筈であった。というのは、81年以来、私は書くことをお断わりしてきたが、「目上の友人」という関係の線上で、何事か「思想の科学」に緊急「必要」が生じたらしいときには、鶴見俊輔氏(鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年〈大正11年〉6月25日 - 2015年〈平成27年〉7月20日)は、日本の哲学者、評論家、政治運動家、大衆文化研究者。アメリカのプラグマティズムの日本への紹介者のひとりで、都留重人、丸山眞男らとともに戦後の進歩的文化人を代表する1人とされるShunsuke Tsurumi (鶴見 俊輔, Tsurumi Shunsuke, June 25, 1922 – July 20, 2015) was a Japanese historian[1] and philosopher. After graduating from Harvard University, an A.B., Honors Harvard University[2] in 1942, he was deported on a personnel exchange vessel with his sister Tsurumi Kazuko, Takeda Kiyoko, and Maruyama Masao.[3] Tsurumi taught at Kyoto Universit)から直接、「断りを許さぬ長電話」が私に来て、執筆を要求された。それは「事実上の強要」に近いものであった。粘り合いの結果、私にできるのは、せいぜい題名を注文のものから変えてもらうことぐらいで、何も書かないことは「年長の友人」に対する友情をご破算にするのでなければ不可能であった。-ということが何度かあって「思想の科学」に20-30枚程度のものが幾つか載ってしまった。そして、その中のものが一部の人達に引用され、物書き社会の人達の知るところとなった。こうなった以上、むしろ、「公刊」しておいた方が「死後の安心」というものだ、と思って、入院までに「手直し」を終える積もりでみすず書房の加藤氏と約束し、取り掛かったのであった。しかし、「手直し」は苦痛の故に予想外に進まなかった。
退院後は、術後8ヶ月から11ヶ月を経た今日でもまだ執筆に必要な集中を可能にする程の体調にはなっていない。加藤氏が見える日曜の朝、大急ぎで20ないし30分くらいなぐり書きをするだけで限度であったし、今もある。遅れに遅れて今日に至ったゆえんである。
私は平均寿命とか闘病精神とか、といった概念に反対である。生きるものには、それぞれ「寿命」と呼ばれているものがあり、67にもなればガンで死んでも至極当然のはずである。私達はその「寿命」即ち「個体差」と「生きるものの個別性」をこそ「アクセプト(受容)」しなければならぬ。それこそが先程のモンテーニュの言葉に代表されるような、全体主義の妨害物となる異物の養成・実現・普及に貢献する道だと思うのである。異物だらけの全体主義は定義上矛盾であって成り立ちえない。しかし、医術の世界も「診察」と同時に「治療方針」が「一貫流れ作業」として決まって居り、「同意書」は不同意の場合を前提としない一つの「行政」手続きに過ぎないし、他方には私たちの社会全体の態度の問題があって、「寿命」に従って生き且つ死ぬことができる人は、今日、果してどれだけいるだろうか。そこにも今日の「全体主義」の一つの現われがある。どのような生・死の態度をとればよいのだろうか。現代型のシステムとしての「全体主義」の下では、そういうことまでも、問題となるのだ。(終)
1994年10月5日                     藤田省三
私の責任で文章を発表するのは、これを以て終りとする。この本のなかで主に力を入れて「手直し」をした部分は、「全体主義の時代経験」である。このエッセーは当初書いたときは、私の言わんとする理論的枠組みを示唆的ながら表現していると思っていたのが、今度、読み直してみると、もう今では「示唆」は現代の読者には通じないものと分かった。そこで、ハッキリと証明しておこうとして「手直し」を始めたのだったが、先述したような事情のために、ある部分は冗舌な「学部1年生用の講義調」となり、ある部分は舌足らずの「乾燥した概念」の連鎖となって、遂に、善かれ悪しかれ、私の文章のリズムで書くことができなかった。その代りに、ともすれば「一渇千里」型に流れ易い私のリズムが出なかった分、遂に却って、せめて「抑揚感」のようなものでも出てくれば良いのだが、それを望むのはおこがましい。残念だが、肉体が最後の集中力を失ったとき、その身体的条件がいかに言葉の粘土細工に対しても深い関連を持っているか、が良く分かった。しかし時既に遅く如何ともし難い。-ということもあって、今後、私が意見を公表する場合は、面接者の方の好意に基づく整理・文章作成の全てについて、その方のいわゆる「文章」によることにしたい。
「安楽」への全体主義―充実を取り戻すべく(1985年)
1、
抑制のかけらも無い現在の「高度経済成長」を支えている精神的基礎は何であろうか。言い換えれば、停どまる所を知らないままに、ますます「高度化」する技術の開発を更に促し、そこから産まれる広大な設備体系や完結的装置や最新製品を、その底に隠されている被害を顧みることもなく、進んで受け容れていく生活態度は、一体どのような心の動きから発しているのであろうか。「追いつき追い越せ」から「ますます追い越せ」へと続いて来ている国際競争心等々の他に、少なくとも見落してはならない一つの共通動機がそれらの態度の基底に在って働き続けている。
それは、私たちに少しでも不愉快な感情を起させたり苦痛の感覚を与えたりするものは全て一掃して了いたいとする絶えざる心の動きである。苦痛を避けて不愉快を回避しようとする自然な態度の事を指して言っているのではない。むしろ逆に、不快を避ける行動を必要としないで済むように、反応としての不快を呼び起こす元の物(刺激)そのものを除去して了いたいという動機のことを言っているのである。苦痛や不愉快を避ける自然な態度は、その場合その場合の具体的な不快に対応した1人1人の判断と工夫と動作を引き起こす。通常の意味での回避を拒否して我慢を通すことさえもまた不快感を避ける一つの方法である。そうして、どういう避け方が当面の苦痛や不愉快に対して最も望ましいかは、当面の不快がどういう性質のものであるかについての、その人その人の判断と、その人自身が自分の望ましい生き方について抱いている期待と、その上に立った工夫(作戦)の力と行動の能力によって始めて決まって来るものである。そこには、個別的具体的な状況における個別具体的な生き物の識別力と生活原則と智慧と行動とが具体的な個別性をもって寄り集まっている。すなわち其処には、事態との相互的交渉を意味する経験が存在する。
それに対して、不快の源そのものの一斉全面除去(根こそぎ)を願う心の動きは、一つ一つ相貌と程度を異にする個別的な苦痛や不愉快に対してその場合に応じてしっかりと対決しようとするのではなくて、逆にその対面の機会そのものを無くして了おうとするものである。そのためにこそ、不快という生物的反応を喚び起こす元の物そのものを全て一掃しようとする。そこには、不愉快な事態との相互交渉が無いばかりか、そういう事態と関係のある物や自然現象を根こそぎ消滅させたいという欲求がある。恐るべき身勝手な野蛮と言わねばならないであろう。
(註)「根こそぎ」-それこそ全ての形態の全体主義支配に根本的な特徴なのである。それは人種・階級等の抹殺から「害虫駆除」の「マス・ケミカル・コントロール」(ジュリアン・ハクスリー)にまで及び。
かつての軍国主義は異なった文化社会の人々を一掃殲滅することに何の躊躇も示さなかった。そして高度成長を遂げ終えた今日の私的「安楽」主義は不快をもたらす物全てに対して無差別な一掃殲滅の行なわれることを期待して止まない。その両者に共通して流れているものは、恐らく、不愉快な社会や事柄と対面することを怖れ、それと相互的交渉を行うことを恐れ、その恐れを自ら認めることを忌避して、高慢な風貌の奥へ恐怖を隠し込もうとする心性である。                     

今日の社会は、不快そのものを追放しようとする結果、不快のない状態としての「安楽」すなわちどこまでも括弧つきの唯々一面的な「安楽」を優先的価値として追求することとなった。それは、不快の対局として生体内で不快と共存している快楽や安らぎとは全く異なった不快の欠如態なのである。そして、人生の中にある色々な価値が、そういう欠如態としての「安楽」に対してどれだけ貢献できるものであるかということだけで取捨選択されることになった。「安楽」が第一義的な追求目標となったということはそういうことであり、「安楽への隷属状態」が現れて来たというのも又そのことを指している。休息すなわち一と時の解放と結びつくのであって、楽しみや安らぎなら隷属状態とは結びつかない。
むろん安楽であること自体は悪いことではない。それが何らかの忍耐を内に秘めた安らぎである場合には、それは最も望ましい生活態度の一つでさえある。価値としての自由の持つ第一特性である。他人を自由にし他人に自発性の発展を容易にするからである。しかし、或る自然な反応の欠如態としての「安楽」が他の全ての価値を支配する唯一の中心価値となって来ると事情は一変する。それが日常生活の中で四六時中忘れることの出来ない目標となって来ると、心の自足的安らぎは消滅して「安楽」への狂おしい追求と「安楽」喪失への焦立った不安が却て心中を満たすこととなる。
こうして能動的な「安楽への隷属」は「焦立つ不安」を分かち難く内に含み持って、今日の特徴的な精神状態を形づくることとなった。「安らぎを失った安楽」という前古未曾有の逆説が此処に出現する。それは、「ニヒリズム」の一つではあっても、深い淵のような容量を以て耐え且つ受納していく平静な虚無精神とは反対に、他の諸価値を尽く手下として支配しながら或る種の自然反応の無い状態を追い求めて止まないという点で、全く新しい新種の「能動的ニヒリズム」と呼ばれるべきであるかも知れない。

No Worries on the Recruit Front (就職戦線異状なし, Shūshoku sensen ijōnashi) is a Japanese film directed by Shūsuke Kaneko. The film gives a description of the life of students struggling to find a job at the end of college in Japan at the end of the 1980s, a time when companies would fight to get the best students to join their ranks. The title would be best translated into English as "All Quiet on the Recruit Front", as it is a pun on the Japanese title of the book by Erich Maria Remarque (Seibu sensen ijo nashi). Actress Emi Wakui won the Best Supporting Actress prizes at the Japan Academy Awards and the Yokohama Film Festival for her role in this film.[1]

安らぎを失って動き廻る「安楽への隷属」という尋常事ではない精神状態が私たちの中に定住した時、それがタダ事ではないだけに、その定住も又タダでは済まない筈である。誘致科はどれ程であるか。私たちが精神の面で払っている損失(コスト)は一体何なのであろうか。先駆的な動物行動学者の注意深い人間観察が教えてくれているところによると、そのコストは「喜び」という感情の消滅であった。

必要物の獲得とか課題や目標の達成とかのためには、もともと避けることの出来ない道筋があって、その道筋を歩む過程は、多少なりとも不快な事や苦しい事や痛い事などの試練を含んでいるものである。そしてそれら一定の不快・苦痛の試練を潜り抜けた時、すなわちその試練に耐え克服して道筋を歩み切った時、その時に獲得された物は、単なる物それ自体だけではなくて、成就の「喜び」を伴った物なのである。そうして物はその時十分な意味で私たちに関係する物として自覚される。すなわち相互的な交渉の相手として、経験を生む物となる。「大物主の神」とも呼ばれ、「物語り」とも称せられて来た、そういう「物」は、明らかに唯の単一なそれ自体ではなくて、様々な相貌と幾つもの質を持って私たちの精神に動きを与える物なのであった。そして感覚の「喜び」はそうした精神の動きの一つの極致であった。
それに対して、ただ一つの効用のためにだけ使われる場合の物は、平べったい単一の相貌とたった一つの性質だけを私たちに示すに過ぎない。それは一切の包含性を欠いている。「使用価値」の権限の形が恐らくそこにあり、私たちはそれに対しては使いそして捨てる他ない。それと相互的な交渉をする余地はもはやない。完成された製品によって営まれる生活圏が経験を生まないのはその事に由来する。
そうして、そういう単一の効用をもたらす「物」を入れた時、その事が私たちにもたらす感情は、或る種の「享受」の楽しみである。むろん享受の楽しみ自体は決して悪いことではない。それが、目まぐるしい使い捨ての高速回転などとは無関係な落着いた平静を伴っている限り、それは大切な生活態度の一つなのである。そこには物事に対するゆったりした味わいの態度が、つまり一つの経験的態度が生まれる。当然、時間の過剰な短縮も過剰な濫費も又そこにはない。だから次の仕事への用意が次第にその中で蓄積される。そのようにして享受の楽しみは、次に予想される苦労を含んだ道筋を自ら進んで歩もうとする態度と接続される。それがen-joyと呼ばれて広い意味での悦びの一つとされているのも、こうして見るとき当然のこととして納得される。そうしてその継続線上の一方の極に克服の「喜び」が存在する。
しかし、次々と使い捨てていく単一効用を「享受」する楽しみは、そういう自然な接続の内にあるものではない。事の性質から見て当然のことであるが、それはただ一回的な「享受」に過ぎない。次の瞬間にはまた別の一回的な「享受」がやって来るだけである。時間は分断されて何の継続も何の結実ももたらさない。かくて苦しみとも喜びとも結合しない享受の楽しみは、空しい同一感情の分断された反復にしか過ぎない。その分断された反復が、激しく繰り返されればされる程空しさも又激しい空しさとなってますます平静な落着きから遠ざかっていく。此処にも又「能動的ニヒリズム」が顔をのぞかせているようである。
しかも、抑制なく驀進する産業技術の社会は、即座の効用を誇る完結製品を提供し、その即効製品を新しく次々と開発し、その新品を即刻使用させることに全力を尽くして止まない。そして私たちの圧倒的大多数が、この回転の体系に関係する何処かに位置することを以て生存の手段としている。-というのは社会的関連が在るのだから、分断された一回的享受の反復がいよいよめまぐるしく繰り返されていく傾向は、何らかの意識的努力がない限り停どまる処を知らない筈である。そうである以上、一定の苦痛や不快の試練に耐えてそれを克服した処に生まれる典型的な「喜び」は、すなわち歓喜の感情は、その存在の余地を大きく奪われているのである。



全ての不快の素を無差別に一掃して了おうとする現代社会は、このようにして、「安楽への隷属」を生み、安楽喪失への不安を生み、分断された刹那的享受の無限連鎖を生み、そしてその結果、「喜び」が物事成就に至る紆余曲折の克服から生まれる感情である限り、それの消滅は単にそれだけに停どまるものではない。克服の過程が否応なく含む一定の「忍耐」、様々な「工夫」、そして曲折を越えていく「持続」などの幾つもの徳が同時にまとめて葬われているのである。克服の「喜び」が精神生活の中の大切な極として重要視されなければならないのも、それがこうした諸徳性を含み込んだ総合的感情だからこそなのである。だからその「喜び」が消滅することは複合的統合態としての精神の、つまり精神構造の、解体と雲散を示している。
試練の土台の上に、一歩一歩あゆみ昇る自己克服の段階が積み重なって、その頂きの上に歓喜がある、という精神の構造的性格が無くなって、不快の素の一切をますます一掃しようとする「安楽への隷属」精神が生活を貫く時、人生の歩みは果たしてどのようになるか。生きる時間の経過は、立体的な構造の形成・再形成でありえなくなる時、平べったい舗道の上を無抵抗に運ばれていく滑車の自動過程となる他ないであろう。人生の全過程が自動車となるわけだ。ここには、自分の知覚で感じ取られる起伏がない。人生の歩みは、山や谷を失った平板な時間の経過となる。そうして山や谷の起伏を失った時、その人生にはリズムが無くなるのだ。
リズムとは、半世紀以上も前に或る哲学者が下した鮮やかな定義によると、「或る繰り返しの枠内で違いが運ばれていくこと」に他ならない。強弱や長短や濃淡や緩急や集散や昇降や苦楽や・・・等々の起伏の相違が、何らかの繰り返しの枠の中で、すなわち幅のある一貫性の中で運ばれていくこと、それが一言でいうリズムの存在なのである。音調にせよ色どりにせよ形態にせよ行動にせよ感情にせよ、この起伏が一つの進行現象の中に脈打っている時、私たちの精神はそれに対応して弾みを獲得し、そこに自己の歩行や昇降力や立体的構成力を、すなわち自己克服の動力を内側に保持することとなる。内燃機関の保有である。そうして、そのことが全自然の一貫として自分を保つ「謙虚さ」の元でもあるのだ。リズムに簡潔に定義した哲学者は、それ以前に別の場所で、「自然の周期性」に注意すべきことを説いて言った。「大自然の全生活は周期的出来事の存在に支配されている」と。その周期的出来事とは、或る繰り返しの枠の中で進行する起伏的相違のことに他ならない。地球の自転が異なる日日の相継ぐ繰り返しを生み、太陽を周る地球の進行が年毎の繰り返しを備えた季節の移り代りをもたらしている。私たちの身体の生活もまた脈摶の繰り返しの中で運動と安静に応じた周期的変遷を以て進行している。リズムはかくて全自然の全生活を貫く生の印しなのであった。そして私たちは、言うまでもなく、その小さな一部として存在している。こうして、人生の中に自然に起伏のリズムが保たれる時、私たちの精神は、独立的内燃機関を持って、自己克服の「喜び」に到達する構成力を持つものになるだけではなくて、自然の一部としての謙虚な自覚と抑制の心を備えることになる。そして附け加えれば、抑制の心は昂揚の心と組み合わされる時、リズムを形づくる一つの源泉として、再び大きな周期的進行へとつながっていくものである。かくて私たちは大自然の生活に寄与することが出来る。
けれども、種類の如何を問わないで一切の不快の素を根こそぎにしようとする「安楽への隷属」は、起伏の一掃を通じて、「喜び」の感情が含み持っている右のような関連を台無しにするだけではなく、さらにもう一つ、遠方を見る視力をも私たちから奪い去って了う。
典型的な「喜び」の感情が、試練を含んだ一定の道のりを歩み切るとき産まれるものである限り、当然それは起伏の先に横たわっている物への感受性を先ず条件として含んでいる。遠方の目的物を心中に想い浮べて見ることが出来る時、始めて、山や谷の起伏を進んで乗り切ろうとする意志が生まれるからである。克服への意志は、こうして「山の彼方の」遠方を見る心の視力を知覚上の基盤として発生する。そしてユートピア(何処にも無い正しい場所)に向かって歩もうとする意欲は、此の遠視力から生まれた此の克服への意志の一つの極致である。
しかし、人生の道筋から山を削り谷を埋める達成が全体的に行きわたる時、起伏の向こうを見る視力は退化し、その状態に慣れる時、視力回復への意欲さえもが萎えしぼんで了う。



「安楽への隷属」は、安楽喪失への不安にせき立てられた一種の「能動的ニヒリズム」であった。そうして、抑制心を失った「安楽」追求のその不安が、手近かな所で保護してくれそうな者を、利益保護者を探し求めさせる。会社への依存と過剰忠誠、大小の全ゆる有力組織への利己的な帰属心、その系列上での国家への保存感覚、それらが社会全般にわたって強まって来ているのは、其処に由来する。この現状の中では、例えば会社への全身的な「忠誠」も、不安に満ちた自己安楽追求の、形を変えた別の現われに他ならないから、そこには他人に対する激しい競争や抑制の舞い蹴落しが当り前の事として含まれている。過剰忠誠は実は忠誠や忠実といった徳性に対する反対側なのである。そこでは、慎しみや抑制や克己などの結果現れる自己克服の「喜び」が全く無くなる代りに、本能的に存在している「喜びへの衝動」は、競争者としての他人を「傷つける喜び」となって現れる。「喜び」の病理的変質と倒錯が此処に在る。社会的つながりはズダズダになる。そして蹴落とされはしないかという不安はいよいよ昂進する。
そのような関連を持った能動的保存感覚の社会的拡がりを受けて、国家は安楽保護者の名の下に、本当は別の理由に基づいている無益な軍備増強を正当づけようと図っている。大小の有力組織体については今は言わない。しかし、「安楽追求の不安」という贅沢極まりない新種の精神的窮乏の解決に向かおうとしているものが殆ど無いことだけは言って置きたいと思う。今日の危機は通常の社会的政治的自覚を遥かに越えた深さを以て進行しているのである。
こうして見ると、選別の努力を払うことなく一切の不快の機械的に一掃しようとする粗雑なブルドーザーに私たちの心が成り果てた結果、今日私たちが支払うことになった損失(コスト)は、精神的にも社会的にも政治的にも決して小さいものものではない。私たちは、その厖大な一連の損失―「物」の概念を始め、生活の中心に関連する、「安らぎ」・「楽しみ」・「享受」・「喜び」等々の諸概念の意味内容がことごとくニュアンスを失って「熨されて」了った(グラヒシャルゥンク)という。情意生活の上で殆どの致命的な損失―に取巻かれてて今日の日々を暮らしている。その包囲網は、私たちの社会的存在地点(職場やその他の暮らしの場)をも組み込んでいる構造的なものであり、その構造に取って代えるべき別種の構造は少なくとも当分の間は見当りえない。すなわち、現代社会の構造的危機は出口や抜け道を持っていない。だからこそ、私たちは、1日1日の生き方の選択に際して、また他人との交渉に際して、油断なく、これら一連の損失を一つ一つ少量ずつなりとも取り戻すように努めなければならないのである。そうする時、諸感情の現代的倒錯を少しずつ生活圏の彼方へ押しやって、一定の忍耐を含んだ平静や自己克服の喜びやその結果生まれる生活のリズム感を、小規模な範囲においてであっても、再び我が物とすることが出来るであろう。それらの物こそは、どんな仕事であろうとどんな労働であろうとどんな遊戯であろうと凡そすべての行為の中にそれが在る時、その行為に充実をもたらす物である。そうして、その充実の存在こそが「安楽への隷属」に対する最も根本的な抵抗であり、同時に、文明の健康な限度設定とそれを担う小社会の形成という目標(ユートピア)への心指しでもある。極めて困難なことだが、その目標へ心を向ける以外に選ぶべき健全な途はもはや無い。多様なる「解」はその方向の中にだけ隠されたまま人によって「発見される」ことを待っている。それが「生活様式における全体主義」の核心に秘そむ真実なのである。


全体主義の時代経験(1986年)

20世紀は全体主義を生んだ時代である。生んだだけではなく生み続け且つ生み続けている時代である。そこで生まれた全体主義は、今日まで、お互いに異なった3つの形態をとって、一時的中断を挟みながらも相継いで現れ続けている。その3形態とは、「戦争の在り方における全体主義」と「政治支配の在り方における全体主義」と、さらに加えて「生活様式におけるぜ対主義」とである。前の2者の間の関連は見抜き易いし、今でも繋がりあったものとして論じられて来たが、「生活様式の全体主義」は通常の社会意識の中では、「経済中心主義」の一環であって、従って平和主義的なものであり、前の2つの暴力的「全体主義」とは反対のものであると思われがちである。それだけに一層、社会の基礎的次元に達した根本的「全体主義」と言うことも出来る。そして本稿は其処へ視線を配りながら、戦争の終末形式である全体主義の第一形態から、政治の終末形式である全体主義の第二形態、さらには生活形式(様式)の終末形式である「文明の全ての全体主義」の第三期的形態まで、20世紀文化史の全体を、伝統的に「文明史の蓄積成果」と考えられていたもの(その「完成態」が西欧19世紀の「文明」だあった)が破局的終末期を迎えた時代として扱いながら、それとの関連の中で日本における全体主義化の経路の特徴を併せて極めて粗っぽく示唆しておこうとするものである。
(註1)戦争の全体主義がなぜ戦争の終末形式であるか、と言えば、それが「皆殺し」の応酬となることによって、戦争行為における「重要度」の選別判断を無視して了ったからである。指揮官と兵卒、参謀本部と現地軍その他等々の重要性の差異を指標として攻撃目標を絞るよりも、「皆殺し」による「大量処理」が主要な戦争行為になった時、元来の戦争―早晩止めることを前提にした「勝負の力技」はその特質を失って、別の性質のものになって了う。「皆殺し」の世界では将軍だろうと兵卒だろうと等しく殺戮の対象として、ブレヒトの言う、「1人は1人、交換可能」なのである。政治の全体主義、生活の全体主義についても似た事情があるが、それらについては本文の中で略述しようと思う(註2)19世紀西欧の「文明」の「破局」として西欧の20世紀が始まり且つ展開してきたことは、H・アレントが第二次大戦後いち早く力説したところであった。しかし、西欧10世紀文明の中で重層的に蓄積され、且つ又、それまでは文化史的・思想的存在に過ぎなかったものが、19世紀西欧の中で初めて社会的に実現され、社会全体の生活環境そのものとなった点に注目するなら、「文明の発達史」と言われてきたもの、特に、いわゆる「産業革命」と呼ばれている経済生活の大衆化を、画期点として扱わなければならないであろう。そこではそれまで在った「人工的文明の諸形態」が再構成されて統合され、複雑な統一体として即ち「機械」として登場する。そしてそれの持つ傾向は、ますます大きな作用と大きくなる機能とを、ますます小さな形態と資料とが担うようになることであった。そのことは「機械」の大衆化と全社会化と併行する。私たちは「20世紀」の西欧および其処との関連の中から発生してきた全世界的社会「制度」としての「全体主義」を、そういう「文明」の蓄積史的・必然史的(批評されている「必然史観」は専制を統合の連鎖として見るからこそ「必然」を主張するものであった。丁度、階級の1階の上に2階があり、2階の上に3階がなければならぬように。)理解の在り方との関係の中で検討し直さなければならない。
*ハンナ・アーレント(Hannah Arendt、1906年10月14日 - 1975年12月4日)は、ドイツ出身の哲学者、思想家である。ユダヤ人であり、ナチズムが台頭したドイツから、アメリカ合衆国に亡命した。のちに教鞭をふるい、主に政治哲学の分野で活躍し、全体主義を生みだす大衆社会の分析で知られる。Hannah Arendt (geboren am 14. Oktober 1906 als Johanna Arendt in Linden, heutiger Stadtteil von Hannover; gestorben am 4. Dezember 1975 in New York City) war eine jüdische deutsch-amerikanische politische Theoretikerin und Publizistin.

*難民(なんみん、英: refugee)は、対外戦争、民族紛争、人種差別、宗教的迫害、思想的弾圧、政治的迫害、経済的困窮、自然災害、飢餓、伝染病などの理由によって居住区域(自国)を離れた、あるいは強制的に追われた人々を指す。その多くは自身の生命を守るため、陸路、海路、河路、空路のいずれかで国外に脱出し、他国の庇護と援助を求める。現在の国際法では、狭義の「政治難民 (せいじなんみん、Political Refugee)」を一般に難民と呼び、弾圧や迫害を受けて難民化した者に対する救済・支援が国際社会に義務付けられている。Un refugiato[1] es un persona, qui ha lassate temporaneemente o permanentemente su casa o le loco de residentia previe a causa de coercition politic, guerra o emergentia periculose pro le vita.

さて、これまで、3つの形のうち、当然のことながら、“これこそが典型的な「全体主義」なのだ”と考えられて来た「政治支配の全体主義」については、ハンナ・アレントが物の見事に要約したように、それが人類史上かつて無かった全く新しい性質の専制であって、それまでにも沢山あったし今もまだ数多くある。普通の専制政治や独裁政治とは全く違う新しい性質と形と徹底力とを持ったところにこそ特徴があった。そして其処に「政治支配の終末的形式」と呼ぶ他ないものが現れたのであった。
それは「難民」(displaced persons)の生産と拡大再生産を政治体制の根本方針とするものであった。それ故アレントは「20世紀は難民の世紀となった」と言ったのであろう。有史以来その時まで、どんな政治体制でも「定地域の住民の公的側面を一つの政治的共同体へ組織しようとした。そこに呼び名は別として「市民権」なるものの発生と存続があった。しかし、「難民」を生産することは如何なることか。そもそも難民とは何か。それは「市民としてのすべての法的保護を剥奪されたかもしくは喪失した者」であるから、「生産された難民」は勿論「剥奪された者」であり、かれらが、もし少しでも「法的保護」の切れ端でも得たいと思うなら、「犯罪者となる以外に方法はない」。言い換えれば、監獄法の一定の保護規定、あの最小限の生存保障規定に頼る以外には、如何なる法の保護からも見捨てられている。そういう、一切の社会の内に居場所を持つことを許されない存在が「難民」であった。
そうした難民を作り出すためには、今まで市民権(住民権)を得て居た者を法体系の中からあらためて追放しなければならない。その追放を政治体制の軸とするということは、その政治体制の中心を追放行動の運動体とすることを意味する。

昔から、政治体制は国家を始めとする制度であった。制度は安定性の附与を特徴とする。運動体はその反対物である。だから、今や、ここに、政治体制は制度から運動体へ、特に追放の運動体へと逆転した、と言えるであろう。本質的規定に及ぶ劇的な変化である。
此処では、常に、「難民へと追放される者は誰か」が決定されなければならない。既にして19世紀のイデオロギーなるものは、大方運動行動の網領と化していた。難民生産の規律も又、その網領の中から用立てられる。ナチスは、最も手軽に、卑俗な集団的「虚偽意識」としての反ユダヤ人差別を利用し、それに大衆小説型の「陰謀家の集まり」という負ファッションをつけ足して「網領」の母胎(すなわちイデオロギー)らしく見せかけた。
スターリニズムは、「まばゆいばかりに西欧文化の豊かな伝統」を包含していたマルクス主義を大衆操作と運動綱領に便利な「教義問答集」に簡略化し、それを「消滅しつつある階級」の消去と様々な異議を唱える「知識人層」の追放に役立てた。
かくて難民生産の体制は、追放決定の規準を、「差別の伝統」、「陰謀説の伝統」、「過剰簡略化」、「異議を認めぬ独善」等々によって作り出した。そしてその規準を世界中に適用しようとした。それは無限拡大を意味した。
しかし、追放の無限拡大は、追放された者を収容する「囲い込み」設備と運営の無限拡大でもある。「刑務所」(刑法の法的保護体系の存在を前提とする)とも「軍隊」(国民であることを前提とする)とも異なる「強制収容所」が全く新しい「制度」、制度否定の上に立った「制度」として特別の機動性を持って誕生した。
こうして難民の意図的生産・拡大再生産と「制度」の機構との両極が逆説的に一致して、未曾有の政治体制を作り出した。そしてこの体制の中に生きる者には必然的に生まれる「次は俺か」という恐怖と不安は「運動の組織体」への忠義な帰属心として動員された。ここには、新種の奇妙な熱狂主義の出現が見られた。それは、神なき、理想なき即ち対象なきファナティシズムであった。無の時代の生んだ逆説的な独特の忠誠心を言えるであろう。これらの諸特徴に見られる、本来は対極的であったものの一般化現象は、19世紀まで各所に色々な形で存在していた対話的なものの全面的消去であった。

追放と拘留なら、それを支配の部分として含まなかった政治支配はかつて無かった。しかしそれは何処までも支配体系の部分であって、全体が追放と拘留の両極運動体になることなど予想もできなかった。その点こそ此の「新しい政治」の政治形態の終末形式があった。そして、運動・組織・機構・制度の劇的な含一形式を作り出した「政治支配の黙示録」は、人類政治史の中の運動・組織等のあらゆる主要区分を払いのけることを通して、最も新しい現象となったのであり、しかも、その未経験性が恐ろしさをも最大化しながら、同時に妖しげな大衆的「魅力」をも付与していたのであった。その「魅力」を伴いながら、「難民」を不思議と思わない流動的世界といい、区分の無視といい、長い歴史をもった人間の政治の終末形式は各所に出現したのであった。
しかし、20世紀の全体主義は実は政治支配の面での全体主義に始まったわけではない。その前に先ず戦争の在り方における全体主義として姿を現わしたのだった。例えばレイモン・アロンが後に「全体主義の世紀」と呼んだ時には、彼の本の行動の平凡さとは別に、兎にも角にもその点に注目したからであろう。
*レイモン(レモン)・クロード・フェルディナン・アロン(Raymond Claude Ferdinand Aron、1905年3月14日 - 1983年10月17日)は、フランスの社会学者[1]、哲学者[1]、政治学者[1]、ジャーナリスト。Raymond Claude Ferdinand1 Aron dit Raymond Aron, né le 17 mars 1905 à Paris 6e et mort le 17 octobre 1983 dans la même ville, est un philosophe, sociologue, politologue, historien et journaliste français.


むろん、それは欧州での第一次世界大戦においてであった。第一次大戦を、ドイツの専制政治やハプスブルグ家のの古い帝国支配に対する英仏米などの民主政治の戦いという一面だけで見て了うのは、私たちの常識的理解の底にしばしば見受けられるイメージではあるが、「戦争における全体主義の出現」という事態を見落としている点で重大な間違いを含んでいる。それでいくと、専制帝国ロシア等々の「合法連衝」の問題が抜けるだけでなくて、自国の「民主主義」を守るために喜んで兵士として戦場に出向き、結局、勝利を収めた筈の米仏英の一般市民とくに批評力を持った市民たちが、戦争が終わった時、どうして、喜びも満足も示すことなく逆に深い失望と自己嫌悪と現代文明への否定的態度を示すことになったのかが全然説明できなくなる。それらの態度は、文学や芸術や哲学的理論の領域でも米国の「ロースト・ジェネレーション」や欧州の色々な「アバンギャルド」の傾向として広く知られている顕著な現象であったのに。
それに対して、第一次大戦を、色々な国家の間に新しい形で発生して来た「帝国の衝動」が生み出した戦争であるとする見方は、この戦争の動機を発生条件の面に含まれている新しい特色を明らかにした点で劃期的であったから、世界中の、批評力をもった市民たちを啓発し、その人たちの自分が生きていける時代に対する認識を或る点で極面まで深めた。その上、この見解を大戦の始まる十年以上も前から次第に説得力あるものに仕上げて行った人たちは、例えばボブソンにしてもローザにしてもレーニンにしても、そして日本で最初に「帝国主義批判」を書いた内村鑑三(やその後の幸徳)らも含めて、皆んな自分の属している国を些かも贔屓目に見ることなく、或る諸局面について極めて「客観的」に時代の傾向を奪取し、掘り下げて解き明かしていたのだった。すなわち其処には、国家主義や国家主義とは反対の精神が脈打っていたのだ。そして凡そ真っ当な認識の根本条件の一つは、自分の社会や集団を少しも特別視することなく批判的観察の前に置くことであり、そういう意味での自己批判の精神が存在していることである。今では「自己批判」という言葉自体が、或る種の組織体のイデオロギー的利益のために個人を生贄に供する手段として濫用され過ぎた結果、真っ当に物を言おうとする者にとっては使うのにためらいを感ぜざるを得ない程、汚されて了っているが(そうしてこの事自体が20世紀の悲しい経験の一環であるけれども)、第一次大戦前夜からその大戦を「入り組んだ帝国への衝動」の衝突であると見る新しい見解を理論的に仕上げた人たちの中には、真っ当な認識の根本条件としての自己批判の精神が生きているのだった。因みに、「客観的」ということも又、自分にとって歓迎できない事も事である以上それとして受け容れるという、「寛容」の原則を含んでいるのだ。
*内村 鑑三(うちむら かんぞう、万延2年2月13日(1861年3月23日)- 昭和5年(1930年)3月28日[1])は、日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。「代表的日本人」の著者でもあるUchimura Kanzō (内村 鑑三? 26 de marzo de 1861 – 28 marzo de 1930) fue un autor y evangelista cristiano japonés, y fundador del Movimiento de la No-Iglesia (Mukyōkai) del cristianismo en las eras Meiji y Taishō de Japón. Con frecuencia es llamado el pacifista más bien conocido de Japón antes de la Segunda Guerra Mundial.1
しかし、第一次大戦を新たな形態の「帝国衝動」の衝突と見る見方は、その戦争の社会的動機と発生の社会条件とを明らかにしたものであって、戦争の遂行の中で始めて次第に明らかになった戦争の在り方の新しい実態を解明したものではなかった。その意味では一面的であったと言える。しかし、だからと言って、戦争の発生条件を説くに当って「社会経済」の局面を一面的に基本とし過ぎているから不十分だという、広く行き渡っている批評は当ってなくは無いが可成りつまらない批評である。社会経済の面だけでは不十分なのなら別の面からの解明を自分が補足すればよいのだ。人が、そして社会が生きていくのに「経済」的局面が基礎的な要件の一つである以上、その局面に即して世界的出来事の発生条件と社会的動機とを明らかにすることは、その出来事に対する認識を或る大切な面で接点まで深めることを意味する。
けれども、社会の裡に潜む動機とその動機を表にして出現して来る或る出来事の最初の発生を明らかにしたことが、直ちにその出来事の実態を解明したことになるとは限らない。何故なら、出来事が予定表のスケジュールとは異なった出来事である限り、それはカール・ポッパーの言う社会現象に固有の「予期せざる結果」によって左右されながら、その出来事の進行過程の中から新たな動機が生まれ、新たな事態の芽が発生して来るからである。事の進行が別の事を生み出すのである。特に時代が急速に変貌する場合に起こる大きな出来事の中には、この「出来事自体の自己増殖」とその結果起こる「自己変貌」の現象は顕著な形で現われる。第一次大戦は紛れもなくそういう出来事の大典型であった。
*カール・ライムント・ポパー(Sir Karl Raimund Popper、1902年7月28日 - 1994年9月17日)は、オーストリア出身イギリスの哲学者。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授を歴任。社会哲学や政治哲学にも言及した。純粋な科学的言説の必要条件としての反証可能性を提唱した。精神分析やマルクス主義を批判。ウィーン学団には参加しなかったものの、その周辺で、反証主義的観点から論理実証主義を批判した。また、「開かれた社会」において全体主義を積極的に批判したSir Karl Raimund Popper CH FBA FRS[9] (28 July 1902 – 17 September 1994) was an Austrian-born British[10] philosopher, academic and social commentator.[11][12][13]


結論的に言おう。第一次大戦は、当事者の誰もが予想しなかった「戦争の在り方における全体主義」を、あれよあれよと言う間に生み出して了ったのだ。何が全体主義なのか。どの点が全体主義なのか。先ず第1に宣伝戦の全般的発生とそれがもたらす社会的含意だ。先ず、その時、どの国も全国民に向けて広汎な宣伝戦を行なうことになった。そうなった経緯については省略する。しかし宣伝戦の全般化とは何を意味しているのか。自他の国民全体に対して自国の軍事行動を宣伝することは、兵隊と市民、戦闘員と非戦闘員、戦線と社会生活の間にあった区別を精神面で取り払って、市民と社会生活の領域とを精神的に戦争に動員し参戦させることを意味する。従って第2、戦争は制度上の戦闘員たる兵隊が行う戦闘行為に止まることをやめて、外的行動のみならず人の内面、特に一般市民の内面をも「もう1つの戦闘員」とするものとなることを意味する。人の内面と外的行為との区別を取り払って人の持つ全ての要素を丸ごと参戦させるのである。いきおい、交渉による停戦や和解は成立しにくくなって了う。政府の決定の下に軍隊だけが前線で戦を行なっているのなら、政府の判断と政府間の交渉で簡単に戦争をやめることが出来る。社会の方は(特に兵隊の家族は)喜びこそすれ文句は言わないであろう。しかし、「銃後」の一般国民の精神を戦争に参加させて了うと、彼らの精神は実際の戦場で生死を賭けさせられたつらさを知らないだけに、経験を欠いた戦争意欲の塊が全社会に 浸することになる。経験を欠いた欲望は無闇に昂進する。戦闘経験を持たない者の戦闘意欲は、実態の苛酷さという抑制の根拠を内部に持たないために、徒にひたすら燃え上がるばかりである。第一次大戦中に交戦各国の国民の間に「ナショナリズム」の異常な昂進が国家史上始めて起こったのは此の故であった。そうして異常な意欲を説得によって鎮めることは殆ど不可能に近い程むつかしい。けれども、20世紀の戦争当事国の場合、政府自らが、宣伝戦を行なうことによって「もう1つの戦闘員」として一般国民の精神を参戦させるために、無経験の異常な戦闘意欲が発生し普及したのである以上、もし早く戦争をやめたければ、相手国政府との交渉だけでなく、自国内に 浸している戦争意欲を鎮めなければならない。そしてそれは性質上至難の業である。すなわち、対象が理詰めの説得の範囲外にある非合理的な意欲であるという事情と、それを動員した者が今それを鎮めようとする者自身であるという「マッチ・ポンプ」的経過から見て非常に厳しい。かくて停戦は、交戦国の一方或いは双方がへとへとになって了うまでは不可能になって了う。戦争は時間的にも無制限になり、その意味でも「全体化」する。社会全体がくたるまで続くのだ。特に敗戦国の場合、その疲弊は物心両面に渡って壊滅的なものになり、それが次々に起こる「政治支配の全体主義」への1つの条件ともなったのであった。                                                              
宣伝戦の全般的発生が含む帰結は、大凡のところでも、今述べたような幾つかの重大な出来事を産み落したのであった。しかし第一次大戦が「戦争の在り方における全体主義」となったのは宣伝戦の登場によってだけではない。新しい兵器の一群が戦争の在り方を一変させ「全体戦争」をもたらした。機関銃と戦車の普及は、一発づつ狙い打つ遣り方―それなら、いくら兵器が「発達」しても、まだ、1人1人の戦士が「名乗り」を挙げて戦いあったフェアーな戦闘の延長線上にあると言えば言えるかも知れないーをやめさせ、撫で殺しにする「大量殺戮」方式の第一歩を踏み出したものであったし、飛行機の急速な増大、これまた「前線」と「後方」の区別、ひいては戦場と一般社会、兵隊と市民の区別、動員された1兵士と決定権を持つ将軍や幹部との区別を取り払う方向に戦争の在り方が変わっていくことを示していた。大空と地上との区別を無視する飛び道具が軍事的に使われる時、軍隊という戦闘用特殊組織と一般市民が暮らしている生活社会との決定的な違いもまた無視されるようになる。軍人が制服を着ることの正当な理由は、ただ一つ、自分たちが或る国の戦闘員であることを明示して、戦争の際に非戦闘員たる一般市民が攻撃されることのないように、戦闘員としての自分の全身を標識化しておくことだけなのである。それは戦争におけるフェア・プレイを守るための一手段だったのだ。しかし、戦争と生活社会の区別が曖昧になり、戦闘員と非戦闘員の区別が決定的なものでなくなって了うと、制服による兵隊の特定もその正当な理由を失う。その特定にあえて意味を持たせようとすれば、敵兵器を操る熟練者にすることであり、したがって無差別な「大量殺戮」のベテランたらしめることとなるんであろう。こうして「正規軍」と呼ばれる制度上の軍隊の意味さえも変質してくる。
新兵器の群は、もちろん今挙げたものにとどまらない。潜水艦の出現は海上と海底の区別を取り払って、これもまた従来のフェア・プレイの原則を否定して了ったし、「前線」と「後方」が一続きのものとなったことは、輸送車や輸送船や輸送機をも兵器にしていった。戦争という国家の一行為は、かくて、限界づけられた部分的行為ではなくなった。その行為に参加する(させられる)者も、1部の限定された制度的組織だけではなくなり、その行為の行われ方も、戦争の中での地位や人物の重要度の違いを無差別に無視し、抑制を持ったルールに則ることもやめて、ひたすら相手の「消耗」を増やし、自国の「消耗」を少なく抑えようとだけ心掛けることとなった。
「消耗戦」という軍事用語が概念として生まれた。戦争は国家の行為の一つであるにもかかわらず、全国家組織のみならず全社会の全ての要素を動員して「消耗」し尽くす恐るべき無制限の行為となったのである。通常の意味での社会的現象だけではなく、人の心をも「消耗」し、普段は社会的なものとして意識されない生活環境さえもが、すなわち「党」や「海中」すらもが可能な限り使い果たされようとするに至ったのだ。「戦争の在り方における全体主義」の発生とはこのようなものであった。私たちは今それらの特徴のあれこれを「平穏な」日常生活の中で受け継いでいないであろうか。「生活様式における全体主義」として。                         


20世紀を人類史的に劃する最初の出来事は、こうして、「戦争における全体主義」の発生であった。「予期せざる結果」として図らずも産み出された此の恐ろしい事態の結末は、もちろん、文明世界の荒廃であった。詩人エリオットの言う「荒地」もその1部であり、チャップリンの描く「家なき人々の飢えと浮浪」もその荒廃の表現であった。しかしその荒廃の極点は、「消耗戦」の敗北国の社会に現われていた。動員されて消耗され尽くした結果、従来の職場はなくないり(失業)、近隣・友人のつながりは雲散霧消し(社交の消滅)、過激なインフレは物との関係における尺度や基準を喪失させ、数時間後の事態を予測すらも不可能にする程、不安定な状況が毎日の日常を支配し・・・。こうして、一口で言えば全員が自分の生活社会を失ったのである。そうして生活社会を失った人間は、もはや人との関係でも物との関係においても社会人ではなく、関係のつながりの網目から放り出された無社会的孤立者である。すなわち哲学者の言う、自己にだけ「盲目的に執着する雑役的実存」という奴である。そこには他人との関係や物事との関係の中にだけ保たれる「我が汝」、「此れ(比較的自分の近くにあるもの)とあれ「比較的自分の遠くにあるもの」の意識はもはや在りえない。すなわち「身も心も我を喪った者」の群れだけがその状況を埋め尽くしている。「徳としての没我」とは正反対の自己喪失者群、冷静に沈思黙考するソリテュードとは正反対の焦燥に駆られたロンリー・クラウド、否定的情緒に満ちたこれらの者が此の状況の支配的な主役であった。それは、「身も心も失って」いるだけにちょっとした機会さえあれば、己れに都合の良い「指導者」や「組織体」に「身も心も」任せようとして待っている。それは「機会主義」的な「英雄待望論」の持ち主でもあり、同時に「己れが無い」だけに機械的な組織規律の歯車としては冷静な技術者でもあった。「20世紀的現象としての「社会統合なき大衆」とはそういう存在であった。持続的で安定的で堅実な存在はもはや無くなり、その代りに、一時的・刹那的で、しかも否定的で破壊的な実存(衝撃としては自己破壊的でさえある実存)が、他の存在形式を一掃して此処に存在者の主役となったのである。ほんの相対的・一時的な安定性や持続性をも許さない機会主義的「発展」性と「運動」性を核心とする此の実存の集合によってもたらされた状況はもはや「社会」ではなく、その都度、衝撃的に「決断」され、絶えず外側から指令される。変転極まりない無社会状況である。往来の常識からすれば到底予想もできなかったその凄じい状況を支配すべく出現した政治的枠組みが「政治支配における全体主義」であった。

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