日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

全体主義の時代経験・Expérience des temps totalitaires・Sperto pri totalismaj tempoj・전체주의의 시대 경험⇒ 这是极权主义的“安慰”方法/藤田省三・Shozo Fujita・후지타 쇼조②



(註)人間という存在が1人だけで「因縁の白兎」のように被履物なしに赤剥げの肉を痛々しく曝して「放り出されてあるもの」(Geworfenheit)だという命題は正しい。但し、そのことを自覚することは不幸な結果をもたらすのであり、そしてその不幸な自覚は、否応なしに、人間というものを「理性」の体現者としてだけ扱う17、8世紀の地点から、もっと統合的な領域の居住者へとその存在と活動を移し直す。「信仰への飛躍」とか「無への献身」とか・・・を含んだ。総じてまずい学界用語で言う「生」と「実存」という非合理性を含む総合体が「哲学」なるものの主題となる。その時、「哲学」はその諸体系の意味である明晣と「哲」性を失い、別の必要な知的営為へと事実上変化している。「新カント主義」とか「新・・・」とかが頼りに現われる所以である。そしてそれらの中から古い哲学的範 を修正的に用いながら新しい総合的事態を何とか認識の視野に納めようと幾らかの方法上の成功を生んだ例に、例えばフッサールの「超越論的主観」がある。そうした「哲学」以外の領域からも例えば「社会学」の名の下に「生」の総合性に迫ったものにジンメルその他等々の営為があった。それらの中には或る種の生産性が満ち満ちていた。しかし、他方、この新事態に対して古い哲学的方法を用いることを一切否定し、この新事態のもつ「生」の総合性をも否定して、「存在」をただ時間という有限性に、即ち「死」という目標にだけ収 する営為として従って「生」の時間はただ無方向な一瞬の「決断」だけに収 させたのが、所謂る20世紀的「実存哲学」であった。その一点収 性はキェルケゴールの非攻撃性とは正反対の全方向的・無限的攻撃性に満ちている。
こうして「放り出されてあること」という命題が命題として自覚されるためには、不可欠の前提条件があったし今もある。「個人主義」が社会的に正統なものとして認められているということと、その「個人主義」が「家」や「近隣」やその他の「ホーム」から切り離された「孤独なる群衆」の単位へと変質しているという二つの前提である。「被役性」なる定義がヨーロッパで初めて生まれ、その他の地域で発明されなかった所以である。但し、「発明されなかった」ということと、それが普及した時に出てくる不幸度の早さ、深さやそれがもたらす不幸の大きさの如何という問題は別問題である。

「政治支配の全体主義」は、「戦争の全体主義」が生み落された社会的結末としての無社会状況を、そのまま政治制度化しようとするものであった。その無社会状況に偏在する不安と恐怖と怨恨、すなわち不安定性をそのまま制度化しようとするのが「政治支配の全体主義」なのであった。
*トマス・スターンズ・エリオット(英: Thomas Stearns Eliot、1888年9月26日 - 1965年1月4日)は、イギリスの詩人、劇作家で文芸批評家である。代表作には、5部からなる長詩『荒地』(The Waste Land、1922年)、詩劇『寺院の殺人』(Murder in the Cathedral、1935年)、詩劇論『詩と劇』(Poetry and Drama、1951年)などがある。1948年度のノーベル文学賞を受賞した。托马斯·斯特恩斯·艾略特,OM(Thomas Stearns Eliot,1888年9月26日-1965年1月4日),美國英國诗人、评论家、剧作家,其作品对二十世纪乃至今日的文学史上影响极为深远。1948年,60岁的艾略特被授予他一生中最大的荣誉——诺贝尔文学奖。
*サー・チャールズ・スペンサー・チャップリン(Sir Charles Spencer "Charlie" Chaplin, KBE、1889年4月16日 - 1977年12月25日)は、イギリス出身の映画俳優、映画監督、脚本家、映画プロデューサー、作曲家である。 愛称は「チャーリー」。찰스 스펜서 "찰리" 채플린 경(영어: Sir Charles Spencer "Charlie" Chaplin, KBE, 문화어: 챨리 챠플린, 1889년 4월 16일 ~ 1977년 12월 25일)은 영국의 배우, 코미디언, 영화 감독이자 음악가로 무성 영화 시기에 크게 활약한 인물이다.[2] 그는 그의 캐릭터라 할 수 있는 '리틀 트램프' 캐릭터를 통해 전세계적 아이콘이 되었으며 이 캐릭터는 영화 산업계 역사상 가장 중요한 캐릭터로 인식된다.[3] 그는 어린 시절 빅토리아 시대에서부터 그가 88세를 일기로 사망하기 전까지 75년을 일했으며 그동안 수많은 찬사와 비난을 받아왔다. 

(註)「制度」という言葉を使うと、とかく国家や「組織体」に顕著な人工的な「機構」的性格や「機械」に似た特徴―成員個人は個性を消してあらかじめ定めれらた「役割(役職)を能率よく杓子定規に実行する。分業化された「挙国一致」的集合体を念頭に置きがちであり、そしてそう言うのは、支配的「制度」の圧倒的多数がそういう「機械」である現代社会では当然であるが、しかし、元来「制度」と呼ばれるものには殆ど正反対の2つの種類があって、1つは、「社会生活」と呼ばれる行動様式のなかに融け込んで、「文書化」など到底できない程、習慣的枠組みとなり、人々の社会行動の「規準」(比較的ルーズでしかも容易に「朝令暮改」できない)となっているものであり、それは、例えば「社会制度」あるいは「社会化された制度」と分類されておいてもよい。その代表は「家族制度」であり、「群れ」もしくは漁労・狩猟を含む「村」制度である。そこでは「掟」(文字通りGesetz定置されたもの)は「文書化」されない。すなわち法律化などされず「六法全書」や「第六典」や「十二表法」にはならないのだ。つまり「国家制度」や「社会組織」や「学校制度」、総じて官僚制組織体とは縁遠い。その代わり人々のパースナルな「結びつき」(対話・喧嘩を含めて)の下に行なわれる社会生活の、表面立たない中心部分の核心を為している。その意味で「家族制度」や「同族社会」や「ムラ社会」は、対人的社交的動物としての人間生活を保護し保証しているという点で最も重要な社会制度なのだ。そこでは、言葉を必要としない「会話」も多く、記号化(即ち機械化)とは縁遠い「多種・多様な相互作用」が常時含まれている。人間が活性や理性だけでなく情報や非合理的感情を大切な構成要素としている生き物だとするなら、これら社会生活の中に埋め込まれている社会制度こそが、人間を逸脱から守っている保護要因なのではないだろうか。
そのせいかどうか、人間社会では「文明度」などの差異とは関係なく、「家族制度」や「群れ制度」は時間的にも最も古く、空間的にも隙なく普遍的である。にもかかわらず、人類史上文明の総見直しが要求されている今日になってもなお、その根幹的制度、人類の根幹的制度の内部構造―「家族制度内相互作用」(その微妙さ、繊細さ、脆さ、強靭さ)等の分析や解明や説明は殆ど皆無である。そこに隠されている多種・多様性の中には対立が同時に相互扶助的であったり、その逆が貫いていたり、その構造は「弁証法的」複雑さを内包している。それに対する反省的考察がないことは、終末期文明の退廃を示す一つの指標かもしれない。私たちはそれでよいのか。「反省は再生をもたらすことがある」のだ。動かし難い悲観的現実は変わらないけれども、それでも、ソルジェニーツィンではないけれど「陰気に生きて何になるのか?」という問いは、自分に対しても苦しんでいる者に対しても、有益な賦活剤になる筈だ。今日的現代社会の中での勇気の有無はそこに係っているように思う。

けれど凡そ制度なるものの唯一の特徴は、それが一定程度の安定性を保障するところにこそあった。“悪法すらが無法より勝る”と言われるのもその故であった。ところが20世紀前半に産まれてきた「政治支配の全体主義」は制度のもつ唯一の特徴と正反対のものを制度に仕上げげようとするものであった。途方もない逆説が此処に実現を強いられた。従来「制度」と見做されたものはその根拠・理由・価値を奪われた。即ち意味としては終末を宣言された。そして制度を含むことのない政治支配はかつて存在し得なかった。その意味では全体主義政治は凡そ従来の政治支配の在り方すべての終末を意味していた。無社会状況の不安定性をそのまま制度化するということは、絶えず一切の安定性を打ち直し、安定性をもたらす社会的制度の萌芽はことごとく摘出切除し続けることを意味する。それは他ならぬ反制度的「運動」そのものでしか在りえなかった。自己の不可欠の基礎としての不安定性を絶えず創り出し続ける「無窮運動」が動き続けるままの姿で制度の名を偕称する。此の点でのみ、「全体主義政治」は全く新しい政治支配形式であった。指導者が「諸君には、闘いと危険と死を約束する」と言う場合、その闘いとは全ての安定性の様子に対する闘いであり、「危険と死」はもちろん終わりなき戦闘的運動のもたらす運命である。その「公約」は無社会状況の不安定性の上に自暴自棄となって開き直る「死への衝動」の動員以外からは生まれない。飽き飽きした「終りなき恐怖よりも、(イッソノコト)恐怖とともに終わろう」と言う恐るべき否定的決断主義に満ちた大衆運動が組織化(「制度化」)されるのは、この状況の下での此の最新政治支配においてだけであった。そして人間にとって質的に最も新しいもの(経験)は死であり終末である。終末のもつ絶対的未経験性=新しさが此処に現われる。政治支配の「黙示録」が、神話的・物語的・預言的形式から一転して歴史的・事実的・世俗的形式において展開されることとなった。その現場に生きた者にとっては少なくともその時は「かくも長い日日」であったかも知れないが、長い目で今日から見ればアッと言う間の「破局」(カタストローフ)であった。
実際にはそういう歴史的特徴をもった「政治支配の全体主義」は、通常「イデオロギーの政治支配」と呼ばれてきた。しかし果たしてそうか。意外に思われるかも知れないが、20世紀は初めからイデオロギー終焉時代の最中にあった。
汎く知られているように、西欧の19世紀は思想史上「イデオロギーの世紀」とも呼ばれて、各社会階層・各地域社会・各民族的関連の地点からも、それぞれの社会的哲学的経験からも様々の多様な世界像の説明体系が現れ、それが「イデオロギー」と呼ばれて共存しながらお互いを主張しあっていた。それは19世紀西欧に支配的だった。「各種自由の保証体制」と対応していた。

その「イデオロギーの世紀」は、政治的社会制度が宗教・教会との結合から解き放たれて、「世俗化」された西欧の「近代化」について、先ずは16・17世紀の「人文主義の時代」が、次いで18世紀の「哲学・理性の世紀」が現れ、それらの教会に対する社会的勝利の上に立って、より広汎な世界的規模の現象を取り込み、より強力な社会全般への影響を獲得しようとして様々な経験的地点から案出されたものが19世紀のイデオロギーであった。                             
これら諸々のイデオロギーの間には、当然のことながら、形態においても、質の高さについても、種々な違いがあって、例えばナショナリズムのようなノッケから集団的形態をもったものであれば、知的代表たる個人の名を冠して、その人個人の考え方の特徴から公然と離れることは絶対にできないようになっているものもある。そして両者ともども、そのイデオロギーを信奉した「主義者」集団内部には通俗的社会的偏見を比較的たくさん含んだ部分があれば、それが少ない部分もあった。集団的形態のものには、そうした部分は不可避的に多量化せざるを得なかった。そうして、どんなに質の高いイデオロギーにもそういう、いわば、の部分を、信奉者集団がある限り、包含せざるをえなかった。そういう意味では、およそ宗教に「完全に純粋なキリスト教」や「完全に純粋な仏教」そのものがありえないように、知的代表者や創始者が思うような「完全純粋なイデオロギー」は社会的には存在しえなかった。だからこそ、一層、知的質の高さの違いが、其処に集まった人々如何によって、しばしば極端な大きさをもって存在していた。
こういうイデオロギーの質的な違いがあったからこそ、20世紀(第一次世界大戦後)になってからも、一方の形のものに対しては、マルクス主義において起こったように、世界中の思慮深い「知識人」が現代の無社会状況を克服するための起死回生の方図をその中に求めて、信奉者となり、他方の形のものに対しては、ナチズムにおけるように、無社会状況の中で方向感覚を失った「実存」の刹那決断主義が自暴自棄の衝動的熱狂をもって自らに対する「鉄の箍」を求めて飛び込んでいったのである。              

それらを含めて、もろもろのイデオロギーの「対立・競争」を含んだ共存状態こそが、先述したように、いわゆる西欧19世紀を特徴づけた「自由なる体制」の思想次元における現れなのであった。そして今日、いささかロマンチックに流行させられている「共存」とか「共生」とかいうものは、流行のなかに泳いでいる人が言う時には、良いことづくめではない。その中にある「対立・競争」が相手に打ち克とうとする「運動」を生み、その運動に巻き込まれると、実存物はその存在形式の変質を始める。19世紀西欧の「イデオロギー」の場合には、経験的根拠地からする世界解釈であったものが、運動主体となるにつれて、対立・競争運動の「所信表明演説」プラス「段取り表」即ち「綱領」或いはそれへの対抗者となっていた。例えば「ゴータ綱領批判」のように内容的によく出来ているものであっても、その根本的現象形式の変化を体現した一例であることには変わりはない。
こうしてイデオロギーは1つの経験的社会集団を代表する文化体系(希望・価値・現状および歴史認識等々を総合的に表現している世界像)であることを止めて、勝利と制覇を目指す運動の綱領へと変化し、やがて到来するテロルの時代の政治的道具になれるようにと変質し始める。
一方、そういうイデオロギーの社会史的変貌・終焉史の経過は、イデオロギー自体の次元では、時代変化に対応した新しい世界観察の創造不能という形で現われていた。西欧の19世紀的構造が変質し始めた後半以来、その状況変化に対応しようとした思想的努力は、しばしば、例えば、「カント主義」と呼ばれたり、「ヘーゲル主義」と呼ばれたり、「即物主義」とよばれたりした。古い固有名に新解釈を施してそれでもって対処しようとし、また対処できると思ったのである。


*イマヌエル・カント(Immanuel Kantドイツ語: [ɪˈmaːnu̯eːl ˈkant, -nu̯ɛl -]、1724年4月22日 - 1804年2月12日)は、プロイセン王国(ドイツ)の哲学者であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授である。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらした。フィヒテ、シェリング、そしてヘーゲルへと続くドイツ古典主義哲学(ドイツ観念論哲学)の祖とされる。彼が定めた超越論哲学の枠組みは、以後の西洋哲学全体に強い影響を及ぼしている。Deutschドイツ語→Immanuel Kant (* 22. April 1724 in Königsberg, Preußen; † 12. Februar 1804 ebenda) war ein deutscher Philosoph der Aufklärung. Kant zählt zu den bedeutendsten Vertretern der abendländischen Philosophie. Sein Werk Kritik der reinen Vernunft kennzeichnet einen Wendepunkt in der Philosophiegeschichte und den Beginn der modernen Philosophie.
*新カント派 (しんカントは、独: Neukantianismus)は、1870年代から1920年代にドイツで興ったカント的な認識論復興運動およびその学派である。新カント学派とも。Русскийロシア語→Неокантианство — направление в немецкой философии второй половины XIX — начала XX веков.

*ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770年8月27日 - 1831年11月14日)は、ドイツの哲学者である。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、フリードリヒ・シェリングと並んで、ドイツ観念論を代表する思想家である。18世紀後半から19世紀初頭の時代を生き、領邦分立の状態からナポレオンの侵攻を受けてドイツ統一へと向かい始める転換期を歩んだ。Magyarマジャール語→Georg Wilhelm Friedrich Hegel (Stuttgart, 1770. augusztus 27. – Berlin, 1831. november 14.) német filozófus, egyetemi tanár; a klasszikus német filozófia és a német idealizmus legnagyobb és legjelentősebb képviselője.
*新ヘーゲル主義(しんヘーゲルしゅぎ、独: Neuhegelianismus、英: neo-hegelianism)は、19世紀末から20世紀前半にかけてドイツ観念論の哲学者ヘーゲルの哲学を見直し、復興させようとした一連の運動の総称である。Češtinaチェコ語→Novohegelovství či novohegelianismus je široký a rozrůzněný filosofický proud z konce 19. a první třetiny 20. století, který se snaží obnovit a modernizovat Hegelův absolutní idealismus, mnohdy jako reakci na dobové šíření materialismu a pozitivismu. Není vždy zcela jasná hranice mezi novohegelovci a ortodoxními hegelovci.

*新即物主義(しんそくぶつしゅぎ、英: New Objectivity)は、ノイエザッハリヒカイト(独: Neue Sachlichkeit)とも呼ばれ、第一次世界大戦後に勃興した美術運動である。1910年代の個人の内面と探求の表現を目指した、主観的ともいえる表現主義に反する態度を取り、社会の中の無名性や匿名性として存在している人間に対し冷徹な視線を注ぎ、即物的に表現する。1925年、マンハイム市立美術館で開催された展覧会『ノイエザッハリヒカイト(新即物主義)』が始まり。その過酷なまでの人物描写は魔術的リアリスムという言葉を生んだ。後に音楽分野にも波及したが、ナチスの台頭とともに退廃芸術として迫害を受け収束する。Nederlandsオランダ語→De nieuwe zakelijkheid (Duits: Neue Sachlichkeit) (1918-1933) was een stilistische reactie binnen de kunsten op het expressionisme dat eraan vooraf was gegaan.
(註)そういう「適応不安」、すなわち古い固有名に自爆されたまま目前の新しい「世界」に対面しようとする、いわば、「足踏み状態」を繰り返す「錯覚前進感」の支配している中にあって、例えば、フッサールは「事物への帰還」を求める方法を「現象学」の名の下に提起し、ベルグソンその他も「生」の根本を問題化し、ジンメルは「貨幣の哲学」以下「闘争の哲学」等々―と、「生活」の中に宿っている全ゆる問題の骨格構成(形式)を取り出しながら「生」の問題そのものを問題化した。それらは全て正しい一面を衝いている。但し、全面的にではない。試みに、例えば、ジンメルの哲学的著作集各巻の「・・・の哲学」から「哲学」の文字を取り除いてみるならばすぐ分ることだが、実は、それらの著作の主題は哲学なのではなく、「生活」と「社会」の中の新たな主要問題以外の何ものでもなかった。そのことはちょっと読めば一目瞭然である。「ゲゼルシャフト」然り。「不安」然り。「闘争」然り。等等である。そうすると、彼の主著の適切なタイトルは、「社会学」だけということになる。彼の特徴はそうした社会学主題を無理にでも「哲学」的伝統にくっつけようとした。ドイツ的性格への忠実さにあろうか。フッサールの用語法にもそれと似た「経験的」ではない「純粋理性」の濫用という「現象」がある。それについては今は言わない。
ともあれ、こうした西欧社会が19世紀後半以後、直面した問題は、人間社会の「生」の諸問題そのものであり、その諸問題に接近する方法は「物事への現象学的帰還」以外になかったことが明らかであった。今日からみれば、そのことはますます疑えないのだが、何故そう言えるかという理由は、後の文の中で簡潔(できれば殆ど示唆的に)略述することにしたい。


*エトムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl ドイツ語: [ˈʔɛtmʊnt ˈhʊsɐl]、1859年4月8日 - 1938年4月27日[1])は、オーストリアの哲学者、数学者であるLatinaラテン語⇒Edmundus Husserl fuit philosophus et mathematicus germanicus. Natus est 8 Aprilis 1859, obiit 26 Aprilis 1938. Husserl erat conditor phaenomenologiae; voluit, ut philosophia scientia stricta esset. Et philosophiam matematicae studuit.

*アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson [bɛʁksɔn]発音例、1859年10月18日 - 1941年1月4日)は、フランスの哲学者。出身はパリ。日本語では「ベルグソン」と表記されることも多いが、近年では原語に近い「ベルクソン」の表記が主流となっている。Françaisフランス語→Henri Bergson, né le 18 octobre 1859 à Paris, ville où il meurt le 4 janvier 1941, est un philosophe français. Parmi les ouvrages qu'on lui doit, les quatre principaux sont l’Essai sur les données immédiates de la conscience (1889), Matière et mémoire (1896), L'Évolution créatrice (1907) et Les Deux Sources de la morale et de la religion (1932). Bergson est élu à l'Académie Française en 1916 et il reçoit le prix Nobel de littérature en 1927.

*ゲオルク・ジンメル(ドイツ語: Georg Simmel, 1858年3月1日 - 1918年9月28日)は、ドイツ出身の哲学者(生の哲学)、社会学者である。ジムメルと表記されることもある。ドイツ系ユダヤ人(キリスト教徒)。社会学の黎明期の主要人物としてエミール・デュルケーム、マックス・ウェーバー、カール・マルクスなどと並び称されることが多いDeutschドイツ語→Georg Simmel (* 1. März 1858 in Berlin; † 26. September 1918 in Straßburg, Deutsches Reich) war ein deutscher Philosoph und Soziologe.Er leistete wichtige Beiträge zur Kulturphilosophie, war Begründer der „formalen Soziologie“, einer Stadtsoziologie und der Konfliktsoziologie. Simmel stand in der Tradition der Lebensphilosophie, aber auch der des Neukantianismus.

*共同体(きょうどうたい)とは
1、コミュニティ(英語:community):英語で「共同体」を意味する語に由来。同じ地域に居住して利害を共にし、政治・経済・風俗などにおいて深く結びついている人々の集まり(社会)のこと(地域共同体)。日本語では「地域共同体」が「地域社会」をも意味し得うるため、転じて国際的な連帯やインターネット上の集まりなども「共同体」あるいは「コミュニティ」と呼ばれる(例:欧州共同体、ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体、アフリカ連合、米州機構、東アジア共同体(計画中)、国際航空通信共同体)。地域の共同体であることよりも地域住民の相互性を強調する場合、地域コミュニティとカタカナ表記する場合も多い。
2、ゲマインシャフト(ドイツ語:Gemeinschaft):ドイツ語で「共同体」を意味する語に由来。地縁、血縁、友情などにより自然発生した有機的な社会集団のこと。共同体組織[1]。共同社会。ドイツの社会学者、フェルディナント・テンニースが、ゲゼルシャフト(ドイツ語:Gesellschaft、機能体組織[1]、利益社会)の対概念として提唱したもの。近代以降の社会や組織の性格を考える上で広く受け容れられている。
3、組織の名称の一部として用いられることがある。欧州共同体など。

Esperantoエスペラント語→Komunumo aŭ pli precize Homa komunumo estas socia grupo de entoj kiuj kunhavas socian medion, normale kun kunhavitaj interesoj. En homaj komunumoj, intenco, kredo, preferoj, bezonoj, riskoj kaj multaj aliaj kondiĉoj povas ĉeesti kaj esti komunaj, tuŝante la socian identecon de la partoprenantoj kaj ties grado de konverĝo.
こうして、「イデオロギーの時代」に一点中心的総合性を誇ったイデオロギーの終焉は19世紀半ばには既に現実に向かっていた。イデオロギーは19世紀に初めにフランス革命とともに始まり、19世紀後半、市場経済社会が「国民経済」という制限を破って泡沫会社とともに世界中へ飛散しながら膨張を開始した時、終末の時を迎えていたのであった。まことに、西欧の「19世紀」は、政治的・文化的には国民国家群が対立・競争しながら、同時にローマ帝国以来の太い絆で結ばれた一定枠内の国際社会を構成していた(今日のECはその後者の方の伝統を何とか制度化して生き残ろうとする試みに過ぎないのだ)。
経済的には、ビュヒナーの言う「国民経済」を基礎単位として「民富」の形成を基礎としながら、各基礎単位が争い合いつつ、「市場社会」(ヨーロッパ)が非ヨーロッパの「自然経済」から絶えざる収奪補給を繰り返して資本蓄積・再蓄積を営んでいくという、ダイナミックな弁証法的連合体であった。その意味でいわゆる「資本主義」は、前資本主義的「自然経済」地域の広汎な存在を自己のために必要不可欠なものとしていたのであった。目下おしなべて不評の「マルクス主義者」の中にだけその点を鋭く明確にした理論家がいた。

(註)ポーランド・ユダヤ人で不完全なドイツ語を書いていたローザ・ルクセンブルグがその人である。その名著「資本蓄積論」は数十年前に岩波文庫で訳されながら、今日、未だに品切・絶版である
*カール・ゲオルク・ビューヒナー(Karl Georg Büchner、1813年10月17日 - 1837年2月19日)は、ドイツの革命家、劇作家、自然科学者。Françaisフランス語→Georg Büchner (Goddelau, 17 octobre 1813 – Zurich, 19 février 18371) est un écrivain, dramaturge, révolutionnaire, médecin et scientifique allemand. Malgré la taille modeste de son œuvre — essentiellement trois pièces de théâtre, une nouvelle et un tract —, il est devenu tardivement l'une des figures marquantes de la littérature allemande du XIXe siècle2, surtout grâce à ses drames La Mort de Danton et Woyzeck.

Teoria akumulacji kapitału Rosa Luxembourg Wszystkie 3 książki  Роза Люксембург Теория накопления капитала Все 3 книги
20世紀初頭の革命運動にとって,集中と独占の様相を深める新たな資本主義の分析は,革命の戦略にかかわる緊急の課題だった.ホブソン「帝国主義」,ヒルファーディング「金融資本論」の後を受けて登場した本書は,マルクス主義の重要文献であり,「資本論」の理解をめぐる激しい論争をまきおこした問題の書でもあった.Polskiポーランド語⇒Dla ruchu rewolucyjnego na początku XX wieku nowa analiza kapitalizmu, która pogłębia aspekt koncentracji i monopolu, była pilnym zadaniem związanym ze strategią rewolucji. Ta książka, która ukazała się po „Imperializmie” Hobsona i „Teorii kapitału finansowego” Hilferdinga, jest ważnym dokumentem marksizmu i jest książką zagadnień, które wywołały intensywną debatę na temat zrozumienia „teorii kapitału”. To było.


「イデオロギーの字再」としての西欧19世紀はそういう構成をとっていた。だからこそ、「イデオロギー概念」の意味自体が、周知のように、相矛盾する二重性をもっていたのである。「イデオロギー」がその「対立・競争」の面を担っている場合には、イデオロギーという言葉が対立相手に対してだけ悪罵的に用いられ、全ての社会集団のもつ文化体系(ギアーツ)、即ちマルクス主義者の言う「上部構造」一般の意味は隠される。この「イデオロギー概念」の意味自身の対極的二重性はフランス革命に始まる西欧19世紀の政治社会の根本特質を極めて良く表わしていた。即ち知識の体系という意味で用いられたイデオロジー(観念学)という概念自体が、フランス革命時のコンディヤック派の知識人から生まれた、彼らが軍事的対外侵略を行なうナポレオンに対して批判的になって以来、逆にナポレオンから大言壮語する空論家として非難され、以後、「イデオロギー」は非現実的な誤った概念という意味と、概念体系一般という意味の両極に分解して用いられる「マルクス主義における「ドイツ・イデオロギー」と「上部構造論」を想起されたい」。

*エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック(Étienne Bonnot de Condillac、1714年9月30日[1] - 1780年8月3日)は、フランスの哲学者、聖職者である。先行世代のジョン・ロックに影響を受けて主に認識論における研究を行い、経験論的認識論を発展させた。埃蒂耶納·博諾·德·孔狄亚克(法语:Étienne Bonnot de Condillac 1715年9月30日-1780年8月3日)是一位法国哲学家、认知学家。他研究的领域涉及心理学与思维哲学。孔狄亚克出生于法国南方的一个贵族家庭,曾经在里昂耶酥会专科学校就读,后毕业于巴黎索邦神学院。他曾与狄德罗结识并参与了《百科全书》的撰写工作,对启蒙运动产生影响。
こうして、「イデオロギー概念」の対極的二重性は、(1)フランス革命のもたらした普遍的「人権宣言」と国民国家内にだけ制限された法治主義的権利保障。(2)「国民経済」を基礎単位とした西欧市場経済地域の「自然経済」地域との矛盾的結合。(3)「文明」と「野蛮」の二重世界像。-それらが示す矛盾体の1つの派生体であった。
そして今日、私たちは会話の中でさえ「イデオロギー」という言葉に好意を含めては使わない。「文化体系」という言葉への好意とは逆に、何かの実在についての歪みを含んだ不公正な意見としてだけ理解しがちである。かくて「イデオロギー」の言葉の意味の両義性すらが終わってしまったのである。
それはしかし当然の帰結かもしれない。19世紀後半以来、既に終末を迎えていた。「イデオロギー」の実質が、その形骸化した形のまま政治的全体主義支配の道具として奉仕した歴史を経た後には、元来の意味の二重性など想い出される筈もなかろう。1つの歴史的経過がもともとのものとその意味を消してしまう場合の好例である。
「イデオロギーの時代」とその終焉史の説明がぐだぐだと長引いてしまった先を急ごう。20世紀の「政治的全体主義」を人はーあのH・アレントまでも含めてー「イデオロギーの支配」と言うけれど、実際は、むしろ「イデオロギーの時代」が終わって、その終末の後に残った形骸が支配の綱領的道具となっているのが、20世紀の「政治的全体主義」だあった。
形骸は 髑髏を頭部としている。そしてその頭部の独特の特質は「眼窩の果てしない暗黒」と徹底した「無表情を剥出しにした歯列」である。前者は底知れぬ虚無的技術の行使を、後者は荒荒しい攻撃的欲望の制御なき実現をあらわしている。そしてイデオロギーの形骸もまた、ドクロに従って無表情な「機械の部品性」と剥出しの暴力的攻撃性とを同時に発揮した。
(註)誰もが知る一例をあげれば、アウシュビッツの実行担当者は冷徹極まりない無表情で「処置」を行なったが、その一方でモスクワに向かう進軍部隊は、軍事的重要度の最も高い進軍の途中で、わざわざ無限の迂路ともいうべき複雑なカルパチア山脈中の谷深い小村・小都市を隈無く探し回ってユダヤ人狩りを行ない、それを「収容」すべくアウシュビッツのごときを新設し、そこへの交通路まで考案する。何という軍事的無駄であるか。常軌を逸したこの軍事的浪費は、「卑俗極まりない」反ユダヤ主義の熱狂的な「前衛」ぶりからしか理解できない。もし、彼らがカルパチアの山中など度外視して真直ぐモスクワに向っていれば、勝敗の帰趨は逆転していたかもしれない。

この相反する両極的態度の一致(無表情な技術処理者と目的合理性の乱暴な無視の下に行動する狂熱家と)、この一致こそが、思想の形骸化から発する。何故なら、思想の形骸化は綱領化を生み、綱領化は思想の中心及び血肉部分(「所信表明部分」)とそれの順次的スケジュール部分への分解を生み、その分解は、1日もじっとしておれない「運動」の中で、スケジュール(行動予定表)の優位をもたらし、そのスケジュールをさらに「戦略・戦術」へと分化させ、やがて何時の間にか戦術の優位をもたらし、遂にスローガン「強迫概念」即ち動かないでいることの不可能な「余裕」の喪失と「実践」との両極が一点に収 する。思想(「考えること」)の解体構造はこのようなものである。だからこそ、其処には「役人」と「跳ね上がり」とがいつも表裏一体として共存し、指導者の一転へと収 しているのだ(何たる指導体制と何たる民主集中制)。
こうした、イデオロギーの形骸化(実質的終焉)は其処に在る価値体系の影響からの脱却、すなわち「科学的」「没価値性」に向けて突っ走った科学主義的文明人間(ウェーバーのいう文化人)の殆んど必然であった。既に見たように形骸化は「運動」と「闘争」の「綱領」となr、「綱領」はそれが含む2つの部分を次第に分極化し、一方をタテマエ化する。無論、「堂々たる」主義のことである。「趣旨説明」との結び付きを全く除外することはできない。特にマルクスの著作のごとき「西欧文明の豊かな部分」を「眩しいほどに」包み込んでいる場合、それを単なるスケジュールへと単純化できるのは、余程の能力に満ちた政治的事務員だけであろう。
(註)レーニンはスターリンと異なって、「思想の事務官」たりえなかった。その意味でなら「書記長」として決して適任であったとは思われない。マルクス主義者としての彼の特徴はーカウツキー、ローザ、等々と共にー、マルクス主義をマルクスの言葉通りに一僧侶や哲学と関係なく、客観化可能な物的諸関係から全てを見ようとする科学的世界観」であり、自分はその弟子だと信じた点にあり、彼らの中でもレーニンはその確信度の方では強い方であった。そして他方、その性格的な確信的態度は、彼が暴力革命の指導者であったために、そちらの国からも「政治的確信」を他人に対して要求することとなった。その両面―「世界像」と社会の中での「革命運動」-を理論上結び付けるものが「戦略、戦術」論であった。その意味で「戦略・戦術」論は、イデオロギーが「綱領化」した段階に適応するイデオロギー史上の画期的な新形態であった。
レーニンがエルンスト・マッハにあれほどの熱烈な敵意を示したのは、マッハ的考え方が「懐疑主義的考え方」を生むこととなるからであった。熱狂的確信を「革命」へと動員しなければならないレーニンとしてみれば、豊かな政治敵や生半可な応援者より、遥かに危険なのは全ての物事に一定の疑問を持とうとする「懐疑主義」であった。又、一方で、勤勉無類のレーニンが「ロシヤにおける資本主義の発達」を書き、「市場の理論」までをも考えたのは、確信的な「科学的マルクス主義者」として、ロシヤに「社会主義革命」が可能であるためには一定以上の「資本主義の発達」が前提とされる、と固くマルクスの「歴史法則」を信じたからであった。「唯物論と経験批判論」や「ロシヤにおける資本主義の発達」についての批評には、そういう、彼の置かれていた歴史的事情が無視されてはならない。


*マックス・ヴェーバー(Max Weber、1864年4月21日 - 1920年6月14日[1])は、ドイツの政治学者・社会学者・経済学者である。マックス・ウェーバーと表記されることもある(正式な名前はカール・エーミル・マクスィミーリアン・ヴェーバー (Karl Emil Maximilian Weber)。Esperantoエスペラント語→Maximilian Carl Emil WEBER ([maks ˈveːbɐ], konata kiel Max WEBER; Esperantigite Makso VEBERO; naskiiĝis la 21-an de aprilo 1864 en Erfurto, mortis la 14-an de junio 1920) estis germana politik-ekonomikisto kaj sociologo, kiu influis sur la socia teorio kaj estas konsiderata unu el la fondintoj de moderna sociscienco[1]

*エルンスト・ヴァルトフリート・ヨーゼフ・ヴェンツェル・マッハ(Ernst Waldfried Josef Wenzel Mach、 1838年2月18日 - 1916年2月19日)は、オーストリアの物理学者、科学史家、哲学者。Češtinaチェコ語→Ernst Mach (18. února 1838 Chrlice,[1] Morava, Rakouské císařství – 19. února 1916 Vaterstetten, Německé císařství) byl český teoretický fyzik, filosof, děkan a později i rektor německé Karlo-Ferdinandovy univerzity pocházející z Moravy.

著者 レーニン 著 , 山本 敏 訳 Развитие капитализма в России Все 3 книги ниже автор Ленин , перевод Тоши Ямамото
農奴制撤廃後30年余,ロシア資本主義のための国内市場がいかに形成されたかを,厖大な統計的材料の批判的加工によって具体的に分析し,前革命期ロシアの社会的=経済的構造を解明したレーニン(1870‐1924)の大著.特に革命的階級闘争におけるプロレタリアートの指導的役割と農民層の2重の役割に関して,明白な解答を与えようとしたことは重要である.Русскийロシア語ロシア語→Конкретный анализ того, как внутренний рынок российского капитализма сформировался более чем через 30 лет после отмены крепостных, был проведен путем критической обработки огромных статистических материалов. Великий труд Ленина (1870-1924), который разъяснил вышеизложенное. В частности, было важно попытаться дать четкий ответ о ведущей роли пролетариата и двойной роли крестьянского класса в революционной классовой борьбе.

かつての教会支配は、思想内容のスケジュールへの単純化をカテキズム(教義的答集)としてそれを発明した。カソリック教会支配の大衆化とともに考案されたものが20世紀の今日に、イデオロギー形骸化の任務を帯びて再生するとは、歴史とは何と「狡智」に満ちたものであろうか。言うまでもなくその変質を発明し実現した最大の功労者はスターリンであった。物を読むほどの感度の持ち主であれば、「スターリン論文」と呼ばれるものに1つでも眼を通してみれば、退屈極まりない平板な羅板的カテキズムの特徴がすぐ見て取れる筈である。其処では主要問題は挙げて並列されているのであり(それ以外には主要問題はないという態度、それこそが最大の主要問題なのだ)、答えもまた全て疑問の余地なく完備されている。イデオロギーが含む思想全ての「問題集」への「革命的」な組み替えが此処にはある。勿論それを決めるのは集中的機構でなければならぬ。そうでなければスケジュールという単純無類の一義性にひびが入り、「所信」や「趣旨」との関連で「議論」が起こってしまう。その議論を「議会主義」的と呼ぼうと、「評議会精神」と呼ぼうと、「綱領論争」と呼ぼうと、それはどうでもよい。要は、イデオロギーが「綱領」の2つの構成要素を矛盾としない形で能率よくスケジュールとして実行されるようになるかどうかである。「実践の優位」はかくの如く核心において変貌する。
「イデオロギー」の抗争的一面→「綱領化」→その内容の「思想」と「スケジュール」の分化→「スケジュールの優先」と「思想の口実化」 19世紀後半・20世紀初頭のこの分解・終焉史が時を同じうした「戦争全体主義」による社会の「破局」をどのように関連するか。既に見たように全体戦争後の「無社会状況」のなかから生まれる逆説的な「制度化」は「追放と拘留」の際限なき拡大を核としながら、狂気のごとく追求される世界大の「運動・機構・組織」の三位一体であった。其処では先ず「不安定」を「制度」の社会的基礎とする限り「追放」が行なわれなければならぬ。すなわち「追放者」が決定されねばならぬ。19世紀に生まれたガラクタ思想の寄せ集めであるナチズムは、前にも述べたように、ヨーロッパ中の最も多数の不安定な群衆のなかに全面的かつ分散的に拡がっていた「反ユダヤ主義」に当然のように飛び付く。4分の1ユダヤ人であろうと10分の1ユダヤ人であろうとユダヤ人性のあるものはことごとく追放される。しかし反面、彼らが誇らしく「支配民族」として想定する「アーリア人種」なるものは如何なるものか、定義されたことがない。逆算すれば、ユダヤ性の皆無のものだけがアーリアなのだ。いかに「ユダヤ人問題」が否定形思考で貫かれていたかがここに明らかであろう。全体主義の「イデオロギー」の特徴はこうして徹底的に「否定的なもの」を表面に推し立てる。その否定の優先にこそある。そしてそのこと自身イデオロギーの終焉形式の支配を何ものよりもよく物語っている。積極的な要素は1つとして提供出来ないのだ。否定と抹殺に全てが賭けられるのも当然というべきかもしれない。
豊か極まりないマルクス主義的伝統を看板にしていた「スターリン主義」の方はどうか。事情は同様である。否定的抹殺にかつての「イデオロギー」の希望的未来の存否が託されていたのだ。
(註)端的な例をあげよう。1928年から始まった「クラーク追放運動」は、実際は勿論ようやく成立した中堅小農民の一掃・無一文労働者の創出であったが、その正当化は“唯一つの階級対立に向かう歴史のなかで滅びつつあり、かつ滅ぶべきである小ブル・農民階級の抹消は歴史の進歩を推し進めるものである”。かくして1千万の農民は「処置」された(チャーチル自伝中のスターリンの言葉)言葉までアウシュヴィッツに似ているではないか。

*クラーク(ロシア語: кула́к)は、20世紀前半のロシア帝国やソビエト連邦国内における自営農家の総称である。ウクライナ史では、クルクーリ(ウクライナ語: курку́ль)として知られる。社会主義および共産主義者からは富裕層に数えられ、迫害弾圧の対象とされた。日本でも、共産主義者・社会主義者(左翼)によって富農という日本語名があてがわれた。土地を所有し、ミールと呼ばれる従来の農村共同体の中では比較的自由な存在であった。ソ連時代には、農業集団化に反対するウクライナなどの自営農民に対するレッテルとして使用された感が強く、日本語訳の「富農」という言葉からも「共産主義に反対して個人で富を蓄える農民」という意味がうかがわれる。「クラーク」というロシア語も、「けち、欲張り」という意味で使われることがある。
Русскийロシア語→Кулаки — при-ня¬тое при советской власти обозначение зажиточных крестьян (часто не занимавшихся лично физическим трудом и имевших, таким образом, по мнению их односельчан или государства, нечистый, нетрудовой доход, что отразилось на негативной окраске данного термина), 1) в узком смысле: крестьян, занимавшихся перекупкой, ростовщичеством и т.п.; 2) в широком смысле: всех за¬жи¬точ¬ных кре¬сть¬ян, особенно использовавших батраков как наёмную рабочую силу[1][2].

サー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(英語: Sir Winston Leonard Spencer-Churchill, KG, OM, CH, TD, PC, DL, FRS, Hon. RA、1874年11月30日 - 1965年1月24日)は、イギリスの政治家、軍人、作家윈스턴 레오너드 스펜서 처칠 경(영어: Sir Winston Leonard Spencer-Churchill, KG, OM, CH, 1874년 11월 30일 ~ 1965년 1월 24일)은 영국의 총리(1940년 5월 10일 ~ 1945년 7월 26일, 1951년 10월 26일 ~ 1955년 4월 7일)를 지낸 정치가이다.
「イデオロギー」の終末形式である形骸化されたそれは、こうして「テロル」=否定的抹殺の綱領的道具となるのである。そして「イデオロギー」的テロルは、個別的ではなく特定の社会集団に対して全体的であり、その追求範囲について全世界的であり、かくして全ゆる面で全体志向的であった。アレントの才能をもってさえ必ずしも明確とは言えなかった「政治的全体主義におけるイデオロギーの支配」とは、実は、かくのごときものであった。もし、正確に「全体主義の起原」の当該チャプターを題しようとするなら「イデオロギーの形骸化とテロル」と言うべきではなかったであろうか。

近世以来の西欧を通じて深化し、拡大してきた具体物・対象の量的次元への還元という知的営為は、物事の処理を能率的にし、処理方法を一般化することによって全ての対象にそのまま適用されて全体統御の極めて合理的な方向を、野蛮さとは逆の思考方法と振る舞いをもって推し進めてきた。唐突だが、単純な一例を挙げて説明しておこう。
例えば、幾何学的図形である円はもはや具体物としての図形であることを止めてx2 + y2 = a2という量的記号へと単純化され、それを通して普遍化される。いかなる例外もなくその代数記号の関係の中に全ての円は包摂される。そして逆に今までの図形として描かれた円は全て、不正確あるいは不純な円の「近似物」か運の悪い場合には「偽者」へと変えられて追放されて了う。対象は性格をもったまとまりではなく、無性格で中立的な量的記号に粉砕され、その記号関係の中に消滅する。                  

「量的処理」が示す此の性格、即ち対象の分断、性格の消滅または無視、其処から生まれる大量処理・伝統的対象の偽者扱い等々は前節で見た「戦争の全体主義」や「政治の全体主義」で過激に実現された特徴であった。とすると、20世紀の野蛮な「全体主義」は実は、輝かしい西欧近代の知的革命の連続の成果の上に現われた怪物であった、ということになる。歴史そのものとその結果から生まれ落ちたものとの間の極端な皮肉が此処にもある。例えば、「政治的全体主義」が自らのあの奇妙な逆説体制をとり続けるために必要であった「難民」( displaced persons居場所なき人々)創出の量的無限過程化、などに既に見られる時間的・空間的エンドレスネス。此処に20世紀全体主義の本質的特徴があるとすれば、今日只今の全世界を蔽って進行して止まない「市場経済全体主義」もまた、「全体主義」の反対物ではなくて、むしろ、本質的特徴を平和的貌をとりながら極めて鮮明に顕現したものであるのではないか。2,3の端的特徴を挙げてみよう。
(註)これらの「輝かしい知的革命」のおかげで、閉ざされた自閉的倉庫のような「実体」だれけで出来ていた世界は、始めて、相互の「関係」によって構成されている開かれた「自由の効く」世界へと転換されたのであった。しかし、その成果が普及し大衆化し社会化すると、全く逆に「対象性の世界」を消滅させて、「関係」など成り立たない空疎な記号操作可能の世界を創り上げて了ったのである。何たる逆説と皮肉。そして怖ろしいかな、或る種のポピュライゼイション。         

私たちは、毎日、テレビニュースで例えば「円高」や「円安」の模様について詳しい数字を教えられている。そのことは昔からのことではなく近々ほぼ20年来の出来事であるが、今日では毎日の生活から切り離せない不可欠のものになっている。そして事実、私たちは全員もれなく、この円の値段の変動によって様々な影響を否応なく受けて暮している。しかし、考えてみればこれは不思議なことである。誰もが知っているように、貨幣はそれ自体を売買するために造られたものではない。むしろほとんど逆に、物の売買を成り立たせるための媒介手段として造られたものであった。それなのに市場経済が全面的に支配してくると、その「市場の形成と維持の手段」そのものもまた商品化され、売買の目的物にされてしまう。カール・ボランニーの言う「擬制商品」である。「市場経済」=一定の価格で売買する「活動」のなかで便宜的な媒介手段として考案され制度化されてきた記念物(貨幣)それ自体までもが売買の対象物すなわち「商品」とされるばかりか、その「商品」の売買価格の変動は、「市場経済」活動全体の媒介記号の変動であるだけに経済全体への実質的な強制的な影響力(権力)をもつ。西欧など「資本主義」の先進地域とは違って、日本では、第一次大戦に1部の特権家や野心家によるドル買いが行なわれたが、それを除けば、一般大衆全員がその現象のなかに巻き込まれたのはせいぜい近々20年ばかりの間のことであった。そして例によって、後から始めた者の方がスタートラインが前にあるからその行為への巻き込まれ方はかつ強い。私たちは全員がそのなかに暮らしていて、何をするにも其の現象の強い制御力から離れて(自由に)判断し行動することはできない。
「擬制商品」の第2は、売買目的となる「土地」である。これもボランニーの言うように元来販売目的のために造られたのではなく、本来は言うまでもなく「自然」の中心的1部なのである。「市場経済」が支配してしまうと自然もまた商品化される。商品化されることによって、良かれ悪しかれ、私たち人間社会と交渉をもつことになる。しかし、「自然」は自動的な商品ではない。そこで、「自然」を自然のままでそれに依存して生計を立てる、いわば、「自然経済」は「市場経済」の成立や発展のためには、いつも取り潰されるべき者となる。前に触れたようにローザ・ルクセンブルグが鋭く「資本主義」の本質として衝いたのはその点であった。そしてローザのその論点をこそ、H・アレントもジョーン・ロビンソンも特に注記して絶賛した。今日なら、その注記にはもう一筆を加えて、「市場経済」のなかで強力な支配をもつ3大擬制商品となっていることについての予感的認識としても高い評価を与えておきたい、ところではないか。
つい早走りして3大「擬制商品」などと言ってしまったが、その3つ目はボランニーの本を開かなくても誰にでも見当がつくであろう。「労働」である。これについては、しかし、マルクスの素晴らしい抽象力による鮮やかな説明があって、それを突破しなければならない。周知のように、マルクスは「労働一般」と「労働力」とを範疇的に区別した。労働市場で売買されるのは「労働そのもの」ではなく「労働力」であり、その「労働力」を販売する販売主体は独立・自由な1個の人格なのである(フランス革命以後の「市民社会」・「国民国家」原理がここに適用されている。)こうして、自分の「労働力」を独立自由な人間として売るのだとするから、堂々たる労働運動は可能となり、「階級闘争」の在り方も変わってくることになるであろう。
この「労働力」という見えないものを描き出し1個の基礎的な社会的範疇にまで仕上げたのは、天才マルクスの理論力を示す者であった。もし凡庸なマルクスがもう1人いたら、その範疇創出を見て、「観念論的」として非難したかもしれない。「労働力」概念は、それほどにまで、純粋に理論的抽出物であった。現実には「労働力」という商品は、それだけを独立に配送することはできない。それは「労働をする人間」から一寸たりとも切り離すことはできない。すなわち「労働力」を売る人間は、それを行なうためにはその場に行かねばならず、「労働力の発現としての労働」と一体になって動いてなければならない。
結局、人間が売り買いされるのである。「労働力」という「特別の商品」という断り書きだけでは、論争の場以外の実際社会では、何の救いにもならない。逆にむしろ「労働者」は自分のもつ「労働力」の付随物として絶えず「労働力」に依存していなければならない。販売主体どころではない。「疎外」問題が起こるのは当然である。そうして労働者も人間であり、人間は自然の1部として生まれたかもしれないが、商品として生まれたわけではない。                          

貨幣といい、土地といい、「生産」的に動く人間といい、販売目的のために存在していたのではないものが中心的勢力を持っている商品世界が、今日の「市場経済」なのである。存在と機能は全く分離されて、絶え間なく連行している売買によって「対象の分断」や「性格の消滅」どころか、対象も性格も絶えざる変転のなかにある。今のドルは1時間後の円であり、そして先程のドルはパンになる予定であったが今の円はパチンコゲームのためのものであるかもしれない。消費物が無数であり消費者もまた無数に近い場合、何が何に相当するか、などの予測は無意味であってひたすら変動無窮動がそこに実在する唯一の現象である。これはエンドレスであり、そのエンドレス軌道を多少とも動かそうとするのが貨幣の売買、労働力の吸収・放出、土地の売買であった。そしてその背後深くに地球的自然の有限な諸性格、いろいろな存在諸形式が減黙のうちに応答を待っているのであろう。これだけは売り買いできるものではないからである。
(註)「市場経済社会」のなかでは「生産」という概念もやたらと用いられ、疑われることもないようだが、例えば「鉄鋼生産」という場合、誰が本当に鉄鋼を作りだせるであろうか、実際に行なわれていることは、鉄分を含んでいる岩石を掘り出してきて、それから鉄の部分を溶かして出しているにすぎない。そしてその過程は不可避的で鉄鋼品が無用になったからといって、それは用語として適切でないばかりか、それを常に使っていると、人間の業を神様の業のように崇めることにもなりかねない。その不遜は、現代独特の最新最強の「野蛮」である。そのことを考えれば、「生産」と言う概念自体が経済理論のなかで成り立ち得るかどうか甚だ疑わしい。全ての文化領域でそういう基礎「範疇」への根本的な反省が今日起こらないのは、私には不思議である。現在の学問研究的停滞性の原因の1つは、その辺にあるのかも知れない。
「擬制商品」のうちの2つ、「労働力」と「土地」は近代の早くから売買市場に登場していた。しかし、「貨幣」の売買の一般化・全体化・大衆化は主に現代的現象と見做してよいであろう。とすると、現代の「市場経済社会」の特徴は、自己存在にとって必要不可欠の制度的手段をも制度としてではなく、利益を生む流動(通)物と見做しているところにあるのかも知れない。そうだとすると、ナチやスターリニズムが自己の制度的建前をその都度の権力利益のためにとんでもない方向に流用したのと相通じる性質をもっていないであろうか。

そこでは直接的な貨幣利益への一義的執着が全てを衝き動かしている。富は他の何物にも体現されてはいない。流動(流通)こそを存在の根本形式とする(何たる逆説!)カレンシー(貨幣)にあらゆる「富」が直接的に集中する。流動そのものがあらゆる価値物・あらゆる富を代表するとは全体主義の特質そのものではないか。先述したように、運動が機構であり制度であって、不安定をこそ存在のための不可避の基礎としたことこそが30年代全体主義の特質であった。
こうして全体主義の特質を描き出してみれば、激しく且つ絶え間ない流通・流動が全ての形態、対象、モノを吞み込んでいく世界であり、その特質を中心としている限り、その社会は、外見的旗印は何であれ、破局の30年代を「創立期」とする「創造的」な古典的全体主義とは次元と形式を異にした、新しい全体主義ではないのか。もしも、その「流動」の模様は、-つまり全ての富の趨勢の表現はー自然なの痕など些かも留めない「記号」の抽象的操作の中にだけある(そこには暴力から操作への進化を内に含んだ全体主義上の洗練過程さえ窺われる)。この見えざる操作による間断無き無限流通は空虚な無窮動というべきではないだろうか。     

その空虚さの程の理論経済学内容は、今は亡きジョーン・ロビンソンが1968年い「新重商主義」で鮮やかに解き明かしたところであった。すなわち、世界の各貨幣の総量はほぼ一定たらざるをえない限りードルがいくら基軸通貨だからといって、米国の財政難救済のためドル紙幣を大量に増刷してしまう訳にはいかないことに現われているように「インフレ防止のことだけからも」-どこかの国の貨幣が黒字になることは他の国の、あるいは他の国々の貨幣が一時的に減ることを意味しているに過ぎないから、現代の貨幣のやりとりは世界経済的に全く無意味で、総和は常にゼロに帰するとジョークを交えながら説いたのであった。想えば、その時はまだ「国際収支」だけに世界の目が集中していたに過ぎなかった。今は国単位のこともそのまま引継ぎながら、金銭感覚上、国籍離脱した個人が「差益」を掠め取るべく市場の大きな部分を掌握している。山師的な「金銭難民」の跳梁というべきであろう。しかし、その人達の努力の結果も又(世界経済的には)ゼロなのである。空虚を示す記号以外の何物ももたらさない。その空虚さに対して人々は、あるいはそれに向って狂奔し、あるいは幾らか受動的に衝き動かされ、多くは、黙って我慢しながら、その支配的に服従しているのが現状である。    この前代未聞の全く新しい空虚な世界(文明世界)の中で我々は「特殊な商品」(マルクス)(註)自からの「労働力」が我が身から抽象して販売する主体たりうる、という「特殊な商品」とマルクスは解釈した)として生きているのだし、同じことながら、精神を持ってしまった胴部という「特殊な生物」としても生きている。その上で同時に人間同士の社会(サリヴァン・井村・中井の言う対人関係の場)の中の一員として共属しながら、しかも独立しているという、両義的で曖昧な「特殊な社会的実存」として生きている。しかも、それぞれが有機的な生命の全体として身体を持ち、世界に対する独立の想念を持った具体的一過的現象形態として生きているのである。記号操作の抽象世界に対する生きた具体的形態、空虚な無限流動に対しては狭い世界(無窮動に較べれば50億の人類集団と も小さな下位集団に過ぎない)のパーソナルアン関係は、とかく、統計的に無視される。当然かもしれない。
しかし、そういう、形あり性格ありの具体的関係者としてだけ生きてきたし、これからも終末史がその最終場面を終わり切るまで、そういうものとして生きざるを得ない。宇宙史あるいは世界史の中で、文明史なり、人類史を考えようとすると、この具体的現象形態としてのパーソナリティー・リフレーションの諸相は、この全体主義の時代の中でこそ、一層、大切な自覚の対象であるべきものであるように思われる。それなしには、唯の「個人主義」は、現状の中では、「利得エゴイズム」になるであろうし、唯の「社会・世界至上主義」は、現代的「市場経済」すなわち「新重商主義」の一層の肯定者になってしまうであろう。
人間の最後の健全さを保つには、病者を含めて、具体的対象性と性格的独立性の維持が決定的であるように思う。「健全を目指せ!」その健全は平凡陳腐な具体性と現象の中にこそある。と言うのが、全体主義という、文明の終末形式が全面支配を達成した所での唯一最高の教訓である。その平凡陳腐な具体性と現象性とは、言葉を換えて言えば、画一的で「未分化な荒涼たる動きのない知覚世界から、生き生きとした相対的な現実の世界形象」に即して在る、ということがある。(セシュエー「分裂病の少女の手記」参照)

*ジョーン・ロビンソン(Joan Violet Robinson、1903年10月31日 - 1983年8月5日)は、イギリスの経済学者。夫は経済学者のオースティン・ロビンソン。Latinaラテン語→Ioanna Robinson (nata Ioanna Maurice in Surria die 31 Octobris 1903; Cantabrigiae die 10 Augusti 1983 mortua) fuit oeconomiae perita Britannica. Robinson oeconomo Austin Robinson nupsit.

日本の全体主義化の特徴は、一言で言えば、「壮大な新しいものは良いものだ」という態度によって、史上最新の悪をも善として追求し、あるいは模倣し、あるいは加工し、あるいは「高能率化」して自己社会のなかに全体主義を作り上げたことにある。その結果、第三形態の現代全体主義では遂に世界の最先端でしかも有力なもの、つまり典型的なものの1つになってしまった。人はそれを「成功」と見做すのか、「思わぬ結果」と考えるのか。いずれにしても、現代の「第三期的形態」に関しては、今まで本文で概略したことは、直接、現代日本社会に当たっている点が多いと思う。違和感を醸し出すのは「伝統」が顔を出す所でだけである。
「律令国家」を「東のローマ帝国」の法典である新文明「唐の六典」から僧尼令その他の部分的修正加工を隠微に施しながら模型的規模で実現したことに始まり、中世700年の長い中断を挟みながらも、なお明治初期の「独立」を課題とした「文明開化」に当たり「壮大にして新しいものは価値である」という命題は思考法の底に伏在していた。
あの抜群の啓発力を備えた。賢明な福沢諭吉でさえ、欧米の制度を見て、「何とその制度の善美なる!」と書いたことがある。善は倫理的価値であり、美は当然、感情生活上の価値である。しかし制度はそれぞれの社会の(政治を含めた)諸生活の円滑な再形成(再生産・維持・循環・改善)を保証するための有用便宜な規律体系である。そこには必ずしも「美」である必要はないし、「悪」は許されないが、それ自体が道徳的な「善」である必要は全くない。美や善が社会的に存在し続けることを保証する手段であれば、それが「制度」としての「最善」の在り方である。
「何とその制度の善美なる!」という賛辞のなかには、明らかに、そうした制度の本質的価値(保証手段)を越えた感情も含んでいる。いくら「徳川時代」の「祖法墨守」の悪弊にうんざりしていても、「制度」を評価する「制度」の存在理由から見なければならぬことは当然である。いわんや制度のような手法的存在に対して道義的価値や美的高さにおいても最大級の賛辞を贈ることは、何としてもお門違いである。福沢にして然り、とすれば大方の「19世紀西欧文明」主義者が彼らにとって「壮大な新文明系」であるが故に、その追求・模倣・加工・修正(この囮過程は模倣行為の不可欠の内容である)に夢中になったのも当然である。他者そのものになり変わることができない限り、模倣は必ず、最終的には「補修」を含む。それを加工技術と呼ぼうと発明と呼ぼうと私には興味はない。大事なことは、要するに、模倣は必ず最後には自己流のニセ物となる、ということである。それは当然独自の要素を含む、それ故、模倣は「独立自尊」や「独自性」の主張と両立しうる。洋服を着て輸入銃を使う「国粋主義者」は、そのことのパロディーに過ぎない。


*Esperantoエスペラント語→Fukuzawa Yukichi (jen en la angla Hepburn-transskribo, japane: 福澤諭吉, ふくざわ ゆきち, prononco [FukuZAŭa JuKIĉi], 10-a de januaro 1835 - 3-a de februaro 1901) estis japana reforma aktivulo kaj aktivisto pri homaj rajtoj, politikisto, filozofo kaj ĵurnalisto. Li estis fondinto de la universitato de Keio kaj de la taggazeto Sankei Shimbun.
さて、問題の30年代の全体主義化については、もう今更言うまでもないであろう。一般に比較的気づかれていない点だけを一言しておこう。ナチズムとかファシズムとか言うと、今ではもう、暗い・圧倒的な面ばかりをまず思い浮かべるであろうか。広く知られた事実を例として言えば、「ベルリンの祭典」にしても、「ベルリン・オリンピック」にしても華やかと言ってもよいような壮大な空虚を撒き散らしながらそれは出てきたのであった。それ以前の当初からそうだったからこそ(西欧)世界運動としてそれは出発したのであった。日本は、卑俗なものには違いないがその壮大(美?)への憧れがあったからこそ、新しいファシズムやスターリニズムに行動スタイルを含めて追随・模倣しようとしたのであった。
文化面でさえ、30年来日本には、ある名だたる左翼出版社から「全体主義叢書」というのが刊行されていた。その中には、例えば記憶だけで「確か」ではないが、リップマンの本なども入っていた。「全体主義叢書」といった方が当局のお目こぼしに与りやすい、ということはあったかも知れないが、その底に「全体」あるいは「全体性」というものへの高い評価感覚があったから、そういう企画が進行したのではないだろうか。今でも私たちは、「全体的に物を見る」とか「全体性の感覚」とかいった熟語を肯定的に使う場合が多い。ジンメルの使い損ねた言葉を使えば「全体を代表する1部」(パルス・ブロ・トトpars pro toto)が好きだからこそ、次々と現れる「全体めいた新品」への憧れも生まれたのであろう。例えば「前衛」という概念も、その点では、ジンメル自身にとっての「哲学」という概念と同様にパルス・プロ・トトと思われたのではないだろうか。しかしそんなものは無いはずである。「部分」はどれも「部分」であり、在りうる差異は「ヨリ大切な部分」だとか「ヨリ先に在った部分」だとかいう相対的アン違いだけであって、「この1部分に過ぎないものが全体そのものなのだ」といったような特権的部分はそもそも存在しない。            

全体とは色々な部分の相互関係の全局面のことであって、そして「相互関係の全局面」を1つのものや制度や人物や集団や置き換えることはできない。部分には部分の不可侵の存在根拠があり、相互性は何処までも相互性として、関係は何処までも、いくつかのものの間の関係として残り続ける。だから大事なのだ。「部分は部分」という、この簡単な常識を忘れるところに全体主義時代の骨がらみの病気が伏在しているであろう。「チンは国家なり」を国是とする自国について、さらに「俺こそ全体だ」とする指導的個人自身について見ると、そのことは一層はっきりする。

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