日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

全体主義の時代経験・Expérience des temps totalitaires・Sperto pri totalismaj tempoj・전체주의의 시대 경험⇒ 这是极权主义的“安慰”方法/藤田省三・Shozo Fujita・후지타 쇼조⑤

レシェク・コワコフスキ(Leszek Kołakowski、1927年10月23日 - 2009年7月17日)はポーランド出身の作家・哲学者である。Leszek Kołakowski (legu: leŝek koŭakovski) (naskiĝis la 23-an de oktobro 1927 en Radom, mortis la 17-an de julio 2009 en Oksfordo) estis unu el la plej gravaj polaj filozofoj de la 20-a jarcento. Li estis ankaŭ eseisto, historiisto de filozofio kaj publicisto.

資本主義の転換能力と転嫁能力
塩沢 マルクスは確かに市場を批判した。しかし今になってみれば、市場に関するマルクスの判断は一つの誤りがあったと思う。資本主義の転換能力なり適応力を見誤っていた。資本主義は驚くべき適応能力をもっていた。それは19世紀のマルクスには予測できなかったものですね。マルクスという予言者の不幸は19世紀の中頃にすでに資本主義の没落を予言してしまったことだ。資本主義は19世紀に始まったというのが通説ですね。資本主義を産業資本主義と考えれば、マルクスは始まって半世紀もたたないうちに資本主義の没落を予言した。これは大変な予測能力であると同時に、やっぱり尺度を間違えていた。
藤田 それはそうです。しかし19世紀のあの時代、マルクスだけが際立ってくるのは無理はないので、とくに社会学的歴史家として素晴しい。眼の前に起こっていることを歴史として叙述するあの凄さ。おっしゃる予言者のことですが、彼は30歳にしてイギリスに亡命している。そして彼の念頭にあるのはフランスの階級闘争とか、フランス革命の延長版の問題です。もう一つは社会分析の対象としてのイギリス、そこで一番最初に産業革命が起って、社会的な諸問題が出てきたのですから。それに注目して、理論上の先駆的な仕事として、これから波及するであろう傾向をそこに読みとった。こんな社会的不幸を生み出している以上、この仕組は長続きしないとマルクスは考えた。ぼくはそれらの点は理解できるんです。ただマルクスがあの時点で書いてしまったのだから、後の人はそれを考え直す必要がある。彼の延長線上を現代的な課題に即してね。どうしてそれをやらなかったのかーこれは一つの歴史ですね。文化の質という問題で考えると、現在は文明史的なクライシスのところへ来ている。そこで現実に起きていることを歴史として画く能力、第二第三のマルクス的な能力を身につけないといけない。その一つとして市場の歴史を洗ってみたらどうか。今ある市場を本来的な市場だと思ったら批判性、野党性を失うと思います。少なくとも市場化とかそれへの移行とかいう以上、市場の歴史を洗うことが重要です。どういう答えがでるかはそれぞれ自由ですが。

塩沢 ロシア革命で社会主義が成立したことによって資本主義も転換した。社会主義の存在によって資本主義自身が生き延びたということもある。20世紀の資本主義に転換を強制した最大の要因は社会主義です。ただ、ぼくはこの逆の可能性だってあったと考えるんですね。つまり資本主義が今までもたずに全部つぶれてしまって人類の歴史が社会主義に、または共産主義にのめり込むということがあり得た。その時にあり得た社会と、市場経済が勝利した現在とを比較して見るとどうなるか。かならずしも前者がいいと言えるか。例えば藤田さんのいう文明的な危機、とくにエコロジーの問題に即して考えてみましょう。昔は、社会主義には公害がないと言われた。社会主義企業は利潤追求型じゃない、というのがその理由でした。ところが実際には資本主義国よりもっとひどい公害がある。資本主義は一時期、公害がひどかったながら、それに対する抗議が起きて比較的す速く修正しつつある。重要なのは修正能力です。共産主義の場合、修正能力はあるにはあるが、非常に長い時間がかかる。資本主義の方が、近視眼的かもしれないけど速い。これが二つの体制の今の差異をつくっています。
これから文明史的にどうなるかといわれれば確かに、市場経済がうまくいくかなんていう保証はない。ただ、それでは何か別の形にしようといったときに、どういう問題がおこるかということです。ヒッピーはかつて資本主義の社会を批判して自分たちはその中に取り込まれないといって、島などに行って暮らしましたよね。彼らがその形をとっている限りは他の人に対して余り影響がない。それはそれで彼らの自由です。ただ彼らが実は資本主義社会のおこぼれを貰って生きていたという面があると思いますが、そこまでは言いません。彼らは自分たちの生活のスタイルを他の人たちに広めようと思ったわけだが、現実にはうまくいかなかった。これは押し付けのない運動だけれども、社会を変える力を持たない。もう一つの極として例えばトロツキズムを考え得る。彼らは、社会主義は世界革命としてしか成立不可能だと言う。認識としてはこれは正しいかもしれない。しかし、これは現在の社会の中から次の社会をつくり出すというコンテキストの中に入れれば非常に危ない理論だ。革命が全世界で同時に自然発生することがないとすれば、世界革命の提唱というのは、結局、少数の人が全世界を独裁することを意味しています。資本主義の強かったことは、資本主義が外の経済様式を外部にもちながら、成長しえたことですね。今では、殆んど世界を取り込むところまで成長できたのです。これを引っくり返すというときに、ヒッピー方式でやっていけるのか、あるいは世界革命が必要なのか。前者は無力だし、後者はあまりにも副作用が大きい。危機を救うどころか、文明を破壊してしまう危険性がある。
藤田 資本主義がポシャった可能性なきにしもあらずと言われたが、その通りで、大恐慌のとき、1930年代にはこれぞと思う世界中のインテリが軒並みにマルクスを読んだ。マルクス主義者になる者はなり、いろいろのドラマがあって、それこそ転向研究会の主題になるわけ。あの時は明らかに資本主義の方が破壊的状況にきていましたよね。それが一つ。
もう一つは、「体制」とおっしゃったのですが、1982年に書かれた海外の本に鋭い指摘があったのを思い出します。「いま在る世界を経済体制としてみたら、世界経済の在り方は資本主義だけだ」と、筆者はそれに反対している人間なんですよ。そして「社会主義といわれているものは、社会主義運動をやっている人が当該国家において政治権力を握ったものである」と。これは非常に鋭く見ていると思いますね。ぼくもある意味でそれに賛成。つまり計画経済というだけなら日本軍国主義だって計画経済の物の配給をきめた。古代から集団の長が分配権をもっていて、そこで大事なのは分配の公平さ。気まえよく分配する長と独占する長がいて、前者が徳とされるもので、中国ではのちに「仁」というふうに概念化される。この教義的概念化から間違いが、虚偽意識が始まるわけでしょ。分配問題はどんな社会でも中心の問題です。
分配権をもつ人間が特権化するのは全社会的にみていい社会とはいえないけれど、そういう歴史が山ほどあったわけです。分配権の特権化が。ことに集団が大規模化すると困難がふえる。ルソーの「社会契約論」でもそのことを言っている。スケールが大きくなったらあかんと繰り返し言っています。アメリカがかつて政治的に健康だったのもダウンミーティングの伝統があって、ステーツのキャピタルが大都市でない場合が多いですからね。キャピタルシティは非常に小さい都市でも、どこからでも等距離でみんなが集まりやすい場所に出来ているわけでしょ。現在でも、テレビをうまく使えば家の中にいながらダウンミーティングが可能だという説がありますね。どうしてそんなことが言えるのか。人間同士の接触なしにテレビを媒介としたようなのは二次的なミーティングで、それをコントロールしようという人間がもし出たら、支配できますよ。ラッセルやラスキの説くところでは、「民主主義というのは、永久の探求課題であって、実現されたものとして在るのではないのだ」と。では何が探求課題かというと、最悪の人間が権力を握った場合にも最少の被害しか受けないようにする努力だと言う。民主主義というのは理想状態というより最少限目標なんですよ。
民主主義の概念をとっても、それの歴史があって僅か2世紀の間にウンと違っている。市場の場合もそうで、おっしゃるように資本主義がポシャる可能性が大いにあったし、ポシャった方がいいと言う方がそこに生きる人間としては健全な反応であったという時代が存在したわけですね。資本主義の立場からすれば、幸いアメリカはケインズ理論をとり入れてかなり迄やったと思いますけれど、テスタビリティの観点からいうと、検証されないで、世界大戦とともに軍需景気に入っています。するとニューディールは最終的にそれだけで成功したのか、それを修正能力と言っていいのか。第二次大戦後の場合だとツケを他へ回すという形での修正であって、それによって国内単位での社会問題の発生は防げるけれども、他の地域が悲惨な状態になってしまう。そこが文明史的問題の発生になると思う。

塩沢 アメリカが世界の資源の大部分をつかって資本主義社会を成立させているのは事実です。しかしそのことで、第三世界なり後進国なりが搾取され、すべて従属していると考えるのにも問題がある。マルクス経済学の中の一つに従属理論というのがあるんです。藤田さんの考えとは違うでしょうが、それは要するに中心と周辺とを区別して、中心によって周辺が支配されているがために周辺が発達できないという理論です。1960年代まで、途上国では非常に有力だった。独立をかちとった国がその努力にもかかわらず思うとおりの経済発展に失敗し、なぜかと考えていた時期に従属理論は人びとに非常にアッピールするものを持っていた。現実の動きでいえばその後、韓国、台湾などのニュース、ニックスといわれる、さらにはアセアン諸国ができたことで、この理論は半分否定されてしまった。どうしてこういう国が出てきたのかを説明するために従属理論は次の段階に入るわけです。ところで、この理論の問題点ですが、一つはこの理論が第三世界の知的指導者たちの免罪符になったことです。つまり問題は外部にあり、我々が発展できないのは外部の責任だ、という考え方を育てた。そういう面もあるが、やはり市場を介してお互いの合意で取引をしている以上、その国の人にも一半の責任があるわけです。熱帯雨林の乱開発にしても、木を切ったまま放置したらどういうことになるのか、現地の人の方がよく知っている筈です。それでも認めてしまうとすると、許可をしている政府の側にも大部問題がある。これはマルクス主義の一面で、被抑圧者の側に立つという態度が人びとに心地よい話だけを聞かせる方向に堕落した場合でしょう。日本のマルクス主義は反対に、技術の後進性を強調して資本家や技術者を刺激した点で、資本主義の発展に貢献した。先進国を非難することで、途上国のかかえる諸問題を免罪してはならない。藤田さんのいわれる文明史的危機についても、人々に責任がある。あるいは我々に責任がある。この点を明確にして、その上でどうするか、考えていかねばならない。責任を問わないということは、人びとを馬鹿にしている考え方です。
藤田 ぼくのケースで言うと、生活形式の面で受入れているところで受入れてるわけですね。ところが受入れない自分というのがある。どうして自分が二つあって悪いのですか。二つある方がまだしも健全だ。だから愚民政治だからいけないと全面否定するのじゃなくて、より少なき害悪を選ぶ。さっきの、民主主義のラッセルなどが、害悪のより少ないほうを民主主義と呼ぶとしたようにね。独裁体制より衆愚の意見を聞く方がいい。


*ハロルド・ジョセフ・ラスキ(Harold Joseph Laski、1893年6月30日 - 1950年3月24日)は、多元的国家論を唱えた英国の政治学者。労働党の幹部でもあったHarold Joseph Laski (ur. 30 czerwca 1893 w Manchesterze, zm. 24 marca 1950 w Londynie) – brytyjski politolog, ekonomista, profesor London School of Economics, sekretarz w latach 1945-1946 brytyjskiej Partii Pracy.

*ケインズ経済学(ケインズけいざいがく、英: Keynesian economics)とは、ジョン・メイナード・ケインズの著書『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)を出発点に中心に展開された経済学(マクロ経済学)のこと。케인스 경제학(Keynesian economics)은 20세기 영국의 경제학자 존 메이너드 케인스의 사상에 기초한 경제학 이론이다. 케인스 경제학은 여러 경제학자들이 방임주의의 실패로 인한 것으로 여기는 문제점들을 해결하기 위해 개발되었다.

*初代ケインズ男爵、ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes、1st Baron Keynes、1883年6月5日 - 1946年4月21日)は、イギリスの経済学者、官僚、貴族。イングランド、ケンブリッジ出身。20世紀における最重要人物の一人であり、経済学者の代表的存在である。有効需要[1]に基いてケインズサーカスを率いてマクロ経済学を確立させた。また、戦後の外為体制(ブレトン・ウッズ体制)をめぐりハリー・ホワイトと案を出し合った。John Maynard KEYNES ([dʒɒn ]; esperantigite Ĝon Mejnard Kejns, 1a Barono Keynes[1]) (naskiĝis la 5-an de junio 1883 en Kembriĝo, mortis la 21-an de aprilo 1946 en Firle, East Sussex) estis angla ekonomikisto.

成長の限界
藤田 塩沢さんに改めて伺いたいのですが、成長の限界ということを信じますか。
塩沢 それは、私は判らないと思います。
藤田 私は信じるんです。自然的限界があると。つまり経済成長は無限界なのか。ぼくは発展という言葉が嫌いです。何しろデルスウ・ウザーラが好きなんですから。いまデルスウ・ウザーラであり得ないという我が身のなさけなさは百も判っていますけど。ただ成長の自然的限界は少なくともある。それを社会的限界としてどこでどれだけ受け入れているかという尺度の比較が問題です。公害の問題でも、自分の街の煙突の煙りだけについて、煙突を高くさせ、もう一回熱して亜硫酸ガスが出ないようにしたって、もう一回熱せば炭酸ガスはもっと増えるに決まっている。絶対量から考えますと、こういうように自然的限界はあると信じている。反証が一つもないということは、それをテスタビリティの、証明の基準に使えば信じているという他ないのですけど。
―論理的にいうと、経済成長の自然的限界はあるだろう、しかしここが限界だと判定することは難しい。
藤田 私の心理学、いや、学じゃなく私の心理でいうと、ここが限界だと思っているんですよ(笑)。
塩沢 事実の問題からいけば藤田さんの判断は、間違っていると私は思います。まだまだ成長の余地がある。そのこととは別に、科学的というか、我々の今迄の知識を総動員して、成長の限界があるかどうか?これは問題の設定の仕方によっていろいろになる。例えば太陽があると45億年もつならば、その範囲内で地球上の生態系をどの程度に循環できるか。それの循環を破壊しない程度の経済規模はどのくらいか。こういうように問題設定すれば、成長の限界はある。ただ、その限度と、今、我々が到達しているものの間には大きな較差がある。現在は化石燃料を使っていて、将来はそれが枯渇する問題もありますが、一方技術進歩によって省エネルギー化も進むことを考えると、全体としては成長の余地は何十倍、何百倍あるといってよい。この点で、エコロジーとかいろんなことを言う人たちの中に、通常の尺度を忘れた議論をする人がいるのはどうも具合いが悪いと思っています。つまり、我々が生きているのはせいぜい百年。先のことといっても五百年も先のことを考えればいい。その中において成立することを問うべきなのに、一億年さきまで問うても社会科学の問題ではない。百年または二百年ということでいけば、限界にはまだなかなか到達しないと私は考えます。
もう少し経験的なことでいえば、石油は1950年ごろ大体あと30年しかもたないといわれた。しかしそれからどんどん新しい油田が発見されて石油時代が実現したわけですが、74年に石油ショックがあって、そのときにもいわれたのが、あと30年、あれから今まで16年たったのに、今でもあと30年と言っています。石炭も同じですね。前世紀にも、今と同じように、あと150年といっている。それに資本主義の適応能力は大きい。オペック(OPEC)ができて、あれだけの値上げをしたにもかかわらず、それを突き崩すだけの石油消費量の削減をした。絶対量は減っていないけれども、その当時の消費量のカーブからいけばもっと沢山の石油を使っているはずが、現在そこまでいってないわけです。そういうことは資本主義である限りある。それまでどこまでいったら潰れるか、それは誰にも判らない。
藤田 塩沢さんの言う「経験」は、経験科学の経験の意味だと思いますが、ぼくは経験科学と言い出してから経験概念の歴史的変質があったと感じます。経験の中には、もうこれ以上、この状況で生きるのは耐えられないという態度の問題が入っていると私は思います。例えば、健全な生活というとき、科学的に何を健全というかということになったら、それはもう今の医学は絶対に不毛ですよ。何が病気かなら辛うじて判るだろうけど。そこで、健全なる人間として生きていこうと思ったらこれ以上は耐えられないと思う人間が増えつつあるのか減りつつあるのかという問題、それは「主観的に思念された意味」というやつですね。一見、客観的にみえる問題の中にそういうのが含まれているので、私が限界ありというのは人間にとっての限界であって、即物的に、地球としては遥かに先ですよ、と言われても、人間にとっては限界があると思うのです。D・H・ローレンスは第一次大戦の時に既にここに限界ありと言った。自然科学者でいうとジュリアン・ハクスレーは1920年にそう思った。こうした人の読者がまた延々と続いている。人間としての許容限界に来たと考えた人は、私たちより半世紀以上、ほぼ一世紀近く前からいるというのも、これまた一つの現実なんです。
この頃は新人類という言葉があって、人間が変わればこれはまた新しい感じ方もあるでしょうが、これ以上はもうかなわんという人がいて、それはそれとしての説得力をもつ。メドウズの「経済成長の限界」じゃなく、人間として生きるに値する人生であるか、という、そういう意味を含めての限界はあり得ると思う。

塩沢 個人の生活態度のとり方として考える限りはそうでしょう。そういう生き方はある。ただ現実の問題としてはその人たちは多数派じゃない。98%は違う。その人たちはカッコ付きかも知りませんが「豊かな」生活を望んでいる。しかも、この望んでいることの結果としてエコロジーの問題を考えるときに、どこへこの社会をもって行くかということです。百分の二の人がどういう生活態度をとっていても余りエコロジーには影響しない。ではエコロジーの問題に気づいた人たちが気づかない98%にどういう態度をとり得るか。私はこういう生き方をしているのに貴方はタラフク食べている。これは義に反するという論理の立て方をする人がいますね。そのように言う権利は彼らにあると思いますが、98%のタラフク派の人たちも、そういう生活を選ぶ権利はあるわけ。それ以上踏み込むのは難しいと思う。エコロジーをいう人、また藤田さんのいう文明史的危機がどういうものか判りませんが、その98%にどう働きかけますか。
藤田 まあ、余り働きかける気はない(笑)。
塩沢 ハハ・・・、働きかけないというのならね、まあ、文明史的危機は解決しないでもいいのかもしれない。そこまで行けば私と一緒ですよ。私は市場経済が続いていくかぎりどこかで破局があり得ると思ってます。必ずあるとは私には判りませんが大いにあり得る。だから「貴方たち生活態度を変えなさい」と言うかというと、私はそう言いたくない。そういう言い方をすると、マルクス主義の一部にあった態度と似てくる。

*『デルス・ウザーラ』(ロシア語: Дерсу Узала、英語: Dersu Uzala)は、1975年公開のソ連と日本の合作映画である。監督は黒澤明、主演はユーリー・ソローミン。«Дерсу́ Узала́» (яп. デルス・ウザーラ Дэрусу Удза:ра) — советско-японский художественный фильм Акиры Куросавы, созданный в 1975 году по мотивампроизведений В. К. Арсеньева «По Уссурийскому краю» и «Дерсу Узала».
全体主義の全体ではなく、全体的人間をめざして
藤田 ではもう一つの質問、第三世界では特権階級と非特権階級との間にもの凄い差がある。そういう地域では、塩沢さんが早すぎた予言だというマルクスの予言を含んだ理論が有効なのではないですか。
塩沢 私は普通には、保守的な態度というか、つまり部分的な修正をやる方がいいと思っていますが、それが常に最善の策であるかどうかは決まっていないと思っています。
藤田 ぼくは、あらゆる場合に、コストはできるだけ少なくすべきだと思う。
塩沢 ただ問題は、例えばラテンアメリカの国でも、そこで革命を起すことで、ホントによりよい社会に行けるのかどうか、きわめて疑問です。
藤田 そう、だから、作り変えの場合でも、コストはできるだけ少なく、犠牲はできるだけ少なくというのが、生きものとしての至上命題だと思うのです。
塩沢 命題としてはそれでいいんですが、ただ、どの選択肢が最低のコストであるかが判らないといけない。東ヨーロッパを40年近く見ている岩田昌征さんがこう言っている。「経済改革は小出しにした場合は失敗している。思い切ってやった場合だけが成功している」と。ラテン・アメリカの場合、国によって数十家族で国土の何十パーセントを所有するといった極端な大土地所有制があって、資本主義になり切れていない面がある。これをなんとかしようというので多くの国で人民主義の政権ができたのだけれど、人民大衆の間に利害衝突が起きたりして、結局、軍事政権に移っていった。社会を改革するというのは難しいことです。
藤田 偉いマルクス主義者というのがいますね。マルクスはむろん偉いところがあった。彼の他でも、組織されたマルクス主義者の1人になった人の中にも偉い人はいっぱいいる。とくにそういう人が群出したのが大恐慌の前後の1世代です。E・H・ノーマンの悲劇なんかももとを質せばそういうところから出ている。あれだけの繊細な感受性の人でありながら参加の道を選んだ。それは決意の問題です。あの時点でそう決意する態度を、態度として間違いといい得るか、非常に難しいです。
―優れたコミュニストという問題なんだけれど、ノーマンの死はマスコミの肥大化した社会でおこった。マスコミによってスキャンダルがつくられると、後になって、論理的によりしっかりした命題をぶつけて反論しても効き目がない。ノーマンはケンブリッジ大学時代は共産党の組織の一員だった。仲間の教授がいうんですから確かだ。ところがその後に変っていった。カナダ国務省に入るときはもう共産主義者でもなかった。ところがスキャンダルジャーナリズムが、彼はコミュニストであったといったら、その後に変わったなんていってもダメなんだ。マスコミの大きなところでの演技から、大まかな演技しか眼に入らない。それに対してノーマンは絶望したのだと思う。自分の友人だったカナダの外務大臣をはじめ、カナダの国家、自分の代表している外交政策を危機に落とし入れるというその自覚が、彼を自殺させた。それは現在のマスコミュニケーションの社会が余り論理学の通用しない社会だという問題があるのと、もう一つは巨大な金でマスコミを操作すれば相当のウソが通せるということを示す。もう一つ逆に見ると、立派なコミュニストは主として抵抗者だったのじゃないかな。つまり、ノーマンがケンブリッジで共産党員になった時はスペイン戦争の時なんですよ。そのあと彼が変わっていくのはニューディールがアメリカで成立して以後だ。だから立派なコミュニストの多くは抵抗者であって、為政者の中では少ない、この見方はどうですか。
藤田 したがって権力論というのがどうしても必要不可欠です。
―そう、最後に権力を握った毛沢東とホー・チ・ミンにしたって彼らのもっとも偉大な活動は抵抗者としてでしょ。
藤田 つまり批判的知性なんだ。
ーそこが、マルクス主義そのものの問題とからむ。
藤田 塩沢さんが最初に言われたマルクスの予言だとか副音だとかがなぜ拡がったかという問題は、これと関係がある。つまり鶴見さんの用語をかりれば抵抗派だから感受性のある人たちの中に大きく拡がった。支配権力の外にいることが「予言者」の一つの条件じゃないかな。
塩沢 昔、中国に、君主に対して苦情をいう諫臣というのがいた。その諫臣はきかれる場合もあればきかれぬ場合、殺される時もある。これをマルクスの立場で考えれば、これは制度を変えなければダメなのに、これらの諫臣はただ制度のなかで君主の誤りを諌めただけだという評価になると思う。抵抗者の論理ということを突きつめれば、自分は皇帝にならず諌臣であり続けることだと思う。その論理は残念ながらマルクスの中にはない。
藤田 ないですね。だから、論理の型としては、ローザ・ルクセンブルグみたいに自然発生的に変革が起こるはずだというのと、レーニンみたいに目的意識的につくらなければいかんというのと両極に分解するんです。おっしゃるようにそこはポイントだと思います。

塩沢 ところで近代文明というのは主流は合理主義にもとづいていると思う。それがマルクスの場合にも入っていて、彼自身は設計図は出さないといいながら、後継者たちは全部、このように社会をつくり直すんだといって設計図のもとに走ってしまった。我々は今、それこそ文明的危機に立っているのに、次にどうするか設計図を出せない。それは非常に弱いわけだけれど、共産主義の実験を教訓として汲みとるには、大きな設計図なしにやっていく哲学が必要だ。
藤田 ぼくもそう思う。だからぼくは「近代」そのものに問題ありと思うのです。ヨーロッパを基準にし、いわゆる近代というところから「ブループリントまずありき」という思考様式がある。こういう思考様式が人間全体を動かすのは、果たして健全か。それに疑問を出した人が20世紀始めからいる、ジュリアン・ハクスレーとかD・H・ローレンスとか。もうちょっと包括的に考えたらどうか、と言う。健全というのはホールサムネスと言って、トータルとは言わないんじゃないか、トータリチアリアニズムとホールサムネスは全く逆だ。前者は一つの基準で全部を切ろうとするが、後者はホールサムネスはいろんな違ったものを含み込んで健全に統合されているから健全とよんでいるんだ。これは或るフロイド学者の説明ですが、うまい言葉の選び方だと思う。ホールサムネスが大事だとすると、やはり前頭葉主義型の教育も間違っている。また例えばカール・レビットは「近世哲学の世界概念」の冒頭で、「そもそもイエスが出てきて、イエスが全ての価値を独占した瞬間に、この世界は無価値のただのモノになった。だからデカルト的態度はその瞬間に必然的に生れているので、デカルトが出てくるのが遅かっただけだ」と言う。随分思い切ったセリフですが傾聴すべき意見です。価値の独占者が出てきたら、それ以外はただの物体に化す。つまり操作対象にされてしまう。これを哲学上の一駒としてではなく他の領域に移して考えると、塩沢さんのいう中央集権の問題ですね。これは単に経済体制における中央集権の問題じゃなく価値の独占の問題です。デカルト自身については、ヴァレリーの言うように、デカルトの最大の功績は、自分というものを疑問の存在だとみなして、私自身をマナイタの上に載せたことだと思う。ワタクシ絶対主義で行って、それが政治体制になれば独裁が生まれ得ますからね。ワタクシを突き放してマナイタに載せたのは画期的です。
藤田 そうです。
塩沢 すべてを合理によって割り切ることができるという主義には限界があるということでしょう。合理主義が具合が悪かったということで例えばロマン主義や宗教に移る人もいます。しかし、合理的に考えるということは、近代の遺産として我々が受け継ぐべきものだと思う。
藤田 そう、そう、今かたより過ぎているから起こる合理主義批判です。感情だって度外視してはいけない。現に感情というものが存在しているんですから。
塩沢 藤田さんのお話の中に今日はなぜか「感情」が多いですね。「法律」とか「制度」とかを殆んど喋られないのはどういう理由なんですか(笑)。
藤田 いやあ、そっちはもう塩沢さんに言っていただければいいです。


*エドガートン・ハーバート・ノーマン (Egerton Herbert Norman, 1909年9月1日 - 1957年4月4日)は、カナダの外交官。日本史の歴史学者。日本生まれ。ソ連のスパイの疑いをかけられ自殺した・・・なお、カナダ政府は生前からノーマンのスパイ説を否定し続けており、なお、カナダ外務省はノーマンの「功績」を称えて、2001年5月29日に東京都港区赤坂にある在日カナダ大使館の図書館を、「E・H・ノーマン図書館」と命名した。Эгертон Герберт Норман (англ. Egerton Herbert Norman; 1 сентября 1909 — 4 апреля 1957) — канадский дипломат и историк.
党や国家をこえる規範、法をどう考えるか
塩沢 ところでレーニンは独裁というのは直接的な暴力で、どんな法律にも拘束されない権力だと言う。これはマルクス・レーニン主義の伝統の中に非常に根強く入り込んだ伝統です。中国でいま方励之とともに反体制派の三指の1人と劉寶雁いう人がいます。「人妖の間」の著者、中華人民共和国の憲法ができたとき彼がどう思ったか。共産党員として彼は、我々には憲法はいらない。憲法は西洋流の国家の装飾品だ、と考えたというのです。社会主義で、全てを設計できると思っていたし、党が支配できると思っていたから、法律なんかいらないと考えた。もちろん彼はその後、自分の誤りに気付くわけです。やはり、党とか国家を超える規範、法ともいうべきものを認めて置かないときわめて危うい。その問題をどうやって我々の中に、マルクス主義の遺産の中に入れることが出来るか、そこを考えたい。
藤田 レーニンの独裁論はローマの護民官を引き合いに出していますね。限られた期間だけ、無拘束で権力を行使してよろしいということを会議体で決定して、その期間だけ独裁が許されるというものでした。それがどうして半永久化したか、それを許した社会的、政治的条件があり得るでしょう。中国の場合だと延安に拠点を移したとき、8つの規則があった。借りたものは必ず返せ、ただ貰ってはいけないとかの、単純な8則。これは立派な憲法だと思います。国家権力を奪取してからは、どうして8則を受け継がないで、条文が沢山あるもっともらしい憲法にしてしまったのか。中国でも事実、或る人々によって看板だと思われていたというのは実に正直な、虚偽意識のない判断だと思います。-8則があった時、そこで八路軍のマルクス主義が反転していたんです。つまり中国の農村には昔からの習慣があるでしょ。それを受け入れて、受入れるようなマルクス主義になっていたんです。自らを裏返す能力に、つまり反転ができた。
藤田 これは非常に大きな問題だ。独裁の定義が変質して行く過程についての。
―マルクス主義者が、マルクス主義の全部をもち込まないで、農村の習慣の中に入って、それを動かす。
塩沢 それには異論はないのですが、ただ憲法の問題でいえば8則をそのまま憲法にしたとき、それだけですむのか。例えば憲法がある個人に対して暴力を行使する、いろんな場合があるでしょうが、法的手段を経ずに行使することが多かったのですね。それに対する抑制措置は8則だけでは間に合わない。やはり建国のための立法が必要だと思う。
藤田 建国という場合、何をもって国家と考えていたのか。国家が新しく定義してもいいわけでしょ。どうせ革命というのなら国家概念の革命もしてほしかった。
塩沢 なくなられた桑原武夫先生が、こう言っていた。「20世紀の特徴はいろいろあるが、国家が殆どの人を覆った時代でもある」と。ぼくは国家というものはそう簡単に脱ぎ捨てられないものだと思う。だからこそ藤田さんが言われるように、国家を最低の悪でつくることを考えなくてはいけない。
藤田 権力論、制度論的にいえば国家論がどうしても必要ですが、これはマルクス以来弱い。プロレタリアは祖国をもたないという健全さをマルクスは言い、それはそれで正しいと思うのですが、それとは別の側面で、おっしゃるように建設の問題としての国家論が弱い。国家論を全部、階級の問題につまり社会的不正の問題に解消することはできない。それは国家が引っ越しできないから、階級は、万国のプロレタリアート団結せよ!で国を超え得るかもしれないけれど、国家は陸地にくっついている。国家を何とよぼうと、とにかく政治権力の及ぶ小範囲がある。その権力を奪取したからといって、そこに成り立っている秩序の在り方の全部を変えるのは非常に困難で、プロイセンに育ったところのものはなんとしてもプロイセン的伝統をもつ。もし全部、伝統がなくなったらそれこそ設計図万能になってしまう。それもまた不健康です。そうするとプロイセンの悪い部分をできるだけ少なくする努力を伴わなければならない。政治的制度にしても、そこに同時に文化的伝統が含まれていて、伝統からの脱却は無理をすると病気の方が大きくなる。つまりデラシネになりますから。              

塩沢 マルクス主義の中に権力論なり国家論なりが欠けているという認識があったのでしょうか。
藤田 マルクス主義では要するに、支配階級の権力を定義して、「物理的強制力を合法的に独占している」のが国家であると言ってきました。国家とは何か、警察と軍隊である、というふうにはいかないのです。国家は引っ越せないから。
塩沢 マルクスやレーニンが敵階級の権力を語ったことで、自分たちの権力を制御する理論を一切もたずに権力を取ってしまった。そういう欠落をマルクス主義が自覚していれば、ここまではならなかったということがいっぱいある。マルクスが階級で一元的に切ってみせた。非常に鮮やかに、その鮮やかさに眩惑される人々がいて、これでいけると思ってしまった。そこがやはりマルクスの問題点じゃないか。
*デラシネ (déraciné) は、フランス語で根なし草、転じて故郷や祖国から離れたもしくは切り離された人を意味する。

農地改革への貢献、やがてその道からそれて

藤田 今になって振り返ると、マルクス主義が日本で圧倒的に強い領域は農業問題で、これにもとづいて農地改革が行なわれた。GHQにもあの段階にはマルキストの経験者が沢山いた。農地改革自体は間違いなくいいことでした。ロシアの例でいくと、ロシア革命の社会的貢献は大地主の問題、ゴーゴリからドストエフスキーまで、「死せる魂」から「カラマーゾフの兄弟」まで全部地主問題でした。それを革命が解決し、農村がある時期豊かになった。ネップなどを経て、それを潰したのが1928年からの富農追放。あの豊かさを保っていれば今日のロシアの食糧不足などなかったかもしれないのに、ロシア革命は大地主制度という一世紀以上かかってもどうにもならなかった大問題を解決した点に本当の貢献がありました。しかし、そこから脱線した方向に一時遇進したみたいな感じが、確かにあります。専門家はどう見るか。教義的主義としてはそれでよかったかもしれないが、それじゃ実際に達成した貢献のところで止まっていたら、主義に反するかというと、そんなことはないと思います。

塩沢 マルクス・レーニン主義の伝統の中では、ネップは後退なので、そこにとどまることは理念としてなかったと思います。そこまで行くのだったら修正主義をどう評価するかというところまで行かなきゃ止まらなかったでしょう。
藤田 そうです。勝利した瞬間に、修正主義に対する寛容を回復してもいいでしょ。レーニンは独政権に機嫌を付けたほどの人なんだから、そこまで言うと、ないものねだりになるかもしれません。ないものねだりもあとからの総括の一つの在り方だ、と考えれば許されるかもしれませんが。それから党員として組織化されたマルクス主義者に問題があるとすれば、次の点です。自分の所属証明の方が社会的課題より大事だということになれば、私たちが直面している状況に対する政治判断が第二次的なものになってしまうということです。それからマルクス主義の実験の教訓についてもう一つ言うと、間違いに対して寛容であれということ。間違う権利を万人に認めること、従って価値の独占をしないということ。それから規模の問題、大量操作をやりすぎると過剰な間違いがおこり易い。主知主義的にいくと大量操作が可能に思えてくるのですが、政治については可能なかぎり小規模な、人間接触のできる範囲を守るように努力する必要があると思います。人間は全部それぞれに個人的な信頼関係とか愛情のダイナミズムの働く関係の中で生きています。そういうパーソナル・リレーションシップができるだけ成り立つようにするのがいい。これはルソーも「社会契約論」で書いている。

塩沢 マルクス主義百年の遺産からホントに学ぼうとするとき、それがいかにひどいことをやってしまったかをしっかり見ることが第一だと私は思う。その点を除いても何か取り込めることがあったというなら、何もそれをマルクス主義として取り込む必要はない。人間の他のさまざまな知恵の一つとして生かせばいい。もう一つ、政治において面と向かった関係を保つことがですが、それは確かに重要です。しかし、現在の国家や経済を見ていますと、相手の顔の見える関係を保つことが難しい場合が少なくない。そこでは面と向かった人間の間の信義といったものとは違う何かが必要とされる。
―恐ろしいのは1945年の日本敗戦のあとで、その前に何年もスターリンの根拠なき粛清が続いていたにもかかわらず、東大新人会の終わりのところで表明された信念から、もう一度に本のマルクス主義を出発させてしまったことなんです。それがなぜ可能だったかというと、その前の10年以上にわたって優れた抵抗者としてのマルクス主義者が日本にいて、その人たちの、それこそパーソナリティ・リレーションシップが、しっかりとみんなを握っていたんだ。つまり松田道雄に対しても、やっぱり或る人間の像があったんですよ。私なんかに対しても尾崎秀美があそこで死刑になったというのはちゃんと私にたいする把握力をもっている。自分よりもりっぱに14年、18年耐える人間は大変な重さだった。それは抵抗者としての輝かしい業績なので、それがソ連における、また日本におけるマルクス主義の社会科学の失敗、思想としての失敗、論理学での不足、こういうことに対する批判の眼をくもらせてしまった。これが問題なんですよ。だからまず、マズサを認める。同時にスバラシイ伝統を認める。彼らがいなければ昭和時代の批判は殆ど成立しない。あとは大本教、天理はほんみち、灯台社とかでshぼ。恐らく予測としては、敗戦後のような復活は日本のマルクス主義にはもうないでしょうね。そのチャンスは少なくとも我々が生きている間にはないと思う。そうとすれば、いま生きている流れの中で、どういうようにこれが生かされるのか。少なくとも抵抗の姿勢は受けつがれていいと思う。
藤田 今はそれが受けつがれていずに、所属登録証明の意識の方が強くあるかもしれません。
体系につぎ目にウソが入る
藤田 もう一つは商品化の問題、いま「世に出ている」人の大部分の中には、自己商品化の流れに身をまかせている場合が多いように思います。この時代にはこういう風に売り出さなければなんて言って、そのやりとり自体がまた商品になっている。商品化がこれだけ貫徹されるとは驚きます。これでは生きものとしての抵抗がどこからどうして起こるのか。それこそパーソナル・リレーションシップスの可能な限りでの復活を望みたいと思います。民主主義というのは、権力悪をできるだけ少なくするための自己抑制が重要な要素だとすれば、マルクス主義にはそこを考える理論的道筋が明かに不足していた。価値の独占資本が高いということの裏側といっていかと思います。
塩沢 マルクス主義の議論のスタイルに特徴があるように思う。今、マルクス経済学の中から出てきた新しい流派にグラシオン理論というのがある。これはケインズとかを取り入れた新しい形のものですが、私は横から見ていて、やっぱりマルクスの尾を曳いていると思う。というのは図形を作って、綺麗に全部説明しきる。これも学問の一つのやり方ですが、危険もある。なかなか判らないことをブツブツ言いながらやっていかないと具合が悪いんじゃないかなという気がします。
藤田 マルクス自身、そういうことに関して「神聖家族」の中で、短く言っています。存在と思惟の食い違いとか、それから意識と生活の食い違いということを大切にしなければいけないと。しかし、すべての体系について言えることですが、体系をつくると継ぎ目の部分にウソが入る。その点で正直でなくなる。[司会・鶴見俊輔 記録・佐々木元]

*ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ(ウクライナ語:Микола Васильович Гоголь[1] / ロシア語: Николай Васильевич Гоголь; 1809年4月1日(ユリウス暦3月20日) - 1852年3月4日(ユリウス暦2月21日))は、ウクライナ生まれのロシア帝国の小説家、劇作家。ウクライナ人。『ディカーニカ近郷夜話』、『ミルゴロド』、『検察官』、『外套』、『死せる魂』などの作品で知られる。Nikolai Vasilevic Gogol (31ma di marto - Juliala kalendario: la 19ma di marto - 1809 en Velyki Sorochyntsi, Rusian imperio til la 4ma di marto - Juliala kalendario: 21ma di februaro - 1852 en Moskva) esis Rusa skriptisto.

*フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(ロシア語: Фёдор Миха́йлович Достое́вский; IPA: [ˈfʲɵdər mʲɪˈxajləvʲɪtɕ dəstɐˈjɛfskʲɪj]、1821年11月11日〔ユリウス暦10月30日〕 - 1881年2月9日〔ユリウス暦1月28日〕)は、ロシアの小説家・思想家である[* 1]。代表作は『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』など。Theodorus Michaelis filius Dostoevskij (Russice Фёдор Михайлович Достоевский, tr. Fëdor Michajlovič Dostoevskij), qui 11 Novembris 1821 natus vixit usque ad 9 Februarii 1881, fuit unus e clarissimis scriptoribus pedestribus Russiae.

III 特有の光輝―「石母田正著作集」刊行に寄せて
石母田正氏の仕事が、日本の古い時代の姿を、「国史」という狭い視野狭窄から解き放ち広い世界史的関連の中に置いて把えようとしたものであることは、多くの人が指摘するだろう。しかし石母田氏の仕事の特徴はその点だけにあるのではない。どの文章を採って見ても石母田氏の書かれたものには多層性があって、一つ一つの層ごとに読者をハッとさせる洞察が提出されている。人の真価を見抜く眼の的確さ、物言わぬ事物が発している信号を感取する理解力の深さ、文明論的批評眼の広さと鋭さ、秀れた反対意見に耳を傾ける思慮深い知的寛容、それらの過程を経た挙句でだけ、自分の信ずる所に「殉じ」ようとして悪戦苦闘を辞さない覚悟の固さ。そういうもろもろのものが書き込まれているところにこそ石母田氏の仕事の特有の光輝がある。
註)例えば、氏の最後の力作「日本の古代国家」の中で、「大国」を目指す「律令国家体制」を最終的に実践しようとする意図の下に、遂に「新羅」に対する暴力的態度をとるに至って結局、「自滅」した奈良時代の藤原仲麻呂の、その暴挙と失敗を石母田氏は、どう評価したか。「父祖以来の政策の忠実な継承であり、「律令国家」の正当な嫡子であり、その原理に殉じたといってよい」と、石母田氏が渾身の力をこめて批判する「敵」としての律令国家的大国主義についてまで、「その原理に殉じた」者に対しては決して「悪罵」を投げつけただけで事を処理しようとはしない。この「殉じたもの」という言葉には重みがある。特に晩年の石母田氏を知ろうとした者にとっては、そこには、明らかに、石母田氏自身の「決意」の程が影を宿しているからである。歴史上の人物を、その歴史的時代条件の下で論ずる時、内在的批判さえできる人の殆んどいない今日、内在的批判に加えてなお且つ論者自らの意志や覚悟を、そこに忍びこませることのできる歴史家は今はもういない。そこには歴史認識に際してまで、自分を「実体化」して歴史に自分を押し付けるのとは正反対に、自分を単なる「」へと機能化して歴史の実体に迫ろうとする真実への忠誠があり、しかもその上で、歴史の解釈に於ても、その昔の事に対してさえ自分の考え方のをそこに宿さないではすまない、という思想の底力が横溢している。その極に「原理に殉じたもの」といった類の歴史解釈のカテゴリーがある。

*후지와라 노 나카마로(藤原仲麻呂, 706년 ~ 764년)는 나라시대의 권신으로 그의 아버지는 후지와라노 후히토(藤原不比等)의 맏아들 무치마로(武智麻呂)의 차남이다. 후지와라에미노 오시카쓰(藤原惠美押勝)라고도 불린다.

*신라정토계획(新羅征討計劃)은 753년 경덕왕 12년에 일본에서 사신이 파견되었다가 무례함을 이유로 추방당하자 일본의 권력자 후지와라노 나카마로가 이를 기화로 신라를 대대적으로 침공하기 위해 계획한 계획이다.
*石母田 正(いしもだ ただし/しょう、1912年9月9日[1] - 1986年1月18日[1])は、歴史学者。元法政大学法学部教授。専攻は古代史および中世史で、多数の著作・論文がある。唯物史観の観点から多くの論文・著作を発表、戦後の歴史学に多大な影響を与えた。戦後、歴史学を志した人々の多くが石母田の著書(特に「中世的世界の形成」)を読んだことにより、歴史学を専攻する道を選んだ(石母田正著作集各月報より)と述べている。Português
ポルトガル語→Shō Ishimoda (石母田正(Ishimoda Shō(北海道出身) foi um historiador japonês de Sapporo, capital da região de Hokkaido, especializado em História do Japão Antigo, com um interesse particular na natureza da transição estrutural do período antigo para o medieval.

石母田先生のこと
その人が其処にいることで、その場所自体の品位が高められるような、そういう人が此の世の中には時々いる。或いは、今はもう無いかつてはそういう人がいた事がある、と言うべきかも知れない。法政にとって(とりわけ法学部にとって)石母田先生はそういう人であった。その学殖の程については今は措くことにする。しかし、あの昴ることのいない沈着。あの物静かな深慮遠謀。あのさりげない決断。そして目立たない形で行なわれる共同の事への献身。しかも寡黙の内に秘められた深い懐疑と自信。それらすべての点で石母田先生は抜群の徳を以て法政の仕事に当たって下さったのであった。多くの人々が敬意を持たざるえなかったのも、或る人々が時に怖れを感じ、また時にわざとらしい無視を装わなければならなかったのも、そうした諸徳を目のあたりにしていたからに違いないであろう。そのことを物語るエピソードを挙げていくと、ほとんど語って尽きない程になる。残念ではあるけれども、2,3の例だけを紹介するにとどめなければならない。
石母田先生が学部長になった時のことである。前に学部長が3期6年間をつとめられていた間に1つの習慣が教授会の会場に出来上がって来ていた(それ以前は戦後草創期の天衣無縫がまだ引き続いて教授会場にも横溢していたのだから、この時期の習慣の成立は或る種の「秩序」の成立を意味するものであった)。その習慣では、学部長先生は胸を反るようにしながら威風堂々と入場して来られるのであり、学部長の坐る座席は、一番奥の中央に陣取って全員を見渡しながら「統轄」する「主席」の位置に決まっていた。重々しく議事を司る仕方もおのずから想像できるであろう。
会場のそうした在り方が6年間にわたって続いた結果、漸くそれが慣行のようなものになって来つつあった時、石母田先生が新学部長に選ばれたのであった。新学年の第1回目の教授会の折、石母田先生は小柄な体を幾らか猫善にしながら、靴音も立てないでスーッと会議室に入って来るなり、奥の中央などには見向きもしないで、黙って、私たち有象無象が並んで坐る椅子の群れの中程の1つにちょこんと腰を下したのである。そして、いつもの落ち着いたきれいな声で、「教授会を始めます」と物静かに切り出したのだった。その瞬間に、「宮中席次」と「御前会議」をモデルにして出来ていたであろう帝国大学教授会風の会場様式は、同輩が相集まって共通の問題を討議し会う「円卓会議」の様式へと、物音1つ立てないで転換したのだ。
こんな模範的な「名誉革命」があるだろうか。碩学の歴史家石母田先生がそうした事の意味を知らなかった筈はもちろんない。むろん先生の趣味としてもそのように振る舞いたかったことは疑いないが、しかし単に趣味と美学だけでそうしたのではないこともまた明らかだ。そうすることの意味を百も千も知り尽くしていながら、素知らぬ顔で、誰も一事たりと非難することなく、いかなる宣言もすることなく、極めて自然な態度で、当り前のこととして、アッという間にその転換をやってしまったのだった。ほとんど「人知れず」といった風に、である。言いしれぬ解放感が、声にもならず恐らくは十分に意識もされないままに、空気のように満座に拡がった。石母田先生はこのように事を運ぶ人であった。                     

学部長をつとめられた2年間の間にもこんな事があった。若手の教師達が、彼らの学科の陣容を強化しようとして九州大学を定年退職される或る大家を招きたいと希望していた。その希望の旨を聞かされた石母田先生は、当の老大家の退職後の行先について先約が有るか無いかを先ず確かめられた。老大家は既に、法政より給料も高く世間的に聞こえも良い或る「一流」私立大学から招かれていた。それを知って石母田学部長は誰にも何も言わないで黙って1人汽車に乗った。九州の福岡に向かったのである。そして大家をいきなり訪ねた。「法政に来て下さるようお願いするために東京から参りました」と、石母田先生に礼をとられた大家は、結局、若手の教師連中の希望通り法政に来て下さった。「礼」を尽すことが、場合によっては給料や名聞などよりも遥かに強いのだということを石母田先生ほどよく知っていた人を私は知らない。しかしそれも、黙って、後輩にあたる同僚の希望をかなえるために、1人で平然と実行するのである。強い体でもないのに。そして事後にそれを他人前で語ることもしないのだ。共同の事を託された任務に対するこの誠実。そしてこの深い智慧とこの品位の高さ。並ぶ者はそう多くないと言ってよかろう。

しかし石母田先生は、大家に対してだからそのように礼を尽したのではなかった。20歳以上も年下の若輩の研究者に対しても、全く同じような「お願い」をするために、再三にわたって遠方まで足を運んだこともあったのだった。そういう場合には、相手の若者は、鄭重な来訪者が碩学石母田先生であるだけに、気の毒にも恐縮身の置き所を知らない有様となる。そのほとんど滑稽な恐縮が相手に生ずるであろうことを、あの智慧者石母田先生が半ば予想しなかった筈はない。独特の「悪戯っぽい」ユーモアが、そういう時の石母田先生の心中で働いていたことであろうが、しかしむろんそれが行いの主たる動機ではなかった。仮に少々「意地悪い」結果をもたらそうとも、踏むべきは踏まなければならないというのが石母田先生の精神であったに違いないのだ。普遍性は場合によっては少しばかり許されるコストを関係者双方に課するものである。いわんや、そのコストがユーモラスな場面を生み出すのであれば、何ら厭うところはない筈であった。
こうして石母田先生の実行する「礼」は、儒教の伝統におけるような身分的上下を律する道徳ではなくなって、公平な社会関係の中で必要とされる総ての場合に、当然のこととして行なわれるルールとなっていたのだった。ここでも「礼」の概念とその実践のあり方とが、さりげなく鮮やかに転換されていた。
そうした公平さの静かな徹底は、もちろん対人的な「礼」に関してだけではなかった。「法学志林」の編集長であった時には、「大学」なるものが長い時間待ち続けて来ていた権威主義的慣習を、まるで何物でもないかのように平気でさっさと打ち破った。「志林」に掲載する論文の順序は、身分の序列とは全く無関係に、内容の充実度に依って決められた。その結果、一介の助手の論文が大学教授連の論文を幾つも差し置いて巻頭に持って来られたりした。その若輩の助手が恐縮してその決定を辞退しようとした時、石母田編集長は事も無げに「学問に身分の上下はない」と、呟くような声で断言したものだった。石母田先生のもとでは事はこのように行われた。組合の初代委員長としては、組合が機構や階段になるのではなくて自由な社会的相互性を培う場所になるように、或る時は高熱の病を圧してまで努められた。例によって努力の顔などカケラも見せることなく。
思えばそれらの事があった時代は戦後法政の「英雄時代」だったのかもしれない。そしてその時代を代表していたのが、小柄な体の中に大きな精神を重層的に従って複雑に抱え持っていた石母田先生であったのであろう。その先生が今この世を去った。法政の光栄ある姿もまた石母田先生と共に去ってしまったのであろうか。

*遠山 茂樹(とおやま しげき、1914年(大正3年) 2月23日[1] - 2011年(平成23年) 8月31日[2])は、日本の歴史学者。研究分野は日本近代史、東アジア史、東洋史、自由民権運動、明治維新、歴史教育。横浜市立大学名誉教授。『遠山茂樹著作集』(全9巻、岩波書店刊)がある。Shigeki Toyama 遠山 茂樹(Toyama Shigeki(東京都出身, 1914 ( Taisho 3) 23 février [1] - 2011 ( 2011 ) 31 août [2] ) est un historien japonais .
史学における叙事時―「遠山茂樹著作集」刊行に寄せて
例えば、「主権国家」とは何かについて多少とも立ち入った洞察を得たいと思う人が、ポップスの「レイバイアサン」を読まなければならないように、「明治維新」と呼ばれている日本的「近代国家」の成立をめぐる一大歴史的変動がどういうものかを少しでも知ろうと思う人は、立場や国籍の如何に問わず、遠山茂樹「明治維新」(岩波全書、1951年刊)を精読しなければならない。明治維新に関する本は山ほど在り、その中には秀れたものも幾つか在りはするけれども、遠山氏の此の本に及ぶものは、以前以後を通して唯一つもない。恐らくは今後も在りえないのかも知れない。
「天保期の意義」を第1章とし、「征韓論」と絇い交ぜの「民権」・西南戦争を第5章として終る遠山氏の「明治維新」は、規模壮大な包括性だけを特徴とするものではない。各章を構成するそれぞれは、大潮流が作り出す渦巻きの一つ一つの構造を緊密な精確さを以て明らかにしながら進む。そこを貫いている要約性は読者に一瞬の油断も許さない。しかも各節各節が従えている膨大な註の殆どが、それぞれ一大論文に値する劇的主題と充実し切った解答を備えている。この精分された厚みこそが、狂澜怒涛の目くるめく転変の次第を構造的綜合性を以て我々の前に明らかにしてくれる最善の史的解明となっており、同時にその一方で、形を変え品を変えながら執拗に取りついて離れない「尊王」や「攘夷」の心理的悪癖も又この重層的厚みを通してこそ最も明哳に暴露されている。
だから此の本は、制度的分類で言う「概説書」などではない。そういう分類を以て言うならば、「政治史」「経済史」「社会運動史」「思想史」「外交史」の五次元を統合しながら、寸分の隙なく展開された、学問的形態の叙事詩なのである。

*정한론(일본어: 征韓論 세이칸론[*]) 또는 정조론(征朝論)은 19세기 말 당시, 일본이 조선을 정벌해야 한다는 사상 또는 신념이다. 1860년대의 일본 군국주의자에게서 나왔으나 1884년 갑신정변 실패 이후에는 조선에 호의적이던 인사들에게서도 정한론이 대두되었다.

*존왕양이(일본어: 尊王攘夷)는 왕을 높이고, 오랑캐를 배척한다는 의미를 갖고 있다.
花田 清輝(はなだ きよてる、1909年〈明治42年〉3月29日 - 1974年〈昭和49年〉9月23日)は、作家・文芸評論家。Deutschドイツ語→Hanada Kiyoteru (jap. 花田 清輝; * 29. März 1909 in Fukuoka, Präfektur Fukuoka(福岡県出身; † 23. September 1974) war ein japanischer Literaturkritiker.
その姿勢ー「花田清輝全集」に寄せて
例えば次のような所に現われている花田清輝の姿勢が私は好きなのである。彼が、「映画的思考」の中の一篇で、アメリカのギャング映画を取り上げた時、「というにすぐれた作品ではない」ハンフリー・ボガート主演の「脅迫者」の中からの1つの象徴的なシーンを抜き出して引用しているが、それは以下のようなものであった。
ふらふらと、1人の男が煉瓦の壁に倒れかかる。50すぎの、つめたい感じの男である。なぐり倒されて喘いでいる。なぐった男はリコである。
リコ「いいか、親分の伝言だ。メンドーサ、この界わいから消えてなくなれ、親分は縄張り荒しは嫌いだ。わかったか?」メンドーサ(リコの顔を見上げて)「おれもずいぶんなぐられたが、おまえが一番腕ききだ。名はなんていうんだ」リコ「なんだと?もっとくらいてえか」リコ「馬鹿にする気か?」リコ「気狂えだ?」メンドーサ「おまえに行きあってよかったよ。ちょうどおまえみてえなやつが欲しかったんだ。来な。コーヒーをおごろう。まだ金は残ってらァな」
リコは毒気をぬかれてメンドーサについてあるきだす。

このシーンを引用しながら、「要するに、ギャングのタイプが、暴力団からインテリ型に変わったているのだ」と説明する。その説明の方は私には殆ど第二次的である。その「要するに」に入る前に、「わたしは、なぐり倒されてフウフウいっているくせに、冷静な観察眼をうしなわず、ずけずけと相手の暴力にたいする批評を試みるメンドーザの不敵な面魂をおもしろいとおもった。」という、花田清輝の眼の附け所の方に私は心を惹かれる。大した映画であろうと大した映画ではなかろうと、高級芸術であろうと凡俗芸能であろうと、論文であろうと雑文であろうと、人の社会的行動であろうと日常的所作のうちにであろうと、どんな分野のどんな部類に属するものであっても、そしてどんな世界を受けているものであっても、その中にこれに類する感じの現われている箇所や場面や表現や表情が一寸でも狂ったならば、恐らく彼は絶対に見逃さないであろう、と私は思う。私は彼の書く物をその都度その都度すべて探し求めて読んで来た読者ではないし、共に行動したことも、他の人に交って絵の展覧会を一緒に見に行って数百米を共に動き廻った事ぐらいを除けば、ほぼ皆無であるから、証拠を並べ立てることは出来ないし、しようとも思わないけれども、間違いなくそうだ、と私はー折々に出喰わす彼の断簡零墨の方を好んで読んで来た私はー思っているのである。そして其処に、すなわち例えばこのメンドーザの姿に、殆ど花田清輝それ自身の生きる姿勢が影のように写し出されていると思うのである。
それを花田清輝の「非暴力主義」という風に公式化しただけ受け取って「おおむ返し」をする追随者がもしいるとしたら、私はガッカリである。むろん「非暴力主義」も結構だし定式として表現するのも結構であるけれども、私が其処に感じてる花田清輝の生きる姿勢というのはそれに還元されて了っては困るものなのである。凡ゆる種類の卑屈を嫌うこと。何事によらず隷属を絶対に拒否すること。そして彼の好きな言葉で言えば、その上に「ぐにゃぐにゃ」であること、つまりはアッチから見コッチから見ることの出来る眼のやわらかさを持つこと。殴られた自分の痛覚を読んで相手の力量を測り、そして殴り倒して意気揚々と調子良く勝ち誇っている奴に対して、判定者としては或は精神的統治者として、すなわち花田流に言えば「統合」の立場から、この世の中の一契機としてそれを位置づけようとすること。そういうことを全部含んで、私は花田清輝の姿勢をそこに感ずるのである。そして私はその姿勢が好きであり、素寒貧のままでその姿勢を通して生きた花田清輝を尊敬するのである。根本の姿勢なしに本式に生きるということは在りえないであろうし、生きる姿勢と別個に人間の思想などというものがないとすれば、彼はやはり戦後の代表的な思想家であった。           

「大した映画ではない」ものの中のメンドーザの仕草の裡に花田清輝が「批評」を見たということは、批評というものが如何なるものでなければならないかについて彼がどう考えているかということを物語っているかもしれない。或いは、批評は本式に批評たりうるためにはどういうものでなければならないかを、私たちがその場面から受け取るべきことを示唆しているかもしれない。キャパがノルマンジー上陸作戦の鉄砲玉の雨嵐の中でユーモラスに示した批評眼のように、メンドーザも又挙固の嵐を喰らって朦朧と成り果てた意識の中でこそ、彼の判定眼や批評意識が本式のものであることを示したのであった。批評精神が在るかないかはそういうシチュエイションにおいて最も端的に現われる。そうしてそういうシチュエイションは規模の大小の差こそあれ日常生活の何処にでも転がっているのだ。生活の在る処には必ず批評精神の存否を試す場面が在る。その場面で発動しない批評意識は批評ではない、と言っても良い程であろう。
だからであろうか、メンドーザの場面をわざわざ引用している花田清輝の文章を見て、私はふと、甚だ唐突ながら、第二次大戦前夜の状勢の中でE・M・フォスターが「たとい、押し潰されることになろうと、温和であれ」と言ったという事を思い出した。いつも徹底的に親切で行き届いた理解を示すスベンダーが既に注目していたように、この文言の中の「たとえ押し潰されようと」という一句に並々ならぬ精神的態度が現われているのであった。捨身というか、弱小さを決して隠蔽しようとしないで、むしろそれを確固たる態度で前面に出して、その上で温和を貫こうとする、その強さは殆ど測り知れないものがある。
「変装用の兜」のように無力の外装を身にまといながら、力に対しては絶対に共感を示さなかったフォスターの、ひどく芯の強い批評精神に似たものー或いは対極において相似形をなすものーが、どちらも本式の批評精神であるという限りにおいてだけかもしれないが、花田清輝に無いとは言い切れないであろう。「たとい押し潰されようと」という文句と「たとい殴り倒されようと」という文句が似ていることだけは少しも疑いない。

たしかに、2人はうんとちがう。フォスターが「弱々しい声の共鳴」を意識的に重視し直接の個人関係の中に働く小さな力を特に重く見たのに対して、花田清輝は荒々しさを意識的に重視し人間の関係が社会の「転形」の中でダイナミックに動き廻ることを特に重く見た。「フォスターなんか思い出したばっかしにこういう解説じみた事を柄にもなく言わなければならないハメに陥っているのだ。」しかし、あれ程悪態と笑劇の得意であった花田清輝氏が本当に人に対して直接、親身になった時、それがどういうものであるかを知るためには、田中英光が死んだ時の文章を見れば直ぐ分る。其処で花田清輝は、田中英光の友だちとして、大事な友だちが太宰治の亡霊に盗まれたようで口惜しくてたまらん、という風に或る種のユーモアを失わないで書き進めて行ったが、自殺の前に何とか察知して手を打つことが出来なかった事を書く段に至ると、「田中英光よ、友だち甲斐のなかった私を許せ。」と血を吐くような一言を語っているのである。ユーモアにつられて笑みを失わないで読んでいた私の眼玉から突然、大粒の水玉が一つポトンと降って来たのを今でも思い出す。その水玉は一滴だけで決してジメジメしたものではなかっただけに、その突然の御来迎にハッと息を呑む思いがした。花田清輝のその言葉は、儀式の粉飾など一切持たず、自分本位の女々しさを一切持たず、真摯無類のものであった。「弱々しさ」も「荒々しさ」も何もなかった。素直というには余りにも率直な真一文字の真実だけがそこにあった。思うに、この必死の親身のようなものが、思込みの部分をかなり含みながら、彼の姿勢の内に秘められていて、それが、あの硬骨とあの「ぐにゃぐにゃ」と、あの不能とあの知的ユーモアと、あの独立不羈とあの自由な展開と、を推し進めていたのかもしれない。


*ロバート・キャパ(Robert Capa [ˈɹɔbətˈkæpə | ˈɹɑ(ː)bɚtˈkæpə], 1913年10月22日 - 1954年5月25日)は、ハンガリー生まれ(ユダヤ系)の写真家。

로버트 카파(영어: Robert Capa, 1913년 10월 22일 ~ 1954년 5월 25일)는 헝가리계 유태인이자 미국인으로, 세계적인 사진 에이전시 '매그넘 포토스'의 설립자인 동시에, 20세기에서 유명한 전쟁 보도 사진작가로, 에스파냐 내전, 중일전쟁, 제2차 세계 대전 유럽전선, 제1차 중동 전쟁, 제1차 인도차이나 전쟁을 취재하였다.
*田中 英光(たなか ひでみつ(高知県出身、1913年(大正2年)1月10日 - 1949年(昭和24年)11月3日)は、日本の小説家。無頼派として知られる。Françaisフランス語→Hidemitsu Tanaka (田中 英光, Tanaka Hidemitsu?, 10 janvier 1913 — 3 novembre 1949) est un écrivain japonais du genre buraiha de l'ère Shōwa. Son nom est également prononcé « Tanaka Eiko » à l'occasion.

*太宰 治(だざい おさむ(青森県出身、1909年〈明治42年〉6月19日 - 1948年〈昭和23年〉6月13日)は、日本の小説家。

다자이 오사무(일본어: 太宰 治, 1909년 6월 19일 ~ 1948년 6월 13일)는 일본의 소설가이다. 1936년(쇼와 11년)에 첫 작품집 『만년(晩年)』을 간행하였다.

破局時代における品位と健全―E・M フォスター著作集」刊行に寄せて
20世紀は、全体戦争としての第一次大戦の結末以来、文明世界の全てが「破局の放つ閃光」(H・アレント)に眼の眩んだ時代であった。その「破局」の社会的心理的様相や眩めいた文化状況については今は述べないが、ともかく其処に現れた、史上かつてない無惨極まりない世界的大激動―人々の心奥や眼底を狂わせる程の深度を持った大激震―の真只中にあってもなお「落ち着いた懐疑精神」を保って我を失わなかった人が居た。その一つの典型がE・M フォスターであった、と思う。
彼の姿勢と表現が群を抜いて品格の高さを示している根本理由は、彼が「偉大さ」を拒否したところにある。人々の上に突き出た固形的なるもの、大げさに振りかざされるものを、主義であれ宗教であれ態度であれ全てについて拒否して、その代りに人間の個人的関係の多様な在り方の中に人間世界の中心を見出して行こうとした結果、そこから様々な形のユーモアに包まれた表現形式が生まれ、その表現の中で歯に衣着せぬ批評と真実の主張が、翻訳不可能と思われる程の見事な結びつきをもって繰り出されたのである。一例だけを挙げれば、フォスターは「民主主義に対して2/3程の乾杯を!」の序文のところで、この本の中にはナチスに対する戦いのためのラジオ放送の原稿がかなり含まれているが、彼のような控え目でマスコミ嫌いの人が放送のマイクを握ったことについて、フォスター自身は確か次のような文句を用いていたと記憶している。「I have taken the microphone by the hours」。英語の、ちょっとした熟語に「Take the bull by the hours」というのがあって、「敢然として」とか「勇を鼓して」とかいう意味であるが、その熟語をもじって使ったのが、此処のフォスターの文句なのである。マイクロフォンと雄牛の角の類比といい、ラジオのようなマス・メディアに対するフォスターの、些かの嫌悪を込めた内気さと尻込みが表れている点といい、色々なものがその一句のもじりに含まれていて、単なる遊戯的「もじり」を超えて、意味深いユーモアを醸し出している。それだけでも現代日本語に訳すことは中々に困難だろうが、それに加えて、私たちから見るとき、その熟語は論語でいう「暴虎馮河の勇」と意味的に表裏をなしていて其処のところに又、言うに言われぬユーモアが滲み出して来る。これでは、とても「主体」ある翻訳は不可能だ。だがそれだけに一層興味津々たるものがある。とにかく丁寧に読んで下さることを期待してやまない。それに値して余りある本だと思う。
*《논어》(論語)는 공자와 그 제자들의 대화를 기록한 책으로 사서의 하나이다. 저자는 명확히 알려져 있지 않으나, 공자의 제자들과 그 문인들이 공동 편찬한 것으로 추정되고 있다.

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