日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

De la position d'un débat semi-réfugié sur la responsabilité d'après-guerre et les Coréens au Japon/반 난민의 위치에서 - 전후 책임 논쟁과 재일 조선인/半難民の位置から - 戦後責任論争と在日朝鮮人(서 경식 徐京植Suh Kyung-sik)⑤


'위안부'증언「慰安婦」証言 (いあんふしょうげん)는 '위안부'증언이다.
1991 년 8 월 14 일 김학순 가 처음으로 일본군 위안부 제도의 피해자로 나섰다. 같은 해 12 월 6 일 일본 정부를 상대로 손해 배상 청구 재판을 일으켰다.한국의 위안부 피해자의 이름을 밝히기는 아시아 각지 (필리핀, 대만, 중국, 네덜란드, 말레이시아, 인도네시아)의 피해자에 충격 속속 피해자가 와주 결과가되었다. 그녀들은 위안소에서의 가혹한 체험이나 성폭력 피해 를 증언했다 [1] . 1993 년 4 월 2 일에는 필리핀의 피해자들이 일본 정부를 상대로 손해 배상 청구 재판을 일으켜 '위안부'피해가 일본의 식민지 지역뿐만 아니라 동남아시아를 비롯한 일본군이 진격 한 전역으로 확산되고 있음을 나타내는 계기가되었다. 그리고 '위안부'피해자의 증언은 전 세계적으로 여성의 인권을 근본적으로 묻는 계기를 만들었다 [2] .


5 おわりに
植民地支配、世界戦争、大量虐殺に特徴づけられた20世紀は、まもなく終わろうとしている。その最後の10年間、日本における「証言の時代」は、日本と日本人が過去の国家犯罪への謝罪と償いを通じて新しく生まれ変わるための好機であった。日本国が国民大多数のコンセンサスを得て、アジアの被害民族に深く謝罪し、個々の被害者にその損害を賠償することは、過去の犯罪の償いという意味からだけでなく、未来の東アジアにおける相互信頼の醸成と平和の確保のためにも避けて通ることのできないプロセスである。元「慰安婦」などの被害者証人は、その意味で、いわば未来の平和のための証人であった。しかし、日本において、この証人たちは尊ばれなかった。むしろ、しばしば辱めさえ受けた。「証言の時代」は、無残な現実を私たちの眼前にさらけ出している。
もちろん自覚的に責任を担おうとする少数の人々はいるが、日本人は全体として、被害者証人をはじめとする他者からの呼びかけに背を向け、自己中心主義の殻に立てこもる傾向を強めている。「なぜ、日本だけが非難されなければならないのか?」という、筋違いで幼稚な被害者意識が思いがけないほどの広がりをみせている。だが、日本が特別に不信や警戒の眼を向けられている原因は、過去との絶縁を明確にすることのできない日本自身にあることはいうまでもない。1999年、日の丸・君が代が国旗・国歌として法制化されたが、これは、日本はついに変わらなかったこと、今後も変わるつもりのないことを全世界に向けて宣言するに等しい行為だった。しかも、2000年になって4月9日には石原慎太郎都知事の「三国人」発言があり、その後を追うようにして、5月16日には森喜朗首相が神道政治連盟国会議員懇談会で「日本の国はまさに天皇を中心にしている神の国であるぞ、ということを国民の皆さんにしっかりと承知していただく」と発言した(「毎日新聞」2000年5月16日)。
このような、保守勢力主導の右傾化、ナショナリズムの強化もさることながら、本稿で述べてきたように、かつては右派に対する牽制勢力、制御勢力として一定の機能を果たしていた親身的リベラル派の思想的頽廃ぶりが、さらに深刻な問題として浮上してきたといえる。ここに属する(あるいは、属していた)知識人たちは、他者からの呼びかけを真摯に受けとめることなく、ある者はレトリックの遊戯にふけり、別の者は責任逃れの空論に終始している。その結果、勇気をふるって名乗り出た被害者たちは置き去りにされてきたのである。結局、いったい誰が宋神道さんの訴えに答えるのか?元「慰安婦」として最初に名乗り出た金学順さんは、97年12月に亡くなった。姜徳景さん、マリア・ロサ・ヘンソンさんも亡くなった。すでに高齢の被害者たちは次々に世を去りつつある。
この人々に誰が答えるのか?それとも、このまま答えないつもりなのか?
行政、立法、司法、つまり代議制民主主義を標榜する国家の三権がいずれも答えようとしないのである。そのとき、国歌犯罪の被害者の訴えに答える責任は誰に帰すのか?国家主権を規定する現行の日本国憲法がまだ存続している以上、この問いへの答えは主権者すなわち日本国民をおいてあるまい。アウシュヴィッツの生き残りであるイタリアのユダヤ人作家、プリーモ・レーヴィは、ナチ第三帝国の時代、ユダヤ人大虐殺が進行中だった時に一般ドイツ市民は何をしていたのかという若者の質問に答えて、一般のドイツ市民は「ナチズムへの同意に対する無罪証明に、無知を用いたのだ」、「この考え抜かれた意図的な怠慢こそ犯罪行為だ」と述べている(レーヴィ前掲書)。
「証言の時代」の10年間を経たいま、「知らなかった」「気づかなかった」というような言い訳はもはや通用しない。考え抜かれたものであるのか、それとも、あまりにも考え足りないためなのかはともかくとして、「意図的怠慢」という告発は大多数の日本人たちにも向けられなければならないであろう。
*なお、本稿は筆者が女性・戦争・人権学会第3回大会で行なったシンポジウム報告「戦争責任・ジェンダー・植民地主義」の内容と一部重複することをお断りしておく。同報告は、同会会誌「女性・戦争・人権」第3号(行路社、2000年)に掲載されているので参照されたい。
(1) 本稿では「在日朝鮮人」という用語を、「国籍」ではなく「民族」的帰属を指す総称として用いる。(2)徐京植・高橋哲哉「断絶の世紀 証言の時代」岩波書店、2000年、2―4頁(3)「国家賠償法の施行前においては国の賠償責任を認める法的根拠はなく、明治憲法下の本件当時は、個人が国家の権力的作用によって損害を受けても、私法である民法は適用されず、国は民法709条などに基づく不法行為責任を負わない」という主張。(4)不法行為が行なわれた時点から20世紀以上の「除斥期間」が経過すると、損害賠償の請求権が消滅する、という主張(民法724条)。(5)1998年4月27日、福岡地裁下関支部は、朴頭理さんら元「慰安婦」3名、梁錦徳さんら元「女子勤労挺身隊」2名を原告とする賠償請求訴訟(「関釜裁判」)の判決において、元「慰安婦」に対する重大な人権侵害について国家の立法不作為の責任を認め、元「慰安婦」原告1人あたり30万円の国家賠償を命じる判決を下した。一方で国家の公式謝罪要求を棄却するなど、この判決を原告勝訴とまで評価することはできないが、現在の時点で、「慰安婦」関係の訴訟で部分的であれ国の責任を認め、立法による早急な解決策を求めた唯一の判決である。[ただし、その後、広島高裁において原告側逆転敗訴」](6)「「日本人としての責任」をめぐってー半難民の位置から」日本の戦争責任資料センター編「ナショナリズムと「慰安婦」問題」青木書店、1998年(本書56頁)、および、女性・戦争・人権学会第3回大会シンポジウム報告「戦争責任・ジェンダー・植民地主義」「女性・戦争・人権」第3号所収、行路社、2000年(7)石原都知事の発言内容とその問題点については、内海愛子・徐京植・高橋哲哉編「石原知事「三国人」発言の何が問題なのか」影書房、2000年、を参照。(8)加藤の所論に関する批判は、紙数の制約上ここでは簡単に述べるにとどめた。詳細は前掲「断絶の世紀 証言の時代」参照。なお、高橋哲哉「戦争責任論」講談社、2000年、もあわせて参照のこと。(9)「「日本人としての責任」をめぐってー半難民の位置から」(本書56頁以下)参照。
■参照・参考文献(単行本のみ、雑誌論文は省略)
高橋哲哉「記憶のエチカー戦争・哲学・アウシュヴィッツ」岩波書店、1995年 同 「戦争責任論」講談社、1999年 同 「断絶の世紀 証言の時代」岩波書店、2000年(徐京植との共著)高橋哲哉・小森陽一編「ナショナル・ヒストリーを越えて」東京大学出版会、1998年 日本の戦争責任資料センター編「ナショナリズムと「慰安婦」問題」青木書店、1998年 上野千鶴子「ナショナリズムとジェンダー」青土社、1998年 加藤典洋「敗戦後論」講談社、1998年 同 「戦後的思考」講談社、1999年 同 「可能性としての戦後以後」岩波書店、1999年 同 「戦後を戦後以後 考える」岩波ブックレット、1998年 西川長夫「国民国家の射程」柏書房、1998年 栗屋憲太郎ほか「戦争責任―戦後責任」朝日新聞社(朝日選書)、1994年 日高六郎「私の平和論―戦前から戦後へ」岩波新書、1995年 家永三郎「戦争責任」1985年 荒井信一「戦争責任論―現代史からの問い」岩波書店、1995年 吉田裕「現代歴史学と戦争責任」青木書店、1997年 田口裕史「戦後世代の戦争責任」樹花舎、1996年 アジアに対する日本の戦争責任を問う民衆法廷準備会編著「戦争責任 過去から未来へ」編集出版、1998年 安彦一恵ほか編「戦争責任と「われわれ」」ナカニシヤ出版、1999年 
(初出:「日本軍性奴隷制を裁くー2000年女性国際戦犯法廷の記録第2巻 加害の精神構造と戦後責任」緑風出版、2000年7月)

*신도 정치 연맹神道政治連盟 (신동 세이지 연맹)는 일본 의 국민 운동 단체 [1] . 약어 이름은 신정 연속 [1] . 신사 계를 모체로 1969 년 (쇼와 44 년)에 결성 된 신사 본청 의 가입이다 [3] . "신도 정치 연맹 국회의원 간담회神道政治連盟国会議員懇談会 (신동 세이지 연맹 흑해 의원こんだんかい) '에 대해서도 언급하지만,이 조직은 초당파 의원 의한 연맹 조직이며, 신도 정치 연맹과 같은 단체가 아닌 [ 요점 출전 ] .

*모리 요시로(일본어: 森 喜朗(石川県出身, 1937년 7월 14일 ~ )는 일본의 정치인으로 자유민주당 중의원 의원, 제85·86대 내각총리대신을 지냈다. 이시카와현 출신이며, 1959년 자유민주당 학생부에 입당, 2000년 4월 5일에 제85대 내각총리대신이 되었다.



탈식민지 화 '와'공생 '의 과제에 사키皋平 Rebus opus «coloniarum demolitionis" et "stare" Shinpei Hanasaki 사키皋平(하나 사키 공정, 1931 년 6 월 22 일 -)는 일본의 저자 · 철학자 · 시인 →花崎 皋平(はなざき こうへい(東京都出身、1931年6月22日 - )は、日本の著述業・哲学者・詩人
あなたはどの場所に座っているのか? -花崎皋平氏への抗弁ー
花崎泉平の論文「「脱植民地化」と「共生」の課題」(以下、花崎論文と略)が本誌(「みすず」)の本年(1998年)5月号と6月号に2回にわたって掲載され、その「下」において、私・徐京植が批判されている。私としてはこの批判に承服しえず、また公開的論争の当事者としての責任もあると考えるので、反批判の一文を掲載していただくよう本誌編集部にお願いした。
まず、ことの経緯を簡単に記しておく。一昨年(1997年)9月28日、日本の戦争責任資料センター主催で、あるシンポジウムが開かれ、上野千鶴子・吉見義明・高橋哲哉の各氏とともに私もパネラーとして参加した。同シンポジウムの記録は昨年(1998年)9月、各パネラーがのちに論争を振り返って執筆した新稿なども収めた形で、「ナショナリズムと「慰安婦」問題」(青木書店)という書名で刊行された。私はそこに、「「日本人としての責任」をめぐってー半難民の位置から」という一文を新たに寄せている。(本書56頁)
このシンポジウムとその後の論争の重要な論点のひとつは、元「慰安婦」などアジア戦争被害者からの謝罪と補償を要求する訴えに直面して、「日本人」はその「責任」をどう考えるべきか、という点であった。具体的には、日本国という「政治共同体」の一員であることによる「日本人としての責任」を承認し担うべきであるとする高橋哲哉氏の立場と、「日本人」というのは「わたし」を構成する多様なアイデンティティのひとつに過ぎず、高橋氏の主張は「ナショナリズムの「罠」にとらわれるものだと批判する上野千鶴子氏の議論との対立が明確になった。前記の私の論文は、この対立について在日朝鮮人という「半難民」の立場からコメントを加え、上野氏の議論は構成主義的な国民国家批判論を恣意的に援用する無責任論ではないかとの意義を呈したものだ。私はそこで韓国のベトナム派兵の例を挙げながら、誰しも国民(国籍保有者)である以上、その個々人の内心がどうであるかにかかわりなく、自己の属する国家の行為について、その行為の被害者に対する政治的な意味での「集団的責任」(ハンナ・アーレント)を免れることはできず、むしろそれを積極的に引き受けようとすることこそが彼我野断絶を超えて連帯に向かう道筋であると述べたのである。
この書物が刊行されてすぐ私から花崎皋平氏に贈呈したところ、昨年10月、花崎氏から、ここでの議論に応答せよとのメッセージとして受けとったという趣旨の返信を頂戴した。花崎氏はまた、「図書新聞」(1998年12月26日)のインタビューで同書に言及し、「日本人」という先験的概念を脱構築しようとする一連の研究への共鳴を述べつつも、「「国民」等責任の仮象をくずしつつ過去の清算・克服に当たって、被害者からの日本人としての責任の名指しに応答すべきだと思う」と語っている。こうした経緯から私は、花崎論文[上]を見たとき、いよいよ氏が自ら立てたこの問いへの回答を試みるものとおおいに期待を抱いた。その後、花崎氏から同論文[下]においての私の「コミュニケーション・モード」への批判的見解を述べている旨の簡潔な私信を受け取ったが、私はその時点でただちに、たとえ耳に痛いことでも真摯な批判を受けることこそ望むところである旨を返信し、同論文[下]が手もとに届くのをいまや遅しと待ちわびていたのである。
ところが、ようやく手にした同論文[下]を一読して、私は激しく落胆させられることになった。そこに述べられていた私への批判は、ありていにいえば、誤読と曲解にもとづくものでしかなく、陳腐なステレオタイプの域を少しも脱していなかったからだ。
花崎氏は私への批判点として、まず、「戦後国家と日本企業の再生と展開は・・・アメリカの占領政策と東アジアでの冷戦システムに規定され、その枠組みの中で選ばれたという側面があった」のであり、徐が指摘する戦後日本における国家・企業・国民ぐるみの利権構造の延命と温存は、「米国の支配の内側での、米国支配層との合作であった」と述べている。これが私の「歴史認識」に対する「異見」であるというのだ。しかし、これは理由のない非難である。論争の文脈をみれば明らかなとおり、この点は今回の論争の論点ではなく、言及する必然性がなかっただけだからだ。
そもそも私が前記論文で述べている韓国のベトナム派兵の事例も、まさしく「米国の支配の内側での、米国支配層との合作」であり、米国の政治的・軍事的支配下で韓国人が悲しく惨めな傭兵役を強いられた事件であった。韓国人には、とくに命を落としたり現在も枯葉剤の後遺症に苦しんだりしている下級兵士には、米国の犠牲者という「側面がある」ことは改めていうまでもない。しかし、ここで私が言葉を尽くして述べたことは、たとえ事情がどうであれ、韓国人は米国の支配云々を言い訳にすることなく、ベトナム人に対して負っている集団的責任を自律的に担うべきであり、在日朝鮮人である私自身も韓国籍を保有する韓国国民の1人である限り、その責任を免除されえないということだ。そして、このような筋道で、日本人も自らの集団的責任を自覚すべきではないかということである。予断や偏見がないかぎり、誤読の余地はないはずだ。
花崎氏はさらに、「朝鮮半島南半部に韓国という国家を樹立したこともその地の民衆の自由な自主的選択ではなく、日本の戦後を規定したのと共通する。米国の軍事的政治的支配の下での強制という側面がある」と、ことさらに述べている。祖国の分断が「民衆の自由な自主的選択」だったなどと、ほんの少しでも私が考えたことがあると花崎氏は思っているのだろうか。これは端的にいって侮辱である。南北、在日を問わず私たち朝鮮人は祖国の分断のために苦しんできたし、分断を止揚するため多大な労力と犠牲を払ってきた。朝鮮人である私は、いまさら教えてもらわなくとも、祖国分断が自分たちの自主的選択でなかったことだけはよく知っている。

それに花崎氏は、日本で戦後も帝国主義的利権構造が温存されたことと、朝鮮が理不尽に分断されたことを、いずれも「米国の強制」だったとして同列に論じている。その繊細さの欠如には驚くほかない。なるほど両者は、米国の支配下に組み込まれた東アジアの戦後秩序の盾の両面であったとはいえよう。しかし、そこにおける日本の主体的役割は皆無だったといえるのか。戦後いち早く旧植民地出身者の参政権を停止する決定をしたのは誰か。マッカーサー憲法の草案中の「人民People」を「国民」と翻訳し、現在にまで続く国籍による差別の根拠としたのは誰か。サンフランシスコ講和会議に韓国代表を参加させないよう米国に働きかけたのは誰か。日韓条約交渉において最後まで頑強に朝鮮植民地支配の不当性を認めなかったのは誰なのか。これらの例は、米国の支配の下にありつつも、日本支配層が主体的に利権構造ないし差別構造の延命をはかった具体的例のほんの一部である。
戦後日本において、国家・大企業・国民ぐるみの利権構造を温存することに反対し、アジアの戦争犠牲者への償いを優先すべきだと主張する日本民衆の運動が広汎に起こった事実があったのだろうか。たとえば鹿島組や不二越のような中国人や朝鮮人を強制労働にさせた企業の内部から、自発的に謝罪と補償を行なおうという社員や株主の運動が起こったことがあったか。そして、その運動が「米国の支配」のために挫折させられた事例があるのか。たとえ一例でもそれがあったならば、アジア諸民族の日本人に対する不信感も現在ほどではなかったに違いない。
花崎氏は、「(日本人にとって)戦後世界政治の力関係においてどういう選択が具体的に可能であったかという側面」が私の「視野」から抜けていると批判する。この指摘は私に、近ごろの日本社会で流行している帝国主義者の言説を思い起させた。うんざりするほかないほど型にはまった彼らの決まり文句はこうだ。
近代日本が日清・日露両戦争を経て植民地支配と侵略戦争に進んでいったのは当時の世界情勢の中では必然的であり不可避だった。そうでないというなら、ほかにどういう選択が具体的に可能であったか言って見ろ。・・・
彼らは他人を殴りながら、「お前を殴らなくてもすむという選択が具体的に可能か答えろ」と要求するのである。なぜ植民地支配の被害者が、加害者に代って代案を示さなければならないのか。また、かりに日本が侵略国にならずにすんだ「具体的可能性」を見つけだせなかったとしても、だからといって侵略そのものが正当化されるわけではあるまい。侵略と植民地支配、戦後の天皇制の温存と経済大国化、それを回避するための「どういう選択が具体的に可能であったか」を研究し明らかにする第一義的な責務は、私にではなく、花崎氏ら日本人にある。私にある責務は、私たち朝鮮人が侵略、植民地支配、差別に対して抵抗を貫くどのような具体的可能性がありえたか、これからもありうるか、を考えることであり、私はそのことを微力ながら実践しているつもりである。
花崎氏はいったい何のために、何を守ろうとして、米国の支配云々という場違いな論点を持ち出したのだろうか。私はその意図を怪しむ、まさか、日本人が戦後も利権構造を温存し続け、いまだに被害者への補償に応じようとしないのは「日本だけのせいじゃない、米国のせいだ」などと、子どものような自己弁護をするためではないと思いたいのだが、はたしてどうであろうか。

次に花崎氏は、私の議論において「有限の個人的具体的責任を問う次元」と「自分の属する集団の、他の集団との関係における倫理的、道義的な責任の次元」との違いが充分に考慮されていないと批判する。しかし、私は前記論文においてハンナ・アーレントの概念を採用して、個々人に問われるべき法的な「罪」と、集団(政治共同体)の成員が負うべき政治的「責任」のレベルを慎重に区別した上で、集団の成員であるというだけでは「罪」は問われないが、政治的な「責任」はあると論じているのである。私のこの論旨は少なからぬ読者に明瞭に理解されたが花崎氏にはそうではなかった。そのことの責任を私が負わなければならないとは思わない。
花崎氏は、日本国家が植民地支配と搾取と加害の責任にほおかむりすることを許してきた日本国民は「共犯者」である、と私が「指摘」しているという。
だが正確には、私は、日本国民であるだけで直ちに「共犯者」であるという単純な「指弾」は行なっていない。国家と企業の「共犯関係」によってもたらされた利権構造のなかにある日本国民には被害者に対する政治的な「責任」があるのであり、その「責任」があることを認識しながら利権構造のおこぼれにあずかるために責任を回避するならばそれは「犯罪」ではないか、と述べているのである。なお、「指弾」という用語は花崎氏のものであり、私は用いていない。花崎氏こそが私の論旨を曲解し、自ら単純化した「指弾」に対して感情的な反応をしているのではないか。
花崎氏は、徐の「指弾」に対する「答え方はむずかしい」といい、「あえて答えない」、「反発する」、「ひたすら恐縮する」という3つの類型を挙げている。そして、第3の場合も、「他者からの糾弾への受動的な応答である限り、一時の熱に終わる場合が多い。そのような例を私は1970年代以後の民衆運動の中で見聞きしてきた」という。
私が不思議に思うのは、ここで花崎氏自身の立場はどこにあるのか、ということである。問われる側にいるはずの氏は、「答え方」について云々しているだけで、問いそのものには答えていない。いつのまにか花崎氏は、都合よく問う側に身を移しているのではないか。そもそも花崎氏が述べるべきことは問いへの応答(内容)であって、「答え方」(形式)ではないと私は考える。今回の場合、問われている内容を正確に認識さえすれば、答え方は決してむつかしいものではない。日本国民が自己の政治的責任を自覚して、国家や企業に対し被害者への謝罪と補償を実行するよう不断に働きかけていくことがその「答え」である。他者からの「糾弾」(これも花崎氏の用語である)に対する応答を「一時の熱」に終わらせるかどうかは、基本的に、問われる側の問題であって、問う側のそれではないであろう。1970年代以後今日まで他者から問われるたびに恐縮してみせながら、それを「内面化」「思想化」することができず、「生き方において貫く」ことができず、ただ「一時の熱」に終わらせてきたというのが事実ならば、そうしてきた側のもつ問題を振り返って克服すべきなのであって、それを問う側の「コミュニケーション・モード」への批判として投げ返す身振りは奇怪に転倒しているとしかいいようがない。
ここで現われている花崎氏の奇怪な転倒は、アイヌ民族差別糾弾会に関する記述の部分でさらに繰り返される。そこで花崎氏は、自身のようなシャモ(和人)は「自分たちも「同罪」であるといいながら」、アイヌ民族とともに「糾弾側」に座り、最初は「徐京植の語りと同じ型の糾弾」をしていたといく。そして、途中から相手方に「わかってもらう」という方針に切り替えたところ「一定の成功を収めた」というのである。
しかし、花崎氏のこの「経験」が今回のケースにあてはまるのかどうか。あてはまるとすればどのように、「一定の成功」とは何か、そもそも何をもって「成功」とするのか、こうしたことへの論及を一切省略し、自らの経験を特権化して、私の「コミュニケーション・モード」はすでに過去に失敗を証明された「糾弾型」だと決め付けられても、承服できるはずがないであろう。

また、その糾弾会においてシャモである自分も「同罪」(これも花崎氏の用語)であるといっていた花崎氏は、いまでもそう考えているのか、それとも、もはやそうではないのか。もし前者なら、被差別者に向かって「コミュニケーション・モード」を云々する以前に、自らと同じシャモに向かって自分たちが「同罪」であるということこそ説得するべきだと私は考える。また、もし後者なら、もはや「同罪」ではなくなった理由を説得的に論証するべきだ。
ここで再び、私は問わなければならない。今回は花崎氏はどこに座っているのか、と。花崎氏は、問われる「相手方」の位置にいるのではないのか。なぜ、いつのまにか、問う側に座っているのか。花崎氏ははぜ、問う側に「わかってもらう」努力を要求しながら、問われる側の「わかろうとする」努力の不足を問題にしないのであろうか。実際にはむしろ、マイノリティ(日本による植民地支配と侵略戦争の被害者、被差別者)はつねに、哀しいまでにその努力を強いられている。在日朝鮮人(韓国籍、朝鮮籍双方を含む)は日本社会の総人口のわずか0・5パーセントほどの少数者であり、社会生活において本名を名乗っているのは、さらにその2割程度である。しかも、しばしばマジョリティからの差別的または排外的な言動にさらされていることは花崎氏も否定しないであろう。この圧倒的な非対称的関係の中で、ただでさえ、多くの在日朝鮮人は卑屈なまでに「わかってもらう」努力を強いられている。いや、「わかってもらう」どころか、自分自身の本名まで隠し、自分の存在を消すようにして、息をひそめて暮らしている者が大部分なのである。
マイノリティの側が、なんとかして生き延びるために、自らの判断によって「わかってもらう」努力をする必要があることを私は否定しない。しかし、マジョリティ(加害者、差別者)の側がマイノリティに対してそれを要求することには、私は自らの全存在をかけて反対する。それは差別構造が温存されている理由を、被差別者の側の努力不足に転嫁するのに便利なレトリックであるからだ。
「何もわかっていない相手をなじって、袋小路に追い込むだけでは展開は開けない」と、花崎氏は教訓を述べる。私の論理と表現が「相手をなじって、袋小路に追い込むだけ」のものだと、私自身は思わない。私はむしろ、「わかってもらう」ため最大限の委曲を尽くして、「日本人としての責任」を回避することができないことは明らかであるから、むしろ自覚的にそれを承認し担うことが「袋小路」から脱出する途だと説得しているのである。このことを「わかった」読者も少なからず存在する。ところで、花崎氏自身は「わかった」のか、どうなのか。それとも、「わかってもらう」努力をせよと私に要求するのは、自分自身を含む日本国民が「日本人としての責任」を果たすための具体的な方途について論じるべきであり、「わかろう」としない他の日本人マジョリティを説得すべきであろう。しかし実際に花崎氏は、「わかろう」としないマジョリティを弁護しながら、マイノリティに「わかってもらう」努力を要求しているのである。

花崎氏は私が前記論文中でベトナム人との出会いを例に引いて述べている「他者に対する関係」について、これは「自分についての判断を被害を被った側に完全に預けてしまう」ものだと批判している。だが、これはまったくの誤読である。個々人のレベルで自分がいかなる人間であるか、いかなる人間になろうとするのかは他者の名指しに拘束されない。他者が「侵略者」と名指したからといって、自らが「侵略者」として生きなければならないという法はない。私がそんなことを言っているのではないことは、ある程度注意深く私の文章を読めば明らかだと思う。花崎氏は自分自身のように良心的で誠実な個人までも、被害者への責任を果たさず利権構造に安住する「日本人」という否定的イメージに含まれてしまうことを、どうにかして拒みたいらしい。だが、「自分のような善人もいる」からといって、「日本人」の集団的責任を否認することはできないのである。
もちろん私とて、「日本人」のなかにさまざまな個人がいることくらいは承知している。アヴィニョンのベトナム人とて、韓国人といってもさまざまであることは承知しているであろう。しかし、私が前記論文で述べているのは、どんなに個々人が良心的かつ誠実であろうと、また、個人の主観的な自己規定がどうであるかにかかわらず、集団と集団との加害/被害関係においては「集団的責任」が逃れがたく負わされるということである。「ベトナム戦争中にベトナムのジャングルを韓国軍の軍服を着て歩いていたとしたら」という、わかりやす過ぎるほどのたとえを用いて私が述べたのは、まさにそのことであった。ある集団の成員が、その集団による侵略の被害の犠牲者から「侵略者」と名指されたとき、その名指しから逃れる途は、その集団から脱退する、つまり「国民」をやめて自発的に難民になるか、さもなければ自らの属する集団に被害者への謝罪と補償を実行させ、そのことによって被害者からの信頼を得る努力を辛抱強く続けていく以外にない。それが私の論文の趣旨であった。どうやら花崎氏には、この趣旨が「わからなかった」ようである。
花崎氏はさらに、私の論じ方が「糾弾」型であると決め付け、それが「差別糾弾に際して陥りがちな、糾弾されているものが決して抗弁できない位置に立たされる非対話的な関係を導く」と批判している。「糾弾」とは恐ろしい言葉である。この言葉が恐ろしいのは、被差別者から「糾弾」される側(マジョリティ)にとってではない。その逆に、「糾弾」とレッテルを貼られることによって被差別者(マイノリティ)の口が封じられ、その正当な問題提起の権利すら奪い取られかねないからだ。しかし、ある言動が「糾弾」であるかどうかを決める客観的な尺度などどこにも存在しないため、実際には他者の言動を「糾弾」と決め付ける権限はマジョリティに握られているのである。
私の議論は、花崎氏のいうような、「一方を被告とし、自らを検事兼裁判官とする形で向かい合う図式」のものではない。むしろ私は、ベトナム人からみれば韓国国民である私も「被告」であるという重層的な加害/被害関係を開示しながら、連帯のための責任論のありかたを考察しているのである。だが、こうした反駁そのものがすでに花崎氏によって無力化されているのだ。なぜなら、私の論文をわざわざ探し出してまで読む読者は実際にはまれであろうし、ましてや、私にレッテルを貼っている人物が、アイヌ民族の反差別運動にも長くかかわってきた「良心的知識人」であってみれば、なおさらであろう。かくして、根拠も示されないままに、私が「糾弾」型の人間であるというイメージだけが日本人マジョリティの間に広がり固定されていく。そうしたイメージは、マジョリティが自らの漠然とした後ろめたさを慰めるためにも役立つので、いっそう歓迎されるのである。
私の側は、あらかじめ抗弁の口を封じられているのも同然である。花崎氏によって私は「検事兼裁判官」という糾弾者の地位を押しつけられてしまっているからだ。あえて抗弁すれば、そしてその抗弁が手厳しいものであればあるほど、多くの見物者たちが花崎氏の描いた図式を追認するであろう。ただでさえ現在の日本社会には、マイノリティ自身あるいはそれに連帯しようとする人々の側からの問題提起や批判に対して、糾弾主義だの告発主義だのとレッテルを貼る言説が横行している。そうした心ない人々が、今回の花崎氏の私への「批判」から励ましを得るだろう。気の滅入ることである。
私は個人としての花崎皋平氏を前記の「心ない人々」の一員とは見ていなかったし、氏の人柄の誠実さについてはいまでも疑っていない。そうであればこそ、このような、まさに暴力的な抑圧の行使にほかならないレッテル貼りについてだけは慎重であってもらいたかった。残念でならない。
ここ数年、日本社会で右派的ナショナリズムが顕著に台頭しているが、これと、「日本人としての責任」を担おうとする態度を「加害国民としての同一化」であるなどと揶揄する構成主義的(?)な無責任論とが相互に補完しあう局面は、今後もいくらでもありうる。両者が共有している基礎は、他者(被害者)の蔑視ないし無視であり、自己中心主義である。こうした危険な傾向と闘うことこそ現在の最優先課題だと考えている私は、花崎氏の「批判」に直ちに反応することには気が進まなかった。多くの「知識人」たちが、面白がって見物席にまわり、議論を思いのままに搾取・消費するであろうからだ。

日本社会の現状、「日本人」の現状に、すでに充分幻滅している私は、花崎論文の「上」に共鳴し期待する点があっただけに、その「下」によって手酷く叩きのめされた。日頃から朝鮮人をはじめとするアジア諸民族と「日本人」との対話不能状態を指摘してきた私だが、今回は私自身が、その断絶の深刻さをこれでもかとばかりに見せつけられた。できることなら、もはや何もいいたくない気分である。しかし、私の主張に対するこれほどの曲解が、花崎氏のような影響力のある人物によってすでに公開されてしまった以上、沈黙していることもできない。
いま私の心には、「引き揚げ手当」をもらうために、それが日本国籍保持者(つまり私が名指す「日本人」)にだけ与えられるものだとは知らないまま役場に出かけ、「町会議員の平山」から「朝鮮さ、帰れ、帰れ」とあしらわれた在日の元「慰安婦」・宋神道さんの姿が浮んでいる。彼女は悔しさのあまり平山に殴りかかったというが、この場合、殴りかかった彼女の行為を私は断固として擁護する。花崎氏は彼女にも、「わかってもらう」努力をせよと要求するのだろうか。宋さんの姿は私の心の中で、日本語がうまく話せず、文字がかけず、「わかってもらう」ための巧みな言葉をあやつることもできず、ただぺこぺこと哀願するか、さもなければ泣き叫んで訴えるしかなかった在日朝鮮人一世たちの姿がつながっている。私がどういおうと、すでに私を「糾弾」型人間と決め付けてしまっている相手の心を動かせると期待しているわけではない。それでも私が、ここにささやかな抗弁を試みたのは、そうすることが、どんなに訴えても、泣き叫んでも冷然と黙殺され続けてきた在日朝鮮人やその他の被差別者たちのために、文字ぐらいは書くことのできる私が果たすべき最低限の責務だと思うからである。
花崎論文において、私や岡真理さんの「糾弾型コミュニケーション・モード」に対する批判は、李静和さんの「共生型コミュニケーション・モード」への称賛へと論を運ぶための前提となっている。したがって論文の構成上、私への批判は無視してもよいエピソードではなく、些細な逸脱でもない。私と李静和さんの「コミュニケーション・モード」を対立的にとらえる花崎氏の認識そのものに強い違和感を禁じえないが、その点は花崎論文全体の評価にもわたるので、機会があれば稿を改めて論じたい。(初出:「みすず」No.461・1999年8月号、みすず書房)

*岡 真理(おか まり(東京都出身、1960年10月6日[1] - )は、日本のアラブ文学者、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。専門は、現代アラブ文学、第三世界フェミニズム思想研究。오카 진리岡 真理 (오카 즉, 1960 년 10 월 6 일 [1] -)는 일본의 아랍 문학자, 교토 대학 대학원 인간 환경학 연구과 교수 . 전문은 현대 아랍 문학 , 제 3 세계 페미니즘 사상 연구.
補注
右に掲げた「あなたはどの場所に座っているのか?-花崎皋平氏の論文「「脱植民地化」と「共生」の課題」に対する反批判の文章である。花崎論文は、氏がその冒頭近くで「戦前戦後の日本国家が他民族に対して行った戦争と植民地支配を清算する責任主体はどうあるべきかという問題を掘り下げたい」と述べているとおり、90年代後半に展開された戦争責任および戦後責任をめぐる論争への介入を試みたものである。その構成は以下のとおり。

[上] 1 加藤典洋「敗戦後論」への異議 2 「脱植民地化」問題と「民族的自覚」という課題と 3 ナショナリズムとアイデンティティ問題 付録 日記帳から(1950年8月から51年1月にいたる日記からの抜粋)
[下] 4 ナショナリズムとフェミニズム 5 李静和の「つぶやきの政治思想」が示すもの 6 「共生」の課題
私・徐京植に対する批判は、同論文の第4章に現われる。ここで花崎氏は、日本の戦争責任資料センター編のシンポジウム記録「ナショナリズムと「慰安婦」問題」(青木書店刊、本書37頁以下参照)に言及し、上野千鶴子氏に対する徐京植と金富子の批判は自らが同論文で述べてきたことと「その趣旨において一致する」としたのち、唐突に私への批判を展開している。また、それに続いて花崎氏は、高橋哲哉、岡真理氏に言及し、岡氏の論理には「1970年代の新左翼の、帝国主義本国の人民にとって正義の実現には「自己否定」が必要であるという論理が再帰しているのが見られた」などと、岡氏に対する批判へと筆を進めている。
私としてはこの花崎論文の全体にわたって数々の疑問点や反論があるが、「抗弁」においては、私への直接的な批判に限定して反批判を試みた。当初、私の「抗弁」を枝葉末節に拘泥した一種の過剰反応のように見るむきもあったが、現在にいたっても、私はまったくそう思っていない。むしろ、問題の重要さに照らして必要最小限の反批判であったと考えている。花崎氏は、自らが「アイヌ民族の先住民族の地位の認知とその奪われてきた権利の屈辱の回復や在日朝鮮人への民族差別の克服などの諸課題」に「1970年代から実践の場でかかわってきた」と述べている(同論文[上])。氏には、そうした経験と識見にもとづく著作として「生きる場の哲学」(岩波書店)や「アイデンティティと共生の哲学」(平凡社ライブラリー)という、よく知られた著作もある。花崎氏は、70年代以来、日本社会におけるマジョリティだえる「日本人」とアイヌ民族や在日朝鮮人などマイノリティとの「共生」という課題を自らのライフワークとしてきた知識人であるといえよう。
そういう花崎氏であるだけに、私は、ここで現われた問題をうやむやに終わらせてはならないという重い責任を感じている。これは個人としての花崎氏と私との間の意見の不疎通という問題ではない。私の考えでは、日本の近現代史を通じて形づくられ深刻化してきた、マジョリティたる「日本人」とマイノリティとの間に横たわる深い「断絶」が、はしなくも露呈した事件なのである。「断絶」が露呈したことは、それが隠蔽されたままであるよりは良かったといえる。マジョリティたる「日本人」とマイノリティとの間に横たわる深い「断絶」が、はしなくも露呈した事件なのである。「断絶」が露呈したことは、それが隠蔽されたままであるよりは良かったといえる。マジョリティとマイノリティとの関係を破局的な対立に追いやらない唯一の途は、こうした「断絶」の存在を正視し、たとえきびしい応酬を交わすことになろうとも、率直で妥協のない議論を重ねることであろう。私の「抗弁」をきっかけに、こうした議論が始まり、花崎氏に限らず多くの人々がこの問題を自らの思想的課題ととらえて議論に参入してくることを私は期待していた。だが、現実はそのようにならなかった。
「抗弁」を発表した直後から、花崎氏は、私の「抗弁」の論点一つ一つに答えることはせず「全体として応答となるような」著作を刊行するつもりである、との態度を呈してきた。この態度は、私には理解しがたいものである。「抗弁」における私の論点は、一読して明らかなとおり、いずれも誤解の余地のないシンプルなものである。なぜ、花崎氏はその一つ一つに答えないのか、答えようとも努めないのか。また、そもそも論点の一つ一つに答えないでいて、あるいは答えられないままで、「全体として応答となる」ような著作を書くなどということができるとも私には思えない。念のために明記しておくが、私が求めているのは花崎氏との個人的な「和解」ではない。互いの相違点や対立点を明確にすることによって、議論を意味あるものにすることだ。そのためには、論点の一つ一つについて可能な限り明確な応答を交換することが不可欠なのである。

この間、問題の重要性を認識する数少ない人々によって、私と花崎氏との対話を促す真面目な試みもあった。東京外国語大学の中野敏男氏の尽力により、昨年1月28日には、花崎氏と私を含む10余名によって非公開の話し合いがもたれた。いまは、その詳しい経緯や内容をここに記すことはしないが、結果だけいうと、この話し合いは実を結ばなかった。この会合の終わりに花崎氏は、今後も対話を続けていくことを参席者に約束したが、後日、前言を翻し、再度の対話を拒否すること、また、いわゆる「全体として応答となる」著書の刊行をすすめることを通告してきた。それ以来現在まで1年あまり、花崎氏は一切の対話のすすめに応じようとはしていない。花崎氏は自らの論文において、私の「コミュニケーション・モード」が「糾弾型」であると批判し、「対話型」に転換するよう説いたのだが、氏自身がとっている姿勢は残念ながら、自らの言葉を裏切るものというほかない。
「抗弁」から2年半が経過したが、結局、花崎氏は今日まで何らの応答も公表していない。私としては、花崎氏に対し、今からでも議論の出発点に戻って「抗弁」に応答すべきであると重ねて求めたい。花崎氏による私への批判の当否、私からの反批判の当否については、あらためて読者の判断を仰ぎたい。公正な判断に資するため、長くなるが、花崎論文の当該部分を以下に引用しておくことにする。また、いずれ近々のうちに刊行されるであろう花崎氏の著作が、「全体として応答となる」ものであるかどうか、この点についても、読者諸賢がきびしい目で判断されることであろう。
(2002年2月18日記)*花崎論文、長いので省略します。興味のある方は↑をクリックして読んでいただければ幸いであります(2020年10月22日・サミー・カナダ)。


「エスニック・マイノリティ」か「ネーション」か  ―在日朝鮮人の進む道
はじめに
「エスニック・マイノリティ」か「ネーション」かという題目を掲げたが、通説としての「エスニシティ」概念と「ネーション」概念とを二項対立的に捉え、そのどちらかの枠に在日朝鮮人を押し込めようとする意図はない。むしろ、概念からではなく、あくまで在日朝鮮人の歴史と現実そのものから出発して、新しい理論的枠組みを構想することを目指したいと考える。この報告は、そのための問題提起である。
「日本の‘マイノリティ’」というテーマの下で報告することに、私は抵抗感があった。それは、いったい誰が、誰を、どの場所から「定義」するのかという問題、いわば「自己定義の権利」にかかわる抵抗感であったといえる。社会学者の鄭暎惠(정 욘헤 / JUNG Yeonghae)氏は、「‘他者を一方的に分類・規定する’という行為は、分類する側に「普遍」「権威」「正当」の位置を与えていき、そこに権力を握らせる。(中略)そこに差別があることを告発し、差別の何たるかを懇切丁寧に説明し、「マジョリティ」の<無知>-指摘されるまで見て見ぬ振りをするーを解消するのは、まるで被差別側「マイノリティ」の役割であるかのように誤解されてきた」と述べている(「アイデンティティを超えて」岩波講座・現代社会学15「差別と共生の社会学」1996年)。
私はこの指摘に共感するとともに、報告に先立って「自己定義の権利」を主張しておきたいと考える。自己が何ものであるかを定義する権利を、多数派、学者、権威に委ねてしまうことは、「知の帝国主義」への無条件降伏につながると考えるからである。
これと関連して、最近非常に気掛かりなことは、「帝国ふたたび」という言説の流れが、日本のアカデミズムの中から姿を現わしてきたことだ。従来からの超保守主義者や国家主義者、あるいは「自由主義史観」なるものを標榜する日本版修正派のみを指して言うのではない。
「現在ほど、民族自決の理念とイデオロギーが無秩序に信仰されるあまり、国民国家が雨後の筍のように簇生し、新しい国際環境もしくは秩序の青写真が描きづらくなっている時代もない。そこで、(中略)<帝国>の経験と試行錯誤をふりかえることに意味がある。」
これは、最近刊行された「帝国とは何か」(岩波書店、1997年)に収められた、山内昌之氏の「結び 帝国ふたたび」の一節であるが、こうした語り口の構造は、語り手自身を「普遍」「権威」「秩序」の位置に置いて疑わないものであり、「帝国」のくびきからの解放を求め、自己を「主権者=ネーション」に形成しようとする人々の無秩序な「蛮族」という「定義」を下すものと言わねばならない。さまざまな「民族紛争」にはそれぞれ固有の歴史的文脈があり、その解決においては何より当事者のイニシアティブが尊重されるべきである。「民族自決という理念」一般に世界平和や国際秩序の攪乱者の役割りを負わせるがごとき姿勢には危惧の念を覚える。
山内氏はまた、大沢真幸氏との対談で、「帝国というと、すぐに支配階級と支配民族、民族と階級が対応するように考えがちだけれど、けっしてそういうことはない。むしろそこを超える装置をもっていた。/日本でもそれは語ることができますね。大日本帝国が朝鮮を併合したことの批判されるべき問題はそれとして議論すべきですが。」とも述べている(「世界帝国と民族幻想」「大航海」大5号、新書館、1997年4月)。
「それとして議論」するとは、どういうことなのか?帝国支配に対する根本的批判とは切り離して、役立ちそうな「装置」だけを捜し出し、取り外してくるということだろうか?

ここでの「装置」とは、「帝国がもっていた民族性を超越したような、ある種の能力本位主義、あるいは楽観主義」(山内)を指している。だが、支配民族が自らにとって有益である限りにおいて被支配民族の一部を登用する「装置」は、差別構造を超えるものなどではなく、巧妙な支配「装置」にほかならないのではないか。大日本帝国の支配下で「少数民族」としての朝鮮人がいかなる地位に置かれていたのかについては、改めて詳述するまでもないであろう。一例のみを挙げると、朝鮮総督府情報課が1944年4月に刊行した「新しき朝鮮」という小冊子はこう述べている(風濤社より復刻版、1982年)。
「身も心も形も精神も漸次皇国臣民としての自覚を昂め道義朝鮮の確立に脇目もふらぬ二千八百萬朝鮮同盟の精進こそ、我が帝国の大東亜建設を推進する大いなる力であり、東亜十億の民率いる一億日本の四分の一を占め大和民族とともに今後において漸次これが中核となるべき光栄ある資格と使命を分担されるものである。しかし、その光栄ある資格と地位は決して一日にして全体に付与されるごとき安価な生易しいものではないことを朝鮮同胞は銘記しておかなくてはならぬ。(中略)では、二千八百朝鮮同胞がいつ大和民族と同一になりうるか、ということは一口に言えば朝鮮同胞自らが完全に皇国臣民になり切ったその時である。それには今が最も恵まれた時である。即ち、この大東亜戦争を如何に戦いぬき、如何に一切を捧げるかが試金石である。」
ここにあからさまに語られているように、帝国の「能力本位主義」や「業績主義」は、全般的な民族差別構造を前提とする支配システムの一環なのである。大日本帝国は対外的には朝鮮人を「日本国籍」によって「日本臣民」の地位に縛り付けつつ、対内的には「朝鮮戸籍」によって内地の日本人、すなわち「大和民族」との差別を貫徹した。この狡知にたけた拘束と排斥のシステムを指して、小熊英二氏は適切にも「「日本人」という牢獄」と表現している(「情況」1997年4月号)。冷戦体制の終了後、世界各地で多発する「民族紛争」を一挙に解決する妙案を、私たち人類が捜し出せずにいることは事実である。だが、それぞれの「紛争」はそれぞれの条件と文脈において検討されなければならず、しかも、紛争の原因究明と克服の作業は、あくまでも当事者のイニシアティヴを尊重して行なわれなければならない。世界平和や国際秩序の役回りを「民族自決という理念をイデオロギー」一般に負わせ、この「理念」を一般的に非難するがごとき姿勢には危険の念を禁じ得ない。
在日朝鮮人をめぐる諸問題に対しては、旧宗主国人である日本人もまた歴史的現在的に当事者である。それだけになおさら「発話の位置の政治学」(岡真理)に敏感であることが求められるのである。


*야마우치 마사유키山内 昌之 (야마우치 마사유키(北海道出身, 1947 년 8 월 30 일 - 73 세)는 일본의 역사 학자 . 전공은 중동 · 이슬람 지역 연구 및 국제 관계 의 역사. 도쿄대 명예 교수 , 무사시노 대학 특임 교수.
*오구마 에이지(小熊英二)는 일본의 역사사회학자이다. Eiji Oguma (小熊 英二(東京都出身, Oguma Eiji) (born September 6, 1962) is a Japanese historical sociologist, a professor at Keio University, a documentary filmmaker, and a guitarist.

I 在日朝鮮人の現在
1945年8月15日、日本の敗戦を迎えて、朝鮮人の圧倒的多数が「「日本人」という牢獄」からの解放を喜び、自前の独立国家を樹立して自らがその主権者となることを求めたことは、あまりにも当然であった。ところが、朝鮮半島の南北分断という事態、韓国の白楽晴氏のいう「分断体制」の出現が、朝鮮人のこうした志向を大きく制限し歪めてきたことは、改めて言うまでもない。

私は、「在日朝鮮人」を、「日帝の植民地支配の歴史的な結果として旧宗主国である日本に住むことになった朝鮮人とその子孫」と規定している。在日朝鮮人が①「少数民族」一般とは異なり、「本国」をもつ「定住外国人」であること、②「移民およびその子孫」一般とは異なり、その定住地がほかならぬ旧宗主国であること、この2点を明確にするためにこのような規定をしているわけである。このことに加えて、在日朝鮮人は、③本国が南北に分断されており、④その本国(とくに「北」)と日本とが分断されているという、ヨコにもタテにも分断された存在であり、そうした分断線を個々人の内部にまで抱え込まされた存在であると言えるであろう。
1 消えゆく(?)在日朝鮮人―その生活と意識
1995年現在、日本で外国人登録をしている「外国人」は136万2317人だが、うち「韓国・朝鮮」籍者は66万376人(48パーセント)である。日本国籍に帰化する「韓国・朝鮮」籍者の数は90年代に入って激増しており、95年には初めて年間1万人を超えた。帰化制度が始まった1952年から現在までの帰化者総数はおよそ20万人である。さらに、1985年から日本の国籍法が父母両系主義に改正された結果、「韓国・朝鮮」籍者の父と日本人の母との間に出生した子が日本国籍を取得することになった。こうした事情のため、「韓国・朝鮮」籍者の人口は年平均5500人ずつ減少しつづけている(金敬得「在日コリアンのアイデンティティと法的地位」明石書店、1995年)。10年後の「韓国・朝鮮」籍者の数は48万4300人、20年後には30万6000人に減少するとの推計もある。
このように「韓国・朝鮮」籍者の数が減少傾向を示していることは事実だが、こうした傾向を条件づけている日本および本国の政治的社会状況が今後も不変だとはいえないということに留意しておく必要がある。また、いささか次元を異にする話になるが、たとえ最後の「韓国・朝鮮」籍者が死に絶えたあとでも、日本社会に「在日朝鮮人」は生き続けるであろう。なぜなら「在日朝鮮人」は近代日本の出生の秘密にかかわる、日本という「ネーション」そのものの「影」だからである。そうであるならば、日本という「ネーション」が最終的に解体されないかぎり、「在日朝鮮人」はーその内実はさまざまに変容するとしてもー、絶えず創り出され、自ら生まれ出もするだろう。
在日朝鮮人の生活実態とその意識に関する調査実績は十分とはいえない。そのため、数々の留保を必要とするきわめて限定的な調査をもとに、憶測を交えた議論がたてかわされているのが実情である。ここでは比較的最近行なわれたふたつの調査から簡単に紹介しておくことにする。

*백낙청(白樂晴, 1938년 1월 10일 ~ )은 한국의 대학교수, 영문학자, 문학평론가, 사회운동가이다. 친일관료 백붕제의 아들로 대구 출신이다.

Livre sur l' identité et le statut juridique coréens au Japon (japonais) - 1995/10/1 Kim respect (Auteur, original) 재일 한국인의 정체성과 법적 지위 (일본어) 단행본 - 1995/10/1 金敬得 (저, 원저)
*金 敬得(김경득、キム ギョンドゥク、1949年 - 2005年12月28日)は、和歌山県出身の在日韓国人弁護士。 外国籍として初の弁護士として知られる[要出典]。김경득(金敬得, 1949년 - 2005년 12월 28일) (일본명:가나자와 케이토)은 일본 와카야마현출신의 변호사이다. 재일 한국인 출신으로 최초의 일본변호사로 알려져 있다. 

まず、在日高麗労働者連盟が1991年に、京阪神を中心に行なった就業実態の調査である(「在日朝鮮人の就労実態調査―大阪を中心に」新幹社、1992年)。就業可能年齢者2千人を対象とするアンケートに対して、365人から回答を得たという。それによると、「自営」と「被雇用」の比率は、ほぼ4対6であり、85年国勢調査の大阪府での「自営」の比率が13・6パーセントであることを考えると、自営業の比率が格段に高いことがわかる。また、就業差別体験が「ある」と回答したものが40パーセント。就職した者のうち、いわゆる「縁故就職」が55・6パーセント、学校等の紹介で就職したものは14・9パーセントに過ぎず、しかもその約半数は、同じ在日朝鮮人が経営する企業で働いている。
次に、福岡安則氏と金明秀氏による1993年の調査(「在日朝鮮人青年の生活と意識」東京大学出版会、1997年)だが、この調査は母集団を、日本生れ、韓国籍(朝鮮籍は含まず)、18歳から30歳とし、在日韓国青年会の名簿をもとにランダム・サンプリングしたもので調査対象者数は1、723名、回収数は800名である。
この調査でも、父親の職業の70パーセント以上が零細企業や自営業、一般従業者は20パーセント未満となっており、父親の世代には「日本の労働市場の圧倒的な閉鎖性」が認められると指摘している。調査対象者本人の職業は一般従業者が60パーセントを超え、「親の世代の極端に抑圧された状況からすると、改善の方向」にあるとするが、うち約25パーセントが「在日同胞企業」勤務であることに注意を要する。
両調査を合わせて浮びあがることは、やや改善の方向にあるとはいえ、在日朝鮮人に対する日本社会の牢固とした差別構造であるといえよう。
ところで、福岡/全調査によると、「民族学校」などで民族教育を受けたことのある者は10パーセント以下、母国語(朝鮮語)がまったく読めない者が70パーセント、民族差別を受けたことがあると答えた者は約40パーセント、過去に民族的劣等感を感じたことがあると答えた者は約60パーセント、日常生活で日本式の通名を使用している者の合計は80パーセント弱となっている。また、「愛着」を覚える対象として「日本」を挙げた者が70パーセント強、「在日同胞社会」を挙げた者は50パーセント強、「韓国」40パーセント弱、「統一された祖国」20パーセント、「朝鮮民主主義人民共和国」10パーセント未満となっている。
こうした調査結果から調査者たちは、「全体的な傾向として、母国・祖国への愛着感が希薄化し、日本社会への愛着度が広く共有されるにいたっている。(中略)‘おたがいの違いを肯定的に認めあったうえでのふれあいの関係’を原理とした「共生関係」の構築が望ましい」と結論している。
この調査が貴重な労作であること、在日朝鮮人の現実の一部を反映したものであることを認めた上で、いくつかの疑問点について述べたい。まず、「差別」についてだが、被差別者が自分の被差別体験を表明することの困難さという問題がある。被差別者には自分が受けた差別を差別と自覚することすら避けようとする心理が働く。なぜなら、日本社会では差別を道徳的に悪であると承認することとは別の次元で、被差別者は弱者であり敗者であるという価値観が被差別者自身にまでも深く浸透しているからである。そのため被差別者はぎりぎりの自己防衛として被差別体験を意識から消そうとする。こうした心理にまで踏み込むには、この種の社会的調査では限界があるといわざるを得ない。
「愛着」を覚える対象の「日本」というのも、その中身はどうであろうか、誰しも自分の生まれ育った地域や口になれた食物あるいは身近な友人知己などにはある程度の愛着を抱くだろうが、それは「日本」への愛着なのだろうか>
民族教育を受ける機会のない圧倒的多数の在日朝鮮人青年にとっては、「本国」のイメージは一般の日本人青年がもっているものと同様の、漠然とした、またしばしば誤ったものでしかない。彼らをそのような現実に縛り付けている諸条件を考慮することなく、「母国・祖国への愛着感が希薄化し、日本社会への愛着度が広く共有されるにいたっている」と結論し、在日朝鮮人が日本国家の枠内のエスニック・マイノリティとなっていくことを必然的で「自然な」ことであるように描くことは、あまりにも単純化された議論であろう。在日朝鮮人はなぜ「われわれ」意識を保ち、再生産しつづけるのだろうか。そこには少なくとも次のような諸要因が複合的に作用しているだろう。
① 歴史の長い影。②破片化してなお残る「文化」。③本国(韓国・北朝鮮)との交流。④本国による拘束。⑤居住国(日本)の同化圧力および排除圧力。⑥本国と居住国との関係(すなわち日韓関係、日朝関係)の影響。

① と②は、概ね「過去」の投影といえる。それでも、普通に語られているよりははるかに長い影を引くものと私は考えているが。他方、③から⑥の要因は、まさに同時代の諸要因であり、現在この瞬間も刻々と在日朝鮮人の生活と意識を規定しつづけている。ところが多くの論者は①②にのみ着目して、③から⑥の要因を軽視ないし無視する場合が少なくない。そうした、在日朝鮮人を日本一国の枠内でスタティックに捉える思考の構造が、「在日朝鮮人=エスニック・マイノリティ」論に共通しているように思われる。一例を挙げれば、山内昌之氏は「帝国の終末論」(新潮社、1996年)において、福岡安則氏による「「日本人」から「非日本人」までの類型枠組み」を借りて、その第6カテゴリー、すなわち「民族教育を受けていない「在日韓国・朝鮮人」の若者たち」からは「日本人との対立や被害者意識だけをもはや強調せずに、新しい共生の原理を模索する世代も登場している」と述べている。つまり在日朝鮮人が「民族教育」によって自民族や言語や歴史を学ぶことは「日本人」との対立や被害者意識をもたらすので、「共生」にとって望ましくない、という論旨になっている。驚くべき自民族中心主義の「共生」論だと言わねばならない。
山内氏は自説を補強するため次のように、竹田青嗣氏の発言を引いている。
「自ら在日朝鮮人であることを思想の出発点にする竹田青嗣の発言は、国際化の時代における民族と文化の共存のあり方の基本を正しくついている。「虐げられた人びとの思想はルサンチマン(ねたみ、怨恨)の思想になりやすい。ニーチェが言いましたが、在日の思想にも言えます。自分を支配している日本人は悪い、日本人は強い、しかし、本当はわれわれの方が正しい、本当は朝鮮民族の方が立派な民族だと逆転しようとする。ぼくに言わせると、日本民族の方がえらいと思うことも、朝鮮民族の方がえらいと思うことも、両方ばかげている」(「社会批判の根拠」「毎日新聞」1994年2月3日夕刊)」
さて、どうであろうか?在日朝鮮人は「過去」にのみ拘泥し、自分の方が偉いなどという幼稚な自己愛のために日本人をねたみ続けているというのだろうか?「ルサンチマンに燃える朝鮮人」という表象は、現在さかんに流布されているステレオタイプであり、民族差別そのものであるとさえ言える。いまここで問題になっているのは自らの植民地支配という「過去」を清算しないどころか、絶えずそれを肯定しようとする現在の日本社会なのであり、そして、現在の日本社会での在日朝鮮人に対する差別と抑圧、現在の両民族の間の不正常な関係が在日朝鮮人におよばす具体的な不利益なのである。しかし、山内氏の主張は、こうした「現在」を無視し、日本一国の枠組みを固定的で「普遍的」かつ「宿命的」なものとする暗黙の前提のうちに、少数派の自己解放の要求をステレオタイプな「文化」の檻へと囲い込もうとするものと言わねばならない。在日朝鮮人は「文化」を自己目的的に要求しているのではない。自己の尊厳が否定されることに抵抗しているのであり、差別と人間疎外の現状からの解放を要求しているのである。


재일 고려 노동자 연맹 Fédération des travailleurs coréens au Japon Koryo Workers' Federation in Japan
*福岡 安則(ふくおか やすのり(静岡県出身、1947年11月13日 - )は、日本の社会学者、埼玉大学名誉教授。후쿠오카安則(후쿠오카保則, 1947 년 11 월 13 일 -)는 일본 의 사회학 들, 사이타마 대학 명예 교수.

*金 明秀(김명수、1968年 - )は、日本の社会学者、関西学院大学社会学部教授。専門は計量社会学、社会階層論と社会意識論[1]。在日韓国人[2]3世[3]。김明秀(김명수, 1968 년 -)는 일본 의 사회 학자 , 칸사이 학원 대학 사회 학부 교수 . 전문 계량 사회학 , 사회 계층 이론 과 사회 의식 론 [1] . 재일 한국인 [2] 3 세 [3] .

2 錯綜するアインデンティティ
植民地支配からの解放後50年あまりを得た現在、在日朝鮮人のアイデンティティがますます錯綜したものになっていることは事実である。([図]」参照)
在日朝鮮人のなかに[図1]のA(本国指向)、あるいはAからB(在日指向)、BからCという方向を指向する傾向が徐々に増大してきていることは否定できない。しかし、その傾向は、①本国の分断、②本国と在日の分断、③日本社会の同化圧力と排除圧力、さらに④本国と日本の経済状態、⑤本国社会の民主化の度合い、そして⑥「生きがい」や「安らぎ」といった計量化不可能な精神的な要素までも含めた諸条件が繰り成す全体的な構造によって作り出されているものであり、原理的にいって必然的なものでもなく、不可逆的なものでもないであろう。
一般的にいっても、ナチスによって市民権を剥奪され追放されたドイツの同化ユダヤ人の例があり、その逆に、明末以来十数世紀にわたって息をひそめるように暮らし、もとの言語や風習のほとんどすべてを失いながら、中華人民共和国民族優遇政策に接したとき自ら「朝鮮族」として名乗り出た中国河北省の人々の例もある。1950年代末の朝鮮民主主義人民共和国への「帰国運動」や、60年代末以降の、親族訪問、留学、就職その他さまざまな動機からの韓国への帰国の動きも、このような、アイデンティティ形成の「下部構造」をなす諸条件に規定されていたと考えられる。

かりに本国が分断されていなければ、在日朝鮮人と本国との自由で広汎な往来と交流が可能であったなら、また日本社会で「民族教育」を始めとする諸権利が保障されていたなら、今日の在日朝鮮人のアイデンティティの錯綜を固定的なもの、あるいは一方的に必然的に流動していくものと捉えるべきではない。むしろ、在日朝鮮人の人間的な解放にとって望ましい方向性を模索し、それを実現するための諸条件の変革に、在日朝鮮人自らが主体となって取り組んでいくことができるはずだと考える。
II 「エスニック・マイノリティ」か「ネーション」か
「エスニシティ」と「ネーション」の概念については、無数の議論が繰り広げられているにもかかわらず決して明確ではない。ここでは、私はとりあえず、佐藤成基氏の次のような定義を念頭において議論を進めることにする。
「「ネーション」と「エスニック・グループ」との区別は、前者がそれ自身の「国民国家」をもつかあるいはその獲得を目標とする「独立運動」に関っているのに対し後者は既存の国民国家の中での運動・利益追求を行なうものである。」
佐藤氏はさらに、「エスニシティは19世紀国民国家を相対化する動きとして論じられることがある。しかし(中略)、エスニシティと国民国家は対立するだけでなく、並立ししばしば「共謀」しあう関係にある。」と指摘している(「ネーション・ナショナリズム・エスニシティ」「思想」1995年8月号)。
李光一氏によると、従来の国民国家システムではシステム内の居住者は「市民=国民」と「外国人」とに二分されていたが、現代の大規模な国際的人口移動によって形式的市民権(=国籍)とい実質的市民権のズレが生じ、こうした「二分法的カテゴリー」に納まらない存在、すなわち長期滞在しながら帰化しない外国人(デニズンdenizen)が一般化している。国家には、①短期滞在、②長期滞在(デニズン)、③市民(=国民)化という三つのゲートがある。「このゲートの開閉を決定し管理する権限こそ国民国家システムの基本的な特質」であり、一般には国境の壁を低くする試みと評価されているEC統合も、その掛け声の裏では「エスニシティないし「人権」を基準とした市民=国民の「再形成」が行なわれている、というのである。「社会的サービスをはじめとする諸権利が、当該国家に“排他的に”分配されることで国民(市民)と国家の結びつきは一段と強化されたのである。(中略)“国民神話の脱構築”だけで、新たなエスニック・グループの承認がなされ、エスニックな差別・格差が根絶していくとは到底思われない。」(以下、李光一「デニズンと国民国家」「思想」1994年8月号)。
つまり、佐藤氏と李氏は共通して、エスニシティ概念は当該国民国家の枠組みを前提としており、エスニシティがそれ自体として国民国家を「超える」展望をひらくものと簡単に期待することはできないと述べているのである。

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