日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

★Zweiter Weltkrieg/Seconde Guerre mondiale★=☆ナチスの戦争Le Troisième Reich en guerre☆纳粹党掌权Machtergreifung마흐터그라이풍<ヨーロッパ戦線>World War II All Front Guide第二次世界大戦全戦線ガイド/Shigeru Aoki青木茂③


*エバン・エマール(蘭:Fort Eben-Emael, 仏:Fort d'Ében-Émael)は、ベルギーの東部にあった要塞。リエージュとオランダ領マーストリヒトの間でアルベール運河沿いに存在した。第一次世界大戦において、ドイツの侵攻を受けたベルギーが再侵攻を防ぐために建設したものである。Françaisフランス語→Le fort d’Ében-Émael est un fort belge situé près du village d'Ében-Émael, dans la commune de Bassenge, en province de Liège, non loin de la frontière avec les Pays-Bas. 
*エバン・エマール要塞の戦い(エバン・エマールようさいのたたかい)は、第二次世界大戦中の1940年5月10日、11日両日に行われたベルギー軍とドイツ国防軍間の戦いであり、ドイツ軍のフランス、低地諸国侵攻作戦である黄作戦(Fall Gelb)におけるオランダの戦い、ベルギーの戦いの一部。Românăルーマニア語→Bătălia de la Fortul Eben-Emael a fost un angajament militar dintre forțele belgiene și cele germane care a avut loc între 10-11 mai 1940, parte a luptelor pentru ocuparea Belgiei și a Franței din cadrul Fall Gelb.


●対フランス電撃戦
1940年5月10日、ドイツ軍の新たな攻撃がオランダとベルギーへ空からの奇襲で開始され、両国の空軍は初日で壊滅した。続いてドイツB軍集団の第18軍と第6軍がそれぞれ第9機甲集団と第16機甲軍団を先鋒に突進を開始した。空挺部隊まで投入したドイツ軍の攻撃、とりわけベルギーの「エバン・エマール要塞」に対する華々しい空挺攻撃の成功は連合軍にこの方面がドイツ軍の主攻であると確信させた。連合軍は「ディール計画Dyle Plan」を発動し、イギリス、フランス軍は進撃を開始した。そして連合軍の空軍はベルギーに向かう地上部隊の援護に多くが投入された。このことはドイツ軍の主力戦車部隊を攻撃するチャンスを奪う結果となった。
連合軍司令部は北部での決戦に注目していた。しかしドイツ軍の真のねらいはアルデンヌ高原の突破にあった。ドイツ軍の調べたとおり、ここには長さ160kmにわたる前線に装備不十分な10個師団が配置されているだけであった。ドイツ軍はここに第4、第12、第16軍からなるA軍集団を投入し、それらが擁する機甲4個軍団で一挙に突破をはかった。その中のひとつであるグデーリアン将軍の第19機甲軍団の先鋒がセダンに到着したのは攻撃開始からわずか3日目であった。連合軍もアルデンヌでドイツ軍が攻撃を開始したという連絡は受けていたが、セダンまで進むには9日はかかるものと予測していた。
同じ13日、ホト将軍の第15機甲軍団の先鋒、ロンメルの第7機甲師団がミューズ河に到着した。そこの橋は前日までにすべて爆破されていたが、ロンメル将軍は水門兼用の橋がひとつ残っているのを発見し、同日夜半、歩兵、砲兵、戦車の強行渡河を敢行した。ミューズ河沿いのフランス砲兵は砲弾の不足を恐れてトーチカを奪取されるなど手際が悪かった。そのころフランス軍総司令官のガムラン将軍はアルデンヌのドイツ軍の進撃には時間がかかると考え、ベルギー、オランダに気を取られていた。そのためセダンの陥落、ミューズ河戦線が突破されたという知らせにフランス軍総司令部は茫然自失した。
フランス軍も各所で機会をとらえて反撃を試みたがいずれも失敗した。フランスの戦車は仕様の上では優秀な上に数も多かったので、ドイツにならって集中使用すれば勝利の可能性があるように見えた。しかし実際には稼働率が低く、なによりも運用方法が練られていなかったためどうにもならなかった。他方ドイツの戦車は性能的にはやや貧弱だったが、機械的信頼性が高く、運用に即した設計がされていたおかげで、ドイツ軍は戦車部隊を非常にうまく動かすことができた。戦術的にもグデーリアンの「分散せず集中速攻せよ」という原則が徹底されていた。
5月14日、連合軍空軍はドイツ軍が占領したミューズ河の橋を空襲で破壊しようとした。ドイツ空軍は連合軍機の半数を攻撃開始2日目と3日目に地上と空中で破壊していた。残りの半数は連合軍が分散させて後方に下げたため、いまや空は完全にドイツ空軍が支配していた。このような状況の中で出撃したイギリスの軽爆撃機は、半数未帰還という大損害を受けて任務に失敗した。ドイツ軍は空挺部隊の橋梁確保と機甲部隊の突進で、早くも5月14日にオランダを降伏させた。パリはパニックに陥った。フランス軍首脳はドイツ軍がパリに進軍してくるものと判断したのである。フランス軍はミューズ河に展開するはずだった部隊をパリ防衛へ回した。これによってアルデンヌからイギリス海峡へ突破しようとしていたドイツ機甲部隊はますます動きやすくなった。

ガムラン将軍は自らの過ちを認めて危機に対応しようとはせず、それどころか敗北はスパイのせいであるとしてその捜索を始めたり、また前線の指揮官多数を適当に選んで解任したりしていた。連合軍はベルギーから撤退を開始しており、5月17日にはブリュッセルが陥落した。19日、フランス弟9軍司令官ジロー将軍が投降し、翌20日にはドイツ軍の一部がイギリス海峡に達した。北フランスには避難民があふれ、ドイツ軍機の機銃掃射を受けながら逃げまどった。
ここに来てようやくガムラン将軍が更迭されたが、後任はさらに年配のウェーガン将軍73歳であった。彼は前年までシリアにいたためヨーロッパの情勢に通じておらず、加えて協力しなければならないイギリスに対して嫌悪感を持っているという、およそ不適切な人選であった。また84歳のペタン将軍が副首相として入閣した。その名声によって軍隊の士気が上がることを期待したもののようであった。しかしフランス軍部はすでに休戦を検討しはじめていた。
ウェーガン将軍が手をこまねいている間に、ドイツ軍はソンム河の北岸を海岸に急進撃していた。ここでイギリス軍はドイツ軍の意図を察知し、その長く伸びた補給線を側面から攻撃する作戦を立てた。攻撃はアラスで行なわれることになったが、戦力は寄せ集めであり、作戦を組織実行する通信連絡網もお粗末で、地図まで不足していた。5月21日、これらの困難の中で攻撃は開始された。イギリス軍の「マチルダII型」戦車は装甲が厚く、ドイツ軍を圧迫したが、やがて88mm砲によって撃破され、2日間の戦闘の後イギリス軍は後退した。
5月24日、ドイツ軍はブローニュを占領した。あとはダンケルクを押さえれば、イギリス軍はヨーロッパ大陸に包囲されることになる。しかしここで、ドイツ機甲部隊に対してヒトラーから進撃停止命令が届いた。

*아르덴(프랑스어: Ardennes, 네덜란드어: Ardennen)은 벨기에 남동부와 룩셈부르크, 프랑스 북동부 일부에 걸치는 지역이다. 이 지명은 프랑스 아르덴주 및 그것을 포함한 샹파뉴아르덴 지역의 이름에도 쓰인다. 벨기에의 왈롱에서 단수형인 'Ardenne'은 벨기에 지역, 복수형인 'Ardennes'은 프랑스 지역에 보통 사용된다. 
*スダン(Sedan、セダンとも)は、ムーズ川に面した、フランス北東部のグラン・テスト地域圏アルデンヌ県のコミューン。Latinaラテン語→Sedan est commune Francicum 18'577 incolarum (anno 2010) praefecturae Arduennae in regione Campania et Arduenna.

*マキシム・ウェイガン(Maxime Weygand, 1867年1月21日 - 1965年1月28日)は、フランスの軍人。Françaisフランス語→Maxime Weygand, né à Bruxelles le 21 janvier 1867 et mort à Paris le 28 janvier 1965, est un officier général français et membre de l'Académie française. Il joue un rôle important lors des deux guerres mondiales.
*レオポルド3世(フランス語: Léopold III、1901年11月3日 - 1983年9月25日)は、第4代ベルギー国王(在位:1934年 - 1951年→亡命政府の意向を無視してドイツに降伏、国内に留まった)。Occitanオック語→Leopòld III (Léopold Philippe Charles Albert Meinrad Hubertus Marie Miguel) (3 de novembre de 1901 - 25 de setembre de 1983) foguèt lo quatren rei dels bèlgas ; regnèt del 23 de febrièr de 1934 al 16 de julhet de 1951.
*ウィルヘルミナ(Wilhelmina, 1880年8月31日 - 1962年11月28日、在位:1890年 - 1948年)は、第4代オランダ国王(女王→イギリスに亡命。政府首班として、反ナチスの徹底抗戦を貫いたNederlandsオランダ語→Wilhelmina Helena Pauline Maria (Den Haag, 31 augustus 1880 – Apeldoorn, 28 november 1962), Prinses der Nederlanden

●ダンケルク
5月26日、イギリスはダンケルクからの撤退「ダイナモ作戦」を発動した。海岸にはあらゆる船舶がかき集められ、懸命な撤退が開始された。イギリス空軍はドイツ空軍を海岸によせつけまいと奮戦した。ドイツ空軍は空襲を行なったが海岸の砂地では爆撃の効果が薄かった。船舶に対する攻撃ではイギリス海軍が駆逐艦6隻、舟艇200隻あまりを撃沈した。1週間快晴が続いたことも幸いした。最後まで踏みとどまってドイツ軍の攻撃から撤退を守りきったのはフランス軍で、結局6月2日までに連合軍33万名の将兵がイギリス本土へ脱出した。この間、5月28日にベルギーが降伏し、フランス上層部は動揺した。レイノー首相は休戦を望む閣僚を更迭し、閣内を徹底抗戦派で固めた。ちなみにド・ゴール将軍はこのとき初めて陸軍大臣として政治に参加した。ドイツ機甲部隊は5月26日にダンケルク攻撃を許されたが、このころには連合軍は防備を固めており、地上部隊はもはやイギリス軍の撤退を阻止できる状況になかった。6月4日になってダンケルクは陥落した。
*ダンケルクの戦い(ダンケルクのたたかい、仏: Bataille de Dunkerque, 英: Battle of Dunkirk)は、第二次世界大戦の西部戦線における戦闘の一つで、ドイツ軍のフランス侵攻の1940年5月24日から6月4日の間に起こった戦闘である。追い詰められた英仏軍は、この戦闘でドイツ軍の攻勢を防ぎながら、輸送船の他に小型艇、駆逐艦、民間船などすべてを動員して、イギリス本国(グレートブリテン島)に向けて40万人の将兵を脱出させる作戦(ダイナモ作戦)を実行した[1]。Deutschドイツ語→Die Schlacht von Dünkirchen fand im Mai und Juni 1940 im Zuge des Westfeldzugs während des Zweiten Weltkrieges statt. Während des deutschen Westfeldzugs war die nordfranzösische Stadt Dünkirchen der letzte Evakuierungshafen der British Expeditionary Force, die 1939/1940 in Frankreich als Teil der zunächst defensiven Strategie der Westalliierten eingesetzt war. Es gelang den Briten und Franzosen, den Brückenkopf so lange zu verteidigen, bis sie über 330.000 von etwa 370.000 ihrer Soldaten in der Operation Dynamo evakuiert hatten.[8] Die Einnahme der Stadt durch die deutsche Wehrmacht erfolgte am 4. Juni.

*ダイナモ作戦(ダイナモさくせん、Operation Dynamo)は、第二次世界大戦のダンケルクの戦いにおいて、1940年5月26日から6月4日にかけて行われた、連合軍の大規模撤退作戦のイギリス側コードネームである。イギリス海軍中将バートラム・ラムゼイが本作戦を計画し、イギリス首相ウィンストン・チャーチルにダイナモ・ルーム(ダイナモすなわち発電機があるドーバー城地下の海軍指揮所の一室) にて概要を説明したことから名づけられたThe Dunkirk evacuation, code-named Operation Dynamo and also known as the Miracle of Dunkirk, was the evacuation of Allied soldiers during World War II from the beaches and harbour of Dunkirk, in the north of France, between 26 May and 4 June 1940. 


●ナルヴィクの戦い
4月末以来、ノルウェーのナルヴィクにあったドイツ軍は苦戦していた。陸路送ろうとした増援は途中のモスヨーエンやハルスターに上陸した連合軍の小部隊に阻まれて進めなかった。連合軍は5月中旬からナルヴィクに対する攻撃を開始した。ドイツ軍の支援は航空攻撃だけで、連合軍はハリケーン戦闘機30機を送ったため、ナルヴィク上空に限っては制空権が連合軍側に移った。海上は完全に連合軍が握っており、ドイツ軍の状況はまさに絶望的であった。5月28日にはついに連合軍がナルヴィクを占領し、ドイツ軍は山に篭った。このナルヴィクのドイツ軍の苦境を救ったのは、フランスの戦況であった。連合軍はフランスの危機に対応するためノルウェーから手を引くことを決め、6月4日から数日でナルヴィクから撤退した。

●ドイツ海軍の「ユーノー作戦」
連合軍がナルヴィクから撤退するつもりであることを、ドイツ軍は知らなかった。苦戦するナルヴィクの友軍を支援すべく、ドイツ水上艦隊が出撃することになった。これが「ユーノー作戦」である。ドイツ海軍は2隻の戦闘巡洋艦「グナイぜナウ」「シャルンホルスト」と重巡「ヒッパー」それに駆逐艦4隻で北進中のドイツ軍を艦砲射撃で支援し、加えてハルスターの連合軍拠点を攻撃しようとしていた。6月4日に出航して北上するドイツ艦隊は連合軍船団の奇妙な動きに気がついた。ハルスターの守りが薄くなり、発見する船団が皆、西へ向かっているのである。そこでドイツ艦隊は船団攻撃に作戦を切り替え、索敵態勢に入った。やがていくつかの連合軍艦船を発見した。一連の戦闘の結果、航空機を満載して退却中の空母「グローリアス」の他、タンカーや輸送艦、トロール船などを撃沈した。しかしドイツ艦隊もイギリス駆逐艦の反撃で「シャルンホルスト」が損傷してしまった。さらに6月20日の出撃でイギリス潜水艦の攻撃を受け、結局すべての水上大型艦が当分使用できなくなってしまった。
ドイツ海軍の指揮系統はその規模の割に複雑で、命令の解釈が難しかった。この戦いでも、ドイツ艦隊の司令官はハルスター攻撃の命令を無視したかどで解任されてしまった。主力艦を傷つけたこともその一因だったようであるが、このような上層部の態度はドイツ水上艦隊の敢闘精神に影響していく。

*Operation Juno was a German naval offensive late in the Norwegian Campaign. The German ships involved were the battleships Scharnhorst and Gneisenau, the heavy cruiser Admiral Hipper and the destroyers Z20 Karl Galster, Z10 Hans Lody, Z15 Erich Steinbrinck and Z7 Hermann Schoemann.

*クリスチャン10世(デンマーク語: Christian 10.、クリスチャン・カール・フレゼリク・アルバート・アレクサンダー・ヴィルヘルム、デンマーク語: Christian Carl Frederik Albert Alexander Vilhelm、1870年9月26日 - 1947年4月20日) は、デンマーク国王(在位:1912年5月14日 - 1947年4月20日)、アイスランド国王(在位:1918年12月1日 - 1944年6月17日)・・・やがて第二次世界大戦が勃発すると、ナチス・ドイツによってデンマークは軍事占領されることになる。けれどもアドルフ・ヒトラーはデンマークを同じゲルマン民族の国家と見ていたため、デンマーク政府とともにクリスチャン10世はコペンハーゲンに留まることを許された。Danskデンマーク語→Christian 10. (Christian Carl Frederik Albert Alexander Vilhelm) (26. september 1870 – 20. april 1947) var konge af Danmark fra 1912 til 1947 og konge af Island fra 1918 til 1944.
*ホーコン7世(ノルウェー語: Haakon VII, 1872年8月3日 - 1957年9月21日)は、ノルウェー国王(在位:1905年 - 1957年)・・・1940年からノルウェーも巻き込まれた第二次世界大戦の際、一時期イギリスに亡命するも、ナチス・ドイツと徹底的に戦い、大きな国民の尊敬を集めた。Norsk bokmålノルウェー語→Haakon VII (født Christian Frederik Carl Georg Valdemar Axel, prins til Danmark og Island 3. august 1872, død 21. september 1957) var Norges konge fra 1905 til 1957.

●フランスの戦い
フランスでは6月5日、南へ向けたドイツ軍の第2次攻勢が開始された。フランス軍はドイツ軍より兵力で勝っており、ドイツ軍侵攻開始時より士気も上がっていた。戦術的にも縦深防御を採用し、改善されていた。しかし機動力を持つ予備に欠け、ドイツ軍の猛攻で戦線に穴が開くとその後は支えきれなかった。6月7日、戦線右翼(大西洋側)で戦線を突破したロンメル将軍の第7機甲師団は数時間でセーヌ河畔のルーアンに達した。グデーリアン将軍の第39、第41機甲軍団は戦線左翼で6月10日から攻撃を開始。フランス軍戦線を突破して南下を開始した。ドイツ軍の接近に6月10日フランス政府はパリを離れ、6月14日、パリが陥落した。2日後レイノー内閣は総辞職しペタン将軍が首班となってドイツに休戦を申し入れた。休戦の調印は6月22日、コンピェーヌの森で行なわれた。そこは第1次大戦の休戦条約が結ばれた場所であり、ヒトラーは復讐を果たしたのであった。

*ポール・レノー(Paul Reynaud, 1878年10月15日 - 1966年9月21日)は、フランスの政治家、首相(在任:1940年3月21日 - 6月16日)。レイノーとも表記폴 레노 (Paul Reynaud, 1878년 10월 15일 ~ 1966년 9월 21일)는 프랑스의 정치인, 변호사이다. 1940년 3월 21일 부터 1940년 6월 16일 까지 프랑스 제3공화국의 총리를 지냈으며 중도 우파 민주공화동맹 (Alliance républicaine démocratique) 부총재를 하였다.

*第二次贡比涅停战协定(法語:Armistice du 22 juin 1940;德語:Waffenstillstand von Compiègne (1940)),又譯第二次康白尼停戰協定、第二次康边停战协定,由法国与纳粹德国在1940年6月22日18点50分签订,签订的地点是法国贡比涅附近的一节火车车厢。德国在1940年5月10日至6月21日的法国战役取得决定性的胜利后,占领了法国北部大片领土,包围了全部英吉利海峡和大西洋的港口,仅给法国政府留下南部领土。希特勒故意选择在贡比涅森林附近的火车车厢里签订停战协定,是因为在1918年第一次世界大战战末时,德国就在此地此车厢向法国投降并签署康边停战协定。

*ヴィシー政権(ヴィシーせいけん、フランス語: Régime de Vichy)は、第二次世界大戦中における、フランスの政権(1940年 - 1944年)。Idoイド語→La Francia di Vichy, Vichy-rejimo, guvernerio di Vichy o simple Vichy esis la nomo kreita por identifikar la guvernerio establisita en l'urbo di Vichy dal marshalo Philippe Pétain, qua kunlaboris kun nacional-socialista Germania pos l'invado di Paris e la signato di un armistico kun Germani ye la 22ma di junio 1940.

*アンリ・フィリップ・ベノニ・オメル・ジョゼフ・ペタン(フランス語: Henri Philippe Benoni Omer Joseph Pétain, 1856年4月24日 - 1951年7月23日)は、フランスの軍人、政治家。Latinaラテン語→Philippus Pétain, vulgo plenius Henri Philippe Bénoni Omer Pétain (natus die 24 Aprilis 1856 in oppido Cauchy-à-la-Tour in Freto Calisii sito; mortuus captivus die 23 Iulii 1951 apud Port-Joinville locum principalem insulae Ogiae, praefecturae Vendeae), fuit vir publicus et miles Francicus. Inter Bellum Orbis Terrarum I ab anno 1917 fuit dux exercitus et marescalcus Franciae.

●イギリスの戦いの始まり
フランスの降伏によってチャーチルはこう演説した。
「フランスの戦いは終わった。今やイギリスの戦いが始まろうとしている」
イギリス軍はダンケルクからの撤退に成功していた。しかし装備の多くを置き去りにしてきたため、完全装備の部隊はカナダからの派遣軍だけであった。士気は高く、訓練はできていたが戦車も対戦車砲もなく、とりあえずできることは、標識を外したり、バリケードや有刺鉄線を張るくらいであった。ドイツ軍の侵攻に備えて海岸地域の住人は疎開をはじめ、子供を海外へ脱出させようとする動きもあった。しかしほどなくUボートがフランスを基地として活動を始め、海を渡ることは本土にいるのと同じくらい危険なことになった。
なにはともあれ軍需生産の増強が急務であった。軍需工場は労働時間を延長し、そのかいあって、最も重要な戦闘機の生産は倍増した。イギリス上空の制空権確保は最初の目標だったのである。ただしそれは防戦いっぽうになるということではなかった。5月15日に約100機で行なわれたルール地方への夜間爆撃を皮切りにドイツ本土への航空反撃も、小規模であるが継続された。
ドイツでは海軍が最初にイギリス侵攻を考え始めた。5月20日に陸軍が海峡に達すると、レーダー提督はイギリス上陸が困難であることをヒトラーに告げている。その後、約1ヶ月間、海軍による計画の立案が進められたが、フランスの降伏に酔うドイツ軍全体に戦争は終結したという空気が強く、イギリスも講和に応じて上陸は不要になるだろうという考えが支配的であった。イギリスが和平に応ずる気持ちがないことが明らかとなり、ヒトラーがこの件を真剣に考え始めたのは6月末のことであった。
イギリスの夜間空襲もドイツによってはうるさい存在で、フランスの降伏とほぼ同時期に、夜間戦闘機連隊が編成されている。
*バトル・オブ・ブリテン(英: Battle of Britain, 仏: Bataille d'Angleterre)あるいは日本語で英国空中戦(えいこくくうちゅうせん)は、第二次世界大戦におけるドイツ空軍とイギリス空軍の戦いのうちで、ドイツによるイギリス本土上陸作戦の前哨戦としてイギリスの制空権の獲得のために行われた一連の航空戦を指す。戦略目標を達することなく独ソ戦を前にしてヒトラーによって中止された。ドイツ語ではイングランド航空戦(独: Luftschlacht um England )という[1]。


Deutschドイツ語→Die Luftschlacht um England war der Versuch der deutschen Luftwaffe, im Zweiten Weltkrieg nach dem Sieg über Frankreich zwischen Sommer 1940 und Anfang 1941 mit Luftangriffen gegen die britischen Streitkräfte und britische Städte die Kapitulation Großbritanniens zu erzwingen bzw. durch die Erringung der Luftüberlegenheit die geplante Invasion der Insel vorzubereiten.

●イタリアの登場
ムッソリーニは、フランスの敗北によって地中海方面の勢力地図が一変しようとしているこの時に、自分も戦勝国の一員として何かを得ようと考えた。その具体的な目標はアフリカであった。戦力としては、イタリア軍は80個師団近くを要し、航空機も実に1万8000機を保有していた。ただし開戦のための準備はしておらず反対も多かった。リビアとエジプトにそれぞれ20~30万名の兵力を配置した。イタリアはフランス戦線では当初守勢をとることを決めていた。しかし6月14日のドイツのパリ占領などに刺激された。ムッソリーニは攻撃を行なおうとした。けれどもバドリオ将軍がなかなか承知せず進撃開始は21日になってしまった。それはフランスの休戦申し入れの翌日だった。ドイツは6月22日に休戦してしまい、イタリアも25日には休戦した。なおこの間、地中海ではフランスとイタリアの間で互いの都市空襲と艦艇の小規模な衝突があった。
●通商破壊戦
ノルウェー作戦の影響でUボートによるイギリスの海上補給線に対する攻撃は一時休止状態になっていた。しかしこの間、ドイツは仮装巡洋艦を次々と放っていた。3月末の「アトランティス」に続いて4月に「オリオン」が出撃し、5月には「ヴィダー」、6月には「トール」「ビングィン」「コメート」が出撃した。いずれも大西洋からインド洋、南氷洋へと散って、ゲリラ的通商破壊活動を続け、イギリスの補給戦を攪乱した。しかしこの3ヶ月の戦果はまだ6隻4万トンであった。Uボート作戦は4月からの3ヶ月で78隻37万トンを撃沈したが、大半は6月の戦果であった。5月に1隻が出撃して魚雷の問題などを試験し、結果がよかった作戦が再開されたのであった。ノルウェーとフランスの基地を得て、Uボートは最初の「黄金期」に入ろうとしていた。また索敵についてドイツ空軍とドイツ海軍の洋上協力も検討され始めた。ドイツ空軍は単独で商船を攻撃しておりピークの5月には48隻15万8000トンを撃沈した。


<ヨーロッパ東部方面>
●ソ連軍のルーマニア侵攻
ドイツが対フランス戦を終えてほっとしていた6月26日、ソ連はルーマニアにベッサラビアと北ブコヴィナの割譲を要求し、ヒトラーをあわてさせた。ヒトラーはソ連がこれを機にルーマニア全土を占領することを恐れ、ルーマニアに要求を飲むように勧告した。ソ連は要求した土地を手に入れて事は収まったが、ヒトラーはソ連の脅威を改めて感じることとなった。

イギリスの戦い 1940年7月―9月
ーフランスを倒したヒトラーは、すぐにイギリスと講和できると考えていた。フランスの征服でドイツの力は強大になっており、適切な方法で攻撃すればイギリスを打倒できることは間違いなかったからである。ドイツは余裕を持って事に臨んだー
<ヨーロッパ西部戦線>
●イギリスの戦い
ヒトラーはイギリス上陸作戦の命令をなかなか下さなかった。イギリスが和平に応じると予想したこともその理由のひとつであったが、実際問題として船を輸送船に改造し、上陸用舟艇を建造することは簡単なことではなかった。また活発に活動するイギリス空軍が健在であった。まずこのイギリス空軍を撃滅し、イギリス上空の制空権を取ることが先決であった。空軍元帥ゲーリングがこの任務を引き受け、イギリスの戦い、バトル・オヴ・ブリテンが始まった。
ドイツ空軍が有利だったのは何よりもその数であった。フランスとノルウェーに展開したドイツ空軍の戦闘機1000機、爆撃機1600機は、イギリス戦闘機軍団の900機を大きく上回っていた。航空機の質はほぼ互角であったが、ドイツ側の戦闘機の4分の1が双発複座の駆逐機であり、イギリスの新鋭単発機との格闘戦は不利であった。
イギリスにはすでに全土をカバーするレーダー防空システムがあった。イギリス戦闘機の数は充分ではなかったが、常時哨戒しなくともパイロットはレーダーが敵が補足するまで待機していればよかった。敵機が海峡上空に達したときはじめて離陸するので、燃料も時間もパイロットの体力も節約できた。これに対してドイツ戦闘機はイギリス上空で30分、ロンドンなら10分しか活動できなかった。戦術的にもイギリス軍は所定の位置で敵戦闘機を迎撃できるので有利だった。
●海上攻撃期:7月10日~8月11日
7月10日、イギリス海峡上空で初めて100機以上による空中戦が起こり、この日がバトル・オヴ・ブリテンの開始とされている。8月上旬までのこの期間のドイツ軍の目標は、海峡の船舶、港湾であった。この期間の双方の損失はドイツ空軍297機、イギリス空軍175機である。7月16日、ヒトラーはイギリス上陸「あしか作戦」(Unternehmen SeelöweOperation Sea Lion)を下命した。


●制空戦闘期:8月12日~9月6日
ドイツ空軍が真剣にイギリス上空の制空権奪取に乗り出した。攻撃目標をレーダー基地と戦闘機基地に集中し、イギリス空軍そのものの殲滅を企図したのである。8月13日、「アドラー・ターク」(鷲の日=Adlertag)と呼ばれたこの日から、ドイツ空軍は連日1000機以上を出撃させた。特に15日と16日は1700機以上が出撃しイギリス上空を荒れ狂った。
*Adlertag鷲の日 ("Eagle Day") was the first day of Unternehmen Adlerangriff ("Operation Eagle Attack"), which was the codename of a military operation by Nazi Germany's Luftwaffe (German air force) to destroy the British Royal Air Force (RAF). By June 1940, the Allies had been defeated in Western Europe and Scandinavia. Rather than come to terms with Germany, Britain rejected all overtures for a negotiated peace.
この第1回目の強襲でドイツ空軍は8ヶ所の基地を撃滅したつもりだったが、実際は軽微な損傷ですぐ修理されてしまった。ドイツ空軍はイギリス空軍の反撃が衰えないためやや自信を失った。ドイツ空軍の攻撃は8月最後の週から9月の第1週に再度ピークに達した。攻撃が集中した南東部の主要な飛行場6ヶ所が使用不能となり、戦闘機は消耗していった。中でも8月31日はイギリス空軍にとって最悪で、戦闘機隊はもはや1機の予備もなく、ドイツ空軍はバトル・オヴ・ブリテンにおいて制空権奪取に最も近づいた瞬間であった。この期間にドイツ空軍は493機の損害でイギリス空軍機446機を撃墜していた。
しかしイギリス側はドイツの暗号を解読した上で、万一上陸を受けても充分持ちこたえられるという自信を持っていた。事実、8月中に、ただでさえ少ない戦車をイギリス本土から中東へ送り、さらに8月末には自由フランス軍を先頭に西アフリカのヴィシー・フランス拠点を襲うため、戦艦や空母を含む艦隊を出撃させている。
ヒトラーもイギリス上陸が困難であることを認めており、すでにソ連侵攻やイギリス植民地制圧について考え始めていた。8月下旬には最初の東への部隊移動が行なわれている。

●ロンドン爆撃期:9月7日~末
9月1日、ドイツは侵攻用船舶の集結に着手。掃海艇から渡し船やモーターボートまで3000~4000艘が集められた。9月7日、イギリスにドイツ軍の侵攻接近の警報「クロムウェル」(Cromwell)が発せられ、その日の午後、ロンドンが猛爆撃を受け、ドックや倉庫が炎上した。しかしゲーリングのこの目標変更で、壊滅寸前だったイギリス戦闘機隊は一息ついて態勢を立て直すことができた。そして9月10日、ドイツ軍はイギリス侵攻を期限つきで延期した。
9月15日、ロンドンへ向かうドイツ空軍の大編隊は迎撃され、56機が撃墜された。この日を境にイギリス空軍が優勢をとりもどし、イギリス上空の制空権を奪回した。そして17日、「あしか作戦」の無期延期が決定されるのである。ドイツ空軍の昼間爆撃は9月30日を最後に中止され、上陸もあり得なくなった。しかしドイツはイギリスに対する空襲を、損害の少ない夜間爆撃主体に切り替えて継続した。このときイギリスはまだ夜間爆撃を阻止できなかったのである。1940年秋から1941年春にかけての夜間空襲を、イギリス側は「ブリッツ(電撃)」(The Blitz)と呼んだ。最初の「ブリッツ」は8月24日夜で、その後ロンドンは76日連続の夜間空襲を受けた。夜間爆撃は昼間爆撃に比べて精度が劣るため、目標は人口密集地域に対する無差別爆撃になった。夜間無差別爆撃へのシフトはイギリス爆撃軍団と同様の流れであった。
*アシカ作戦(アシカさくせん、独:Unternehmen Seelöwe、英:Operation Sea Lion)は、第二次世界大戦中にドイツが計画したイギリス本土上陸作戦の呼称。作戦は準備まで進められたが、英本土航空戦の結果が思わしくなく、1940年9月に無期限延期となり、結局実施されることはなかった。アシカ作戦は原語であるドイツ語をカタカナ書きしてゼーレーヴェ作戦、同じく英語をカタカナ書きしてシーライオン作戦とも呼ばれる場合がある。Deutschドイツ語→Das Unternehmen Seelöwe war die im Zweiten Weltkrieg von der Wehrmacht vorbereitete, aber nicht verwirklichte Invasion Großbritanniens.
*ザ・ブリッツ(英語: The Blitz、ロンドン大空襲[1])とは、第二次世界大戦中にドイツがイギリスに対して1940年9月7日から1941年5月10日まで行った大規模な空襲のことである。「ブリッツ(ドイツ語: Blitz)」とは、ドイツ語で稲妻を意味するが、イギリス側での呼び名である。Esperanto語→Blitz aŭ The Blitz estis germana bombofensivo kontraŭ Britio en 1940 kaj 1941, dum la Dua Mondmilito. La termino estis fakte uzata unue fare de la Britaj gazetoj kaj estas la germana vorto por 'fulmo'.[1]
●イギリスのドイツ本土爆撃
バトル・オヴ・ブリテンの期間も、イギリスのドイツ本土夜間爆撃に対する意欲は衰えなかった。確かに投下爆弾量ではドイツの方が遥かに多かったが、1940年の通算ではドイツよりもイギリスの方がやや多い爆撃機を伴っていた。目標の多くは沿岸の都市やUボート基地であったが、イギリス爆撃機のベルリン空襲がバトル・オヴ・ブリテンでドイツの判断を誤らせたという説がある。またイギリス上陸のために集結したはしけに対する爆撃がドイツ軍を悩ませたことは事実である。ドイツはこれに対して、夜間迎撃戦術を練っていった。防衛すべき都市の前方に聴音機とサーチライトで帯状の補足域を作り、そこで夜間戦闘機が迎撃、都市自身の周辺にもサーチライトを配備し、そこで高射砲で迎撃するという仕組みであった。この戦術は「ヘレ・ナハトヤークト」(Helle Nachtjact=明るい夜間戦闘)と呼ばれた。また、この頃からドイツでもレーダー迎撃システムが研究され始めていた。
もうひとつ、侵入してきたイギリス爆撃機を追尾して、基地に帰り着いたところを攻撃する遠距離・積極防衛戦術も試みられ、なかなかの成功をおさめた。
●Uボート天国と通商破壊戦
ドイツ軍はフランスにUボートの拠点づくりを進めていた。南フランスの沿岸のロリアン・サン・ナザール・ブレスト、ラ・パリス、ボルドーに潜水艦基地が設けられた。7月以降、イギリスは条約によってアイルランド南部の港が使用できなくなった。したがって商船はアイルランドの北を通り、イギリス西岸からクライド河を使って東側のフォース湾へ出て、そこからロンドンまで沿岸航路を下らねばならなかった。この沿岸航路は小型Uボート、Sボート、ドイツ空軍機に不断に脅かされた。実際、イギリスへの物資はそれから数ヶ月で30%も減少するのである。イギリスの大西洋航路の守りもはなはだ心許なかった。ドイツ軍のイギリス本土上陸作戦が予想される以上、艦隊を遠くまで護衛につけるわけにはいかず、護衛は西経15隻までとされていた。イギリスの対Uボート戦術はまだ練れておらず、音響探知機を装備していても、夜間浮上攻撃をされるとどうにもならなかった。
Uボートの側ではようやく攻撃の態勢が整いつつあった。まずヒトラーがイギリス封鎖を宣言し、Uボートは晴れて鹵獲規定から解放された。問題のあった魚雷も改良された。7月には最初の「ウルフ・パック」(Wolfpack)戦術が試みられている。ただ、隻数は不充分で開戦時の数と大差なかった。新造分は損失と相殺されてしまっていた。フランスとノルウェーから出撃できるようになると、7月に38隻19万6000トン、8月に56隻26万8000トン、9月には59隻5000トンと、Uボートは快調にスコアを延ばしていった。潜水艦隊司令官デーニッツは9月1日、ヴィルヘルムスハーフェンからパリ近郊に司令部を移した。この他、攪乱作戦としては仮装巡洋艦「コメート」が7月9日にノルウェーのベルゲンからソ連船の強力を得て北氷洋を東へ向かった。
●ドイツ空軍の洋上作戦
Uボート作戦は、偵察能力に大きな問題を抱えていた。隻数の不足もさることながら、小型のUボートによる索敵が能率良いはずがなかった。ドイツはフランスとノルウェーに質の良い航空基地を多数獲得していた。8月に入って、Uボートと空軍機との協力の手始めとして、ロリアンに「西部洋上大隊」が置かれた。規模はHe115が15機、Fw200「コンドル」が6~8機ほどであったが画期的なことで、特に航続距離の長い「コンドル」には海軍の期待が集まった。
「コンドル」はフランスを飛び立ち、イギリス周辺の偵察や輸送船攻撃を行なってノルウェーの基地に着陸。再び同じルートでフランスへ戻るという活動を行なった。これは対空装備のまったくなかったイギリス商船にとって脅威だった。しかし機数が少なく、偵察の効果はあがらなかった。8月、イギリスはアメリカから駆逐艦50隻を送られた。またUボート基地に対する爆撃を行なったが、基地の操縦壕は頑丈で被害は与えられなかった。


*群狼作戦(ぐんろうさくせん、ドイツ語: Wolfsrudeltaktik)とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍潜水艦隊司令(BdU)カール・デーニッツ少将(後に元帥)が考案した、複数の潜水艦(ドイツではUボート)が協同して敵輸送船団を攻撃する通商破壊戦術の1つである。ウルフパック(英: Wolfpack)ともいう。また、狼群戦術(ろうぐんせんじゅつ)と呼ぶ場合もある。이리떼 전술 또는 울프팩 전술, 울프팩(Wolfpack)은 제2차 세계 대전(대서양 전투) 기간에 나치 독일의 해군력인 전쟁해군의 유보트들이 연합국 호송선단에게 행했던 대규모 공격 전술이자 태평양 전쟁 기간 미국 해군의 잠수함들이 일본 함선에게 사용했던 공격 전술이다.

●ヴィシー政府
7月10日、フランス南部にペタン元帥を首班とする新政府が成立した。ヴィシーを首都としたため、この政府はヴィシー政府と呼ばれた。その支配地域はフランス本土の4割ほどで、北部の大半はドイツに占領されていた。ヴィシー・フランスは、ドイツに協力的な政策をとったので、フランス本土でドイツに抵抗しようとするグループは、レジスタンス運動に走り、また海外に逃れたグループは、ド・ゴールを中心に自由フランス政府をつくった。

*ヴィシー(Vichy, オック語:Vichèi)は、フランス、オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏、アリエ県のコミューン。温泉保養地。第二次世界大戦期にはヴィシー政権が置かれた場所としても知られている。Occitanオック語→Vichèi[1] o Vichier[2](pron. [vi'she] o [vi'shje]) (oficialament en francés Vichy) es una vila d'Occitània, dins la region istorica de Borbonés, lo departament d'Alèir e la region administrativa d'Auvèrnhe Ròse Aups Blason Auvergne-Rhône-Alpes.svg.

*自由フランス(じゆうフランス、フランス語: France libre)は、第二次世界大戦中にドイツによるフランス占領に反対して成立した組織。亡命フランス人による独自の自由フランス軍(Forces Françaises Libres)を率いるとともに、フランス内レジスタンス(フランス語版、英語版)を支援した。1942年7月21日からは「戦うフランス(フランス語: France combattante)」と改称されている。Françaisフランス語→La France libre est le régime de résistance extérieure fondé à Londres par le général de Gaulle à la suite de son appel du 18 juin 1940.
*シャルル・ド・ゴール(Charles de Gaulle、1890年11月22日 - 1970年11月9日)は、フランスの陸軍軍人、政治家。フランス第18代大統領。第二次世界大戦で本国失陥後、ロンドンにロレーヌ十字の自由フランスを樹立しレジスタンスと共闘した。Idoイド語→Charles André Joseph Marie de Gaulle (1890 til 1970) esis militisto e politikisto.

<地中海・アフリカ戦線>
●イギリス艦隊のフランス艦隊攻撃
チャーチルが地中海で最初に解決しなければならない問題は、ヴィシー・フランス海軍をどうするかであった。ヴィシー・フランスは一応中立を保っていたが、艦隊は港に拘束ということになっていた。この艦隊は、枢軸側にまわるようなことになれば、イギリスにはまったく打つ手がなかった。そこでチャーチルは、つい先日まで同盟国であったこの中立国の潜在戦力に、断固たる態度で臨むことにした。その作戦は「カタバルト作戦」(Operation Catapult)と名づけられた。
7月3日、アルジェリアの都市オラン近郊のジブラルタルから出撃したイギリスH艦隊が迫り、武装解除、または自沈を勧告した。フランス側はさまざまな条件を出して交渉を試みたが、イギリスは猶予として与えた8時間が過ぎると、停泊中のフランス艦船に対し猛然と砲撃を開始した。戦艦クラスでこの惨劇から脱出し得たのは戦闘巡洋艦「ストラスブール」1隻だけで、残る3隻は破壊された。翌4日、イギリス艦隊はアレクサンドリアのフランス艦隊に対しても同様の条件を突きつけた。しかしここでは戦艦「ロレーヌ」や巡洋艦4隻などの武装解除が行なわれ、流血の事態は起こらなかった。イギリスはダカールのフランス艦隊にも空襲を加え、戦艦「リシュリュー」が損傷を受けている。ヴィシー・フランスはイギリスと国交を断絶した。
*メルセルケビール海戦[1](メルセルケビールかいせん、Attack on Mers-el-Kébir)は、第二次世界大戦でのイギリス海軍とフランス海軍との間の海戦。Françaisフランス語→L'attaque de Mers el-Kébir est un épisode de la Seconde Guerre mondiale. Elle s'inscrit dans le cadre de l'opération Catapult.


●イタリア海軍対イギリス海軍
イギリスは比較的強力な部隊でジブラルタルを確保しており、そこはまず安泰であった。しかしアレクサンドリアはリビアのイタリア軍に脅かされ、地中海の中央に浮ぶマルタ島はシシリー島のイタリア空軍ににらまれていた。これらイタリア軍はいずれも巨大な戦力を誇っていた。そこでイギリス海軍はまずアレクサンドリアとマルタ島に増援を送る作戦を開始した。7月9日、この船団と、帰還途中の北アフリカ向けイタリア船団がスバルティペント岬沖で遭遇し、両船団の護衛艦隊が交戦した。この海峡では(カラブリア岬沖海戦(
Battaglia di Punta StiloBattle of Calabria)と呼ばれる)に参加したのはイギリス空母「イーグル」、戦艦「ウォースパイト」「マラヤ」「ロイヤル・ソヴリン」、軽巡5隻、駆逐艦6隻、軽巡12隻、駆逐艦32隻というかなり大規模な部隊同士であった。
イギリスは航空機も発進させて攻撃し、イタリア艦隊は戦艦と重巡に命中弾を受けたため、駆逐艦の魚雷攻撃に援護されながら退却した。10日後の7月19日、今度はクレタ島の北でスパダ岬沖海戦と呼ばれる駆逐艦隊と軽巡艦隊の小海戦が発生した。両軍とも航空機を援護に送り、追いつ追われつの接戦を演じたが、最終的にはイギリスの勝利に終わった。このふたつの海戦に代表されるように、海上の戦いでは積極的なイギリスが優位を保っていた。アレクサンドリアとマルタ島への増援、補給は順調に進み、イギリスがイタリアの参戦当初に恐れていた事態は遠のいた。イタリアの活動は徹底しない空襲くらいで迫力がなかった。8月下旬、イタリアは新型戦艦4隻を就役させた。それでイギリスは地中海のバランスをこれまでどおり保つためには、何らかの対策を迫られた。
*カラブリア沖海戦[1](カラブリアおきかいせん)、プンタ・ステロ沖海戦[2]は、第二次世界大戦中の1940年7月9日にイタリア半島のつま先であるカラブリア半島沖の東48kmでイギリス海軍及びオーストラリア海軍の艦艇からなる連合国艦隊とイタリア海軍の艦隊の間で行われた海戦。イギリス側はカラブリア海戦(Battle of Calabria)、イタリア側はプンタ・スティーロ海戦(Battaglia di Punta Stilo)と呼称した。Italianoイタリア語→La battaglia di punta Stilo del 9 luglio 1940 tra le navi della Royal Navy britannica e della Royal Australian Navy contro la Regia Marina italiana, svoltasi nelle acque del Mar Ionio, a sud-est di Punta Stilo fu il primo scontro in mare tra Italia e Inghilterra del secondo conflitto mondiale e vide la più alta concentrazione d'armamenti navali durante tutto il conflitto nel Mar Mediterraneo.

●自由フランス軍のダカール攻撃
ドイツはUボート基地としてフランス側西アフリカのダカールを欲していた。イギリスはこれを防ぐためにダカールを占領しなければならなかった。しかし戦闘艦隊の破壊と違い、ヴィシー・フランスの領土を占領するとなるとチャーチルも慎重にならざるを得なかった。そこへ、自由フランス軍の代表を自ら任じているド・ゴールが、自由フランス軍によるダカール占領を提案してきた。植民地は自分を支持しているというのがその根拠であった。立案された「メナス作戦」(Operation Menace)は、自由フランス軍歩兵部隊2700名をイギリス艦隊が支援するという形がとられることになった。歩兵部隊のうち2400名は外人部隊。護衛には3隻の自由フランス海軍通報艦も含まれているが、歩兵を運ぶ船もイギリス船であった。護衛のイギリス艦隊は、戦艦「バーラム」「レゾリューション」、空母「アークロイヤル」重巡2隻、その他の大艦隊であった。艦隊はM部隊と呼ばれ、8月31日、リヴァプールを出航している。
イギリス、自由フランス連合軍の意図を察知したヴィシー・フランス海軍は9月10日、軽巡3隻、大型駆逐艦3隻のY部隊をツーロンから出撃させ、ジブラルタルを突破してダカール増強に向かわせた。その後、ダカールから数隻が出航し、9月23日、連合軍M部隊がダカール沖に到着したとき、港には未完成戦艦1隻、軽巡2隻、大型駆逐艦3隻、潜水艦3隻などが停泊していた。ド・ゴールの言葉とは逆に、ダカールの艦隊はヴィシー政府に忠実であった。戦闘が始まり、それは3日間に及んだ。フランス艦隊は劣勢ながらイギリス戦艦、重巡に損害を与えて上陸を断念させ、撃退に成功した。こうしてダカール作戦は失敗した。しかしイギリスの心配した「ダカールUボート基地」はその後も実現することはなかった。
*ダカール沖海戦[1](ダカールおきかいせん)は、第二次世界大戦においてイギリス海軍とヴィシー・フランス海軍との間で行われた戦闘。自由フランス軍がイギリス艦隊の支援の下ダカール(現・セネガル)へ上陸しようとした(メネス作戦[2]、Operation Menace)が撃退されたFrançaisフランス語→La bataille de Dakar, également appelée l'opération de Dakar, l'expédition de Dakar ou l'opération Menace, est une attaque navale britannique de la Seconde Guerre mondiale

●イタリア陸軍の進撃
フランスの脅威がなくなり、イギリスが本土の防衛に専念せざるを得ない状態にあると考えたイタリアは、エチオピアを拠点に、周辺に対する攻撃を行なった。それは北スーダンに対して7月4日から、南へはケニアに対して7月15日から開始されたが、いずれも小規模なもので、しかもそれだけに終わって本格的な侵攻に至らなかった。イタリアがイギリスの兵力を過大評価したためと言われている。イタリアの行なった次のやや大きな攻撃は、8月にイギリス領ソマリランドに対してのものだった。8月3日、イギリス軍1万3000名に対してイタリア軍は4万名の兵力で攻撃を行なった。イタリア軍は8月19日までにイギリス領ソマリランドの占領を完了し、イタリア本国は勝利ににわいた。しかし損害はイタリア軍2000名に対してイギリス軍は250名にすぎず、戦略的にもとりたてて利益はなかった。イタリアはスーダンの占領を目差すべきであったという意見が多い。スーダンを占領すれば、リビアの部隊と協同でエジプトを攻撃することができるからである。イタリアはエジプト攻略に目標を絞り、諸作戦を連携させるということをしなかった。
リビアにあったグラツィアーニ将軍のイタリア軍は7月初旬以来、ムッソリーニの再三の督促にもかかわらず、なかなか進撃を開始しようとしなかった。ようやく9月13日、イタリア軍はエジプトに侵入を開始した。イギリス軍は国境からエジプト領内へ100kmのシディ・バラニまで前進したがそこで停止してしまった。イタリア軍は数で勝る分、補給も大量に必要だったのである。オコナー将軍麾下のイギリス軍はメルサ・マトルーまで退却したが、そこでイタリア軍の新劇が停止したため、反撃作戦を練ることができた。
*コンパス作戦(コンパスさくせん、英: Operation Compass)は、1940年12月8日から1941年2月9日まで行われた、イギリス軍による北アフリカ方面での反攻作戦。この戦いで伊リビア総軍は戦力の過半とキレナイカ地方を喪失し、英砂漠軍の優勢が決定的になった。Operation Compass (also la battaglia della Marmarica) was the first large British military operation of the Western Desert Campaign (1940–1943) during the Second World War.

<ヨーロッパ東部戦線>
●ルーマニアの分割
ソ連とドイツの関係は悪化していた。ソ連が6月にルーマニアの土地を奪ってから、ハンガリーとブルガリアもルーマニアに領土を要求し、この地域での紛争を避けたいドイツは機甲部隊と空挺部隊をルーマニアに進駐させねばならなくなった。そして8月30日、ドイツが仲介に入り、ルーマニアに領土の割譲を飲ませ、代わりに残土の保障を約束した。このときルーマニア王は退位し、ファシストのイオン・アントネスクが独裁者となった。このドイツの仲介に対してルーマニアの領土をさらに奪おうとしていたソ連は反発したが、重要な石油資源をルーマニアに頼るドイツとしては妥協の余地はなかった。ドイツは9月27日には、日本、イタリアと3国軍事同盟を締結した。ソ連はこれが自国に向けられた同盟ではないかと疑った。
*イオン・ヴィクトル・アントネスク(ルーマニア語: Ion Victor Antonescu, 1882年6月14日 - 1946年6月1日)は、20世紀前半のルーマニアの軍人・政治家。Latinaラテン語→Ioannes (Dacoromanice Ion) Antonescu (natus die 15 Iunii 1882 in Piteşti, mortuus die 1 Iunii 1946 in Jilava) fuit primus minister et dictator (conducător 'dux') Romaniae secundo bello mundano a die 4 Septembris 1940 usque ad diem 23 Augusti 1944, cum Romania foederata cum Germania Adolphi Hitler et Italia Beniti Mussolini erat. Postea ad mortem damnatus et in carcere Jilava supplicio affectus est.

*日独伊三国同盟(にちどくい さんごく どうめい、独: Dreimächtepakt、伊: Patto tripartito)は、日本、ドイツ、イタリアの軍事同盟。1940年(昭和15年)9月27日にベルリンで調印された日独伊三国間条約。Deutschドイツ語→Der Dreimächtepakt war ein am 27. September 1940 auf Initiative Adolf Hitlers geschlossener Vertrag des Deutschen Reiches mit dem Kaiserreich Japan und dem Königreich Italien. Er wurde von den Vertragspartnern auch als Achse Berlin-Rom-Tokio bezeichnet.

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