日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

이오시프 스탈린იოსებ სტალინიИосиф Сталин=Stalin: A Political Biography. by Isaac Deutscher. /第7章(CHAPTER 7)☆書記長THE GENERAL SECRETARY☆⑥


スターリンの注目すべき特徴は党内と党周辺のあらゆる心理的底流、無言の希望、暗黙裡の要求に独自の敏感さを持っているということで、彼はその代弁者として現われた。この点では、彼は他の3人組の2人とは大いに異なっていた。“永続革命”をめぐる論争の初期には、彼らは一致して行動した。その終るころでは彼らはすでに両極に分かれていた。ジノヴィエフ、カーメネフが後に認めたように、彼らは“永続革命”論に反対するレーニンの古い引用句でトロツキーの名声を傷つけるため闘争をはじめた。だが、彼らの心のなかでは、すでに党内の通念となっているその基本的理論になんらの争うことはなかった。従って彼らのトロツキー攻撃は奇怪なほど現実味を欠いていた。攻撃は久しく忘れられていた革命前の亡命生活でのエピソードをめぐる、要領を得ない口論に限られた。彼らは彼ら自身の積極的理論でトロツキーに対抗しようとは夢にも考えなかった。だが、スターリンは別であった。スターリンにとってもはじめのイデオロギー的空試合であったが、後には真のイデオロギー闘争に発展した。論点は係争点となった。彼は反対者の見解に心からの憎しみを覚えるようになった。このため、彼はなにか積極的なもので対抗しなければならなかった。彼は彼のどの主張が党役員、労働者の大衆―これは彼の神の声を伝える、人間でできた大きな反響板だーから最も強い反応を呼び起こすかを感じとった。この反響板は意外なほど“一国社会主義論”に反応を示した。神の啓示を求める人によくあるように、彼の心が生んだ一国社会主義の幻影は彼をとりこにした。だが、彼がそうなったのは、他の多くの人々の心にひそんでいるものにこの幻影が応じたからであった。
長い間、ジノヴィエフ、カーメネフは彼の同僚に起こったこの変化に気がつかなった。彼らは彼が一国内の完全な社会主義の可能性を妙に主張するのをみて肩をすくめた。だが、彼らはこれはすべて、彼らより知的に劣っている同僚がトロツキーをなぐるため選んだ棒にすぎないと扱っていた。彼らはこの棒をよく調べてみようともしなかった。1925年の3,4月に、スターリンが第14回党協議会にこのテーゼを正式承認するよう要請して、これを得たときでさえ、彼らは反対しなかった。スターリンが彼の見解を提示してからほとんど1年たった翌年の秋になって、はじめて彼らはその重要さに目覚め、これは国家共産主義のため伝統的ボリシェヴィズムを捨てるものだと批判した。トロツキーはこのテーゼがすでに広範な層から受け入れられていた1926年になるまでこれに挑戦しなかった。
スターリン理論が実際に何を意味するかはまだ明らかではなかった。革命はいまや、革命後の歴史できわめて重要な道標に達した。だが、いまのところでは革命の変容は行動における態度よりもむしろ物の見方に影響を与えた。この変容の大要は次のように要約できよう。それまでボリシェヴィズムはロシアを近代文明の周辺地帯だとみなしていた。だが、この周辺地帯で革命がはじまった。社会主義はここに現実の先駆者を見出した。ここから革命変革の衝撃が西と東に伝えられた。全世界的な社会変革におけるロシアの役割は全面的運動の有力な創始者としての役割であるとみられた。だが、西ヨーロッパは依然近代文明の真の中心だった。旧ボリシェヴィキ的見解によると、新しい社会生活様式が終極的に打ち出されるのはこの中心地帯であって周辺地帯ではなかった。この全過程は二重の圧力という形で観察された。はじめはロシアが西ヨーロッパに、次は社会主義西ヨーロッパに圧力を加えるというものであった。
スターリンの理論によれば、ロシアはもはや文明世界の単なる周辺地帯として登場しなかった。新しい社会体制が見出され、築きあげられねばならないのはロシア自身の国境内においてであった。大きな抵抗力を示しながら自衛の策を講じつつある西ヨーロッパの資本主義的文明よりあらゆる点で優れた新しい文明の中心となる運命を担うものはロシアであった。この新しい未来観が自国の孤立化に対するロシア共産主義の怒りを反映していることは疑いない。幻滅し、疲れ果てたボリシェヴィキ・ロシアは一国社会主義の明るい見通しに痛む目をいたわりながら、自国のカラに閉じこもりつつあった。


The remarkable trait in Stalin was his unique sensibility to all those psychological undercurrents in and around the party, the untalked-of hopes and tacit desires, of which he set himself up as a mouth-piece. In this he was very different from the other triumvirs. At the beginning of the controversy over ‘permanent revolution’ they acted in unison; towards its end they were already poles apart. As Zinoviev and Kamenev admitted later, they started the campaign in order to discredit Trotsky with outdated quotations from Lenin against the ‘permanent revolution’; at heart they had no quarrel with its basic tenets, which had become the household ideas of the party. Their attacks upon Trotsky’s theory were therefore strangely unreal; they were confined to pointless quibbling over long-forgotten episodes of the days of pre-revolutionary exile. They did not even dream of opposing Trotsky with a positive doctrine of their own. It was otherwise with Stalin. What for him, too, had begun as ideological shadow-boxing developed into a real ideological struggle. The debating-point became the issue. He came to feel a real hatred for his opponent’s views; and because of this he had no counter with something positive. He sensed which of his arguments evoked the strongest response from the mass of party officials and workers, that vast human sounding-board which was his voxdei. The sounding-board proved unexpectedly responsive to ‘socialism in one country’. As happens with revelationists, a figment of his mind, the vision of socialism in one country, took possession of him; but it did so because it corresponded to the thing that were latent in so many other minds. 
For a long time Zinoviev and Kamenev were unaware of the change that had occurred in their partner. They shrugged their shoulders over his quaint insistence on the possibility of fully fledged socialism in a single country; but they treated the whole thing as a mere stick with which their intellectually inferior partner chose to beat Trotsky; and they did not bother to have a close look at it. They did not object even when, in March and April of 1925, Stalin asked the fourteenth conference of the party to give formal sanction to this thesis and obtained it. It was only next autumn, nearly a year after he had put forward his view, that they awakened to its significance and criticized it as the abandonment of traditional Bolshevism in favor of national communism. Trotsky did not challenge the dogma until 1926, when it had already gained wide acceptance.                       
The practical implications of Stalin’s doctrine were not yet clear. Bolshevism had now reached a most important landmark of its post-revolutionary history; but so far the change affected its attitude of mind rather than in action. The broad lines of the change can be summed up as follows. Hitherto Bolshevism looked upon Russia as upon a periphery of modern civilization. On that periphery the revolution started; there socialism had found its practical pioneers. From there came the impulses for revolutionary change in West and East. Russia’s role in the world-wide transformation of society was seen as that of the powerful initiator of the whole movement. But western Europe still remained the real centre of modern civilization; and, in the old Bolshevik view, it was there in the centre rather than on the periphery that the forms of a new social life were eventually to be forged. The whole process was seen in terms of a double impact: first of Russia upon the West and then of the Socialist West upon Russia.
In Stalin’s doctrine Russia no longer figured as a mere periphery of the civilized world. It was within her own boundaries that the forms of a new society were to be found and worked out. It was her destiny to become the centre of a new civilization, in all respects superior to that capitalist civilization that was defending itself, with so much power of resistance, in western Europe. This new view of the future undoubtedly reflected exasperation of Russian communism at its own isolation; but it glided that isolation with dazzling prospect. Exhausted and disillusioned, Bolshevik Russia was withdrawing into her national shell, feasting her sore eyes on the vistas of socialism in one country.






↑1932年11月27日、トロツキーのコペンハーゲン講演(ドイツ語)+CBC放送のために、英語で演説。


↑「10月の擁護」コペンハーゲン講演(英訳)。

↑トロツキーのフランス語演説(同じくコペンハーゲンにて+ギリシャ語字幕)。

↑1938年、メキシコから「モスクワ裁判」につき、英語でコメントするトロツキー(英語は独仏に比べ、貧弱。本人も苦手としていた言語)。







「ナジェージダ・コンスタンチンノヴナ!2度とこんな手紙はよこさないで頂きたい。これはウラジミール・イリイッチの書いたものじゃない。あなたの手紙じゃないですか。あなたから指示されるいわれはないはずです!」。彼はガチャンと電話を切った。レーニンが重病の床にある限り、スターリンはやりたいことができると感じつつあったのだ。このとき、クルプスカヤが、スターリンの非礼に対して、当時の政治局の長、カーメネフに訴えた手紙が残っている。後年フルシチョフが、痛烈なスターリン批判を行った第20回党大会の秘密報告(1956年2月25日夜)で読みあげたものである(この秘密報告は同年6月、米国務省が某国共産党筋から全文入手して公表した)。「レフ・ボリソビッチ(カーメネフ)!医師の許しを得てウラジミール・イリイッチが私に口述して書き取らせた1通の短い手紙がもとで、スターリンはきのう、私に向ってただならぬ乱暴な言葉を爆発させました。私はきのうやきょう党に入ったばかりというわけではありません。この30年間というのも、私は同志のだれからも無礼な言葉は一言も聞いたことはありません。党の仕事やイリイッチの仕事は、私にとってもスターリンに劣らず大切です。・・・イリイッチと話し合うことができること、できないこと、私はどんな医者よりもよく知っています。スターリンより私の方がよく知っているのです。私はV・I(レーニンの頭文字)にとってスターリン以上に親しい同志としての貴下とグレゴリー(ジノヴィエフ)を頼りにしています。どうか私の私生活に対する乱暴な干渉、卑劣な毒舌や脅迫から私を守って下さるようお願いします」。スターリンは、妻の訴えを聞いた病人がふるえる手でしたためた書簡を受け取った。
「親愛なる同志スターリン 貴下は私の妻を電話に呼びつけ、乱暴に叱りつけた由。彼女はいわれたことを忘れることに同意すると貴下に話したそうだが私は自分に対して向けられていることをそう簡単に忘れるつもりはない。妻に対して向けられたことは、すべて私に直接向けられたと同じことだということをあえて加えるまでもないだろう。私は、貴下が前言を取り消して陳謝するか、それともわれわれ2人の交際をたつ方を選ぶか、慎重に考慮されるようお願いする。敬具 1923年3月5日 レーニン」。これより先、レーニンは1922年12月の2度目の発作が起って間もない12月24日、党に対する遺言状を書いた。いわゆる「党大会への手紙」である。そのなかでレーニンは、「同志スターリンは党書記長になってから広大な権力をその手に集中したが、彼が常に十分慎重にこの権力を行使できるかどうか、私には確信がない」と述べた。1923年1月4日付で、この手紙に追記をつけ加えて「スターリンは粗暴すぎる・・・だからスターリンをこの地位からほかに移して、ただひとつの長所によって同志スターリンに勝っている別の人物、すなわち、もっと忍耐強く、もっと忠実で、もっと丁重で、同志に対してもっと思いやりがやり、彼ほど気まぐれでない、等々の人物を、この地位に任命するという方法をよく考えてみるよう、同志諸君に提案する」と書いている。レーニンはすでに、その死後に起るであろうスターリンの独裁を憂慮していたのである。


レーニンの死
スターリンの’毒薬’:レーニンはその後、1923年3月にまたまた発作を起して、言語障害をきたした。十分な療養のために、再びゴルキに移らねばならなかった。ゴルキの新鮮な空気とゆき届いた看護のお陰で、容体は一時快方に向くかにみえ、少しなら歩くこともできるようになった。彼は政治に対する関心を持ち続けていた。このころ、書記長スターリンはクレムリンの病室やゴルキに、しばしばレーニンを見舞った。短い時間なら、レーニンと2人きりで話すこともできた。ある日、見舞いから帰ったスターリンは党の政治局員たちを招集して言った。
「オヤジはこれ以上苦痛にたえるのを望んでいないようだ。オヤジは、永遠に苦痛から解放されるための毒薬をくれと私にいったよ。苦痛ががまんできないようになったら使う気でいるらしい」。
トロツキーは後年、このときのことを回想して「生きてゆく意志のかたまりのようにみえたレーニンが、自殺用の毒薬を求めているという意外な暴露に、私は直面したのだ。そのときのスターリンの顔付がいかにも異様で、謎めき、その場にそぐわないものにみえたことを私は想いおこす。かれがわれわれに取りついだ要請は悲劇的なものであった。それなのに、胸の悪くなるような微笑がかれの顔付、というよりかれの仮面にきざみこまれていた。・・・この恐ろしさを一層高めたのは、スターリンがレーニンの要請について自分の意見を一切言わなかったことである。・・・「当然のことだが、われわれはかれの要請を実行することを考慮することもできない!」と私は叫んだ・・・正式の会議ではなかったので投票は行われなかった。だがわれわれは、レーニンに毒薬を送ることは考えることさえできないという暗黙の了解に達して散会したのだった」。
その後、レーニンの侍医がスターリンを訪ねて、スターリンにこういったのを、当時のスターリンの秘書カンネルが聞いている。「同志レーニンは「よい薬をありがとうと、あなたに伝えてくれ」と申されました」。
レーニンの死:その翌日ー1924年1月21日の夕方、致命的な発作がレーニンを襲った。レーニンにつききりで看病していたクルプスカヤ夫人が、電話をかけようとして、わずかのあいだ部屋を離れた。夫人が戻ってきたとき、すでにレーニンは死んでいた。ベッドの側の小さなテーブルの上に、アンプルが数個ころがっていた。アンプルは空だった。レーニンはなぜ、人もあろうにスターリンに毒薬を求めたのだろうか。「遺書」であれほどはっきりと批判したスターリンにー。
「答えは簡単である。レーニンは、かれの悲劇的な要求をかなえてくれる人物を、スターリンにだけ見出したのである。なぜならスターリンはそうすることに直接の利益を感じていたから。レーニンは、誤たない本能をもって、クレムリンの内部とその壁の外側で起っていたことを見抜き、スターリンがかれについてどう感じているかを知っていた。かれにこの「好意」を与えてくれる同志はスターリンしかいないことを確信するには、レーニンはあらためて近しい同志たちの名簿を検討する必要はなかったのである」とトロツキーは書いている。
レーニンの死が発見された直後の7時15分、スターリンの部屋の電話が鳴り、レーニンの死を知らせた。スターリンは指導者の死を極力利用することにした。彼はソ連の全放送局に、こう連続放送するよう指令を発した。「レーニンは死んだ。しかし、レーニン主義は生きている!」。

黒海の保養地スフミで健康を回復中だったトロツキー(1924年)「『レーニンはもはやいない』-その言葉は巨大な岩が海へ落ち込むようなずっしりとした重みをもってわれわれの心に落ちかかってくる」(トロツキー「わが生涯」)。

レーニンは、9ヶ国語に通じていたという
英国の著名な作家H・G・ウェルズは、若いソビエト・ロシアの友だったが・・・ゴエルロについてレーニンはウェルズと英語で討論した・・・ドイツ語、英語、フランス語を流暢に話し、ポーランド語とイタリア語を十分に読みこなし、翻訳できたほか、スウェーデン語とチェコ語を理解した。加えて学校時代に学んだラテン語とギリシャ語を知っていたのである。コミンテルンの何度かの大会で、レーニンは外国語で演説している。例えばコミンテルン第4回大会では「ロシア革命5年と世界革命の展望」と題した報告をドイツ語で行っている。レーニンは控え目な人物だったので、自分の外国語の知識をひけらかすことは決してなかった。例えば党の身上調査で、職業を「ジャーナリスト」と書いたことは前に述べたが、彼は「外国語の知識」の欄には「ドイツ語を少し」と書き込んだだけで、イタリア語を書き入れたことはなかった。だが、イタリアの共産党員たちを家でもてなしたとき、レーニンはよどみのないイタリア語で歓談した、とジョヴァン二・ジェルマネットは回想している。またハンガリー共産党のラズロ・ルダスの追憶によると、コミンテルン第1回大会のとき彼はレーニンと会話を交わした。話を始める前、レーニンはドイツ語でも、英語でも、フランス語でも結構だが、そんなによくはできない、といった。ルダスはドイツ語を希望した(ハンガリーは、オーストリアと共通のハプスブルグ王朝を載いていたので、ドイツ語は第2外国語であった)。ところが、いざ話してみると、レーニンのドイツ語は全て流れるようであるばかりか、ルダスよりもはるかに豊かな語彙に裏づけられていたという(木村明生「クレムリン 権力のドラマ―レーニンからゴルバチョフへ」朝日選書・1985年)。


↑第三インターナショナル(コミンテルン)に関するレーニンの演説(ロシア語=’外国語’の肉声は発見できません)。

↑1925年のトロツキーによる反スターリン演説(ロシア語+英語解説及び吹替付き)。

↑(1)内戦中の1920年5月1日、首都モスクワ。「解放された労働者の記念碑起工式To the Laying of the Foundation Stone of a. Monument to Liberated Labour」(現Жилой дом на Котельнической набережнойコテルニチェスカヤ・エンバンクメントビルKotelnicheskaya Embankment Building)にて演説するレーニン(2)赤軍部隊へ訴えるレーニン「同士諸君、赤軍兵士諸君!資本主義イギリス、アメリカそしてフランスはロシアに対する戦争を遂行している。彼らはソビエトの労働者さらに農民たちによる?に復讐しているのだ・・・」(ロシア語)


↑内戦中の1918年3月8日、首都モスクワ。軍事人民委員(国防相)最高軍事会議(共和国革命軍事会議Революционный Военный совет Республики:РВСР)議長に就任し(2月に外務人民委員(外相)Наро́дный комиссариа́т иностра́нных дел(НКИД)を辞任)赤軍部隊へ演説するトロツキー(ロシア語+バスク語字幕)。


↑「私の父は、トロツキーとレーニンが話すのを聴いた」エヴァ・ラビーさん(カナダ・ケベック州モントリオール市のユダヤ系図書館(取締役)管理人)。

トロツキーの死
・・・ところが、犠牲者は「恐ろしい、つんざくような叫び声」をあげたー「あの叫び声は、一生ぼくの耳について離れぬだろう」と、暗殺者はいった。脳天を打ち割られ、顔を突き刺されながら、トロツキーはパッととび起きて、暗殺者目がけて、本や、インクつぼや、辞書まで、手当たりしだい、片っぱしから投げつけ、それから自分の体をかれにたたきつけた。それまですべて3,4分しかたたなかった。つんざくような、胸が張り裂けるような叫び声に、ナターリヤと護衛たちは、ハッと立ちあがった。だが、その声がどこからおこったのかを知るのに数分間かかった。それがわかると、みんなその方向へ駆けつけた。その数分間、書斎では物凄い闘争がおこなわれていた。トロツキーの最後の闘争が。かれは、さながら猛虎のように闘った。かれは暗殺者に組みつき、かれの手に噛みつき、ピッケルをかれからねじとった。暗殺者はすっかり動転してしまって、第二撃を打ちおろすこともできなければ、ピストルや短刀をつかうこともできなかった。それから、もはや立っていることができなくなったトロツキーは、敵の足もとに崩れ落ちまいとして、渾身の意力をふりしぼり、徐々によろめきながら後退した。ナターリヤがとびこんでみると、かれは食堂とバルコニーのあいだの入口の、ドアのかまちによりかかって立っていた。かれの顔は血でおおわれていた。その血のなかから、眼鏡のないかれの青い目が、いつもよりいっそう鋭く光ってかの女を見た。両の腕はだらりとたれていた。「どうしたんです?」わたしは聞いた。「どうしたんです?」わたしはかれを両腕で抱きしめた・・・かれはすぐにはこたえなかった。一瞬、わたしはなにか天井からかれの上に落ちたのだろうか、とおもったー書斎を修理しているところだったからであるーでは、なぜこのひとはこんなところに立っているんだろうか?静かに、悠りも、憎しみも、悲しみもなしに、かれは「ジャクソン」と、ただ一言、いった・・・

その日の午後7時30分ごろ、かれは昏睡状態におちいった。5人の外科医がかれの頭蓋骨に穴をあける手術をおこなった。傷は2インチ4分の3の深さにたっしていた。右の頭蓋骨が砕かれ、破片が脳髄につきささっていた。脳膜は傷つき、脳髄の一部が破れ、くだかれていた。かれは「驚くべき力で手術にたえた」が、しかし意識をとりもどしはしなかった。そして22時間以上も、死と格闘した。ナターリヤは「涙の枯れた目で、両手をしっかり握りしめながら」、かれが昏睡から目ざめるのを待ちながら、夜も、昼も、ずっとかれを見まもりつづけた。かの女が覚えているかれの最後のメッセージは、つぎのとおりである・・・「わたしは政治的暗殺者が・・・わたしの書斎で、わたしに打ちおろした・・・打撃のため、死に瀕している。わたしは、かれと闘った・・・われわれは・・・フランスの統計について、話し・・・はじめた・・・かれはわたくしを打った・・・われわれの友人たちにつたえてくれ・・・わたしは・・・第四インターナショナルの・・・勝利を・・・確信する、と・・・前進せよ」。かれが口授をはじめたとき、かれはまだ明らかに、自分にたいする暗殺企図の説明といっしょに、政治的メッセージも口授することができるとおもっていたのである。だが、ふいにかれは、自分の生命が消えかけているのを感じた。そこで、その説明は中断して、自分の支持者たちに、急いでかれの最後の激励の言葉をあたえたのである・・・
みんなかれを持ちあげた。かれの頭がかれの肩にたれた。両の腕は、ちょうどティツィアーノの「十字架から降ろされるキリスト」のなかの腕のようにたれた。死にいくひとは、茨の冠のかわりに、包帯をまかれていた。かれの顔立ちは、その純潔と誇りをとどめていた。かれはいまにもまた真直に立ちあがって、ふたたびしっかりとした意識を持ちそうにおもえた。
1940年8月21日、午後7時25分に、死が訪れた。検屍の結果、「脳髄は異常な大きさ」で、2ポンド13オンスあった。「心臓もまた、非常に大きかった」。8月22日、メキシコの慣習にしたがって、トロツキーの亡骸をいれた霊柩車のあとから、葬式の大行列が市の繁華街を、そしてまた労働者階級の郊外地区を、ゆっくりすすんだ。労働者階級の郊外地区では、ぼろをまとい、裸足の群衆が、黙々として舗道を埋めた。アメリカのトロツキストたちは、亡骸をアメリカへもっていこうとした。だが、国務省は死んだトロツキーにたいしてすら、査証を拒否した。亡骸は5日間、まつられていた。およそ30万の男や女たちが、そのまえを、列をなしては過ぎた。街々には、無名の吟遊詩人がつくった民謡、「レオン・トロツキーの挽歌」がこだましていた。
8月27日、亡骸は火葬に付された。遺骨はコヨアカンの「小要塞」の地面に埋められた。墓の上には、白い長方形の石碑が建てられて、その上に赤旗がかがげられた。
ナターリヤはこの家で、さらに20年暮すのである。毎朝、起きあがると、かの女の目は、中庭の白い石に向けられるのだった(アイザック・ドイッチャー「追放された予言者・トロツキー」新評論社・担当訳者山西英一・1964年)。



ハイメ・ラモン・メルカデル・デル・リオ(スペイン語: Jaime Ramón Mercader del Río)またはジャウマ・ラモン・マルカデー・ダル・リオ(カタルーニャ語: Jaume Ramon Mercader del Río、1914年2月7日 - 1978年10月18日)は、スペイン生まれのソビエト連邦のスパイ。ソ連では、ラモン・イワノヴィチ・ロペス(Рамон Иванович Лопес)と呼ばれた。レフ・トロツキーを暗殺したことで知られる。ソ連邦英雄。通常は母親の姓の一部を省略したメルカデール・デル・リオと表記されることが多い。スパイとしては、「ジャック・モルナール(Jacques Mornard)」、「フランク・ジャクソン(Frank Jacson)」という偽名を持っていた。

逮捕後、メルカデルはシルヴィアとの結婚を拒否されたための私的な報復だと主張して一切の証言を拒否した。8月22日、「プラウダ」紙は、「暗殺者はジャン・モーガン・ワンデンドラインと自称し、トロツキーの信奉者かつ側近である」として関与を否定した(この時点で、事件の詳細はまだ報道されていなかった)。メルカデルは、犯行の状況を除いて自供を拒み続けた。メキシコの裁判所は彼に最高刑の懲役20年を言い渡した(メキシコに死刑は無いため)。メルカデルは獄中で、歴史が必ず自分を高く評価するだろうと主張し続けた。しかし、指紋の分析から1950年の9月になってメルカデルの正体がようやく突き止められた。服役期間中も仮釈放を条件に真実を明らかにするよう説得が試みられたが、メルカデルはこれを拒否して刑期満了まで服役した。1960年5月6日に釈放されてキューバに移送され、その後チェコスロバキア経由で秘密裏にソ連に送られた。同年5月31日、メルカデルにソ連邦英雄の称号、レーニン勲章が授与された。ソ連では、ソ連共産党中央委員会附属マルクス・レーニン主義大学職員として働いた。しかし時はすでにスターリンの死後であり、上司のエイチンゴン、スドプラトフは既に失脚・投獄されていた。当然、メルカデルも逮捕はされなかったが事実上厄介者扱いだった。そのため、彼が希望していたソ連共産党への入党は拒絶された(メルカデルの所属は終生スペイン共産党のままだった)。失望した彼は1970年代中盤、フィデル・カストロの招待によりキューバに移り、キューバ外務省顧問となった。彼は呼び寄せた母カリダドと共にハバナで暮らし、カリダドの死から3年後の1978年10月18日に肺癌のため死去した。メルカデルの遺体は未亡人の要望によりモスクワに移され、クンツェヴォ墓地に「ラモン・ロペス」として葬られた。また、ルビャンカにあるKGB博物館には彼を顕彰した一角がある






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