日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Route vers la démocratisation de la Corée/Road to Democratization of Korea/한국 민주화의 길/韓国民主化への道・Di-Myonkuwan지명관池 明観⑥


*한일 분쟁日韓問題은 주로 대한민국 및 조선민주주의인민공화국과 일본 사이의 각종 분쟁을 가리킨다. 


日韓問題指日本和朝鮮半島(大韓民國與朝鮮民主主義人民共和國)之間的問題。大和民族和朝鮮民族有深厚且複雜的文化交流、商貿往來、戰爭歷史,形成現今它們間的特殊關係。因為地理位置鄰近,朝鮮民族在古代常會移民至日本[1] ,思想文化交流很風行。問題分為五方面:朝鮮日治時期 靖國神社 慰安婦 歷史教科書 獨島等島嶼主權
日韓関係の未来
1995年は日本にとって終戦または敗戦50年、韓国にとっては解放そして南北分断50年であるとともに日韓条約30年でもある。日韓条約が韓国国民の抵抗にあいながら、軍部政権によって強行されたことからくる後遺症については、すでにのべた。今後日本が北朝鮮と国交再開の条約を結ぶとすれば、日韓条約が多くの点で再検討を迫られるであろう。
日本の戦後賠償の問題はドイツの場合とよく比較される。1995年現在、純粋に賠償として支払われた総額は日本が37億6000万ドルであるのに比べて、ドイツはその約8倍、301億ドルであると報道されている(『東亜日報』1995年5月8日)。
しかも補償の問題では、たとえ国家間においてある妥協が成立したといっても、民間レベルにおける戦争被害者に対する個人的補償の問題はそのまま残るといわねばならない。ドイツが、国家に対する補償と市民個人に対する補償を区別して、それぞれに対応しているのもよい例であろう。特に国家衰退期といわれる現代において、市民個人の被害を無視することはできない。新しい時代には確かに市民と市民が手を取りあわねばならない。
一方われわれは、過去のことが清算されなくても、日韓両国のあいだで展開されている歴史に注目しなければならない。過去のことが清算されるためにも、あらゆる領域における交流はいっそう推進されるべきである。歴史の清算を交流の基点とするよりも、交流と連帯のなかで清算を可能にするという発想が、今日における問題の取り組みようである。それがリアリスティックな道である。
日本と韓国のあいだにおいて、日韓条約の締結が決して問題の全面的解決にならなかったことは何度も言及してきた。しかしその条約以降日韓関係が急速に進展してきた事実に目を背けることは許されない。日韓はおたがいにもっとも重要な経済関係におけるパートナーとなっている。94年度の輸出入の総計を見れば、韓国の対日輸出は135億2300万ドルで、対日輸入は253億9000万ドルである。韓国の対日輸出は135億2300万ドルで、対日輸入は253億9000万ドルである。韓国の入超は続いている。1965年の日韓条約以来、対日貿易累積赤字は1994年までで943億5600万ドルに達している。
日韓両国のあいだにおける経済関係はいっそう強化されるものと展望される。両国のあいだにおける人的交流も増え続けている。1994年の日本法務省出入国管理局の統計によれば、日本に入国した韓国人は105万1865名であり、韓国に入国した日本人は164万4097名である。これらの数字は韓国人の外国への出国者あるいは韓国への外国人入国者の約半数またはそれを超えている。
日本には政治的に強い反動的な動きがあることは、韓国にもよく知られている。しかし両国のあいだにおけるこのような国際的な流れをくい止めることはできない。われわれがなしうることは、歴史の進展に前向きに賢明に対応することである。それを怠り再び誤った姿勢を続ければ、いつかまた問いつめられて、新しい時代に共に参加することができなくなるだけである。日本の反動化は日本が世界的に尊敬を失うだけの、世界が注目している単なる日本的喜劇であろう。私が憂えているのはこのような日本の孤立である。そのような孤立が歴史の激動を起こすことはない。不幸なアクシデントが起こる可能性があるだけである。

私は20年間日本にいて、1993年の春に帰国し、韓国のいちじるしい変化に驚いた。そして多くの問題があるにもかかわらず日韓のかかわりあいが、あらゆる分野で深まったのを肌で感じて、かえって戸惑った。これからの20年のあいだにはどうなっていくことだろうか。もっと歴史のテンポは速くなるというのに、私が東京で別れるときに若い人たちに言い残したことばが正しかったと思っている。
「紀元2000年代に入れば東京を新幹線で出発して、下関または博多から釜山、ソウルになるだろう。そのような超高速電車の旅ができる。かつての日本人は、あまりにも性急に戦争と侵略によってそのような日が実現できると思ったのかもしれない。しかも日本の支配の下で。しかしそれはだめだった。これから人間の善意による交流でそれが実現するだろうと、私は思っている。」
そして私は若い人びとはそのような時代の主人公であることを忘れてはならない、といった。その時代のなかで生きていくべき人びとは、かつての国家主義時代を生きてきた人びととは違うであろうし、違ってこなければならない。そのときには朝鮮半島こそ東アジアのかけ橋であるといえるかもしれない。朝鮮半島に住む人びともそれに見あう発想と品位を身につけねばなるまい。その意味では、日韓両国の若い人びとは、自己教育に向けて同じ要請の下に立たされているといえよう。
平和のかけ橋
歴史的に見れば、東アジアが平和であったときに、朝鮮半島も平和であった。朝鮮半島が平和であったときには、東アジアも平和であった。そこで私は、668年に新羅が三国を統一して朝鮮半島に平和がもどってきたとき、唐と統一新羅と古代日本とのあいだに平和が根づき、美しい文化の交流があったことを指摘してきた。それ以前、高句麗、百済、新羅の三国が朝鮮半島で覇を争ったときには、東アジア全体が戦国時代のように乱れた。
近代の歴史においてもそうであった。日本が大陸を侵略しようとしたとき、朝鮮半島では日清、日露の戦争があり、朝鮮半島にも東アジアにも平和はなかった。そのあげくの果てが、第二次世界大戦後には、朝鮮半島の南北分断であり、朝鮮戦争であった。大陸の中ソ、日米がたがいに対立している限り、朝鮮半島は決して平和でありえなかった。
その悪夢の時代が過ぎ去ろうとしていると、私は幻を見続けている。またわれわれはその幻を実現させねばならないと思っている。ここにおいて韓国と中国の関係についても触れねばなるまい。朝鮮と中国は統一新羅以来1千年以上、平和と友好の関係を続けてきた。その長い歴史において朝鮮を侵略してきたのは元であり清であった。中国自体もそれらのいわゆる塞外民族によって何度か支配された。
*대원대몽골국(大元大蒙古國), 또는 원(元)은 13세기 몽골 제국이 세운 국가이다. 보르지긴 가문의 수장이었던 쿠빌라이 칸이 창건하였다. 송나라를 멸망시키고 중원의 지배 세력으로 떠올랐으나, 이후 쇠퇴를 거듭하여 주원장이 세운 명나라에게 밀려 북쪽으로 쫒겨난다.
*대청국(大淸國, 만주어: ᡩᠠᡳᠴᡳᠩᡤᡠᡵᡠᠨ Daicing Gurun, 1636년 4월~ 1912년 2월 12일), 또는 대청제국(大淸帝國),[1] 청조(淸朝),[2] 약칭 청(淸)은 후금의 후신으로, 중국 역사상 최후의 통일 왕조이다. 청나라는 1618년에, 여진(만주어: ᠵᡠᡧᡝᠨᡤᡠᡵᡠᠨ Jušen Gurun)의 영명한(英明汗, 만주어: ᡤᡝᠩᡤᡳᠶᡝᠨᡥᠠᠨ Genggiyen Han)이었던 누르하치가 건국한 대금(만주어: ᠠᠮᠪᠠᠠᡳ᠌ᠰᡳᠨ Amba Aisin)을 근간으로 하는데, 누르하치의 아들 태종 숭덕제가 대금에서 대청(만주어: ᡩᠠᡳᠴᡳᠩ Daicing)으로 국호를 바꾼 뒤 중국을 통일한 국가로 떠올랐다.

近代以降、東アジアの平和が破れ、第二次世界大戦後、朝鮮半島が南北に分断されると、韓国と中国は対立関係に入った。しかし1992年、韓中間に正式に国交が結ばれ、両国関係は急速な展開を見せ始めた。この関係を経済的な面で見ると、正式に修好する直前の91年度における両国の交易量は44億4400万ドルであったが、94年度には116億6600万ドルに伸びた。92年度は韓国の入超であったが、93年度からは出超が続いている。
朝鮮半島は近代以前において長いあいだ儒教的文官社会であった。朝鮮朝はいわば非武装の国ともいえた。それで朝鮮は日本の近代的軍事力の前にまったく無力で、敗れざるをえなかった。その時代は朝鮮半島は力の真空状態にあったといえよう。そこで朝鮮半島の運命は軍事力のある大国によって決定された。第二次世界大戦の終結とともに朝鮮半島の運命は米ソによって決定された。
このような歴史も20世紀とともに去り行くといわざるをえない。朝鮮半島は軍事力においても真空ではないといえるが、今日においては軍事力がそれほど問題なのではない。経済力を含めた国民の力というものを考えるべきであろう。そのなかには国民の知力や道徳力までも含まれるに違いない。
そういった観点からながめたとき、6700万の人口を数える朝鮮半島は決してその国力において真空ではない。近代以降初めて、朝鮮半島は自らの国力によって自らの運命を決定しうるようになったと、いえるのではなかろうか。やがて南北朝鮮がともにこの国力を認識して、自らの運命を決定しようとするだけではなく、新しい東アジアの平和と共同体づくりのためのかけ橋になりうることを自覚するようになるであろうと、私は思っている。くり返す朝鮮半島の平和は東アジアの平和のための鍵である。東アジアに平和を生み出すこともできると、6700万の朝鮮民族が自覚する日がくることを祈りたい。そこに向かっていま東アジアの歴史は激しく動いているのかもしれない。
東アジアの平和が乱れるもとになった国が、東アジアの平和を生み出す国となる。朝鮮半島が地球のこの一角をしっかり守り、東アジア共同体づくりに貢献する。このような歴史の逆転もありうると、実は長いこと朝鮮民族は考えてきた。苦難のなかで恨(ハン)に満ちたアリランの歌を口ずさみながら、その夢を捨てようとしなかった。それが朝鮮民族が平和に、幸せに暮らせる道でもあったのだから。かつて咸錫憲は「聖書的立場から見た朝鮮史」(1937年。日本語訳『苦難の韓国民衆史』1963年)のなかで、「韓国の歴史は苦難の歴史」であるといって、朝鮮を「受難の女王」になぞらえ、この名誉をつぎのようなことばで結んだ。
この民衆がやるべきことは、生存権の主張ではなく真理の主張だ・・・韓国の心臓の上にこの真理の武装が完備される日は、彼は新時代の勇士である。
これはアジア大陸の東端の半島に住みついた朝鮮民族が、その地政学的な運命を自覚的に生きていこうとする決意の表明であるといえるかもしれない。

あとがき
もともと「韓国」を書こうとしたときは、この本の内容とは異なるものを頭に描いていた。2年半前、20年ぶりに韓国に帰ってきたとき、私は巡礼者のつもりで韓国の隅々まで訪ね、<祖国賛歌>のようなものを書きたいと思った。軍部統治を避けて東京の空の下で懐かしんだ地である。今は思う存分その山河を歩いて、人びとの物語を、できればまだ残っているはずの美しい話を書き綴ってみたいと思った。
しかしいつも、与えられる人生は、思っていた人生とは異なるものであった。また雑用の多い日々を過ごすようになって、最初の計画は修正を迫られた。
そうすると東京で書きたいと思いながらも、果たせなかった、もっと心の奥底にあったものが頭をもたげてきた。1945年以来、国土が南北に分断されて歩んでこざるをえなかった悲しい歴史のことである。少なくとも私が住む南の韓国については同時代史を書くことができるではないか。

分断の時代ゆえに多くの才能ある善良な人びとが非命にたおれていった。ドイツの詩人、ベルトルト・ブレヒトの見た夢のことを思った。彼は友だちよりは生きながらえた。すると夢のなかで「強いやつが生きのびるんだ」という友人の声を聞いて、「自分を憎む」と告白したのであった。解放50年の歴史のなかから、私に向かって、無数のこのような声が聞えてくるような気がしてならない。
そうだ、「韓国」を彼らに向けてのレクイエムとして書くのだ、と思ったとき、高ぶる心を迎え難しかった。彼らの戦いは政治的暴力に向かっての、絶えざる戦いであった。その歴史はあたかも同語反復のように見える。それでも書きつづけなければならない。またブレヒトの詩句が浮かんできた。
・・・きみたち、ぼくたちが沈没し去る高潮から、うかびあがってくるだろうきみたち、思え、ぼくたちの弱さをいうときにこの時代の暗さをも、きみたちがまぬがれた暗さをも(野村修訳『あとから生まれるひとびとに』から)。

*베르톨트 브레히트(독일어: Bertolt Brecht, 1898년 2월 10일 ~ 1956년 8월 14일)는 독일의 극작가, 시인, 그리고 연출가다. 주로 사회주의적인 작품을 연출했으며, 낯설게 하기라는 개념을 연극 연출에 사용한 것으로 유명하다. 표현주의를 거친 신즉물주의적(新卽物主義的) 스타일로, 현실에 대한 가차 없는 비판과 풍자를 극화한 니힐리스트이다. 후에 사회주의자가 되었다.
レクイエムはつぎの時代、「あとから生まれるひとびと」に向けての証言でもある。またわれわれの「弱さ」に対する告白であり「友愛の地を準備しようと」しながらも「友愛」を示しえなかったことへの侮恨である。
同時代史を書くのは困難な作業であった。膨大な資料に圧倒されることもさることながら、暗い時代であったがゆえに、何よりも恨(ハン)に悶える心を鎮めるために努めねばならなかった。
「あとから生まれるひとびと」はもっと客観的に書くことができるであろう。しかしそれはわれわれの歴史ではないと、この時代を生きたひとびとは、か細い声で呟くかもしれない。
韓国の解放50年史も強権的な国民国家の時代という暗い世界史のひとこまだと、私は考える。今は韓国もそこから抜け出していわゆるポスト・ナショナルな時代に踏みこもうとしている。しかし一方では分断された国土の統一という課題を前にして悩み続けなければならない。まだまだ暗く悲しい歴史を引きずっていくのであろうか。もしそうであれば『韓国 民主化への道』はいっそう深く省みられなければなるまい。
                     1995年10月1日   池明観

































×

非ログインユーザーとして返信する