日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Gim Ilseong김일성金日成・Kim Jong-il김정일 金正日『김일성 후 한반도/마에다 야스히로 (저)』/【Korean Peninsula after Kim Il Sung /Yasuhiro Maeda (Author)】/<金日成後の朝鮮半島 / 前田 康博(著)>②


第1部 金主席の死去で朝鮮情勢は変化するか
第1章 金日成時代の終わりが意味するもの
【朝鮮式の権力継承方式を編み出す】
北朝鮮は社会主義圏で前例のない父子後継体制を早くから確立し、高齢の国家元首の「亡きあと」の準備を整えていた。中ソなど社会主義各国は指導者の死去時に例外なく権力闘争を引き起こし、そのため社会主義建設路線を大きく後退させるという失敗を重ねてきた。
朝鮮革命を「代を継いで完成させる」としてきた金主席は、きたるべき自分の死に、国内を混乱させる愚を避けるための施策を慎重に実行に移した。

20年余の歳月をかけた子息、金正日書記および若手幹部の育成がそれであり、抗日武装闘争から対米戦争(朝鮮戦争)を戦った革命第一世代である老幹部と、革命第二世代の後継幹部群の役割をはっきりと決め、自主・自立・自衛の主体(チュチェ)思想を通じて軸にして一致協力させてきた。このように見ると、北朝鮮指導部は主席の死去にも動ずることなく綿密に練り上げられた初期の計画どおり事を運んでゆくことはまちがいない。

[2019/05/28]ゴーマニズム宣言SPECIAL大東亜論 最終章 朝鮮半島動乱す!Déclaration du gomanisme SPÉCIAL Daitoa Theory Chapitre final La péninsule coréenne bouleversée! Auteur Yoshinori Kobayashi 고마 니즘 선언 SPECIAL 대동아 론 마지막 장 한반도 동란 있습니다!  저자 고바야시 요시노리  Shogakukan株式会社小学館주식회사 쇼가쿠칸
Le Japon a commencé à avancer en tant que nation moderne avec de nombreux problèmes. Cependant, les puissances occidentales érodent l'Asie avec une force formidable... L'histoire de Mitsuru Toyama et Genyosha, qui ont tenté de collaborer avec l'Asie et de contrer l'impérialisme occidental수많은 문제를 안고 근대국가로 걷기 시작한 일본. 하지만 서유럽 열강은 맹렬한 기세로 아시아를 침식해… 아시아를 연계시켜 서양의 제국주의에 ​​대항하려고 한 두산만과 현양사의 이야기.
日本などで見られる後継政権の安定度を懸念する意見にはまったく根拠がない。金主席死去のタイミングがあまりにも劇的だったために、危機感をもって受け止めることは一般にあることだが、死去を契機に混乱が起きると強調することは、朝鮮半島情勢の先行きを煽る挑発的な意図から出たものというほかない。

朝鮮半島情勢が安定し平和な方向に向かうか、あるいは軍事的な緊張状態が激化するか、の判断材料は、北朝鮮国内だけにあるのではない。

米国や韓国、さらに中国、ロシア、日本など周辺諸国の対応という多数の要因がからみ合っており、金主席死去は大きな出来事とはいえ、激変をもたらす唯一の要因ではない。ひとまず北朝鮮の後継体制を見守ってから行動するとう周辺諸国の対応は、一つの政策ではあっても賢明な策とは限らない。むしろ積極的に安定を促すための対話路線の拡大が求められる。ところが北朝鮮内部の「安定」を期待する声に対して、何らかの「変化」が起きるのは不可避だと、むしろ混乱を求める危険な声が錯綜している。
こうした中、94年6月から7月にかけて、クリントン大統領は対北朝鮮政策において、カーター米元大統領の訪朝と迅速な弔意表明という賢明な選択を行なったといえるだろう。

*윌리엄 제퍼슨 클린턴(영어: William Jefferson Clinton, 본명은 윌리엄 제퍼슨 블라이드 3세·William Jefferson Blythe III, 문화어: 윌리암 클린톤·빌 클린톤, 1946년 8월 19일 ~ )은 1993년부터 2001년까지 재임한 미국의 제42대 대통령이다. 46세의 나이로 대통령이 된 그는 역대 미국 대통령 중에서 세 번째로 젊은 대통령이었다. 그는 냉전이 끝난 시대에 대통령이 되었고, 첫 번째 베이비 붐 세대 대통령이었다.[1]

【カーター訪朝と親米交渉の進展】
韓国に立ち寄り金泳三大統領と十分話し合い、6月15日、板門店から平壌入りしたカーター氏の行動は米CNNテレビによって米国に伝えられ、制裁実施は不可避という緊迫した状況は一気に変化した。
6月初旬の朝米関係は前例のないほど険悪な時点にさしかかっていた。国際原子力機関(IAEA)が、北朝鮮の実験用原子炉の燃料棒が一方的に交換され、核物質の検証が不可能になったと主張したため、国連安保理で米、英、日など共同提案の経済制裁案の審議が最終段階に入った。6月10日、IAEAの定例理事会が北朝鮮に対する「機関協力を中断する」という初の制裁決議を採択、13日には北朝鮮側がIAEAからの即時脱退を発表、国連安保理に大きな衝撃を与えた。
*국제원자력기구(國際原子力機構, 영어: International Atomic Energy Agency, IAEA)는 원자력을 군사적인 목적으로 이용하는 것을 막고 평화적인 목적의 이용을 장려하기 위해 1957년 7월 29일에 설립된 국제 연합 산하 독립기구이다. 본부는 오스트리아 빈에 있다.
カーター氏は、金主席との会談を通じて、主席から同国に滞在しているIAEA査察官に今後も寧辺の実験用原子炉の燃料棒交換作業の監視続行を認めるとの約束を取りつけた。これで米国が朝米交渉再開の前提としてきた「安全保障措置の継続」が保持されたことになり、話し合い解決への大きな前進となった。

また金主席は朝米間の信頼の危機を克服することが問題解決の鍵であると述べ、カーター氏の訪朝が「信頼関係を築く第一歩となった」と高く評価した。
この柔軟な対応がただちにワシントンに伝えられ、クリントン米大統領がすぐ記者会見で、「北朝鮮が核開発を当面、現状のまま「凍結」する意向を表明した。それが確認されれば、朝米会談第三ラウンドを開催する」と発表した。

上下議会の強行派や国防総省、中央情報局(CIA)など制裁を主張する勢力を前に窮地に立っていた同大統領と穏健派はカーター氏の手腕に賭けていたふしがある。
カーター訪朝の成果は、同氏自身が米国のマスコミに公表した以下の点に含まれている。
同氏によると、北朝鮮は①原子炉が黒鉛減速炉から核兵器への転用が容易ではない軽水炉への転換と、②朝鮮半島の非核化を望んでおり、米国と考えが一致した。①②は朝米高官会談の再開にかかっているーと金主席との会談の内容を説明した。
また「核問題が解決できれば、米国は北朝鮮との国交を正常化するだろう」と強い期待を表明しながら、「北朝鮮は核拡散防止条約(NPT)から脱退しておらず、将来、全面的に復帰することを期待している」と語った。
*핵무기의 비확산에 관한 조약(核武器-非擴散-關-條約, Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons), 약칭 핵확산방지조약(核擴散防止條約, Non-Proliferation Treaty - NPT, 문화어: 핵무기 전파 방지 조약(核武器 傳播 防止 條約))은 핵무기를 보유하지 않은 나라가 핵무기를 갖는 것과 핵무기 보유국이 비보유국에 핵무기를 제공하는 것을 금지하는 조약으로, 핵확산 금지 조약이라고 불리기도 한다.
そして「朝米双方の外相会談が望ましい。クリントン大統領と金主席が近い将来に会談することを期待するが、それまで私が協議の助けになりたい。北朝鮮側も私を信頼している」と今後も継続して仲介の労を取る意思を明らかにした。この言明は主席死後も朝米対話継続への好ましい要素となって働いた。
金主席が①南北の兵力を10万人まで相互軍縮し、②在韓米軍数も相互軍縮の中で減らす、③南北間の非武装地帯を拡大、双方兵力を後退させ、軍事境界線を限定的に開放するーを提案し、クリントン政権が「北朝鮮は協力」との感触を固めたとみられている。

【弔意表明と対話継続のシグナル】
クリントン大統領は7月9日、ナポリで訃報が流れた3時間後に早くも追悼声明を発表し、北朝鮮側に対し哀悼の意を表し、「我々は米政府との対話再開に際して発揮された金主席のリーダーシップを高く評価しており、北朝鮮がこれを適切に継承することを望んでいる。また米朝協議が適切に再開されると期待し、それが両国の利益につながると信じる」と述べた。カーター氏も「深い悲しみ」を述べた。だが他方、一部の米情報誌は朝米会談開催など「不思議に時期が一致している。自然死とは考えにくい」と述べ、何らかの内部抗争による死亡の可能性がある、との見方を示した(ワシントン8日共同電)。これも米国の軍部を軸とする対北強硬策を主張する勢力の意向を代弁したもので自然死を疑わせる何らの根拠もない時点で、敵対的な意図をもって日本でも流された。北朝鮮との平和的な話し合い進展を望まない日本の識者の間でも、ことさら自然死でないことを強調する談話が目立った。ナポリで入院中の村山首相は「深甚なる弔意を表したい」というコメントを発表した。
*무라야마 도미이치(일본어: 村山 富市(大分県出身, 문화어: 무라야마 도미이찌, 1924년 3월 3일 ~ )는 일본의 정치인이다. 오이타현 오이타시에서 태어났고 제81대 내각총리대신과 일본사회당 위원장, 사회민주당 당수를 역임했다.
金主席が最後に公式の席に姿を現したのは7月1日、在平壌ヨルダン大使の信任状を受理した時といわれている。日本社会党筋は「金主席が翌2日から入院していたのではないか」という見方をしていた(「毎日新聞」7月13日付)。この入院が事実とすれば、死去まで1週間経過しており、万一の事態に備えて金正日書記ら後継指導部は十分な対応をしてきたと推測できる。さらに後継問題決定についても社会党筋は「混乱はない」との判断を固めていた。これも同党が長年、北朝鮮との独自のパイプを維持してきたからであり、日朝関係においても、敵対的な対応より的確な情報収集と相手を理解しようとする地道な話し合い経緯の継続が重要性であることを改めて教えてくれる。
*일본사회당(일본어: 日本社会党)은 제2차 세계 대전이 끝난 1945년에 무산정당 계열의 정치세력을 규합해 발족한 일본의 사회민주주의, 진보주의 정당이며, 1996년까지 주로 제1야당의 위치에 있었다. 약칭은 사당 또는 사회이다. 1996년에 당의 명칭을 사회민주당으로 개칭하였다.
自民、新党さきがけが13日、三党合同で弔問団を8月中旬にも北朝鮮に派遣する方針を決めたことも、新政権の対北朝鮮政策を占う上で各方面から歓迎されるところだろう。
*자유민주당(일본어: 自由民主党 지유우민슈토[*], 영어: Liberal Democratic Party, LDP), 약칭 자민당(일본어: 自民党 지민토[*])은 1955년에 자유당과 일본민주당이 합쳐져 창당된 일본의 보수주의[18] 정당이며 2021년 현재 총재는 스가 요시히데, 간사장은 니카이 도시히로이다.
*신당 사키가케(新党さきがけ)는 일본의 없어진 정당이다. 보수주의, 개혁주의, 생태주의 색체를 띄었다. 자유민주당에서 분당된 정당이다. 사키가케는 일본어로 "선구자"를 뜻한다.

【韓国世論の分裂、根強い反共意識】
北朝鮮が混乱するという大方の予測を裏切って、金主席の死去による衝撃波はソウルに混迷をもたらした。

同じ民族の指導者として弔意を表明するか、朝鮮戦争の責任者として無視するか、こんな論争で韓国世論は二分された。2日後の7月11日、国会で野党民主党議員が、「我が民族には弔問政治という伝統がある。首脳会談の相手と認めたのだから弔意を示すべきだ。米日の意識も弔意を表しているのに韓国政府はどうするのか」と金泳三政権の見解をただした。
*반공주의(反共主義, Anti-communism) 또는 반공산주의(反共産主義)는 공산주의의 이데올로기 및 그 이데올로기가 따르는 것에 반대하는 것을 말한다. 

在野団体や学生組織も同じような対政府要求を出した。だが朝鮮戦争の際の犠牲者遺族や北朝鮮から南下した人々が弔問反対を掲げ、野党議員を糾弾する大会を開くなどこれまでにない混乱を重ねた。大統領の与党民自党は「首脳会談を望むことと金日成の歴史的な過ちの評価は区別すべきだ」と主張した。金泳三大統領が弔意はもとより、この事態に沈黙を守ったことも混乱に軸をかけることになった。首脳会談の相手の急死であり、重大な転換期を迎え、何らかの見解表明があるのが自然だが、反共主義に凝り固まった国内の強硬派からの反撥を恐れて、貝のように口を閉ざしてしまった。
*민주당(民主黨, Democratic Party)은 평화민주당이 확대개편된 신민주연합당과 삼당합당에 반대한 통일민주당 잔류파 등의 민주당의 합당으로 1991년 9월 16일 창당되었다.
北朝鮮の金容淳書記(最高人民会議統一政策委員長)は主席死去発表2日後の11日、韓国の李洪九副首相兼統一院長官に通知文を送り、南北首脳会談の延期を通告した。服喪期間であり、あくまでも会談当事者の死去という突発事態のための単なる延期の申し出だったが、奇妙なことに弔意問題とは別に、韓国内では金主席死去で南北首脳会談が自然倒壊したとの見方が中心となった。米日中などがいち早く弔意を示し、後継体制を対話相手として動いているにもかかわらず、なぜ韓国政府は南北対話を振り出しに戻そうとしたのだろうか。
*김용순(金容淳, 1934년 7월 5일 ~ 2003년 10월 26일)은 조선로동당 비서를 지낸 조선민주주의인민공화국의 외교관 겸 정치인이다. 김일성종합대학 국제관계학과를 졸업하였으며, 북한 동남부의 지방관리를 거쳐, 이집트 대사, 조선로동당 국제부부장, 조선로동당 대남담당 비서 등을 지냈다. 다시 조선로동당 국제부장이 되었다가 1991년 당 통일전선부장으로 자리를 옮겼다.
*이홍구(한국 한자: 李洪九, 1934년 5월 9일 ~ )는 지난날 서울대학교 교수·영국 주재 대한민국 대사·대한민국 제28대 국무총리 등을 지낸 정치인이다. 본관은 전주(全州)이며 호(號)는 효당(曉堂)이다.

もともと米国にすべてを委ねていた韓国政府は、当事者能力を放棄したまま朝米交渉決裂のみを想定して、日本と連携した対北制裁作りに狂奔した。そしてカーター訪朝自体を不快なものと受け止めていた。金泳三大統領はカーター氏に南北首脳提案を平壌に伝達するよう依頼したといわれるが、金主席の受諾を予想していなかったか、あるいは提案そのものが本心からのものでなかったかのいずれかだろう。
「儒教を重んじる韓国では年下の金正日書記との会談のために、年長の金泳三大統領が平壌へ出掛けることはないだろう」と谷野作太郎・内閣外政審議室長が持ち出した奇妙な論理で、南北対話を停滞させようとする韓国に「支援」を送っている(「毎日新聞」7月13日付)。
*다니노 사쿠타로(일본어: 谷野 作太郎(東京都出身, 1936년 6월 6일 ~ )는 일본의 외교관이다. 1964년 주홍콩 일본총영사관 부영사, 1984년부터 1987년까지 주대한민국 공사[1][2], 1995년부터 1998년까지 주인도 특명전권대사, 1998년부터 2001년까지 주중화인민공화국 특명전권대사를 역임했다.


【北バッシング変えない日本の言論】
日本の新聞論調は、北朝鮮に関して大きな事件が起きたときに例外なく過剰反応する習性を持っている。そして米韓両国からの根拠のない情報や憶測に基づいた分析と解説を載せるのが通例となっている。その多くは北朝鮮への敵意むき出しか、あるいは謎の国、危険な国との先入観をあらわにした侮蔑的な言辞でいろどられている。
死去のニュースが流れた翌10日の朝刊報道の一部を取り上げてみると、
▽産経新聞
「金主席の死去は北朝鮮のよき「変化」につながるより、当面は悪い結果を生む可能性が強いと見られる。最悪のシナリオは、北朝鮮指導部の求心力が一気に低下し、すでに進行中の経済危機が重なって、冒険主義に出てくるケースだ。少なくとも「改革開放路線」が加速されるとみる根拠は何もない」
▽西日本新聞
「平壌政権の内部のことは極めて分かりにくい。金日成主席・外務省グループ(柔軟派)と、金正日書記・軍部(強硬派)との間で主導権争いがあったとみる専門家は少なくない」
▽北海道新聞
「金書記の指導力は未知数であり、必ずしも一枚岩でない中枢を、金日成主席のようにまとめていく強い指導力があるかどうかは即断できない。再び韓国体制を敷き、外部の混乱勢力を権力排除し、国際的な緊張関係を利用して体制生き残りを図る可能性も排除できない」

*산케이 신문(일본어: 産経新聞 산케이신분[*], 영어: Sankei Shimbun)은 일본의 신문사 가운데 하나다. 후지산케이 그룹의 일부분으로 후지 텔레비전이 40% 출자해서 설립했다. 업계에서는 여섯 번째로 발행 부수(219만부)가 많다.
*니시닛폰신문(西日本新聞)은 주식회사니시닛폰신문사(株式会社西日本新聞社)가 배급하는 일본어 일간 신문이다. 
*홋카이도 신문(일본어: 北海道新聞)은 일본의 홋카이도 신문사(株式会社北海道新聞社)가 발행하여, 주로 홋카이도 권역에 배포되고 있는 지방 일간 신문이다.

産経新聞のいう冒険主義の出てくる兆候もまったくないし、朝鮮式の改革開放路線が停滞するという根拠もない。いわば思い込みの悪意に満ちた、推測の域を出ない陳腐な反共解説に終始している。西日本新聞も強硬・柔軟両派の葛藤という十年一日のとらえ方である。
北海道新聞も根拠なく一枚岩でないことを指摘している。後継指導部は通常、突然出現するため指導力が未知数であることは当然であり、細川、村山首相などどれほどの指導力を持っているかは日本国民も確信が持てない。むしろ20年間も「帝王学」を受け、強力な指導力のもとで育てられた後継者を未知数ときめつけてみても意味がない。

*호소카와 모리히로(일본어: 細川護煕(東京都出身, 1938년 1월 14일 ~ )는 일본의 정치인이자 구마모토 번의 번주 가문이었던 히고 호소카와가(肥後細川家)의 제18대 당주로, 1993년 8월 9일부터 1994년 4월 28일까지 일본의 제79대 총리를 지냈다. 그의 외할아버지는 제2차 세계 대전 기간 동안 2번이나 총리를 지낸 고노에 후미마로이다.

*한국의 독립운동(韓國-獨立運動) 문서에서는 일제 강점기에 이뤄졌던 한국의 독립운동에 관해 설명하면서 한일 병합 조약 이전의 것은 제외한다.
第2章 抗日武装闘争の英雄
【波乱万丈の生涯】
60余年の間、朝鮮の人民を指揮した金日成主席は文字どおりの波乱万丈の生涯を送った。
1912年4月15日、農民の出で私塾教師の父、金亨稷と母、康磐石さんの3人兄弟の長男として生まれた。本名は金成柱、平壌郊外の大同江を臨む平安南道大同郡で育った。次弟、金哲柱氏は早く死に、三弟の金英柱氏は現在も72歳で国家副主席として健在である。
*김형직(金亨稷, 1894년 7월 10일 ~ 1926년 6월 5일[1])은 김일성의 아버지로, 독립운동가였다. 그리고 김보현의 아들이다.
*강반석(康盤石, 1892년 5월 7일(음력 4월 11일) ~ 1932년 7월 31일)은 김일성의 어머니로, 일제 강점기의 사회운동가이다.

*김철주(金哲柱, 1916년 6월 12일 ~ 1935년 6월 14일)는 일제 시대의 사람이다 본관은 전주. 김형직과 강반석의 아들로서 조선민주주의인민공화국 국가주석 김일성의 동생이다.
*김영주(金英柱, 1920년 9월 21일 ~ )는 일본 제국의 관동군인, 조선민주주의인민공화국의 정치인이다. 본관은 전주.
1919年、一家で満州(現中国東北部)に移住、途中、単身で平壌に戻り、小学校に入学した。26年、父が死去、翌年、成柱少年は吉林の中国人中学の毓文中学に入学した。その後、反体制活動に参加し、日本官憲に逮捕され、30年5月まで投獄された。31年9月、満州事変が起きたころ、間島(東満州)、長白山脈一帯を中心にした抗日パルチザン闘争に加わり、抗日遊撃隊を組織、このころから「金日成」の名を使うようになる。
34年、中国共産党が指揮する東北人民革命軍の中に朝鮮人遊撃隊を主力とする第二軍が新設され、その指揮官としてパルチザン闘争を指揮した。なかでも鴨緑江を越えてゲリラ攻撃をかけた普天堡襲撃事件(37年)、前田中隊全滅事件(40年)などが知られている。
*동북항일연군(東北抗日聯軍)은 1936년 중국공산당 지도 아래 만주에서 만들어진 항일투쟁을 주도한 군사조직이다. 만주에서 활동하고 있는 조선인과 중국인의 유격부대를 중국공산당의 주도로 통합한 군사조직이다. 조선민주주의인민공화국의 주요 인사였던 김일성, 김책, 최현, 최용건 등도 이 항일연군에 참여했다. 당시 만주에 있던 수많은 항일계열 군사조직 중에 제일 큰 세력을 형성하였다
*보천보 습격사건(普天堡 襲擊事件)또는 보천보 전투(普天堡 戰鬪)는 1937년 6월 4일 만주에서 활동하던 동북항일연군 소속의 최현, 김일성 부대와 박달, 박금철의 조국광복회 등이 함경남도 갑산군 보천면 보전리(량강도 보천군 보천읍)를 최현, 김일성 등이 일시적으로 습격하고 퇴각한 사건이다. 전과는 미미한 것으로 평가된다.[3][4]
*抗日パルチザン(こうにちパルチザン)とは、かつて日本の支配地域(植民地や準植民地、占領地等)で行われた主に共産党系の非正規軍の闘争、パルチザン活動、満洲に於けるテロ活動を指す。朝鮮民主主義人民共和国の建国神話における名目上の正当性の根拠とされている。

以後、日本の敗戦までの4,5年間、これら金日成部隊をはじめ朝中連合の抗日武装闘争は当時の日本と満州の軍部、警察当局を悩ませ、その植民地経営全体に大きな打撃を与えただけでなく、太平洋戦争遂行も狂わせる要素となった。
種々の調査によると、41年からソ連領内にゲリラ拠点を移し、ソ連極東軍とも協力し、ソ連軍大尉の待遇を受けたという。長年の同志、金正淑夫人と結婚(41年3月)、翌年2月に長男、金正日氏が生まれた。正淑夫人は49年9月に病死し、63年、金聖愛夫人と再婚した。


*김정숙(金正淑, 1917년 12월 24일 ~ 1949년 9월 22일)은 조선민주주의인민공화국의 독립운동가이자 공산주의자, 여성운동가이며, 정치가이다. 본명은 김정숙(金貞淑)이고, 함경북도 회령군 오산동 태생이다.
*김성애(金聖愛, 1924년 12월 29일 ~ 2014년 9월[2][3])는 조선민주주의인민공화국의 국가 주석이었던 김일성의 세 번째 아내로, 평안남도 강서군에서 태어났다.
日本の植民地支配下で有名をはせた「金日成将軍」は実在の人物だった。
1945年8月、日本の敗戦の後、33歳の金日成氏はソ連軍とともに凱旋し、同10月14日、平壌市民歓迎大会に初めて公式に登場した。このときソ連占領軍から朝鮮革命の英雄として紹介された。


まず朝鮮共産党北部朝鮮分局責任書記、北朝鮮臨時人民委員会委員長(46年2月)を務め、解放直後の多くの人材の中から頭角を表わす。同年10月、北朝鮮労働党が創立され、副委員長に選出される。
*북조선인민위원회(北朝鮮人民委員會, 영어: People's Committee of North Korea)는 소련의 6개월 간의 군정이 끝나고, 조선민주주의인민공화국의 모태가 된 기관으로, 사실상의 정부로서 운영되었다. 그래도 이때까지는 아직 태극기를 사용하였고 대한민국의 애국가가 사용되었으나, 1948년 7월부터는 태극기를 폐지했고 인공기로 교체했으며 애국가를 개정했다.
米国の引いた38度線の固定化が進み、その以前で大韓民国が成立(48年8月15日)すると、同年9月9日、朝鮮民主主義人民共和国を創建、36歳の若さで初代首相に就任し、ソ連の協力を得て社会主義建設に着手した。49年には朝鮮労働党委員長となった。
だが権力内部では金首相の直系だった甲山派、ソ連派、延安派、南朝鮮労働党派などの派閥が主導権争いを演じた。なかでも朝鮮戦争直後、朴憲永の率いる南朝鮮労働党との対立、ソ連におけるスターリン批判と関連したソ連派、および延安派との確執(56年)は金日成氏の存亡を賭けた闘争だった。
*갑산파(甲山派)는 조선민주주의인민공화국에 있던 정치 파벌이다. 갑산파의 명칭은 지명에서 따온 것으로, 보천보 전투가 일어났던 함경남도 갑산군의 명칭에서 비롯된 것이다. 갑산군의 국경지대는 1942년에 혜산군으로 분군되었고, 갑산파가 주로 활동한 곳은 만주 장백현 및 갑산군의 혜산, 운흥, 보천 지역으로 1942년에 혜산군으로 분군된 곳에서 활동이 많았다. 이들은 1930년대부터 활동해왔기에 자연스레 갑산파라는 명칭이 붙었다. 현재 량강도에 속해 있다.
*소련파(蘇聯派)는 조선민주주의인민공화국에 있었던 정치단체였다. 이들은 한국 전쟁과 8월 종파 사건 때 연안파와 함께 거의 대부분 숙청되었다.[1]
*연안파(延安派)는 조선민주주의인민공화국에 있던 공산단체였다. 소련파와 마찬가지로 1950년대에 숙청되었다.
*남조선로동당(南朝鮮勞動黨, 영어: Workers' Party of South Korea), 줄여서 남로당은 1946년 11월 23일 서울에서 조선공산당, 남조선신민당, 조선인민당의 합당으로 결성된 대한민국의 공산주의 정당이다. 당수는 초대 여운형, 2대 허헌, 3대 박헌영이 맡았다. 기관지로 노력인민이 있었다.

*朴 憲永(パク・ホニョン、朝鮮語: 박헌영、1900年5月28日 - 1956年12月)は、朝鮮の独立運動家・共産主義者・政治家である。南朝鮮労働党(南労党)の指導者として、韓国側から朝鮮戦争の開始に関わったが、1956年に金日成に「米帝国主義のスパイ」罪に問われて処刑された[2]。字は徳永、号は而丁(イジョン・이정)、金 成三(キム・ソンサム・김성삼)。

粛清と追放の嵐の中を生き抜いた金日成首相は朝鮮労働党第回大会(61年9月)で、「党内分派を清算し、党の統一と団結を決定的に強め、朝鮮共産主義運動の完全な統一を実現するという歴史的な大業を達成した」と述べ、その後、着々と「唯一指導体制」を築いていった。この間、党総書記(66年)となった。
70年10月、9年ぶりに開かれた朝鮮労働党第5回大会で党中央委員会のメンバーが第4回大会とは一変し、金日成氏とパルチザン時代をともにした人々で固められた。
金日成首相は第四次まで内閣を組織し、72年12月に憲法改正と国家機構の改編を行ない、初代の国家主席に就任した。
この改憲で①金主席の主体思想を国家活動の指導的指針とする、②民主主義的基礎に立ち、祖国を平和的に統一する、③国家の最高指導機関として中央人民委員会を新設する、④首都をソウルから平壌に変更するーを明らかにした。
死去直前の現職は、朝鮮労働党中央委総書記、政治局常務委員、国家主席、大元帥、最高人民会議大議員ーとなっている。

주체사상(主體思想)은 조선민주주의인민공화국과 조선로동당의 공식 이념이다.[1] 김일성주의(金日成主義)라고도 하며, 엄밀히 따지면 김일성주의는 “주체사상을 핵심으로 하는 사상·이론·방법의 전일적 체계”를 뜻해 주체사상보다 상위의 개념이지만,[2] 조선민주주의인민공화국에서는 이 둘을 구분하지 않는다. 명확한 구분을 위해 김일성주의와 동일시되는 주체사상을 "넓은 의미의 주체사상", 그보다 협소하고 이론적인 부분의 주체사상을 “좁은 의미의 주체사상”이라고 한다. 2012년 5월에 성립된 조선로동당 당헌에는 김일성-김정일주의(金日成金正日主義)라는 표현이 있는데, 이는 김정일의 선군정치와 결합한 전일적 체계로서의 주체사상을 뜻한다.
【金日成の主体思想】
金日成氏の全生涯は抗日武装闘争と対米戦争で彩られている。
1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発すると朝鮮人民軍最高司令官として指揮し、一進一退の戦況を経て、3年後の53年7月27日、クラーク国連軍司令官(米軍司令官)、 彭德懷・中国人民志願軍司令官の三者で休戦協定を締結した。



*마크 웨인 클라크(Mark Wayne Clark, 1896년 5월 1일 ~ 1984년 4월 17일)은 제2차 세계 대전과 한국 전쟁에 참전했던 미국 육군의 장군으로, 당시 최연소 중장에 임관한 이력을 가지고 있다. 2차 대전 동안 혁혁한 공을 세웠으며, 횃불 작전과 이탈리아 전역에 참가하였다.
*펑더화이(중국어 간체자: 彭德怀, 정체자: 彭德懷, 병음: Péng Déhuái) (1898년 10월 24일 ~ 1974년 11월 29일)는 중화인민공화국의 군인, 정치인이다. 중국 10대 원수 중의 한 사람이다.
*중국인민지원군(中國人民志願軍, 중국어 간체자: 中国人民志愿军, 정체자: 中國人民志願軍, 병음: Zhōngguó Rénmín Zhìyuàn Jūn 중궈런민즈위안쥔[*], 영어: Chinese People's Volunteer Army, PVA)는 한국 전쟁에 참전하여 조선민주주의인민공화국을 지원한 중화인민공화국의 군대다. 대한민국에서는 중국 공산당의 군대라는 의미로 중공군(中共軍)이라고 표기하나 정규군인 중국 인민해방군과는 약간 성격이 다르다. 중국군(中國軍)이라고도 한다.
その卓越した外交手腕は60年代から始まった中ソ対立のなかでも発揮され、自主、自立、自衛を原則とする「主体思想」を唱えることによって、人民の団結の「よりどころ」とした。「主体思想」は中ソの間で等距離を保つため、国際共産主義運動に加わらず、マルクス・レーニン主義を土台に北朝鮮の状況に合わせて新しく生み出された「国家指導の理念」とされている。70年代に入ると「人間がすべての主人公であり、すべてを決定する」という思想に発展させ、物質的条件を重視するマルクス・レーニン主義に対し、人間を主体とする思想・哲学にまで高められた。
*중소 분쟁(中蘇 紛爭) 또는 중소 대립(中蘇 對立)은 1956년 소련 공산당 제20차 대회 이후 소련 공산당과 중국 공산당 사이에 공산주의 이념의 원칙적인 여러 문제에 관해 벌인 분쟁을 말한다.
金日成主席は歴史発展の特殊性から根付いた教条主義と事大主義を克服しない限り、社会主義革命と建設を本格的に推進することはできないと考え、「主体思想」を確立しようとした。
55年12月、金主席は「思想活動において教条主義と形式主義を一掃し、主体性を確立するために」という歴史的な演説を行なった。
「わが党の思想活動におけるチュチェとは何でしょうか。われわれは何をしているのでしょうか。われわれは、どこかよその国の革命を行なっているのではなく、まさに朝鮮革命を行なっているのです。この朝鮮革命こそ、わが党の思想活動のチュチェなのです。したがってすべての思想活動は、必ず朝鮮革命の利益に服従させねばなりません」
主体思想が超大国、米国との長期にわたる交戦関係のなかで民族的自主性を守る上で不可欠だったことを示している。金日成主席のカリスマ性を強調する一方、子息の金正日書記にはそれが不十分なため支配力が変化するだろうという観測が日韓で流れている。

だが北朝鮮における指導者のカリスマ性については「主体思想」の領袖論が明確に述べている。すなわち「領袖・党・人民」が有機的生命体を構成し、社会主義を建設するというもので、領袖は人民の意志を汲んで党に政策として実行させるものであり、金日成主席も党と人民から領袖の地位を受け、カリスマ性を付与されてきた。主席の死去によってもウリシク(我々の方式)の社会主義建設路線は不変であり、党と人民はすでに20年以上にわたって、「領袖としてだれがふさわしいか」という設問に答えを出している。つまり次期後継者として金正日書記を選び出し、それにカリスマ性を付与してきたとみるのが自然である。
また「主体思想」は、単に国内の指導原理にとどまらず、大国の支配主義に反対する第三世界の指導原理に通じるという認識が広まり、北朝鮮はアジア、アフリカなど非同盟諸国や発展途上国に向けて主体思想の普及を積極的に行なった。
*비동맹 운동(非同盟 運動, 영어: Non-Aligned Movement, NAM, 문화어: 쁠럭불가담운동)은 주요 강대국 블록에 공식적으로 속하지 않거나 이에 대항하려는 국가들로 이룬 국제 조직이다.
主体思想と民族統一との関係について、「金日成著作集」第6巻では「朝鮮革命に主体思想を具現するうえでもっとも差し迫った当面の課題は、わが祖国の自主的平和統一を実現することであります。・・・祖国の自主的平和統一を実現することが、今日、朝鮮革命で主体を具現するために提起されるもっとも重大な事業であります」と説明されている。

金日成主席自身も第三世界や非同盟諸国との友好を重視し、アジア・アフリカ・中南米地域の発展途上国とも友好な関係を保ってきた。朝鮮の統一にも意欲を燃やし、80年に「高麗民主連邦共和国創設」案を発表、韓国に向けてたびたび南北首脳会談の開催を呼び掛けた。93年4月には、統一への道程を具体的に示した「全民族大団結の十大綱領」を打ち出して注目された。

*고려민주연방공화국안(高麗民主聯邦共和國案)은 조선민주주의인민공화국이 제시한 통일 방법으로, 연방제 통일안이다.
同綱領は序文で「民族の運命を憂う人であれば、北にいようと、南にいようと、共産主義者であれ、民族主義者であれ、無産者であれ、有産者であれ、無神論者であれ有神論者であれ、すべての差異を超越し、まず一つの民族として団結すべきであり、祖国統一の道を共に切り開いていかねばならない」と韓国の政府、民衆に呼び掛けるものとなっている。

【革命継承者の準備万端を整える】
金日成主席の「業績」の一つは朝鮮革命の継承者を早くから準備したことである。朝鮮人民が苦労して築き上げた朝鮮民主主義人民共和国が自らの亡き後、無用の混乱を引き起こすことのないよう周到な計画を重ね、多くの同志とともに着々と実行に移したことは特筆されてよい。
92年4月に書き上げた回顧録「世紀とともに」第1巻の「はじめに」のなかで、金主席は「もともと、わたしは回顧録を書こうとは思わなかった。しかし、外国人の名望の高い政治家や著名な文人をはじめ多くの友人が、わたしの一生が人々に貴重な教訓を与えるであろうといい、しきりに回顧録の執筆を勧めた。だが、わたしはそれを急がなかった。しかし、いまは金日正組織担当書記がわたしの仕事をかなりひきうけてくれているので、ある程度時間のゆとりが生まれた」と、回顧録の執筆に取り掛かれたことを楽しそうに語っている。
90年代に入って金主席は後継指導者体制の完成を急いだ。
91年12月、金正日書記は人民最高司令官に推載された。翌92年4月9日、開催された最高人民会議第9期第3回会議では社会主義憲法の一部を修正補充し、「共和国国防委員会は、朝鮮民主主義人民共和国国家主権の最高軍事指導機関である」(111条)とし、「国防委員会委員長は、いっさいの武力を指揮統率する」(113条)と規定した。ついで93年4月9日の最高人民会議第9期第5回会議では、前術のように、金主席の「全民族大団結の十大綱領」が採択され、金正日書記を国防委員会委員長に推載した。軍に対する最高指導者の地位はこのとき名実共に金書記へ引き継がれたことになる。
主席の死後、日韓の新聞報道では「金書記が軍務の経験がないため、軍部を完全に掌握していない」と不安定さを強調している。しかし米国や日本はもとより、現在の中国、ロシアなどでも国家元首、大統領は非軍人出身が大半を占めているが、同時に軍最高司令官職にある。シビリアン・コントロールという観点に立てばそれが普通である。なぜ北朝鮮の後継指導者だけが文民では務まらないというのだろうか。
*군에 대한 문민통제(文民統制, 영어: civilian control of the military)는 국가 통치권력에서 군부의 개입이 거부되고 민간인이 군인까지 포함하는 최고의 지휘권을 가진다는 원칙이다.[1] 문민지배(文民支配) 또는 문민우위(文民優位, civilian supremacy)라고도 한다. 서양에서는 정치적 통제(political control), 군대에 대한 민주주의적 통제(democratic control over the military)라고 표현하는 경우가 많다.
金主席が抗日武装闘争以来の軍隊歴が長い指導者だったとしても、戦争経験のない世代に属する金正日書記が軍最高指導者になるのはごく自然な現象だろう。
次いで93年12月8日の『朝鮮労働党中央委員会第6期21回総会」である。
この総会は第三次経済七ヵ年計画(87-93年)の総括を行ない。今後2-3年を緩衝期(調整期)として、「農業第一主義、軽工業第一主義、貿易第一主義」を強化する方針を打ち出している。
このときの人事異動で注目されたのが、75年以来、公式行事に姿を見せなかった主席の実弟、金英柱氏が19年ぶりに登場したことである。総会では同氏が政治局委員に、楊亨燮(最高人民会議議長)、洪錫亨(国家計画委員長)の両氏を政治局員候補に補選した。
*양형섭(楊亨燮, 1925년 10월 1일 ~)은 조선민주주의인민공화국의 정치가이다. 1983년부터 1998년까지 최고인민회의 상임위원회 위원장을 지냈다. 2009년 4월 9일 조선민주주의인민공화국 최고인민회의 제12기 제1차회의에서 최고인민회의 상임위원회 부위원장으로 선출되었다. 김일성 주석의 사촌 매부이다.
*홍석형(洪錫亨, 1936년 10월 1일 ~ )는 조선민주주의인민공화국의 정치인이다. 당중앙위원회 비서 겸 계획재정부장으로 있었으며, 조선로동당 중앙위원회 정치국 위원이었다. 본관은 풍산.
翌日開催された最高人民会議第9期第6回会議で、金英柱、金成植(社会民主党委員長・元在日朝鮮総連副議長)両氏が国家副主席に選出された。
*김병식(金炳植, 1919년 ~ 1999년)은 조선민주주의인민공화국의 국가 부주석을 지냈다.
金 炳植(キム・ビョンシク、김 병식、1919年 - 1999年7月21日)は、北朝鮮の政治家。在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)の第一副議長を務め、北朝鮮に帰国後は国家副主席、朝鮮社会民主党委員長を務める。韓徳銖朝鮮総連議長の妹の夫。
その他の人事では、最高人民会議外交委員長が崔泰福書記から黄長燁書記に移り、外交委員長に金貞淑氏(政府機関誌「民主朝鮮」責任主筆・故許錟書記夫人)が選出されている。金英柱氏、黄長燁、金貞淑氏はいずれも金正日書記の濃い縁戚にあたる。党、軍、政府機関人事は中央委の書記長の管轄であり、金主席と金書記の意思そのものである。特に金英柱氏は、72年7月4日の「南北共同声明」の北側署名者として南北対話を推進した第一人者である。その再登場は南北首脳会談など南北対話の本格的な再開へ向けての布石であり、金書記の周囲を内政外交の政策通で固める一環でもある。
*최태복(崔泰福, 1930년 12월 1일, 남포 ~)는 조선민주주의인민공화국의 정치인으로, 조선로동당 중앙위원회 위원 겸 최고인민회의 의장을 맡고 있다.

*황장엽(黃長燁, 1923년 2월 17일 ~ 2010년 10월 10일)은 조선민주주의인민공화국의 정치가로 활동한 대한민국의 대학 교수이다. 제5~6대 최고인민회의 상임위원회 위원장을 지냈다. 1997년 대한민국으로 망명했다.
*김정숙(金貞淑, 1930년 - )은 김일성의 사촌누이이며[1], 조선민주주의인민공화국의 정치인이다. 조선대외문화연락위원회 위원장 겸 당 중앙위 위원이다. 최고인민회의 제12기 대의원이다.
*허담(許錟[1], 1929년 ~ 1991년 5월)은 조선민주주의인민공화국의 정치인으로, 전 주석 김일성의 고종사촌 김정숙의 남편이다. 조선민주주의인민공화국에서 보기 드문 전문적인 외교관료이다. 
91年1月20日の最高人民会議常設会議では、84年に公布した「合弁法」を修正し補充する決定を発表した。
これは計画経済の緩衝期に人民の経済生活を重視すると同時に、東海岸の清津、先鋒など自由経済貿易地帯を中心に外貨、海外技術を導入するとう朝鮮式の「対外開放」路線を押し進めようという金書記の方針に沿ったものである。





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