日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Gim Ilseong김일성金日成・Kim Jong-il김정일 金正日『김일성 후 한반도/마에다 야스히로 (저)』/【Korean Peninsula after Kim Il Sung /Yasuhiro Maeda (Author)】/<金日成後の朝鮮半島 / 前田 康博(著)>③


【単一指導党、朝鮮労働党】
社会主義は一国一党が原則である。北朝鮮には「社会民主党」および「天道教青友党」があるが、事実上、唯一指導党は「朝鮮労働党」である。
*천도교청우당(天道敎靑友黨, Chondoist Chongu Party)은 조선민주주의인민공화국의 정당으로, 종교적 색채를 띤 유일한 정당이다.
*조선사회민주당(朝鮮社會民主黨, Korean Social Democratic Party)은 조선민주주의인민공화국의 정당이다. 소군정 당시에는 우익 정당이었으나, 조선민주주의인민공화국이 수립되면서 조선로동당의 '우당'(위성정당)으로서 실질적인 당조직을 갖지 못한 채 격하되어 존재한다.

最高決定機関である党大会は金主席施政下で6回開かれた。46年の第1回(党員約5000人)以来、第2回(48年、75万人)、第3回(56年、116万人)、第4回(61年、131万人)、第5回(70年11月、160万人)、そして第6回(80年10月)で、この大会には党員が306万人と倍増している。同大会は金正日書記が初めて公式の場に登場した大会となっているが、金書記が73年9月、党中央委第5期第7回総会で、党中央委書記に選出されて以来、「三大革命小組」運動を展開し、青年党員が一気に増えた。それは金書記個人が後継者として登場したというだけでなく、このときを契機に世代交代が加速し、後継指導体制が確実に指導したことが分かる。
当時のソ連、東欧諸国および中国の共産党員はそれぞれ人口の3ないし4%である。

94年8月現在、中国共産党員は急速に増えて約5400万になったとされているが、それでも全人口の4・5%に達していない。北朝鮮の人口2000万人弱(80年当時)に比べ党員数306万人は15%以上にあたる。朝鮮労働党が大衆政党であり、「党と人民の一体性」という点で北朝鮮は他の社会主義諸国とは比較にならないほど強固な基盤を持っていることになる。
北朝鮮の人口は3年間の朝鮮戦争で900万人から800万人に減少した。その後、食糧事情の好転も反映して現在、2200万人に達しているが、20歳台から30歳台が多く、急拡大した党員の構成も当然、若返っている。
朝鮮労働党大会の開催は国家の外交内政の重大な方向を決めるものであり、次回大会がいつ開かれるかに内外の関心が集まっている。従来は数年おきの開催だったが、第6回大会以後14年経ながら第7回大会が開かれていない。経済事情や米国との「核対決」など未解決問題が山積みしているためだと観測されているが、金正日書記のもとで近々開催されることの観測も増えている。
党大会の重要性は大会のたびに党員率が更新されることであり、第6回大会当時に金正日書記の主導で党員の入れ替えが行なわれている。金主席の死後、94年9月現在、北朝鮮はまだ第6回党大会で決定、採択された政策や方針のもとにあるといえる。
第3章 金正日後継体制の始動
【金正日書記の生い立ちと系譜】
金正日書記は1942年2月16日、金日成主席と金正淑夫人との間に生まれた。北朝鮮の公式的な資料によると、出生地は白頭山の抗日パルチザンの密営地(秘密の根拠地)である。
6歳で母を失い、万景台革命学院、金日成総合大学政経学部に進んだ。
*만경대혁명학원(萬景臺革命學院)은 평양직할시 만경대구역에 위치해 있는 학교이다. 본래의 이름은 만경대혁명가유자녀학원으로 만주에서 항일무장투쟁을 하다가 전사한 독립군의 유자녀를 교육하기 위해 만경대에 세운 기숙학교이다. 1947년 10월 12일에 개원하였으며, 개원식에는 북조선임시인민위원회의 위원장이었던 김일성이 참석하였다. 1948년 10월 24일 새로운 교사를 신축하였다.
*김일성종합대학(金日成綜合大學)은 평양에 있는 조선민주주의인민공화국의 국립대학이고, 1946년 10월 1일에 김일성을 기념하며 개교했다. 평양직할시 대성구역에 있다. 줄여서 김대(金大)라고 한다.

64年、大学卒業と同時に党中央委組織指導部に入り、党活動を始めた。
73年の党中央委員会で組織、宣伝、指導担当書記に選出された。同年から思想、技術、文化の「三大革命小組運動」を指導した。翌74年の党中央委総会で後継者と決まり、「親愛なる指導者同志」と呼ばれるようになった。

80年10月の朝鮮労働党第6回大会で、金書記は政治局常務委員、書記局書記、軍事委員会候補に選出された。金主席以外にこの三役を兼任するものはなく、このとき、唯一後継者の地位を不動のものにしたといわれている。
83年6月に訪中し、李先念国家主席、江沢民、鄧小平、李鵬など中国首脳部と会談し、中国の対外開放のモデル地域である深圳の経済特区も視察している。
*리셴녠(중국어: 李先念, 병음: Lǐ Xiānniàn, 1909년 6월 23일 ~ 1992년 6월 21일)은 중화인민공화국의 군인, 정치가이다.
*장쩌민(중국어 간체자: 江泽民, 정체자: 江澤民, 병음: Jiāng Zémín, 1926년 8월 17일 ~ )은 중국공산당 중앙위원회 총서기 겸 중국 공산당 주석(1993년 ~ 2003년)이다. 1993년 3월 국가 주석에 선출됨으로써 당과 정부의 전권을 완전히 장악하였다. 삼개대표사상을 발표하였으며, 외교 부문에서는 미국과 유럽과의 친선을 도모하였을 뿐만 아니라 2001년에 평양을 방문하여 김정일 국방위원장과 정상회담을 가지는 등 조선민주주의인민공화국과의 관계 개선에 앞장서기도 했다. 또한 1994년 김영삼 대통령이 방중했을 때 장쩌민 주석이 시베리아 범 한 쌍을 기증하였다.
*덩샤오핑(중국어 간체자: 邓小平, 정체자: 鄧小平, 병음: Dèng Xiǎopíng 이 소리의 정보듣기 (도움말·정보), 1904년 8월 22일 ~ 1997년 2월 19일)은 중화인민공화국의 3대 최고지도자이다. 1978년부터 1983년까지는 중국인민정치협상회의 주석, 1981년부터 1989년까지는 중화인민공화국 중앙군사위원회 주석을 역임했다. 소위 중국 공산당 당료 2세대의 가장 중요한 인물이다.
*리펑(중국어 간체자: 李鹏, 정체자: 李鵬, 1928년 10월 20일 ~ 2019년 7월 22일)은 중공 총리를 지낸 중화인민공화국의 정치인이다.
*선전시(중국어: 深圳, 광둥어: Shēnzhèn)는 중화인민공화국 광둥성의 부성급시로서 면적은 2,050 km²이고 인구는 약 1,362만 명으로 1980년에 설치되었다.

当時、中国筋によると、金正日書記は李先念と会った際、金日成主席から「中国の老革命家の前で坐るべきところはない」との言いつけを守り、ノートを取りだし、立ったまま李氏の話を聞いたという(「読売新聞」94年7月10日付)。
同紙によると、中国は金父子の関係を毛沢東氏と周恩来氏の関係、あるいは鄧小平氏と江沢民氏との関係に置き換えて見ていると伝えている。金正日書記は80年以降十数年間、主席とともに各地の農場、企業所など直接、国家建設の現場に出掛け現地指導を行なうなど、次期指導者への道を歩んだ。

【後継者の条件】
金主席が金正日書記を次期指導者に決めた理由について北朝鮮の党・政府要人が訪朝した外国人に説明している。
一例を挙げると、高知県日朝友好促進協会の栗原透代表委員が86年7月に社会党自治体議員団を率いて訪朝した際、金総書記(副首相)から次のような説明を受けている。
「ー主席が創始されたチュチェの革命偉業を成し遂げるためには、一代だけでは不可能で、長期間を通じて実現することが必要である。もっとも重要なことは、だれが後継者となるかであり、金正日同志をおいて他にいない。後継者の条件としてもっとも重要な点は、①領袖に忠実でなければならない、②卓越した思想、理論的英知をもっていなければならない、③人民大衆を巧みに組織し、動員できる指導力と手腕をもっていなければならない、④人民大衆を愛し、暖かく包容する品性、資質、風貌を備えていなければならない、⑤実質面で、偉大な業績を打ち立てていなければならない。以上を総合的に備えている人物は他にいない。金正日同志は最高の高さで備えている。このことが後継者に金正日同志を選んだすべてである。全党員、全人民は金正日同志を後継者としていただいていることを最大の栄誉、誇り、幸福に思っているー」(「高知新聞」94年7月21日付)。
主席の息子ということが後継者としての絶対的な条件ではなく、卓越した思想、品性、資質、指導力の点で後継者に選ばれたことを強調している。
*日朝協会(にっちょうきょうかい)は、民団に近い在日韓国人らが大韓民国を支持し、朝鮮民主主義人民共和国の政治体制を批判していることに反対する親北朝鮮の運動の中から、日本の中の共産主義に親和的な人々によって1955年[3]に結成された政治団体である[4]。
「日本と朝鮮の両民族の理解と友好を深めるため、日本国民としての自主的立場に立つ活動を原則として、相互の繁栄と平和に貢献すること」を目的とする(規約第2条)[5][2]。米韓同盟を支持する韓国政府・日米同盟支持や北朝鮮による日本人拉致問題の解決を国交問題の前提とする日本政府を批判して、早期に朝鮮とも国交を結ぶべきだと主張している[6]機関紙は「日本と朝鮮」(1950年創刊、半月刊)[7]。
金正日書記は、91年12月、主席から人民軍最高司令官職を譲り受け、92年4月、元帥に就任(金主席は大元帥になる)、93年4月、国防委員会委員長に就任するなど、当時は金書記が主席職も近く引き継ぐのではないかと観測された。
だが金正日書記は金主席の亡くなった後を考え、92年4月の最高人民会議第9期第3回会議で、憲法の一部改正を行なった。ここで国家主席と国防委員会委員長の役割が分離された。さらに注目されるのは、「朝鮮労働党が北朝鮮のすべての活動を領導する」と規定したほか、最高人民会議の役割を拡大強化し、国家主席の権限を縮小したことである。
金主席死去後、すぐに金正日書記が国家主席に就任しなかったことも単なる形式を整えるを急がなかったというだけでなく、軍の最高指揮権を掌握している限り実質的には国家元首の地位は不動だからである。
金正日書記には正淑夫人を母とする金敬姫氏(党中央委員)のほか、継母、金聖愛夫人(朝鮮民主女性同盟委員会)の生んだ弟、金平日氏(41歳、94年3月にフィンランド大使に任命された)らがいる。

*김경희(한국 한자: 金敬姬[1], 1946년 5월 30일 ~ )는 조선민주주의인민공화국의 정치가이다. 본관은 전주. 조선로동당의 경공업부 부장 겸 중앙위원회 위원이다. 2010년 9월에 조선인민군 대장에 선출되었다.
*조선사회주의녀성동맹(朝鮮社會主義女性同盟, 약칭: 녀맹(女盟), 표준어: 조선사회주의여성동맹)은 조선민주주의인민공화국의 여성 단체이자 조선로동당의 외곽 조직이다. 김일성-김정일주의청년동맹, 조선직업총동맹, 조선농업근로자동맹과 함께 조선민주주의인민공화국의 4대 근로 단체로 여겨지고 있으며 조선민주주의인민공화국의 입법부인 최고인민회의의 구성원이기도 하다.

【その人柄、性格】
金正日書記が人民軍最高司令官に就任して1年目の92年12月、崔光総参謀長が記念報告会で、「敬愛する最高司令官の領導にしたがって進む金正日時代は栄光の時代である。今後もさん然と輝き隆盛繁栄する時代となるだろう。わが党とわが人民の偉大な領袖であり、最高司令官である金正日同志万歳!」と演説した。金主席は85年7月、雑誌「世界」への回答のなかで「金正日時代になってでも祖国を統一する」と述べたことがあるが、パルチザン時代を過ごした崔光氏(77歳)が「金正日」時代の到来を告げ、それまで金主席に用いられてきた「偉大な領袖」という用語を使っているのが注目される。
*최광(崔光, 1918년 7월 17일 - 1997년 2월 21일)은 조선의 공산주의 독립운동가이며 조선민주주의인민공화국의 군인이자 정치인이다. 조선로동당 정치국원, 당 중앙군사위원회 위원, 국방위원회 부위원장, 인민무력부장 등을 지냈다. 조선인민군 원수이다.
金正日書記の日常の生活ぶりやその人柄については、生前の金主席自身が次のように語っている。
―金正日同志は主体革命偉業を継承、発展させてゆくために自分の身を顧みずに昼夜を分かたず献身的に働いている。・・・私は彼の健康が心配で、少し休息を取りながら働くように勧めたが、彼はそれでも、やるべきことは多いのに時間が足りないのがもどかしいと言って引き続き無理に働いている。(抗日革命闘士らと会見した後での言葉、「労働新聞」92年3月4日付)
―私は彼が地味なジャンバーを着て行動する姿を見るたびに胸が熱くなる。われわれ幹部は金正日同志のように素朴で謙虚に生きるべきである。(「労働新聞」92年3月13日付)
ラジオプレスによると、93年秋ごろから、金主席が金正日書記を賞賛する言葉が「労働新聞」や
政府機関紙「民主朝鮮」に数多く掲載されるようになり、今春以降も続いていると報じている。
金主席が自ら子息をこのように見ていたという資料であり、父が子を評価するという点からも興味深い。また主席が、働き過ぎによって健康を害するのではないかと、しきりに金書記に休息を取るように勧めているくだりが印象的である。高齢の父親が働き盛りの息子のジャンバー姿に胸が熱くなるというのは、父子の情愛の深さを示すものだろう。
事実、金主席は抗日闘争をともに戦った妻に先立たれ、金正日氏とその妹、金敬姫氏と3人で過した期間がある。書記の妹思いも有名だが、朝鮮戦争の間、2人は主席のもとを離れ、朝中国境近くに疎開したといわれる。金主席が創建以来、国務に忙殺されながらも、幼くして母親を亡くした兄妹に深い愛情を注いだのも無理はない。
主席が金聖愛夫人を後妻として迎え入れ、弟妹をもうけているが、主席にとっては苦難の中で育てた金正日・金敬姫兄妹との強い絆は終生のものだったと思われる。

著者が錦繡山議事堂の午餐に招かれた際(91年9月)も、主席は自ら2回、金書記の業績に言及した。
*금수산태양궁전(錦繡山太陽宮殿)은 조선민주주의인민공화국의 수도 평양직할시에 있는 김일성 주석과 김정일 국방위원장의 시신이 안치된 건물이다. 궁전 내부에는 김일성의 유품이나 생전에 사용했던 열차의 일부를 전시하고 있다.
金主席は「平壌の楽浪地区に2万戸の住宅街である統一大通りを建設していますが、もうみましたか」と問い掛けた。著者が「建設現場を見てきました」と言うと、「3DK以上7DKの間数の多い住宅です。まだ約2万世帯が1,2DKの狭い住宅に住んでいるので、広い部屋に早く移したいのです。そこでことしは公共施設の建設をいっさい中止し、すべて住宅建設にあてると金正日同志が直接指導して決定しました」とうれしそうに語った。
さらに「ソ連共産党解体の日、金正日同志は時代を担う青年たちにウリシク(我々のやり方)でやろうという書簡を送りました。この方針は正しいと思います」と述べた。
その直前の8月28日が「青年の日」と定められ、金書記が「革命第二世代の青年は党と領袖に限りなく忠実な前衛となろう」という書簡を送ったことを指している。ここでも金主席が人民生活に密着した政策から国家の指導方針まで金正日書記の指導下にあることを直接、著者のような外国人に説明しようとしたものである。
その後、翌92年4月の金主席生誕日を記念した5万世帯の住宅が完成したと報道された。同年5月には金書記がさらに3万世帯分の住宅建設を呼び掛けた。北朝鮮は衣食住ではなく、食衣住の順序で人民生活を充実させるとし、すでに「食」、「衣」の充足段階を終え、「住」建設に入ったといわれる。
当然、建設資材の大量調達、労働力の確保という課題を克服しなければならず、前述した金主席の言明のように「公共施設の建設をいっさい中止し、すべて住宅建設にあてる」ことになり、平壌市中心部に建設中だったピラミッド型105階建ての柳京ホテルを途中で中止するなどの緊急措置を取っている。
*류경호텔柳京ホテル(표준어: 유경호텔, 문화어: 류경려관, 영어: Ryugyong Hotel)은 조선민주주의인민공화국의 수도 평양직할시 보통강구역에 건설되다가 건설이 무기한 중단된 호텔형 마천루이다. 류경호텔은 특히 평행사변형 꼴로 동서쪽으로 뻗어있는 특이한 모양으로 지어지고 있다. 현재 조선민주주의인민공화국에서 제일 높은 빌딩이다.

【告別式の序列に見る指導部】
北朝鮮は金日成主席の個人独裁体制とみられがちだが、いかに主席の指導力が抜きんでていても、1人ですべてをこなすことはできない。毛沢東、ホー・チ・ミンなど過去の優れたアジアの指導者の場合もそうである。国家を実質的に動かしているのは無数の人材である。北朝鮮でも重要な政策について下から各分野の専門家が討議を重ね、最終的に党中央の10人余の書記群を含め金主席、金正日書記が決裁してきた。その意味で北朝鮮も「集団指導体制」をとっている国であり、他の国々と変わるところはない。
生前、金主席自身が外国人に対し、「現地指導」と呼ばれる自らの視察について「農業も工業もそれぞれ専門家がいるので、私はただ見に行くだけです」と語っていた。
金正日書記を中心とする新指導部も基本的に「集団指導体制」であって、金書記の一存で独裁的に内政外交が進行するとみるのは故意に曲解するか論か、「独裁」の過大評価である。したがって新指導部がどのような人材によって構成されるのかを研究する必要があるが、単にイエスマンばかりの側近たちの集団だととらえると北朝鮮の内政外交は見えなくなる。
平壌放送は94年7月19日、金主席の告別式が挙行された模様を報じ、式に出席した指導者37人の氏名を伝えた。放送では金正日労働党書記を別格として「朝鮮人民軍最高司令官」の肩書で紹介した。以下は朝鮮通信が伝える序列だが、氏名と肩書はそのままである。今後の新指導部の顔ぶれを見る上で一つの参考指標となる。
(注・一部人名の漢字表記が従来の資料・文献と「朝鮮通信」電で異なる場合がある)。
☆は万景台革命学院出身、★は金日成総合大学出身、◎は☆★二つの出身。
◎金正日(朝鮮人民軍最高司令官)呉振宇(朝鮮労働党中央委政治局常務委員・人民武力相・元帥)☆姜成山(同政治局員・首相)李鍾玉(同政治局員・副主席)朴成哲(同政治局員・副主席)金英柱(同政治局員・副主席・金主席の実弟)金炳植(社会民主党中央委委員長・副主席・元在日朝鮮総連副議長)★金永南(朝鮮労働党中央委政治局員・副首相兼外相)崔光(同政治局員・人民軍総参謀長・次帥)柱応泰(同政治局員・書記)◎全秉鎬(同政治局員・書記)韓成龍(同政治局員・書記)◎徐允錫(同政治局員・平安南道党責任書記兼同道人民委委員長)金聖愛(「未亡人」)金喆万(労働党政治局員候補・書記)★崔永林(同政治局員候補・副首相・金属工業部長)洪成南(同政治局員候補・副首相)楊亨燮(同政治局員候補・最高人民会議議長)洪錫亨(同政治局員候補・国家計画委委員長)★延亨黙(同政治局員候補・慈江党責任書記兼同道人民委委員長・副首相)★金己男(労働党中央委書記)☆金国泰(書記)黄長燁(書記)金仲麒(書記)★金容淳(書記・最高人民会議統一政策委委員長)徐寛煕(書記)★金 (副首相・化学工業部長)金福信(副首相・軽工業委員長)★金昌柱(副首相)金昌柱(副首相)張徹(副首相・文化芸術部長)孔鎮泰(副首相・人民奉仕部長)尹基福(中央人民委経済政策委委員長)朴南基(平壌市行政経済委委員長)全文燮(中央人民委国家検閲委委員長・人民武力部副部長・大将)柳美英(天道教青友党中央委委員長)
*오진우(吳振宇, 1917년 3월 9일 ~ 1995년 2월 25일)는 일제 강점기의 공산주의 독립 운동가이며 조선민주주의인민공화국의 군인·정치인이다. 인민군 총참모장, 인민군 총정치국장, 국방 위원회 제1부위원장 등을 거쳐 1992년 4월 20일부터 조선인민군 원수를 지냈다.[1]
*리종옥(李鍾玉, 표준어: 이종옥, 1905년 1월 10일 함경북도 성진 ~ 1999년 9월 23일 평양시)은 일제강점기 당시의 항일운동가이며, 조선민주주의인민공화국의 정치인이다. 국무총리, 국가부주석 등을 지냈다.[1] 조선민주주의인민공화국 출범 당시 산업성 국장이 되었으며 이후 경제관료로 활동하였다.
*박성철(朴成哲, 1913년 9월 2일 경주[1] ~ 2008년 10월 28일[2])은 조선의 공산주의 독립운동가이고 조선민주주의인민공화국의 군인, 정치가이다. 그의 고향은 경북 경주로 1934년 4월 항일유격대에 입대해 김일성과 함께 활동하였다. 1945년 8월에 월북하였다. 1972년 5월에는 비공식적으로 서울을 방문하여 박정희 대통령과 회담을 하기도 하였다.[1]
*김영남(金永南, 1928년 2월 4일 ~ )은 조선민주주의인민공화국의 은퇴한 정치인이다. 조선로동당 중앙위원회 위원, 당 정치국 상무위원, 최고인민회의 상임위원회 위원장 등을 역임했다.
*최영림(한국 한자: 崔英林[1], 1930년[2][1] 11월 20일 일제 강점기 조선 함경북도 경흥 출생 ~ )은 조선민주주의인민공화국의 정치인이다.
*홍성남(洪成南, 1929년 10월 2일 - 2009년 3월 31일)은 조선민주주의인민공화국의 정치인이다. 국무총리와 조선로동당 정치국원 후보 위원을 역임했다.
*장철張徹(1955년 ~ )은 조선민주주의인민공화국의 정치인이다. 국가과학원장 겸 조선로동당 중앙위원회 위원이다. 최고인민회의 제12기 대의원이다.

【革命二世代への移行期】
金主席とともに抗日パルチザン闘争に加わり、朝鮮戦争を生き抜いた革命第一世代といわれる長老幹部は過去の経歴から当然、序列の上位に進んでいるが、名誉職であり、実際の政務を担当しているのは政治局員のなかでも書記、政治局員候補、政務院(内閣)の首相、副首相、委員長(閣僚)、および各道責任書記の肩書で報じられている人々である。また金炳植・社会民主党中央委委員長・柳美英・天道教青友党中央委委員長以外は、憲法の規定する「共和国のすべての活動を領導する」朝鮮労働党幹部の序列である。葬儀日程の延期も単に準備の遅れにすぎなかったが、高位層の序列は順当なものであり、日韓のマスコミが騒いだ内部の「権力闘争」なるものをうかがわせる形跡はなかった。

80年代に入ってから、金日成主席と抗日パルチザン闘争時代をともにした長老幹部のうち、すでに金一副主席、崔賢政政治局員、呉白竜労働赤衛隊司令官、康良 社民党委員長、林春秋副主席、許錟李書記・外相・電力工業担当の姜希源副首相らが高齢や病気で死去している。
72歳の金英柱(金主席の実弟)副主席を除くと、呉振宇国防相(77歳)をはじめ革命第一世代に属する李鐘玉(78歳)、朴成哲(80歳)、金炳植(75歳、元在日朝鮮総連副議長)の四副主席、崔光総参謀長(77歳)らが長老幹部として名誉職を占めている。このほかパルチザン組では金鉄万上将(76歳)が残っているだけである。
これまた金父子に次いで「ナンバー3」とされた呉振宇国防相が今後、「ナンバー2」となるだろう。二十数年も前から金主席の強い要請を受けて、金書記の後見役を務めてきた。このため四六時中、付きっきりで軍事学、軍政学から部隊編成や指揮系統、陸海空の軍備状況について詳細に教育してきた。訪中にも影のように同伴している姿が見られている。
未確認だが、86年に呉国防相が交通事故で瀕死の重傷を負った際、金書記がヘリや航空機を動員してソ連まd江運び治療をさせた。それ以来、両者の関係はいっそう緊密になったという情報もある。一連の葬儀を映したテレビでも2人が離れた場面がないほどである。金正日氏は書記となって21年間、党務を中心に今日まで活動し、直接軍務に就いた経験がないところから軍部の支持が未知数だと主張する向きもある。実際、金書記は元帥就任後も軍服を着用した姿を見せたことがないが、呉国防相、さらに崔光総参謀長などを通じて軍内部のすべての年齢層にわたって完全に掌握しているとみるのが妥当だろう。
【重要な「ブリッジ世代」の役割】
副首相、閣僚級も68、9歳前後が占めている。このグループの筆頭が金永南外相(69歳)であり、金主席の追悼大会で弔辞を読んだ。
北朝鮮指導部の権力序列は朝鮮労働党中央委員会の政治局常務委員が最上位に次いで政治局員、政治局員候補、中央委員の順となる。党大会、最高人民会議などの国家行事や要人の死去に際して発表される名簿がそのときの権力序列を示すものとして注目されるが、必ずしも朝鮮労働党の序列だけで決まっているわけではなく、93年末、政治局員候補の肩書が外れた金容淳書記は後述するように依然、金正日書記の右腕とされ、重要な職務を担当している。なかでも幹部の人事および内外の諸政策を決める書記局は金日成総書記と金正日書記を中心に常に桂応泰(76際)、金 鎬(69歳)、韓成龍(71歳)、崔泰福(68歳)の11人の書記が詰めていた。ここが「党中央」の実質的な権力中枢である。

*계응태(桂應泰, 1925년 2월 25일 ~ 2006년 11월 23일)는 조선민주주의인민공화국의 정치인이다.
筆頭の桂応泰書記(経済相)は革命第一世代に属し、やがて副主席になるとみられる。以下9人のうち8人の書記は70代前後である。創建直後の北朝鮮で、金日成総合大学へ進み、モスクワや東ドイツ、チェコへ留学した経験を持つエリート幹部である。黄書記もモスクワ留学組で、長年、金日成総合大学総長を務め、「主体思想」の基盤を作ったイデオローグとされている。再三、訪日しており、日本通としても知られている。
60歳はわずかに金容淳書記1人だけである。同書記は朝日友好親善協会最高顧問のほか、最近、「アジア・太平洋平和委員会」の委員長に就いており、対日関係では依然、中心となる人物である。
現在の書記局の構成は第一世代と第二世代をつなぐ「ブリッジ世代」が占めていることがわかる。同局が党全体にわたる人事および政策立案をその役割としているため実務課で固められているのは当然である。また副首相、閣僚級も68、9歳が大半を占めている。
86年末に開かれた最高人民会議第8期第1回大会で選出された国家指導機関のメンバーと対比すると、書記局にはこの間、死亡したものと首相など政務院への転出者に代わって新たに韓成龍、金己男、金国泰、金容淳が加わっている。
これら金日成主席時代の国家指導機関の構成、顔ぶれをみると、各機関は相互に前後左右構わず異動しており、年齢や出身、専門分野など特徴的な傾向はない。すなわち若手のあとに10歳も年長の幹部が来たり、超エリートとされる書記局のメンバーが政治局員ではなく局員候補であったり、候補に見方が当たっているようである。一度、二百位以上に登場した幹部は党序列や職制がいくら変化しても死亡するまでどこかに名前が出てくる。

【万景台革命学院グループ】
以下、革命第二世代を詳しく見ると、姜成山首相(63歳)は金正日書記と同じ万景台革命学院出身で、プラハ工業大を卒業した鉄道・運輸の専門家で、84年に53歳で一度首相を務め、92年から2度目の登板となった。このほか万景台革命学院、金日成総合大学出身者として徐允植平安南道責任書記(65歳)、崔泰福書記(64歳)が、いる。延亨黙前首相(63歳)も金日成総合大学からプラハ工業大卒で、金正日書記の訪中にも同行するなどこれらかも出番が増えると見られている。金日成総合大学出身では国家計画委員長の崔永林副首相(65歳)、化学工業部長の金 副首長(65歳)が続いている。

若い党幹部やテクノクラート層がじりじり台頭しているなかで、やはり前述の金容淳書記の存在がひときわ目立つ。自社・朝鮮労働党三党共同宣言(91年9月)のまとめ役として日朝国交改善にも力を尽くしてきた。カーター訪朝直後の6月下旬、板門店で開かれた南北首脳会談の準備協議にも登場し、韓国の李洪九統一院長官と平壌での首脳会談開催(7月25日の予定だった)を決めた。7月11日夜の弔問の席では呉国防相とともに金正日書記の側に立ち、悲しみにくれる金敬姫氏を慰めていた。
告別式名簿をさらに分析することによって、新指導部の輪郭が浮かび上ってくる。
翌20日の中央追悼大会の顔ぶれも同じだが、延亨黙前首相のあとに、李乙雪、崔仁徳、白鶴林、金鳳律、金光鎮、金益鉉の人民軍次師(元帥の下)6人が加えられている。
平壌放送が放映した弔問のシーンでは金正日書記と並んで実妹、金敬姫氏および主席未亡人の金聖愛夫人の姿がみられた。後方に異母弟、金平日フィンランド大使らしい姿もあったといわれるが確認されていない。
国家葬儀委員長、19日の告別式、20日の追悼大会は朝鮮労働党・国家機関の公式行事として行なわれ、参列メンバーが発表された。金聖愛夫人は「未亡人」として14位に登場しているが、金平日の名がないため日韓マスコミは内部確執が深刻だと書いた。

【三大革命小組メンバーの台頭】
この告別式に先立って死去後9日に公表された国家葬儀委員会の名簿は273人で、上位は告別式順位と変わらない。だが病床にあった姜希源政治局員・副首相(同日28日死亡)と李善実(政治局員候補)、金哲洙(肩書不明)が省かれている。

北朝鮮の最高権力機関は党中央委員会である。金主席時代の政治局常務委員(金主席、金正日書記、呉国防相の3人)、政治局員(姜成山首相ら10人)、政治局員候補(10人、うち姜希源副首相が死亡)、その下に党書記(金書記を含む11人)、中央委員(145人)がいる。
国家葬儀委員会名簿273人の中にこれらの中央委員が含まれているが、高齢化が目立ち、50歳台はほとんどいない。70歳以上が約半数を占めているとみられる。金正日後継指導部が本格的に発足すると、名誉職の長老幹部を除き、世代交代が加速される可能性が大きい。国家葬儀委員会名簿の40人目からの234人のうち50人は軍人(次帥、大将、中将)で、残りは政治局員、政治局員候補、その他ーである。ここの登場しているメンバーのうちこれからも活躍すると見られる有力な人物をランク順にみると、文峻極(党中央委部長、労働新聞責任主筆)、呉克烈、金敬姫、鄭準基(対文協委員長)、李根模、張成禹、張成沢、姜錫柱、孫成 (駐ロ大使)、朱昌俊(駐中大使)、金達玄、尹基貞(財政相)、金哲明(社会科学委員会副委員長)、鄭松南(対外経済委副委員長)、呂燕九(民生女性同盟常務委員・韓国で暗殺された呂運亨氏の娘)などである。玄氏はその後、党国務部長に就任しており、対日関係にも姿を現わすとみられている。
*여운형(呂運亨, 1886년 5월 25일 (음력 4월 22일)[1] ~ 1947년 7월 19일)은 일제 강점기의 독립운동가 겸 저술가이다. 1945년 8월에 건국준비위원회 위원장을, 9월부터 1946년 2월까지 조선인민공화국의 부주석을 지내기도 했다. 구한 말 평등 사상을 수용하여 노비들을 해방시키고, 교육·계몽 활동을 하다가 1907년 대한협회에서 주최하는 강연회에서 안창호의 연설에 감화되어 독립 운동에 투신했다.
*려연구 또는 여연구(呂鷰九,1927년 8월 ~ 1996년 9월 28일)는 조선민주주의인민공화국의 정치인이며 여운형의 둘째 딸이다. 북조선의 최고인민회의 부의장이었다.
*려원구 또는 여원구(呂鴛九, 1928년 11월 5일 ~ 2009년 7월 30일)는 조선민주주의인민공화국의 정치인이다. 몽양 여운형의 3녀로 조선민주녀성동맹 중앙위원회 위원장을 지냈다.

呉克烈作戦部長(元参謀長)は第二世代の軍部を掌握する人物と見られる。万景台革命学院卒で、呉国防相世代から十数歳若い軍指導者である。革命闘争の過程で倒れた人たちの遺児を中心にしたこの学院はその後も多数のエリート幹部を輩出しており、今後、金正日新政権の中軸となるのは確実である。外交面では朝米会談の北側団長である姜錫柱外務次官が第一に挙げられよう。
米日韓など西側各国で流される北朝鮮指導部についての情報は根拠のないものが多い。交通事故死や暗殺死などきりがないほど虚報、誤報が流布されてきた。失脚は確実だとか、粛清されたといわれた人物がすべて健在であるのも興味深い。このほか前述の金正日書記の実妹、金敬姫氏(党中央委員)の夫、張成沢氏(同・党勤労団体事務部長、三大革命小組事業部長)、その兄といわれる張成禹(社会安全部政治局長・大将)も側近群の一角を占めている。
三大革命小組は金主席が党中央(金書記)に指示して73年2月に発足させたものである。思想、技術、文化の三大革命を遂行するため、各党組織から選んだ優秀な活動家と知識ある大学生で指導者グループを組織した。換言すると、主体思想を具体化する政策が「三大革命」運動である。金日成主席は64年の「わが国における社会主義、農村問題に関するテーゼ」で思想革命、文化革命、技術革命の「三大革命」を呼び掛けた。以来、守旧主義、経験主義、官僚主義を強く批判し、「三大革命運動」を金書記とその世代にバトンタッチさせた。
数万人の青年が小組員となり、20人、30人でグループを作り、全国の工場や企業所、共同墓地、行政機関に出向いて三大革命の重要性を説き、生産性向上について指導した。以来、十数年間続いた運動のなかで非能率的な官僚組織や腐敗分子の摘発、除去が進んだ。このときの小組員のうち約2万人が労働党員となった。いまは4,50代の働き盛りにやり、党、軍、政務院(内閣)、治安当局の重要なポストを占め始めている。同国には野党的な勢力や政治団体が存在しないため、強力かつ安定した指導体制を築き上げている。ここに張成沢氏が配されているのは、重要な意味を持っている。
かつて金仲麟書記も対南工作の責任を取ったといわれたが、序列27位にいる。一昨年、副主席に就任した主席の実弟、金英柱氏も金正日書記の登場以来追われたと噂され続けた。また金炳植氏も失脚説の的にされたが、副主席に登りつめている。いずれも健康を害して静養するケースが多い。呉克烈氏も参謀長職を更迭されたため、呉振字国防相との対立説が流された。社会主義諸国では軍部は党に絶対忠誠を誓う存在であり、特に北朝鮮の人民軍は「鉄の一枚岩」を誇っており、金主席との金正日書記が完全なまでに掌握していることは種々の情報で明らかである。軍中枢が対立し、混乱すればこれまで北朝鮮は維持できなかっただろう。
金容淳書記が延亨黙前首相、金連玄副首相らも一時、別の職務に付くことが多いが、日韓のマスコミはすぐに「外交内政上の責任を取って更迭」と書く。だが、いっそう重い職務に就いたり、別の任務を与えられて活躍しているケースが多く、北朝鮮が貴重な人材群を大事に使っていることが分かる。

【党幹部の集団地方視察始まる】
服喪のため金正日書記が公式行事に姿を現さない間、他の党・政府幹部が公的な政務を補充していることが判明している。
まず新任の北朝鮮駐在のパキスタン大使が8月17日、朴成哲副主席に信任状を提出した。金主席死去後、外国大使の信任状提出の報道はこれが初めて、ラデオプレスによると、北朝鮮の憲法では外国大使の信任状接受は「主席の任務」とされているが、金主席の生存中も副主席が代行するケースがあった。このため北朝鮮の外交活動が主席ポストのままにして、従来どおり行なわれていることを示しているという。
また9月7日の平壌放送は、5,6両日、姜成山首相、金鍾玉、金英柱副主席、金永南外相、崔光総参謀長ら党・政府幹部、中央機関の責任者らが、金主席が昨年まで「現地指導」を行なっていた黄海南道の延白平野を大挙して訪れたと報じているため、当然、金正日書記の指示によるものであり、姜首相らは各協同農場を参観、農民たちと対面した。ラデオプレスは「金書記が行政面で取った最初の実際的措置」という点で注目している。

これまで金主席と金書記の視察は「現地指導」と呼ばれ、国家元首が直接、農場や企業所、教育現場など全国のすみずみまで出掛け、人民と直接、対話し、党の方針や生産性向上について話し合い、最高指導者としての「教示」を与えるのが恒例となっていた。
平壌における外国賓客との応対や中央行事を除いて、金主席、金書記は呉振字国防相や閣僚群を同行させ、年間公式日程のほとんどを地方の指導に充ててきた。これが朝鮮労働党と人民の一体性を保ち、北朝鮮独自の社会主義経済建設路線を進める原動力となっていた。したがって党幹部らの地方視察は「参観」と呼ばれ、金正日書記に付けられる「現地指導」という言葉は使われていない。
だがこれだけ大量の党・政府幹部がそろって農村の視察に出掛けたのはまれであり、金主席亡き後、党の指導性が不安であることを人民に示す意味が含まれている。また例年、収穫期を直前にして、9月初めから金主席は穀倉地帯を回り、作柄や食糧生産の実態を確認するのが通例で、計画経済体制の根幹を支える農業生産を重視するため、今秋は党・政府幹部が前面に立って視察を始めたものとみられる。
金正日書記が喪が明けた後、国家主席に正式就任した後、いつから「現地指導」を始めるかが注目されている。

*소련의 붕괴는 1991년 12월 26일 소련 최고 소비에트의 142-Н 선언으로 일어났다.[1] 이 선언문은 모든 소련의 공화국의 독립을 인정하며 독립국가연합(CIS) 수립을 허용하는 안이었다. 그 전날인 1991년 12월 25일엔 소련의 대통령이자 소련의 지도자였던 미하일 고르바초프가 대통령직을 사임하고 소련 지도부를 해체했으며 소련의 핵무기 발사 시스템을 포함한 전권을 러시아의 대통령 보리스 옐친에게 승계했다.[2] 이날 저녁 7시 32분, 모스크바 크렘린에 마지막으로 소련의 국기가 내려가고 혁명 이전에 사용된 러시아의 국기가 게양되었다.[3]
第4章 ソ連・東欧圏激変に北朝鮮はどう対応したか
【北朝鮮独自の社会主義路線】
ソ連・東欧圏の激変が続いた90年ごろから、西側各国ではアジア社会主義諸国の変革・崩壊につながるかどうかをめぐってさかんに議論がなされた。
なかでも金日成主席が指導する北朝鮮の「独自の社会主義建設路線」は、朝鮮の統一問題と密接不可分の関係にあるため、その帰趨がもっとも注目を集めた。朝鮮革命と統一実現、そして朝鮮式の対外改革・開放を模索する同国の実態をさぐってみよう。
著者は5度目の訪朝(91年9月)をした際、前術のように、金日成主席との接見、午餐という機会に恵まれた。90分にわたり昼食をとりながら金主席は次々に重要な内容の話題を軽妙な比喩をまじえた巧みな話術で語った。
北朝鮮では同年8月のモスクワ政変は「ソ連事態」と呼ばれ、平壌のテレビ報道や党機関紙が「労働新聞」や朝鮮中央通信を通じて量的にもかなり多く、逐一報じられ、一般市民レベルでもただならぬ事態が「共産主義の本家」で発生していることを詳しく知っていた。


*8월 쿠데타(러시아어: Августовский путч)는 1991년 8월 19일부터 21일까지 소련 공산당 보수파들이 중심이 된 국가비상사태위원회가 당시 소련 대통령이던 미하일 고르바초프에 반대해 일으킨 쿠데타이다. 이는 이틀 만에 실패했고 대통령이었던 고르바초프는 정부로 되돌아 갔으나, 사실상 소련 체제를 붕괴시켜 결과적으로 소비에트 연방의 붕괴로 이어지게 되었다.
著者はいろんな機会をとらえて、平壌の人々にソ連事態がどのように受け止められているかを聞いてみたが、帰ってくる言葉に多少の違いはあったものの、「我々の社会主義建設にはなんの影響もありません」と不安そうな表情はまったく見られなかった。むしろ朝鮮労働党への信頼感を示す人がほとんどだった。街には「党が決めれば、私たちはやる」というスローガンが掲げられていた。それは著者が最初の訪朝をした84年当時からあったもので、ソ連・東欧事態を契機に強調され出したものではなかった。
「党と大衆との一体性」の喪失が、ソ連・東欧激変の原因であり、北朝鮮の独自路線が依然堅実なのは、このスローガンにもっとも凝縮されていると思えた。
その「ソ連事態」が収まって半月もたたない時期に金主席に直接、会見できたのは稀有のチャンスだった。

【ソ連崩壊を早くから予測】

「モスクワで雨が降れば、自分の上には降ってもいないのに傘を差すような人達がいました」と、自主性のない東欧諸国の指導者たちを皮肉り、笑い飛ばした。
「私たちはソ連の事態をみても、「体に合えば消化し、一度口に入れても胃が受け付けなければ、吐き出せばよい」と考え、朝鮮式(ウリシク=我々の方式)社会主義建設路線を堅持してきました」
「私たちはワルシャワ条約機構にも、コメコン(社会主義諸国間の経済協力機構)にも参加しませんでした。当時、多くの国々が社会主義共同体万歳を叫びましたが、いまやすべて消え去ってしまいました」
金主席は「どこにいます?みんな消えちゃいましたよ」と手でジェスチャーをしながら左右を見回し、さも楽しそうに語った。
*바르샤바 조약 기구(바르샤바 條約 機構, 러시아어: Организация Варшавского договора 오르가니자치야 바르샵스코고 도고보라[*], 영어: Warsaw Pact 워소 팩트[*], 문화어: 와르샤와 조약 기구)는 1955년 5월 14일 폴란드 바르샤바에 모인 동구권 국가 8개국이 니키타 흐루쇼프의 제안을 통해 결성한 군사 동맹 조약 기구로, 정식 명칭은 우호협력상호원조조약(러시아어: Договор о дружбе, сотрудничестве и взаимной помощи, 영어: Treaty of Friendship, Co-operation, and Mutual Assistance)이다.
*경제상호원조회의(經濟相互援助會議, 러시아어: Сове́т экономи́ческой взаимопо́мощи 소베트 예코노미체스코이 브자이모포모시[*], 약칭 СЭВ, 문화어: 경제호상원조리사회(經濟互相援助理事會), 쎄브)는 1949년 1월 소련의 주도 아래 중앙유럽 국가들을 중심으로 한 공산주의 국가의 경제 협력 기구로서 결성되었다. 간략하게 코메콘(COMECON, Council for Mutual Economic Assistance)이라고 부르기도 한다. 본부는 소련 모스크바에 있었다.
「私たちは外国に向け、わが国を宣伝しようとは思っていません。静かに私たちのやり方で国を建設して行きたいと思っています」と言葉を継いだ。
西側諸国で、北朝鮮がソ連政変の影響を受けているという見方が強いことを知っていて、意識して独自路線を強調したわけだが、長く続いた中ソ対立の間も、巧妙な等距離外交を展開し、非同盟第三世界各国との連携強化で乗り切ってしまった北朝鮮にとっては、中ソ両国内でどのような激変が起きようとも、それに巻き込まれないとう万全の策を講じていたことは間違いない。
金主席は84年夏、モスクワを経て東ドイツなど東欧諸国を歴訪、工業技術など先進的な部分の発達に目を向け、帰国後、対外開放政策の皮切りとして諸外国との経済協力を可能とする合弁法を制定した。だが翌年、ペレストロイカを引っ提げて登場したゴルバチョフ氏の政策展開にはソ連崩壊の今日を予測したのか、警戒心を募らせながら注視してきた。


ソ連の体制崩壊はソ連共産党体制の崩壊だけでなく、ワルシャワ・コメコン体制全体の崩壊をもたらした。ゴルバチョフ氏は主権を大幅に制限された衛生国としての東欧諸国を、そのくびきから解き放ち、同時にソ連邦を解体してしまった。
モスクワへの従属を余儀なくされてきた「モンゴル」を除き、中国、北朝鮮、ベトナムなどアジアの社会主義国はソ連・東欧ブロックと別個の道を歩んだ点こそが強調されるべきだろう。
このことからも心理的、経済的なショックは別として、ソ連・東欧崩壊がそのまま北朝鮮の社会主義経済を」を変更する要員にならないこともはっきりしている。
東欧諸国は市民社会を経験した後、第二次世界大戦をへて西欧とソ連と間の緩衝材とされ、ソ連軍の下でソ連型共産主義を受け入れるよう強制された。
金日成主席の率いる北朝鮮は36年間の日本植民地統治下で激しい抗日武装闘争を繰り広げたパルチザンが中心となって社会主義体制を形成した。ソ連および中国から物心両面の協力を受けたことは当然だが、北朝鮮の創建および社会主義体制の選択は、朝鮮民族の主体的、自主的なものであった点が東欧諸国と本質的に異なる。

【アジア社会主義の共通性、民族主義と植民地解放闘争の歴史】
アジア社会主義国のうち、ベトナムのホー・チミン、中国の毛沢東、周恩来、北朝鮮の金日成、あるいはビルマのオンサン(アウンサン)など建国の指導者が欧米日帝国主義国の植民地支配に対して果敢な闘争を指導した「民族の英雄」という共通項をもっていたことも東欧諸国との大きな相違点として挙げられている。

*アウンサン(ビルマ語: အောင်ဆန်း、ラテン文字転写: Aung San、1915年2月13日 - 1947年7月19日)またはオンサンは、ビルマ・ミャンマーの独立運動家、軍人、政治家。日本名は面田 紋次(おもた もんじ)。「ビルマ建国の父」として死後も敬愛されており、日本のメディアでは「アウン・サン将軍」と呼ばれることが多い[1]。ミャンマー民主化運動を指導し、現在は国家顧問として実質的な国家指導者の地位にあるアウンサンスーチーは長女。
보조 아웅산(버마어: အောင်ဆန်း 아웅 산, 1915년 2월 13일 - 1947년 7월 19일)은 미얀마(버마)의 독립운동 혁명가이자 정치인, 군인이다. 아웅산은 미얀마 군대의 설립자로, 현대의 미얀마의 아버지로 여겨진다. 아웅산은 영국의 지배에 있던 버마의 독립을 이루어냈지만, 목적을 이루기 6개월 전 암살당하였다. 또한, 그는 아웅산수찌의 아버지이다.
ソ連への隷属により社会主義体制を強いられた東欧諸国と、民族の解放と独立と同時に社会主義体制を始動させた北朝鮮との間にはどのような点をとっても共通点を見い出せない。
このような歴史的な成り立ちを無視し、北朝鮮の社会主義体制の予測をすることは的はずれに終わる可能性が強い。
金主席は91年10月3日から13日まで中国を公式訪問した。「ソ連事態」のあとだけに、朝中両国の友好関係の再確認に重点が置かれたが、それは冷戦体制下の軍事同盟的きずなだけではなく、朝中がそれぞれ朝鮮式、中国式社会主義の道を歩もうという「申し合わせ」の場となった。公式非公式あわせ39回目といわれる金主席訪中は、北朝鮮からみて、中国の社会主義建設路線に動揺があるかどうかを見極める重要な機会だった。それはソ連・東欧激変よりも、国境を接する隣国、中国の変質の方がはるかに北朝鮮にとっても大きな関心事であることを示している。中国の改革開放政策の長短を慎重に分析し、協調できるところはできるだけ協調しようという柔軟な姿勢を示している。
朝中両国は、軍事的、経済的な関係よりも、「社会主義体制堅持」を軸にした政治的関係を発展させることで両国の利害が一致したとみるべきであろう。金主席訪中直後の91年10月19日から著者は6度目の訪朝をした。当時、平壌のテレビは連日、金主席の訪中時の交歓風景を流していた。朝中両国が以前にもまして、対等で共存的、並立的な形の関係になっていることを印象づけるものになっていた。
第三章で触れた金正日書記が青年に与えた書簡は、もちろん人民が「ソ連事態」に対し、無用に動揺することのないよう独自路線の堅持を呼び掛ける思想強化政策の一貫であり、「党と人民の一体性」維持に力点が置かれていた。同書簡は、金正日書記が91年5月5日に党中央委の責任幹部と行なった談話「人民大衆中心の朝鮮式社会主義は必勝不敗である」を基礎にしたものである。この談話はソ連・東欧激変を総括し、北朝鮮としてのこれからの指導方針を明確に打ち出している。
内容をみると、朝鮮式の社会主義の哲学的基礎と、社会主義制度の持つ本質的な優位性について言及し、朝鮮式社会主義の力の源である「政治的指導者と党、および人民」の堅い結びつきを解明し、チュチェ思想に基づく社会主義学説について論じている。この談話は現在、北朝鮮では国際的に社会主義「理念」と、社会主義建設路線に関する「混乱」を、思想的、理論的に整理して、自主性に基づいた新しい社会主義の方向を明示したものであり、「社会主義偉業の正当性と不敗性を論証した百科全書的文献」と受け止められている。

【人間中心の新しい哲学思想を創始】
朝鮮大学の朴庸坤副学長が同文献を解説した要旨を紹介する(「朝鮮時報」91年7月4日付)。
一、今日ほど社会主義と資本主義が鋭く対立し、どちらの制度を選ぶべきかを迫る時期はなかった。これは人間の本質的特性である「自主性の実現を指向する人民大衆と、滅亡する世界の帝国主義」との熾烈な闘争である。
一、社会主義か資本主義か、は本来、成立し得ない設問である。なぜなら社会主義は人間による人間の搾取と圧迫という不条理を克服し、すべての人々が豊かで平等に生活しようとする人間の本性的要求を実現する思想であり、社会主義制度は資本主義制度の基本的矛盾が激化した結果、社会発展の必然的な過程で樹立された制度だからである。
一、にもかかわらず今世紀末になって、東欧諸国で社会主義建設が中断され、政治経済の混乱が発生したことは、われわれにとって厳しい教訓を学び取る重要な問題を提起している。それは第一に、社会主義理念の硬直化として表われた「哲学の貧困」であり、第二には、人民大衆の自主的要求と利益を無視した「官僚体制」であり、第三に、帝国主義勢力に比べて社会主義の国際的、国内的な「革命勢力の未成熟さ」にある。
一、その原因はマルクス・レーニン主義学説を変化する現実に合わせ、絶えず発展させる代わりに、長い間、教条主義に陥り、経済偏重の社会主義建設路線、および人民不在の党建設理論を持続するなど、深刻な「思想理論的な欠陥」にある。
また、政治指導者を中心とする前衛党の指導的役割を強化しながら、人民大衆を一つの主体的勢力に発展させることができなかった国内の問題、および帝国主義勢力に対抗する国際共産主義勢力と、反帝勢力を一つに団結させることができなかったためである。
一、朝鮮では金日成主席が朝鮮革命を指導した当初から、社会主義に対する既存の公式と理念から脱皮し、人間中心の新しい哲学思想を創始した。また政治的指導者、党、人民大衆の社会政治的生命体の強化を、「革命の運命を左右する根本問題」として想起し、独自の社会主義革命と建設を指導してきた。
朴庸坤解説は、「朝鮮人民は現在、複雑多難な情勢下で自ら選択し創造してきた朝鮮式社会主義に対し、誇りと自信を持ち動揺せず、社会主義の道を力強く歩んでいる」と述べ、「深刻な歴史的教訓にしたがって、朝鮮人民が指向しなければならない真の社会主義とは、従来のすべての社会主義理念を止揚した。新しい思想に基づく社会主義である」と結んでいる。
北朝鮮の指導思想については、全今哲。祖国平和統一委員会副委員長が来日したさいも、「我々の社会主義と、東欧の社会主義の重要な相違点は指導思想であり、向こうはマルクス・レーニン主義、こちらは人間の主体性を尊重するチュチェ(主体)思想である。哲学思想が違うということは、それを基礎にした国家政策、党のあり方、人間の考えにいたるまですべてが異なることを意味します」(月刊誌「統一評論」91年11月号インタビュー)と説明している。金永南外相もこのころ外国誌との会見で、マルクス・レーニン主義の放棄を明言している。

【分断の克服と民族統一の手段としての社会主義】
また北朝鮮が「独自の社会主義路線の堅持」を強調するのは、分断された民族の再統一という大命題を抱えていることを切っても切れない関係にあるからだ。
日本の植民地支配からの解放の喜びをかみしめるまもなく、新たな民族分断の悲劇が朝鮮半島を襲った。米国による38度線の一方的な策定、米軍政の南朝鮮占領に国連による38度線以南での分断国家、大韓民国の成立ーである。「民族統一の米帝国主義との闘争を強化する」という側面からも、北朝鮮の社会主義建設路線は強力に推進されなければならなかったし、民族の解放・統一という最大の課題が実現していない現在、北朝鮮が社会主義体制をいささかも変革させる理由がないといえる。
だが「独自の社会主義建設路線の堅持」は、同時に自立的民族経済路線であり、不断の対外開放と改革を伴う必要があることはいうまでもない。
前術のように、具体的に北朝鮮が合弁法制定という独自の「対外開放政策」をとったのは84年である。社会主義諸国間の経済交流に加え、友好的な資本主義諸国との交易、技術・経済交流、事業協力などを盛り込んでおり、中国の開放・改革路線とも協調する動きとして注目された。だが今日まで見るべき成果を挙げていないのは、米日両国など西側各国の硬直的な対応に大きな原因がある。米国のココム(対共産圏輸出統制委員会)規制は厳重をきわめ、またこの間、もっとも関係改善が期待された日本は米国のアジア戦略に追随するのみで、北朝鮮敵視政策を変更しようとしなかった。共産主義封じ込め戦略という冷戦思考からの脱却という点で大きな遅れをとったのは、むしろ米日朝だった。
*코콤(Coordinating Committee for Multilateral Export Controls対共産圏輸出統制委員会 , COCOM: 대(對)공산권 수출통제위원회의)이란 제2차 세계 대전이 끝난 후, 냉전 기간 중 첫 5년 동안[1] 서방권에 의해 코콤(다자간 수출 통제 조정위원회)이 설립되어 공산권의 경제상호원조회의 (CoCom) 국가에 경제 제재를 시행했다. CoCom은 1994년 3월 31일부터 기능을 중단했으며, 그후에 바세 나르 협정 (Wassenaar Arrangement )이 설립된 후에도 코콤 회원국들은 수출금지 상품목록이 정해져 있다.
金主席は、午餐の終わりにソ連から離脱したモンゴルの経済発展の必要性に触れた。
「モンゴルは内陸部のため、外国との貿易には限界があるというので、私は東海岸の先鋒、躍津、清津の各湾港を利用したら、と提案しました。ここからは新潟にも近く、日本や諸外国のとの貿易が一気に拡大できるからです。我が国は湾港を使ってくれるだけでいいのです」

*モンゴル国(モンゴルこく、モンゴル語: Монгол Улс,ᠮᠣᠩᠭᠣᠯᠤᠯᠤᠰ、英語:Mongolian State)は、東アジア北部に位置する共和制国家。首都はウランバートル。東と南の二方向を中国内モンゴル自治区と、西を新疆ウイグル自治区、北をロシア連邦とそれぞれ接する[2]内陸国。モンゴル高原のうち、外蒙古(がいもうこ、そともうこ)と呼ばれたゴビ砂漠以北の一帯にほぼ該当する領域を国土とする몽골국(몽골어: Монгол Улс 멍걸 올스 이 소리의 정보듣기 (도움말·정보))은 동아시아의 내륙국이다.[1] 북쪽에는 러시아와 접하고 있으며, 남쪽으로는 중화인민공화국의 내몽골 자치구가 있다. 러시아와 중국의 영토가 몽골과 카자흐스탄 사이의 국경을 갈라놓고 있기에 서쪽에 있는 카자흐스탄과는 국경을 접하고 있지 않다.
*羅津先鋒經濟特區(韓語:라진선봉 경제특구 / 羅津先鋒經濟特區)是一座位於朝鮮民主主義人民共和國東北部羅先特別市的經濟特區,與臺灣的加工出口區、中國大陸的經濟特區屬類似概念的工業區。
*청진시(淸津市)는 조선민주주의인민공화국 함경북도 동해안에 있는 시이자 함경북도청 소재지이다. 조선민주주의인민공화국에서는 평양직할시, 남포특별시, 함흥시에 이어 4번째로 인구가 많은 도시이다. 면적은 1,855 km²이고, 인구는 약 67만 명이다.
これは91年8月の海部首相(当時)のモンゴル訪問を念頭に入れた発言であり、西側各国との経済協力・交易に積極的な姿勢をうかがわせるものとなっている。
*가이후 도시키(일본어: 海部俊樹(愛知県出身), 1931년 1월 2일 ~ )는 일본의 정치가로, 1989년 8월 10일부터 1991년 11월 5일까지 제76·77대 내각총리대신을 지냈다.
また日本で最近、取り上げられることが多い環日本海経済圏(北東アジア経済圏)構想の要ともいえる朝ソ中三国国境の豆満江河口域開発にも北朝鮮が国連開発機構(UNDP)と協力して中心的役割を果すことが確実になっている。著者が91年9月14日、会見した金容淳書記(当時・党国務部長)は「我が国でも開発方式などの研究と検討を進めてきた。近く法整備を終え、関係各国との具体的な協議を始めたい)と明らかにした。
今後の問題はこのような対外開放政策をとる北朝鮮に対し、米日などがどのように柔軟に対応するかが世界の注目を集めることになるだろう。

【戦時経済体制から民族産業発展に向かう】
ソ連政変、国連加盟など内外情勢の激変を受けて北朝鮮は予想されたとおり、独自の「改革」路線を示し始めた。91年秋の好調な農業生産をてこにして、人民生活の向上を目指す軽工業部門の充実も軌道に乗り始めているが、さらに「全産業の民主化」という大改革が進行している。朝鮮半島の緊張緩和を先取りしたこのような動きは「対外開放」の重要な前提条件となっており、その成否が注目されている。
著者が実際に現地で見た91年のもっとも大きな特徴は食糧事情が目にみえて良くなっていることだった。同国北部、咸鏡南道の農工業の現場を直接視察してきたばかりの金主席は、著者に稲、トウモロコシが良好な作柄だと語り、「わが国では1000万トンあれば十分だが、今年は1300万トンに達するでしょう」と満足そうだった。
*함경남도(咸鏡南道)는 조선민주주의인민공화국 동부에 있는 도이다. 함경남도청 소재지는 함흥시이다.

天候だけでなく、肥料工場の大型化、近代化による成果だという評価がされていた。
91年11月に入ってから各地で、農業協同組合員に対する年間決算分配が始まった。朝鮮中央通信によると、南浦市の青山里農場でも年初計画より穀物7・4%、野菜5・8%、果物3・7%、肉1・4%、蚕3・3%の超過達成と発表されている。人民の消費生活の充実ぶりは、平壌市内の大小百貨店の商品の数量で分かる。衣料品は原色から中間色のものが増え、台所用品や文具も種類と質が急速に変わっていることが実感できる。
*남포특별시(南浦特別市)는 한반도 북서부 해안에 위치한 조선민주주의인민공화국의 항구 도시이다. 이 도시의 남포항은 수도인 평양과 해외를 연결하는 관문이자 국제 무역항으로 일찍이 항만 교통이 발달하였으며, 1986년에 서해갑문이 건설되었다.
これは89年秋、平壌で開催された「第13回世界青年学生祭」を契機に進められた消費物資の質向上と供給拡大政策が成果を挙げてきたためといわれる。まだまだ「消費は美徳」の線にはほど遠い状態だが、従来、戦備のための国債購入と貯蓄奨励がうたわれていたものの、最近はかなり緩められ、所得のうち消費に回せる比率が多くなったといわれている。
結婚式や各種の行事なども少しずつ華かになり、平壌中心部の万寿台広場前の街頭写真展も賑わいをみせていた。これもここ1年ほどの目立った現象の一つだろう。
*만수대(萬壽臺)는 조선민주주의인민공화국 평양직할시 중구역에 위치한 대동강 서안의 구릉 지대로 높이는 60m이다. 김일성 주석과 김정일 국방위원장 동상을 포함한 만수대대기념비, 천리마동상, 만수대예술극장이 들어서 있다.
北朝鮮の「変化」は各都市を結ぶ幹線道路の建設工事にも表われている。自動車輸送の増強に備えるためだが、北朝鮮の都市は朝鮮学校以来、ゲリラ基地として独立して戦えるようになっており、都市間を結ぶ道路は重要視されなかった。
なかでも板門店から開城を経て首都平壌まで直線で180キロ、片側三車線の高速道路の建設は米韓両国との緊張緩和を確信しなければ着手できない「改革」だ。戦争が勃発すれば、首都防衛はひとたまりもないからである。翌92年4月の金主席80歳の誕生日に開通させようと南から北へ向け舗装工事が急ピッチで進められ、予定通り完工した。車で3時間ほどの距離となった。
*개성특별시(開城開城市)는 조선민주주의인민공화국의 남부에 있는 도시이며 과거 고려의 수도로서 500여 년간 번영한 고도(古都)이다. 개성은 개경(開京), 송악(松岳), 송도(松都), 송경(松京) 등 여러 가지 이름으로 불리기도 하였다. 북위 38도 이남에 위치하고 있기 때문에 한국 전쟁 전에는 대한민국 경기도의 관할에 속하였으나, 한국 전쟁 중에 조선민주주의인민공화국의 관할이 되었다.
北朝鮮の重要産業は戦争に備え、半島北部の山岳地帯に最低2ヶ月以上に分散して同種の工場を建設してきた。被害を最小に抑える措置だったが、85年を境に多品種生産の軽工業部門は平地および都市近郊に建設されはじめ現在にいたっている。これまで同国最大の工業都市は東海岸の最北端、清津市(人口70万人)だったが、今では軍事境界線から100キロしか離れていない西海岸の南浦市(60万人)が近く100万都市に拡大されるプランが着々と進行している。南浦近郊は中小規模の製鐵所、建設資材など平壌市民の生活に直結する各工場が建設を急いでいる。同時に「自力更生」を基軸とする民族経済建設路線のスローガンは変わらない。水力資源の活用のほか、元山市に近い日本海での海底油田探査も行われている。

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