日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

★Bukharin and the Bolshevik Revolution: A Political Biography, 1888-1938 by Stephen F. Cohen ☆ブハーリンとボリシェヴィキ革命 政治的伝記1888〜1938 | スティーヴン・F・コーエン/CHAPTER II:The Triumph of Radicalism in 1917 第二章:急進主義の勝利ー1917年②



しかしこれらの点だけでは、ブハーリンのように独立精神をもったボリシェヴィクたちー彼もまた、10月以後の時期の国内政策危機に対して準備ができていなかったという点でレーニンと同断であったーも経済綱領について考えぬいておくことができなかったことの理由を十分には説明できない。問題はもっと深いところに及んでおり、勝利したボリシェヴィキ運動の眼前にまもなくつきつけられる大きなディレンマに関係していた。ブハーリンは、社会主義革命を倦むことなく主張していたが、この二つの事柄はどうやって両立させることができるのか?彼にとってもボリシェヴィキ指導部一般にとっても、答は、ロシアの革命と先進ヨーロッパ諸国の革命が有機的につながっていると想定されたということであった(その後数年間はやはりそうであった)。ロシアにおける社会主義政府が国内的に意味するところのものにたちむかうかわりに、ボリシェヴィキは、マルクス主義者にとって聖なる真実である想定に頼った。即ち、プロレタリア革命はブルジョア革命同様、国際的現象であろうという想定である。彼らの推論では、ロシアの社会的・経済的未成熟は西欧からの同志的援助と支持によって相殺され、克服されるであろうとされた。政策的展望の必要性をこうやって回避したことこそ、先に横たわっている経済的近代化その他の国内問題についてのボリシェヴィキの考えを曇らせた第一の要因だったのである。
*プロレタリア革命とは、プロレタリアートがブルジョワジーの国家を打倒し、プロレタリアート独裁を樹立し、ブルジョワジーの所有を公的所有に移すことにより、資本主義社会から社会主義社会への道を切り開くことを目的とした革命。Пролетарская революция Proletarian revolution
*市民革命(しみんかくめい)またはブルジョワ革命、資本主義革命[1]、民主主義革命[2]とは、封建的・絶対主義的国家体制を解体して、近代社会(市民社会・資本主義社会)をめざす革命を指す歴史用語である。一般的に、啓蒙思想に基づく人権(政治参加権あるいは経済的自由権)を主張した「市民(ブルジョワ・資本家・商工業者)」が主体となって推し進めた革命と定義される。代表例はイギリス革命(清教徒革命および名誉革命)、アメリカ独立革命、フランス革命など。Буржуазная революция Bourgeois revolution Bürgerliche Revolution
こうした問題回避は、1917年のブハーリンの思考に特に(彼だけにというのではないが)明白に現われている。ツァーリ退位後最初に発表された論文の中で彼は、ロシアの少数のプロレタリアートが勝利したとしても後進的・農民的社会の経済組織化という問題にどうやって対処できるのかという問題を提出し、こう答えた。「ロシア革命が古い資本主義諸国に波及し、遅かれ早かれヨーロッパ・プロレタリアートの勝利に導くだろうということは、一点の疑いもなく明白である。」別の言葉でいうならば、国際的革命が単一の「友愛的経済」をつくりだすであろうから、経済問題はその内容上国際的なのであった。ブハーリンの推論は1917年を通じて不変であった。ボリシェヴィキ蜂起の2日後に彼は、同じ議論をもっと明白に繰返した。「国際的革命は単にロシア革命を純粋に政治的に進めるだけではない。それは経済的強化をも意味するのだ。」慎重にも革命の「堅固」で「最終的な勝利」のみについて語っているのではあるが、社会主義ロシアが孤立したときの絶望についての彼の評価は、あいまいさを残していなかった。「ロシアのプロレタリアートの持続的な勝利は・・・西欧プロレタリアートの支持なしには考えられない。」
国際的革命の教義は、ロシア経済の未来をヨーロッパ反乱の成功と結びつけることによって、ボリシェヴィキの眼を国内の現実からそらせ、工業と農業のプログラムの必要性をぼかし、彼らの注目をヨーロッパのできごとのみに偏執的に向けさせた。その結果、1917年の党の主要教義の一つー革命戦争の信念―が生まれたのである。必要とあれば革命戦争によって、ロシアは孤立を脱し、ヨーロッパの先進工業諸国への命綱をのばすだろうというのである。ブハーリンは、夏の第6回党大会でこう約束している。
「勝利した労農政府の前には、革命戦争―即ち、未だ勝利していないプロレタリアたちへの武装援助―の宣言が日程にのぼるだろう。この戦争は様々な性格を帯びうる。崩壊した経済有機体を回復させることにわれわれが成功すれば、われわれは攻勢にでることができる。しかし、攻撃的革命戦争を遂行するだけの力を奮いおこすことができなければ、防衛的な革命戦争を行なうだろう・・・これは全プロレタリアートの利害の名における聖戦であり、武器をとれという兄弟的なよびかけのように鳴りひびくだろう。このような革命戦争によってわれわれは、世界社会主義革命の火を燃えたたすのである。」
革命戦争は1917年のボリシェヴィキの思考の公認の、不可分の構成部分となったが、それは主として、社会的変化と経済的発展のプログラムの欠如を埋めてくれるからであった。

ブハーリン以上にヨーロッパ革命の展望にとりつかれたボリシェヴィキ指導者は、他にはいなかったようである。ほんの一つの例を挙げるならば、10月革命の前夜に彼が提起した旧秩序の理論的モデルは、やはり国家資本主義、即ち最も進んだ資本主義社会のモデルであった。これがロシアの現実からかけはなれていることは、ブハーリンがますます革命的になっていくロシアの農民について1917年に、時たま、奇妙に不適切な形で言及していることによって一層きわだっている。7月には、彼はこう論じている。戦争は資本主義諸国における資本の集積と集中を大いに加速したので、小生産者―プチ・ブルジョアジーーは意味のある政治的・経済的役割を演じなくなりつつあるというのである。こう言われているその時に、空前の規模の反地主的革命がロシアの農村を変革し、土地を分割し、小農を農村の優勢な要素とし、ロシアの農業のプチ・ブル的性格を強めていたのである。
*小ブルジョワ(仏: Petite bourgeoisie,プチ・ブルジョワジー)とは、マルクス主義の用語。僅かな生産手段を私有する者を指す。自作農や商店主の他、知識を切り売りする弁護士や医師などの専門家、才能や技能を切り売りする芸術家や俳優も含む。小市民とも書く。もともと、18世紀から19世紀初頭の資本主義社会において資本家階級と労働者階級の間に位置する下位中産階級のことであり、具体的には農民・小商店主・職人がこれにあたる。後に学生・サラリーマン(ホワイトカラー)・その他専門家なども含むようになった。なぜ彼らが資本家と労働者の中間とみなされたのかというと、資本家のように多くの労働者を雇用するほどの私有財産(生産手段)を所有しているわけではないが、労働者のようにほぼ完全に生産手段を剥奪されたわけでもないためである。職人、学生、その他の専門家などの特別な知識や技能も一種の「生産手段」とみなされたため、小ブルジョワにカテゴライズされる(サラリーマンも会計などの技能や一定の知識・教養が必要とされたことから小ブルジョワとみなされた)。
*ブルジョワジー(仏: Bourgeoisie)は、中産階級の事であり、有産階級とも。特に17 - 19世紀においては革命の主体になりうるほどの数と広がりを持つ階層であったが、市民革命における革命の推進主体となった都市における有産の市民階級をさす場合も有る。貴族や農民と区別して使われた。短くブルジョワ(仏: Bourgeois)ともいうが、これは単数形で個人を指す。20世紀の共産主義思想の下で産業資本家を指す言葉に転化し、共産主義者の間では概ね蔑称として用いられたが、この資本家階級という意味では上層ブルジョワジーのみをさしている。

こういうわけであったから、ブハーリンの社会主義革命の概念に、蜂起するロシアの農民とまさに進行中の土地革命の余地がほとんどなかったのは驚くにあたらない。農民はただ「土地を守るため」にだけ闘う「所有階層」であるとみなした彼は、ほとんどのボリシェヴィキ同様、進行中の革命を二段階の過程と考えていた。「第一の局面では、土地を熱望している農民の参加の下に、第二の局面―満足した農民の脱落後―は、プロレタリア分子と西欧プロレタリアートのみがロシアのプロレタリアートを支持するプロレタリア革命の局面である。」ということは、1917年の二つの大変動―農村と都市のーは袂をわかたねばならず、「農民とプロレタリアートの深い原則的不一致」の故に衝突せざるをえない、ということになる。ここでもまた、ロシアのプロレタリアートの不可欠の同盟者と想定されたんはヨーロッパのプロレタリアートであった。ブハーリンは後にこの厄介な考えを修正し、二つの革命は実際上単一の思いがけない激変の構成要素だったのだということを見出したが、この点こそ、1920年代の彼の思考の基礎となったのである。しかし、1917年の彼の概念は、ボリシェヴィキのディレンマを凝縮させるのに役だっただけであった。
*プロレタリアート(ドイツ語: Proletariat)とは、資本主義社会における賃金労働者階級のこと。無産階級とも。個々の賃金労働者はプロレタリアと呼ばれる。雇用する側の資本家階級を指すブルジョワジーと対になった概念で、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが『共産党宣言』で使った例によって広く普及した。
理由はどうあれ、ボリシェヴィキが権力獲得以前に経済的プログラムについて考えていなかったという事実は、後に起きた論争における重要な要素となった。党の革命的野心と社会主義的信念にふさわしい、実行可能な経済政策が12年間探求され続けたことの背景となったのは、この事実であった。このことによってまた、その探求は人々の意見を分かつものとなり、基本的原則に関する合意の欠如によって特徴づけられることとなったのである。特に、ブハーリンの10月革命後の政治的段階の主要テーマーロシアにおける「社会主義建設」のプログラムと理論を発展させる一貫した努力―の背景をなしたのもこの事実であった。党の指導的理論家たる彼がこの課題にいかに準備ができていなかったかということは、まもなく彼が左翼共産主義的反対派に参加したことによって示されることになる。このことはー革命戦争のことはさておきー彼が、突然ロシアの統治者となった党に提起すべき長期的政策をもっていなかったということを暴露したのである。

ブハーリンの有名な左翼共産主義の要素は既に1917年に現われてはいるが、1921年までの彼を特に極左政策の教条主義的主張者と描きだす類型化されたイメージは、若干の修正を要する。明らかに、ボリシェヴィキ左派にしろ右派にしろ、国内政策に容易に適用できる教義をはじめからもってはいなかったのである。即興の方が適例となった。また、既にみたとおり、ブハーリンは穏健さや妥協を気質的にうけいれられないというのでもなかった。1917年においても彼は「レーニンより左翼的」だったという噂は、明らかに、1903年の党綱領を改訂する問題をめぐって起きた彼らの短い字義上の論争についての誤解から生じたものである。ブハーリンは、独占以前の資本主義に関する古い理論的導入部を、国家資本主義と帝国主義についての彼の考えを反映した新しい叙述におきかえようとした。レーニンは、古い導入部は本質において今なお適切であると主張した。この論争は、現代資本主義に関する彼らの理解に潜在していた相異点を突然明るみに出し、それほどではないが、自決をめぐる論争を再燃させたのであるが、現実の党の政策や戦術―この点においては彼らは一致していたーに関わるものではなかったのである。
その上、1917年においてさえもブハーリンの急進主義は現実主義的節制や妥協を排するものではなかったという証拠が度々みられるのである。例えば、失敗に終わった7月の街頭デモのときに蜂起を主張したビューロー指導者が何人かいたが、彼はその1人ではなかった。また第6回大会において穏健派と急進派を分かった様々な戦術問題に関する彼の見解は、一貫して左翼的というものではなかった。ある問題については、彼は「一方または他方の潮流」を支持することを拒んで中間的な立場にたち、別の問題に関しては、左派から異論を反駁して、ロシアにおける革命の波は一時的に退いていると論じた。彼は、革命戦争に関する決議を、ロシアがそういう戦争を遂行し得るだろうかという疑問に適応するように修正する用意さえあった。そして9月のある重要な事例については、彼は明らさまにレーニンより右翼的だった。彼は、中央委員会の残りのメンバーと同じく、即時の蜂起を要求したレーニンの手紙を退ける(そして焼きすてる)ことに賛成投票したのである。最後に、ボリシェヴィキ蜂起の2日後に発表された慎重な論文において彼は、勝利によって大胆になるというよりは、今後の「狂信的な」困難を前にして冷静な調子になっている。明快な解決は手近にはないと彼は警告し、党はきっと誤りを犯すだろうと述べているのである。
実際的な穏健政策を受容する能力は、ボリシェヴィキ統治の最初の数ヶ月における対外政策をめぐる激しい論争によって減少し、後景に退いていった。後に、ブハーリンが党の国内政策の問題を意識しだし、長期にわたって社会的激変に固有の外傷に気がついたとき、この穏健政策は彼の思考の隅石となるのである。というのは、彼はボリシェヴィキ政府が国内的に意味するところのものを無視していたことに加えて、後に「革命の費用」とよぶようになるものを考慮にいれていなかったのである。とりわけ彼は、3年に及ぶ内戦を予測していなかったのであるが、この内戦こそは、4年にわたるヨーロッパの戦争と革命とによって既にロシアに課せられていた破壊と苦悶を凝縮させることになるのである。特に彼の勘定に入っていなかったのは人的費用であった。階級闘争という不定形なマルクス主義的概念が10月革命以前の彼の著作に現われているのは、「収奪者の収奪」-財産の移転と富の再分配を約束するものであって、略奪者の流血の惨事ではないーとした位でしかなかったのである。
*階級闘争Классовая борьба(かいきゅうとうそう、Class conflict, class warfare, class struggle, class fight)とは、生産手段の私有が社会の基礎となっている階級社会において、階級と階級とのあいだで発生する社会的格差を克服するために行われる闘争。この闘争により革命が起きるとされている。対義語として階級協調が挙げられる。
モスクワの流血の戦闘はボリシェヴィキ側だけで500人の死者をだしたが(ペトログラードでは6人だけだった)、このことが既にブハーリンの目を、差し迫る「革命の費用」に向けさせていたのかもしれない。ストゥーコフは後に、彼とブハーリンが勝利の報告にペトログラードに着いたときの彼らの気分を、こう回想している。「私が犠牲者の数について話し始めようとしたとき、何かがのどにこみあげてきて、私はしゃべるのをやめた。ニコライ・イワノヴィチがひげの労働者の胸の上に身をなげだしているのが見えた。彼らはすすりなき始めた。人々は泣き始めた。」本当の革命が始まっていたのだった。

None of these considerations, however, fully explains why independent-minded Bolshevik like Bukharin-who was no more prepared for the domestic policy crises of the post-October period than Lenin-had failed to think seriously about an economic program. The problem ran deepest, touching on the major dilemma that soon confronted the victorious Bolshevik movement. Despite his persistent advocacy of socialist revolution, Bukharin leadership generally, the answer was ( and remained for several years ) the presumed organic relationship between revolution in Russia and revolution in advanced European countries. Instead of confronting the domestic implications of socialist government in Russia, Bolsheviks fell back on the assumption, a revered verity for Marxists, that proletarian revolution, like its bourgeois predecessor, would be an international phenomenon. Russia’s social and economic immaturity, they reasoned, would be offset and overcome by comradely aid and support else, clouded Bolshevik thinking about economic modernization and other domestic problems that lay ahead.
Such escapism was particularly ( though not uniquely ) evident in Bukharin’s thinking in 1917. In his first article published after the fall of the czar, he questioned how Russia’s small proletariat, if victorious, could cope with the economic and organizational problems of a backward peasant society. And he answered: “There is no doubt whatsoever that the Russian revolution will spread to the old capitalist countries and that sooner or later it will lead to the victory of the European proletariat.” Economic questions, in other words, were international in content, since international revolution would result in a single “fraternal economy.” Bukharin’s reasoning remained unchanged during the course of 1917. Two days after the Bolshevik coup, he repeated the argument, making it even more explicit: “International revolution means not only the purely political reinforcement of the Russian revolution. It means the economic reinforcement.” While carefully speaking only of the “firm” and “final victory” of the revolution, his appraisal of the prospects of an isolated socialist Russia was unambiguous: “A lasting victory of the Russian proletariat is . . . inconceivable without the support of the West European proletariat.”
No Bolshevik leader seemed more distracted by the prospects of European revolution than Bukharin. On the eve of October, to take only one example, his proffered theoretical model of the old order was still state capitalism, that is, the most advanced of capitalist societies. Its remoteness from Russian reality was underlined in 1917 by Bukharin’s infrequent, strangely inappropriate references to Russia’s increasingly revolutionary peasantry. In July, he argued that the war had so accelerated the concentration and centralization of capital in capitalist countries that small producers-the petty bourgeoisie-were rapidly ceasing to play a meaningful political or economic rule. This at a time when an anti-landlord revolution of unprecedented dimensions was transforming the Russian country-side, dividing the land, establishing the small peasant farmer as the predominant figure in the village, and deepening the petty bourgeois character of Russian agriculture.                
Not surprisingly, then, Bukharin’s conception of socialist revolution left little place for the insurgent Russian peasant and the agrarian revolution then under way. Viewing the peasantry as a “proprietary group,” willing to fight only in “defense of its land,” two-stage process: “the first phase-with the participation of the peasantry which is striving to obtain land; the second phase-after the direction of the satiated peasantry-the phase of the proletarian revolution, when only proletarian elements and the proletariat of Western Europe will support the Russian proletariat.” This implied that the two upheaval of 1917-rural and urban-would necessarily part company and, because of “the deep principled difference between the peasantry and proletariat,” come into conflict.” Again, the Russian proletariat’s supposedly indispensable ally was its European counterpart. Bukharin’s subsequent revision of this awkward understanding-his discovery that the two revolutions had in fact been component parts of a single fortuitous upheaval-underlay much of his thinking in the 1930s. His conception in 1917, however, served only to compound the Bolshevik dilemma.                       
Whatever the reasons, the Bolsheviks’ failure to think about an economic program before taking power became an important factor in the controversies that followed. It set the stage for the party’s twelve-year search for viable economic policies commensurate with its revolutionary ambitions and socialist faith. It also assured that the search would be bitterly divisive, marked by an absence of consensus on basic principles. In particular, it set the stage for the central theme of Bukharin’s political career after October-his persistent effort to develop a program and theory of “building socialism” in Russia. How little he-the party’s leading theorist-was prepared for the task would soon be demonstrated by his participation in the Left Communist opposition, which revealed that, apart from revolutionary war, he had no long-range policies to offer a party that had suddenly become the government of Russia.
While elements of Bukharin’s famous of him as a particularly doctrinaire proponent of extremist policies before 1921 requires some revision. Clearly, neither the Bolshevik Left nor Right began with doctrines easily applicable to domestic policy; improvisation was to be the rule. Nor, as we saw earlier, was Bukharin temper-mentally incapable of modernization and compromise. The rumor that even in 1917 he was “more Left than Lenin” apparently derived from a misunderstanding of their brief literacy debate over the updating of the party’s 1903 program. Bukharin wanted to replace the old theoretical introduction on pre-monopoly capitalism with a new description reflecting his ideas about state capitalism and imperialism. Lenin insisted that the old introduction was still relevant in its essentials. Though the dispute suddenly revealed the differences implicit in their understandings of modern capitalism, and to a lesser extent revived the controversy over self-determination, it did not involve actual party policy or tactics, on which they agreed.                                                                           
There was moreover, recurring evidence even in 1917 that Bukharin’s radicalism did not prelude realistic moderation and compromise. He was not, for example, among those several Bureau leaders who urged insurrection during the abortive street demonstration in July. Nor were his views on the various tactical issues that divided moderates and radicals at the Sixty Party Congress consistently leftist: on one, he took a middle position, refusing to support “one tendency or the other”; on another, he argued, against objections from the Left, that the revolutionary tide in Russia was temporarily spent. He was even willing to amend his resolution on revolutionary was to accommodate doubts that Russia would be able to wage such a war. And on one important occasion in September, he was plainly less radical than Lenin: he and the rest of the Central Committees voted to reject ( and burn ) Lenin’s letters demanding immediate insurrection. Finally, in a circumspect article published two days after the Bolshevik coup, he wrote in a tone less emboldened by victory than sobered by the “colonial” difficulties ahead. Clear-cut solutions, he wanted, were not in the offing; the party would certainly make mistakes.           
This capacity for pragmatic moderation was to be diminished obscured by the bitter controversies over foreign policy during first months of Bolshevik rule. Later, as Bukharin became aware of the party’s domestic problems and of the trauma inherent in prolonged social upheaval, such moderation would become the cornerstone of his thinking. For, in addition to having ignored the domestic implications of a Bolshevik government, he had not calculated what he would later call the “costs of revolution.” In particulate, he had not foresee the three-year Russian civil war, which was to compound the destruction and agony already inflicted on Russia by four years of European war and revolution. Least of all did he anticipate the human costs. The amorphous Marxist concept of class struggle figured in his pre-October writings as little more than the “expropriation of the expropriators,” promising the transfer of property and redistribution of wealth, not the murderous consequence of marauding armies.      
The bloody fighting in Moscow, where five hundred Bolsheviks alone died ( compared to a total of only six people in Petrograd ), may already have altered Bukharin to the impending “costs of revolution.” Stukov later recalled their mood when he and Bukharin arrived in Petrograd to report on their victory: “when I started to speak about the number of victims something welled up in my throat and I stopped. I see Nikolai Ivanovich throwing himself on the chest of a bearded worker, and they start to sob. People start to cry.” The real revolution had begun.







↑①1920年5月5日、首都モスクワМоскваスヴェルドロフ広場/пло́щадь Свердло́ва/Sverdlov Square(現シアタースクエアー/Театральная площадь/Theatre Square)で演説するレーニンЛе́нин。カーメネフКаменевとトロツキーТроцкийが演説の順番を待って演壇のステップにいる。後にスターリンСта́линによって粛清された2人は姿が削除(写ってる側は切り取られた)された(有名な偽造写真)②1917年11月7日(旧暦10月25日)ロシア帝国首都ペトログラードにおいてレーニンは(ボリシェヴィキによる権力掌握)「臨時政府は打倒され軍事革命委員会に権力が移った」と宣言した。翌日、冬宮は制圧され、ケレンスキーКе́ренский首相は外国大使館の車に乗り、逃亡。幾人かの臨時政府閣僚たちは逮捕される+正式なソ連邦の樹立は22年)。

↑別の角度から撮られた写真(すでにステップの2人は削除されている=トロツキー、カーメネフの順に消去された)。

↑(1)1920年7月、モスクワ。第二回コミンテルン国際大会The Second Congress of the Communist Internationalにて演説するレーニン (左隣にはラデックРа́дек(執行部書記)が座っている)(2)ソ連邦国歌Государственный гимн СССР(1977年(ブレジネフバージョンБрежневский)版)①↑の写真のオリジナル(偽造前)+トロツキーが演説している写真も出てきます(演説を終えたレーニンとカーメネフが、演壇のステップでトロツキーの演説を聞いている=こうした(粛清された人間たちが出ている)写真や映像はゴルバチョフによる「グラスノスチ(情報公開)」以降、さらにソ連解体後に一般公開された)②集会終了後、談笑している3人((左)トロツキー(中央)レーニン(右)カーメネフ)の写真も込み③演説するレーニン(付き添っているスヴェルドロフ)の横にいるスターリンが描かれている絵画は、スターリン時代に創作されたもの④最後に(レーニン死後の)1924年7月、モスクワで開催された第五回コミンテルン国際大会The Fifth Congress of the Communist Internationalにおける若きNguyễn Ái Quốcグエン・アイ・クォック阮愛国(当時24歳(アジア担当の常任委員に選出された)後のHồ Chí Minhホー・チ・ミン胡志明Хо Ши Мин主席)が出てきます(映像も残っています+トロツキーと懇談している写真もあるhttp://www.cyberussr.com/rus/ho-chi-minh-trotsky.html)。

*Death of Yakov Sverdlovヤコフ・スヴェルドロフЯков Свердловの死因について: There are various theories on how he died and none can be proven officially such as poisoning, beating or flu(彼がどのように死んだかは様々な説(毒を盛られた、殴打された、あるいは流感で発病)があるが、どれも公式には確証されていない)He is most commonly attributed to have died of either typhus or more likely the Spanish flu, after a political visit to the Ukraine and Oryol(もっとも一般的には、ウクライナ及びオリョールへ政治的な訪問(講演)に赴いた後、チフスもしくはインフルエンザ(「スペイン風邪Испанский грипп」)に罹り死去した説が有力)Kremlin doctors diagnosed him with the Spanish flu(クレムリンの医師はインフルエンザの流感に罹ったと診断)Even as his illness progressed, he continued to perform his duties as chairman of the Central Committee(病気の進行にも関わらず、彼は(全ロシア)中央執行委員会議長Всероссийский центральный исполнительный комитет (ВЦИК) =後のソ連邦最高会議幹部会議長Председатель Президиума Верховного Совета СССР)として、活動を継続した)On 14 March 1919 Sverdlov lost consciousness and on the 16th he died at the age of 33(1919年3月14日、スヴェルドロフは意識を失い、16日に33歳で死去した).

↑①1919年「In memory of comrade Yakov Mikhailovich Sverdlov同志ヤーコフ・ミハイロヴィチ・スヴェルドロフの想い出(追憶)」レーニンの追悼演説②革命後の首都(当時)ペトログラードПетроград(旧レニングラードЛенинград・現サンクトペテルブルクСанкт‐Петербург)ソビエト(左)ジノヴィエフ Зино́вьев(中央)スヴェルドロフ(右)トロツキー。
Chairman of the all-Russia Central Executive Committee. All those who have worked day after day with Comrade Sverdlov, now realize full well that it was his exceptional organizing talent which ensured for us that of which we have been so proud, and justly proud(全ロシア党中央執行委員会議長同志スヴェルドロフは、彼の類まれな組織力の才能を連日生かし、間違えなくわれわれの誇り、最良党員であった)He made it possible for us to carry on united, efficient, organized activities worthy of the organized proletarian masses, without which we could not have achieved success, and which answered fully the requirements of the proletarian revolution(われわれをして団結(統一)。合理的、価値ある組織活動を助けプロレタリア(極貧労働者)大衆(最下層市民たち)をまとめ、成功実現を可能にした。プロレタリア革命が要求するものにすべて答えてくれた)The memory of Comrade Yakov Mikhailovich Sverdlov will serve not only as a symbol of the revolutionary’s devotion to his cause(同志ヤーコフ・ミハイロヴィチ・スヴェルドロフの想い出(パーミャチ)彼の目標(ゴール)へ向けて単なる象徴としてではなく。尽くし捧げ貢献した)not oly as the model of how to combine a practical, sober mind, practical ability, the closest contact with the masses and ability to guide them, but also a pledge that ever-growing masses of proletarians will march forward to the complete victory of the communist revolution( 模範(代表)となるだけでなく、実質(現実=効果的)及び冷静(謹厳)な心、(現場指揮)才能、親密な大衆との触れ合い 彼らを導く素質 ますます成長する労働者に約束(宣誓)→同じく大衆が共産主義革命の完全勝利に向けて行進する誓い)




↑これがオフラーナОхрана(政治秘密警察)のスパイ(密偵)шпион(間諜)spyだったРоман Малиновскийロマン・マリノフスキーRoman Malinowskiです(ポーランド系Полякиロシア人русские)。ボリシェヴィキ党中央委員会Центральный комитет Коммунистической партии большевикのメンバー、ドゥーマДу́ма(ロシア帝国の国会)Duma議員законодатель、ボリシェヴィキ党議員団長。一般刑事犯としての前科があり、1899年に窃盗と強盗により逮捕。そのまま約2年間刑務所で服役。↑写真(当時34歳)は1910年5月、オフラーナに逮捕された時のもの(すぐ釈放された)。

↑1913年のマリノフスキー(ドゥーマ議員・当時37歳)
* Малиновский также участвовал (без их ведома) в аресте и ссылке нескольких большевистских активистов как шпион Офраны. Иосиф Сталин , Яков Свердлов(+Никола́й Буха́рин) Был арестован Охрана на основании информации, предоставленной Малиновскимマリノフスキーはオフラーナのスパイとして数名のボリシェヴィキ活動家の逮捕とシベリア流刑にも(彼らに知られることなく)加担した。ヨシフ・スターリン、ヤーコフ・スヴェルドロフ(+ニコライ・ブハーリン)はマリノフスキーがもたらした情報を元にオフラーナによって逮捕されているMalinowski also participated (without their knowledge) in the arrest and exile of several Bolshevik activists as an Ophrana spy. Joseph Stalin , Yakov Sverdlov(+Nikolai Bukharin) has been arrested by Okhrana based on information provided by Malinowski.
*すでに紹介したよう「Какой подлый парень! Он действительно обманул нас. Предатель! Такому парню. Убивать ружье - пустая трата!何という卑劣な奴だ!彼は本当に我々を騙しやがった。裏切り者め!あんな奴には銃殺だってもったいないくらいだ!What a sneaky guy! He really deceived us. A traitor! To such a guy. It's a waste to kill a gun!」(レーニン)革命後の1918年11月5日、モスクワ・クレムリン内の庭において銃殺刑に処された。
評価および後世への影響
ドミトリー・ヴォルコゴーノフДмитрий Антонович Волкогоновは、レーニンが"労働者"という言葉そのものに呪縛され、"労働者階級出身"と聞いただけで相手をすぐにすっかり信用したことがマリノフスキーの活動を成功させたと指摘している。
イギリスの歴史家サイモン・セバーグ・モンテフィオーリSimon Sebag Montefioreは、マリノフスキーがボリシェヴィキ内部へ成功裏に浸透したことがソビエト連邦指導者(特にヨシフ・スターリン)の偏執病を煽るのを助け、1930年代の大粛清を引き起こす大きな要因になったと述べている。

Als Lenins Testament レーニンの遺書werden zwei Dokumente bezeichnet, die Wladimir Iljitsch Lenin Ende 1922 und Anfang 1923 diktiert haben soll. In ihnen wird ein Umbau des Zentralkomitees und der russischen Regierung vorgeschlagen, die Führer der Kommunistischen Partei werden kritisiert und die Ablösung Stalins als deren Generalsekretär gefordert.

«Письмо́ к съе́зду» レーニンの遺書(известно также как «Завещание Ленина»[1]) — письмо В. И. Ленина, написанное в конце 1922 года и содержащее оценку его ближайших соратников[2][3]. Письмо было оглашено в 1924 году перед XIII съездом РКП(б) Н. К. Крупской. Сталин на этом заседании впервые заявил об отставке. Каменев предложил решить вопрос голосованием. Большинство высказалось за оставление Сталина на посту Генерального секретаря РКП(б), против голосовали только сторонники Льва Троцкого.




×

非ログインユーザーとして返信する