日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

После распада Советского Союза Экономическая реальность☭Кадзуо Огавы/After the dissolution of the Soviet Union Economic reality☆Kazuo Ogawa/Après la dissolution de l'Union soviétique Réalité économique★Kazuo Ogawa『ソ連解体後―経済の現実☭小川和男』③


*レオニード・イヴァノヴィチ・アバルキン(Леонид Иванович Абалкин、Leonid Ivanovich Abalkin、1930年5月5日 - 2011年5月2日)は、ソビエト連邦およびロシアの経済学者、政治家。1989年ソ連副首相に就任し、経済改革を担当した。
アバルキン教授とは、モスクワと東京でしばしば懇談しているが、ある時、ドイツの民話とロシアの民話を対比して、ドイツ民話では貧しい若者が精励刻苦して職人の道を歩み、妻をめとり、子供をなし、やがてマイスターとなって一家幸福に暮らすという物語が多いのに、ロシア民話では貧しい「イワンの馬鹿」が畑でウロウロしていると天から贈物が降ってくるのであって、ロシア経済の立て直しはまことに難しい、とロシア人の深層心理にあるこの救世主待望を嘆かれた。


1 頭だけの市場経済
計画化経済の放棄
旧ソ連・CIS、そして東欧諸国で進行中の経済的変革は、中央集権的な計画化経済を放棄し、自由競争が原則の市場経済への転換・移行をめざすものである。社会主義経済制度のもっとも基本的な特徴である生産手段と土地の国有または社会有という所有制度についてもこれを改めて、私有制の復活をはかられつつある。
だが、市場経済への移行が旧ソ連・CISにとって万能薬になるかどうかは、まったく未知数である。旧ソ連に先駆けて市場化に踏み切った東欧諸国における難行ぶりだけから判断しても、おそらく、そうとはならない可能性が大きい。東欧諸国には、それぞれに濃淡はあるものの、旧ソ連に比べればはるかに豊かな市場経済の経験がある。一方、東欧諸国の計画化経済は、旧ソ連より完成度が低かったし、経済規模は比較にならないほど小さい。したがって、市場経済への転換は東欧諸国の方がずっと実行しやすいわけである。しかし実際には、東欧諸国における市場化は、決して円滑に運んでいるわけではなく、重大な試練に直面している。
旧ソ連経済は、計画化経済システムのもとで、たとえば東欧諸国や中国と比較して、堅実に運営され、第二次大戦後の早い時代には欧米先進諸国を凌ぐ勢いで成長した。システムそのものが強固であった。したがって、旧ソ連・CISの計画化経済システムは、これを壊そうとしても容易には壊れないのであり、かつそれが壊されなければ市場経済システムは円滑に機能しないという困難な状況にある。しかも、旧ソ連では、市場経済の経験が乏しく、長い間人々は資本主義は「悪」として教えられてきたのである。
ところが今では、ロシアでもウクライナでも中央アジアでも、計画経済は「駄目なやつ」というレッテルを貼られてしまい、市場経済こそ選択すべきシステムであると考えられている。だが、計画経済にも優れた特長があるのは明らかである。1980年代の初め頃、ソ連の軍事力がアメリカのそれと大体同じになったと国際的に評価され、ソ連の軍事脅威論が喧伝されたことがあった。そのような強大な軍事力・技術力を形成したのが、ほかならぬソ連の計画経済であった。もちろん強大な軍事力をもつことは国民経済にとって大きな無理があり、また東西の冷戦構造の強化にもつながるという側面も当然考慮されなければならないが、生産のシステムとして考えた場合、当時のソ連型システムがまったく駄目で悪かったことにはならないのは明らかであろう。
ロシア人やウクライナ人たちが、自分たちが第二次大戦後築いてきたことに関して、その良し悪さを自分たち自身できちんと再評価できないかぎり、かれらは前進できないし、市場経済への移行も無理である。

「市場経済」に対する無知
最大の難題はしかし、政治的指導者たちにとってはもちろん、高名・無名の学者や経済官僚たちにとっても、大多数の企業家たちや現場で働く人々にとっても、「市場経済」は言葉だけで、実体のない幻影にすぎないことである。かれらは頭の中だけで市場経済を理想化している。それが現実にどのように機能しているかについてはほとんど無知で、なによりもまず、その経済システムのもとで生活したことも働いたこともないのである。
そして、そうしたかれらだからこそ、社会主義的な計画化経済システムの下でのものごとを全面否定し、完全に何もかも市場化するという極端に走ることができるのである。しかしこれでは、ロシア革命後、資本主義的な要素を全面否定し、完全な計画化経済システムの建設をめざしたスターリンのやり方の裏返しではないか。
現実には、ロシア人たちが見習うべき市場経済システムのモデルの一つとして高い得点を与えている日本では、公的セクターが非常に大きな役割を担っているわけで、政府の「ギョウセイインドウ」も強力である。そのことは、われわれの日常生活において余りにも当り前のことである。国鉄や日本電信電話公社の民営化が実現したのはようやく近年になってからで、長い年月をかけての末であった。しかも、問題を全て解決した後の民営化ではない。国鉄の巨額の赤字(長期債務)は全て「国鉄清算事業団」に預けて棚上げし、全く新しい企業として各JRが走り出したようなものである。巨額の長期負債(同事業団が1987年4月末に発足した時点で引き継いだ長期負債は25兆652億円)は、これが返済できない場合には国民の負担になる。日本国民はこうした難題をあまり心配していないが、それは日本政府と政府を支える官僚組織が強力で、安定しているからであろう。

国営企業の民営化
旧ソ連では、企業経営の大規模化と生産の集中化が進められてきた。その結果、大多数の企業は、従業員が2万人から5万人という国有大企業となり、日本でいう中小企業はほとんど存在しない状況である。ゴルバチョフ政権もエリツィン政権も、そうした国有企業の民営化を市場経済への移行に必須の条件と重視し、さまざまな措置をとってきた。だが、問題は民営化実施に当っての基本的考え方がきわめてプリミティブであるところにある。長い間行なわれてきた上流機構から下部機構、つまり、最上部の国家計画委員会から行政諸官庁を通じて生産企業への計画ノルマ指令による生産方式を放棄して、政府はできるだけ何もせず、民営化された企業は独立採算性にもとづいて自由に生産し、販売してよい、といった程度の考え方なのである。
政府は、企業経営が赤字に陥っても、補助金はカットして面倒をみないと明言している。現実には赤字の企業が非常に多く、補助金が無くなると倒産に追い込まれる可能性が大きいし、そうなればたちまち数十万人の失業者が出るだろう。ロシア政府は、現状では、無責任であるというよりほかにいいようがない。
一方、生産の集中化が進んだもとでは、大企業は独占の利益を享受しようとするのが当然で、国家の管理が無くなったら全てが自由なのだという単純な発想にもとづいて、製品価格を簡単に引き上げる場合が多々ある。1992年1月の価格自由化の後、ロシアでは企業のこうした行動がインフレ高進の大きな要因となった。

「企業」を知らない人々
市場経済のもとで暮すわれわれにとって、企業活動は自由である一方、企業には一定の社会的責任があり、また、企業間の激しい競争が日夜続けられ、倒産も多いということは自明のことである。企業活動そのものについても、国が商法さまざまな細則を定めていて、何でもかんでも自由であるわけではない。
旧ソ連・CISの人々は、そうした当り前のことについて無知なのである。また企業家にしてみれば、従来のように上から与えられる計画ノルマを毎年同じように達成していくやり方の方が楽で安全、という見方も強い。そのやり方を急に放棄して、明日からは市場経済へ移行し、独立採算にもとづいて全部自分で考えて経営してよろしいと言われても、企業長としては戸惑ってしまうのが現実の姿である。
旧ソ連・CISの人々が市場経済のメカニズムを体得するまでには、相当に長い年月が必要で、10年、あるいはそれ以上の長期的な転換過程が続くとみてよいだろう。ロシアをはじめCIS諸国は、欧米諸国や日本に対して、市場経済のもとでいわゆる企業経営や貿易実務をできるだけ早く自国の企業家たちに習得させるための援助を盛んに要請している。それに対して、欧米諸国と日本は積極的な支援で応じており、日本でも多数の企業研修生を招く一方、専門家をCISに派遣し始めている。時間と労力はかかるが、先進資本主義諸国の市場経済システムをかれらが習得しないかぎり、市場経済への移行は画餅にすぎないのであり、われわれとしても早急に判断は下さず、長期的視点に立ってかれらの行動を注目し、適切な支援を送る必要がある。

2 人材不足とミーイズム
「人材不足」の構造
CIS成立後、ロシアをはじめとする諸共和国にみられる顕著な特徴は、人材不足と人的能力の低下である。とくにエリツィン政権を支える人材の層が薄いことはしばしば指摘される通りで、しかも、最高ブレインの間における対立激化の噂が絶えない。時代の転換期や混乱期における人材不足は歴史上によくみられる現象であるし、それはかえって外見上だけのことで、真実は新しい俊才たちが輩出するための助走段階である場合もよくある。
CIS諸国における人材不足もそういった一般的現象である。新しい若手の英才が次々と登場することを期待するところは大であるが、ただ、ことはそれほど簡単ではない。というのは、旧ソ連の共産党による一党独裁体制の下では、優秀な人材ほど若い時から共産党に入党し、体制に帰属していたからである。1991年8月にゴルバチョフ書記長が共産党の解放を宣言した時でも、党員数は約1500万に達し、「ノーメンクラツーラноменклату́ра」と呼ばれる特権集団に入る高級党員だけでも約70万人を数えていた。共産党の消滅はかれらにとって文字通りショックであったし、党員であったが故に失職した場合もある。多勢は生きる目標を失い、失意のうちに転職した。
旧ソ連・ロシアのような大国でも、有能な旧党員にすぐ代替できる優秀な「人材」は多くないわけで、人材不足が顕在化している。エリツィン政権についても、他の14の旧ソ連諸共和国にしても、二番手あるいは三番手を重用して今後数年間の困難な時代を切り抜けていかざるをえないわけである。
また独立を達成した各共和国の小共和国や地方においては、状況はいっそう厳しい。中央集権的なモスクワ中心主義のもとで、多くの有能な人たちがこれまで、共和国や地方からモスクワに出て活躍し、自分たちの生活基盤を築いてきたからである。各共和国も地方もまた、二番手、三番手に頼らざるをえない。こうしてみてみると、人材不足と人的能力の低下は、CIS諸国が抱える最大の難題であるように思えてくる。

旧共産党委員たちのいま
当面の緊急課題としては、旧党員たちの活用がある。だが、ここにも難題が隠されている。旧ソ連の社会は、一面ではいわゆる「コネ社会」であった。ソ連解体後も「コネ」の重要性は相変わらず、さまざまな「コネ」を頼って再就職を果した旧党員も多い。そうした状況下で、要領よく立ちまわれる人とそうでない人がいるのは当然で、その結果生まれてくるさまざまな格差が深刻な社会的不満を引き起こす種となっている。
しかも、共産党解散の経緯についても問題が多い。書記長であったゴルバチョフ氏が解散を宣言しただけである。党を結成する時も解散する時も、党大会を開催して決定するのが筋であるのに、そうしたプロセスは踏まれていないのである。これまでの一党独裁に対する社会全体の反感は非常に強いし、実際にも独裁の弊害は余りにも大きかった。一党独裁体制を打破して、複数政党制と議会制民主主義に移行するのが、政治改革の基本路線である。この建前を貫けば、共産党そのものが複数政党の中の一党として存続できるのが当然で、それが民主主義である。現に東欧諸国では、共産党が生き残っている。また、書記長が解散を宣言しただけで、党員が皆、「はい、分かりました」と従っているというのは変な話で、そんなはずはない。長年にわたって共産主義・社会主義を信奉し、共産党の中で生きてきた人たちが非常に多いわけで、かれらが力を再び結集することは十分ありうる。実際にも、共産党の名前は使わず、他の党名に変えただけの政党が誕生し、今も隠然たる影響力をもっているのである。
いずれにしても、能力ある旧党員が経済マフィアの幹部になって暗躍している例や今様のビジネスマンとなって旧高級党員の「コネ」を最大限に活用し、大きな財産を築いた例は、よくきく話である。高級技術者や中堅官僚が国外に流出したり、外国資本との合弁会社に転職する例はあとを絶たない。私自身の若い知合いたちの多くも、日本や米国で職を見つけたり、モスクワにある外資系企業に転職している。かれらは、モスクワ大学や国際関係大学など名門大学の出身で、旧外国貿易省や科学アカデミー付属の諸研究所に入り、生来を嘱望されたエリート中のエリートであった。ロシア政府の人的能力はこうして著しく低下し、人材不足はますます深刻化しているのであり、このマイナスの影響はかなり遠い将来まで及びそうである。
「外貨稼ぎ」に走る大物たち
人材不足に重なって、政治・社会の指導層から庶民の間にいたるまでの広い範囲にわたって極端なミーイズム(自己中心主義)が横行し、大きな弊害をもたらしているという問題もある。
長年の間社会主義が規範となってきた価値観が急速にくずれ、社会的混乱が深まり、激しいインフレのもとで生活苦が増すという状況の下では、ミーイズムの発生は避けられず、ある程度は仕方ない。とはいえ、互助の精神とロシア社会の伝統的特長の一つであり、先述した「コネ」も助け合いの範囲に入る。普通のロシア人たちは行き過ぎたミーイズムを苦々しく思い、それが憎しみから激しい怒りへと転じる危険もないとはいえないのである。そうなれば、大デモや暴動の発生につながることもありうる。
モスクワ大学教授から転じてモスクワ市長を数年間務めたポポフ教授は、改革派の旗手の1人として国内よりはむしろ海外で高名である。しかし、ポポフ市長が蓄財に励んでいるという噂が絶えなかったし、市長辞任は目的が十分達成されたからだと極論を吐くモスクワ市民は少なくない。

*ガヴリール・ハリトノヴィチ・ポポフ(ロシア語: Гавриил Харитонович Попов, ラテン文字転写: Gavriil Kharitonovich Popov, 1936年10月31日 - )は、ソビエト連邦及び、ロシアの経済学者、政治家。ギリシア系ロシア人。ゴルバチョフ期のソ連にあっては、エリツィン、アナトリー・サプチャークと並ぶ急進改革派の代表的人物であった。
近年、ロシアの大物学者や元大物政治家たちが1年間に何回も来日するが、かれらの主な狙いは外貨稼ぎなのではないか、と思わざるをえない。日本のマスコミをはじめとするさまざまな機関・組織が、権威主義と有名人主義を払拭することができず、特定の大物を招待しようと先を競い、いわゆる「ギャラ」を引き上げている弊害は大きい。しかし、ロシア人たちが日本のそうした状況に悪乗りして、法外な講演料を要求したりすると、まったく不愉快になる。
アレクサンドル・N・ヤコブレフ氏といえば、一時ゴルバチョフ政権最高の重鎮であり、いわゆる「ナンバー2」と目された改革推進派の大物である。ゴルバチョフ擁護の立場を比較的早い時期から離れ、エリツィン政権とも一線を画す姿勢を保っているが、それだけに往時の政治的影響力は失っている。ところが、日本ではヤコブレフ氏評価はなお高い。1992年春には東京の政治団体や北海道の新聞社が同氏を夫人同伴で招き、約3週間も滞在させた。新聞社にしてみれば、招待にかかった費用や講演料は、たいしたものではないかも知れない。しかしながら、私が勤務しているロシア東欧貿易会などの規準からすれば、新聞社が支払う金額は、途方もなく高いものなのである。ヤコブレフ氏夫婦が日本に滞在中、モスクワではロシア人民代議員大会が開催されていた。そうした時期に3週間も外国で私生活を楽しんでいる政治家がロシア国内で重視されているとはとても思えず、そうした政治家を招待する意味は再検討する必要があるのではないか。

*アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ヤコヴレフ(ロシア語: Александр Николаевич Яковлев[1], ラテン文字転写: Aleksandr Nikolaevich Yakovlev、1923年12月2日 - 2005年10月18日)は、ソビエト連邦およびロシアの政治家、歴史学者。ミハイル・ゴルバチョフの側近として、ペレストロイカを推進した。重厚な風貌と歴史に対する真摯な姿勢で知られる。ボリス・エリツィンは、著書『告白』で、ヤコヴレフについて「きわめて賢明で、健全で、誰よりも先見の明がある政治家」と評価している。
*ロシア連邦人民代議員大会(ロシアれんぽうじんみんだいぎいんたいかい、ロシア語: Съезд народных депутатов Российской Федерации)は、ソビエト連邦末期のゴルバチョフによって、ソ連最高会議に変わって設立された最高国家権力機関のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国版。ソ連崩壊後のロシア連邦でも人民代議員大会の制度は引き継がれたが、1993年のモスクワ騒乱事件後の新憲法によって廃止・解消され、現行の二院制のロシア連邦議会が創設された。

アガンベギャン氏の転進
ペレストロイカに火をつけた人物であるアベル・G・アガンべギャン氏もミーイズム的行動で際立っている。アガンベギャン氏は、長かったブレジネフ時代(1964~1982年の18年間)のほとんど全期間を旧ソ連科学アカデミー・シベリア総支部の経済研究所(西シベリアのノビンビルスク所在)で過し、中央モスクワによる行き過ぎた中央集権的計画化経済システムを批判し続けた不屈の経済学者である。
*Abel Gezevich Aganbegyan (Armenian: Աբել Գյոզի Աղանբեկյան; Russian: Абе́л Ге́зевич Аганбегя́н; born 8 October 1932) is a leading[1] Soviet and Russian economist of Armenian descent, a full member of the Russian Academy of Sciences and an honorary doctor of business administration of Kingston University, the founder and first editor of the journal EKO.
時代が大転換し、アガンベギャン氏はゴルバチョフ政権によって重用され、ペレストロイカの推進役となって内外で脚光を浴びるようになった。同氏はしかし、比較的早い時期から自分自身の関心に集中するようになり、ロシアとオーストラリアの合弁企業を設立してロシア側代表に就任した後、近年はモスクワにある巨大な人材養成センター「国民経済アカデミー」の総長に納まっている。このセンターには多数の研究所が付設されており、エリツィン政権の経済政策の舵をとったガイダル首相代行やネチャーエフ経済相はそうした研究所の出身であった。つまり、かれらはアガンベギャン氏の弟子に当たり、実際にも師である同氏にアドバイスを求めることが多かったといわれている。
*ロシア科学アカデミー(ロシアかがくアカデミー、Росси́йская акаде́мия нау́к、Rossiiskaya akademiya nauk、略称はРАН、RAN)は、ロシアの最高学術機関とされる国立アカデミーである。ロシア科学アカデミーは、ロシア連邦全土の学術研究機関を包括するものである。アカデミーの名称は、1803年からは、帝国科学アカデミー、1836年以降は、帝国サンクトペテルブルク科学アカデミー、ロシア革命により、1917年帝政ロシアが倒れると、ロシア科学アカデミーとなる。ソ連成立後の1925年からは、ソビエト社会主義共和国連邦科学アカデミー(Академия наук СССР、Akademiya Nauk SSSR)の名称で知られていた。以前の非営利・独立の機関から、2010年代にロシア連邦政府の科学・高等教育省に属する機関に替わっている。

*Interlingueインターリング語⇒Alexey Gennadevich Nechayev (russ scrit: Алексей Геннадьевич Нечаев) es un interprendero e politico de Russia. Il nascet li 30-im de august 1966 in Moscva e es li fundator e desde li 8-im de august 2020 anc li presidente del liberal-conservativ partise Nov Homes.
だが、アガンべギャン氏が現在心血を注いでいる対象は、ロシアのペレストロイカではない。それは、広大な同アカデミーの構内における大規模な国際会議センターの新設工事である。新センターはイタリアから巨額の融資を受けて建設中で、中央には客室400室の超デラックスホテル(五つ星)が完成することになっている。
1991年12月と1992年5月の二度、私は国民経済アカデミーを訪ね、アガンべギャン氏と懇談したが、このデラックスホテルについて得々と説明し、完成の暁には国際会議に世界中から客を集めてホテル経営を成功させる、と自信のほどを示すのであった。写真でもよく知られている巨体の周辺に漂う雰囲気は、ロシア科学アカデミー正会員というよりは米国の巨大企業の経営者に似たものがある。ロシア経済の窮状に対する関心など全くない様子であるのは、私にとって大きな驚きであった。「モスクワで今一番の金持ちはアガンべギャンだ」という風評が立っている。

3 「美しく」生きようとする人々
ロシア社会の特性
ミーイズムの横行は苦々しい限りである。だが、読者において誤解しないでいただきたいのは、それもロシア社会に昔からみられた特徴の一つである点である。私の若い友人たちで学生時代にロシア文学に親しんだ人たちの中には、現在のロシアの風潮にすっかり失望し、本来のロシア人は素朴で、真摯であり、瞑想的で金銭には執着がなく、文学や芸術を愛好する人たちであるはずなのに、かれらは一体どうしたのだといって嘆いている人がいる。
私も同感である。しかしながら、この若い友人はロシア文学の中でかれにとって好ましい特性だけを読み取っているのである。かれにはミーイズムはもちろん、あくなき権力志向と権力への執着、その反面であるともいえる小役人根性と追従、陰謀と裏切り、貪欲、俗物、無秩序、無責任、体制順応等々もまたロシア文学の重要なテーマになっていることが読めていないと思う。あるいは、読みたくないのかもしれない。これでは、ロシアについての理解は中途半端に終わってしまうのではないかと思う。じつは、そうした特性は昔と今ではほとんど変わっていないのである。
ロシアが大国であるのに人材不足に苦しんでいる点についても、将来を展望してみれば、大国であるからこそ東欧諸国などに比べて人材豊富であり、人の層も厚いといえるのである。

レオニード・アバルキン教授
レオニード・I・アバルキン教授は、私にとって好ましく、心から尊敬するロシア人である。おそらく、上述した若い友人が頭にえがく本来のロシア人であるといえよう。アバルキン教授もペレストロイカの旗手の1人であり、ゴルバチョフ政権の中で1989年夏から約2年間、経済改革委員会議長(副首相)を務め、市場経済への移行の政府原案を作成した。現在は、ロシア科学アカデミー経済研究所長に復帰し、同アカデミー正会員である。ゴルバチョフ時代の初期に頭角を現わし、ドイツ『シュピーゲル』誌(1987年7月6日号)によって「ゴルバチョフ政権の登場とともにめきめきと頭角を表したソ連有数のエコノミストで、今や同政権の経済理論の第一人者である」と評価された。

*『デア・シュピーゲル 』(Der Spiegel) は、ドイツの週刊誌。発行部数がヨーロッパで最も多いニュース週刊誌であり、毎週平均110万部が売られている。時の政府に対して論陣を張る、進歩的なメディアである。誌名はドイツ語で「鏡」の意。
アガンべギャン氏がノボンシビルスクの経済研究所長の立場、つまり反体制の側からペレストロイカの火付け役となったのに対して、アバルキン教授の方は長くソ連共産党中央委員会付属社会科学アカデミー経済学部理論経済学議座長を務めていたことから、体制の側にあってペレストロイカを推進した学者として位置づけることができよう。私は、そのようなキャリアがあるからアバルキン教授を尊敬しているわけではない。また、同教授の経済改革に対する考え方は中途半端あるいは保守色濃厚と一般に評価され、急進改革派やIMF(国際通貨基金)の理論と手法に高い得点を与えている日本のソ連経済専門学者や評論家の間における受けは悪い。
私は1989年の初夏、数人の日本のエコノミストたちと一緒に、経済改革委員会議長に就任した直後のアバルキン教授をクレムリンの執務室に訪問したことがある。長身でがっちりした体躯のアバルキン教授はいくぶん猫背で、首が少し前に出ている。容貌は、理路整然として明晰な経済分析がそのまま顔に現われたかのように生真面目で、だいたいにおいて深刻な印象を与えるが、話の語り口は柔らかく、ウィットとユーモアに富んでいる。
「大変な時機に大変な役を担っても、成功する見込みは非常に少ないのです。だから、だれも引き受けたがりません。けれども今、だれかがこれを引き受けなければならない情況なのです。私がこの地位に就いても成功は覚束無いし、多分失敗するでしょう。でも私はこの役を引き受け、全力を傾けるつもりです。失敗が明らかになった時には辞任して、また学究に戻ります」とその心境を明らかにしたのであった。
アバルキン教授のこのような真摯な姿勢に私たち一同が強い感銘を受けたのはもちろんで、私の敬意もここにある。そして、その後の経緯はすでに明らかである。市場経済への移行は容易ではなく、長期的プロセスである。アバルキン教授は、このあと1992年の夏に経済改革委員会議長を辞任して、ロシア科学アカデミー経済研究所長に復職した。

*Па́вел Алекса́ндрович Мина́кир (род. 2 декабря 1947, Симферополь) — советский и российский экономист, академик РАН (2006). Научный руководитель Института экономических исследований ДВО РАН (с 2017), член президиума Дальневосточного отделения РАН. Доктор экономических наук, профессор, Заслуженный деятель науки Хабаровского края.

パーベル・ミナキル氏
パーベル・A・ミナキルPavel Alexandrovich Minakir氏も私が尊敬するロシアのエコノミストである。1947年生れというから、アバルキン教授(1930年生れ)より17歳も年下で、まだ若い。私にとっては十数年来の知己である。自他ともに許す極東地方最高のエコノミストであり、明快な理論と優れた現実感覚が一身に体現されている例外的なキャラクターである。1992年秋現在、ロシア科学アカデミー・ハバロフスク経済研究所長をハバロフスク地方第一副知事(経済担当)の要職にある。
極東地方では、地方分権の大きな流れに沿って、1990年秋に、地域の自主性と経済自立性を高め、究極的には住民の生活水準を高める目的で、各地方・州議会(議長)と行政自治体(知事)を構成メンバーとする「極東経済協会」(略称「極東協会」)が設立され、一時活発な動きを示した。「極東協会」が1991年5月に採択した長期的な「極東経済発展構想のコンセプト」はとりわけ、極東地方独自の経済発展構想として注目を集めた。
ミナキル氏はこの「コンセプト」の作成者にほなならず、かれは新しい時代における極東地方の経済発展の理論的担い手なのである。同時に、「コンセプト」では、地方の独自性が大胆に打ち出される一方、弱点と限界もまた明確に指摘され、中央政府と諸外国からの投資の重要性が強調されており、ミナキル氏の冷徹な現実主義がよく反映されている。
ミナキル氏が懇請されてハバロフスク地方副知事となり、地方行政にかかわったのは1992年初めからである。熟慮の末の就任であるが、ミナキル氏は1991年12月も末、中央アジア訪問から帰国の途中にハバロフスク市の「インツーリスト」ホテルに滞在中の私と若い同僚2人を訪ねてくれ、就任にいたる経緯と心境について下のように真情を語った。
ミナキル氏自身はこれまで、エコノミストの立場から中央モスクワで決定した極東地方の経済開発計画の杜撰さを厳しく批判し、『プラウダ』紙はじめ多くのメディアに論文を発表し、それが認められて社会的にかなりの名声を得てきた。ペレストロイカが挫折、1991年8月政変後の世相はまことに混沌とし、危機的状況である。このように困難な状況下では、ハバロフスク地方ならずとも、誰が舵とりをしても経済を立て直すことは難しい。ミナキル氏自身も失敗するのは目に見えており、これまでに築いた名声は地に落ち、泥をかぶることになろう。
ミナキル氏の友人たちの多くは、したがって、副知事就任は辞退した方が賢明と忠告してくれていた。また、ミナキル氏はユダヤ出自であり、米国在住の知人たちから来米を盛んに誘われてもいる。しかし、それでも、ミナキル氏は難役を引き受けたのである。
人間はだれでも、難局に直面する時がある。全く逃げてしまうか、克服をめざして闘い、少しずつでも改善していくか、二つに一つを選ぶほかに道はない。ミナキル氏自身は、ここでかれが就任を断われば、それは言行不一致であり、なによりもまず「ニェクラーボ」であるという。つまり、「美しくない」行為であるという。
ミナキル氏は、「ニェクラシーボ」には生きたくない、というのである。私はこの時、アバルキン教授のことを話した。ミナキル氏は、経済改革についてはアバルキン教授の立場を手厳しく批判した1人であったが、黙って私の話をきいていた。
ミナキル氏は、研究所長と副知事の両方の仕事と格闘している。日本にも時々くる。かれに会う日本人も多い。かれは将来も極東地方の代表的人物として重要な役割を果し、日本とかかわっていくことと思う。

4 拝金主義の横行ー際限ない暴利
「金しだい」の世相
頭だけの「市場経済」という幻想の追求は転じて、資本主義の曲解となり、利益は際限なく追求できるという考え方とその実践へとつながり、極端な拝金主義を生み出している。高級官僚や研究機関の上級研究員から普通の労働者・事務員にいたるまでの高収入を求めての無節操な転職が日常茶飯事となって、万事が「金しだい」という世相が現出しているのである。1992年の物価上昇率が2000%とう超天荒であったことから、市民にすれば「自衛手段」を講じているだけということになろう。

しかしながら、学者や研究者たちのなかには落着きを失い、急に老け込む人も多く、有能な若い人たちほど外国での職探しに余念がない。研究活動が地に落ちているのは明らかで、世界に冠たる高水準を誇っていたソ連アカデミズムは今、危機に瀕している。
際限ない暴利の追求は、資本主義社会には存在している商業的モラルが現下のロシアをはじめとするCISではほとんど全く欠如しているということが基本的要因となっている。それは、大規模国有企業による独占的生産の民営化が進まず、市場獲得競争の原理が全く働かない状況下において価格の自由化が敢行されたことによって、ますますエスカレートしている。
大規模企業は、独占的生産に執着し、最大限の生産者利益を狙う価格を設定する一方、生産量を増大させてはいない。これでは、物は不足し、価格が高騰するのが当然で、ハイパー・インフレーションからハイパー・スタグネーションの現象が起こっている。
市場化は統制経済の自由化であるから、個人企業や小規模の協同組合企業が雨後のたけのことのように出現し、少しでも商業的才覚のある「商人」たちが恒常的な物不足状態の下でわずかな物を動かすだけで暴利をむさぼることができる状況となった。

社会的格差の増大と自由競争への長い道程
しかし、一般の大多数の人たちは、長年の間「親分赤旗」に慣れ親しんできた勤労者であるから、だいたいにおいて商才は無いし、いわゆる「脱サラ」して個人企業家になろうという気概が無い。なによりもまず、時代の急激な変化とこれまでの価値観の崩壊に適応するのが容易ではない。逞しい中年女性や本当に生活が苦しい初老の年金生活者たちが、自宅内にあるわずかなものを持ち出し、それを売るために人が集まる自由市場や鉄道・地下鉄駅周辺に立ち並んでいる姿は、インフレと戦う必要に迫られているとはいえ、痛々しいかぎりである。
一方当然ながら、にわか「成り金」も出現し、モスクワでは「メルセデス・ベンツ」や「ボルボ」などヨーロッパの高級車が多数販売され、中級車市場を想定した日本企業の販売戦略は緒戦でつまずいたといわれている。そしてそうした富裕層と一般の人たちとの間の所得格差は、どんどんひろがっており、低所得者層の不満は高まる一方で、政治問題化・社会問題化しつつある。
また、スラブ民族はがいして商才に乏しいのに対して、グルジア人、アルメニア人、アゼルバイジャン人などカフカース民族は商才に長け、計画化経済のもとでもソ連全国各地でさまざまな商品を売りさばいていた。市場化の時代はかれらにとってまことに好都合で、かれらのビジネスが大繁昌となっている一方、ロシア人やウクライナ人の深い恨みを買っている。私の古い友人の1人に生粋のモスクワっ子の日本研究者がいるが、かれの奥さんは美しいグルジア女性である。モスクワの生活ではかの女も食料品店の前の長い行列に並ばなければならないが、最近しばしば、「国へ帰りなさい」と厭味をいわれ、情け無くなるとこぼしていた。
価格は需給関係に支配されて決まるのが原則といっても、それは市場で自由競争が行われていての話である。われわれ外国人がロシアやその他の国々で支払われているホテル料金などは、ホテルのファシリティーズやサービスなどを考慮に入れれば、法外に高い独占価格である。1990年代になってモスクワでは外国資本との合弁の新しい高級ホテルが次々と開店しているが、競争原理が働くまでには程遠く、かえって伝統的ソ連商法を踏襲し、馬鹿高い料金を設定していて悪評を買っている。
中国の北京や上海では、新しいホテルが乱立し、激しい市場競争が行われていることから、ホテル料金はずいぶん安くなった。ロシアと他のCIS諸国でそうした状況が現出するのは、まだかなり遠い先のことであろう。

*ロシアン・マフィア(露: Русская Мафия,ルースカヤ・マーフィヤ)は、ロシア系の犯罪組織の総称。グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンなどといったロシアの近隣諸国のマフィアもロシア国内に存在し、これらもまたロシアンマフィアと言われることがある。ロシアンマフィアはソビエト連邦末期の混乱期から活発化したと言われるが、多民族国家を反映してロシア系、チェチェン系などあって統一されているわけではなく、単にロシア国内の犯罪組織がロシアン・マフィアと呼ばれている。いっぽう犯罪者とは行かないまでも、共産党政権崩壊後に国有財産の払い下げを受けて財閥に成長した寡頭資本家層(オリガルヒ)もマフィアと呼ばれるなど、その定義は確立されていない。
5 流通を牛耳るマフィア
活発化する経済マフィア
未成熟な市場経済システムの下で生き生きと活動し、とりわけ輸送・流通・サービスの分野を牛耳って暴利をあげているのが、いわゆる「経済マフィア」である。
マフィアの存在はブレジネフ時代の末期から指摘され、とくに巨大化した地下経済あるいは闇市場におけるマフィアは国家の権力機構の汚職と結びつき、国民のモラルの低下の要因の一つになるほど深刻な問題と化していた。
西側の敏腕ジャーナリストや特派員たちが書いた数多くのルポルタージュや、ソ連から亡命した反体制派知識人たちによる告発書は、そうした状況を活写していた。なかでも、ソ連で弁護士として実際に多数の経済犯罪事件に関係し、ソビエト法制研究所の上級研究員を務めた後、米国に移住したK・サイミス氏の『ソビエト権力と腐敗』(木村明生訳、PHP研究所、1982年)は、地下経済の実態をえぐってほとんど余すところがなく、それが公的経済から独立した存在ではなく、国有企業に寄生し国の生産手段と原材料を非合法に巧妙に利用しながら全国的ネットワークまで組織し、莫大な利益をあげていることを明らかにしていた。特権をもつ官僚たちは賄賂によって動かされ、非合法な経済マフィアの活動を黙認していたのである。

地下経済の実態
ゴルバチョフ時代になって進められた「グラースノスチ」のおかげで、旧ソ連国内のマスメディアにおいても、地下経済の実態とマフィアとのかかわりがさらに詳しく報道されるようになった。1991年には、『イズベスチヤ』紙のアンドレイ・イレッシュ社会部長が執筆した『ソ連にマフィアは存在するか』(邦訳『ソ連のマフィア』鈴木康雄訳、読売新聞社、1991年)が公刊された。
この『ソ連のマフィア』によると、地下経済は大きく以下の四つのカテゴリーに分類されるという。第一は、荒稼ぎを狙った犯罪的価格の売買で、ごくありきたりの商品売買から、巨万の富を稼ぎ出すポルノ産業や麻薬ビジネスまで、さまざまな種類がある。第二は、非合法な商品生産とサービスの提供で、公的部門から盗み出した資材(食品、ガソリン、建設材料等々ときりがない)による商品生産や機械・機器によるサービス提供が行われている。第三は、闇行為で、近年ますます大規模化している。第四は、合法的に存在する地下経済、つまり、実際には生産していないのに、出荷したように見せかけて水増しすることによる不労所得の獲得である。
同じ「ソ連のマフィア」の中では、地下経済に関する数少ない専門家の中でとりわけ高名なタチヤーナ・コリャーギナ女史の試算が引用されている。それによると、何らかの形で地下経済に関与している国民の数は約3千万人にのぼり、全就業人口のうち少なくとも5人に1人が地下経済で働いていることになる。地下経済は、旧ソ連の主要物資生産高の約1・5%を支配し、これをベースに3万人に及ぶ地下富裕階級が形成されているという。
主要物資生産高の占める地下経済のシェアが約1・5%という試算は、案外小さいという印象を与える。地下経済がとくに有効に働いているのはやはり輸送・流通・サービス部門で、それは、旧統制経済システムの下では長い間物の生産が極端に偏重され、輸送・流通・サービス部門は軽視され続けてきた弱い部門であったためである。ここに経済マフィアが広く介在する余地があった。
市場経済への移行の過渡期が一層長引く現在、もともとかなりの程度まで市場原理によって動かされてきた地下経済が、制約を取り除かれて表の経済に浮上し、マフィアの存在が目立ってきた。とりわけ、1991年春に経済システムの牙城であったゴスプラン(国家計画委員会)が大幅に再編成・縮小され、国有企業への機械や資材の供給を担っていたゴスナブ(機械資材供給国家委員会)が解体された後、経済マフィアが活躍する範囲はさらに広くなった。しかも、極端な物不足が改善されず、インフレが高進する状況の下で、流通・サービス分野を支配するかれらの力はますます強化されているのである。
*ゴスプランThe State Planning Committee(ソ連国家計画委員会、Госплан Gosplan・Государственный комитет по планированию)は、ソ連における生産計画を決定する国家組織。ソ連における計画経済を実現するために、経済動態を把握し、需給のバランスを計算した上で具体的な計画を立案した。
*ゴスナブState Supplies of the USSR国家物资和技术供应委员会(俄語:Государственный комитет СССР по материально-техническому снабжению,缩写俄語:Госснаб) Gossnab of USSR是苏联负责物资和技术供应的一个国家委员会,存在于1948年至1953年及1965年至1991年。

マフィアの支配
有能な旧共産党員が経済マフィアの幹部に納まっている例もあり、かれらは党員時代のチャンネルやコネを最大限に利用して協同組合企業(コーペラチーフКооператив)を経営したり、新しく創設された商品取引き自由市場を支配したりし始めている。
たとえば、モスクワの自由市場のいくつかはマフィアに完全に支配されている、という。自由市場は、本来モスクワ市の管理下にあり、自由市場内の売り場は自由に解放されている。ところが、今ではマフィアが自由市場を支配し、もともと自由であるべき価格も、かれらが決定するようになってしまった。1991年12月、モスクワの死中心街にある「中央自由市場」で農民のデモがあったが、それは、かれらが同市場内よりずっと安い価格で食肉を売りたいことを表明してのデモであった。だが、農民たちのデモは中央自由市場を牛耳るマフィアによって、たちまち解散させられてしまった。

また極東地方では、木材運搬船や乗組員や漁船員が日本各地の港町で中古乗用車(5万円以下の廃車として輸出上はスクラップ扱いにして手続きを簡単にしている)を買い入れるのが大流行しており、たとえば新潟港では、1991年に3千台以上のそうした中古車がソ連向けに船積みされた。日本車のエンジンは頑丈で、これらの中古車は極東各地を快走しているのであるが、この中古車ビジネスにマフィアが目をつけ、日本での買入れや極東地方での販売ネットワークを組織し、暴利をあげ始めている。
経済マフィアの活動は、右に述べたように、生産の分野にまで及んでいるわけではない。かれらが産業資本家に成長するかどうかは未知数である。大規模な投機的事業を展開し、商業資本の役割を果たしていく可能性はあるとみられるが、過渡期のうちに多くは淘汰されていくことになろう。地下経済は、硬直的な統制経済システムの下であるがために寄生虫的に繁栄してきた側面が非常に大きい。市場経済システムが機能し、自由競争が激化するようになれば、競争力の弱いマフィアは存続することができないと考えられる。
第3章 市場経済への道程ー長引く過渡期
1 議論に失われる時の重さ
旧ソ連、そしてソ連解体後のCIS各国における市場経済への移行について考察する場合、すでに失われてしまった改革の機会と年月の重さに注目しないわけにはいかない。
旧ソ連、ロシアにおけるあらゆる改革は上からの改革である。ペレストロイカも市場化も例外ではない。下からの改革が起れば、それは革命に転じる。上からの改革であるから、改革は如何にあるべきかについてまず議論があり、次に改革のコンセプトづくりをめぐって議論が紛糾し、さらに改革の具体的プログラムづくりをめぐる意見の対立が容易に政争に転化し、その間に貴重な時が失われてしまって本来の改革は一向に進まないのである。
旧ソ連・ロシアにおける以上のような時の空費を考える度に、私の耳にきこえてくるのは、「中国では、みな黙ってやっています。流通・サービスの分野では市場化率はもう70%近いでしょう」と静かに話す徐 博士の言葉である。徐莢博士は、中国社会科学院東欧中亜研究所(1992年にソ連東欧研究所を改名)所長を長く務め、私とは十年来の知己である。徐 博士がこの言葉を述べたのは1990年夏であり、モスクワでは市場経済への移行をめぐって議論が沸騰していた。
ペレストロイカによる経済立て直しが行き詰まって以降、ゴルバチョフ政権は1989年春から市場経済への転換を模索し始め、抜本的経済改革案を策定するための「経済改革国家委員会」を発足させ、同年夏、当時最有力経済担当ブレーンの1人であった前述のL・アバルキン・ソ連科学アカデミー経済研究所所長を同委員会議長兼副首相に登用した。同委員会は1989年10月、包括的改革草案をゴルバチョフ政権に提出した。このアバルキン草案以降、約2年間にわたって市場経済への移行の方法と期間をめぐって議論が沸騰したのであるが、急進改革派、穏健改革派、保守派それぞれから次々と改革案や改革構想が発表され、事態は糾弾するばかりとなり、果ては政争の道具として使われるまでになった。
今日なお記憶されている案だけを列挙してみても、アバルキン草案を基礎にした政府の「経済健全化プログラム」、それを修正した。1990年3月の「調整市場経済への移行構想(当時首相であったルイシコフの政府案)、それを再修正したのが政府案、エリツィン・ロシア最高会議議長(当時)のイニシアチブのもとにヤブリンスキー氏ら若手急進改革派が中心になって作成したいわゆる「500日計画」、それを基礎にした「市場経済移行が計画案」(いわゆる「シャタリン案」)アガンべギャン調整案、ゴルバチョフ大統領による統一案等々があった。
*Верхо́вный сове́т РСФСР, с 25 декабря 1991 года ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国最高会議— Верхо́вный сове́т Росси́йской Федера́ции — высший орган государственной власти РСФСР в 1937—1990 годах[3][4], одновременно с 1937 по 1993 год являлся законодательным органом РСФСР (Российской Федерации)[5].

*グリゴリー・アレクセーエヴィチ・ヤヴリンスキー(ロシア語: Григорий Алексеевич Явлинский, ラテン文字転写: Grigorii Alekseevich Yavlinskii, 1952年4月10日 - )は、ロシアの政治家。ロシア連邦議会下院国家会議議員、「ヤブロコ」の創設者の一人で、前党首。

*500日計画(ロシア語: Программа "500 дней")は、1990年に立案された、ソビエト連邦の計画経済体制を市場経済に500日(約17か月)で移行させるための経済改革プログラム。ボリス・エリツィンの下でロシア共和国副首相を務めていたグリゴリー・ヤヴリンスキーの提案に基づき、ミハイル・ゴルバチョフの経済顧問であったスタニスラフ・シャターリンらの作業グループによって立案された。

*スタニスラフ・セルゲーヴィチ・シャターリン(ロシア語: Станислав Сергеевич Шаталин、ラテン文字表記の例:Stanislav Sergeevich Shatalin、1934年8月24日 - 1997年3月3日)は、ソビエト連邦およびロシアの経済学者、政治家。ソ連末期に経済改革プログラム「500日計画」(シャターリン・ヤブリンスキー案とも言われる)を作成した。

ゴルバチョフ大統領の失敗
さまざまな改革案が提出されたにもかかわらず、パブロフ首相(当時)が1991年4月初めに小売価格の全面的改訂(引上げ)を実行するまで、市場経済への移行に必要不可欠な改革措置はほとんど何もとられなかった。右の諸改革案は議論の対象になったわけである。議論が紛糾した状況下、ゴルバチョフ大統領は大きな失敗を犯した。今日になってみれば、この時の失敗はゴルバチョフ大統領のその後の命運を決したといえるほど重大なものであった。つまり、自分を支持していた人たちの信頼を失ったのである。

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