日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Revolutionen im Jahr 1989/Революции 1989 года/Chute des régimes communistes en Europe『東欧革命』三浦元博・山崎博康著【Eastern European Revolution - What happened inside power】Author Motohiro Miura , Hiroyasu Yamazaki⑨


*ブラショヴ(ルーマニア語: Brașov [braˈʃov]、ハンガリー語: Brassó [ˈbrɒʃːoː] ブラッショー、ザクセン語: Kruhnen、ドイツ語: Kronstadt クローンシュタット、Kronstadt im Burzenland クローンシュタット・イム・ブルツェンラント、Kronen クローネン、中世ラテン語: Brassovia ブラッソヴィア、Corona コロナ)はルーマニアのほぼ中央に位置する都市で、ブラショヴ県の県都。
*シビウ(Sibiu、ハンガリー語: Nagyszeben ナジセベン、ドイツ語: Hermannstadt ヘルマンシュタット)はルーマニアのトランシルヴァニア地方南部の都市である。
*コンスタンツァ(ルーマニア語:Constanţa、ギリシャ語:Κωνστάντια/Constantia、トルコ語:Köstence、ブルガリア語: Кюстенджа)は、ルーマニアの都市でコンスタンツァ県の県都である。
軍の発砲拒否は、自殺が伝えられた国防相ミレアの指示によるとみられる。国防相の自殺説は当初、ハンガリー国営放送Magyar Távirati Irodaが報じたが、ハンガリー国営通信はその後、ハンガリー国防次官とルーマニア参謀次長との電話による一問一答を報じた。この中で、ルーマニア参謀次長は「国防相は殺された」と明言している。
これに対し、国防相追悼演説で、新政権「救国戦線」副議長ドミトル・マジルは、国防相が「(命令不服従)軍部隊に向けて発砲せよといういまわしい命令を受けていた」と述べ、国防相は「私も軍だ。したがって私は軍を撃つ」と叫んで短銃自殺を遂げたと説明している。自殺か他殺か、真相は不明だが、国防相の死が、発砲命令を拒否した軍部隊への攻撃命令に関連していたことは確かなようだ。

*Românăルーマニア語→Dumitru Mazilu (n. 24 iunie 1934, Bacău) este un om politic și dizident român, având un rol cheie în evenimentele din decembrie 1989.

官製集会の混乱
独裁政権は21日、当局側が用意したチャウシェスク支持の官製集会で、土壇場の危機に追い込まれる。正午ちょうど、ブカレスト中心部「勝利広場Piața Victoriei」に動員された群衆を前に、大統領が演説を始めて間もなく、支持派であるはずの群衆の中から突然「チャウシェスク打倒!」「ティミショアラ!」の歓声が上がり、爆竹の爆発音が会場に響いた。ラジオ、テレビによる演説中継は数分間中断、音楽番組に切り替わった。
大混乱に陥った会場で、眼前の光景に呆然自失する大統領。脇に控えていたエレナは「何かを言いなさい。何かを約束するのです」と夫を叱咤する。
共産党政治執行委員会が賃上げと児童手当ての増額を決めたと、うろたえながら出まかせの発表をする大統領の言葉には、もはやいかなる効果もなかった。ラジオ中継は「ルーマニアの独立と領土保全、主権の防衛における団結。これこそがわが国民の緊密の課題である」という大統領のかん高い声とともに再開されたが、集会は約30分という、チャウシェスク演説としては異例の短さで終了し、大統領にとっては自ら墓穴を掘る皮肉な結果に終わった。国営テレビはこの夜、放送を中止した。
*Românăルーマニア語→Piața Victoriei este o piață din București, Sectorul.

~♪Ole, ole, ole, ole Ceaușescu nu mai e!~♪(チャウシェスク(ヌマイエ)はもういない!)翌日の同じ場所に雲集した民衆は(1989年12月22日)、共産党本部ビルの屋上からヘリコプターで脱出した大統領夫妻を眺め、歓喜の歌声をあげたOn December 22, 1989, the crowd gathered in the same place the next day, watching the president and his wife escape by helicopter from the rooftop of the Communist Party Headquarters Building, and sang with joy.
命令拒否
この日の夕刻、大統領は指導部を緊急招集し、地方指導部にも直通回線で厳戒を指示した。
ミレア国防相が大統領から、発砲命令拒否を「裏切り」と激しく非難されたのは、この会議だったはずだ。翌22日午前11時、大統領は全土に戒厳令を布告、軍に治安回復を指示するが、軍は命令を拒否、逆に装甲車を連ね民衆とともに大統領官邸のある共和国広場に押し掛けた。
この後の大統領の行動には、不明な部分が多い。
群衆が書記長室になだれ込むのとほぼ同時に、大統領夫妻は党本部屋上からヘリコプターで脱出した。
夫妻を乗せたヘリが首都ブカレスト北西100キロのトゥルゴビシテ近郊に降り立つのは、正午過ぎだったはずだ。夫妻はそこで待機していた乗用車に乗り換えるが、既に新政権の逮捕命令が出ていた。
*トゥルゴヴィシュテ(Târgovişte)はルーマニア南部、ムンテニア地方ドゥンボヴィツァ県の県都。

消された大統領
抹殺
大統領夫妻は逮捕後、軍装甲車に約70時間監禁され、25日、ある兵営内でわずか45分の軍事裁判にかけられた後、銃殺刑を即時執行された。1918年1月26日に生まれたニコライ・チャウシェスクという男は、こうしてこの世から消えた。だが、裁判の異常な形態からすれば、「抹殺された」という表現の方がふさわしかった。50年代の東欧諸国で吹き荒れた政治裁判を彷彿させる裁判であった。

救国評議会が国営放送を通じて発表した「全財産没収のうえ処刑」という判決の罪状は、①6万人以上の国民の大量虐殺、②国民および国家権力に対する武装行動で国家を危機に陥れたこと、③公共建造物の破壊・損傷による公共財産の破壊、④国家経済の破壊、⑤逃亡の企て、⑥国外銀行口座による10億ドル強の不正蓄財ーを指摘している。しかし、独裁者の不法行為をトータルに裁いたはずのこの裁判も、また不法であった。
6万人以上の虐殺とは、おそらくチャウシェスクの在任中、「飢餓輸出」の悪名を持つ強引な食糧輸出の犠牲となって死んだ人々、治安警察に「消された」人々、そして政変の混乱の中で死んだ人々を漠然と指しているとみられる。しかし、六つの罪のうち最も重い罪状であるにもかかわらず、6万という数字の根拠は全く説明されていない。判決は大量虐殺と個人的奢侈に対する非難をないまぜにした代物でしかない。
*飢餓輸出(きがゆしゅつ)とは、国内で必要な物資の消費を規制し、輸出に回して外貨を獲得すること。最終的には、国内の食糧消費が不足するほどの量を輸出し、飢餓を招く事態に陥ることから名付けられたExporturile foametei și (Kigayushutsu), a proviziilor necesare în consumul intern pentru a reglementa, exporturile prin apelarea la valută străină pentru a câștiga. În cele din urmă, a fost numit pentru că export ă su ficient ăhrană pentru a provoca foamea ・・・近年で有名なところではルーマニア社会主義共和国の元首、ニコラエ・チャウシェスクの行ったものである。西側諸国からの累積債務返済のため、飢餓的な輸出を強行し、生活用品や食料品も不足したとされ、ルーマニア革命の遠因ともなったUn loc celebru în ultimii ani a fost șeful de stat al Republicii Socialiste România , Nicolae Ceaușescu . Datorită rambursării datoriilor acumulate din țările occidentale, se spunea că a forțat exporturi înfometate și a lipsit de necesitățile zilnice și de alimente, ceea ce a fost o cauză îndepărtată a Revoluției Române.
法廷の実録ビデオが、その後、西側に流出した。裁判の全容をみると、問題点は一層明確になる。

*Românăルーマニア語→Procesul și execuția cuplului Ceaușescuチャウシェスク夫妻の裁判と処刑Trial and execution of Nicolae and Elena Ceaușescu au avut loc în circumstanțele evenimentelor revoluționare din România, desfășurate între 16 și 25 decembrie 1989.
政治裁判
法廷の出席メンバーは裁判長がゲオルギカ・ポパGica Popaと4人の陪審判事、検察官ダン・ボイネア、弁護人2人と法廷書記1人。このほかに傍聴人として、セクリターテ(治安警察)大佐ビネギル・マグレアヌ、政変に重要な役割を果たしたとみられる国防第一次官ビクトル・スタンクレスクらも登場する。マグレアヌはのち、治安警察の後身として新設される情報庁長官に、スタンクレスクは国防相に抜擢されるが、いずれも政変当時は無名に近かった人物だ。

*Românăルーマニア語→Dan Voinea (născut 23 iulie 1950) este general și magistrat român. Este procuror militar din anul 1982, între anii 1997 și 2000 a deținut șefia Sectiei Parchetelor Militare din cadrul Parchetului de pe lângă Înalta Curte de Casație și Justiție.

*Românăルーマニア語→Virgil Măgureanu, născut Imre Asztalos,[1] (n. 19 martie 1941, Giurtelecu Hododului, comuna Hodod, județul Satu Mare) a fost primul director al Serviciului Român de Informații, în funcție în perioada 1990-1997.
.
*Românăルーマニア語→Victor Atanasie Stănculescu (n. 10 mai 1928, Tecuci, județul Galați – d. 19 iunie 2016, Ghermănești, județul Ilfov[1][2]) a fost un general de armată român, care a îndeplinit funcția de ministru al apărării naționale în perioada 16 februarie 1990 – 29 aprilie 1991.
公判は、チャウシェスク夫妻がともに「この裁判は認めない。大国民議会Marea Adunare Naționalăの前でのみ証言する」と主張し、起訴事実に関する実質審理も証拠提出もないまま終了してしまう。裁判の性格を端的に物語っているのは、裁判長と弁護人の被告への対応である。いくつかの内容を拾ってみよう。
*Românăルーマニア語→Marea Adunare Națională a fost organismul legislativ unicameral al Republicii Populare Române și al Republicii Socialiste România în perioada 1947-1989.
裁判長「われわれは救国戦線評議会が採択した新法によって諸君を裁く。(「憲法を読め」というチャウシェスクの抗議に対し)被告人がここで憲法の講読を指示する必要はない」
「われわれは次の事実を知っている。祝日にはつねに盛大な祝宴が催された。被告両名はその際、常に取り巻きをはべらせていた。とびきり豪勢な衣装をつけて、以前の国王も、世界の在位中の国王も知らなかったような華美。一方で、国民は身分証を提示して1日200グラムのソーセージの割り当てを受けていたのだ。これは被告両名が犯した大量虐殺だ」
「被告の指示で生じた薬品不足のために、人々は薬もなく、暖房もなく死んだ。被告はそれを一顧にしなかった」
裁判長の発言は、通常の法廷指揮の枠を超え、検察官の論告のような響きがある。裁判の中ほどから、弁護人の”弁護”も増える。
弁護人「(裁判長に)われわれは当法廷が、法により規定された通常の訴訟手続きの進行規準を順守していることを確認します。したがって、当法廷を承認しないのは、被告両名の過失であります」
「われわれに示された証拠に照らし、被告両名はこれらの罪状について有罪であることを確認します」
「弁護人として、裁判長に要請します。法の名において、報復と映らないような、また、被告が犯した罪に対し、法の定めに従って罰せられたことが明白になるような判決を下されるようお願いします」
(死刑宣告の後、「この判決は認めないぞ!」と叫ぶチャウシェスクに対し)
「法廷を否認することは、いまや何の価値もない。(裁判長に向かって)この状況下で、判決が最終的なものであると確認していただきたい」
なんという裁判であろう。弁護人は初めから弁護人としての立場を完全に放棄している。本来の職責からすれば、様々な弁護の余地があったはずだ。国家元首として軍最高司令官の立場にあったチャウシェスクはともかく、法的には軍の指揮に関与しないエレナを軍事法廷で裁くことが合法なのかどうか。検察官のようにふるまう裁判長の訴訟指揮にも抗議する理由は十分ある。弁護人はまた、証拠の開示を請求することすら示していない。救国戦線評議会が発表した「6万人」の死亡者数の実態については、審理の過程では全く触れられていない。
弁護人の態度の不可解さはしかし、その無能ぶりにあるのではない。裁判自体が初めから仕組まれた政治裁判であったに過ぎないのだ。チャウシェスクは22日の政権倒壊の瞬間から、非公開裁判で即刻抹殺される運命にあった。こうして、ルーマニア新政権は発足の当初から手を血で汚してしまった。

*イオン・イリエスク(ルーマニア語: Ion Iliescu、1930年3月3日 - )は、ルーマニアの政治家。大統領(第2、4代)、上院議員(2期)、青少年関係問題相、救国戦線評議会議長(初代)、社会民主党議長を歴任。
政府中枢からの旧共産党員排除の不徹底や、ルーマニア革命での銃撃戦の真相究明を求める国民運動への弾圧、経済政策の失敗などで、非共産党系のエミル・コンスタンティネスク政権誕生(無血革命)を招いた。

革命「乗っ取り」疑惑による起訴:チャウシェスク政権崩壊から救国戦線による政権掌握に至るまでの経緯の中には不明な点も多く、司法当局に真相解明を求める市民団体の声は絶えなかった[1]。特に1989年12月22日にチャウシェスクが共産党本部から脱出した後に銃撃戦が発生した理由は革命最大の謎とされているが、イリエスクの側近だった元軍検事長や革命後のイリエスク政権で国防相を務めたヴィクトル・スタンクレスク(英語版)将軍(2016年死去)が救国戦線側によるでっち上げで引き起こされたものだったと証言しており、救国戦線が反政府デモに乗じて革命の乗っ取りを狙ったとされる疑惑が事実だった可能性さえ浮上している[2]。2018年12月、検察当局は「革命の最中にテレビや記者発表を通じデマを広め混乱を生じさせた結果、800人以上の死亡者を出した責任がある」として、人道に対する罪でイリエスクを起訴したと発表した[3]。しかし既に死亡した関係者も多いことから、公判での立証は困難を極めるとされているほか、イリエスクが「圧力」をかける懸念さえあるといわれている。

新政権の謎
革命の法?
新政権側が裁判を正当化する論拠は、裁判が「革命」過程の一部だったという主張しかなかった。救国戦線評議会議長イオン・イリエスクは「われわれは慎重に検討されるべき決定を急ぎ過ぎるきらいはある」と認めたうえで、なおかつ「われわれには国民に支えられているという自覚があった。裁判を急いだことは、これによって正当化される」と断言した。副議長マジルはさらに明確に述べている。「われわれは革命の渦中にあった。革命には独自の法がある」と。
東欧諸国の変革で、各国共産党が共通して掲げた核心には「法治国家性」の回復があった。共産党一島支配の下で政治生活に根を下ろしてしまった「党イコール国家」の関係、つまり党が国家機関の代替物に変容し、国家の諸法の執行者としてふるまってきたことへの深い反省があった。複数政党制の容認とは、まさに「党」の相対化を保証する一つの、論理的には唯一の手段であった。ルーマニア新政権の指導者の発想には、この理念が決定的に欠落していた。

*ルーマニア共産党(ルーマニアきょうさんとう、ルーマニア語: Partidul Comunist Român)は、ルーマニアの共産主義政党。頭文字のPCRをとって「ペ・チェ・レ」と呼ばれた。1945年から1989年まで存続したルーマニア社会主義共和国の一党独裁政党である。1921年に結成され、1989年12月25日にルーマニア革命によって廃止された。
しかも、新政権が好んで使う「革命」の論法にも、疑義がある。「革命」だったのかどうかを検証するためには、新政権の成立過程と、参画した人々の役割に光を当ててみなければならない。
チャウシェスク夫妻を乗せたヘリが、党本部屋上からよろめくように舞い上がって約1時間後の22日午後1時、国営ラジオは「救国戦線が政権を掌握した」と伝えた。午後2時、これとは別に「祖国繁栄のための戦線」を率いる外相マネスクが、国営テレビに登場し、独裁打倒を宣言した。だが、この時点では、まだ新政権の体制はできあがっていなかった。権力の受け皿があわただしく完成するのは同日夜にかけてである。


*Românăルーマニア語→Corneliu Mănescu (n. 6 februarie 1916, Ploiești, România – d. 26 iunie 2000,[1][2] București, România)[3] a fost un om politic român, care a fost, printre altele, ministru de externe al României.
救国戦線評議会
22日の救国戦線評議会結成のもようは、年明けの1990年1月、フランス国営テレビ
France Télévisionsが入手し、放映したビデオで初めて明らかになった。場所は党中央委員会本部、午後4時、同本部に押し掛けた群衆に混じって、画面にはイリエスクのほか、後の首相ぺトレ・ロマン、退役将軍ニコラエ・ミリタル、元国連大使(党機関紙編集長)シルビウ・ブルカンらが登場する。会議の司会者はいないが、イリエスクが討論の進行の中心にいることは明白だ。新政権の呼称をめぐる議論が始まる。


*ペトレ・ロマン(ルーマニア語: Petre Roman、1946年6月22日 - )は、ルーマニアの政治家、技術者である。首相(第53代)、上院議長(第38代)、外相、上院議員(2期)、下院議員(3期)を務めた。

*Românăルーマニア語→Silviu Brucan (n. Saul Bruckner, n. 18 ianuarie 1916,[2][3] București, România – d. 14 septembrie 2006,[4][2][3] București, România[5]) a fost un nomenclaturist, ideolog comunist și analist politic român.

*Românăルーマニア語→Nicolae Militaru (n. 10 noiembrie 1925, Bălești, județul Gorj, România – d. 27 decembrie 1996, București, România)[1] a fost un general de armată român, primul ministru al apărării după Revoluția română din 1989.
「『救国』というのは適当じゃないな。クーデターみたいに聞えるもの。『国民民主』を提案する。市民大衆には『国民統一戦線』と話してきたのだが」とロマンが発言。
「そういう表現はまずかったな」とイリエスクがさえぎる。続くミリタル将軍の発言が極めて興味深い。「しかし、『救国戦線』は6ヶ月前から活動しているのだからね」
臨時政権の性格も議論の焦点だ。ここでは、ミリタルが「『戦線評議会』は党および国家の機関であるべきだ」との意見を披瀝すると、ロマンは「党の機関というのは絶対にいけない。それじゃ、悪魔を呼び戻すことになる」と強硬に反対する。おそらく「チャウシェスクなき共産党」を存続させるのか、党を離れたところで新政権をつくるなかで、認識の違いがあるのであろう。若手テクノクラートであったロマンと、党に忠実であり続けた古参軍人ミリタルの世代の落差を反映している。
新政権の指導者となるイリエスクは「この『評議会』は新しい権力構造となるだろう」と述べるだけで、立場を鮮明にしていない。議論のまとめ役としてふるまっている点が目につく。再びイリエスクが「名称に関しては、継続協議することも可能だ。ティミショアラじゃ、『社会主義的民主戦線』といっていることだし」と発言すると、背後から「『社会主義』の言葉は二度と聞きたくない」と抗議の声が上がる。
反発に出会ったイリエスクは「じゃ、そのままにしておこう。『救国戦線』だ」。救国戦線呼称はこうして決定した。執行機関である評議会の構成をめぐっては、ブルカンとロマンの対立が目を引く、ロマンは党中央委を占拠している市民を代表に加えるよう主張するが、ブルカンは「占拠したのは兵士たちだ」と反論する。
「それは違う。私は兵士じゃない。ほかに私といっしょに来た一般市民がいる」とロマン。「君のことなんか、誰も知らんぜ」と冷笑するブルカン。議論は泥試合の様相を帯びる。結論出ず。
各国への通知方法に議論が及んだ際の、イリエスクの発言も意味深長だ。イリエスクは「既にソ連大使と連絡をとって、情勢を説明してある。大使館からモスクワに伝達されているはずだ」と説明している。後でも触れるが、ルーマニア政変の背景にちらつくソ連の影を思わせる挿話の一つである。会議はこの後も続き、「救国戦線評議会」(執行機関)という新権力機関を発足させるための議論があるはずだが、ビデオはここで途切れている。

6ヶ月前から
この会議録から分かることがいくつかある。22日には元外相マネスクが表向き新政権のトップにいるとされていたが、権力はこの時点で既にイリエスクの方向に大きく傾いていた。マネスクが率いる「祖国繁栄のための戦線」はじめ、全国各地に様々な名称を持った組織が誕生したものの、中心的役割を担う救国戦線に一元化されてはいなかった。イリエスクはこの会議後、26日の救国戦線評議会議長(国家元首)就任まで、戦線書記ないしスポークスマンとして登場する。
救国戦線の活動に触れたミリタル将軍の発言も重要な意味を持っている。将軍は「6ヶ月前」に救国戦線が存在したと証言しているのだ。将軍自身がメンバーの1人であったことは間違いなかろう。さらに、将軍は救国戦線についてなんら突っ込んだ説明はしていないし、周辺から説明を求める質問もなかった。この事実は、会議に出席した中心メンバーたちにとって、少なくとも将軍のいう「救国戦線」の存在は周知の事柄だったこと、この組織が政変に何らかの役割を果たしたことを意味している。会議出席者自身が組織に直接・間接に関与していたことさえうかがわせる。

二つの証言
反チャウシェスクの陰謀
クーデター派の傍証となる証言がある。党機関紙『スクンテア(火花)Scînteia』の後身である救国戦線系日刊紙『アデバル(真実) Adevarul』は1990年8月23日、ブルカン、ミリタル両者との会見記事を掲載した。ブルカンはこの中で、軍の将官と治安警察セクリターテの一部、古参党員が加わった反チャウシェスク派の結集が80年代からあり、特に軍内には反チャウシェスク軍事委員会が形成されていたと指摘している。ブルカンはウィーンのある東欧問題シンポジウムに出席した際にも「独裁打倒に民衆のデモが決定的な役割を演じたことは確かだが、約20人の将軍と秘密警察セクリターテの一部の”反逆”があって、はじめて成功したのだ」と述べている。
*『スクンテイア』(またはスクンティア[1]、ルーマニア語: Scînteia)は、ルーマニア共産党機関紙である[2]。紙名は「火花」を意味し、1931年から1989年まで発行された。
*Românăルーマニア語→Adevărul (până la reforma ortografică: Adevĕrul) este un cotidian central . . . Reapariția în decembrie 1989: În primele zile de după Revoluția din 1989 ziarul Scînteia, oficios al Partidului Comunist Român, și-a schimbat denumirea mai întâi în Scînteia Poporului (sub care au apărut 2 numere), iar apoi în Adevărul, comitetul redacțional rămânând inițial același.
自身軍人であるミリタルは、政変の前段階では既に、軍の一部とイリエスクの間になんらかの接触があったこと、84年には実際に反チャウシェスクの陰謀が実行寸前で失敗したことを強く示唆している。証言によれば、イリエスクは余り関心を示さなかったものの、ミリタルおよび元国防相イオン・イオニツァ(87年、自宅軟禁中死亡)は、チャクシェスク体制打倒後の「共産党の新指導者」にイリエスクが適任だとみなしていたというのだ。
*Românăルーマニア語→Ion Ioniță (n. 14 iunie 1924, comuna Mătăsaru, județul Dâmbovița – d. 27 iulie 1987, București) a fost un general de armată, comunist român. El a îndeplinit funcția de ministru al forțelor armate (29 august 1966 - 16 iunie 1976) și apoi pe cea de viceprim-ministru al Guvernului (16 iunie 1976 - 20 mai 1982).

【ブルカン証言】
・・・最初の反(チャウシェスク)体制グループは、イオニツァ、ミリタル、コスチャルの三将軍によって形成された。・・・1983年以来、私を入れた3人はイオニツァ将軍と定期的に連絡を維持、私はこの第一グループと接触を保った。
チャウシェスク体制の打倒計画で、われわれは三本柱があるとの前提から出発した。党、軍、セクリターテだ。この三つの機構を破壊する必要があった。
・・・われわれは陰謀を単に軍事クーデターではなく、人民革命の一部と想定していた。しかし、軍の陰謀と反抗する大衆との間に、必要な連絡を達成することには成功しなかった。この二つの勢力(軍、大衆)は89年12月までばらばらのまま、それぞれ守勢にあった。この分断が革命に痕跡を残すことになった。大衆が「軍はわれわれの味方だ」と叫んだのは、われわれの陰謀の結果だが、一方で「革命は簒奪された」と言われ始めることにもなった。
・・・将軍たちの活動の結果、20人の将軍と多くの将校を含む「反対派軍委員会」が結成された。・・・12月22日以降、ミリタル将軍が国防省を掌握、軍委員会が部隊の指揮権を握り始め、その時はじめて「軍はわれわれとともにある」と叫べたのだ。軍の180度の転回が自然発生的に起きたと考えるのは完全に間違っている。・・・軍内部の反対派は全土の流血防止に決定的使命を果たしたのだ。

【ミリタル証言】
・・・70年代中期、イオニツァ国防相とゲオルギエGheorghe Ion参謀総長は、反チャウシェスク・クーデターが軍にのみ可能だとの結論に達していた。しかし、国民の反抗の条件が整っていなかったので、われわれはクーデターの効果は薄いと考えた。だが、80年代、経済不振、国民の飢え、電力消費規制などにより、状況は一変した。わたしはイオニツァ将軍らとともに、時期は到来したとの結論に達した。77年の大地震直後の状況を(モデルとして)詳細に検討した。チャウシェスク夫妻はアフリカ訪問中で、指導部は完全に麻痺していた。
・・・われわれにとって、大統領の外遊日程を事前に知ることが重要になった。われわれは政治執行委員(政治局員)を必要とした。
・・・イオニツァ将軍と私は既に、イオン・イリエスクに会っていた。ブルカン氏も含め、われわれは彼がチャウシェスク後の党指導者に適任と考えていた。・・・当時は政治制度の変更までは考えていなかった。イリエスクに関しても、そんな考えはなかったと思う。彼は体制をはみ出すいかなる行動にも留保の姿勢を示した。このため、当面われわれは彼を除外した。
・・・チャウシェスクが西独を訪問した時期(84年10月15-17日)、不測の事態が持ち上がった。ブカレストの部隊は地方の農作業に送られた。・・・コスチャル将軍は自宅に軟禁、わたしとイオニツァ将軍は党中央委に召還され、ボブ政治執行委員(チャウシェスク側近、軍事裁判で終身刑)とポステルニク内相(同)はわれわれに会合を持たないよう警告した。だが、計画のことはそれ以上知られていないことが分かった。

*Românăルーマニア語→Emil Bobu (n. 22 februarie 1927, Vârfu Câmpului, Botoșani, România – d. 12 iulie 2014, București, România) a fost un demnitar comunist român.
・・・クーデター計画の実行のためには、即効性の麻酔弾使用の消音銃を必要とした。わたしはそこで、ソ連大使館員と会い、さらにこの後、コンスタンツァ(黒海沿岸都市)のソ連領事館にも赴いた。ソ連側は計画に大変興味を持っていたが、モスクワからのソ連外交官への回答は、ルーマニアの内政への関与を禁じるという否定的なものだった。・・・ソ連はすべてを知っていた。
両者の証言から推測できるように、軍内部の反チャウシェスク派結集の動きは70年代に始まり、80年代に入って具体化した。84年には、チャウシェスク排除計画がチャウシェスクの外遊の隙をついて、実行の寸前まで行ったことになる。軍人グループと党人グループの緩やかな組織として89年の春ごろ誕生したのが、ミリタル将軍のいう「救国戦線」だったと考えるのが自然だろう。

共産党再建狙う
救国戦線を公式に旗揚げした22日の、党本部での会議におけるミリタルの「『救国戦線』は党および国家の機関たるべきだ」という発言と、イリエスクを「党の新指導者」に据えようという構想は完全に一致する。政変前の「救国戦線」に集まっていた人々が「チャウシェスク排除による共産党の再建」を究極目標としていたことは明らかだろう。
22日午後、国営テレビに登場したイリエスクは「同志のみなさん」という共産党特有の呼び掛けで演説し、「われわれは二度と、『共産主義者』を自称する自薦の指導者らに謝った指導を受けてはならない。彼らは過去、ルーマニア共産党と、この国の社会主義のために命を捧げた人々の名声を傷つけたのだ」と述べた。
政変に歪められてしまった党の再建と威信の回復こそ、反チャウシェスク陣営を形成していた人々の共同綱領だった。独裁崩壊の翌23日付の共産党機関紙『スクンテア』が掲載したイリエスクのアピールは、さらに明快である。この中で、新指導者は「ルーマニアは隣国の道を模倣するつもりはない。われわれはチャウシェスクに抗議を向けていたと同時に、社会主義的倫理の維持を支持しているのだ。われわれは意見の多様性とともに社会主義的秩序を必要としている」と言い放った。隣国のハンガリー党は2ヶ月前、事実上党を解散、社会民主主義政党への服従を完了していた。イリエスクの声明は、約400万人の共産党員に対し、党組織の安寧を保証したのだった。

党派闘争説
ドイツのミュンヘンにある南・東欧研究所の研究員ガバニイ女史は、ルーマニアの動乱を分析した著書『未完の革命』(1990年刊)の中で、興味深い仮説を提出している。女史の見解によると、政変は70年代以降チャウシェスク政権の自主独立路線によって指導部から排除されてきた党内国際派(ソ連派)が挑んだ党内闘争だった。
*独自外交の展開Dezvoltarea diplomației originale:1968年のチェコ事件に対しては、チェコスロバキアへのルーマニア軍の派遣を拒否してソ連を公然と非難した。一方でソ連は、共産主義ブロック内で独自路線をゆくルーマニアの態度を「うわべだけのもの」とさほど重要視していなかった1968 a afacerii cehe pentru, Cehoslovacia a fost condamnat public Uniunea Sovietică a refuzat să trimită a Forțelor Armate Române la. Uniunea Sovietică, în schimb, nu a acordat prea multă importanță atitudinii României de a-și lua propriul traseu în cadrul blocului comunist ca „doar superficial”.

*Deutschドイツ語→Anneli Ute Gabanyi (* 18. Oktober 1942 in Bukarest(ブカレスト生まれのハンガリー系ルーマニア人研究家)Rumänien) ist eine deutsche Politikwissenschaftlerin, Philologin und Journalistin.
女史は政変の端緒となった12月16日のティミショアラの騒ぎの際、同市には異常に多くのソ連人”旅行者”が滞在していたと指摘し、騒ぎは反チャウシェスク派に回ったセクリターテの一部が仕組んだ挑発だった可能性もあるとみる。警戒が厳重のはずの21日の官製集会で「チャウシェスク打倒」の叫びを上げた若者の一団の正体も謎に包まれている。集会に動員された選り抜きのチャウシェスク支持派党員が、一瞬にして反チャウシェスク行動に立ち上がったのも不自然である。

ティミショアラ騒動に関しては、逮捕された治安警察長官ブラドが裁判の中で、「ティミショアラのセクリターテ部長は、暴動に困惑し、いったい何が起きているのか理解できなかった。直ちに情報収集委員を派遣した」と述べ、ティミショアラ暴動の参加者は、数日後首都ブカレストなどの反体制デモに立ち上がった群衆とは別だった、と証言している。
背信
軍の論功
では、初期の「救国戦線」はどのような人々によってつくられたのか。ミリタル将軍が含まれていたことは、彼自身の証言から疑問の余地はないが、ルーマニアの政変劇にはこのほか、軍部から参謀総長グサ、第一国防次官スタンクレスク、ブカレスト軍管区司令官ギツァク、ポパ大佐、ルポイ大尉、セクリターテ大佐マグレアヌらの名が登場する。

*Românăルーマニア語→Mihai Chițac (n. 4 noiembrie 1928, comuna Suharău, județul Botoșani, Regatul României — d. 1 noiembrie 2010, București, România) a fost un general român, care a îndeplinit funcția de ministru de interne (1989-1990).

*Românăルーマニア語→Mihail Lupoi (n. 10 iunie 1953, Piatra Neamț, Neamț, România – d. 28 iulie 2012, București, România) a fost un ofițer, arhitect și politician român.

*ステファン・グシェ(ルーマニア語: Ştefan Guşă、1940年4月17日 - 1994年3月28日)は、ルーマニアの軍人。1989年のルーマニア革命当時の参謀総長・・革命期間中は、当初救国戦線の下で国軍の指揮を執り、ハンガリー軍とソ連の介入を拒否したが、秘密裏に暗号を使ってチャウシェスク派を指揮しているのではないか、との疑念を救国戦線側が抱いたことから解任された。1994年3月28日、ブカレストの軍病院にてガンのため死去。
救国戦線評議会は12月26日、イリエスクを評議会議長に正式に選出するとともに、元外務省法務部長ドミトル・マジルが副議長に、ロマンが首相に、ミリタル将軍が国防相に就任したと発表した。続いて29日、その他の閣僚が任命された。この段階ではスタンクレスク将軍(経済相)やギツァク将軍(内相)、ルポイ大尉(観光相)ら軍人の躍進が目立つ。グサ参謀総長は22日発表の評議会メンバー(39人)には入っていたが、28日には解任され、早くも失脚している。グサは動乱のさなかに反乱側に寝返ったといわれており、軍の現場責任者として、チャウシェスク夫妻に対する即決の軍事裁判に反対したことが解任の理由ともいわれた。

こうして見ると、もともと軍内部の反チャウシェスク派にはミリタル、ポパ、スタンクレスクがいたとの推測が可能だ。22日の救国戦線の会議のビデオでは、イリエスクが会議中、しきりにスタンクレスク将軍と電話連絡をとろうとする場面がある。チャウシェスク裁判に同席した数少ない関係者の1人でもあり、政変における彼の役割が決定的に重要な意味を持っていたことがうかがわれる。
ルポイはさして重要な人物ではないが、チャウシェスク夫妻が逃亡した日の午後から「軍スポークスマン」として、テレビに登場する。夫妻を逮捕したのが彼の部隊だったとも言われる。しかし、90年初め、首相ロマンと対立して観光相を解任され、7月にスイスに亡命した。

国民の館(こくみんのやかた、ルーマニア語: Casa Poporului)は、ルーマニアの首都ブカレストにあるルーマニア議会の議事堂および観光施設である(”独裁者の夢の跡Traces of a Dictator's Dream”(故Late小川和男Kazuo Ogawa氏言)「(別名)チャウシェスク宮殿Casa Ceaușescu」)。1980年代に、当時のルーマニア共産党書記長だったニコラエ・チャウシェスクが「宮殿」として造成した。

ナディア・エレーナ・コマネチ(Nadia Elena Comăneci ルーマニア語発音: [ˈnadi.a koməˈnet͡ʃʲ] :1961年11月12日 - )は、ルーマニアの女子体操選手。1976年に行われたモントリオールオリンピックで3個の金メダルを獲得した。コマネチはまた、この大会で体操競技選手としてオリンピックの舞台で初めて10点満点を獲得した。1980年モスクワオリンピックでも2個の金メダルを獲得した・・・1976年のアメリカンカップで知り合ったバート・コナー(ロサンゼルスオリンピック男子体操金メダリスト)と再会しオクラホマ州に引っ越した。1994年11月12日のコマネチの33歳の誕生日にコマネチらは婚約した。そして亡命以来初めてルーマニアに戻った2人は1996年4月27日にブカレストで結婚した。結婚式は生中継されてレセプションはルーマニア大統領府で行われた。民主化したルーマニアに「犯罪者」と呼ばれることさえ覚悟しながらも、コマネチは帰国した。国民は温かくコマネチを迎え入れた。コマネチは2001年6月29日にアメリカ国籍を取得し、ルーマニア国籍も放棄しなかったため二重国籍となった。

나디아 엘레나 코마네치(루마니아어: Nadia Elena Comăneci 나디아 엘레나 코머네치[*], 1961년 11월 12일 ~ )는 루마니아의 은퇴한 기계체조 선수로, 올림픽 체조 부문에서 최초로 10점 만점을 받았다.

×

非ログインユーザーとして返信する