日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Mouvement étudiant학생 운동(Studentenbewegung學生運動Student activism)Студенческое движение/高木正幸『全学連と全共闘』Masayuki Takagi《Zengakuren and Zenkyoto》①


高木正幸『全学連と全共闘』(講談社現代新書/1985)"Zengakuren and Zenkyoto" Masayuki Takagi 
空前のエネルギーを結集して燃え尽きた六〇年代安保闘争。"大学解体"と"自己否定"をスローガンに、全国の大学に"大反乱"の嵐を巻き起こした全共闘運動。その後の凄惨な内ゲバ・リンチ事件や、武装ゲリラ闘争……。戦後史の重要な節目ごとに、学生たちが情熱を傾けた社会変革や反戦平和の運動の歩みを、丹念なデータをもとに跡づけ、日本の政治と社会にもたらしたインパクトの意味を探る。
The 60's security struggle that burned out with unprecedented energy. Under the slogans of "dismantling the university" and "self-denial," the Zenkyoto movement caused a storm of "great rebellion" at universities nationwide. After that, the horrific Uchigeba Lynch incident and the armed guerrilla struggle ... At each important milestone in postwar history, we will trace the progress of the social change and anti-war peace movements that students have been passionate about, based on careful data, and explore the meaning of the impact on Japanese politics and society.
*高木 正幸(たかぎ まさゆき、1930年(昭和5年)3月10日 - 1998年(平成10年)7月13日)は、熊本県出身のジャーナリスト、評論家。新左翼や右翼、同和問題の専門家として知られたMasayuki Takagi (Takagi Masayuki, March 10, 1930 - July 13 , 1998 ) is a journalist and critic from Kumamoto prefecture . He was known as an expert on the New Left , Right and Dowa issues.

Deutschドイツ語⇒Zengakuren (jap. 全学連, Abkürzung von 전일본학생자치회총연합全日本学生自治会総連合 Zen-nihon gakusei jichikai sō rengō, dt. Alljapanischer Allgemeiner Verband der studentischen Selbstverwaltungen) ist eine linksradikale Dachorganisation von Studenten in Japan. Sie wurde 1948 gegründet und organisiert Märsche und Proteste. In den 1960er Jahren kam es zur Spaltung der Zengakuren, so dass es heute 5 Organisationen unter ihrem Namen gibt.

Françaisフランス語→Les Zenkyoto (全共闘, Zenkyōtō), diminutif de Zengaku kyōtō kaigi (전학공투회의全学共闘会議), étaient des comités de lutte de base dans les universités de la fin des années 1960 au Japon, qui ont été les moteurs des occupations et des affrontements opposant étudiants et policiers, au moins dans les universités de Todai et de Nichidai.
はじめに
「学生運動」は、戦前、戦後を通じて、ずっと日本の左翼運動や政治運動の代名詞となってきた。社会の一つの大きな「層」としての学生が、集団的・組織的に行動する「学生運動」が、反体制・反権力闘争の先端を担ってきたのである。
だが、その学生像は、戦後約40年を経て、1968、9年のあの世間を震撼させた大学闘争・全共闘運動、70年代反体制闘争のあと、急速に変化した。戦後の「全学連」再建、60年安保闘争、全共闘大学闘争と、その高揚のリズムの故にいわれた”学生運動十年周期説”は、70年代から80年代にかけて、大衆的高揚のないまま十数年が過ぎて、偶然の仮説にすぎなかったことを示した。もともと運動に、公式などあるはずはなかった。
70年代以降、学生たちは、政治や社会への鋭い批判、現状打破の熱い雰囲気を失ったように見える。学生の政治的組織は急速に力を弱め、学生たちの秩序、ルールへの従順さ、現実主義化、保守化、意識の多様性がいわれるなかで、社会運動、政治運動を担う「層」としての力を喪失していったのである。いま、左翼、極左翼運動を担う主体は、学生たちではなく、労働者層であり、学生部隊は左翼、新左翼、反体制運動のなかの一部にすぎない。「学生運動」の呼び名に値する層、共同体としての学生の動きは、社会の中から完全といっていいほど消えてしまった。
時代が移り、人の心が変って、学生も、本質的に変化してしまったのである。それだけに、かつて社会を揺るがせた学生運動のいくつかのイベントが、ある人には懐かしく、ある人には心の高ぶり、あるいは怒り、悔いを込めて、それぞれに鮮やかに思い出されてくるのである。過去、たしかに学生運動は社会をゆさぶった。日本にとって、重要な節目を築いた。学生運動が過去の”神話”化しているいま、日本の一つの歴史として、その流れをまとめることの意義を感じ、この小論を書いた。
学生運動は、1945年8月、日本が第二次世界大戦に敗れ、民主主義国家として再出発してから、学徒出陣や勤労動員から学園に戻ってきた学生たちによって、本格的な形と動きを生んだのだが、それ以前、いわゆる戦前にも、学生運動が存在しなかったわけではない。
1918年(大正7年)、東京帝国大学の学生によって結成された「東大新人会」や、京大生による「京都労学会」、早大生による「民人同盟」などである。学生運動の代名詞として用いられた「全学連」の前身ともいえる「学連」-学生連合会も、1926年に結成されている。これらの学生組織は、普通選挙や労働運動の組織化、軍事訓練反対運動などにかかわり、昭和初期、極左翼軍事路線化した日本共産党の武装闘争にも加わった。
戦争の進展によって、学生が侵略戦争の前線に駆り出され、学校に残った学生が軍需工場へと学徒動員されるなかで、学生運動は閉塞状態に追い込まれるが、この人間性を無視した学生の戦争への総動員が、敗戦後、自己解放から学生運動へと発展したエネルギーの起爆剤となったのである。
*Deutschドイツ語⇒Die Shinjin-kai (japanisch 新人会, deutsch etwa „Vereinigung der neuen/modernen Menschen“) wurde am 7. Dezember 1918 von Studenten der Fakultät der Rechtswissenschaften der Universität Tokio gegründet, der sich auch Studenten der Keiō-Universität anschlossen, aber auch Mitglieder der Arbeiterbewegung. Ziel war es, um über mehr Demokratie und soziale Reformen zu diskutieren und sich dafür tatkräftig einzusetzen.
*Labor Society労学会:In 1917, it was formed by members of the Yuaikai in Tokyo and students of universities and technical colleges for the purpose of researching labor and social issues and contacting workers and students, proposed by Sanzo Nosaka of the Yuaikai . The name was changed to the Social Issues Study Group in 1918, but it was soon dismantled due to the reluctant attitude of Chairman Suzuki Bunji (Chairman of the Yuaikai) who feared the rapid evolution of the society . Immediately after that , a new labor society was formed in Kyoto by members of the fraternity society led by Hajime Kawakami and students of Kyoto University , but in 1920, a plan to participate in May Day of Kyoto University students was discovered and ordered to dissolve .
*Françaisフランス語→Le Minjin Domeikai民人同盟会Alliance populaire est une organisation militante étudiante formée autour de l'Université de Waseda en février 1919 (Taisho 8) .
この小論では、その戦前の学生運動の歴史については、紙数の関係で詳述を避けた。戦後の学生運動も、前述したように、60年代後期の大学闘争後の動きについては、学生運動というより、労働者と一体となった新左翼運動の記述といったほうがいい。しかも、筆者自身、これらの運動のすべての現場にいて、それを目撃したわけではない。誰にとっても、複雑で多様なすべての事実を自ら把握することは、不可能なことだろう。自身の現場体験のない事実については、他からの資料に負うしかない。筆者の場合も、多くの資料から材料を得た。
過去日本の学生運動は、概略どういうものであったか。この小論は、その動き、流れを知るための、種々の資料を集結したデータとしての略史であることを、お断わりしておきたい。

1ー戦後「学生運動」の出発
学園民主化と自治会結成
1945年8月15日、日本はアメリカ、イギリス、ソ連がポツダムで結んだ宣言を受諾し、連合軍に降伏。8年にわたった戦争にようやく終止符が打たれた。徴兵猶予になっていた理科系学生や病弱の文科系学生など、ごく一部の学生しか残っていなかった学園に、学生たちが次々と帰って来た。これらの学生たちは、物資の欠乏や生活規範の喪失など、社会の混乱状態がつづくなかで、いち早く動きをみせ出した。立ち遅れた知識・学問を取り戻そうと、多くの大学で「社研」-社会科学研究会が結成され、学生図書協議会がつくられ、食生活など生活の基礎づくりのため大学生協を誕生させた。
これらの学生生活づくりのなかで、学生運動、政治運動の再建が積極的に取り組まれ始めた。それがまずめざしたものは、戦時中の軍国主義教育への批判、戦後一転して民主主義を説く教師たちの無節操さへの反発であり、敗戦二ヶ月後の10月、水戸高校(旧姓)で起こった軍国主義教育校長の罷免や進歩的教授の復職を求める運動とストライキは、その皮切りだった。のちに結成をみた全学連の初代委員長・武井昭夫はこれらの動きについて、「10年間の学問的、人間的ブランクをとりもどそうとする真剣な模索」と述べた。
*Teruo Takei (武井 昭夫, Takei Teruo(神奈川県出身), January 29 1927 – September 2, 2010) was a Japanese literary critic. While a student at the University of Tokyo, he played a central role in the founding of the nationwide student federation Zengakuren, and served as its first chairman. As a literary critic, he was at the forefront of a movement to demand that writers confront their own culpability in wartime collaboration.
水戸高校での学園民主化運動は、校長など3名の教授の罷免と、謹慎処分中の教授らの講義再開をかちとり、これにつづいて、上野高女、物理学校(現・東京理科大)、静岡高校(現・静岡大)など、全国の高校、大学で、学園民主化を要求するストライキがつづいた。そのスローガンは、学園報国団解体、戦犯教師追放、民主的教員の復帰、学生組織の結成などだったが、なかでも最大のものは「自治会」の結成だった。戦前の組織が、個人加盟制を基本としたのに対し、全学生の自動的全員加盟制を建前とする新しい自治会制度の確立である。
これが大衆的な学生運動をうながす契機となり、自治会組織化の動きが各大学で高まった。46年5月、戦前からの学生運動の伝統をもつ早稲田大学が、学生大会で学生自治会規定を可決、学校当局もこれを承認して、全国大学ではじめて全員加入の学生自治会が結成された。同自治会は、同年12月、約6千人によって戦後初の街頭デモを行ない、学園復興、預金封鎖解除などの決議文をもって政府に押しかけた。この早大での全学自治会結成がモデルとなって、同11月、学生自治会の連合体として「全国学生自治会連合」が発足した。「学生意志の総合的発見をなし、学生自治力の充実をはかること、学生の生活改善と学園の民主化のための諸活動を行なうこと」が、その目的であった。

2・1ゼネストの挫折
この敗戦後の学生運動の復活は、戦場や職場から帰って来た学生たちの純粋な批判、反発に基づくものであったが、敗戦から2ヶ月後の45年10月、GHQ(占領軍最高司令部)の覚書によって政治犯が釈放され、「日本共産党」が再建されたことが、この学生運動の復興に拍車と色合いを添えた。
*Русскийロシア語⇒Главнокомандующий союзными оккупационными войсками (англ. Supreme Commander of the Allied Powers (SCAP)) 연합군 최고사령부GHQ 수프림 코맨더 오브 디 앨라이즈 파워스, 일본어: 連合国軍最高司令官総司令部 렌고우코쿠군사이코우시레이칸소우시레이부)— должность, занимавшаяся генералом Дугласом Макартуром (1945—1951) и его преемником, Мэтью Риджуэем (1951—1952), в период оккупации Японии после Второй мировой войны.
*Deutschドイツ語⇒Die Kommunistische Partei Japans (kurz KPJ; japanisch 日本共産党 Nihon Kyōsantō; eng. Japanese Communist Party, kurz JCP)일본공산당 ist eine politische Partei in Japan.
日本の学生運動は、戦前からMarxismusマルクス主義Марксизмが大学内の社会科学をリードし、大学内にそのマルクス主義が浸透しはじめたころ、日本共産党が創設されて、学生・青年層に強く働きかけたといった事情から、大正時代の学生運動の初期より、マルクス主義を理念とし、日本共産党の指導の下に発展するという、宿命を担っていたのである。
再建された共産党は、”米をよこせ闘争”など大国民運動を展開する一方で、全国の学生、青年の組織化に乗り出した。戦争で痛手を受けた組織の再建に不可欠な人材不足の解消のためにも、学生対策は急務だったのである。1946年2月には、「日本青年共産同盟」(日本共産青年同盟(Japanese Communist Youth Alliance)は、戦前の日本で活動した青年組織である。日本民主青年同盟の前身にあたる。略称は共青)が結成され、東大にこの青共東大班が組織されたのにつづいて、全国の大半に、青共大学班、社研などの学生組織を育成していった。45年末から46年にかけ、この各大学の学生組織が地域ごとに連帯して、「東京都学生連絡会議」などのブロック組織が生まれ、それが関東、関西の「学生政治協議会」へと、次第に全国的に発展していった。

*飯米獲得人民大会(Mayday for food supply)とは、1946年(昭和21年)5月19日に、日本の東京都麹町区(現千代田区)の皇居(宮城)前で行われた、日本国政府の食糧配給遅延に抗議する集会であった。食糧メーデー
Food May Dayとも呼ばれる。第二次世界大戦後の社会主義運動の高まりによって、最大で25万人が集結した。
ところが、「全国学生自治会連合」の発足などによって、ようやくその生成期から本格的な大衆運動組織の発展期へと展開をみせていた学生運動は、戦後最大のストといわれた47年の’2・1ゼネスト’の挫折によって、重大な転機を迎えることになった。GHQは、占領の初期においては、資本家にかわって生産を再開し、自主的な管理、経営を行なった労働者の”生産管理闘争”にも支持を与えた。農村での農民運動にも介入しなかった。しかし、GHQのこの政策は、アメリカとソ連の対立が激化した1946年ごろから急速に変化し、労働者のラジカルな闘争や、共産党の政治闘争を、弾圧の対象とした。共産党がこれを通じて民主人民政府の基礎づくりにしようとした、きわめて革命的な性格の2・1ゼネストは、その意味でGHQの歓迎するところではなかった。
政治闘争にようやく目覚めつつあった学生組織は、このゼネストに側面からの参加を決めていた。国鉄、全逓を中心とする官公庁労働者と、その前年に結成された共産党系の産別会議、それに社会党系の総同盟など民間労組も加わって、総数600万人の労働者がいっさいにストに立ち上がるという、このゼネスト前日の1月31日、皇居前人民広場に約40校、2万9000人の学生が集まって関東連合学生大会を開き、「学園民主化」「学校復興」をスローガンに一大デモンストレーションを行なった。
*The Japan Postal Workers' Union (JPU, Japanese: 日本郵政公社労働組合, Zentei) was a trade union representing workers at Japan Post.
*The Japanese Federation of Labour (Japanese: 日本労働組合総同盟 Nippon Rōdō Kumiai Sōdōmei) was a national trade union federation in Japan.
*Sanbetsu (産別) (Zen Nippon Sangyo-betsu Rodo Kumiai Kaigi (全日本産業別労働組合会議, "All Japan Congress of Industrial Unions")) was a Japanese trade union centre between 1946 and 1958.

*Latinaラテン語⇒Douglas seu Duglassius MacArthur더글러스 맥아더(natus 26 Ianuarii 1880; mortuus 5 Aprilis 1964)Ду́глас Мака́ртур fuit dux, praefectus generalis Exercitus Civitatum Foederatarum, et legatus Civitatum Foederatarum apud deliberationem de pace componenda Lutetiae anno 1919 factam.
しかし、この日本の歴史的なゼネスト計画は、占領軍司令官マッカーサーの禁止命令によって、あえなく挫折する。そのことが、労組員ばかりでなく、学生活動家にも挫折感を与え、脱落するのも出て、授業科反対運動の学生大会も流れるという事態が各所に現われた。そして、ようやく全国的組織化の方向に向かっていた学生運動が、停滞状態に陥るのである。内部的な挫折感ばかりでなく、学生運動も政治運動として弾圧の対象にさらされることになり、停滞を深めた。
*民政局(みんせいきょく、Government Section、通称:GS)は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)
内部の組織。GHQのなかで占領政策の中心を担った。

2ー「全学連」の誕生
初の全国学園スト
2・1スト敗北を契機にして、政治運動、学生運動に対する攻撃は急速に強化された。運動はきわめて困難な状態になった。とくに、学生運動に危機感を深めたCIE(占領j軍民間情報教育局)は、2・1スト敗北間もなくの2月7日、覚書を発し、「学生が自治の実験室から乗り越えて学校行政に不当介入することは排除されねばならない」と指示した。これに日本共産党の「学園へ戻れ」という召喚令も加わり、学生運動は急速に下降していった。
しかし、動揺の混乱のなかで、学生運動家の多くは、全国的学生運動組織の結成化への意欲を失わなかった。この意欲とエネルギーが、後世にその名を残す「全学連」-「全日本学生自治会総連合」を生むこととなった。全学連は、その後次第に変貌を重ね、その実態が変化してゆくが、48年の結成期、全学連は、他の政治組織、労働者組織のいずれよりも、GHQ、政府などへの反権力、反戦争をめざして行動する、もっとも巨大で、もっとも戦闘的な大衆運動団体であったのである。
それまでの学生運動は、いわばGHQの庇護の下に成長、発展してきたといっていい。全学連の名が、歴史に止まることになるきっかけは、日本の反体制運動史上、学生運動組織が初の自立をかちとり、主役の座を占めたからである。のちになれば、全学連は労働者・市民など革命の主体となる一般大衆との一体化を欠いていたとの批判はできるが、GHQと政府という二重の弾圧のなかで、独自で最大の社会的勢力をつくり上げた全学連学生の栄光は、否定されるものではない。「ファシズム反対」「学問、学生生活の自由」「民主主義の擁護」-全学連が掲げたスローガンは、その後も学生運動にとって不変の基調となった。全学連の名が、後世に残る大きな所以である。
この全学連を生んだのは、敗戦後の社会における教育復興の闘争であった。折からGHQが打ち出してきた国立大学の地方自治体委議案、同案に対する反対運動による代案として出された大学理事会法案、さらにインフレ下で発表した国立大学の授業料三倍値上げ案が、学生の運動意欲と結束を固めたのだった。
現在のようにアルバイトも十分になく、窮迫した生活を余儀なくされていた当時の学生にとって、授業料値上げは今日では想像できぬほど深刻な問題であった。これらの運動の高まりについては、それまでの早大を中心とする私学サイドの全国学生自治会連合に対して、国立大学サイドでその気運が高まったことが、特筆される。これはGHQ,政府の圧力が、直接力の及ぶ国立大学へ強まってきていたことを、意味していよう。
1948年6月1日、大学理事会反対と授業料値上げ反対の二つをスローガンに、約5000人が東京・日比谷音楽室に集まって「教育復興学生決起大会」を開き、文部省へのデモを行なった。そして、同月中、全国官公立大学高等自治会連盟が結成され、一斉ストライキを決議、26日にかけ、全国計140校でストが行なわれ、参加学生は20万人といわれた。東京では、この間、連日、国会への陳情デモ、山手線各駅での街頭宣伝が行なわれた。この全国学園ストは、戦後学生運動史上、最大規模のものであった。

全学連の最初の闘争
この全国学園ストに力を得た学生たちは、7月に入って全国国公私立大学高等代表者会議を開き、全学連結成の方向を打ち出した。そして、9月18日から三日間、東京第二師範、早大、東京商大と場所を移しながら開いた大会で、ついに全学連ー全日本学生自治会総連合が結成された。
参加は国公私立大145校、30万人、東大内に本部が置かれ、初代委員長は、共産党東大創設のリーダーで東大自治委員長・武井昭夫であった。この全学連結成によって、戦後学生運動は建設期を経て、第二の発展期へ入ったということができる。
①教育のファッション的・植民地的再編絶対反対②学問の自由と学生生活の擁護③学生アルバイトの低賃金とスキャップ(スト破りの意)反対④ファシズム反対、民主主義を守れ⑤青年戦線の即時統一⑥学生の政治活動の完全な自由
この六つが、全学連結成大会でのスローガンであった。1948年6月の全国学園ストと、同年9月の全学連結成は、戦後の大学再編をめざしていた政府・文部省当局を動揺させるに十分であった。同年10月8日、文部省は次官名で「学校内での政治活動は許されるべきでない」という「学生の政治活動について」通達を全国の国立学校に対して出した。この次官通達は、政府が学生運動に対して行なったはじめての基本的な方針で、その後の学生運動に対する各大学の指導原理とされた。
この次官通達に基づいて、各大学の共産党細胞に対する解散命令を出すなど、学内対策を強化する一方で、文部省はタナ上げにしていた理事会法案に代わる大学管理のための大学法案の国会提出をはかった。この法案に対しては、国立大学長会議、日本学術会議、日教組なども反対を表明したが、結成早々の全学連は、11月30日、天下り的運営を排除する独自の大学法案を発表するとともに、全国的にスト突入で、反撃に立ち上がった。5月、国会で審議が始まるとともにいっせいにスト突入、24日には、東京で、都下三十数校、1万5000人の学生がデモを行なった。
*Deutschドイツ語→Das Science Council of Japan (japanisch 日本学術会議, Nihon gakujutsu kaigi) repräsentiert die japanischen Wissenschaftler im Lande und auswärts. Es ist eine Einrichtung der Regierung, die aber unabhängig agiert.
*Portuguêsポルトガル語→União dos Professores do Japão (日本教職員組合 'Nihon Kyōshokuin Kumiai'?) também chamada de "Nikkyoso" (日教組 'Nikkyōso'?) é o maior sindicato de professores do Japão.
この全学連を含めた全国的な反対運動によって、政府はついに大学法案の上程をあきらめることとなり、全学連は結成最初の闘争で勝利を収めることとなった。

*Françaisフランス語→La purge durant l'occupation du Japon désigne l'interdiction faite à des personnalités japonaises de s'engager dans le service public, par ordre du commandant suprême des forces alliées (CSFA) après la défaite du pays à l'issue de la Seconde Guerre mondiale. Elle se termine avec l'indépendance du Japon en 1952.
レッドパージ反対闘争
だが、そのころ朝鮮半島の南北緊張に対応しようと、アメリカは戦争の準備を着々と進め、日本国内の政治運動、学生運動の高まりに対する極度の警戒から、反共政策をさらに強めていった。
これに基づいて、1949年4月、第三次吉田内閣は「団体等規制令」を公布、施行。官公庁、企業内活動家に対するレッドパージが開始されることとなった。同年7月4日のアメリカ独立記念日には、マッカーサー占領軍最高司令部が、「日本は不敗の反共防壁」という声明を出し、その日、国鉄の第一次首切りが発表された。7,8月には、国鉄総裁が轢死体となって発見された下山事件Shimoyama-Zwischenfall、列車転覆の三鷹事件Insiden Mitaka
、松川事件Дело Мацукаваなど、現在も真相の不明確な事件が起こるが、これらも”共産主義者の謀略”として、活動家の弾圧に利用された。9月には、朝鮮人連盟など四団体が団体等規制令による解散命令をうけた。
*Polskiポーランド語⇒Shigeru Yoshida (jap. 吉田 茂 Yoshida Shigeru; ur. 22 września 1878, zm. 20 października 1967) – japoński polityk, premier.
*在日本朝鮮人連盟(ざいにほんちょうせんじんれんめい、재일조선인련맹/재일조선인연맹)は、1945年(昭和20年)10月15日に結成され、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)占領下の日本で1949年(昭和24年)9月8日に解散させられた日本在住の朝鮮人によって組織された団体。略称は「朝連(ちょうれん、チョリョン、조련)」。「共和国に直結しよう」をスローガンに掲げていた。
学生に対する弾圧姿勢を強めたマッカーサーは、CIE大学教育顧問のイールズを各大学に派遣。7月19日の新潟大の講演を皮切りに、各大学で「赤色教官とヒスト学生の追放」を呼びかけた。各大学ではこのイールズ講演への学生の反対運動が起こり、講演会場はつねに抗議のヤジと床を踏み鳴らす音がひびいた。しかし、国立大学学長会は、このマッカーサーの方針をうけて、”赤色分子”追放のための研究委員会設置を決定した。
*イールズ声明は、連合国軍占領下の日本において行われた、連合国軍最高司令官総司令部民間情報教育局 (CIE) 顧問ウォルター・クロスビー・イールズ (Walter Crosby Eells) による声明、及びそれに関連して行われた共産主義者の大学教授を追放(レッド・パージ)しようとする動きを指す。これに反発して行われた学生運動(イールズ声明反対闘争)についても記述する。
全学連は「全面講和と全占領軍の撤退、イールズ声明反対、レッドパージ反対」をスローガンに、労働者組織と共闘して、決起大会、ストなどで闘争を闘った。5月に開いた全学連第四回大会は、「①ストックホルム・アピール(戦争反対をうたったアピール)②軍事基地反対、全面講和、全占領軍撤退闘争③イールズ声明撤回、レッドパージ反対闘争④授業料、育英資金、その他の部分的要求の闘争⑤学生戦線の統一、労学共闘の強化」などを決めた。
この強硬な全学連の反対姿勢に対し、同8月、ついに全学連も団体等規制令の適用の通告を受けた。この年10月には、中国で社会主義革命が成功し、République populaire de Chine中華人民共和国Volksrepublik Chinaが成立する。このことも、マッカーサーの反共ー政治活動弾圧姿勢を強めることになったとみられる。
*ストックホルム・アピール(英語: Stockholm Appeal)は、1950年に採択され世界の人々に署名を呼びかけた、核兵器禁止を求めるアピールである。

*Esperantoエスペラント語→한국전쟁 / 6.25 전쟁(韓国戦争 / 6.25戦争)Korea milito조국해방전쟁(祖国解放戦争)Korean WarКорейская войнаestis korea enlanda milito kun partopreno de pluraj aliaj ŝtatoj. Ĝi komenciĝis en 1950, kvin jarojn post la malvenko de Japanio en la Dua mondmilito, kaj finiĝis en 1953.
学生だけが得た勝利
1950年に入り、アメリカが着々と準備を進めていた朝鮮戦争がついに勃発した。その6月には、東京都内ではいっさいの集会、デモが数日にわたって禁止され、”戒厳令”下の状態となった。
マッカーサーは戦争開始に先立って、日本共産党中央委員会24人の追放を指令、さらに機関紙『アカハタ』の発刊停止命令を出した。7月、自衛隊の前身である警察予備隊7万5000人の創設が指令され、つづいてまず新聞・報道関係からはじまって、全産業部門で、活動家に対するレッドパージがはじまった。
団体等規制令適用通告を受けた全学連は、これを問題とせず、非常事態宣言を発して、果敢に闘争を展開した。朝鮮学生にもメッセージを送り、平壌放送がこれを世界に放送した。全学連は、9,10月と、レッドパージ反対のための試験ボイコット、ゼネストを、東大、早大はじめ全国大学で展開、各大学当局は、学校閉鎖によって反対運動を鎮め、警官隊との衝突を避けようという方針をとったが、反対運動はとどまらず、文相はついに、学内のレッドパージを撤回せざるを得なくなった。
全国で犠牲者2万人以上といわれるレッドパージの嵐のなかで、学生たちだけがかちとった勝利であり、その反対運動への爆発的高揚は、戦後初の輝かしい成果として、歴史に残るものであった。

3ー共産党との確執
「主体性」議論の高まり
アメリカ占領軍と日本政府の政治運動への弾圧強化のなかで、全学連が闘争の高揚をかちとっていった一方で、全学連執行部と共産党中央の亀裂、対立が次第に深まっていった。
前述したように、日本の学生運動は、戦前からマルクス主義が大学の社会科学をリードし、大学内にそのマルクス主義が浸透しはじめたころ日本共産党が創設されて、学生・青年に働きかけたといった事情から、大正時代の学生運動の初期から、マルクス主義を理念とし、日本共産党の指導の下に発展するという宿命を担ってきた。戦後の学生運動の初期、運動の中心的組織者は、戦後いち早く入党した日本共産党の学生党員やそのシンパたちであった。
しかし、当初から、とくに時が経つにつれて、”大衆運動”としての全学連を指導する学生党員と、”政党としての立場”を固執する共産党中央との関係は、必ずしもスムーズなものでなかった。すでに、1947年の2・1ゼネスト挫折が生んだ学生戦線の動揺と停滞のなかで、学生運動の「主体性」議論が高まったことも、その現われとして見逃せない。学生運動の低迷は、共産党が労働組合の組織化のために先進的な学生を引き抜いて転用するなど、学外活動に奔走させた結果だという批判が、そのきっかけであり、”学生運動の主体性の確立”こそ重要課題であるという議論の高まりであった。
この過程で、自治会活動よりも、学生運動の原点である新人会活動をと主張した東大共産党創設のメンバーを、共産党東京都委員会が除名し、東大細胞を規律違反として解散させるという事態も起こるが、この「主体性」議論が、後の、共産党と対立する反共産党系学生運動発生の原因の一つとなったのである。
全学連が結成後初の勝利を収めた1948年の大学法案反対闘争の指導方針をめぐっても、共産党中央の指導理論との間の対立が、さらに明確となってきた。共産党中央は、もともと学生層の闘争エネルギーを過小評価し、全学連結成に対しても否定的な見方が強かった。共産党中央が、全学連中執の6・20ゼネスト指令を禁止させたことや、共産党幹部が全学連グループを「極左トロツキスト」と呼んだことなどもからまって、その対立は深まる一方であった。
運動理論をめぐる対立
この両者の対立は1949年から50年にかけて、徐々に表面化の形をみせるが、全学連の闘争が高揚を示すような情勢になると、党中央は、必ずといっていいほど、全学連の中心的な学生党員活動家に批判を加え、闘争の拡大にブレーキをかけた。
悪しき政治主義、党派主義の現れるといえるが、ここで、全学連中央と共産党中央との学生運動理論の対立について簡単にふれれば、共産党側は、学生を青年あるいは労働者の一部としてとらえ、学生運動を革命闘争あるいは階級闘争そのものとはせず、革命闘争の条件づくりと位置づけた。このため、学生運動を”民主統一戦線”の一翼におき、自治会活動よりも、地域人民闘争への参加に重点を置いた。
これに対し、全学連指導部の学生運動理論は、学生の総数が増加し、一個の社会的階層として存在している以上、学生運動は反体制運動となり得るという「層としての学生運動」論であり、学生運動は、革命を推進する労働者階級の先駆、または同盟軍であるとする「先駆性理論」であった。その後、全学連が政治闘争、大学闘争で展開した”街頭激突主義”は、この理論の具現であった。
1945年、GHQによって獄中から幹部が解放されて再建された共産党は、当初、占領軍を「解放軍」と想定するなど、その民主化政策に幻想をもった。労働者が農民の間から起こった自発的な闘いの高揚を、政治闘争として組織する十分の判断と能力をもっていなかった。指導することのできる人材が党中央にいなかったということも挙げられる。
しかし、その一方で、党の存在と権威を示すために、これらの運動への介入をつづけた。学生運動に対しても、学生層を大衆運動として正当な評価と位置づけを行ない得ぬまま、その運動の高揚に批判とブレーキをかけたのである。このような共産党中央の全学連への介入が、全学連内に不協和音と分裂状態を起こし、全学連加盟の共産党主流派に属する大学自治会が、全学連中央のスト指令に従わないなどの事態が生まれて、1949年10月20日に予定していたゼネストを、ついに断念せざるを得ないという事態なども起こった。

*コミンフォルム(ロシア語: Коминформ, ラテン文字転写: Kominform, 英語: Cominform)、正式名称は共産党・労働者党情報局(Информационное бюро коммунистических и рабочих партий)코민포름(Cominform)은 "Communist Information Bureau"공산주의자 정보 기구は、コミンテルンの解散以来、初の公式な国際共産主義運動である。コミンフォルムにより第二次世界大戦後の世界秩序の変革が確認され、東側諸国が誕生した。
コミンフォルム批判の衝撃
ここで、新しい転機が起こる。世界の共産主義運動を指導するコミンフォルムが、日本共産党の路線に対する全面的な批判を発表した。それまで共産党が基本としていた、アメリカの占領下でも平和革命、人民戦線の樹立が可能だという考え方と運動方法は幻想であるとして、その戦略の根本的な再検討を要求してきたのである。
このコミンフォルム批判にあわてた党中央は、これに反発して反論を「所感」という形で発表したが、この”所感派”と、これを受け入れるべきだとする”国際派”に内部対立が起こった。当時、国際派に所属していたのは、現共産党中央委員会議派の宮本顕治(Miyamoto Kenji (japanisch 宮本顕治; geboren 17. Oktober 1908 in Hikari (Präfektur Yamaguchi山口県出身); gestorben 18. Juli 2007) war ein japanischer marxistischer Politiker und Literaturkritiker)、志賀義雄(Yoshio Shiga (志賀 義雄, Shiga Yoshio(福岡県出身), 1901–1989) was a member of the Japanese Communist Party)、春日庄次郎(Shōjirō Kasuga (春日 庄次郎, Kasuga Shōjirō(大阪府出身), March 25, 1903 – April 9, 1976) was a Japanese communist activist)、神山茂夫(Shigeo Kamiyama (神山 茂夫(山口県出身)Kamiyama Shigeo) (1 February 1905 – 8 July 1974) was a Japanese communist. He was born in 1905 in Shimonoseki)らであり、所感派は、伊藤律(이토 리츠(일본어: 伊藤いとう 律りつ(岐阜県出身)Ito Ritsu: 1913년 6월 27일-1989년 8월 7일)는 일본의 공산주의 정치활동가다)、志田重男(志田重男(兵庫県出身)Shigeo Shida(1911年11月21日-1971年7月3日),日本社会运动家、共产主义者)らが中心メンバーであった。

*Françaisフランス語→La secte Shokan所感派 est la faction dominante au sein du parti lorsque le Parti communiste japonais s'est divisé en interne après 1950 ( Showa 25) .
*Deutschドイツ語→Die internationale Fraktion (Kokusaiha) 国際派 (日本共産党)und die Kommunistische Partei Japans gerieten aufgrund der Kritik an Cominform im Januar 1950.
コミンフォルム批判につづいて、中国共産党も日本共産党への批判を打ち上げ、これらの情勢に、党中央主流派はついにコミンテルン判受け入れに踏み切り、51年2月、軍事方針と分派(国際派)批判の”所感派決議”を行なった。コミンフォルムはこれを支持、このため国際派は分派活動として追放・除名され、当時国際派に属していた大多数の全学連中執もその地位を追われ、全学連執行部は完全に壊滅状態に陥った。
全学連の党員活動は当初、党中央に起こっていたこの内部抗争に巻き込まれず、独自の立場をとって行動していたが、その反戦、反米、反レッドパージの全面的な大衆闘争は、党主流に敵対するもの、反党分子とみなされていた。
全学連の党員活動家は当初、党中央に起こっていたこの内部抗争に巻き込まれず、独自の立場をとって行動していたが、その反戦、反米、反レッドパージの全国的な大衆闘争は、党主流に敵対するもの、反党分子とみなされていた。
当時、全学連中央には、武井昭夫委員長以下、安東仁兵衛(Jinbei Ando (Andō Jinbē (東京都出身) , ​​​​5. Juni 1927 - 24. April 1998 ) ist ein japanischer Sozialist . Strukturreformer Debattierer)、力石定一(Садакадзу Тикараиси 力石定一(広島県出身)Sadakazu Chikaraishi ( 6 октября 1926 — 22 января 2016) — японский экономист и социальный инженер)、沖浦和光(Kazuteru Okiura 沖浦和光(Okiura Kazuteru(大阪府出身), januaro 1 , 1927 - julio 8, 2015 ) estas japana sociologo kaj folkloroakademiulo)、あるいは高沢寅男(Torao Takazawa (Takazawa Torao高沢寅男(新潟県出身), October 27, 1926 – August 5, 1999 ) is a Japanese politician)ら、現在活躍中の学者、理論家、あるいは共産党を指導している不破哲三(Tetsuzō Fuwa (不破哲三(東京都出身)Fuwa Tetsuzou?) nació el 26 de enero de 1930 en la ciudad de Tokio, Japón. Su verdadero nombre es Kenjirō Ueda (上田建二郎 Ueda Kenjirou?). Es un político japonés miembro del Partido Comunista Japonés)、上田耕一郎(Koichiro Ueda(Ueda Koichiro(東京都出身), March 9 , 1927 - October 30 , 2008 ) is a Japanese politician)らがいたのである。
共産党内部の主流派と国際派の対立は、全学連内部の至るところに持ち込まれ、その組織はまったくの混乱、機能マヒに陥るが、全学連派は52年6月25日の第五回大会で、武井委員長ら旧中枢を追放、共産党指導に追従する玉井仁執行部を発足させた。創成期となった国際派全学連の、所感派への主導権明渡しである。
そして、共産党がすでに実践していた武装闘争や方針を信奉して、その指導に従い、”極左冒険主義”の時代に入った。全学連がそれまで維持していた全国的大衆闘争と武力闘争の二頭立てから、後者を優位にする新方針への転換であった。

”極左冒険主義”の時代
1951年9月、日本は、サンフランシスコで講和条約を結び、日本平和条約と安保条約を締結、占領下から新しい日米安保体制下へと入っていった。そして、この安保体制維持のための警察予備隊の保安隊への改変による”再軍備”と、闘争弾圧のための「破防法」(破壊活動防止法)制定を図るにいたった。
このような情勢のなかで、共産党は、51年10月の第五回全国協議会で、新綱領を採択、日本における革命の性格を、アメリカへの従属からの解放をめぐる「植民地革命」「民族解放民主革命」とし、農村におけるゲリラ戦をもっとも重要な闘いと規定した。これは中国共産党の路線を模倣したものといえる。この新綱領に基づいて、共産党は、農村工作の重要性を説き、”山村工作隊”として、中核自衛隊が創設された。学生たちは、この新しい任務につくため、学園を離れて続々と農村へ向かったのである。
*Françaisフランス語→L'unité d'opération des villages de montagne (山村工作隊, Sanson Kōsakutai?) est une organisation clandestine japonaise du début des années 1950 dirigée par le Parti communiste japonais et dont le but est de fomenter un soulèvement armé contre le gouvernement japonais et les autorités d'occupation américaines. Le groupe fait l'émulation des stratégies de Mao Zedong en installant sa base dans les villages ruraux, mais il échoue dans ses objectifs.
*Deutschドイツ語→Im Jahr 1951 ( Showa 26) wurde die Kern-Selbstverteidigungstruppe (Chukakujieitai中核自衛隊) von Stalin von der Kommunistischen Partei der Sowjetunion und Liu Shaoqi von der Kommunistischen Partei Chinas zur gewaltsamen Revolution in Japan und auf der 5.
当時、日本はアメリカに占領されてはいたが、植民地であったのかどうか、都市での労働者・学生の大衆闘争もこの二の次にしたことが、当を得たことかどうかの疑問は、いまからみれば深く残る。
とまどいながらも、この共産党の武装闘争の新方針に従った全学連の運動は、大衆運動から暴力的攻撃の色彩を強め、各地の集会、デモで、警官隊と衝突する事件を引き起こした。53年に入ると、『球根栽培法』『栄養分析法』といった共産党の武装闘争テキストが学生間にも流れ込み、校庭などで深夜、ひそかに腹ばいでほふく前進や、サイダービンを用いての火炎ビン投てきなどの軍事訓練を行なったりした。
三つの学生事件
この間、わずかにあった大衆運動として、京大天皇事件、渋谷事件、劇団ポポロ事件などが挙げられる。
*The Kyodai-Tenno Ujiken京大天皇事件 is a confusion that occurred when Emperor Showa visited Kyoto University on November 12, 1951 , and a student disposition case that started with this, and is called the "Kyodai-Tenno" case. Also known as the "Emperor Case".
*Русскийロシア語⇒Инцидент в Сибуе (яп. 渋谷事件 Сибуя дзикэн) — стычка между враждующими бандитскими группировками в районе железнодорожной станции Сибуя (Токио).
*포포로 사건(일본어: ポポロ事件Todai Popolo Incident)은 도쿄 대학의 공인 학생 단체인 ‘포포로 극단’의 연극 발표회 도중에, 학생이 발표회장의 사복 경찰에게 폭행을 가한 사건이다. 일본국 헌법 제23조가 보장하는 학문의 자유에 포함된 대학 자치의 문제가 불거져, 일본 최고재판소까지 간 사건이기도 하다.
京大天皇事件は、51年1月12日、天皇が京大を訪問した際、約200人の学生が天皇の戦争責任を追及する公開書簡を用意し、迎え撃った事件である。警官隊約500人が出動し、天皇を護衛したが、大学当局は自治会の同学会に対し、解散を要求、八学生の処分を通告した。公開質問状は、日本の再軍備を要求された場合拒否するか、などを含む五項目であった。

渋谷事件とは、52年1月17日、東大駒場自治会、東京・渋谷駅前広場で再軍備反対講演会を開こうとしたことに対し、警察側が許可を出すことを拒否した。このため、学生たちは講演会開催要求、再軍備反対の署名運動などの抗議運動を行ない、これを排除しようとした警官隊との衝突で、多数の学生の逮捕者が出た。
ポポロ事件は、52年2月20日、東大の学生劇団「ポポロ」が、松川事件を扱った演劇『いつの日にか』を上演したところ、会場に3人の私服刑事が内偵に入り込んでいるのを学生が発見し、つるし上げた。学生たちは刑事に始末書を書かせ、警察手帳を取り上げたが、翌日、警察はこの事件に関し学内捜査を行ない、2人の学生を逮捕した。抗議の学生集会などの動きに対し、警察側の学内内偵がつづき、4月20日にはパトロール中の警官が抗議学生に発砲するという事件まで起こった。ポポロ事件のニ被告には、54年5月、警察の学内捜査は違法として東京地裁で無罪判決があった。

*Deutschドイツ語→Der Zwischenfall am 1. Mai (japanisch 血のメーデー事件Chi no mēdē jikenBloody May Day, wörtlicher „‚Maifeiertag/May Day des Bluts‘-Zwischenfall“)피의 메이데이 사건 (일본)1952 in Tokio wurde durch Zusammenstöße von linken Demonstranten mit der Polizei und viele Festnahmen und Verurteilungen geprägt. Er ereignete sich auf dem östlichen Vorplatz des Kaiserpalasts, den seit dem Zweiten Weltkrieg vom Palast getrennten Kōkyō-gaien („äußere Gärten des Kaiserpalasts“) im Bezirk Chiyoda der japanischen Hauptstadtpräfektur Tokio.
血のメーデー事件前後
その同じ52年5月、当時の武装軍事路線を象徴する、いわゆる「血のメーデー事件」が起こる。全学連の学生や労働者、在日朝鮮人などが、使用禁止になっていた皇居前広場に実力突入したこの事件は、催涙ガス、ピストル威嚇発射をまじえた警官隊との衝突で、1200人以上が逮捕され、七百数十人が負傷するという大惨事となるが、うち2人が死亡したのだった。
このメーデーは、アメリカ等との単独講和への抗議と破防法反対のためのものだったが、共産党は高揚した労働者・学生の怒りをさらに高めるため、全学連の中核自衛隊に指令して、実力闘争を行なわせたのだった。死者のうち1人は法政大の近藤巨士であり、戦後学生運動における最初の犠牲者であった。
血のメーデー事件につづいて、東京・岩之坂交番襲撃事件、新宿駅東口火炎ビン事件、大阪での吹田・枚方事件などの相つぐ実力闘争が起こるが、これに対し、反体制運動を弾圧するための破防法が7月4日、国会を通過した。
この51年末から52年にかけての過激な闘争と弾圧の谷間のなかで、多くの学生党員、活動家が大学から姿を消し、山村工作隊などの地下活動へ入った。武装闘争のための軍事訓練を行なう一方で、農村村で地主や警察権力と直接対決する武力闘争を各地で起こした。東京都下の小河内ダム反対闘争はその一つで、数千人の学生がこれに集まった。
この翌日の全学連第五回大会で、旧中執27人を追放する、共産党中央支持派の玉井新執行部が誕生するのだが、この大会では、新執行部系所感派「人民警官隊」による国際派の反戦学園系活動家に対するリンチ事件が起こっている。これは、反戦学園が帝国主義の手先であり、CIA(アメリカ軍情報部)のスパイだとして、十数人を密室に監禁、リンチを加えたもので、のちに、70年代に入って激化する”内ゲバ事件”のはしりということができよう。
*중앙정보국(中央情報局, 영어: Central Intelligence Agency, CIA)은 미국의 정보 부처 중 하나(정보기관)로서, 외국 정부, 기업, 사이버 공간 등과 개인에 대한 정보를 수집 및 분석하여 미국 정부의 여러 부처에 보고하는 임무를 가진다. 본부는 미국 버지니아주 랭글리에 위치하고 있다.
*内ゲバ(うちゲバ)とは、内部ゲバルト(ないぶゲバルト)の略。ゲバルトはドイツ語で「威力、暴力」の意味で、同一陣営または同一党派などの内部での暴力を使用した抗争のことUchi-geba (Uchi-geba) ist eine Abkürzung für Uchi-geba (Naibu Gebalt) . Gebalt bedeutet auf Deutsch "Macht, Gewalt" und ist ein Konflikt , der innere Gewalt wie das gleiche Lager oder die gleiche Partei verwendet.
この五回大会以後、学生運動は混乱のなかで停滞と混迷に陥る。学生活動家の活動は、帰郷運動、山村工作隊、地域サークル活動が中心であった。その間、日米行政協定によって、全国七千ヶ所にも上った米軍基地のための土地取り上げに対する農民・住民の怒りを背景に、基地反対闘争を盛り上げた。石川県内灘や、浅間山、富士山演習場などでの闘争は有名である。現地住民と結びついた闘争は、後の歴史的な砂川基地反対闘争への発展につながるものであり、今日にも通じる反基地、反軍など住民闘争の原型をなすものとみてよい。

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