日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Mouvement étudiant학생 운동(Studentenbewegung學生運動Student activism)Студенческое движение/高木正幸『全学連と全共闘』Masayuki Takagi《Zengakuren and Zenkyoto》⑥


①Deutschドイツ語→山岳ベース事件Der Bergstützpunkt-Vorfall (Sangaku-Stützpunkt Jiken) ist ein Lynchmordfall gegen einen Kameraden in einem Versteck (Bergstützpunkt), das von 1971 bis 1972 von der Vereinigten Roten Armee in den Bergen der Präfektur Gunma eingerichtet wurde②Françaisフランス語→Hiroko Nagata (永田 洋子, Nagata Hiroko東京都出身) (8 février 1945 - 5 février 2011), parfois appelée par erreur Yōko Nagata, est une radicale gauchiste japonaise qui fut condamnée à la peine de mort pour avoir tué, ou participé au meurtre, des membres de son Armée rouge unifiée durant une purge commune dans les montagnes de la préfecture de Gunma en février 1972(晩年は会話ができない状態となり、2011年2月5日に東京拘置所で脳萎縮、誤嚥性肺炎のため65歳で獄死した)。

連合赤軍事件の衝撃
連合赤軍は、南アルプスなどでの軍事訓練によって軍事組織の強化、新党結成へと進んだが、その過程で京浜安保共闘が、メンバー二人の脱走事件に対し、警察への通報を恐れて”処刑”したのをはじめ、新党結成直後から72年2月にかけて、連合赤軍は同志12人を反共産主義化などの名目で集団リンチ、粛清を行ない、殺した。
その間、一部の”兵士”が脱走するが、72年2月7日、榛名山の山岳アジトが発見されて二人が逮捕された、同年17日には妙義山アジト付近で最高指導者の森恒夫、永田洋子が逮捕されて、組織は壊滅状態となり、この間さらに四人が逮捕された。残る坂口弘ら五人が、同年19日午後、長野県軽井沢町のレークタウンにある河合楽器の保養所「浅間山荘」に猟銃を発砲しながら乱入、管理人夫人の牟田泰子さん(当時31歳)を人質にして、籠城した。

警察隊は放水、ガス弾、ライフル、ピストルなどで武装した1500人が出動。10日間にわたる銃撃戦ののち、同28日朝からクレーン車で浅間山荘の破壊作業を開始、人質救出の強行作戦に出た。同日午後六時すぎ、催涙ガスと放水で連合赤軍側の動きを制圧。事件発生後218時間ぶりに人質の泰子さんを救出、坂口ら五人を逮捕した。
*Françaisフランス語→Tsuneo Mori (森 恒夫, Mori Tsuneo大阪府出身) (né le 6 décembre 1944 à Osaka – mort le 1er janvier 1973 à Tokyo), était l'un des chefs de l’Armée rouge unifiée, un groupe terroriste, basé au Japon et actif de 1971 à 1972.Le 17 février 1972, il est arrêté par la police japonaise et incarcéré à la prison de Tokyo où il se suicide le 1er janvier 1973(東京拘置所内で首吊り自殺).

①Portuguêsポルトガル語→O incidente de Asama-Sansō (あさま山荘事件아사마 산장 사건 Asama sansō jiken?) foi uma crise de reféns e um cerco policial em uma pousada na montanha perto de Karuizawa na prefeitura de Nagano, Japão, que durou de 19 a 28 de fevereiro de 1972. A operação de resgate da polícia no último dia do impasse foi a primeira maratona midiática transmitida ao vivo pela televisão japonesa, com duração de 10 horas e 40 minutos②Hiroshi Sakaguchi坂口 弘( born November 12, 1946千葉県出身 ) is a Japanese New Left activist , former General Secretary of the United Red Army Central Committee (Number 3 of the United Red Army), poet , and terrorist . he is a convicted prisoner(死刑確定囚)

③사카구치 히로시(坂口弘), 반도 구니오(坂東國男), 요시노 마사쿠니(吉野雅邦), 가토 미치노리(加藤倫教), 가토 모토히사(加藤元久)
この救出作戦中、警官二人が、連合赤軍側の銃弾を受けて死亡。23人の負傷者が出た。この浅間山荘事件では、各放送局が定時放送を変更して、現場中継を夕方まで流しつづけ、9時間20分という、現場中継放送の最長記録もつくった。
14人の仲間殺しという凄惨な事態を伴った連合赤軍事件は、一般大衆もとより、新左翼各派にも大きなショックを与えた。各党派のこの事件に対する反応は、それまでの立場、主張の違いから、ノーコメント派、銃撃戦支持・リンチ批判派、全面否定派と、さまざまに分かれた。
しかし、人間として弁護の論理を越える14人のリンチ粛清事件については、いずれの党派も苦渋に満ち、それを肯定したものはない。とくに、「人民の軍隊を支持し支援する」と規約に目的をうたい、連合赤軍を直接支援してきた唯一の組織である日本赤色救援会が、もっとも率直に”自己批判”したことが注目された。
①Deutschドイツ語→Die Japan Red Relief Society日本赤色救援会 (Nihon Sekishoku Kyuuenkai) ist eine japanische Menschenrechtsorganisation , die sich für revolutionäre Aktivisten einsetzt「国際赤色救援会日本支部」②The Japan National Relief Association日本国民救援会 (Nihonkokuminkyuenkai) is a Japanese human rights and legal organization. The abbreviation is often used as National Relief Association③国際赤色救援会(Internationale Rote Hilfe(IRH)こくさいせきしょくきゅうえんかいInternational Red Aid(IRA)、ロシア語: Международная организация помощи борцам революции、略称: МОПРSecours rouge international(SRI)とは、かつて存在した革命運動弾圧犠牲者の救援を目的とする国際組織。ロシア語名の頭文字から、モップルと略称される。国際革命運動犠牲者救援会。
大衆への政治ショックをねらう街頭闘争至上主義の単純スッキリ理論、直接行動路線の中核派は、この事件について機関紙『前進Advance』でもいっさい触れず、ノーコメントであった。しかし、同様な「人民革命軍」「武装遊撃隊」の結成を急いでいた同派にとって、ショックであった証拠と受けとれる。
一方、かねてから中核派の街頭闘争主義をきびしく批判していた革マル派は、とくに声明を発表。「武装蜂起妄想集団のゆきつく先を自己暴露したものであり、支持する一片の余地すら存在しない」と批判した。
反帝学評も「プチブル急進主義の破産」と批判したが、全面否定の雄は何といっても平和革命路線の立場に立つ共産党であった。かねてからの「暴力学生」批判に中国共産党批判をからませ、連日のように機関紙で「毛沢東盲従集団の暴力革命路線の破産」と批判。これを泳がせてきたとして政府・自民党の責任を追及するキャンペーンを書きたてた。これに対し、ブントさらぎ派や共産主義者同盟RQなどは「銃撃戦の遂行を断固として支持し、日本階級闘争における初めての銃撃戦は、日本革命戦争を大きく前進させた」と、14人のリンチ殺人については肯定しないが、銃撃戦についての支持を表明していた。
永田洋子への死刑判決
1982年6月18日、東京地裁で開かれた公判で、永田洋子、坂口弘に各死刑、植垣康博に懲役20年の判決があった。連合赤軍事件では、16人が逮捕、起訴されたが、最高指導者の森恒夫が73年元旦、獄中で首つり自殺した。統一公判組の永田ら六人を除く他のメンバーについてはすでに公判を終えており、六人のうち坂東国男は75年8月、日本赤軍によって”奪還”された。事件のとらえ方をめぐって分れたいわゆる分離公判組の吉野雅邦と事件当時の少年に対しては、79年3月、無期懲役と懲役13年の判決が言い渡された。しかし、吉野については検察側が、少年については、検察、弁護双方が控訴した。永田、坂口、植垣の三人についても、控訴中である。
永田への死刑判決で注目されるのは、その個人的、ナマの資質、性癖に判断の重きがおかれたことである。本人や弁護団が主張した、事件の背景としての思想や政治状況は、判断から遠ざけられた。
「被告人永田は、自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格とともに強いさい疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執ようさ、底意地の悪さ、冷酷な加害趣味が加わり、その資質に幾多の問題を蔵していた。他方、森は、巧みな弁舌とそのカリスマ性によって、強力な統率力を発揮したが・・・一種の幻想的革命家であった・・・特に問題とすべきは、被告人永田の意見、主張を無条件、無批判に受け入れて、時にこれに振り回される愚行を犯した点である・・・山岳ベースにおける総括を、組織の防衛とか、路線の誤りなど、革命運動自体に由来するごとく考えるのは、事柄の本質を見誤ったと言うほかなく、あくまで、被告人永田の個人的資質の欠陥と、森の器量不測に大きく起因し、かつこの合体した両負因の相乗作用によって、さらに問題が著しく発展、増幅されたとみるのが正当であり、山岳ベースリンチ殺人において、森と被告人永田の果した役割を最重要視し、被告人永田の責任をとりわけ重大視するゆえんである」
これに対する弁護団側の主張は、こうである。「その信奉する革命路線の必然の結果でも、永田の個人的責任によって発生したのでもなく、”共産主義化”という呪文のおもむくところが原因であり・・・赤軍派にとっては、きわめて単純に、盲目的に忠誠な兵士を作るところに目的があったが、革左(日本共産党革命左派神奈川委員会のこと)においてまったく理由なくただその真似事を迫ったところに、本件の不幸があった。被告人永田の思想性のなさ、主体性のなさがこれである」「”共産主義化”とは、合理性のない精神主義であり、非合理的なものにすぎず、まさに厳寒の山岳ベースにおける呪文であり・・・この”共産主義化”なる非合理的なスローガンがしまいには絶対の価値をもって一人歩きし、雪の山岳ベースという被告人らの閉ざされた狭い世界を完全に狂わせてしまった」
連赤問題は、この”共産主義化”という思想問題としてとらえない限り、なぜ14人もの生命を奪うような悲惨な事件が起きたか、総括を提案した者も、その実行に加わった者も、誰もがなぜ一度もこれを止めようとしなかったのか、それらのわからなさが解けない、と主張したのである。
作家の瀬戸内晴美は、この判決に際してこう述べた。
「あの事件は、あの時代が生んだひとつの誤った『思想』による殺人であり、それは形を変えて、いつの時代でも起こり得る。あの事件は、その後、経済の破綻、核戦争の危機の増大など、すべてに悪い方に転がり出した社会変化の、不気味な予兆だったように思われる」
*Беларускаяベラルーシ語→Дзякуцё Сэтоўці (яп. 瀬戸内 寂聴, 15 траўня 1922, Такусіма徳島県出身) — японская пісьменніца, асветніца будыйскай школы Тэндай, грамадская дзяячка. Да прыняцця манаства ў 1973 годзе насіла імя Харумі Сэтоуці.

①Yasuhiro Uegaki植垣 康博(January 2 , 1949-静岡県出身) is a former activist of the United Red Army . He currently runs Snack Baron in Aoi Ward , Shizuoka City②Deutschドイツ語→Yoshino Masakuni吉野 雅邦(27. März 1948-東京都出身) ist ein ehemaliger Aktivist der Neuen Linken und ehemaliger Offizier der Vereinigten Roten Armee.
赤軍活動家たちの自己批判
たしかに、連合赤軍の組織とその活動、とくに世間の注目を集めた14人の仲間殺しについての事実関係は、これまでの公判で、その全容がほぼ解明されており、追及されるべきは、永田ら幹部、とくに森とともに最高責任者であった永田が、これをどう総括し、14人の仲間殺しについて、どう問い直しているか、である。
永田は、すでに取り調べの際に提出した自己批判書などで、仲間殺しについて「『なぜ殺してしまったのか』と解決のつかない疑問にはどうしていいかわからなくなります・・・私が明らかにする事実は、徹底して冷酷であり、人間性のひとかけらもないものです」と述べていた。
81年7月の『朝日ジャーナル』や、その後出版した『16の墓標』『氷解』などの手記では、「私はまず、私たちが殺した14人の同志とご遺族の方々に、心からの自己批判と謝罪の気持ちを明らかにしたいと思います」など、はじめて「自己批判と謝罪の気持ち」を公表した。自己批判と反省が心に深まっていることは明らかである。永田は、連赤事件については「当時の革命戦争路線が間違っていたこと、この路線を維持するために出された『共産主義化』も間違っていたこと」「私個人の総括である民主主義的精神の未確立」などを自己批判の結論として書いていた。
ここで指摘されるのは、永田、植垣二人にみる連合赤軍への自己批判と、日本赤軍が国内向けに寄せてきた声明、あるいはピョンヤン在住の「よど号」ハイジャック赤軍派のリーダー・田宮高麿が国内に寄せた手記にみる、過去の闘争への自己批判との共通性である。
その第一点は、過去の闘争を権威主義、主観主義などの言葉で反省していること、第二点は、闘争にとって大衆、人民の重要性を強調してきていることである。日本赤軍と田宮の場合とくにそうだが、新左翼的な硬直した文体から脱して、平易でわかりやすい書き方をしていることにも、その変質がうかがえる。
「当時の革命路線が間違っていた」と書く永田につづいて、植垣も過去の闘争理念について「権威主義的な党派主義的政治」「反動的『社会主義』「主観主義的な極左路線」であったとつづっている。植垣が出版した「兵士たちの連合赤軍」も、「革命運動が抱える重大な欠陥」と反省している。
一方、田宮のピョンヤンからの手記は「当時われわれが掲げたスローガンは『世界同時革命=世界革命闘争』という一見『勇ましい』『革命的』なものであった。だがこれは、本質的には日和見主義のスローガンである」。あるいは「当時、社会の病根を断つための正しい思想も理論も方法も、もちあわせていなかった」と書いている。

それまでのパレスチナ革命連帯一辺倒路線から、日本革命路線への転換を明示した、77年5月の「リッダ闘争五周年声明」以来、『人民新聞』や『ソリダリティ』などで意見を発表
しつづけている日本赤軍も、過去の闘争について「ごう慢と主観主義」「思想的未熟・・・武装闘争の飛躍によってのみ闘う・・・というブルジョア的な英雄主義」「自分たちだけが、絶対に正しいという考え方や党利党略を、否定するようになった」などと述べている。
そして、いずれもが強調するのは、「大衆」「人民」「大衆闘争」など、広範な大衆との連帯、団結である。植垣は「(新左翼運動の)敗退を、人民の要求に立脚した全人民的闘争の堅持によって克服するのではなく、学生、知識人の小ブルジョア的憤激にもとづいたテロリズム的武装闘争によって克服しようとした」「大衆闘争から遊離した前衛のみに頼る突撃を目的意識的な闘争とみなす戦闘団主義」などと自己批判し、その後もなお、その「反動性」を踏襲していると、現在の過激グループや新左翼党派について批判し、「大衆と大衆闘争への立脚」「全人民的運動」の必要性を説く。
田宮も、「われわれは日本にいるとき『人民のため』といって運動を展開した。だが、われわれの展開した運動は日本人民の共感を得ることもなかった・・・実際には人民のためになるどころか、逆にその正反対の結果をもたらしただけだった」と、過去の「反人民性」を自己批判、「日本の人民大衆がひとつに堅く団結し」「日本の志ある皆さまと心をひとつにし」など、大衆との「団結」を強調するのである。「人民大衆のための闘いとは、自分自身のための闘いであり・・・人民の自由と解放のために闘うことが最大の栄光となる」。
この田宮の主張は、「自己批判を軸にして、日本人民との深い結合」などと、繰り返し日本国内に「団結」を呼びかけている日本赤軍と軌を一にする。「私たちは『革命戦争派』の武装強化をめざしたわけではありません。私たちは日本のすべての人民、同志、友人に団結を呼びかけたのです・・・革命戦争派の武装闘争だけでは、人民の分裂を促進するだけだと思います」。
かつて「日本人民共和国の建設、臨時革命政府樹立」をめざして「日本革命協議会の建設」をとなえた日本赤軍は、その後の声明では、国内左翼勢力の不統一を厳しく批判。「革命勢力の力を結集した”最後の党”を結成しよう」「反帝の立場であらゆる人民の闘いを統一し、人民の手によって”人民自身の党”をつくろうなど、具体的な組織論を提唱している。

武装・軍事路線のゆくえ
連合赤軍事件は、まさしく、武装・軍事よりも大切なのは、大衆的な状況であり、その突破口を軍事に求めるのは、自滅への悪循環であることを教えたのである。その意味で、連合赤軍を頂点とする70年代の過激グループが、武装闘争至上主義を”総ざんげ”していることは、うなずける。日本赤軍自体、もはやその母体であったブント赤軍派とは異なる存在であることを書いている。また、センチメンタルといえるほどまでに、切々と日本への望郷の念をつづり「祖国、民族の自立独立」を説く田宮の手記などをみるとき、彼らが単にかつてのマキャヴェリズムを脱したと受け取れるだけでなく、ブント赤軍派とは立脚点をまったく異にした組織へと変質したことがうかがえる。
①マキャヴェリズム(英: Machiavellianism、仏: MachiavélismeМакиавеллизмМакіавеллізм마키아벨리주의とは、どんな手段や非道徳的な行為であっても、結果として国家の利益を増進させるのであれば許されるという考え方=権謀術数권모술수主義중상모략(中傷謀略)②ニッコロ・マキャヴェッリ(イタリア語: Niccolò Machiavelli, 1469年5月3日 - 1527年6月21日)は、イタリア、ルネサンス期の政治思想家、フィレンツェ共和国の外交官。
では、「大衆性」を説く彼らは、「武装」や「軍事」の方針をまったく放棄したのかというと、決してそうではない。とくに、日本赤軍の場合はそうだ。
「私たちは、暴力と抑圧と闘い、だれも共にしあわせに生きる社会の実現をめざします。そのためには、人民すべてが武装して、一部の抑圧者をうちたおすことだと考えています。それまで私たちは待つべきでしょうか。平和としあわせは闘いとるものです」(78年声明)「武器による遊撃戦展開」(同年、機関紙『団結』)。『ソリダリティ』でも、過去の闘争が人民から遊離していたとの反省で、「日本人民に具体的に依拠し、世界中の人民を同質の反帝国主義陣営にそ組織しながら、武装闘争とソリダリティの出版で、国際主義者活動を実践する」「我々は、日本革命の勝利を成し遂げるという任務を完遂し、それによって国際主義の実践の新しい発展に至るという決意を、改めて表明する」など、武装闘争方針を否定していない。
一方、田宮の手記は「武装」や「軍事」の問題には触れていない。金日成主席のチュチェ(主体)思想を媒介として北朝鮮での幽閉生活のなかで変質してきた「よど号」赤軍と、パレスチナ解放闘争を起点とし、パレスチナ・ゲリラと連帯して、現実に武装闘争に取り組んでいる日本赤軍との立脚点の相違であろう。
だが、田宮が次のように書いているのをみると、「武装」の考え方をまったく放棄しているとは思えない。「支配は、本質的に力の政治であり、国家主義はその力の政治の極致である。それゆえ、国家主義との対決は力と力の対決となる。思想はそれ自体では支配に抗する力となりえない。人々の心をつかんだとき、思想ははじめて物質的に転換する」
①Українськаウクライナ語→Кім Ір Се́н (кор. 김일성, 金日成, Kim Il(-)seong, Kim Ilsŏng, уроджений Кім Сон Чжу (кор. 김성주?, 金成柱? або 金聖柱); 15 квітня 1912 — 8 липня 1994) — корейський революціонер, північнокорейський державний, військовий, політичний та партійний діяч, який керував КНДР від 1948 до 1994 року主体思想(しゅたいしそう주체사상、チュチェしそうJuche김일성주의(金日成主義))Чучхеとは、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)及び朝鮮労働党の政治思想である。中ソ対立のはざまで「自主、自立、自衛」を掲げ、金日成の独裁を正当化する思想で、金日成の側近だった황장엽黄長燁Hwang Jang-yopによって体系化された。
日本赤軍が、80年6月に発表した「最後の党建設」呼びかけ声明の中で、四つの「党性」(総括の一致。綱領的結集の一致。革命方法の統一、が他の三点)の一つに、「思想は力を物質的な方向に転化する組織」と、田宮と同じ言い方をしていることと共通している。この点、両者は異なるごとくして、同一の軌跡をたどっているようにみえる。

9-運動の荒廃
”内ゲバ”事件の頻発
学生運動、新左翼運動の混迷衰退のなかで、重大な問題として、次第に全面に台頭してきたのが”内ゲバ事件”である。それは、運動の厳しさの反映であるとともに、明確な展望を見出せぬことからの、歪曲したエネルギーの噴出ということができよう。とくに、武装、軍事によって状況を打開できるとする思考をいまも根強くもつ新左翼が、外に立ち向かう力をもち得なければ、そのエネルギーは歪曲し、内ゲバとして内側に噴出する。行動の荒廃と、理念の行き詰まりの堂々巡り、現在の新左翼の深刻な失速、低迷状況は、連合赤軍が与えた暗く、深い衝撃にかかわらず、新左翼がなお同じ道を歩みつづけていることを示している。
この内ゲバは、60年安保ブント全学連結成時のブント系学生と共産党系学生との対立のなかで、すでにその萌芽があった。さらに、68,9年の全共闘ー大学闘争時代、東大闘争のなかなどで、全共闘系学生と共産党系学生とが、それぞれ学外の”外人部隊”の応援を求めて、大部隊同士の乱闘をくり広げ、流血の惨事を起したことなど、全共闘運動が内ゲバを当然のこととした風潮に、起因と責任があるという批判もある。東大闘争では、二十数回の衝突で実に千余人の学生が傷ついたといわれる。
さらに、この内ゲバを増大する大きな要因となったのは、60年代、三派全学連の闘争や全共闘運動のなかで、次第に明確化してきた革マル派との対立である。東大闘争での安田講堂”落城”時の、革マル派が機動隊との衝突を避けた”敵前逃亡”も大きな要因となり、両者の対立、衝突は70年代に入って、急速に激化した。そして、70年8月、革マル派の東京教育大生海老原俊夫(当時21歳)が法政大で中核派に殺される、いわゆる”海老原事件”を発端として、内ゲバは深刻な状態に入ってゆく。

*The Lynch Murder Case of Tokyo University of Education東京教育大学生リンチ殺人事件 (Tokyo Kyoiku Daigakusei Lynch Satsujinjiken) is an internal murder corpse abandonment incident that occurred in Tokyo on August 3, 1970 ( Showa 45) . It is also called the " Ebihara Incident海老原事件 " after the victim 's name. 
海老原リンチ殺人事件 
この海老原事件は、70年8月4日早朝、東京・新宿区の厚生年金病院玄関前に、上半身裸で、全身メッタ打ちにされた跡のある若い男の死体が転がっているのが発見されて、わかった。調べの結果、革マル派の海老原とわかったが、同君は前日の3日午後3時ごろ、池袋東口で中核派の数十人に取り囲まれて暴行をうけたのち、タオルで覆面させられて飯田橋の法政大まで、デモのようにしながら連れ去られた。その後、法政大六角校舎地下室に連れ込まれ”自己批判”を要求されて集団リンチをうけ、死亡したものとわかった。
中核派と革マル派の対立が次第に高まるなかで、死体発見2日前の8月2日に、新宿の歩行者天国で両派が衝突、海老原が暴行、ら致された3日にも、渋谷で中核派の数十人と革マル派の約100人が乱闘するという事件もあった。とくに約1ヶ月前の7月9日、東京教育大構内で、機関紙を売っていた中核派学生が、海老原ら十数人の革マル派学生に襲われ、機関紙を奪われるという事件があり、中核派にマークされていた海老原が、ちょうど池袋を通りかかった際、カンパ活動中の東京教育大生にみつかり、暴行ののち、法政大に連れていったものとみられた。
中核派は、この海老原リンチ殺人事件についていっさい沈黙を守ったが、革マル派は8月6日、日比谷公会堂で開いた「国際反戦中央集会」を海老原君追悼集会に切り替え、「この集会を機に中核派せん滅の戦いに入る」と宣言。同月14日には、中核派に変装した革マル派約3000人が法政大に入って、中核派学生十数人を襲撃、リンチを行なった。一方、この海老原事件で、中核派の全学連委員長ら21人が逮捕された。

革マル派による報復
この海老原リンチ事件は、85年までに80人を数える中核・解放派対革マル派の凄惨な内ゲバ戦争の最初の犠牲者であるが、これには、全共闘時代以降の中核派など新左翼党派八対革マル派の、長い党派闘争の背景がある。
その一つの大きなきっかけは、東大闘争安田講堂”落城”の際の”敵前逃亡”に加え、革マル派が「武装蜂起主義」「極左冒険活動」として中核派、ブントなどの「他党派解体宣言」を出した組織戦術に対する、他党派の反発がある。69年12月、日比谷音での集会で全共闘と革マル派が衝突した事件をきっかけに、新左翼八派と革マル派の対立が深刻化、とくに八派の中心的存在である中核派は「武装反革命集団ー第二民青」と革マル派を規定して、武力による党派闘争の姿勢を強めていた。
その後、71年10月、同じく革マル派の活動家の美術学院生水山敏美が、横浜国大内で中核派に殺された事件で、革マル派が「中核派絶滅」宣言を行ない、これに対し中核派も「無条件かつ全面的な宣戦布告、カクマルに対する全面的せん滅戦争」を宣言、両派の全面的なテロ戦の展開となった。しかし、当初は、中核派は街頭闘争での大量逮捕や、破防法適用などによる打撃で、本格的な内ゲバ戦に乗り出せず、革マル派の優勢状態がつづいた。
ところが、72年1月9日早朝、その後の熾烈な内ゲバ戦への大きな契機となった。革マル派による「川口君リンチ殺人事件」が起こる。これは、東京・本郷の東大構内付属病院前に放置されているパジャマ姿の若い男の死体が発見された事件だが、死体には全身アザだらけの殴打の跡があり、骨折した腕からは白い骨がのぞいていた。死体は、早大文学部二年生・川口大三郎(当時20歳)とわかり、中核派シンパとみなした革マル派によるリンチ殺人であることが判明、革マル派に対する中核派など他派の内ゲバ軍事部隊の本格的な結成をうながすきっかけとなった。
*Françaisフランス語→L' incident de Kawaguchi Daisaburo川口大三郎事件 est un lynchage , un meurtre et l'abandon du cadavre d'un étudiant du premier département de littérature de l'université Waseda par des factions de Kakumaru sur le campus de l'université Waseda à Tokyo le 8 novembre 1972. est un incident . Cas de meurtre de lynchage du campus de l'Université Waseda早稲田大学構内リンチ殺人事件.
その前日の11月8日午後2時ごろ、早大文学部内にいた川口が、早大構内をパトロールしていた革マル派メンバーに「スパイ」としてつかまり、自治会室である文学部34号館127番室に連れ込まれた。椅子に針金で両手首ともしばりつけられて、タオルで目かくしされ、椅子ごと吊り上げられ、角材、バット、竹ザオなどでなぐりつけられ、「中核派の集会に出ていた」「スパイだろう」などと自白を迫られた。約7時間のリンチののち、椅子から降ろされたが、グッタリとなっており、人工呼吸をしても息を吹き返さず、すでに死亡していた。その後、東大病院に運び、放置したという。
川口リンチ殺人事件は、革マル派による四人目の内ゲバ殺人事件であったが、同派は川口の死に対して「追及過程での意図せぬ事態、ショック症状による死亡・・・党派闘争の原則から実質的にはみ出す行為に走ったといわざるを得ない・・・一部の未熟な部分によって起った事態・・・率直な自己批判を行う」と自己批判を表明していた。

深刻化する”内ゲバ戦争”
しかし、川口事件から2年8ヶ月後の75年3月14日未明、中核派の理論的支柱であった本多延嘉書記長が、埼玉県川口市内のアパートで就寝中を革マル派に襲われ、全身打撲などで死亡する事件が起こった。革マル派の「中核派の本多を撃沈した」という警視庁記者クラブへの電話で事件が判明したもので、この中核派最高幹部の革マル派による殺害は、その後とどまるところのない”対革マル戦争”激化の、抜きさしならぬきっかけとなった。
当時、当初中核派との内ゲバ戦争で優勢であった革マル派は、72年11月の川口リンチ殺人事件ののちに後退し、74年ごろから中核派が攻勢に乗り出す。この間、72年から解放派も対革マル戦を開始するが、これに対し革マル派は74年に入り「党派闘争勝利宣言」を出し、それ以後の同派に対する中核派などの内ゲバについて「権力の謀略」説を打ち出してくる。
①Françaisフランス語→Nobuyoshi Honda本多 延嘉, né à Tokyo(東京都出身) le 6 février 1934 et mort assassiné à Kawaguchi le 14 mars 1975, est un militant japonais de la Nouvelle Gauche②Chukaku-ha secretary-general's internal quip murder case中核派書記長内ゲバ殺人事件On March 14, 1975 , in Kawaguchi City , Saitama Prefecture , a member of the National Committee of the Revolutionary Communist League (Hereinafter referred to as Chukakuha ) General Secretary Honda Nobuyoshi was murdered by the revolutionary Marxist faction of the Japan Revolutionary Communist Alliance ( Kakumaru faction) .
凶器が、角材、鉄棒から、バール、とび口、オノへとエスカレートし、リンチを加える部分も、手足から直接頭へと、テロ性が高まり、攻撃対象も学生から労働者へとひろがって、死者の数は74年から75年にかけ、ウナギ上りにふえ、75年中の死者は20人にも達した。
そして75年、革マル派による本多中核派書記長の殺害事件が起こるのである。革マル派はこの殺害に対して、「われわれの同志難波力が襲撃されたことへの報復であり、権力と癒着している中核へのみせしめ」と、本多書記長殺害へ8日前の3月6日、東京渋谷区の路上で機関紙『解放Liberation』の発行責任者・難波力こと堀内利昭が中核派に殺された事件を、その原因として挙げた。さらに革マル派は、記者会見で「殺害を目的としたものではなかった。わが戦士の燃えたぎる怒りが激しくて、結果として死亡ということになった」と述べたが、最高指導者の死亡によって中核派の姿勢は一気にエスカレート、「革マル派一人残らずの完全せん滅、復讐の全面戦争への突入」と宣言。事実全力を挙げて対革マル戦を敢行し、この年だけで15人もの革マル派活動家を殺害したのである。
革マル派は、本多書記長殺害後、「直対応的応酬の勝利を一時留保する」と「報復停止宣言」を出したが、中核派の攻撃姿勢の火に逆に油を注ぐ形となり、また革マル派も「防衛的反撃」の姿勢を留めていて、76年には3人の中核派活動家を殺した。いずれにしても、本多書記長殺害が、内ゲバ戦争の泥沼化を決定的にする要因となったことは間違いない。
そして1977年2月11日、革労協(解放派の政治組織)書記局長で解放派筆頭総務委員・中原一こと笠原正義が茨城県取手駅付近で、革マル派集団に襲われて死亡した。中原は、車に乗っていたところを乗用車にはさみうちにされ、降りて来た6人に鉄パイプで頭などをメッタ打ちにされて、翌12日朝、頭蓋骨骨折で死亡した。同事件後、革マル派は「革労協の最高責任者である中原一に対して、革命的鉄ついを下した。これはあくまでも、われわれ労働者、学生への彼らの反階級的な襲撃を未然に防ぐための防衛的闘いである」とのコメントを発表した。
この最高幹部の死によって、それまで主導的立場にあった中核派を抜いて、解放派が対革マル戦争の前面に一気に躍り出る。「2・11反革命をとおして、わが革労協と反革命革マルとは、彼我いずれかの絶滅をもってのみ決着のつく不可逆的な『戦争』関係に突入した」と機関紙に書いた解放派は、革マル派せん滅に全力をあげることになった。4月15日、埼玉県浦和市内で、革マル派4人の乗った車を襲い、なかに閉じこめたままガソリンで焼殺するという、過去最高の大量殺人を行なったのをはじめ、77年中、7人の革マル派活動家を殺した。
*Hajime Nakahara中原 一 ( 1940広島県出身 - February 12, 1977) was a New Left activist. His real name is Masayoshi Kasahara笠原正義. He is the supreme leader of the Revolutionary Workers' Association (Socialist Party/Social Seido Liberation Party) . He is the head of the secretariat of the Koryokyo, and the head general affairs committee member of the Liberation Party. 

80人を数える死者
78年に入り、「2・11反革命一周年決戦へ全党全軍総決起」をうたう解放派は、1月27日、勝田市、水戸市などの茨城県下で、革マル派の3人を殺害し、3人に重傷を負わせた。革マル派は、解放派と中核派の攻撃について、「権力」あるいは「権力と走狗集団」の「謀略」論を展開した。革マル派は中原一殺害後、中核、解放両派に対する殺害を行なっていないが、「権力の謀略」「組織防衛のための反撃」を主張してきたなかで、中核派の本多延嘉、解放派の中原一と、両班の最高幹部を的確に殺害したことが、両派の革マル派へのせん滅戦を抜きさしならぬものにしたことは否めない。「反革命」規定に加えて、組織をかけた復讐の怨念が、対革マル派内ゲバ戦争を、その後も継続させることとなったのである。
78年以降、内ゲバは、中核、解放両派の革マル派への熾烈な復讐戦として、一方的に革マル派の死者がふえるが、81年以後、次第にそれも減少の方向へ向かってきた。内ゲバによる戦闘力の消耗や警察側の取締りの強化の影響もあるが、成田空港反対闘争やその他の政治闘争へ力をふりむけようとする両派の、戦術転換もあったとみられる。
70年代の海老原事件以来の死者は、70年1人、71年5人、72、3年各2人、74年11人、本多中核派書記長が殺された75年がピークで20人、78年3人、中原解放派総務委員が殺された77年が再び10人のピークを迎え、78年7人、79、80年各8人、81年2人、82年1人で、その後内ゲバ事件は起ってはいるが、83、4年と死者は出ていない。
それまでの死者の計80人のうち、中核派による革マル派の殺害43人、解放派の革マル派殺害22人、革マル派の中核、解放両派殺害14人、その他1人である。
84年に入り、内ゲバは新しい様相をみせてきた。死者こそ出ていないが、中核派による第四インターへの内ゲバ事件が東京はじめ全国的に起こり、重傷者も出た。同年9月現在、六件に上るが、これは成田空港反対同盟の分裂による支援党派の二分割に起因するもので、中核派が第四インターを「脱落派」の中心的存在と決めつけての攻撃である。

激化する成田闘争
ここで、その成田闘争のその後の状況について触れねばならない。68年の三派全学連時代以来、学生・新左翼戦線が取り組んできた成田闘争の推移のなかで、党派同士の対立、分裂状況がさらに深まっていったことが、注目される一つである。
71年に入って成田九項建設予定地に残る反対派農民の土地に対する強制収用が着手され、2月22日から3月25日にかけて行なわれた千葉県の第一次強制代執行につづいて、9月16日から20日にかけ、第二次強制代執行が行なわれ、この第二次強制代執行の際、学生・労働者・農民など反対派との衝突の中で機動隊員3人が死亡するという惨事が起こった。
第一次強制代執行は、空港建設第一期工事区内の四千メートル滑走路北端にある一坪運動共有地、1500平方メートルについて行なわれた。反対同盟の農民はじめ支援学生・労働者ら延べ2万人以上が、体をクサリで立木にしばりつけるなどして抵抗したが、千葉県側は、延べ2万3000人の警官隊に守られて作業を進めた。この第一次強制代執行での逮捕者は487人、負傷者700人となった。
第二次強制代執行は、一期工事内に残る駒井野、天浪、木ノ根の各団結小屋、社会党の一坪運動共有地の四ヶ所に対して行なわれたもの。反対派は、3200人が団結小屋に立てこもったり、空港周辺で激しいゲリラ活動を展開するなどして抵抗、5300人の警官隊と各所で衝突した。この間、東峰十字路で反対派学生集団と衝突した機動隊員の3人が、火炎ビンや角材攻撃によって死亡、159人が負傷した。反対派側は375人が逮捕された。
三つの団結小屋と社会党の一坪運動共有地の代執行を完了した千葉県側は、9月20日第一期工事区内に残る小泉よねさん宅の強制代執行を行ない、その住宅を解体した。成田空港用地の強制代執行ではじめて民家が取り壊された。不意をつかれた形の小泉さん宅の代執行に、反対派の農民・学生約50人が立てこもったが、機動隊に排除された。不意打ち収用に反発した学生らは、機動隊に火炎ビン攻撃を行ない、工業用飯場を襲って27棟を全焼させるなどのゲリラ活動を繰り返した。
小泉さん宅での取り壊しで第一期工事区内の反対派の拠点はほぼ撤去されたが、この第二次強制代執行では先の機動隊員の死亡3人をはじめ、逮捕者が471人、負傷者83人が出た。この第二次強制代執行のさなか、反対同盟青年行動隊員・三ノ宮文男が「空港を、この地にもってきたものをにくむ・・・これ以上たたかっていく努力をうしなった」という遺書を残して自殺した。

*Українськаウクライナ語→Такео Фукуда (яп. 福田 赳夫; нар. 14 січня 1905, Такасакі(群馬県出身) — пом. 5 липня 1995, Токіо) — японський політичний і державний діяч, а також 67-й прем'єр-міністр Японії. Один з відомих лідерів Ліберально-демократичної партії (ЛДП).
相次ぐ衝突事件
1977年はじめ、福田首相が関係当局に年内開港を強く指示、1月19日、当局側は機動隊を使って、岩山に反対同盟と支持党派が建設した大鉄塔の破壊のための本格的な道路建設作業に着手した。この鉄塔死守のため、4月17日、成田市の三里塚第一公園で開かれた反対同盟主催の「空港粉砕、鉄塔死守、仮処分粉砕、全国総決起集会」には、2万3000人という、成田闘争史上最高の人数を集めて、集会・デモが行なわれた。
5月2日、空港公団は、鉄塔撤去のための航空法違反を名目とした仮処分申請をひそかに千葉地裁に提出し、同地裁は連休中のきわめて短期間の審理でその仮処分の決定を出した。これに基づき、公団側は5000人の機動隊の動員を得て、抜き打ちに鉄塔撤去作業を行ない、これを午前中に完了した。抜き打ち撤去に憤激した反対同盟と支持党派の抗議集会、デモ、さらにゲリラ攻撃が同日午後から開始され、機動隊への火炎ビン、投石攻撃、空港内貨物ビルや芝山町の航空保安事務所、電波標識所などへの襲撃が続発したさなかの5月8日、千代田農協前で開いた抗議集会への機動隊のガス銃などでの攻撃の際、野戦病院テントに乱入して来た機動隊員をスクラムで阻止しようとした反対同盟支援の東山薫が、頭に重傷を負い、2日後に死亡した。
機動隊のガス銃の水兵射ちによる直撃弾を受けての死亡という、反対同盟・弁護団側の主張に対し、警察側は、投石が当たっての死亡と主張。千葉地裁は反対同盟側の機動隊員に対する告発を不起訴とし、遺族の特別抗告も退けた。一方、5月9日、反対派は、賛成派の芝山町長宅警戒中の機動隊員を火炎ビンでゲリラ襲撃、このため機動隊員6人が重軽傷を負い、うち岡田和則巡査部長が同21日、死亡した。
その後も、8月、茨城県守谷のボルタックVOR/TAC(無線標識所)が時限発火装置で焼き打ちされたり、日航常務宅が火炎ビン攻撃によって全焼、あるいは発火物を積んだ無線操縦車による空港関係施設への攻撃などのゲリラ活動が相つぎ、10月9日、2万2000人を集めて集会も開かれた。これらを通じて、成田空港反対闘争支援の輪が全国的に広がり、「廃港要求宣言の会」や「三里塚闘争に連帯する会」などが生まれ、10月9日の集会前に、これらの十数団体が「三里塚と全国を結ぶ行動月間」を組織、大阪から三里塚まで歩く「三里塚行進」が行なわれた。また、反対同盟を支援する動力車労組千葉地本(千葉勤労として独立)もジェット燃料輸送に反対する順法闘争を12月以降行なった。

나리타 공항 관제탑 점거사건(成田空港管制塔占拠事件)The Narita Airport Control Tower Occupation Incident refers to the Sanrizuka Shibayama Alliance Airport Opposition Alliance (opposition alliance ) that occurred on March 26, 1978 ( Showa 53) . ) engaged in a collective force struggle , broke into New Tokyo International Airport
空港管制塔破壊事件
この間、革マル派の成田空港闘争への批判活動が目立ちはじめたが、反対同盟は、「権力ー反対同盟・中核派密約説」などと機関紙に書いた革マル派に対し、5月29日、弾劾声明を出し、成田闘争からの追放を宣言した。もともと革マル派と対立、批判していた約20の支持党派もこれを支持、成田空港反対闘争の中で革マル派と他党派の対立が、いっそう深刻化してゆくこととなった。
政府は、77年11月25日の閣議で、「年内開港ー78年3月30日を開港日」と決定、12月27日には、第一期工区内でただ一つ残っていた小泉英政さん所有の農地を、一家の座り込みを排除して、強制収用した。
78年3月の開港決定は、反対派の姿勢を強め、反対同盟・支援党派は1月24日、第二期工区の滑走路先端にあたる横掘地区に、高さ12メートルの鉄筋コンクリート造りの”要塞”を建設、2月5日、さらにその上部に高さ20メートルの鉄塔を立てた。翌6日未明、機動隊はこの撤去作業を開始したが、正規の手続きをふまず、証拠差押えの形式をとってなされた強行措置で、のちに7月26日、最高裁はこれを違法の措置とする判断を下した。
この放水車とクレーン車を使っての機動隊による撤去作業に対し、反対派の火炎ビンなどによる激しい攻防戦が二日間つづき、厳寒のなか、40時間も鉄塔に登って反撃していた最後の4人を含め、45人が逮捕され、”要塞”はついに”落城”し、鉄塔は撤去された。
開港予定日が四日後に迫った3月26日、反対同盟主催の二万人を集めた大集会が、空前の警備のなかで開かれたが、その最中、空港地下排水溝から空港内に侵入した第四インターを中心とする解放”荒派”、プロ青同などの20人の共闘ゲリラ部隊が、警備する機動隊を排除して管制塔内に入り、これらを占拠して、内部を破壊した。このため空港機能がマヒ状態となり、政府は、3月30日の開港を断念せざるを得なくなり、5月20日まで50日間の開港延期を決めた。この日は、管制塔ゲリラ攻撃の前から空港周辺で空港ゲートに突入をはかったり、パトカーに火炎ビンを投げるなどのゲリラ戦がつづいており、ゲリラ部隊の管制塔占拠中も、約300人がトラック二台で第八ゲートを突き破って侵入、機動隊と衝突した。
この日の闘争で、学生ら156人が逮捕されたが、うち一人は、火炎ビントラックによる空港突入の際、自ら負った火傷で、のちに死亡した。管制塔破壊にショックを受けた政府側は、空港周辺の反対派の団結小屋を撤去するための成田緊急措置法を国会に提出、5月12日これを成立させた。
*Deutschドイツ語→Das Notfallmaßnahmengesetz für den internationalen Flughafen Narita成田国際空港の安全確保に関する緊急措置法 (Gesetz Nr. 42 von 1978) ist ein Gesetz, das die Funktionen und Einrichtungen des internationalen Flughafens Narita regelt und die Sicherheit der Luftfahrt gewährleistet Die Abkürzung lautet „ Narita New Law成田新法 “.

反対派内部の動揺
1978年5月20日の再開港予定日を前に、反対派のゲリラ活動は活発となり、京成電鉄空港専用スカイライナーへの放火や空港周辺の航空標識への襲撃などが起こった。再開港の5月20日には、埼玉県所沢市の東京航空管制部の通信ケーブルが中核派によって切断され、空のダイヤが大きく乱れた。
その後も、火炎トラックや無線操縦乗用車の空港突入、無線中継所・航空通信線の破壊、燃料輸送列車用の制御回線切断、アドバルーンによる飛行妨害などのゲリラ活動が相ついだ。なかには、北総浄水場への農薬投入事件、成田興業社員宅への放火事件など、一般人をねらうものも出て、ゲリラ活動の悪質化が注目された。
空港反対同盟は、9月17日、7200人(うち新左翼各派4700人)を集めて集会を開き、翌79年5月20日の成田空港開港一周年集会にも4300人、9月16日の第二次強制代執行記念日には6600人、10月21日の国際反戦デーには6400人と、成田空港反対闘争が、依然として新左翼最大の闘争目標であることを動員力で示した。
この間、反対同盟幹部と政府首脳との対話裏工作が表面化して、反対同盟・支援党派内に混乱が起こったが、この裏工作のなかで政府側は「二期工事凍結」「強権発動を行なわない」などの具体案を提示していたことがわかり、反対組織内部の流動状態と合わせて、成田闘争の変質を示した。
さらに、同年11月2日、その純粋な反権力姿勢によって成田闘争のまとめ役、牽引力となってきた戸村一作反対同盟委員長が悪性リンパ腫のため死亡、成田闘争の変化にいっそう拍車をかけることとなった。また、勤労内の主流派対反主流派、革マル派対中核派の確執を底流に、勤労千葉地本が勤労本部から分裂、5月、千葉勤労として独立し、勤労本部が否定している燃料輸送阻止闘争に取り組んだ。
*Issaku Tomura 戸村 一作( May 29, 1909千葉県出身 - November 2 , 1979 ) was an activist for the civil and peasant movements . He was especially known for his activities in the Sanrizuka Struggle (Narita Struggle), where he served as chairman of the Sanrizuka Shibayama Alliance Airport Opposition Alliance , and was also a painter and sculptor.

分裂した反対同盟と支援党派
80年代に入っても、他に政治闘争目標を見出せぬなかで、成田空港反対闘争は新左翼のエネルギーを結集させる最大のテーマであり、同年3月30日の管制塔襲撃二周年集会に4400人、5月25日の開港二周年集会に5800人、9月15日の第二次強制代執行記念集会に4300人、10月19日の二期工事阻止総決起集会に5800人と、相変わらずの動員力をみせた。80年最後の「勤労支援・二期工事阻止集会」でも動員予定を上回る2900人が集まった。
81年も、10月11日の6250人を最高に、3月1日3800人と、前年以上あるいはほぼ横ばいの動員力をみせた。燃料輸送列車を襲って放火、炎上させた事件なども起こった。
また、71年9月の第二次強制代執行の際、機動隊員に火炎ビンを投げたり、建設作業所に放火するなどして逮捕された59人に対し、この年11月、千葉地裁が「政府、公団のとった農民に対する態度は厳しく非難されるべきで、反対運動に出た者の心情は理解出来る」と、リーダー格の5人を除く54人に執行猶予つきの判決を言い渡し、注目された。
82年以後、その成田闘争に大きな転換が起こる。反対同盟とその支援党派の、反対派内の分裂状況、結束の乱れの表面化である。
成田空港反対闘争が新左翼最大の政治闘争目標であることに変わりはなく、同年3月28日の総決起集会には、6500人と3年ぶりに最大の参加者数をみせた。7月4日の集会を4100人、10月11日の集会を5600人と、これまでと変らぬ参加者数だった。しかし、政府側との裏交渉や、運輸省、空港公団側との接触の表面化で、2月に石橋政次委員長代行はじめ、内田寛一行動隊長、石井英祐事務局次長が、11月に島寛政事務局次長が、それぞれ役職を辞任した。いずれも、反対同盟を代表としてきた農民のリーダーで、組織にとっては手痛い事態であった。これらの問題にからんで、支援党派、とくに中核派と反対同盟農民、その中心である青年行動隊との異和、対立感が表面化し、成田用水問題などをめぐっていっそう深刻化したのだった。
過去17年の闘争を通じ、反対同盟農民と支援党派間のかつてない結束の乱れで、この亀裂、対立状況は、83年に入っていっそう決定的となり、同年中に開かれた反対集会は、すべて反対同盟”北原派”と中核派など支援のグループと、反対同盟”熱田派”と第四インターなどのグループに、二分裂して行なわれた。
反対同盟北原派に連帯する党派は、中核、戦旗・反党派、解放・狭間派など、いわゆる新左翼内武闘グループと千葉勤労など、熱田派を支援する党派は、73年の管制塔破壊ゲリラ攻撃の主役だった第四インターや、戦旗・荒派、プロ青同、解放・労対派などである。
勢力的にみれば、北原派が2月27日、10月9日いずれも2500人、熱田派が2月27日2700人、9月15日2100人と、ほぼ伯仲とみていいが、反対同盟農民については、六戸、熱田派二戸で、四戸は脱落状態にある。この状況に、これまで反対同盟を支援してきた反原発・反基地など全国各地の住民・市民運動団体も、両派に系列化の傾向にあり、混乱状態へのとまどいから、支援団体の集会への参加減少などが目立ってきた。
また、83年に入り、それまでゲリラ活動を行なってこなかった戦旗・荒派が、7月10日、成田空港関連施設や米軍基地などに、時限発火装置や火炎ビンによる多発ゲリラを行なうなどし、機関紙などで地下武装闘争をうたっており、中核、解放派につぐ第三の武装実力闘争グループへの飛躍をめざしているものとして注目された。

*자유민주당 본부 방화습격사건Liberal Democratic Party headquarters arson attack(일본어: 自由民主党本部放火襲撃事件지유민슈토혼부호카슈게키지켄)은 1984년 9월 19일 혁명적공산주의자동맹 전국위원회(중핵파)의 비공개 조직 "인민혁명군"이 화염방사기로 자유민주당 본부 건물에 방화한 사건이다.Revolutionary Communist Alliance (Chuchu faction)中核派
エスカレートするゲリラ闘争
84年9月19日夜には、自民党本部を炎上させるという中核派のゲリラ事件が起こり、78年3月の管制塔破壊のゲリラ攻撃に次いで、政府・権力側に大打撃を与えた。このゲリラ攻撃は、政府側の二期工事開始発言やその動きに対する反発として敢行されたもので、同派は機関紙「前進」で「ゲリラ戦で日帝を次つぎ強襲」など”予告”しており、すでに7月、その前段的なゲリラ行動を行なっていた。
成田闘争での同派のゲリラ実力闘争色の強まりは、反対闘争の核であった反対同盟農民が次第に脱落、さらに分裂し、それにつれて支援党派が二分解するという状況のなかで、かつての三派全学連時代からの18年間、成田闘争を支えてきた新左翼最大の党派として、自己一党だけでも成田闘争を死守するためという自負が大きく作用している。
さらに63年の革共同の分裂以来、「反革命」と規定して熾烈な内ゲバ戦を展開、加えて成田闘争に対し「権力ー反対同盟密約説」などで妨害行動を行なったことに対し、反対同盟を支援する他党派とともに敵対姿勢を強めてきていた、新左翼第二の党派・革マル派への示威もからんでいる。成田闘争の重要視から、一時熾烈だった革マル派への内ゲバ戦は82年来減り、84年までの二年間、死者を1人も出していない。
一方で、84年末現在、活動家数を前年より約一割増やして、2700人台に乗せたり、84年7月に開いた全学連定期大会の学生参加者を前年より約三割、100人増の400人とするなど、他と比べて勢力を伸ばしていることや、81年の東京、大阪での本拠ビルの建設につづき、84年11月には福岡市に九州地区の本拠ビルを建設するなど、公然部分の拡大の一方で、内ゲバやゲリラ活動のための非公然部分を強化していることが、注目されていた。
闘争などでのゲリラ活動は、主として中核派の「人民革命軍」あるいは解放派の「プロレタリア統一戦闘団」といったゲリラ隊によって行なわれてきた。取締り強化のなかで、公然の大衆的行動がむずかしくなった状況下で、逮捕者を少なくして、組織力を温存し、戦術の効果を挙げるための必然の闘争形態だといえよう。その過程で、ICを使っての時限発火装置や、リモコン自動操縦の火炎車と、ゲリラ機器、技術の高度化をみせてきた。
LPガスと石油を高圧で同時に噴出させ、30メートルも火炎を垂直に噴き上げた。81年6月の運輸省に対する火炎車攻撃や、火炎ビン24本を70メートルを無人トラックから飛ばした84年9月の大阪・法務省攻撃など、次々と新手が現われていた。そして、自民党攻撃では、それまでの壁をこがすといった程度ではなく、火炎を的確にガラス窓を破ってビル内に噴きこみ、内部の3階から9階まで炎上させており、車2台を同時に使ったり、捜査妨害の電流を流すなど、その技術と戦術の高度化が一段と進んだことをみせていた。
ゲリラ攻撃を、機関紙などでの車に新左翼的プロパガンダだけでなく、言葉どおりに実行して、力と意気込みをみせたということだが、捜査当局が中核派などの非公然化に対して、その実態把握など十分の対応能力を欠いてきていることを、示しているといえる。
さらに、84年11月27日未明、千葉県知事宅や、同県選出の浜田幸一ら3人の代議士の自宅、事務所など四ヶ所が、時限発火装置によって焼かれ、建物の一部が焦げるなどのゲリラ事件が起こり、中核派が犯行を声明した。*Françaisフランス語→Koichi Hamada浜田 幸一 ( 5 septembre 1928千葉県出身 - 5 août 2012 ) est un homme politique et un talent japonais .
同派は6月の機関紙で「成田空港の二期工事阻止のため、対人ゲリラ戦も辞さない」と主張していた。その主張どおり8月6日には、東京都内と横浜、千葉県船橋市内の新東京国際空港公団幹部議員の自宅三ヶ所に、時限発火装置を仕掛け、建物の一部を焦がすなどし、同年28日未明には、成田空港周辺の千葉県警成東署と印西署管内の駐在所各一棟に、ガソリンや石油で放火、一棟を全焼させた。10月1日早朝、千葉県佐原市の成田用水工事の請負業者の社長宅の車庫と、香島郡下総町の下請業者の作業小屋が時限発火装置で放火され、車庫などが焼失、隣接の民家二戸も巻き添えで建物の一部が焼ける、などの事件が起こっている。
これらの動きは、成田空港を土地収用の対象とした国の事業認定に対する、反対派農民の取消し訴訟に対し、7月6日東京地裁が「公共利益優先」の国側の主張を全面的に認め、同空港建設の必要性を法的に認める判決を下したことや、8月に運輸省、空港公団が成田空港の二期工事に関し、工事用道路の建設費など22億円を85年度予算に概算要求したり、また、千葉県が、成田空港建設による騒音地区への見返り事業として進めている成田用水事業を、9月から反対同盟勢力下の芝山町菱田地区でも着工に乗り出したことなどが反対派の危機感を強め、闘争姿勢の高まりをみせたのだった。

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