日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Mouvement étudiant학생 운동(Studentenbewegung學生運動Student activism)Студенческое движение/高木正幸『全学連と全共闘』Masayuki Takagi《Zengakuren and Zenkyoto》⑤


*Русскийロシア語⇒Камбоджийская кампания (англ. Cambodian Campaign) Chiến dịch Campuchiaカンボジア作戦(カンボジア介入またはカンボジア侵攻とも呼ばれる)— общее название серии военных операций, проведённых американской и южновьетнамской армиями весной—летом 1970 года, одно из крупнейших событий Вьетнамской войны. В ходе боевых действий в Камбодже силы союзников добились определённых успехов, значение которых, однако, остаётся дискуссионным. В то же время в США операция была воспринята крайне неоднозначно и вызвала массовые студенческие протесты.
アメリカ軍がカンボジアに侵攻した5月、愛知外相のアジア太平洋会議、ジャカルタ訪問の15日、日比谷野音で7000人の集会が開かれ、さらに同年21日、全国全共闘の同所での集会に3000人、同29日、全国全共闘、全国反戦主宰の明治公園での総決起集会に1万2000人と、6月へ向けて闘争を盛り上げていった。
*Deutschドイツ語→Aichi Kiichi (jap. 愛知 揆一; * 10. Oktober 1907 in Tokio(東京都出身); † 23. November 1973 ebenda) war ein japanischer Politiker. In den Jahren 1968 bis 1971 war er Außenminister und von 1972 bis zu seinem Tod Finanzminister in Japan.
大詰めの6月、自動延長の23日をピークに、6月14日、全国全共闘、全国県反戦代表者会議、6月行動委員会主催の代々木公園での大共同行動集会に7万人と、60年安保闘争以来の参加者を集めたのをはじめ、10日間にわたって東京など各地で集会、抗議行動が行なわれた。14,5日、各派が都内で開いた集会では、機動隊との衝突や交番への火炎ビン襲撃も起こった。

いよいよ自動延長の23日、国労、勤労、全自労など27単産が時限ストや集会を開き、全国132大学がゼネストに入った。東京の明治公園での全共闘、全国反戦主催の集会には四万数千人が集まり、デモの際、警察署や交番に火炎ビンや投石を行ない、機動隊とも衝突、約500人の逮捕者が出た。一方、社共両党は代々木公園に9万人、6月行動委員会は清水谷公園に2万人を集めて集会を開き、デモを行なった。
70年安保闘争は、全体としてはカンパニア闘争的色彩が強かったが、量的には60年安保闘争時を上回るものがあった。また、69年から70年にかけ、土曜ごとに東京・新宿駅西口で開かれたべ平連系の反戦フォーク集会に、数千人の人々が集まるという、抵抗スタイルの洋変りもみられた。
*カンパニア闘争(カンパニアとうそう)とは、日本の新左翼の戦術のひとつ。ロシア語の「カンパニア(кампания, kampaniya)」が語源で、広く世に訴えて、一般大衆を動員する大衆運動のことを指した。英語では「キャンペーンcampaign」である。大衆動員という本来の目的の他に、党派内の同志的結束を強化するという意味もあった。活動資金を募る「カンパ」の由来は、ここからきている。
全共闘活動家たちの軌跡
全共闘運動ー大学闘争の敗北は、「盾としての学生運動」が、一つの終止符を打った点で重要である。その敗北後の混迷と模索が、武装や軍事に活路を見出そうとする、「赤軍派Red Army Faction」などの”過激武闘グループ”の出現をうながした。それは、大衆性喪失という意味で、全共闘運動とはまったく質を異にするが、全共闘敗北の克服、闘争の新しい継承として創出されたという点で、全共闘、学生運動と決して無縁のものではない。
そのことは、赤軍派あるいは80年代に入って生まれた「東アジア反日武装戦線」など、次次と日本の新左翼・反体制運動歴史に一ページを加えていった新しいグループのメンバーが、この68,69年代の大学闘争の経験者、挫折者であることからも、うかがうことができる。
*Françaisフランス語→Le Front armé anti-japonais d’Asie de l'Est (동아시아 반일무장전선東アジア反日武装戦線East Asia Anti-Japan Armed Front, Higashi Ajia hannichi busō sensen?Вооружённый антияпонский фронт Восточной Азии) est un groupe armé actif au Japon principalement en 1974 luttant contre l'impérialisme japonais à travers l'Asie. Sa principale action est un attentat à la bombe contre la société Mitsubishi qui tua huit personnes et en blessa 376 autres le 30 août 19741. Il est aussi responsable d'une quinzaine de petits attentats n'ayant entrainé aucun mort.
全共闘の活動家が、その挫折によって、いかに多難な道を歩まねばならなかったか、その怨念を捨て去ることができなかったかは、全共闘運動ー大学闘争中最大のものといえる日大闘争の活動家のその後の軌跡などをたどれば、十分に知ることができる。
もう37歳になる、あのときの日大全共闘議長秋田明大は、郷里の広島で自動車修理工場の修理工として働いている。闘争後、急速に言葉を失った。精神的な破綻が、ありありとみえる。あの闘争時のさっそうとした生気が、その心と体から抜け去ってしまったようである。あの闘争で、人間としてのエネルギーを使い果たしてしまったのだと、彼の以前を知る誰もが、心を傷めている。
書記長だった田村正敏は、北海道で畑を作り、羊を飼い、農民となった。いまも政治への関心を失わず、83年、北海道に革新知事を出現させる陰の力となった「勝手連」の仕掛け人として、名を高めるなど、新しい地域活動に取り組んでいる。
*勝手連Rame égoïste(かってれんSelfish ream)とは、日本において、あるテーマに賛同する者が自発的に集まって支援する市民活動の様式である。1983年の北海道知事選挙1983 Hokkaido gubernatorial electionに際して、候補となった横路孝弘Takahiro Yokomichiを支援する団体が「横路孝弘と勝手に連帯する若者連合Youth Union in solidarity with Takahiro Yokomichi」を名乗ったことに由来する。この選挙で横路は保守系候補を破って当選し、その存在が広く知られるようになった。
牧場を共同でやり、サーカスの小屋づくりをし、セールスの仕事を渡り歩き、あるいは水商売に入ったものもいる。サラリーマンといっても大学生協ぐらい。印刷などの自営業を営むか、家の仕事をついでいるもの、当時の活動家のほとんどは、何とか自分で自立した生活の道を切り拓くために、ずっと長く苦労をつづけてきた。
そのまま、中核派など、政治党派へ入り込み、革命家の道を、一筋に歩みつづけているものもいる。闘争で逮捕された約1600人をはじめ、全共闘にかかわった学生の多くが、除籍あるいは退学処分で、学校へ戻ることを拒否され、または自分から去って、大学卒の肩書も得られずに、世に出た。ほとんどが紛争後大学に戻ってちゃんと卒業を認められ、大学教授や役人、病院長、あるいは一流企業のサラリーマンと、社会的地位にきちんと収まっていると聞く東大全共闘の活動家たちとの、決定的な違いである。
ただ、「ぼくも、自己否定に自己否定を重ねて最後にただの人間ー自覚した人間になって、その後あらためてやはり一物理学者として生きてゆきたいと思う」と、指名手配中執筆した著書の中で書いた山本義隆東大全共闘議長は、いま、有名予備校(Sundai Preparatory School (駿台予備学校, Sundai Yobigakkō) is the oldest extracurricular college-preparatory school in Japan)の物理の教師をしている。東大否定を叫んだ過去から、東大入試を懸命にめざす予備校教師への転身だが、真面目な学問への姿勢で、生徒の人気を集めているという。その他にも、大学を中退してコミューン活動に放浪をつづけたり、塾の教師、保母などになった東大全共闘の活動家がいる。

↑(左)岡本公三Kōzō Okamoto (右)重信房子Fusako Shigenobu
8ー細分化と過激化
「赤軍派」の登場
東大、日大を頂点とした全共闘による大学闘争敗北後、新左翼は急速に過激化、武装化への飛躍をみせる。その一つが「赤軍派」の登場である。
同派は日航機「よど号」ハイジャックによって日本で最初のハイジャックを敢行し、政治闘争の武器として機動隊へ爆弾をはじめて行使し、”連合赤軍事件”でこれまた武装闘争の武器としてはじめて銃を用い、国際的ゲリラ組織「日本赤軍」の母体ともなり、その名を世界的に広めた。
同派は、大学闘争が警察力に弾圧され次々と終焉していた69年5月、ブントのなかの関西を中心とする武闘路線派が、それまでの大学闘争・街頭闘争の総括を経て、「早急に軍隊を組織し、銃や爆弾で武装蜂起せねばならぬ」として結成した。それまでの街頭闘争では、それ以上の闘いはできないと総括、それまで依拠してきたブント主義を革命的敗北主義として、「前段階武装蜂起ー世界革命戦争、世界党ー世界赤軍ー世界革命戦線」の新路線を打ち出したのである。その当初のメンバーは、京大、同志社大、立命館大などを中心とする活動家約400人であった。
その後、9月4日、日比谷野音で開かれた全国全共闘結成大会前日に、都内葛飾公会堂で”大政治集会”を開いたのち、翌日の全国全共闘結成大会に、はじめて公然と姿を現わした。さらに9月末、武器奪取、対権力攻撃として交番襲撃などの「大阪戦争」「東京戦争」を展開、10・21国際反戦デーには最初の鉄パイプ爆弾を登場させ、新宿駅襲撃、中野坂上でのピースかん爆弾によるパトカー襲撃などを行なう。そして11月5日、首相官邸襲撃のための軍事訓練目的として山梨県大菩薩峠に結集中を警察側にキャッチされ、53人の大量逮捕を出した。
*In the Daibosatsu Pass case大菩薩峠事件, 53 members of the Communist League Red Army (Red Army) were arrested on November 5, 1969 for weapons preparation and gathering charges , weakening the organization. It is a linked case.

*Русскийロシア語⇒Угон Boeing 727 в Пхеньян요도 호 사건(일본어: よど号事件) — угон пассажирского самолёта Boeing 727-89 авиакомпании Japan Air Lines группой из 9 угонщиков, произошедший 31 марта 1970 года. Также известен как Инцидент с угоном Yodogo (яп. よど号ハイジャック事件).
「よど号」ハイジャック事件
この大量逮捕で大打撃を受けた赤軍派は、70年に入り、蜂起をめざして、1月16日東京、2月7日大阪で、それぞれ800人、1500人を集めて“蜂起集会」を開いた。東京の集会は「国際根拠地建設、70年前段階蜂起貫徹」と銘うち、それを裏づけるかのように、3月31日、9人のメンバーが日航機「よど号」ハイジャックによる北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)入りを敢行した。「フェニックス作戦」と名づけたこのハイジャックは、大菩薩峠でいっせい逮捕される11月の前段階武装蜂起路線の失敗の総括から生み出した「国際根拠理論」の具現であったが、日本ではじめて起こったハイジャック事件である。

事件は、3月31日午前7時すぎに起こった。富士山上空を飛行中の日本航空ボーイング727機「よど号」(乗員7人、乗客131人)に乗客として乗り込んだ赤軍派の9人が、日本刀とピストルで乗員・乗客を威し、北朝鮮行きを機長に指示したのである。「よど号」は후쿠오카 공항福岡空港Fukuoka Airportに着陸して給油を要求、病人や婦人、子供など23人を下ろして、6時間半後の午後2時まえ福岡空港を離陸、北朝鮮へ向かうが、38度線付近から韓国空軍機に規制、誘導され、ソウル郊外、김포국제공항金浦空港Gimpo International Airportに着陸する。韓国側は北朝鮮兵の服装をつけ、ニセの歓迎プラカードを立てて出迎えるなどするが、赤軍派に見破られる。韓国側は「乗客を下ろせば北朝鮮へ行かせる」と説得するが、失敗した。
1日、東京から山村新治郎運輸政務次官ら政府関係者が到着して赤軍派側と交渉を開始、3日午後3時すぎ、乗客全員が釈放され、山村政務次官が”身代り”として機内に入り、同機は北朝鮮の평양시ピョンヤン(平壌)Pyongyangへ向かった。同7時20分、ピョンヤン미림비행장美林飛行場Mirim Airportに到着、赤軍派の9人はそのまま北朝鮮側に収監され、3日半にわたったハイジャックは終った。「よど号」は、山村政務次官と乗員3人を乗せて、4日午後9時10分、羽田に到着、122時間ぶりに帰着した。
ハイジャックを行なった赤軍派の9人は、田宮高麿(当時27歳)=大阪帝大、小西隆裕(25歳)=東大、田中義三(21歳)=明大、安部公博(22歳)=関西大、吉田金太郎(23歳)=元工員、岡本武(21歳)=京大、若林盛亮(23歳)=同志社大、赤城志郎(22歳)=大阪帝大、S(16歳)=高校生である。
9人のうち岡本は、72年5月、日本赤軍メンバーとしてイスラエルのテルアビブ空港を襲い、同国に留置されている岡本公三の兄であった。リーダーの田宮高麿はハイジャックにあたって、つぎのような「出発宣言」を発していた。
「我々の大部分は、北朝鮮に行くことによって、それ自身を根拠地化するように最大限の努力を傾注すると同時に、現地で訓練を受け、優秀な軍人になって、如何なる困難があろうとも、日本海を渡り帰日し、前段階武装蜂起の戦闘に立つであろう・・・共産主義者同盟万歳!そして、最後に確認しよう。我々は”明日のジョー”である」
①Françaisフランス語→Takamaro Tamiya田宮 高麿 (Tamiya Takamaro(岩手県出身) 29 janvier 1943 - 30 novembre 1995 ) est un terroriste japonais . Nouveau militant de gauche

②Русскийロシア語⇒Ashita no Joe (яп. あしたのジョー Асита но Дзё:, «Завтрашний Джо») — известная манга о боксе, нарисованная Тэцуей Тибойちばてつや по сюжету Асао Такамори高森朝雄 (также известен под псеводонимом «Икки Кадзивара梶原一騎»).

*Françaisフランス語→L'accord de restitution d'Okinawa de 1971 (沖縄返還協定, Okinawahenkan kyōtei?) est un accord conclu entre le Japon et les États-Unis. Par cet acte, les États-Unis abandonnent au profit du Japon tous les droits et intérêts obtenus à la suite de la guerre du Pacifique en vertu de l'article III du traité de San Francisco, et restituent ainsi la préfecture d'Okinawa à la souveraineté japonaise. 
ゲリラ化する沖縄返還闘争
沖縄返還協定が調印された1971年6月17日、その二日前から東京を中心に盛り上がりをみせていた実力阻止闘争が、ピークに達した。明治公園で行なわれた中核派、第四インターを中心とするその集会で、赤軍派による鉄パイプ爆弾が機動隊に向かって投げられ、隊員37人が負傷した。手製爆弾が、反権力闘争にはじめて使用されたもので、”爆弾時代”への突破口となった。
”6・17闘争”は、全国43都道府県、296ヶ所に十数万人が参加して行なわれたが、東京では中核派、第四インターを中心とした一万人が明治公園に、反帝学評、フロント、ML派などが反中核、沖共闘グループの一万人が宮下公園に集まって集会を開いた。両者とも、乗用車、材木、看板などでの街頭バリゲードや、線路上への座り込み、機動隊への火炎ビン攻撃などを展開したが、これに対して機動隊もガス銃などで応戦し、熾烈な攻防戦が展開された。
赤軍派による鉄パイプ爆弾は、集会終了後の午後8時50分ごろ、明治公園原宿口付近での機動隊との攻防戦のさなかに投げられたものだった。この事件の容疑者として、赤軍派中央軍の少年(17歳)ら二人が殺人未遂容疑などで逮捕されたが、証拠不十分で処分保留となった。15日から、この17日までの三日間の闘争での逮捕者は、1061人にも上った。
9月25日には、沖縄国会のヤマ場を前に、中核派らの沖縄青年委員会のメンバー四人が皇居内、宮内庁にレンタカーで乗りつけ、発煙筒、火炎ビンを投げつける事件があった。沖縄国会開会の10月16日を中心に、東京など全国各地で集会、デモが行なわれ、機動隊との衝突、交番への火炎ビン攻撃が起こった。11月10日、沖縄現地で、全軍労、県教組、官公労などによる、協定粉砕、批准阻止の、空前といわれる島ぐるみのゼネストが行なわれたが、これに呼応して、本土でも、各地で集会、デモ、機動隊との衝突が起こった。
国会で強行採決のきざしがみえた11月14日、全国32都道府県、80ヶ所に、10万人が集まって阻止闘争が展開された。この日、宮下公園での集会を禁止された中核派は「渋谷大暴動」と叫んで渋谷に進撃、各所で機動隊と衝突した。200人の中核派部隊の火炎ビン攻撃をうけた渋谷署神山交番では、警備に当たっていた警官が火炎ビンで火だるまになり、病院で死亡した。また、午後2時ごろには、国電池袋駅で、中核派の学生、労働者が持ち込んだ火炎ビンが満員の山手線電車内で炎上、乗客らが重軽傷を負い、火炎ビンを浴びた中核派反戦青年委の女教師が、病院で死亡した。深夜まで7時間にわたって渋谷駅や繁華街でのゲリラ戦がつづき、この日の衝突で313人が凶器準備集合罪などで逮捕された。
71年11月17日、沖縄返還協定は衆議院沖縄特別委で強行採決された。これに反発した社会、共産両党と総評は、ストや集会、国会への請願デモを行なったが、新左翼各派は19日、全国から1万8000人が集まり、日比谷公園などで集会、デモを行なった。日比谷公園の各入口に阻止線をはって封鎖した警官隊に対し、石、火炎ビンや丸太、竹ザオなどで攻撃、同夜、公園内のレストラン松本楼にも火が放たれて全焼した。さらに国電有楽町駅周辺から銀座一帯、大手町のオフィス街などで、火炎ビンを投げ、バリゲードを築くなどのゲリラ戦が展開された。日比谷、丸の内周辺以外でも、各派によるバリゲード市街戦が都内各地で行なわれ、この日の逮捕者は1886人、69年11月16、7日の佐藤首相訪米阻止闘争時の1985人につぐ、大量逮捕となった。
沖縄返還協定は、24日、衆院本会議で強行採決され、自然成立したが、11月10日、破防法違反容疑で松尾真中核派全学連委員長が逮捕された。さらに同月20日、中核派の集会、デモの対し、全面的な禁止措置がとられた。

①Українськаウクライナ語→Терористична атака в аеропорту Лодテルアビブ空港乱射事件 ( Ізраїль, нині Міжнародний аеропорт імені Бен-Гуріона) була здійснена 30травня 1972 року трьома членами ліворадикальної організації "Червона армія Японії" за вказівкою керівництва Народного фронту визволення Палестини. Внаслідок теракту загинули 28 людей (у тому числі двоє терористів). Ще 78 дістали поранення②Русскийロシア語⇒Красная армия Японии (яп. 日本赤軍, Нихон сэкигун) — японская леворадикальная организация. Основана в 1971 в результате слияния двух леворадикальных организаций. Лидер — Фусако Сигэнобу. Штаб-квартира находилась на территории Ливана.

テルアビブ空港襲撃事件
1972年5月30日午後10時30分、パリ発のフランス航空機でイスラエルのנמל תעופה בן גוריון‎テルアビブ国際空港Ben Gurion International Airportについた日本赤軍の三人が、税関で自分の荷物から取り出した自動小銃と手投弾で、空港ロビーにいた乗客や空港係員を乱射した。このため、イスラエルの科学者アーロン・カツィール教授ら24人が死亡、80人以上の負傷者を出した。
*Aharon Katzirאהרן קציר (Aharon Katzir-Katchalsky=ポーランド出身のユダヤ人) (September 15, 1914 – May 30, 1972)[1] was an Israeli pioneer in the study of the electrochemistry of biopolymers.エフライム・カツィールאפרים קציר, Ephraim Katzir元イスラエル大統領の兄。
攻撃したのは日本赤軍の奥平剛士(当時26歳)=京大生、安田安之(24歳)=同、の二人はイスラエル側の銃撃によって死亡、岡本公三(24歳)=鹿児島大生、は逮捕された。岡本はその後、イスラエル軍事法廷で終身刑の判決を受け、ラムロ刑務所に収容されている。
①Deutschドイツ語→Okudaira Tsuyoshi奥平 剛士 ( 21. Juli 1945 - 30. Mai 1972山口県出身 ) war ein japanischer Aktivist, Terrorist und Revolutionär der Neuen Linken . Ein Gründungsmitglied der japanischen Roten Armee und die oberste Führungskraft重信房子Fusako Shigenobuは戸籍上の妻ist seine Frau im Familienregister②Esperantoエスペラント語→Yasuyuki Yasuda安田 安之 ( 1947 ? [1] - 30 -a de majo 1972三重県出身) estis japana Nova Maldekstra aktivulo , teroristo kaj revoluciulo . La 30-an de majo 1972, li mortis en la Tel-Aviva flughavena pafadokazaĵo Tsuyoshi Okudaira kaj Kozo Okamoto③Русскийロシア語⇒Кодзо Окамото (яп. 岡本 公三 Окамото Ко:дзо(熊本県出身):, род. 7 декабря 1947) — бывший японский террорист и член Красной армии Японии.
これは、71年2月、赤軍派中央委員の重信房子が奥平とともにパレスチナ入りし、PFLPの庇護の下に日本赤軍(当時はアラブ赤軍を名乗る)を結成してから、最初の”旗揚げ”軍事行動であった。この事件にショックを受けた政府側は、特使をイスラエルに派遣、陳謝の意を表した。

①Українськаウクライナ語→Фусако Сигэнобу (яп. 重信 房子 Сигэнобу Фусако(東京都出身), родилась 28 сентября 1945 года, Токио) — основательница и руководительница милитаризированной коммунистической группы «Красная армия Японии»②The Popular Front for the Liberation of Palestine – External Operations (PFLP-EO) (Arabic: الجبهة الشعبية لتحرير فلسطين - العمليات الخارجية) or Special Operations (PFLP-SO) (Arabic: العمليات الخاصة) or Special Operations Group (PFLP-SOG) (Arabic: مجموعة العمليات الخاصة) were organizational names used by Palestinian radical Wadie Haddad when engaging in international attacks, which were not sanctioned by the Popular Front for the Liberation of Palestine (PFLP).
明大闘争での活動家だった重信房子はじめ、日本赤軍の活動家には、慶大文学部自治会副委員長だった和光晴生、京大工学部の活動家だった奥平など、全共闘時代の活動家や、丸岡修、山田義明、戸平和夫のように、大学紛争時、浪人中、あるいは予備校などで運動に参加したことのあるものが多い。岡本も、浪人中、べ平連活動に参加していた。


①Svenskaスウェーデン語→Haruo Wako和光 晴生(宮城県出身) var en av medlemmarna i Japanska röda armén (JRA). Haruo Wako och två andra medlemmar i Japanska röda armén var delaktiga i ockupationen av den franska ambassaden i Haag 1974. 1975 intog Wako och några andra medlemmar i JRA den amerikanska ambassaden i Kuala Lumpur. Båda ockupationerna resulterade i att krav om att 6 medlemmar i JRA skulle släppas från fängelser i Japan tillgodoseddes. 23 mars 2005 dömdes Wako till livstids fängelse i Japan②Osamu Maruoka丸岡 修 (Maruoka Osamu(徳島県出身), October 20 , 1950 - May 29, 2011 ) is a terrorist and Japanese New Leftist activist. He was a former member of the Japanese Red Army and a top military officer③Françaisフランス語→Yoshiaki Yamada山田 義昭( (Yamada Yoshiaki(富山県出身), né le 1er janvier 1949 ) est un terroriste japonais et ancien membre de l' Armée rouge japonaise④Deutschドイツ語→Kazuo Tohira戸平 和夫(兵庫県出身) ist ein ehemaliges Mitglied der japanischen Roten Armee . Geboren in der Stadt Kobe , Präfektur Hyogo .

相次ぐ日本赤軍ゲリラ事件
テルアビブ空港事件から一年二ヵ月後の73年7月21日、丸岡修とパレスチナ・ゲリラ四人が、パリ発羽田行き日航ジャンボ404便を、オランダ・アムステルダム空港離陸後、ハイジャックした。「日本とパレスチナの革命を結合する世界革命戦争」ととなえ、ハイジャック後、三日間にわたりアラブ首長国連邦ドバイ空港、シリア・ダマスカス空港などを経て、リビア・ベンガジ空港に到着、ようやく人質141人を解放、日航機を爆破した。その際、パレスチナ・ゲリラの女性一人が、機内で爆死した。
さらに、74年2月1日、パレスチナ・ゲリラとの共闘ゲリラ作戦第二弾が起こる。和光、山田とパレスチナ・ゲリラ二人が、シンガポール島南西のシュル石油製油所の石油タンクを「ベトナム革命戦争との連帯」作戦として爆破、通船を乗っ取り、乗組員五人を人質にした。一方、パレスチナ・ゲリラ五人がクエートの日本大使館を占拠して、和光らの送還を日本政府に要求、日本政府側はこの要求に屈伏して日航機を出し、両事件の日本赤軍、パレスチナ・ゲリラメンバー九人を南イエメンに運んだ。このシンガポール・クエート事件まで、日本赤軍は「アラブ赤軍」あるいは「赤軍」と名乗っていた。

*シンガポール事件The Laju incident, also known as the Laju ferry hijacking, occurred on 31 January 1974 in Singapore.
同年7月、パリでメンバーの山田が逮捕されるや、その奪還をめざして、和光、奥平純三、西川純が9月4日、オランダ・ハーグのフランス大使館を占拠、奪還に成功した。「日本赤軍」名を名乗っての、日本赤軍だけの独立作戦の第一号であった。
①Italianoイタリア語→Junzō Okudaira (奥平 純三 Okudaira Junzō(山口県出身+↑剛士は次兄); Shimonoseki, 2 febbraio 1949) è un terrorista giapponese②Norsk bokmålノルウェー語→Jun Nishikawa (西川 純 Nishikawa Jun, født 8. august 1950) er en japansk tidligere terrorist og medlem av Den japanske røde armé (JRA)
75年3月5日、スウェーデン・ストックホルムのレバノン大使館付近で、西川、戸平の二人が逮捕され、日本へ送還されるが、日高敏彦は逃走に成功する。この強制送還された西川、戸平らの奪還をめざし、同年8月5日、和光、奥平、日高と他の三人が、マレーシア・クアラルンプールのアメリカ大使館を占拠、アメリカ領事などを人質にした。政府は、日本赤軍の獄中犯釈放要求に対し、「超法規的措置」でこれに応じ、西川、戸平のほか、元赤軍派の坂東国男、松田久、東アジア反日武装戦線の佐々木規夫の五人を釈放して、日航機でクアラルンプールに送り、日本赤軍は奪還した五人とともにリビア入りした。
①Deutschドイツ語→Toshihiko Hidaka日高 敏彦( 1944 - 2. Oktober 1976韓国釜山生まれ、宮崎県出身) war ein Mitglied der japanischen Roten Armee②Françaisフランス語→Kunio Bando 坂東 國男( né le 10 janvier 1947滋賀県出身) est un terroriste japonais et militant de gauche③Matsuda Hisashi松田 久 (August 30, 1948 [1] -) is a Japanese New Leftist . Former member of the Japanese Red Army④사사키 노리오(일본어: 佐々木 規夫, 1948년 8월 27일~몰년 미상北海道出身)는 일본의 신좌파 테러리스트다. 동아시아 반일무장전선 "늑대"부대, 일본적군에서 활동했다.

①Nederlandsオランダ語→De gijzeling in de Franse ambassade in Den Haagハーグ事件, die begon op 13 september 1974 en waarbij personeel van de Franse missie gedurende vijf dagen werd gegijzeld, onder wie ambassadeur Jacques Senard, was de eerste grote gijzeling in de Nederlandse geschiedenis②The AIA Building hostage crisis took place at the AIAクアラルンプール事件 (American Insurance Associates) Building in Jalan Ampang, Kuala Lumpur, Malaysia on 5 August 1975.
77年9月20日、丸岡、和光、佐々木、戸平の五人の日本赤軍メンバーが、パリ発東京行き日航機をハイジャックして、日本の獄中犯の釈放を要求、日本赤軍として六番目のゲリラ作戦を敢行した。このハイジャックは、一年前の76年6月23日、シリアからヨルダンに偽造旅券で入国しようとして逮捕され、ヨルダンで拘置中自殺したとされる日高の”虐殺”への報復、日本へ強制送還された奥平の奪還をめざしたものであった。

*ダッカ日航機ハイジャック事件Japan Air Lines Flight 472 was an aircraft hijacking carried out by the Japanese Red Army (JRA) on 28 September 1977
日本赤軍の五人は、日航機をハイジャックしたのち、バングラディシュのダッカ空港で、奥平ら六人と、身代金600万ドルを日本政府から奪取、クエート、シリアを経て、六日間、110時間の飛行ののち、アルジェリアのダニエル・ベイダ空港で人質全員を釈放した。日本政府の「超実定的措置」によって奪還に成功したのは、奥平のほか、元赤軍派の城崎勉、東アジア反日武装戦線の大道寺あや子、浴田由紀子、さらに無期懲役刑の強盗殺人犯・泉水博、懲役10年の判決を受けて控訴中の殺人犯・仁平映の一般刑事犯二人であった。泉水、仁平は、獄中で待遇改善要求闘争などを展開している「獄中者組合」のメンバーであることがわかった。その後、これらの日本赤軍メンバーは、アルジェリア入り一週間後に、同国から国外追放になり、出国していたことが判明した。
①Tsutomu Shirosaki城崎 勉 ( December 5, 1947  -富山県出身) is a Japanese terrorist and Japanese New Leftist activist②Esperantoエスペラント語→Ayako Daidoji 大道寺 あや子 ( la 20-an de oktobro 1948-北海道出身 ) estas membro de la Orienta Azia Kontraŭ-Japana Armita Fronto , japana nova maldekstrema armita organizo③Yukiko Ekida浴田 由紀子 ( December 19 , 1950  -山口県出身) is a Japanese terrorist and a former member of the East Asia Anti-Japanese Armed Front "Fang of the Earth"④센스이 히로시(泉水博, 1938년 - )는 일본의 살인자로, 수감 중에 수감자 조합을 결성한 인물이다⑤Deutschドイツ語→Nihei Akira仁平 映 ( * 1. März 1946千葉県出身) ist ein ehemaliger japanischer Gefangener.
警察当局は、75年7月、国際刑事警察機構(ICPO)に対し、「日本赤軍は思想犯ではなく、刑事犯である」と国際手配を要請、同8月末、ICPOは、日本赤軍のリーダー重信房子はじめ、和光晴生、奥平純三、吉村和江、丸岡修の五人を、加盟120カ国に国際手配した。その後、国際手配は、16人となっている。

①1996/06/06 Peru to Send Red Army Guerrilla Suspect to Japan — Peru announced today that it would deport a suspected Japanese Red Army guerrilla, Kazue Yoshimura吉村和江(東京都出身)②国際刑事警察機構(こくさいけいじけいさつきこう、英: International Criminal Police OrganizationМеждународной организации уголовной полиции(略称:ICPO)、仏: Organisation internationale de police criminelle(略称:OIPCInternationale kriminalpolizeiliche Organisation:  IKPO)は、国際犯罪の防止を目的として世界各国の警察機関により組織された国際組織である。日本国内では頭文字「ICPO(アイシーピーオー)」の略称で呼ばれることが多いが、海外ではインターポール(INTERPOLИнтерпо́л)の名称で呼ばれることが多い。2017年時点の加盟する国・地域は195を数え、国際連合に次ぐ。
日本国内向けの”文書作成”
ダッカ事件以後、日本赤軍はゲリラ事件を起こしていないが、78年に入って日本国内の獄中同志や新左翼系活動家、ハイジャックした日航機の乗客などに、相次いで声明を送ってきたり、新左翼系新聞『人民新聞』に寄稿するなど、日本国内への活発な情宣活動に乗り出した。
*The Jimmin Shimbun (人民新聞), also known as People's News (ピープルズニュース), is a Japanese left wing newspaper. It is associated with the new left, but independent from political parties and other organizations.
これらの文書の中で、日本赤軍は繰り返し幅広い「団結」を訴えており、その「団結」あるいは「日本協議会建設」の呼び掛けに応じる国内支援グループの動きも出た。当初の声明では、かつてのようにパレスチナ解放闘争についてほとんど触れていないのが特色で、「日本革命を勝利、完成する闘い」など日本を攻撃目標とする姿勢を、さらにはっきりと打ち出している。以前の「在外公館」「商社」「日本航空」といったものから「ブルジョア政権」「天皇ヒロヒト」「天皇制帝国主義」と、その攻撃姿勢がエスカレートしていることが注目された。
79年に出した声明「5・30リッダ七周年によせて」では、それまでのパレスチナ解放闘争一辺倒の路線の誤りを認め、日本革命闘争主体への転換を表明していた姿勢から、再びパレスチナ革命と日本革命を関連づけて「国際主義」を強調したことが注目された。また、10月、『人民新聞』あてに送ってきた「ダッカ闘争二周年声明」では、ダッカの日航機ハイジャック事件で奪還した殺人犯・泉水博の手記を添付していた。80年11月の声明では「人民解放に向っての闘いの統一」「人民自身の党の建設」を呼びかけている。
81年に入り、それまでの日本国内への声明、文書作戦につづいて、ベイルートで英文新聞誌『ソリダリティSolidarity』をつくり、国内外に配布する新たな文書作戦を展開し出した。同年7月には、リーダーの重信房子が『朝日ジャーナル』記者と会見、六年ぶりにその健在な姿をマスコミの前に現わした。『ソリダリティ』や重信のインタビューでの発言の内容の中心は、それまでの国内向けの声明同様、過去の闘争の自己批判と、大衆への呼びかけである。『ソリダリティ』はさらに、日本国内の成田空港反対闘争や反原発闘争などを海外ゲリラに紹介し、連帯強化をはかろうとするねらいも持っている。これらのなかで、現在は実践活動を行なっていないが、そのことは決して「武装闘争」の放棄を意味しないことを明言している。ゲリラ活動の停止は、情勢、力量をにらんでの、一時的な留保であるということである。
さらに、『ソリダリティ』では「PLOとともに」「ソ連を含めた反帝国主義統一戦線を結成し」といった、ソ連と連帯するPLOへの支援姿勢を強めていることが一つの特色となっている。日本赤軍のいわばスポンサーであるPFLPが、それまで和平外交路線やミニ・パレスチナ構想に反発していたPLO執行委員会に復帰したことも関係し、PLOの和平外交路線の行方に注目して、一時過激行動を留保していると受けとめられる。そのPLOのアラファト議長は、81年10月12日から四日間来日、政財界関係者らと会談した。

①Русскийロシア語⇒Организа́ция освобожде́ния Палести́ны (ОО́П)パレスチナ解放機構 (араб. منظمة التحرير الفلسطينية‎, Муназза́ма ат-Тахри́р аль-Филастини́йя) Palestine Liberation Organization(PLO)— организация, претендующая на представление интересов арабов, живших на территории подмандатной Палестины до Арабо-израильской войны 1948 года, и их потомков②↑は جمال عبد الناصرガマール・アブドゥル=ナーセルGamal Abdel Nasser元エジプト大統領・首相です。

②ヤーセル・アラファート(アラビア語: ياسر عرفات‎(転写:Yāsir ‘Arafāt)、英:Yasser Arafat等 1929年8月24日 - 2004年11月11日)Я́сир Арафа́т は、パレスチナのゲリラ指導者、政治家。パレスチナ国初代大統領、パレスチナ解放機構(PLO)執行委員会議長などを務めた。
82年に入っても、『ソリダリティ』や『人民新聞』による国内外への文書作成をつづけ、PLOへの支持などを呼びかけてきたが、6月以来のイスラエルによるレバノンでのPLO掃討作戦と、その結果としてのPLOのレバノンからシリア、イラク、南イエメンなどへの撤退によって、その本拠を失った、PFLPなどとともに、シリア、あるいは南イエメンなどに、一括あるいは分散して存在している模様だが、組織発足以来13年間で最大の危機に立つこととなった。
その後、78年以来出していた『ソリダリティ』『人民新聞』などの文書作戦は82年後以降途絶えているが、これはイスラエルの מבצע שלום הגליל, or מבצע של"ג レバノン侵攻الاجتياحOperation Peace for Galileeによって本拠を失った打撃によるものと思われる。83年に入り新左翼系新聞や雑誌に、再び重信がアピールや手記を発表し、「戦闘的な隊列への参加」を呼びかけた。また、フリーのジャーナリストとレバノンのوادي البقاعベッカー高原Bekaa Valleyキャンプで会見、「PFLPと一緒に闘っている」と述べた。85年に入り、再びレバノン北部のベッカー高原に結集し、PFLPなどとともに活動していることがわかったが、その活動力と存在基盤を失いつつあることは間違いない。
一方、70年3月、日航機「よど号」ハイジャックによって北朝鮮入りした元赤軍派の九人は、ピョンヤン郊外で学習や翻訳活動などをしていることがわかっているが、85年までに季刊の機関誌『日本を考える』を11号発行、国内に送ってきている。
同国内での活動だけでなく、83年7月はじめには、ピョンヤンで開かれた「世界ジャーナリスト会議」で田宮高麿が講演したり、同年8月、リビアで開かれた「全アフリカ青年フェスティバル」に小西隆裕ら二人が参加するなど、対外活動に公然と乗り出したことが注目された。
*Takahiro Konishi小西 隆裕 ( born July 28, 1944東京都出身) is a Japanese revolutionary . Former Red Army officer. He is a member of the Yodo Group.小西には二人の子供がいる。2001年5月に長女(当時23歳)が、2002年9月に次女(当時24歳)が帰国しているKonishi has two children . Her eldest daughter (23 years old at that time) returned to Japan in May 2001, and her second daughter (24 years old at that time) returned to Japan in September 2002.

*Русскийロシア語⇒Объединённая Красная Армия (яп. 連合赤軍, Рэнго сэкигун) — японская леворадикальная организация, основанная 15 июля 1971 года.

「連合赤軍」の誕生
大学闘争敗北後、組織の分裂、少数化にともなって新左翼がさらに過激化の一途をたどるなかで、69年、赤軍派の誕生と並行して、のちに同派とともに連合赤軍の母体となった「京浜安保共闘」が生まれる。
*The Japanese Communist Party (Revolutionary Left) Kanagawa Prefectural Standing Committee日本共産党(革命左派)神奈川県常任委員会 (commonly known as the Revolutionary Left革命左派) is one of Japan 's new leftist factions formed in 1969. It is also called the ``Revolutionary Left Kanagawa Prefectural Committee of the Japanese Communist Party,'' or the ``Japanese Communist Party (Revolutionary Left)日本共産党(革命左派),'' Keihin Anpo Kyoto京浜安保共闘, Keihin Security Joint Struggle Revolutionary Left京浜安保共闘革命左派and Revolutionary Left Organization革命左派組織
京浜安保共闘は、67年の日本共産党と中国共産党の対立の表面化によって、日共を除名、あるいは脱党した”親中国派”のメンバーや、ブントの片割れであるML派のメンバーが、「銃口から政権が生まれる」をスローガンに、毛沢東思想を背景として結成した「日本共産党(革命左派)神奈川県委員会」の武装軍団「人民革命軍」の公然組織として生まれたものである。京浜工業地帯の労働者・学生が中心となった組織だった。
*Hrvatskiクロアチア語→Mao Ce-tungova misao (trad. kin. 毛澤東思想, pin. Máo Zédōng Sīxiǎng), ili samo maoizam, politička je teorija koja vodi porijeklo od učenja kineskog diktatora Maoa Ce-tunga. Njegovi sljedbenici, poznati kao maoisti, prakticiraju anti-revizionistički oblik marksizma-lenjinizma.
京浜安保共闘は、結成直後から過激な実力闘争を開始し、69年9月、愛知外相の訪ソ、訪米に反対して海から羽田空港に侵入、滑走路に火炎ビンを投げ、そのころ、岐阜県下の石切場からダイナマイト約100本を盗み、これを使って厚木、立川、横田基地、横浜のアメリカ大使館などに対する一連の爆破、同未遂事件を起こした。
そして、70年2月18日午後1時ごろ、その学生戦闘団の幹部である横浜国大生・柴野春彦(当時24歳)ら学生三人が、東京・板橋区の志村署上赤坂交番を、鉛をつめこんだゴムホース、短刀などをもって襲撃、警官からピストルの奪取をはかったが、柴野が警官に射殺されたほか、二人とも射たれて重傷を負った。日本の権力闘争史上、最初の直接的な交番襲撃事件であった。
①Françaisフランス語→Haruhiko Shibano柴野 春彦( 1946 - 18 décembre 1970 ) était un militant japonais de la nouvelle gauche . À l'âge de 24 ans, il a été abattu par un policier qui a riposté lors de l'attaque du poste de police de Kamiakatsuka . Il a été le premier militant japonais de la nouvelle gauche à être abattu par un policier②The Kamikatsuka Police Box Attack Incident上赤塚交番襲撃事件 occurred on December 18 , 1970, at Shimura Police Station志村警察署, Akatsuka 3-chome, Itabashi-ku , Tokyo . An incident in which a man from a group of people was attacked.
この年12月26日に開かれた、柴野”虐殺”弾劾の追悼集会で、赤軍派と京浜安保共闘がはじめて連帯した。この集会以降、両派の連携関係は次第に強まる。武器ー銃による蜂起を主張する京浜安保共闘は、翌71年2月17日、栃木県真岡市の鉄砲店を襲って銃と銃弾を奪い、赤軍派は、”M作戦”によって同月から7月にかけて八件の郵便局、銀行などへの資金奪取作戦を敢行する。この両派が、同7月、「連合赤軍」を結成したのである。銃の京浜安保共闘と、金の赤軍派の、まったく異質な組織同士の政治的”野合”であった。その統一に際して出された機関誌『鉄火Iron fire』は、次のように述べている。
「両組織は・・・プロレタリア武装闘争を追及し、大衆的暴力闘争を行って来た・・・銃奪取、連続資金奪取闘争を貫徹し・・・日本革命戦争の本格的開始に向けて前進して来た・・・統一革命軍『赤軍』の結成をかちとった両組織は、マルクス・レーニン主義の世界革命、暴力革命、プロレタリア革命、永続革命等の原則的観点を踏まえ、中国、ベトナム、キューバの革命的教訓、アメリカ、中南米、アジア、中近東、アフリカ等、世界各地の武装プロレタリア人民の闘争に学びつつ、世界革命戦争の重要な一員として、日本革命戦争を発展させることを確認した」

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