日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Mouvement étudiant학생 운동(Studentenbewegung學生運動Student activism)Студенческое движение/高木正幸『全学連と全共闘』Masayuki Takagi《Zengakuren and Zenkyoto》③

安保を闘った活動家たち
しかし、60年安保全学連を中心として、共産党から自立をはかって以後の学生運動は、ブントとともに、その衝撃的な足跡のなかから、いまに残る多くの人材を生んだ。なかには、体制側のイデオローグとして名を高めている元全学連委員長の香山健一学習院大教授、新自由クラブかかわっている小島弘元副委員長、自民党、反共イデオローグとして活躍中の森田実(Minoru Morita森田 実(Morita Minoru(静岡県出身), October 23 , 1932- ) is a Japanese political critic)元中執などの”転向”組もいるが、国際共産党員からブントを結成し、その書記長となって安保全学連を指導してきた島成郎(Shigeo Shima島 成郎 (東京都出身March 3, 1931 - October 17, 2000 ) is a Japanese student activist and psychiatrist . He was the general secretary of the Zengakuren at the time of the 1960 security struggle )は、いま沖縄で精神病院の医師として地域医療に精力をそそいでいる。姫岡玲治のペンネームで、安保全学連の理論的指導者として名をはせた青木昌彦(Masahiko Aoki青木 昌彦 (Aoki Masahiko(愛知県出身), April 1 , 1938 - July 15 , 2015 ) is a Japanese economist )は京大教授、近代経済学者として注目を集めている。

*Deutschドイツ語⇒Der Neue Liberale Klub (jap. 新自由クラブ, Shin jiyū kurabu) war eine gemäßigt konservative politische Partei in Japan. Sie bestand von ihrer Gründung durch ehemalige Abgeordnete der Liberaldemokratischen Partei (LDP) im Jahr 1976 bis 1986, als er sich auflöste und die verbliebenen Mitglieder in die LDP zurückkehrten. Unter Premierminister Nakasone Yasuhiro (LDP) war er von 1983 bis 1986 an einer Koalitionsregierung beteiligt.
60年安保全学連を指導した唐牛健太郎は、全学連解体後、南の島での肉体労働者、ヨットスクール、飲み屋、北海道での漁師、東京でのサラリーマンと、全学連の闘争そのものの奔放な人生を歩んだのち、1984年5月4日、ガンのため死去した。新しい医療活動で注目を集めている徳州会にかかわる中で、徳田虎雄理事長の選挙に取り組み、徳之島などで活躍中に、病魔に倒れたのだった。

その通夜、告別式には、各層からの多くの人が参列し、故人の幅広い人望をみせた。島成郎は「彼によって生きる勇気を与えられた」と弔辞を読んでいたが、そのウラのない、率直、凄烈な人柄が、あの全学連の高揚へと学生大衆を引っぱる力になったと、改めてその人柄への印象を深めた。運動を創り出し、衝き動かすのは、理論や言葉ではなく、人と行動であることを、唐牛健太郎は後世に指し示したといえよう。
安保全学連出身者の中には、当時の東大駒場自治会委員長で、近代経済学者として有名な西部邁東大助教授(Susumu Nishibe (西部 邁, Nishibe Susumu(北海道出身), 15 March 1939 – 21 January 2018) was a Japanese critic, conservative and economist)、政治評論家長崎治、左翼評論家藤田計成などもいる。また、安保全学連書記長清水丈夫(시미즈 타케오(清水 丈夫(神奈川県出身), 1937년 - )은 일본의 신좌파 활동가이다. 혁명적 공산주의자 동맹 전국위원회의 (약칭 : 혁공동 전국위원회, 통칭 : 중핵파) 의장이다)、京都府学連指導者で、6・15闘争のデモを指揮した北大路敏など、現在も中核派の最高幹部として、政治活動の道を一筋に歩いている人もいる。
約30年を経て、いまなお60年安保全学連活動家の多くの名が、世間の口にのぼるのは、あの組織と闘争がいかに大きかったかを物語るものといえよう。

*The Miike Struggle (三池闘争, Miike tōsō) 미쓰이 미이케 쟁의(일본어: 三井三池争議)was a year-long struggle in Japan in 1960 between the organized labor movement, backed by a variety of left wing groups, and big business organization, backed by the Japanese right, centering around a lengthy labor dispute at the Mitsui Miike Coal Mine on the west coast of Kyushu in southern Japan. Occurring at the climax of a long series of escalating strikes and other militant labor actions in 1950s Japan, the Miike Struggle was the largest labor-management dispute in Japanese history.[1] Ultimately, the labor movement in Japan was defeated at Miike, dealing a significant blow to its prospects going forward.
三井三池闘争の終焉
ここで、安保闘争が沈静化に向かいつつあったとき、大きな社会問題として起こった三井三池闘争について、触れねばならない。
三池闘争は、政府の見通しのない石炭政策によって、1959年1月9日、三井鉱山当局が三井鉱山労働組合(三鉱連)に対して六千人におよぶ人員整理、賃金切り下げなどの第一次合理化案を提示したことがきっかけとなって起こった大争議である。同年4月6日には、第一次合理化協定が三鉱連と会社側の間で締結され、今後首切りしないことが確約されたが、経営者側は破壊活動家を含む4500人の首切り、賃下げ、組合活動の制限などの第二次合理化案を示してきた。
翌60年1月25日、会社側が全山のロックアウトを通告したことで労使間が正面から対立。組合側が無期限ストをもって応えたことによって、本格的な闘争の火ブタが切られた。
会社側は、資本陣営からの協調融資に支えられて、長期戦に入り、三池労組も総評からの闘争資金カンパを仰いで闘った。総評はこの三池闘争に空前の物量と闘争力を注いだのである。
政府の炭坑労働者合理化政策と、「安保と並んで炭労問題は重要・・・これに失敗すればわが国の資本主義体制は動揺をきたす」との日経総会の訴えをバックとする会社側に対し、総評は「総資本と総労働の対決」と呼び、指名解雇を撤回させることによって、押され気味の労使関係を逆転させる契機をつかむとともに、自由化政策の推進による各産業の合理化政策を食い止めようとはかった。
警察力、暴力団の雇用で、組合側の切り崩しをはかった会社側の、一方での懐柔策によって組合中央委員からも脱落者が出るなどして、3月17日にはこれらのメンバーを中心に「刷新連盟」が生まれ、会社側は第二組合として、その組合員の就労を強行した。また同月29日には、暴力団が警官の検閲を突破して第一組合のピケ隊に襲いかかり、その際、同組合員久保清が刺し殺される事件が起こった。
①第二組合(だいにくみあい)とは、ある事業体で二番目に組織された労働組合のことThe second union (Daini Kumiai) is the second labor union organized by a certain business entity②御用組合(ごようくみあいЖёлтый профсоюз、(英: yellow union、独: Gelbe Gewerkschaft、中: 黄色工会Syndicalisme jauneは、雇傭者(使用者)側が実権を握っている労働組合を指す。
会社側は、警察力を借りて、会社・第二組合側のホッパーによる石炭の搬出、船舶による資材の搬入を行なったが、組合側は4月、中労委の「藤林斡旋案」を拒否して闘争態勢をくずさなかった。この間、最高時には、一日一万人以上の警官隊が動員され、3月から12月にかけての警官動員は延べ74万人といわれ、60年4~6月の安保闘争ピーク時の43万人をはるかに上回るものであった。これに対し、総評など組合側の動員数は全国から延べ37万人といわれた。
その後、三池闘争は、安保闘争にかくれて約二ヶ月間膠着状態をつづけたが、安保の成立で6月23日に岸内閣が退陣し、7月に池田内閣が成立するころから、再び緊迫化を迎えた。
7月はじめ、組合側は、出炭再開を焦る会社側に対して、三川鉱ホッパーをピケで固め、出炭を阻止した。これに対して7月7日、会社側の訴えをうけた福岡地裁はホッパー周辺からのピケの排除を求める仮処分を決定した。総評、炭労側はホッパーの死守をはかるため、全国から一万人の組合員を動員して、仮処分の実力阻止をはかった。警察側も約一万人を動員、執行の妨害に備えた。
池田内閣は、三池対策の急務を説く財界の要請も受けて、内閣発足直後の7月19日深夜、石田労相と通じて収拾工作に乗り出し、同労相は労組側にピケ撤去と中労委の斡旋案に応じることを勧告するとともに、中労委に対し職務斡旋に乗り出すよう文書で要請した。この政府の平和的解決策に三池鉱山側は難色を示したが、石田労相は日経連幹部とともに説得に当たり、ついに会社側も折れた。

*Hirohide Ishida (石田 博英, Ishida Hirohide(秋田県出身), 12 December 1914 – 14 October 1993) was a Japanese politician.
政府のこの措置に、もともと組合の分裂によって短期決戦の機会がつかめないでいた総評側も、中労委への解決一任を拒むことができない情勢にあった。8月10日、中労委斡旋策が示されたが、その内容はいわば指名解雇を認めるものだった。しかし、総評、炭労とも、涙をのんで受諾する羽目となり、9月6日、受諾を決め、ついに三池闘争は収拾に向かった。組合側は、指名解雇を撤回できない状態に陥ることになったが、一方、政府側も、解雇者の就職斡旋について一企業のために責任をもつという異例の措置をとり、失業保険、住宅、職業訓練など石炭難職者対策にも乗り出すこととなった。これも、長い三池争議の一つの成果であった。
この三井三池闘争は、総評系の労働組合が主導権をにぎった闘いであって、60年安保闘争のように全学連を主力とする闘争ではなかったが、両者とも、60年代の左翼運動を代表するもので、その挫折と閉幕を境として、大衆運動は一時的にほとんど全面的に解体状態に入る。日本の現代史の一つの分岐点を象徴する二大闘争だったといえる。

①Françaisフランス語→Le projet de loi sur la prévention政治的暴力行為防止法案Political violence prevention bill de la violence politique est un projet de loi visant à prévenir les actes terroristes . L'abréviation est le projet de loi sur la défense②On 12 October 1960, Inejirō Asanuma (浅沼 稲次郎, Asanuma Inejirō)아사누마 이네지로 암살 사浅沼稲次郎暗殺事件Assassinat d'Inejirō Asanuma, chairman of the Japan Socialist Party, was assassinated at Hibiya Public Hall in Tokyo. During a televised debate, a 17-year-old right-wing ultranationalist named Otoya Yamaguchi charged onto the stage and fatally stabbed Asanuma with a wakizashi(a type of traditional short sword).
政暴法粉砕闘争
60年安保闘争の敗北によるブントの解体を経て、61年以降、全学連中央委は革共同全国委の学生組織「マル学同」-「日本マルクス主義学生同盟」の独占するところとなる。同年4月の、全学連第27回中央委員会で誕生したそのマル学同全学連が最初に取り組んだ闘争が、「政暴法」(政治的暴力行為防止法案)粉砕闘争だった。
政暴法は、60年に起こった右翼による浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件以来相ついだテロ事件をきっかけとして、自民、社会、民社三党が、61年5月の国会で超党派でテロ対策立法を行なおうとしたことが、そのきっかけである。しかし、左右を問わず集団暴力の取締まりをはかろうとする社会党側との意見調整がつかず、自民、民社両党は「政暴法」を、社会党は「テロ行為処罰法案」を提出した。自民、民社両党案の政暴法が、会期中の国会や首相官邸への侵入行為なども違憲行為と規定し、団体の規制をうたっているため、社会党、総評はこれに対して反対闘争に立ち上がったのだった。
①Deutschドイツ語⇒Die Japan Marukusu Shugi Gakusei Domeiマルクス主義学生同盟 ist eine Studentenorganisation , die dem Nationalkomitee der Revolutionären Kommunistischen Liga ( Kuroda - Honda - Fraktion , gegründet 1959 ) angegliedert ist②Русскийロシア語⇒Партия демократического социализма (яп. 民主社会党 Minshu Shakai-tō, Минсю сякайто:) — существовавшая в 1960—1994 годах политическая партия в Японии, находившаяся на правом фланге социал-демократического движения③Hrvatskiクロアチア語⇒Inejiro Asanuma (浅沼 稲次郎, Asanuma Inejirō) (Mikaye-jima, Japansko Carstvo, 27. prosinca 1898. – Tokyo, Japan(東京都出身),12. listopada 1960.), bio je japanski političar i ugledan govornik, te predsjednik Japanske socijalističke partije.
政府側は5月13日、政暴法を国会に上程、6月2日、衆院法務委で社会党議員のいない間に、自民、民社両党だけで採決を決行。翌3日の本会議で、議長が議長席につかないまま同法案を上程、可決した。政府側は参議院でも8日の最終日に強行採決しようとしたが、議長斡旋案を各党が受諾する形で最終審議となった。
全学連は、政暴法上程とともに「非常措置宣言」を出して全国に総決起を呼びかけ、5,6日にかけ、最高動員2000人の波状デモを行ない、約60人の逮捕者を出した。
総評も6月3~6日の国会上程時を中心に全国統一行動の緊急動員を行なって、国会などへの請願デモを行なった。
同法案は、62年4月、政府、自民党側が廃棄を決めた。

学生運動の分裂状況
61年5,6月をピークとする政暴法粉砕闘争の終結後の7月、全学連第17回大会が開かれた。
この大会を前に、反「マル学同」系の「社学同」(社会主義学学生同盟、ブントの流れをくむ学生組織)、「革共同関西派」、「社青同」(社会主義青年同盟、社会党の青年組織)は、革共同全国委=マル学同のセクト主義、イデオロギー主義的な学生運動に反対し、大衆的な学生運動の結集をはかろうとした。飯田橋のつるや旅館に集まって、対策を打ち合わせたことから、この三派は”つるや連合”と呼ばれた。
同年8月からの全学連大会では、主流のマル学同とこの反主流三派が、はじめから激突、角材による”内ゲバ事件”も起こった。反主流派は主流派の議事運営に反発して大会をボイコット、革共同全国委ーマル学同系の単独大会となって、中執の席を完全に占めることとなった。親中核派最高幹部の北小路敏が新委員長となり、「反帝・反スタ」の急進的な運動方針を前面に打ち出し、党派色がいっそう鮮明となった。この革共同=マル学同の理論的指導者は黒田寛一であった。
①Polskiポーランド語⇒Frakcja Rdzeń (jap. 中核派 Chūkaku-ha) 혁명적공산주의자동맹 전국위원회革命的共産主義者全国委員会– japońska zmilitaryzowana organizacja skrajnej lewicy②Русскийロシア語⇒Канъити Курода (яп. 黒田寛一 Курода Канъити(東京都出身), 20 октября 1927 года — 26 июня 2006 года) — японский философ-марксист и общественно-политический деятель, родился в семье медиков.
ここで、革共同についてもう一度ふれれば、56年10月、『反逆者グループの宣言』を出した山西英一、太田竜らによって『日本トロツキスト連盟』がつくられ(57年1月)、世界革命、永続革命のトロツキズムの日本における実践をめざした。日本トロツキスト連盟(Françaisフランス語→La Fédération trotskyste japonaise (日本トロッキスト聯盟?) est une organisation de gauche japonaise se réclamant du trotskisme et ayant existé de janvier à décembre 1957, date à laquelle elle devient la Ligue communiste révolutionnaire du Japon (LCRJ))は、学生・青年へのアピールをねらって57年12月、「日本革命的共産主義者同盟Ligue communiste révolutionnaire (Japon)」(革共同)と改称するが、革命路線をめぐる意見の対立から分裂、その学生活動家の多くがブントに走ったこともあって、組織的に壊滅状態となった。
①山西 英一Eiichi Yamanishi(やまにし えいいちЭйити Яманиши、1899年6月5日 - 1984年6月22日)は、日本のトロツキスト革命家троттист- революционер 、翻訳家Japanese translator。美学専攻。人物{静岡県出身。広島高等師範学校卒業。ドイツDeutschland留学中にレオン・トロツキーЛев Троцкийに出会い、日本にトロツキズムを紹介しトロツキストとして活動、翻訳を行う一方、ノーマン・メイラーNorman Kingsley Mailerのほぼ全作品を翻訳し、1950年『裸者と死者The Naked and the Dead』が猥褻文書の疑いで警察の捜索を受ける。ほかエーリヒ・マリア・レマルクErich Maria Remarque、探偵小説などを翻訳した②Ryū Ōta (太田 竜Рю Ота , Japanese: Ōta Ryū(千葉県出身), 16 August 1930 – 19 May 2009[1]) was a Japanese New Left extremist, author, and ecologist. His name is spelled "Ryu Ohta" as well.
しかし、60年安保闘争敗北後、こんどはブントの活動家が革共同へと逆流し、その学生組織であるマル学同が全学連中執も握るにいたったのである。だが、これによって、反主流派の最大部隊だった社学同系は、組織再建へ動き出し、大会から排除された共産党の「全日連」は『全学連再建協議会』を結成した。
こうして、第17回大会を機に全学連は完全な分裂状態となり、学生運動は、”マル学同全学連”、”反マル学同三派連合”、および、”共産党系”の三潮流となった。
ここで付記すれば、共産党内の学生活動家の一部は、61年の同党第8回大会を機に党を離れ、構改派ー構造改革派を誕生させていた。共産党の反米・民族民生革命路線に対し、復活しつつあった日本の独占資本を主要な敵とする考え方を打ち出して生まれたものだが、その後、構改派は反日共という共通の立場で、社学同、社青同らと、つかず離れずの関係で活動した。
この分裂と混乱の過程で、旧ブント系活動家は、有名無実化した社学同の再建をめざして活動を始め、61年8月、東大、早大、明大、中央大などの活動家が「社学同東京委員会」を再建、機関誌『希望』を創刊。同年12月には、社学同再建準備委員会で、『SECT No. 6』を創刊した。62年4月には、この社学同再建を軸にして、社学同、社青同、構改派による反マル学同三派連合もつくられた。しかも、その後、社学同は分裂と統合を繰り返し、マル戦派、ML派などの流派が生まれる。

改憲阻止闘争・大管法闘争
これらの学生組織の内部的混乱の中で、1962年に入り、学生戦線はじめ大衆運動は、政暴法闘争から改憲、日韓条約、大管法反対闘争へと移っていた。
この時期、政府が、全国各地で憲法公聴会を開いたことに対し、これを改憲の動きとみて、同年9月を中心に公聴会阻止闘争が展開された。同月15日、社学同、マル学同、構改派などの約700人が九段会館に集まり、公聴会会場の永田町健保会館をめざしてデモ行進、途中、平河町付近で警官隊と衝突し、13人の逮捕者を出すなど、警官隊との衝突が繰り返された。

①A constitutional amendment개헌(改憲Révision constitutionnelle) 또는 헌법 개정(憲法改正)Конституційна поправка is a modification of the constitution of a polity, organization or other type of entity. Amendments are often interwoven into the relevant sections of an existing constitution, directly altering the text. Conversely, they can be appended to the constitution as supplemental additions (codicils), thus changing the frame of government without altering the existing text of the document②Deutschドイツ語⇒Der Grundlagenvertrag zwischen Japan und der Republik Korea대한민국과 일본국간의 기본관계에 관한 조약(大韓民國-日本國間-基本關係-關-條約) Treaty on Basic Relations between Japan and the Republic of Korea또는 한일기본조약(韓日基本條約)Базовый договор об отношениях между Японией и Кореей, auch Grundlagenvertrag zwischen der Republik Korea und Japan genannt, wurde am 22. Juni 1965 in Tokio unterzeichnet, um diplomatische Beziehungen zwischen Japan und der Republik Korea (Südkorea) herzustellen. Nach der Ratifizierung durch beide Staaten trat er am 18. Dezember 1965 in Kraft.
また、その年5月、池田内閣が当時の大学管理制度の再検討を言明したことから、大管法反対闘争のデモ、集会が盛り上がった。池田首相の言明により、政府、自民党は61年の中教審の中間答申、62年の答申完了を待って具体的に法案の反対の作成に着手した。これに抗議して11月1日、三派連合は全国ゼネストに突入し、東大駒場の1500人を中心に2500人が清水谷公園に結集、5人の逮捕者を出しながらも文部省までデモ行進した。
こうして、闘争は徐々に高揚をみせながら、11月20日、三派連合にマル学同を加えた四派による「全都統一学生自治代表会議」が開かれ、4月30日には統一行動が学校当局の警告にもかかわらず、東大安田講堂前広場で実現した。これが、6000人結集のいわゆる”銀杏並木集会”である。こうして、大管法闘争は安保闘争以来最大の盛り上がりをみせた。このため、政府はついに翌年1月25日の閣議で「大管法案提出見送り」という池田報告を了承した。
*Русскийロシア語⇒Аудитория Ясуда (яп. 安田講堂 ясуда ко:до:) Auditorium Yasuda야스다 강당Yasuda Auditorium— здание и часовая башня, занимающая центральное место в кампусе Хонго Токийского университета и служащая его главным символом.
日韓条約阻止闘争
さらに1963年に入り、日韓両国で具体的な動きが進んでいた日韓条約の阻止闘争が盛り上がった。63年から65年にかけて展開された日韓条約阻止闘争は、”70年代闘争”の序曲として特筆することができる。
日韓国交回復のための日韓会談は、1951年10月、当時の連合軍総司令官が在日朝鮮人の国籍問題について韓国政府と話し合うようにという要請を行なったことによって予備会談が始まり、52年2月から4月までの第一次会談で基本関係、請求権、漁業問題について最初の話し合いが行なわれてから、61年までに六次にわたる会談がつづけられていた。
*Русскийロシア語⇒Корейцы в Японии (яп. 在日韓国人재일 한국인Koreanische Minderheit in Japan在日本朝鮮人Les Zainichi朝鮮人 дзайнити канкокудзин)Koreans in Japan включают этнических корейцев, которые имеют статус постоянного жителя в Японии или которые стали гражданами Японии и чья иммиграция в Японию произошла до 1945 года или которые являются потомками этих иммигрантов. Это отдельная группа граждан Кореи, которые эмигрировали в Японию после окончания Второй мировой войны и раздела Кореи.
63年、韓国軍事政権の内紛が表面化し、さらに韓国内の食糧事情悪化などで政情不安となり、日韓会談も停滞気味となったが、同年10月、韓国の大統領選挙で朴正煕が当選、軍事政権が民政に移管された。しかし、韓国内では学生を中心とする日韓会談反対勢力が反政府運動を展開、再び政情不安に陥った。


①The third Republic of South Korea대한민국 제3공화국(大韓民國第三共和國Третья республика Южной Кореи) was the government of South Korea from December 1963 to November 1972. The Third Republic was founded on the dissolution of the Supreme Council for National Reconstruction that overthrew the Second Republic and established a military government in May 1961. Park Chung-hee, the Chairman of the Supreme Council, was elected President of South Korea in the 1963 presidential election②Беларускаяベラルーシ語⇒Пак Чон Xі (кар.: 박정희, 朴正熙Park Chung-hee, [paktɕ͈ʌŋhi]; 30 верасня 1917, в. Сангмары, прав. Паўночны Кёнсан, Карэя, Японія — 26 кастрычніка 1979, Сеул, Паўднёвая Карэя) — ваенны і дзяржаўны дзеяч Рэспублікі Карэя. Генерал-маёр (1961)
これに呼応する形で、3月には日本でもマル学同系全学連による反対デモが行なわれ、ついで64年には、1月から5月にかけ、金鍾泌首相の訪日阻止を中心に、大規模な集会やデモが共産党系の平民学連やマル学同系全学連の主催で繰り返された。
*Українськаウクライナ語⇒Кім Джон Пхіль (кор. 김종필, 金鍾泌, Gim Jong-pil, Kim Chongp'il; 7 січня 1926 — 23 червня 2018) — корейський військовик, державний і політичний діяч, засновник Корейського центрального розвідувального управління двічі займав пост прем'єр-міністра Республіки Корея.
そして、第七次会議が開かれ、日韓条約が国会で採決された65年、闘争はもっとも高揚した。同年2月、日韓条約調印のため訪韓する椎名外相の訪韓阻止のため、東大、法政大、早大のマル学同系学生約600人を中心として羽田空港周辺で大規模なデモが行なわれ、5月にも、共産党系、反共産党系がデモを繰り広げた。そして、闘争は、9~10月、国会での批准を前にピークを迎える。
*시나 에쓰사부로(일본어: 椎名悦三郎Shiina Etsusaburō(岩手県出身), 1898년 1월 16일 ~ 1979년 9월 30일)는 일본의 관료이자 정치인이다.

10・29日韓批准阻止全国学生統一行動では、全国二十数か所で集会、デモが行なわれ、東京では、三派、革マルなど反共産党系の約4500人が日比谷野外音楽堂に集まった。その翌日30日には、社会党系の「全国実行委員会」主催の集会にも、約3000人が参加し、激しい抗議行動を行なった。さらに、11月5日には、東京、大阪、京都を中心として、総評、反戦青年委員会主催の総決起集会にも参加、国会周辺に座り込んだり、議員面会所に突入をはかるなどして、安保闘争以来の国会周辺での反対運動の高まりをみせた。

*일본혁명적공산주의자동맹 혁명적마르크스주의파(일본어: 日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派니혼카쿠메이테키쿄산슈기샤도메이카쿠메이테키마루쿠스슈기하, 영어: Japan Revolutionary Communist League (Revolutionary Marxist faction)), 약칭 혁공동 혁마르파(革共同・革マル派), 통칭 혁마르파(革マル派)는 혁공동계 일본 신좌파 정파다.
このような状況のなかで、日韓条約は10月11日、衆院で議長裁決という前例のない手段で、起立多数で採決、参院でも、12月11日、自民、民社両党議員だけで採決した。この自民党の強行採決に対して、三派、革マル、構改などの反共産党系諸派は、3000あるいは4000人を集めて社共集会に参加するなどして闘争を展開したが、その後は下降の一途をたどり、12月17日の椎名訪韓阻止闘争を最後に終焉した。
しかし、この三年間にわたる日韓闘争は、60年代安保闘争以来の四分五裂状態にあった反共産党系全学連の勢力拡大、態勢整備の面で大きな役割を果たした。

原潜寄港反対闘争
日韓条約反対闘争について、学生戦線が60年安保闘争の挫折から立ち上りをみせた闘争として、池田首相が決定した、「ポラリス原子力潜水艦日本寄港」に対する反対闘争があった。
UGM-27 ポラリス폴라리스PolarisUGM-27 «Поларис»は、冷戦期にロッキード社が開発したアメリカ海軍の潜水艦発射弾道ミサイル。2段式であり、固体推進ロケットを使用し、核弾頭を搭載した。
64年9月27日、横須賀で開かれた社会党、総評共催の現地寄港阻止統一行動には7万人が参加したが、これに各派も2000人が結集し、警官隊と衝突した。10月19日、反共産党系の500人が参集して原潜全自代が開かれて10・29ゼネストを決定。東京では東工大、教育大がストライキをはじめ、清水谷公園には3500人が集まって集会、デモを展開、大蔵省前の座り込みでは12人の逮捕者を出した。関西でも、立命館、同志社大などがストライキを決行、京都で1500人、大阪で1000人の集会、デモが行なわれた。
その後、11月12日の横須賀入港を前に闘争が波状的に展開され、10月5日、同7日の東京、横須賀の集会には、千数百人が参加、入港前日の11日には2000人が、そして入港当日にはそれを上回るデモ隊が、東京日比谷で無届集会のあと外務省めざしてデモ、数度にわたって警官隊と衝突した。関西でも、神戸で5300人が集まって関西学生総決起集会が開かれ、また西日本の佐世保でも300人の学生が基地ロータリーに座り込むなど、反対闘争が久しぶりの全国的な高揚をみせた。

6-”三派全学連”の時代
”三つの全学連”の誕生
安保闘争の終息後、運動の低迷がつづくなかで、1963年4月、革共同は、革命党の建設優先を主張する「革マル派」-革命的マルクス主義派と、大衆闘争を重視する「中核派」-前進派に分裂、その学生組織であるマル学同も両派に分かれる。統一行動、実力闘争のあり方をめぐる論争の、抜き差しならぬ決着であった。この分派による革命理論の相違、革共同内の主導権争いが、現在もつづいている”内ゲバ”などの深刻な原因となったのである。
一方、中核、革マル両派とは別に、日本トロツキスト連盟からの流れをもつ「Четвёртый интернационал第四インターFourth International」日本支部が、65年3月、国際組織の統一書記局(本部パリ)から正式に承認された。第四インターは四分五裂の経過を経て、70年代闘争を機に再編され、成田闘争でもその力をみせるなど、次第に注目を集めた。
*Françaisフランス語→La Ligue communiste révolutionnaire du Japon (Quatrième Internationale) (日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)일본혁명적공산주의자동맹 (제4인터내셔널 일본지부)), était un parti issu de la Nouvelle Gauche. Issu de la Ligue communiste révolutionnaire du Japon, formée en 1956, elle a repris ce nom en 2002.
ブントの解体、革共同主流の中核、革マル両派への分裂などの事態によって、学生戦線は組織的混乱、低迷状態がなおしばらくつづく。全学連は64年末まで革マル派の独占時代となるが、一方、共産党。民青系は、62年8月に組織した「平民学連」-平和と民主主義を守る全国学生会議を基盤として全国大学自治会の再組織化に乗り出し、64年には全学連を再建、さらに66年9月1日には、分裂、抗争をつづけてきたブント・マル戦派と、統一派が合流し、「第二次ブント」が結成された。そして同年12月17日から、中核派とブントの学生組織である社学同、社青解放派によって、「三派全学連」が結成された。この大会には、全国35大学、71自治会、1800人が参加、”三つの全学連”時代に入ったのである。
この三派全学連は、はじめ委員長をにぎったブント・社学同系が主導権をとるかにみえたが、明大の学費値上げ闘争での大学側と自治会側のボス交に、斉藤克彦委員長が関与していた責任を問われて罷免され、かわって中核派の秋山勝行が委員長に就任、もともと三派連合の推進役だった中核派が主導権をにぎることとなった。
この三派全学連の構成組織の一つである社青同解放派は、社会党が60年安保闘争や三池闘争後、党の若返りのため学生・青年のエネルギーを集めようと結成した社青同のなかのラジカルな部分が、65年3月結成したもので、その政治組織として「革労協」-革命的労働者協会(67年10月)、学生組織として「反帝学評」(同年12月)も生まれた。その65年には、この学生組織の再編と、戦闘的組織化の動きと合わせ、闘う労働者の組織として「反戦青年委員会」も結成されていた。
相次ぐ学費値上げ反対闘争
65年以降のChiến tranh Việt Nam/戰爭越南ベトナム戦争Vietnam Warの激化、日韓条約調印などの国際・国内情勢の変化をとらえて、三つの全学連は、砂川闘争、佐藤首相訪南ベトナム阻止の羽田闘争、佐世保での米原子力空母エンタープライズUSS Enterprise, CVAN/CVN-65入港阻止闘争などの一連の反対闘争に、それぞれ激しい運動を展開するが、この時期、慶大、早大、高崎経済大などで、激しい学園闘争も起こっている。
*Українськаウクライナ語⇒Сато́ Ейса́ку (яп. 佐藤榮作, さとう えいさく(山口県出身); нар. 27 березня 1901 — пом. 3 червня 1975) — японський політичний і державний діяч, дипломат.
学園闘争の幕を切っておとしたのは、65年1月から起こった慶大の学費値上げ反対闘争であった。この闘争は、直接の原因は学費値上げに対する反対であったが、実態はマスプロ教育に対する大学改革闘争であった。
東大につづいて、翌66年1月から3月にかけて横浜国大で学部の名称変更に反対する紛争が起こり、学生がキャンパスを占拠、教職員を排除して学生の自主管理を約一ヶ月余りにわたって強行した。その自主管理下のキャンバスでは、学生自治会が編成した自主カリキュラムによる学習が進められるという、画期的なものとなった。
その他、長崎大、同志社大、山形大、東京農大、東北大などで学生会館、寮、自衛隊説明会、総長選挙、不正入学など、さまざまな問題をとらえて闘争が展開された。その数は実に全国で65校におよんだ。
これらは、単に一つ一つの問題に対する学生の不満の爆発といったものではなく、マスプロ化した大学の”学生収奪体制”に対する本質的な抗議闘争の性格をもっていた。そのなかで、とくに注目されるものに、横浜国大紛争と相前後して起こった早大の学費値上げ反対・学生会館管理運営反対闘争があった。
65年12月からはじまったこの闘争は、約五ヶ月にわたって展開され、66年1月下旬には全学ストライキに突入、連日約5000人の学生が抗議集会を開いた。その際の大学本部占拠に対して警官隊が導入され、203人もの大量逮捕者を出した。さらに、大学側は四十数人の処分を強行する。学生側の運動は長期化するなかでついに敗北するが、大浜信泉総長を退陣に追い込んだ大規模なものだった。この長期の闘争は、反共産党系各派が共闘会議を結成して貫徹したもので、150日間もの闘争は、大学闘争に対する社会的関心を集めた。
慶大、横浜国大、早大とつづいた65年からの闘争は、結果的には大学当局に深刻なダメージを与えはしたが、学生の要求は実現できず、敗北に終った。しかし、66年末からはじまった中央大の学費値上げ反対闘争は、社学同の指導によって最終的に大学側に白紙撤回を認めさせ学生側が勝利を獲得した。学生が勝利を得た最初の大学闘争としての意義をもつもので、大学闘争に対する学生の闘志に拍車をかけた。そして、これらの一連の全国的な大学闘争によって、学生各派の勢力は、飛躍的に増大することとなった。

第二次砂川闘争の高揚
新しい戦闘的学生組織として誕生した三派全学連は、砂川基地拡大阻止闘争を、その闘いの第一歩として踏み出した。この闘争で、三派全学連は、反戦青年委員会とともに、60年安保闘争以来、はじめて独自の集会、デモを行なった。2・26闘争につづく5・26都内デモは、申請コースを拒否して都心に向かおうとしたデモ隊を機動隊が”サンドイッチ”、11人が逮捕された。
砂川現地での5・28総決起集会は、地元反対同盟に三派全学連・反戦青年委約3000人のグループと、3万人の共産党グループ、そして250人の革マル派全学連の、分裂集会となった。全学連=反戦委部隊は、激しいジグザグ行進で、機動隊と基地ゲート前で衝突するなどした。7・9闘争では、降りしきる雨のなか、基地ゲート前に座り込んだ3000人の全学連=反戦委部隊に対する機動隊の規制行動で、労働者数人を含む46人が逮捕され、250人が負傷した。
樺美智子が犠牲となった60年安保闘争から7年目を迎えた67年の6・15記念集会は、ブントが全電通会館、中核派が九段会館など、六党派が個別に分裂して都内で開いた。このことは、60年安保闘争を各党派がそれぞれ厳しく総括して、新しい道を独自に切り拓こうとしたことを意味している。
三派全学連は、7月12日から三日間、法政大などに全国44大学、85自治会の1500人の学生を集めて開き、70年闘争の基本方針を討議した。8月に入り、佐藤首相の南ベトナム訪問が10月8日に発表されたことによって、「実力阻止」の強硬方針を打ち出した。そして、その10月8日、学生運動史上、60年安保闘争につぐ衝撃的な戦闘が、再び展開されたのである。これは60年安保闘争後の虚脱状態から、学生戦線がようやく抜け出したことを意味するが、質的な点でまったく前と異なったターニング・ポイントを示したのが、その羽田闘争であった。

”第一次羽田闘争”
佐藤首相は、67年の夏から秋にかけて、韓国、台湾、東南アジア諸国を歴訪し、10月8日のベトナム訪問をその最後の仕上げとして打ち上げていた。その日午後10時25分羽田発の日航特別機で、南ベトナムなどへ第二次東南アジア・太平洋諸国訪問の旅に出発しようとした佐藤首相に対し、その前年正式に発足した三派全学連など各派は、これを全力で阻止する構えをみせた。
当日早朝、まず前夜から中央大に泊り込んでいた社学同、解放派系の学生900人が、全員ヘルメットと角材で武装、国電お茶の水駅から羽田へと向かった。午前8時、京浜急行大森海岸駅で下車した部隊は、柵を乗り越えて鈴ヶ森ランプへ進撃、機動隊の阻止を突破して空港へと向かった。そして、穴守橋付近で萩中公園からデモして来た反戦青年委グループと合流、同橋を固める機動隊と衝突して、角材、投石でぶつかってゆき、これに対し機動隊は激しい放水で防戦した。
穴守橋下流の稲荷橋では、早大から来た400人の革マル派が、機動隊と衝突を繰り返していた。両橋上で警察の警備車が炎上する煙が、遠くからみえるほど高く上った。
一方、結集していた萩中公園から直線道路を突進して来た千人の中核派が、弁天橋から迎えうって出て来た200人の警官隊を、勢いのままに完全に圧倒して四散させ、弁天橋を固める警官隊と対峙していた。角材と投石で進んで来る学生たちを阻止し、放水車で追い返そうとする警官隊、その激しい放水で川の中へたたき落とされる学生も多数出た。
その間10時半過ぎ、佐藤首相の乗った特別機は、羽田空港を飛び立った。学生たちの攻撃に一台の警備車の警官がキーを残したまま逃げ、学生がその車に乗り込んでバックして他の警備車を押しのけようと突進させた。その周辺で乱闘していた学生や警官が、危険を避けて川の中に自分から飛び込んで難を逃れる。学生の乗った警備車は、前進して速度をつけてバックし、他の警備車や放水車にぶつかってゆく。その運転席に、ものすごい放水車からの水、運転席の学生がマイクで叫ぶ、「こちらは全学連主流派、すべての学友はこの車につづいて空港の中へ進撃して下さい」。その声に、周囲のビルの上や道に群がったヤジ馬の間から拍手が上がった。
その後、一瞬、橋上の学生と警官隊の乱闘がやんだ。「誰か死んだ」の声がヤジ馬の間にもひろがった。午前11時25分、京大生・山崎博昭の死亡であった。

*Hiroaki Yamazaki山崎 博昭 (Yamazaki Hiroaki(高知県出身), November 12, 1948 - October 8, 1967 ) is a Japanese student activist. He is known as a student who died in the first Haneda case.
この死に対し、警察側は、学生の運転する警備車がひいたとした。しかし、学生、弁護側は、死因は警棒でばぐりつけられたためで、警備車にひかれたものではないと、解剖所見などをもとに反論した。その結論は対立したままで、警官隊になぐられて倒れるなどしたあと、警備車にひかれたとする見方も出ている。警察側は、山崎がひかれた警備車を運転していたとして、日大生二人を別件の公務執行妨害、傷害容疑で逮捕したが、結局、不起訴となった。
山崎の死の疑問は、いまだ解明されていないが、60年安保闘争の樺美智子につぐ、政治闘争史上の尊い青春の犠牲であった。この山崎の死で激しい学生と警官隊の衝突は一時静まり、正午すぎ、萩中公園で開かれた抗議集会は、一分間の黙祷を捧げたのち、「インターナショナル」を合唱、再び空港突入をはかって警官隊と衝突した。
しかし、警官隊の力の前に、ついに全学連学生は後退し、萩中公園に集まって解散した。この間の衝突で、山崎の死のほか、重軽傷者600人以上、逮捕者58人が出た。
この”第一次羽田闘争”には、構改派の学生300人も、社会文化会館に泊り込んだのち、現場へ向かって闘争に参加したが、共産党系全学連は組織として参加せず、共産党がこの日、多摩湖畔で行なった「赤旗祭り」に参加、羽田へは民青の代表数人が形式的に行なっただけだった。また、羽田闘争を前に、すでに中核派と、社学同、社青同解放派などの反中核派グループとの間にあったあつれきが、同闘争後表面化し、山崎の追悼葬をめぐって「山崎虐殺抗議のカンパニア国民葬」を主張する中核派と、「闘う人民葬」をとなえる反中核派グループの対立が起こった。その混乱の中で「10・17虐殺抗議、山崎君追悼中央葬」が、日比谷野外音楽堂に全学連、反戦青年委員会の六千人を集めて開催された。
*Françaisフランス語→Le Festival Akahata赤旗祭り est un festival Akahata à usage général parrainé par le Parti communiste japonais .
いずれにしても、山崎の死は、60年安保闘争での樺美智子と同じく、反権力闘争における歴史的な犠牲である。両者とも、権力側は、衝突の中での偶発的な死と主張するが、権力側の反権力闘争に対する弾圧が生んだ犠牲であることは間違いない。しかし、羽田闘争での山崎の死に際しては、60年安保闘争での樺美智子に対するように、広範な同情と共感を呼び起こすという様相を呈さなかった。60年安保闘争時と比べての学生運動の孤立化、先鋭化の影響をそこにみることができる。そのことに対しては、学生層を孤立に追い込んだ、既成左翼など革新陣営の責任と指弾する声が強く、その事実を否定することはできない。

運動のターニング・ポイント
この第一次羽田闘争につづいて、同年11月12日、”第二次羽田ー佐藤首相訪米阻止闘争”が起こる。三派全学連3000人が、羽田空港近くの大鳥居、羽田産業道路付近で機動隊と衝突、羽田付近に到着した反中核派連合は、丸太をかかえた”決死隊”を先頭に機動隊の阻止線を突破、激突を繰り返した。革マル派も、東粕谷中学校に結集、穴守橋に向かったが、機動隊のサンドイッチ規制で、平和島まで引き返した。さらに、反戦青年委員会主催の決起集会も、日比谷野外音楽堂に5000人を集めて行なわれた。
この三派全学連など学生党派の羽田闘争は、”革命的左翼誕生の日”として歴史的に特筆され、学生・新左翼運動が質的に大きく転換するターニング・ポイントとなった点で、重要な意味をもつ。「10・8」の言葉が、学生運動、左翼運動の一つの境を象徴して用いられるのは、そのためである。
その第一は、60年安保闘争のように、社会党・共産党などの統一戦線の一翼としての闘争ではなく、三派全学連を中心として反戦青年委員会、べ平連などの新左翼潮流が表面に出、とくに、組織的に行動したのは学生だけであり、学生戦線が既成左翼、労働者戦線と一線を画して、独自の”革命的左翼”の道を歩み出したことである。
①The Anti-War Youth Committee反戦青年委員会 is a popular group of Japanese youth workers who mainly oppose the Vietnam War . The official name is " Anti-War Youth Committee to Oppose the Vietnam War and Prevent Ratification between Japan and South Koreaベトナム戦争反対・日韓批准阻止のための反戦青年委員会."

②Русскийロシア語⇒Beheiren (ベ平連Beheiren, сокращение отThe Citizen's League for Peace in Vietnamベトナムに平和を!市民連合Liên hiệp Thị dân vì Hòa bình ở Việt Nam베트남에 평화를! 시민연합, Betonamu ni Heiwa o! Shimin Rengo, «Гражданская лига мира во Вьетнаме») была японской группой активистов, существовавшей с 1965 по 1974 год. Как коалиция нескольких сотен антивоенных группировок она протестовала против помощи Японии Соединённым Штатам Америки во время войны во Вьетнаме
第二は、石や角材といった闘争の”武器”がはじめて最初から用意されて登場し、暴力革命における武装と軍事の問題を、理論から実践に移したことである。それまでも米原潜寄港阻止闘争や砂川闘争などで、石や旗ザオが警官隊との衝突の際、用いられたことはあったが、それは追いつめられての抵抗の手段としてであり、権力への攻撃の武器としてあらかじめ用意されたのは、この羽田闘争がはじめてであった。
このことについて、三派全学連委員長・秋山勝行は、著者『全学連は何を考えるか』の中で、「闘う者は必ず必要な力を身につける。三池の労働者は60年の闘いの際、右翼の短刀と機動隊の警棒に対して手製のこん棒や鍬の柄で武装して立ち向かった・・・民衆の手から一切の武装の権利を奪い、一手に武力を集中し、独占している権力者に対しては、ただ民衆がその武器を奪いかえし、自ら総武装するよりない」と書いている。

もちろん、このことは権力側の武装の強化との対比関係で考えねばならない。投石よけのプラスチックの面つきヘルメットや、ジェラルミンの大ダテ、のっぺらぼうの装甲車などが機動隊に出現したのは羽田闘争からであり、秋山委員長が書いているように「ヘルメットと角材は、権力の強力な弾圧に耐えて進むための、ほんのささやかな工夫の一つであった」のだろう。ただ、この「武装」も、三派対革マル派に加えて、三派全学連内の中核派対反中核グループの暴力的衝突ー”内ゲバ”に備えるためのものであったことも、付記されねばならない。
この党派間の対立は、羽田闘争の評価をめぐっても現われた。中核派、ブント・社学同、ML派は、街頭実力闘争を評価し「組織されたプロレタリア国際主義の前進」(社学同)「武装することによって七ヶ月の激動を勝利的に展開し、70年安保闘争を切りひらいた」(中核派)などに総括した。一方、革マル派、構改諸派は「街頭実力闘争は小ブル急進主義」とし、組織的力量を蓄えていくことの方が重要であると主張した。また、社青同解放派は「いったん持ったゲバ権を二度と手放そうとしないのは誤りである。問題は街頭のエネルギーを生産点に還流し、労働者と結合していくことが必要」と総括していた。
①共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派Communist League Marxism-Leninist(きょうさんしゅぎしゃどうめいマルクス・レーニンしゅぎは、略称:ML派)は、共産同系の日本の新左翼党派②Françaisフランス語→La Fraction Libération, de son nom complet Conférence Nationale des étudiants anti-impérialistes社青同解放派 ( Fraction Libération de l'Alliance des Jeunes Socialistes사청동 해방파 ) (Shaseidōkaihōha, abrégé Kaihō-ha), est une organisation de la Nouvelle gauche japonaise formée entre 1965 et 1971. Son organisation politique centrale était l'Association des travailleurs révolutionnaires (Kakurōkyō).

佐世保・エンプラ阻止闘争
羽田闘争につぐ歴史的な闘争が、佐世保での”米原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争”であった。
この問題は、67年9月、「原子力空母エンタープライズ等の原子力艦船を乗務員の休養および艦艇の兵站、補給の目的のため、日本に寄港させたい」との申し入れが、オズボーンDavid Osborn駐日公使から外務省にあったことにはじまる。
それまでもエンタープライズの日本寄港については、非公式に日本側への意向打診があったが、同艦がベトナム水域での作戦に従事していたことから、政府は野党の反対や国内世論を考慮して、延期を要請していた。しかし、政府はオズボーン公使の正式申し入れに対し、「わが国、とくに寄港地周辺住民の安全に支障のないものと判断する」との原子力委員会の見解をふまえ、12月2日、閣議でエンタープライズ等米原子力艦船の日本寄港を了解、革新系などの反対行動を考え、当初予定の横須賀を避け、遠く佐世保を寄港地に決定した。
この決定に、同月9月には「エンプラ寄港阻止1・17実行委」が発足、羽田闘争以来決起の機会をうかがっていた中核派を中心とする三派全学連は、12日、東京・清水谷公園で集会を開いて日比谷までデモ、反対行動の口火を切った。
寄港阻止闘争は、佐世保寄港の1月17日をヤマに、全学連各派を中心に、反戦青年委員会、労組、市民団体など広範な規模で展開されるが、その佐世保での現地闘争前の同月15日、現地に向かうため法政大を出発した中核派の約200人が、飯田橋駅に向かう途中、機動隊に阻止され、131人が公務執行妨害、凶器準備集合罪などで逮捕され、翌16日には、博多駅でも乗客整理名目で出動した機動隊が”私物捜査”に抵抗した学生を逮捕するという事態が起こり、「予防検挙」「過剰警備」として問題になった。
17日、佐世保駅にいた学生約800人は、角材とヘルメットで武装、ホームからただちに駅裏側へ出て米軍引き込み線沿いに、米軍基地へ通ずる平瀬橋に直行、橋上をバリケードなどで守る機動隊と衝突した。
機動隊はガス弾と放水で学生部隊に反撃したが、その後、学生部隊の後方から機動隊が襲い、学生たちに警棒の雨を降らせた。機動隊の実力行使は、逃げる学生ばかりでなく、新聞記者、市民にまで及び、この機動隊の過剰な暴力に周囲の非難の声が巻き起こった。
18日、社会党、総評系の「原子力艦隊寄港阻止全国実行委」と、共産党系の「安保破棄諸要求委員会中央実行委」共催の五万人集会が、市営球場で開かれた。共産党側は、共産党系が全学連学生などで出入口にスクラムを組ませ、三派全学連学生の入場を阻もうとしたが、反戦青年委員会の拍手に迎えられて入場、一角に陣取った。
集会後、三派全学連は、社共などの本体を抜いてデモの先頭に躍り出、再度基地への突入をめざして、機動隊が固める佐世保橋に突進した。学生側は、投石や竹ザオで機動隊のカベを破ろうと試みたが、警察側は催涙ガス入りの放水、さらにガス弾でこれを撃退しようとし、激突が繰り返された。
その場にさしかかった社共のデモ隊は、予定したコースを変更、現場を避けて行進したが、三方から機動隊が本格的な規制に乗り出したとき、反戦青年委員会の労組員などがデモ隊から離れて学生部隊の後ろにくっつき、”援護”する形をとった。結局、機動隊の実力行使に散らされる結果とはなったが、これによって機動隊の前日のような暴力をある程度防ぐこととなり、負傷者数も前日の百数十人に対し、二十数人となった。さらに、周辺にいた市民などの群衆も、学生部隊に暴行を浴びせる機動隊を非難し、あるいは積極的な抗議行動に出て、デモ隊がすべて引き揚げた午後7時ごろ、1000人以上の市民が橋上のバリケードを撤去、橋を渡るという状況まで起こした。
エンタープライズは、19日午後11時すぎ佐世保港に入港、この日も三派全学連は機動隊と佐世保橋で衝突、23日のエンプラの出港まで連日闘争をつづけた。この間、東京でも、17日に日比谷外音楽堂で三派全学連、革マル派、反戦青年委など13団体共催の総決起集会が開かれ、約一万人が参加して60年安保闘争以来の高まりをみせた。21日まで集会はつづき、その間、外務省への突入、首相官邸、アメリカ大使館へのデモ、横須賀基地での機動隊との衝突など、佐世保の現地同様、反対闘争が繰り広げられた。
エンプラをめぐる佐世保の激闘の1週間は、阻止闘争参加者延べ64700人、うち三派全学連など学生約4000人、負傷者519人、逮捕者69人、うち学生64人、という記録となった。
佐世保闘争は、全学連学生の孤立した闘いだった67年の羽田闘争にくらべ、労組や市民との連帯、共闘の上に闘われたという点で、もっとも注目されるものである。

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