日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

『資本主義ロシアー模索と混乱』中澤孝之/Capitalist russia-Groping and confusion Takayuki Nakazawa/Капиталистическая Россия Нащупывание и путаница Такаюки Наказава⑥


*ヴァレンチン・セルゲーエヴィチ・パヴロフ(ワレンチン・パブロフ、ロシア語: Валентин Сергеевич Павлов, tr. ヴァリンチーン・スィルギェーイェヴィチ・パーヴラフ、ラテン文字転写の例:Valentin Sergeyevich Pavlov、1937年9月26日 - 2003年3月30日)は、ソビエト連邦の政治家。1991年1月から8月までソ連の首相を務め、ミハイル・ゴルバチョフに対するクーデターを起こした人物の1人であった。

*ニコライ・イワノヴィチ・ルイシコフ(ロシア語: Николай Иванович Рыжков、ラテン文字転写の例:Nikolay Ivanovich Ryzhkov, 1929年9月28日 - )は、ソビエト連邦及びロシアの政治家。ミハイル・ゴルバチョフ時代のソ連閣僚会議議長(首相、在任期間1985年9月27日から1991年1月15日)。ソ連崩壊後は、ロシア連邦議会下院国家会議議員を務めた。
エリツィンなど体制権力側にとっても、これは社会的、政治的安定のために、そして権力の維持と保身のために、願ってもないことだ。自分たちの支持層を広げることになる。『イズべスチヤ』紙の論文はこうした両者の利害の一致で生まれた体制を、「ノメンクラトゥーラ民主主義」とか「ノメンクラトゥーラ資本主義」と呼ぶのである。
今後、資本主義ロシアの政治、経済そして社会を論ずる場合、こうした観点を常に念頭においておくことが必要ではないかと思われる。この国の動きは、これまでのいくつかの経験で十分明らかだ。局外者の独断的な憶測やシナリオ通りには決していかない不透明さがある。「予測不可能」がこの国の、そしてエリツィン政治の特徴の一つであると言われてきた。しかし、資本主義化の根底には、一つの大きな流れがあることが、この論文からうかがうことができるのである。

2 「ボリスよ、お前もか」-エリツィンの政治手法
大統領の脱線
94年9月3日付けの『イズべスチヤ』紙は一面で次のように書いた。「わが何百万の同胞は、恥ではないとしても、非常にきまり悪い思いを味わった」。8月31日にエリツィンが訪問先のベルリンで醜態を演じたことを、現地の記者は三段の記事にまとめた。いつもはエリツィンに好意的な改革派の新聞にしては珍しいことである。
エリツィンはドイツからのロシア軍撤退式典出席のためにベルリンを訪れていた。ヘルツォーク・ドイツ大統領主催の昼食会後、市庁舎入り口で、ロシア大統領歓迎の曲を演奏中のオーケストラにエリツィンは突然割り込み、体をくねくねさせながら指揮棒をもって振り回したのである。また、この指揮の後、今度はマイクを握って、オーケストラの伴奏に合わせてカチューシャか何かの歌を調子外れの声で歌い始めただけではなく、身振り手振りで踊りだした。この模様はテレビで、ロシアはもちろん、全世界に流された。
*ローマン・ヘルツォーク(Roman Herzog、 1934年4月5日 - 2017年1月10日)Роман Хе́рцо は、ドイツの法学者、政治家である。

歓迎昼食会でChampagneシャンパンШампанскоеをしこたまきこしめたのであろう。ほろ酔い気分でマイクの前に立ったエリツィンは挨拶の演説でもロレツが回らず、場内の失笑を買った。演説後、聴衆に拍手を催促したり、ドイツ語で「ダンケシェーンDanke schön」(ありがとう)といったその後で、「グーテンタークGuten Tag」(こんにちは)という言葉が飛び出し、場内は爆笑と拍手に包まれたという。
『イズベスチヤ』紙は「わが国の最高指導者が、その地位にふさわしい行動をとったかどうか議論するのは、これが初めてではない」として、国連総会に出席中に対ソ批判の演説が気に食わないからと机を靴でたたいたフルシチョフや、米国訪問中に米国の俳優(私の記憶では確か、大男のChuck Connorsチャック・コナーズКевин Джозеф Алоизиус «Чак» Коннорсだった)の首にぶら下がり足をばたつかせたブレジネフの例を挙げた。「歴史的な出来事に漫画の付録が今また追加された」(同紙)というわけだ。
「大統領は私人ではない。その一挙手一投足は彼個人だけではなく、われわれや、あなたがたを、そして新しいロシアの政治・文化水準を表すのである」となかなか手厳しい。さらに同紙は、英国議会が公式の歓迎行事などの費用を節約することを決めたことを紹介したうえで、大統領のベルリン訪問に付いて行ったお供があまりにも多すぎたと指摘、国の金の無駄遣いを批判した。「議会内に容易ならぬ反対派がいなくなったことで、大統領周辺にはある種の勝手な行動が生まれているとの印象がある。必要な自己規制、自分自身に対する批判的な見方、とくに12月の選挙で示された大衆の意見を常に考えるような慎重さに欠ける」というのが結論であった。
同じく改革派の新聞として知られている『独立新聞』も、94年第36号で、エリツィンが側近に両手を抱えられて階段を降りる場面と、指揮棒をとって御満悦の写真を掲載した。同紙は「ウラジオストクにでも届けとばかりに」大声を張り上げたエリツィンの歌声を皮肉った。そして編集部のコメントを「西側では主に寛大な皮肉ですんだが、ロシアでは多くの人に、驚愕と恥ずかしさの感情を呼び起こした」と結んでいる。コスチコフ大統領報道官ら側近7人が連名で行状をたしなめる書簡をエリツィンに送ったところ、逆に怒りを買った。この一件が尾を引いて、コスチコフは11月17日、エリツィンによって解任された。彼は大統領と一心同体とみられていた人物である。このほか、9月の訪米の帰途、アイルランドに立ち寄った際に空港でエリツィンは飛行機から降りてこず、レイノルズ首相との昼食会をすっぽかすという不祥事が起きている。寝過ごしたためらしいが、この外交的非礼に「国家の恥」(『イズベスチヤ』紙)と非難の声が上がった。
*アルバート・レイノルズ(Albert Reynolds、1932年11月3日 - 2014年8月21日)Альберт Мартин Рейнольдсは、アイルランドの政治家。1992年から1994年まで首相を務めた。
エリツィンの変身を語るエピソードをもう一つ。94年7月のナポリ・サミットG7-Gipfel in Neapel 1994(先進七カ国首脳会議The 20th G7 Summit)でエリツィンはロシア国民を驚かせた。テレビで中継された祝賀晩餐会に姿を現した大統領が、何と白い蝶ネクタイを締め、СмокингタキシードTuxedo/Black tieを着ていたからだ。ソ連・ロシアの最高指導者としては初めてのことである。「レーニンからゴルバチョフまでソ連の指導者にとって、これはブルジョア根性の最たるものであった。階級への憎悪を育む労働者に対して、雄牛に赤い布を向けるようなものだったからだ」(スクニスラフ・コンドラシェフ政治評論委員)。この「過去との決別の象徴」は、「社会主義から資本主義への移行の象徴」であったとも言えよう。タキシードを着用してナイーナ夫人と出席していた。ついでながら、指導部トップの夫人同伴の外遊は、ゴルバチョフが初めて慣例としたが、エリツィンはかつて、Раиса Максимовна Горбачёваライサ・ゴルバチョフRaisa Maksimovna Gorbachyova夫人が夫とともに公式行事に参加したりして「ファーストレディー」として特別扱いされるのを好むことを、あからさまに皮肉っていたものである。

*ナイーナ・ヨシフォヴナ・エリツィナ(ロシア語: Анастаси́я (Наи́на) Ио́сифовна Е́льцина、ラテン文字表記の例:Naina Iosifovna Yeltsina、1932年3月14日 - )は、ロシア連邦大統領ボリス・エリツィンの夫人。旧姓はギーリナ(Ги́ринаGirina

*10月政変События сентября — октября 1993 года в Москве1993 Russian constitutional crisisじゅうがつせいへんCrise constitutionnelle russeRussische Verfassungskrise 1993は、1993年10月、ロシアの新憲法制定をめぐって当時のボリス・エリツィン大統領と、 Хасбола́ти Имра́ни кIант Руслан/Руслан Хасбулатовルスラン・ハズブラートフRuslan Khasbulatov最高会議議長・アレクサンドル・ルツコイАлександр Руцкой副大統領を中心とする議会派勢力との間で起きた政治抗争である。モスクワ騒乱事件(モスクワそうらんじけん)とも呼ばれる。
エリツィンのスタイル 
エリツィンの政治スタイルはどのようなものであろうか。彼は国内ではポピュリスト(大衆迎合政治家)として振る舞い、西側では民主主義者としてのイメージを積極的に売り込もうとしてきた。しかし、93年10月のホワイトハウス砲撃事件以後とくに、「エリツィンは果たして本当の民主主義者か」という疑問がいつまでも消えない。ホワイトハウスに立てこもった人びとを「ファシスト集団」ときめつけて戦車で攻撃したが、武力抵抗に反対した穏健派議員や中間派もなかにいたのである。一部では、「ロシアの民主化のためには、あれくらいの犠牲はやむを得なかったのではないか」といった極論もあるが、果たしてそうであろうか。首都で140人以上(実際はもっと多いと見られているが、死傷者の最終数字は明確でない)も人が死んだという事実は穏やかではない。仮に東京でこれほどの死者が出たらどうだろうか。1917年の10月ロシア革命でも、首都でこれほどの死者は出なかった。いくら転換期とは言え、何より代えがたい貴重な人命を多数犠牲にしてまで法律を変えるのは、真の民主主義者のやり方ではないと私は考えるからである。

エリツィンの出身地はエカテリンブルクЕкатеринбург、旧スベルドロフスクСвердловскというウラルの機械工業の中心地である。彼はバラック住まいの極貧生活から今日の地位まで上り詰めた。本人の努力もあったであろうが、ゴルバチョフ政権早々の85年4月に、スベルドロフスク州Свердловская область党第一書記Первый секретарьという地方のボスから中央に招かれたことがラッキーであった。ゴルバチョフのお陰である。ゴルバチョフがいなければ今日のエリツィンはない。
ある日本人記者がエカテリンブルクを訊ねた際に、スベルドロフスク時代のエリツィンがどのようだったかを調べてみた。エリツィンは党第一書記時代に党委員会の高層ビルを市内の一等地に作ったが、15階の全フロアーを自分の執務室として独占したり、幹部会専用の住宅から第一書記用の邸宅まで作って、後に党幹部の特権に反対した人物とはとても思えなかった、とこの記者は述懐する。特権廃止の旗を振ったのは、反ゴルバチョフの人気取りのための、あるいは、権力掌握のためのパフォーマンスだったのであろうか。
また同記者がエリツィンに近かった地元記者から聞いた話によると、彼は全然民主主義者などではなく、演説では必ずブレジネフを称賛したという。当時の風潮としては、時に権力者に媚びへつらうことが保身のために要求されたのかもしれない。それはそれで理解できるが、ボリシェビキから民主主義者への変身があまりにも鮮やかすぎるのである。
当時のエリツィン州第一書記は、常に動いていないと気がすまない、ヘリコプターを飛ばして各地を視察して部下を叱り飛ばす、いわば土建屋的政治家とでも呼べるような、行動派タイプだったようだ。今日のエリツィンを観察していると、名目的な元首では収まらない性格で、「君臨すれども統治せず」のスタイルはその性格に合わないことがうかがえる。大統領主導で行なわれた「ラック・チューズデー」直後の大幅な一連の経済閣僚人事はその典型と言ってよい。
*Чёрный вторник (1994) — обвальное падение курса рубля по отношению к доллару 11 октября 1994 года.
土建屋的政治家といえば、田中角栄を思い出すが、エリツィンもこの「角さん型」らしく、地元の陳情に弱いようである。ロシアの新聞によれば、出身のブトカБутка村の村民が「大祖国戦争勝利50周年(95年)50 Years of Victory in the Great Patriotic War 1941–1945記念に村の道路を建設してほしい」と陳情の手紙を出したところ、エリツィン大統領はこれに応ずる返事をすぐ書き、政府に命じて10億8000万ルーブル(約5000万円)の予算つけさせた。94年8月中旬現在、村の中心地には基礎工事のための砂利が運び込まれ、異例のスピードで工事が進められていると伝えられる。

①Kakuei Tanaka (田中 角栄Какуэй Танака or 田中 角榮Танака Какуэй, Tanaka Kakuei, 4 May 1918(新潟県出身) – 16 December 1993) was a Japanese politician who served in the House of Representatives from 1947 to 1990, and was Prime Minister of Japan from 1972 to 1974②↑73年10月9日、モスクワに到着した田中角栄首相を迎えるコスイギンКосы́гин首相。慣例であるМогила Неизвестного Солдата無名戦士の墓Tomb of the Unknown Soldierを訪問(アレクサンドル庭園Александровский садクレムリンの壁Кремлёвская стенаに位置)献花。この後、ブレジネフБрежнєв書記長と会談したKakuei Tanaka met with Soviet leader Leonid I. Brezhnev in Moscow
エリツィンは94年8月半ば、夫人同伴で多数のお供を連れ、視察をかねてボルガ川下りを楽しんだが、この時乗った船「ロシア号」は500万ドル(約5億円)をかけて改修されたとイタル・タス通信は伝えた。ついでながら、この地方遊説中にエリツィンは酔いにまかせて、ロスチコフ報道官を水中に突き落とすようボディ・ガードに命令し、同報道官が水中から助け上げられるというひと幕があったと伝えられる。また、8月初めの『プラウダ』紙は、エリツィンがサンクトぺテルブルクにある軍艦の造船所「アルマズАлмаз」に、複数のテニスコート、サウナ、ダンスホール、ヘリポート付きの豪華船を注文したと報じた。発注は別人を通して極秘裏に行われたが、設計関係者から注文主が大統領であることを聞き出した。金額は「ものすごく高い」とだけ答えたという。
こうした情報が事実であれば、いずれエリツィンの政治姿勢が問われる場面が出てくるのではないだろうか。

『愛国歌』(あいこくかThe Patriotic Song、露: Патриотическая песня)Patrioticheskaya Pesnyaは、1990年から2000年までの、ロシア連邦の国歌である。Михаил Глинкаミハイル・グリンカMikhail Glinkaの作曲。日本語の訳題は定まっておらず、『愛国の歌』、『愛国者の歌』とも訳される。また、共産党時代に付された詞の内容から『モスクワМосква』と呼ばれることもある。
ロシアは民主国家か
「ロシアでは独裁体制でないと、あらゆる面で支配と権威が保てない。今の無政府状態から抜け出すには独裁政治が必要なのです。これは客観的な事実です」(クルピャンコКрупянко東洋学研究所主任研究員)というロシア人が少なくない。その理由は、とにかくロシアが広すぎるからだ。多民族国家(130以上の多種民族)であり、豊富な資源の保護と活用には強権が必要、というわけである。「強い手」が必要で、権力の集中と強力な行政組織がロシアでは必要不可欠の条件であるという。果たしてこれは、強力な指導力と同じものなのか。それとも別のものなのか。
*多民族国家Многонациональное государствоБагатонаціональна державаたみんぞくこっかMultinational state다민족 국가다민족 국가Vielvölkerstaatとは、複数の民族から構成される国家のことである。対義語は単一民族国家である。
エリツィンは言う。ロシアは「市場民主主義国家になった」と。しかし、ある識者の次の指摘は当を得ていると私は思う。「ロシアが民主国家になったらそれはロシアではない。全く別の国である。ロシアという国が指導者(権力者)とナロード(人民大衆)とで成り立っているというのは、帝政ロシア、社会主義ソ連でも変わりなく、今のロシアでも言い得ている。この国には権力者はいても、西側でいう政治家はいない。また民主社会を支える市民もいない。端的に言えば、ロシアでは統治する(支配する)側の権力者(集団)と、支配される側のナロードで国を作っているのだ。この両者をつなぐのがインテリゲンチャであったが、現段階ではそのインテリは今の政治に失望し、しらけ切っている。このことで12月選挙(93年)の結果も説明することができる。新生ロシアのスタートは21世紀になってからであろう」。

エリツィン政治の七つの特徴
エリツィンの政治スタイルの特徴をいくつか列挙してみよう。
第一に、ポピュリスト。その特徴としては、大衆の人気を常に意識して、空手形を乱発するデマゴーグの傾向が強い。場当たり的な人気取り政治が得意だ。とりわけ、国民投票や選挙の前には実行不可能な公約を並べて、大衆の関心を引くことを汲々とする。したがって確たる政治哲学に欠けるのである。
第二は、権威主義と復古主義。超憲法的なスーパー権力機関としてエリツィンの強権政治を支える国家安全保障会議を設置した。これは政府のガイドラインを示す役割をもつ。彼は三年間に5500件もの大統領令を交付しているが、その重要な原型はここで作られた。この機関は危機管理組織としては強力だが、大統領の権威主義的統治の象徴的存在だ。また、対外防諜局など治安機関や情報管理機関を大統領直属としたところにも、権威主義的・独裁志向のボリシェビキ的体質が現れている。さらに、革命前の三色旗やロマノフ王朝の紋章を復活させたり、新しい議会の国家会議(下院)を1906年創設の帝国議会と同じくドゥーマと命名したりした。また連邦大統領権限の中心的象徴として「大統領旗」を制定した(94年2月29日署名の大統領令による)。ロシア国旗と同じ色の四角の布で、ロシアの国章が金色で中央に描かれている。
第三に、本質的には権力至上主義であり、権力維持のために路線変更もいとわないこと。ゴルバチョフを非難した理由である優柔不断に当てはまると思えるが、よく言えば、柔軟性があるということかもしれない。例えば、94年初めの内閣改造で、事前にはガイダル留任を断言しておきながら、彼の辞任を最後までひきとめなかった。恩赦をめぐる裏取引もそうだ(後述)。エリツィンは94年6月に繰り上げ大統領選挙を実施するとの公約をあっさり捨て去り、大統領の任期だけは、旧憲法を適用して96年まで居座ることに決めた。また、93年夏の憲法会議でまとめた新憲法統一草案を、同年の10月騒乱後に我田引水的に書き直した(大統領候補の65歳以下という年齢制限の撤廃など)。その他、公約や大統領令の撤回などの例は枚挙にいとまがない。94年になって、他の愛国民族主義勢力の政策を先取り(横取り)する傾向が強まっている(後述の「ジリノフスキー・タクシー」の項参照)。「力強い祖国」建設は、本来は愛国保守グループのスローガンだった。
自らは絶対に責任をとらず、保身のために担当幹部の首のすげ替えだけで事を済ませる共産党時代のやり方もこの部類に入る。93年12月選挙後のオスタンキノ・テレビ社長や補佐官たちの解任は改革派惨敗の責任をとらせるものだった。「ブラック・チューズデー」後に解任されたドゥピニン蔵相代行には、経済政策の失敗を転嫁された「エリツィンのスケープゴートScapegoat」(いけにえКозёл отпущения)にほかならなかった。また、94年10月のフルトストゥン農相の後任にナザルチェク農業党下院議員を任命したのは、議会保守派懐柔人事とみなされた。
さらに、地方分権主義の後退も路線変更の典型であり、エリツィンの権力維持の努力と無関係ではない。全般的な民主化に伴ってゴルバチョフ時代に始まった地方分権化は、当初エリツィン自身も強く要求していたものだ。ところが、91年8月のクーデター未遂事件以後、エリツィンが政治の主導権を握ると、これにブレーキがかかるのである。例えば、知事(行政長官)は地元住民による公選ではなく、ロシア大統領によって任命されるようになった。その場合、民族や行政的な手腕にかかわりなく、エリツィンの言うなりになる人物が選ばれ、反エリツィン的な言動をする州知事などは容赦なく解任されている(中央と地方との関係については後で触れる)。
第四に、10月騒乱後に新憲法の「大統領令の交付権」条項の独断的な修正を行って大統領令を乱発し、議会をバイパス(無視)するスタイル。大統領令による立法機能の代替である。公表されるものだけで、94年8月29日現在で1787号(毎年、一号から始まる)だから、月平均225件、選挙均50から60件に及ぶ。7月3日からの一週間になんと106の大統領令が出た(フィラトフ大統領府長官による)。なかには相矛盾する大統領令もあって、現場は大混乱だという。それよりもこんなに多く出ると、かえって法律としての権威がなくなり、だれも順守する気が起きなくなるのではなかろうか。とにかく、露骨な議会封じ込め戦略は大統領権限の肥大化を示すものである。

第五は、目的のためには手段を選ばないこと。ホワイトハウス砲撃がその一番より例だが、憲法や法律を平気で無視する姿勢は目に余る。新憲法採択の国民投票無視が典型といえよう。『モスクワ・ニュース』紙94年第42号は、93年12月の新議会選挙のインチキを暴いている。旧議会強制解散に伴って、大統領は「国家会議議員選挙」なる規定を発表した。これは法律でもなく大統領令でもない。ただの規定だった。この規定第三条によれば、「中央選挙管理委員長には、最高裁長官の推薦した者を大統領が任命する」ことになっている(『モスコフスカヤ・プラウダ』紙による)。一方『イズベスチヤ』紙によると、同じ規定には「大統領が任命する」とだけ記されているという。こうして大統領に絶対忠誠を誓うリャポフ元最高会議副議長の再就職が決まった。また大統領は「民主的世論」の要請にこたえて、下院の政党名簿による議員等を130名から225名に一方的に増やした。一部左翼政党の活動禁止の最中の選挙だから(なお、10月6日以降、選挙間際まで、モスクワ警備司令部や法務大臣によってすべての野党の政治活動が禁止されていた。活動していたのは与党の「ロシアの選択」のみ)、何の目的のための増員かは明らかであろう。大統領はいかなる犠牲を払ってでも自らの翼賛議会を勝ち得ようとしたわけだ。旧議会選挙法では、選挙成立の条件として、投票数が有権者の50%以上であると定められていたが、今度はそれも25%に引き下げられた。93年9月に強制解散させた最高会議の代議員たちを新しい高官ポスト(次官職など)で釣るという狡猾な買収工作(利益誘導)も、この範疇にはいる。多くの代議員はこれで寝返ったのだ。また、共和国を除く地方、州、市など連邦構成の68の自治体の首長の任免権を大統領の権限であると限定した大統領令(94年10月3日署名)は憲法に抵触する疑いがあるとし、「ブラック・チューズデー」後の中央銀行総裁交代人事の大統領令や、後述の検事総長人事も、新憲法違反であった。
第六に、観測気球を打ち上げて、様子を見るのも、彼独特のスタイルである。反応次第で、既定の方針を変更する。例えば、93年4月25日の国民投票の前夜、3月20日エリツィンは特別統治導入のテレビ演説をしたが、批判があまりに強かったので、いともあっさりと撤回してしまった。署名したはずの大統領令の内容は、その後公表されたものの、演説の内容とは違っていた。また、2月の大統領年次教書のなかでの米国流の連邦準備制度創設提案も、抵抗に遭って挫折した。そのほか、議会選挙と大統領選挙を二年間延期する構想のアドバルーンを盟友のシュメイコ上院議長に打ち上げさせ、自らは黙って様子を見ていたのも典型だ。また、よく観察していると、ことさら楽観的な観測気球を流す場合もある。「地方と中央との対立は終わった」(8月26日『トルード』紙とのインタビュー)と言明したが、チェチェン情勢は緊迫化し続けている。経済問題でも、事実に反するような、あるいは一般的な予測に逆らうような極めて楽観的な言葉がしばしば飛び出す。側近がそのように仕向けるのかもしれない。後で違った結果が出ても、まるで前の発言はなかったかのようにふるまうのである。

*第一次チェチェン紛争(Первая чеченская войнаだいいちじチェチェンふんそうДуьххьара нохчи-оьрсийн тIомThe First Chechen War, also known as the First Chechen Campaign or First Russian-Chechen warは、1994年から1996年にかけて、ロシア連邦からの独立を目指すチェチェン共和国独立派武装勢力と、それを阻止しようとするロシア連邦軍との間で発生した紛争。

Yeltsin as Boss - Record of Russian Presidential Advisor Лев Суханов/Lev Sukhanov
そして最後、七番目に、側近政治。イリューシンИльюшина首席補佐官はエリツィンと同郷人で、スベルドロフスク市、州コムソモール委員会、同共産党州委員会、党モスクワ市委員会と一貫してエリツィンとともに働いてきた。ナンバー2のスハーノフ補佐官は、エリツィンがモスクワ市第一書記から国家建設委員会に飛ばされたとき以来行動をともにしている。91年のロシア大統領選挙で活躍した。そのほか、KGB出身のコルジャコフАлександр Васильевич Коржаков大統領警備隊長(少将)も侮れない。大統領を通さずに大統領令を用意できる唯一の人物といわれている(カザンニク前検事総長による)。また、バルスコフМихаил Иванович Барсуков大統領警備総局局長兼クレムリン警備司令官、それに2000人のスタッフのリーダー、フィラトフСергей Александрович Филатов大統領府長官も側近中の側近である。さらにロボフОлег Иванович Лобов安全保障会議書記(元第一副首相)はエリツィンが72年スベルドロフスク州党委員会建設部勤務当時からの知り合いだ。こうしたエリツィン・チームは、民主派でもリベラル派でもなく、「旧共産党の見習い職人たち」(ベーベル・ボシチャノフ元報道官の発言)とも評されている。エリツィンはこれら側近たちの意向を何よりも重視する政治を行ってきた。
ルツコイ元副大統領は9月30日、日本の通信社記者とのインタビューで、91年11月、エリツィンが側近政治を始めたことで、自分とエリツィンとの関係がおかしくなったと述べ、同年12月のソ連解体とCIS創設構想について副大統領でありながらいっさい相談を受けず、亀裂が決定的になった事実を初めて明らかにした。
いずれにせよ、ゴルバチョフはソ連体制民主化の改革者であったが、エリツィンは資本主義化改革の指導者であると私は理解している。


*ルスラン・イムラノヴィチ・ハズブラートフХасболтера Ӏимранан кӏант Руслан(ロシア語: Руслан Имранович Хасбулатов、ラテン文字転写の例:Ruslan Imranovich Khasbulatov、1942年11月22日 - )は、ロシアの政治家、経済学者。エリツィン時代前期にロシア最高会議議長を務めた。チェチェン人。経済学博士。
3 恩赦と裏取引
10月騒乱首謀者たちの釈放
ルツコイ副大統領、ハズブラートフ元最高会議議長、アンピーロフ「労働ロシア」運動リーダー、マカシェフАльберт Михайлович Макашóв元将軍、ドゥナーエフАндрей Дунаев前内務大臣、アチャロフ将軍、コンスタンチノフИлья́ Владисла́вович Константи́нов「救国戦線Фронт национального спасения (Россия)」指導者たちは、93年10月騒乱で最高会議の建物ホワイト・ハウスに立てこもった面々である。彼らは、激しい砲撃を受けたため、最後には降伏して、身柄を拘束された。ところが、裁判も始まらないうちに、全員が釈放されてしまった。何の罪も問わずに、せっかく刑務所にほうり込んだ政敵の出所をエリツィンが容認したことは、「ロシアはまだ近代的法治国家ではない」との印象を改めて深めることになった。その唐突さ、事柄の不透明さといい、いかにもロシア的であるともいわれた。またしてもロシアは分からない、という不可解さの材料となったのである。なぜあまり抵抗もせずに彼らの釈放を許したのカ。また、91年8月クーデター騒ぎの首謀者たちも、結局は全員が不問に付されて、レフォルトボ刑務所から出た。われわれの感覚からするとどうも釈然としないのである。その背後に何があったのだろうか。

Lefortovo Prisonレフォルトボ刑務所(Russian: Лефортовская тюрьма, IPA: [lʲɪˈfortəvə] (listen)) is a prison in Moscow, Russia which has been under the jurisdiction of the Russian Ministry of Justice since 2005. The prison was built in 1881 in the Lefortovo District of Moscow, named after Franz Lefort, a close associate of Tsar Peter I the Great.

ロシア連邦議会の連邦会議(下院)は、94年2月23日、91年8月の国家非常事態委員会クーデター未遂事件、93年5月1日のメーデー騒乱事件、および93年9~10月の旧ロシア最高会議をめぐる騒乱事件の参加者に対する刑事訴訟を取りやめにし、これらの事件で有罪判決を受けた者の刑の執行を停止する事実上、「ロシアの選択」所属議員だけであった。93年12月採択の新「エリツィン憲法PRESIDENT YELTSIN'S CONSTITUTION FOR RUSSIA」によれば、恩赦の問題は下院の排他的な権限であり、大統領は下院の決定に拒否権を行使する権利も、可能性もない。ひげづらで軍服姿のルツコイが26日午後、レフォルトボ刑務所から大手を振って、待ち受ける支持者たちの前に現われた光景はテレビでも放映された。この下院決議に対して「ロシアの選択」議員らは「これはロシアにおける内戦の始まりを意味するであろう」と警告、ロシア大統領府分析センターも、「彼らの恩赦はロシアに内戦を発生させる危険をはらんでいる」と予測したが、結局はそのような事態には至らなかった。
*2018/10/04 —Yeltsin Shelled Russian Parliament 25 Years Ago, U.S. Praised “Superb Handling” Yeltsin praises the new Constitution that is "up to the standards of the best Western democracies."
ハズブラートフは政界から引退し、出身地チェチェン共和国にいったんは戻ったが、本を執筆した後、ドゥダエフ政権による嫌がらせもあって故郷には長くおれず、モスクワで昔のように大学教官を務めていた。しかし、チェチェン情勢が緊迫してくると、再び政治活動を始めた。ルツコイは「ジェルジャーワ(大国)」という名の政治団体を旗揚げし、機会あるごとに次期大統領選挙への出馬意向を表明して、エリツィン政権打倒に燃えている。

①ジョハル・ドゥダエフ(Dzhokhar Musayevich Dudaev、ロシア語: Джохар Мусаевич Дудаев、チェチェン語: ДудагӀеран Мусан ЖовхӀар、1944年2月15日 - 1996年4月21日)は、チェチェン共和国Нохчийн Республикаならびに国際的に未承認の独立派のチェチェン・イチケリア共和国Нохчийн Пачхьалкх Нохчийчоь双方の初代大統領②The Social Patriotic Movement «Power» (Derzhavaジェルジャーワ(大国); Russian: Социал-патриотическое движение «Держава»; Sotsial-patrioticheskoye dvizheniye «Derzhava») was a Russian populist, nationalist party founded by Alexander Rutskoy.
この恩赦運動で面白いのは、かつてエリツィンを無条件で支持していたシャフライ「統一と合意」党首が、恩赦は「ロシアの戦略的利益に合致している」と述べ、同党は恩赦決議賛成に回り、「恩赦こそが市民的合意をもたらす」との声明を配布したことだ。シャフライによると、ルツコイの政界復帰は極右ジリノフスキー人気を下げる効果があるというのである。ロシア民主党会派も25日の声明で、恩赦決定は「社会的和解と合意の行為である」と評価した。
恩赦A pardonПомилование特赦Помилування사면赦免, is a government decision to allow a person to be relieved of some or all of the legal consequences resulting from a criminal conviction. A pardon may be granted before or after conviction for the crime, depending on the laws of the jurisdiction.
恩赦の舞台裏
実は、この恩赦決議案は単独で提出されたのではない。ここに、事態を解き明かす重大なカギが潜んでいるのである。それは四つの決議のパッケージの形をとって、一括採択となった。そのなかには、「10月騒乱調査委員会設置決定の取り下げ」という重要な決議案が含まれていたのである。下院は二週間前の2月9日に、93年9月21日の最高会議・人民代議員大会廃止の大統領令およびそれに続くモスクワ騒乱を調査する特別委員会の設置を、賛成274、反対46、聴けん0の賛成多数で採択していた。委員会の任務は「93年9月・10月事件の原因と背景の究明」であった。その後、委員会のメンバーも決まった。ロシア通信によると、カザン二ク検事総長は2月17日、オレグ・ガイダノフ捜査官を10月騒乱事件の捜査班主任に任命した。ガイダノフ捜査官は「ウズベクЎзбек汚職事件」の捜査で辣腕をふるったことで有名な人物である。
ところが調査委員会が設置されて、真相究明の調査が行なわれた場合、ホワイトハウスへの砲撃命令の最終責任者はだれなのか明らかにされる恐れがあった。最悪の場合、すべてが蒸し返される可能性も否定できない。最高会議解散の大統領令が明らかな憲法違反であり、大量の死者を出したホワイトハウス砲撃に至っては、強権発動の正当性が問われかねない重大事である。したがって、エリツィンは何とかして、委員会設置を阻止したかったにちがいない。そこで、「社会的合意」を推進するシャフライや下院議長ルイプキンらの仲介によって、エリツィンと議会側の間に何らかの裏取引があったのではないかと推測されるのである。2月26日のインタファックス通信によると、シャフライも決議案提唱者の一人だったことが後で判明した。この恩赦についてエリツィンの周辺は、「これで内戦は必至だ」「ロシアの民主主義に対する挑戦であり、三権の協力関係および法秩序に損失をもたらす」(コスチコフ大統領報道官)、「全く容認不可能であり、違法である」(サブチャク・サンクトペテルブルク市長)などと、声高に異を唱えた。エリツィン自身も下院決定に不快感をあらわにし、カザン二ク検事総長に釈放取り消しの圧力をかけた。しかし、大統領令を公布してでも、恩赦実行を絶対阻止しようという断固たる姿勢がエリツィンにはみられなかった。これが、なにか裏取引があったのではないかとの疑惑を深めたのである。ルイプキンはその事実を否定しているが、当時、恩赦決定についてエリツィンとルイプキンの間にはすでに事前の合意が成立していたとの観測さえ出ていた。
恩赦は「行政、立法、司法が仕組んだ大芝居」と決めつけるのはポポフ・ロシア民主改革運動議長(前モスクワ市長)である。大部分の議員が彼らの釈放を12月選挙のひとつシャフライ派が突然、賛成に回って、この法案を成立させてしまった。ポポフ氏によれば、今まで大統領派は改革の敵に対抗するため、常に人為的に作られた「恐怖」を利用してきた。ところが、ここにきて改革の失敗はもっぱら政府の無能のせいだとの世論が高まり、極右ジリノフスキーを恐れる声は少しも高まってこない。そこで思いついたのが被告たちを釈放して、民主勢力の危機感を高めることであったというのだ。
下院決議にしたがって、カザンニク検事総長が釈放を指示した。「エリツィン大統領は恩赦の一時停止を要請してきたが、検察官としては恩赦を一時停止する権利はないし、立法的なイニシアチブを取る権利もないので、決定を下院に再検討するよう要請できない。恩赦決定はロシア議会主義の”恥辱の一ページ”であり、私自身は恩赦決定に反対だが、検事総長として法律の精神だけではなく、文言、良心にも従う義務がある」として、釈放の断を下した。彼はエリツィンに解任される前に、94年2月26日辞意を表明、辞職した。また、元保安相でエリツィン側近の一人だったゴルシコ防諜局長官は、刑務所管理の責任者ということで解任され、ステパシン第一副長官が昇格した。

*セルゲイ・ヴァディモヴィチ・ステパーシン(ステパシン、ロシア語: Серге́й Вади́мович Степа́шин、ラテン文字表記の例:Sergei Vadimovich Stepashin、1952年3月2日 - )は、ロシア連邦の政治家。ボリス・エリツィン政権にて第4代ロシア連邦首相を務めた。法学博士。ロシア法律家協会共同議長。
反骨の人カザンニク
アレクセイ・カザンニクはシベリアのオムスク州О́мская о́бласть出身の法律学者だ。1989年5月の第一回人民代議員大会で、次点再選でソ連最高会議代議員になれなかったエリツィンに、その席を譲ったことで有名になった。ロシアの歴史を変えた人物といっても過言ではない。もしエリツィンがあのとき代議員になれなかったら、大統領にもなれなかっただろうからだ。彼はオムスク大学Омский государственный университет им. Ф. М. Достоевскогоの新進講師の時代、79年末のアフガニスタン侵攻Афганская война (1979—1989)は犯罪的で愚行だと講義のなかで公言し、物議を醸したことがある。ペレストロイカのお陰で89年3月、地元でソ連人民代議員に選出された。最高会議代議員の議席交換から四年後の93年10月4日の早朝、まさに10月騒乱のさなか、エリツィン自らがオムスクのカザンニクに電話して検事総長の任務を引き受けるように頼み込んだ。当時現職の検事総長ステパンコフが、一時、最高会議側についたため、更迭を決意したのである。そして四ヶ月後に、議会の決議を無視する権利が与えられていないカザンニクは、エリツィンと議会との板鋏みにあるが、「自らの良心の掟にのみ従った」結果、今度はエリツィンとたもとを分かつのである。こういう気骨のある人物は、どろどろした政治の世界にはなじまないのかもしれない。カザンニクはさっさとオムスクに戻ったが、モスクワで「大統領を裏切った人物」というレッテルを張られた。後に彼は「良心党Party of Conscience」という正政党を結成している。

*Alexey Ivanovich Kazannikアレクセイ・イヴァノヴィチ・カザンニク (Russian: Алексе́й Ива́нович Каза́нник; 26 July 1941 – 2 June 2019) was a Russian lawyer and politician
カザンニクの辞任後、エリツィンは後任としてエリツィンチームの一員である35歳のイリュシェンコИльюченко(大統領府監督局局長)を検事総長代行に任命した。エリツィンが検事の最高ポストに自らの子飼いを据えたことにも大いに問題はあるが、この検事総長人事は明らかな憲法違反であった。新憲法によれば、検事総長の任免承認は上院の専管事項だ。93年9月の最高会議解散命令(大統領令)の後、カザンニクは大統領令によって任命された。新議会形成後に上院で改めて承認すべき人事であったが、その手続きをとらないばかりか、カザンニクの後任も、検事総長ではなくその「代行」の形のまま、上院の承認ぬきで、大統領令で決めてしまった。エリツィンは遅ればせながら、上院にカザンニク辞任を承認するように要請した。
ところが、上院は4月6日、74対68で承認を拒否し、7日にも再度、拒否したのである。上院の過半数は大統領自身が任免権をもつ地方・州の行政首長であることを考えれば、異例の抵抗である。その上院ですら大統領の議会無視、越権行為に一矢報いたのであった。この問題は結局うやむやのうちに不問とされた。いかにもロシア的というべきであろうか。事実上の検事総長であるイリュシェンコも、正式の手続きがなされないうちは、代行のままである。
カザンニクは4月7日、「大統領とその側近は、憲法や連邦議会の決議を順守する意思のないことがはっきりしてきた。ロシアはあからさまな独裁主義の危険に直面している。近く本当の大統領、独立した検事総長が選ばれることを信じる」と痛烈な大統領批判を行った。また4月12日付けの『コムソモリスカヤ・プラウダКомсомольская правда』紙とのインタビューでも、司法機関を意のままに操ろうとするエリツィン政権を厳しく非難している。彼は「大統領は電話一本で操れる検察庁を望んでいる」と言明。さらに「後任のイリュシェンコは大統領警護隊長のコルジャコフ少将の命令を受け入れる人物である」と批判した。ついでながら、上院は10月24日、イリュシェンコの検事総長への昇格を決めるエリツィン提案を否決した。大統領派に属する人物は不偏不党の検察のトップにふさわしくないとの拒否反応が上院のなかに強いのは健全というべきであろう。
*独裁主義(Деспотизм、英語: despotism)とは、特に政治において政治権力が1人または少数者に集中し、国家を支配体制に置いて政治を行う思想。
司法府の不在
このインタビューのなかで驚かされるのは、ルツコイ、ハズブラートフらを迅速な裁判で銃殺刑に処すように圧力をかけられたとの事実が明らかにされたことである。ホワイトハウスに立てこもった人たちが逮捕された直後、大統領府から無署名の勧告書が検察庁に届いた。これには、5,6人の捜査班で、3,4日のうちに調査を完了する、全員を殺人の共犯として起訴する、全員を死刑を宣告するーとの手順が書かれていたというのだ。いずれにしても、検事総長人事問題は、エリツィンとその政権の独裁的な傾向を如実に示した一件であった。
91年8月クーデター事件で「国家反逆および権力奪取を目的とした陰謀」の罪に問われていた被告たちも恩赦で釈放され、裁判は事実上打ち切りとなったが、釈放以前にも、裁判はずるずると長引き、かなり前から風化していた。「国家への反逆という非難は当たらない。国家崩壊を防ぐ正当な行為だった」とする被告側の「正当行為論」も受け入れられる風潮となっていった。唯一公判が続いたのは、恩赦を受けなかったワレンニコフ被告(元国防次官兼地上軍総司令官)だったが、結局、94年8月11日の判決公判で、ロシア最高裁軍事部は無罪判決を言い渡した。判決では「被告の行動に犯罪性はなかった」として起訴事実が全面的に退けられた。クーデター首謀者の違法性を主張して来たエリツィンの大きな失点となった。なお、被告のうちルキヤノフ(ソ連最高会議議長)とスタロドプツェフ(農民同盟議長)は、93年12月議会選挙で、それぞれ下院と上院の議長に当選し、政治の舞台で活躍している。

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