日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

『資本主義ロシアー模索と混乱』中澤孝之/Capitalist russia-Groping and confusion Takayuki Nakazawa/Капиталистическая Россия Нащупывание и путаница Такаюки Наказава⑨


周知のように、連邦大統領ゴルバチョフを含む2億8000万の国民は、91年12月のソ連解体とCIS創設について、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの三首脳とその周辺のごくわずかな人びとを除いて、これら三首脳の宣言が発表されるまで全く知らされず、突然この現実を突き付けられた。文字通り青天のへきれきであったのだ。各国とも事前に議会で諮られたわけでもない。CIS各国国民は、急にある日、独り歩きすることを強いられたのだ。もちろん、ウクライナ国民はその一ヵ月前の国民投票で独立の意思を表明していたが、まさかこんなにすぐにも独立できるとは思っていなかったにちがいない。どの国もほんの短い期間、独立フィーバーに浮かれていたが、1年たち、2年たちするうちに、独り歩きは極めて困難であるということが分かってきた。旧ソ連15ヶ国のうちすでに、リトアニア、グルジア、アゼルバイジャン、タジキスタン、ベラルーシ、ウクライナなどで政権の交代がみられた。経済政策の失敗と、それによる社会混乱がその原因であった。
CIS諸国の経済は例外なく散々な状況に置かれている。ハイパーインフレ、急激な生産低下、国民大半の貧困化、貧富の格差拡大、財政赤字などその困難は枚挙にいとまがない。そして経済の低迷は、犯罪の増加など社会不安を生む。その深刻な状況は、わざわざ具体的な経済指標の数字で示す必要もないほどである。独立3年後の今も、ロシアをはじめほとんどの国がどん底の経済と疲弊から立ち直れないでいる。ソ連という枠のなかで70年以上もの間、分業が行われてきたのに、これが何の前触れもなく突然断ち切られてしまったのだから、当然の帰結と言えるであろう。反ゴルバチョフ・クーデターのツケは取り返しのつかないほど、巨大であった。
かつて「性急なソ連解体は”歴史の過ち”だったのでは?」という小論文(拓殖大学海外事情研究所発行の『海外事情』誌94年6月号)でも述べたが、歴史にイフ(もしも)は許されないけれども、91年8月クーデター未遂事件以来、ソ連が徐々に解体の方向に向かっていたにせよ、あの時期、あのやり方での性急かつ唐突な解体は、やはり過ちであったのではないだろうかと私は考える。それは一部のノメンクラトゥーラを除いて、目を覆うばかりの悲劇をもたらした。その主人公は2億8000万人の庶民である。エリツィンら当時のスラブ三首脳の罪は極めて大きいと言わざるを得ない。

解体首謀者たちの現在
ソ連時代にはロシアを除いてCISのどの国も経済的に弱かったが、そのなかで、独立しても十分独り立ちできるはずだったウクライナまで、今その経済は破滅的である。同じスラブ系のベラルーシも危機的な経済状況に陥ってしまった。エネルギーをほとんどロシアに依存してきたからである。天然ガス、石油を国際価格でロシアから買わなければならなくなってしまった。その負担は極めて大きい。ソ連域内の他の共和国から容易に調達可能だった原材料が、各共和国の独立で、円滑に入ってこなくなった。このため生産が落ち込む。一事が万事、こうなのである。
結局、ウクライナのクラフチュクは94年7月の国民の審判によって大統領のポストを追われ、親露派のクチマ(副首相)と交替した。この結果、ウクライナからの独立とロシアへの併合を主張するКъырым Джумхуриетиクリミア共和国Республіка Крим/Республика КрымЧерноморский флот黒海艦隊Black Sea Fleetをめぐり、一時は一触即発だったロシアとの緊迫した情勢は、少しずつ緩和される見込みだ。また、ベラルーシではシュシケビッチ最高会議議長(国家元首)が1月の議会で罷免され、これまた親露派のルカシェンコが7月の初の大統領選挙で当選した。このルカシェンコは91年のソ連解体に唯一反対した議員であったことは注目すべきであろう。「ベラルーシのベロベーシの森から出てきた三頭の野牛のうち、残るは一頭だけになった」と前記の映画監督ゴボルーヒン(下院議員)は語った。ソ連解体の主役のうちエリツィンだけが残ったという皮肉である。

①レオニード・マカロヴィッチ・クラフチュク(ウクライナ語: Леонід Макарович Кравчук レオニード・マカーロヴィチュ・クラウチューク;Leonid Makarovich Kravchuk、1934年1月10日 - 2022年5月10日)は、ウクライナの政治家、ウクライナ初代大統領(在任1991年 - 1994年)②Leonid Danylovych Kuchmaレオニード・ダニロヴィッチ・クチマ (Ukrainian: Леоні́д Дани́лович Ку́чма; born 9 August 1938) is a Ukrainian politician who was the second president of Ukraine from 19 July 1994 to 23 January 2005.[3] Kuchma's presidency saw numerous corruption scandals and the lessening of media freedoms.

①スタニスラフ・シュシケヴィチ(ベラルーシ語: Станісла́ў Станісла́вавіч Шушке́вічStanislav Shushkevich、1934年12月15日 - 2022年5月4日)は、ベラルーシの政治家、大学教授。ヤゲウォ大学教授。ベラルーシ最高会議議長(元首格、在任期間:1991年9月18日から1994年1月)。ソビエト連邦崩壊後、独立したベラルーシの初代の国家元首。ロシア語、ポーランド語に堪能。

②アレクサンドル・グリゴリエヴィッチ・ルカシェンコ(ベラルーシ語: Алякса́ндр Рыго́равіч Лукашэ́нка アリャクサーンドル・ルィホーラヴィチ・ルカシェーンカ、ロシア語: Александр Григорьевич ЛукашенкоAlexandr Grigor'evich Lukashenko、1954年8月30日 - )は、ベラルーシの政治家。またロシア・ベラルーシ連盟国の初代最高国家会議議長(2000年 - )でもある。「ヨーロッパ最後の独裁者」という異名を持つ。

③ベラルーシ共和国(ベラルーシきょうわこく、ベラルーシ語: Рэспу́бліка Белару́сь Be-Republic of Belarus.ロシア語: Республика Беларусь)、通称ベラルーシは、東ヨーロッパに位置する共和制国家。東にロシア連邦、南にウクライナ、西にポーランド、北西にリトアニア、ラトビアと国境を接する、世界最北の内陸国である。首都はミンスク④ベラルーシ人(ベラルーシじん、ベラルーシ語:беларусыビェラルースィ;ポーランド語:biełarusyビェワルースィ;英語:Belarusians;ロシア語:белорусыビラルースィ)は、東スラヴ人に属する、ベラルーシの人口の大半を占める民族である⑤ベラルーシ語(беларуская моваБелорусский языкは、ベラルーシ共和国の公用語。白ロシア語(はくロシアご)と呼ばれていたこともある。話者は700万人から800万人で、ベラルーシやポーランド東部に分布している。系統的には、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属し、ロシア語、ウクライナ語とともに東スラヴ語群を形成する。Білоруська моваBelarusian language

CIS再統合への潮流
CIS各国の深刻な経済状況が、ロシアを中心とするCIS再統合の動きを促進することとなった。新たな国家連合形成への胎動である。問題はだれが、そのイニシアチブを取るかである。ウクライナとベラルーシの大統領選挙結果を見たエリツィンは、94年7月インタファックス通信とのインタビューで、「両国民はロシアとの接近をはっきり支持した。CISの新しい統合政策を、1年半から2年先を視野において、まとめるべきだ」と語った。また、エリツィンは9月26日の国連総会での演説で、「ロシアの経済、外交政策の最優先条項はCISだ」と強調し、28日の米露首脳会談後の記者会見でも「CIS諸国はかつて同じ屋根で暮らしてきた肉親であり、ロシアは彼らを支持する」と語っている。この発言の背景には、旧ソ連諸国はロシアの勢力圏であるとするロシア民族主義の高まりとCIS再統合のムードが背後にある。

しかし、まかり間違えば、あのゴルバチョフ政権に電撃的に止めを刺した「ベロベーシの合意の正当性を否定されるだけではなく、ソ連解体の張本人として糾弾されることもあり得るエリツィンは、この動きを進んでリードするわけにはいかないであろう。自分以外の人間に主導権を取られそうになった場合、本気でつぶしにかかるにちがいない。自らがイニシアチブを発揮できる機の熟すのを待つ姿勢に終始するのではあるまいか。
CISの中央アジア五カ国の中心にカザフスタンという広い国があるが、ここのナザルバエフ大統領も、ソ連解体劇にむりやり付き合わされた指導者の一人である。自国の生き残りもかけて彼は94年1月、「ユーラシア連合」構想を打ち出した。その後、機会あるたびにこの構想を持ち出して、CIS各国首脳の説得にかかっている。ナザルバエフは「400以上ものCIS合意文書があるが何一つ実行されていない。CISと実生活とは関係なくなっている」と語る。共同体はほとんど機能しなくなっているのだ。また、ナザルバエフは「それぞれの政治家が、15の国境に隔てられた旧ソ連構成共和国における悪化しつつある経済状況に気づくべきである。CISを否定することなく、”ユーラシア連合”に結集すべきだ」とも言う(94年8月7日イタル・タス通信)「ユーラシア連合」構想によってソ連復活を目指すというのではなく、ナザルバエフはゆるやかな国家連合の形を主張している。ソ連解体に反対したゴルバチョフが最後まで固執した構想に似ている。ナザルバエフ構想は、肝心のエリツィンからは当然のように極めて冷やかな反応しか返ってこなかったが、ロシア国内でも「CIS首脳会議で話し合うことは可能だ」(チェルノムイルジン首相)といった前向きの声が上がっていることは注目されよう。

①ヌルスルタン・アビシュリ・ナザルバエフ(ナザルバーエフ、カザフ語:Нұрсұлтан Әбішұлы Назарбаев、ロシア語:Нурсултан Абишевич НазарбаевNursultan Abishevich Nazarbayev、1940年7月6日[1] - )は、カザフスタンの政治家。初代大統領(1990年4月24日 - 2019年3月20日)、カザフスタン共和国国家安全保障会議議長(1991年8月21日 - 2022年1月5日)を歴任。

②ユーラシア連合(ユーラシアれんごう、ロシア語: Евразийский Союз; ベラルーシ語: Еўразійскі Саюз; カザフ語: Еуразиялық Одақ、EAUEurasian Economic Union (EAEU or EEU)Євразійський економічний союз, ЄАЕСとは経済連携協定、政治的連携を行う構想。ロシア、カザフスタン、ベラルーシなどのユーラシア関税同盟が基礎となる。「Союз」は「同盟」や「連邦」とも訳されている。
各国の指導者交替が進むなかで徐々にではあるが、CIS再統合あるいは再編の方向が強まっていくのではあるまいか。「野牛の最後の一頭」であるエリツィンが政治の舞台から降りた後、この動きが加速される可能性は十分あると思われる。
CIS首相会議が経済関係を調整し、その実施を監督する国家間経済委員会を設置することで合意した。CIS初の執行機能をもつ、EU(欧州連合)のRat der Europäischen Union/Council of the European Union閣僚理事会Совет Европейского союзаに匹敵する超国家機関である。委員会ではロシアが50%の議決権をもつことになった。経済統合の過程で今後、ロシアは圧倒的な発言力を有するだろう。93年9月にすでに経済同盟の創設が決まっているが、委員会設置は経済統合に向けた第二段階と言える。また、新たなCIS集団安全保障構想もこうした再統合の動きにあわせた形で繰り上げられつつある。92年5月に集団安保条約が調印され、当初は六ヶ国の代表しか署名しなかったが、その後、93年から94年にかけてベラルーシ、グルジア、アゼルバイジャンが相次いで加盟し、九ヶ国が調印国となった。この条約を踏まえて、新たに連合軍創設、国境の共同警備、軍事施設の共同使用などを盛り込んだ基本文書案が作成されたと伝えられる。ロシアを中核としたCIS軍事統合あるいは軍事同盟である。

①ロシア対外情報庁[1](ロシアたいがいじょうほうちょう、ロシア語: Служба внешней разведки(略称:СВР)、英語: Service of the External Reconnaissance of Russian Federation、ラテン文字転写:Sluzhba vneshney razvedki Rossiyskoy Federatsii、略称:SVR)は、ロシア連邦の情報機関。ソ連時代のKGBで対外諜報を担当していた第一総局の後継機関である。本部はモスクワ南部のЯсенево (район Москвы)ヤセネヴォYasenevo Districtに位置する。CIS加盟諸国とは相互に諜報活動を行わない協定を締結しているため、CIS加盟諸国における諜報活動には、連邦保安庁 (FSB) が従事している。

ソ連復活への西側の懸念
ソ連時代のКомите́т госуда́рственной безопа́сности СССР国家保安委員会(KGBКГБの後身であるロシア対外情報局(プリマコフ長官)は94年9月21日、「ロシアとCIS-西側の立場の修正は必要か」と題する報告書を発表した。

②エフゲニー・マクシモヴィチ・プリマコフ(ロシア語:Евге́ний Макси́мович Примако́в、ラテン文字転写の例:Evgenii Maksimovich Primakov)、1929年10月29日 - 2015年6月26日)は、ソビエト連邦及びロシア連邦の政治家、経済学者である。ソビエト連邦及びロシア科学アカデミー会員であり、ロシア有数の中東・アラブ問題の専門家だった。初代ロシア対外情報庁長官[1]・ボリス・エリツィン政権にて第2代ロシア連邦外務大臣と第3代ロシア連邦首相を歴任した。
同報告書は、CISの経済、軍事的な再統合の必要性を強調するとともに、この再統合の動きを「ロシア帝国主義の復活」とか「ロシアの膨張主義」と危険視する懸念は誤りである。新たな「封じ込め論」であると主張している。再統合を必然とする根拠として、報告書は「域内では古くから生産や技術、資源を共存し、統一した規格もあった。CIS内には完全な国境はなく、バルト三国を除く各国には完全な経済的独立はあり得ない」と指摘した。
報告書は将来のCISについて三つのシナリオを描く。第一は、共通の経済圏形成という経済統合、および同時進行的な、共通の防衛圏と第一司令部創設という軍事統合の促進だ。第二は、各国の分離独立派のリードする路線の発展。第三は、ロシア以外の国の主導権による一部の国同士の統合である。第一のシナリオは、言ってみれば、ゴルバチョフが最後まで固執した「ゆるやかな国家連合」結成への道だ。これこそが安定化、民主化、改革促進に導き、民族紛争や国家間の関係の緊張を和らげるが、ほかの二つのシナリオは経済危機、反民主主義的傾向と社会的不安定を強めると報告書は主張する。
要するに、ソ連邦をいったんバラバラにはしてみたが、独立フィーバーが治まってみると、どの国も独り立ちできない。とりわけ経済が完全に行き詰まった。経済的独立は絵に描いた餅でしかなかった。そこで、ひとつみんなでもう一度まとまるべきだという話である。そうなると、いったい何のための性急なソ連解体であったのかという疑問がわくのは当然だ。CIS再統合必然論は行き着くところ、ソ連解体の正当性を失わせることになろう。
いずれにせよ、この報告書にはCISの再統合の合理性を説得しようとする姿勢がうかがえる。また「ロシアが大国として登場しようとするのを明らかに妨げようとする傾向が西側に見える」とも指摘している。プリマコフは記者会見で否定しているものの、この時期、ロシアの情報機関がこのような内容の報告書を発表したのは、約一週間後のエリツィン訪米を見通してのことであったことは明白だが、ロシアにもCIS再統合への根強い底流が存在していることを示すものと言えよう。もっとも、ロシアの国益を損じてまで再統合に突き進むことには反対する考えがかなり支配的であることにも留意しておきたい。

①残留ロシア人(ざんりゅうロシアじん)とは、ロシア(現在のロシア連邦だけでなくロシア帝国やソビエト連邦も含む)の領土縮小に伴い、旧領土に取り残された元ロシア国民ないしはロシア民族のことである現在の残留ロシア人は、かつてのソビエト連邦構成共和国でロシア連邦以外の国に居住するロシア民族を指すことが多いAfter the dissolution of the Soviet Union (USSR) in December 1991, about 25 million ethnic Russians in post-Soviet states found themselves living outside of Russia.
在外ロシア人たちの困難
ついでながら、ロシアにとっては旧ソ連諸国との関係で重要なのは、各国に取り残された2500万人とも2600万人ともいわれるロシア系住民の運命であろう。それぞれの国で彼らは少数民族に転落した。すでにバルト諸国をはじめ中央アジア各国でもさまざまな形で差別を受けている。当該国の差別によって住みにくくなったので、94年10月現在、すでに約200万人がロシア本国に帰国した。今後二年間に最低300万人がロシアに戻る見込みだという。
しかし、ロシアに帰りたいが、金もなく、ロシアに住む土地もなく、仕方なく踏みとどまらざるを得ない人びとも多い。94年5月に20年ぶりに祖国の土を踏んだソルジェニーツィンは、「2500万人のロシア人がロシアから切り離されて、現地語を学べと言われたとき、平静ではあり得ない」と語り、在外ロシア人の権利保護に目を向けるよう訴えた。
いずれにせよ、再統合の動きを、ソ連復活への動きと見るか、単なるCIS再編成の動きと見るか、あるいはロシア膨張主義の現れと見るか、さまざまであろう。しかし、完全なソ連への復活はもはやあり得まい。何よりも、統一のイデオロギーが欠如しているからである。スラブ三国だけの再統合にせよ、CIS全体の再統合にせよ、落ち着く先は、前述のゴルバチョフ最後の構想「ゆるやかな国家連合」というところではないだろうか。

*ロシア連邦軍(ロシアれんぽうぐん、ロシア語: Вооруженные силы Российской Федерации、略称: ВС РФ、英語: Armed Forces of the Russian Federation)は、ロシア連邦の軍隊。ソビエト連邦の崩壊後の1992年に、旧ソ連の核兵器を含むВооруженные силы Союза Советских Социалистических Республик(ВС СССР)ソビエト連邦軍Soviet Armed Forcesの主力を継承して成立した。
第六章 世紀末のロシア軍
1 ロシア軍の窮状
新兵4人の死
93年初めに、ウラジオストク沖合のロシア太平洋艦隊の訓練基地ルースキー島о́стров Ру́сскийで新兵数十人が栄養失調で入院し、うち四人が死亡するという事件が起きた。艦隊の財政悪化、食料の横流しなどが原因と報じられた。その後さまざまな説が流れてきた。四人はすでに入院当時から健康に問題のあった不適格者で、体重不足だったというのは表向きの説明で、実はいじめが原因だったとも伝えられた。
将校連中が軍の倉庫から肉の缶詰、砂糖など食料品を持ち出し、これを民間に横流ししたため、軍の食事の質が悪化した。質が低下したうえに上級兵たちがわれ先に食べ尽くして、新兵は残り物にもありつけないことが多かったという「いじめ」も絡んでいたというのだ。ある地元の記者が潜入したところ、骨と皮ばかりの新兵がフラフラと歩いていて、さながらナチスの収容所の光景を呈していたそうだ。実際には200人以上が入院していたという。栄養失調だけでなく、肺炎、下痢、皮膚病の兵士もいた。衰弱した新兵も容赦なく重労働に駆り立てられた。暖房用石炭の船降ろしと、凍った石炭の解体作業だ。4人のうち1人はこの「いじめ」で若い命を失った。フヴァトフ艦隊司令官(大将)は4月、管理責任を問われて解任された。
軍検察庁はこれを「水兵餓死事件」ととらえた。あるロシア軍検察庁長官補佐官は論文のなかで、「この事件ほど、軍内の規律の乱れを象徴するものはない」と書いている(『世界週報』93年4月27日号所載の「犯罪者の巣窟と化したロシア軍」)。特別調査委員会が現地で見たのは「スターリン時代のラーゲリ(強制収容所)を思わせる惨憺たる光景だった」。「兵舎内の食堂やいくつかの場所は汚れ放題。暖房装置はよく効かず、七つあるボイラーのうち作動しているのは四つだけで、兵舎の温度は10~20度以上は上がらない。風呂・洗濯場は修理中で、だれも風呂に入らず、洗濯もせず、シラミだらけ。医療施設は暖房がないため閉鎖中、委員会メンバーが来ているときでさえ、水兵に与えられる一日の配給食料は規定より21・6%も低かった」と書いている。地元記者が目にした通りの有り様だったのである。これではまるで、親は息子を、財政難で環境が劣悪の青少年拘置所に送り出したようなものではないか。死んだ4人には殴打された跡があったという。ロシア検察庁が「重大な犯罪」として起訴したのは当然であろう。兵舎を地獄さながらの状況のまま放置した幹部は逮捕された。

*ロシア兵士の母の委員会連合(ロシアへいしのははのいいんかいれんごうUnion of the Committees of Soldiers' Mothers of Russia、ロシア語: Союз комитетов солдатских матерей России、略称:Союз КСМР、СКСМР)は、ロシア連邦軍内で兵役中に人権侵害の被害を受けた徴集兵の家族によって被害や情報を公開させ、兵士とその家族の権利を守ることを目的に組織された団体である。1989年にロシア兵士の母の委員会(Комитет солдатских матерей России、略称:КСМР、КСМ России)[1]として設立され、1991年に全ロシア団体として登録され、1998年までに現在の名称に改称・解組されている。日本語名称として他にロシア兵士の母の会[2]としても知られる。
多大な兵士の死亡数
ロシアでは平時の兵隊の死亡が問題となっている。太平洋艦隊の新兵死亡事件はその氷山の一角である。「ロシアの兵士の母」運動という組織がゴルバチョフ時代の89年に設立されて、しばしば抗議行動を行っている。7月5日には兵士の母親たち150人がロシア検察庁の前で、ハンガーストライキを決行した。兵士の勤務・生活条件の改善、兵士の間で起きる死傷事件の防止などを要求した。「兵士の母」は、92年1年で新兵5000人がいじめなどで死亡、9000人が負傷したとの調査結果を報告している。ルースキー島事件のようなケースは各部隊で起きていると「兵士の母」の代表は言う。
公式データによれば、94年の最初の五ヶ月間にロシア軍のなかで417人が死亡したといわれるが、「兵士の母」は、実際の死亡者数はこれをはるかに上回っていると主張している。7月19日付けの『イズベスチヤ』紙は、94年上半期中に内部で518人が死亡したと伝えた。軍人死傷問題に関する議会の公聴会でボグダノフ軍参謀総長代理が明らかにしたものである。このなかには将校73人も含まれる。死因の57%は「軍人による安全保障措置の違反」だそうだ。これはいろいろな意味にとれる言葉で、軍規違反や過失事故などを指すのかもしれない。そして27%が自殺、8%が謀殺、新兵いじめはわずかに5%と同代理は説明した。新兵のいじめによる死者の数が少なすぎる感じがするが、このような数字が公表されることはソ連時代にはなかった。それにしても自殺者が27%もいるというのは驚きである。ロシアの世相が軍隊内にまで反映されていると言ってよいのではないだろうか。
ついでながら、太平洋艦隊の規律のゆるみは相当なもののようだ。太平洋艦隊司令官がわずか一年余りでまた更迭された。着任一年余りのグリノフ司令官は94年4月28日にウラジオストク郊外の同艦隊航空部隊の弾薬庫で爆発事故が起きた責任を問われ、三日後の5月1日、「絶えざる重大な事件発生、戦闘能力の全般的な低下、職務怠慢」を理由に大統領令によって解任された。後任にはツメリノフ中将が司令官代行(8月に司令官に昇格)に任命された。
ところが、このグリノフ前司令官は人望があったらしく、太平洋艦隊では連日、士官集会が開かれ、長官擁護宣言を採択し、142人の全提督をはじめ士官、兵員およびその家族が署名した。大統領に送られた宣言は、司令官の解任は国防省内の陰謀で、政治的に中立で自分の意見をはっきり言う司令官は邪魔だったのだ、と訴えたのであった。なお、同艦隊の別の弾薬庫では92年5月にも大爆発事故が発生し、このときは5万人を超えるウラジオストク市民が一時避難する騒ぎになった。専門家によれば、同艦隊の弾薬庫管理の改善には、160億ルーブルの資金が必要とされている。同艦隊はまた、国防省に通報せずに武器をシンガポールへ秘密裏に売却していた事実が発覚した。艦隊幹部は売却で得た外貨をニューヨークの銀行に預けていたというから、全く恐れ入る話である。

軍人の誇りの喪失
突然のソ連の解体と、それに続くロシアにおける急速な資本主義化による数多い犠牲者のなかに、軍人がいる。かつて国内で最高の尊敬を受け、栄光に輝いたソ連の軍人たち。彼らは社会のエリート集団を形成していた。また、高給とりでもあった。軍幹部はノメンクラトゥーラの一角を占めていたと言ってもいい。娘を将来性ある下士官に嫁がせるのが、多くの父親や母親の願望であった。そうした誇り高き男たちは今、惨めな地位に転落し、かつて体験したことのない辛酸をなめている。軍服の胸に輝いていたであろう勲章が、いやその軍服までが、わずかの糧のために二束三文で売りに出されていたのをモスクワの街中で見たとき、何とも複雑な思いにかられたのを覚えている。赤の広場で毎年、メーデーと革命記念日に見物した軍事パレードで威厳と伝統を誇示したソ連軍将兵の勇姿。とっさにそれを思い浮かべたが、これがあのソ連軍の遺物なのかと、つい手にとって見たのだった。
秩序の乱れ、規律違反、職務怠慢、士気(戦闘能力)の低下、使命感の喪失、無気力、無関心、無責任、モラルの低下、強盗、殺人、略奪、自殺、汚職、軍事物資の横領・横流し・隠匿、武器・弾薬の盗難、爆発事故、しごき、いじめ、脱走、軍事商業(経済犯罪)、安い給与、給与の遅配、極度の貧困化ーこれらの言葉は、前記論文を中心にその他の新聞記事などから拾い出してみた。軍については、社会主義から資本主義への移行過渡期のロシア社会の縮図さながらに、ありとあらゆるマイナスの用語で語られる。これが世界最強を誇る軍隊の内情なのだ。ロシア国内の一部では軍崩壊の危機感さえ生まれ始めている。

ロシア軍の弱体化
国営会社「ロスウァルジェニムAO Рособоронэкспорт(兵器輸出入)」幹部会代表のシャポシニコフ(前CIS統一軍最高司令官)は『論拠と事実』紙94年第22号のインタビューで、軍の弱体化には三つの原因があると分析した。第一は財政問題、現在は軍需品発注に要する費用を切り詰めて、軍自体の維持費に当てているが、これが次年度からむつかしくなる。第二に、イデオロギーの問題、仮想敵国を失ったことによる精神的支えの崩壊と効果的教育方針の欠如である。第三は、地方主義の拡大。地方指導者が直接影響力を行使するようになった。

*エヴゲニー・イヴァノヴィチ・シャポシニコフ(Евге́ний Ива́нович Ша́пошников[1]、1942年2月3日 - 2020年12月8日)Yevgeny Ivanovich Shaposhnikovは、ソビエト連邦およびロシアの軍人、政治家。ソビエト連邦最後の国防相。航空元帥。
そして、軍の弱体化を防ぐには、
①軍の中核としての戦略ミサイル軍の強化。これが健在なうちはロシアの国防は安全である②国境警備隊の強化③順法精神の徹底
などの施策が必要であるーと強調している。なお、シャポシニコフは軍産複合体について、「軍産複合体の強化なしには、国防軍の近代化も武器輸出も問題外である。この部門の指導者は”赤色保守主義者”と非難されているが、実際いま最も愛国心に富んだ、順法精神の強い人間である。彼らの唯一の欠点は、すでに無力化している国家機構への盲目的信頼である。最近、自らの政党成立、商業銀行との合併などの話が持ち上がっている」と興味ある発言をしている。
ソ連解体と資本主義化の衝撃をまともに受けたロシア軍。それは一体どこへ行こうとしているのだろうか。

2 ロシア軍の実態
兵力の実数
ロシア軍の現存勢力はどのくらいなのか。かつては400万の兵力を誇ったソ連軍であったが、ソ連解体で各共和国にこれが分散された。もちろん、ロシアに所属する将兵の割合は最も多い。91年8月のクーデター未遂事件以来、ソ連軍の、そしてそれを引き継いだロシア軍の兵員の削減は急激に進んだ。
『論拠と事実』紙93年第5号によると、グラチョフ国防相は、「ロシア軍の総定員数は221万8000人で、将官は1547人在籍している。将官1名に対して将校312人、兵1262人の比率となる。87年度ではこれが、将官1名に対して将校169人、兵530人であった。兵員削減に伴い87~92年に将官定員数も3815人削減された。95年以降軍が安定化してくれば、国防省はシビリアンコントロールの下に置かれるであろうし、軍の統帥は参謀本部に任される」と93年初めの状況を語っている。

①パーヴェル・セルゲーエヴィチ・グラチョフ(Павел Сергеевич Грачёв[1]、1948年1月1日 - 2012年9月23日)Pavel Sergeyevich Grachevは、ソビエト連邦およびロシアの軍人、政治家。ロシア連邦初代国防相。上級大将。ソ連邦英雄②ロシア国防省(ロシアこくぼうしょう、ロシア語: Министерство обороны Российской Федерации、略称:Минобороны、МО、英語: Ministry of Defence of the Russian Federation)は、ロシア連邦の国防・軍事を統括する官庁。ロシア連邦軍を傘下に収める。
一方、93年4月現在、ロシア軍は総数230万人といわれた。しかし、そのなかで、将官数は2218名に増えている。同12月1日現在の総員兵数は234万1000人(グラチョフ国防相発表)。そして、94年4月現在は180万人で、将官数は2500名といわれ、5月の祝日のころにはさらに80名が将官に昇任したはずである。ロシア軍の構成はますます頭でっかちになりつつあるようだ。
ところが94年半ば現在、230万人という数字は変わらないという資料がある。ビクトル・ベルキンВиктор Белкин教授は独ソ戦53周年記念日の6月22日付けの『イズベスチヤ』紙に寄せた論文のなかで、将兵230万人、これに志願兵、国境警備隊、内務省軍を加えて350万人の兵隊がいると書いている。これはあくまで公式の数字とみてよいようである。さらに軍産複合体の従業員は450万人(軍民転換「コンベルシアКонверсия」への就業者も含む)、そして軍関連産業や軍衣食住関係企業の従業員を加えるとざっと、全勤労者の五分の一に相当する1400万人が軍関係で働いている計算だ。
93年12月解散させられた旧議会は兵力を150万人とする決定を下し、エリツィンも兵力は人口の一割で十分だとして、150万へ縮小するよう指示した。これが軍の改革の重要な部分だ。しかし、グリチョフ国防相は93年12月の記者会見の席上、ロシア軍の兵力を150万人にすべきだとした旧最高会議の決定は誤りであるとして、最小限210万人が必要であると言明し、エリツィンの方針に抵抗した。その後の推移では、エリツィンの指示により94年4月末までに191万700人(95年末までには170万人)まで縮小する方針が94年11月の時点で固まったが、実際にそのとおりいくかどうかは予測がつかない。軍部内にはかなりの抵抗があるからである。
なお、新規補充に関しては、軍改革の一環として、契約に基づく志願兵の数を次第に増やしていく、としている。93年は志願兵と召集兵(徴兵)がそれぞれ、12万人、130万人であったが、94年には40万人が90万人、95年には75万人対75万人にする計画だ。もちろん徴兵制度に比べて契約制度のほうが、人数が増える分だけ費用がかかる。93年は志願兵の費用が150億~200億ルーブル、94年はその四倍以上の600~700億ルーブルで、95年には1000億ルーブルがかかると見込まれている(『論拠と事実』紙94年第8号)。

兵士の質の低下
問題はそれだけではない。召集兵、志願兵を問わず、著しい質の低下もその一つである。優秀な青年は徴兵を忌避し、軍に入って来ないのが大きな悩みだ。「素質のいい若者はビジネス、商業の分野に走るか、軍勤務よりも気に入った仕事に入ろうとする。そのほかの者たちが徴兵にひっかかる。数字を挙げると、93年、5万人の召集兵が脱走した。2万人が罰金を科せられ、1531人が刑事問題を起こしている。94年になってからもこれが改善される見込みはない。理由は何か?軍務のプレステージの低下、国家と社会に対する義務感の欠如、規律への恐怖感、困難なことを避けようとする傾向などだ。軍はどういう若者たちで補充されているのかという疑問が起こるのは当然である」-これは国防省機関紙『赤い星』(94年9月21日付け)の社説の一部である。同紙はさらに「93年秋の徴兵の調査結果をみると、陸軍と海軍に入隊してくる若者の質が年々、落ちていることがはっきりしている。88年に召集兵の93%は中等、ないしは中等技術教育を受けた者だったが、93年にはこれが76%となった。徴兵される者のなかには働きもせず、学びもしない者が増えている。88年にはその数が6%だったのに、93年には13%だ。召集兵の5人に1人は健康上の理由で入隊の猶予を余儀なくされている」と書いている。徴集対象者の半分は出頭を拒否している地域もあるといわれ、徴兵制度は崩壊に瀕していると言ってよい。
94年9月23日付けの同紙は、これも社説で、軍の規律問題を取り上げて、1月から8月までの網紀粛正の大号令のもと、軍内部の犯罪件数は減ったが、「今日、周知のように、国内の犯罪の半分は徴兵適齢前か徴兵年齢に達した市民によるものだ。何とこうした連中が軍隊に入ってくるのである。軍建設現場では前科のある召集兵が40%にも達する。地元民に対する全犯罪の65%は彼らによって行われた」という事実も明らかにしている。
兵力削減のむずかしさ
94年3月の当初政府予算案では、国防費は37%1000億ルーブル(190億ドル)で、連邦政府支出の20%だった。折衝の末、59兆ルーブル(280億ドル)案も出た。しかし、国防省は最初から87兆ルーブル(390億ドル、政府支出の37%に相当)を要求した。第二次世界大戦直前の1940年は政府支出の33%、冷戦の始まった50年が20%だった。ところが、仮想敵国がなく、GNPがこの二年間に30%も落ち込んだ現在のロシアでの要求としては高すぎる。
ロシア第一国防次官は、この(当初)予算では、国防省の発注に依存している3000以上の企業の従業員400万人が失業し、現有兵力の20%にあたる40万人の除隊を余儀なくされると脅し、ボロビヨフАндре́й Ива́нович Воробьёв国防省予算・資金局局長(大将)は、これではロシア軍は戦力を大幅に失うばかりでなく、社会的な動乱が起こりかねないと警告した。最終的には、軍事ロビーの強い圧力もあって、当初予算に3兆5000億ルーブル増額した40兆8260億ルーブルで決着した。国防省によると、不足分は、不要となった軍用資産の売却によって部分的に埋め合わされる(63年もこれによって、120億ルーブル以上の資金を得た)ことになった。それでも、予算不足のせいで装備の補充はおろか、必要な軍事演習の回数も大幅に減らさざるを得ないと軍関係者は嘆くのである(西側空軍では200時間が標準の年間飛行時間であるが、ロシア空軍パイロットの場合、わずか2,30時間だという)。
国防費をめぐってロシアの論調は二つに分かれる。「軍部と軍事産業は政府支出の65%を吸い上げている。これはまさに戦時予算だ。われわれはみな軍産複合体の人質になっている。軍の改革は何も進行していない。予算の軍事化の経済的な結果と軍備競争の復活は破滅的である(『ロシア新聞』というのが削減賛成論。「軍事支出は89年以来、実質的に半減しており、93年は必要最低限の70%しかなかった。資金には軍に取り返しのつかない損失をもたらしている。空軍も海軍も、航空時間、航海時間を大幅に減らしている」(『トルード』紙)というのはグラチョフら国防省幹部の意見を伝えた削減反対の論調だ。もちろん国防省機関紙『赤い星』も、何回か予算増額要求のキャンペーンを張った。

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